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■ 悟りの穏やかさ(幸せ)とは、絶対的に否定するものがなくなり、好みで対応しているときの心の状態まず、1.すべてを受け容れる(無条件の愛)次に2.好みをしっかり打ち出して、好みで対応する■ 損得と感応 生きているとさまざまなことが起きてきます。毎瞬、毎瞬が選択のときなのです。 これまでのパラダイムでは、正しいもの、適切なものを選ぶことが良しとされていました。 つまり、これまでの選択基準は正しさでした。 この場合の正しい、適切と言う場合の基準は、自分が所属する社会の得になること、または、自分の得になることです。 損得で選択していました。そこには、「~であるべき」があります。あるべきにパターンで反応しているのです。 ところが、「存在の詩」で、和尚は感応という言葉を使います。感じたままに反応するのです。 中谷彰宏さんも好みで選ぶということを言っています。 実は、この好みで選ぶというのは、言葉では簡単にいえますが、共依存が強いと、なかなか難しいのです。■ 心に波が立つときそれは、抵抗、否定するときです。それは外と内のふたつあります。1.自分の外で起きてくることに抵抗するとき2.自分の内から沸きあがる気持ち、したいことを我慢や否定するとき■ ストレスのない穏やかな気持ち 私の話をよく聞いてくださってレクチャーも受けていたある方が、ガンになりまして、医学的な治療を拒否して、これまでと同じ生活を選びました。 追い討ちをかけるようにご主人の会社が倒産したのです。 そんな波乱万丈の中、意外にも、今、穏やかな心でいるそうです。以下、私が送った「穏やかな心でいるとストレスがなくなり、免疫力が発揮されるよ」というメールに対するその方からのレスです。> 私の中にある穏やかな気持ちという言葉の概念は、> 波風たってない静かな世界というイメージに近いねん。> > で、今の私はというと、> 波風関係なく、喜びに満ち溢れてるという表現の方が好き。>> つまり波風たつことも喜び、> 静かなことも喜びの中で生きてるという表現の方がしっくりくる> さんちゃんの言う穏やかな心と同じところを指してるのかは> 分からないけれど、>> 私にしっくりくる言葉は> > 喜怒哀楽を含む全てが、> 喜びに満ち溢れてると> 身体の免疫力も自然と高まるんじゃないかなぁと思って、> その事をメールで伝えたかっただけ・> > ちゃんと説明しようとすると文章が長くなるね(笑)> 要約すると、この方の「穏やかな気持ち」という概念では、まったく喜怒哀楽もなく、波風がない状態というイメージだけど、今の自分は、喜怒哀楽があっても、喜びに満ち溢れてる状態だ、ということでしょうか。 言い換えると、怒りや悲しみも喜びをもって感じている、ということです。 これが、1.すべてを受け容れる(無条件の愛)次に2.好みをしっかり打ち出して、好みで対応するという状態です。穏やかな心というのが、感情の波風がないことであったとしたら、それはもう人間らしさを失っているということです。 目の前に起きている悲惨な出来事に涙することできず、助け合う人の心の温かさも感じることができない人生など、どんな意味があるのでしょう? ヒカリズムでいう穏やかな心とは、感情に振り回されるのではなく、感情の主人として、喜怒哀楽すべての感情を味わうことを楽しめる状態です。■ 人生には、受け入れることが不可能に感じられるような大きな出来事に出会うことがあります。1.それを受け入れまいと、拒否し抵抗して苦しみを味わうこともできます。2.その出来事と戦った末に、敗北し、それをきっかけに受容を学ぶこともできます。 エリザベス・キューブラー・ロス博士の「死に至る5段階」は、そのプロセスを説明しています。3.受け入れがたい出来事ごとに2を繰り返すこともできるし、受容を学び、それ以降は、その生き方を採用することもできます。 ヒカリズムは、3の生き方です。■ おもしろいのは、この方が「ちゃんと説明しようとすると文章が長くなるね」と言っていること。実は、私が受容とか、穏やかな心を説明しようと長い説明をすると「さんたちゃんのは説明が長い、頭だけで考えてるみたいだ」って言ってたんですよね。つまり、机上の空論で実態を伴っていないと、批判していたわけです。ところが、自分がその境地になって、説明しようとしたら、やっぱり言葉が長くなってしまったわけです。 これは、パラダイムシフトした状態を説明する以上、避けて通れないことです。そして、どんなに言葉を尽くしても、それは月をさす指でしかないのです。で、それを指摘すると> うん、言ってたね> 言ってた頃の私と今の私は別人です(笑)だそうです。(笑) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 28, 2007
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読者の方からのご質問にお答えします。>幸せの概念について、幸せには二段階あるとのことでしたが、>一、受け容れているときの心の状態>二、否定していないときの心の状態>その違いといいますか、>段階(レベル)の違いが、よくつかめないでいます。>幸せとは、>穏やかな心の状態というのは、なんとなくわかるのですが、(すでにある愛に気づいている心の状態と考えています。)>幸せの二段階について、>wing-spaceさんのお考えを教えていただけたらと、思います。>誠に恐縮ですが、お願い申しあげます。■ まず、愛とは、なんだと思いますか?おそらく、あらたまってそう聞かれると答えに詰まるのではないでしょうか? ヒカリズムでは、すべてを受け容れた意識状態。つまり、神意識そのもの。宇宙意識。ワンネス。です。■ 1.受け容れているときの心の状態というのは、これまでの概念からすると、当然、否定するものが存在しています。 この状態では、外部変化によって、心の状態も変わることになります。 その外部変化が必ずあるということを説明しているのが、仏教の根本思想のひとつ「諸行無常」という言葉です。 つまり、その状態で手にした穏やかさは、いつかは、なくなってしまう可能性がある、ということです。■ 2.否定していないときの心の状態というのは、説明の言葉が足りませんでしたが、(それで理解できなかったのかもしれませんね){何かを受け入れて、別の何かは否定している}、という状態ではなく、まったく否定していない状態、すべてを受け容れている状態です。 この意識状態が愛です。■ しかし、神意識は、ほぼ不可能です。仮に100%そうなったとき、個の意識は消滅することでしょう。 実際に私たちの生活の中で、それに類似する状態になるときは、個の意識をしっかり持っているはすです。 これまでに悟ったと言われる人もこの意識が存在していました。 仮に、意識というものは宇宙でひとつ(という言い方も変なのですが・・・宇宙という場(色)も意識(空)の一部だから)だとすると、私たちの個の意識はすべてである神意識の一部に過ぎません。 その一部が独立して存在しているかのように感じるとしたら、何かによって分離されていることになります。 私たちが分離をイメージすると、刃物で切り分ける状態をイメージしますが、それでは、ひとつであり、同時にすべてである、という状態ではなくなります。■ ひとつであるのに分離のイメージお風呂に入浴剤を入れたとき、一部分だけ、入浴剤の色がついてお風呂のお湯でありながら、別のものとしても認識できますよね。そこだけ、入浴剤が偏って多く存在しているからです。 同じように、意識に偏りがあると分離が生じます。「オレだけ儲かればいい」というのは偏った考えだということはお分かりいただけると思います。でも、「絶対に争いはいけない」という観念も偏りのひとつです。「争い、それは私ではない」と言っているわけですから、そこに分離があります。■ 神との対話より神との対話という本で神がこう語ります。 神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それが私の一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。(P87)■ 偏りをふたつに分類する1.絶対視「~であるべき」「~ねばならない」2.好み「~だったらいいな」「~だったら好きだ」 問題は、1の状態です。すべてを受け容れた上で、2の状態になると、個を保ったまま悟ることができます。■ 幸せの3段階1.不幸とは、今自分に起きているものを否定しているときの心の状態 たとえば、視力を失って、「なんて不幸なんだ」という人もいますし、ヘレン・ケラーのように「障害は不便です。でも不幸ではありません」と明確に区別できる人もいます。 幸せになる方法、それはただ幸せであればいい、という言葉があります。「バカなことをいうな」という人もいるでしょうが、言い換えれば、「否定するのを止めるだけでいい」ということです。 ユニークな禅僧として知られる盤珪さんこと、盤珪禅師は、「仏になろうとしようより、仏でおるが造作がのうて近道でござるわいの」と言ったそうです。これも同じことなんですね。仏とは、否定をしない人だから、ただ否定を止める(仏でいる)(起きてくることに抵抗するのを止める)そのとたんに本来の仏が顔を出すのです。 たとえば、お釈迦さまは、他のものから侮辱されたとき、それは受け取られないと受け流します。この場合、起きてきたものに抵抗するとは、コントロールドラマで、自分はそんな侮辱される存在ではないことを感情的になって証明しようとすることです。私たちは、日常的にやっていますよね。 また、偽りの痴漢行為で非難されたときも、受け流します。 このように、お釈迦さまが悟りの思考、行動を身を持って示しているのに、多くの人はそれを読み取れないでいます。 なぜなら、自分の体験を参考に、このとき、お釈迦さまが怒りを我慢していると勝手に思い込んでいるからでしょう。 見えないから、見過ごすのです。2.禍福による幸せとは、今自分に起きているものを受け入れているときの心の状態(受け入れるものを手元に引き寄せているという状態)3.悟りの穏やかさ(幸せ)とは、絶対的に否定するものがなくなり、好みで対応しているときの心の状態これについて、ちょうどいいお話があります。■ 穏やかさの中の感情続きとして別にブログに書きます。続く ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 28, 2007
