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金曜日にテレビで「スパイダーマン2」を見て、『ヒーローものにしては、ちょっと変わっているな』と思いました。 そして、今日の新聞で5月1日公開の「スパイターマン3」について載っているのを読んで、その理由がわかりました。 「スパイダーマン」は、アクション満載のヒーローものですが、この映画シリーズの柱は、主人公のピーター・パーカーの苦悩と成長なのだそうです。 第一作では、超能力を得て自信をつけ、でもおじさんの死に至らせたことで、正義に対する責任に気づいたかな第ニ作では、力に伴う責任の重さに苦悩します。第三作では、ブライドにおぼれ傲慢になり自己過信し、怒りに捕らわれ復讐に向かうらしい。 さて、唯一見た第二作で、おばさんが「正義のために、自分のしたいことを犠牲にしなければならないこともある」という意味のことを言います。 これは社会の維持を目的として、自分の外側の正しさを基準にした論理です。 ヒカリズム的にいうと、これは違う。ヒカリズムでは、自分を中心にしますから、「したいことをしたらいい、したくないことはしなくていい」といいます。 実際のところ、映画の中でピーターも正義のスパイダーマンとしての役を一度は放棄します。 実は、これは、「森田療法」でも使われている手法です。 よく言われることに「したいことがいくつもあって何をしていいか分からない」というのがあります。 確かにしたいことは複数あるかもしれませんが、どんなときも一番したいことというものがあるのです。 しかし、どれが一番したいことなのかが自分で分からないのです。 なぜなら、したいことの基準は自分のなのに、しなければいけないことの基準は外側にあるからです。 その優先順位を自分の側に持ってくる勇気が無いので、心の中で揺れ動いていて、しかも、自分でそのことに気づいていないから、葛藤するのです。 悟った人というのは、自分に基準を据えて、自分の選択の責任をとる覚悟を決めた人のことです。 映画の中で、主人公のピーターは、恋人MJに自分の気持ちを伝えることができません。『スパイダーマンの恋人であれば、危険なめに会うかもしれないから』というのがその理由。 しかし、気持ちを伝えて、スパイダーマンの恋人になることを選ぶかどうかは、相手の問題なのです。 先日のブログに書いた、もし余命いくばくもないときや身体障害があるから、自分の気持ちを相手に伝えられない、という気持ちとまったく同じです。 しかし、それは、相手の問題と自分の問題の区別がつかない共依存の特徴です。 相手に負担をかけるから言えないという発想の人は、相手の気持ちに従わなくちゃいけないと思う人であり、同様に、自分の選択の責任を相手のせいにする余地を気持ちの中で持っている人なのです。 基準を自分に持ってくると、相手の気持ちや期待がなんであれ、『どうするかを決めるのは自分だ』と思えます。 それが自分の中の常識になった人は、自分の気持ちを伝えたことを相手がどう捉えるかは『相手の好きにしていいのだ』と心から思えるのです。 そういう気持ちになると、自分の本当の気持ちが見えてきます。 それまで、社会から求められる『しなければならないこと』と思っていたことと『自分が本当にしたいこと』の優先順位付けに葛藤していたことによって、見えていなかった順番がすっきり見えてくるのです。 ピーターは1.スパイダーマンの力を活かして人の力になりたい。2.MJを恋人にしたいという優先順位だったのです。 最初の葛藤のときは、欲望に負けて、スパイダーマンを捨てMJを選びます。 しかし、もたもた葛藤していたのでそのとき、MJは婚約してしまっていました。 さらに葛藤の末、ピーターは、スパイダーマンになることを選び、MJを嫌いだと(ウソを)いいます。 結果的に、MJにスパイダーマンだということを知られ、1.スパイダーマンの力を活かして人の力になりたい。2.MJを恋人にしたいの優先順位の結果になります。 これは、MJ自身もその順番を選んだから実現したことです。 もし、MJが危険がイヤだとスパイダーマンの恋人になることを選らばなければ、ピーターは捨てられるだけです。(^^; つまり、ピーターは、捨てられるのが怖くて言えなかったのだともいえます。 あるがままを受け容れる覚悟をして、自分を中心に持ってくれば人生はシンプルで楽になるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 29, 2007
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NHK教育テレビのNHK映像ファイル あの人に会いたい「高田好胤」を見ました。 奈良・薬師寺の元管長だった高田好胤(たかだ こういん)さんは言います。般若心経にでてくる「無」という言葉は、エゴ、私、をなくすという意味です。 これを聞くと私たちは分かった気になります。しかし、その分かった気になった時点の概念の私を無くすことができますか? たいていは、肉体を含めた私を概念化します。その概念の私をなくすことは簡単にできません。 たとえば、石森章太郎(いしのもり しょうたろう)の名作「サイボーグ009」にクモの形のサイボーグがでできます。肉体は無くなり、脳だけが自分です。この脳という物質が意味するものは、私という意識です 大林宣彦の映画「転校生」山中恒の有名小説「おれがあいつであいつがおれで」 をドラマ化したものですが、その中で、男女の意識と身体が入れ替わりますが、主体は意識のほうです。 臨死体験をしたとき、空中から死んだ自分の肉体を見るシーンがよく語られます。 つまり、通常は意識と身体が一体化しているので気づきにくいですが、私というのは、意識そのものなのです。さらに、私という意識とは、何か? ニューエイジに「ワンネス」という概念があります。 「神との対話」という本には、 まず初めに在ったのは、「存在のすべて」それだけだった。ほかには何もなかった。その「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」---あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏を返せば「無」と同じことだった。(「神との対話」P39) (「存在のすべて」は)自らを体験したいと激しく望んだ。素晴らしいというのはどんな感じなのか、知りたかった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「素晴らしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、素晴らしくないとはどういうことなのか分からなければ、素晴らしいとはどんなのかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。 このエネルギー、純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、従って他の誰も知り得ないエネルギーは、自分の素晴らしさを体験しようとした。その為には、自分の中にある比較対照の基準を使わなければならないと気付いた。一部は全体より小さい、それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、素晴らしさを知ることができるだろう。そこで、「存在のすべて」は自らを分割した。 と書いてあります。 般若心経の「色即是空 空即是色」と合わせて考えると面白いと思います。 さて、たった一つの意識がそれを分割する。それをあなたは説明できますか? ケーキをナイフで切るように説明することはできません。ナイフも周りの空間さえもひとつになっていて存在しない、つまり「無」なのですから。 ワンネスとは、無と同義語なのです。般若心経の空と同じです。(無は、虚無と空と同じ意味でつかわれる無のふたつの意味があります) あるサイトでは、ワンネスをゴム手袋の指先で説明していました。 ワンネスの意識を分離するとは、違いを創ることなのです。ワンネスは紙意識であり、無条件の受容です。 違いを創るためには、否定が必要なのです。 否定とは、「こうあるべきだ」という囚われた考えによって生じます。あるべき姿から外れたものが否定されます。 悟りとは、違いを知った上で、違いを手放すこと、つまり、囚われをてばなすことです。 さて、ここで高田好胤さんの有名な言葉を見てみましょう。 とらわれない こころ かたよらない こころ こだわらない こころ ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり ( 薬師寺元管長 高田光胤の言葉 )CDいかに生きたらいいか本当の幸福とは何であるか ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 28, 2007
