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ごく最近になって私自身が気づいた、否、気づかされたことなのですが、私たちは皆、大きな勘違いをしている、否大きな間違いを犯してはいないだろうか、という疑問です。周りを見回して、「有象無象」と俗に呼んでいる無自覚で、自分勝手で、第一に世間の事に殆ど関心の無い輩たち。もしかしたら、こういう人たちはまだしも「人畜無害」なので、まだ益しなほうの部類なので積極的に人様や世間に、つまり社会に対して牙を剥き、有害な害毒を流している「悪党」たちの多くに囲まれて、長年生活をしていると「朱に交われば赤くなる」の譬えの如くに、多くの者たちが唯の「ぼんくら」に堕してしまい、本来の自己に到達できず、従って生前から授かっていた尊い使命を悟る境涯に至らず、空しく人生を卒業してしまう。それはまた、それで誰からもお咎めを受けたりしないで済んでしまうのですが、こうした実に勿体無い循環が常体化しているのが、私たちであり、私たちの周囲にいる平凡人、つまり一般人の異名なのではないでしょうか?とまあ、はっと何者かによって悟らされた。否、優しく、実に穏やかに「どやされた」のでありますよ。 普通に、自分の人生だから、どの様に生きても構わない。そんな風に言って、他人も自分も何憚らずに、平気の平左でいる。誰からも叱責を受けたりもしない。法律で罰せられる事も無い。つまり、それで無事に通ってしまう。ところが、これが実は恐ろしいことで、広大無辺な御心をお持ちの如来様や菩薩様は見過ごしにしてくださっていらっしゃるだけの事。人間として、「万物の霊長」などと尊大な御託を並べている人類の片割れとして、それで一体良いものなのだろうか?私の心のどこかから声が響いてきて「それではいけないよ、もう少し、もう一寸だけ、努力してみないか」と語りかけているのでした、本当の話。天は、御仏は、あらゆる機会とチャンスとを捕らえて、私たちに叱咤激励を、有難いメッセージを弛まずに送り続けているというのに、私たちは惰性と無気力に足を取られて、無為のままで惰眠を貪り続けようとする。仕方が無い!罪がないのだ!悪気もないのだ、そんな「悪魔」の囁きに、悪意の塊の様な堕天使の誘惑に誑(たぶらか)されるだけで、一体善いのだろうか? もう一度、いや、機会があれば何度でも、ご自身の胸に手を当てて篤とお考えあれ、と願わずにはいられない私・草加の爺なのでありますよ。「偉そうに」などとおっしゃらずに、どうか意のある所をお汲み取り頂きたい。どうぞ、お願いであります。
2013年07月18日
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前回からテーマを新しくして、開始したのですが、そして書きたい事は山ほどあるのですが、時間が、毎日が日曜日状態のはずの私の情況が日増しに「多忙を極めて」おりまして、しかも留まるところを知らない、といった本当に有難いめぐり合わせになっております。他人様から見た場合には、70歳近い老人が何を血迷ったのか、わけの分からない戯言をほざきおってと、取り合っても貰えない些細な出来事なのでしょうが、私・草加の爺にとっては誠に信じ難い、幸運、ラッキー、勿体無いような境遇に知らず知らずに、労せずして、到達していたという驚きと、喜びで毎日がそれこそ「盆と正月が一緒に来たような」嬉しさ、楽しさなのです。 実は数日前から映画の台本を執筆中でありまして、東日本大震災で中断のやむなきに至った「ビッグ・チャレンジ」に次いで、第二作目になります。私はこの作品を実現する為に、この世に生を享けたのではないかと、今は心の底から信じております。その訳などについては追々お話して参るつもりですが、この台本の執筆こそ、才能とか資質とかを度外視して、他ならないこの私。これまで閲してきた挫折と失敗に数多く見舞われ、その割には意外と「人並み」なレベルの充実した人生を送り得た、「悪運の強い」草加の爺にして初めて可能な大仕事なのであります。この仕事には始めから終りまで失敗も成功もありません。と言うよりは、失敗とか成功などと言った世間一般の価値観では計る事の出来ない役割や務めが秘められているからでありますね。何か奥歯に物の挟まったような思わせぶりな言い方だと、厭味を仰らずに、もう暫くご辛抱をお願い致します。 自己理解というテーマには持って来いの、恰好な材料を私自らの体験から皆様方にお示し出来ると考えても居りますので。
