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二極化の世界を超えようとするとパラドックスのようなことにぶちあたります。 たとえば、頑張らないと頑張るこだわらないにこだわる気にしないことにしたのに、気にしているかどうかを気にするありのままの自分でいいと認めることができないことを認められない これがどういうことか、今考えています。(笑) そこで思い出したのが、和尚の「存在の詩」の中の言葉。「存在の詩」 どんなことかは、ここでは書かないので、ご自分で読んでみてください。 パラドックスの原因は、目的と目標の混同とあるがままを受け容れられないことかなたとえば、頑張ることそれ自体はいけないことではないのに、頑張りすぎると問題がでてくる 単純に「頑張るのは良くない」という漠然とした目標ではうまくいかないです。良い頑張りと悪い頑張りの区別が必要。 ありのままの自分を認められず、誰かに認められる自分をムリに作り上げようとするから、目標が目標でなく、そうなることを義務付けられた目的になってしまう。目標だけであれば、そこに向かう選択をしているだけで、もう実践中だけど、目的として結果が必要になると今の自分の価値を感じられなくなってしまう。それが完璧主義となり、頑張りすぎることになる。 目的は、幸せであること、苦しくなく楽しいこと、そういうところに目的を置くことが大切。 そのためには、まずありのままの自分を認めることが必要。 そのためには、過去の子供のときにかけられた呪縛を解くことが役立つ。AA(アルコホリック・アノニマス)などの自助団体が活用している12のステップがあります。1.私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。2.自分を越えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。3.私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。4.恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った。5.神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。6.こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。7.私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。8.私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。9.その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。10.自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。11.祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。12.これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。 まず、大切なのは、自分の現状を認めること自分の過去を認めること原因に関与した親などの人を許すこと これらが何をもたらすかというと自分が直すべきものを持っていると認めること 自分がもっていないものは、手放せないのです。 今の自分はダメだけどその原因は親だと親の責任にすると自分は責任がないことになり、自分ができることはなくなります。 親が謝らないうちは自分は変われない、と無意識に決めてしまうことになります。 自分の責任を認めることはとても大変なことです。 特に自己肯定感が弱くなっている共依存の人にとっては特に大変です。自分に責任があるとしたら、また自分の価値が下がったように感じられるからです。 他人の責任を背負っているのが自分だと思うと他人を責めることで優越感を味わえつらいことがむしろ半面では快感にさえなったりします。つまり、現状を変えたくないという気持ちが潜在意識に生じるのです。 この矛盾した状態に気づかないと自分を変えようとしても一歩も進まないことになってしまいます。 自分でごまかしている自分に気づくのはとても大変です。誰かの手を借りると早く進むことができます。(本日のブログは支離滅裂です(笑)) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 28, 2007
