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『固定観念を手放すだけで悟りを開けるなんて、そんな簡単なはずが無い!』 多くの人は、そう思われるでしょう。 しかし、悟った上で悟りを見つめ直してみると、言葉にしたらそんな簡単なことなのです。 ロボコンなどでおなじみになった森政弘さんは、「創造性の最大の敵は固定観念です」と言います。 ヒカリズムでは、悟りとは、愛であること、愛とは、創造性のことでもある、と言ってますよね。 言い換えると、「悟りを開くための最大の敵は、固定観念だ」ということになります。 では、なぜそんな簡単なことなのに、これまで多くの人が悟るために大変な努力をしてきて、それでもなお、悟れた人はほんのわずかなのでしょうか?「観念を固定する」パターンは、3つに分けられます。1.焦点化(1つのことしか見ない)・自分の正しさ(知識・経験)にこだわるたとえば、原子力発電は、チェルノブイリのように故障して『放射能汚染という取り返しのつかないことになるがダメだ』という自分の思う正しさから、その危険性のみにフォーカスしてしまい、原発のメリットを良い点として見ようとしない。2.固定化(1つのことしか見えない)・経験的な機能・価値の色眼鏡たとえば、定期収入がなく貧乏であったときに、定期収入を得る仕事につき生活が安定し、定期収入のありがたさを感じた人が、「ミュージシャンなんか、収入が安定しないからダメだ」と収入の安定度しか見えなくなる。3.一般化(1つ見えたことをすべてと見なす)・「たまたま」を「そもそも」と思うたとえば、Aという高級車に乗ったときに、たまたま革張りシートだったので、そのAという高級車は、すべて革張りシートなんだと思う。 このようなパターン、またはその組み合わせで固定観念が作られていきます。 また、これらをひとつにすると、「部分の全体化」ともいえます。どんな部分を全体視しているかというと、1.ひとつの考え2.ひとつの経験3.ひとつの例ですよね。 固定観念は、固着観念ともいい絶えず意識を支配し、それによって主として行動が決定されるような観念(広辞苑より)のことです。 ヒカリズムで使うときには、さらに広い意味で用い、固定化されている基本的な考え全般も含みます。 ここが違います。 たとえば、「人とは何か」について、日本での一般的な考えでは、医学的な肉体、人の解釈を人の概念として採用しています。 それが、一般的な思考の前提ですが、ヒカリズムでは、それもひとつの固定観念だとみなします。 その人を形作るすべての考えを固定しないこと。(考えを固定することで、空という意識全体から分離します) 固定観念の概念解釈において、ここまで踏み込むかどうかが悟りを開けるかどうかのポイントなのです。 そのような一般的には固定観念としてはみなされないような基本的な考え方まで固定観念として手放すことで悟りが開けるのです。 ある考えを固定するためには、基準を固定する必要があります。 上にあげた観念の固定化のパターンでも、ひとつの部分を固定化して基準にしていますよね。 つまり、固定観念を手放すとは、考えを固定しないこと考えを固定しないためには、基準を固定しないこと基準を固定しないということは、基準はひとつではないと正しく認識すること。 ですから、仏教の基本は「縁起の法」なのです。 縁起の法とは、簡単に言えば、すべてのものは、関連性によって成り立っている。言い換えると、絶対的な実体はない(空)関連(縁、基準)が変われば、実体(固定化された対象、色)も変わる、ということです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 29, 2007
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ヒカリズムでは、ロジカルシンキング(論理思考)を展開するために概念を明確にすることを強調します。 では、なぜ概念を明確にすることが必要なのでしょうか? ヒカリズムとは、考えを置き換えることによってパラダイムシフトすることとも言えます。 ところが、「考え」という言葉を辞書(広辞苑)で調べると 考えること。また、 考えて得た内容。という二つの意味があります。「考えること」とは「思考」(思いめぐらすこと。考え)のことです。「考えて得た内容」とは、「観念」(思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称)(心の中で思考結果が形となったもの)のことです。また、似ていて別の概念として、思考のプロセスいう意味で「考え方」(考えるときのしかた。考えるときの態度・傾向)があります。 よく、「ネガティブな考えをやめてポジティブな考えに変えなさい」というような言い方をしますが、この場合は、「考え方」(思考のプロセス、思考の方向性)を変えることを意味しています。 しかし、それはかなり難しいことです。なぜなら、その人の考え(思考)を始める前提がネガティブなものだからです。 映画「マトリックス」でネオが、ビルを飛び越えようとするシーンがありましたが、飛べないと信じているうちは、飛ぶことが出来ませんでした。 映画「マトリックス」では、信じることで物理的制約と思っていたことを超えられましたが、実際には、そこまでてではありませんが、私たちも物理的な制約の中という限定の中で、似たようなことが起きています。 さて、一方、ヒカリズムでは、(基本的な)考えを置き換えることによってパラダイムシフトするという言い方をしています。 これは、「考え方」を変えるのではなく、その人が持っていて、思考の前提としている固定観念(信じていること)を置き換えるということを意味しています。 前提(となっている基本的な考え)が変わるから結果的に考え方も自然と変わっていく、ということになります。 そして、実際には、ネガティブな考えをやめてポジティブな考え方に変える場合も、基本的な考えを変えるという作業をしているはずなのです。 ところが、「考え」という言葉の概念を明確にしていないために、論理的な思考が出来ず、説明もあいまいなものになっているために、うまくいったりいかなかったりするのですが、その理由がやっている本人にはわからないので、『なぜダメなんだろう?』と困惑してしまうのです。 誰でもが知っていると思っている「考え」という言葉一つにしても、どういう概念(意味)で使われているのかを明確にするかしないかで、認識、理解がまったく変わってくるのです。 ヒカリズムの説明を概念に注意して読んでみると新たな気づきが得られると思いますよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 28, 2007
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「殺人罪で死刑」という判決。人を殺すという悪いことをしたので、死刑に処するということですが、『死刑として人を殺すことは悪いことではないのか?』 そんな矛盾を感じませんか?なぜ、そんな矛盾が生じるのでしょうか? 日常生活でも、どちらにしたらいいか、悩むことがあります。 悟ると、そのような悩みはなくなります。 選択とは、目的に照らして適するもの(正しいもの)を選ぶということです。 ところが、多くの人は、他者の目的を常識なとどして無批判に自分のものにしてしまっています。 そのために、自分の中に複数の目的が無秩序に、順番なしで存在してします。 前述の、「殺人罪で死刑」というのは、「人を殺すことは悪いことなので、してはいけない」という目的に照らすと矛盾が生じますが、「現状の社会を安定して維持する」という目的に照らすとまったく矛盾しません。1.殺人は、社会の維持を不安定にする2.社会の維持を妨げる要因を排除するということで、どちらも正しい(目的に適っている)のです。 悟りとは、そのように、固定観念を取り払い、そのときの目的を臨機応変に自分の判断で選び取れることなのです。(誤解の無いように補足しておきますが、それは、社会の維持を最優先しなさいとか、そのために死刑も必要、ということではまったくありません) ヒカリズムでは、自分を基準にした考え方に自分を変えていくことで幸せな生き方に導いていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 27, 2007