2013年07月16日
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新しいテーマによる連載開始に当って 私・草加の爺はこのブログを始め二三の所で、色々なテーマを自らに課して様々な感想や意見、解釈、考察などを縷々書き綴ってきておりますが、有難い事に友人・知人などの声援に支えられて、私個人に取っては 過分 に過ぎる多数の読者を獲得できております。改めてこの場をお借りして厚く御礼申し上げる次第でありますが、同時にまだ読者になられて居ない未来の読者も含めて、「世の為、他人の為に」少しでもお役に立てる内容にしてみたいと考えまして、前回までの続編という意味合いを加味して、「理解という言葉をめぐって」というタイトルで自由に、また闊達に、できれば縦横無尽に文章を書き綴ってみたいと考えておりますので、これまで同様にお気軽に、御愛読をお願い致します。 さて、取り敢えずは私自身を対象にして、あらゆる角度から(可能であればの話ですが)遠慮会釈無く、切り結んでみたいと思っています。世の中にはプライバシーなどという「まことに厄介な代物」がありますので、他人様についてあれこれ勝手な御託を並べるのは「ご法度」ですから、無防備な自己流を気儘に貫き通している世間知らずの草加の爺も、流石に少しは知恵をつけてきたわけでありますね。 それに、自己理解という非常に難しい課題を取り上げるに際しても、好都合であるからです。先ず、ずばりと核心に迫りたいと思います。私・草加の爺はもう直ぐ満で70歳になります。しかし、精神年齢は未だ十歳のままである事は相変わらずですが―。しかしながら、70歳間近にして私は自分の事をあまり知らない。事実であります。最近になってこんな要素が、思いも寄らなかった傾向が自分の内部にあったことに気づき、吃驚の連続なのでありますよ、実際の話が。 それはお前さんが人一倍愚鈍で、知能が未発達だからだよ、などと人様からお叱りを受ければ、確かにその通りかも知れません。と今までの私なら、素直に引き下がったかも知れませんね。しかし、いまは少しばかり違いますよ。子供達と毎日接していますと、生徒の子供達(小学一年生から大学生までいますから実際には、子供ばかりとも言えないわけですが)は実に自分自身を知らないことに驚くのです。大人たちが、親とか教師とか、また友達とかが「無責任」に貼ったレッテルを、そのまま鵜呑みにしている青少年が実に多いのです、はい。私は、根が頑固者、変人奇人の部類ですから自分以外の人が、どの様に自分を評価し、判定しようが、私自身が納得できる事以外はなかなか他人の意見を受け入れません。それは、真意ではない。単なる誤解だよ。そう内心で呟いて受け入れを拒否するのです。そんな事の繰り返しで、今日まで生きてきたわけです、早い話が。他人というものは、何時の場合でも無責任と相場が決まっております、十中八九。いじめとか、弱いものいじめ。相対的な強者が相対的な弱者をいたぶり、苛む。これが人間にとっては「何よりも快感」なのですね。私の人生という「フィールドワーク」での研究成果の最大のものが、この嘆かわしい人間性の一面を身に染みて知ったこと。いや、知らされた事。東京下町の最後の「ガキ大将」を自認する私ですから、弱いもの虐めは大嫌いでしたし、今も大、大大嫌いであります。しかし、この私にしてからが、たとえば戦争という極限状態に追い込まれたとして、徴兵制度の公の強制があったとして、生か死かの立場にある一兵卒だったとして、「弱いものいじめ」をしないかと自問自答すれば、するに違いないと答えざるを得ない。今までは幸運だったに過ぎないので、私の性格の一部にも「イビリ、いじめ」の根性が組み込まれている。それは恐らく事実なのですね。
2013年07月11日
