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これまでのパラダイム(基本的な考え)の中には、無条件の愛は存在しません。 しかし、無条件の愛をこれまでの考え方の枠組みの中で理解しようとする人がたくさんいます。 その考えは、『正しいこと、善なることを推し進めていくことで、無条件の愛にたどり着く』というものです。 論理的に考えて、善は悪に対するものですし、正しいということは、悪いまたは間違いに対するものです。 そこには、対象を比較分類すめたの基準(条件)があります。 条件を前提にしたままでは、どこまで進んでも、無条件にはなりません。 つまり、無条件の愛は、善や正しさの延長線上に無く、パラダイム・シフトが必要になるのです。 そのためには、一旦、自分の正しさ(それは私という違いであり、自分そのもの)を手放すことが必要となります。 禅で、「悟るためには一度死ななければならない」というのはこのことを指しています。「神との対話」では何度もこのことに言及しています。 たとえば・・・----- 引用開始 間違っていると思う時には、特に耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間はずっとそうしてきた結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなた方には何かが欠けている。理解していないことがある。あなた方は自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜならば、あなた方にとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だからだ。従って自分が理解できないことは、初めのうちは「間違っている」と感じる。前進するには、「自分が『間違っている』と思ったすべてが本当は『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。(P20)何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決め付けだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体に正邪はない。 そうなんですか?「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。その判断を下せるように、今の世界が存在している。世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。(P69P70)----- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 31, 2007
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前回のブログで、今回の参議院選挙で自民党が惨敗した理由は、有権者の『自分のことを認めて欲しい』という気持ちに安部首相が応えられなかったことによるのではないか、と書きました。 サービス業において、苦情処理(クレーム処理)が大切なことはよく知られています。 苦情を言ってくるお客様は、その企業なりが対応してくれると期待してくれている(信頼がある)からこそ、苦情を言うのです。 そこでその信頼に応えることができるかどうかが問われます。 では、どんなことを期待してるかというと、一番期待してるのは、意外にもクレーム商品に対する補償ではなく、誠意ある対応(自分を認めてくれること)なのです。 その上で、補償がきちんとされていればいうことはありません。 感情的なしこりを解消しすることで、わだかまりは消えます。さらに充分な補償がされると、普通に商品を購入した場合より高い満足を得られます。 すると、ファンになるんですね。ファンになると、良い評判を(たとえば)三人に広めてくれます。 ところが、たとえば、年金問題に対する安部首相の対応は、気持ちを解消するものではなく、事務的な補償についての対応でした。 その上、その補償に対する対応も支払った年金が消えることを不安に感じているその気持ちを逆なでするようなものでした。 信頼して苦情を言っているのに、それにまったく応えていないのですから、これでは、信頼を得られるはずがありません。 信頼を裏切られると敵になります。敵になると、悪評を(たとえば)10人に広めます。 なぜ、好評より悪評を広める数が多いのでしょうか。 実は、人はいつも『正しくありたい』と思っているものなのです。 ですから、『人を憎む、嫌うというのは、正しくない』と心のどこかで感じます。 すると、防衛機制が働いて、自分を正当化しようとします。 自分の意見に賛同してくれる人を増やすことで正当化しようとするために、悪評の方が余分に広がるのです。井戸端会議や週刊誌で悪いうわさの人気が高いのは、そういうことなのですね。 今回は、マスコミが正当化の役目を果たしたようです。安部首相や自民党を憎む気持ちは、自民党の失態が次から次へとニュースになることで、正当化され、増幅されたのではないでしょうか。 それが、今回の惨敗の大きな要因だと私は思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 31, 2007
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通信教育講座「ブレイクスルー思考」のテキストが届きました。 南カリフォルニア大学名誉教授のナドラー氏と日比野省三さんが提唱している新しい思考方法です。 ※以下参考に 最初の方を読んでみたら、ヒカリズムで伝えていることと同じことがたくさん出てきました。 というより、ヒカリズムは、ブレイクスルー思考の一種だったんですね。悟りへの道を模索する中で、ブレイクスルー思考を開発していたわけです。(かなりすごいかも(笑)) ブレイクスルー思考の基本となっているのが、「思考のパラダイムシフト」です。 また、ブレイクスルー思考では、「本質とは、目的そのもの」と言います。ブレイクスルー思考は、目的から思考をスタートする思考なのです。 ヒカリズムでは、正しさは、目的に対して相対的に決まる、と言っています。 また、ブレイクスルー思考では、『万物はユニークな「差」がある』と言います。 ヒカリズムでは、個という分離は違いである、と言います。 その他にも、いろいろあります。 では、ブレイクスルー思考とヒカリズムの違いは何かというと、まだすべてを読んでいないので分かりませんが、パラダイム(枠組み、基本的な考え)の根底にある『私』の違いのはずです。 ヒカリズムでは、その人の目的を見て私というものを、身体(肉体、body)精神(心、mind)魂(意識、soul)と分けます。もうひとつの分け方として偽りの自分(怖れからの欲求、目的。共依存)と本当の自分(愛からの欲求、目的)と分けます。 この部分はおそらく違うはずだと思うのですが・・・ さて、楽しみです。(^^) ちなみに、「生きがいの創造」の飯田文彦さんも同名の本を出しています。こちらでは、自分という概念がヒカリズムと同じかも。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 30, 2007
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自民党が選挙で大敗しました。選挙前から、安倍政権の支持率もかなり落ちていました。 大敗の理由はいろいろと語られています。年金問題とか、権力者の方を向いたいたとかそんな表面的な理由ではないと私は思います。そんなことは、みんな承知しています。 こんな話があります。ある会社で、二つの工場で蛍光灯の数を半分に減らす実験をしました。一方は、経費節減という理由でもう一方は、「明るさというのは明るすぎても目に悪いということなので、どのくらいの明るさがみなさんの目にやさしいのかを調べるために蛍光灯の数を変えて調査しています」と伝えました。 さて、結果はどうなったでしょう。 同じことをしているのに、前者(経費節減)の工場では、効率が落ち、ミスや不良品が増えました。ところが、後者のほうは、同じように暗くなっているのに、逆に効率が上がり、ミスや不良品が減ったのです。 このように、何をしているかより、自分のことを認めてくれているかどうかという気持ちの問題が人間には大切なのです。 つまり、本当の理由は、安倍首相の性格なのです。性格というのは、共依存のパターンをまとめて表現したものです。 選挙で大敗した後、安倍首相がうっすらと目に涙を浮かべ、握り締めた手は震えているのがテレビに映されていました。 ですから、安倍首相は普通の感情を持っているのです。 でも、話だすといつもの冷静な語り口です。無表情な話し方と言ってもいいかもしれません。 つまり、感情表現が上手にできないなのです。(もしかしたら、奥さんがこれを読んで、「そうなの、だからいつも損をするの」と言っているかも(^^;) 年金問題が大敗の大きな原因と見ている人が多いと思いますが、それよりも、年金問題に対する答弁のときに無表情に(見える)話し方をしていたのが、多くの国民の神経を逆撫でしたのだと私は思います。それに追い討ちをかけるように次々に起こる政治家のお金の問題。 『生活のためにわずかなお金を工面しているのに、お前(首相)のその答弁はなんだ、お前らは、いろいろあくどいことをしてお金を手に入れて困らないからちっとも私の気持ちをわかってくれていないんじゃないか!』そんな感情を抱いた人が多かったのだと思います。 一方、国民に人気があった小泉前首相は、貴乃花が引退するときにも「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」と気持ちを前面に押し出したコメントが有名になりましたが、このように、いつも気持ちを伝えていました。 「こころのチキンスープ」という本のシリーズの一巻目にこんな話が載っています。------- 引用開始「本当の意味でのタフな精神を身につけるには、いちばん親しい人に愛情をしたえられなくてはいけない」<中略>ワイフに「愛してる」って言うのにどうしてタフな精神が必要だって言うんだろう?そんなことは、誰にだってできることじゃないか。それにまた、君は「ベッドの中じゃなくて、昼間の明るい時にいわなくてはいけない」と言っていた。 よし、それがいかに簡単なことかを証明しよう、と思った。ところが、言おうとして咳払いがするんだが、そこから先が続かない。言葉が出そうになっては、引っ込んでしまうんだ。ついに、ワイフが新聞から顔を上げ、「何か言った?」と聞いてきたが、「いや、何にも」と答えてしまった。 つぎの瞬間、私はいきなり立ち上がって彼女のほうに歩きだしていた。どぎまぎしながらワイフの読んでいた新聞を脇にどけ、「アリス、愛しているよ」って言ったんだ。 一瞬、彼女は面食らったようだった。そのうちに涙でうるみ、やさしい声でこう言った。「エド、私もあなたを愛しているわ。でも、あなたがこんなふうに言ってくれたのは25年ぶりよ」とね。P28P29------- 引用終了 ほとんどの人は、広い意味での共依存です。それは、誰かに認められたがっている、ということであり、そのことに関して、理屈ではなく感情的に対応してしまう、ということなのです。 夫が奥さんに素直に愛していると言えないというのは、よく言われることです。 それは弱みを見せてはいけないというコントロールドラマが関係しています。 小泉さんと安倍さんの人気の差となった大きな違いは、そこ(感情表現)にあると私は思います。 自分の弱さを素直にこちらにさらけ出してくれた人をあなたは嫌悪するでしょうか?それとも好感を持つでしょうか? こちらが苦しんだり、怒ったり、悲しんだり、しているときに無感情に事務的に対応されたら、あなたはどう感じるでしょうか? どんなに正しい対応をされてもどこか気分がすっきりしないでしょう? こちらが苦しんだり、怒ったり、悲しんだり、しているときに共感してくれたら好感を持ちますよね。 相手が(恋人であれ、子供であれ、誰であれ)が何かを主張したら、自分の意見はちょっと横において、そのまんま受け入れてあげること。 それが愛されるコツ。 もし、あなたの意見がどんなに正論であっても、相手を否定することを言ったり、そもそもあいての主張を心を込めて聞いてあげなかったら、嫌われてしまいます。(それでフラれた人もいます、・・・ほら、そこのあなたのことですよ) 「(存在価値不安症だから)すべての人は認められたがっている」それが人間関係の秘密なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 29, 2007
