全18件 (18件中 1-18件目)
1

今回のクルーズ船は6千トン弱、河船としては大の下か、中の上くらいの規模で船室84、満員で乗客168名。10万トン級の大型外洋船とはおのずから異なるテイストとなるので船上生活やお店をのぞいてみることにしよう。夜は主として前述した演芸会であるが、午後の航行中には各種の催しがある。列挙してみると、三国志講座、中国語講座、マッサージ・鍼講座、中国茶講座、中国書道と指絵講座、瓶画講座、少数民族の刺繍講座などが催された。講座とは言っても大多数は船内各店の出張実演と言った感じで、たいていの場合実演後即時販売したり店で売っていたりする。私は三国志講座、マッサージ講座、書道・指絵講座を見学した。書道講座の習永款さんの実演について詳しく記すことにする。 後ろにはNHKーBSで紹介された時の垂れ幕、そして鼠という字を色々な書体で書いて見せた。 ついで昔からら詩人は詩を読むとき酒を飲みながら、一気に詩作して書き下すのだと言って紹興酒をコップにいっぱいぐい飲みし、一気に下の李白の「朝に辞す白帝城」を書き上げた。彼は詩作にも秀でていて、客が自分の名前を告げるとその文字をちりばめた七言絶句の詩を書き上げてくれる。 次に筆を使わないで指とつめだけで竹を描いた。 さらに筆を使って紙の上に墨を垂らし、それを口で吹いて展げてゆく 、そして指で赤い実を描き梅の絵を書き上げた。 唖然としていると今度は手のひらに墨をつけそれを紙の上にこすりつけ始めた。出来あがったものは抽象画ふうの深山幽谷を描いた墨画である。彼はこの船上に自分の店を持っていて製作しながら展示販売を行っている。 そのほか船内には瓶画といって石英の瓶の内側を不透明に擦り、細い口から耳掻きのような筆で繊細な絵を描いたものの実演販売店、淡水真珠の店、少数民族の女性によるの繊細な刺繍画の実演販売店、印鑑製作などの店があり、暇つぶしにははもってこいだが見ていると買いたくもなる。その都度買ってどこに飾るのだと自問自答。我が家はトイレにも絵葉書が。薦められると今度家を建ててからまた来るなどとのたまう。広い家が家が無いことには始まらない、マンション族には辛い話である。 淡水真珠の店 刺繍店 なが長門長江下りを綴ってきたが、最近クルーズずいて明後日からまた出かけることになった。今度はベニスからアドリア海・エーゲ内を巡る10日間のクルーズである
2008.04.12
コメント(1)

初めての中国、初めての上海、上海がこんな超近代都市とは想像外だった。北京オリンピックに次ぐ国家大事業である上海万博を控えダイナミックにそして貪欲に肥大(肥満)しつつある上海。バブル経験者としては後に来るであろう退潮期が気になるが --- 巨大なそして一直線に伸びた空港ターミナル、それも私が上海を去って2日目には同じ大きさの第二ターミナルが開港して倍の規模になると言う。明らかにアジアのハブ空港を目指している気がする。今回は乗る機会がなかったが、都心と空港を結ぶ浮上型リニアモーターカーは時速四百数十kmで商業運転、バスで1時間くらいかかるところが7分だそうだ。バスで空港に向かう途中両方向に走っているリニアと併走したが相手は一瞬でかすめて行ってしまった。高層ビル群はもっと驚きだった。大きく分けて二つの地域がある。一つは昔からのビジネス街、そしてもう一つは15年前までは畑だったと言う川向の新市街。今はいくつかのトンネルで新旧の地は結ばれている。最近行ってないがマンハッタンでもこんなに高層ビルが林立していないと思う。西新宿と徹底的に違うのは各建物のデザインのユニークさだ。少し画像で見てみよう。それぞれ屋根(?)のデザインに注目だ。 上が細くなるバベルの塔 ? おしべ・めしべを供えた大きな花房 空でコマが回っている 皿の中身は七面鳥の丸焼き ? イスタンブールのモスクよりはドーム屋根の数が少ないか ロマネスク様式教会 ? 池で釣りをしている人がこんなウキを使っていたなあ 482(6?)mの森ビル。ほとんど完成している。最上部は架け橋構造 上の部分はホテルになるらしい。 泊まるときは落下傘代わりに大きな傘は必需品か 一転して上は昔のフランス租界のフラン人クラブで今はホテルオークラ。客室はアネックスとして増築されているが、レセプション、ロビーラウンジ、ショップなどは旧フランス人クラブ。きっと植民地搾取で大もうけした人たちの集う場所だったのだろう。普通なら寄り付きもしない高級ホテルだが、今回何も知らずに団体旅行の延泊を申し入れたらここが指定された。恥ずかしながら ”高級ホテル 団体で泊まれば 怖くない” を地で行ってしまった。まったくお恥ずかしい。 夕食はこれもパックツアーで巨大なボート上の「海竜浮鮮肪」(Dragon floating seafood restaurant)へ、レストラン内部も船の構造をしている。味盲の私でもはっきり分かる洗練された都会味の中華料理だった。キャビン風の部屋のテーブルからの眺めも最高。 行き交う船も万艦飾、中には客も荷物も載せていない動く広告塔もある。どうしてもこれが社会主義国とは理解できない。自己主張の強い、原理主義的とも思える中国人、だが環境に順応する迅速さも備えた中国人のしたたかさを実感する。多分既成概念に囚われた私の社会主義への認識が間違いなのだろう。船の甲板を模した室外に出てみると、あんたそんなこと分からないのか人間の欲望や本質は経済体制とは無関係だよ と言わんばかりにネオンのの海にテレビ塔が孤高を保って聳えていた。 しかし最後に一言 今中国のエネルギー源はほぼ100%石炭と言う。大気汚染の元凶である。このネオンのエネルギーを節約できたらみんなが少しだけでも暮らしよくなれる気がしてならない。そういえば今回の船旅を通して長江を行き交う船のほとんどは石炭運搬船であった。
2008.04.12
コメント(0)

