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はい、昨日の土曜日、昼前にネットで海上自衛隊のHPを覗いてみたら、なんと近場の三重県四日市港に再来年に廃艦となるAGB(砕氷艦)しらせが来港していて、しかも一般公開しているという「お知らせ」が出ていました。しかも、日曜日は午前中だけしか一般公開しないとの事。それで、慌ててデジカメ・双眼鏡・帽子・鞄などを車に積み込み、四日市港に向かって車を走らせました。が、四日市港に着いてみて以前、練習艦隊が係留していた岸壁にしらせがいなかったのです!?仕方が無いので、近くにある海上保安部に寄って係留してある埠頭を尋ねて、無事、しらせの係留している埠頭にたどり着いたのですが、なんと駐車場が別のところにあるとの事で、またそこまで車を走らせ、シャトルバスに乗ってようやく午後の3時前に、しらせに乗艦することが出来ました。一般公開は午後4時で終了だという事だったので、ギリギリで間に合ったというわけです。AGB(砕氷艦)しらせは、世界で5番目に大きな砕氷艦で補給艦のましゅうやおうみの2隻が出来るまでは自衛艦の中で最大の艦でした。就役したのが昭和57年(1982)、基準排水量が1万1600トン、全長が134メートル、幅が28メートル、深さが14.5メートル、喫水が9.2メートル、手機はディーゼル・エレクトリック(ディーゼルエンジンで発電をして、その電力でモーターを回してスクリューを回転させるシステム)で出力は3万馬力です。乗員は約170名でこの他に観測隊員約60名が乗船できます。また、多様機SA-61A大型ヘリコプター2機を搭載しています。ものの本にはこの他にも、小型ヘリOH-6が搭載されているとありますが、現在では、SA-61Aだけしか搭載してないとの事です。そして、砕氷艦ですから当然、船体は頑丈に建造されていて、船首には厚さ3cmの鋼鈑が取り付けられ、チャージング(船首を氷の上に乗り上げ、船体をその重さと燃料の移動等でゆすって氷を割って進む事)により厚さ1.5メートルの氷海を3ノットの速度で連続砕氷航海できる能力があるそうです。では、早速そのしらせの雄姿を紹介していきましょう。先ずは艦首部分から艦尾にかけて。と、ここまでの写真は実は、携帯電話の写真機能を使って撮影したものです。なにしろ、慌てて家を飛び出したものですから、デジカメの電池の残りが乏しく、艦内でフラッシュを使ったり広角で撮影したりするのに、電池を取っておきたかったので、デジカメを使わないようにしたかったのです。幸い、天気が薄曇で逆光やその他、写真撮影に面倒な制約が少なかったので、携帯の写真で艦外の写真が綺麗にとれました。このように、写真をよく見てみるとしらせの船体の幅が広い事と上部構造物が大きい事、そして、前部に貨物を荷揚げするための起重機がある事、また、この写真では分かりにくいかもしれませんが、救命艇が大きくて特徴ある形をしている事、そして、各種観測用のアンテナや観測機器がマストや上部構造物に多数、装備されている事が分かるかと思います。ちなみに、艦尾後方から撮った写真にある白いドームの下にあるのはヘリコプターの離発艦を管制するための指揮所です。本当は、風が吹いて自衛艦旗(軍艦旗)がはためいているシーンを撮りたかったのですが、上手い事風が吹いてくれなくて、自衛艦旗が垂れ下がった状態での撮影となってしまいました。艦首の日章旗の時は上手く撮れたのですが。というわけで、今回はとりあえず乗艦するまでの写真を紹介してみました。次回からしらせ艦内の様子を紹介していきたいと思います。それでは。〈続く〉
2006年09月30日
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前回、「最近一寸嵌まった漫画、其の壱」という題で、小だまたけしさんの『平成イリュージョン』(宙出版、2004年12月)を取り上げてみたのですが、その記事のコメントに>作品の中では昭和6年(1931)に関東軍の謀略により勃発した満州事変を上手に収束させ「日満同盟」を結成、どうやって。との当ブログの常連、KKCさんからの質問があったので、その質問に答えるついでに、ちょっと私の妄想も交えて、この『平成イリュージョン』の舞台となっている世界に関する事象などについて語っていきたいと思います。この作品の中では、昭和6年(1931)に関東軍の謀略により勃発した満州事変を上手に収束させ(作品中では「満州危機」と呼称していますが)「日満同盟」を結成、そして満州事変と同じような手段、「謀略」を用いることにより植民地化されちているアジア諸国を独立させブロック経済圏を確立させ、その後は「冷戦」と称する一種の鎖国体制を敷いてひたすら欧米列強との戦争を回避して「大日本帝国」と「大東亜共栄圏」を維持し続けている大日本帝国が舞台です。では、問題の「日満同盟」は果たして上手くいったのか?というか、そのようなことが出来る情勢にあったのか?という問いかけに関して、私は「可能性があった」と答えます。まず、歴史の教科書でお馴染みのリットン調査団のお話から始めましょう。このリットン調査団とは国際連盟から派遣された英国人のリットン卿を団長として英・米・仏・独・伊の各国の代表5名の調査団の事を指します。調査団は満州事変調査のために、1932年の2月から9月にかけて満州で調査を行い、10月に「リットン報告書」という形で調査内容を国際連盟に報告しました。この報告書内容を不服として大日本帝国は国際連盟を離脱する事になるのですが、では、この「リットン報告書」の内容をみなさんはご存知でしょうか?実はこの「リットン報告書」では満州事変は「日本の正当な防衛行動ではない」として「満州国も満州人の自発的な独立運動に非ず」と報告しているのです。ここまでは、日本の国際連盟離脱の要因として学校でも習った方もいらっしゃるかもしれませんが、報告書ではこの後に、これまで日本が満州に持っていた特殊権益、東清鉄道とその沿線の領有、炭鉱などの鉱山や製鉄所などの工業施設に関する日本の権益は丸々これを認め、その上で日中間における新しい満州に関する新条約を締結するように提案する、という内容だったのです。ちなみに、満州国は昭和7年(1932)3月に建国を宣言、清朝最後の皇帝溥儀を執政として(翌年、帝政を施行するにあたり皇帝になります)、首都を現在の長春、当時は新京と呼称していました、に置きました。首脳部は満州にゆかりのある人間でしたが、その下の実際に政務を執り行う官僚は日本人が多数を占め、挙句に「内面指導」という形で露骨に軍部が政治に介入する形で満州国を「経営」していました。その「内面指導」を表立って指揮していたのが後の首相、東条英機や戦後総理大臣となり、現在の首相閣下の祖父にも当たる満州国産業部次長岸信介だった訳なのです。本来、「満州建国」は満州事変を実質的に指導した石原莞爾のような「満人のための、満人による満人の」国家建設の理念を抱いて「五族協和」を旗印に一応、崇高な理念を持った方々もいらっしゃったのですが、そのような理想主義者は関東軍と革新官僚(統制経済を推し進める考えを持った官僚のことだと一応ご理解下さい)によって駆逐されてしまい、結局、関東軍が満州国を陰から支配するという構造が出来上がってしまったのです。ところが、この関東軍と革新官僚、それから新興財閥などの手によって行われた「内面指導」が満州国では大成功してしまうのです。農業・工業生産力は劇的に向上し、治安は安定、保健衛生制度は都市部では日本国内並み(日本国内の農村部よりも上!)という状態になってしまい、その噂を聞いて満州国以外の中国本土(万里の長城以南の漢人)や朝鮮半島で苦しめられていた朝鮮人たちが続々と移民してきて(当然、日本からも満蒙開拓団が東北地方などの貧しい地域の次男以下の財産を持っていない人々を対象に編成され、移住していきました。しかし、この開拓団は現地、満州の人々が開拓した耕作地を奪う形で進められたので、当然、反感が発生しました)人口は増大。そして大連や長春などは日本からやってきた新進気鋭の若手技術官僚の手により当時としては「完璧」な都市計画が立案・施行され、その町並みは現在でも見ることが出来る位、素晴らしいものでした。当時の大連などは日本本土の大都市、東京や横浜、大坂や神戸よりも最先端の技術力を駆使して作られた「都会」だったのです。とまあ、こんな感じで日本人の満州経営は上手くいっていましたし、外交面でも満州国内政の話から時は溯りますがリットン調査団の報告書による昭和7年(1932)10月の国際連盟理事会での日本の撤兵勧告、そして翌年2月の総会での対日勧告案の採択後、3月の日本の国際連合脱退の通告後も、ワシントン条約によって作られた「ワシントン体制」は条約執行後の1936年まで維持されていますし、1935年には第2次ロンドン海軍軍縮会議が開かれるなど、対欧米外交面では満州事変はさほどの影響を与えなかったのです。元々、満州は日本の権益地として欧米列強からも認められていましたし、中国側でさえ昭和8年(1933)5月の塘沽(タンクー)停戦協定により国民党政府と日本軍が停戦し、この時国民政府は満州国を黙認してしまったのぐらいなのです。