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普通、喜怒哀楽の感情は、喜び、楽しいは感じたい楽しめる感情で、怒りや哀しみは、避けたい楽しめない感情です。 しかし、何かを否定しているうちは、まるごとの自分を生きていません。 自分の中に受け入れられていないものがあります。 まるごとの自分を生きるとは、すべてを受け容れることです。 悟って(愛になって)すべてを受け容れると怒りや哀しみも含めたどんな感情も楽しめるようになります。『そんなはずは無い!』と思うかもしれません。 それは、その人の意識のあり方、感情の発生の仕組みで説明できます。 普通の人は、怖れがすべての動機になっています。共依存で存在価値不安症なので、他者からの評価が落ちることを怖れています。 そのために、知らず知らずのうちにコントロールドラマで勝ち負けのドラマを演じています。怒りや哀しみというのは、このドラマで負けること、不利になることが表現されたものです。 根本を見てみると、たとえば、バカにされて怒りが湧くというのは、低い評価を受けることを認めない、高く評価させたいということです。大切な人が亡くなって哀しいのは、自分を高く評価してくれた味方が減ったからです。飢餓の現状を見て悲しいのは、もしそんな状態に自分がいたら耐えられないので飢餓を無くさなければならないと思っているのに、飢餓の現状があることから、自分の敗北を感じるのです。 一方、愛の人は、愛を動機にしています。この場合の愛とは、すべてである自分の中の未知のものを体験したいという創造性です。 感情は、自分の表現です。戦争に怒りを感じるのは、『平和な世界にしたい』という自分の表現です。 愛の人の怒りは、自分の中の正しさの表現と感じられます。飢餓に悲しみを感じるのは、その苦しみに共感しているからです。共依存の人の怒りも哀しみも、自分の負けを感じているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 27, 2007
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正しさもエゴも、同じ「こうあるべき」という固定した考えである。 社会が持つ正しさ(社会組織の維持という目的)に一致するものを「正しさ」と呼び、そこから外れたものをいわゆる「エゴ(利己的、利己主義的、自分本位)」と呼ぶ。 価値観が違う社会同士だと、正しさは相手側からか見るとエゴになる場合がある。 どちらも自分が正しく、相手はエゴだと感じるので、相手を正しさに導こうとするために争いになる。 タリバンとアメリカの争いも、そういう構図になっている。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 25, 2007
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1.いかなるものにも、それ自体は意味を持っていない2.意味は意識が目的を立てることで、相対的に生じる実は、意識の対象にあるように見える意味は、対象の受け取り手の意識の中に存在している3.意味は意識の中にしか存在しない4.目的が変われば意味が変わる5.感情は、意味の認識によって生じる反応である従って、目的を変えることで受け取り手の中での意味が変わり、感情を変えることが出来る ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 25, 2007
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私たちが見ている「対象としての世界」は同じです。 私たちに見えている「概念としての世界」は視点によって変わります。 どういうことかというとたとえば、女性がコックをしてるオープンキッチン(お客さまに見えるようにしてある調理場)のレストランで、お客としてきた人は、それぞれの職業や興味によって見えている世界が違うことがあります。たとえば、美容師は、その女性コックさんの髪型に注目しているかもしれない、料理人は、その包丁捌きを見ているかもしれない、ある人は、合理的に整理整頓された器具の配置に感心しているかもしれない、電器メーカーの人は、食品を美しく見せる照明に納得しているかもしれない、ある人は、オープンキッチンは風景の一部に過ぎないかもしれない、私は、その女性の美しさに目を引かれているかも知れない(^^; 夏に川に遊びに行って、川にある石を見て、ある人は『漬物石にちょうどいいわ』と思い、ある人は『これはヒスイじゃないか、高く売れるかもしれない』と思い、ある人は、石は見えていてもただの風景の一部でしかないかもしれない。 そんなふうに同じものを見ても、その人の目的、興味によって視点が変わるので、受け取っているものは、それぞれに違うのです。まず、1.フォーカスしている(焦点を当てている)ものが違い、次に仮に同じものにフォースしても2.その判断基準が違います。 何も考えずにたとえば、「争い = 悪いこと、あってはならないもの」というような決まった概念枠でしか捉えられないのは、他者の考えに支配されていると言えます。 そういう固定観念を基本的な考えにしてしまうと、争い → 怒り、悲しみ、否定というような決まりきった反応しか出来なくなります。 しかし、一方で「雨降って地固まる」とか、「ケンカするほど仲がいい」とか、逆の概念があることも知識として知っているはずです。 ものごとはすべて、良いことと悪いことの両面を持っています。悪いことだけのことも、良いことだけのこともありません。 それは、すべてのことそれ自体は、意味を持っていなくて、それを受け取る人が、自分の考えに照らして意味付けしているからです。 そのときの基準をどう採るかは、そのときの状況によってさまざまに変化するのです。 そのときに、どのような考え方を採用するかを「恐れではない自分の気持ち」で決められるのが、愛であるということです。「恐れではない自分の気持ち」とわざわざ注釈しているのは、「怖れからくる自分の気持ち」というも自体が、他者から押し付けられた『こうあるべき』という考えによって生じているものだからです。 もし、あなたが今見ている世界が気に入らなくて、変えたいと思ったのなら、二つの方法があります。 世界とは、もちろん世界全体でもあるし、その一部である周りの人でもあるし、自分の状況などでもあります。 あなたが感じている世界を変えるには、世界それ自体を変える方法だけではなく、まず、あなたの考え方を変える、その後から、世界それ自体を変えるべくアプローチしていく、という方法もあるのです。 世界を気に入らないと否定し、文句をいうよりも、あなた自身が世界の受け止め方を変え、あなた自身の世界への関わり方を変えていく、それがヒカリズムのやり方です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 25, 2007
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おそらく皆さんは、たとえば「愛」や「愛する」という言葉を聞いたときに、『ああ、知っている』と思うよりももっと自然に当たり前のように分かった気になっていると思います、・・・というより、自分がわかっていないことに気づいていないはずです。 では、「愛すると好きの違いは?」とか、「すべてを愛する神の愛と、一人だけを愛する恋愛の愛との違いは?」「愛するって、実際は何をするの?」と訊かれて答えられるでしょうか? おそらく答えられないはずです。 もし、そうであるならば、その人は、「本当には愛とは何かを知らない」ということです。それなのに、自分が知らないということすら気づいていないのが、ほとんどの人なのです。 しかも、この愛の概念については、辞書にもちゃんと載っていません。 つまり、ほとんどの人(社会)の概念があいまいなままだということです。そのようなあいまいな概念に基づいて考えて行動しているとしたら、行動もあいまいになってしまうはずです。 それがこれまでの時代だったのです。 それは愛だけではなく、たとえば、「人のためにする、自分のためにする」という区別もついていないはずです。 たとえば、ボランティアは、人のためにしているのか、自分のためにしているか?目の前でつまづいて転んでかばんの中身を道にばらまいてしまった人に手を差し伸べ、拾うのを手伝うのは、誰のためにしているの? ヒカリズムは、それを明確に、でもシンプルに説明します。 ボランティアそれ自体、誰かに手を差し伸べることそれ自体、つまり行為だけでは、自分のためにしているのか、他の人のためにしているか判断は出来ません。 もし、あなたがせっかく手伝ってあげようとしているのに相手が「余計なことをしないで」と言ったときにムッとするようなら、あなたは他人のためにそれをしています。『ああ、これをして欲しくないんだな、じゃあ止そう』と素直に引き下がれるなら、あなたはそれを自分がしたいからしています。 穏やかな心の人は、自分と相手の境界線がはっきりしている人です。ムッとする人は、共依存で他人の評価を気にする人です。 その理由、メカニズム(仕組み)も論理的に説明ができます。 だから、ヒカリズムを身に付けると生きるのがシンプルで迷いがなくなり、幸せになるのです。 それがヒカリズム、悟りです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 23, 2007
