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とにかく、 がんがんプリントアウトし、 製本作業。今のうちに時間をかせげるだけかせいで。連休のほとんどを使えば、なんとかなりそうな気配。以前に文句を言ったキャ○○のプリンター君も、一度に紙を厚く入れなければ紙送りの不調は起こさなくなり申した。何事にも、相手(?)のクセを知ることが大切・・・・かな
2007.04.30

とにかくまぁ、いろいろなことが起きて・・・・午前中はカミさんの車のタイヤをノーマルに換える。例年なら3月にスタッドレスからノーマルに換えるのだが、今年は、催促されつつも、何だかんだで今になってしまった。一汗かくが、それでまた昼飯が旨くなる自分の車のタイヤ交換はまだ済んでない。連休中にやろう。昼飯のあとは病院に寄ったが、親父はよく眠っていたので、そのまま教室へ。新学年用の新テキストのプリントアウト, 製本。本当はとうに済んでいなければいけないのだが・・・・このGWの連休は、ホントに神の助けと言えるか。まだ終わってないいろいろな雑務をここで一挙に片付けられそうだ。いや、やらなくちゃならん。数学講座関数編のPC版修正は=3時間目=があと少しで終わる。文理版よりも更に見やすく、使いやすくした。自分のPC技術も、一太郎・花子の使いこなしに関してだけは、随分進歩したものだ。まっ、これだけは自分を誉めよう。 この4月から三重県に引っ越した元塾生のお母様から、今朝、なんと 松坂牛のお肉 が大量に届いた。お肉が、タケノコの皮で包まれた、正真正銘の松坂牛。 うっ うっ うっ ・・・・うわ~、うれしくて涙が出ます。 カミさん、そして肉好きの娘も大感激で、 ↓↓↓↓二人して写真に撮っておりました。 ありがとうございました~ にぁ先生に相談にのっていただいた子です。にぁ先生、 そして超~肉好きの超~先生、 そしてご覧の皆さま、 お裾分けできずにすみませ~ん 我が家だけで今夜いただきま~す スタミナつけて、頑張りま~す \(^o^)/
2007.04.29
やっぱちょっとしんどい数日が続きそう。親父の入院は、落ち着くまでは、けっこう 「あれ持ってかなくちゃ!」、 「これ持ってかなくちゃ!」 になる。午前はそれに割くことになり、そのあと塾で仕事。土曜日は生徒が早く来るので、全く余裕なし。その上、今日に限って勉強応援掲示板に大量の質問が入った。自分の担当は2件かな。時間を小刻みに使い、レスアップ。こんな記述をするにもこの時刻。
2007.04.28
今日のミユキ、 英語の質問がバカスカ。ミユキ : 「先生、またバカな質問ばっかりするけどさぁ。」 I want to be a teacher.ってさあ、 I want to become a teacher. じゃいけないの? 私たちはみんな、テニスが好きです。 なんでAll of us like tennis.になるの? 「彼は野球をする」がどうして命令文にならないの? ・ ・ ・ ・ ・ そっか、ありがとう先生。 バカな質問たくさんしてごめんね。私 : いや~、ミユキ、お前は偉い。 難しい質問や小利口な質問なんて、お猿がするもんだ。 そんな質問の解説や答えは、だいたいどこかの本に載っている。 バカな質問ってのはね~、 自分で最初から考えたやつにしかできないのさ。 お前は、ほんまによくなってるわい。 半年前、来たばっかの時には、なんも質問して来んじゃった。 なんか小難しいことを、たまにきいてきたよな。 最近の質問攻めは、お前が自分の頭で考えて、「わからん!」ってことばかりだ。 ほんま、 ええぞええぞ。ミユキ : 先生、それ、誉めてんの? けなしてんの?私 : 心から誉めとるんさ~。 先生はうれしくてうれしくて。隣にいた入ったばかりのH子。安心したようにきいてきた 先生、斑状組織はどうして結晶がまばらなの? 「急激にマグマが冷えると、ある種の造岩鉱物だけしか結晶に成長しないから」 って書いてあるけど、それはどうして?あっちのコバちゃんが呼応(?)して、 先生、古代文明はなんで大河のそばでしか発達しなかったの?誰かが質問し、こちらがいじめを混じえた解説をしていると、全員が自分の勉強をしているふりをして、じつは聞き耳を立てているいや~、愉快愉快 み~んな、自分の勉強しているところから、素直に疑問に感じたことをそのままきいてくる。書いてあることは、「どっかに書いてあるから探してみな!」で済ませるが、書いてある以前のことを素直にきいてくるのがいい。入ったばかりの子は、なかなか自分の疑問を口に出せないでいるようだが、ミユキのように平気で「バカな質問だけどさ~!」と言える子は、とても貴重だ。ミユキ、 いつもいいムード作りに協力してくれて、 ありがとな
2007.04.27
今朝5時に寝たら7時半頃電話で起こされた。今朝早暁、親父にちょっとしたトラブルで先ほどまで入院の世話につきっぱなし。更に検査した後、手術になる。親父91歳、お袋86歳。両方とも長生きしてくれている。到着した途端、早い生徒が来始めた。仕事モード突入。今日はこんなふうで、まとまった記事があげられません。余力があれば後刻何かアップします。
2007.04.27
今日は、軽い話題です。 いや、当人には重い話題かな?私の頼りになる相棒 KAZU先生 には隠れファンが多い。 “隠れファン”って? ・・・・・隠れたファンです。あ、いやっ、 リアルの世界での彼の誠実さや信頼度は抜群で、こちらは “表ファン” に満ち溢れていますが (^o^)私の言う “隠れファン” というのは、彼の楽天ブログに於いてです。ほんの時々、真面目に、切り口鋭いシリアスな記事を書きますが、その時以外は、いつも、ものすごいおとぼけぶり。読んでいて、「はぁ~↑・・・・!」 「はぁ~↓・・・・!」バカバカしいのですが、 バカバカしくない、 いやバカバカしい (-_-;;あれ、真面目な記事を書くよりも大変ですよ (-_-;;昨日のKAZU先生のこの記事。私もいつかどこかで書いたかもしれませんが、歯医者というのはいつでも怖いもの (-_-;;あの気持・・・・わかります。でもね~、うちのカミさんがいつも言っていることだけど・・・・そしてマザー先生も言ってたことだけど・・・・ 「歯だけは、自然治癒ということがあり得ないんだから・・・・」 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑ 女房族(女)だから言えることなんだよな~ (-_-;;私? ・・・・・ 勢いでコメントを入れましたが、あれは他人事だから言えること (^-^)/ 自分事だったら ・ ・ ・ ・ KAZU先生よりも ・ ・ ・ ・ もっともっと ・ ・ ・ ・ 最後まで ・ ・ ・ ・ 完全白旗挙げるしかなくなるまで ・ ・ ・ ・ 痩せ我慢して ・ ・ ・ ・ 頑強に、無駄な抵抗をします。 ・ ・ ・ ・ 頑張れKAZU先生 (どっちの方向かは知らんぜよ) !!
2007.04.26
ギリシア哲学についてネット検索をかけていて、ちょっとおもしろいものを見つけた。ギリシア哲学そのものについて書かれたものではないが、阿刀田高『詭弁の話術』(角川文庫、1997年十一版)阿刀田高氏の本は以前に数冊読んだことがあるが、この本は読んだことがない。氏の著作は多方面にわたり、高校入試や大学入試でも使われたのを見たことがある。小論文を必要とする高校生や、必要としなくても、論理的思考を身につけたい高校生にはお薦めだ。さて、この紹介文では途中にこんな記述があった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼詭弁と論理 「詭弁」には一般的に悪いイメージが伴う。 ・・・・・・・・( 途中 略 )・・・・・・・・ しかし、ギリシア哲学が詭弁とともに発達したように、詭弁とは使いようによっては 良くも悪くもなる説得方法だ。さらに言えば、言語というものが抱える伝達能力の限 界を考えると、われわれの言動を通じての意志伝達には常になんらかの詭弁が不可避 的に入り込むことになる。本書はまず、詭弁は誰もが意識的にも無意識にも使ってい る、本来無価値的なものだということを多様な例から実感させる。そして、さらにそ のメカニズムを知ることにより、詭弁から見を守り、また、良い詭弁を自ら用いるこ とができるよう読者を訓練する。 ・・・・・・・・( 後 略 )・・・・・・・・~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~たしかに詭弁には二種類あると思う。1つは、話者(書き手)が気づかないうちに使ってしまっている詭弁。もう1つは、意図的な詭弁だ。また、詭弁すべてが悪いとは言わない。冗談の多くは詭弁で成り立っている。このような詭弁なら、かえって人間関係を円滑にする。詭弁のための詭弁と言えば、あの 「アキレスは永遠に亀に追いつけない」 とか 「放たれた矢は、永久に的に到達しない」 などが有名だ。この結論がおかしいことは幼稚園の子にもわかる。“事実はそうでない!” ということが、経験的事実としてはっきりとわかるからだ。しかし、“ではその事実に反する論理のどこがおかしいのか?” と言ったら、話者が呈示した前提に乗っかる限り、この論法(論理の運び)自体には矛盾がなに1つないから、論者の論理の運びに沿って考えていたら、おかしなことになってしまう。“詭弁と感じるかどうか” がまず問題であり、それにはその論理運びとは離れて、“結果が事実に合っているか?”そうでないと感じたら、“論理運びの中のどこに、事実に反するつまり必然関係にない推論が含まれているか!?”の検討に入れば良い。詭弁に対しては事実をもって反論するのが一番の早道であり、それに対して実態に合った事実で再反論してこれないのは、意識的な詭弁家だと言って差し支えないだろう。事実と離れて単なる言葉の範囲だけでやりとりしていたら、巧妙な言い回しに駁論するのは極めて難しく、しまいには『言葉遊び』の様相を呈して嫌気が差す。氏の本の紹介文を読んで、ふっとそんなことを思った。高校生諸君、阿刀田高氏の本は、一度は読んでおいて損はないよ。
2007.04.25
昨日のTちゃん。うちの塾では、小学生はよほど学力的に問題がある場合以外は、小4まではお断りしている。昨年の夏にお申し込みをいただいたが、この4月まで待っていただいていた。遠くから、電車を使ってやってくる。中学生や高校生に混じると、お人形さんのようにかわいい。初回には、別に宿題として出しておいたわけではないのに、新聞の投書写しと要約・感想をたっぷり書いたノートを持参してきてくれた。私 : 「おいおい、こんなに~!?」 「書きすぎ、書きすぎ!?」 とは言わないで、 「お~っ、いっぱい書いてくれたんだね! えらいえらい!」 「でも、こんなにたくさん書くのはたいへんだろう。 これからは週2回にしようか。」 「そのかわり、1つ1つを、今までよりももっともっと、 う~んとていねいに、心をこめて書こうね。」Tちゃん: 「は~い。」そして昨日。私 : 「Tちゃん、要約がすごく上手だよ。 こんなに難しい内容を、よくまぁこんなにスパッと上手にまとめられるね。」 「ただ、感想の方もスパッとしてる。」 『どうしてそう感じたのか?』,『どうしてそう思ったのか?』 を書いてくれると、 読んだ人がもっともっと『な~るほど!』と感心してくれるんじゃないかな。」 「Tちゃんは、思うことがたくさんあるものね~ (^o^)」Tちゃん: 「は~い。」それから算数の文章題に取り組みだした。この時は、む・む・む・む・む・・・・・という表情に変わる。何か言うと、いつも「は~い!」という、かわいい返事。この返事が、短く「はい」に変わるのはいつからになるのだろう。いつまでも「は~い!」でいて欲しいような・・・・「はい」に変わって欲しいような。何も言わないで見ているが、記念日はいつになるのかな?Tちゃんが〔感想〕でしょっちゅう書いてくる言葉がある。 「早く大人になりたい」 だ。どうしてなんだろうね?