最終日の午後の観光は豫園実は今回予習をしておらず豫園がどんな所か知らなかったが同行者に上海で一箇所見るとすれば豫園でしょうとは言われた。行ってみるとまあ古い繁華街の復元ではあろうけれどもその規模に驚いた。中国人はやることが徹底している。そしてその人の多さも桁違いだ。通りはどこも人で溢れ歩くのもままならない。 人、ひと、ヒト -- 人、ひと、ヒト -- デパートもここではこんな構えになる 私達も「禄波廊」という上の写真のレストランの別館で昼食を頂いた。水上の楼閣はレストランだろうか、豫園の中の豫園(かっての豪商の邸宅)への通り道とあって橋は大渋滞。 そして水中楼のの軒下からふと視線を上に向けると建設中の486mのビルが。六本木ヒルズと同じ森ビルの建物とか、来年にはもっと高いビルの建設が始まるとか。 この邸宅は復元ではないらしく瓦も柱も風格を帯びていた。特に薄いかわらを何重にも重ねて葺かれた屋根が興味を引いたそして修復時の古瓦は歩道を彩っている。 なかなかの設営だ。 ガイドがこの邸のあるスポットに立つと何時も満月が仰げると言う。ある空間からの光が大湖石というごろごろ石の池面に青白い満月を浮かべていた。この穴だらけの岩は揚州の南方にある大湖から取れる石で大変価値があるらしくこの地方の公園や富豪の邸宅の庭石は決まってこの石が使われていた。 中国の寺院や重要な建物には決まって屋根の末尾に飾りが置かれているが下のは豫園のある建物に付いていた、三国志の英雄、関羽の騎馬姿。一人仁王立ちになって大群の進軍を阻んだとも伝えられる英雄、頭は単純だったようだが戦記ものには欠かせない人物である。
2008.04.11
コメント(0)

今日は長かった船旅の最終日10日目の朝部屋のカーテンを開けるとそこは上海の港、さすがに船で溢れている。岸辺の公園に目をやると朝早くからダンスや太極拳に興じる市民の姿。 朝食後親しんできた錦繍中華号ともお別れ、しばしデッキに佇んで別れた。 最終日の今日は上海の町で博物館と豫園を見て歩く。まずバスに乗って市街に入るとビルの多さと高さとユニークさに驚いた。博物館も新しく立派な造りだがビルの屋上に注目。 展示物は建物に劣らず立派、デイスプレイも垢抜けている。俗に中国4千年の歴史と言うがとにかく古い文物が多く展示されており土器、青銅器、磁器など大きくて立派なものが多い。 青銅の壷:大きさは人影参照 青銅製の楽器 楽師の像 唐三彩 シルクロード駱駝像現代少数民族にも気を使って彼らの風俗に関する展示も多い 翌日機内で手にした英文新聞China Todayに小さくチベットの騒乱が報じられていたが、中国でも漢民族と他民族の葛藤はこれからも続くのであろう。かって社会主義国であったユーゴスラビアのようにはならない気もするが。ここも民族紛争という宗教紛争が起きるのであろうか。優れた文化歴史を有しながら外国に蹂躙された自らの経験に基づき、自治領を統治する際、思いやりを呼び起してくれることを期待するのみである。
2008.04.11
コメント(0)

船の旅9日目、今日は今回の旅行初めてといっていい快晴青空。揚州は昔からの港町、港にも船影濃く、もう川というよりは海の港の風情。ここは古くから中国各地に運河が通じており、古代からの海運の要所である。先ず痩西湖を訪れると陽春に堰を切ったように出てきた柳の新緑。青い空と淡い緑そしていろいろな花木が色を競っている。こ湖は杭州の西湖に似ていて細長いので痩西湖と呼ばれている。とにかく気持ちが良い。広大な都市の湖公園、と言っても河のように見える。 望湖台は青く澄んだ水に映えて風にそよぐ柳葉が趣を添えている。 痩西湖と一体化した位置には大明寺がある。下の写真を見るとすぐ何かを連想するだろう、奈良の唐招提寺である。そうここはあの盲目の渡来僧・鑑真和尚がいた寺である。鑑真は嵐などによる5度の失敗をものともせずわが国にたどり着いたが出発地はここ揚州である。この大明寺の建物や鑑真和尚像などは奈良唐招提寺からの里帰りコピーだそうだ。日中の架け橋役・郭沫若の筆になる石碑が印象に残る。 屋根の鴟尾(しび)や屋根末尾の反り返りがない日本の寺院様式などを見ればすぐ分かる唐招提寺のレプリカである。展示されている鑑真像も唐招提寺のものの同大のコピーである。 わが国の遣唐使達もまたここ揚州に上陸している。あの空海もまたここからはるか西安を目指したのだ。後期遣唐使たちが使った模型が飾られているが、これはもう底の深い海洋型の船で、初期のものは底の浅い河船型であったため大浪に会うと簡単に転覆したのだそうだ。 大明寺にはもう一つの名物、九層の楼閣がある。高いところがあると登ってみないと収まらない相棒に曳かれて高い入場料を払ってエッチラコッチラ。でもその値打はあるようだ、古から揚州を揚州たらしめている運河が手にとるように良く見えた。 運河がところどころ膨らんでいるのは船溜りだろう。船は善男善女を積んでこの岸壁につき彼らは参詣するのだろう。ひょっとして鑑真や空海が使ったのもこの船着場だっかかも知れないなどと想像を膨らませて見る。高い旅費のもとをとるためにはこんなことを空想して旅の価値を高めることも良いのではなかろうか。この間15分程ほとんどのわが熟年観光団は腰を下ろして休んでいた。
2008.04.11
コメント(0)