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会津八一(あいづやいち、1881年8月1日 - 1956年11月21日)日本の歌人・美術史家・書家。1951年、新潟市名誉市民。 八一の教え子でソウル在住の書家アン・ビョンウクさんが語る、八一から教わった忘れられない言葉。「人間は何を愛するかによって人生は定まる。お金や権力ではなく、自分の生を愛しなさい」 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 22, 2007
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あなたが認識している世界は、あなたの外側に存在しているのではないのです。 どんなものも意味付けなしに認識(概念化)はできません。 ですから、あなたの認識している世界とは、外側の世界に対してあなたが意味付けした世界なのです。 あなたの観念(基本的な考え)というフィルターを通することであなたの感じ方としてあなたの内側で創られているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ 五官、五感、縁起の説明だよ
Aug 22, 2007
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剣道を知らない人は、コツも分からずがむしゃらに竹刀を振り回すだけです。 正しい構えも知らないし、竹刀の使い方も知らない。 だから、隙だらけの構え、無駄の多い太刀さばきですから、やられっぱなし。 苦しむ多くの人も、同じように心の仕組みも、心の制御のコツも分からずにただ、がむしゃらに生きているだけなんですね。 だから、間違ったことを考えたり、間違ったことをしたりするので、悩むし、苦しい。 剣道だって、心だって、論理的に正しい方法、その仕組みの理解をすし、それに従って練習すれば、上達への道を歩むことが出来ます。 剣道の達人になると、厳しい修行(体験)の繰り返しによってもう理屈ではなく、身体がそれを覚えて状況に反応しています。 心の達人も、最初は理屈を覚えても、その考えで、基本的な考え書き換えることによって、理屈を超えて、状況に反応するようになります。 今という瞬間に感じて反応するので、感応と言います。 心の達人になるためには、まず、心の仕組みを知ること。(共依存、防衛機制、コントロールドラマ) そして、これまでの心の反応パターンとまったく違う反応が出来る新しい考え方(恐れではなく愛)を知ること。 あとは、その考えがそれまでの自分の考えと置き換わるまで繰り返し体験すること。 考えが置き換わると、まったく新しい「心の達人としてのあなた」になるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 22, 2007
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先日の「24時間テレビ 愛は地球を救う」で平原綾香さんが「Jupiter」を歌っていました。 この「Jupiter」の詩もそうですが、「千の風になって」「千の風」「私のお墓の前で泣かないでください(Do not stand at my grave and weep)」とさまざまなタイトルがついているこの詩もどちらもとてもスピリチュアルな詩だと思います。 恨みや執着がテーマになりやすい演歌のような詩が廃れ、このようなスピリチュアルな詩がついた曲がヒットするのは時代と共に人の意識が進化していることの現れなのでしょうか。 「Do not stand at my grave and weep」という詩の作者ははっきりとはわかりませんが、一説には、メアリー・フライ(Mary Frye)というアメリカ人女性がナチス時代にドイツにある母親の墓にお参りに行けないことを関心でいるユダヤ人の親友マーガレット・シュワルツコフ(Margaret Schwarzkopf)に私の思う「人の生と死のあり方」を詩にして贈ったものだそうです。Webサイト「ごんべ007の雑学村」の『「千の風になって」の詩の原作者について(執筆:オーママミア Quinn)』のページより 科学宗教の信者である多くの人たちは、肉体だけが自分だと思っています。 一方で、スピリチュアルな人々のように、死後の生、魂としての自分の存在を信じている人も増えています。 どちらが真実なのかは、物的証拠とでは証明できませんが、状況証拠としては、充分に証明されているともいえます。 いずれにせよ、確かに言えることは、肉体としての自分、物質に重きを置く人は、お墓参りできなかったマーガレットのように物的な満足を得られないことで苦悩します。 しかし、一度、魂としての人の存在を前提にすることで、そのような苦悩から解き放たれることも事実なのです。 そうであるならば、魂としての人の存在を信じる考え方を採用することにデメリットがないのなら、そのような考え方を採用するのも苦悩を超えるひとつの方法ですよね。 穏やかさを取り戻した人は、その温かい心を他の人に与えていく、伝えていくことが出来ます。 その喜び、幸せがドミノ倒しのように繋がっていくときっとすばらしい世の中になっていくはずです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 21, 2007
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かめさん(かめおかゆみこさん)のブログ「かめわざ快心塾楽天スポット」の「底なし沼にも、底はあります。」で悲しみも憤りも、終わらせてしまいたいのにいろんな事をしてるけれど、気分は落ち込んだまま。悲しみを100%感じ切れていないのでしょうか?というテーマを取り上げていました。 かめおかさんは、ご自分の体験から、わかっていて、体験的に伝えていらっしゃいますが、ここでは、補足的にヒカリズム論理で説明してみたいと思います。◆まず、感情の発生は、感情法則の式で表すことができます。 考え + 出来事 → 感情 感情は、その人の考えと出来事の関係性から生じます。 ですから、たとえば、ボクシングなどの格闘技を見て(出来事)否定的な感情を抱く人も好意的な感情を抱く人もなんの感情も湧かない人もいますよね。それは考え方が違うからです。 たとえば、『殴ることはいけない』という考えを持った人がボクシングを見たら、『なんて野蛮なんだ』という思いや否定的な感情が湧きますよね。 でも、殴り合いを見ていない(という出来事に接していない)時には、否定的な感情は湧きません。 思い出すと感情が湧きますが、それは身体はその出来事に遭遇していませんが、意識にとっての現実として遭遇しているからです。◆考えには、2種類あります。1.「こうあるべき」(正しさ)と2.「こうだったらいいな」(好み)です。 正しさに抵触する出来事に遭遇すると出来事が正しさに適うまで感情は湧き続けます。 それは、脳の仕組みからも説明されています。脳の中で感情を司る部分が活動するのは、感情が湧く瞬間だけで、それ以降は、思考を司る部分が活動しているのです。 ですから、その正しさと出来事のギャップを認識するたびに『正しくない』『正しくない』と否定的な感情が湧き続けます。 「こうあるべき」という思考が感情の発生ボタンを押し続けているのですね。 それは1.考え方を変えるか2.出来事が正しく訂正される(こうあるべきに適う)まで続きます。◆つまり、「感情を味わい尽くす」というのは、「出来事を変えようとするのをやめて、自分の正しさを手放すこと」を意味しているのです。 これは、エリザベス・キューブラー・ロス博士の「死に至る5段階」でも説明されています。ここで言う「死」とは、死のように受け容れがたいことの代表として使われてますから、死以外の受け容れがたいことすべてに言えることです。「死に至る5段階」とはね否認、怒り、取引、抑鬱、受容の5段階で、この最後の「受容」ですね。「感情を味わい尽くす」とは、抵抗をあきらめるまで感情を味わうことであり、自分の正しさ(こうあるべき)を手放し、現実を受け容れることなのです。 かめさんの続編「1億分の1歩を踏めばいいのです。」では、恐れを長い時間かかって確かに味わい尽くした感じがしたのに、その次の日も次ぎの日もまた再び、苦しみが始まる。 という人の話が載っていましたが、正しさを手放せていない、現実を受け容れることを拒否し続けている、ということなのです。 「本当の意味で苦しみを手放す」たったひとつの方法、抵抗を止め、あるがままを受け容れること、すべてとを受け容れること。 本当の私とは、すべてなのですから、すべてを受け容れることとが、「まるごとの自分を生きること」なのです。 それは、無条件の愛と呼ばれています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 20, 2007