2007.04.24
昨夜、久しぶりにまたミュージカル映画「The Sound of Music」をビデオで観た。この映画は、1965年公開。私が高校2年生、いわば青春真っ盛りの時に公開され、劇場でも何回観たことだろう。ストーリーは単純ながら、強烈な印象だった。LPレコードを姉に買ってもらい、ジャケットの歌詞を辞書を片手に全部訳していった。何度も何度も歌った。今でもこの映画の曲は全曲英語で歌うことができる。この仕事に就いてから、歌詞の一部を授業で使うこともある。中学生の理科の光合成のときなど、いつも持ち出すのは、「Maria」の一節。 ♪“ How do you hold a moonbeam in your hand ? ”♪・・・(実際に歌う) 太陽の光のエネルギーは、 そのままではこの歌のように、捉えておくことができないだろう。 これを保存が効くようにできるのは植物だけなんだぜ。 植物はどんなメカニズムでそれをやるか? ・・・太陽電池のようなことを、葉緑体という工場で、こんなメカニズムでやるのさ。 材料としては根から吸い上げた水H2Oと、空気中の二酸化炭素CO2だ。 簡略化された光合成の化学反応式(高校でやる正式なものとは異なります)を見てみよう。 6H2O + 6CO2 → C6H12O6 + 6O2 さあ、こんなことをしてブドウ糖(C6H12O6)を作り出すんだが、 単純な化合物である6個のH2Oと6個のCO2から、 複雑な化合物であるブドウ糖(C6H12O6)1個を作り出す意味はね、 エネルギーを “保存が可能な形に変える” ということなんだよ。 「光のエネルギー」を、「化学エネルギー」、 その中でも「化学結合エネルギー」に変えるということなんだ。 植物は、こうして光のエネルギーを ブドウ糖という化合物の中に「エネルギーの缶詰」としてためこむ。 そして、自分の生長、生命活動にそのエネルギーが必要なときには、 その缶を取り壊し、中のエネルギーを取り出すことが必要になる。 それが“呼吸”さ。 光合成のときと同じく、これも各細胞で化学的に行われる。 “化学反応”という形をとるんだ。 そうすると、この光合成の化学反応式と逆の反応になるだろう。 光合成のときは、6個の酸素は “いらなくなった余り物” だから捨てた。 しかし呼吸のときは、缶詰のブドウ糖だけでは左辺のような形には分解できないよな。 光合成のときには捨てた6個の酸素がまた必要になる。 呼吸では酸素が必要になるのは、そういうことさ。筋だけ語ればこんなふうになるが、生物単元でもこれだけの化学単元や物理単元などを持ち出してくる。そしてそれぞれの解説を加え、そこに生徒への“質問攻め…といういじめ”の時間を加えると、光合成をメインテーマにした授業で小一時間で切り上げるのはちょっと難しい。でも、理科の各テーマを有機的に理解させるのにはとても適したテーマだ。いやいや、そんなことを書きたいのではなかった。私があの多感な時代に最も心にしみたのは、マリアが修道院に逃げ帰ったときの修道院長がマリアに言い聞かせるために歌い、そして最後のアルプス越えのときに混声大合唱で締めくくられるこの歌、 『 Climb Every Mountain 』 だ。あのときは、自分の人生の指針、「とにかく何でもやってみよう!」だったが、今の仕事についてからは、 「子供を単なる頭でっかちにしない」、 「やってみてから考えるようにしよう」 という指針だ。歳と共に受け取り方は変わってきたが、ずっと心に一貫して生きているこの歌。私にとっては、単純な歌詞の中に、とても素晴らしいことを語ってくれている。この歌を幹とするなら、自分の人生はそれぞれに具体的な肉付けを実践を通して与えていくようなものだった。 いや、現在完了進行形ではなく、 現在進行形であり、 たぶん未来進行形でもあるだろう。 Climb Every Mountain Climb ev'ry mountain Search high and low Follow every byway Every path you know. Climb ev'ry mountain Ford every stream Follow every rainbow Till you find your dream. A dream that will need All the love you can give Every day of your life For as long as you live. Climb ev'ry mountain Ford every stream Follow every rainbow Till you find your dream A dream that will need All the love you can give Every day of your life For as long as you need Climb ev'ry mountain Fold every stream Follow every rainbow Till... you... find... your...dream!
2007.04.23

今日は一年前同様、また家族三人で桜の時期にうまい蕎麦を食べに美麻へ。去年は葉桜からつぼみまで楽しめた、片道一時間半のドライブコース。さて、今年は・・・・出発時の平地は、満開をやや過ぎて葉桜になりかかったところ。桜では私が最も好きな姿。あの桜葉の新緑と、花吹雪が舞うコントラストがなんとも言えぬ。国道19号線を犀川に沿って南下する。犀川(さいがわ)沿いは桜の名所。川沿いはすべて満開。途中で右折し、大町方面に向かう。途中、これも恒例の中条村の道の駅に寄る。ここの「にらせんべい」がメチャ旨い。味噌味、ピリ辛・・・・うむむむ・・・私には遅い朝食この辺では桜は満開前。車は大町方面から左折し、一路山に向かう。登るに従い桜は咲き始め状況に。そして目的地、「美郷(みさと)」さんに到着。桜のさの気配もない。店の裏手、山林の杉の根元・・・れれっ、雪が残っているこれが年に4~5回はわざわざ1時間半かけて食べにくる美郷さんの蕎麦。 自家栽培の蕎麦を石臼で引き、そして手打ちだ。 飾り気はまったくないが、安心できる味なんだな 山菜の天ぷら一枚が必ずついてくる。 これはふきのとうの天ぷら。近くには何故か孔雀小屋があり、その向こうには水車小屋が。 そして店の裏手の小川にはなんと水芭蕉が咲いていた。 その岸には、これまた珍しい可憐な高山植物(山野草)のキクザキイチゲが。 食べたし、目の保養もできたし・・・・帰りはまた来た道をバック。つぼみ → 咲き始め → 満開 → 葉桜 を道沿いに楽しむ。“今何をしてるの?”って?楽しんだあとは、教室に来て仕事ですよ。教材のプリントアウト・・・・大量に待ってますので (-_-;;
2007.04.22
高校が大学区制度になってから数年。旧小学区では隣の学区で2番手だった、S高校の3年生、昨夜のN子。学校では入試向け演習講座に入っている。N: 先生、これ学校の授業でやった板書ノートなんだけど、 因数分解するときに「どれとどれをどうやってまとめたらいいのか」、 どうもよくわからない。なんでこうやればいいの?ウ: どれどれ、問題を見せい。【問題】m, nを整数とするとき、次の関係式を満たす m, n の組をすべて求めよ。 m n-3m+4n=18〔板書ノート〕 m n-3m+4n=m(n-3)+4(n-3)+12 =(m+4)(n-3)+12 だから (m+4)(n-3)+12=18 (m+4)(n-3)=6 従って、・・・・・(以下 略)ウ: おいN子、左辺を何で因数分解形にもっていくのかわかるかい?N: わからない。ウ: はぁ~・・・・・(-_-;; それから、因数分解するにしても・・・お前は3年生。 こんなふうに共通因数を作り出してやらにゃいかんのか? (-_-;; わざわざこんな〔ど基本流〕でやってたら、おっそろしく時間がかかってアカン。 見ただけで、いきなり因数分解形が出てくるようにせいよ。N: どうやって?ウ: 因数分解ってのは展開形と双方向にあるんじゃ。 “これを崩せばその形になる”というものを推理で作り出せ。 それがセンスというものだ。 (1) m n があることから、mとnを2つの( )の振り分ける (m )(n ) (2) -3m の項が出るようにするためには、右の( )に-3があればいいから (m )(n - 3) +4nの項が出るようにするには左の( )に+4があればいい。だから (m + 4)(n ) (3) 結局、 (m + 4)(n - 3) で m n-3m+4n までは出てくるんだ。 だからあとは定数項だけをつじつま合わせしてやればいい。 左辺で出てくる定数項は-12だから右辺にも-12をつけといてやる。 以上からして、 mn-3m+4n=18 (m + 4)(n - 3)=18-12 =6 なっ、見ただけでこのくらいにいくだろ! スピードが大差だ!! この後はノートと同じだ。 で、左辺を因数分解形にしたのはな・・・・・二番手高校なら、生徒にこのくらいのことができるようにしてよ。何でも公式利用とか、基本流だけじゃ困るよ、3年の演習なんだから。生徒は、このくらいは吸収消化できるような連中が集まっているんだからね。