そのような状況なので、もし軍部の「内面指導」が上手に革新官僚や新興財閥に代表されるような財界人の手に渡り、また、日本側が満州国の政治体制を上手に「満州人」の手に委譲していけば、満州国が関東軍の傀儡ではないある程度の自治権を有する体制まで持っていければ、対等の形での「日満同盟」は可能ではなかったのではないかと妄想するわけなのです。実際に、この時満州で活躍した官僚やら財界人・企業は戦後日本へ引き上げて来てから日本の産業を焦土から復興させる吉田内閣下で設置された経済安定本部の要員(公職追放を免れた中堅官僚以下の面々)や、傾斜生産方式での重点工業の担い手として活躍しているのです。そして、サンフランシスコ講和条約で公職追放が解けた面々が高度経済成長を支え、今日の日本があるというわけです。そのようなお話に興味がある方は、深田祐介氏の『大東亜会議の真実』(PHP研究所、2004年)や小林英夫先生の『満州と自民党』(新潮社、2005年)を読まれると良いと思います。 何だか、書き進めていくうちに脈絡のない話になりましたが、このお話で重要な点は、満州国建国に関しては、ナチスドイツのヒトラーがドイツの再軍備やラインラント進駐、オーストリア併合を行ったように、外交面では特段の影響を与えなかったことです。むしろ、同じ昭和7年(1932)1月に満州事変勃発による排日運動の激化と、それに便乗した日本側の工作とされる日本人僧侶殺害事件に端を発する上海事変の方が欧米列強に与えた衝撃が大きくて(なぜなら上海周辺や長江流域には欧米列強の権益が多数存在していたからです)、そちらの方が「日本が中国本土に野心がある」との警戒感を欧米列強に植えつけた感があるのです。まぁ、この他にも「謀略」によるアジア地域の植民地の独立についても触れてみようかな、と思ったのですが、満州国ひとつでこの有様ですから、頭の変な熱が冷めるまで、『平成イリュージョン』の世界観、とくに外交に関する事には触れないようにしておきたいと思います。今度は、憲兵について書いてみる予定ですので、飽きずにお付き合い下さい。
2006年09月29日
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今日は、ちょっと最近読み込んでいるコミック2冊の内の最初の1冊についてお話をしたいと思います。そのコミックとは少し昔のものになるのですが、私がまだ学部生だった時代に大学近くの書店で立ち読みした雑誌に掲載されて以来、内容と絵ずらしか覚えていなかった漫画なのですが、ついこの前、行きつけの書店さんで『月間アワーズ』を立ち読みしていたら、同じ絵柄で似たような内容のマンガ、小だまたけしさんの『平成complex(1)』(少年画報社、2006年8月)を発見し、作者名を記憶して早速楽天ブックスで検索をかけたら出て参りました、『平成イリュージョン』(宙出版、2004年12月)という題名で。そこで今日は、この懐かしい思い出の(?)作品、『平成イリュージョン』について、紹介&解説をしていきたいと思います。 この『平成イリュージョン』はメディアワークスの『月刊コミックガオ!』に掲載されたいた小だまたけしさんの単発の作品を集めた作品集です。その中で私が記憶していたのがこの作品集の中のメインとなる作品のひとつ「空と海の狭間で」です。この作品の設定は「もしも~だったら」という歴史の選択肢における他の可能性を元に歴史を再構築した、いわゆる架空戦記的な漫画です。架空戦記モノだと独特の画風で有名な小林源文先生(私もファンの1人ですが)や小説ですと佐藤大輔先生などが有名ですが、この作品は絵のタッチが柔らかで、また他の類似作品と異なり「人」と「その人の思い」が前面に押し出されているのが特徴だと思います。 さて、この「空と海の狭間で」と他に同じ設定で収録されている「イリュージョン・シンドローム」と「ミレニアム・シンドローム」(この作品は他の今日ここでは紹介しないほかの収録作品が混ざり合った作品なのですが主人公が「空と海の狭間で」と同じなので取り上げておきます)の世界観と言いますか、設定なのですが、時代は「平成」なのですが、この「平成」に至る歴史が我々の住む世界とは異なった道を進んでいるのです。作品の中では昭和6年(1931)に関東軍の謀略により勃発した満州事変を上手に収束させ「日満同盟」を結成、そして満州事変と同じように「謀略」により植民地化のアジア諸国を独立させブロック経済圏を確立させ、その後は「冷戦」と称する一種の鎖国体制を敷いてひたすら欧米列強との戦争を回避して「大日本帝国」と「大東亜共栄圏」を維持し続けている日本が舞台です。その日本の「廣島」において繰り広げられる「諜報戦」がテーマである「イリュージョン・シンドローム」と海軍の秘密兵器と空軍の最新戦闘機が絡む事件「空と海の狭間で」を主人公である廣島憲兵隊の女性隊員、戸原翔子(とのはらしょうこ)曹長と、大陸から内地へ帰還した「今のらくろ」(『のらくろ』とは、昭和の初期に描かれた田河水泡のマンガの主人公、犬ののらくろが二等兵からトントン拍子に出世していく姿を描いた作品です)との異名をとる敏腕憲兵、平成太郎(たいらせいたろう)少尉のコンビが事件に巻き込まれたり首を突っ込んだりして物語が進んでいくのですが、ここで注目したいのはこの作品内における日本が陥っている「閉塞感」です。この作品の中でも「冷戦」が終結し日本は「極度の混迷状況」に陥っている状態です。巷には日清戦争を題材とした史実に忠実な国策映画を作って「秩序と結束」を国民(臣民かな?)に呼びかけてみる一方で満州事変以降今日の日本と同じように米英との戦争の道を選んでいたらという「近年の架空戦記を実写化した」映画が同時上映されているというような社会情勢です。この情勢を平少尉は「昭和の終了」と共に冷戦、つまり欧米列強からの掲載封鎖や軍事的徴発に対してひたすら耐え忍んできた半世紀が改元と共にその「閉塞状態」が突然終わって「平成御一新」(改元と冷戦の終結)による価値観の破壊による自分たちの根拠の怪しさに気づき、現実世界に幻滅しつつある世情「平成幻想症候群」、「この」世界というのは実は悪い夢の中での出来事で、どこか全く異なった世界や自分の生活が存在すると思い込む心の病が蔓延している、と作品の中で解説されております。この「閉塞感」というのは実際、今私たちが生きている今現在の世界や社会の中でもつい最近まで蔓延していたのもので、実際、今でも其の残滓が残っているような気がします。この作品が描かれたのは1999年、不景気真っ盛りの時代で小泉さんの改革が始まる前の事です。アニメやコミックは社会を写し出す鏡だ、とスタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんは仰っていますが、まさにそのような作品だと感じました。そんな『平成イリュージョン』の中の社会文化や人々の営みは今の日本とほとんど同じながら、「軍」がごく自然に市民生活に溶け込んでいます。とくに「廣島」は日清戦争の時に大本営が東京から移ってきたとき以来「陸軍の聖地」となっているので、街中には軍人が本当に違和感なくあふれています。現在の街中に旧軍の軍服姿の将兵が描かれているのにすんなりと作品を読み進めていけるのは、細かく裂く差者が設定にこだわっている所為なのでしょう。また、呉の軍港に停泊する、近代装備に一部装備転換がなされた戦艦大和には海軍大好き人間の私にはグッときました。副砲が海自の「しらね」級が搭載している73式54口径5インチ単装速射砲にみたい砲に改装され、両舷の高角砲もオットーメララ社製の62口径76mm単装速射砲みたいな砲になっていて、当然艦橋やその他の箇所に高性能20mm機関砲CIWSが搭載され、環境上部には三次元レーダーや対水上レーダーのアンテナや各種搭載砲などの射撃式装置が装備されていて後甲板はヘリ発着用に改装されている姿は圧巻です。これだけ、詳細に大和を近代改装させるとは、作者は相当の「通」だと思いましたね。私も1回、ハワイに研究旅行に行ったときに憎っき戦艦ミズーリ(だってあの上で大日本帝国は降伏文章に署名したのですから!実際に降伏文章の署名がされた場所には記念のプレートが甲板に張られいました)に乗艦した事があるのですが、ミズーリ自身も湾岸戦争に従軍した事のあるつい最近まで実戦に配備されいた最後の戦艦だったのですが、それでも近接防御用にCIWSを装備しているくらいでしたからね。うろ覚えですが。実際、もし太平洋戦争が回避されて大和や武蔵が残ったとしてもこの作品の中で描かれているように近代改装しようと思っても航空母艦などにお金がいって、結局記念艦になるしかなかったのではないでしょうか。 実は、この近代改装された大和の姿は『平成complex(1)』の絵も参照にしています。この『平成complex(1)』は、『平成イリュージョン』と同一の設定をさらに拡大し新たなストーリーを盛り込んだ作品なのですが、この作品や『平成イリュージョン』の中で気に入っている「空と海の狭間で」の紹介&解説、そして憲兵隊に対する解説と私の持っている雑感については字数がソロソロ限界にきましたので、次回にまわします。それでは!
