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想いを形にするということは、とてもすばらしくて、大切なことだと思います。 以前にテレビで「イタリア男性が女性をほめるのは、あいさつのようなも」という話を聞いたことがあります。 これを聞いたときに、『すばらしい習慣だ、ほめるっていいことだよな』と思いました。 いくら素敵だと心の中で思っても、相手には伝わらないですよね。 別に女性に限らず、ほとんどの人はほめられたらうれしく思うものです。 それ以来、できるだけほめたいと思ったときには、そのことを口に出すようにしています。(もちろん相手は女性に限りません) でも、心にもないことを言われても『何か下心があるのかな?』と、逆に不信感を抱かれちゃうかもしれませんから、お世辞は言わないようにしています。 誉めることが良いことだからといって、無理にほめようとはしていないんです。 『本当に素敵だと思ったら、素直に口に出す』それだけなんです。 つまり、自然にしているだけです。 多くの人は、共依存のために他者中心になってしまっていて、他者の評価を気にしているので『こんなことを言ったら、相手になんて思われるだろう?』と相手の気持ちを心配して、思ったことを言えなかったりします。 それは言葉だけではなく、ちょっとした親切なでにもいえることです。 たとえば、電車で席を譲ったり、知らないことを教えてあげたり、というようなことでも、自分では善いことだと思っているのに、相手からどう思われるかとか、相手の反応を心配して行動できなかったりします。 それは、相手から悪い評価を受けることを怖れているからです。 相手があなたのことをどう思うかは、相手の問題です。 相手の評価を気にしなければ、あなたは自分の思ったとおりに行動できます。 これが自分中心ということです。 他人の評価を気にしないと自然に思考は愛になっていきます。 ニューエイジや精神世界には、「私たちの本質は意識(生まれ変わる魂)であってこの物質世界には、肉体を含む物質が゛なくては体験できないことを体験し、それをきっかけに成長するためにやってきたのだ」という考えがあります。 これが真実かどうかはわかりませんが、私たちがあたまの中でどんなに善いことを考えても行動で形にしなければ、ある意味、何もなかったのと同じことですよね。 それがどんなことであっても、自分の考えを行動に移し形にすることで自分というものがみの物質世界に創造されていく、とも言えます。 本当に自分がしたいことをする、ということは自分を生きるということであり、この世界に自分を創造することなのです。 自分に自信がないと他人の評価を気にしてしまいます。 人が評価をするとき、結果を重視する傾向があるので、他人なの評価を気にする人は結果がどうなるかを行動するかどうかの基準にしがちです。 しかし、自分を生きようとするのなら、自分がしたいかどうかを基準にすることが大切です。 もし、『これは良い(善い)ことだ』と思ったことを素直に行動に移す人が増えたら、世界はどんなにすばらしいものになるでしょうか? 良い(善い)ことと言っても、特別なことである必要はありません。 臨死体験をした女性が書いた本に、こんな話があります。光の存在から見せられたビジョンだそうです。---引用開始----------------『わたしが傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖はドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻っていきます。最後のドミノは加害者であるわたしだったのです。ドミノの波は向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで思わぬ人をわたしは苦しめていました。わたしの心の痛みが耐えられぬほど大きくなっていきました。』『さっきの波及効果の裏返しの面を見せて下さいました。そこには、なにか善いことをしているわたしの姿がありました。善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、それがドミノの波となって外へと広がっていきました。わたしがやさしくしてあげたその友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、こんなふうに連鎖が続いていくのです。まわりの人の人生は、愛と幸せが増すばかりです。こうなったのも、わたしのちょっとした行ないがあったからです。みんなは、ますます幸せになっていきました。幸せになったおかけで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。わたしの心の痛みは、喜びにかわりました。』(ベティ・J.イーディ 「死んで私が体験したこと」から)---引用終了---------------- こんなことが本当にあるかどうかは証明できません。 でも、自分の体験から言えることがあります。 自分が善いことだと思ったことを行動に移したとき、とっても気持ちが良いということです。(^^) これ以上の見返りが必要でしょうか? 自分の善い思いを行動に移す、形にする。ただそれだけのことです。 誰かに結果を評価してもらう必要はないのですから、ほんのちょっとしたことでもいいのだし、うまくいかなくたっていいのです。 イタリアの男性のように気軽に『善いことをされて嫌だと思う人はまずいない』ということをあなたの基本的な考えにまず取り入れてください。 そうすれば気軽になれます。 そして、ただ、善いことをしたいと思ったら、自然にそれを行動に移す。 この繰り返しが、本当のあなた、そしてあなたの人生を創っていきます。 スイスの心理学者のこんな言葉があります。 心が変われば 行動が変わる 行動が変われば 習慣が変わる 習慣が変われば 人格が変わる 人格が変われば 運命が変わる あなたが恥ずかしさより、自分がしたいことをする気持ち良さを選択すると決めたら、あなたの人生が変わり始めるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 28, 2007