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私は生きていることのすばらしさとは、人とのふれあいがあることと感情があることだと思っています。 感情には、喜怒哀楽があり、悟った人は、悲しまないし、怒らないと思っている人もいるようです。 しかし、釈尊であっても悟った後も悲しみましたし、創作であっても阿弥陀の請願をした阿弥陀仏も憂えたからこそすべての人を救うことを誓ったのです。 悟った人が、凡夫と違うのは感情が無いのではなく、感情に振り回されないことなのです。 穏やかな心とは、無感情ではなく、味わった感情を手放すことができることです。 感情の奴隷ではなく感情の主人となっていることです。 ほとんどの人は、過去に感情的に消化できなかった出来事とそれに伴う未消化の感情を持っています。 その感情は、今に投影されて、消化されるまで何度も同じ感情を味わうことになるのです。---引用ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・シリンシォーネ 共著 石井朝子 訳『やすらぎ療法(セラピー)』春秋社刊から私たちが人生で直面する対立とは、私たちの心の中にあるものなのです。外界にあるように見えるのは、エゴが自分の考えを外部に投影するからです。だから敵が外側にいるように見えるのです。(P37)過去の体験はすべて、心の傷や愛、喜び、挫折、攻撃などが、記憶の貯蔵庫に蓄えられ、いわばフィルムに記憶されているようなものです。いま起こっている出来事が、これらの古いフィルムを呼び出し、私たちはすぐさまそれを現在に投影し始めます。(P38)投影の結果はいつも同じです。「思ったことが目に映る」のです。怒っている、愛のない考えは、怒っている愛のない世界を投影します。その世界は冷たい、怒りの人間関係ばかりです。愛とやすらぎの想いは、私たちのハートからあふれ出し、愛とやすらぎの人間関係のある世界を創ります。(P39) エリザベス・キューブラー・ロス博士はいいました。やり残した仕事を片付けてしまえば、すなわち、それまで抑えていた憎しみや欲や悲しみなど、否定的なものをすべて吐き出してしまえば、あなたは気づくでしょう。-----二十歳で死のうが、五十歳で死のうが、九十歳まで生きようが、もう問題ではない、もう何も心配することはないのだ、と。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊 P124P125)マイナスの感情を捨て、調和に満ちた人生をフルに生きたときに、はじめて、自分自身の経験が得られるのです。そういう生き方をすることが、霊的・直感的な部分に対して全面的に心を開く唯一の方法です。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊 P128)(タイトルが変更になっています。臨死体験→死後の生) マイナスの感情とは、何かを否定する感情です。何かを否定するから、受け容れられない、つまり、無条件の愛になれないのです。 否定することをやめたとき、私たちは本来の姿、愛に立ち戻ることができるのです。 ロス博士は言います。「どうしてこんなに幼くてかわいい子供たちが死ななくてはならないの?」と聞く人がありますが、答えは至って簡単です。それは彼らは学ぶべきことをごく短期間に身につけたからです。学ぶべきことが何かは人それぞれに違います。しかし、戻る前に一つだけすべての人が共通して学び取るべきことがあります。何だかお分かりですか?それは、無条件の愛です。(エリザベス・キューブラー・ロス著「死後の真実」日本教文社刊から) 私たちは、自由意志を持っています。 自分の外側に見えているものが、実は自分の内側が投影されているのだと気づきさえすれば、そして、今見えているものを望まないのであれば、いつでも、望むものを選ぶことができるのです。 障害に見えるものは、誰にとっても愛を選択するチャンスなのです。 常識的には、相手が悲しんだり苦しむことをしてはいけないと思われています。 でも、そのような常識を手放してあなたがしたほうがよいと思うことは、それが相手を苦しめそうだと思ってもしたらいいのです。 それによって苦しむか、愛を選択するチャンスとするかは、いつだって、その人の課題なのです。 その課題をクリアしない限り、その人は、同じことを外側に投影し続け、苦しみ続けることになるのです。 それができるのが無分別智(仏の智慧)なのです。 この場合の無分別とは、囚われた固定的な基準による分別をしないであるがままに受け止めることです。 あなたの中の否定的な感情をクリアしてあげましょう。 あなたが愛であることを思い出すために。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 25, 2007