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NHKの2009年の大河ドラマが火坂雅志(ひさか まさし)さんの「天地人(てんちじん)」に決ったそうです。 原作は火坂雅志さんの同名小説です。実は、火坂雅志さんは、私の高校の同窓生です。 おめでとうございます。(^o^) 同窓会などで、作家になったことは、よく話題になっていたのですが、大河ドラマとはすごい!! 2009年ですから、再来年ですね。 こりゃあ、同窓会が盛り上がりそうです。(^^) 興味のある人は、読んでみてくださいね。
Apr 27, 2007
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杉原 幸子著「六千人の命のビザ」を読みました。前から持っていたのですが、読んでいなかった本です。 みなさんは、杉原千畝(ちうね)さんをご存知ですか? 以前(2005年10月11日)に、終戦60周年記念ドラマ「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」として読売テレビで製作され、日本テレビ系列で放送されたそうなので、ご存知の方も多いと思います。 数日前の日経新聞にも杉原さんの功績を講演したユダヤ人の記事が載っていました。 さて、ご存知ない方のために、ネット上の参考資料をご紹介しましょう。 杉原さんの故郷で「杉原千畝記念館」のある八百津町のサイト FLASHという技術でスライドのように見ることができるサイトサイズ1M&再生時間「約6分」と長いです。(補足説明のページもあります) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の杉原千畝 さて、ヒカリズム的解説です。 外務省から「ビザ発給の許可」許可を得られないまま、杉原さんは外務省の命令を無視してビザの発給を始めます。「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった」 ここに二つの正しさがあります。社会の正しさ(この場合、外務省の上部の命令に従うこと)と自分の内から沸きあがる正しさです。 自分を中心にするということは、この内なる正しさに従うことです。 そのために、社会から不利益を被るかもしれません。実際に、杉原さんは、帰国後、外務省を退職させられます。 表向きは、GHQの命令による人員整理の対象となっただけであって、渡辺外務大臣(当時)は、千畝はビザ発給の件で処分されたり、退職させられたなどの、杉原にとって不名誉な記録は外務省に存在しないと答弁しているそうです。 でも、本の中には、岡崎次官から、内輪の話として「例の件によって責任を問われている。省としてもかばいきれないのです」と言われたことが書かれています。 確かに、物質的な不利益はあるかもしれません。でも、その後の一生を後悔の念で過ごすことなく、『自分はその時点で正しいと思ったことをした』と胸を張って生きることができます。 あとは、その人の価値観の問題です。 その価値観によってどちらを優先するかです。 そんな中、杉原さんと奥さんは、内なる正しさに従うことを決心します。 でも、もっとすごいのは、次の言葉です。 本の中に奥様のこんな言葉が載っています。---引用開始 その後の約一ヶ月に及ぶ夫の行動を、当時の日本の外務省内では、"リトアニア事件"と呼ぶ人もいたようです。そして、戦後になって、この"リトアニア事件"は誰からも忘れ去られてきました。私たち家族の中でも、あえて話題にすることはありませんでした。ことさらに忘れ去ろうとしたためではなく、ただ「あたりまえのことをしただけだ」と夫も私も思っていたからです。(「六千人の命のビザ」P8より)---引用終了 日常的に、ただ自然にそれを当たり前のこととして選べる生き方をしているのです。 でも、これは誰にでもできるようになります。 自分の大切にしたいものを自分でしっかりと確認し、最初は選択のときに意識して選びます。 そのうち、観念が書き換えられ、価値観が変わっていき、自然にできるようになるのです。 それがヒカリズムです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 25, 2007
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ある人の疑問です。余命幾ばくもない人がそのことを知った上で最期まで「愛してる」と言い続けていいのかどうか? 「愛してる」という言葉をちゅうちょするのは、『相手が困らないかな』っていうことだそうです。 自分を生きていない人は、相手の評価を気にするので、相手が困るかどうかを考慮しようとします。 しかし、ヒカリズム的に言えば、それは相手の問題です。 そもそも、すべての出来事は意味的に中立です。それ自体は意味を持っていません。 受け取る人が、自分の観念(考え)で意味付けしているんです。 ですから、その人が考え方を変えるとその出来事の意味も変わってくるのです。 以前、さんたのはっぴーわーるどの掲示板にお父様と確執があって、嫌っていらっしゃる方がいました。その方は、私と意見が合わずにしばらく掲示板を離れていたのですが、あるとき、突然書き込みをされたのです。 それは、お父様が亡くなり、「お葬式の後に、いろいろと考えていたら、掲示板で私が言っていたことが腑に落ちた。父を許すことができた。嫌いだった過去を好きになった」という内容でした。 すごいですよね。 ニューエイジでは、永遠の魂が成長のために物質世界にやってきている、という考え方があります。 たとえば、飯田史彦、奥山輝実共著「(光との対話が人生を変える)生きがいの催眠療法」PHP研究所刊 抜粋 その目的に照らせば、障害は、その学びの手段だと言えるでしょう。エリザベス・キューブラー・ロス博士はこう言います。---引用開始どんなに上がったり下がったりしようと、どんな人間の経験にも、かならず意味があります。どんな経験も、ほかでは決して学べないことを教えてくれます。神様は人間に、必要以上の試練をあたえたりしません。人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の下した罰だとか、何か否定的なものと考えています。でも、ほんとうは自分の身に起こることで否定的なことはひとつもありません。どうしてみんなはそれに気がつかないのでしょう。あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気になれなかっただろう」と言うようなことはすべて、あなたへの贈り物なのです。すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です。あなたが美しい庭にすわっているだけで、銀の皿にのった豪華な食事を誰かが運んできてくれるのだとしたら、あなたは成長しないでしょう。でも、もし病気だったり、どこかが痛かったり、喪失を体験したときに、それに立ち向かえば、あなたはかならず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をもった贈り物として受け入れることが大切です。『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊より---引用終了 だとしたら、「愛している」と言いたい気持ちは、相手の人の学びのためになるようにすべてと繋がった、神と繋がった深いところから湧き上がったいるのかもしれませんよね。(^^) あなたからの愛の贈り物ですよ、きっと。(^-^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 23, 2007