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もし、その人がまだ足りないと思っていたら(不足感を抱いていたら)、その人はそれを与えることができません。 人はゆたかであれば、心から与えることができるのです。 この考えを聞いて「私は与えたいから、お金持ちになる」と言った人がいました。 それは、決して間違ってはいません。 でも、本当のゆたかさを外しています。 たとえば、ケチな老人スクルージが三人の精霊「過去のクリスマスの霊」、「現在のクリスマスの霊」、「未来のクリスマスの霊」と出会うことで改心した有名なお話はみなさん知ってますよね?チャールズ・ディケンズの有名なこの小説『クリスマス・キャロル』(原題:A Christmas Carol)の主人公であるエベニーザ・スクルージはお金持ちだったけど、冷酷無慈悲、エゴイストですごい守銭奴、ケチでした。 お金持ちなのに、ゆたかさを感じていないのです。 つまり、必ずしも、お金持ち=ゆたかな心ではないのです。 どんなにお金があっても、『まだ足りない』と感じている人はたくさんいるのです。 一方で、これもまた有名なオー・ヘンリーの短編小説、『賢者の贈り物』(原題:,The Gift of Magi)の中では、最初は貧しさを感じていた夫婦が、物質とは違うゆたかさを体験し、ゆたかさの中でクリスマスの夜を過ごします。 どちらもすばらしいお話ですが、通常の理解では、博愛や相手への思いやりが正しいのだ、という解釈になりがちです。 たしかに、それは間違っていませんが、やはり、それでは自分の外側の正しさを創りかねません。 簡単にいえば、どちらも考え方が変わっています。 最初にあった『不足している』という思いがなくなっているのです。 実は、一番大切なのはこの部分なのです。 この『不足している』という思いがなくならない限り、頭、理屈で対応しようとしてもムリなのです。 実は、ここにはスイス生まれの女性精神科医 エリザベス・キューブラー・ロス博士が『死に至る5段階』と呼んだ精神状態があります。ロス博士は死に至る患者の精神状態がは以下の5段階を経ることを明らかにしました。 そして、これは、受け容れがたい否定的な出来事、状況すべてにおいて私たちがたどる段階なのです。 その人の意識が、この段階の途中にあるときは、常に不足感を感じ、満たされることはないのです。 第五段階の受容をすることで初めて満たされた思いを手にすることができるのです。第1段階 : 否認と孤立(Denial and Isolation)この段階では、まずなんとか事実を否定しようとします。第2段階 : 怒り(Anger) 事実を否定しきれず、認めざるを得ないと怒りの段階になり、その怒りを周りにもぶつけます。第3段階 : 取引(Bargaining)この段階では神(など)と取引をしようとします。第4段階 : 抑うつ(Depression)打つ手がなくなり、抑うつ状態に陥ります。第5段階 : 受容(Acceptance)最後に、現状を受け容れます。 この段階で、初めて不足感を手放すのです。 さらに、ここからがヒカリズムの真髄です。(笑) 「不足感を手放す」というと、不足感というもの、それ自体を手放す、というようなイメージを持ちます。 しかし、感情というのは、結果なのです。 日が照っているときにできる影自体を消すことができないのと同じです。 影は日差しの結果なので、影を消すには、日差しを無くしますよね。 それと同じで、不足感を生じさせている『~であるべき』という思いを手放すのです。 それが不足感を手放す方法なのです。 それまで持っていた『~であるべき』という考えを手放した瞬間に、あなたにゆたかさが訪れるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 27, 2007
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ヒカリズムでは、自分を基準にする自分中心主義を説いています。 ところが、自分中心というと、いわゆる自分勝手とか、ジコチューという概念を思い浮かべてしまいがちです。 この二つは、まったく違うものです。 私はヒカリズムについて、ずっとメルマガやサイトなどでお話し続けてきましたが、そこで学んできた方でもこの違いをパッと答えられる方は、あまりいないかもしれません。 ヒカリズムを学んでいるある方が、心理学のストロークについての講習会のようなものに出席されたとき、「ヒカリズムで学んだことと同じ部分がたくさんあり分りやすかったけれど、違う部分があってそこは違和感を感じた」とおっしゃっていました。 その違和感を感じ部分は「自分中心を卒業して社会人としての行動をとる、責任を持つ」という部分だったそうです。 これは一般的にはもっともな話でどこも間違っていないように思われます。 でもヒカリズム的には、これは二つの問題があります。 ひとつめは、『自分中心』という概念説明がおそらくなかったであろうということ。(これは、その言葉を使っている人でさえ、深い考えナシに使っているからです) ふたつめは、『社会人としての行動をとる、責任を持つ』ということを外部にある正しさとして説明している点です。共依存は、この社会的な要請が原因で引き起こされているのです。 まず、正のストロークと負のストロークが生じるためには、ストロークを投げる人、受ける人に共通する正しさが必要になります。 それが社会的な要請、社会の常識としての正しさなのです。 仮にこの講習を受けた人が『社会人としての行動をとる、責任を持つ』ということに同意し、自分の中にそのあるべきを『外部で決まっている正しさ』として取り入れた場合、この人がこの基準(正しさ)から外れたときに、この『社会人としての行動をとる、責任を持ちましょう』という言葉自体がその人に負のストロークとして作用することになってしまいます。 その人が選択した正しさの基準が外部にある限り、根本的に負のストロークはなくならないのです。 次に、自分中心という言葉は、実はわかるようで分らない言葉です。 それは、何を自分中心と判断しているのかの説明がないからです。 結論から言うと、たいてい表面的な損得、勝ち負けを基準にしています。 一方、ヒカリズム的に見ると、このジコチューな思考と行動は、怖れから出ていて、ヒカリズムの自分中心というのは、愛、満たされた思いから出ています。 つまり、ヒカリズム的には、怖れから出ているのがジコチューで愛、満たされた思いから出たものが自分中心ということになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 27, 2007