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宗教をどう定義するかということでもありますが、ここでは、真理を教え伝えるものを宗教と定義してみます。 かもめのジョナサン で有名なリチャード・バックの「ONE」という本の中に真理が宗教となると、その実態から離れたことが起きることが語られています。 これは、 ジナ・サーミナラ /大自然界 の「神の理性」たま出版 の中でも語られています。 また、「生きがいの創造」で有名になった飯田文彦さんも過去生で宗教として伝えようとして失敗したので今生では、宗教化せずに伝えているということを言っています。 宗教化すると、組織が生まれます。するとその組織の維持が目的となってしまいます。そうなると、真理より組織の維持が優先されることが出てるので、真理が伝わらなくなるのです。 また、より多くの人に伝えるために組織化するためにより多くの人に伝えるという目的も優先されますが、パラダイムの違うものを多くの人に伝えようとするとその中の多くの人は、古いパラダイムのまま、新しいパラダイム(真理)を理解しようとするために間違って伝わることになります。 組織化は、そのような欠点を持っていることを理解して置くことが必要です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 29, 2007
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ヒカリズムの理解を深めてきた人には、宗教の功罪が見えていると思います。 宗教の功績、良い点とは、教祖がつかんだ悟りを伝えてくれている点です。 けれど、そこには、パラダイムのギャップがあります。それは大きな亀裂のように思考を阻みます。 一番のギャップは、自分が悪いと信じていることを否定していることが愛であることから自分を遠ざけている、ということでしょう。 感情的に拒否してしまうのです。 それは、正しさということが自分自身だからです。 これは自分の本質が意識であり、たったひとつの意識から分離するためには、違いが必要であるということがわかれば、理解が及ぶことです。 自分の正しさを直接否定することはもちろんですが、自分が思う悪を受け容れることは、間接的に自分を否定することになります。 だから、悟るためには、一度死ぬことが必要、という言葉があるのです。 ここで死ぬのは、肉体ではなく、意識としての自分、違いとしての自分です。 それができない人は、古いパラダイムのまま、教祖の教えを理解しようとするために、逆に意識進化から遠ざかることになることがあります。 宗教が教える正しさのために、宗教戦争や自爆テロで人を殺すことを正しいと思ってしまったりします。 これが罪、悪い部分であり、それは同時に正しさの決断を他者にゆだねていて、自分で正しさを選び取り、その責任を負うことから逃避するという罪、悪い部分をももたらしてします。 自分を確立し、その上で他者を受け容れていくのが意識進化でワンネスへと向かいます。 ところが、逆に自分というものを失い、誰かに依存してしまうと、違いによって生じた意識はその存在意義を失い、スマル行きになり、融解してしまうことになります。 宗教を信じるのはかまわないけけれど、すべてを無批判に受け容れるのではなく、自分をまずしっかりもつことが必要なのです。 人は、自分に自信がなくなったときに誰かに頼りたくなります。 そこに宗教があると、思わず依存してしまうことがあります。 ある女性は、そのようにしてある有名な宗教にのめりこみ、合同結婚式を挙げて、あったこともない韓国の人のところに嫁ぎ日本人だということで迫害にあったり、とてもとても苦労したそうです。 まず自分をしっかりと持つこと。自分をよりどころとすること。 これは、おそらくあなたが思っているより、とても重要なことなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 28, 2007
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ショットバーマスターがつたえる、幸せを呼ぶ人 そうじゃない人というステキなブログがあります。 今日は、その中のひとつのブログ「感情の洗濯機から抜け出す」のテーマをお借りして、ヒカリズム的にお話したいと思います。--------------------わたしたちは、ふとしたきっかけから、嫌なこと、悲しかったこと、腹がたったことなどを思いだしたりして、不快に感じたり、悲しくなったり、腹を立てたりすることがあります。そして、その感情に振り回されてどうにも抜けられなくなることがあります。この時、私たちの中で、何が起きているのでしょう? 脳は、そのしていることの種類によって活動する部位が違っていることはよく知られていることです。感情について、「アインシュタインの創発思考」や「理性のベクトル」などの著書を持つ謎さんこと大井さんの解説を引用します。----- 引用開始感情機能を司っているのが『大脳辺縁系』です。高度な意思決定(思考機能)を司っているのが『大脳新皮質』です。<中略>低次の感情は『大脳辺縁系』から生じ、高次の感情は、『大脳新皮質にある前頭前皮質』から生じています。低次の感情は本能的なものであり、条件反射的に生じます。そしてこの感情は、数秒間しか持続しません。高次の感情には、思考による価値判断が深く関わっています。そしてこの感情は、長期間持続する場合があります。前頭前皮質を破壊された人からは、高次の感情が失われます。そして、大脳辺縁系を破壊された人からは、低次の感情が失われるのですが、同時に、高次の感情も失われます。何故ならば、高次の感情は、低次の感情を土台として機能しているからです。----- 引用終了 エリザベス・キューブラー・ロス博士もこう言います。----- 引用開始自然に育てられた子どもの自然な感情は、十五秒くらいしか続きません。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊 P108)----- 引用終了 この説明でお分かりのように、私たちが過去のことを思い出して過去の感情を再び味わったり、いつまでも怒っていたり、悲しんでいたりするとき、最初の一瞬の感情以降に活動している脳の部位は、感情を司る部分ではなく、脳の思考を司る部分なのです。 私たちが、自然な感情に振り回されているのではなく、自分で囚われた思考を続けることで、自分で自分を人工的な感情によって振り回しているのです。 つまり、私たちが、感情に振り回されているときに起きているのは、ある考えに囚われることで、感情を不自然に繰り返して発生させているという現象なのです。ふだん感情だと思っているものは、感情のような思考といってもよいくらいです。 このように感情に振り回されている状態から抜け出すためには、3つの方法があります。1.別のことを考えることで、その囚われた思考を止めるたとえば、そのような感情の堂堂巡りをしているときに、大地震が起きて逃げなくてはならないとき、逃げるのに夢中になって、感情に振り回されているどころではありませんよね。ところが、これはまた囚われた思考を始めたときに、復活してしまいます。2.現状と囚われた考えの比較を止める囚われた考えとは、「こうあるべき」という絶対視です。その絶対にこうあるべき状態とそこから外れた現状を比較するから、そのギャップに怒りや悲しみの感情が湧くのです。 これは、難しいですし、一時的なものです。3.基本的な考えを書き換えて「(前提のない)こうあるべき」をなくす。 比較基準がなくなるのですから、囚われた考えによる思考は止まり現状が何であれ、あるがままに受け容れらるようになり、感情に振り回されることがなくなります。 ヒカリズムのあるがままに受け容れるとは、この状態を作るための方法を指しているのです。 最初は、受け容れようと努力が必要です。努力が必要なうちは、必ず「こうあるべき」を持っています。それに気づいたら、本当にその考えが必要がどうか、目的に照らして検討します。(ここで共依存という状態が単純な論理だけでは容易に治せないため、実際は、そんなに単純な話ではありません) ここでは、「扁桃体」という過去の感情記憶が蓄積されている部分を体験で書き換えることが有効になります。 ニューエイジなどでは、過去の未消化の感情を味わい尽くすとか、消化させるという言い方をしていますよね。 たとえば、アルコール依存症で、酔うと暴力を振るう父親の下で育ち、その結果、別に暴力をふるわれたわけでもないのに父親と同じような高圧的な態度や言葉で話す人に会うと、思わず萎縮して、言いたいこともいえなくなる人がいたとします。 それは、その相手自体が怖いのではなく、扁桃体を参照することで、過去の記憶を投影しているのです。 幼い子供にとって、そのような状況ではそれしか方法がないかもしれませんが、これを大人の認知で、恐れず対応している他の人と同じ認知方法に書き換えることで投影された感情から解放されることができます。 以前では、漠然としか分からなかったことが、現代では、医学や臨床心理学などで、ここまで解明されています。 ヒカリズムでは、光の存在やニューエイジなどのあいまいな言葉を科学的な解釈で裏づけできるものは、科学的に解明した上で、お伝えしています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 27, 2007
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今回の地震での被害も大変でしたが、佐渡などの観光地でキャンセルが相次いでいるそうです。 こういうのも風評被害の一種だと思います。キャンセルは、弱者に追い討ちをかけるようなものです。 地震の被害といっても新潟県すべてではありません。せっかく一度は新潟観光にいらして下ることを決めた方宿泊施設などにご確認のうえ、ぜひ冷静な対応をお願いしたいと思います。 新潟観光情報 地震に対しての義捐金やボランティアで直接ご協力くださるのももちろん大変ありがたいことです。 ぜひお気持ちがあればご協力ください。 でも、特に交通事情その他に問題がなければ、キャンセルせずにご自分の楽しみの観光をしてくださることで間接的に地震の被害者への回るお金も出てきます。 仏教に回向(えこう)という概念があります。日本テーラワーダ仏教協会の回向の説明にこうありました。------- 引用開始 回向というのは、善行為(喜びに値する行為)で得た功徳を他にも分け与えることです。功徳とは幸せに生きるためのエネルギーです。「私がした善い徳をあなたにも分けてあげます。あなたも幸福でありますように」ということなのです。------- 引用終了 『地震で苦しんでいる人がいるのに私だけが観光をして楽しんだりしては申し訳ない』 そんな思いでキャンセルされた方もいるかもしれません。 しかし、そんなことを言ったら、世界のどこかで苦しんでいる人のことを考えたらまったく楽しむことなどできなくなります。 そのような考え方は、一見やさしい気持ちのように思えますが、実際は、意識進化の方向性が逆を向いています。 もしあなたが逆の立場立ったらどのような思いを持つでしょう? 「私が苦しんでいるのだから、あなたも楽しむのをやめなさい」と言いますか? それとも、「私は大丈夫だから、せっかくだからあなたは楽しんできて」と言いますか? どちらを言えるようになりたいですか? バシャールは「相手を何もできない弱いものだと見ないでください」と言います。------- 引用開始(以前の本からの抜粋です)Q10:自分の一番大切な人がしても苦しんでいるときに、例えば病気で苦しんでいるとか、離婚の問題で苦しんでいるとか、人それぞれに違いますが、そのときに私自身は、その人のために直接的になにもすることができませんので、その人のために祈ります。でも、その人のつらい思いが自分に伝わってきて、自分の気持ちもどんどんその人の思いと同じように暗くなっていきます。暗くならないように祈るのですが、どうしてもその人の思いを考えると暗くなってしまうのです。そういったとき、相手のために一所懸命祈ることの他にできることがありますか?バシャール:少し提案したいことはあります。まず最初に、その相手を弱い存在と見ないでください。慈悲をかけると、その人自身のいまの状態をより強調することになります。