2007.04.21

水仙、この花も私の好きな花。養母の家に行く途中の道からちょっと曲がって入っていくと、上田市(旧丸子町)に(財)信州国際音楽村があり、ここには3000平方メートルに咲く、10万本のいろいろな種類の水仙がある。水仙祭はもう終わってしまったが、行くとそれはそれは見事なものだ。水鏡に映る自分自身に恋してしまい、報われることなく憔悴し、そのままやがて死んでしまうナルキッソスのギリシア神話を読んだのは小学生の時だったろうか。ナルシストの語源だ。実家の庭には(古来の)水仙がたくさん咲いていた。結婚してからも、やはり水仙が好きで、ちょっと珍しい八重咲きの水仙2種類の球根を買い、育ててきた。水仙はどんどん数が増えていく。今朝、自宅の小花壇で撮ったもの。目に冴える白・・・(アクロポリス 八重咲き) 私の大のお気に入り。 やっぱり白系統が好き。黄色が豪華・・・(タヒチ 八重咲き) 矮性のかわいい水仙・・・(古種で名前は?) これだけは古種でもなんとなく好きで、 実家からもらってきて増やした。水仙は、一年でだいたい3倍くらいに増えていく。水仙の中国名のいわれを知ったのは、だいぶ後になってからだ。花も、そのいわれや神話を知ると、また一段と親しみが湧く。一年中咲いている花もいいが、季節季節だけの花は、特にその時季が待ち遠しい。ではまた後で本記事を。
2007.04.21

ちょっと事情があって、「目からウロコの数学講座-中学関数」のPC版を作りかえることになった。一昨日からその作業に入っている。「目からウロコ」シリーズでも、この『中学関数版』は特に思い入れが大きい。私が3年前に、それまでのワープロ専用機からPCに鞍替えしたのは、じつはこのテキスト作成のため。それまでのワープロ専用機は、業務用の40数万するものだったが、その性能よりも数段上なのがそのとき持ち込まれた中古PC。でも、使い方がまったくわからずに、初歩の初歩から会の柳沢先生のコーチを受けた。私よりも少し前にPCに鞍替えしてたのがKAZU先生だった。KAZU先生のコーチも受けた。しかしまぁ、PCの達人という人はいるんだね。ウチの会の柳沢先生はすごいと思ったが、先日ぜすと艦長のPC操作を目の当たりにする機会があり、その手際の良さ、速さはまさに『神業』に思えた。でも、超~先生からすると、それでもまだたいしたことがないらしい。あれで~!?じゃあ、神業の上って、何て言えばいいの?ふぇ~、私はワープロ機能(それも一太郎と花子だけ)しかよくわからん(-_-;;その他の機能はまだまったく素人。そのうえ、文字はひらがな入力で、とてつもなく遅い。みんなにバカにされている(-_-;;は置いといて・・・・初めはワードに文を落とすところから始め、図は、ワープロ専用機の図形機能で作ったものをスキャナーに取って貼り付け。そして花子という図形ソフトが見つかり、それで作った図をワードに貼り付け。それで出来上がったものが、初めての書店版, DL販売用版だった。PC技術も、図形作成能力もなっていなかった段階。その後、一太郎+花子にしたところ、だいぶ思い通りにできるようになった。特に「透過編集機能」を使うとかなりのことができる。この経緯は、ブログを始めたばかりの頃の、この記事に挙げた。ソフトを変えるたびにPCの性能が追いつかなくなり、Windows 2000などではPCがしょっちゅうフリーズして、半日の作業のほとんどがパァ~になるなど、お手上げのことがよくあった。この3年間でPCを何台買い換えたのか? もう忘れてしまったが、4~5台買い換えているはず。今使っているPCは故障もしないでとてもよく、気に入っている。メモリーを736MBに増設したくらいしかいじってない。いわゆる“当たり機”なのだろう。とにかく未熟だらけの時に作った「関数版」、“いずれは作りかえなければ!”と思いつつ今日まで来てしまった。新しい高校版テキストも作らなければいけないのだが(まず関数編と微分編)、迫られた事情で中学関数版の作り直しが先だ。文は旧版とそれほど変えないが、見やすくする修正と、それから図はすべて作り直す。なんとか夏までには終えたいが、頼むから雑用さんがあまり入り込まないでくれ~!昨日はここまで進めた。 今までは英語サブーノート作成にかかりきりだったが、それも終了。やっぱり数学教材を作っている方が面白い。高校数学版作成になったら、☆toshi先生☆が自在に駆使されているTeXがとても便利になるんだろうな。でも、一太郎と併用できればいいんじゃが!やるぜ~(^-^)/
2007.04.20
中3生は恒例の“修学旅行”シーズン。こちらでは、1校が先週済ませたが、残りのほとんどの学校が今週に集中している。おかげで今週の中3はガラガラ。うちは学年別システムをとっているわけではないが、やはり中3のほとんどが抜けると、寂しい感じは否めない。そして今、目立つのは高1生の高校の勉強に於ける戸惑い。特に数学。まっ、例年のことでどうってことないが・・・学校による進度の違いはもう出ている。上位高校の生徒は、展開・因数分解の難問にふ~ふ~。その下の高校では皆つまずくところが同じ。3乗公式と、( )の中の項が3つある式の展開公式だ。(1) (a-b+c)''を展開せよ。(2) (a-b)'''を展開せよ。これを次のように【基本流】でやってしまう生徒が多いんだな。(1) a-b=A と置く。 (a-b+c)''=(A+c)'' =A''+2cA+c'' =(a-b)''+2c(a-b)+c'' =a''-2ab+b''+2ca-2bc+c'' ・・・答え こんなことをやっていると、(a-b-c)''なんてように、どこかの符号を変えても、 また同様に1つ1つ置き換えでやらなくちゃいけなくなる。 おいおい、数Iでの計算は何を目的にやるのかといえば、 「公式を利用した計算的ニック」の修得だぞよ! そしてその「公式の成り立ちの理解」だ。私は高校数学では原則としてあまり先取り学習はやらせない主義だ。どちらかというとまず学校・教科書での基本学習を終えた後、あとからそれらを理屈でつなぎ合わせたり、修正する方向で持っていくことが多い。基本を習ったら、いつまでもその基本流でしか解けないというのも困りものだからね。生徒によく言うこと 【基本流】というのは、最初はとても肝腎なことだ。 しかし、いつまでも基本流でしかやらないというのも困ったものだ。 もっと工夫すれば簡単にできるように作ってある問題が多い。 そして、テストには その“基本流でやれば時間がかかるが、工夫すればあっという間に計算完了に なってしまう問題”が圧倒的に多く出題される(特に上位高校の場合)。 だから、計算問題を見たら、【基本流】はちょっと置いておいて、 【工夫できるかどうか】をまず考え、 それが思いつかない場合に初めて【基本流】に戻れ!ちなみに英語や国語では・・・・学年カリキュラムにあまりとらわれないでやっている。
2007.04.19

先にも書いたが、信州の花木は春が来ると連続して咲く杏が終わった瞬間に桜、そして連続して桃。私は個人的には白梅など、清楚系が好きだが、派手派手、ど派手な花もそれはそれで好きだ。私が思うど派手な花の代表格が、この濃いピンクの、燃えるような桃。その群落に入ると、中国古典によく出てくる「桃源郷」という言葉に託された雰囲気がよくわかる。信州川中島一帯は、武田上杉の合戦でだけでなく、おいしい桃の産地としても全国的に有名なんですぞうちのカミさんがウォーキングを趣味にしてから、 「どうせ続くまい!」 と思いながら見ていたら、なになに、どんどん嵌っていくようだ近くの千曲川の土手近辺をあちこち歩くことが多いらしいが、たいてい行った先で花の写真を撮ってくる。私がいれば、 「ねえねえ、これ見て! これ見て!」普段はほとんどいないので、きっと娘相手に同じことを言っているのだろう。だけど、そんな時の顔って・・・特にいいぜ ( これ、見ているなよ! ) で、またその写真を公開(皆さま、何度も何度もすみませんm(_ _)m)。昨日撮った写真だそうだ。咲き始めた千曲川河川敷の桃 その一部アップ写真 桃畑の全景 手前は千曲川の土手沿いに咲く菜の花。風に飛んできたこぼれ種からだろうが、近年はすっかり群落で咲くようになった。 なかなか見事ですぞ。その向こうには、川中島八幡原の甲越両軍の戦いの前哨となる、上杉軍が海津城(松代城)を見下ろす位置に長期陣取った、妻女山が見える。啄木鳥(きつつき)戦法をいち早く察知した上杉軍は、その夜追い出し軍が来る前にこの山を降りて千曲川を渡り(雨宮の渡り)、先に武田本隊が待つ八幡原に向かう。その様子をうたった漢詩が、 あの上杉贔屓で有名な江戸時代の儒学者、頼山陽である。 川 中 島 頼 山陽 「不識庵機山を撃つの図に題す」 ♪鞭声粛々 夜 河を渡る 暁に見る 千兵の大牙を擁するを 遺恨十年 一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す♪ これ、詩吟で聞くと、最高ですぞ!! あっ、うちのばあさんが詩吟できるんだった!!!