乗船して8日目の朝は予定通り貴池港に着いていた。天気は良い、今日はまた山に登るが山の天気はどうだろうか。バスにて九華山の町へ、ここは中国仏教の四大聖地の一つで地蔵菩薩の修行の場。まづ3連のロープウエイで町から山上の寺へ、ロープウエイト中からまた霧に突入。 大きな地蔵堂の前の見晴は天気が良ければ素晴らしい景観と思われる。眼下には巨大で白い岩肌に松ノ木がへばりついているのが見える。それにしてもここのお地蔵さんは肥満で巨大で金ぴかでまるで恵比寿様の様相。文化大革命を経て甦った仏教像が新しいのは理解できるとして、日本人のもつ石の地蔵さんのイメージが通じないのは仕方がない。仏教伝来の道筋で土地の文化に馴染ますためいろんな概念が変化してゆく過程が想像される。昼食で頂いた精進料理も我々が描くイメージとはかなり違っていたこれも土地の文化と融合してゆく例であろう。あまり展望の開けない山を早々にロープウエイで下り九華街をぶらつく。この町は余り宗派にこだわらず色々な宗派の中心地らしいが近年の経済発展により調達できる資金を基に仏教大学の類が現在もどんどん新築改築されていた。下の写真にも見られるように立派な寺院の建築現場は活気にあふれており、柱やの壁の石材に彫られた彫刻は見事なものであった。50年後くらいにここを再訪すれば風格ある寺構えになっていることであろう。 この辺りは中国でも漢方薬の産地でこの町のダウンタウン九華街は仏具屋、漢方薬店、みやげ物店が多く小さなスーパーマーケットも見かけた。なかにはプラスチックとしか見えないような茸があったりする。それぞれが民話や伝説の薬なのだろう。いろいろな香辛料も売っていてにおいを嗅がせてくれる。時間が許せばこの香かぎ歩きも楽しい気がする。
2008.04.11
コメント(0)

船は今朝九江に接岸、ここは今までのような小さな港ではなく大きな船着場を持った交易港の町である。町の様子も今までのような小さな観光基地と言うよりもスーパーマーケットなど備えた大きな町である。今シーズン最初のクルーズ船接岸とて町の婦人会(?)がブラスバンドで歓迎してくれた。遠く船から見たとき赤い衣装に惑わされ、さては娘さんと思ったが近かづいてみると皆30年前の娘さん達であった。 ともあれ今日は世界遺産である廬山の終日観光である。廬産は日本で言えば軽井沢のような所で涼しい山岳地帯、バスはつづら折れの日光イロハ坂のような道をぐんぐん登る登るにしたがって霧がわいてきて、またまた墨絵の世界となる。古くから文人墨客の多く訪れる所で詩文にも多く書かれているようである。 墨画のような霧の湖面の浮き御堂革命後の毛沢東の別邸があったり、共産党の重要な大会が開かれたりと中国では多くの重要な会議の場所であり、景勝地を備えた有数の保養地である。外国人の別荘も多くここには世界中の色々な様式の建築があるとのことだ。今は博物館となっている毛沢東の別邸、芦林湖、紅葉時期の素晴らしい景観を思わせる渓谷・錦繍台(私達のクルーズ船の名前、錦繍中華号、は多分ここから来たのだろう)など見て「三石料理」を頂いた。三石とは木耳、山の白魚、蛙のことでした。それぞれを石に喩えたものでしょうが蛙の肉は皮付きでややグロテスク、あまり多く食べる人は見かけませんでした。ここは古い保養地、庭や町のインフラ施設など手つくりが主流と見え棒々屋とかいわれる担ぎやの人夫が目立った。 博物館で廬山地方の模型を見ていた相棒が遠方に香炉峰という表示を発見し、白居易の詩ににちなんだ清少納言の「香炉峰の雪は簾を掲げて見る」の山ではないかと言いだした。帰船後、持参の電子辞書で調べると確かに香炉峰は廬山の山群の中にあり形が香炉に似ていることからそう呼ばれるとある。霧で何も見えない廬山であったがあの霧の向こうに広がった白居易、中宮定子、清少納言と語り継がれたエピソードや蒋介石、毛沢東などに思いを起こさせてくれた廬山に感謝の一日であった
2008.04.10
コメント(0)