そして二番目に、すべての個人は自分の現実を選択している、ということを理解してください。その人たちに、なにかを提案することはできます。それによって、その相手が変わることができるかもしれません。しかし、変化をその相手に押しつけることはできません。きょう話したような新しい考え方をその人達に話すこともできます。でも相手の観念は、それを受け入れないかもしれません。一番最初に理解して欲しいのは、あなたが他の人の責任をとることはできない、ということです。一番簡単にできるのは、その人達のために「自分の」責任をとることです。それは次のようにやります。まず最初に、相手が罠に はまったというような見方はせずに、その人個人が自分自身でそれらを抜けていく力を持っているのだ、と完全に信頼してあげることです。そしてその人達がいまやっていることを、自分の中で再定義づけしてください。相手はいま非常に苦しんでいるかもしれません。痛みを感じているかもしれません。でもその痛みを通り過ぎて、自分でなにかをやる強さがあるのは明らかです。そういった大きな制限をわざわざ自分に課している、その強さをまず見てあげてください。そしてその人達がなりたい本来の姿に、あなた自身がモデルとなってあげて、その人のまわりで輝いてあげてください。その人と気持ちを分かちあうことは、本来、その人の気持ちを持ち上げることなのですが、上から慈悲をかけられると、非常に落ち込みます。相手が絶望的な状態にいるとき、あなたがまわりで「あなたは本当に大変ね。もうあなたは絶望的ね。」と言っていたら、どうでしょう?地球のことわざにあるのですが、「絶望的な人は絶望的な人を呼ぶ」で、二人して絶望するだけです。ときによっては、誰かが絶望的になっているときに、あなたが幸せそうにハッピーにしていたら、なんて冷たい人だと思われることもあります。でもそれを恐れないでください。相手に話してあげてください。私はあなたのことがとっても好きだと。あまりその人のことを好きなので、愛しているので、そんな絶望的なことをいちいちあなたに見せていられない、と。環境を変えたり、いろいろなものに立ち向かう姿勢を、ほんの少し変えることを教えてあげてください。なにかワクワクしたり、新しい方向にあるワクワクすることを教えてあげてください。でも、相手があなたの提案を受け取らなくても、それは彼らの選択です。あなたがいま、絶望の方を選んでいても構わない。でも私はずっとそばにいて、あなたがいつでもその新しいやり方をやりたくなったら、振り向いてください、と。自分自身を変えることが一番早い、ということを見せてあげてください。あなた自身が輝いて、光となってあげることによって、彼らもそれを感じざるを得ないようにしてあげてください。自分が、その光の鏡となってあげてください。そうでなければ、あなたはちょうど葬式屋さんのようになってしまいます。アメリカでは死んだ人の顔を全部作り直して写真を撮りますが、一所懸命、死んだ人をきれいにして、本当に死んでいるんだ、ということを見せているだけです。分かりますか?(バシャール2-P77~P79)------- 引用終了 ヒカリズムの名前の由来のひとつに自分らしく光輝いて生きる生き方、というものがあります。 あなたは持っていないものを与えることはできません。 似た言葉で、共感と同情があります。 共感には、相手の気持ちをわかりつつ、そこを乗り越えられることを信じる相手の強さへの信頼があります。一方、同情は、自分も同じ気持ちになって一緒になって落ち込んでしまいます。これはつらさの連鎖になるだけです。 安達祐実ちゃんの「同情するなら金をくれ」という言葉がはやったことがありましたが、『そんな同情なんかして欲しくない』と思うことがあります。同情されるほうが不快なことがあります。 それは同情し、相手をかわいそうに思うとき、知らず知らずに『自分ではなくてよかった』という優越感を感じてしまっていることがあるからです。 このとき、苦しんでいる相手と同じようにそのことに対する恐れがあります。 それは本当の愛ではないのです。 もし、同じ状況に自分が置かれたら、その人は、今苦しんでいる人以上に苦しむかもしれません。 一方、共感をしつつ、相手の強さを信じられる人は、同じ状況に自分が置かれたときに、自分にもその壁を越えられることを信じられるはずです。その出来事を否定せずに受け容れられるのです。 それが本当の愛なのです。 あなたが自分らしく輝いて生きるとき、それは、あなた自身が幸せを感じるのですから、もちろんあなた自身のためにしていることです。でも同時に、あなたが輝くことで相手にも愛を伝えられる。それが本当の慈悲、回向になるのです。 ヒカリズムという名前もそこまで考えてつけられています。 神様はあなたが背負えない荷物をあなたに背負わすことはありません。 もし、自分には重すぎると感じるとしたら、あなたが信頼を忘れているから・・・それが本当の理由なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 26, 2007
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投票日まであとわずか今朝、候補者が雨の中、傘も差さずに合羽を着て濡れながら交差点で熱弁を振るっていました。 これを見て違和感を覚えました。 たしかに、街頭演説の途中に雨が降り出して一所懸命なので雨に濡れるのもかまわずに演説を中断しないで熱弁を振るう姿は一所懸命さが伝わってきて好感が持てるということはあります。 しかし、後ろの運動員も含め全員雨合羽を用意していながら、合羽の帽子もかぶらずに濡れながら演説している姿は好感度演出があからさまに感じられてかえって不快ですね。 選挙の中で常識化していることについつい従ってしまいそれを変えてまで自分のスタンスを表現できない共依存的な心理他者の評価を一番に考えてしまう共依存的な心理を感じてしまいます。 多くの心の病とは単に程度の差だけ。基本的に同じメカニズムで動いています。ここまでくると、病に近い。 たしか、選挙用の特別な透明傘も選挙七つ道具だかなんだかにあるはず。 雨が降って濡れるのがイヤなら傘を差す こんな当たり前のことができず風潮に流されてしまう候補者にちゃんとした仕事ができるのか疑問に思ってしまいます。 雨に濡れてまでがんばっている姿勢を見せたいなら雨合羽を着るのもやめたらどう? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 26, 2007
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ヒカリズムでは、自分を本当に愛するということ自分のしたいことをすることを伝えています。 このことは、とても大切なことです。 しかし、慈悲とか愛とか、他の人にやさしくすることが大切だ。と言う人もいます。自分のしたいことをしていたら世の中がだめになってしまう、と言う人もいます。 ところが、自分を本当に愛するということは、言い換えると「自分のあるがままを受け容れる」ということです。 メールレクチャーを受けたり、メルマガを見たりした人の中に「自分を愛そうとするんだけどなかなかなできない」と言う人がいます。 それは、言葉の表面しか理解できておらず、「自分を愛する」ということがどういうことなのか具体的に見えてこないからできないのです。 愛エプこと、「愛のエプロン」という番組で、作り方の説明なしで料理を作ると企画がありますが、たとえば、八宝菜があって、それが八宝菜だとわかって作ったことがある人は、もちろん簡単に作れます。ところがそれが八宝菜だとわからない人、八宝菜だとわかっていても作ったことがない人はどんな材料をどのように料理したら良いか見当がつきませんよね。 それと同じように、「本当に愛する」ということがどのようなひとなのかがわからない人は『自分を本当に愛そう』としてもやり方の見当がつきませんから、行き当たりばったりでそれらしいことをやってみるしかないのです。インリンさんが知らない料理を作っているようなものです。(^^;ですから、うまくいかないことがあっても当たり前なのです。 愛するということは、あるがままを受け容れるということです。 そして、それは、行為ではないのです。 「愛する」という動詞で使われますが、愛とは、意識の中から「(前提を設けない)こうあるべき」を手放した結果であり、結果として生じた状態です。 このブログでも私が「あるがまま」ということを言っているのに「~すべきだ」と言っていることが矛盾しているというような意味のコメントを書いた人がいます。 私が「~すべき」というとき、「もしあなたが愛でありたいのなら~すべき」というように必ず前提があります。 このことは、たとえば、原発賛成と原発反対の人のどちらが正しいかというような議論は、前提が違うから正しさも違って当たり前で、結論がでないということがはっきりわかることに繋がります。 CO2を減らすという目的(前提)なら、火力発電より原子力発電が有効、万が一の放射能事故を防ぐ、放射能の危険からの安全の確保ということでなら火力発電が正しいとはっりと結論は出ます。 しかし、どちらの目的が正しいかもやっぱりその先の前提次第となります。 最終的に、個人個人の好みで決めているという結論になるのです。 さて、自分を本当に愛するためには、愛する努力をするのではなく、自分の基本的な考えの中の「こうあるべき」を手放す努力をすることです。 自分を愛せないとき、そこに必ず理由があります。「~できないから」そして、そこにある「~あるべき」がありますから、それが本当に今の自分の前提(目的)に必要かどうか検討し、その結果「あるべき」を手放すか、目的を維持しつつ、それはその目的に対してのみ有効であることを明確にすることです。 そうやって、自分の中のあるべきを手放していくと同時に他の人のあるがままも受け容れられるようにななっていきます。 つまり、受け容れられない原因がひとつですから、原因をなくすことで、自他同時に受け容れることになるのです。 ところが自分を愛せないまま他者を愛そうとすると自分の本当の気持ちを押し殺して表面的にだけ愛するポーズをすることになります。 それは意識進化では、逆の方向性を持つこと(退化)になります。 ヒカリズムでは、そんな深い部分まで踏まえたうえで自分を本当に愛する自分のしたいことをするということを伝えているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 26, 2007
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その人が何に価値を感じるか、それが実はその人自身であり、全体の意識からその人を分けている違いなのです。 その価値観は大きく3つに分けて考えられます。物質善なること(他者の評価)無条件の愛 クリスマスキャロルのスクルージのような守銭奴やレイプ魔のような物質、肉欲に価値を置く人は、身体だけで生きています。 宗教依存のように誰かが決めた正しさにしたがって善なることをしようとする人は、身体と心で生きています。 この真ん中のレベルの人がほとんどです。 誰かの身体が傷つけられることに同情し、キリスト教迫害の踏み絵のようなときには、イエスを愛する心を自分の身体に優先します。 今の社会的にはすばらしいと思っている人も多いと思いますが、たいてい意識の進化が逆転しています。 社会の常識にしろ、宗教の規則にしろ、他者の価値観で生きているのです。 自分というものを失っています。だから、地下鉄サリン事件のように教祖の言うことなら変に感じても実行してしまったり、正しさのためと宗教同士で殺しあったり、自爆テロをしたりしてしまいます。 この間違いの理由は、自分を失っていることです。他人の価値観に捕らわれて奴隷になっていることです。 たとえそれが社会の常識と同じものであっても宗教の教えと同じものであってもすでにあるものに同意しているだけであっても『自分でそれが正しいと選ぶと決めたからそれが正しいのだ』と自覚してるのなら、それを他者に押し付けることはありません。 なぜなら、それを正しいと決めていない人にとっては、それは正しいことではないのですから。 そのことを自覚し、すべてをあるがままに受け容れることが無条件の愛です。 ここに価値を見る人は、身体と心と愛とすべてとで生きている人です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 25, 2007
