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「ライフメンタリング」の実践・その三 私は以前に、業界関係者以外の素人の方に、プロデューサーの仕事の本質を説明するのに『触媒』というフレーズを用いたことががあります。そうです、化学の教科書などに出てくる、あの触媒ですね。 カタリスト・触媒とは、辞書に拠れば「自分は少しも化学的な変化を蒙らずに、単に他の化学変化(の速度)に、影響を与える物質」です。 触媒は触媒でも、テレビプロデューサーの役割は、低予算でしかもクオリティーの高い、健全な娯楽作品を制作する為に、という一点に目標を定めて、その目標に向けて全ての努力が傾注されなければなりません。ですから、自分勝手な趣味嗜好に走ってはいけないことは申すまでもありませんね。徹底的に自己を殺すことが求められている中で、最大限に己の持てる能力を発揮する。そうした謂わば、根本的なところでの分裂、或いは矛盾を抱えながら、ひたすら他者、局サイドであったり視聴者であったり、時にはスタッフや原作者、出版社の編集担当者の場合もあるのですが、只管、他者の意向に沿う形で、自分のベストを尽くすのが仕事。その仕事の遣り甲斐、従って、妥協と忍耐と公平無私にあります。よい作品を作って、人からの評価を受けて、次に繋げる。この連続。一種の人気稼業ですから、不評や低視聴率が続けばお声が掛からなくなり、自分自身がどんなに作品作りをしたいと念願しても叶わないケースも出てくる道理ですね。私の場合は、曲がりなりにも30年以上の長きにわたって、作品作りを許されたのですから、幸運としか言い様がないでしょう、まさに。 それはともかくとして、この長い年月にわたる「修行」の日々が、後から振り返ってみたときに、現在のライフメンターとしての資質を鍛え、育て上げていた事になりますが、その事実に私本人が気付いたのはつい最近のことだったのです、はい。 キャリアコンサルタントとして、最も大切とされるのが「傾聴」の技術なのでありますが、この傾聴とは単に来談に見えたクライアントの言葉に耳を傾ける事ではありません。もっと能動的・積極的な働きかけの行為とされています。つまり、クライアント自身のより深い自己理解を促し、推し進める意思的で、極めて積極的な働きかけの全体を指しているのですね。 私は前にお話したように、CDAの先輩から「キャリアカウンセラー」になることを勧められて、資格を取ったのですが、私の職務経歴書やプロデューサーとしての仕事の内容を詳しく聞き進むうちに、資格がなくても「そのままでユニークなキャリアカウンセラーになれるでしょ」と、激励とお世辞が半分以上あっての発言だったのでしょうが、そう言われて己惚れの強い私は、また同時に非常に素直な反面も有しているので、直ぐにその気になり、行動を起こした次第なのでありますよ、真っ直ぐに。
2013年03月31日
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第2部 第一章 「ライフ・メンタリング」の実践 その二 それでは、私と言う人間は、何時、何処で、どんな風にライフメンターとしての修行を積んだのか?― 答えは、前歴であるテレビ・プロデューサーとして長年活動を続ける中で、なのですよ。つまりは……。 プロデューサーの役割の中心は様々な職能集団、つまり監督を始めとするスタッフ、出演者、局サイド、代理店、その他制作に携わる多数の関係者を、テレビドラマの製作という目的に向って束ね、予算と言うまことに厳しい制約をクリアーしながら、予め決められている日時でのオン・エアーという、これまた絶対の条件を踏まえつつ完成させなければならない、義務を課されています。その主たる役割は調整役ですがその構成メンバーのどの一つを選んでみても、謂わば「一癖も、二癖もある兵(つわもの)」揃いでありますね。それはそれは、実際に経験した者でないと理解し難い「難事業中の難事業」なのですね、全く。一例を挙げれば、実績のある大物の脚本家。著名な監督、主演のスターさん……。どのお一人を選んでみても、主張の強い個性的なメンバーですよ。その人たちの 勝手な 言分を呑んで、最終的には発注元である放送局の要望する、質の高い娯楽作品に仕上げ、厳しい視聴者による視聴率という洗礼を受け、最終の責任を一身に引き受けなければなりません。