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http://www.lfj.jp/lfj_2012/src_charge/timetable/?id=nav もうなんというかなんでこんなに忙しいのかしらという今日この頃.......... 書くものが貯まっているというのに、もうこの季節です。 本日、ラ・フォル・ジュルネ2012のプログラムが発表されました。 チケットはフレンズ先行が3月9日、一般は3月31日からだとか。 細かいことはまた後日。ああ、ネタが貯まる一方......
2012年02月16日
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14:00~ 新国立劇場 4階左脇 ベラ:湯川麻美子 ヨハン:山本隆之 ウルリック:福田圭吾 テノール歌手:日浦眞矩 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 指揮:デヴィッド・ガルフォース 2002年以来、もう10年やってる演目なんですね。でも、実は新国立劇場で観るのは初めて。以前、年始だったかのガラ・コンサートで4場だけ観たことはあるけど。それと、一昨年ウィーンで観てる筈なんですが、何せ飛んだ日に観に行ったので、前半は覚えてるんだけど後半記憶がない....(苦笑) 確かロージェの後ろの席だったし。 大体がバレエはあまり真面目に観に行ってないので、ダンサーの良し悪しもよくわかんないし。 そうは言っても、やっぱり観れば面白いのは、何より全篇是ヨハン・シュトラウスづくしだから。前後半、休憩入れて2時間なので、正味1時間半くらいなんですが、全て「こうもり」原曲とその他のシュトラウスの音楽からの編曲で出来ているので全く飽きる暇がないんですよね。 舞台も面白い。元々技術を披露して大向こうを唸らせるタイプのバレエではないから、その分ストーリー性を観るので、それはそれで面白いし。原作のコミカルな感じは活かされていて、尚且つ「大人」で「お洒落」な舞台。原作の方はあまり「お洒落」ではないから... 山本隆之は、男前ですねぇ。まぁ、男性のダンサーってのは大抵男前ではあるだろうけれど。 音楽的には、まぁ、シティフィルですから、ものもバレエだし、こんなもんでしょう。あまり多くは期待してないし、むしろあまりあれこれ表現を工夫し過ぎてしまうとバレエにならないですからね。 但し、年末にエッティンガーの「こうもり」序曲でブーイングした連中はちゃんとブーイング飛ばしに来たんでしょうね。取り立ててウィーン風でもなく、さりとて工夫している訳でもなく、そういう意味ではあくまで「凡庸」(というのは酷だとは思うけれど話の流れ上)な演奏を見逃すなんて甘いことをまさかなさらないですものねぇ。でないと筋が通らないというもの。あれを受け入れないならば、きちんと他のものもちゃんと批判しろよなと。ダブルスタンダードとか認めないからな、俺は、と。まぁそう思う訳ですが、きっとそんな批判精神はありはしないだろうから、期待してませんが。 その話は脇に置いて言えば、十分面白かったと思いますよ。 そういえば、観てて思ったのは、ああ、ウィンナ・ワルツはバレエにならないのね、ということ。勿論ワルツは沢山出て来るのだけれど、そこで踊っているのは決して「ワルツ」じゃないんですよね。「ワルツ」らしいのは最後の最後のとこだけなのだけど、あれも、決して「ワルツ」にはなってないんですよね。あの、微妙にリズムが揺れる、あれではない。あれは多分、バレエとしてはああなってしまう、ということだと思うんですけれど。 ところで、あまり真面目に観てない自分としては、もう一つピンと来ないんだけれど、日本のバレエのレベルというのはどんなもんなんでしょうか?こういう演目観てると「面白いじゃない」と思うし、客の入りは不思議に良くないけれど入ってない訳じゃないし、オペラよりよほどいいのかしら?とも思うのだけれど。どうなんでしょう?教えて、えらい人! (お客は3、4階がガラガラ、なのに1階は満席に近いという不思議な状態。ボリショイと重なったから、とかあるらしいのだけど....)