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夢の実現に向けて生きている人は、輝いていますよね。(^^) ・ ・ ・ ・ ・ ところで、まだタイトルと本文1行を書いてあるだけですし、どちらも、よく聞く言葉ですが、実は、もうこれだけでヒカリズムを伝えているんです。 しっかりこれを実践するだけでOKなのですが、受け手の概念があいまいなので、ちゃんと受け取れることができないんですよね。◆ まず、タイトルが、単に「夢を持とう」ではなく「自分の夢を生きよう」になっているには、意味があります。 たいていの人は気づいていませんが、夢には1.(本当の)自分の夢と2.自分の夢のような気にされている他人に託された夢があります。 ほとんどの人は、この二つの区別がついていないのです。 自分の気持ちだと思っているのに実は違うというのは、臨床心理学ではよく知られたことです。 社会的に正しいとされることを自分の気持ちだと思いたがる傾向があります。 たとえば、開業医の親が息子に「おまえも将来は医者になって、私の後を継いでくれ」と言われ続け、『ボクの夢は、将来医者になることだ』と思う子供もいるかもしれません。子供にとって、親の常識が家庭という社会の中では、正しさになっているから、親の期待に応えることが正しいことなんですね。 この場合、他人(親)に託された夢かもしれないし、親が自分に期待することを聞くことをきっかけにそれが本当に自分の夢になったのかもしれません。 もし、この子が医者になる勉強をしている時より、別のこと、たとえば、ロックを聴いたり、演奏したりするときにワクワクとした楽しさを感じるとしたら、その子自身の本当の夢は、ロックミュージシャンになることなのです。 このような自分の気持ちに気づいていない傾向は、良い子、良い人と言われている人によく見られます。ずっと親の良い子でいるために、相手の気持ちに応えることを優先し、自分の気持ちを押さえてきたのです。 そのように、自分の夢と思いながら、他人が自分に期待している夢を実現しようとしている場合があるのです。その場合は、結果が出るまであまり楽しくありません。結果が出て、期待をかけてくれた人から評価されて初めてうれしくなります。 つまり、夢が目的なのではなく、「自分の夢だと思っていた他人の期待」に応えることで得られる評価(結果に対する見返り)が目的になっているのです。 ですから、夢へのプロセス(夢を実現しようとする過程)は本当にしたいこと(本当の夢)ではないのですから、楽しくない。◆ また、「夢をもって生きている人」ではなく、「夢の実現に向けて生きている人」となっているのにも意味があります。タイトルの「自分の夢を生きよう」の「夢を生きる」とは、夢を持っているだけではなく、夢の実現に向けたプロセスを生きる、という意味です。 たとえ、自分の本当の夢であっても、その実現を信じていなくてその実現に向けて一歩ずつでも歩みだしていない人は、夢を単に今の苦痛からの逃避場所にしているだけなのです。 自分の本当の夢の実現のために一歩ずつでも歩みだしている人は、その過程の一歩、一歩が、すでに楽しみになっているものです。 ですから、結果にこだわっていても、囚われていないのです。(こだわりと囚われの概念の違いが分かりますか?) 自分の本当の夢を生きているということは、自分を生きているということであり、それが悟りなのです。 悟りとは、存在価値不安症を脱することだからです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 20, 2007
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私たちはまず物質を実感し、肉体としての自分を実感して思考を開始します。 それは、物質世界、肉体を基本的な考え(前提)として物事を考えているといて、その積み重ねが今持っている知識のほとんどです。 考えを始める前に、物質世界が現実か?意識の世界が現実か?という疑問を持ちさえしないのです。ということは、もちろん物質世界が現実であるという前提は、その真偽を吟味されておらず、単なる一時的な仮定に過ぎません。 確かに仮定に過ぎないのですが、日常生活においてはその仮定は大変うまく機能するので問題は起きていないように見えます。 ところが、前世の記憶や臨死体験や量子の世界を考えるという特殊な場面で、物質世界が現実である、という仮定は問題が生じます。 ところが意識の世界の方が現実で、物質世界はその反映だと考えるとオッカムの剃刀でいうように理解が単純になります。量子の世界を計算するときに虚数が出てきますが、量子は(物質を現実と仮定した場合に虚となる)意識の世界に密接に関係しているとしたら、それは当然のことだと言えます。意識が想像したことが、現実世界として創造されるとき、アナログではなく、デジタル映像のようにプランク時間単位で現実化されているとしたら、プランク長の理由もわかります。------- 引用開始夢もこの物質世界と同じようなものです。両方とも、あるひとつのものに対して、違う見方をしているだけです。すべてはあなたの意識の中にあります。皆さんの意識には「外」というものは、ありません。皆さんが考えられるもの、知覚できるものは、すべて皆さんの意識の中にあります。(バシャール3- P61)皆さんはいま夢を見ているだけです。なぜなら、肉体の次元は夢なのですから。(バシャール2-P112)すべての個人は、意識が人工的に創りあげているものですが、だからといって自然ではない、ということではありません。しかし、本来のあなたは、肉体的な存在ではないのです。(バシャール2-P117)意識がこの物理次元に焦点を合わせるとき、自分自身を、時間と空間というワクの中にはめます。そうすると、本来ひとつであるものが、たくさんに分離して見えてきます。そして、その分離のひとつひとつが、皆さんが人格と呼んでいるものに凝結していきます。ある人生を生きるために、ある人格をつくるのです。(バシャール2-P117)本来、意識というものは、前世も含めてたくさんの人生、たくさんの人格を持っています。ある見方をすれば、人生がひとつ終わっても次があり、また次があります。また別な見方をすれば、時間というのも幻想ですから、すべての人生は「今」起きている、ともいえます。(バシャール2-P117)この時間と空間は、その中に埋没しているときにはそれが現実と見えますが、本当は幻想です。(バシャール2-P136)付帯質(物質、肉体)は、精神作用の反映てす。本質は意識にあります。(オコツト)(この意味が書かれた本の部分を探せませんでしたわかった方、教えてください)------- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 18, 2007
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旧盆でお盆休みだった方、まだお休み中の方もいらっしゃると思います。お盆というのは、サンスクリット語の"ウラバンナ"を音訳(盂蘭盆)したものの略で、「地獄や餓鬼道に落ちて、逆さづりにされ苦しんでいる」という意味で、母のために供養をした目連の話にちなみ供養を営むのが、盂蘭盆会。 日本では、先祖の霊を自宅に迎え供物をそなえ、経をあげる行事です。 そんな時期ですから、テレビなどでも幽霊や霊魂の話などもあり、霊魂の存在について考えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 霊魂というと、火の玉を思い浮かべる方も多いかもしれません。エクトプラズムだと思う方もいるかもしれません。人が死ぬと、ごくわずかだけれど魂が離れる分だけ体重が軽くなる、というような話もあります。 しかし、ヒカリズムでの「魂」という概念は、そのような物質的なものではありません。18世紀の科学者、神学者スウェーデンボルグは、霊界に行き、そこでの体験が本になっています。------- 引用開始「霊たちの世界」は、天界と地獄とのあいだの一つの固定した場所ではない。それは人々が天界と地獄とのあいだにいるときにおかれている状態である。<中略>天界は、場所ではなく、生命の状態、つまり愛、仁愛、および信仰の生命の状態である。エマニエル・スウェーデンボルグ 著「スウェーデンボルグの霊界日記」◇高橋和夫 訳◇たま出版刊より------- 引用終了 科学宗教の下で私たちは、意識とは脳の活動の結果だと教えられています。 