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テレビも数えて海猿3となる(らしい)今回の「LIMIT OF LOVE 海猿」ですが、映画の前作と比べて内面の描き方が荒くなっている気がしましたが、スペクタル度が上がって迫力があり、その面で面白かった、よかったですね。 主題歌もいいよね。 もうひとつ、加藤あいが、かわいいかったです。えへへ(*^^*) さて、ヒカリズム的に見ると「あきらめない」と「信じる」を感じました。 『あきらめない』のは、成功や目標が達成されると信じているからです。 また、フィアンセ環菜(かんな)、バディの吉岡、隊長下川など何人もの人が伊藤英明演じる先崎大輔を信じていました。そして、先崎自身も仲間たちが助けに来ることを最後まで信じていました。先崎は信じていたからこそ、あきらめることが無かったのです。 中古車会社を始めた要救助者の男性は、信じられなくなるとあきらめていましたよね。 わたしたちは、信じるという言葉を使いますが、その概念をはっきりとさせて使っている人は少ないと思います。 たいてい、思ったとおりにならないと、「信じていたのに裏切られた」と言って、裏切った人を責めます。責めるということは、「思ったとおりにならなかった責任はお前にある」と言っているということです。 ヒカリズムでは、信じるということを二通りに分けて考えます。 ひとつは、経験などからいろいろな要素を計算して確率を出して、その確率の高さによって信じる、信じないを決めるやり方。この場合、信じるとは、目標結果になる確率が高いからなるだろうということになる。 天気予報の降水確率から、「明日はきっと晴れると信じる」というのと、同じ状態です。 天気の場合は、自然が相手ですから、雨が降っても、裏切られたとはあまり言いません。 しかし、そこに人為的な要素が加わっていると、その人のせいにすることが可能になります。 もうひとつは、経験から確率を考慮しても最終的に確率とは直接関係なく、「そうである、そうなると自分で決めること」です。 実は、説明するとこういう違いになりますが、ポイントは、自分で決めたと自覚しているかどうかなのです。 自分で決めたという自覚がないから、人のせいにして、自分の選択の責任をとろうとしないし、他人の言葉に信頼が揺らいだりします。 自分で自覚して決めると太宰治の「走れメロス」の友人のように、信頼が揺らぐことが無いのです。 逆にいうと、共依存から自分の責任から逃げるパターンで生きている人は、信じることができないのです。 信じるためには、自分の選択の責任をとる覚悟をすることが必要なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 21, 2007
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ある人がいいました。>私は最近学業や仕事に就くためにしなければならない>と思っていたことをしなくてもいいんだ>と思えてとても楽になったのです。>今までの人生はそういうもので埋め尽くされていたのか>今まで感じたことがないくらい自分は今のままでもよいんだ>と思えて安心感に包まれました。>私はそういう生活を続けてきたからか>自分のしたいことが何かわからないのです、 象はとても頭のいい動物です。そして、気の荒いアフリカ象の比べてアジア象は、とてもおとなしいのですよ。 こんなエピソードがあります。 ■戦争とぞう物語 次は、私が書いた自由と幸せを求めるある象のお話です。■ サーカスの象 ある日、キマグレ大サーカスにアジア象の子供が仲間入りしました。『ボク、なんでこんなところにいるんだろう?こんなところ、イヤだ!お母さんはどこ?元いた草原に戻りたい』そう思って何度も逃げだそうとしました。 しかし、サーカスの人は、小象を檻に閉じ込めていてとても逃げられません。サーカスのキャラバンが草原にキャンプするときは、小象が草を食べられるように草地に出しますが、そのときは太い杭にしっかり鎖で縛り付けるのでした。 広い草原を見た小象は故郷を思い出して、駆けようとするのですが、5メートル走ると、ガクンっと首に繋がった鎖が小象を引っ張ります。小象は必死に逃げようと引っ張りますが、その鎖は小象にとっては充分に強く切ることができません。杭は小象にとっては充分に太く折ることができません。そしてその杭は、小象にとっては充分に深く埋め込まれていて抜くこともできません。 小象は何度も逃げようとしますが、鎖を切ることも、杭を折ることも抜くこともできません。 仕方なく小象は、鎖が届く範囲の半径5メートルの円の中の草を食べてすごしました。 サーカスのキャラバンが草原にキャンプするたびに小象は逃げ出そうとしますが、小象にとっては鎖は充分に強く切ることができません。小象にとっては杭は充分に太く折ることができません。小象にとっては杭は充分に深く埋め込まれていて抜くことができません。 いつしか、小象は逃げ出すことを忘れてしまいました。 草原に打ち込まれた杭に鎖で繋がれるとその鎖の届く範囲の草を食べることだけをするようになりました。最初は、鎖の長さが分らずに5メートルより遠くの草を食べようとして、グイっと首を鎖で引っ張られることがよくありました。でも、それもそのうち慣れてきて、首を引っ張られるギリギリが分るようになり、首を引っ張られることもなくました。草を食べ終え、調教師さんが来るまでの時間は暖かい日差しで身体を温めてすごしました。 小象は、いろいろな芸を覚えました。芸を覚えるたびにサーカスの人は喜んでくれました。ご褒美においしいリンゴをくれました。覚えた芸をサーカスで演じるとお客様も大喜びしてたくさんの拍手をくれました。そんな日の夕食には大好物がいっぱい出るので、小象はそれが楽しみになっていきました。 調教師さんが喜んでくれること、お客様が喜んでくれること、そしておいしい食べ物、暖かな寝床。 だんだんそんな毎日に満足するようになっていきました。 いつしか、小象はサーカスの人気者になりました。そして、もう小象ではなく、一人前の大きな象になりました。身体も大きくなり、丸太だって踏みつけて折ることができるほどです。力も強くなり、車と綱引きをするとロープや鎖が切れることもあります。 そんな象のもうひとつの楽しみは、草原でキャンプするときに草原に出してもらって草を食べることです。 もちろん相変わらず杭に繋がれた鎖をつけられます。 でも、その杭は、小象のときのままで、この間折った丸太より細く、鎖も車と綱引きをするときよりもうんと細いものです。 でも、象は逃げようとしません。 もう逃げられるかどうか考えることもしなくなったのです。それまでずっと生きていたパータンのまま、同じことを繰り返しているのです。 相変わらず鎖が届く範囲の半径5メートルの円の中の草を食べてすごしています。 あるとき、しっかり止めていなかった鎖が杭から外れました。しかし、象はいつもの範囲の半径5メートルの円の中の草を食べ終えると調教師さんが来るまでそこで日向ぼっこをしていたのでした。 本当にしたいこと、その気持ちは相変わらず心の中にありました。でも何度も挫折を繰り返しあきらめてしまうとその気持ちすら湧いてこないのです。 まるでその気持ちが心の中から消えてしまったかのようです。でも、心の奥底にはしっかり残っています。 サーカスの演技もなんとくイヤイヤやっている気持ちがありました。