2012年02月12日
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何年か前の話。バレンボイムが日本に来て、珍しくリサイタルを開いたことがあります。サントリーホールで、2夜に亘って、バッハの平均律全巻を弾くという企画。この時、第一巻の演奏会で、大騒ぎになりました。ある意味大したことではないのです。一人のお客が拍手したのです。曲の途中じゃありません。曲の終わりに。ただ、24の前奏曲とフーガ、それぞれが終わるや拍手をしたのです。 下らないことだから、もううろ覚えですが、このお客が前半12曲、曲間が空いた所(数秒レベルで演奏が停止した場合、といったところか。正に「スキがあれば」)全てで拍手し通したのは覚えています。予想通り、休憩時ロビーでは大騒ぎが。両手じゃ利かないお客が主催者を取り囲んで怒号の嵐。....そう、あくまで怒号が向けられるのは、発した個人ではなくて、主催者の方。後半再開の時に、アナウンスはありましたかね。結局どうなったかは忘れてしまいました。慣れて気にしなくなったのか、止んだのか。どうだっけなぁ。 思うに、周りが「シーッ!」とかやっても執拗に拍手し続けたあれは、恐らくは意図的に継続した、一種の破壊工作だったのだろうと思うのですね。それも高度な。 この破壊工作が高度な理由は、「拍手というものは善意のものであり、悪いことではない」という大前提を利用している所にあります。つまり、演奏中に拍手している訳ではない。曲が終わってから拍手している。従って「ルール」違反ではないだろう。では、何故曲と曲の間にいちいち拍手するのが、主催者に向かって怒号を発する人を少なからず生み出すのか。 質問を少し変えてみましょう。曲と曲の間にいちいち拍手するのは「いけないこと」「間違っていること」なのか? この問いに、「正しい」答えを返すことは極めて困難です。何故なら、24の前奏曲とフーガの連続演奏で、各曲の終わりにいちいち拍手するのは、「普通じゃない」というコンセンサスがあるから、なのです。つまり、「普通はやらない」のであって、当然ながら、感じ方には個人差があります、の世界になってしまう。従って、ただ「普通でない」だけのことを「いけない」「間違っている」と断定することは出来ない。 ところが最初の問いに戻すと、怒号を発する人が生み出されるのには、やはり理由があります。つまり、それは普通は想定されることではないから、聞く者にとっては違和感が残るのです。それは恐らくバレンボイムにとっても同様で、明らかに途中でバレンボイムは戸惑っていました。遠目の表情、演奏の間合いの不自然さ、など。それで演奏自体が大きくぶれたということはなかったけれど、明らかに本来ならそのような短い間隔で演奏しないのでは?という仕方になっていたのは事実でした。それ故に、バレンボイムの演奏に影響を与えた可能性は高い。ある程度のまとまりで捉えられるもの、という、恐らくは双方のコンセンサスを破壊した訳です。この意味に於いて演奏は台無しになった。のかも知れない。少なくとも、怒号を発した人達、そこまで行かずとも「なんだあれ」と思った人達(私もそうですが)は、そのように考えたと思います。 だがしかし、本当にそれだけで怒号までが飛ぶものなのか?そうかも知れませんが、私はもう一つ、理由があると思っています。 拍手する、というのは、建前にせよ、「いい演奏でした」という意味合いが含まれている、というのは一応コンセンサスが出来ていると思っています。つまり、拍手というのは純粋な儀礼、手続ということにはなっていません。それは一つの、大雑把ではあるにせよ、意思表示であり、コミュニケーションの手段なのです。 しかし、拍手する側というのは、「聴衆」という集合体に過ぎませんし、誰が拍手しているかを個別に把握することは出来ないし、そんなこと誰もしません。だから、拍手というものは「聴衆」がしていることになる。そして、個々人が出来るコミュニケーションの手段は、一般的には後は「ブラボー」とか「ブーイング」とか、更に目立つものなら花束渡すとかスタンディング・オベーションとか、その程度のものです。 コミュニケーション。