したがって、その前提が崩れてしまう臨死体験を受け入れることができません。肉体を前提とした考え方の中で肉体を離れて存在する意識を説明するためには、魂という物資的な存在の仲介が必要になるのです。 科学宗教の呪縛から離れて、状況をすべて考慮して、広い視野から状況を眺めると「意識の世界が主で、その反映として物質世界が存在してる」という解釈が一番合理的だと感じられます。 そして、その解釈を説いたのが、たとえば、お釈迦さまの「色即是空、空即是色」という般若心経です。 前世療法での退行催眠による中間生、中間世、あの世とか臨死体験での魂の世界をヒカリズムでは「意識の世界」と呼んでいます。 そして、それはスウェーデンボルグもいうように、場所ではなく、意識の状態です。 実際に、臨死体験した人があの世に行くときに、そこがお花畑であったり、宗教的な荘厳な門であったりと人によりさまざまですが、共通しているのは、そのシーンがその人にとって一番うれしい場所だということです。 その人が一番望む場所としてあの世が創られているのです。 私が「千の風になって」の詩を知ったのは、曲がヒットするだいぶ前です。 作者不詳として、心理学の本に載っていたものをサイトに来ていたなぞさんが紹介してくださいました。「私のお墓の前で泣かないでください」 そこで歌われているのは、肉体的な死は、私の死ではないこと(この死生観がテーマ)本当の私は、普遍に存在すること(あまねくゆきわたること。すべてのものに共通に存すること) つまり、本当の私(意識としての私)は神、宇宙そのもの色即是空、空即是色 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 16, 2007
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「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言葉があります。「一切 衆生 悉有 仏性」いっさい しゅじょう しつう ぶっしょう(生きとし生けるもの全て)に成仏できる性質が備わっていると一般には説明されていることが多いです。 つまり、自分はまだ仏ではない、犯罪を犯すような悪いことはしていなくてもちょっとしたウソをついたり、人をうらみに思ったりすることがある自分はまだとても仏とは言えない、と思っているわけです。 これは悟る前の解釈であって、このような解釈を正しいと思っているうちは、絶対に悟ることはできません。 私たちは、ニュースなどで凶悪犯罪を聞き、その被害者を見たりするとその犯人を憎く思ったりします。 お釈迦さまを説明するお話にアングリマーラのお話があります。 100(1000)本の指を切り取り首飾りを作ろうとした殺人鬼アングリマーラことアヒンサをお釈迦さまは弟子に加えます。 私たちは、その慈悲深さに感心するのですが、感心しつつ、「慈悲」の本質を知りません。 感情というものは、固定観念と出来事の反応です。 固定観念 + 出来事 → 感情という式がなりたちます。 つまり、お釈迦さまがアングリマーラに憎しみを抱かず、慈悲の気持ちを持つとしたら、出来事は同じで結果が違うのですから、持っている観念が違うということなのです。 私たちは、善悪の考えを固定的に持っていて、善悪を比較する二極化思考で物事を判断しているので、反応として犯罪者に憎しみを感じてしまうのです。 悟った人というのは、その善悪の二極化の考えを手放してあるがままに受け容れている人なのです。 その状態だと、アングリマーラさえも仏として受け容れられるのです。・・・ここ、すごく重要です。 つまり、悟る前のお釈迦さまも『自分は仏ではない』と思っていたのですが、悟った後は、アングリマーラですら仏なのですから、菩薩(さとりを求めて修行する人)であった自分も仏であったことを知ったはずです。 つまり、「一切衆生 悉有仏性」いっさいしゅじょう しつうぶっしょうとは、(生きとし生けるもの全て)は、仏の現れであるが、本人は仏であることに気づいていない、気づき(あるがままを受け容れ)さえすれば、仏であることに気づくことができる。ということなのです。 それでも、アングリマーラを仏とは思えない人が多いでしょう。では、仏はアングリマーラとして現れて何をしているのでしょうか? 私たちは、自分ができている価値を失い迷いの中にいます。しかし、自分よりも劣った人を見ることで自信を取り戻すことがあります。アングリマーラはその役目をしています。 自分に自信がない人は、『ダメな私にはできない』と自信をなくし、落ち込んでしまいがちです。 しかし、アングリマーラこと、アヒンサは、お釈迦さまに付いてりっぱに修行をしました。どんなにダメに思えても、ちゃんと成し遂げることができる、アングリマーラはそのことを私たちに教えてくれています。 そのように、固定観念の色眼鏡で見ていてるとまったく価値がないもの、むしろ無いほうが良いと思えるものにも、そこに存在価値を見出すことができます。 それを可能にするのが無条件の愛であり、ありのままに受け容れることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 13, 2007
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織田隼人さんのメルマガ「男と女の心理講座」の弱音は吐いても大丈夫の中に------- 引用開始がんばり屋さんの女の子ほど、「できない」って言うのを怖がります。がんばり屋さんの女の子は「できない」と相手に言うことが、自分の評価をものすごく落とすことだと思ってしまうのです。がんばり屋さんの女の子ほど、「できないです」と言うのを怖がるのです。------- 引用終了とありました。「がんばり屋さん」というと、そういう性格だから・・・というイメージがあります。ですが、ヒカリズムを学んでいらっしゃるみなさんは性格というのは、共依存による怖れから習慣化したパターンのことだとわかりますよね。自分の評価を落とすのが怖いから自分の評価を上げようとがんばっているだから、がんばりやさんに見える(本当にそうしたいから、やっているがんばり屋さんと怖れから逃れるために、突き動かされるようにやらされているがんばり屋さんがあるのです)でも、後者のがんばり屋さんは自分の実力以上を期待されていると思い込んでいるからすごく重荷になっているし、それは本当に自分がしたいことじゃないから、やっていてもあまり楽しくなくて、むしろうまくいかないときは辛いだけだったりします。(したいことだからやっているがんばり屋さんは、障害があっても、それを何とかするのも楽しみに変えてしまえます)解決策としてこんなふうに載っています。------- 引用開始実は「できないんです」と言ってもそれほど周りからの評価は落ちません。------- 引用終了『なるほど適切なアドバイスだ』と思うかもしれませんが、次に------- 引用開始だだ、多用すると「やる気が無いのか」と思われてしまう可能性があります。------- 引用終了って、どうすりゃいいんじゃい!(^へ^) このように、たいていのアドバイスは、そのケースのみの対症療法です。(というより、アドバイスしている人自身に根本が見えていないのですから、部分対策しかできないのです)しかも、根本はそのままですから、場合によってはうまくいかないこともあるというおまけつき。これでは、怖くて使えません。仮にがんばって使ってもこの例なら、『どの程度が多用でないちょうど良い使い方なんだ?』と、また別の迷いがでるだけです。 一番良いのは、自分を共依存から回復させてしまうこと。 そう思いませんか?(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 10, 2007