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>以前の記事で、>>>正しく見た正しい考えを基とする。>すると正しい心、正しい姿勢となる。>そこから、>正しい言葉、正しい行い、正しい欲、正しい生き方が>おのずと生じてくる。>> それが悟るということだ。>>>とあり、その正しい見方になるための方法として、>>>「どうすれば正しい見方ができるか?」>それは、本当の自分の欲求を見つけることです。>(共依存からの回復が必要だと言えます)>>として、本当の欲求を見つける必要があり、それには共依存からの回復が必要である、とあって、>そして、共依存から回復する方法の解説として今回の記事にまでに至ったのですが、>>そこでまた、>>>生きる目的(本当にしたいこと)を自分で決めて、>その目的に添って生きることによって>価値を感じることができるのです。>>>と、上のようにありました。>>私の解釈の流れでは、>「自分の本当の欲求を見つけるためには、本当にしたいことを自分で決める」>というような、矛盾した内容になってしまっています。>少し混乱しています。>>もしかすると、大きく誤った解釈をしてしまっているのでしょうか? ブログの中に、観念の仮書き換え(解釈)と体験を繰り返すということを強調していることに気づきましたか? 実は、sachioさんが体験を通さずに論理的な解釈だけで悟りを理解しようとされているご様子なので、強調してみたしだいです。 論理的な解釈にも段階がありまして、殺人犯は裁かれなくてはならない。という論理は、一般には正しいといえます。 それは、検討なしに「殺人」は罪である、という社会通念を前提として用いているからです。 この場合、論理を、道理の意味で使っています。正確には論理と道理は違います。 これと同じように、体験を通していないsachioさんは、これまでの体験で得た自分の基本的な観念や概念で悟りを論理的に解釈しようとしています。 それは不可能なのです。なぜなら、判断に使っている基本的な観念や概念が間違っているからです。 この場合の間違いは、論理的に目的に適っていない、という意味です。■「悟るためには、悟ろうと求めてはいけない」という言葉があります。 実際には、悟ろうとしなければ、悟ることはできません。この場合の、「悟ろうとする」とは、具体的に、禅の道に進んでうんぬんというだけではなく、『こんな苦しみはもういやだ、なんとかしたい』という意志でも含む広い意味です。 さて、苦しみをなくとかしたいとき、私たちは、苦しみをなくとかしようと外に向かって働きかけます。貧乏だ → お金をもうけよう、節約しよう病気だ → 病気を治そう このとき、貧乏だから苦しい、病気だから苦しい、という論理を当然だ、論理的に正しいとして思考を進めています。 一般には、それで問題ありませんが、よく考えれば良寛さまのように、貧乏でも苦しくない人もいますし、病気でも苦しくない人もいます。 つまり、前提が間違っているのです。禅のお話でも、「苦しみをなんとかしてください」「苦しみを持ってきなさい、取り去ってやろう」「苦しみは持ってこれません」「そら、もう苦しみはなくなった」という話がありますよね。 逆に、和尚の「存在の詩」には、「猿のことを考えないようにしなさい」と言われた人が『へんなことをいうなあ、私は猿ことなんか考えたこともないのに』と思っていたのに猿のことを考えないようにしようと意識したとたんに猿のことを考えてしまって、翌朝には頭の中が猿だらけ、(笑)という笑い話のような話があります。 不眠症の人が『なんとか眠ろう』と思うほど眠れない、というのと似ていますね。■ さて、sachioさんは正しい見方になるための方法→ 本当の欲求を見つける必要がある→ それには共依存からの回復が必要 →→ 本当にしたいことを自分で決めるという一連のノウハウで時間的な流れで繋がっていると考えています。■ たとえば、私は「あるがままの自分でいい」と認めるということを言っていますが、これを読んで疑問を持った人が何人いるでしょうか? 私は以前に疑問を持ちました。 なぜなら、あるがままの自分でいいと認めようとしたからです。 実践しようとしたときに、矛盾を感じたのです。あるがままの自分って愛であると言われる元々のあるがままの自分なのか、今のダメな自分なのか、ということです。 別の人は、今のダメな自分が嫌で苦しいのに「あるがままの自分でいいと思え」なんて、そんな変な考えは嫌だ、と思って実践せずにやめてしまう人もいるでしょうし、そういう人が多いと思います。 でも実際に体験してみるとわかるのですが、今のダメな自分を受け入れて、ダメな自分でいいと本気で思ったときには、自分はダメだと思っていないのです。 似たような例では、罪を許すということがありますが、罪を本気で許すというのは、そこに罪を認めないということです。 イエスがあなたの罪は最初から許されている、というとしたら、それはイエスがそれを罪だとその人を責める気持ちがまったくないということ、イエスが愛の人だということです。 でも、これらのことを悟っていない人、愛に至っていない人に説明するときには、多少歪むとしても愛のパラダイムではなく、普通の人が使っているパラダイムを使って比喩的に語らなくては伝わりもしません。 このことを、悟りは言葉では伝えられない、というのです。 もし、愛のパラダイムでイエスが語ると「この女性が(姦淫の)罪などない」というでしょう。 それでは誰も納得しないから、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というような言い方をします。 イエスは、石を投げようとした人たちにさえ罪を見ていないのです。■ 親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も実は同じなんですね。 善人が罪を犯していないのは当然だが、実は、悪人さえ罪を犯していないと受け容れるのが仏だ、ということです。 これは、もちろん、社会的に罪を犯しているということを認めたうえで、あえてそう言うのです。■■ さて、結論です。正しい見方をする→ 本当の欲求を見つける必要がある→ それには共依存からの回復が必要 →→ 本当にしたいことを自分で決める これを実践するときには時間の流れがありますが、それによって徐々に改善され、悟っていくのではありません。 どこかができたら、一瞬ですべてできているのです。 ある瞬間に、『すべてを受け容れる』のです。 もっと具体的に言えば、「(それまで受け容れられなかったものを)理屈ぬきで、一瞬で受け容れる」のです。(メールレクチャーの説明でしたようにね)■ それをパラダイムシフト前の人に説明するときは、その考え方に合わせて説明しますし、解釈する人が、体験なしだとこれまでのパラダイムで解釈するので矛盾して感じるのです。 私が、迷宮とかパラドックスという言葉で伝えていることです。 ■ 「神との対話」という本には、こう書いてあります。 間違っているように思われても、神の言うことに耳を傾けるべきだというのですか? 間違っていると思う時には、特に耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間はずっとそうしてきた結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなた方には何かが欠けている。理解していないことがある。あなた方は自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜならば、あなた方にとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だからだ。従って自分が理解できないことは、初めのうちは「間違っている」と感じる。前進するには、「自分が『間違っている』と思ったすべてが本当は『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。(P20)■ 大切なのは、実践です。神との対話ではこういう書き方をしています。最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。(P36)だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。(P37)■ 悟りとは、どういうものか、神との対話ではこう書いています。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言い切れるなら、あなたは幸せものだ。この対話をこれ以上続ける理由はないだろう。なぜなら、あなたは自分を-自分のための人生を-創り出していて、改善の必要がないのだから。あなたは完璧に到達した。この本は閉じてよろしい。(P92)■ 正しい見方はどこに? 自分が正しい見方をしているかどうかを人に問うているとき、正しさは、自分の外側にあると信じています。 正しいとは、どういうことでしたか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 25, 2007