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一 問 一 答 その四 質問:この本の記述には、恋愛至上主義を真っ向から強く否定する記述がありましたが、その意図を分かり易く説明してもらえませんか? 回答:誤解の無いように再度申し上げますが、「男女の色恋、恋愛が素晴らしい。この世で最高の美しいものだ」― そんな風に考えたり、思ったりしている方々に難癖をつけたりするつもりは、毛頭ありません。そう信じている人は、私などが何と申そうが、どうぞご勝手に、ご自分の信ずるとおりに生きられたら宜しいので、そこまで干渉する意図は最初からありませんね。 私が主張したかったのは、西洋から輸入された「ロマンテック・ラブ」が余りにも安易に考えられ、また浅薄に利用できる物と考え違いをして、その結果として、様々な弊害が日本の社会に蔓延している悪しき、まことに憂うべき現状を正しく正当に認識すべきだという事実であります。そして、それを正しく、真っ正直に批判しただけでありますよ。 ご承知のように、「ロマンティック・ラブ」は本場の西洋社会でも誤解されその結果、大流行を来たした後で、そして当然のように様々な社会的弊害を齎した後で、今日では殆ど誰も心の底から自分たちに実現可能なものとしては、既に信じられなくなり、廃れてしまった「旧思想」なのです。前にも述べた如く、ロマンティック・ラブの観念は極めて霊的・彼岸的であり、此岸であるこの地上での「愛」とは厳しく一線を画すものです。 誤解の無いように蛇足を付け加えますと、私は何も地上での「肉体的な愛」を不当に、無理やりに貶めようと計るものではありません。違うものは違うとごく当たり前の事実を指摘したに過ぎませんね。その場合、色欲はもしかしたら原子力に匹敵する、つまり人類には制御できない、恐るべき爆発力を内に蔵している可能性があるので、ユメユメ油断してはいけない。そう老婆心ながら強い注意喚起を促したわけであります。 質問:普通は、「お互い同士が理解し合うのはとても大切」、「相互理解の重要性」が説かれるのが普通だと思うのですが、何故かこの本では「理解がむずかしい」とか「理解不能」といった表現が目につきます。一体それは何故なのでしょうか? 回答:社会生活を営む上で、一人の人が他の人を理解する事は非常に大切、またとても重要な事だと、私も全く同じ考えで居ります。但し、この後が少し所謂常識とは違ってくるのです。 同じ人間だから、同じ国民だから、男同士だから、親子だから、夫婦だから、恋人だから、―― こういった私から見てとても安易な、相互理解のスタート地点にそもそも大きな陥穽、落とし穴が隠れている。だから、充分に用心し注意を払いましょうね。そう、自分自身に、またクライアントを始めとする他者に、注意を喚起している。それが、その思いが強いものですから、ある種「過激・過剰」と聞く人の耳に響くのでしょうか……。 そもそも、「理解」ということは事の大小を問わず極めて困難な仕事なのです。一国が他の国を理解する。歴史に照らしてみた時に、それが如何に大事業であったか、明々白々でありますね。 ひとりの男がひとりの女を理解する。いかに難事業であるか、夫婦或いは恋人関係にある当事者なら、容易に首肯していただけるでしょう。他者の理解が不可能に近いだけではなく、自己理解こそ、本当にはなかなか出来難いことなのです。「理解」という耳に心地よい言葉は、実は危険を孕んでいたのですよ。安易に対処した場合には、最悪の事態をも招きかねないのです。ですから、心配性の私は不必要なトラブルを最初から回避できるようにと、「理解は不可能」とかの響きの強い表現を、敢て使うように心掛けているわけです。 私たちは、お互いを本当に、トコトン理解したいし、また、理解しあう必要がある。が、安易に理解できる、と不用意に信じて行動すると、大きな間違いや深刻な対立を生みかねないのです。慎重に、細心に、対処しなければダメなのです。「自己理解という欺瞞」についても、全く同様の事が言えるのでが、ここではこの程度にしておきましょう。余りにも大きすぎるテーマですから、このテーマだけで恐らく本が何十冊と書けるような大問題なのですから。 《 おわり 》
2013年07月04日
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