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昔、青島幸男さんと渥美清さんが交互に主役をやる「泣いてたまるか」というテレビドラマがありました。 閑話休題 未来の地球ビレッジの村長さんが言いました。「僕らのゲームというのはみんなが楽しいものをゲームっていいます。どちらかが喜んでどちらかが悲しんだり、どちらかが勝ってどちらかが負けたりするものはこの社会にはありません」 さてさて、一方、サンタビレッジのサンタさん(タケちゃん)とさんたさん(さんちゃん)は、競い合うのが大好きです。 金毘羅さんに行ったときは、一緒に階段を昇っているといきなりタケちゃんが数段一気に駆け昇ってニヤリっ(^ー^)、すると、さんちゃんが『負けるものかあ』とそれを追い越します。 そんなおバカな競争をしながら奥の院までは1386段昇ってきましたよ。 またあるときは、ある人が暗い中探し物をしようとするとタケちゃんが「どうぞ」とマグライトを差し出します。 こんなヤツです 今は、LEDのもの出ているようです。 すると、さんちゃんは、「オレも持っている」と二個見せたのです。「くやしー、数でさんちゃんに負けた!o(>_
Mar 25, 2007
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私が提唱している「ヒカリズム」という生き方を説明するとき、一応、三か条という形で説明しています。それは1.あるがまま(今・素)の自分を愛する(受け容れる)、と決心する。(無条件の愛の最初の一歩。それは条件付で自分を愛するのを止めるってことですね)2.今の瞬間のすべてを愛する(受け容れる)、と決心する。(無条件の愛)(これが一番大切です。言いかえれば「善も悪も受け入れる」ということなのです)(すべて同じ価値、今の状況では今のすべてが最善、すべて神様の贈り物と分ること)(執らわれない心になる、といってもいいと思います)3.(2により現状を否定せず) 今の状態に感応して自分がしたいと感じたことをする、と決心する(しかし、結果に執らわれない・・・2に戻りどんな結果も受け容れる)(自分の奥から湧き上がる宇宙・神からのメッセージに従うということ)(本当の自分を表現する、創造するということ)(宇宙の流れと一体化するということ)(無償の愛) 後は、2と3を繰り返すことになります。すべてに「決心する」が最後についているのは、そう決めた自由意志を尊重するということです。それは、そう思いながらもできないことがあったとしても、それはそれでいいじゃないか、できないことも受け入れよう、ということです。大切なのは、愛へ向かう自由意志の方向性です。自由意志が統合に向いているか、分離に向いているかということです。※ この生き方を「ヒカリズム」と呼び、それを生きる者を「ヒカリスト」と呼びます。※ 光の存在としての自覚を持ち、光り輝いて生きる生き方です。 「あるがままの自分を愛する」ということは、自己受容・自己承認です。 実は、本当にこれができたら、他者の決めた基準を自分で納得することなしに使うことがなくなり、自分を基準にできるようになります。(わかりますよね?) あるがままの自分を受け容れる境地にない人には、(パラダイムが違うから)見えにくい、理解しにくい部分なのですが、「あるがままの自分を愛する」ことができた瞬間に、他者や出来事のあるがままも受け容れることができるようになります。 つまり、2が瞬時に達成されるのです。 同様に、3も瞬時に達成されます。 言い換えれば、ヒカリズムとは、自分を本当に愛すること。 ただそれだけなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 24, 2007
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サンタビレッジのサンタさんから最初にメールをいただいたときにサンタさんが創られたこのお話が載っていました。時期はずれのクリスマス、だけどとってもステキな物語。さてそれでは、あなたをサンタさんの愛の世界に誘いましょう(^^)◆◆ サンタの夢 ◆◆ 北の国にひとりの若者が住んでいました。 若者の仕事は郵便配達でした。 まじめな若者は一生けんめい働いていたけれど、 あまり満足はしていませんでした。 若者は小さなころからサンタクロースにあこがれていました。 「サンタはいいなあ。かっこいいなぁ。 世界中の子どもたちにプレゼントをあげている。 子どもたちに喜んでもらって、感謝されている。 それに比べてボクなんか・・・サンタ はいいなぁ」 サンタのしていることに比べ、自分の仕事が ちっぽけに思えたのです。 そんなある雪の夜、若者は不思議な夢を見ました。 夢の中で若者はサンタクロースになっていました。 