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メールレクチャーの申込先のアドレスがしばらく前からに無効になっておりました。 ご利用希望の方にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。 ようやく訂正いたしましたので、ご利用ください。■ ヒカリズム、幸せを感じる生き方については、このブログはもちろん、はっぴーわーるどのサイトやメルマガなどでもお伝えしてきましたが、それだけでは不足だと私は考えています。 このブログをお読みの方なら、苦しみの原因は、共依存にあり、共依存は、幼い時の機能不全家族の一員として暮らしたことで、基本的な考え方にゆがみが生じているからだ、ということはご理解いただけていると思います。■ 感情や「わかってはいるけれど、~しないではいられない」という思いは、その人を形作っている基本的な考えから生じています。 それは、ちょうど歪んだタイヤキの型からは、いつも歪んだタイヤキが作られてしまうのと同じです。 基本的な考えの歪みを直さない限り、苦しみやネガティブな思考は直らないのです。■ ところが、どんな考えを採用するか、という判断は、多くの場合、その歪んだ基本的な考えを基準に選ばれているのです。 つまり、ネガティブ思考の人は、考えれば考えるほどネガティブな考えをしてしまい、ポジティブな人は、失敗してもポジティブに考えることができるのです。 それはノウハウではなく、メカニズムなのです。 その人が持っている思考の仕組みから、自然に感情や思考が作られていくのです。 ですから、よほど意識的に体験を通して自分の意識を変えていかないと観念の書き換えは難しいのです。■ 一番いいのは、自分がなりたい考えをしている人と一緒に過ごして、その人の考え方を真似たり、間違ったときに指摘してもらうことです。 しかし、それには、一緒に生活する場が必要ですが、それは難しいですよね。 そこで次善の策として、メールレクチャーを用意しました。 日常生活でのその人の思考、行動で本人が直したいものをメールで相談していただき、それに対して、ヒカリズムの考え方をレクチャーしていきます。 そして、その考えに基づいて、行動していただき、その成果がよければ、それは考えを腑に落とす体験となります。結果に問題があれば、それをまた修正して、またその新たな考えで体験を繰り返します。 この 考えの仮置き換え → 体験 → 結果 → 修正した考えの仮置き換えを繰り返し、うまくいく体験を通して、仮置き換えの考えを本当に置き換えていきます。 最初は怖いけど、慣れたら平気、というのは、平気な体験を通して、心の奥に平気だ、という考えを植え付けているのです。 ヒカリズムのメールレクチャーは、メールでのアドバイス、レクチャーを通して、考えの仮置き換えを行い、それに基づいて実践してもらうことで、OKの体験を得るまで繰り返します。(実践するのは、本人ですから、本人のやる気が大切です)そうやってどんどん観念の置き換えをすることで、一年もすると一年前とはまったく違う考え方をするようになります。■ ある方は、15年間も結婚のことで悩んでいました。その方にとってそれが表面に現われた現象としての問題でした。実は、その方のご両親も離婚していました。 しかし、本人は気づいていませんが、本当の問題は、あるがままの自分を愛せないことなのです。 レクチャーを続けていくうちにこの方からこんな言葉が聞かれました。「この言葉で救われた思いです。ありがとう、さんたさん。 でも、まだ私の隠れている部分があるような気がします。 自分で気づいていない事が・・・」 共依存では、自分の本当の気持ちを潜在意識の奥深くに静めていますから、本人が問題と捉えている事と、本当の問題は別なんですね。 レクチャーによって、だんだんと自分の本当の気持ちに向かい合えるようになっていきます。インナーチャイルドとの語らいが出来るようになっていきます。■ 自分はダメだと思い込んでいますから、そんなダメな自分を表す恥ずかしいことは、最初のうちは、メールに書かない人がほとんどです。っていうか、全員です。私だって昔は言えませんでした(笑) だんだんと信頼関係ができてきて、この人なら、話しても自分が否定されないと感じるとやっと徐々に話してくれるようになります。ある方は、> 1人でいて、どうにもならなくなると食べる事に走り、> 今度は食べたことに罪悪感を感じて吐いてしまいます。ということを何回かのメールの後に打ち明けてくれました。 このように、徐々に自分の心の奥に押し込めようとしてるものを吐き出していくことで、カウンセリング効果も出てきます。 気づいているけれど恥ずかしいから言えないでいたことはもちろんのこと、自分でも気づいていなかったことに気づくこともよくあります。 心の奥でずっと凍っていた冷たい心が解けてくるんです。ずっと閉じられていた心の奥の扉が開いて来るんです。■ そんなふうにレクチャーを続けて、自分を受け容れる作業が進んでいくと、自分でも気づかないうちに、自然とやさしい自分に変わっているのです。 あるがままの自分を受け入れていくということは、愛になっていくということですから、自分にも回りの人にもやさしくなっていくのは当然のことなんですけどね。(^^) 拒食症だった方が一年半のレクチャーの後に> この連休に> ふと「あるがままの自分でいいんだ」って思えたんです。> お休みの5日間は、自分の好きな事をして過ごしました。 この『ふと「あるがままの自分でいいんだ」って思えた』というのがとても重要なんですね。 腑に落ちた瞬間です。そうなると自然に考え方や行動が変わってきます。> 今までお弁当のおかずはほとんど冷凍食品にしていたのですが、> それを受け付けなくなってきたんです。> どんなものでもいいからおかずを自分で作ろうと思えました。 その他にも、自分の身をきれいにしたいという気持ちにもなったそうです。このように、自然に、自ら自分を大切にしようとする考え、行動に変わっていったのです。> これまで自分の為にすることができませんでした。> それは自分を愛せず、あるがままの自分でいいと思えなかったからだと思います。> 私にとっては、劇的な変化です。一年半前とは、まったく違う自分になっています。 もちろん、生きるのもシンプルでラクになります。この方は、周りの人を気にしてご機嫌取りのようなことをしていましたが、それが> でも、それが面倒くさいって思えたんです。> 『そうか、そういう気持ちになっだから手放そう』> って思ってやめました。(^o^)> そうすると楽になれました。> ご機嫌取りするのが面倒くさい(笑) これまでは、面倒くさくても、自分が嫌われるのが怖くてしないではいられなかった、しないでいると不安でしょうがなかったのが、不安、怖れがなくなるから、「ご機嫌取りするのが面倒くさい(笑)」って言えるんですよね。 決してムリしてやめるのではないのです。 そんなふうにまったく違う自分になれるきっかけを作るのが、メールレクチャーです。 でも、当然ですが、あなたの考え方を書き換えるのは、私にはできません。実践するのは、もちろんあなた自身ですよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 25, 2007
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> 幸せについてとか> 生きる意味とか> 自分とは何か、> ということの書き換えを行うことで、> より根本から思考を変えていきます。 今の私たちの言動は、まず社会の目的が優先されます。 たとえば、『お前なんか、顔も見たくない』と思っていても、そんなことをいうと社会秩序(職場や町内や家庭もひとつの社会です)が乱れるので、表面上、体裁を整える言動を行います。「人にやさしくしよう」ということを実践するときも、イヤイヤながら、やっても行動されればそれでよし、ということになっています。 しかし、「天知る、地知る、己知る」という言葉があるように、どんなにごまかしても、自分をごまかす事はできません。 何かを否定していては、本当の心の平安、穏やかさを手に入れることはできません。■ ついつい、相手を傷つけないことを第一目的にして、本音を捻じ曲げて話したり、行動することがあたりまえになっていたります。 しかし、悟るということは、自分の心にないことをムリにいうことをしないということなのです。 それがどんなにシンプルでラクなことか、体験してみないとなかなか想像できないと思います。■> 幸せ> 生きる意味> 自分多くの人が今もっている概念のうち、この三つは、幸せを感じるために重要な概念です。◆ 多くの人が幸せだと思っているお金、長生き、健康、人間関係などなどは、幸せそのものではなく、幸せを感じるきっかけに過ぎません。 本当の幸せとは、・・・実は、二段階あります。1.受け容れているときの心の状態。2.否定していないときの心の状態。本当の幸せとは、穏やかさの中にあります。◆ 生きる意味については、人生の価値、人生の意味、生きる意味、生きる価値など、いろいろな人がいろいろないい方で語っています。「そんな事をしたって意味がない」という言い方で使われるときの「意味」とは、物事が他との連関において持つ価値や重要さ、のことですから、生きること価値について問題にしています。 ポイントは、誰にとっての価値かということです。 価値は、目的によって決まりますから、それは誰の目的を生きようとしているのか、という問いと同じです。 生きることの価値を感じるためには、目的と価値観が一致すればいいのです。生きる目的(本当にしたいこと)を自分で決めて、その目的に添って生きることによって価値を感じることができるのです。(三行で終わりのシンプルさです(笑)) あなたが何を目的にしようが、その目的に向って生きることで、その生きる過程すべてに価値を見出すことができるようになります。 ポイントは、目的が怖れからの逃避ではなく、本当にしたいことである必要があります。 生きる意味を論じてる本やサイトはたくさんありますが、これらのことを指摘しているものはまずないと思います。 ◆ 自分については、哲学的な問題にもあるものですが、自分をどんな存在だと信じる(決める)かが、目的設定に大きく影響します。 マズローの欲求段階説は、実は6段階までありますが、その段階のステップは、自分というものをどう捉えるかのステップアップと一致しています。 マズローが、下の段階を満足すると次ぎの段階の欲求が生じる、というようなことを言っていますが、それは、自分というものを動物的な肉体と捉えていることを前提としているからです。 たとえば、若い頃のマザーテレサなどのように自分の食べるもの、睡眠を削っても他の人を助ける欲求を優先させるというようなこともあります。 これなどは、欲求段階説の理論とは違いますよね。 これはマザーテレサの持っていた自分の概念が違うからです。「自分は神の思いを実践するための神の手足だ」というような概念を基本的に持っているから、心からそれを優先することができるのです。■ つまり、目的を見れば、その人がわかるのです。そして、どんな結果を得たいかで、逆算して自分の概念、目的、価値を決めていくことができるのです。 ケネス・リングの調査によると臨死体験をした多くの人は、臨死体験後に生き方ががらりと変わるそうです。ケネス・リングの調査によると臨死体験後は1)毎日の生活のごく普通の出来事の一つ一つが素晴らしいものに感じられる2)自然の美しさをより感じるようになる3)他の人を助けてあげたいという気持ちが増す4)他の人に対する同情心が増す5)他の人の言うことに耳を傾けようとする態度が増す6)他の人に対する寛容心が増す7)他の人に対する愛情を表に出して表現するようになった8)他の人がどういう問題を抱えているかが見抜けるようになった9)他の人を理解できるようになった10)他の人を受け入れる気持ちが増した逆に1)他の人にいい印象を与えたいという気持ちが減った2)有名になりたいという気持ちが減った3)他の人が自分のことをどう考えているかを気にする気持ちが減った4)生活の物質的側面に対する関心が減った5)人生において物質的成功をおさめることに対する関心が減った6)生活水準を上げたいという欲求が減った なぜ、こんな大きな変化が起きるのかといえば、私のいうのは、肉体以上の存在で、肉体として死んでも生き続ける存在であることを知るからです。中には魂としての目的をもって、この世に生まれてくるということまで思い出す人もいますから、大きな変化も当然だと言えます。 共依存の原因となる怖れは、幼い時の死の恐れから生じています。 自分が肉体であると思っている以上、死の怖れから完全に解放されることはないでしょう。■ レオ バスカーリア「葉っぱのフレディ―いのちの旅」より(誰でも)「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」 あなたはどんな存在ですか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 25, 2007
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心理コーディネーターの織田隼人さんの「男心と女心 異性の心理マーケティング」というメルマガにこんな内容の話がありました。男心と女心というブログで読むことができます。> 医者や弁護士などエリートにオレオレと自慢げな人が多い気がする。> オレオレにならない人もいるのに、> どうしてオレオレになってしまう人もいるか?第230回 エリートは怖い?という疑問に対する答えは、ヒカリズムならシンプルです。オレオレにならない人は、あるがままの自分を愛していて、オレオレになってしまう人は、存在価値不安症で、『あるがままの自分ではダメなんだ』という怖れを持っているので、周りの人に勝っている肩書きによって自分の中の自己価値の認識を補完しているからです。 別の言葉で言えば、肩書きに依存しているのです。 どんなにすばらしい肩書きがあっても、依存していては、肩書きの奴隷です。自分を生きることができません。 肩書きを失ったり、肩書きの力が弱まることを常に恐れていなければなりません。 たとえば、医者であっても普通の職業の人の前では勝っていると安心できますが、医者同士では、対等ですから、山崎豊子さんの長編小説「白い巨塔」のように次期教授を狙う野心に燃えたりして勝ち負けのゲームの奴隷になって争うことになります。 穏やかな心、優しい心を失うことになってしまいます。 大切なのは、あるがままの自分を愛してあげることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 23, 2007
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>趣旨とずれた質問になってしまうかもしれませんが、ヒカリズムは、生き方、生全般を取り扱うものです。生き方の考え方でありノウハウであり、手法であり、哲学です。ですから、趣旨とずれるということを気にする必要はありませんし、ヒカリズムの生き方として、他者の思惑を必要以上に気にする必要はない、というのが、ひとつのノウハウとしてありますから、まったく気にする必要はありません。こちらも、趣旨からずれているから答えたくないと思えば、答えませんから。(笑)>>『感情が優先して頭では分かっているのに論理的に行動できない」>>このくだりについては何となく思い当たります。 この状況は、誰しも思い当たることがあると思うのですが、それ以上、深く考えることをしていないと思います。 実は、ここにもう悟りへの入り口があるんですね。だって、論理的に考えて、○○した方がいい、ラクだ、幸せだとわかっているのに逆のこと、別のことを考えたり、したりしないではいられない、この矛盾した行動が幸せであることを阻んでいるのは、論理的に明確ですから、これを解決したら、苦を超えられて、幸せになるんです。 しかし、どつぷりとその共依存的に思考、行動パターンに使っているので、自分のことが見えないでいるんですね。正しく見ていない、だから、正しく考えられない、ということです。当然、正しく行動もできません。 お釈迦さまの時代には心理学などありませんから、そのメカニズムがわからなかったし、仮に釈尊自身はわかっても、その時代の人々の知識では、そのまま伝えることは不可能だったと思われます。 今の時代にも科学文明の影響を受けずに電気もない生活をしている人もいると思いますが、そのような人に携帯電話やパソコンを見せて、その仕組みを説明しようとしても無理だということが想像できると思います。 それが今では、多くの人が基礎知識を持っていて、しかも、臨床心理学は、苦の問題を解決できるほどに心のメカニズムを解読しているのです。 だからこそ、今はすべての人が悟れる時代なのです。 また、臨死体験や前世の情報も、又聞きのうわさの段階から、今では多くの科学者の手で数多くの事例が整理され、分析されています。 その結果、状況証拠として利用してひとつの意識、魂の生まれ変わりを信頼できる地盤もできています。 その意味でも、悟りへの地盤固めができていると言えます。>>『年下の人は、目上の人に敬語を使わなければならない』>>こういった基準というものの存在の有無は、愛や喜び悲しみのような、その他の感情の存在の有無に通じるのですか?まず、「こういった基準」の「こういった」といういう分類は、sachioさん独自の視点(基準)による分類です。 説明なしでは、私には、どういう基準で分けているかがわかりません。 もしかすると、「ささいなこと」というような分類ですか? いずれにしろ、感情は、考えの偏りによって生じます。感情法則というものがあって、 出来事 + 考え(こうあるべき) → 感情 出来事だけでは、感情は生じません。その人が、その出来事に対する考えに偏りを持っていて、初めて感情が生じます。 たとえば、夫や上司が『自分を尊敬しろ』という自分の考えを妻や部下に押し付けていたとしたら、生活や仕事をしている中で、苦痛に感じることが多々生じると思いませんか? その考えを押し付けられる頻度が多くなればなるほど、生きることに苦を感じることになりますから、「基準というものの存在の有無」というより「基準(こうあるべき)と環境、出来事の関係性」が重要になってきます。 つまり、些細な考えでも、関係性でそれが重要な考えになるとしたら、その他の感情の存在の有無に通じることになります。 つまり、論理的には、すべての考えに対して中立を保てれば(中立の考えになれば)、まったく感情が生じないことになります。 しかし、それでは人間として生きている意味がありません。偏りのレベルを囚われではなく、好みのレベルにすることです。(前提なく~であるべき、という考えが囚われ) ある人が偏った考えを持っていても、その出来事に一度も出会わなければ、感情的にはまったく問題になりません。 ですから、職場の人間関係に疲れた、苦しんだ人が職場をやめる、という行動を取るのは、考えを変えるのではなく、環境、出来事を変えることで関係性を変えて、苦しい感情の発生を抑えているということです。 しかし、感情は自分の考えにくっついていますから、どこかに逃げても追いかけてくるということになります。 基を断つには、考えを変えることです。>>感情を感じたときに>その原因の状態を受け容れられるのなら、好みのレベルです。>受け容れられないのなら、囚われです。>>これは、ある物事や出来事に対して不快感を感じたのなら、それは共依存が原因である、と言い変えることができるのでしょうか?飛躍し過ぎですか?広い意味で共依存です。それは、思考のメカニズムから考えて、広い意味の共依存の定義をある物事や出来事に対して継続して不快感を感じる状態、というふうに定義しているということです。 それによって、同じメカニズムから考え、同じ対策を使えることになります。 詳しく説明すると、不快感を思考で繰り返して、いつまでも不快であり、日常生活に支障が出るのが狭義の共依存(アダルトチルドレンなど)不快感を思考で繰り返して、いつまでも不快であるが、生活上支障がほとんど出ない、一般的な支障の範囲というのが、広義の共依存(一般的な人の状態)です。不快感が自然な感情の範囲で数秒で収まるのは、好みのレベルで、この状態が悟りの状態です。 この悟りの状態では、思考を意識的に変えることで、感情を自在に操れるようになります。 感情の奴隷の段階を超えて感情を道具として使える段階となっています。>実はこのくだりの説明は、私には少し抽象的というか概念的すぎて、また、私自身が自分の感情に対して無頓着でやや不感症気味なところがあるせいか、論理の筋は良く分かるのですが、例え話などが無いせいか想像がしにくく、いわゆる腑に落とすのに若干なんぎをしています。私は、知識として得たことを日常生活で実践してみました。そしてその結果気づいたことをフィードバックしてさらに考えを修正して、生活で実践を繰り返すことでより正確な考えで効果のあるものを会得して腑に落としていきました。 実践してください。体験なしでは、腑に落とすことはできません。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 22, 2007
