『福島の歴史物語」

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2021.08.20
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     日本におけるキリスト教の源流

 最初に日本にキリスト教が伝来したのは、5世紀の頃という説がある。この説によると、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる 秦河勝 ( はたのかわかつ ) などによって日本に伝えられたというのです。このネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の一つですが、431年、トルコのエフェソス公会議において異端認定されて排斥されて中国へと伝わり、唐代の中国において、景教と呼ばれました。景教とは中国語で『光の信仰』という意味であり、景教の教会が唐の時代、 大秦寺 ( たいしんじ ) 、大秦とはローマ帝国の意味ですが、この名称で建造されました。

 当時、日本からは、遣唐使が派遣されていました。弘法大師空海は、伝教大師最澄とともに入唐しています。そして弘法大師は、景教徒の集まりにも足を運んでいたそうです。弘法大師が 長安にいたときに、 景教徒の 般若三蔵 という人物に会い、景教の知識を吸収したと言われます。 弘法大師 は、絶対者をめぐって般若三蔵とかなりの論争をしたと言われ、実在する救い主は誰かという議論になったとき、 弘法大師 は、「それは仏陀だ」と主張したのですが、般若三蔵は、「 違う、キリストだ 」と反論したというのです。般若三蔵とは、南インドで密教を学んだ後、中国にやって来たといわれる僧で、弘法大師はこの般若三蔵からサンスクリット語を学んでいます。 弘法大師がこの般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいたという景教の僧の『景浄(シリア語でアダム)』に会ったに違いないとは、ほとんどの学者の間で意見が一致しているそうです。

 弘法大師 は、景教、つまりキリスト について、かなりの知識を吸収したと言われます。 しかし般若三蔵は、般若心経は旧約聖書 同根の経典だという考えを持っており、純粋に キリスト 教的考えの持ち主ではなかったようです。それでも般若三蔵 は、自分で翻訳した経典や、集めたものを日本に持ち帰るようにと、弘法大師に贈りました。それらは、 マタイの福音書や十戒、その他基督教の文書であったと言われます。さらに弘法大師は『 潅頂 ( かんじょう ) 』、つまりキリスト教で言う洗礼を受け、『 遍照金剛 ( へんじょうこんごう ) 』という洗礼名が与えられたといわれます。この遍照とは、『 光明があまねく世界を照らす 』という意味で、聖書『マタイの福音書・五章一六節』の、『あなたがたの光を人々の前で輝かせ』の漢語から取ったものだと言われています。このため弘法大師の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになったと言われます。唐で修行を重ねた弘法大師は、帰国したのち、高野山で真言宗を創建しました。

 ところで、弘法大師はその死に臨んで、「悲嘆するなかれ。われは弥勒菩薩のそばに仕えるために死ぬが、56億7000万年ののち、弥勒菩薩と共にふたたび地上にまみえん」と弟子たちに語ったといわれます。弥勒菩薩が将来人々を救いに来るときに、自分も復活するというこの信仰は、まさに、『キリストは復活する』という信仰と同じものです。さらに真言宗では、密教儀式の最初において十字を切る動作をするというのもキリスト教に似ているそうですが、これは、他の仏教にはない動作だそうです。それに金色の 羯磨 ( かつま ) 金剛杵 ( こんごうしょ ) は、十字架に似た形態で、密教の儀式には欠かせない道具となっています。

 ところでその唐の時代につくられた 景教の 石碑が、1368年から1644年の明の時代になって、 長安で 発掘されました。そして、それからさらに約300年後の 明治の末、来日した仏教史学の権威であるイギリス人のエリザベス・ゴードン女史が、『弥勒菩薩』についての語源を調べた結果として、「ヘブライ語の『メシア』が、インドでは『マイトレィア』となり、中国では『ミレフ』、日本では『弥勒』となったと説明し、「ヘブライ語のメシアはギリシャ語のキリストである」と結論付けました。