クリスマスイヴの夜、雪の空をトナカイ達を引き連れ、 プレゼントをいっぱいかかえてさっそうと街へ舞いおりて行きます。 初めて子どもたちにプレゼントを渡した新米サンタの胸はおどりました。 子どもたちの笑顔を見るだけでうれしくて幸せな気持ちになりました。 サンタはもう来年のクリスマスが待ち遠しくてたまりません。 「よおし。次のクリスマスは、もっと大きくて、もっとすごいプレゼントをあげるんだ」 サンタははりきっていました。 子どもたちの期待にこたえようと一生けんめいです。 プレゼントのリストを作るために、苦手だったパソコンだってはじめました。 すべての子どもが一番ほしいのもがもらえるように、ほうぼうをかけずりまわりました。 こうして一年間かけて、たくさんのプレゼントを用意しました。 さあ、 いよいよクリスマスが近づいてきました。 もう準備ばんたんです。あとは明日のイブを迎えるばかり。 「明日に備えて早く寝よう」 でもワクワクドキドキしてねむれません。 「そうだ、前祝いをしよう」 サンタはちょっとだけなら・・・とトナカイ達を誘ってお酒を呑みにでかけました。 ちょっとのつもりが、いつの間にやら飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。 飲み過ぎたサンタはお店のカウンターで寝込んでしまいました。 そしてあくる日、イブ当日。二日酔いの頭をかかえて出発しようとしたサンタは青く なりました。 「なっない! リストがない!」 プレゼントのリストをなくしてしまったことに気がついたのです。 「どうしよう。子どもたちのほしいプレゼントがわからないよぉ」 でもイブの夜はせまっています。もう時間がありません。 子どもたちのほしいものかどうかわからないまま、 サンタはやむなくプレゼントを配りはじめました。 「…どうしよう。明日の朝、目をさました子どもたちはがっかりするだろうなぁ。 もうダメだ。みんなの期待を裏切ってしまった」 お酒さえ飲まなければ…サンタは悔やみました。 そして子どもたちー人ひとりにあやまりに行くことにしました。 翌日、サンタは勇気を出して街におりて行きました。 まだクリスマスでにぎわっている街には、 子どもたちの輪がたくさんできていました。 サンタはようすをうかがうためにポップコーン売りに変装して、 そおっと近づいてみました。 すると不思議なことに気がついたのです。 子どもたちは、いつのクリスマスよりもイキイキと喜んでいるようにみえました。 そしてなぜかそれぞれの子どもは、リストどおりの自分にピッタリのプレゼントを 持っていたのです。 「なっ、なぜなんだろう!?」 ポップコーン売りに変装したサンタは子どものひとりにたずねてみました。 「サンタクロースにお願いしたプレゼントはちゃんときたのかい?」 「うん、きたよ。でもね、最初につつみを開けたら、お願いしたものとは違うものが はいっていたんだ」 「…(やっぱりなぁ) それで?」 「だから、みんなで交換しあったんだよ」 「えっ、交換?」 子どもたちはプレゼントを交換しあっていたのです。 最初につつみを開いた時、自分のほしかったものではなかったけれど、 このプレゼントを欲しがっていた友だちの顔が浮かんだというのです。 「このプレゼントを届けてあげたら、あの友だちはどんなに喜ぶだろう」 子どもたちは、自分の手もとにあるプレゼントを一番ほしがっていた友だちのもとへ 届けに行きました。 喜ぶ友だちの顔を見た時、子どもたちは思いました。 「まるでポクがサンタになったみたいだ」 友だちを笑顔にすることができた自分を誇らしく思いました。 そして自分のもとへも、友だちからプレゼントが届きました。そのうれしかったこと。 子どものひとりは言いました。 「自分がプレゼントを届けてみて、はじめてわかったんだ。 サンタさんや友だち、パパやママがどれぐらいポクを大切に思ってくれているかってことを」 サンタからのプレゼントをすっかり交換し終えた子どもたちは、 今度は自分たちでプレゼントを作りはじめました。 ひろってきた松ぼっくりにリボンをつけたり、 スベスべの石に絵をかいたり…。 ポケットに小さなプレゼントをいっぱいつめて、 子どもたちは大切な人へとクリスマスブレゼンントを配りはじめました。 パパ、ママ、おじいちやん、おばあちゃん、学校の先生,ドーナツ屋のお姉さん そしてポップコーン売りに変装したサンタにも小さなプレゼントが届けられました。 笑顔の輪はどんどんひろがり、小さなサンタクロースであふれた街はとてもあたたかく 幸せに満ちていました。 リストをなくしてしまった新米サンタは、 ひょっとしたら今までで一番ステキなクリスマスをプレゼントしたのかもしれません。 郵便配連の若者はここで目がさめました。 その手の中には、赤いリボンのついた小さな松ぽっくりがひとつ。 若者は松ぽっくりをポケットにいれて、今日も元気に配達に出かけて行きます。 おしまい ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 22, 2007
