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一 問 一 答 その三 質問:クライアント・来談者は、自分自身でなければならないのでしょか?つまり、親が子供のことを相談したり、知人やパートナーのことで悩み事を持ち込んだりした場合は、どうなのでしょうか。 回答:キッカケは、本人で無くとも良いのですが、問題を抱え、悩んでいる当事者が本来のクライアントです。「そっ啄同時」と言う言葉がありますが、卵から雛鳥が孵る時に、殻の内側から雛が嘴で突くのと、外から親鳥が殻をつつくのとが同時でないと、ダメなのですね。どちらか一方が早くても遅くてもまずいのですが、それと同じ事がクライアントとメンターとの間に生じるのですよ。早すぎてもいけないし、逆に遅すぎてもいけないので、タイミングの取り方がとても大切な要素になるのです。それと、なによりも両者の心の交流が肝腎要のところなのですから、間接的な対処は、ライフメンタリングの本道ではあり得ません。 質問:相手の立場に寄り添うには、どの様な事が必要なのでしょうか。 回答:心を空しくして接する。普通は、その様な表現を用いますが、ライフメンタリングでは、更に一歩も、二歩も踏み込んだ態度を強調したいと思います。一切の先入観念を排除してクライアントと向き合う。これだけでは足りない、不満足な気がしますね。メンターが カタリスト・触媒 として機能するためにも、自分が意識しないところで「対人ワーク」の場に持ち込んでいる夾雑物や不純物たる 諸々のドクサ・独断・偏見 などを取り除くことは当然として考えるのですが、そこから先が微妙で、言葉にしにくい部分です。敢て表現すれば、外部に形をとって現れていないホスピタリティ(心のこもった、もてなしの精神)を十全に準備して、しかも、いつでも表面化出来る様に待機する、とでも申せば好いのでしょうか。 質問:医療分野との境界、といった事柄を分かり易く説明して下さい。 回答:正確なことは説明できませんが、非常に大雑把な解説程度とご承知置きの上で、お聞き下さい。 そもそも健常者と病人、或いは、患者とそうでない非患者との区別が定義しにくいのですから。当然ながら、とても曖昧な表現を取らざるを得ないわけですね。このことは容易に理解して頂けるでしょう。真正の病人と一応医学上はいえる人であっても、医療機関の、病院とかクリニックに足を運んで、医者の診断を受けていない者は、患者とは呼ばないのが普通です。呼んではいけないのではなく、保険制度など謂わば公の社会制度の上からは、そして統計などの立場からも、患者としては扱わないわけです、通常は。特に、最近では「こころの病」が異常に増えているのですが、本人もしくは身近にいる人が病気を疑い、ドクターの診断を仰いで「病気」と診断されるまでは「病人」ではないし「患者」とは、勿論呼ばれない。つまり、病気とは社会的に権威付けされた公の制度によって「認知」された結果の命名であって、決して「私的」のものではありえないのです。それが少なくとも今日ただ今の社会的な実情なのです。 従って、真正の病人でも病人ではない人、逆の場合も、つまり真正の病人では無いのに、病人として扱われている者が、存在している。少なくとも理屈の上ではそうなりますよ。必ずしも「誤診」とか不注意が原因ではないケースが沢山あり得るし、現にその様な人たちが多分大勢いる。そう考えたほうが現実に即している。私は経験上そんなことを日頃感じています。 そして、ここからは私個人の独断に過ぎませんが、真正の病人と、真正の健常者がいるとして、その両者を除いた「境界」のとても広い帯状のゾーンには想像する以上の多数者が存在しているのだろう、と。病人とは上に述べたように一種の自己申告に基づく定義ですから、自己申告していない、もしくは自己申告したがらない人々は、医療の対象とはならず、従って必要な医療行為を受けてはいない道理です。問題は全てがここにあると、私は考えるのです。事の深刻さや重大さはさておくとして、他者からの善意に裏打ちされた「サービス」によって比較的容易に、当事者が抱えている重荷・苦痛・困難・心配・悲しみ・無気力・脱力感・鬱的な感情・ストレス・劣等感・無力感・孤独・憂愁、その他の生きていく上で必然的に襲われる心理的、精神的な障害や、魂(たましい)の健全な働きに対する諸々の妨害、などが軽減され、取り除かれるならば、なんと素晴らしい事ではありませんか。その可能性を真摯に追求していきたい。FYCの設立は、そのような理想を実現するための、よりよいツールである事を目指すものです。それ以上でも、それ以下でもありませんよ。