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福岡でまた中学2年生がいじめで自殺しました。とても残念なことです。 事件的には、ズボンを脱がそうと手や足を押さえつけたという暴力行為の疑いで、3人が書類送検されました。 でも日常的に「死ね」「うざい」などといじめられていらしいですね。 いじめをしていた子供もおそらくはいじめが悪いことだという認識はあるはずです。それなのになぜいじめをしたり、とめることができないのでしょう? こういう場合、いじめをした子供、それを教師や親など周りの大人がどう扱っていたかいじめら関するルールや制度がどうなっていか、たいていは、そういう表面的な話に終始します。 そういう表面的な現象はそれぞれの事件において違いがあるでしょうが、その根本にある心理は実はたったひとつのことなのです。 「あるがままの自分を認められない」このことが関係したすべての人に言えるのです。 A.W.シェフが「嗜癖する社会」(毎度のことながら、写真もない(^^;)の中で、シェフは、人の心の問題(~しないではいられないという嗜癖)は、社会のシステムの問題だと言っています。 嗜癖になる状態を臨床心理学では「共依存」と呼んでいます。社会生活に支障をきたすほどの状態は、共依存症としてカウンセリングなどの対象となりますが、社会は、その構成員すべての人にある程度の共依存であることを強いているのです。 簡単にいうと、自分がしたいと思わなくても、社会のルールを正しさと規定して、その正しさに従うことを強制しているのです。 その結果、自分が正しく生きているかどうかは、他者の評価で決められてしまうことになります。 それは、社会に適応するように育てられていく過程で常に「ありのままのあなたであってはいけない」というストロークを投げ続けられているということなのです。 その結果として、たとえば、『競争に勝つことが他者に認められることだ』とか『強いことが他者に認められることだ』という結論が一人歩きしだします。 勝つと誉められる、認められる、→快感 そうするうちに、中間の認められるを飛ばして、勝つにことそれ自体に快感を得るようになります。 いじめをすることは、その弱者に勝っているといことと認識してしまうのです。中間の認められるを飛ばしてしまった論理なので、本来の目的と違った状態でも機能し始めます。 いじめをしたら、他者から認められないのに、(いじめをしてでも)勝つことがよいと部分だけが一人歩きしてしまったのです。 その快感のためにいじめを止められないのです。 しかし、快感にも二種類あります。ひとつは、純粋に自分がしたいこをした快感、自分を生きている快感です。これは愛の快感です。もうひとつは、怖れが動機になっていて、その怖れから逃れるための快感です。 たとえば、誰かに殺されそうになって恐怖を感じる、やっと逃げ出してもう恐怖から解放されて安心という時に、『ほっ』とする、そういう気持ちに通じる快感です。 人から認められない怖れ、不安から勝っているときは解放されてしまうのです。 おそらく、そういう視点でいじめをした子供たちを調査すると親や教師などから認められていない不足感を感じてたということがわかると思います。 親が認めていたかどうかではありません。親がちゃんと認めていたとしても、子供が自分は親から認められていないと感じていたらそれは認められることに不足感を感じているということです。 たとえば、ある子供が勉強がとてもよくできる。でも、絵を描くのが好きでそっち方面の仕事をしたいと思っていたとします。 親は、「おまえはとても勉強ができるのだから、絵の仕事のようなあてになられないものではなくその学力を活かして弁護士になったほうがいいよ」と言ったとします。 親は、子供が勉強ができることを誉め、認めていますから、子供のことを認めているように感じているかもしれませんが、子供のほうでは、自分らしく生きていると感じる絵を否定されているのですから、認められていないと感じてしまう、というようなこともあるわけです。 もし、親が子供のあるがままを受け容れる子育てをしていれば、不足感のない子供に育ちます。 満足している人は、誰かをいじめたいとは思いません。 非常に単純な話ですが、不足感を埋め合わせる代償行為がいじめなのです。 では、単純に子供のありのままを受け容れればいいか、というとことはそう単純ではありません。◆ こんな話があります。ある母親が幼い子供をつれて子育ての専門家に会って質問をしました。「この子をどのように育てたらいいでしょうか?」するとその専門家はいいました。「もう手遅れです」驚いて母親は質問します。「でも、この子はまだ三歳にもなっていません」専門家は答えて言います。「その子を愛ある子供に育てたかったら、あなたの親から育て直さなくてはいけない」 これは、共依存のことを知っていたら納得できる話です。共依存の特徴に「共依存の連鎖」というものがあります。親から子供に共依存が連鎖していくのです。 遺伝とは違います。そもそも共依存は育てる過程でなっているのですから、育てること、育て方、それ自体に問題があるのです。 その幼い子供を愛ある子供に育てるには、まず親が愛(あるがままを認められる状態)で育てなければいない、そのためには、母親の親が母親を愛で育てることが必要だった、というわけです。 これは実際のところ、どこまでも上にさかのぼってしまうので、自分の子供を育てるのに遅すぎるということはありません。 たった今から、共依存、コントロールドラマ、防衛機制などを勉強し、愛を前提にして自分が生きるようにすれば、子供はそれを見て愛ある子供に育っていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 20, 2007
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コントロールドラマで言えば、脅迫者タイプの人。 怒って相手を威圧しないではいられない人というのは、自分の弱さを自分で認められない人が、自分の弱さを無意識にごまかすために強がっているのだと言えます。 チンピラやくざの方が強がっているというのがありますよね。 武道の達人も一見、温和で弱そうだったりするということがありますよね。たしか、極真会館の大山倍達も香港だったかで、中国拳法をやる陳?老師と闘ったとき、闘う前は、簡単に勝てると思えるほど弱そうだったのに、立ち会ってみると、『負けはしないが勝つこともできない』と感じたというようなことが本に載っていました。 ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・シリンシォーネ 共著 石井朝子 訳『やすらぎ療法(セラピー)』春秋社刊の中にはあなたのまわりに「攻撃的な人」がいますか?「いる」と感じたら、その人について、今までとは違う見方を覚えてください。まずわかって欲しいのは、感情には愛と恐れの二つしかないということです。このことを知っていれば、攻撃的な人とはビクビク恐れている人であり、愛への助けを求めている人だと見ることができます。(P70)とあります。 武道の達人のように本当に強かったら、いざとなったら勝てるのですから、強がって見せる必要がないんです。 勝つことを知っていますから、闘う必要もないんです。 ここまでは、勝ち負けのパラダイムの話です。 もし、『勝ち負けなどどうでもいいことだ』というパラダイムを持つと闘ったら負けるとしてもどうでもいいことだから強がって見せる必要がないんです。 どうでもいいことだから、闘う必要もないんです。 その境地になると「攻撃的な人とはビクビク恐れている人であり、愛への助けを求めている人だと見ることができます」というのが、勝ち負けでしか自分の価値を感じられない人で、勝たなくては自分の存在価値がなくなるということを恐れている人であり、『あるがままの自分を認めて受け容れて欲しい』という声にならない悲鳴をあげている人だとわかるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 19, 2007