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パソコンと言えば、一般的にインターネットとメールというくらいインターネットが一般化しています。 昔は友達とリンクをし続けていくとすぐにぐるっと回って自分のところにリンクされるってくらいの時もありました。(笑) それがあっという間にワールドワイド。日本のサイトは、日本語だけが多いのでそれほどでもないですけどね。それでも「さんたのはっぴーわーるど」は、世界各国にいる日本人の方からメールをいただいたりしました。(ちなみに、URLの最初によくついている wwwは、World Wide Web のこと、世界に広く張り巡らされたクモの巣 の意味) そんなふうに一般化した分、ゴミも増えてきました。ウイルスやスパイウェア、外部からの不正侵入、フィッシング詐欺などです。 これはまだ多くの人の意識が、『自分にとって得であればいい』という自己チューなものである現れですね。 しかし、これからは、得より徳の時代です。 消費者をだましていたことがニュースになった企業などの経営が難しくなるという状態が何度も起きていますが、その時代の変化の現われだと思います。■ さて、本題です。(笑)これまでも無料のウイルス対策ソフトはありましたが、(AVG や avast!)機能や使いやすさに難点がありました。 ところが、ウイルス対策だけでなく、アンチスパイウェア機能を満載して、日本語でデータ更新も早くて、なおかつ無料のインターネットセキュリティソフトが出ました。それが、キングソフトの、インターネットセキュリティーフリー大手のセキュリティーソフトはすばらしいんだけど、価格が高いのとパソコンの要求スペックが高いのが難点。最近は、だいぶ良くなってきましたが、以前は、大手のウイルス対策ソフトを入れると「重くてパソコンの動きが悪くなる」ってことがよく言われていました。その点このソフトは、以下のような要求スペックですから、ふた昔前のパソコンでもOKって感じ。(^^)だから、たいていの人のパソコンでサクサク動くと思います。■OS:Windows Vista(32bit)/XP(Pro/Home/64bit)/2000(sp4)/ME/98SE 日本語版■CPU:Pentium 200Mhz以上 HD:40MB以上■メモリ:128MB以上(Vistaは1GB以上)■画面解像度:800x600ドット、ハイカラー以上■ハードディスク:40MB以上 それでいて、1.基本のアンチウイルス2.最近は必需品化してきたアンチウイルス(8万種類以上の定義ファイルを持ち、リモートコントロール、暗証番号盗難、ダウンローダーなどのトロイの木馬を除去)3.不正侵入防止4.データ(銀行口座、クレジット番号など)を保護5.フィッシング対策機能6.OSやアプリケーションの脆弱性を診断 こんなにたくさんの機能がついて無料。但し、データ更新時に広告が表示されます。(こんなんで元取れるのかなあ・・・元取って無料を続けて欲しいです)■ 追加情報(2008/3/6)新たに参入するには良さを知ってもらうということから、100万本無料ダウンロードキャンペーンとして今回は正規版を無料でダウンロードをしてもらい、1年間使って良ければ継続使用時に、年間980円で継続使用が一年間可能になるということのようです。-----ここまで追加■“全世界で1800万人以上が使用するキングソフトインターネットセキュリティ。 その性能の高さ、動作の軽さを体感して下さい。” だそうです。詳細、ダウンロードは以下にアクセスKingsoft Internet Security free もちろん、広告が表示されない有料版もあります。 ちなみに私が今まで使っていたのは、データ更新料無料のZERO(いろいろな台数分あります)これも軽くてよかったです。1台用2台用3台用
Sep 22, 2007
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仕事で営業所に行くと「ノートパソコンのキーボードが壊れたんだ。キーが外れたんだけど、直せるかなあ」とヘルプされました。見てみてるとキーが5個も外れている(@_@;)(以下の写真は1個直して、2個めを直す途中の写真です)「クリップが落ちちゃったので取ろうとしたらキーが外れて、直そうとしたら、どんどん外れちゃったんだ」とのこと(笑) しかも、言うのをためらって2カ月間このままで使っていたとのこと(^^;(爆笑) 共依存ですねえ(笑) 外れたキーのボタン(以下キートップ)は、こんなかんじで取り付けの足が「八」の字のようになっている。 取り付けの足は、キートップの裏側の真ん中にパチッとはまっているだけです。 そこで、私も、この足つきキートップを本体にはめようとしたけれど確かに、このままではどうにもはめられない。 困ったときのインターネットというわけで、検索してみると・・・・・ありました!!(^^)!。 で、読んでみてるとソニーのノートパソコンのキートップの直し方でした。それはパンタグラフ式というもので、今回外れた富士通のノートパソコンのキートップとは仕組みが違うので参考になりません。 そのブログの方は自分が困ってネット検索したけど参考になるものがなかったので、同じように困っている人のために載せたとのこと。 確かに、キーが取れて困ったというものは多いけれど、取り付け方の説明はほとんどない。 仕組みが違って参考にならなかったので、仕方がなく仕組みをじっくりと分析。しばし考えます。「ポクポクポクポク」・・・・・「チーン!」ひらめきました!(笑) このようにキートップに足が付いたままでは取り付けられないんです。 『参考になるものがネットにないなら、この取り付け過程も載せたら誰かの役に立つかも』 というわけで、急遽途中から写真を撮りました。(パンタグラフ式の場合は、上のリンク先を参考にしてね)■ ノートパソコンのキートップのはめ方(今回は富士通)1.まずキートップから足を外します。(これが最大のコツです)2.本体側の取り付けの隙間(取り付け部分の外側)の写真の‘「 ’のような形の部分に一旦キートップから外した足を入れてから(写真取り忘れました、すみません)内側に寝かせます。※ この写真でわかる(?)ように隙間は外れないように細くなっているのですき間に合わせて慎重に入れないと引っかかる爪‘「 ’の部分が押されたりして壊れますので慎重に。(確か垂直に落とすように入れた気がしますが忘れました(^^;) 反対側も同様に。すると下側の写真のように足だけが寝た形で装着されます。 3.後は、キートップを上に乗せて押し付けてはめ込みます。(※上下確認のこと)(複数取れたときは位置も確認。ノートパッドを開いてキートップが外れたままのキーを押してみればわかります) これで装着できます。 お役に立ったかな?(^^)似ていても形とか仕組みが違うこともあるかもしれないので、あくまで参考になさって自己責任でお願いいたします。こんな取り付けマニュアルブログでも書くのに一時間半かかっています。お役に立ったら、コメント入れてもらえるとうれしいです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 20, 2007
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>また、そうであった時、具体的に何かする事、怖れを取り除くためにする事など(思考法など)無いものでしょうか? 私たちの行動動機は、突き詰めると愛か怖れしかないのです。 たとえば、趣味をイキイキ、ワクワクやるというのは、愛が動機です。キーワードは創造性、未知の体験。 一方、たとえば、コントロールドラマで~しないではいられない、というのは、怖れが動機になっています。 怖れを取り除くには、自分が怖れを持っていることに気づく必要があります。 持っていない(または持っている自覚がない)ものは、手放せないからです。■ この怖れは、幼い頃に親に条件付の愛で愛されたために(負のストローク)『(親に認められるためには)あるがままの自分ではダメだ』という考えを基本的な観念として持ったことで生じています。~から認められなければならない、~の好みの人にならなければならないそんな怖れが根底にあるのです。 ヒカリズムでは、これを存在価値不安症と呼びます。 ところが、私たちは、心を守るためにこの思い出したくない怖れを心の奥に押しやって気づけないでいるのです。 私がレクチャーしたある方は、学生時代にいつも宿題をきちんと済ませてから遊びに行ったそうです。 いつもそんな優等生なのってちょっと変だと思ったので、理由を聞いたのですが、「そうしないとなんかすっきりしないから」というような答えでした。 