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いつまでも子供のような純粋な心を持ち続けている大人のための童話です。■ 北国のサンタのおうち 冬になるとどえりゃー雪が降る寒い北の国にサンタさんが住むおうちがありました。 そこには、まるで教会のような建物もあります。 そこはサンタビレッジと呼ばれていて、多くの人が訪れています。 なぜサンタビレッジというのでしょう?「サンタさんが住んでいるから」いいえ、違います。「ここを訪れた人がサンタになれる場所だから」この村を訪れた人はみんなサンタ家族になるのです。 実はサンタの村は別の時空間なのです。ここには、いつもゆったりとした至福の時間が流れています。さむーい冬の日でも、ここだけはいつも暖かいので、訪れた人の心も暖かくなるのです。そして、その暖かさは頑(かたく)なな人の心を知らず知らずに溶とかかしてくれるのです。 だから、ここの時間を過ごした人は知らないうちにサンタになるんです。 サンタビレッジは、そんな愛が生まれ、育つ村なのです。■ もう一人のサンタとの出会い あるとき、サンタさんは考えました。『このインターネット時代ですもの、トナカイのそりに乗って贈り物を届けるだけじゃなくてインターネットでも贈り物をしてみたいな』 そこでサンタさんは、ためしに検索をしてみたら、『さんたのはっぴーわーるど』というサイトが見つかりました。 そのサイトでは、さんたさんが多くの人に幸せになるきっかをプレゼントし続けていたのです。『あれれ、僕がしようと思ったことをもうやっているサンタがいるぞ』 そこで、サンタさんは、そのサイトをじっくりと読んでみました。そして思いました。『こんなにステキなサイトがもうあるんだから、今さら僕が作る必要はないな。このさんたさんをサポートすれば、僕もこのさんたさんを通じて贈り物をしていることになるし、何より合理的だ』 さっそく、サンタさんはこのさんたさんに連絡を取りました。そして、意気投合して友達になったのです。 サンタさんは友達になったさんたさんにいろいろな贈り物をしました。さんたさんはその贈り物を使って、さらに多くの人に幸せのきっかけをプレゼントをするようになったのです。■ 出会い サンタさんは、このサイトをお友達に広めていきました。 サンタさんから、そのさんたさんのサイトを聞いて読んだN子さんは、たちまちさんたさんのファンになりました。『さんたさんにお会いしたいわ』って思いました。 それを知ったサンタさんは、彼女にステキな贈り物をしました。サンタビレッジにさんたさんとN子さんをご招待したのです。 N子さんの夢はあっという間に叶ったのです。 でもそれは、のちに彼女自身の本当の夢が叶う始まりに過ぎなかったのです。■ 心を凍らせるもの N子さんは、書(しょ)を書くのが好きな女性でした。「好きこそ物の上手なれ」という言葉どおり、書道家として個展を開き、多くの方に作品を買っていただけるようにもなりました。 でもそのとき、彼女は主婦として子育てをし、外で仕事もしていたので、大好きな書にあまり時間をかけることができませんでした。 『もっと書きたい』そう思う彼女と家族の間にはいつしか溝が生まれ、家族のある心無い言葉をきっかけに家を飛び出してしまったのです。 大好きな書を続けるために、身一つで家を出てしまったのです。 でも、彼女にとって心残りだったのは、貯金を持ち出せなかったことでも、家を出たことでもありませんでした。本当に心残りだったのは、大好きな娘に何も言わないまま娘を放り出すように家を飛び出してしまったこと。 そのことは、彼女の心の中に罪悪感という冷たい風を吹かせたのです。彼女の心は次第に凍っていきました。 また娘さんの心にも恨みという冷たい炎をもたらし、娘さんの心をも凍らせてしまったのです。 心が壊れたら生きていけません。そのために心には防衛機能がついています。その罪悪感は、ほとんどN子さんの心を壊しそうでしたから、心の防衛機能のスイッチが入りました。 カチッ N子さんは、思いました。『あれでよかったんだ』 そのとき、心は完全に凍りついてしまいました。 それ以来、N子さんは、満足する書が書けなくなったのです。 芸術というものは、その作者の心を絵や彫刻や書や音楽など作品に表現するものです。 書も紙と筆と墨は道具に過ぎません。筆という道具を通して紙という場に墨という形で作者の心が現わされているんです。 凍ってしまった心は、いくら筆を走らせても紙の上に現れなくなってしまったのです。 