2013年06月27日
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一 問 一 答 その二 質問:どのくらいの期間、勉強もしくは修行すれば、ライフメンターになれますか? 回答:個人差がありますから、一概には言えませんが、1年くらいから10年くらいまで、大きな幅があると思います。そして仮に、メンターになれなくとも勉強をする、その事自体に意味がありますので、お気軽に行動を起こしてみて下さい。特に、若い年代の方にお薦めしたいのですが……。引きこもりや、ニートなどの辛く苦しい時間に耐えている若者や、様々な人生行路上の困難に直面し、動きが取れなくて苦しんでいる青年や若い女性など。その他、「こんな世の中に、生まれてなんか来なければ良かった」、「私だけ損をしている」、不幸である、美しくない、頭が悪い、背が低い、etc.の不平・不満に苛まれている青少年に、子供達に向かって呼びかけたい。―― この世に生まれてきて、誰も損などしていない。何か悩みがあったとしたらどの様な小さなことでもいい、気軽にFYCのドアを叩いてみないか、と。更にこうも訴えたい。――掛替えの無い「生命」をいただいている、それは当たり前のことではない。奇跡の中の奇跡と呼ぶのに相応しい本当に「有難い」こと。その尊い命に輝きを添えること。それだけがあなたの、誰でもないあなた自身の、命を受け取った者「幸運者」の役割なのだ。問題はそれだけのこと、「命に輝きをそえる」ことだけ。そんな風に、考えを切り替えてみよう。そうしたら、これまでとは全く違った風景が、視界に入ってこないだろうか。新鮮で、魅力に溢れた、新しい世界が、展望が、立ち現れてこないだろうか……。 質問:「普遍」・「不変」、つまりフィクションとしての絶対について訊きたいのですが、絶対を梃子の支点として利用するとの説明でした。絶対のイメージが湧かないのですがどのようにしたら良いのか、何かヒントがあれば教えて下さいませんか。 回答:確かに「絶対」とか「無限」とかをイメージするのは容易なことではありませんね。私にこれと言った妙案があるわけでもないのです。例えば、私の場合は、静かに目を閉じて、場所は電車の仲でも、寝床でも、何処でも良いのですが、心の中で大空を思い描きます。そして思いを大空の彼方に飛ばします。そのまま、宇宙探査のロケットの如く念を飛ばし続け、煌めく星々の奥深くへと突き進み―、やがて、長い長い時間の経過を、ごく自然に体感し、その闇と薄明とが交差する広がりの中にどっぷりと浸り切ります…。まあ、ざっとこの様な具合なのですが、各自がそれぞれにご自分にあった方法を、考案なさって下さい。場所なども、深山幽谷とか、大洋を望む海岸とか、時間も人が寝静まった真夜中とか。人によって様々な手段・方法が可能だと思います。逆に、一人ではなく、信頼できる相手と二人でとか、思い切って集団で試みたりするのも、意外と効果的かも知れませんよ。そして、心理学によれば、心の中に有る無意識は、外界とそっくりそのまま照応しているのですから、銘々が勝手な自己流の「内観法」を使って、無限の彼方で「心の手」を結び合ったとしても、また仮に誰かがそう空想したとしても、あながち非現実的とばかりも言えないのですね。
2013年06月24日
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第四部 メンタリングに関する 一 問 一 答 質問:来談者(クライアント)として適していない人はいます? 回答:適していない人はいません。ただし、来談の時点で、自分自身の人生と真剣に向き合う姿勢さえ、あるならばという条件がつきますが……。 質問:年齢的には、一体どうなるのでしょうか。幼児とか、例えば百歳を越えた老人とかの場合は、クライアントになりうるのでしょうか? 回答:乳幼児の場合は、その両親か保護者が対象になります。小学校低学年までは、主として母親、もしくは父親が同伴ということになるでしょう。長寿のご老人でも、ご自分の生き方に問題を抱えているのでしたら、喜んでお手伝いさせていただきます。 質問:マン・ツー・マン、つまり1対1の形以外でも、ライフメンタリングは可能ですか? 回答:可能です。メンタリングのヴァリエーションは殆ど無限に近く考えられます。様々なケースに対して、色々な取り組みを研究して、より良いライフ・メンタリングを構築し、発展させていきたいと思っています。