そのプロセス・過程の中にこそ、プロデューサーとしての「栄光」も「悲哀」も共にあるのですが、大きな額の予算を預っての請負仕事だけに、その心労たるや生易しいものではありません。現役の時にはそれ程とは感じていませんでしたが、引退して初めて「背負っていた肩の荷」の重さを実感した次第でした、本当に。 現役時代の愚痴話をするのが、目的ではありませんでしたね。テレビドラマのプロデューサーが 宿命 として背負っていた大きな職務ののうちの最大のものは、関係者一人一人の言分をよく聴くということでした。どのひとつも疎かには出来ません。ひとつひとつ丁寧に聞き取り、意のある所を深く汲み取らなければなりません。それぞれの生活が賭っている事ですので真剣勝負の連続です、実に。先方の言い分を全て受け入れた上で、最終的には、此方の主張を貫かなければ仕事になりません。この辺の駆け引きは、まことに微妙なものがあります。今の世の中ですから、全てがお金で解決のつくことと言えるでしょうが、そのお金・予算が悲しいかな、とても貧弱なのですから。もともと民放の場合にはCM,つまりコマーシャル・メッセージが本来の「主役」であり、番組の中味は「脇役」なのです。そして、番組の中で最も高額な予算を必要とするのがドラマですし、中でも一番予算がかかるのが時代劇なのですよ。私の場合、最初にプロデューサーのタイトルを冠して制作したのが時代劇だった事もあり、時代劇の大作を何本も手がけさせて頂く幸運に浴しています。ですから、その半面で、作品作りから受けた「重圧」もまた、当然並大抵ではなかった、とも言い得るでしょうね。
2013年03月22日
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前回までがこの本の「第一部 幸せについて」であり、今回からが「第2部 ライフメンタリングについて」であります。 第一章 ライフメンタリングの実践 「ライフメンタリング」という名称は、実のところ私が初めて使い始めた新造語です。ライフもメンタリングもそれぞれ立派に通用する言葉なのですが、それを組み合わせて独自のコンセプトを表現するように、工夫を凝らしたのは、他ならないこの私なのですから先ず最初に、名称の説明から始めなくてはならないでしょう。 メンターとは英語で、新入社員を教育する人を意味します。日本の企業などでも「メンター」の先輩が「メンティ」の後輩を指導する制度が浸透しているところがあるようです。語源は、古代ギリシアのメントール(人名)で、若者の教育に関する「信頼できる、忠実な助言者」を意味しますよ。私は対象を、子供や若者に限定せず、大人やお年寄りまで全部の世代にまで広げる為に、頭にライフを被せたわけです。そして人生行路での様々な局面における善き「介添え人」たるべく、また信頼するに足る忠実な助言者として ライフメンター を位置づけたもの。ですから、「ライフメンタリング」とはライフメンターが行う行為の全てを含むのです。 そして、2007年の8月に立ち上げたFYCのホームページで広く一般の人々に向って、呼びかけをしております。 一応は商売としてスタートさせてはいますが、本心はお金儲けではありませんでした。ただ、素性の知れない新参者が、無料やボランティア等で名乗りを上げても、胡散臭い何処かの新興宗教・カルトの一種と、勘違いされることを嫌っての措置でしたよ。当時は、何だかとても心が急いていましたよ。一刻も早くやらねば、との思いが切だったのです。しかし、次第に平静さを取り戻すことになります。既に、クライアントが何人も、目の前にいた事に気づいたから。そうなんですね、学習塾や高校の授業を中心とする「学習」を通して、立派に「FYC流のメンタリング」効果は顕れていたのですから、本当に。無意識ではあっても、目指すライフ・メンタリングの精神はものの見事に、そこでは活かされ、役に立っていたのですね。 それから何よりも先ず、自分自身が、驚くほど前向きな人間に変貌を遂げている事実に気付いて、二度吃驚! ―― どんな人間関係であろうが、私という人間がそこに関る以上は、それも積極的、前向きに意識して相手に働きかける時には、ライフメンタリングの効果は遺憾な無く発揮されるという確信が生まれたのでした、はい。もう、商売が成り立つか否かは、少しも問題になりません。確かに……。