調教師さんやお客様の喜ぶ顔が見たいからやっている、ご褒美が楽しみだからやっている、そんなところがありました。ですから、毎日の生活に満足しているようでどこか心から喜べないのです。 そんなある日、サーカスのチンパンジーが調教師がカギを掛け忘れた檻から逃げ出してきました。「象さん、ボクはキャラバンで来るときに向こうにリンゴの実がいっぱいなっていたのを見つけたんだ。一緒に食べに行かないか?」「ダメだよ、ほら、このとおり、ボクは鎖で杭に繋がれているもの」「象さんなら、そんな杭を引き抜くのは簡単だろ?鎖だって簡単にちぎれるんじゃないか?」「ボクは何度も試したけどダメだったんだよ」「それはいつの話?子供のときはダメだったかもしれないけれど、一人前になった今なら、簡単にできるはずだよ。サーカスの中で車と綱引きとかして、鎖を切ったりしてるじゃないか」「えっ!」『そうだ、今のボクは太い丸太も折れるし、これより太い鎖を切ることもできるし、大きな車を引っ張る力もあるんだ』象は、小象のとき一所懸命に引っ張ったのを思い出しながら、勇気を出して杭をもう一度思い切り引っ張ってみました。すぽんっ!杭はあっけなく抜けました。「おっとっとっと」あまりにも簡単に抜けたので、象は勢いあまって転びそうになってしまいました。「あっ、抜けた!」次に象は、杭を踏みつけて首をグイと引っ張ってみました。すると今度はガチャっと鎖も切れたのです。 そうです。小象のときは、確かに杭や鎖は象を縛り付け束縛するものでした。 しかし、今、大きく一人前になった象を縛り付け、束縛していたのは、 象自身の 『ムリだ』 『ダメだ』 『ボクにはできないんだ』 という考えだったのです。 自分自身の思いが自分を縛り付ける鎖であり、閉じ込める檻になっていたのです。 杭と鎖から解放された象は、同時にその思いからも解き放たれたました。「ボクは自由だ!これで自分の好きなことができるんだ!」「じゃあ、リンゴを食べに行こうよ」「うん、行こう!」 象は、チンパンジーくんとリンゴの木に向かってずんずんと歩き出しました。 その足取りはとても軽やかでした。心が晴れ晴れとしていて、こんなに気持ちいいのは初めてでした。 いえ、そうではありません。子供の頃、草原で自由に遊んでいたとき以来です。『本当にしたいことをするってすっごく気持ちいい!!』 リンゴの木にたどり着き、リンゴを食べました。そのリンゴは、まだ熟していなくて、調教師さんがくれるものより味は悪かったのですが、『自分がしたいようにしているのだ』という気持ちで食べていると、そんなリンゴもとてもおいしく感じたのでした。「おいしい、幸せだあ~」 二人はおなかいっぱいリンゴを食べました。象は、心から幸せを感じました。 おなかいっぱい食べたチンパンジーが言いました。「サーカスの人間が探しに来る前にここから逃げようぜっ」でも、本当の幸せを感じた象は言いました。「ボクは、こんなに身体が大きいから、たぶん、逃げ出してもまたすぐに捕まってしまうよ。それにボクはサーカスが好きだって気づいたんだ。ボクは戻るよ」「オレは、逃げるぞ」 二人は、それぞれ別の方向に歩き出しました。チンパンジーはサーカスと反対方向に、象はサーカスに向かって。 サーカスに向かいながらも、象の心は晴れ晴れとしていました。 よく日には、チンパンジーも捕まってサーカスに戻されてしまいました。 それから、また二人はサーカスで演技をする前と同じ暮らしに戻ったのです。 チンパンジーは、いつも不平を言っていました。象は、今は毎日を幸せに感じていました。 同じことをしていても、以前はやらされていると思いながらやっていましたが、今は自分で選んでやっていると思いながらやっていたのです。 たったそれだけの違いでした。 象は嫌ならいつでも逃げ出せることを知っています。でも、逃げ出さずに今の生活を選んでいるのです。 象は本当の自由ということを知りました。『自由って、どこからか逃げ出すことじゃないんだ。自分の思ったことをすることなんだ、自分に由ることなんだ!何をするかじゃなくって、自分が選んでしているってこと自体が幸せなんだ!自由って、すばらしい!!』 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 21, 2007
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ほとんどの人は「死が怖い」と思っているかもしれません。 では、あなたはライオンが怖いですか?ムツゴロウさんのような方でなければ、怖いという人が多いでしょうね。 パンダは怖いですか?たいていは、かわいいと思うけど怖くはないですよね? では、ハノニイは、怖いですか?・・・えっ、分らない?それはそのはずです。だって、今、私がキーボードに適当に打ちこんで作った名前なんですから(笑)「ハノニイ」なんて知らないから怖いかどうか判断はつきませんよね。(笑)(これじゃあ、まるで、落語の酢豆腐でげすな(笑)) それと同じで、私たちは、「死」というものを知っているようで実は、どういうものであるかを誰も知らないんですね。 知らないものを怖いと判断できるはずがありません。 私たちは、死を「生の終わり、私の終わり」と考えています。実際に怖いのは、「生の終わり、私の終わり」なんですね。 ではなぜ、「生の終わり、私の終わり」が怖いのか? 「大往生」(安らかに死ぬこと)という言葉がありますよね。なぜ、大往生できるか、安らかに死ねるかというと、たいていの場合、『もう、やりたいことはすべてやった、思い残すことはない、いつ死んでもかまわない』そういう心境だから、大往生できるのです。 つまり、「死ぬのが怖い」今「生の終わり、私の終わり」が怖いというのは、『まだやりたいことをやっていないやりたいことがあるから死にたくない』ということなんですね。 本当に怖いのは、したいことをまだしていないこと、したいこをする生き方ができていないこと。 だから、したいことをすればいいんです。 それは、本当の自分を生きることです。その瞬間瞬間を受け容れて、したいことをする生き方をしていると死を恐れなくなるんです。 エリザベス・キューブラー・ロス博士はいいます。---- 引用開始人生は短いのですから、結局のところは、自分が本当にやりたいことをやったらいいのです。<中略> やりたいことだけをやる、というのは本当にたいせつです。そんなことをしたら貧乏になってしまうかもしれない、車を手放すことになるかもしれない。狭い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。でもその代わり、全身全霊で生きることができるのです。世を去るときが近づいたとき、自分の人生を祝福することができるでしょう。人生の目的を達成したのですから。そうでないと、娼婦のような人生を送るはめになります。つまり、なにかある理由のために生きる、ほかの人のご機嫌をとるために生きるはめになります。それでは生きたことになりません。したがって、こころよい死を迎えることはできないでしょう。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊からP84)(のちに『「死ぬ瞬間」と死後の生』に改題)---- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 20, 2007