ところが、私がカウンセリングのようなレクチャーを進めていくとその方の忘れていた記憶がよみがえったのです。 小学生の低学年の頃、宿題をしないで遊ぶと親にお仕置きとして暗いところに押し込められていたのだそうです。 大人になって、そのときの記憶を忘れていてもその怖れだけは残っていて、『なぜだかわからないけれど、宿題をしないと心の奥がもやもやして宿題をしないではいられない』という状態を生み出していたのです。 そのように未消化のままの感情はその出来事の記憶と一緒に潜在意識に埋め込まれて何度でもよみがえるのです。■日本では、催眠療法は医学的治療として認められていませんが、欧米では、退行催眠などが治療として認められている国があります。 たとえば、理由はわからないのだけれど、水が怖いという人に退行催眠をかけて、その怖さの原因になった時点までさかのぼって行きます。 催眠中のクライアントにとっての今とは、さかのぼっているその時点なのです。 ですから、年齢が下がっていくと言葉も子供言葉になったりするそうです。 そして、原因となったその時点でこのときの未消化の感情を催眠の中で解消してやります。 たとえば、お風呂の中でおぼれかけた子供に対して、「もう大丈夫だよ」と安心させてやると、怖れが解消されて後を引かないのです。 そのあとで、また現在に戻してやるとしこりとなっていた出来事は済んだ過去のことになって怖れも消えるのです。(人の心って不思議ですね)■催眠を使わないでも、自分の怖れの対象について深く考えていくことで思い出していくこともできます。 私がレクチャーした別の方は、夕方に不安を感じていたのですが、そのことを『なぜだろう?』といつも考えていたらあるときふと思い出したそうです。 その方は、幼いときに家庭の事情で親戚の家に預けられて邪魔者扱いされて過ごしていて、(つまり、いくら家庭の事情とはいえ幼い子供にはよくわかりませんから、『家からまるで捨てられるかのように追い出されて親戚の家に預けられたから、自分はお父さんとおかあさんにとって不要な子供なのかも知れない』と思います。親戚の家でも邪魔者扱いされ、実の子供と差別されたりして、『お前なんか、いる価値がない』という負のストロークを受けます。 そんな状態の中、お父さんが迎えに来てくれるのが夕方なのです。いつも『捨てられたのではないか』という不安の中待っている夕方の時間は、大人になって忘れてしまっても、そのときの不安をよみがえらせる時間であり、景色だったのです。 しかし、思い出すことによって、今の大人の理解をもって「捨てられたのではない」という考えに置き換えることができるので怖れを手放していくことができるのです。■根本を変える他に、間違った考え方を変えて行動して望む結果を得る経験を繰り返すことで、パターンを変えていく方法もあります。認知療法などで行われているように間違った認知と行動を修正する、パターンを変えるという方法ですね。■怖れを取り除くための思考法として、ヒカリズムでは、根本の間違った考えやさらに根底にある前提を修正します。 幸せについてとか生きる意味とか自分とは何か、ということの書き換えを行うことで、より根本から思考を変えていきます。■歪んだ(誤った)観念という土台の上に建てた建物は、ピサの斜塔のように上でも歪んで修正が大変です。できるだけ根本の観念を変えることで、どんどんシンプルな思考にすることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 20, 2007
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また、ブログにお客様からご質問をいただいたので、お答えしたいと思います。>ただ、日常において、それが共依存から来ている思考・感情だと言うことにどうすれば気付くことができますでしょうか? 「感情的になる」ということがありますが、『感情が優先して頭では分かっているのに論理的に行動できない」という状況は誰でも経験があるはずです。 正しいものがわかっているのにできないこともあるということですね。自分が悪かったと分かっているのに謝れないこんなことで腹を立てることはないと思っているのにムカツクあきらめなきゃいけないとわかっているのに悲しみが止まらない相手を恨むのは筋違いだと分かっているにうらんでしまうなどなど このように、悟っていないすべての人は、広い意味での共依存なのです。 厳密に論理だけでいうと論理上での無条件の愛を身につけてすべてを無条件に受け容れ、すべてが自分だという意識なった人は、ワンネスの意識から分離をなくし、まったくの神意識になってしまうはずです。(実際は、特殊な瞑想状態以外では、必ず個というものを意識しています) そのような状態であったら、喜怒哀楽の基準となる囚われがまったくないのですから、感情はなくなるはずです。たとえば、『年下の人は、目上の人に敬語を使わなければならない』という基準があるから、年下の者がぞんざいな言葉で話し掛けてきたら腹が立ちますが、そんな基準を持っていない人は、まったく意に介さないはずです。 そのように基準がまったくなくなると感情はなくなります。■ では、現実はどうでしょうか。 感情がなくなったら、生きている意味がないと私は思います。人生は楽しむためにるあのですから。(^^)>それに気付くための何かきっかけや特徴、または方法のようなものは無いものでしょうか?個というものがある(ワンネスから分離している)ということは、考えに偏りがあるということです。「私はこれが好き、あれが嫌い」これも偏りです。 ですから、感情はあってもいいのです。怒っても悲しんでもいいのです。 それが自然な感情であればいい。 ところが、この好みの程度が強くなり過ぎて、融通が利かなくなって固まって「囚われ」という大きな偏りになると「許せない、受け容れられない」という問題が起きます。 不自然な感情になるのです。■ ですから、思考や感情のレベルを調べるには、感情の原因を受け容れられるかどうか、思考中に胸の奥に引っかかりがないか、で見極めます。考えているときに、「もやもやしている、暗い気持ちになる」というときは、共依存の怖れからの思考です。恐れがなく愛でいるときは「すっきりしている、気持ちがいい」という状態になります。(なんとなくわかるでしょ(^^)) 感情を感じたときにその原因の状態を受け容れられるのなら、好みのレベルです。受け容れられないのなら、囚われです。>また、そうであった時、具体的に何かする事、怖れを取り除くためにする事など(思考法など)無いものでしょうか?あります。共依存からの回復やトラウマの解消などと基本的に同じです。つまり、臨床医学的に解決方法が見つかって行われていますが時間がないので、今日はここまで。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 19, 2007
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昨日のブログにsachioさんからご質問をいただきました。長くなるので、コメントのレスではなく、ひとつのブログにしました。このお話は、ヒカリズムの基本的な部分ですから、講演やセミナーなら1日は必要な内容ですが、要点だけをご説明します。---------------------------■ どんなすばらしい理論であっても、それがどんな形にしろ現実に私たちの役に立たなければ、あまり意味がないと私は思っています。 ですから、「どうすれば正しい見方ができるか?」「考えを正すには具体的にどうすればよいか?」と考える姿勢はすばらしいと思います。 さらに、「正しい見方とは、正しい考えとはどんなものか?」という疑問にいたることができるのは、ちゃんと自分で考えて実際に正しい考えをしてみることを想定したからでしょう。 思考が正しく働いていますね。(^^)■ たとえば、私が針金で正三角形を作ったとします。あなたがそれを見る前に子供がぐちゃくぢゃにしました。でも私が「元の正三角形に戻してください」と言えば、あなたにはそれができると思います。 では、私が針金でマイキ形を作ったとします。あなたがそれを見る前に子供がぐちゃくぢゃにしました。私が「元のマイキ形に戻してください」と言ったとき、あなたはできますか?きっとできないと思います。 なぜなら、あなたはおそらくマイキ形という形を知らないからです。■ それと同じように、正しく見る、正しく考える、正しく生きる、ということを実践できるためには、それぞれの場合の「正しい」という言葉が指し示す状態を知っているか、もっと根本の「正しい」ということがどういうことか知っている必要があるのです。 たとえば、「正しく生きなさい」と言われたとき、あなたには、なんとなくどういうふうに生きたらいいのかがわかると思います。人を殺さない人から物を盗まない人を傷つけない人に迷惑をかけない人にやさしくするうそをつかない(ウソで相手に損失を与えない)などなど「やさしくする」以外は、法律で規定されています。たとえば、「ウソで相手に損失を与える」のは詐欺などですが、単純に「ウソをつかない(ウソで相手に損失を与えない)」ということを考えたとき、それは正しいことだと思うでしょう。 でも、ガンなどの告知などの問題があります。ガンだと正直に言わずにウソをつく場合もありますが、それを一概に間違っている、悪いことだ、と言えない状況というものがあります。 つまり、人はすべての状況を覚えることはできませんから、個々の状況における正しさを覚えているだけでは、すべての状況に対応できないのです。 ですから、もっと根本の「正しい」ということの定義を知っていれば、個別にその定義に当てはめることでドレが正しいかの判断ができるのです。■ では、正しいとはどういうことでしょうか? 実は、辞書を引いても答えは出ていないことが多いです。三省堂の大辞林には載っていました。((5)最も目的にかなったやり方である。一番効果のある方法である)ヒカリズムでは、 正しいとは、目的に適っていること。