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好きな男性に献身的に尽くしてくれる女性がいますよね。(もちろん、逆に好きな女性に献身的に尽くす男性もいます) 『こんなに尽くしてくれるんだから私は愛されている』と思うでしょうが、それは、恋愛の愛としては、確かに愛されていると言えるのですが、無条件の愛ということで考えると、愛ではなく、取引だといえます。 実は、このような人は、共依存度が高く、自分の存在価値に自信がないために、相手に尽くすことで必要とされたいのです。相手に必要とされることで自分の価値を確認したいという思いから、尽くさずにはいられないのです。 このような人が、 「ほんとに私がいないとあなたはダメなんだから~」というようなことを言うのは、自分の価値を相手に認めさせて、自分の価値を確認したいからなんです。 相手が「おまえがいてくれてほんとに助かる」とか「愛している」と言って欲しいがために、尽くさずにいられないのです。 そして、間違わないで欲しいのは、本人はそのことに気づいていないのです。別に計算ずくで尽くしているのではないのです。 無意識に、漠然とした怖れ、不安からついつい尽くしてしまうのです。 こういう人は、自分が嫌でも「ノー(いや)」と言えない人であることも多いですよね。 そこには相手から必要とされたい、嫌われたくない、という思い、怖れがあるのです。 怖れからの行動なんですね。 ですから、尽くしているのにフラれたりすると「あんなに尽くしてきたのに!」と言ったりしますよね。 無償で尽くしているから、無償の愛だと思う人もいますが、実は、見返りを求めた取引なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 17, 2007
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「幸せになる人は言葉遣いが違うから、そのまねをしましょう」 というようなことを言う人がいます。 一番ポピュラーなのは、「ありがとう」でしょうか。 たとえば、誰かがアドバイスをしてくれたことをすでに知っていたとします。 ある人は、内容が何であれ、気にかけてアドバイスしてくれたことに感謝して「ありがとう」というかもしれません。ある人は、「ありがとう、でもそれはもう知っているよ」というかもしれません。ある人は、「それはもう知っているよ」というかもしれません。ある人は、「うっせえな!そのくらいのことはとっくに知っているんだよ」というかもしれません。 自分が知っていることを相手に言わずにはいられないとしたら、それは『相手に負けてはならない』という思いが心のどこかにあるからでしょう。 そういう気持ちを押さえ込んで、表面的に「ありがとう」と言っても、その言葉には魂がこもっていません。 言葉は、その人が根底に持っている考えの結果として表面化しただけのものです。 一番、大切なのは、なんと言うかではなくその言葉を言わずにはいられない考えの方にあります。 変える必要があるのは、その考えのほうなのです。 コンピュータで言えば、「ありがとう」が自然に出てくるプログラムに書き換えるということです。 それが観念の書き換えです。 ですから、『幸せになる人は言葉遣いが違うから、そのまねをしよう』とおもっいたった人は、なぜ、自分は別の言葉を言ってしまうのか? そこにはどんな考えがあるのか?そこにはどんな恐れがあるか?を問うてみてください。 たとえば、「やってみます」 と「やります」どこが違うでしょうか?「やってみます」には、『できないかもしれない』という思いが見え隠れし、自信のなさを感じさせ、失敗したときの言い訳をする余地を残しています。「やります」には、断固たる決意が現れています。やればできるという確信をもっています。(実際にはできないかもしれなくても、その時点では、できると確信している) 大切なのは、その心の奥にある自信、考えなんです。 そういう心の奥にある考えを見つけ出したら、その考えがあなたにとって不要なものであれば、勇気をもって手放しましょう。そして、自然に「ありがとう」が出てくるあなたにとって役立つ考えを選択しましょう。 蛇足ですが、人は、フリをしているうちにそれになりきってしまう、という部分もあるので、言葉を真似することにも効果があるのです。 考えを変えるというポイントを押さえた上で、意識してよい言葉を使うことでより効率がよくなるはずです。 興味のある人は、ぜひ、ポイントを押さえて実践してみてください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 17, 2007
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今でこそ、ほかの人のコントロールドラマが見える私ですが、以前の私は父親と同様に自分の失敗を認めらずに言い訳をしたり、ほかの人のせいにしようとしたりしていました。 ですから、よく父親と言い争いのケンカをしていました。 コントロールドラマには、パターンがあり人により違います。大きく「脅迫者」「尋問者」「傍観者」「被害者」という4つにわける考え方があります。 たいていの場合、このうちのどれかひとつにぴったり当てはまるというより、どれも当てはまってもよく陥るパターン、主たるパターンがある、というような感じです。 私の場合は、尋問者です。 親を見て子は育つといいますが、親のパターンを引き継いだり、親のパターンの相方のパターンになったりします。 以前、私が車を運転していて道を間違えたとき、父親が「そっちじゃないだろ」と言ったことがあります。 私は責められたように感じて「話し掛けるから間違えたんだ」と言い訳し、父親のせいにしようとしたのです。 まったく父親と同じパターンですよね。(^^; こういうふうに親の影響を受けて、親と同じ程度の共依存になっていくことを共依存の連鎖といいます。 けっして遺伝とかではありませんから、自分が決心さえすれば、変えていくことができます。 私もDVになるほどの共依存でしたが、自力で回復することができました。 ありのままの自分を認め、『変わるんだ』と決心したら、誰にでもできます。 共依存からの回復、そして、そこからさらに進んで悟りを開く、誰にでもできることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 16, 2007