2006年09月26日
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はい、では今日は日曜日に予告したように日曜日、昨日まで愛知県美術館で開かれていた、私の所属する書道研究会、このような集まりを「社中(しゃちゅう)」と呼んでいるのですが、の展覧会に出品した私の作品の紹介と解説をしていきたいと思います。まずは、私が出品したのが下の作品です。この作品は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」という中国、唐時代の高名な書家である顔真卿(がんしんけい)の草稿を臨書したものです。まぁ、作品の写真を観ていただければ分かると思いますが、前の讀賣展に出した作品とは違って、今回は行書でかいていますので、ところどころに「この字何?」というような読めない漢字があるので、どんな漢字で書いてあるのかを紹介してみましょう。維乾元元年歳次戊戌。九月庚午朔三日壬申。第十三叔銀青光祿大夫使持節蒲州諸軍事蒲州刺史上輕車都尉丹楊縣開國侯眞(卿:これは作品に書かれていません)と、白文にするとこのような内容の漢字が連なっているわけです。でも、これでは漢文をしっかり勉強した人ではないと分からないので次に、書き下し文を紹介してみます。維(こ)れ乾(けん)元元(げんがん)年(ねん)歳(さい)次(じ)戊(ぼ)戌(じゅつ)、九月庚午(こうご)朔(さく)三日壬申(じんしん)、第十三叔(しゅく)・銀青光祿大夫・使持節蒲州諸軍事・蒲州刺史・上軽車都尉・丹楊縣開國侯、眞(しん)(卿(けい):これは作品に書かれていません)で、この文章の意味はと言いますと、訳しようが無いのですよね、これが・・・。なぜならまず「維乾元元年歳次戊戌。九月庚午朔三日壬申。」までは年号と日付、次の「第十三叔(しゅく)・銀青光祿大夫・使持節蒲州諸軍事・蒲州刺史・上軽車都尉・丹楊縣開國侯」までは全て役職名だからです。「軍事」とか三国志などをかじっている人には「刺史」とか「都尉」などの単語から推察できるかと思いますが、これらは朝廷の序列や武官の役職名です。私はこの作品を最初から書いたので、日付と役職名のところだけで終わってしまって肝心の草稿の内容の部分まで書いていないので、この文章・草稿がなぜ書かれたかを簡単に説明して、お茶を濁しておきます。まず、最後の「真卿」はこの文章(作品)を書いた顔真卿本人を指します。では、なぜ顔真卿がこのような草稿を書いたかといいますと、まず文頭にある「乾元元年」とは西暦758年になります。この頃、唐は玄宗皇帝の楊貴妃への寵愛から引き起こされた政争(楊貴妃の甥で宰相の楊国忠と、これまた楊貴妃に取り入り三度にわたって節度使:辺境異民族の襲撃に備えて国境沿いに配備された募兵集団の指揮官、となった安禄山(あんろくざん)との対立)がついに755年「安史の乱」という形で安禄山が唐王朝に対して叛旗を翻し都である洛陽を占領、玄宗は楊貴妃と共に四川省に落ち延びる途中で、兵士の反乱にあってその兵士らの要求に従い楊貴妃を殺害せざるえなくなってしまいます。そして楊貴妃の死後、玄宗は失意のうちに皇帝を退位、この安史の乱は以後763年に平定されるまで続いたのです。この「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」その安史の乱の最中に惨殺された顔真卿の甥である顔季明(がんきめい)の霊に捧げた祭文なのです。ですので「甥(姪)を祭る」という意味で「祭姪文稿」という題名が付いたわけです。この時、顔季明は役職名からもお分かりのように官軍の武官でした。ところが武運拙く賊軍の手に囚われ、その挙句に父親の目の前で賊軍に首をはねられるという悲劇に襲われた悲運の人物です。私がお手本にした『中国法書選(41)祭姪文稿・祭伯文稿・争坐位文稿』(二元社、1988年)の解説には父親の目の前で首をはねられた甥への「悲憤やる方なき顔真卿の激情が、筆端にほどばしり出ている」と表現されています。実際に書いてみて、結構難しかったです。とくにいつも楷書を中心に書いている人間にとっては・・・。という感じで「芸術の秋」という事で二度ほど趣味の書道について今、私がどんな作品を書いているのかを再確認(&復習)する形で簡単に紹介してみました。書道や活字離れ云々のお話は前回の讀賣展の紹介の際に書きましたので、ここでは書きません。関心のある方は、讀賣展の記事の方を読んでみて下さい。ただ、書道の作品にしろ、絵画・彫刻などの美術全般の展覧会や博物館や美術館の常設展示に寺社仏閣などの御開帳などの芸術作品を直接自分の目で観た時に言えることですが、写真では分からない「生」の迫力といいますか、実物の作品を観てみると学校の教科書や資料集、図書館の写真集や作品集などでは分からない独特の雰囲気が味わえます。折角の「芸術の秋」なのですから、お近くで展覧会が開かれていたり博物館や美術館が近所にあるという方は、そういった芸術作品を観て自分の感性を養うというのは如何でしょうか?社中展の会場の様子です。
2006年09月25日
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今週は、非常に多忙でブログもコメントへの対応ぐらいしか出来ませんでした。それもこれも全て「芸術の秋」のおかげです。学校のほうでは、体育祭が土曜日に終わって(未だに土曜日に体育祭をやるなんて田舎ですよね)、次は文化祭です。おまけに、文化祭の後には図書室の年間最大のイベントのひとつ、読書週間がやってきます。体育祭関係でもテーマコーナーを作って一段落つく間も無く、秋のテーマコーナーと読書週間への対応とてんてこ舞いです。読書週間への対応としては、年間の貸出ベスト10の発表や、クラス別の貸出冊数のグラフの作成、読書週間にはお馴染みの「図書館クイズ」等の準備に図書だよりの増刊もしなくてはならないのでさぁ大変!で、読書週間に向けて生徒のリクエストから選書したものを図書担当に見せたら、また例の如くゴネゴネを起こしてくれまして、あ~中学生が読む本ではない、遊びの本はダメ、教育上好ましくないだのと、東野圭吾さんや京極夏彦さんの作品までも槍玉に挙げてくる始末・・・(乙一さんの作品ならまだ理解できるのですが。それよりまだ、ライトノベルについてああやこうや言われる方がマシです)。あなた、本当に本を読んでいるの、と疑いたくなるような発言まで飛び出し、頑固な中年オバサンを相手にしていては仕事も進まないので、結局奥の手を使って(教頭先生と前任の図書担当の先生に仲介入ってもらって「これまでこのようにしてきたから」という前例を持ち出す形で決着したのですが、それでもブウブウ文句を言っていました。よっぽど自分の教育方針というか、教育に対する信念に自身があるのでしょう。歪んだ信念ほど恐ろしいものは無いのですがね。歴史が証明しているように)難局切り抜け、無事、書店へ発注をかける事ができました。実は、先週中に発注かけないと本の装備や登録などの時間を考えるとギリギリ間に合うかな?って所だったのですよ。この不毛で無益な行動の為に鬱が悪化、家に帰ったら風呂に入って食事して、雑務を片付けてメールをチェックしたらお仕舞い、おやすみなさい状態になってブログの更新が出来なかったのですよね。その次が、この前のブログで書いた書道関係のお話です。先に書いた雑務というのも書道関係のお話の事で、実は20日の水曜日から今日まで愛知県美術館で、私の所属する書道の研究会の展覧会が開かれていたのですよね。で、17日は讀賣書法展の祝賀会で、アルコールを胃の腑にいっぱい溜め込んで帰宅して月曜日は半死半生状態で、なんとか火曜日には復活してブログを更新できたのですが、その後は選書でもめてしまい、気力が失われてしまい、お休みのはずの土曜日は展覧会の会場当番で、それが終わってから夕方からは歴史関係の研究会に出て(研究会の後は必ず食事会になってそこで再び議論するんですよ)帰宅したのは終電に乗っての午前様。そして今日は今日とて、朝の6時に起きて名古屋の先生のところへお稽古へ行き、それから16時からの会場の片づけを行い、その後は当然打ち上げの「飲み」です。17時頃から飲み初め、2次会を挟んで21時ぐらいまで飲んでいました。他の方々は3次会へ行かれたのですが、さすがに明日、アルコールの臭いをさせて学校に出るわけにはいかないので、私は2次会で逃げてきました。で、こうして寝る前に日曜日までに起こった出来事に関して毒を吐いて、心機一転、明日からの仕事に取り掛かろうと思ったわけです。まぁこんな感じで、先週の日曜日から今日まで「芸術の秋」に関する様々な事象に追い掛け回されていた、というか振り回されていたわけなのですが、月曜日からは多少は余裕が出来そうなので、普段通りの更新が出来るように善処したいと思います。という感じで、明日は今日まで開催されていた社中展の報告をしてみたいと思いますので、ご期待下さい。〈おしまい〉
2006年09月24日