勿論、一義的には、このコミュニケーションは、聴衆と演奏者との間のコミュニケーションです。拍手にせよなんにせよ、それは、演奏者に向けて発せられるものだから。でも、本当は、それだけでなく、「私はこの演奏についていいと思いましたよ。だから拍手するんです。」というコミュニケーションでもあります。だって、個人的にいいと思ったなら、後でファンレターでも書いたっていいでしょう?「あなたの演奏は良かったと私は思う。それを公に私は意思表明する。」拍手とは、そういうことではないのかと。 だから、あの時怒号を発した人達は、2重の意味でこのコミュニケーションに怒っていたのだと思うのです、潜在的には。一つは、拍手という演奏者を讃えるコミュニケーションを乗っ取られたこと。もう一つは、その拍手から、その拍手を発したものが、まるで音楽に対するこうあって欲しいという常識を備えていない一種の無知によるものか、或いは演奏を破壊するという意味でその音楽を否定しようとしているものか、いずれにせよ極めて不愉快なメッセージを感じたからではないか、ということ。 その意味で、もし、本当に破壊行為として行われていたのであれば、この拍手はコミュニケーションとしては極めて妥当だった訳です。 という訳で、更に続きます。
2012年02月10日
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この間から書いている話について畏友に話したところ、「そもそも皆そんな難しいこと考えちゃいないよ」と至極ご尤もな指摘を戴きました。まぁ、そりゃそうだよなぁ。 というわけでテンションガン下がりなのですが、落ちが付くまではまぁ書かなきゃいかんよなぁ。誰も付いて来てない気がするのですが、まぁ、いいか(苦笑) 前回、元々音楽というのは自分で演奏するか演奏される場に行って聞かなければいけないもの、ということを書きましたが、現代では、音楽というものは、一人で、他人の演奏するものを聞くことが出来るものになっています。言わずと知れた、放送と録音技術の発明です。ラジオ放送は、演奏されるその場に居なくても、離れた場所で個人的に音楽を聞くことを可能にしました。録音技術、つまりレコードの登場は、演奏されたものを物質として固定化することで、演奏された時でなく、演奏された場所でなくても、音楽を聞くことを可能にしました。 否、むしろ、音楽を聞く上では大多数の人が「音楽は"一人"で聞くのが基本」ということになっているのではないかと思います。 一人で聞く音楽というのは、極めて快適なものです。そこには、「私の音楽」を邪魔するものがない。いや、全くない訳ではありませんが、例えば気になる音を立てる周囲の他の聴衆もいないし、逆に自分が何か音を立てたからといって咎め立てする人も居ない。記録媒体に記録されたものを持っているなら。その気になれば演奏を戻すことも出来る。その代わり、拍手をする相手とかはいませんが、でも、それを除けば、「私」はその音楽を所有することが出来る訳です。その音楽に対してはほぼ全面的に支配可能だ、という意味で。 コンサートというものは、ある特定の時間、ある特定の場所で、自分以外の大勢と共に居ることを必要とします。しかも、そこで演奏される音楽には保証が無い。元々音楽というのはそういうものだったわけですが、この、時間と空間の制約から解放され、他の人とも関係なく、一定のレベルを保証された、というのはつまりミスタッチなどの失敗の心配なく音楽を聞くという世界からは遠く隔たったものでもあります。 こういう聞き方が今は普通であり、標準である。いい悪いではなくて、そういうものになっている。勿論、自分で演奏して楽しむ場合もこれに近いのですが、ただ、ここでは「誰かの演奏したものを聞く」という意味合いで考えれば、やはりそれは別物で、かつこれまで無かった状況だということは分かると思います。 思うに、この「一人で聞く」という習慣があまりに一般化してしまった為、知らず知らずの内にコンサートに際してもその延長線上で考えてしまう、切り替えが出来ていない、ということがあるのではないかと思うのです。どちら向きに対しても。 皆に開かれている、ということは、どんな人が来るか分からない、ということでもあります。