テクニックではすばらしいものが書けるけど、イキイキとした心が表現できないから、満足いくものにならないのです。■ エゴの正体 本当は罪悪感は不要なものです。 なぜなら、罪など本当は存在しないのですから。でも、そこに罪を見た人には、それはまったく現実として感じられます。罪悪感も感じるし、恨みも覚えます。 罪を生じさせているのは、頑なな心なのです。 N子さんが娘さんの家に食事に呼ばれたときに娘さんが言いました。「おかあさんって、あの日のことを謝ってくれたこと無いよね?なんで謝ってくれないの?」「だって謝ってしまったら、自分がしてきたことのすべてを否定してしまうことになるから」 頑なな心は、そう答えさせてしまったのです。頑なな心こそ、エゴの正体なのです。 エゴは自分を正当化し『あれでよかったんだ』という思いを維持し続けることで生き続けるのです。■ 転機 家を出て自分の好きなことをして暮らしているN子さんは幸せなはずなのに、なぜかもやもやしたものを感じてしまうのです。 N子さんは、そのもやもやの正体が知りたくて、さんたさんのサイトやメルマガ、そしてブログを一所懸命読みました。 読んでいるときはとってもよくわかったつもりなのに、相変わらず心の奥に小さな闇があるのです。 ある日、さんたさんがN子さんの住む街にやってきました。N子さんは、喜んで会いに行きました。そこには、初めてお会いするH夫妻がいました。H夫妻もサンタビレッジの家族です。 いろいろなお話をしている中で、「もし、過去に戻ってやり直せるなら、いつに戻りたい?」という話題が出てきました。 N子さんは、考えました。『自分にとって、やり直したい瞬間っていつだろう?』 N子さんは、娘に何も言わずに家を飛び出したあのときのことを後悔していることを思い出したのです。それがもやもやの正体、闇の正体でした。N子さんは、思いました。『できるなら、あのときに戻って娘にちゃんと説明したい』■ さんたさんの後押し さんたさんが言いました。「エリザベス・キューブラー・ロスという人がこう言っているんだよね。『「ごめんなさい」や「愛しているよ」などのような言葉を伝えるのに、いつだって遅すぎることはないのです。なぜなら、たとえ亡くなった人でも、まだ聞くことができるからです』だとしたら、何もあのときに戻る必要はないじゃないの。いつだっていいんだよ」『そうよね』とN子さんは思いました。「それから、許してもらうために謝るのではなく、『謝りたいからただ謝る』ということが大切ですよ」「はい、わかりました」さんたさんは畳み掛けるように言いました。「で、いつ謝ることにする?」 素直なN子さんは言いました。「あさって火曜日がお休みですから、あさってにします」「うん、それはいい、できるだけ早いほうがいいからね。娘さんの都合もあるだろうから、電話で予約したほうがいいよ」■ 三昧 N子さんは翌日さっそく電話をしました。「火曜日に会いたいんだけどあなたの都合はどうかしら」「えー、火曜日は9時くらいまで残業よ」「あなたさえよければ、9時過ぎでもかまわないです」「わかった、そういうことなら、その日はダンナもいないし、ちょうどいいわ」 確かに、二人きりの方がいいかもしれない。なんという偶然でしょう。 火曜日の朝になりました。さんたさんに書いたはがきを出そうとしたときに電話が鳴りました。でてみるとさんたさんでした。 その人が愛を選ぶとき、それを導くように出来事が起きるのです。「いよいよ、今日ですね。どんなふうに話されるつもりですか?」「『家を出たことは後悔していないけれど、あなたにちゃんと説明できなかったことを謝りたい』って言おうと思います」「そうですか、でも、N子さんは謝りたいのだから、ただ謝ればいいと思います。『家を出たことは後悔していない』というのは、エゴの言葉ですから、それを聞いたら娘さんは反発してしまうかもしれない、余計は事はいらないから、ただ謝ったらいいと思います。謝りたい気持ちそのものになりきること、それが三昧ですよ」「そうですね、わかりました」さんたさんが自分のことを心配して電話をかけてきてくれた気持ちが伝わってきて、N子さんは、うれしくてありがたくて目頭が熱くなり、涙が出そうになりました。いえ、ちょっと泣いてしまったかもしれません。■ サンタクロースになった日 その日の夜中に、さんたさんのところに電話がかかってきました。「娘に会って謝ってきました。娘が最初に言ってくれた言葉が『謝ってくれてありがとう』でした」「よかったですね」「本当にありがとうございました」 そんな報告を受けたさんたさんは、とっても幸せな気持ちになりました。「ごめんなさい」の一言が頑なな心を溶かしたのです。 そのとき、ふたりの間に流れていたのは、あのサンタビレッジに流れている時間でした。それは愛の時間です。「ごめんなさい」というのは、罪びとが許しを請う言葉だと思うかもしれません。でも、本当は、愛の人の愛の贈り物なのです。 