一例を挙げれば家族ぐるみ、グループ単位でのメンタリングなどですね。 質問:今度は、ライフメンターとしての人間的資質について説明して下さい。 回答:簡単明瞭、人間として誠実であれば十分です。あとは、それぞれの持ち味を十二分に発揮できるよう、日頃から研鑽を怠らない心掛けも大切ですが、これはどの様な仕事についても言える事ですから、何もライフメンターに限った特別なことではありませんね。 質問:そもそもライフメンタリング、あるいは「FYC・ふへんゆうこうくらぶ」などということを発想した、根本の動機、もしくは契機となったこと、具体的な出来事などがあれば教えて貰えませんか。 回答:そうですね…。いろいろと経験を重ねる中で、ごく自然に、機が熟してきたと考えるのが、本当のところでしょうか。直接的には60歳でテレビプロデューサー稼業から足を洗い、キャリア・カウンセラーの勉強を始めた時に、勉強の傍ら自分に何か、社会に対する 恩返し の様な事が出来ないか、と真剣に模索したあの濃密な時間の中から、誕生したのでしょう。結果的には頗る付きの「安産」でしたよ。きわめて自然に、これから進むべき道筋が視界に浮かび上がってきた、といった具合です。少し大袈裟に表現すれば、これはもう私の 天命 なのだと、突然感じた事だったのですネ。 この世に生を享けて、無我夢中で生きて来て、もう残るのは本当にささやかな余生のみと、と思っていたら、あに図らんや,これこそが『わが人生の本当の目的』と信じざるを得ないような、大大の 『大事業』 が目の前にあった。 改めて、それに気づいた。否、気づかされた。そんなところです、実際の話が。 質問:ライフメンタリングを行う上で、タブーと言いますか、これはしてはいけないという禁じ手のようなものが、もしありましたら教えて下さい。 回答:これもメンタリングに限った話ではないのですが、折角ですので、ちょっと触れさせていただきます。「×××でなければいけない」、「○○をしなければダメ」といった、こちらの謂わば勝手な価値観をクライアントに押し付ける、否定による「断罪」は何時、如何なる場合でも避けなければなりません。 特に、人生上の大きな問題については、こうしない方が良い、とは言い得ても、こうしたほうが良いとは本人以外は断言できない。第三者が発言の責任を取ることが不可能な事ですから。結局は、無責任なその場限りの放言に終わらざるを得ないのですね、この種の否定、もしくは批判というものは……。 そもそも、相手がクライアントであれ、小さな子供であれ、誰であれ、その全面的な否定、根本的批判は、何時、如何なる場合でも不可なのですよ。私たち一人ひとりの存在自体、今の状況・志向・感情などの総体は、そっくりそのまま尊重され、何よりも大切に扱われなければならない対象なのですから。 この点は、くれぐれも注意する必要があるでしょう。もう一度繰り返しますと、各人の自発的、自然発生的、独自な指向性に沿った思考や感情の醸成こそが特別に大切にされなければならない第一のポイントなのです。
2013年06月17日
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d T惠・44歳 共働きの場合 T惠は私立高校の教師です。夫は普通のサラリーマンで課長職にいます。二人は2年前にそれぞれ一人ずつ子供を連れての再婚をしました。お見合いをして、互いを良く品定めして、慎重に選んだ筈でしたが、半年もしないで夫婦仲がシックリ行きません。子供同士はどちらも男の子で高校生ということもあってか、妙に馬が合う、と言う感じなのですが、肝腎の親達の関係が、言うに言われず上手くいかないのです。 「わたしも、もう若くありませんので、愛だの恋だのと、そんな浮ついた気持ちは、最初から相手に望んでいませんでしたが、余りにも夢が無さ過ぎるのです、今の夫は」 「夢がないとおっしゃいましたが、もう少し具体的に説明して下さいますか」 「彼が話す事は、全部が全部、仕事のことだけなのです。部下がどうの得意先がどうの、やれ重役の誰それが、こうしただの、ああ言っただのと」 「つまり、仕事上のいわば愚痴ばかり、聞かされてばかりいるのですね」 「そうなんです。わたしだって、学校で、職場ですから、色々なことがあるのですが、一言だって彼に、主人に話した事はありませんのに」 「ご主人が一方的に、会社でのお話をされるのですね、あなたのお気持ちにお構いなしで」 「そうなんです。第一、男らしくないじゃありませんか。