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映画「海猿」で、三島も先崎も自分で納得した(腑に落ちた)選択をし、その結果が何であれ、あるがままに受け容れる覚悟をしています。 選択の動機が「怖れ」である場合、その選択は、選択に見えても怖れからの逃避であり、結果によっては、その選択を翻そうとします。 選択の動機が愛である場合、選択時と条件が変わらない限り、その選択を変えることはまずありません。 それは選択した時点で、その選択の結果がどんなものであれ受け容れる覚悟をした上で選択しているからです。 その点は、三島も先崎も同じです。どちらも自分が正しいと思うことを選択しています。 正しいとは、「目的に適っている」ということです。目的とは、欲求の目標です。 三島は、物質としての命を大切にすることを目的とし、、先崎は、心(想い)を大切にすることを目的としているのです。 命が大切なら、二人死ぬより一人助かる方が良いという論理的帰結になる。しかし、想いが大切なら、二人とも死ぬかもしれなくても、『二人とも助けたい(一人も殺したくない)』という気持ちを最優先することが良いという結論になります。 死を恐れているうちは絶対にたどり着けない境地です。 命より大切なものを見つけ、死を覚悟した上で、命を大切にするという一見矛盾した境地です。 ここで面白い調査をご紹介します。 ケネス・リングによる臨死体験研究です。ケネス・リングの調査によると臨死体験後は1)毎日の生活のごく普通の出来事の一つ一つが素晴らしいものに感じられる2)自然の美しさをより感じるようになる3)他の人を助けてあげたいという気持ちが増す4)他の人に対する同情心が増す5)他の人の言うことに耳を傾けようとする態度が増す6)他の人に対する寛容心が増す7)他の人に対する愛情を表に出して表現するようになった8)他の人がどういう問題を抱えているかが見抜けるようになった9)他の人を理解できるようになった10)他の人を受け入れる気持ちが増した逆に1)他の人にいい印象を与えたいという気持ちが減った2)有名になりたいという気持ちが減った3)他の人が自分のことをどう考えているかを気にする気持ちが減った4)生活の物質的側面に対する関心が減った5)人生において物質的成功をおさめることに対する関心が減った6)生活水準を上げたいという欲求が減った 科学的な考えになっている現代人の多くは、人とは、肉体であると思っています。 そうすると当然、肉体の維持、物質的な充足を重視します。ところが臨死体験をした人は、肉体と別に存在を続ける自分を体験し、多くの場合、人生回顧という人の気持ち、感情を中心としたドラマを見せられます。 その結果、人の気持ちや感情を大切にするようになります。 私たちが肉体の存在なのか、肉体が消滅しても行き続ける何かなのかは、本当に死んでみないとわかりませんが、肉体や物質よりも、気持ちや感情を大切にすると決めるだけで、臨死体験をした人のような愛に溢れた穏やかな心になることができるのです。 そして、先崎は、それに近い心境になっていたと思われるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 18, 2007
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映画「海猿」の中でバディという言葉が出てきますが、それは相棒のこと。訓練生は潜水の安全を確保するために、バディシステム(buddy system)によってペアを組まされています。それでパートナーのことをバディ(buddy、相棒)と呼んでいるのです。 映画の中で、主任教官の源は、考え方の甘っちょろい訓練生たちにことあるごとに究極の問いを投げかけます。「水深四十メートル。バディと二人、取り残された。使えるボンベはひとつだけ。残圧三十、片道一人分。さあ、お前たちなら、どうする」 ボンベの空気を最大限に生かして確実に助けられる命がひとつだけであることは、すぐに分ります。 では、どうするか?ではなく、どちらを生かすかの問い、いえ、どちらを殺すかの問いとして捉えてしまうと、ほとんどの人は感情的に答えられなくなってしまいます。 即答できない訓練生たちに源は言い放ちます。「二人とも死んだな」(即断できないということは、現実にその状況に置かれたならば、考えている間にも残圧がどんどん減っていき、片道一人分の空気さえなくなってしまうから) (源教官曰く)工藤が犬死をした後、また源は、同じ問いかけをします。「水深四十メートル。バディと二人、取り残された。使えるボンベはひとつだけ。残圧三十、片道一人分。さあ、お前たちなら、どうする」このとき、三島が初めて答えます。「体力のある方がボンベを使って浮上します」 この三島の答えは、誰でもが正しいけれど言えなかった答えです。なぜ、言えないかといえば、自分にはできそうにないからです。言えば、それはウソをつくことになるからです。 すべての人は、正しく生きたいと思っていますから、恐れのないときは、自分の考えに正直になるのです。 はっきり覚えていないのですが、確か、映画「バーティカル・リミット」の中で限りある肺水腫の薬をめぐって、自分が元気なときは「体力のない者にやっても無駄になるだけだ」と言った男が自分がその立場になったときには、前言を翻して薬を確保したシーンがあったような? 映画がどうだったかはともかく、そのように自分の都合の良いように言い訳をする人がいますよね。これは合理化という防衛機制によって行われます。 死の怖れから、死から逃れることが最優先事項になり、生きるためにはウソもつくのです。これは、『死にたくない』という自分の感情に正直になっている状態、と言えます。しかし、それは選択ではなく、怖れからそうしないではいられないのです。 エリザベス・キューブラー・ロス博士の「死に至る諸段階」のプロセスで受け容れられないことを受け容れるまでの過程を説明していますが、感情的になるのは、死を受け容れられないから。 三島の場合、答えにくい問いに答えた時点でこの「死に至る諸段階」の最後のプロセスである「受容」をしているのです。 だから、急激に潮流が変わり、三島と先崎の二人は命綱から引き離され流され、水深四五メートルで三島は岩に脚をはさまれ動けなくなり、三島のボンベも破損して使えるボンベは先崎の一本だけとなったとき、自分のボンベを交互に使って三島に呼吸させようとする先崎に指で「おまえ一人で上昇しろ」と合図します。 それはそのまま三島自身の命を絶つということを意味します。しかし、それは強がりでもなんでもなく、三島にとっては当たり前のことだったのです。 教官の問いに答えた時点で三島は、受け容れがたい死を受け容れ、それが正しい方法だと腑に落としたのです。 だから、切り捨てられる対象が自分であってもそこに迷いはないのです。 悟りとは、あるがままを受け容れることです。 それは、このように怖れを克服し、あるがままを受け容れる決心をすることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 17, 2007
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映画「海猿」の中では、源教官のようにルールを破ることが正義(人がふみ行うべき正しい道)となることがあったり、 三島のように合理的に考え、自分にできる最大限の確実な方法を選択するという正義があったり、 反対に主人公仙崎のように合理的な考えを採用せず、不合理でも自分がなった納得できる正しさに従う正義があったり、 訓練生の工藤のように自分の身を呈しても溺れている人を助けようとする正義があったりします。 一般的な視点では、どれも同じように正義感に溢れる人であるように見えます。 もしかすると、合理的に人ひとりの命を切り捨てる三島の正義を感情的に許せず、それは別ものだと考える視点もあるでしょう。 実際に、映画の中で諮問委員会の中での三島の発言は、その合理的一本槍の考えが変わったことを感じさせる発言もあります。 しかし、ヒカリズムの視点から見るとこの中で異質なのは、工藤の正義なのです。(映画と原作のマンガでは設定が違います) 一番のポイントは、動機です。源教官も三島も先崎も自分の中でそのことを深く考え、そのとき自分が論理的に納得できる考え、つまり、自分が論理的に正しいと思える考えを選択しています。 自分が心から納得した正しさですから、その結果が何であれ、結果を引き受ける責任感を持っています。 ところが、工藤の場合は、自分で選び取った考えではなく、猟師である父と兄が漁に出たときに母親が「どうか無事に帰ってきますように」という祈りを聞いて育ち、怖れから、人命救助の仕事をしないではいられない、という状態だと思われるのです。 