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今日は、17日に讀賣書法展の表彰式と懇親祝賀会が開かれる前に、名古屋栄の愛知県美術館のギャラリーと、同じく名古屋丸の内の愛知県産業貿易館で開催されていた、讀賣書法展中部展に入選した私の作品とについての紹介と解説を書いていきたいと思います。これが私が今年度、第二十三回讀賣書法展に出品して入選した作品です。作品に用いた詩は南宋の時代の文人、江端友(こうたんゆう:生卒年未詳、一説に、卒年を1134年、享年を60歳とする説があるそうです)の作で題を「牛酥行」(ぎゅうそこう)と言います。牛酥(ぎゅうそ)とは牛乳を煮詰めて抽出した油脂の事で、バターに似たものです。当時としては高級品だったそうです。で、この詩の内容なのですが、まず書き下し文を書いてみましょう。客 有り 客 有り 長安に官せり牛酥百斤(ひゃくきん) 親自(みずか)ら煎(に)る道を倍にして奔馳(ほんち)す 小師(しょうし)の府塵(ちり)を望みて 且(まさ)に帰軒(きけん)を迎えんと欲す守コン(しゅこん) 呼びて語る 必ずしも出ださざれ已(すで)に人 有り 第一に先に居る其の多きこと 乃(すなわ)ち復(ま)た此れに倍し台顔 顧視(こし)して 初め怡然(いぜん)たり昨朝 献ずる所 第二と雖(いえど)も桶(おけ)は純漆(じゅんしつ)を以ってし 麗(うるわ)しく且(か)つ堅(かた)し【上の作品で書いたのはここまでです】今 君 来ること遅く 数も又(ま)た少なし青紙(せいし)もて題封(だいふう)するも まえに勝(まさ)り難しと持ち帰りて 空しく遼東(りょうとう)の豕(いのこ)たるを慙(は)ずるも努力して 明年には頭市(とうし)に趁(はし)らんさて、これだけでは何のことだか検討がつかないですよね。では、現代語訳を書いてみましょう。《牛酥のうた》 客が来た、客が来た。洛陽のお役人だ。牛酥百斤をご自分で煮た。馬を駆って倍の速さで小師様のお屋敷に駆けつけ、お帰りの車をお出迎えしようと、その車の立てる砂ぼこりを望み見ている。 門番はそれに呼びかけていう。「献上したって無駄だよ。もう一番乗りの人がいて、その量はあなたの倍はあった。殿様のお顔は、それを見て初めは喜ばれていた様子だった。ところが、昨日の朝届けられたのは、二番目ではあったけれども、入れ物は上等の漆塗りの桶で、色は鮮やかなうえに丈夫なものだった。今あなたは、届けるのはおそく、数も少ない【上の作品で書いたのはここまでです】。青紙で包みに名前を書いてあるだけでは、前に届けられたものにはとてもかなわないよ」と。 そこで持ち帰って、むなしく自分の世間知らずを恥じた。よし、来年はがんばって、一番に駆けつけてみせよう。つまり、この「牛酥行」は当時の役人世界の醜態を描き出した詩なのです。詩の解説文では「言葉遣いはなかなか歯切れがよく、諷刺した事柄も、おそらく前人の詩が描いていないもののようである」とあります。私がこの視を選んで抱く品にした理由は、この作品のような楷書の書体が書いてある字典、梅原清山著『北魏楷書字典』(二元社、2003年12月)に載っている字が多かった事と、詩の内容そのものが面白かったからです。ちなみにもう少し詩の内容を説明しますと、「小師」とは宋の皇帝徽(き)宗に寵愛されていた宦官の梁師成(りょうしせい)のことで、彼は当時、宰相と変わらないほどの権勢をほこり、「陰相(いんしょう:陰の宰相)と呼ばれていたそうです。そのため、役人は上から下までみな彼に贈り物をしてご機嫌を伺ったのです。この詩は、そうのような当時の状況を面白おかしく描き出した詩なのです。また、「守コン(コンとは門構えの中に氏と日が重なって入っている字なのですが、書き込むとエラーが出るのでカタカナでごまかします)」は門番のこと、「初め怡然(いぜん)たり」とは梁師成は元々一番最初に届けられた贈り物(牛酥)をとても気に入っていたが、二番目の贈り物を受け取ってみると、最初の贈り物が平凡なものに思えてしまった、という意味だそうです。そして、「空しく遼東(りょうとう)の豕(いのこ)たるを慙(は)ずる」とは、後漢の時代の書物に遼東(今の遼寧省東南部)に1人の男がいて、家のメスブタが1頭の「白い頭のぶた」を生んだので、これは非常に珍しいブタだ、よし、貢物にしようとして献上しようとしたのです。ところが、河東(山西省西部)まで来ると、目にするものはみんな「白い頭のブタ」ばかりで、がっかりして帰った、という故事のことです。以上の文章は、私が作品を書くときに参考にした銭鍾書・宋代詩文研究会著『宋詩選注』(平凡社、2004年1月)参考に書きました。ちなみに作品は、こんな感じで愛知産業貿易館の1階の入り口から入ってすぐ左手側の目立つ位置に展示されていたので、びっくりしました。どうでしょうか?漢文や古文、書道は堅苦しい、難しい、というイメージをお持ちの方。実は、私たちはこんな面白い内容、役人が権力者に賄賂を贈る事を諷刺した詩など、昨今の社会にも通じる面白い内容の作品を書いているのですよ。他にも、金子みすヾさんの詩を調和体(漢字かな雑じりの読みやすい、普通の文章を筆で書いた作品)なども増えてきていて、 「書」の世界は身近なものとなってきています。昨今、世の人は活字から、そしてモノを書くことからも離れてきています。字を書くことは頭にとっても精神にとっても大変有益なことだと思います。どうでしょう?秋篠宮さまの新宮さまのお名前、悠仁親王殿下の命名の儀で漢字に関する関心が高まっている今、少し漢和辞典などを紐解いてみて自分の名前の漢字を調べてみるとか、久しぶりに、鉛筆やボールペン、万年筆などでよいですから横書きではなく、縦書きで文章を書いてみるようなことをしてみては。意外な発見や、新鮮な驚きがあるかもしれませんよ。
2006年09月19日
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今日は、最近読み込んでいる本について簡単に紹介してみたいと思います。その本とは、この私のブログを来訪する方々の3分の1は聞いたことはあるであろう、「戦争」というきわめて複雑である「現象」を、政治的で社会的な要因を含めて総合的に考察し、理論的、体系的に解説した偉大なる古典『戦争論』を分かりやすく解説した良書、川村康之著『クラウゼヴィッツの戦争論』(2004年8月)です。出版当時、本屋の店頭では見かけたことがあった本なのですが、本の表紙に「絵と文章で分かりやすい!」という文句と、「図解雑学」というふたつの文句に惑わされて、最近になるまでページを開いたことが無かった本でした。ところが昨日、近所の公立図書館へ仕事帰りに立ち寄った時、新しく購入されたのか国防・軍事の39の書架にこの『クラウゼヴィッツの戦争論』があったので、何気なく手に取って著者名を奥付で確認してみたら川村康之先生となっているではありませんか!川村康之先生とは、防衛大学校の教授で戦争史と戦略思想史がご専門です。しかも、防衛大学校を卒業後、陸上自衛官として奉職され、その途中でドイツ連邦軍指揮大学を修了、一等陸佐で退官後も文官として防衛大学校の教授として教壇に立たれているという筋金入りの、そして日本を代表する「戦争学」の第一人者であり、クラウゼヴィッツ研究の権威でもあります。私は、川村先生の著書として先に編著になりますが『戦略論大系(2)クラウゼヴィッツ』(芙蓉書房出版、2001年)を読んでいたのですぐ「あっ、この先生の書かれた本なら内容はしっかりしているわ」と思って借りてきて読んでいるのですが、これがドンぴしゃりの大正解だったのです。『戦争論』を一度でも紐解かれた方ならお分かりになると思いますが、原典は非常に文章が難解であります。素人さんやただの興味本位で読もうと思われた方々は、この文章の難易度の高さにあえなく挫折された方々が多いと思います。私も大学院時代にどうしても通して読んでおかないといけない事態に陥り原典を読んでみたのですが、内容を理解しきれず、先に紹介した『戦略論大系(2)クラウゼヴィッツ』を読んでようやく内容を大まかに掴む事ができました。で、それ以上は深く読み込む必要はなかったので(専門は海軍史だったので、その次により重要なジェミニとマハンも読まなくてはいけなかったので・・・)なんとなくウヤムヤのうちに『戦争論』は私の頭の中にしまい込まれていたのです。ですが今回、『クラウゼヴィッツの戦争論』を読みながら手元にある中公文庫の『戦争論』を読んでみると意外なことに昔読んだ時に「難解だ」「意味がよく掴めない」と思った文章がすんなりと読んでいけるのですよね。これはやはりクラウゼヴィッツの『戦争論』を専門に研究されている川村先生が『戦争論』の述べている理論を神髄を抽出し、さらにそれを分かりやすく解説されているからなのでしょう。また、第6章の「『戦争論』を理解するための時代背景」や第7章の「クラウゼヴィッツの生涯」で『戦争論』誕生の背景を分かりやすく紹介して『戦争論』理解の一助となされている事が大きいと思います。私は、先の『戦略論大系(2)クラウゼヴィッツ』では、本論ばかりに目がいってそうした『戦争論』誕生の歴史的背景を斜め読みしただけだったので(読むべきものが多すぎてあの当時は、こうして斜め読みして都合の良い部分だけを論文に取り入れてしまい、口頭試問で冷や汗を掻く羽目になったものです・・・)今回はその部分も要点をしっかり押さえて原典を読むことが出来たので、理解が進んだのでしょう。また、『クラウゼヴィッツの戦争論』の第8章「『戦争論』の与えた影響」と第9章「現代に生きる『戦争論』」では、クラウゼヴィッツの死後から今日に至るまでの『戦争論』と題して普仏戦争から第二次世界大戦、そして米ソの核を持ったにらみ合いの冷戦、ベトナム戦争などを経て今日の「テロとの戦争」に至る「戦争」で『戦争論』がどのように、正邪問わずに用いられてきたのかを紹介し、また、『戦争論』の理論を用いて今日までの「戦争」を簡単に解説して、現在の国際社会が抱える問題に『戦争論』がどのような役割を果たすかを分かりやすく論じられています。この『クラウゼヴィッツの戦争論』は、原典の『戦争論』に挫折された方や、読む時間が無いという方、これから『戦争論』などの戦略理論を学んでみよう、読んでみようという方におススメの1冊です。それから、もしこの本を読んでみてクラウゼヴィッツに関心のある方は以下の本も手に取ってみられると良いのではないでしょう。 私は、ジョミニの方が分かりやすかったのですが、これは出版当時からそのように世間から受け取られていたようで、難解なクラウゼヴィッツに対してジョミニの方がやっぱり人気があったそうです。なぜなら、ジョミニは戦争を政治的・社会的背景から切り離してナポレオン戦争に関して図式化された解釈(要するに戦争に勝利するための方法論・勝つための幾つかの法則を抽出したもの)を提供した本だったからだそうです(で、軍人にとっては戦争にすぐ役立つ戦術理論のほうが「哲学的」な『戦争論』のような戦争理論より重要だったのです)。川村先生はクラウゼヴィッツの理論を「What is War」型、ジョミニを「How to Win」型と説明されています。詳しくは、『クラウゼヴィッツの戦争論』を手に取って読んでみてください。これらを説明するとまた疲れますので。では今日はこの位で。
