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何事によらず、人間や人間社会について考える場合に、いつも先ず最初に、結論が出てしまっている。つまり世界は平和が一番よい。戦争は絶対にいやだ。暴力は反対。格差社会は是正しなければいけない。男女の性差があるとすればそれは直ちに矯正し、平等な社会に向けて邁進しなければいけない。などなどあらゆる事柄、さまざまな現象に対して、私たちが向かわなければならない正しい方向性は誰もが一様に理解し、賛同している。しかしながらそこからがいつも問題になるのですね。現実は一向に改善されずますます悪化の一途を辿る。どうして?なぜ?一体全体、何処のドイツが悪いのか……。異見続出、喧々囂囂(けんけんごうごう)!侃々諤諤(かんかんがくがく)!皆が自分の考えを自由気儘に述べて、騒音の公害を世間に撒き散らし事態は一層混迷の度を加えるのみ。―― 一度、いや、二度でも、必要があれば何度でも反省をしてみなければいけない。冷静に、最初の結論に、別の角度からアプローチを試みなければならない。平和と一口に言うが、一体平和とは何?どの様な状態を指しているのか?気の早い人は、そんな事再考も糸瓜もあるものか……、決まりきったことを殊更らしく言いたて世間を徒に騒がせては駄目だ。などと即座に断定を加えるかもしれませんね。 言葉という物は便利でありながら、これ程厄介なものもありませんね。原子力の秘めている凄まじいまでのエネルギーは、人間の手には負えない。制御不能である。私たちは今やっと、正しい認識を持ったかに見える。しかし、原子力を含めた「火」の力を自由に出来ないことは、人類の偉大な知恵は、原始の大昔から承知していた。少なくとも賢人と言われる知的指導者たちはずっと先の未来までも見通して火を制御することは人類には無理なことだと、強く警告を発している。 同様に、言葉という最高度に便利な道具は、誰にでも自由自在に扱えるような代物ではない。それは謂わば「神の力を借りて」、神の威力を自分の身に借り受ける修行を積み重ね、習練を経た者にしか与えられていない神秘の特権なのであって、凡人が安易に入手でき、自由気儘に行使すべきものでない。これも知る人ぞ知る、言葉の奥義であります。だからこそ、言葉を使い言葉による説得を試みる時には、慎重に、そして飽くまでも謙虚に同時に大胆に、堂々と己の意見を披瀝しなければならない。同様に他者の意見にも、素直に、謙虚に、辛抱強く、忍耐ある態度で真摯に耳を傾けなければならない。説得を事とした、説得のための説得は、人類を破滅へと導くだけに終ってしまう運命にあるのですから……。 言論の自由とは何?表現の自由は、万人に対して許され、門戸が開かれている必要がある。宜しい。しからば、それは何故に?如何してそうでなければならないのか?決まっているではないか、人類の幸福の為に。宜しい。しからば、人類は幸せであるか。そしてまた、人類は全体の幸福を手中に収めるべく努力し、その目標を目指して一目散に驀進中である、か?イエスと答える勇気があなたにはおありでしょうか。私には、お互い同士理解しあう努力の必要性すら、充分には認識できてはいないように見えますが如何なものでしょうか、実際のところ。
2013年10月29日
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念のために、申し添えますが、理解が難しいことを殊更に強調しているのは、だから、その様に難しいことなど諦めてしまえ、止めてしまえ―、そう言いたいのではないのだと言う事です。私たちは、互いにより良く理解し合い、楽しく幸福に生きて行きたいのであります。それが大前提です。しかしそれは実は想像以上に難事業なのでありますね。だから、くれぐれも用心に用心を重ね、慎重にことを運ばなければ、とんでもない事態を招いてしまう。皆さんの周囲を見渡してみて下さい。世界中で今現在起こっている様々な現象や、事件など、どれもこれも相互理解の不足や誤解に基づく原因に由来しないものは、むしろ少ないと言えるでしょう。何故にそうであるのか?軽々に判断を下す前に、詳細に、有りの儘に現実や現象を知ることから始めなければならないのです。勝手で、独りよがりな断定や偏見が、更なる紛糾の原因を作っている例は枚挙に暇がないのですからね。闇雲な自己主張ではなく、冷静で、辛抱強い観察や調査、探索などが欠かせず、それには忍耐と賢明さが求められ、誰にでも容易に出来る仕事ではないからであります、実際。理解は絶対にしたい、けれどそれは途轍もなく難しい難事業である。こうした正しく、謙虚な出発点に立たない限りはそれからの作業は、どの様に熱心かつ精力的に推し進めたところで、不毛な結果を招くだけ。努力した価値がなくなるだけでなく、より一層不幸で、悲惨な結末をまねきよせるだけ。悲しいですが、これが私たちがいつでも置かれている現実なのでありますよ。心して下さいな。そして、いつも明るい希望を捨てないで、善意と親切と、公正さを心掛けようではありませんか。如何でしょう……。
2013年10月21日