2007.04.18
考える学習をすすめる会のマザー先生が、こんな特別企画を立てました。今までにも 「子どもたちに海外でホームステイさせ、国際的視野を涵養する」 という信念を持ち、毎年春には塾生の子たちを連れて、オーストラリア, ニュージーランドにホームステイさせに行っていたマザー先生。その友人網は、アメリカ・カナダ・イギリス・トルコ・オーストラリア・ニュージーランドなど、各国に広がっています。マザー先生が実践するのは、まさに「生きた英語」。完結した「勉強法メルマガ」だけでなく、マザー先生が現在は個人で発信しているメルマガマザーテヅカの「ピカピカ英会話」! でもわかることでしょう。 さて、これまでの塾生限定と違い、今度は夏休みを利用した、それもニューヨークでのホームステイ企画です。定員5名だけ。しかも申し込み〆切が5月05日なので、急いでここにご紹介する次第。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 期間限定 特別企画 マザー・テヅカの ニューヨークホームステイプログラム 夏休みをニューヨークの一般家庭で過ごしてみませんか?~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 詳しくはこちらで。 お問い合わせ、申し込みは直接マザー先生へ。PSブックマークが多かったので、ブックマークとお気に入りでダブっていた先生たちのブログをお気に入りに統一させていただきました。これからもよろしくお願いします。
2007.04.17
ブログの右側「メッセージを送る」から、こんなメッセージをいただきました。かなり生々しい表現もありましたので、多少穏やかになるように削除や編集を加えてあります。メッセージをいただいた○○さん、 ご覧いただいていると思いますが、もしも本意からそれてしまっているとお感じになった場合は、またご連絡いただければ幸いです。訂正させていただきます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~初めまして。本名は○○といいます。 さっそくですが、今回の騒動について、率直にMr. Hot Cakeを支持します。 が、もうそろそろ潮時のような気もします。 もうこの当たりでよいのでは? 相手を許せとか言っているわけではありません。誠意ある謝罪等なければ、許す必要はないと思います。 ただ 「もうご自身のブログでは、その件を取り上げない方がよいのでは?」 と思い、メールさせて頂きました。 いきなりのメールで、しかもちょっと差し出がましい内容ですみません。 今回の騒動で、どれほど気分を害されたかは(もちろん気分だけの問題ではなく、実質的な害の方が問題でしょうが)、当事者になってみないと分からないというのは100も承知のつもりですが、メールさせてもらいました。 できればまた、普通のブログに戻って欲しいと思い、メールさせてもらいました。 お忙しいところすみませんでした。 ○○○○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~○○○○さん、実名でありがとうございました。私の思いは、直接お返事させていただいたとおりです。言論には言論をもって応えるのが、本来の姿だと思います。問題が私のことだけでしたら、私も今回のような強硬手段をとってはいませんでした。だが、同じようなことを、もっとずっと実績ある方にし始めた。教育については、アマであろうがプロであろうが、みんなが建設的な意見を出し合って語るのなら、実り多いものが生まれるはずです。しかし、プロの教育者(と自負する)なら、評論家的言辞であれこれ言うものではなく、自らの経験・実績を元に語るべきものでしょう。一般の方が発言する場合とプロが発言する場合は、違うと思うのです 「プロとしての発言をせよ。誰かを批判するなら、プロとしての内容を語れ!」そしてそれは、例え見解が異なっていたとしても、相手に対する配慮と、思いやりがある言葉遣いで、なされなければならないはず。プロとは=それで生計を立てている、ということも意味しているはずですから、相手方が実名を晒しているような場合には、特にその点にはよくよくの配慮をしながら・・・・私は、今回の出だしが、自らが至らなかったばっかりに、騒ぎを大きくしてしまったことは認めています。この一連の私の記事は、お読みいただいている方々にとって、決して愉快な、後味が良いものではありません。関係あるのかどうかは分かりませんが、今まで黙していた多くの方々が、自分の声をあげてくださるようになりました。当事者としてだけでなく、教育関係に携わる一員として、私がこのブログでこの件について直接語る意義は、もう終えたのかもしれません。私は今回の一連の記事を書くために、いろいろと調査しました。生々しすぎて引用できなかったことが、まだまだたくさんあります。それらについて、表だった言論の場に出すことが適切でないものは、ブログ上ではなく、法の裁定という場で明らかにされるでしょう。これからは、原則的には、また読んで楽しいものに戻すつもりですので、よろしくお願い申し上げます。
2007.04.16
これは昨日の日記として自分の所属する碁会所の月例大会兼、年次総会、その後の懇親会。月例大会では、役員として3ヶ月に1回、表つけ当番(対戦相手の確定や勝敗の記入, 順位の確定の仕事)が回ってくる。私は3月, 6月, 9月, 12月なのだが、3月は忙しくて当番を替わってもらった。昨日は年次総会も兼ねているので、表つけと総会のために出席。昔は日曜日や祭日のほとんど碁会所に行っていたが、今や3ヶ月に一度の当番をこなすのさえ、ままならぬことが多い。3ヶ月に一度碁石を握っていきなりの大会に出ても、成績は・・・・いいわけないよね。昨日は・・・1勝3敗。まっ、こんなもんじゃろ。そのあとの年次総会、そしてアルコールも入る懇親会。マンガ「ヒカルの碁」で子どもたちに広がった囲碁も、その後は碁をやる子どもたちの人数に翳りが見える。どこの碁会所(日本棋院○○支部)も、構成員の高齢化、人数減少は悩みの中心だ。役員改選にあたり、今年度から大の親友が新幹事長に就任した。昨日、一回戦で当たったが、私が華々しく(?)討ち死にで、負け。お互いに、それはもうひどい言葉遣いを楽しむ。 「おっしゃん、なにヘボやっとるの!」 「じじいこそなにそれ?」 「そんなこと、お互い様じゃろうが。このアホ!」 「何をこの・・・・オカンジナビア半島が!」人が聞いたらののしりあいそのもののこんな会話を、当人たちが楽しんでいる。私がこんな言葉遣いを楽しめるのも、この親友だけ。その親友が、雑用が多い幹事長・・・いろいろ協力したいが、碁会所に行く時間がほとんどとれないことがつらい。表付け当番や、何か相談されたときにはできる限りアイデアを出すとか、できる範囲で、なるたけ力になっていこうと心に言い聞かせた。その後、このおっしゃんを含むやはり親しい4人の仲間と、近くの雀荘へ。積み木はもうどのくらいぶりになるだろう。半ちゃん6回で、終了したのが今朝の5時。もう空は明るくなりかけている。はぁ~、やったやった。以上、一日をたっぷりと休養。さて、今日からまた仕事、仕事!
2007.04.15
盗用問題顛末・・・匿名ゆえの甘さ?今日の記事に書こうとしたことは、“自称”塾講師の、「ブログ記事盗用問題」についてであった。これについては、トリガーラさんが昨日のブログで1つを明らかにし、そして続いてまた他のものも明らかにした。それに対してのご当人は、反応素速く指摘されたものについての削除。 指摘したトリガーラさんにコメントを入れ、そして謝罪記事を自分のブログにアップした。このように事実を極めて手短に書くと、それは謙虚で潔い行動に見える。大人の行動であろう。だがしかし・・・・やはりその価値基準・行動基準は不可解である。ここに感じられるのは、 「謝罪さえしてしまえばいいんだろう!? あとは俺には関係ない!」 という、通りいっぺんで済ませようとする姿勢だ。謝罪とは何なのか?「罪(過ち)を悔いて謝る」ということではないのか? 「自分としては反省すべきところは反省し・・・・」 こう書かれれば、普通はそれ以上は追求しない。 反省している人間をそれ以上に鞭打つようなことは、配慮に欠けるからだ。ところが、「何が問題だったのか?」を深く考慮することなく、「形だけの謝罪文」を書いたことが見え見えなら、謝罪文を書かないよりも考慮を欠く。本人がはっきりと盗用を認めたことであるから推量では書かないが、明らかにされた1つめは「自分が見てきた」とする子供の様子に関するものだった。 塾講師(というのが本当?)という、「曲がりなりにも教育に携わる人間」が、 「子供の記事について」、「他の人の文を盗用する」こと このことがどういうことなのかという、事の重大さを認識できているのだろうか。一番問題なのは、自分の畑である教育分野について、なぜ盗用してまでの記事を書かなければならなかったのかである。私たちは普通自分の体験の範囲で書き、思うことは思うこととして書く。塾屋には塾屋の良心と魂というものがある。例え軽いことであっても、子供のことについて盗用するということはしない。誇りがあるのなら、塾屋魂に背くことはしない。それが社会に対する義務と責任だ。それに背くことをしたと認めたのであれば、「それに応じた責任の取り方」ということをふつうは考える。 そしてそのことを表明するのが大人としての責任の取り方だ。実名を晒している人間なら、このようなことをすれば、もうその業界にはいられなくなるほどのことなのである。 何よりも、親や子供から軽蔑される。ところが、よく顔を出してくる別の大人子供は、このようなことを「些細」と言い、以上のような指摘を「針小棒大に膨らませ」と言う。なるほど、世間では重大事であっても、価値基準がズレていると「些細なこと」になってしまうのか? このような指摘が「針小棒大に膨らませ」の悪意になってしまうのか? (道徳的な)誹謗中傷とは何か、(刑法上の)名誉毀損とは何か、 を知った上で言っているのだろうか? 「謝るべきは謝る、反省すべきは反省するということが大切なことと思います。」 言葉自体はとても素晴らしい。しかし「何を反省したのか」わからないような、形だけの謝罪文を書いて一件落着とし、挙げ句の果てはそれを盾に 「それができない人があまりに多いなあと思う昨今です。」と、他者批判に移るなどという言動が、果たして世間の目に妥当に映るのかどうか。謝罪者もこの論評者も、何かを忘れている。 「実名が晒され、自分の職場の人間, お客様が見ていたとして」、 それでもこのようなことをしたか? またこのような通り一遍の謝罪文を書いただけで事が収まるか? ということである。世間が謝罪文を書いて許すのは、問題がごく軽いときであり、重いときは単なる謝罪の言葉ではなく、反省が真にその後の行動に表れている場合のみである。言葉のみをもって許すということはない。今度の問題は、塾講師という肩書きをつけている以上は、その人間個人の教育に於ける良心にかかわるだけでなく、「塾講師はこういうものだ」と同じ業界の人間の評価に波及してしまう、業界全体を巻き込む重大問題なのである。そのようなことまで思いを巡らしたのか?匿名というのは、なぜ人間の判断基準をここまで甘くさせるのだろうか?なぜこうまで、いつまでも気づかないものなのか?いや、実名でも匿名でも、きちんとしている人間はきちんとした言動をするものだが。