2006年09月15日
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久方ぶりの更新となります、はい。え~、土曜日の日記に書いたように遅れて私の身体を襲撃した夏風邪と持病の鬱のダブルパンチを受けて、日・月・火曜日とへばっていましたが、何とか復活いたしました。月曜と火曜は何とか学校へ出勤できたのですが、帰路は本屋へも図書館へも寄れず、真っ直ぐ家に帰って夕食を取ってからさぁブログを更新しよう、と思って管理画面で親しい方々のブログを2、3閲覧しただけで目が疲れてしまい、パソコンを見つめる気力が失せてしまいそのまま寝床へ入ってしまっていました。ですが、今日はこれまでの養生の為か、それとも風邪薬を飲まなくてよくなったのが良かったのか、昼頃から体の調子も上向きとなり、帰りに図書館によって面白い本がないかと物色して見つけたのがこの杉本恵理子・文『戦場に行った動物たち』(ワールドフォトプレス、2006年1月:表紙画像なし)です。私がこの本を手に取ったのはいつものように、図書館に入って新着本コーナーを覗いてから、2類の歴史の書架を眺めてから3類の政治や国際問題関連の書架をチェックして(戦争と関連する本が置いてありますのでね)、本命の39の国防・軍事の書架を漁っていた時、偶然見つけたのです。この本でまず目に付いたのが表紙です。表紙画像が楽天ではないので残念なのですが『戦場に行った動物たち―きっと帰ってくるよね』という表題の下に、第1次世界大戦時の西部戦線で撮影された1枚の写真が掲載されています。本文中でも見開き2ページで紹介されているこの写真には、写真の左下半分に羊の群れが写っていて、もう右半分にはイギリス陸軍の歩兵部隊、徒歩の歩兵と騎乗した将校たちが移動する様子が写っています。写真の解説には「第一次大戦中、食用の羊を連れて、フランスの田舎町を移動中のイギリス陸軍歩兵部隊。土煙を上げて行進する一行の右手には朝露に濡れて青々と輝く牧草地が広がっています。」(注:写真は当時のものですから当然、モノクロです)と書いてあって、その下に1段落空けて少し小さな文字で「昨日までのどかに草を食んでいた羊たち。囚人のようにうなだれて前線に続く道を行きます」と作者の写真を見た感想が添えられています。表紙には写真の下のほうに「WAR ANIMAL」と書いてありますが、この写真を見て私が思ったのは、銃を肩に背負って行進する兵士自信に満ちた剽悍な顔や自信に満ちた笑みとは対照的な羊たちのうなだれ追い立てられる姿です。この部隊と羊たちの行く前線は『西部戦線異状なし』(ドイツ側から見た作品ですが)で描かれた「地獄の塹壕戦」です。兵士たちには、戦闘では重砲の弾幕射撃に、機関銃の魔の十字砲火が待ち受け、普段の塹壕での生活では泥にまみれた不衛生で何の娯楽も無い、まさにこの世の地獄のような戦場が待ち構えているのです。そして、羊たちはそんな生き地獄を味わう兵士たちの唯一の娯楽、食事に供されるために連れて行かれます。羊たちには確実な「死」が待ち受けていますが、兵士たちにも不毛な塹壕戦での「死」が待ち構えているのです。このように有史以来、多くの戦争で人間以外の無数の命が生き、死んで行きました。軍馬として騎兵の足となり砲兵の大砲を曳き、そして物資を運ぶために利用された馬。帰巣本能を利用され、伝書鳩として貴重な情報文章を脚につけて方翼を失い、銃弾を3発も浴びながらも司令部へ情報を携え戻ってきた鳩。水中音波によって物体の位置を正確につかみ素早く深く潜れる能力を買われて機雷探査の任務に付いたイルカ。頭が良くて力持ちなゾウはその器用さから「頭脳と技術をもつ土木工兵」として、また物資の運搬や荷役作業に動員されました。そしてこれも物資の運搬のために徴用されたロバ、幸運にも部隊のマスコットして可愛がられたヤギや犬、猫にサルやヒヒたち。そして戦後の冷戦時代、航空機・宇宙開発のための生体実験用に利用された子熊や核実験の生体実験のために使用されたブタやウサギたち・・・。このように、彼ら動物は人間のためにさまざまな仕事に就かされたのです。動物たちを戦場に連れ出し、役割を与えたのは人間です。視力、聴力、嗅覚、スタミナ、スピードなど、人間が持ち得ない能力を備えているという理由で。動物たちはただ無心で、足元の地面を踏みしめ、兵士たちと並んで歩き、息を弾ませ、与えられた仕事をやり抜きました。そして、あるものは戦場で人間と同じようにその命を落としたのです。戦場に駆り出された動物たちのその懸命な姿、まっすぐなまなざしは百の言葉より雄弁に戦場の悲惨さを語ります。この本では、戦場に消えたもの言わぬ命の輝きを、第1次世界大戦名から第2次世界大戦、そしてイラク戦争までの軍事目的で使用された動物たち70点余りの記録写真で再現するフォト・ドキュメンタリーです。今日でも先に紹介したイルカの例を挙げるまでもなく、有名なところではアフガン戦争の時、アメリカかイギリス軍の特殊部隊が馬に乗って移動する様子が放送されました。また、軍用犬という形で日本でシェパードが航空自衛隊の基地の警備にあたっています。そうです、現在でも動物たちはその能力を生かして「活兵器」(旧軍での用語です。意味は生きている兵器、つまり軍馬などの事を指しました)として活躍を続けているのです。色々と紹介&開設したい箇所が山ほどあるのですが、今日は1点だけ紹介して終わりにしたいと思います。それは、おそらくフランスの西部戦線でのひとコマだと思われる見開き2ページの写真です。その写真の説明は「水辺に作られた囲いで馬を休ませます。兵士も煙草やパイプをくわえてひと休み。賢い馬ほどストレスを感じやすく、戦争神経症にかかります。馬にも癒しの時間が必要なのです」と書いてある後に、また1段落空けて小文字で「戦闘中、恐怖のあまり冷や汗をかき、動けなくなる馬もいました」と解説が入れられています。それにしても、馬も戦争神経症に罹るとは・・・。人間と同じ生き物なのですから当然と言えば当然なのでしょうが、私は今までそんな事はまっく考えた事も無く、新鮮な驚きを持って解説を読みました。しかし、写真を見てみるとフランスの森林地帯の中で、囲いの中で馬がのんびりと草を食み、囲いに腰掛けたイギリス軍の兵士たちが、見開き左手に流れる川を背に左から上着を脱いでパイプをくゆらせる兵士。次は、馬の手綱を持って馬を見つめる兵士。右端の兵士は、柵に腰掛けながら煙草をくゆらせスケッチブックのようなものに何やら書いている様子です。場所は明らかに前線からかなり離れた後方で、歩兵部隊の輸送用か砲兵部隊用の曳き馬だと推察できます。なぜなら、写真の兵士たちはみなゲートルを巻いているからです。騎兵部隊なら、皮の長靴を履いているはずですからね。話は少しずれますが、第1次世界大戦中、英仏両軍は塹壕戦を突破した後に敵を追撃し戦果を拡大するため、騎兵部隊を塹壕の後方地区に配備していましたが、ベルギーなどの一部地域では戦線を浸透して後方の飛行場を荒らすドイツ騎兵部隊に対抗するために活動したぐらいで、騎兵本来の活動は出来ませんでした。普通の歩兵と同じく徒歩で前線に投入された部隊が大半で、笑えない話としてフランスのある騎兵部隊は「騎兵の魂を忘れないように」と騎兵用の槍だけでドイツ軍へ突撃をかけたと言う逸話が残っています。まぁ、重砲弾でグチャグチャに掘り返され、ぬかるみだらけの塹壕と塹壕の間では騎兵を乗せた馬は満足に動く事が出来ず、ドイツ軍のシュパンダム製マキシム機関銃に馬もろとも蜂の巣にされるのがおちだったでしょうから、馬の犠牲が無かっただけでも良かったとしましょう。最後に、戦場で役目を終えた動物たちの運命です。軍馬などは本国へ連れ帰ったり、現地の農家で引き取り手がある場合もありました。これは、牛やヤギ、ロバも同じでした。でも、悲惨な例としてはイギリス軍が物資不足の折に馬を銃殺して食肉として処理したり、または戦場に置き去りにされ、死を待つしかなかった動物たちもいたのです。しかし、部隊のマスコットとして戦場で兵士を慰めてくれた、ウサギや猫、犬などは法律の問題やそして何より軍規の問題で連れて帰れない動物たちをこっそりとダッフルバックの中に入れて、祖国へ連れ帰った兵士もいました。このような、お話は珍しい話ではなく、部隊によっては上官の黙認の下、かなり大きな動物も兵士と一緒に連れて帰ることができたという逸話が残っています。戦争と言う惨劇の中での、ひとつの救いですね。作者、杉本さんはこう述べられています。「命あるものどうしが戦場という非日常の場面で交わるとき、そこにはさまざまな物語が生まれます。語られざる動物たちの物語は、共に戦火をくぐり抜けた何百万、何千万もの兵士の数だけ存在します。それは美談でもなければ珍しい奇談でもない、戦争の中で起きた事実なのです」と。この本を読んで、本当の戦場とはどのような場所であったのか、そしてその戦場で兵士たちに寄り添った動物たちの真実の姿とはどのようなものであったのかを、見てみて下さい。この本には姉妹編として私は読んでいませんが河村希代子・文『戦場の犬たち』(ワールドフォトプレス、2006年1月)も出版されているそうなので、あわせて読んでみると面白いと思います。〈終〉
2006年09月13日