夜間, 船はたいてい航行中であるが毎晩のように乗組員による余興が披露される。乗客とほぼ同じ数の乗組員がいるがレセプション・ウエイトレス・バーやコーヒーショップ、みやげ物店のお嬢さんたちが乗客は観光留守中にホールで踊りや寸劇の練習をして夕食後披露してくれる。フラメンコ、中国の民族舞踊、乗客とのダンス、寸劇、民謡の歌唱指導などが主な出し物である。 勿論素人芸であるがその素人さが受けている。 彼らは練習時間に恵まれ、衣装は立派なものでファッションショウのようである、したがって彼女ら自身も楽しんでいる様子が見て取れる。新人は隣のお姉さんを見ながら踊っている、失敗も客を喜ばせる。昼間の彼らはまったく違った風貌態度で客に接しているのが印象的である。寸劇で上半身裸で泥棒を演じた人がレストランマネージャーでダークスーツ姿。我がテーブルのウエイトレスも「今晩私フラメンコ踊るから見に来てください」などと言っていたが、自慢するだけあって上手いものだ。 もちろん楽屋などと言うものは無いのでホールの裏側にある読書ラウンジが支度部屋になっているみたいだ。次の出番は舞台横で身なりを整えている, 学芸会の雰囲気だ。臍をだして踊っている御嬢さん、昼間のある時はフロント受付、あるときは随行カメラマン、あるときはコンピュータ係として私のインターネットメイル受信を手伝ってくれた、ダンスもどうしてどうして堂に入っていた。ほとんど舟に居るので日本のアニメが大好きなボーイフレンドになかなか逢えないのを残念がっていた。 少数民族の多い町に寄港した夜はローカルな演芸団が乗船して民族芸能を披露してくれる。 少数民族も若者は都会に出てしまうらしく演芸団には年寄りと少女が多かった。土家族の民謡を歌ったこの少女は14歳、ラッパ軍団は壮年以上。 客の飛び入り芸もあるが、最後の晩は添乗員も全員でかくし芸を披露。こちらは少数民族の衣装を着けて幼稚園の学芸会の雰囲気、振り付け練習は30分、クルー教えてもらって仕上げたそうだ。まあ気の利いた忘年会芸だが。 いずれにしてもほとんど毎晩余興はもようされていた。
2008.04.10
コメント(0)

荊州の観光を終え夜船は武漢の港に着いて翌朝観光に出かけるはずであった。ところが朝起きてみると船は昨夜の所に留まっている。濃霧のため夜間航行が出来なかったのだ。クルーズマネージャは今日途中まで航行し、武漢からバスが迎えに来ると説明した。結局、昼すぎまで船で進み城稜磯という港でバスに乗り換え3時間余りで武漢に着いたが、もう午後4時を回っている。この間高速道路に出るまでの田舎道、高速道路を出て長江の土手を上った間かなりの凸凹道であった。最後部席で坐骨神経痛持ちの私は腰をかばいかなり参った。武漢では早速ここの名所黄鶴楼へ上った。江南3大名楼だそうだ。 黄鶴楼の入り口 かつて詩人李白が揚州に発つ友人孟浩然をここ黄鶴楼で送る七言絶句が有名だ。故人西辞黄鶴楼 古くからの友人が西方の黄鶴楼を去って煙花三月下揚州 春霞のたなびこの三月に揚州に下って行く孤帆遠影碧空盡 唯一つ遠ざかって行く船影は青空に消えて行き唯見長江天際流 長江は天と地の際まで流れて行くのが見える (私訳)昔はこの黄鶴楼の下を流れる長江が遠くまで眺められたのであろう。だが春霞といったり青空と言ったり、地平線が見えると言ったり漢詩特有の非現実的誇大表現であるが、野暮は言いっこなしにしよう。 続いて夕闇迫る東湖へ、総面積73Km平方、都市湖としては中国でも最大規模らしいが夕闇は全てを墨絵の世界に閉じ込めている。日本よりも桁違いに都市人口の多い武漢とて昼間は大変な賑わいであろう。特別入場した我々は公園をほぼ独占状態。日本の公園にあるのは池それに比し、ここは海中にある島みたいなもの。 ここは古く戦国時代の詩人・政治家である屈原先生因縁の地で石像と記念館がる。この文人政治家は後年讒言に会い、五月五日長江に身を投げ自ら命をたっている。遺体が魚に食べられないように人々はチマキを長江に投げて魚に与え魚は遺体を上流の故郷まで運んだと言う。これが端午の節句の千巻を奉る習慣の起こりだそうである。 さて旅人はそれからゆっくりと夕食をとったが、高速道路で我々が急いだ距離を船は追っかけている。朝には着いていた予定の船は夜の10時半やっと武漢に到着。こんな時の添乗員たちの職業意識は立派である。本来の予定であるかのように振る舞い、旅人には何の不安も与えない。しょっちゅう船と連絡を取りながらひたすら船の到着を待っていた。その間我々は人通りも少なくなった旧フランス租界にある歩行者天国をぶらついたり河岸の見晴公園を散歩したりしながら船を待っていた。 おかげでかつて国民党の政府が置かれていたり、ヨーロッパ列強や日本の租界も置かれていた武漢の中心ビジネス街を見ることができた。 武漢のビジネス中心街、戦前のヨーロッパ様式の建物が多い 旧フランスの銀行、今も銀行みたいだ 明るく華やかなディスプレイのショッピングモールショッピングモールは華やかでさしずめ渋谷の雰囲気。中国って社会主義国ですよね。ガイドの話しによると若者には毛沢東などより自由主義経済を取り入れた”とう(機種依存文字)”小平がはるかに人気があるそうだ。青い人民服やあの日本で流行った人民帽もついぞ見かけることはなかった。
2008.04.10
コメント(0)