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足立幸子さんの「あるがままに生きる」という本に「尊徳」という言葉がでてきます。 徳を尊ぶということですね。 私たちは、自分の得になることをしようとしがちですが、自分の徳になることをしようということです。 しかし、誰しも「自分の得になることをする」ものなのです。 徳になることをしたい人は、徳になることをすることが自分の得になると考えているから、徳になることをしたいのです。 つまり、人は必ず得になることをしているのです。しかし、世間の常識の損得が物質的な価値観に偏っているために損得といえば、物質的なものをイメージし、物質的なものを捨てても善なることを選ぶ人を尊いと思うのです。 しかし、それは物質的な価値観から見るとすごいことのように見えますが、本人にしたら当たり前のことなのです。 魂のレベルから見たら、どっちがえらいとかいう問題ではないのです。 単に価値観の違いにすぎないのです。 こういう視点が持てるようになるとあるがままに受け容れることが容易になるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 24, 2007
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チャン・ドンゴン、真田広之の「PROMISE」(日曜洋画劇場)またまた、時を戻ってやり直す話! 『もし、過去にさかのぼって人生をやり直せたら・・・』 誰しも、一度はそんなことを思ったことがあるのではないでしょうか? もちろん、そんなマントも力もありませんが、私たちは、誰でもいつでも、最期の瞬間まで、人生をやり直すことができるのです。 肉体的に物質的にやり直すことはできませんが、意識として、愛を選択し直すことはいつでもできるのです。 富や名誉など、それを手に入れるため、または、死を恐れるがために愛を選ばないという選択をしてしまっても、最期の瞬間まで、いつの瞬間でも愛を選び直せるのです。 死を恐れて北の国の人々を裏切って刺客になった男も最後の瞬間に愛を選択しました。 何も得ることがなかったように見えても愛を選択した本人は、満たされているはずです。 「千の風になって」という曲がヒットし、その詩が有名になりました。その詩では、私たちは本当は肉体以上の存在で、死んだ後もなお、普遍の存在して生き続けていると歌われています。 もし、あなたが誰かを許すことができないまま、相手が死んでしまってもあなたが生きているなら、まだ間に合うのです。 あなたが相手を心から許しさえすればいいのです。相手はその思いをどこかで必ず受け取ってくれるのです。 大切なのは、あなたの意識が愛になること。たったそれだけのことなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 22, 2007
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スピリチュアルな生き方をしようとしている人が参考にしているのは、シルバーバーチとか、神との対話、山川紘矢・亜希子さんが訳された本や江原啓之さんなど、どちらかというと癒し系のものが多いと思います。 それに比べると半田広宣さんがチャネリングした冥王星のオコツトは、かなり異質です。 でも、その言っている本質は、癒し系のものと同じだと私は見ています。 たとえば、私たちは、肉体として死んでも生き続ける存在であるワンネスと呼ばれるような神意識が分離と統合を繰り返している分離した意識を統合するために物質世界にいる私たちは本当は神そのものであるetc. 同じことも、違った視点から見ることでその本質に気づくということも多いものです。 さて、「シリウス革命」の中のオコツトの説明を見ていきましょう。 ニューエイジなどでは、許し、やさしさ、忍耐、愛を学ぶという言い方をしますが、オコツトは、「付帯質の対化を等化していく(P24)」と言います。 付帯質とは、精神に対するものでとりあえず、物質世界に映し出させれているすべてと思ってください。対化と呼ばれる対立は、以下のような段階になっていますプサイ1: 空間プサイ2: 時間 または 物質プサイ3: 対象を示す名プサイ4: 対象のイメージプサイ5: 自己プサイ6: 他者プサイ7: 自己から他者への一体化の方向(社会性)プサイ8: 自己の分離化への方向性(個体化)プサイ9: 自己から見た共同体プサイ10: 共同体から見た自己プサイ11: 集団、組織、国家などの共同体プサイ12: 対立する集団、組織、国家などの共同体 それぞれが順番に対化になっていて6段階になります。1段階は、空間 と 時間、もしくは、空間 と 物体2段階は、対象を示す名 と 対象のイメージ3段階は、自己 と 他者4段階は、自己から他者への一体化の方向(社会性)と 自己の分離化への方向性(個体化)5段階は、自己から見た共同体 と 共同体から見た自己6段階は、集団、組織、国家などの共同体 と 対立する集団、組織、国家などの共同体これらを等化すると次の次元への次元上昇があり、それが13番目の段階に位置していますプサイ13: 闘争の消滅 陰陽師(おんみょうじ)や、ゲド戦記に本当の名の重要性が出てきますが、2段階の、対象を示す名 と 対象のイメージ の対化として名が重要なものになっています。また、マヤは13の月で年をあらわしていたように13という数字も興味深いですね。 さて、オコツトの説明によると、方向性というものが重要になってきます。私たちは線を一通りにしか理解しませんが、対化を結ぶ線には、行って帰っての2方向あり、 (ツインシステム(双対性)が働いています)その方向性を重要視します。 対化を結ぶ線を右から左へ行く(等化する)のと左から右へ行く(等化する)のはまったく逆方向だということです。だから、対化に順番があるのです。5と6の自己と他者の対化を等化した先の次のステッププサイ7の 自己から他者への一体化の方向(社会性) が愛の次元です。 方向性が重要なのでステップは、順番に上がらなければなりません。 分かりやすい言葉で半田さんが説明しているので、引用します。----- 引用開始プサイ5(自己)の確立とは、(中略)簡単にいえば、自分の考えていることをはっきりと言葉にしたり、自分のビジョンをしっかりと現実の中に転化させていくことを意味する。誰でも自分自身の創造性や行動に自信を持っていれば、優越感や劣等感を持って他者を攻撃したり、批判する必要はなくなる。ほとんどの攻撃や批判は前節でも見た通り、反映側、つまり他者への依存が作り出すものなのである。とりあえずは、徹底して個体化していくこと---これが悪の発生を防ぐ最も理性的な態度だと言えるだろう。ちなみに、ここでいう個体化というのは自己の自立のことであって、単なる「わがまま」のことではないので、くれぐれも勘違いしないようにしてほしい。(P319P320)----- 引用終了 共依存やコントロールドラマを知っている人がこの説明を読むと、『なるほど、そのとおり』と納得していただけると思います。 たとえば、ポランティアをする、寄付をするといったとき、他者の評価を気にして(他者に依存しているということ)本当にしたいことではないことをしているとしたら、楽しくないはずです。これは、方向性、上昇の順番を間違っていることを感情で知らせているのです。 ニューエイジを知ってやさしくしなければ、愛を行わなければとあせっている人にこの間違いが多いと思います。 物質世界の常識では、善いことをすることは良い、と意識の方向性の区別がありませんが、実際はそうではないのです。 癒し系のニューエイジは、その部分があいまいです。 けっして、そのことを伝えていないわけではないのですが、その重要性があまり説明されていません。 しかし、実はここが悟りのポイントなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 22, 2007
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筒井康隆さんの原作の続編のような現代感覚の作品です。 主人公の少女のおばさんが、原作の主人公の芳山和子のその後という設定で、続編ぽい繋がりの別の作品。 失敗したらやり直せる。元に戻って正解になるまで何度でもやり直せる。 本当にそれが幸せだろうか? この話の中では、タイムリープの回数は、限られていました。 そもそも、選択に最善があるのだろうか? その答えは、ヒカリズムにあります。ヒカリズムの基本的な考えに「すべては相対的である」があり、そこから「正しさは、目的によって決まる」と考えます。 つまり、ひとつの目的に対する正解、最善は、別の目的からすると、間違った選択なのです。 そして、固定的な目的があるように見えて、実際は、目的というものは、その瞬間のさまざまな要素によって変わってきます。 つまり、その瞬間の要素が変わるのであれば、戻ってやり直して最善を選んでも、その変わった時の流れの中で、変化した要素がまた新たな最善を創り出すために、決して最善にはなりえないのです。 しかも、私たちは、時をかけることができません。 私たちにできる最善。それは、今を生き、自分を生きることです。 ロビン・ウイリアムズ主演の映画がありました。しょうもない楽天には、DVDの写真がありません。(-へ-) 今を生きるとは、自分を生きることでもあるのです。 その結果がなんであれ、自分を生きたのなら、結果を引き受けることができます。 自分を生きている人は、相手の自分を生きる熱心さを認めることができます。 この新作:「時をかける少女」の主人公は、最初は逃げていました。男の子から告白されて、時間を戻して逃げました。 何度も逃げて、戻れなくなってから、相手の真剣な思いを踏みにじっていたことに気がついたのです。 相手の気持ちにYESと応えられないと、言葉を濁したりして逃げてしまう人がいます。 なぜなら、自分が断られたら傷ついて嫌だからです。 でも、大切なのは、YESと応えることではなく、相手の態度に真摯に向かい合うことです。 ごめんなさいでもかまわない、真摯に向かい合うことが最善の方法です。 そて、一番最初に真摯に向かい合うことが必要なのは、自分の本当の思いです。 自分に正直になれたら、他の人にも真摯に向き合えるようになるのです。 そして、人生にも真摯に向き合って今を生きることができるようになるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 21, 2007
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リンクしてくださったかたのブログに魅惑のエッチというホロスコープから導き出されたエッチ度占いがありました。 エッチだとちまたでうわさ(笑)のわたくしめなので、試しに占ってみると・・・・・(^^;----- 占い結果おまえは根っからの快楽主義だよなー。「そ、そうかもしれません(^^;小学生低学年からオナニーしてたし(^^;」気持ちいいことと、恋人とベタベタすることが、なんつーか、もう生き甲斐っつーか、このまま永遠に時間よ止まれ!!っつーか、まあ、そんな感じだな。「そ、そのとおりでごぜーますだーーー m_ _m」もともと楽しいことに流されやすいところがあるから、好きな相手とふたりで過ごしてると、文字通り「寝食も忘れて、時間が経つのも忘れて」ふたりの世界にどっぷりとハマりそうだぜ!!「えーえー、時間があればいつまでも・・・(^^;」エッチそのものはそんなに濃厚ってわけでもねーんだけど、「ほっ(@O@)、さよーでごぜーまーすか!?」相手を悦ばせたい!!という奉仕欲が強く、また、もともと食わず嫌いすることが少ないから、頼まれればなんでもやっちゃう!!ってタイプだな。「そうかもしれませんです、はい(^^)」それゆえ、経験が積まれるにつれて、過去のエッチの痕跡がくっきりとその身体に宿るといえそうだぜ!!「くっきりと身体にエッチがきざまれているんでげすな、納得したりして(^^;」 エッチ、万歳\(^0^)/ ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 21, 2007
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日本のユング心理学の草分けであり第一人者であった臨床心理学者の河合隼雄さんが7月19日にお亡くなりになりました。享年79歳でした。 河合隼雄さんは、単にユング心理学にとどまらず、独自に日本的な神話や仏教、昔話なども融合させて、ユング心理学を進化させたというか、独自の心理学に発展させていたと私は思います。 ヒカリズムの中にも河合隼雄さんから学んだことも入っています。ありがとうございました。感謝(-人-) 今頃は集合意識と一体になっていることでしょう。合掌(-人-)
