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私は理解が普通考えるほど簡単なことではないことをくどいほど、繰り返し述べてきていますが、それは誰よりも「正しい理解」を望んでいるから、なのですね。当然と言えば当然のこの前提が、いつの間にか忘れ去られてしまう。何を小難しい屁理屈めいたことを、ほざいているのか!? というようなことに、どうしてもなってしまう。正しい理解とは、どういうことを意味しているのか?それが正しいとか、良いとか悪いとか、そういう価値評価以前に、先ず有りの儘をそっくりそのままで受け止め、頷いてもらいたい。唯それだけなのですよ。肯定的受容というような表現を用いると何だか、ご大層な印象を受けるかもしれませんが、この単純な、しかしいかにも人間的な頷きが私たちにはとても必要であり、大切なのですね。 冷ややかでない、暖かな、優しい眼差し、と言葉を改めてもよい。しかし、「おれおれ詐欺」が横行し、他人を見たら泥棒と思えというような世相が行き着くところまで、行き着いてしまっているような、ささくれ立った人心の荒廃の極みの昨今ですから、そのような生ぬるい、楽天的に過ぎる物言いは場違いなような錯覚に陥ったりしますね。ではありますが、悪や害毒、本当の鼻抓み者は相対的な少数者であることを固く信じて、人間性の全体にまで厳しい、冷血漢のような、理解の無い視線を向けることだっけはくれぐれも慎みたいものと、しみじみ思うのです、実際。理解の対象を大宇宙や、天体、地球、月、原始の地球、生物の誕生、などなどの大きくて壮大なスケールのものにまで広げて、考えてみるのも、この際考察の一助になるのではないかと考えます。例えば、「源氏物語」の主人公光る源氏や、絶世の美女と讃えられる小野小町にしても、正しい理解よりは誤解や曲解、見当違いの解釈や、無責任な放言の山に阻まれて、正当な理解とは程遠い場所に追いやられている、と強く感じる次第。誰かが最初に、彼や、彼女に対して真摯な関心を抱き、注目する。はてな?どうも様子がおかしいのでは……。そこが、出発点であり、最も重要な事柄なのであります、実に、実に!
2013年11月16日
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先日、或る生徒のお母さんとお話をしていて、子供の「問題ある行動」に対してどの様に対処したらよいのかホトホト困ってしまっている。一体、どうしたらよいのか?という疑問と言いますか、嘆きを耳にしました。私には「お子さんと面と向かって根気よく話し合いをするしかないのでは―」とお答えするしか手はありませんでした。すると、そのお母さんは「それはもう、これまでに数え切れないほどに、遣ってきた事です」と、ウンザリされたように吐露された。「この、能無し講師め!」と内心で叫んでいたかどうかは、定かではありませんが……。教師の端くれだったら、生徒によい行動を取らせる、飛び切りの「秘策」でも伝授してくれるのが当然ではないかと、言葉にならない困り切っている表情からは無言の非難が発せられているかのよう。 ここで、私の個人的な体験談からお話させて頂きましょうか。私は小学生の頃は「勉強が嫌いな子供」でした。と言うよりは、当時の私は「自己流の創作 遊び」の世界が面白くて、そこに没頭し尽くしていた。それは、それは楽しい時間の連続で、無我夢中で打ち込んでおりました。がさつで、落ち着きがなくて教室では上の空。休憩時間や、放課後だけが待ち遠しくてそわそわ、もぞもぞ。そんな男の生徒を、特に若い女性教諭は生理的に受け付けなかったようで、私の方も、病的に綺麗好きな母親と同列に、好きになれませんでした。自分自身ではそれ程悪い事をしている自覚はないのですが、教師の目や、親の目からすると我慢がならない、「問題児」だったようです。小学校二、三年生の頃の通信簿に「時に、凶暴性を発揮することがあります」と書かれて、子供心にもひどく心外に感じたことをとても鮮明に記憶しております。ですから、中学校に進んで、意識的に「優等生の仮面」を被る処世術を完璧に身につけてからも、いわゆる「問題生徒」とか不良少年に対しては「過剰な同情」を発揮しました。中学二年生の時の担任が、風紀係の主任だったようで、或る札付きのワルを今度の職員会議で退学にする予定だと、その頃は模範的な優等生に変貌を遂げていた私に、ふと洩らしたのです。私は即座に、「彼は皆が言うような不良ではありません。逆にいい奴ですよ、先生」と自分の率直な感想を言いました。すると、元予科練兵で若い頃は少しグレていた経験もある担任は、「古屋、お前がそこまで言うのだったらこの退学処分は取り消しにしよう」と真剣な表情で答えてくれたのです。その後、問題の生徒は明るく、周囲とも調和する行動を意識的にとるようになり、無事中学を卒業できたのですが、心なしか、私に感謝の眼差しを向けてくれているような気が幾分しましたが、これは公には出来ない極秘事項ですから、その担任から、彼に古屋の進言でお前の退学処分が取り消しになったなどとは、絶対に口外していない筈のこと。― 私は、何も昔の自慢話がしたくて、このような事を書いたのではありません。 いわゆる「悪、不良、札付き」などという無責任な「烙印」によって、無辜の魂がどれほど傷付き、苦しめられているかの実例を、拙い体験の中から拾い出して見たに過ぎません。これとは真逆の例も、恐らく数多くみられる事でしょう。軽々に、表面的な現象だけでは論じきれない面が多々あるに相違ありません。現実とは複雑にして多岐の輻輳した事柄の集合体ですから、ひとつの事象だけを取り出してきて、安易に論じるのは危険が多すぎますね。しかしながら、私たちは辛抱強く、一歩、また一歩と、相互理解の完璧を目指して努力しなければならないのです。私自身の為に、あなたの為に、世界平和に為に!
2013年11月07日
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