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先日、沖縄は石垣島沖で初めてスクーバ・ダイビング(スキューバー・ダイビング)をしてきました。 息継ぎがうまくできず、まともに泳げない私でもできました!(^^) 最初は、ボンベをしょって息ができるから、けっこうラクだろうと思っていました。 とは、言っても、そこはスノーケリング(シュノーケリング)もしたことがない『ちょー初心者』(^^;まずはスノーケルでマウスピースを使って口だけで呼吸する練習です。 ボートから降りて海に入り、浮きにつかまって顔を水中につけて呼吸の練習、そこまではラクラクです。・・・ところが、顔を水につけると、沖縄の澄んだ水ですから、約5メートルしたの海底まではっきり見えるのです。 そのとたん、おぼれる恐怖が湧いてきて心臓バクバク、ドッキンドッキンして身体がガチガチになってしまったのです。 『わーーー、もうだめ(>_
Feb 16, 2007
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今朝、妻から「トイレの洗剤が空になりかけていたから、詰め替えようとしたら、なくなっているんだけど捨てた?」と聞かれました。 私は捨てていなかったので、片付け魔の父親のところに訊きに行ったら「空だったから捨てた、なんだ、いるのか、後で出しておく」と言った後、渋谷バラバラ殺人事件の三橋歌織容疑者のように気持ちが収まらなかったのか「あれはオレが買ったんだ」と感情的な大声で本題と無関係な言い訳をしだしたのです。 本人にしてみれば、必要なものを捨てたということを私に責められているというような感覚になり、『捨ててなぜ悪い』『自分が買ったものだから、自分には捨てる権利がある』という正当な反論のつもりなのでしょう。 しかし、私は捨てたことが悪いと責めたわけではなく、詰め替えようとしたらなくなっていたから「どこへ行ったか知っている?」と訊いただけなのですから、そこに責めているという事実はありません。 その『責め』は私が言ったことではなく、自分が思考の中で創り上げたことなのです。 完ぺき主義者にとっては、いつも『失敗できない、失敗を他人から責められてはいけない』という怖れがありますから、失敗をした自分を自分で許せない、自分がダメな人間に思えるのです。 でも、ダメに思えても、そんなダメな自分を絶対に認めることはできない、自分はダメだと思いたくない。 だから、何とか反論しなければならないと感情的に感じてしまうのです。感情的ですから、論理性があるかどうかの検証はされません。 感情的に負けてはならない敵が見えるのです。 捨てたことを訊きにきた私が責めているせいに感じられて、『負けてはいられない』と、コントロールドラマを始めたのがとてもよく見えました。 こちらは、コントロールドラマにのらなかったのですが「オレだってトイレ掃除しているんだ」とか、「おまえたちがちゃんとしないから悪い」だとかだんだん論理的にもめちゃくちゃになっていきました。 こんなことは、皆さん自身やみなさんの周りにもあるのではないですか? 自分の心の奥底に「自分を責める気持ち」や「ありのままの自分を認められない気持ち」があると、他者からの声が相手の意思にかかわらず批判に聞こえやすくなってしまいます。 まず、ありのままの自分を認めてあげること、ありのままの自分であっていいのだと信じられること、それが大切なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 15, 2007
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「そんなことしたって意味がない」「いや、意味があるよ」 そんなやりとりがされることがあります。 言い争っている二人が同じ目的に向かっている場合は、話し合いで結論がでる可能性が高いです。 多くの人は、「それ自体に最初から意味が存在している」という思い込みを持っています。 しかし、論理的に考えてみるとどんなものにしろ、どんな状態、どんな状況にしろ、すべては、意味的に白紙状態なのです。それ自体が最初からなんらかの意味を持っているということは絶対にないのです。 それを自分の意識の中に取り込むとき、その人がそれに意味を与えているのです。 たとえば、「晴れ」という状態のとき、よく「良いお天気ですね」という言い方をします。「良い」という意味を与えています。 しかし、日照りで水不足で苦労している人や、この温暖な気候で晴れが続いて雪が降らない状況のスキー場とかの人は、「困った」という意味を与えることでしょう。 これは、人に固有のものではなく、その人のその時点の目的や欲求に対して相対的に意味が生まれるのです。 意味は、意志のあるところにしか存在しないのです。 自由意志から生まれた欲求が意味を生じさせるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 14, 2007
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悟りというと、何か特別のことができるようになることで、そのためにはつらい修行が必要で普通の人にはとうてい達成できない境地、と思っている人も多いと思います。 たしかに、そういう一面もあります。 今の考え方を直線的に上に伸ばしても悟りの境地には達しません。 それは、自動車でローギアのままアクセルを踏み込むようなものです。 確かにある程度、スピードは上がりますが、通常はある程度でギアをシフトしますよね。 それと同じように、悟りでも、今の考えをそのまま押し進めるのではなく、考えを切り替えるシフトアップが必要です。 常識のパラダイムシフトが必要なのです。 今の考えのまま悟ろうとしている限り、悟りはとても難しいものになります、というより、不可能です。 でも、自分の考え、実は、それは今自分が選択している正しさなのですが、その正しさを手放して、今までは間違ったことと思ってたことも正しいと認める考えを持つ勇気があれば、悟りはとても簡単なものになります。 凡夫(普通の人)は普通に生きています。 覚者は、普通ではなく自然に生きているのです。 このような抽象的な説明ではわかりにくいので、たとえ話をしましょう。 今、店先に並ぶきゅうりは、たいてい真っ直ぐなものです。 きゅうりを自然に作れば、たいてい曲がってしまいます。 しかし、それでは市場から認められないので、型にはめてまっすぐなきゅうりにするわけです。 まっすぐのほうがいい、まっすくが正しいと言うわけです。 実は、人もまったく同じで、社会が要求する正しさの枠にはまっていることが正しい、というのが常識になっていて、その正しさに当てはまっているのが普通の人なのです。 