Jul 21, 2007
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心穏やかになると、日々の暮らしの中で愚痴が減っていきます。 あるがままを受け容れられるようになるからです。 その一方でほんとの小さな喜びを見つけることがうまくなります。その喜びをたっぷりと味わえるようになります。だって喜びを邪魔するイヤなことが起きないのですから。 次の提案! その喜びに感謝した気持ちを言葉や態度で伝えましょう。 おはよう、ありがとうにとびっきりの笑顔を添えましょう。愛している人に愛していると伝えましょう。ステキだと思っていることにステキだ思ってると伝えましょう。当たり前に思っていることも当たり前じゃないことに気づいたら、ありがとうと言ってみましょう。 誰かにやさしくできることが幸せなことだって気づきましょう。気づいたら、実行してみて。荷物を持ってあげるのでも、席を譲るのでもなんでもいい。 いいことをするという気持ちではなく、幸せに感じることをさせてもらえる機会を与えられたと気づきましょう。 読んでくださって、ありがとう。気づきに役立ててくださってありがとう。このブログを誰かに教えて、愛を伝えてくださってありがとう。コメントを書いてくれてありがとう。今日もランキングボタンをクリックしてくださってありがとう。そのクリックでランキングが上がると読んでくださる人が増えて、このブログを知ってくださる人が増えるんです。 ブックマークに登録してくださってありがとう。 ありがとうが自然に出てくるようになったらあなたは中から変わっています。 視点がネガティブからポジティブに変わっていきます。 他人からの批判は参考にしても落ち込んだりしなくなります。 心が明るくなっていきます。 あるがままの自分を愛せるようになっていきます。 あるがままの自分を愛せる人は、その愛を他の人にも向けられるようになります。 すべてを愛せるようになっていきます。 世界に愛が伝わっていきます。 世界が愛で満たされています。 愛しています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 20, 2007
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半田広宣さんの「2013:シリウス革命」でオコツトはこんなことを言っています。オ:あなたがたの歴史に残っている宗教知識というのは、覚醒期における変換人の知識がベースとなったものです。輪廻転生と呼ばれてきたものも、その本質は、変換人たちが所持した宇宙的な知識に由来するものだと考えてください。しかし、プレアデスの次元に入ってその知識は徐々に付帯質的なものへと曲げられていったのです。輪廻転生の本質とはタカヒマラにおける次元の交替化のことです。この交替化は人間全体の意識において起こるものであり、個体という意識において生起するものではありません。コ:どういうことですか、つまり、僕らは間違って輪廻転生を理解してしまっているということですか。オ:はい、輪廻とは宇宙全体が行うものであって、人間の個体という次元に存在するものではないということです。(「シリウス革命」P56) この文脈の中に本質的な輪廻転生は、人間全体の意識において起こるものそして輪廻とは宇宙全体が行うものとあります。つまり、宇宙とは、人間全体の意識である、もしくは、それに近いものであることがわかります。 お釈迦さまは、「色即是空」という言葉で、そのことを伝えているのですが、それを読む人の考えが物質に偏りすぎているので、まったく受け入れようとしてこなかったのです。 心理学にも集合無意識という言葉がありますが、私たちの意識は、ひとつである可能性が高いのです。 その場合、集合というより、ひとつの中で、周りを否定することで分離しているというかんじです。 そして、そのひとつの意識というのが、ワンネスであり、大いなるすべて(神)、なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 20, 2007
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これまで、意識が肉体の脳の活動とは別に存在する可能性や意識がワンネス意識から違いを持つことで分離して生じた可能性などを見てきました。 精神世界には、私たちがこの物質世界に生まれてきたわけを「私たちは、体験を通して学び成長するためにこの物質世界に生まれてきた」とする考え方があります。 これは、臨死体験や退行催眠による前世の記憶などで光の存在からの言葉として伝えられています。 ダニオン・ブリンクリーが臨死体験をしてあの世で出会った光の存在もこう言っています。(「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎より)「あなた方人間は、真の勇者です」と光の存在は言った。「地球に向かうのは皆、勇気ある者たちなのです。ほかの霊的存在には、とてもやる勇気のないことを、あなたたちはやってのけているのですから。あなたたちは、神とともに創造するために、地球へ向かっているのです」(P68) 体験とは、違いを味わうことです。 創造とは何か?分離した私たちが「創造」と感じるものは、新たな違いを創ることで新しいものを創ることです。 逆に、半田広宣さんがチャネリングした冥王星のオコツトは、「真の創造行為とは自然界に現れた無限の多様性を一なるものに統合していこうとする行為にある」と言っています。 面白い話があります。ある部族w@は、「1、2、3、たくさん、たくさん」と数えるそうです(4以上の数の概念は同じ)。 一方、インド人や南米の古代文明を生きた人たちは、0(ゼロ)という概念を発明しました。 さて 長髪を禁止する校則に賛成するAさんは『短いのは良い、長いのは悪い』と思っています。『そんな個性をつぶす校則は無くても良いんじゃない』と思うBさんの考えは、「短くてもその人のヘアースタイル、長くてもその人のへアースタイル」つまり、ただ、『その人のヘアースタイル』としてしか見えていません。 仮に、髪の毛の長さ以外まったく同じで人柄も良いC君とD君がいたとしたら、はたしてAさんは、二人を同じように受け入れられるでしょうか? 自分の中に固定的に「こうあるべき、こうでなければならない」という絶対視を持っている人は、そこから外れたものを許すことができません。 私たちは、何かを学びにこの世界に来たのでしょうか? 光の存在の言葉を飯田史彦、奥山輝実共著「(光との対話が人生を変える)生きがいの催眠療法」PHP研究所刊から抜粋してご紹介しましょう。D・・・・・ドクター(奥山輝実)C・・・・・クライアント----- 引用開始C:・・・・ゆ、許す?・・・・・。D:許すこと?「許すって、どういうことですか?何を許すのですか?」と、その光に聞いてみてください。C:「自分を・・・・・自分の愛情・・・・・人への思い・・・・・素直に信じること・・・・・」(以下、威厳に満ちた声になって答えている)D:「今、私は、この、うつ状態から、何を学ぶんですか?」と聞いてみてください。C:「大らかさ・・・・・愛情を素直に認めること・・・・・自分をもっと許して、愛することを学ぶこと・・・・・いろんな人を愛している・、そのことは、とても素敵なことだ・・・・・何をしてあげるとかじゃなく、何ができたというのでもなく、その思いがあるということ、それがとても大事だということ・・・・・」D:「今回の私の人生の目的は、何でしょうか?」C:許すこと・・・・・。D:誰を?C:自分を・・・・・自分を責めないこと・・・・・完璧を求めないこと・・・・・。D:その光に聞いてください。「自分を許すことって、どういうことですか?」と。C:「自分を愛しなさい」と言っています。D:「人間は、何のために生きているんでしょうか?」C:「愛・・・・・光で、人を癒すために生きている・・・・・」D:その光に向かって聞いてください。「私の今回の人生の目的は、何ですか?」C:「愛を勉強すること・・・・・人を愛すること・・・・・そして自分を許すこと・・・・・お前は、自分を許していない・・・・・前の人生でしてしまった自分の行いを、まだ許していない・・・・・」D:それでは、「人間は何のために生きているんですか?」と聞いてください。C:「愛するため」D:「なぜ私は何度も生まれ変わっているんですか?」と聞いたら、どういう答えが返ってきますか?C:「愛するため」D:「素晴らしい人生を送るためには、どうすればいいんですか?」と聞いてみると?C:「愛しなさい・・・・・全部、全て愛しなさい・・・・・」って言ってます。(P201)D:その光に聞いてください。「みんなが愛をもって生きることができたら、この世界はどうなるんですか?」C:「みんなが愛を持てば、すごくまとまった、ひとつの意識体になる。人や動物や、いろんなもの全てが、ひとつの意識体として動き出す。今はバラバラだ」って、おっしゃっています・・・・・どうやら、ひとつの大きな意識になるようです。D:「それはいったい、何ですか?私にわかるように教えてください」とお願いしてみてください。C:「調和だ」と・・・・・何か、みんながそれぞれ、調和するための役割を持っているようです。D:「でも、私ひとりが愛をもってがんばったとしても、それで社会が変わっていくんですか?そんなことは無理じゃありませんか?」と尋ねたら?C:「まず自分からやりなさい・・・・・それをみんながやることで、大きな流れができる・・・・・今みんなが、それをやろうとしている」と。D:「そんな人々が、今、この地球に、どのくらいいるんですか?愛を実践しようとしている人たちは、どのくらいいるんですか?」C:「世界中に、かなりいるそうです。文明国にも発展途上国にも、日本にも。1000とか2000とかじゃなくて、かなりいます。今、動き出そうとしている人が、それくらいいます。これからも増えていくそうです。」D:「でも、これまでにも何度もそんなことがあったのに、失敗してきたじゃないですか?」と聞いたら?C:「失敗しても、できるまでやればいい・・・・・安心してやりなさい」って言っています。D:「今度はうまくいきそうなんですか?」C:できそうだそうです。D:「みんなが愛をもって生きられるようにするには、どうしたらいいんですか?教えてください」ってお願いしたら?C:「お互いを知ることだ・・・・・文化や性別や人種は違っているのだから、その違いを理解すること・・・・・けれども、みんな一緒だということ・・・・・一緒だけど違うということを、理解しなさい」D:「具体的に、私は今、どうしたらいいんですか?」C:「どんな人に対しても、わけ隔てなく優しくしなさい・・・・・たとえ自分に敵対する人にも、優しくしなさい・・・・・それをまず自分で、実際にやってみなさい・・・・・」(P204~P205)C:「誰しも、一人一人、すべきことがある・・・・・すべての人に、それぞれ課せられた課題があり、それをもって生まれてくる・・・・・」(P206)D:「生きるとは、どういうことなんでしょうか?」C:「一瞬一瞬を、大切にすることだ」D:「素晴らしい人生を送るためには、どうすればいいのでしょうか?」C:「人生を楽しみながら生きなさい」(P228)D:それでは、「今回の人生で、この病気を治すためには、どうすればいいんでしょうか?」と、聞いてみてください。C:「心・・・・・気持ち・・・・・考え方だ」と。D:「考え方を、どうすればいいんですか?」C:「病気が欠点だと思うな・・・・・考え方なのだ」と・・・・・(P291)---------------------D:「本当の幸せって、どういうことですか?」C:「なかなか幸せだとは感じられないものだけれど、穏やかさの中にいるということこそが、本当の幸せなのだ・・・・・」(P236)---------------------D:光に聞いてください。「人間は、何のために生きているのでしょうか?」C:「愛を広めるため・・・・・寛容になるため・・・・・」D:「なぜ私は、何度も生まれ変わっているのでしょうか?」C:「体験するため・・・・・完成という目的に向かって、体験するため・・・・・」(P268~P269)D:「人間って、何ですか?」C:「愛そのもの・・・・・本当は」(P78)D:その光に尋ねてください。「人間は、何のために生きているんでしょうか?」C:成長するためだそうです。D:「成長して、人間は、最後には何になるのでしょうか?」C:光になるそうです。(P209)D:「それじゃ、光のあなたが、それをすべて学び終わったら、あなたはどうなるんでしょうか?」と聞いてみてください。C:「無」だそうです。(P112)D:「人間は何のために生きているんですか?」C:「勉強するため」D:「勉強していったら、最後には何になるんですか?」C:「神に」(P261)----- 引用終了 ■今回のブログいかがでした? 良かったらランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 19, 2007