女房相手に愚痴をタラタラ」 「ご自分の、その嫌だという感情を口にされたことはおありですか、ご主人に対して」 「いいえ、そんなこと自分で気づいて、反省するのが大人の常識じゃありませんか」 話を聞く内に私は、彼女の夫に会ってみる必要があると感じました。T惠さんの了解を得て、早速次の日曜日にホテルのラウンジで落ち合いました。 夫はとても感じの良い、物腰の上品なサラリーマンです。私の話を聞き終わると、最初はしばらくの間無言でした。 「難しいですね、夫婦と言うか、男女の仲というものは……。前の妻の時は、これとは真逆だったのです。家では会社の話は一切しない。そういう主義だったのです。家庭は家庭、仕事は仕事と割り切らないと、自分も辛いですから」 彼は一度目の失敗に懲りて、無理して 愚痴って いたのでした。「なんだ、そうだったのか。ボクはまた彼女に好きな人でも出来て、それで態度が変わってきたのだとばかり勘違いをして、結局は彼女の嫌がる方向に力を入れていたのですね。なんだ、そうだったのか。これで安心しました」 二人は結婚以前の初心に戻って、最初から結婚をやり直す決意を固めたのでした。本当は、私の役目はこの段階で終了の筈なのですが、ご両人のたっての希望を叶えるかたちで、もう少し長期にわたってご両人の相談相手としてのライフメンター役を務めることとなったのです。御蔭で、図らずも、男女二人も、同時に素晴らしい友人をもつ事が出来、私にとっても嬉しい出会いとはなったのでした。
2013年06月12日
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c 39歳・カツヨ・水商売 独身 の場合 カツヨさんのケースは、1年後に40代を迎えるに当っての、迷いと将来に対する不安とです。結婚は、取り敢えずこの際は横に置いておいて、一人で老いていく自分とどの様にして向かい合い、自分なりに充実して毎日を過ごして行くには、一体どの様な心構えが大切なのか。それについて教授して貰いたいと、大変に真面目なご来談の主訴でした。 彼女は東京下町の生まれで、そのまま地元で今日に至るまで暮らしてきました。ご両親は先年相次いで病没しました。歳の離れた姉は結婚して北海道にいます。いま彼女は遠い親戚が経営する古いアパートでの一人暮らしです。手狭ですが家賃の安さと、住み慣れた勝手のよさが魅力。職場の有る繁華街にも自転車で10分程と便利です。 彼女は一応は短大を卒業していますが、学業の方はまるでダメだったそうです。が、見たところでは頭が悪いようではなく、逆に目端の利く「商売人」タイプの印象でした。振る返ってみると、ずっと水商売関係の仕事について来た結果になったが、特別に水商売が肌に合い、好きなわけでもない。自身でそう言います。事実、化粧も服装もどちらかと言えば地味な方と、お見受けしました。 「今現在はまだ体力にも、気力にも余力があり、あまり問題はないのですが」 「夜が中心のお仕事ですから、中年以後は辛くなるかも知れない…」 「ええ、それに若さも売りの一つですから、女性の場合は、特に」 「学科では、計算が得意だったとありますが、経理などをきちんと勉強するようなお考えは、ありませんか」 「もう、手遅れではありませんか、この歳で勉強を始めるのは」 「手遅れと言うことは、どんな場合でもありません。ただ本人の意欲次第で」 そのほかに私が彼女に提案したのは、特に仕事の場では。周囲に自分の良い面を意識的にアピールすることと、人材紹介会社を調べて、気に入ったところがあれば登録しておく事でした。 カツヨさんは、一見無愛想なように見えますが、反面少女のように無邪気なところがあります。週に一回のセッションの時以外にも、急に時間が空いたからとか、何となく顔が見たくなったから、などと言って面談にやって来て、世間話をして帰って行きます。 「あたしって、世間が狭いひとですから、こんな気楽に何でも話ができる相手が、これまで一人もいなかったんですよ」と、独り言のように呟いたのです。 「お友達になれて、私も楽しいですから、お暇な時はいくらでも声を掛けて下さい」 「本当に、いいんですか。お世辞でも嬉しいです」 彼女は、水商売とは言っても、ごく堅い和風居酒屋の仲居兼副店長としておさまり、近い将来女将として店を任される見通しも立ちました。ついでに付け加えますと、趣味で始めた「お習字」の上達も周囲の賞賛の的となっているそうで、なによりも楽しい時間が持てると言って、彼女本人が大満足しているので、私も蔭ながら嬉しいのでした。
2013年06月04日
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