2007.04.14
質の違いが見えない人たち昨夜、ある大人子供のブログと、そのコメント欄のコメントを高校生の塾生に読ませた。 「小論文の訓練だぞ。 要約力を鍛えなければ、『課題分を読んで自分の考えを書きなさい』という設問に 対応できないからな。 このような出題では、課題文の趣旨をいかに早く読み取り、それを踏まえた自己の 見解を論述していくかがカギとなる。 この文を読んで、一言で言えば筆者の言いたいことが何か をつかめ」 そう指示した。ブログ主が“自称”塾の講師であることは、伝えておいた。この子は国語力がかなりある子だ。 小さいときからジャンルを問わずの読書好きで、今年のセンター試験の国語でも、国立上位大学に十分合格できるだけの国語の点数を取っている。小論文訓練はまだやや不足だが、論理的思考力はかなりある。読むスピードも遅くない。待つこと15分。 もういいだろうと思い、声をかけた。 「お~い、もういいだろう。 要約の方向がまとまったかい?」と・・・・ととと・・・・まだ画面を見ている。 「ね~先生、まだコメント欄の全部は読み終わってないんだよ。 本文と、コメント欄のレスの文、ブログ主の文はとにかくわかりにくくて・・・ 入っているコメントはどれも簡潔でわかりやすいんだけどね・・・・ でもとにかくこのブログ主の文は、要約しようがないよ。 だって何を言いたいのかさっぱり見えてこないんだもの。 それから、根拠と結論がつながりがないんだよね。 こういう論法で根拠と結論を結びつけるのは、必然の関係にないから、 どれもかなり無理があるんじゃないのかなぁ。 論理力は私以下だね。 それに・・・結論までたどり着くのに、やけに余計なことまでたくさん書くね。 だから読んでいて、どれをカットすればわかりやすくなるか検討していくと、 ほとんど全部カットしなければならないんだよ。 そうすると今度は根拠がなくなっちゃうし・・・ “これが絶対的な根拠だ!”というのが何もないんだよね。 敢えて言えば「俺はこう思う!」というだけの連続なんだよ。 ねぇ、この人、本当に塾の先生なの? 塾の先生なら、もっと自分の経験を書くよね。 学校の先生ならやはり生徒さんの経験を書くよね? 根拠で一番説得力があるのは「事実」のはずなんだけど・・・ 先生は私にいつも言ってきたでしょ。「自分の経験に触れてない小論文は、 まるで駄目だ」と。 こんな文しか書けないような塾の講師なら、私なら1回行っただけでやめちゃうよ。 先生(私)とまるで違うもの。 あっ、そうか。 だから先生と違い、匿名にしてるんだ~! それから、この人は『言葉遣い』というものを知らないんだね。 目上だろうが、何だろうが、言葉の使い分けということができないし、 やたら出てくる“~w”がすごく目障り。 これで“受けてる”つもりかな~? 品の無さしか感じないんだけど。 先生は“もう1つの記事も読んでみろ”って言ったけど、ねぇ先生もう勘弁して。 こんな内容のない文をもう1つ読むのなんて、まっぴら。 ・・・・そもそも問題設定自体に意味がないもの。批判力のある高校生になると、本音を語らせた場合には、大人(?)への批評は相当シビアである。思慮ある大人が、オブラートに包んだマイルドな言い方に変換して発言するのと違い、そのものズバリを口にする。以上、今日は、ある高校生の発言をそのまま紹介。大人子供は、リアルでは一応大人に囲まれているので、回りの大人が彼をおかしいと思ってもストレートに言うことはほとんどないが、それは“自分が認められている”ということとは違うのである。大人の世界では、“言ってわかる人”と思えば言うし、“言ってもわからない人”と思われたら、もう本当のことは言ってはもらえない。だから常に謙虚である必要があるのだが。大人子供はそこに気づかずに、自分は謙虚だと錯覚する(?)。大の大人に向かって、 「講師歴20年であろうが、40年であろうが関係ない。 人間は弱いということを自覚できない者はだめなのだ。 お前はそれを自覚せよ!」 なんて不遜きわまりないことまで言ったり、強制する。一番自覚できていないのは、当のご当人である。そのようなことをあからさまに言う、高校生はそのくらい怖い存在だ。塾講師であっても、高校生の指導歴はないのかな? 高校生にもまれることもないのかな?大人の『言ってくれる人』は、本当は宝物なんだぞ。 普通は、大人子供に誤りを指摘などしない。大人相手に、まだ自分のメンツを気にする。コメンターが言外に匂わせている本意を読み取れない。これも、文章力・国語力の無さが招く不幸か!?
2007.04.13

長野市篠ノ井にある光林寺。ここには樹齢300年と言われるシダレザクラがある。信州の春は突然訪れる。春の花々は、春が来ると待ちかねたように一気に咲き出す。杏が咲いたらすぐに桜、そして燃えるピンクの桃、すぐに白く可憐な林檎の花。花木に沿いながら、もうすぐチューリップも咲き出すだろう。カミさんばかりが出てきて恐縮だが、これは昨日カミさんが撮ってきた光林寺のシダレザクラ。これでしばし目を休めてくだされ。 一服しようと思っていた大人子供シリーズ、 事情により、もうちょっと続けることにします。 急用が入らなければ、後ほどまた。
2007.04.13
大人子供の問題設定のしかたと思考回路についてNo.2で挙げたテーマをもう少し限定し、「“子供の前での”教師批判が是か非か!?」というテーマを設定したとする。教職経験者や現場教師ならば、自分が或いは同僚が、子供の前で教師批判をされた経験がそれこそ無数に走馬燈のごとく流れるはずだ。それもいろいろなケースで。親ならば、まず自分の子が先生について不満を述べ、親の意見を訊いてきたケースがたくさんあるだろう。また仲良しの他の子のお母さんから同様なことを相談されたことが思い浮かぶはず。私も塾屋として、生徒から担任批判, 親批判を何回も聞いた。親からの担任批判も聞いた。親も含めて、現場で実務に携わる人間なら、「子供の前での教師批判が是か非か!?」というテーマが一般論として推移するならば、それが如何に虚しく役立たない議論になるかを知っている。子供を中心に置いて考えるのは、普通の親なら当たり前のことだ。我が子が可愛くない親などいない。子供のために、担任がおかしなことをしたとしても少々のことなら目をつぶり、敢えて波風を立てないようにする配慮はある。それが多くの親というものだ。敢えて子供の前での教師批判を問題にするのは、批判せざるを得ないようなケースに当たったときである。学校現場では、素晴らしい教師もいれば、親たちから排斥運動が起きてあたりまえのような教師もいる。ひどい教師の指導(?)については、同僚教師ですら眉をひそめる。それが現状だ。ひどい教師が子供の人権侵害のようなことを平気で言い、行ったときには、子供は当然の如く疑問を呈し、親の意見を求める。 そのときに親が態度をあいまいにすると、今度は「子供の親に対する不信」に結びつくのである。良いことは良いと言い、悪いことは悪いといい、疑問が残るときは話し合って結論を保留することが妥当な態度だ。また、そのことを担任や校長に言った方が良いかどうかも、その時の校長や担任の信頼度によるのである。言っていって余計にこじれた例などいくらでもある。言って良くなると思えない時などは、子供に「聞き流しておきなさい」などという防衛策を講じなければならないときすらある。校長や担任が信頼できる場合は、耳に入れることが多い。親は、自分の子を第一に考える。そして子供の言っていることが正当だと思う場合には、何らかのアクションを起こすが、事を子供の段階で止めておくか、学校側に伝えるかについては上記の事情によって変わるのである。伝えるについても「どのように伝えたらよいか」という具体的場面になると、専門家でないためにわからなくて悩むものだ。こじれて一番困るのは、まさに大切な我が子なのだ。そんな段階になって、私は塾生の親に相談されることがままある。そのときには、 「このケースでは、誰にどのように言っていくのがいいですよ」 「こういう言い方は避けてください」とか 「一応誰々に言っていくのがいいですが、でもそれで解決するとは思えません。 最終的には○○へ出向くことが必要になるかもしれませんね。」 など、突っ込んだアドバイスをすることがあるし、 場合によっては自分が学校に乗り込むことすらある。いろいろな学校の校長や個々の先生の評判は、普段から塾生を通して耳に入っているからそれができるのである。学校側の努力, 教師の努力がよくなされているところでは、子供の前で教師批判をしなければならないような状況になることはマレである・・・行き違いでちょっとしたすれ違いが起きることはあるが、ほとんどは大事に至らない。 今までの例を見ていると、校長がしっかりしている所ではその学校はほとんどが良い雰囲気であり、そうでない場合にはいろいろな問題を抱えていることが多い。校長の役割はとてつもなく大きいのだ。さて、本題に戻す。現実の教師や親は、「以上のような状況下で」、「ある特定の問題が起きたとき」、「子供にとって最善な方策は何か」の道を探るものである。それが社会的に責任を負う大人としての現実課題だ。ところが、学生気分の大人子供がこのテーマを論じると、このような真の問題点, 実践を迫られる個々の解決策に目が行かない。「子供の前での教師批判が是か非か!?」という抽象的な問題設定をし、それも理想的な学校像・理想的な教師像をでっちあげ、例外を数多く含む三段論法(演繹法)で次々と勝手な推論を進める。演繹的な推論は、事実からそれたときには見るに堪えない結論を導き出す。実務に精通している人間は、それを見たら笑う気さえ起きなくなるが、当の本人がその結論を正しいと思うなら、それはあまりに世間を知らず自己陶酔しているからであろう。「実態から離れているかどうかの検証」もできない大人子供が自分の世界だけで論理遊びをするのは勝手である。だが、そんな論法でもって、着実な実績を挙げてきた方々を論評するなどの行為に及ぶなら、もはや世に言う「毒舌」などではなく、「害悪の垂れ流し」とすら言えるだろう。推論はまず事実に基づいたものでなければならない。そのためにまず大切なのは帰納的推論である。個々の事象をよく見ることから始まる。演繹法を使うときには、実態からの乖離を余程警戒して推論を進めなければならない。そして、このような大人子供が「塾屋」としての肩書きを持って教育評論をするとしたならば、抽象論議、それも穴だらけの三段論法の連続に終始しないこと。自分が塾講師として当面したケースの幾つかを呈示し、そこで自分がどのような行動をとったのかを示してから議論を進めると、本当の教育論議になる可能性は出てくるかもしれない。塾屋の肩書きを呈しながら、そのようなケース1つも呈示できずに他を批判したりすると、「この人は本当に塾の先生なの?」なんて思われるかもしれない。子供は大人が思っているほど全面的に不完全ということはない。小学校の4年生程度でも、直感でかなりを見抜く力を持つ。 高校生ともなれば、ほとんどのごまかしなどはきかない。 真剣に生徒指導しているのなら、そのくらいは塾屋の常識だ。何かを発表するときは、“せめて小学校高学年生くらいにはバカにされない程度の意見”になっていないと、いくら大人子供とはいえ、社会人ならば具合悪いのではないか。 大人と大人子供の違いについて、 一般論を述べるだけでも、 このように言えるのかもしれないな。