感情的に助けないではいられないのです。 映画の中で、源教官が訓練生にエリートである潜水士になろうとした動機を尋ねます。すると最初は、みんなが「人命救助をしたいからであります!」と建前で答えます。 教官は、「本当のことを言え!」と言います。 すると、「女の子にもてたいから」とか「給料がいい」とか「選ばれて仕方なく」というような本音が出てきますが、工藤は「人命救助をしたいから」と答えます。 動機は、ひとつではないでしょうから単純には言えませんが、もし、ひとつであると仮定したら女の子にモテたい人は、もっとモテる仕事があればそっちに行くでしょうし、苦しくともモテたい一心で頑張るでしょうし、金銭的な動機であれば、苦しくても給料のために頑張るでしょうし、給料が変わらないのであれば、楽な方に行くでしょう。 ところが工藤は訓練で自分が苦しいと投げ出そうとします。本当の動機は、その苦しさと比較して劣るものなのです。たとえば、肉親を海難事故で失うときの自分の苦しみと今の訓練で死にそうな自分の苦しみとの比較なのです。 工藤は訓練の中で20Kgの重りを水の底から持ち上げることが他の人のように簡単にはできませんでした。ということは、実際の救助も困難だということは明らかです。 工藤が溺れている人を見たとき、自分には、溺れている人を助ける力が不足しているということを冷静に考えることができませんでした。感情的に助けずにはいられなかったのです。 冷静にその人を助けることを考えるなら、自分が20Kgの重りを水の底から持ち上げることが困難ならそれを補う方法、たとえば、浮き輪を探すとか、そばにあった木の杭を壊して浮き輪代わりにするとか、を考え、助ける確率を増す方法を考えられるはずなのです。 よく、慌てて冷静な判断ができなかった、というようなことを言いますが、それは感情的になっているということです。その時点の行動の動機が感情だということなのです。 これは工藤が間違っているとか、悪いとか、間違っているということを言おうとしているのではありません。立派な行動だと私も思います。 しかし、怖れが動機の場合、自分で選択したと思っているものは、実は、怖れからの逃げなのです。 怖れの感情が動機の場合、その怖れが今という現実に投影されたとき、感情的になって自分で最善を選択できず、パターンで行動してしまう、ということを知ってもらいたいのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 16, 2007
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ガソリンスタンドでガソリンを入れ、タイヤに空気を入れていたときのこと、パォー、パォー、パォーとフォーンを連続で鳴らし続ける車が・・・『うるさい!一体どうしたの?』と思って見ている間も、まだ鳴らし続けている。一分もならし続けていたでしょうか? スタンドの店員がその車に近づき、忘れていた雑巾を回収するとフォーンは止み、その車は出て行きました。 なんということはない。その車の運転手は『窓を拭いた雑巾の回収を忘れているぞ、早くしろ!』と言いたかっただけ。 それをマナーというような表面的な視点ではなく、心の視点から見てみたいと思います。 確かに使った雑巾を回収するのは店員さんの仕事でしょうが忘れてしまうこともあるだろうし、忙しくて手が回らないこともあるでしょう。そんなときは、できる人が、そうしたい人がすればいい。私なら、早く出発したいのなら、「雑巾をありがとう」と言って店員さんにお返しすると思います。 この人は、なぜそれができないのでしょうか? それはこの人がコントロールドラマをしているから。 人(この場合は店員)を従わせることで自分の不足した自己肯定感を補完しているから、自分がえらいと感じられる状態を無意識に求めてしまうのです。 おそらく、この人に「そんなにうるさくフォーンを鳴らさずに、『雑巾をありがとう』と言って返しに行けばいいじゃない」と言ったら『なんでお客であるオレがそんなことしなきゃいけないんだ』というような反論をするだろうと思います。『店員になんだから、お客であるオレに奉仕するのが当たり前だ』という頑なな(かたくなな)自分の思い、自分の正しさを周りの人に押し付けているのです。そこにあるのは、自分が低く見られることへの怖れ。 それは表面的には、マナーの問題とか、店員の教育の問題として議論されて、しかも、それは基準が違いますから、決して結論はでないまま終わることでしょう。 それを自己肯定感を補うためのコントロールドラマでそうしないではいられない状態だと知ることでこの人に対する見方がまったく別のものになります。 この人のこのような態度を許せるかどうかも、この人の問題ではなく、自分のコントロールドラマの問題となるのです。 もし、このような態度の人を許せないとしたら、自分も自分の正しさをこの人に押し付けようとしているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 15, 2007
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私たちは、体験を通して学び、成長していきます。 映画や小説、他の人の体験であっても、それを自分の身に置き換えて深く考えるならば、自分が体験したのと同じように成長をすることができます。 たとえば、映画「海猿」に登場する源教官からは、『正しさというものは何か』『最善とは何か』ということを学ぶことができます。 映画の中で源教官は、訓練生二人が海底に移動できずに、ボンベの残量も5分しかなく、救助のヘリコプターは10分後にしか到着できないこのままでは、二人は見殺しになってしまう、という状況で選択をせまられます。 船の上ですぐに潜れるのは救助資格のない練習生だけであり、資格の無いものを救助に向かわせるのは、二次災害の危険が大きいため規則で認められていない。 そのままでは確実に死を迎えるであろう海底の二人を救う最善の方法は規則違反を承知で訓練生を救助に向かわせることです。 でも、ここでちょっと考えてみてください。 映画を見ている観客には、海底の二人が生きていて救助を信じて待っていることを知っていますが、教官の立場に立ってみるとそれは推測に過ぎないのです。 つまり、観客の立場とは違う状況で生死が不確定な二人を救うために規則を犯し、二次災害の危険を犯し、訓練生を救助に向かわせることが最善かどうかを見極めることができない状況なのです。 もしかしたら、二人はすでに死んでいて救助に向かった者にも犠牲者がでてしまうかもしれない。 もしかしたら、二人はギリギリ自力で生還し、逆に救助に向かった者が二名以上死亡して規則を犯してまで救助しないほうがよかったという結果になるかもしれないのです。 さらに、将来のことを考えるとここで規則違反しても救助に向かったほうがいいと学習した訓練生が将来、規則違反をして部下を救助に向かわせさらに被害を大きくすることになるかもしれない。 教官という立場から広く考えたら、そういう影響も考慮する必要もあるでしょう。 そうすると、いったい何が最善かなどということは、基準によって変わるし、やってみなくてはわからないことでもあるのです。 すると最善を選択するとはどういうことになるでしょう? 私が出した結論は、「自分がしたいことをする」ということです。自分がしたいと思うこととは、その時点で自分が最善だと思うことなのです。「自分が最善だと思うことをする」 源教官も先崎も三島も自分が最善だと思うことをしたいと思い、すべての責任を負ってそれを実践しています。(工藤場合はちょっと違う) そこがすばらしい。 誰にとっても最善ということは存在しません。それは基準とするもの(それも選択している)や状況判断に採用するものが違うからです。 気づいていない人がほとんどですが、私たちは、自分が最善だと思うものをいつも選択しているのです。 ポイントは、選択の責任を取る覚悟があるかどうかです。 そこに違いがあるのは動機が愛か怖れかということが大きく関わってきます。(そこが工藤との違い) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 15, 2007