 ゴードン女史は、仏教とキリスト教の根本は同一であるという『仏基一元』の研究者であり、真言宗と景教の関連性を確信して、中国の長安にある碑林博物館所蔵の『大秦景教流行中国碑』を忠実に再現、明治四十四年(1011)に、高野山の奥の院に、高さ3・6メートル、幅1・5メートルの黒色石灰岩で、 亀趺 ( きふ ) (亀状の石碑の台)の碑座に建てました。そしてこの景教碑の横には、大正十四年(1925)に京都で死去したゴードン女史の墓石がありますが、それは自らの遺志で奥の院に埋葬されたもので、その側面には、『密厳院自覚妙理大姉』という戒名が刻まれています。この記念碑やゴードン女史の墓石の建立について高野山が容認したということは、景教との関係を認めたということなのかも知れません。とは言え、景教が、いわゆるキリスト教として、そのまま日本に伝わったとは思われません。

 これに関連するかどうかは分かりませんが、『いろは歌』があります。『いろは歌』の成立時期については諸説あるのですが、文献として最も古いものが、承暦三年(1079)に成立した著者不明の「 金光明最勝王経音義 ( こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ ) 」に記されていますが、景教が伝来してから約500年後のことになります。ところが不思議なことに、この『いろは歌』に、キリストに関するメッセージが折り込まれている、というのです。『 折句 ( おりく ) 』と言われます。

  いろはにほへと

  ちりぬるをわか

  よたれそつねな

  らむうゐのおく

  やまけふこえて

  あさきゆめみし

  ゑひもせ  す」

この『いろはにほへと』を7文字ずつ並べて書いて下の文字を右から読むと、『咎(とが)なくて死す』、すなわち、『罪がなくて死んだ』の意味になります。そこでさらに、もう一つの折句です。この『いろは歌』、の各行一番上の文字を右から横に続けて読みますと、『イチヨラヤアエ』となります。これはヘブライ語の、『イーシ・エル・ヤハウェ』であり、イーシとは人を意味し、ヤハウェとは神の名であるということから、イエス・キリストそのものを表すというのです。そこでこの二つを合わせると、『イエス キリストが、咎なくて死なれた』というメッセージが、折り込まれているというのです。(中島尚彦『日本シティジャーナル編集長』の説)江戸時代には「咎なくて死す」とある『いろは歌』は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあったそうです。 ストレートにキリスト教とは言わないにしても、景教という形で日本にキリスト教が伝わっていたことに、驚いています。

 さて話が変わりますが、岩手県一関市には、隠れキリシタンと河童の間に次のような話があるそうです。江戸時代、一ノ関の猊鼻渓のある砂鉄川で砂鉄を採取していた隠れキリシタンたちは、苛酷な作業に耐えていました。ところが彼らは、本当は河童たちであったという話なのです。川や水辺に出てくる河童の頭の上には、丸い皿があります。この皿には常に水が張られていて皿が乾いたり割れてしまうと力が出なくなるという話は洗礼を表しており、その皿自体が切支丹伴天連の象徴であるというのです。この皿の周囲に頭髪がグルリと回っているその姿は、頭頂部を剃った伴天連の頭であり、さらに外套のような甲羅を背中につけているというのです。これはポルトガル語でのカッパ、つまり外套を着た宣教師の姿だというのです。また『河童の川流れ』という言葉があります。これは川に入って砂鉄を採取していて、水流に流されたということだったのでしょうか。また一方で、河童は恩義に厚く、田植えを手伝ったり、毎日魚を届ける姿という話も、数多く伝承されています。この行為にも、慈悲を説いたキリスト教が感じさせられます。また上岡龍太郎氏はその著書『龍太郎歴史巷談』において、「河童の正体は弾圧から身を隠し、暗闇の中で水浴びをしていたキリシタンである」と推理しています。 ところで一ノ関の山の中に、ダビデの星の付いた古い多くの墓石があるのです。これもまた、 隠れキリシタンと河童の 伝承を生んだ理由の一つなのかも知れません。 ところで、三陸沿岸の釜石と北上高地の遠野の間の山岳地帯は、片羽山の雄岳を主峰に六角牛山、雌岳、大峰山、岩倉山など1000メートル級の高峰が連なり、良質な鉄鉱石に恵まれた地域です。この河童の伝説が遠野市に多いのは、これと関係があるのかも知れません。

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最終更新日  2021.08.20 07:10:06
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