2007.04.12
今日は午前中に警察へ。これから警察には何度も足を運ぶことになりそうだ。証拠資料のプリントアウトも大変なもの。刑事手続きの他には民事手続きもあるし、やる事は幾らでもある。昔の仕事(弁護士事務所)の経験が今になって役立つとは・・・別舞台での名誉を取り戻す行動は、着々と進んでいきます。さて、 「 大人の議論と大人子供の議論 」 No.2大人とは、それだけの経験の裏打ちがあり、かつ良識を持ってリアルでのいろいろな場面に最良と思われる対処行動ができる人間。それに対し、学生(子供)とは、物事を概念だけで捉え、概念だけでしか推論や行動規範を示せない人間のこと。 リアルでの対処行動を必要とする立場にないために、行動規範は甘くなる。例えば「教師批判が是か非か!?」というテーマを設定した場合、実践を迫られている大人ならば、まず「どんなことが教師批判という概念に含まれるか」を考えざるをえない。そこには、表面的形態を見ても、「シビア~マイルド」までいろいろな段階があり、また実質に於いて、「良心的意図~悪意意図(or 考えなし)」のいろいろな段階がある。それを組み合わせて、「どんな場面でどのような批判をするのが是か非か?」という方向に議論が進まなければ、リアルな場面で実際行動に移せる実りある討論にはならない。実際に子を持つ親ならば、このようなことのいくつかは、すでに実際行動として経験している事柄だ。私もこれまでに何度か塾生のことで学校には赴いた。ところが、学生(子供)の議論というものは、このような批判の内実を検討することなく「批判」という言葉を使う。そこにあるのは、発言者が勝手にイメージできた範囲でだけの批判であり、相手のイメージする批判と食い違っていたとしたら、もう議論はハチャメチャ。もちろん子育てしたことがなく、学校現場との交渉経験もないからだが。批判という言葉1つとっても、実社会ではそれこそ多くの形態がある。「なぜ批判をするのか?」は大切な出発点である。悪意・自己満足意図に基づく批判と建設的意図(相手利益)に基づく批判は、はっきりと区別されなければならない。相手利益を第一義に置く批判ならば、少なくとも汚い罵声やボヤキは登場しないものだ。(もっとも罵声という言葉も検証が必要だが。)私はこの仕事を始めた頃は、親御さんとお話しする時にはかなり気を遣った。自分がプロであるのは「子供の勉強面(及びそれに関連する周辺部分)」についてだけであり、それ以外の人生経験に於いては、年上であるほとんどの親御さんに及ばない。プロのテリトリーに限っていえば、こちらから強気のアドバイスもできたが、それ以外の場面では、逆に教えを乞う立場である。だから、お預かりしている子供の生長をめぐって、教えたり教えられたり、謙虚なお互いの知識交換から解決の方向に話しが進むことが多かった。子供を持てばわかるが、子供を育てるということは、理念だけでは片付かない、本当に大変な大仕事である。私は、結婚前は親父とよく対立していた。言っていることの是か否かをその場面だけで捉えており、そこまできた背景(歴史)ということは、聞く耳の考慮に入っていなかった。娘が生まれ、育てていくうちに、自分がこの子にしてきたことは、自分が親からしてもらってきたことだということが実感できると、もう親父に対立する気のほとんどは失せた。1つの概念で1つの事象を説明しきれることなどほとんどない。やっかいなことに、1つの概念の内容自体に、それを使う人間の個人的体験からくる特殊な色彩が含まれ、「概念の内包と外延の問題」が起きる。親しい人間同士の会話や話し合いがスムーズに進むのは、お互いが相手の利益を考えるという出発点のほかに、それぞれが使う概念(言葉)の内包・外延を心得ていて、話しが食い違うことが少ないからである。学生(子供)は、その経験不足故に、そうしたことまで頭が回らない。経験不足と言うことを自覚している者は、謙虚にそれなりの話し方・聞き方をするものだが。しかし、生半可に論理性に自信を持ち、更にそこに心理学かぶれがかぶさると、このような謙虚な姿勢は消え失せ、論理学や心理学の上っ面万能で真理を突いているような錯覚を起こす。無機質な内容については、概念の内包範囲や外延は人によって違いが起きない。しかし、こと有機質な内容がテーマになるときに、純論理学的な思考で真理を突けると考えるのは、あまりに人間を知らなすぎるからだ。世の中の多くの事象では、社会学的に明らかになっているマクロ的共通点を持ちながらも、個々のケースではそれと違った現象が起きているものだ。「人それぞれ」という言葉は、最大公約数的共通性の中で、まさに「人それぞれ」ということを表しているのだ。大人になっても、この「微視的な人それぞれということ」を踏まえて語ることができない人たちを、「大人子供」という。大人子供は一方的攻勢に立ったときには威勢がいい。しかし体験に裏打ちされたされた人たちからの、体験に基づく反論がなされた場合には、しどろもどろになるのが特徴的である。自分から攻勢の立場に立つようなことをするからであり、相手を慮り、自己を省みる姿勢があるならば、ふつうはそのような立場には自分を置かないものだ。
2007.04.11

本記事アップの前にちょっと一服。カミさんが昨日ちょっと行ってきた松代城(海津城)の桜です。ここがNHK大河ドラマ風林火山の川中島決戦で、いずれ啄木鳥(きつつき)戦法の舞台となります。 ↑↑↑↑ この石垣は、私が小学校時代に、よくよじ登って遊びました。 今は・・・・もちろんそんなことは厳禁!!【カミさんのコメント】松代城跡に行ってみたよ。桜が5~7分咲きで、風林火山の幟旗が立って雰囲気満点。
2007.04.11
昨日の「ふと思うことの続編」です。大人(20歳以上)になっても学生気分を脱却できずに、そのままを議論に持ち出すグループがいる。今更歳がばれてもどうということはないが、私はいわゆる「全共闘世代」である。学生時代には、それこそ口から泡を飛ばす議論というものをたくさん見てきたし、またしてきた。その中に必ず含まれるのは、まず「他者の否定」である。だが、そこには大きく分けると2つのグループが存在する。1つは、「他者の否定で自己の存在感をアピールするのみ」のグループ。そして2つ目は、「その他者との心の交流を望み、お互いをわかりあう手段の1つとして『議論』を選択したに過ぎないもの」だ。以下、前者, 後者と呼ぼう。世間を知らぬ若者であるが故に、議論が抽象論に終始するのはまあ仕方がない。私自身も、当時はそうだった。一年の半分は、生活費のためにバイトしてたとはいえ、それは社会経験とは異なるものだ。前者のグループの議論というのは、まことに非生産的であり、議論の終わりに残るのは、形の上で議論に勝った者の「勝ち誇った虚栄に満ちた自己満足」だけであり、「他者への見下し」である。同じ抽象論しかできなかった者どうしなら、負けた側は打ちのめされるのであろう。だが、もしもそこに大人が入り込んだ場合、大人は議論という形での勝ち負けが如何に虚しいものかを知っている。その議論に何の実質も伴わないものなら、議論などはいくらでも途中放棄する。意味のない、何も生み出さない議論など、続けてもしょうがないからである。後者や大人の議論では違ってくる。まず議論に揚げ足取りなどは存在しない。大切なことは、言葉尻よりも相手の真意を知ることであり、こちらの真意を知らせることだからだ。常に、相手の言ったことの一部を取り出すことなく、全体を通して部分の言葉を解釈しようとする。例えば「幹」と「枝葉」という言葉があったとする。 幹…根幹をなす重要部分, 枝葉…ある意味どうでもいいこと学生なら、そう受け取るのが普通であろう。だがしかし、大人ならそうではない。枝葉なき幹は生きていけないのであり、また幹無き枝葉も生きていけない。枝葉は幹によって支えられ、光合成を行い幹を育てるいわば「現場」に当たる部分である。現場無き中枢が大切なのかと言えば、それは違うだろう。幹と枝葉は1つの例えに過ぎず、現場を知る人間が例え「それは枝葉である」と言ったとしても、「だから優先順位が低いのだ」ということとイコールではない。学生は、こうした用語のズレに気がつかない。また、学生気分の前者の議論では、「幼稚だ」とか「卑劣だ」とか「自己中心的」,「厚顔無恥」などという、 アジ演説特有の揶揄言葉がよく飛び出す。大人の議論でこのような言葉を乱発したら、もうその時点でその発言者は相手にされない。そのような言葉を持ち出さなければならないほど、発言者は窮していることを表明してしまったからだ。相手との意思交流を望む者が、このような不毛しか生まない言葉を選択するはずがない。ただの学生同士で議論(言葉遊び)を楽しんでいるなら、それに敢えて異を唱えようなどとは到底思わない。しかし、何人もの経験豊富でその道に通暁してきた方々相手に、学生の議論そのままをふっかける愚をする者たちがいることはまことに残念である。学生気分の抽象論は、相手の言葉尻を捉えて、一見まともそうな抽象論で攻撃し、自ら経験した具体例を持ち出して、事実で反論することがないのが特徴だ。何故なら、彼らには反例として持ち出せる具体的な経験が無いか、あまりにも乏しいので。議論にただ勝とうとして何の意味があるのか? 大人なら、学生議論よりも大切なことは、自らに何かが還元されるものを相手から吸収しようとする心の持ち方ではないのか。それがあれば、わざと無機質に終始させるブログ上のやりとりにこだわる姿勢を、それほど懸命に守ろうとはしないだろうがね。
2007.04.10
