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さすが 池内紀! 丁寧で分かりやすい仕事やなあ。 とかなんとか感心しました。
「あっ!」 と驚きました。亡くなって、4年もたっていたのです。命日は 2019年8月30日 だそうです。ボクは亡くなった当座、それなりに反応したことをぼんやりと思い出しましたが、本書を読んでいる最中には、まったく忘れていたのですからひどいものです。
池内 はナチスについても丹念に調べた。 『闘う文豪とナチス・ドイツ』 は副題に 「トーマス・マンの亡命日記」 とある通り マンの日記 を読解しつつ、彼がナチスといかに闘ったかを綴(つづ)っている。ノーベル文学賞を受けた マン の存在はナチスにとり、煙たかったはずで、 マン が講演で出国したのを機にナチスは彼の母国への入国を禁じた。以来 マン はアメリカに暮らし、ナチス批判を講演や新聞などで発表し続けた。この本に 池内 の独自性を感じるのは、 マン とは異なる立場でナチスと闘った文学者たちの動きも描いた点だ。 ツヴァイク はブラジルに亡命し妻と自殺した。劇作家の ブレヒト は マン とアメリカで会っているが、互いに無視した。つまり 池内 はナチスが何故、大衆に熱狂的に支持されたのか、その本質をナチスに反旗を翻した文学者たちの動きを通して見つめ、文学者の在り方を多角的に問いかけたのだ。ならば当然、日本はどんな状況だったか、抵抗する文学者はいたか、という新たな問いが生まれるだろう。 (松山巌「好書好日」2019.10.23) 付け加えることなどないのですが、少し説明します。 「トーマス・マン日記」 は 紀伊国屋書店 から 全10巻 、 1918年 から 1955年 までが出版されていますが、本書で 池内紀 が扱っているのは 1933年 の亡命生活の始まりから、 1955年 、 トーマス・マン の 最後の肖像 のスケッチを描いた画家 ツィトロン の訪問を受けた7月の末、文字通り長大な トーマス・マン日記 の最後の記述の日までです。
日記の始まりは 「一九三三年三月十五日、水曜日」 の日付を持ち、前夜、 「意外なほどぐっすり眠れた」 ことから書き出される。 この、そこはかとないユーモアが、 池内紀 の持ち味です。で、最後はこんな感じ。
「疲労で神経過敏になっているため、ここ十日ほど、何時間もつづく病的な戦慄に襲われるのが、今朝はそれがなかった。」
友人夫妻から副作用のないカルシウム剤をもらったおかげだという。もしそれが長大な日記を書かせる機縁になったとすれば、二十世紀の歴史に意味深いカルシウム剤といえるのだ。(P1)
マンの日記がとだえるのは、 一九五五年七月二十九日 である。その間のことは省いて、聡明な画家の報告をしめくくりにあげておく。 「…三週間後、飛行機で運ばれたチューリッヒで、詩人は亡くなりました。そしてスケッチが、〈最後の肖像〉になったのです。」 ((P221) あとがき にこんなふうに書かれています。
「実をいうと私は何をおいてもまず肖像写真を見やりながら、一つまた一つとつづっていった。(P226)4章 ある各章の最初のページには、その時代、その時代の マン の肖像画が載せられていて、たとえば 第III章 の表紙はアメリカ市民権のIDカードだったりします。
【目次】
I 1933~1938
クヌート・ハムスンの場合
レマルクのこと
リトマス試験紙
プリングスハイム家
二・二六事件
二つの喜劇
II 1939~1941
大戦勃発の前後
ドイツ軍、パリ入城
転換の年
奇妙な状況
ホモ・ポリティクス
ツヴァイクの場合
立ち襟と革ジャン
III 1942~1945
封印の仕方
白バラ」をめぐって
ゲッベルスの演説
『ファウストゥス博士』の誕生
終わりの始まり
噂の真相
終わりと始まり
IV 1946~1955
ニュルンベルク裁判
父と子
再度の亡命
「正装」の人
魔術師のたそがれ
最後の肖像
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