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テレビで映画「海猿」を見ました。「海猿」を見たのは、まったく初めてでしたが、いい映画でしたね。(^^)ヒットするのも当然だと思いました。 ちなみに「海猿」は、海上保安官の中の1%という選ばれた人命救助のエキスパートである潜水士の物語です。 でも、このブログはたぶん他の評論とは違う視点だと思います。(笑) 私たちは誰でも正しく生きようとしています。 ここで言う正しさとは、社会の常識としての正しさや社会が強要する正しさのことではありません。 たとえば、革命を起こそうという人は、社会的に見たら悪ですが、その人は、内から湧き上がる正しさに従って生きたいと思い、その選択をしているという意味で、正しさに生きている、ということです。 ある方がとある会場でアンケートのようなものを書くのにボールペンが2本しか用意してなくて足りないので、少しでもお役に立てばと自分のポールペンを使われたそうです。 ところが、そのボールペンが会場に用意されたものとほぼ同じもの。 書き終えて自分のかばんに戻そうとしたら、ほかの書こうとしていた人から「ペンをテーブルに戻して」と言われたそうです。 そのことで、嫌な思いをされて『こんなときさらりとペンを置いてこれたら』と思われたそうです。 この方はほかの人かも喜ばれるだろうこと、自分が正しいと思うことを選択しました。でも、さまざまな状況から、誤解を招き、苦しみを味わうことになりました。 さて、この場合ボールペン一本だから『こんなときさらりとペンを置いてくればよかったかな』と簡単に思うことができます。 でも、映画「海猿」の主人公 仙崎大輔のようにその選択が自分の命を賭けたものだったらどうでしょう? この映画の中で私がすばらしいと思うところは、藤竜也演じる主任教官の源太郎も、主人公 仙崎大輔もそれが命令違反であり、訓練生を二次災害による命の危険にさらすことになっても自分が正しいと思うことを選択し、その選択の正しさを周りの非難に臆すことなく信じ(それはつまり、自分を信じているということ)そして、その結果がいかなるものであろうと最後まで責任を取る決心をして選択しているということです。 それは三島も同じです。教官の「もし、一人分の空気しかなかったらどうする?」という質問に、三島は「元気な方を生かす」と答えます。 のちにおそらく考えを変えたと思われますが、その選択をした彼は、自分のその立場になったときに自分の命をかけてその正しさを貫こうとしています。 実は、すべての人は幸せに生きたいと思っていると同時に正しく生きたいと思っているのです。 それが自分の命を賭けたものであっても、100本もあるボールペン一本であろうと自分の正しさを貫いて生きることが大切なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ ちなみに、来週は続編(LIMIT OF LOVE 海猿)やるそうです。 この時計をつけてダイビングしたいね(^^)日本国内正規代理店モデル
Apr 14, 2007
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「自分を本当に愛する」 これは、「さんたのはっぴーわーるど」というサイトである方が言った言葉です。 あなたはこの「自分を本当に愛する」の意味がわかりましたか? 最初に聞いたときは、この言葉の重要性にまったく気が付きませんでした。『自分を愛していない人などいるの?』と思ったほどです。 何人もの周りの人にも確認のために聞きました。みんな同じ答えでした。 でも、その時の私は、この言葉の意味をまったく理解していなかったのです。 この言葉を聞いたほとんどの人は、意味がわかると思ったはずです。しかし、本当はほとんどの人がわかっていないのです。 それぞれの単語の意味は分かるので、分かった気になるのですが、それは表面的な部分だけです。 「本当に愛する」というならば、その裏に「偽りで愛する」とか「愛するフリをする」という状態があるはずです。 「自分を本当に愛する」が分かったと思った人は、その「本当に愛する」と「偽りで愛する」の違いを説明してみてください。 もし、スラスラと説明できるのなら、その方は本当に理解しています。 もし、その違いを明確に説明できないのなら、まったく意味が分かっていなったということです。 私は今は詳しく説明できます。 そして、メールレクチャーや掲示板などで知り合った人にヒカリズムをレクチャーしてきました。 そして、気づいたことは、しっかりとコーチングしないと生きるのがどんどん楽になって幸せを感じるようになる人と元に戻ってしまう人がいるということです。 そのポイントが「自分を本当に愛せるかどうか」だったのです。 ですから、ヒカリズムの大基本は、「愛のペイ・フォワード拡大計画」に書いてあるヒカリズムの3か条の第1条「あるがままの自分を本当に愛する」なのです。 なぜなら、これができてしまえば、2条と3条はその瞬間に達成できているからです。 敢えて、「自分を本当に愛する」の説明はしないでおきましょう。あなたはもうわかりましたか?(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 14, 2007
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子供も10代になると、それまでの大人にとってのいい子から、自分を主張し始めたり、家族より友達との関係の比率が高くなったりと、子育てにも変化が出てきます。 ヒカリズムでは、心理学的な心の動きを捉えて、どう生きればいいかを説明しています。 もちろんそれはそのまま子育てにも生かせます。 そのような心理学的な心の動きを活かしたお勧めの子育ての本があります。 1万年堂出版発行の「子育てハッピーアドバイス」(明橋大二著、イラスト・太田知子)です。 その中から10代からの子育てハッピーアドバイス を見てください。 その中の「もっとマンガを見る」をクリックすると たとえば、親よりも友達に依存するようになっていきます。というマンガがあります。 このマンガで表現されているのは、ヒカリズムでいう「自己の存在価値不安症」を何によって補完しようとしているかということだとわかります。 このマンガでは、友達から無視されると自己評価が下がる、他の人間に対する不安が増す、という状態になる、と結論付けていますが、実は、必ずしもそうではありません。 このように他者の評価で自己評価が揺れ動くのは、自分を心から愛していないから。 それは、それまで、親が条件付でしか愛してこなかったからなのです。 親が無条件に子供のあるがままを受け容れてやると子供は自分を本当に愛することができるので相手が自分のことを嫌いだと思ってもそれは相手の問題だと理解できるので、それによって自己評価が落ちることはないのです。 この本ではどこまで説明しているのか、わかりませんが、途中までは、なかなかわかっている本ですね。 ヒカリズムと合わせて利用するといいと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 8, 2007