しかも、時間に制約される、ということは、時間の不可逆性に支配されるということでもあります。1時間を越える大曲の終わりで、どっかの誰かがiPhoneの標準呼出音であるマリンバのメロディを高らかに鳴らしたとしても、指揮者がそうすることを決心しない限り、もう一度やり直し、はないのです。 皆に開かれているということは、こういうリスクがあるということです。であれば、コンサートに来る人は、それを受け止めると同時にそのようなリスクを回避しようと努める、というのが理想的、ということになります。まぁ、少なくとも、受け止める方は、どうやったって起きる時は起きるのでしょうがない訳です。iPhoneが鳴らなくたって、ここ一番で誰かが「ぶぇっくしょい!コン畜生!」とかやらかす程度の危険は常にある。いや、前回も書きましたが、そもそも人が生きている以上必ず音は出るのです。この際だから白状すると、鼻息の荒い人って多いんですよ。いやホント。私はポリシーとして人が生きている以上避けられない種類の音は許容することにしているけれど、あれなのよね、大体「私は熱心なリスナーで御座い」ってな雰囲気の人に限って鼻息が......あれかねぇ、やっぱり気合い入って興奮してるのかねぇ。いや、鼻息が聞こえるレベルはまだいいんだけど、一度、普通に座ってヒザに手を載せてるその私の手にまで鼻息が掛かるという剛の者がおりまして、それってつまり相対距離が1メートルくらいはあるわけで、いや流石にあの時はびびったっつーかもう一体どうしたらいいのやらという........(+_+) 閑話休題。 要は、コンサートってこういうリスク(まぁある意味笑えるのだけれど音楽的にはメリットじゃねーよな)があるものだよ、という認識をしないままに来てしまう人が増えているのではないかな、ということ。いや、リスク、という考え方自体がもうおかしいのかも知れません。こういう形で音楽を聞く以上、当たり前のことと言うべきなのでしょうが、一人で聞く世界からそのままコンサートに来てしまえば、ある人は周囲の咳払いだとかなんだとかに我慢がならなくなるだろうし、もう一方では演奏中でも平気で飴玉の包み紙をガサガサ剥いたりして、何が問題なのかさっぱり分かりません、という顔をするのではないかと思うのです。 いや、うっかりすると、これが同じ人だったりするかもしれない。 結局、これって、自分の殻に閉じ篭ったまま社会を闊歩しているということなのでしょう。コンサートがコミュニティのようなものであるならば、皆に開かれているということは、一方通行ではなく、コミュニティの成員間にも、決して直接的なコミュニケーションではないにせよ、関係性はあると考えるべきです。 勿論、別の見方をするなら、こういうコンサートというものは、都市文化の象徴的な在り方の一つのようなものでもあるでしょうから、そこではやはりある種の匿名性というものがあるのだと思います。皆に開かれているというのはそういうことにもなります。でも、匿名性が高いからといって、即ち相互に関係性は働かない、ということでもない。もっと言えば、コンサートという場に於いては、我々は聴衆という「役割」を持っているのです。 これが決定的にコンサートが「一人の音楽」と異なる所です。「一人の音楽」に於いては、我々リスナーは何か役柄を負うことはないし、一人なのだから、社会的関係を帯びることもない。けれど、コンサートにあっては、我々は聴衆という役柄を負って、某かの社会的関係を帯びることから逃れられない。その社会的関係の一つが「うるさくしない」「多少うるさくても受け入れる」ということを求められる所以なのではないかと思うのです。 聴衆、という立場について、もう少し考えてみようと思います。聴衆というのは、黙って聞いてりゃいいのか?ということについて。
2012年02月05日