です。 たとえば、道理や法にかなっているという意味も、道理の意味を人の行うべき正しい道に限定した場合、社会機構維持の目的に適っている、ということです。「社会という組織を維持するという目的」のための手段として、常識(道徳)や法律があり、その手段(目標、目標値)に適っているいるということは、その上の目的、「社会という組織を維持するという目的」に適っているということになります。 目的に適っているというのが、正しいの一番汎用的な意味なのです。 ■つまり、「正しい見方とは、正しい考えとはどんなものか?」の質問の答えは、目的に適った見方、目的に適った考え、ということです。 たとえば、原発賛成派と反対派の意見がまとまらないのは、それぞれの目的が違うからです。結果的に正しさも違い、しかも正反対の正しさになっているのですから、意見の一致を見ることができません。■ 次に、「目的とは、何か」ということをまた知らないと実践できません。はしょりますが、目的とは、欲求の実現を意思決定したもの、または、目的とは、実現すると決めた欲求を未来のあるべき姿としてイメージしたものです。 そして、目的は、意志によって生まれます。 つまり、目的はそれぞれの人ごとにあるのです。ということは、正しさはそれぞれの人ごとに違うということです。■ 本当の正しさを見つける sachioさんは、「間違った考えは、共依存・コントロールドラマ・防御機制などによるものだとして」と言っていますが、実はここが重要なのです。 共依存・コントロールドラマ・防御機制などは、怖れから本当の欲求とは別の欲求を自分の欲求だと思わせたり、自分にウソをついたりするので、自分の本当の欲求に気づけないことがあるからです。 「どうすれば正しい見方ができるか?」それは、本当の自分の欲求を見つけることです。(共依存からの回復が必要だと言えます)■ そして、欲求はひとつではありません。「考えを正すには具体的にどうすればよいか?」 それは、1.共依存から回復し、本当の欲求を知り2.複数の欲求に優先順位を明確につけることです。 そして、自分にとっての一番優先される欲求を見つけ出すことです。その欲求から目的が決まりますから、選択のときにその目的に照らすことで常に正しい考えを得ることができるのです。 ニュートン物理学的な考え方をすると絶対的に正しい考えがあるように思いますが、そうではないのです。 しかし、そういう意味(ニュートン物理学的な考え)で言うと、すべての人の第一欲求は、幸せであることです。(いつかはたどり着く旅ですが、共依存の間は、そのたびの途中の目的を第一目的だと思ってしまいます) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 15, 2007
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感情、気持ち、考え、行動の発生の源流である基本的な考えを論理的に正しいものに変えることで、思考、行動、態度、生き方、人生を根本から望むものに変える。------------------------ あなたがたは、誰しも正しく生きようとしている。 だが、正しいということがどんなことかも考えたことなく、誰かの正しさを無批判に自分のものとしている。 その結果はどうだろう? 他人の顔色をうかがいながら、『どれを選んだら正しいって思われるか?』そんなことばかりやっている。 それでいて、「自分らしく生きたい!」なんて矛盾したことを言う。 そして、うまくいかないのを誰かのせいにする。 なんてことだろう! 自分がどんなに論理的に矛盾したことをしているか、まったく気づいてもいない。一切の原因が自分にあることに気づけないでいる。 間違った考えからは、間違った答えしか導かれない。それはわかるだろう。 あなたがこれまで選び取ったさまざまな考え、そのひとつひとつは、その考えが発生したときは正しいかもしれない。そのことを考えた人は、ある基準に基づいて正しく考えたかもしれない。 だが、あなたがそれを無批判に自分のものとしたとき、その正しさは論理的に破綻してしまう。違う基準の正しさを寄せ集めたのだ。違う基準に基づくそれぞれの考えの正しさは、その関係性の中で破綻する。「人を殺すことはいけない」「そのいけない殺人を犯した者は死刑にすべきだ」そんなことになる。 全体的に統一性がとれていないのだ。つまり、間違っている。あなたがたが、迷いの中にいるのは、そのことに気づかないでいるからだ。 間違った考えを基に、そこから正しい答えを引っ張り出そうとするから、悩みが尽きないのだ。 正しく生きたいのなら、まず、基本的な考えを正しなさい。 そうすれば、自然に正しい答えが生まれてくる。そこに力はいらない。そこに抵抗はない。 人生がシンプルで楽になるんだ。 正しく見た正しい考えを基とする。すると正しい心、正しい姿勢となる。そこから、正しい言葉、正しい行い、正しい欲、正しい生き方がおのずと生じてくる。 それが悟るということだ。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 14, 2007
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ある意味では自分の人生を生きていない人などいません。 でも、なりゆきや他人の勧めとかで、望まない道を選んだことはありますよね。 それは自分が結果的に自分で選択した人生ですが、自分の人生とは言えない気がしませんか? ここで言う「自分の人生」とは、自分でデザインした人生、自分で決めた道というような意味です。 どんな人生も最終的には自分で選択した人生ですが、自分が望むようにデザインした人生を歩んでいる人はごくわずかです。 自分が望むようにデザインした人生を生きることがすばらしいだろうということは、誰でも想像がつくと思います。『そんなことたいへんだ』とか『ムリだ』と最初からあきらめはいませんか? こうあり自分の姿を明確にデザインし、一歩ずつでもトライしてみましょう。 きっと、変わってくるはずです。 まず、気持ちが、そして、あるときから、現実が変わり始めます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 13, 2007
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性格を変えられるでしょうか? ネットを検索してみたら、『性格は変えられない』と信じている人がけっこういるのに驚きました。 性格は変えられるのか?変えられないのか? その答えを出すためには、まず性格とは何か?ということ(性格の概念)を明確にすることが必要です。 あるカウンセラーのサイトでは、性格を4つに分けていました。1.性格の核とも呼べる気質(遺伝的に生まれたときから持っている個性、これは変わらない)2.気質を包むようにある、狭義の人格(狭義の人格については、幼少期の頃に、ほぼ形成される。この狭義の人格については、大人になってからは、もう多くは変わらない)3.狭義の人格を包むようにある、習慣的性格4.習慣的性格を包むようにある、役割性格(職場の部長として働いている時とプライベートでいる時では、全然違う) まず、4番目の役割性格ですが、同じように部長という役割であっても性格は明らかに違いますよね。ですから、この役割性格というのは、通常は性格とはみなさないと思います。 遺伝の部分を含めた正確についてですが、遺伝的に同じである一卵性双生児の調査などから、現在は、性格は遺伝と環境の両方が関係していると考えられています。 そうであるならば、 持って生まれた遺伝の部分は変わらないとしても環境を変えることで性格も変えることが可能だといえます。 環境が違うということは、性格に及ぼす影響から見るとどういうことでしょうか? ポイントは、ほとんどの場合、変えたいと思うのは性格全部ではなく、性格のうちでも、実生活において支障を感じる部分です。 このような支障をきたす性格とは、自分の意思とは関係なく「~してしまう」というような部分です。 これは共依存の特徴のひとつです。ですから、共依存を考えれば簡単にわかります。 これは、幼いときの親などとの関係から出来上がった性格であり、先の分類の狭義の人格と呼んでいる部分です。 先の分類では、気質以外に3つに分類していますが、ヒカリズム的には、それらはすべて同じモノだと考えます。 分類されたそれらの性格に共通するのは、意識していたにせよ、無意識にせよ、その人が選択した観念が表面に現れたものが性格だということです。 違いは、その固着程度です。 幼い時に未消化の感情と一緒に潜在意識に刷り込まれた観念は、潜在意識レベルでの固定観念となっていて、なかなか変えることができません。 自分(という意識)の死まで考慮する悟りでは、それを変えることが可能だと言いますが、そこまで踏み込まないカウンセリングにおいては、変えられないと判断することになります。 習慣の部分においては、意識して考えを変えて行動を繰り返すだけで習慣が変わりますから、いわゆる習慣的な性格は共依存的な性格に比べて、比較的容易に変えられます。 幼い時に決定付けられた性格に関しては、その人のその人たる考え、正しさを書き換える必要があり、そこには感情的な問題も絡むので、かなり難しいものですが、ヒカリズム的には変えることが可能だといえます。(カウンセリング的には、変えられないと判断している) 役割性格は、役割が変わったことを意識することでたいていの人が容易に変えていますよね。 ヒカリズム的に考えると、性格の遺伝的な部分以外は、程度の差はあれ、すべて1.観念2.繰り返しによる習慣化によって作られています。 観念を変えることは可能ですし、習慣も変えられます。ですから、性格は変えられます。 こう在りたい自分をイメージし、そのイメージの自分なら持っている考えを選択し、そのイメージの自分なら、行うであろう行動を繰り返すことです。 考え方が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば心が変わる 心が変われば人格が変わる 人格が変われば人生が変わる 性格が変わるかどうかの議論は、性格の捉え方、定義の仕方で変わりますが、性格によって望まない方向に進んでいた人生は確実に変えられます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 12, 2007