朝昼晩と一日三回毎日食事をする、これは自然でしょうか、普通でしょうか? たいていの人は、そのような常識的なことを自然か普通か、などと区別して考えることをしないでしょう。 でも、ちょっと考えてみるとイスラム世界では、ラマダン【Ramadan】には、断食するのが普通です。 つまり、普通というのは、地域や、文化や、時代の中で変化するものであり、人間が意図的に作ったものなのです。 一方、お腹が空いたら食べる、眠くなったら眠る、というのは自然なことです。 禅の言葉をそういう視点で見てみるときわめて当たり前のこと、自然なことをするように言っているだけなのです。 しかし、自然と普通の区別があるとういう視点で見ていないので、「お腹が空いたら食べる?眠くなったら眠る?そんなの当たり前じゃん、普通じゃん、バッカじゃないの!」とその奥深さに気づけないでいるのです。 仕事が忙しいから眠っている暇がない、朝、時間が無いから食べないで仕事に行く、そんなことを当たり前のようにしている人もいますよね。 あなたは、自然を当たり前にして生きているのじゃなく、普通を当たり前にして生きていませんか? 誰かが作った社会の常識というに従って枠にはまって生きているのが普通の人、同じような生き方をしているように見えても、自分がそうしたいから、そうしているのが悟った人なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 11, 2007
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♪I love you~ から始まる尾崎豊さんの名曲「I LOVE YOU」は、とても素敵な曲ですからご存知の方も多いと思います。 この曲の二番に「♪何度も愛してるって聞くおまえはこの愛なしでは生きてさえゆけないと」という歌詞があります。 『愛』という言葉は、暖かさを感じることもある反面、この曲の中の愛のようにつらさを感じさせることもありますよね。 それは、無条件の愛か、条件付の愛か、という違いなのです。 条件付の愛の関係は、臨床心理学的に「共依存」として知られている関係になってしまうことが往々にしてあります。 この歌のように、「相手から愛される、求められること」で自分の存在価値を感じようとしてしまうのです。 まさにこの歌詞は、そういう状態を端的に表現しているといえるでしょう。 何度も「愛してる?」って聞くのは、自分の存在意義、存在価値の不安を根底に抱き、相手から愛されていることでようやく安心を得ている、ということです。 相手に何度も確かめて、自分の存在価値を確認しないと不安でどうしようもないのです。 この歌の場合は、元々共依存の程度が強い二人が恋愛をしたのでしょう。 お互いに愛されることで自分の存在価値を感じ、つかの間の安心を得る関係にぬくもりを感じている状態ですよね。 自分の存在意義は、相手が愛してくれているかにかかっている、相手から愛されることに自分の存在価値を依存している、ということです。 そのように、愛という言葉には、まったく逆のふたつの概念があるということを知って欲しいと思います。 もし、あなたが愛につらさを感じているとしたら、その愛は、愛ではなく、共依存という状態なのです。(もちろん、一般的な恋愛の愛(条件付の愛)ではあります) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 10, 2007
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愛の反対の概念は何でしょうか?「あなたを愛している」「あなたを嫌いになった」 「愛」の反対は「嫌い」だと思うかもしれません。「あなたを愛している」「あなたを憎む」 「愛」の反対は「憎む」だと思うかもしれません。恋愛の愛(条件付の愛)であれば、そうなるでしょう。 しかし、無条件の愛は、ありのままの存在を認めること。 ですから、その場合、反対は、「存在を認めないこと」、つまり、反対語は「無視」「無関心」となります。 マザーテレサも、「愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです。憎む対象にすらならない無関心なのです」 と言っています。 共依存になり、存在意義不安症になると、他者から認められようとします。 嫌われても、憎まれてもその存在は認められています。 でも、無関心になり無視される、ということはその存在を認められないことなのです。 ですから、いじめられても存在を認められるほうを選ぶ子供も出てきます。 いじめの場合、『なぜいじめられる子供が、いじめられたままでいるのか?』を考えるとき、そういう視点も考えることが必要でしょう。 愛というと、恋愛の愛、条件付の愛を思い浮かべる人が多いでしょうが、無条件の愛で愛するということは、無関心、無視の反対であり、ありのままの存在を認めることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 9, 2007
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したいことが、本当にしたいことであれ、しないではいられないことであれ、したいことは、その人の在り方を創造していきます。 こうありたい自分を創造するためには、本当にしたいことをすればいいのです。 『困っている人の手助けをしたい、仕えたい(スラムで奉仕したい)』とマザーテレサは思い、それを実践しました。そして、ノーベル平和賞を受賞に値する人になりました。 もっとも、マザーテレサは「私は皆さんが考えておられるようなノーベル平和賞の受賞者にはあたいしません。 でも、だれからも見捨てられ、愛に飢え、死に瀕している世界のもっとも貧しい人びとにかわって賞を受けました」と言っていますけどね。 もし、あなたが『彼・親・ほかの誰かに嫌われたくない』という怖れからその誰かの期待に応えずには、いられないとしたら、あなたはその人の操り人形としての自分を創造しているということになります。 『こう在りたい自分』をイメージしてください。 そして、そこに向けて一歩ずつ、したいことをしていきましょう。 それが本当にしたいことであれば、結果ではなく、そのプロセスそのものが、あなた自身の創造であり、あなたを生きることであり、あなた自身に喜びを与えてくれるはずです。 それが結果を期待する生き方ではなく、今を生きるということなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 7, 2007