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皆に開かれているものとしてのコンサート、というものは、言ってみればコミュニティに近いもの、と考えることが出来ると思います。実際、千人二千人と集まることも珍しくないのですから、規模的にはコミュニティと考えられなくもないでしょう。町内会みたいなもんでしょうか。それよりはむしろ規模は大きいけれど、ごく短時間の一過性のもの、という違いはあるにせよ。 まぁ、「ごく短時間の一過性」というのが実は一番大きいのでして、例えば町内会(マンションの管理組合でも村の寄合でもいいけれど)であれば「ゴミ出しのルール」みたいなものを決めようとするわけです。これが成立するのは、町内会というコミュニティはまぁ短い人でも数ヶ月以上の単位で成員であり続けるからであって、コンサートみたいなたかだか2時間とか4時間とかしか成員であり得ない場では、ルールなんて決めようがない。 加うるに、「ゴミ出しのルール」みたいなものは、コミュニティをそれなりにまともに維持しようと思うとやっぱり必要でしょ、という訳にはいかない、と思う人が大多数だから決められる。まぁ、それでも、ゴミなんて出したい時にだしゃいーじゃねーか、オレぁ朝出すなんて忙しいから前の日の夜に出すんだよ、何か文句あっか?というアナーキーな人は必ず居るものですが。一方、コンサートの場でどのように振る舞うか、なんてものは、しかも一過性の場にあっては、いいじゃないかそんなこと、と思う人が少なからず居る。それは何故かというと、どのみちこのコミュニティは例えば2時間後には崩壊(笑)することが決まっているし、それまでは、何があってもこのコミュニティはもう成立してしまう。つまり、よっぽどのことを起こさない限り、つまり本当にコンサートを中止せざるを得ない自体に追い込むようなことでもなければ、このコミュニティは予定通り成立して崩壊するわけです。それで何も問題は無い。 しかし、そう簡単な問題ではないのが、コンサートと町内会の間の決定的な違い。 いろんなケースはあるでしょうが、ゴミ出しのルールを守らない、ゴミ出しが無秩序に行われるからといって、町内会というコミュニティの成員が決定的なダメージを受けるというものではない。ゴミ出し場の間近に住む人にとっては破壊的かも知れませんが、だから「住めなくなる」ということになることは、まぁ、あまりないのではないかと。 ところが、コンサートでは、例えば「静かにする」というルール化出来ないけれどリスペクトして欲しい考え方が守られないと、コンサート自体が意味の無いものになる可能性があります。それは、コンサートというコミュニティの存在意義が「音楽を聞く」というものだから。 (いや、ゴミ出しルールの崩壊の方が、コンサート自体の崩壊より人生に於いては重要だとは思うけど。) 結構忘れ去られていることですが(事実このことを音楽本来の特性として正面から指摘したのを私は菊池成孔くらいしか知らないのですが)、ほんの100年ほど前まで、音楽というのは、聞きたかったから自分で演奏するか演奏される場で聞くしかないものでした。コンサートというスタイルは、その当時から出来上がったものです。特に、その音楽のフォーマットが大掛かりになって行けば行くほど、それを演奏する主体は大掛かりになっていくし、それに見合う容れ物も大きくならざるを得ない。 一方で、個人でお金を出して演奏させるということが困難になった19世紀のヨーロッパでは(これを市民社会と言います)、音楽を聞く為に皆で集まる、皆でお金を出して演奏してもらう、或いは演奏を聞かせる為に人を集めてお金を集める、というスタイルが一般的になります。そこでは、皆が皆「音楽を聞くこと」が目的ではなかったけれど、徐々に「音楽を聞くこと」が一義目的になっていきます。(実は微妙に違うのですが。)そのようにして成立したのが今のコンサートのスタイル。 ところが、クラシック音楽というのは、原則的に電気的にアンプリファイアすることを前提としていません。建前的にも、旋律線や和声進行、音色だけでなく、音のデュナミーク(大きさだけでなく小ささも)、響き(アコースティックな)、その技術の熟練度までも含めて翫賞するもの、ということになっています。こう書くとなんとマニアックな!ということになりますが、実際には別に珍しい話ではありません。(例えばショパンの「別れの曲」) こういう聞き方をしようとすると、出来るだけ余計な音はあって欲しくない訳です。しかし、出来るだけ多くの人を集めて興行的に成立させたい、という二律背反的な指向の結果が今のクラシックのコンサート。つまり、元々このコミュニティは、目的とする所と在り方とが逆方向のベクトルを示している訳です。 コンサートを成立させようと思うと、出来るだけ余計な音はあって欲しくない。しかし、否応無しに人は生きていれば音を立てます。音の総量は人の数によってどんどん増えます。相互作用もあります。 ここに加えて、当のコミュニティの成員自身の変質、ということがあると思うのですが、続きは次回。