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問題とは何か? 誰でも言葉からイメージはつかめますが、問題解決を容易にするためには、問題を二つの側面に分類することが役立ちます。それは1.実態的側面(外側)と2.心的側面(内側)です。 実際には、これらは融合して感じられています。 しかし、その人にとって問題となるのは、心的側面であり、その意味から、問題とは、「その人の基準から外れているために心に引っかかるもの」ということです。 実態的側面とは、その人の心以外の外の基準を視点としたありさまのことです。(外の基準とは、結果的に他の人の心の基準のことです) たとえば、部屋が汚いという場合。 それは部屋の整理整頓度のことであり、常識的な基準や上の人の基準などが実態的基準になりますが、その基準を持った人以外にとっては、その本人が汚いと思わなければ、その人にとっては問題とは言えません。ご主人「部屋が汚いじゃないか!」奥さん「そうかなあ」 これらのことは、問題をどう解決したいかで、どちらの側面を優先するかが変わるということです。 たとえば、職場である人の机の周りが仕事に支障が出てくるほど整理整頓がされていなければ、その人が『たいしたことはない(心的に問題ではない)』と思っても(上司などが心的に問題とすることで)実態的に問題だということになり、解決を迫られることでしょう。 上司も心的に問題にしなければ、実態的な問題としては浮かび上がってこないことになります。(笑) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 11, 2007
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主人公(渡辺勘治)は、安定した市役所の課長。下手に頑張って上司ににらまれるより、何もしないことのほうが出世するというような公務員として仕事中は時間をつぶすことだけの自分の無意味な人生を送っている。 そんな人生に生きがいがあるはずもない。 ところが、ガンで余命幾ばくもないことがわかり、自分のこれまでの生き方に疑問を抱く。 部下の女性(小田切)の生き方にどこか惹かれ、自分の胸の奥に潜む心の叫びを聞きたいと感じる。 そして、小田切の言葉にそれに気づいた主人公は、職場に戻り、充実した生き方を始め、そして半年後に亡くなる。 無気力な人生を送っている主人公に、ナレーションでこう説明する。「彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとはいえないからである」 ヒカリズムで伝えていることは、「自分を生きる」ということ。 自分を生きていない人などいないのに、あえて「自分を生きる」と言っている。 いったい、生きるということはどういうことなのか? ここでいう「生きる」が、単に肉体としての生命維持ではないことは明白だ。生きた時間?自分を生きる? その言葉で伝えていることはなんだろう? 「無意味な人生ではなく意味のある人生を送ろう」というドラマのメッセージ、・・・人生の意味とはなんだろう? その答えに気づいたとき、あなたは本当の人生を歩み始めるのだ。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 10, 2007
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人は感情の動物だといわれます。 感情があるからこそ人生はすばらしいと私は思います。でも、感情的になると、感情に振り回されて論理的な思考、行動ができなくなります。 また、未消化の感情によって刷り込まれた固定観念が潜在意識に残り、パターンとして思考、行動を固定化することもあります。 固定化された思考は、状況の変化に無関係に働くので、論理的に間違った思考、行動になることがあります。 それが私たちが幸せになれない理由です。 論理的に正しく思考し、行動できたなら、幸せでいたいときには幸せでいられます。 なぜなら、幸せの本質は心の状態であり、外側とは直接の関係はないから、その人自身で選択できることだからです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 9, 2007
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私たちは、世界というものを認識しています。そして、多くの人は、それが誰にでも同じに見えているということを疑いません。 確かに視覚を通じて見える世界はほぼ同じかもしれませんが、それをどう認識するかは、人それぞれなのです。 たとえていえば、観念の色メガネをかけている状態です。 もし、垂直な線が5度折れ曲がって見えるメガネをかけていたら、その人には、垂直な線が折れ曲がって見え、その人にとって垂直な線だと見えるのは5度折れ曲がった線です。 同じように、『アーリア人種の血を引くゲルマン民族が優れていて逆にユダヤ人は、世界の文化を破壊する最も劣悪な民族であり、社会に害悪をもたらすので徹底的に絶滅しなければならない』という観念を持った人にとっては、アドルフ・ヒトラーがすばらしい人に見えるのです。 単にそのヒトラーたちの考え方が間違っていると思う人も多いと思いますが、では、その正しい間違いを判断する基準となった考えはどんなものであり、その考えが正しいとする根拠はなんですか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 7, 2007
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迷いとは、選択できないことです。 選択とは、正しいもの、適切なものを採ること。 正しいとは、目的に適っているということ。 目的は、意志がもつ欲求を目標に据えたもの。 つまり、目的が、選択の基準となっています。 ところが、私たちは、しつけの段階で常識とかマナーとかという形で、他者の目的を無批判に取り入れてしまいます。 他者の目的は、取り込まれると他者からの強制(~しなければならない、~するべき)という形で自分の考えに紛れ込みます。 自分の欲求を目的にしたものであれば、自分の欲求が変わったときに、自在に変えられますが、自分の中の「~すべき、~しなければならない」は、自分の気持ちとは無関係ですから、そのままです。 そのような考えが「絶対的な基準」となって、複数、私たちの考えに取り込まれていて、複数の基準となっています。 しかも、場合によっては自分の気持ちにそぐわない基準もあります。 複数の基準、場合によっては、相反する基準、で判断しようとしてもそれは不可能ですし、自分の意にそぐわない基準で選ばれたものは、気持ち的に実行できません。 理屈では分かっているけれど、できないのです。 ですから、迷いを断つためには、自分の意に適ったひとつの目的を基準にすることです。 それは、つまり、自分(のしたいこと)を第一(目的)にすることなのです。 だから、お釈迦さまは、最期に自灯明と言ったのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 5, 2007
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外付けハードディスクを見ていたら、最初のヒカリズムのサイトのバックアップを見つけました。 そのヒカリズムのサイトにあった詩のコーナーに「千の風になって」もあったので「さんたのはっぴーわーるど」のサイトにアップしました。 よかったらご覧ください。 ちなみに、ジャバアプレットで動くタイプのあるのですが、無料のジオシティでは動きませんでした。 そこにあった更新の年を見ると2003年でした。 ありがたいことに、今、このブログでしているヒカリズムの説明を分かりやすいとおっしゃってくださる方が多いのですが、2003年当時は、確かに説明がうまく出来ていませんでした。 自分で体験的に穏やかな心になっていることは分かるのですが、それを伝えようとすると説明がうまく出来ないのです。 自分が心の中、頭の中でどんなことをしたから、穏やかな心になっているかが具体的な言葉で説明できないのです。 昔から、月をさす指の喩えのとおり、「悟りを言葉で伝えることは出来ない、悟りを示すことが出来るだけだ」と言います。 たしかに、悟りを説明することは難しいのですが、今、科学が進歩し、心理学、臨床心理学が発展したことによって、心のメカニズムが解明され、言葉で説明することが可能になったのです。 それはつまり、今はすべての人が悟れる時代になったということです。 悟りたい、穏やかな心を手にしたい、苦しみに振り回させる生活から脱したい、というようなことを思い、自分を変える決心さえすれば、それは可能なのです。 ですが、もうひとつ壁があります。それは「自分を変える」ということが「自分の正しさを手放す」ということを意味するからです。 エゴがそれを拒むのです。 エゴという自分を殺す決心をすれば、あなたは愛という本当の自分に変わることが出来ます。 それが悟りです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 1, 2007
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