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職場のプリウスが新しくなって、慣らし運転中は『モデルチェンジして前より燃費が落ちたかなあ』と思っていたのですが、とんでもない!慣らし運転後に乗ってみたら、加速も燃費も向上したみたいです。 特に燃費は、リッターあたり23Km前後走ります。 高速などは、オートクルーズにすると、無駄なアクセルワークがなくなって、燃費にもいいみたい。 燃費のために、高速の経済速度は、80キロとか言ってたけど、プリウスに関しては、90Km~100Km位だとモーターの補助が入るので、80Kmに比べても燃費が落ちていないみたいです。 他の方の燃費報告 普通は燃費が良いと加速は悪いものですが、プリウスは加速もすごい! 通常エンジン特性は、燃費に振るか加速に振るか、の選択を迫られるわけですが、プリウスはモーターの補助があるから、どちらも○! 高速のパーキングから、本線に入る加速は半端じゃない。小さいエンジンにありがちな息継ぎもなく、踏んだ瞬間からグイグイと加速してストレスなく100Kmに達します。 なお、グイグイ加速している証拠写真はありません(^^;
Jul 18, 2007
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精神世界の考え方にワンネスというものがあってそこから分かれたものが私たちだ、という考え方があります。 すべてが統一されたひとつ。 まるでねんどをひとつにまとめていくように宇宙にあるすべてをまとめたものを想像する人が多いと思いますが、宇宙にぽっかりと浮かぶひとつは、まだひとつではなく、それが存在する宇宙という場とその内容物の二つがあります。 本当のひとつは、場も取り込んだものです。 そのとたんに、物質は消え去ります。 その状態をお釈迦さまは「空(くう)」と呼びました。 空(くう)とは、すべてを含むけれど、物質世界に存在していないのです。 しかし、その空(くう)から、すべての色(しき)が生じています。 空即是色(くうそくぜしき) 色即是空 空即是色 私たちに物質世界として見えているものの本質は、見えない意識なのであり、そのすべてをふくむ意識(空)は、私たちには、物質世界として感じられているのである。 すべて(空)を分離するのに、ナイフで切るようなイメージをする人がいますが、それを包む場さえないのですから、それはできません。 すべてを含む意識を分離するとは、違いを創ることに他なりません。 オコツトが、創造とは、ひとつにしていくこと、と言っていますが、それは対立する違いを等化していくことです。 「神との対話」という本に物質世界創造のこんなくだりがあります。----- 引用開始 まず初めに在ったのは、「存在のすべて」それだけだった。ほかには何もなかった。その「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」---あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏を返せば「無」と同じことだった。(「神との対話」P39)さて「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。何故なら、「存在のすべて」であることの絶対的な素晴らしさを概念的には知っていたが、体験的には知り得なかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。素晴らしいというのはどんな感じなのか、知りたかった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「素晴らしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、素晴らしくないとはどういうことなのか分からなければ、素晴らしいとはどんなのかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。 このエネルギー、純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、従って他の誰も知り得ないエネルギーは、自分の素晴らしさを体験しようとした。その為には、自分の中にある比較対照の基準を使わなければならないと気付いた。一部は全体より小さい、それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、素晴らしさを知ることができるだろう。そこで、「存在のすべて」は自らを分割した。「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また「どちらでもないもの」も存在している。こうして3つの要素が生まれた。あらゆる物を包み込むのは無である。空間を包合するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。 あらゆる物を包み込むの無、それをある人々は神と呼ぶ、だが、これも正確とは言えない。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある。さて、「ここ」にあるものと「あそこ」にあるものを創り出し神は、自らを知る事が可能になった。この内側からの爆発(ビックバン)が起こった時、神は相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。全ての要素が出現したので、時が生まれた。なぜなら、物はまずここにあって、次にあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。見える部分がそれ自身を定義づけ、各部分が「相対的」になったように、見えない部分も定義づけられ、相対的になった。神は、純粋な愛である自分を知るために、対照となる正反対のあらゆるもの-「不安」-を創り上げた。わたしは自分の無数の部分(霊)に、全体としてのわたしが持っているのと同じ創造力を与えた。私達は同じものでできている。同じ資質、能力を持っている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。わたしがあなたがたを創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。従ってあなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい。あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしではないものとしての自分を知ることからだ。神との共同行為の計画の下で、純粋な霊であるあなたがたは、創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。概念として知っていることを体験として知るには、物質的な世界で経験するしかないからだ。自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、全ての物質的な生命の目的だ。自分を創らないという経験があって初めて、自分を創ることができる。「何である」ためには、「そうではない」ことを体験する必要があるが、自分でなくなることは出来ない。もともと神の子供なのだから。そこで、次善の方法として、自分が何者であるかを忘れたのだ。物質的な宇宙に入った時、記憶を捨てた。自分が何者であるかを選べるようになった。あなたは神の一部であると聞かされるのではなく、神の一部としての生き方を自分で選び取る。そうすれば全ての選択肢を与えられた上で、自らを体験することが出来る。全ての選択肢、それが神である。(P39~P46)----- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 17, 2007
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古代文明には、ときどき我々の想像を超えるものがあります。 南米のマヤ文明は、1周期を365日としたハアブ暦(太陽年)と1周期を260日としたツォルキン暦(神聖年)との2つの暦を持っていました。 日常生活の農耕作業には、当然、今と同じ太陽による季節が分かるハアブ暦が使われます。 では、マヤ暦とも呼ばれるツォルキンは、何を示しているのでしょう? マヤのツォルキンは、現代の科学技術で解明された地球が太陽を回る「公転」、つまり一年を正確に割り出しているほど優れたものなのです。 いったい、どうしてこれほどまでに正確な暦を作ることができたのか驚くばかりですが、その素晴らしい知識をもって作られたツォルキンは、西暦に直すと2012年の12月22日(読み替えに誤差があり~24日)という半端なところまでで終わっているのです。 もし、単にすべての暦を書き表すことができないからという理由であれば、2012年の12月末日まで表してあるはずです。 それなのに、12月22日(読み替えに誤差があり~24日)という半端なところで終わっているのには、それなりの意味があるはずです。 同じ南米のアステカ文明には、これまでに太陽が生まれては滅ぶ(宇宙の再創世)を4回繰り返してきて、現在はケツアルコアトルによって創造された5番目の太陽の時代であるという話があります。 これから推測して、ツォルキンが半端な日で終わっているのは、けっして半端なのではなく、その日までの暦しか必要でない、それ以降の日の暦はいらない、という確固たる理由があるからだ、つまり、そこからは新たな宇宙が始まるということだと考えられています。 このような話をすると、物質的な視点しか持たない人は、地球最後の日というような発想をします。 実際、この5番目の世界は、地震によって滅ぶと言われています。 しかし、オコツトは、物質とは、オリオンにおける精神作用の反映のようなものと言います。 つまり、この宇宙が輪廻するというのは、物質的な宇宙のことではなく、意識の方にその本質があるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 17, 2007