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VOICEから出版されている「バシャール」という本には、『ゆたかさとは、自分がやりたいことを、やりたいときにできる才能」(バシャール2-P108)とあります。 多くの人が誤解するのが、この「自分がやりたいこと」の概念です。 今、現状の自分がやりたいこと、つまり、今の自分の欲求を基準に考えるので、愛をベースに思考、行動する悟った人の言う「やりたいこと」ではなく、怖れを動機に思考、行動する凡夫の「やりたいこと」、言い換えると、「共依存的に、やらずにはいられないこと」も概念に含めてしまうのです。 その結果、「みんながやりたいことをしたら、世の中がめちゃくちゃになってしまう」というような考えが出てきて、「やりたいことをやればいい」という考えを否定してしまうのです。 たとえば、渋谷バラバラ殺人事件の三橋歌織容疑者が動機を「慰謝料をもらうだけでは気持ちが収まらなかった」「殺したことで夫との争いに決着がついた」と語ったということですが、三橋歌織容疑者は、夫を殺したかったのではなく、いつまでも収まらない気持ちを収めるためには、夫を殺して、夫との争いに勝って決着をつけるしかなかった、収まらない気持ちを収めるために、そうしないではいられなかったということですよね。 三橋容疑者が夫を殺してこころがゆたかに感じられたと思いますか? もう少し分りやすいかもしれないたとえとして我が子に虐待をする母親が、一方で『こんなことをしてかわいそうだ』と思いつつ、虐待しないではいられない、虐待することで自分の収まらない気持ちを収めている、というようなことがあります。 我が子に虐待をするとき、母親がこころゆたかに感じているでしょうか? このような一見不可思議な心の動きを今、臨床心理学は共依存、コントロールドラマという形で解明しています。 そのような心のメカニズムがわかると、「したいこと」と「しないではいられないこと」は別物だということが見えてきます。 本当に純粋に「したいこと」をしているとき、ゆたかさを感じることができます。「しないではいられないこと」は、単に恐れからの逃避でしかないので、ゆたかさを感じられないし、場合によっては、貧しさを感じることもあることでしょう。 他者の評価ではなく、自分を生きることで、ゆたかさを体験できるのです。■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 6, 2007
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他の方の感想を読んだけど、元々この映画は東洋思想が下敷きにあるのはみなさんお分かりになると思いますが、でもこの映画の深さを読み取れている人はいないみたい。 盛永宗興(もりながそうこう)という禅僧がいます。この盛永老師の法話を集めた盛永宗興老師法話集「無生死の道」(柏樹社)という本があります。(残念ながら、楽天は底が浅くてこのイメージはありませんでした) さて、この本の中にユネスコの会合でお話をしたとき、その会長が「大きな会社を経営していると次々に決済しなければならない問題が起こって、そのため心の動揺をきたしてしまう。だから長い話ではなく、一言でこの動揺を無くする方法を教えてもらいたい」という都合のよい質問をされたということか載っております。(P108~109) これは、悟りを一言で説明せよ、ということですから、悟っていなければできないことです。 盛永老師のお答えは「自分の死骸に朝晩、線香を立てなさい」というものでした。 これだけではわかりにくいでしょうが、「枝葉の部分のいい加減なところに振り回されないで、もっと根本的な問題について英断を下すことができるのではないかと、そういう意味で、あなたの死骸に朝晩、線香を立てなさい」と言ったと説明されています。(P109~110) さて、これならわかった、と思う方は多いでしょう。 しかし、では、あなたは枝葉な部分と根本的な部分をどう区別するのか?問われると、おそらくすぐに答えられる人は少ないと思います。 つまり、これは言葉、文章は理解しても内容は理解できていない、腑に落ちていない、ということです。 リアルなイメージを構築できないその状態では、使えません。■私なら、「あなたはどんな動機で行動しているのか?」と問います。 行動動機は、「怖れ と 愛」という二つに分けて見ることができます。 それは「正しさ と 自分のしたいこと(望み)」と言い換えることができます。 この場合の「正しさ」とは、「社会の大多数の賛同を得た社会的に認められた誰かの望み」と言い換えることができます。 つまり、自分の望みではない。 ここで、『自分とは何か』という哲学的で深遠な問いの答えが必要なのですが、そこは省略すると枝葉な部分とは、「誰が望む正しさ」であり、根本部分とは、「自分のしたいこと(望み)」なのです。 社会的な正しさで私たちが行動するのは、それが自分のしたいことである(たまたま一致している)場合もありますが、社会的に村八分にされる怖れから、そうしないではいられない、嫌々選択させられている場合もあるはずです。 それは、幸せでないし、そういう怖れを動機で動いている人は、(自分の望みだけで選んでいるのではない)自分の選択が、社会的に正しいと認められるかどうかが不安なので、いつも動揺してしまうのです。 つまり、動揺しないためには、他者の決めた正しさに従うのをやめ、自分の心の中の正しさだけに従うことです。 わかりにくいと思いますので、たとえ話をしましょう。たとえば、革命を起こそうという選択は、社会的には悪です。しかし、自分の心の中の正しさに照らしてそれが適ったものならば、誰に恥じることなく、自信をもってその反社会的な選択ができるはずです。 事実、世の中はそうやって変化してきているのです。 世の中の歯車となってしまうか、自分というものをこの世の中に創造していくか、その心の安定感、充実感はまったく別物です。 さて、「マトリックスレボリューションズ」の中でスミスとネオが最終決戦をします。 スミスに倒され、決着が付いたかに見えても、ネオは何度も立ち上がってスミスに挑みます。あしたのジョーの一シーンを思い出しました。 普通なら、もう負けてギブアップして立ち上がれないはずの状況なのに、ネオは何度も立ち上がって挑んでくるのです。スミスにはそれが理解できません。 スミスはネオに問います。「お前は何のために何度も立ち上がるのだ?愛のためか?」(この愛は、条件付の愛、恋愛の愛) それに答えて、ネオは言います。「私がそれを選択したからだ」 実は、この選択というのが、「自分のしたいこと(望み)」なのです。 これが、名誉のためやザイオンのみんなのため、お金のため、などであれば、それは、「自分の命や今の苦しさと比較して勝る価値があるか?」という比較の問題になりますから、場合によっては、ギブアップすることもあるでしょう。 しかし、「自分のしたいこと(望み)」をしている、とは、つまり、自分の根本、自分の根源、自分自身を生きている、ということですから、それをやめることは、自分を生きることをやめる、ということになるのです。 スミスの「何のために闘うのだ?」