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自然界では正しく周囲の情況を把握し、理解することがとても大切な事柄です。なぜなら、それは自己の生存にとって不可欠なこと。つまり生と死に直結する重大事であるから。 自然界の掟、それも極めて峻厳なルールは、誤った理解イコール「死」を意味するからです。自然保護などと唱える事に馴らされてしまっている現代人には、ピンと来ない時代錯誤な物言いに聞えるだけですね。しかし、自然とは、本来、非常に厳しく、また冷厳な存在でもある。そしてこの自然の持つ、本質的な厳しさは今なお変わってはいない。抽象的で、何を言っているのか訝しく思われる向きも有ろうかと、より具体的に話を進めることにいたしましょう。 先年の東日本大震災、千年に一度と言われる恐ろしい地震とそれによって惹起された想像を絶した大津波。人間の営みとはなんと儚く、頼りないものなのかを圧倒的な破壊力で、我々に思い知らせた。そして「想定外」という言葉が一種の流行語ともなった原子力の秘めている力の恐ろしさ。人間の力では制御不能である「火」の、自然力の計り知れない恐怖。世界中が、驚愕し、震撼させられた。しかし、人類の歴史的教訓は私たちに教えている。喉元過ぎれば熱さわすれる、と。人々は口々に戦争の恐ろしさを言う。しかし、この地上から戦火の収まったためしは一日たりとも無い。この非情冷厳な事実を、先ず肝に銘じようではないか。 理解とは、話合えば解かる、とは何と頼りない脆弱な地盤の上に築かれた砂上の楼閣であったのか……。地震、雷、火事、親父-と恐ろしいものの代表例に挙げられた現象や事例の真実の恐ろしさを、昔の人たちは実感として知っていた。しかし、今の私たちは本当にその恐ろしさを皮膚感覚として承知し、真実恐ろしいものを恐ろしいと認識しているだろうか。イエスであり、同時に、ノーでもある。時に当事者として恐れ、その他の大部分の時には他人事として、自分には関係の無い事として傍観視している。真実に恐ろしいのは、こうした私たちの「心理」であり、生きている生な生理なのであります。これが人間の在りのままの実存の実相。― これをこの私たち人間の心の本当を、直視しなければ何事も始まりはしないのでありますね。 自分自身を本当に理解するためには、全世界を正しく「理解」しなければいけない。全世界を理解するには、自己を深く、質的にも量的にも詳細に知らなければならない。人の振り見て、我が振り直せ!昔の人は教えていますよ。歴史を、人間の歴史を知る必要がある。学問は、歴史に極まる、と古人は親切にも教えてくれていますよ。
2013年10月11日
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理解は不可能なこと、一人の人間が他人を正しく理解すること。今の社会を、客観的に、冷静に把握して正当な評価を下すこと。自分で自分自身を100パーセント理解しつくす事。何れも「不可能なこと」と、私は考えています。だからこそ、世間でまま見られる、「話合えば、大概の事は互いに分かり合えるのだから、話し合いが大切だ」― 式の、紋きり型の非常にイージーな物言いが、とても気になって仕方がない。話合えば「分かる」様なことは、話合わなくとも「自明なこと」、または話し合いの前に既に了解済みの事柄に属している。それを頭を冷やして冷静にテーブルに着き、胸襟を開いてお互いの言い分を開陳し、充分に傾聴した場合には、簡単に、収まりがつく。その通り。何も異存などはありません。その限りにおいては、でありますね。 私がいま、このブログで問題にしているのは、その手の「話し合いなど必要ない」事柄についてではないのですよ。話合えば、話合うほど両者の違いが曖昧になり、違いが何処にあるのか皆目見当もつかない。まるで、八幡の藪知らずにでも迷い込んだような、行く先が進めば進むほどに、分からなくなる。そういう、本質的な「理解不能領域」の問題について皆さんのご注意を喚起し、それに対処する際の心構えの大切さを、考えてみたいと問題提起をしているわけであります。男と女の間には、深くて広い溝がある。といった歌詞で始まるうたがありましたが、深く、広い溝は、人間社会のいたるところに網の目のように存在している。そしてその網の目は存在している事はたしかであり、間違いないのだが、誰の目にも見えない厄介なもの。「目くら蛇に怖じず」ではありませんが、雑駁で、能天気なお人は平気の平左で事を済まして、何が問題なの、と言った暢気な態度でゴーイング・マイウェイなのですが、上辺だけでなく本物の理解を心の底から希求して止まない、私の様な「変人」は、心が休まる時がない。自分自身さえ、70年以上ずっと付き合ってきている「自分自身についてさえ」充分な理解が、納得がいかない有様なのですから。そんな事どうでもいいさ、では済まされない最大の関心事なのですから、はい。 私が提起している人生の大事を、馬鹿馬鹿しいとか、気が知れない。或いは暇人の戯言などと嘯く御仁がいれば、そのお方は、よほどのお人よしかさもなければ、人生を真面目に生きることを既に諦めてしまっているに、間違いない。人は、どんな事があっても、正しく、正当に、人を理解したいのでありますから。
2013年10月02日
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