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「自分とは何か?」と問われたとき、自分として概念化するのは、ほとんどの人がその肉体だと思います。 ところが、大林宣彦監督の映画「転校生」で身体が入れ替わって身体と無関係に意識が自分となっていることになんの違和感も抱きません。 同様に、臨死体験をした人も死んだ自分の身体を上空から見下ろして『あそこに自分がいる(自分の身体がある)』と思いつつ、自分として認識しているのは、今、思考している意識の方なのです。 まだその時点では、空中に浮かぶ自分は、以前の肉体のイメージを保ったままです。 しかし、暗いトンネルを抜けて、魂の世界に行くと、そこにいる意識たちは、光として存在しています。そしてレベルの高い意識ほど白く強く輝いています。しかし、それでいてまぶしくはないそうです。 このような話をしても、私たちの理解は物質的な考え方から抜け出せません。 『それは魂になったんだ』と考え、単に肉体という物質から魂という物質に移ったというような考え方をします。 半田広宣さんの「2013:シリウス革命」の中で冥王星のオコツトは、「付帯質」というものをさまざまに説明しています。オ:はオコツト コ:は半田こうせんさんオ:プレアデスとは付帯質が作りだされている場のことです。オ:付帯質とはあなたがたが物質と呼んでいるもののことです。オ:物質とは、オリオンにおける精神作用の反映のようなものですから。(P21) これを続けて解釈するとどこかにある精神作用の反映として、プレアデスという場に物質が作りだされている。ということになります。 これは前のブログで私が、小説家が考えることで、小説の中に物語が作り出されている、とたとえたものです。オ:輪廻とは宇宙全体が行うものであって、人間の個体という次元に存在するものではないということです。<中略>コ:つまり、新しい中性質が生まれてくるというのは、意識が物質化していくという意味なのですか。そして、それが輪廻の本質だと?オ:はい、そういうことになります。(P56P57)コ:地球の科学では「原始スープ説」というのがあります。この説などは、原始地球に存在したメタンやアンモニアなどから、RNAやDNAの元となるアミノ酸や塩基などが、どのようなプロセスを経て生成されてきたかを説明することにある程度、成功しています。そういったプロセスのことです。オ:プロセスというのが、時間の経過によって作り出されていく物質変化の過程のようなものだとするならば、そのようなものは一切、存在していなかったと言ってよいでしょう。コ:プロセスが一切存在していない・・・どういうことですか?まさか、生命が一夜にして誕生したとでも言いたいのですか。オ:「一夜にして誕生したのか?」と聞かれれば、「そうです」と答えるしかありません。それらは一瞬のうちに、人間の内面に交差を起こしたはずです。(P502P503)オ:あなたがたが付帯質を持っている限りは、私の言っていることを理解するのは難しいでしょう。これは、前に、物質が生成された原因についてもお話したことなのですが、生命が誕生した原因は物質にあるのではなく、意識にあります。あなたがたが見ている世界は、生物の世界も含めて、すべてはあなたがたが時間と呼んでいるものの外部で作り出されたものなのです。コ:時間の外部・・・時間の外部という意味がよくわかりません。それは時間がない世界という意味なのですか。オ:はい、あなたがたにとっては、そういうことになるでしょう。私たちにとっては真実の時間が存在しているところ・・・。(P503P504) 小説家が新たに20歳の人物を登場させようとしたとき、そこに20年の歳月はいりません。一瞬の設定で誕生します。 退行催眠によって、今と過去生の関係を知った渋谷医師は、「今の意識を変えれば、過去生も変わる」といいます。たとえば、それまで許せなかった父との確執を許しよってなくすことで、退行催眠で見る同じはずの過去生が変わって、その許しを反映した仲の良いものに変わっていたという体験をしたそうです。 臨死体験をした水星探索家木内鶴彦氏は、時間と空間を超越する体験をしました。 意識の世界では、時間も空間も小説家の小説のように自由に行き来が可能なのです。というより、オコツトの言うようにこの世界は、時間の外の反映であり、意識は、物質世界の時間の外に存在しているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 15, 2007
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作家で尼僧の瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんが、最近「月のうさぎ」等の童話を世に出しています。 「月のうさぎ」は、ジャータカ(お釈迦様の前世のお話)の中の有名な物語を童話にしたものだそうです。 飢餓で死にそうな老人を救うために森の動物たちはそれぞれ食べ物を探してきて食べさせますが、ウサギだけはなにも探すことができなかった。それで、そのウサギは自分を食べてもらうために火に飛び込んで焼かれてしまいます。<月の中のウサギ> 「亡己利他(もうこりた)」とは、このウサギのように「自分をなくし、他の人のためになることをする」という意味ですが、「自分を抑えて、他の人のためになることをする」という自己犠牲とは違うのです。 その区別がついていない人が多いと思います。 そもそも後者のように捉える人は、自分がなんだか自分でわかってない、自分というものがはっきりしていないはずです。 自分を確定するとき、その欲求を考えて、マズローの欲求段階説に照らしてみれば、自分を身体と捉えているのか、精神(心)と捉えているのか、霊魂(愛)と捉えているのかが簡単にわかります。 魂で生きる人が炎に身を投じたとしてもその人はしたいことをしているだけであって自分を犠牲にしているという意識はありません。 精神(心)で生きる人は、自分のしたいこととは違うけれど、そうすることが善いことだと考えるから、別のことをしたい自分(欲求)を抑えてするので、自己犠牲をしてまで善いことをしている自分に価値を感じるのです。 ですから、ときには、「私が自分のしたいことを我慢してあなたのためにここまでやっているのにその態度は何だ!」と怒ったりすることもあります。 ポール・○ッカートニーの元の奥さんのように動物愛護にいくら尽力しても動物虐待がなくならない(結果が思い通りにならない)とノイローゼになったりもします。 真の意味での「亡己利他(もうこりた)」は、自分を抑えるとか、今ある自分をなくすのではなく、自分のしたいことが利他であるために、他から見たら自分がないように見える、ということなのです。 そこには相手に対する期待も結果に対する期待もありません。 和尚も同じことを言っています。------- 引用開始ティロパは分かち合うなと言っているんじゃない彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだもしあなたに手持ちがありそれが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさいただし、それは分かち合いであるべきだ贈り物---これが贈り物(Gift)と与えること(Giving)との違いだ贈り物というのは取り引きじゃない何ひとつ期待されはしない絶対に何ひとつ---ただの認知さえもいらない感謝のうなずきすら---違う何ひとつ期待されてはいないもしあなたがそのことを取り上げなくてもその贈り物をくれた人物の中にはなんの動揺もない実際には、もしそのことに触れたりするとかえって彼は少しとまどうくらいだそんなことは決して期待していなかったのだから反対に彼のほうがあなたにその贈り物を受け取ってくれたことを感謝するだろう<中略>あなたはそれを拒否することだってできたのだからそれで充分だ(「存在の詩」P509P510)------- 引用終了 子供にどんな目的(欲求)を優先して生きるかを意識して教えないと今の世の中では、けもののように肉体のため、物質、お金の損得を優先する人間に育つことでしょう。 しかし、今あなたの前に二人の人がいて、一人は、自分の損得のためにあなたを犠牲にすることもある人、もう一人は、あなたのために自分をなくしてまで尽くしてくれた人。 その二人が困っているとき、あなたはどちらを助けたいと思いますか? あなたは自分の子供にどちらの人になってもらいたいですか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 15, 2007
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あれが欲しいこれが欲しい 欲求が求めているものは、一見その対象物だと思えますが、実際に求めているのは、安心、穏やかな心です。 共依存の特徴に「~しないではいられない」というものがあります。 仏教で、欲(渇愛、貪欲)は尽きないといいますが、その欲とは、怖れから逃れるために「~しないではいられない」という共依存の現れのことなのです。 単に「~したい」「~がほしい」というものと「~しないではいられない」「~を手に入れずにはいられない」は、まったく別の動機から生まれています。 「~したい」「~がほしい」は、愛から生じる創造であり、「~しないではいられない」「~を手に入れずにはいられない」(貪欲)は、怖れから生じる逃避、回避、分離なのです。 さて、前述の安心は、欲求が満たされたときに感じます。 砂漠でのどが渇いていたときに、水にありつけて水が飲めたらほっとします。 欲求については、マズローが詳しく研究しました。~・~・~・~・~・~・~・~・◇・~・~・~・~・~・~・~・~・~マズローの欲求段階説1.「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性2.「安全の欲求」・・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求3.「親和の欲求」 (所属と愛の欲求)・・・自分が愛されること、 家族や社会の中に居場所があり 自分の価値が認められること4.「自我の欲求」 (承認欲求)・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求5.「自己実現の欲求」・・・自分がなりたいのものへの欲求6.「自己超越」・・・・・・今までの、あるいは現状の自分自身を超えたい という欲求~・~・~・~・~・~・~・~・◇・~・~・~・~・~・~・~・~・~ さて、これらの欲求の段階を分析してみると1と2は、肉体維持とその安定3と4は、社会的評価の獲得とその安定と拡大と言えます。 人は、けものと違い身体(肉体、body)だけではなく、心(精神、mind)と魂(soul)の三位一体の存在です。マズローは、下位の欲求が満たされると人は、より上位の欲求を持つようになる。と言っています。 マズローが分類した1と2の欲求を優先させる人は、けものと同じ肉体として生きる人です。3と4の欲求を優先させる人は、身体と良い心を生きる人です。5から6へ向かう人は、身体と精神と霊魂の三位一体としてバランスよく生きる人です。 あなた自身が自覚していようといまいとあなたは三位一体の存在です。 ただあなたがどんな欲求を優先させるかで、あなた自身の自覚は変わります。あなたは、まるでけもののように生きることも聖人のように生きることもできます。 身体として生きようと精神(良い心、他者の良い評価)として生きようと安心と不安は常にあざなえる縄のごとく常に表裏一体で存在します。 お金持ちであろうと破産する不安があり、どんなに尊敬されようと、その信頼を失う不安が付きまといます。 しかし、すべてをあるがままに受け容れる霊魂、愛だけには、安心だけしかありません。 そこに「こうあるべき」がないので、「こうあるべき」から外れる心配がないからです。 そこを腑に落としてすべての貪欲(「~しないではいられない」「~を手に入れずにはいられない」)を手放した人が悟った人なのです。 お釈迦さまも『多くの人を苦から救いたい』という欲(情熱)があったから、仏教を広めました。でも、貪欲はなかったから、悟った人、ブッダなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 14, 2007
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現代の日本は科学宗教の時代です。「科学と宗教はまったく正反対のものだ、科学的な考えが正しいのだ」と思っている人がほとんどだと思いますが、すべてが相対的である以上、思考の枠組み(思考の基になる考え方、パラダイム)を固定しているのは、その人の選択に過ぎません。 つまり、科学で証明されているとおりが正しい前提だ、とその人が選んだから、その人にとって科学が正しい考え方になっているに過ぎません。 もうひとつ、科学的に証明されるということは、矛盾なく現状を説明できるということでもあります。 つまり、矛盾なく現状を説明できる別の考え方の方が正しい可能性もあるのです。 また、矛盾なく現状を説明できる考え方はどれも正しいもので、単に視点が違うだけに過ぎない可能性もあります。 しかし、どんな考え方にしても、今現在、すべてを説明できているものは存在していないのですから、どこかにちょっとした間違いやあいまいな部分がある可能性が高いといえます。 現代科学では、意識、思考は脳の活動の結果だと考えられていますが、臨死体験の研究からは、脳が活動を停止していても意識が継続して存在しており、思考を続けていることが状況証拠によって証明されています。 もし、この事実を受け入れるならば、意識や思考は脳の活動の結果ではなく、別に意識が存在し、思考をしていて、脳はその情報を身体に中継する中継システムであるということも考えられます。 脳波とかは、どこかに存在する意識が行った思考を身体に中継していることを結果なのかもしれません。 たとえば、エリザベス・キューブラー・ロス博士の臨死体験研究に手術中に臨死体験をして、上から手術のようすを見ていて戻ってきてから、それを説明したという事例があります。 