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かち‐かん【価値観】個人もしくは集団の持つ価値評価の判断。か‐ち【価値・価直】(value イギリス・Wert ドイツ)1.物事の役に立つ性質・程度。経済学では商品は使用価値と交換価値とを持つとする。ねうち。効用。2.〔哲〕「よい」といわれる性質。「わるい」といわれる性質は反価値。広義では価値と反価値とを含めて価値という。3.人間の好悪の対象になる性質。4.個人の好悪とは無関係に、誰もが「よい」として承認すべき普遍的な意味。真・善・美など。広辞苑よりかちかん【価値観】人が自分を含めた世界や、万物に対してもつ評価の根本的態度、見方。かち【価値】1 物事のもっている値うち。あたい。かちょく。「千金の価値がある」2 人間の基本的な欲求、意志、関心の対象となる性質。真、善、美、聖など。3 ある目的に有用な事物の性質。使用の目的に有用なものを使用価値、交換の目的に有用なものを交換価値という。国語大辞典(新装版)小学館より 私たちが、目的とするものは、個人もしくは集団の持つ価値観に基づき、その価値を実現すること、です。 価値は、人間の基本的な欲求、意志、関心の対象となっています。 ですから、価値(価値観)、欲求(意欲)、目的は、密接に関係しています。 正しいということは、「目的に適っている」ということですから、価値(価値観)、目的、善悪(善悪観)も密接に関係しています。 「何に価値を感じるか?」ということが、ユニーク(差)を生んでいます、つまり、個を全体から分離させている要因であり、目的(価値の実現)は、自己実現となります。 つまり、自分の価値観を基にその価値を実現させることを目的として生きている人は、自分を生きていることになります。 心の病気になる人は、他者の価値観を基にその価値を実現させることを目的として生きているので、自分を生きていないのです。だから、心が拒絶反応を起こしているのです。 自分を生きること! ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 9, 2007
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私たちに起きることは、すべて表と裏の両面を持ったコインのようなものです。 否定的な意味しか持たない出来事も肯定的な意味しか持たない出来事もありません。 出来事は本来意味を持っていません、出来事は、すべて意味的に中立なのです。 それを受け取る(解釈する)人が、自分の観念(考え、価値観、好みなど)を基準に自分にとってだけの意味を創り上げているのです。 あなたがその出来事に肯定的な意味を与えれば、あなた自身がその肯定的な意味を持った出来事を受け取ることが出来ます。 あなたがその出来事に否定的な意味を与えれば、あなた自身がその否定的な意味を持った出来事を受け取らなくはなりません。 おそらく、固定観念でガチガチの石頭さんは(笑)この考えを屁理屈だと言うかもしれません。 あなたがそう思うなら、それでかまいません。 このこと自体も、それぞれの人が意味を与えて、その意味を受け取っていることの証明なのですから(笑) 肯定的な意味を与えられて育った子供は、明るい子供になることでしょう。 乙武さんの「五体不満足」から、乙武さん誕生の時のお話を引用します。----- 引用開始~まえがき~ 昭和51年4月6日。満開の桜に、やわらかな陽射し。やさしい1日だった。「オギャー、オギャー」 火が付いたかのような泣き声とともに、ひとりの赤ん坊が生まれた。元気な男の子だ。平凡な夫婦の、平凡な出産。ただひとつ、その男の子に手と足がないということ以外は。 先天性四肢切断。分かりやすく言えば、「あなたには生まれつき手と足がありません」という障害だ。出産時のトラブルでも、その当時、騒がれていたサリドマイド薬害の影響でもない。原因は、いまだに分かっていない。とにかくボクは、超個性的な姿で誕生し、周囲を驚かせた。生まれてきただけでビックリされるなんて、桃太郎とボクくらいのものだろう。 本来ならば、出産後に感動の「母子ご対面」となる。しかし、出産直後の母親に知らせるのはショックが大きすぎるという配慮から、「黄疸(皮膚が異常に黄色くなってしまう症状)が激しい」という理由で、母とボクは1ヵ月間も会うことが許されなかった。それにしても、母はなんとのんびりした人なのだろう。黄疸が激しいという理由だけで、自分の子どもに1ヵ月間も会えないなどという話があるだろうか。しかも、まだ見ぬ我が子だ。「あら、そうなの」となんの疑いも持たずにいた母は、ある意味「超人」だと思う。 対面の日が来た。病院に向かう途中、息子に会えなかったのは黄疸が理由ではないことが告げられた。やはり、母は動揺を隠せない。結局、手も足もないということまでは話すことができず、身体に少し異常があるということだけに留められた。あとは、実際に子どもに会って、事態を把握してもらおうというわけだ。 病院でも、それなりの準備がされていた。血の気が引いて、その場で卒倒してしまうかもしれないと、空きベッドがひとつ用意されていた。父や病院、そして母の緊張は高まっていく。 「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。「かわいい」――母の口をついて出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配は、すべて杞憂に終わった。自分のお腹を痛めて生んだ子どもに、1ヵ月間も会えなかったのだ。手足がないことへの驚きよりも、やっと我が子に会うことができた喜びが上回ったのだろう。 この「母子初対面」の成功は、傍から見る以上に意味のあるものだっと思う。人と出会った時の第一印象というものは、なかなか消えないものだ。後になっても、その印象を引きずってしまうことも少なくない。まして、それが「親と子の」初対面となれば、その重要性は計り知れないだろう。 母が、ボクに対して初めて抱いた感情は、「驚き」「悲しみ」ではなく、「喜び」だった。 生後1ヵ月、ようやくボクは「誕生」した。----- 引用終了 あなたが与えるものが、あなたが受け取るもの。(宇宙法則) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 9, 2007
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よく【欲】欲(ほっ)すること。願うこと。ほしがること。むさぼり求めること。また、その心。よく‐ぼう【欲望】不足を感じてこれを充足させようと望むこと。また、その心。ほしがること。ほしいと思い望む心。国語大辞典(新装版)小学館 よりよく‐ぼう【欲望】ほしがること。また、ほしいと思う心。不足を感じてこれを満たそうと望む心。広辞苑より このように、今のパラダイムでも1.(単純に)欲しいと思う2.不足を感じてこれを満たそうと思うという区別はしているのですが、明確に分ける必要を感じていないように思われます。 しかし、悟りのパラダイムでは、この区別が重要です、というより、これが「悟りの本質」です。 欲求とは、目標達成への意欲、情熱です。 そして、その目的が不足感から生じたものであると、苦の原因となり、その目的が好みから生じたものであれば、喜びの要因となる、ということです。 不足感から生じた目的は満たされるまで満足しません。もし、満たされないことが決定的になったら絶望し苦しむことになります。仮に、その目的が満たされたとしても、次の不足感が生じて同じことの繰り返しになります。 なぜなら、不足感を感じてるのは、自分の存在価値の不足を他者の評価で補おうとしているために生じた不足感であり、根本の「自分の存在価値」の不足感が解消されていないので、形を変えて繰り返されるのです。 好みということは、自分がしたいことをするのですから、結果にかかわらず今目標に向かっているプロセス自体がワクワクするものとなり、喜びとなり、幸せを感じるのです。 そして、この不足感なしの好みは、自分の存在価値を信頼しているところから生じているのです。 それが無条件の愛なのですね。 そして、もうひとつ、今の状態がどんなものであれ、それはその人自身が望んだ状態だということです。 宇宙といおうが、潜在意識と呼ぼうが、集合無意識と呼ぼうが、神と呼ぼうが、それは、あなたが望むものをあなたに与えます。 そのことを理解するためには、自分とは何か、ということを深く考える必要があります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 9, 2007
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1. 求めない加島 祥造 著 小学館 版 2. ほっとする老子のことば加島 祥造 著 二玄社 版 3. 老子までの道加島 祥造 著 朝日新聞社出版局 版 4. タオ-老子加島 祥造 著 筑摩書房 版 5. 荘子加島 祥造 著 パルコ 版 6. 老子と暮らす加島 祥造 著 光文社 版 7. タオにつながる加島 祥造 著 朝日新聞社出版局 版 8. エッセンシャルタオ加島 祥造 著 講談社 版 9. 肚(老子と私)加島 祥造 著 日本教文社 版 10. タオと谷の思索加島 祥造 著 海竜社 版
Aug 8, 2007