2012年02月03日
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先月、あまりにもタイムリーに同時期に話題になってしまった「コンサートで携帯電話が鳴る」という話、2題。散々話題になっていたので、今更ですが。 一つ目は、ニューヨーク・フィルのコンサートでiPhoneのアラームが鳴りだして、指揮のアラン・ギルバートが演奏を止めたという話。 CNN.jp http://www.cnn.co.jp/showbiz/30005258.html Newsweek Japan http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/01/iphone.php AFP http://www.afpbb.com/article/entertainment/music/2850733/8303965 一方、その数日後に話題になったのが、演奏会で演奏終了直後に携帯が鳴ったのを、その着信音を真似て弾いてみせて「笑いを誘った」「大人の対応」についての記事。こちらはメジャーなメディアでは取り上げてないんじゃないかと思いますが.... http://rocketnews24.com/2012/01/25/175409/ http://getnews.jp/archives/165875 文脈的には、一部の記事では「この間NYでこんなことがあったのに、それに比べてこの対応の見事さ!」という書き方をしていましたが、後からその手の記事は修正されておりました。 で。 問題は、この記事に対する、特に後者に対する反応が極めて好意的なものが多かったこと。つまり、「大人の対応」とか「かっこいい」とかいう反応だけならまだしも、こうあるべき、みたいな反応が結構あった訳です。「音楽家なんだからどんな音楽も愛するべきだろ」みたいなのまでありました。 そうした意見に与する気は毛頭無いのですが、しかし、翻って考えると、本当に携帯電話が鳴るのはそんなにいけないことなのですかね。 いや、私は鳴って欲しくないし、鳴らしたくないのですが、それは何故なのか。音楽の邪魔をされたくないから?それはそうなのですが、しかし、じゃぁ、携帯はダメだけど、レジ袋がガサガサ鳴るのはいいのか?ちらしをめくるのは?鼻息は?(いや鼻息のでかい人って居るのよ。)くしゃみは?咳払いは? 先年亡くなった黒田恭一に「はじめてのクラシック」という本があります。まだ絶版になっていないと思うけれど、講談社現代新書から出ていました。この本の中に、生で聞くこととレコードで聞くこととの対比、という話が入っています。生演奏を楽しみに出掛けたけれど、天候が、周りのお客が、連れが、それぞれに色々な阻害要因になってちっとも楽しめなかった。一方、レコード(CDだっけな?)で理想というべき素晴らしい環境での聴取体験を得られたのだけれど、楽しめた、と素直には言えない、という心持になった、という話。 結局、生演奏というのは、一種の博打なので、環境を思う通りに調えることは出来ない、けれども邪魔をするだろうその外的要因が、実は生演奏ならではの楽しみに導いてくれるものでもある、という話なのですが。 コンサートというのは、パブリックなものです。パブリックとは、平易な日本語で表現するなら、「誰にでも開かれた」ということだと思います。というより、皆に開かれたものでないと、コンサートというものは成立しません。もし、私だけに向けられたものを聞きたいのなら、私は全額自己負担で演奏家を呼んで演奏させることになる。 昔も今も、そういうことをする人が皆無という訳ではありませんが、残念ながらそこまで酔狂ではないので、「皆」の一人としてコンサートに行く。