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もろもろの 悪いことをしないように多くの 善いことをしなさい(諸悪莫作 衆善奉行) このような言葉を聞いたとき、たいていの人は、本質的に善いこと-悪いことがあると思ってしまいます。悪 ← |基準| → 善このように世の中のすべてを、あるものは善、あるものは悪とはっきりと分けられると思ってしまうのです。 たとえば、「自由を奪うことは悪いことだ」「人を殺すことは悪いことだ」ということが、それ自体で成立していると思っているということです。 そんな人が「無差別に連続殺人を犯した犯人は極悪だから、すぐに捕まえて死刑にすべきだ」と思ってもその矛盾に無頓着だったりします。 お釈迦さまは、仏教の基本となる教えとして「縁起の法」を説かれました。すべてのものは、それ自体で成立しているのはない、ということを明らかにしたのです。 「どんなことも、条件や見方で善にも悪にもなり得るのだ」という認識をもつことで、初めて本当の善が行えるのです。 では、その基準とは何か? それは自分自身(の考え)なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 7, 2007
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「善いことをする」この言葉から、ほとんどの人は同じような概念を思い浮かべることでしょう。 しかし、その本質にまで迫って見てみると実は大きな違いがあるものがあります。 江戸時代の白隠禅師は 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 (意 訳) もろもろの 悪いことをしないようにもろもろの 善いことをしなさい自分の こころを 清く持ちなさいこれこそが 仏の 教えです たとえば、仏教には布施というものがあります。慈善と同じように捉えている人が多いと思いますが、まったく逆の概念と言ってもいいくらいです。見た目は同じなのです。慈善は相手のために善いことをしてあげる、というもの。一方、布施は自分のためにするのです。 たいていの人は、自分のことより人のことを優先することが良いことだと思っています。 ここのポイントは、表面的な行為とそれをする思いを分けて認識することが大切だということです。 自分のことより人のことを優先することが良いのは、行為の話で自分のためにするというのは、思いの話です。 誰かのために良いと思われることをするとき、『おまえのためにしてやっていんだぞ』という思いでやっていると相手から感謝の言葉がないとか、感謝の気持ちが感じられないとか、さらには、相手が迷惑がったとか、相手の態度で不快に感じることになります。 極端に言えば、そんなことならしない方がいい。 ところが自分のためにやったのなら、相手が受けてくれたらこちらが感謝の気持ちを抱くことになります。 白隠の言葉も諸悪莫作 衆善奉行(もろもろの 悪いことをしないように もろもろの 善いことをしなさい)だけ取り上げられることも多いですが、 清い心でそれを行うのでなれば、仏の心には適わないのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 6, 2007
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うれしいことがありました。メールレクチャーを受けている方が『「ごめんなさい」の贈り物』をきっかけにおかあさまを許す決心をされ、実行したんです。 『「ごめんなさい」の贈り物』の逆バージョンです。その方が、あって許すことを伝えると、その方のおかあさま自身は『一生許してもらえない』と思っていたらしく、涙を流し「ありがとう」と言ってくれたそうです。その方も、ちょっと前までは、絶対に許せないと思っていたのですから、それも当然のことかもしれません。でも、『一生許してもらえない』と思うということは、自分で自分自身を許せないでいるということですから、おかあさまも、どれほど苦しんでいたことでしょう。「自分でした事だけど、後悔していて眠れない日もあった」とお母さまはおっしゃったそうです。 またステキな偶然もあったそうです。> 本当は、週末に話そうと思っていたんですが、> 早いほうがいいと思って3月26日にしたんです。するとなんという偶然か、おかあさまからこんな言葉が・・・「今日はいい誕生日になった」 そう、この方自身忘れていて意識していなかったけれど、『良いことは早いほうがいい』という想いが浮かび、そのとおりにしたら、その選んだ日がお母さまの誕生日だったのです。 『一生許してもらえないと思っていた子供からの許し』とてもすばらしい誕生日プレゼントになりましたよね。(^^) お二人は喜び合い、おかあさまは「やっとあなたと心が通じた」と言いこの方も「やっとお母さんが戻ってきた」と言いました。 このとき、きっとお二人の胸の中は暖かさが溢れ、きっと涙が溢れていたんじゃないかなあ。私は、読んでいて涙がこみ上げてきました。(;_;) 誰も特別なことはしていないんです。ただ、謝ろう、許そう、と決めて実行しただけ。 でもその愛がもう伝わって、シェアしてくださった(体験を分かち合ってくださった)方が二人もいる、つまり、愛が二倍になったんです。しかも、その愛は、幸いにもそれぞれ相手に伝わりました。 こんなふうに世界中に愛が伝わっていったら、ステキですよね。(^^) 臨死体験をしたベティ・イーディーさんは、愛が伝わる様子をあの世で光の存在から見せられたそうです。ベティさんの著書「死んで私が体験したこと」から引用してご紹介します。本はもうないみたい。---- 引用開始『さっきの波及効果の裏返しの面を見せて下さいました。そこには、なにか善いことをしているわたしの姿がありました。善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、それがドミノの波となって外へと広がっていきました。わたしがやさしくしてあげたその友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、こんなふうに連鎖が続いていくのです。まわりの人の人生は、愛と幸せが増すばかりです。こうなったのも、わたしのちょっとした行ないがあったからです。みんなは、ますます幸せになっていきました。幸せになったおかけで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。わたしの心の痛みは、喜びにかわりました。』(「死んで私が体験したこと」から)---- 引用終了 本当に些細なことでいいんです。私たちが、愛を選択すれば、それはドミノ倒しのように世界中に伝わっていくんです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 3, 2007
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日経新聞に「私の履歴書」というコラムがあります。一人の方が一ヶ月書き続けます。先月、2007年3月は、宮城まり子さんでした。 めざましテレビで再び人気が出ている「手のひらを太陽に」を歌っていた方であり、肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立した方でもあります。 宮城まり子さんの連載を毎日感動しながら読んでいたのですが、(興味のある方は、図書館で読めると思います)その中からひとつ思い出したものを紹介します。 「六本木ヒルズのてっぺん(森アーツセンターギャラリー)でねむの木の子どもたちの絵の展覧会をやりたいな」というのがきっかけのお話。 今、ググッたら、それがなぜかブログになっているのでリンクします。ここ 私がステキだと思ったのは、宮城まり子さんのほめ方です。 普通、絵をほめる時「上手に描けたわね」って言うと思うんですが、みやぎさんは違います。 「あー、うれしいわ」って言うんです。 これ、ほんとすばらしいほめ言葉だと思います。比較じゃないほめ言葉、子供の存在価値を感じさせてあげられるほめ言葉人のために何かしてあげたくなる(やさしさを引き出す)ほめ言葉 宮城まり子さん、ステキなほめ言葉を教えてくださってありがとう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 2, 2007
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