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「幸せとは、自分が望むことが起きること」「不幸せとは、自分が望まないことが起きること、というように捉えている人がたくさんいるように思います。 まず、本当の幸せとは、穏やかさの中にあります。 これだけで意味がわかり、説明ができたら、その人は悟っています。 次に、比較の幸せを考えても、もし、すべてが望むとおりになったとしたら、そこに喜びを感じられなくなってしまうことでしょう。 たとえば、一日三食をあたりまえのように食べている人にとって、特別に豪華とか、特別に美味しい料理でない普通の食事のときに『幸せだなあ』と心から思える人は何人いるでしょうか? 先日のテレビで、ゴミ収集場でゴミの中から換金できる銅線や空き缶などを集めて生活している少女をレポートしていました。 父親が亡くなり、母親が病気(たぶん、栄養不足が大きな原因)で、その少女が主に働いているのです。 本当は朝からでも仕事がしたいのに、母親の看病で遅くなるともう換金できるゴミは他の人に持っていかれてほとんどありません。 そんな日は、母親の薬も満足に買えませんから、お米を買うことはできません。 アパートの別の家族の食事を空腹をがまんして眺めているだけです。 母親の状態がまあまあのときには朝から出かけてようやくいくらかのお金になります。 でも、母親の薬とお米を買う分を考えるとどちらも満足に買えない状態です。 それでもようやく手に入れたお米を炊いて空腹を満たすことができました。もちろん、おかずを買うような余分なお金はもうありません。 そんな食事ですが、私たちの食事に対する喜びより大きいのではないでしょうか。 さらに、そんな暮らしの中でも、やさしさを失わずにレポーターの女性に「お姉さんも食べなよ」と勧めていました。 「不幸せとは、自分が望まないことが起きること」ではありません。 すべてが望むとおりになるとしたら、そこに喜びすら感じられなくなってしまうからです。 望みの実現を阻む壁、それ自体は不幸ではありません。 実際に、アメリカで苦労を乗り越えてお金持ちになった人が、金銭的に豊かな暮らしを手に入れたことで、困難がなくなって壁を越える楽しみがなくなったときに生きがいを失ってカウンセリングに訪れることが多いそうです。「望むことの前に壁として困難なことが立ちはだかり、望むことに順調にたどり着けないこと」は、実は、喜びを創る要因ですらあるのです。1.望むことの結果を絶対的に期待することがひとつめの不幸の要因。もうひとつは、2.望みをなんの苦もなく実現することを阻むものを単に実現へのステップ、過程のひとつと考えられずに、「幸せを邪魔するもの」という意味を与え、否定する気持ちを抱くことが、不幸せを創っているのです。「人生の幸福は、困難に出会うことが少ないとか、まったくないということにあるのではなく、むしろあらゆる困難と闘って輝かしい勝利を収めることにある」(スイスの哲学者カール・ヒルティの言葉) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 8, 2007
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詩人・アメリカ文学者で、タオイストの加島祥造さんの本すべてが「求めない」で始まる詩約100篇を収録した珠玉の詩集「求めない――すると、本当に必要なものが見えてくる」「求めない――すると自由になる」「求めない-すると 簡素な暮らしになる」「求めない-すると いまじゅうぶんに持っていると気づく」「求めない-すると いま持っているものがいきいきとしてくる…。 この本が人気らしいです。私はまだ読んでいません。でも、タオイストの加島さんですから、きっと深い本だと思います。 さて、多くの人は、「求めない」といわれると、まったく求めないことを想像して、そんなのは難しいと思うのではないでしょうか。 悟りにおいて、「求めない」とは、『絶対にこうであるべき』という形で求めることをいいます。『こうだったらいいな』という形で求めるのはかまわないのです。今あるものだって、中には偶然手に入ったものもあるでしょうが、ある程度求めるという意思がないと今なかったはずです。 絶対的な必要性から求めると、その必要なものを手に入れるということの奴隷になって自由を失います。 でも、『あったらいいな』だったら、奴隷になることはありませんから、自由でいられるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 6, 2007
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科学はさまざまな分野に分かれてその専門性を深めています。 しかし、逆に視野が狭くなっているという問題点があります。 最近、バイオ燃料で二酸化炭素の排出量をトータルで減らせるということで、普及させようとする動きがあります。 しかし、単純に化石燃料を使わず植物から作られた燃料を使うというサイクルなら、トータルで二酸化炭素の排出量を減らせるのですが、さらに広い視野で見るとパーム油をとるアマゾンの森林伐採が進み、さらに、森林があることで地下に蓄積されていた分も排出されて、地球規模で見ると、逆に二酸化炭素の排出量は増えてしまうという逆転現象が起こる可能性が指摘されています。 私が子供の頃、母乳の代わりに赤ちゃんに飲ませる人工ミルクの改良が盛んでした。また、成分が母乳に近づいた、というCMが盛んに流され、そのうちに母乳以上の成分、というCMまであったように記憶しています。 ところが、今では、母乳をやるとうことは、単に栄養だけの問題ではなく、免疫や情緒、その多くのことに関係していることがわかって、母乳が見直されています。 参考:母乳・ミルク 参考:待った!ミルクを足す前に このように、科学はどうしても目先の狭い視野での成果しか見ない傾向があります。 また、効率が優先されるのも科学の特徴かもしれません。 一部の効率よりもトータルでの効果(目的が基準にある)が大切なのです。 たしか、子供の頃に読んだ「宇宙船ビーグル号の冒険」という本にそのことが指摘されていたと思います。 トータルで広い視野で見ること、そのためには、広い視野に立った基本的な目的が必要になります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 5, 2007
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すべてが相対的であるということは、何かの判断をするためには、「任意に基準を設けなければならない」ということです。 狭い世界であれば、それが地理的なものであれ、意識的なものであれ、狭い世界なら、そこでの基準はほぼひとつに統一されていることが多いので、基準について取り立てて考える必要はありませんでした。 しかし、世界が広がりさまざまな価値観を持つ国々の人々との交流が始まり、また、文明が進み、意識的にも単に動物的に生きているだけでなく、積極的に、より人間らしく生きることを求めるようになると、基準をどう取るかを考える必要が出てきました。 これが心の時代のポイントです。 まだ、相変わらず狭い時代のパラダイムで善悪が絶対的な価値として存在するかのような妄想を抱いている人がいます。 それは、もう時代遅れです。 あなたにとってそれが正しいのは、あなたがそれを正しいと判断する基準を設けているからです。その基準に相対的に善悪や正しい・間違いが成立しているのです。 お釈迦さまは、それを「縁起の法」として仏教の根本原理として教えられました。(今から2600年も前にそのことに気づいたお釈迦さまって本当にすごいと思います) 私たちは、基準に無意識のまま、判断をしています。それは、常識として無意識の前提になっているのです。 しかも、無意識でありながら、その常識は自分で選択しているのです。 特に、特定の宗教や教えを信仰している人は、ほとんどの場合、その基準を自分で選んでいることに気づいていません。 数ある宗教の中からその宗教を選んで信仰しているのは、自分の選択だというのは、その教えが正しいと自分の中の基準で決めて、選んでいるのです。 最初は自分で選んでいるにもかかわらず、あとの個々の教えについては、選択の責任を放棄して依存してしまうのです。 そこに気づいて、自分で選んでいる、基準は常に自分にある、ということを明確に意識することが大切です。 お釈迦さまは、それを「自灯明」と言いました。 科学的に正しいというと絶対的に正しいかのように思われがちですが、科学でさえ、それが正しいと自分で選んでいるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 5, 2007