今回のクルーズ船・錦繍中華号は勿論中国船である。「食は中国にあり」とも言う、しかも広い中国には色々地方色豊かな料理があり日替わりメニュウの料理はみなうまい。味盲の私にはそれしか言えない。二日目船長のウエルカムディナーの卓中心飾りはこれ スターターが並ぶ食事前の状態は下の写真。中国ではつつきあうのがマナーとみえ、取分け用のお箸が無い。割り箸ならぬプラスチックの長くて四角い箸は自分の皿に取り分けるのに一苦労だ。 そしてこの日から我々のテーブルを受け持つCoco(彼ら彼女らは皆英吾名を持っている)。確かに中国名よりは覚えやすい(漢字を日本読みすれば覚えやすいが、日本読みよりは英吾名が良いらしい)。 最後の夜のフェアウエルディナーの卓飾りは下の写真。 そしてこの夜のCocoは民族衣装。 毎晩衣装は変えている。 今回は日本の旅行者のチャータークルーズである。船内の昼食に親子丼、カレーライス、お稲荷さん、五目すしがサーブされたのには驚き、かつあきれた。しかし、80を超えた超老人達にとっては心尽くしのサービスと見え結構喜んで頂いていた。トラベルビジネスも頭を使ってリピーターを掴む作戦を練っているようである。
2008.04.08
コメント(0)

昨日の予定外のスケジュールで時間が余る船は早朝まで ふ(?)帰港で待機した後三峡ダム見学の基地太平渓に入港し、バスにてダム見学へ。三峡ダムには二つの展望台が有り一つはダムと同じ高さ185展望台(海抜185mの意味)とダムを俯瞰することが出来る262展望台である。しかし相変わらずの春霞でダム全体を見渡すことは出来なかった。ダムも高さが185mもあると言うが幅が余りに広いため高さが感じられず感動はしなかった。ダム域に入る前に空港のようなセキュリティーチェックがあり、ダム周辺にはシェパードを引いた軍隊のパトロールも見られていささか驚いた。帰船後は5段式閘門(水門)を約3時間かけて通過した。多くの人は水門に興奮していたが私はイギリス運河ののミニ水門ボルガ河の色々な様式の水門を見てきているので、規模が大きい 門の閉門後の水しぶきは良かっただけで同じことの繰り返しの三峡ダムは最初だけで早々に船室に引っ込む。ダムを下って三峡最後の渓谷西稜峡東部を通過する。 三峡の最終パート 西稜峡東部、東屋は船の後部デッキ 船は三峡ダムのテスト版である葛州覇ダムを通って荊州へ翌朝バスで三国志の舞台荊州の町へと向かった。荊州は劉備のご義兄弟で豪傑の関羽の築いた城壁都市・荊州古城がある。土レンガで築いたこの城は堅固で要所は2重構造になっており敵を第一の門内に引き入れて扉を閉ざし、囲まれた場所に閉じ込めて攻撃する仕掛けになっていた。日本では卑弥呼の耶馬台国よりもっと古い話であってみれば勿論現在のものは後年再建されたものである。 荊州古城の戦略2重門 ついで荊州博物館を訪れたが、ここには前漢時代と言うから紀元前であろうかその時代のミイラと称するホルマリン漬けのようなほぼ完全な男性の遺体が展示されていた。 港に帰ってみれば我が船への桟橋には「歓迎光臨」の歓迎幕が垂れていた。何事もなければ明朝は大都市武漢に着いているはずである。
2008.04.08
コメント(0)

今日はこれで終わりのはずであったが、次の日の夜間通行予定であった三峡ダムの交通規制のため今日中に奥神農渓観光をすることになった。巴東港でまず中型船に乗り換えて 奥神農渓へと向かう。少数民族である土家(とちゃ)族の住む昔から中国屈指の秘境・神農渓。浅瀬の秘境も水位上昇でほとんど静かな湖と化している。その長江への出会いには珍しく美形の釣り橋がかかっていた。 中型船は鏡のように水をたたえた湖のような水面を進み手漕ぎの小船に乗り換えて奥神農渓へと進む。 この奥地は本来山深く土家族以外の出入りは無かった。浅瀬では艪も使えず、ダム建設以前は独特の船を岸からロープを使って引っ張り上げていた。今でもショウとしてやってくれるがなんとも迫力が無い。ただこの長いロープは竹で編んだもので水から出るとさっと水滴が落ち重くならない工夫に感心した。この小船はちょうど新宮(和歌山/三重?)のジェット遊覧船のようなものである。(私が乗った50年以上前はプロペラ船船の後部空中にプロぺラを付けて爆音を轟かせて紀ノ川を登り瀞八丁へ行っていた)その酷暑の地の土家族の男達は素っ裸でロープを引き、艪を漕いでいたが近年の観光大衆化・国際化によって国から禁止され、いまは思い思いのシャツ姿である。昔の様子は絵葉書やポスターに描かれて売られていた。 実は我々の団体が今年のシーズン初めての客だとのこと水夫達も張り切っていて川幅が広くなると船漕ぎ競争を始めた。水先案内嬢はなんとも甲高い声で土家族の民謡を披露してくれる。このお嬢さん土地のスター歌手らしく歌った後で顔写真入のパンフレットを添えたCDを売っていたが。あの甲高い声は日本人の感性に合わないのか余り売れてはいなかった。土家族の婦人にも多く会ったがこんな現代的な美人はほかに見かけなかった。非公開日記 (秘密日記は記入されていません)
2008.04.08
コメント(0)