多くの専門的体験を経てきた方が、そのいろいろなケースから抽出した一般論を述べたときには、そこには原則的な一般論の中に包摂され得ない個別ケースについて、十分な配慮がなされていることが多い。何が幹であり、何が枝葉であるかの判断は、慎重になされなければならない。あるケースでは一見枝葉と思われていることが実は幹であったり、またその逆で一見幹と思われることが実は枝葉であったりする。ここにある問題が提起されたときに、現実体験が数少ない方が、多くの体験を経て苦渋の一般論を提案した方に対して、「こうであるべきだ」という一方的見解を述べた場合、それでかえってうまくいかなくなったケースも多く見てきた側としては、単純に「そうである」とも言えないし、「そうでない」とも言うことができない。一刀両断ということは、している方は気分良かろう。「現にこうである」を踏まえた見解と、理念だけで「こうであるべきだ」を述べた見解というものを、噛み合わせることは難しい。自戒を込めて・・・心したいものだ。
2007.04.09

そろそろ満開か!? ということで、カミさんとお昼前に行ってきました。全国一の杏の名所、倉科(くらしな)・森(もり)地区。 自宅から車で約15分。時は元禄時代。伊予(いよ)宇和島藩の豊姫が、第3代松代藩主真田幸道候にお輿入れの折、故郷の風情を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したとか、苗木を持参したとかが始まり。杏は咳止めの薬効があるため、それから松代藩が栽培を推奨し、特産物になった。元はと言えば、伊予(愛媛県)から来たものだが、その伊予の国では今は蜜柑に取って代わられてしまったのだろうか? 現在では分家のこちらの方が有名になってしまったようだ。詳しいいわれはこちらで。まず倉科に行き、そこから森に回る。途中からものすごい渋滞。ここ数年ですっかり観光名所になり、日曜日のお昼頃といえば・・・・まぁしかたがない。一番上の展望台近くの駐車場に車を止め、杏畑の小道を散策。上から下一帯を眺める。一面の杏畑。 更に山側を眺める。 杏の花のズームアップ。染井吉野よりもピンクが濃い。 更に奥まで行って反対側から帰ろうとしたら、係員に渋滞を理由に「来た道を戻るように」と指示されてしまった。 ム・ム・ム・ム・・・・しゃあない。頃はちょうどお昼時。 「最近目をつけていた蕎麦屋に寄って!」ということになった。私とカミさんなら、蕎麦で意見が分かれることがない。この店は、前から碁会所の仲間から「うまいから行ってみろ」と言われていた店。篠ノ井の小森(こもり)にある「安心」…こう書いて『あんじん』と読む。 感じの良い若い夫婦二人だけで切り盛りしている。12時半過ぎに店に入ったら、 「40分くらいお待ちいただくことになってしまいますが、よろしいでしょうか?」 ・・・はいはい、今日は急がないから、おいしければ文句は言いまへ~ん!蕎麦は、地元産の蕎麦粉を使った十割蕎麦(繋ぎの小麦粉を使わない) と八・二蕎麦(蕎麦粉8割, 小麦粉2割)。私は十割蕎麦の大盛り+天ぷら、カミさんが八・二蕎麦+長芋の天ぷら。これは十割蕎麦。 「食べる前に写真を撮っておかなくちゃね」と言っていたのに・・・・確かに待つこと40分。 きた~~、ですぐにガツガツ。3分の1くらい食べたところで気がついた。 いかんね~!旨かったすよ、 十割蕎麦。つなぎを使ってないのにぼそぼそしない。腰があって、蕎麦の風味が上品且つたっぷり。ここなら安心してお客様を案内してこれる。 お近くの方は是非どうぞ。大盛りでも私にはちょっと食べ足りなかったので、「お蕎麦おかわり!」と言ったら、 「すみません、今日はもうお蕎麦が切れちゃいました」今日のこの店のお蕎麦にありつけたのは、私たち夫婦が最後だったよう。店を出るときには、入り口に 「今日のお蕎麦は切れましたので、閉店します」 と表示が出ていた。
2007.04.08
「理解が先か、記憶が先か?」という命題で語られることが多い。しかし、この命題は「卵が先か鶏が先か?」という抽象論と同じになってしまう。 「理解が先か、記憶が先か?」この抽象論が通じるのは、中学2年生までである。私は中学までは「お勉強」, 高校内容については「勉強(半学問)」, そして大学で学ぶことが「学問」と、言葉を使い分けている。お勉強までの段階なら、いわゆるパターン学習(記憶優先)でも、それを徹底すれば通じてしまう。ただ、このテーマで書くことにいつもためらうのは、「パターン学習」という言葉があまりに多義的な意味で使われているからだ。これを否定する人々は、ほとんどが「記憶優先」というよりも「記憶 only」の意味で使うか、またはそれに近い意味で使っている。 肯定派でも、その意味で使っている人がいる。この意味で使っている肯定派の人たちが、よく「理解はあとからついてくる」といういい方をするのである。 「理解はあとからついてくるのか?」ついてくる場合と、かえって理解ができない頭脳に変化する場合の両者があり、ついてくる場合は、指導者が何らかの事後カバーをするか、または偶然のきっかけによる。また、理解なきパターンを記憶し続けるのは難しく、忘却しないためにはしょっちゅう復習をしなければならない。理解なきパターン記憶では、そのパターンと同じではないが似た問題について、ちょっとした類推論理を使える子はできるが、使えない子はもうお手上げになってしまう。“パターン学習をして、成績上位を占めている子がいるか?”といえば、いる。2つのタイプに分かれるが、1つは数多くのパターンをこなした子。 勉強時間がとても多く必要になる。もう1つは、少ないパターンを数多くの視点から検討した子。パターンを検討しているのだから、これもパターン学習と呼ばれるが、しかしパターン学習ではなく「考える学習」という言い方もできる。そうなればもう用語法の問題である。ただ、何のパターン認識もなくだらだらやっている子と比較すれば、パターン認識は絶対に必要である。中学生までの勉強では、どんな方法であれ、徹底してやるなら、その差などたいして表れない。成績が良いか悪いかなどは勉強量の差による。しかし、高校内容になると話しは変わる。半分学問の領域に入ると、量が増え、質が深くなる。勉強時間を増やして、がむしゃらにやるという姿勢だけでは、こなせるような内容ではない。結局、 「どの教科にも理解して覚えるべきところと、 くだくだ言わずに暗記しなければならないところがある」 という当たり前のことに落ち着く。例えば、理科関係の定数とか日本史の歴代内閣などは、とりあえず覚えるしかない。こういうものには、世に言う記憶法の工夫 (記憶術) などが役に立つ。だが、例を片っ端から挙げていくときりがないが、数学の展開・因数分解公式から始まるいろいろな公式などは、極力その成り立ちを理解しておくのが望ましい。 物理の公式, 化学の公式などの多くもそうだ。国語の読解力などは、勉強段階の簡単な内容なら、テストは解法テクニックでなんとかなってしまうだろう。が、大学入試レベルまでいくと、テクニックも必要だが、内容を読み取るのにまず多くの範囲の知性や教養が必要になる。暗記ばかりのただの知識ではとてもとても・・・中学までに、融通が利かないという意味でのパターン記憶学習を積み重ねて、高得点をとってきた子は、高校生になって突然頭を切り換えよと言われても、それはできるものではない。それが「高校生になってぼしゃる」という現象だ。「先に行って(高校生になって)どうなるか?」までを見通し、理解が必要なところでは暗記だけにとどまらず、じっくりと思考回路ができるまで時間をかけ、そうでないところは暗記優先にする。そして暗記法の工夫などにまでいく。そんな長期的展望のもとに、子どもたちを見守ってあげたいものだ。
2007.04.07
自分の仕事は、学校の勉強については、最終的には大学入試の合格までだ。だから、一時的なテストの点などはあまり気にしない。「高校に入ってぼしゃるかぼしゃらないか!」という、勉強面でのポイントポイントになるところは重視するが、どうでもいいところや、教科書カリキュラムに無理があるときは理解に適する時期にやり直させることなどがけっこう多い。例えば小5で扱われる「割合」などは、教科書カリキュラムで最も失敗している単元だろう。小数だけで割合を表現するのは無理も無理。割合は分数でなければならない。20%を0.2で表すなどはもってのほか。20%はあくまで20/100でなければならないし、2割はやはり0.2ではなく2/10だ。だから、割合は小5ではなく小6の後半か中1でやる。しかし割合を体感としてわかるのは、普通は中3くらいだ。小5の親御さんからの 「ウチの子は割合がよくわからないのでよろしくお願いします」という依頼には、 「小5でわかるはずがないんです。一年後にわかるようにします。」と言って、理由を話す。勉学面以上に重視するのは、「勉学に対する姿勢」である。それについては、けっこう多方面にわたった話しをする。そして、こんなことを生徒によく言う。 君たちと私は、今は勉強については教える側と教えられる側だ。 だけどそれは人間的優劣の問題ではない。 考えが広いか狭いか、深いか浅いかだけの、 いわば経験値によって引かれる線の違いがあるだけだ。 考えるべき視点は私が提供しよう。 そこから先は、君たちが発展させるのだ。 もしもその先まで私に頼るようなら、それは自己の確立ではなく、 私のコピーになることを意味する。 君たちは猿回しの猿になってはならない。私は猿使いではないのだ。 テストの点, 偏差値で人間の価値が決まるような錯覚を持つ人間が多いが、 そんな風潮など社会に出たら通じない。 誰かのコピー人間が社会に出て、 一人前の自立した人間として、 自己を愛し、 他者を愛し、 家族を愛し続けることができるか? 人間、勉強は一生続く。 君たちは他者の中で生かされている。 そしてまた自己の持つもので他者に活かしてもらう。 お互いが還元しあえるものを持たなければならない。 人を蹴落として這い上がろうなんて考えを持ったとしたら、 それは不遜以外の何物でもないし、這い上がれるものではない。 「よりよく生きるとはどういうことか?」これをいつも心の中で反復し、 そして現在すべきことをあたりまえにして欲しい。 そういう姿勢を持ち続けてくれたら、君たちとは私とはいずれ差がなくなる。 師弟の関係ではなくなり、対等な関係,友人関係に至る。 今でも私は君たちから多くを学んでいるが、 いずれはそれとは質の異なった多くを君たちから学ぶことになる。 そうすれば私自身がまたもっと大きくなれる。 その意味では、君たちと私は今でも競争しているんだぞ。 だから、今でも私についてくるなんて考えは持つな。 どんどんやっていけ。 あまりにコースを外れたら、私が戻してやる。 好きなようにやれ!