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ついこの前、水曜日までカラッとした日差しはきついけれどもさわやかな風がふいていた9月の秋空が急に7月の梅雨明け後のジメジメとした蒸し暑い天気になってしまったので、元々暑さと湿気に弱い(お前は、古書か!というような体質ですね)持病が一気に悪化、おまけに季節はずれの夏風邪まで病んでしまい、木曜日は半休(学校という職場はある意味、便利な職場です。保険の先生などがいるところがね)を取ってフラフラになりながら学校帰りに幼い頃からの掛かりつけの医者の所へ寄って、薬をもらい(鬱の薬との関係で、薬剤師さんに要らぬ手間をかけさせてしまいました。そのため、薬を待つ時間の長かったこと)、家に戻ってそのまま病床へ。金曜日も実力試験中なので気兼ねなく休みを取って1日寝ていて、今日の夜になってようやく復活したわけです。で、今回の風邪の症状なのですが、多少の熱やお腹にくる風邪なら本を読んでゆっくり過ごすのですが、具合の悪い事にダイレクトに頭、つまり頭痛に襲われたため本が読めませんでした。本当に、今回は本当に頭の中で教会の鐘が鳴っているような、『史上最大の作戦』や『パリは燃えているか』の映画に出てくるリンドンリンドンなるベロの付いた鐘が頭の中で鳴り響くような酷い頭痛でした。でも、頭痛に悩まされていても寝れない時は寝れないもので、ガンガンする頭を抱えながらどうやってこの暇な時間をつぶそうか、と考えたわけです。目を通すモノはダメなので、結局、音楽を聴くより仕方がありません・・・。そんなわけで、金曜日と今日の目が覚めている時間は手持ちのCDを聴いて暇を潰していました。そこで、今日は簡単に金曜日と今日、聴いたCDを簡単に並べてみます。 この2つは、楽天ブックスで買ったばかりです。通勤途中で聴こうと思っていたのに、病床で聴く羽目になるとは・・・。お次はこちら、 こうして見てみると、梁邦彦さんの音楽が多いですね。それにしても、『十二国記』や『彩雲国物語』は中華風ファンタジーですが『エマ』は19世紀ブリッティシュ・ロマンス。よくもまあ、これだけ世界観の違うアニメのサントラを見事に作り上げたなぁ、と感心するばかりです。『彩雲国物語オリジナルサウンドトラック1』には、他の2作品と違って随分と「遊び」というのでしょうか、多国籍的な雰囲気、古典的な二胡を使った中国風の音楽から、ピアノを使ったジャズ風の音楽まで幅広く取り込んでいて、聴いていて楽しかったですけどね。他には、諌山実生さんの『恋愛組曲 One and Only Story』やヨーヨー・マの『エンチャントメント~魅惑の響き~NHKスペシャル「新シルクロード」オリジナル・サウンドトラック』などなど。 しかしまぁ、CDをご愛用のノートパソコンに入れて聴いているうちいつの間にか寝てしまっていたのですがね。でも、このCDの顔ぶれを見ると大体私の好きな音楽が見えてくるのではないでしょうか?と言っても好きな映画やアニメなどのサントラが大半なのですがね。という次第で、頭痛が治まり昼間寝すぎて目が冴えてしまったので簡単に日頃どんな音楽を聴いているか紹介してみました。あまりパソコン画面を見つめ、キーボードをうっていると頭痛がぶり返してきそうな気がするので、今日はこの位で。
2006年09月09日
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奉祝秋篠宮妃紀子さまが本日、親王殿下をご無事に出産なされました。万歳!万歳!!万々歳~!!!です。これで、皇室はご安泰です。今日、学校に出てきて図書室で朝の貸出を終えて、朝の打ち合わせに出て図書室からインターネットを開いてみたらニュースで「紀子さま男子ご出産」との速報が出ているではありませんか!早速、B4の紙2枚を貼り合せた物に筆と墨で黒々と「秋篠宮妃 紀子様 親王殿下ご出産」と書いて、図書室前の廊下に貼り出しました。一種の壁新聞ですね。生徒の評判も上々でした!やはり、情報はスピードが命です。それにしても、皇室ではじめての帝王切開によるご出産で、色々と心配事がささやかれていましたが、無事に本日午前8時27分、入院先の東京都港区の愛育病院で、身長・48・8センチ、体重・2558グラムの親王殿下をご出産されました。なんと、皇室での男子誕生は秋篠宮さま以来41年ぶりとなり、皇位継承順位は皇太子殿下、秋篠宮殿下に次ぐ第3位となり今上陛下の弟君、常陸宮殿下は皇位継承順位が第4位となれます。そして、今上陛下、皇后陛下にとり皇太子家の長女愛子さまに続く4人目のお孫さん(さん、とは京言葉で「様」のことで、昔は敬称だったのです)となります。そして、私的には何が嬉しいかと言いますと、あの小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が拙速に出した報告書に沿った皇室典範改正作業を見直す方針を政府が固めたことです。世界で一番長く(最古の女帝、推古天皇から数えても約1400年の歴史があるのですよ!)皇統が脈々と受け継がれてきた男系男子が皇位を継承してきたという日本の伝統と歴史を、西洋に見習って「厚意の安定的な継承」という安直な理由で女系天皇も認めようとするなど言語道断な話です。最も、私は歴史的事実から男系の女性天皇は認めるけど、あくまで男系男子優先で皇位継承を、という考えの持ち主です。ここ最近、暗いニュースばかりで沈みがちだった世相に、久々に明るい話題が登場して、一服の清涼剤となりましたね。この「紀子さま男子ご出産」というニュースは即、外電を通じて全世界に流され、世界各国でトップニュースで流されたそうです。少し笑ったのが、中国国営放送もトップで男子ご出産のニュースを報じた事でしょうか。共産主義が国是の国の国営放送が君主制国家、しかも日本の皇室のニュースを流すなんて良いのかな、おかしくないかな、と少し考えてしまいました。でも慶事だから細かい事はまぁ、良いでしょう。そんなこんなで、今日は簡単に「紀子さま男子ご出産」について、感想を書いてみました。最後になりましたが、紀子さまご無事のご出産、本当におめでとうございます!そして秋篠宮両殿下も親王殿下もお体をお大切にお過ごし下さい。〈ついでに〉先ほどまで、サッカーアジアカップ最終予選、イエメンvs日本戦を観ていました。いや~、凄い試合でしたね。あらゆる意味で。結果は後半ロスタイムに途中交代の我那覇選手がゴール前の混戦からボールを押し込み、土壇場で1対0で日本が勝ち点3を手にする事が出来ました。こちらも万歳~!です。でも辛勝でしたね(冷汗)。何しろ、試合が行われたのは標高2千メートルの高地で、酸素が日本と比べて75%しかない所なんだそうです。しかもピッチがこれまた凄まじい荒れ具合で、何処の牧場?と言った様なボコボコでプレーリードックが顔を出してもおかしくないようなピッチでパスしたボールが弾かれる始末。おまけに、ピッチの広さが狭くて本当に劣悪な条件の中でよく勝ってくれました。試合終了後の惜しむオシム監督のコメント「サッカーではなく何か別の作業をしに来たようだった」「アジアサッカー連盟は競技場の状態を整える努力をすべきだ」という発言があったくらい、凄まじい競技場でした。でも、前半・後半にアレだけ得点チャンスがあったのに、点を入れられずに、ロスタイムで何とか得点できる状態とは・・・。釜本みたいなストライカーが、やはり日本代表には必要ですね。あと、本当は海上自衛隊の大湊総監部でミサイル艇から20ミリ機関砲(射程距離約四千五百メートル)弾10発(実弾4発、訓練弾4発、えい光弾2発)が作動確認をしている最中に誤射された問題などの解説&感想を(例えば、弾丸が飛んでいった先には弾薬補給所があったりとか)を書いてみたかったですけど、止めておきます。なにしろ、おめでたい日なのでね。
2006年09月06日
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今日は、9月1日の『半休取って『ゲド戦記』を観に行きました。』に「この『ゲド戦記』に関するお話、もう少し書き続けていきたいと思います。」と予告した『ゲド戦記』に関する「雑感」を書いていきたいと思います。今回のテーマは「奴隷問題」についてです。『ゲド戦記』の映画の中でも印象深い場面としてホートタウンの奴隷たちの様子や、奴隷を取引する様子、そしてアレンが人買いのウサギ一味に不意を突かれて奴隷として囚われ、奴隷運搬車の中で手枷首枷をはめられた状態で気が付き、ハイタカの魔法により助け出される、といった奴隷にまつわる場面があります。実際、原作の『ゲド戦記』の3巻の方でも、『さいはての島へ改版』で、奴隷運搬船が登場しますし(奴隷運搬船、というとどうしてもアレグザンダー・ケントの書いた『海の勇士・ボライソー』シリーズに出てくる18世紀前半の西アフリカからアメリカ大陸へむかうの奴隷運搬船とそれを阻止・拿捕する英国海軍の活躍を思い出してしまいます。詳しくは『大暗礁の彼方』などで「半顔の悪魔」と奴隷商人に恐れられたタイアック艦長の活躍を読んでみて下さい。)、もうひとつの原作と言ってよい『シュナの旅』でも人身売買の様子が描かれています(というか、牛に似た駄獣に引かせた奴隷運搬車や、都城での人身売買の様子などはそっくりそのまま映画の元ネタになっています)。この奴隷制度・人身売買といった人間がいかに悪魔に近い存在になれるかを証明するかのような「制度」は古代文明、メソポタミアの時代から18世紀のアメリカや西インド諸島でのプランテーションでの奴隷売買・労働、さらにアメリカ南北戦争を経て何と、現代まで延々と続いているのです。人身売買に関しては、国際条約により禁止されているはずなのですが、あの手この手で法の裏をかき、あるいは堂々とこの私たちが生きている21世紀の時代にも行われているのです。実は、この映画『ゲド戦記』を観る前に1冊の本に目を通していたのです。その影響もあって、映画に出てくる人身売買の様子や奴隷の姿に敏感に頭脳が反応してしまったのかもしれません。その本とはメンデ・ナーゼル・ダミアン・ルイス著、真喜志順子訳『メンデ奴隷にされた少女』(ソニーマガジンズ、2006年7月)です。←表紙は単行本(ソニーマガジンズ、2004年10月)のものです。