愛は見返りを求めません。でも、返ってくるのはやっぱり「ありがとう」という愛の言葉だったりするのです。 贈った愛は相手の凍った心を溶かしたのです。 このとき二人は、二人とも相手に愛を贈るサンタクロースになっていたのです。娘さんは、感謝と許しを贈りました。 このとき、N子さんの本当の願いも叶ったのでした。■ 愛の時空間サンタビレッジ あなたの願いを叶えてくれるサンタクロースは、一見外側にいるように見えます。 でも、本当は、あなた自身が何を選ぶかなのです。あなた自身が、自分の願いを叶えるために、愛を選択したときに、あなた自身があなた自身の願いを叶えるサンタクロースになっているのです。 そして、それは周りの人にも愛の贈り物をすることになるのです。 本当の愛は、自分のためにするものです。それが本当の愛なら、自然に周りの人にも愛を贈ることになるのです。それが分かち合い(分かち愛)なのです。 誰もがサンタになれる村、サンタビレッジは、今もここを訪れた一人一人の家族の選択を通じて愛を広めています。 もし、まだサンタビレッジを訪れていない人も、実はこのお話を通じてサンタビレッジを訪れているのです。 サンタビレッジとは、愛を選択した人の周りの時空間のことなのです。 サンタビレッジは、あなたの心の中にあるんです。 おしまい ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 20, 2007
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生きがいを感じる、幸せを感じる、生きている実感を感じるのは、「したいことをしているとき」 でも、ほとんどの人は「したいこと」と「しないではいられないこと」の区別がついていません。 「しないではいられないこと」を「したいこと」だと感じてしまっています。「しないではいられないこと」は、怖れからきています。怖れから逃れるために『したい(しなければ)』と感じるのです。 してもしても、しないではいられない、それは仏教で「欲」と呼んでいるもののことです。 怖れを手放さない限り、「しないではいられないこと」「欲」はなくなりません。 よく、スピリチュアルなサイトや本で「怖れを手放す」ということを言いますが、その怖れがどうして創られたかを説明していることはほとんどありません。 でも、このメカニズムは、現代の臨床心理学が解明しています。 共依存、機能不全家族、アダルトチルドレンのことです。 「しないではいられないことがある」というのは、共依存の特徴のひとつです。 すべては相対的ですから、それを確認するとここでいう「機能不全」というのは、社会的に有効に機能するという意味です。 つまり、標準は、社会の仕組みとそれを維持することに有効かどうかなのです。 私たちが穏やかな心を持ったまま大人になる、ということを標準にするとほとんどの家庭は機能不全家族です。 そうは言っても、現代社会にどっぷり浸かった私たちには、そんなことは信じられないという人がほとんどのはずです。 ここに「パパラギ」というおもしろい本があります。 南海の酋長ツイアビが、はじめて文明を見て感じたことが書かれた本です。 文明人と自称する私たちにとって当たり前のことが、自然な島で暮らしているツイアビの目からは、とても奇妙に見えるのです。 私たちが便利さを得る代わりに失ったものを考えさせてくれるすばらしい本です。 絵本にもなりました。 本当にしたいことは誰でも今ここにあるものです。 つまり、誰でも今ここで実行できるのです。 それは、結果ではなく、プロセスだからです。 自分がしたいことを実践するプロセスを生きること、それが今ここに生きることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 12, 2007
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生きる意味に疑問を抱いて、生きる気力をなくすことがあります。生きることに意味があるのか?生きることに価値があるのか?という質問は、本末転倒です。 意味は自分で創るものです。 ドイツ強制収容所の体験をつづった「夜と霧」、「それでも人生にイエスと言う」の著者 V.E.フランクルは、以下の3つの価値創造を提案しています。1.創造価値2.体験価値3.態度価値創造価値とは、仕事・労働・子育て・学問・芸術などあらゆる創造行為、世界に何かを創り出すことにより得られる意味、価値体験価値とは、世界のうちに既にある自然・芸術にふれる体験、愛する体験など体験を通して得られる意味、価値態度価値とは、避けることも変えることもできない運命に対し、どのような態度を取るか、その事実をいかに引き受けるかによって得られる価値、意味 このように分類して難しく考えなくてもいいのです。 価値は、自分が本当にしたいことをするときに創造されるのです。 本当にしたいこと=価値を感じるもの だからです。 本当にしたいことをするとき、自分が輝いて感じられます。生きることが楽しくなります。 自分が本当にしたいことをしましょう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 11, 2007