2007.04.06
3月30日の日記で紹介した新中2の○○○さん(ここからはM子さん)の不定詞のtoの質問。お返事が今日になってしまいました。読者の中学生や高校生の参考になるかなと思い、それに加筆したのがこれです。~~~~~~~~~~~~~(質問再掲)~~~~~~~~~~~~~~~~~ 始めまして。 私はもうすぐ新中2年なろうとしているM子と申します。 I先生が塾長を務めてらっしゃるYE塾に通っているものです。 早速ですが質問させて下さい。 Mike likes to look at the stars at night. という文ですが、 この文の「to」とはどの様な意味で使われているのでしょうか。 塾では、行き先での「→」や時間の流れでの「→」という意味があると教わりました。 自分では、 動詞と動詞を続ける訳にはいかない、 そしてよくプロフィール等で「好きなもの→○○」と矢印を使う事があるから 「to」を使うという仮説をたてたのですが どうなのでしょうか。 返事は急ぎません。 また質問があればさせて下さい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~M子さんへ はじめまして、I先生にはいつもお世話になっているウロコ先生です。 返事が遅くなってごめんね m(_ _)m さて、M子さんはとても中1とは思えないしっかりした文章を書き、そしてすごい仮説を立てますね。将来医学部志望とか・・・I先生の言うことを聞いて頑張ってね。 Mike likes to look at the stars at night. の「to」ですが、 M子さんの仮説の根拠 (1)「動詞と動詞を続けるわけにはいかない」は正しいです。 動詞は主語がする動作とか、その後に続く語句とのつながりをつける役割をするので、 原則として1つでなければなりません。 (2)I先生の言う to の「行き先での『→~』」や「時間の流れでの『→~』」の →の意味は、 “~(場所, 時間)の方へ限りなく近づいていく”, “~(場所, 時間)までたどりついた結果” という、方向や到達点を表すということです。 「to+動詞の原形」をひとかたまりに見て「不定詞」と言いますが、 “その動詞の意味する動作の方向へ限りなく近づいていく”や “その動詞の動作まで行ってしまった結果として”のどちらかの意味になりますね。 例文では、 Mike likes to look at the stars at night. 「Mikeは好む/(夜に星たちを)見るという動作をする方向にどんどん近づいていくことを」 というのが、原文に忠実なニュアンスかな。 それを自然な日本語に訳すと 「マイクは夜星を見ることを好む」ということになります。 M子さんの根拠の後半部分、 「好きなもの→○○」で使われている→は、方向(移動)や着点を表すものではなく、「好きなものは○○です」という“です(=に近い)”の意味で使われているので、上に説明した→とは違った用法です。 だから、仮説の根拠としては適切じゃないんじゃないかな? また、 I am glad to meet you. は、「私は/です/(貴方に会うという動作まで行ってしまって(到達して)、その結果)うれしい」ということになるかな。ウロコ先生は、そのように考えます。 英語はI先生の大のお得意分野。上の説明でよくわからないことがあったら、I先生に更にきいてみるといいよ。私とI先生は考え方が同じ部分が多いから。 こちらに質問してきてもいいけどね。 M子さんの勉強姿勢にはとても感心! これからもこの姿勢でどんどん力をつけていこうね\(^o^)/ それじゃ、今回はこのへんで。 ウロコ先生より
2007.04.05
今日も休日出勤。やらなければならないことが山のように続く。明日まで春休みだということは生徒みんなに連絡してあるのだが、先ほどドアがトントン。「あれっ↓」と思いつつドアを開けると・・・ほんとに「あれ~~↑↑↑」H子とお母さん。このH子、じつは今回の高校入試で奇跡を起こした子。H子は、N高校を志望していた。しかし、中3の一月までは学年平均点のちょっと上をずっとキープしてただけ。トップ高校のN高校には、当然遙か彼方の距離で届かない。とにかく真面目一筋によく勉強してきた子。そして入試(3/07)間近い2月になって、事もあろうに“突発性難聴”に。強い薬が医者から投与される。勉強は2週間近いドクターストップ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・結果・・・・入試の自己採点結果426点・・・N高校合格合格発表日には勿論メールで喜びを伝えてきた。そして先ほど合格の挨拶に。この上に2人のお兄ちゃんがいる。上の2人も私が見てきた。一番上の兄ちゃんは、この4月から社会人生活スタート。次兄は現在N高校3年生。「バスケ我が命!」で高校生活を満喫。 「この5月からまた塾に来たいと言っているので、よろしくお願いします」 というお母さん。 「そっか~、また来るようになるのか、あいつがね~!」で、このH子。突発性難聴になって塾もしばらくお休み。入試前になって集中的に来たが、私はなぜ426点もとって合格できたのかわからない。今日はこんな話しをした。 そのドクターストップの間勉強できなかったのが幸いしたのかもしれない。 「スキーは夏に上達する」という言葉がある。 冬に散々体にインプットしたバラバラ情報がある。 それらはあくまでバラバラ情報だ。 それがスキーを全くしない夏の間に深層意識内, 体の奥に、 つながりを持ったネットワークとして構築されるらしい。 今までH子は、ひたすら知識だけがバラバラにインプットされていくだけだった。 ドクターストップの期間、「スキーと夏に・・・」と同じ現象が起きたのだろう。 私は無宗教だが、もし神様というものが存在するとしたら、 それは神様の思し召しというか、1つの運命だったのだろう。 断言できることは、あのまま勉強を続けられているとしたら、 合格の可能性は皆無に近い状態だったということ。 このように合格を手に入れることができたことには、お前が持つ強運を感じるよ。 人生って、本当に不思議だね。いろいろなことがこれからも起きることだろう。 無心にいろいろなことを感じるようになること、 それを生きる力と捉えて、何が本当の勉強か、これからも真剣に生きていこうね。母子が帰った後に考え直しても、この子の合格原因が何にあったかはわからない。合格が全てではないが、この結果はなぜ得られたのだろうか?ともあれ「おめでとう」ではあるが、世の中、わからないことはまだまだたくさんあるものだ。
2007.04.04
ダイさんのブログで今度は大々的に・・・・・この件に関して書いたことは、ブログ上の論争に適さないと判断して、削除しました。今後、決着の場を別の所に移します。
2007.04.03

春休みを利用し、ふだんのカミさんの内助の功に感謝の気持ちを込めて、久しぶりに行ってきましたよ、温泉一泊の旅。今回は一泊なので、ちょっと足を伸ばして富山県は魚津、金太郎温泉さんまで行ってきました。魚津と言えば、知る人ぞ知る、あの「蜃気楼の町」です。勿論年に何回見えるかわからない蜃気楼を期待しての旅ではなく、純粋に硫黄ナトリウム塩化物泉をたっぷり楽しもうとする湯三昧が目的です。夕食、満足満足。だいぶ食べてから「あっ、いけね。写真,写真。」でちょっとさびしく。岩風呂, 内湯, 壁画風呂・・・浴槽の数はとても多く、それはもう・・・・今までの最高で、着いてから出るまでになんと6回入浴しました。これが広々とした野天風呂。朝5時半の光景です。金太郎の石像あり雨の中、入浴者が途絶えるのを待ち、パチリ。チェックアウトして、話しのタネに蜃気楼展望台に。見えるかもしれないそこからの日本海。残念だけどやっぱり見えなかった。でも、ほんとにほんとにいい湯でした。金太郎温泉さん、風呂も食事も、応対もみ~んな素敵でした。お世話になりました。夫婦して満たされた気持で無事帰宅しました。
2007.04.03
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