という問いにネオは、「自分自身を生きるため」と答えているということになります。 禅では、つねにそういう問いをし、ネオのような答えを求めているのです。 ここで間違えていけないのは、禅的に見ると怖れから行動しているときのしたいことは、本当のしたいことではない、本当の自分ではない、ということです。 「お前は、自分を生きることをやめ、その外側の空っぽの身体だけを存続させる生き方で満足なのか?カオナシのように、誰かの正しさに合わせた誰かの操り人形のような自分の無い人生で時を無駄にしたいのか?」 映画「マトリックスレボリューションズ」では、「自分が選択したからだ」という短いセリフの中にそんな深遠な意味を込めているのです。 「マトリックス」シリーズには、そんな深遠な意味が他にも数多く込められています。 そのような見方で「マトリックス」シリーズを観るとまた違った楽しみ方ができると思います。 誰かの家でみんなで集まって「マトリックス」シリーズを観て、見終わった後に、そんな話をワイワイとする会なんか楽しそうだなあ(^^) 誰がそういう会を開いて私を呼んでくれない? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 4, 2007
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渋谷バラバラ殺人事件の三橋歌織容疑者が動機を「慰謝料をもらうだけでは気持ちが収まらなかった」「殺したことで夫との争いに決着がついた」という意味のことを語っているようです。 今回は、「殺したことで夫との争いに決着がついた」について。 社会に適応するようにしつけられていくうちにありのままの自分ではダメなんだという考えを持つようになります。 それには程度の差がありますが、その思いが強い人は、他者の評価で自分の価値が決まるという思いが強くなり、生きにくさを感じるようになります。 いつも誰かと比較して、その評価争いに勝たなければならないと心の奥、潜在意識で感じるようになります。 三橋容疑者もこの勝ち負けの罠に陥っていたと思われます。「殺したことで夫との争いに決着がついた」というのは、自分の価値を認めてくれない夫に対して、夫を殺すことで、自分の方が上なんだという思いを自分の中で持つことができて初めて収まらなかった気持ちに決着がつき、納得できたということなのではないでしょうか。もちろん、本人は顕在意識上では、自分が他者からの評価で自分の価値を決めている、とは思っていませんが、他者から高い評価をもらうと安心する、満足する逆だと不安になる、気持ちが落ち着かない、という状態になっていたのでしょう。 多くの人が、そういう視点で自分を振り返ってみるときっと思い当たることがあるのではないでしょうか? 槇原 敬之さんが作詞作曲し、フジTVのドラマ“僕の生きる道”のテーマソングとなり、SMAPが歌って大ヒットした「世界に一つだけの花」の歌詞の中に人間はどうしてこうも比べたがる?一人一人違うのに その中で一番になりたがる?という部分がありますが、その答えは、社会自体がその構成員にある程度の共依存であることを強いているので、社会に適応するように育てられるうちに程度の差はあれ、すべての人が共依存になってしまうからです。 他者と比べて勝つこと、他者に認められることで自分の存在価値を再確認し、安心できるという心を身に付けてしまっているからです。 そんな勝ち負けの人生は、たとえ勝っていてもいつか負けるのではないか、認められなくなるのではないかという不安を常に内包しています。 その結果、他者からの評価が下がる怖れを動機に思考し行動するようになってしまうのです。 共依存の程度が大きい人ほどその傾向が強くなります。 「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」は、その象徴と言えるでしょう。 相手に気に入ってもらえるものを提供し、いつのまにか自分のアイデンティティ(自分の顔)を無くし相手そのものになってしまう。(相手の望む操り人形になってしまう) そんな人生では、心の平安を得ることができません。 勝ち負けではなく、相手の期待に応えるのではなく、自分の花を咲かせる人生、自分を取り戻す人生、そんな生き方を取り戻しましょう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 3, 2007
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渋谷バラバラ殺人事件の三橋歌織容疑者が動機を「慰謝料をもらうだけでは気持ちが収まらなかった」「殺したことで夫との争いに決着がついた」という意味のことを語っているようです。 『なんとなく気持ちが収まらない』というのは、私たちもときどき経験することですよね。 実は、知らず知らずのうちにコントロール・ドラマを繰り広げています。それは自分に注目させることで価値を実感するという一種のゲームのようなものです。 私たちは、社会に適応するように育てられる過程で「ありのままのあなたではダメだ」というストローク(投げかけ)を何度も受けます。 その結果、ありのままの自分でいることに自信がもてなくなり、存在価値に対する不安を基本的に持つようになります。(ヒカリズムでは、存在価値不安症、または存在意義不安症と呼んでいます) もちろん、その程度には差があり、程度によって生きにくさが変わってきます。程度の強いものは、共依存、さらには境界例という名前を付けられる状態になります。 このような他者からの評価中心の生き方が強い人は、つねに、相手が自分を評価するようにコントロールしていないと不安で仕方がない、落ち着かないので、いつも他者にコントロール・ゲームをしかけています。そういう育ち方の中で「他者が認めることで自分の存在意義を実感する」という他者からの評価中心の生き方を身に付けていきます。 三橋歌織容疑者は、最初アルバイトの彼を養う形で一緒に暮らしていたようです。そのときは、当然彼は価値を認めてくれるので歌織容疑者の目には、彼は良い人に映ります。 ところが、彼が仕事で成功していくと立場が逆転してしまうので、不満が募っていったのだと推測できます。 彼が謝らないとか認めてくれないとか自分の親に対する態度が良くないとか、その根にある本当の思いは、『自分を認めて欲しい』だったのではないでしょうか。 共依存、コントロールドラマを知ることで、人間行動の裏に潜む動機が見えてくるようになり、その気になれば、そこから抜け出して自分中心のシンプルで楽な生き方ができるようになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 1, 2007
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