科学信奉者は、「それはたぶん手術中も、かすかに意識があってなんらかの方で手術を見ていたのではないか」というようなことをいうことでしょう。でも、その患者さんは、盲目だった!のですよ。 これは一番わかりやすい例ですが、そのほかにも、臨死体験をした人が意識を無くしている間に遠く離れた知り合いがやっていたことを意識だけそこへ行って見てきてあとからそのようすを話した例や上空に浮かぶか屋根に登らない限り絶対に見えない屋根に靴だったかがあることを指摘した例や手術台に上向きで寝ていたら見えない医者の足元を見ていた例など、多くの状況証拠があります。 おそらく、科学的には、臨死体験を説明することはできないでしょう。 私も科学的な考えがすべて間違っているとは思いませんが、どこか根本でボタンのかけ違いがある可能性は否定できません。 科学は、まず肉体という物質を自分だとしてそれを前提に組み立てられていますから、そもそもそれを否定する考えを受け入れにくい思考体系なのです。 しかし、そこを何歩も譲って死んでも継続して存在する意識というものがあり、それが自分の本質なのだという考えを自分のパラダイムに組み入れてみて検証してみてはどうでしょうか? もし、その考えを組み入れることで矛盾が生じるのなら、その身体を離れて存在する意識があるという前提(考え)は間違っているということになります。 しかし、先ほど例をあげたように、思考が脳の結果であり、脳波はそこで思考していることを表しているのだという物的証拠はありません。脳波は、脳とは別にある意識が思考したものを中継している結果である可能性だってあるのです。 むしろ、そのように臨死体験などで知らされた現象を基本的な考えに取り入りることでさまざまな疑問が説明できるようになります。 以前に、「アカシックレコードを考える」というようなサイトがありました。物質的な考え方をしていたら、アカシックレコードの存在はなぞです。しかし、意識はひとつの意識として繋がっていてそこの一部が分離した私たちの意識として活動しているのだという考え方を受け入れると、アカシックレコードというような現象があることがあたりまえだと思えるようになります。 そして、一番のメリットは、その考え方を受け入れることで、一番を目指す勝ち負けの思考を超えることができるようになり、本当の幸せを手に入れることができることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 12, 2007
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認識というのは、違いを見つけるということです。 闇夜のからすは、色が同じなので違いを見つけられない、つまり、(色からでは)認識できない、ということです。 本質的違いを選び取ったものが概念です。人は呼吸をしますが、動植物も呼吸をします。人の概念の本質は、深い思考と想像力を行う「意識」です。 ダニオン・ブリンクリーは臨死体験をしたときに、光の存在にこういわれました。----- 引用開始「あなたという存在は、神がおつくりになる違いなのです」と光の存在が言った。「その違いとは愛です」私たちは実際に言葉を交わしたわけではない。何かテレパシーのようなものを通じて、私たちは会話していたのだ。今でも、このなぞめいた言葉の真意は分からないのだが、とにかく、そう告げられたのだ。(「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎P35より)----- 引用終了 私も、これを読んで何年かは、意味がわかりませんでした。 今はわかります。 無条件の愛とは、たったひとつの意識です。私たちは、違いを持つことで、そこから分離した意識なのです。 私たちは、愛を体験するために存在しています。愛を体験するためには、違いが必要なのです。 たとえば、私たちが愛からやさしさを感じることができるのは、その逆のきつさ、つらさを体験しているからこそ、やさしさを感じられるのです。<続きます> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 11, 2007
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思考とは、人間の知的作用の総称で感性や意欲の作用と区別して、概念・判断・推理の作用のことです。 思考という言葉の一般的な使用であれば、「人間の」であってもなんら問題はありません。 しかし、無条件の愛を考えるとき、それは人間の枠を超越しています。 それは無条件の愛がすべてであり、あるがままだからです。釈尊の言葉では。無分別です。 無条件の愛と無分別は同じ状態ですが、わかりますか? 心理学で、マズローの欲求段階説というものがありますが、これも一般には、五段階として説明されています。しかし、晩年マズローは6段階目として、自己超越を加えました。 そこから、トランスパーソナル心理学へ展開されていきます。 ユングなどの体験もおもしろいですよ。http://www.geocities.co.jp/noboish/case/NDE/jung.htm さて、概念とか、判断というのは、分離することが必要です。 思考の主体は、私ですが、私という意識は、分離することで生じます。 小説家がジョンとヨーコの愛の物語を書いているとしましょう。小説家は、のってくると登場人物にのめりこみ、登場人物になりきってペンを進めます。 今、あたかも向かいにヨーコがいて、自分はヨーコに愛を語るジョンになりきって自然に言葉がわいてきています。 このとき、ジョンの意識が生まれいて、小説家はジョンとして思考し、判断します。と同時に小説家でもあり、ヨーコにもなります。 <おもしろいですか?(^^)>続きは、混沌、色即是空、光と愛と神の話、聴きたい?(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 6, 2007
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釈尊の言葉「自灯明、法灯明」「自分を島(よりどころ)とし、法(心理)を島(よりどころ)としなさい」 この場合のよりどころとなる自分とは誰であれ、あるがままで持っているもので判断基準になるものである必要があります。 それは、感情、心から湧き上がる思いです。 臨死体験や退行催眠で体験する中間生での人生回顧において、回顧の対象となるのは、感情に関することだけです。 ポイントは感情なのです。 ウソをついたり、人を裏切ったりしたとき、心が暗く重くなります。 そのような心になるものは、選ばないことです。 人に親切にしようと思ったり、やさしい気持ちを抱くとき、心が明るく晴れやかになります。 そのような心になるものを、選ぶことです。 それが「自分をよりどころとする」ということです。 ところが、現代の心理学で明らかになっていることですが、私たちは、心が壊れるのを防ぐために、防衛機制というシステムで、自分自身をだますことがあります。 失ってはいけない自分を持っているとその自分を失う怖れが生じます。その怖れを体験すると心が壊れてしまうかもしれない。 そこで、怖れで心が壊れるのを回避するために防衛機制を働かせて、偽りの自分を基準とした感情のような思いを生じさせて自分をごまかしてしまいます。 もちろん、それはあなたの本当の感情ではありません。 失ってはいけない自分とは、社会の中での役割を担った自分、守るべきものがある自分、こうあるべき自分(ペルソナ)です。 だからこそ、俗世(社会)を離れることが必要なのです。だから、出家なのです。 そのようなこうあるべき自分(ペルソナ)を守ろうとするときにまず、愛よりも守るべきものが優先するためにじこちゅー(自己中心)になるのです。 それ(こうあるべきがある)が自己中心と自灯明の違いです。 そして、その人にとって真実、真理となるのは、怖れを手放したときに、その人自身が真実、真理と感じるもののことです。 真理すら、自分から生じているのです。 自分という基準(縁)がなければ、真理も存在しないのです。おそらく『そんなバカなことがあるか!人間がひとりもいなくても、地球やそこに生きる生物、植物が存在する』というかもしれません。 しかし、その考えが正しいのは、その人自身が、まず自分を含む物質宇宙を前提とすることを選択したからに過ぎません。 これは、「神のとの対話」や「2013 シリウス革命」にそれを示唆する話が出ています。 荘子の「胡蝶の夢」やルネ・デカルトの我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)などが、自分の存在の真偽や思考の本質について深く洞察しています。 科学信仰の現代に生きる私たちは、思考を脳の活動の結果だと思い込んでいます。しかし、臨死体験による状況証拠では、脳が停止して死んでいる自分を見て思考する自分がいることが報告されています。 そのようなことを念頭において「2013 シリウス革命」を読むと、オコツトの「あなた方は付帯質に偏りすぎている」「あなた方自身が付帯質だ」とか「恐竜の時代は存在しなかった」という言葉の真意が見えてきて、この分厚くて小難しい本が(笑)壮大なファンタジー小説か、真実を語る聖書のように感じられてワクワクしながら読むことができます。 さて、思考する本質とは、いったいなんなのでしょうか? <続きが聴きたい?(^^)> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 5, 2007
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お釈迦さまが亡くなるときに、弟子のアーナンダが『これから私は何をよりどころにしたらいいのでしょうか?』と尋ねたときにお釈迦さまは「自灯明、法灯明」とお答えになりました。 それまでその弟子はどう考え、どう行動するかについてお釈迦さまに頼り切っていたのです。その答えが「自分を島(よりどころ)とし、法(心理)を島(よりどころ)としなさい」というものです。島が灯明になっているのは、灯明に当たる原語が島(洲)を意味する、もうひとつは島(洲)似ているための誤訳とのという話もあります。(サンスクリット語を知らないので伝聞です) いずれにしろ、意味は「自分と真理を基準として考え、行動しなさい」ということですね。 これを読むとほとんどの人はわかったと思うはずです。それなのになぜ悟れないのでしょうか?それは、表面的な意味だけを理解しただけで分かった気になっていてその意味するところの本質を理解していないからです。 その証拠に、この場合の基準とする自分とはなにか?どれを真理と見極めるか?に答えられないはずです。 これをすらすら答えられるならば、その人は本当に理解している、つまり、悟っているということになります。 さて、冒頭の言葉を「人に頼るのではなく、良く調えられた自分こそを頼りにしなさい。そして今まで、私が説いて聞かせた真実の道、法をよりどころにするのが良い、あくまで他人を頼ってはならない」というように解釈する人もありますが、これは論理的に考えておかしい。 弟子には、以前から釈尊について習い、すでに悟りに近づいている者いれば、最近、弟子になったばかりでまだまだ未熟な者もいます。 当然、まだ弟子になって日が浅い者は、釈尊の言葉をあまり聞いていないはずです。 すでに長く釈尊についていた者に釈尊の言葉を尋ねるとしたら、それはすでに他人に頼ることになります。単に依存対象が変わっただけです。 本人が悟りを開いていないから、分別心で「ダメな自分を基準にしたら、悟れるはずがない」と考えてしまい、「良く調えられた自分」でなくてはならない、と考えてしまうのです。 まだ未熟で「良く調えられた自分」と自信をもっていえるものがないからこそ、釈尊に頼っていた、依存していたのであり、だからこそ、『頼れるものを失ったらどうしたらいいのか?』と尋ねたはずです。 そんな人に向かって「良く調えられた自分を頼りなさい」などというのは、机上の空論です。 つまり、誰であれ、あるがままで持っているもので判断基準になるものがあるということです。さらに、誰であれ「真実、真理」とわかるものがあります。 そして、釈尊の教えの根本には、縁起の法があります。 さて、この場合の基準とする自分とはなにか?何が真実、真理なのか? <続く>(自己中心と自灯明) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 3, 2007
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