2013年03月15日
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12 FYC・ふへんゆうこうくらぶ、とは・その七 哲学概論などによると、「母の声を聞く幼児のように、喜び踊る、べく存在している=のが、人の本来の在り方」であり、「この私という、自己成立の根底は、事実上、それ自体が、全歴史・全社会成立の普遍的な基盤」であるわけです。 また、「愛知としての哲学は、宗教とイコールであり、事実、真正の宗教の信・覚は哲学の始めである。釈迦、イエスなどの一つの歴史的起始や伝統が前面に出るか、それとも、それともそれが示している基盤の、超歴史的、普遍的な規定の把握が前面に出るかの違いがあるだけ」なのでした。従って、「特定の形としての宗教は、たとえ、それがいかに完成した形であっても、その形は、それの射影である原型とは、或いは反響である原音とは別物である。宗教と宗教の根底とは違い、混同は断じて許されない」わけなのですね。ここのところを、よくよく時間をかけてお考え下さい、どうか。 そして、もう少し参考の為に付け加えますと、 以心伝心 ―― ソクラテスは美少年の心に、直接、自分の教えを刻みつけようと腐心した、と伝えられているのですが、まさにその通りにするのが正解だった筈。 不立文字(ふりゅうもんじ) ―― プラトンはその書簡の中で、「最も大切な事は言葉では伝えられない」と書いていますがまさに、実に、その通りでありましょう、確かに。 ただ徒な議論や理論などに時間を費やす、などと言う知識人が好みそうな事柄を、過去の健全な、日本の大衆は、「膏薬と理屈はどこにでも付く」と、軽く一蹴して見せていますが、今は、今と言う大切な時は、無駄なお喋りに、駄弁を弄することだけに時間を費やしている暇など、少しも無いのでした、はい。 今こそ、21世紀こそ、実践・実行の時ですよ。あなた自身の生命を 可能な限り 鮮やかに輝かし、そうして、完全燃焼をさせるそのための時であり、そのためだけの大切な、また貴重なチャンスなのですから、くれぐれも心して、毎日を、一秒一分を送るべく「刻苦勉励」してみて下さい、お願い致します、衷心より。 先に、カタルシスを齎す劇について触れましたが、その意味でのドラマの演戯とは、一体なんでしょうか? 「演戯」とは、意識して、十全なる自覚のもとに、自己の理想像を完全に演じきること。―― つまり、そうありたいと思う、もしくは反対に、そうは絶対にありたくないと思う反理想像を余すところ無く自覚して生き切る事。そうして、生甲斐を強烈に感じ取る事。 完全燃焼の人生を、銘々が心行くまで生き切る為に、この演戯と言うことが、人生ではとても大切になるのですね。そうです、私たちは常に、生きる上で、演戯し続けている。あなたも私も皆が、ですよ。一人の例外もなしに……。この演技者としての充分な自覚に到達する手助けも、わがFYCの重要な役割の一つです。
2013年03月10日
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12 FYC・ふへんゆうこうくらぶ、とは・その六 私たちは普通、何かに囚われている「一種の囚人」です。自由を奪われている点で、精神的な奴隷と呼んでよいかも知れません。お金・物・人・権力・名声、そして異性などなどに、執着して止まない私たちの心と言うもの。「無知の知」を説いたソクラテスはまた、「汝自身を知れ」との言葉を肝に銘じた人でもあったのでしょうね。劇聖と崇められるシェークスピアの最高傑作と賞賛される戯曲「リア王」の中で、主人公のリアが言う有名な科白には、こうありますよ。 「人間、外から付けたものを剥がしてしまえば、みな、貴様とおなじ哀れな、裸の二足獣に過ぎぬ。ぬげ、脱いでしまえ、お前の着ている借り物を!」(福田恒存訳による)と。 日本でも一般に、「裸で生まれてきて、死ぬ時は皆裸に戻る」と言ったりしますがこの本の読者である貴方・貴女には、ご理解がいただけると思いますので蛇足めいて付け加えることがあります。真相は、見た眼には裸には違いないのですが、私たちは「四つの幸せ」と共に生まれ、死後もその事実に変りはないのです、と。