帰船後午後豊都の浮桟橋を離れた船は夕暮れの中川中島に建つ石宝塞の横を過ぎてゆく自然の地形を利用した楼閣の上には比較的新しい寺院が見えた。以後中国で見物した多くの寺院も比較的新しく復元されたものが多かった。御存知、文化大革命は仏教を含む宗教組織にとっては辛い時だったのだろう。石宝賽はダム建設によって水位が上がり水没浸食の恐れがありコンクリートの護岸で囲まれていた。 川中島に浮かぶ石宝賽翌朝は奉節の港で中型船に乗り換え、白帝城へ。ここは以前川面から900段近い階段で孤立した川中島の名城であるが水位上昇のため今は400段余り、それでも老人や身体不自由者には昔からの伝統の籠屋が待機している。 三国志の主人公、蜀の王・劉備が失意の中に晩年を過ごし後事を諸葛孔明に託してその一生を閉じる場面を再現した託孤堂軍師諸葛孔明が戦略のため星空観測をした観星亭など見物する。 ダムで流れは緩やかなり、どちらかと言えば渇水期の今はこの亭から長江を眺めると水は澄み切っている。孔明がこの急流を見、天候を予測して戦略を立てたこのスポットも今はのどかな太平の気に満ち溢れていた。 唐の詩人李白が囚われから解放され帰郷できる喜びを歌ったとされる 「朝に白帝城彩雲の間を辞して 千里先の江稜まで一日にして帰る 両岸に猿のなき聲絶えることなく 早船は既に多くの連山を過ぎた」 朝辞白帝彩雲間 千里江稜一日還 両岸猿聲啼不住 軽舟己過萬連山の七言絶句の詩が刻まれている石碑を見て石段を下る。 再び船に戻るとクルーズはこの辺りから両岸の景色を変えながら進む。湖底に沈んだ何千年という古い村や町を捨てさせられ政府の建てたコンクリート住宅に移り住んだ人たちの村が続く。高層住宅からなる田舎の村やコンクリート建ての農家の家々あまり落ち着いた風景とはいえない気がする。水際の移転を免れた農家もたまには散見する。 当然ながら長江には無数の支流が流れ込んでいる。また川に沿って新しい道路が作られている。社会主義国の国家プロジェクトとて没個性は免れない。その結果上の写真とまったく瓜二つと言うより瓜無数の橋を見かけた。 白帝城を後にしてクルーズを再開するとまもなく三峡第一の峡谷・「くとう峡」に差し掛かる。垂直のそそり立つ岩壁が約8kmに亘って続く。 「くとう」峡の入り口はじめは船の前後部のデッキで見物していたが、さすがに飽きて部屋に帰り部屋から大きな窓を通して見た景色が下の写真である。ダムができる前はこの絶壁はもっと数十メートルは高かったはずである 船はさらに下り、「ふ」峡に入る。ここは巨大な箱庭のような景色である。また霧が立ち込め墨絵の世界。曲がった松の生えた岩峰が船の真上の霧の中に出現する。これはこれで幻想的幽玄の世界であった。
2008.04.08
コメント(0)