この本は著者であるメンデ・ナーゼルが生まれ故郷のスーダンの中部の山岳地帯に住む少数民族、ヌバ族の出身です。メンデが12歳のとき、彼女の住む村がアラブ人の民兵に襲撃されて、彼女は民兵に囚われ奴隷として売り飛ばされてしまうのす。それまで、彼女は私たちと同じように学校へ行き勉強をして、家の手伝いをするといった普通の生活をおくっていたのに、突然、1983年にから続くスーダンで起きた内戦のあおりを受けて、北部のアラブ系イスラム教徒から長く差別されてきたヌバの人々は、政府軍(アラブ系主体)から武器を供与された民兵(ムジャヒディン)の理不尽で残酷な襲撃(大人は虐殺、幼い子どもはアラブ系の富裕層へ奴隷として売り飛ばされる)を受けることになり、メンデもその犠牲者のひとりとして、人間としての尊厳を踏みにじられる奴隷生活を送ることになってしまうのです。アラブ系の奴隷商人の下から、見知らぬ都会でアラブ人家庭の冷酷な女主人(人間はどこまで残酷になれるのか、よく理解できました・・・)に文字通り、朝から晩までこき使われる奴隷の日々。寝起きするのは物置小屋で、食事は残飯だけ。病気になっても医者を呼んでもらえるわけもなく、いつ、女主人の理不尽な暴力を受けるのかと恐怖怯え、孤独と絶望感に何度も押しつぶされそうになりながら、彼女はある日、女主人の妹の住むイギリスへと送り出されます。ここで驚きなのは、女主人の妹の主人がスーダン政府の外交官であることです!そして、そこでも奴隷として日々、ただ黙々と働かされるメンデ。彼女はヌバの少女としての誇りとイスラム教への信仰心(アラーの下ではイスラム教徒はみな平等なはずなのに、黒人というだけで・・・)を最後まで失わずに、12歳から6年以上も、ただひたすら逆境に耐え抜き、2000年9月11日、ロンドン北部の緑豊かな郊外の路上で、ついに自由の身になったのです。しかし、奴隷の身から解き放されたメンデを待ち構えていたのは、英国政府への煩雑な亡命申請と脅迫、そして「自由な生活」への恐怖でした。この「自由への恐怖」こそが、奴隷として支配される本当の恐ろしさ、無給労働や肉体的虐待ではなく、自分の意思で何かを選んで行動する事、自分で判断することすら禁じられた生活をおくってきたため、「ひとりで行動する恐怖」からなかなか抜け切れなったこと、自由を自由として享受できないほど人間の尊厳を踏みにじられることである、ということをメンデは教えてくれたのです、と訳者の真喜志順子さんは、述べられています。宮崎駿監督の描いた『シュナの旅』でも、シュナが人買いの車を襲撃し、「たとえ一生追われる身となっても自由を望むものは出てくれ」と言って奴隷たちを開放しようとした際に応じたのは、ふたりの姉妹だけで、残りは報復を恐れて立ち上がろうとしませんでした。また、これとは少し意味が違うかもしれませんが、映画『ゲド戦記』でも、ハイタカがアレンを助け出した際に、他の奴隷たちに対して「鎖は解いた。あとは彼ら次第だ」と言ってアレンだけを助け出したのも、心までも奴隷とされた人間の面倒までは背負えない、というハイタカの考えのように感じました(冷酷であり、且つ適切な判断とは思いますが。現実の世界としても、ハイタカひとりではアレンだけしか面倒を看きれませんからね)。そんなわけで、映画『ゲド戦記』の背景にちらつく人買い=人身売買というのが頭のどこかに引っかかっていて、モヤモヤッとした映画に対する感想を抱いたのかもしれません。最後に、この人身売買はメンデの場合のようなあからさまな「奴隷売買」という形ではなく、強制動労や性的搾取などを目的としたものが、スーダンのようなアフリカ諸国・第三世界に限らず、我国・日本をはじめとする先進諸国でも横行している現状を知っておいて下さい。文庫版「訳者あとがき」によりますと、国際労働機関(ILO)の報告では、世界中で毎年240万人以上が人身売買の犠牲となり、そのうち18歳未満の子どもの数は半数の120万人と推定されています。この事実を重く受け止めなくてなりません。とくに、日本はこのような人身売買に関しては先進諸国の中では最も「甘い」国として、国際社会から非難され、入国管理を厳しくする新しい法律が作られたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。映画『ゲド戦記』の中で、人身売買の市場や奴隷運搬車の中でうなだれている無気力な奴隷たちの姿は、形を変えて今日でも続いているのです。そんな事を、映画を観終わってからウンウン唸りながら映画に関する感想を書いている時、ふと奴隷売買の場面と『メンデ奴隷にされた少女』という本を読んだ内容とが結びついて、今日の日記の文章となったのです。最後に、私なら人身売買をするような輩は18世紀の英国海軍がやっていたように帆げたから即効で吊るしてしまいますね。人の尊厳の奥底まで踏みにじって金儲けをしたり、快楽を得ようとする奴らは犬畜生に劣ると、私は考えます。そういう連中をもっと厳しく取り締まって、昔みたいに裁判なしでの帆げたでダンスを躍らせるまではいかなくとも、極刑にちかい処罰を与えるべきですね。民主主義国家を自称するのであれば。どうも、我国は人身売買、とくに女性に関しては江戸時代から緩い所があるものですからね。メンデの幸福と、他の奴隷として扱われている人々の解放を願い、それらを支援する人々に感謝の念を心より捧げて、今日は筆を置きます。〈終わり〉
2006年09月05日
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はい、今日は夏休みに貸出した本の整理と修理、そしてまた対人関係のゴタゴタ疲れているので、9月1日に映画『ゲド戦記』を観に行って、その感想をダラダラと書いた続きの『雑感』を書く気力がありません。ですので昨日、例の如く名古屋へ書道のお稽古へ行った帰りに買った本と、今日、楽天から届いた本とCDをザッと紹介してみたいと思います。まずは、日曜日に買った本からいきましょう。最初は、このブログでも以前から何度も取り上げている、日本を取り巻く海洋に関する危機、竹島や尖閣諸島問題などの国境問題に、日本の重要なシーレーンである東南アジア海域での海賊問題などで紹介&解説をした日本財団(日本船舶振興会)広報チームリーダーで東海大学海洋学部非常勤講師である山田吉彦さんの新刊『海賊の掟』(新潮新書、2006年)。この本は、ブログで紹介した『海のテロリズム』(PHP新書、2003年10月)の続編的性格を持ちつつ、古今東西、海のあるところ常に存在した海賊たちのギリシア神話の時代から現代に至る歴史を解説した1冊です。『海のテロリズム』の続編的性格とは、第1章の「現代に生きる海賊」の中で、マラッカ海峡での海賊の現状についての最新情報が紹介されているからです。でもまあ、現在の海賊というのは、狙いを定めた貨物船を襲って金品を強奪する昔ながらの海賊から、石油タンカーに突撃・自爆するイスラム過激派の海上テロ。そして、組織資金源に船長以下乗組員を誘拐して身代金を要求するテロ集団やゲリラたちに、積荷を船ごと奪い去り積荷や船までブラックマーケットで売りさばく国際的な犯罪集団などなど。経済危機に宗教対立、政治問題など(インドネシアです、このような問題を抱えているのは。だから日本は巡視船をODAで買ってあげたわけなのです、マラッカ海峡の治安を維持するために)世界の混迷は海にも「ならず者」を暗躍させているわけです。偽装船で現われ、強力な武器で襲撃、多国間にわたり逃走、シンジケートや村ぐるみでの犯行など、その手口はますます巧妙・凶悪を極めていましたが、近年、東南アジア各国と日本の協力により、マラッカ海峡での海賊事件は減少傾向にあると、『海賊の掟』には書いてあります。でも、別の東南アジア海域やイスラム原理主義の新たな温床、ソマリア周辺の海域では海賊の活動が活発になっているそうです。次は、内容がガラッと変わって雪乃紗衣さんの『彩雲国物語』の最新刊、『彩雲国物語(紅梅は夜に香る)』です。お話の内容は、茶州から王都へ戻ってきた秀麗嬢。しかし、茶州での事件を解決するために相当な無茶をした責任を一身に背負わされ、高位から身分は一転して冗官(最低の官位)に落っことされて、しかも登城禁止の上に謹慎処分という不遇を背負ってしまいます。それにもめげず、街で自分にできることを探し始めた頑張り屋さんの秀麗は、胡蝶姉さんのお店でとんでもない事件を見つけてしまって・・・。毎度お馴染みの王様・劉輝(リュウキ)に絳攸(コウユウ)・楸瑛(シュウエイ)に胡蝶姉さん、幼馴染の三太こと慶張といった王都組に、茶州編からは悠瞬とその奥方柴凛(シリン)さん、それに初登場にして物語の鍵をなぜか握っているヘンテコな貴族の坊ちゃん、蘇芳(ソホウ)ことタンタンくんに、猪突猛進美女歌凛(カリン)さんなどなど。ザッと斜め読みしただけでも面白いこの『紅梅は夜に香る』。茶州編に続く新章の初巻にふさわしい飛ばし方です。もっと、読み込んでからこのお話については感想を書きましょう。さて最後は、訳有りな1冊です。実は、本当は今日届いた楽天ブックスの商品を一緒に注文した時に在庫なしで注文が取り消されてしまって三省堂やら紀伊国屋のHPの商品検索でもヒットせず、やっとマナハウスに在庫があって店頭で買ってきた佐藤賢一原作、野口賢作画『傭兵ピエール(1)』(集英社、2004年3月)です。このコミックは佐藤賢一さんの原作『傭兵ピエール』(集英社1996年2月、ちなみに私は文庫本の方の『傭兵ピエール(上)』・『傭兵ピエール(下)』〈集英社文庫、1999年2月)を読んだのですが)をコミック化したものです。内容は、英仏百年戦争下の荒廃したフランスが舞台です。主人公ドゥ・ラ・フルトの私生児ピエールは冷酷非情で「シェフ殺し」(シェフ=傭兵隊長のこと。シェフ殺しは傭兵稼業の中ではご法度であったのに、ピエールはわずか15歳の時に計画的にそれを実行してしまっていた)と呼ばれ同業者からも畏怖される若き傭兵隊長です。その彼は、略奪の途上で不思議な少女に出会い、心奪われてしまいます。