ですから、どうかご安心下さい、心から。 現代とは、人間疎外と言う名の、生命疎外化現象の時代であり、取分け日本人は、明治以降は特に「適応異常」に悩み、且、苦しんでおります。そしてその有様は尋常一様ではありません。さらに、大部分の人々はその自覚すら持ってはいないのですから、事は益々複雑化し、時の経過と共に一段と事態は紛糾するばかり。 心理療法家の河合隼雄氏はその著書の中で、人間の内的体験としてのイニシエーション(通過儀礼)の必要性を訴えて、各人が銘々にそのイニシエーションを自前で、自作自演しなければならないと、有難くも忠告してくれていますよ。
2013年03月06日
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12 F Y C・ふへんゆうこうくらぶ、とは・その五 生きること、生きてこの世にあること。その事自体に既に大きな、限りない価値があること。それも、無条件である事。その事実に私はこの際、大いに人々の関心と注目を集めたいのです。 「何々でないから、ダメ」とか、「こんな風であれば、イイ」とかの、一切の条件や、但し書きの様なものは無用なのですね。もう一度くどいようですが、申しますと、私達人間を含む生き物は、ただこの世に生を享け、純粋に、無心に生きているだけで、それだけで尊い、そして有難い存在なのです、えゝ。後はもう、その命を、それぞれの努力と工夫で、精一杯輝かせばよいのでして。そうではありませんか……。どうかこの点をよくよく考え、十二分に噛み締めなおして頂きたいのです、はい。 労働の場での価値観が「他者の満足・他人への奉仕」に中心を置いているとすれば、遊びの場での価値観は「自己満足・自分自身への奉仕」を飽くまでも重んじ、徹底してそれを追及しますね。これは前に四つの幸せのところで述べた、人の和・輪・サークルと労働が、そして自分が自分であることが遊びと、それぞれピッタリと対応している事からも肯けるでしょう。 次に「自由人の精神」と「奴隷の精神」についてお話しなければなりません。自由人とは文字通り「自らによって立ち、みずからによって生きている人」のことですし、一方の奴隷とは、歴史的には戦争などで他民族から征服された被征服者です。人間としてのあらゆる権利・自由を征服者によって奪われ、家畜並みに売り買いされる者を意味します。 ですから、自由人の精神が遊び、命の正しい健全な充足法に軸足を置いているとすれば、奴隷の精神は、長い長い年月を隷属と圧迫、支配と命令に左右されて生きてきた来歴のため、悲しいかな、自由の身となった暁にも、隷属・圧迫・支配・命令の生活に慣れきってしまい、いわゆる奴隷根性が抜けきらず、「自由」である事を窮屈に感じたりして持て余してしまう。本当なのですよ、残念ながら。その結果として現代に身を置いて生きるとなれば、金に代表される抽象的な欲望のみに支配され、自由な時間を持て余してしまう。つまりは、自由な筈の時間が苦痛で、恐怖心すら感じてしまう、実際の話が。実はこの奴隷根性ですが、かつて私・草加の爺自身の精神の内部に巣食っていたのでありました。恐ろしさに、身の竦む思いに襲われた過去の私は、それと懸命に戦ったのです。ですから、「FYC・ふへんゆうこうくらぶ」の設立と実践は誰よりも先ず、私本人にとって必要な事だったのですよ。序でに申し述べますとここ数年間の私を知る人の多くが、「ポジィティブだ」、「積極的で前向きだ」と、激励の意味をこめてでしょうが、褒めて下さいますね。正直に言いますと、自分でも不思議だと、半ばあきれたりもしています、実に。 話を本筋に戻しましょう。F Y C の基本コンセプトでは、自分を含め相手の人に、先ず最初に、無自覚な精神の奴隷・隷属状態からの脱却を促しますよ。「そうか、そうかそうか……」と、自他の現在のあり方を、そっくりそのまま全的に受け入れます。――様々な悩み、不満、不平、愚痴、そして自分たちの思う通りには決して運ばない現実の不条理、などについて全て、一から十まで全部を受け入れ、無条件に全肯定しますが、それが大切なスタートとなります、始まりですよ。
2013年03月01日
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