第一日目は成田ー上海と中華国際航空で飛び空港地域のRamadaHotelに一泊。翌朝リニアー鉄道路線の横を通って空港へ、さらに東方航空にて重慶へと向かった。中国の三大蒸釜と言われる蒸し暑い重慶、さすがにこの時期熱くはないがエネルギー源をほぼ100%石炭に頼る、中国五指に入る巨大重工業都市、時はまさに春霞の季節、視界は無い。石炭煙の微粒子が濃霧生成に一役も二役も演じていると見た。産業革命後のロンドンの冬の光景もかくやあらんとと見た。しかしここは昔からの産業の地、長江とその支流嘉稜江の合流中州に展がったこの町は磁器(China)の出荷港であった。その港街、磁器口は古い昔の街並みを残す観光地。私にとって初めて降り立ったこの中国の観光地は町中真っ赤赤である。 磁器口の街並み その後町中を俯瞰できるという高台の公園や最初の橋である長江大橋展望台へも行ったがもちろん全ては墨絵にもならない霧中の景色。船へのチェックイン、夕食を済ませていよいよ出港10日間の船旅の始まりである。宵闇と霧は風景を美化して出港の頃になると霧もやや薄れ、重慶の夜景が華やいだ。 重慶港の夜景 翌朝船は豊都の浮き桟橋についていた。桟橋を渡り長江の堤防を上ってバスの待つ広場へ。最近の地下鉄の深度を考えれば物の数ではないが、約150段の階段を歩けない人は籠が待っている。 錦繍中華号 92m 4780ton 84 roomそしてこの旅最初の観光は雪玉洞と言う三峡ダム建設を機に新しく発見され、2003年から公開されている鍾乳洞「雪玉洞」の見物地質年代的には幼年期にあるという鍾乳洞で初々しい。幼年期だけあって赤ちゃんの肌のようにあくまでも白く滑らかで、私は今までに数多くの鍾乳洞を見てきたがここが一番美しかった。惜しむらくは照明がけばけばしく天然美を殺していることだ。 鍾乳洞入り口 楊貴妃の入浴 巨大な石筍。うっとりする造形美
2008.04.08
コメント(0)
3月11日から22日まで初めての中国旅行を楽しんできた。今までの個人旅行とは100%趣の違う経験である。昨年のマルタ・イタリア旅行でも駅の階段や列車の乗り降り、街中での一寸した移動で荷物の運搬が古希を超えた身にはこたえた。そこで今回は荷物の運搬は家の玄関(?マンション)までと言う旅を試した。またアジアの国で未訪問の中国も見てみたかったので中国文明の大回廊・三国志の舞台長江(揚子江)を訪ねることにした。選んだのは楽チン旅行専門旅行者のチャーター船旅である。出発の前々日旅行社指定の宅配業者が既に記入された伝票をもって集荷。当日チェックインの場所まで荷物は運ばれていて、私の番が近づくと旅行社の人が私の許へ届けてくれた。シャンハイ空港についても荷物を確認するだけで、広い空港の通関窓口の手前まで手荷物は構内ポーターサービス。通関後またポーターサービスで後はホテルの自室で受け取るだけ、翌朝出発30分前に荷物を廊下に出しておくと、あとはまた上海空港のチェックイン窓口まで。降り立った重慶空港には構内ポーターサービスがなく、初めて自分の荷物を受け取り税関後まで運んだが小さな空港である。その後クルーズ船にチェックインすると荷物は既に部屋に届いていた。重慶から上海まで丸10日間の船旅の後、帰途は上海で一泊したがほぼ行きと同じ要領、成田に降り立つ前に添乗員が帰りの宅配便の印刷された伝票を渡してくれ、税関を出ると旅行者の社員が待っていてご苦労様でしたとお茶のボトルを差し出し荷物を宅配業者まで運んでくれる。翌日荷物を受け取りに玄関まで足を運んだことは勿論である。出入国カード・税関申告書なども特殊箇所のチェックとサインだけでOKである。 このように今までとは対極的な日本式団体旅行を経験した。当然かなり割高で客に若者の姿は見えない。夕食隣席の夫婦はディナーで米寿のケーキをもらい、みんなにハッピバースデイを歌ってもらった。夫婦ともに88歳とのこと。大体この旅は(75+/-5)歳くらいが主流の旅行団である。82歳で一人参加の老人(失礼)なども居てビックリした。 日本丸とか飛鳥で世界一周したとか食卓で話題が飛んでいる。今回私はこの船の安い部屋を取ったが、多くの人の経済力は私とは違うクラスのようだ。ただ、72歳目前の自分が言うのも変だが、所詮食卓の話題は限られ、カルチュラルインパクトには乏しく、どちらかと言うと気持は萎える。何処に行ったかではなく、何処でなにを感じたかを伝えて欲しいのだがーーー青年・壮年の人達から見ると私達もそう見えるのだろう。ますます萎える。私ももうすぐ政府の定義する「後期高齢者」の仲間入りをするわけだから。
2008.04.06
コメント(2)

一昨日は我が家から石神井川の上流へ石神井公園までの桜を楽しんだ。私自身は染井吉野のようにぱっと咲きぱっと散るものより花と葉が調和してかつ長持ちする山桜や大島桜、江戸緋桜が好きだが、女房殿は染井吉野派である。そこで 昨日はXXに曳かれて石神井川下流の花吹雪の見物と相成った。我が女房殿石神井川の源流湧水点(日本で一番会員権が高い小金井カントリークラブのグリーン横)から荒川に注ぐ河口まで桜の季節に歩いた経験を持ち、中板橋から飛鳥山公園までが一番花影が濃いと言う。そこで今日はその区間約9キロの花吹雪を歩くという。早めの昼食を済ませ出かけてみると、風が吹くと華やかに花びらが舞うがまだ、7,8割の花は枝の上にあり、歌舞伎の舞台のようには行かない。頭の白い壮年女は必死になって空中の花びらをつかもうとするが掴めない、後ろからその頭を見ると髪の毛にはピンクの花びらが何葉も留っていた。 このあたり桜木は大きくないが川床には水生植物の植え木桝があり、初夏には花が咲くのだろう。この辺は古い町並みの中、ところどころにこのようなお休台が置かれている。よく見ると新しい畳がしかれている,そしてその縁取りは真っ赤である。お花見ように新調したと見える。そしてその台はかなりな年代物である。近所のお年寄りが遠来のお年寄りをねぎらうべく設営したものだろう。川の形は変わっても、江戸時代からの習慣かもしれないと思った。 染井吉野の樹齢は山桜のように長くは無くせいぜい1世紀位らしいが 川沿いの桜木の枝は歩道側が切り取られ、流れの上に伸びた枝の重みで幹はみなこのように川側に傾いでいる。 もともと武蔵野台地をのんびりと流れていた川もすっかり宅地化し、表土は舗装で覆われ、大雨が降ると一気に川に溢れ出す、そして河川は拡幅される。あとには新しく歩道と桜並木が出来るがまだ風格には欠ける風情である。とし このあたりは板橋区であるが、この地名はここに有った木製の橋に由来する。地区名→町名→区名と出世したらしい。 桜並木の歩道にはつつじが植えられており、いまは桜の花びらで染まっている。中には房ごと落ちた桜の花を咲かせたつつじの木があちこちにあった。 9キロ近くも川を下ると川面の様子も大分変化する。もうこのあたりは上流の花びらを集めてかなりな花筏風情である。 少し下ると流れに身をゆだねる花びらが増える。宇宙空間から大都市にうごめく人間を見るとこんなものだろう。岸に留まる花びら、淵で漂う花びら、激流に身を任せ躍動する花びら、それは一瞬の写真である、次の場面では立場が逆転していることは十分に想定して生きねばなるまい。 歩道脇に地元風流人が俳句札を立てていた。”散りてなほ 風情織りなす 花筏” なかなかの句である。 川を下るにつれてもう筏ではなく、桜花の大海となる。海原を表わすという京都竜安寺の石庭を彷彿させる動く自然の造詣に感心した。 さらに下り飛鳥山の脇に出るとそこは親水公園になっていた。花びらの浮かぶ流れが下水車をゆっくりと動かしていた。 脇の歩道を渡るとそこは江戸時代の花見の名所飛鳥山公園。江戸時代上野は花見第一の場所だが、そこには権現も祭られている。庶民がそこでどんちゃん騒ぎをすることは許されず、ここ王子の飛鳥山公園でそれが許されたそうだ。 昨日は金曜、散り行く花を惜しむかのように勤め先のお花見も多い。恒例新入社員の初仕事は花見の場所取り。ブルーシートには花びらが重なり若者はひたすら待つ。桜の下は特等席びっしりとシートが詰まっており、そこになんとも広いブルーシートを広げてただひたすら昼寝をしている女子社員3人組、要領の悪い男子新人はこのようにもみじの木の下である。このような人に限って宴がたけなわとなると木に登ったりする。 長い人生試練の始まりである。ガンバレ ! 新人 !
2008.04.05
コメント(1)