彼女は言います「私は神に使わされたのです」と。そして「戦争がはじまったらオルレアンに来てください」と。そして1429年、天下分け目のオルレアンの戦いに参加したピエール。しかし戦況はフランス軍に不利だったが、そこに歴史に名高い一人の救世主が現れフランス軍は船橋を打開しオルレアンはイギリス軍の手から開放されます。その救世主の名はジャンヌ・ダルク。彼女の鼓舞は将兵たちを奮い立たせ、フランス軍は破竹の勢いで反攻していきついにランスにて王太子シャルルをフランス王として即位させます(当時、フランス王はランスの大聖堂にて戴冠式を受けなければ、正式なフランス王として認知されなかったのです)。しかしパリ攻略の失敗のあとフランス軍は解散、ピエールもジャンヌを残して戦場から去っていきます。2年後、イタリアのジェノバの傭兵隊の略奪から救ったの南仏に小さな街、アランヴィル(物語の最初に略奪を働いた街なのですが、その時さらった娘たちとピエールの傭兵たちとの仲が、ジャンヌの信仰心の影響で結婚という段階まで行っちゃって解散後にまた舞い戻ってきたわけなのです)に街の守備隊長として逗留の彼のもとに、さる貴族からの依頼が舞い込みます。それはイギリス軍にノルマンディー地方のルーアンに捕らえられ、魔女裁判を受けるジャンヌを救出せよというものだったのです!というところまでが、コミック化されている部分です。 で、今日楽天から届いたのが『傭兵ピエール(2)』(集英社、2005年5月)と『傭兵ピエール(3)』(集英社、2006年5月)の2冊というわけです。 で、次はCDの話といきたいのですが、ちょっと書くつもりが随分と書き込んでしまいましたので、今日はこの辺でやめて、キチンと登録してから寝たいと思います。最近、ちょっと横になると朝までご就寝、というパターンでブログを書いてたはずなのに、知らない間に横になって寝ていて、気が付いたら夜明けだった、という事が多々あるので慎重を期してこの位でやめておきます。それでは、みなさま、おやすみなさい。
2006年09月04日
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はい、今日は本当なら2学期の始業式なのですが、週休2日制とゆとり教育のため授業時間を少しでも増やす対策として、前期・後期制となっているので夏休み明けの集会と各クラスごとの学活だけで終わりです。それなので、朝の学活前と放課後の返却が済めば後は、図書委員さんと書架へ本を戻すだけ(破損本は当然、抜き出して準備室いきですが)なので、午後から半休を取って、銀行と郵便局での用事を済ませた後、ひとり寂しく映画を観に行くことにしました。今日は1日、ファーストディなので、1000円で映画が観れますものでね。で、『ゲド戦記』観てきました。観終わった感想は、「真面目に作った少し小難しい映画」と言ったところでしょうか?あまり、小さなお子さん向きではありませんでした。何だか最近のジブリ作品は年齢対象が段々と高くなっているような気がします。今回の『ゲド戦記』はちょうど中学生ぐらいからの子どもが見ると良い映画かな、とも感じましたね。正直な話、前作の宮崎駿監督の『ハウルの動く城』が、私好みの作品だったので、どうしても今回の『ゲド戦記』は点が辛くなりますね。ただ、これまでアニメーション映画を作ったことがない人が初めて監督を務めて仕上げた作品としては及第点です。でも、これは原作、ル=グィンの『ゲド戦記』シリーズの作品の素晴らしい内容と、父・宮崎駿監督が描いた『シュナの旅』の2作品があったからこそ、ここまでの仕上がりになったのでしょう。それと当然、スタジオジブリのスタッフとプロデューサの鈴木敏夫さんの力と支えがあった事も作品の出来に大きく貢献していることでしょう。この『ゲド戦記』を観て思ったことは、あぁ、原作の「美味しい所の切り取りだ」という印象です。一応、メインはシリーズ3巻目の『さいはての島へ改版』なのですが、4巻目5巻目、そして外伝までの見せ場を随所に取り入れて映画を作っているな~、という点です。でもこれは、悪い事ではないと思います。原作を一通り目を通してから映画を観ることの楽しみのひとつですから。ただ、問題なのは、そのような仕掛けを使いすぎている感があると感じた事です。例えば、ハイタカ=ゲドとテナーの関係、映画でテナーはクモの配下の人狩りのリーダー、ウサギ(このキャラはかなり面白いと思いましたね。何処にでもいるような、虎の威を借りる狐さんと言った単純なキャラで)の一団にさらわれクモの城の地下牢に閉じ込められた時につぶやいた「こんな暗いところにいると、墓所にいた頃を思い出すわ」(という様なセリフだったと思うのですが)なんて、前作でハイタカによってテナーが少女の時にアチュアンの墓所の巫女として仕えていたところを救い出されたエピソードを知っていなければ「深み」は出てきません(ハイタカに助け出されたの、とテナーがアレンにハイタカとの関係を簡単に説明するシーンがあることはあるのですが)。さらに、クモがなぜハイタカに復讐しようとしているのかも、昔の恨み、魔法を使い人が望むままに死者をよみがえらせていたクモを、師である魔法使いまでよみがえらせたクモに激怒したハイタカが黄泉の世界との境界線まで泣き叫ぶクモを引っ張り込んだこと。この事で、クモは改心して西に向かって旅立ったはずなのですが・・・、といったエピソードもさらっと流されてアレ?と思ってします。要するに、原作全6巻を読んでいないと映画を良く理解できないと感じました。そして、映画を観て疑問に思ったことや、関心を持った人は原作を読んでみてね、といった、何と言うのでしょうか、そういった印象を受けました。そして、そういった私が映画を観て感じた感想は当たり前といえば当たり前なのですが「あぁ、これは宮崎吾郎監督が『ゲド戦記』全巻を丹念に読み込み、3巻目の『さいはて島へ』に監督の『ゲド戦記』の世界観を集約したものだな」ということです。さらにそこへ、父・宮崎駿監督の影響+スタジオジブリのアニメ作りの雰囲気が加わり、最後に、初監督という重圧と気負いからなどが影響し合い、なんとく映画からのメッセージが希薄なものに私には感じられたのです。ただ、映画としての「絵」は今回も素晴らしかったです。とくに印象深いのは「雲」の描き方です。個人的な思い込みかもしれませんが、父・宮崎駿監督の作品は「青い空」「透き通るような青空」が中心で雲はなんだか描かれる空の脇役的な印象がありました。でも、今回の『ゲド戦記』たそがれ時や曇り空、雨降りの情景などで随所で美しい「雲」が描かれていると感じました。そして、夜空。ハイタカとゲドが出会って野宿した時の宝石の散りばめた様な星空も綺麗でしたね。それから、風景がこれまでより洗練されていると感じました。砂漠から緑のある風景へと移っていく過程での風景、緑の草原や木々の細かな表現や立体感、そしてホート・タウンの町並みの描写などは上手いな~、と思いました。前作の『ハウルの動く城』よりも何というか建物や木々、草原といったものが立体的に広がりを持って本物のように描かれているような気がしましたね。そのように、背景はスタジオジブリのお家芸+造園作家である宮崎吾郎監督の立体的に空間をイメージできる技術で相変わらず素晴らしいもので、観ていて「まるで印象派の絵画のようだな~」と思いました。しかし、映画自体のストーリーは何だか鏡の表面をツルツル滑っているような感じで深みがなくキャッチコピーの「見えぬものこそ」そのものでしたね。なんだか、映画を観て観た人の心の中になる「見えぬもの」とは何か考えてくださいね、というような映画でした。映画の予告に「人々は/せわしなく動き回っているが/目的は無く、/その目に映っているものは/夢か、死か、/どこか別の世界だった。/人間の頭が変になっている」とあります。いぜんNHKで番組で鈴木敏夫プロデューサーが「映画とは世相を写す鏡だ」といったニュアンスの発言をされていました。そういった意味からも、父王を刺し、己の不安を糧に成長した影に追いかけられるアレンや、生に固執し、他人の死や苦しみを踏みにじるクモ、ホート・タウンの退廃的な様相は、現代の日本の「おかしな」世相を表現しようとしているのかもしれません。最後に、映画のパンフレットに書いてあった鈴木プロデューサーの『ゲド戦記』を制作を始める時のエピソードを紹介して終わります。みなさん、承知のとおり父・宮崎駿監督は息子・吾郎さんが監督をするなんて「経験が一度も無い奴に、いきなり映画を作らせるのは無茶だ。鈴木さんは、どうかしている」といわれたそうです。至極な当然な発言ですよね。でも、鈴木プロデューサーは『紅の豚』(私の大好きな作品のひとつです)の場面を思い出していたそうです。その場面とは、ポルコ・ロッソ(鈴木さんは「監督に似ている」と書いています)が自分の飛行艇を修理をしに馴染みの飛行機製造会社へやってきた時、修理の設計をするのが若い女設計技師、フィオであることを知ると、修理を断ろうするポルコに、フィオが大切なのは経験かインスピレーションか問いかけます。すると、ポルコはこう答えます。「インスピレーションだ」。あの鬼の様な鈴木プロデューサーは、ジブリ美術館などでの宮崎吾郎さんの仕事振りなどを総合的に判断されて『ゲド戦記』の監督に抜擢したのでしょうね。でも、勧める方も勧める方ですが、引き受けた宮崎吾郎さんの決断にも凄まじきものを感じますね。素人が、スタジオジブリやその他のアニメーションに関する、百戦錬磨のスタッフをひとつにまとめて映画創りを行っていくのですからね。ですので、この『ゲド戦記』に関するお話、もう少し書き続けていきたいと思います。私の「インスピレーション」を刺激してくれたのでね。その意味では、私にとっては色々と物ごとを考えさせてくれる面白い映画だったわけです。
2006年09月01日
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