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自分というものを多くの人は、肉体だと思っています。 確かに、日常の実感としては、肉体が自分でしょう。 しかし、哲学的に思考すると、臨死体験者の報告からすると、自分とは肉体とは別の存在だという状況証拠があります。大林宣彦監督の映画「転校生」(原作:山中恒『おれがあいつであいつがおれで』(角川文庫刊))をなんの違和感もなく見ている人がほとんどなのではないでしょうか? つまり、私たちは、日常の実感としての体とは別の自分というものの存在を無意識のうちに感じているのです。 中村天風は、自分をこう捉えていたそうです。------- 引用開始 心と身体というのは、本当の自分が動かしている道具なのだという。そして、万一体に弾が当たったとしても、本当の自分ではないから何も怖くはない。というのが、天風の達観であった。(松本幸夫「中村天風に学ぶ」(総合法令)P30)------- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 4, 2007
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たとえば、携帯電話の機能の操作を知らないでまごまごしていたら、誰かが「それできないの?」と言ったとします。 あなたには、「そんな簡単なこともできないのか、ダメだなあ」と責められているように聞こえるかもしれません。 この場合、相手の気持ちは、あなたの過去の未消化の感情を伴った出来事を無意識のうちに心の奥に抑圧した倉庫から引っ張り出してきてそのときの相手の責める気持ちを投影したものです。 もちろん、経験的に表情や言い方からある程度推測することはできますが、それは100%ではないのに、100%に感じてしまうでしょう? また、相手の気持ちを相手の性格、言葉遣い、抑揚、表情などから推測して責めていると判断する(感じるではなく)ことはできます。 感じているときは投影です。単に判断しているときは、いやな感情は湧き上がりません。 それが推測と投影の違いです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 3, 2007
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以前のブログに質問のコメントをいただきました。これまでの行動動機は怖れであって、これからは愛、したいこと(自分の内から沸きあがる創造性)である、というブログです。>> 他人の評価はその人の考えであって、>> 自分の価値とは直接は関係ないということを腑に落とすと>> 恐れから行動しないで済むようになります。>>どうすれば、より腑に落とすことが出来ますでしょうか? 人間の多くの行動は、考えてやっていないんですね。 たとえば、歩き方。あまり雪が降らない地域に雪が降ると、雪道を歩いて転ぶ人が増えるので、その映像がニュースになりますよね。 転びやすいのは、靴底が違うというのもありますが、同じ靴底でも、やっぱり雪道を知らない人は転びやすいのです。 実は、雪国の人は、滑る道を歩く時は歩き方を変えます。 通常は、かかとから足を着きますが、雪道では、平らに靴底全部を同時に着くかんじで歩くのです。 どちらも無意識でそうやっています。長年の経験から、そういうパターン、癖が身につくのですね。 私たちは、そのように過去の体験から学んだことを無意識に繰り返しています。 こんな言葉があります。------- 引用開始心が変われば 態度が変わる態度が変われば 習慣が変わる習慣が変われば 人格が変わる人格が変われば 人生が変わる(永田兼一『愛からの贈り物』P3より スイスの哲学者ミハエルの詩) ------- 引用終了 怖れとは、自分の存在価値が否定されることへの怖れです。だから、他人の評価が気になるのです。 私たちは体験から学んで成長していきます。愛に包まれた体験が少ないと、過去の条件付の愛の体験から感情的に未解消の感情と体験が心の底にコンプレックスとして残ります。 それを基準として行動してます。共依存が機能不全家族の中での体験によって作られているのと同じことです。 一番、早いのが、コンプレックスを解消すること。たとえば、退行催眠により治療などがあります。 なかなかそれは難しいので、時間はかかりますが、今無意識でやっている 自分が共依存で行動している、 コントロールドラマをしている、 防衛機制をしている、ということを意識的にわかるように知識をつけることです。 共依存、機能不全家族などを知ると自分が他者の評価を気にするようになった理由がわかり、それほど他者の評価を気にする必要がないことが知識としてわかるはずです。 今まで無意識に行動していたこと、たとえば、自分を責める人に無意識で反発したりしていたことをそうのうな知識をつけることで見えるようにします。『あっ、今防衛機制でごまかそうとした』『あっ、コントロールドラマで、感情的に対応した』とわかるようになると、行動、態度を変えられます。それを繰り返すと、それが習慣になります。習慣になるときには、基本的な考えも変わっています。 習慣になると人格が変わって、周りの評価も変わってくるので、自分の変化に客観的に気づくことができ、うれしくなったり、やる気がおきます。 そうやって、良い循環が回り始め、人生が良い方向に変わっていきます。 これは、メールレクチャーを続けている方たち全員に共通の意見です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 2, 2007
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ブログ 天風哲学で知られている中村天風が、当時、死の病であった結核にかかりました。天風は治すために世界中を巡り歩き、できることはすべてやったのに治すことはできませんでした。 そんなとき、カイロのホテルのレストランでインドの聖人カリアッパ師に出会いました。「まだやっていないことがあるよ。どうだい、私と一緒に来るか」と言われたとき、間髪をいれずに「まいります」と答えていました。 師と一緒に師の住むゴーグ村に着いて何ヶ月も経つのにいっこうにその大切なことを教えてくれる気配がない。------- 引用開始 そこで、天風はカリアッパ師に直訴してみることにした。「いつになったら、カイロで話をしていたことを教えてもらえるのでしょう」 ところが、カリアッパ師の答えは意外なものであった。「私の方は、いつでも教える準備はできている」というのである。そこで天風はいう。「私も、一刻も早く教わりたいと思っていました。もちろん、教わる準備態勢は整っています」 ところが、またもカリアッパ師は意外だというように続ける。「お前には教わる準備などできていない。いつになったら受け入れ準備ができるのかと思い続けていた」というのだ。(松本幸夫著「中村天風に学ぶ」P57)------- 引用終了 さて、いったいどういう意味なのでしょう。 通常、教えを受けるときは、これまで学んだ知識を総動員して新しい教えを理解しようとすることが教わる準備態勢を整えると言うことです。しかし、今、カリアッパ師が教えようとしているのは、悟りなのです。 このブログでも何度も語っていますが、悟りは、パラダイムシフトした意識です。 正しさの基準が違うのです。 悟りの教えをこれまでの知識で理解しようとすると、これまでのパラダイムによって正しいかどうかを判断して正しかったら受け入れようとしますから、パラダイムシフトした知識は、受け入れられないのです。 そこでカリアッパ師は、こんなたとえ話をします。------- 引用開始突然、カリアッパ師は天風に命じた。「器に水をいっぱい注いで持って来なさい」 不服だったが、とくにかくいわれるままに水を満たした器を持って来た。「よろしい。次は湯をいっぱいにして持って来なさい」 水と湯のいっぱいに入った器が目の前にあった。ややあって、おもむろにカリアッパ師が口を開いた。「その湯を水の上から注ぎなさい」 そんなことをしたら、器の水も湯もこぼれ出てしまう。天風は、カリアッパ師にそのことを告げた。「ほう、わかるのか」 静かに天風の目を見つめた師は、ゆっくりとさとすようにいった。「お前が、自分の器の水を、いつ捨ててくるのかとまっていたんだよ。ところが、お前は今までの理屈、知識を捨ててこない。そこに私の湯、教えを注いだとしても、こぼれてしまうんだよ」(松本幸夫著「中村天風に学ぶ」P58P59)------- 引用終了 ヒカリズムから真理を学ぼうとまじめに読んでくださる人がたくさんいます。 でも、多くの人が、「すばらしい教えをありがとうございます」と言いながら、「でも、この部分は正しくない、受け入れられない、ゆずれない」と言うのです。 悟りで、「一度、死ななければ悟れない」というとき、死ぬ自分とは、「自分の持っている(囚われた)正しさのこと」です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Aug 1, 2007
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