石神井川歩道・公園の桜-2008我が家は東京の石神井川沿いにあるマンション(御免なさい、単なるビルディングです)の一廓にある。下の写真の上から三階目(8階)手前の手すりのあるところである。この手すりの下には7階の3LDK が一軒有るので我が屋上庭園には結構大きな花壇を二つしつらえてあり、シーズンになると結構華やぐ構えである。さてここから下を見ると川沿いの桜並木が花やいでいる。今年は開花が早く染井吉野は満開を過ぎているが(4月3日)しだれ桜は今が絶頂みたいだ。今は遊歩道の桜並木から見上げた我が家が一番さえている時期である。 少し歩を進めて川をまたぐ私鉄の高架をくぐると両側が都営住宅となり水際の遊歩道が加わり多くの犬の散歩道も 桜 桜前方の橋はX型で誰が名つけたか”平成みあい橋”としゃれた名前。このあたりは各種の鴨の生息域、でも今は 桜 桜 結構大木であるが、私が好きなのは太い幹から直接咲く花、結構多い。 さらに歩を進めると石神井池に出る道路を挟んで池の反対側はちょっとした高級住宅地である。 ここは公園地で高い建物は建てられないため今までは良かったが、緑地や駐車場を取り、道路から少し離れて数階建てのマンションが建つようになった。多分建築基準法の盲点をついたのであろう。 でもこんな景色を目前にした家ならやっぱり欲しいと思う。春休み週日とて子供たちはザリガニ釣りに興じていたが若い人の姿はあまり見かけない、暖かい春の午後であった。
2008.04.04
コメント(1)
気が付いたら今日はもう四月も三日、なんと言うことだ。今年こそApril Foolを書こうと考えていたのにまた来年まで持ち越しだ。なんか三月はじめの出来事が遠い昔に思える。 要は忙しく色々な出来事があったと言うことである。月初めは立て続けに二つの会合の懇親会準備に追われた。そして11日から22日までは中国・長江の船下り、これについては近く旅行記を書くつもりだ。この間検診・眼科・歯科治療とこちらも結構忙しかったわけである。旅行から帰りすぐに学会出席となり、小さな国際シンポジウムのオフィシャルディナーの準備・進行役を割り振られて気疲れしてしまった。ごく少数のフランス人と大多数の日本人の出席者がすべて英語でことを進めると言う奇妙な会合である。日本人が懇親会を開くとやたら多くの人にスピーチをさせたがる。私がオーガナイズする今回はスマートにやってみたいと思いホテル最上階のレストランを予約し、席も譲り合ったりしてみっともないので私が独断で指定して着席表を配った。それでもあの人が末席で自分がメインテーブルでいいのかなどうるさい限り。逆の場合は言い出せず私を恨んだ人もいることだろう。進行役の私もある程度の台詞は考えておいたが食間のスピーチがあったり、サーブが遅れたりとハプニングだらけで予定時間を大幅にオーバー。外国のディナー会ではレストランでの会食も多いが日本ではホテルも小規模から大規模の個室を用意しておりビールを注ぎあいながら大声で渡り合うものが多いのもうなずけた。フルコースを頂きながらワインを愛で二人くらいのスピーチでスマートにという私の目論みは見事に外れてしまった。やはり郷に入っては郷に従えの例えである。とにかく疲れた。
2008.04.03
コメント(2)
全18件 (18件中 1-18件目)
1