少なくとも、演奏会を「私」一人で成立させることが、経済的にも、音楽それ自体の想定している空間を考えても、もう不可能になっている近代以降にあっては。 ところが、この「皆」というのは、極めて不揃いな人達なので、百人百様の考え方をしている。でも、この不揃いな「皆」が集まらないと、コンサートというのは成立しない。この、不揃いの私達を集めてなんとか場を成立させる為の概念が、本来は、パブリックということである筈なのです。これを「決まり事」と考えることが、実は勘違い。 誰かが何かを決めてなんかいないのです。ただ、現実に、ダイナミクスの幅広さや、細かい音色、表情の集積といった、繊細な差異がクラシック音楽を形作る要素の一つである以上、コンサートを成立させる為には、私もあなたも含めた皆がある一定の目安のようなものの中で振る舞うしかない。多分、100人に「演奏中は静かにしなければいけないか?」と尋ねれば、YESと答えるでしょう。でも、「静か」の中身は人によって違う。 とはいえ、事前に、各人の考え方を聞いて、基準に照らしてディスコの黒服(古いか)よろしく「あなたはOK」「あなたはダメ」と選別するのは、「誰にでも開かれた」とは言えない。 誰かに決めて貰ったり、規制して貰うのは、とても楽なことです。でも、それは絶対に何処かで無理が生じるし、必ず「オレはそうじゃない」と言い出す輩が両方向に出て来る。そして、そもそもこんなこと「決める」ものではないし、ましてや「決めて貰う」もの、「規制して貰う」ものなんかじゃない。 パブリックである、ということを端的に表現するなら、「あなたは私ではない」ということについて能動的に諦める、ということにあると思います。 あなたと私とあの人とが皆同じ考えを持っていれば、ルールを叫ぶこともなくなります。でも、そうではないし、といって具体的に調整するシステムがある訳でもない。であれば、お互いに「あなたは私とは違う」ということを大前提としてまず受け入れる、ということ。 そうすると、私はあなたと違うのだから、携帯電話が鳴るのは仕方ないじゃない、ということにやっぱりなるのか?ある意味に於いてはそうでしょう。でも、そこで止まってしまえば、ただのアナーキズム。 予め結論を言ってしまえば、「各人の判断」を求め続ける、ということになると思います。非常にしょぼい結論ですが、しかし、それを求めることが誰にでも開かれたという状態を維持する、多分唯一の方策なのです。 なんでそういう方向になるのか、については次回。
2012年02月02日
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新日フィルと関係の深い日本在住の指揮者、ゲルハルト・ボッセが今朝亡くなったそうです。 新日フィルのサイト http://www.njp.or.jp/archives/5481 日刊スポーツ http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120201-897705.html 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120201-OYT1T00557.htm そういえば、今シーズンは登場していなかったのですが、闘病中だったのですね。 最後に聞いたのはいつだっけ、と思ってblogで見たら、4年前に「クラシックの扉」シリーズのコンサートでした。そんな前だったか。当時のblogを見たら、「あんまり後々まで残る"何か"がなかった」みたいに書いてました。まぁその通りで、古典派の演奏会だったな、結構良かったと思ったんだよな、くらいにしか覚えてませんでした。でもまぁ、面白かったな、くらいには覚えていたのも確かだったな、と。 もうちょっと聞いておいても良かったな、と思いつつ。 R.I.P. しかし、新日はまた指揮者を失いましたな....今年から来年に掛けてが正念場ですかね。 ハーディングがアルミンクの後釜に据わってくれれば望外なのですが、難しいだろうなぁ....これだけ頻繁に客演してくれるだけでもめっけもんだと思うし。
2012年02月01日
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