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自分のことを本当の意味で愛していないと、言い換えると、自分に自信がないと、恋も結婚もうまくいかない、ということがいえます。 このことは、心理学的にも説明されて本も出ています。◎なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか◇ジャネット G・ウォイティツ著◇新沢ひろ子訳◇学陽書房◇1999◇The Intimacy Struggle◇1993◇なぜいつもあなたのれんあいはうまくいかないのか◎愛することに「臆病な人」の教科書◇ギー・コルノー著◇高野裕美子訳◇講談社◇1999◇あいすることにおくびょうなひとのきょうかしょ◇LESSON IN LOVE 自分に自信が無い人というのは、自分の価値を他者の評価で決めています。 ですから、誰かに愛されても、自分では愛される価値がないと信じているのですから、相手の「愛している」の言葉を心から信じられないのです。 しかし、一方で求められることに自分の価値を感じるので、その「愛している」の言葉に依存してしまい、「愛してる」の言葉を求める、つまり、恋愛を必要とするのです。 尾崎豊の「I LOVE YOU」の中に♪何度も「愛してる?」って聞くお前はこの愛なしでは生きてさえゆけないと♪という歌詞がありますが、自分の生きていていいという許可を誰かから愛される、求められる、必要とされるということに頼っているのです。 ところが、その相手から求婚されそうになると『相手は、自分のことを誤解しているのからもしれない、もし、嫌われたらどうしよう』と結局、自分の価値に自信が無いので何かをきっかけに身を引いてしまうのです。 もしくは、嫌われたくないあまりに相手にすがって、かえって嫌われてしまってその恋愛を壊してしまうのです。 芸能界の恋愛や結婚を見ているとそれがよくわかります。 今日のワイドショーでも再婚や恋愛の破局の話がありました。 ちょっと前にもちょー有名な歌手の離婚、その親の何度もの結婚と離婚の話がありましたが、そんな不安定な恋愛は、共依存的な自信の無さからきているのです。 そのことに気づき、態度を変えてゆくとすばらしい恋愛をできるようになっていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 9, 2007
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私たちは日々の暮らしの中で喜んだり悲しんだり喜怒哀楽のある生活をしています。 感情があるからこそ生きていることを楽しめるのだともいえるでしょう。 でも、悲しみや怒りが耐えられないほど大きかったら、苦しみに押しつぶされそうになったら、生きていくのもつらくなるかもしれません。 そんなとき、友人の励ましや名言に力をもらって立ち直ることもあります。 苦しさ、つらさがあまりにも大きくて日常生活に支障をきたすようになったら、心療内科など心のお医者さまの力を借りることも必要でしょう。 苦しみに振り回されることから完全に脱却したいと悟りを求める人もいるかもしれません。 このように、苦しさとその対策に段階があります。日常生活に支障をきたすほど苦しい → 心理学、臨床心理学一人では立ち直れないほど苦しい → 友人や名言のアドバイス苦しみから完全に脱却したい → 悟り それぞれの段階が分担されていて、それぞれのノウハウは別物になっています。 でも、同じように苦しみに対することで程度が違うだけなのですから、そこに共通点があるはずです。 しかし、その共通点を指摘した人はこれまでいたでしょうか? 共通点を見つけ出し、程度の違いがどこから生じるのかを見極めることができたら、それは根本的な心のメカニズムを解き明かしたということであり、そのメカニズムに沿って対策を立てたら、その段階においても成果をあげられるはずです。 ヒカリズムはその根本的なメカニズムを解き明かしました。 ですから、ヒカリズムを生きる人は、具体的な対策を立てることができので、生きていくのがどんどん楽になっていくのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 7, 2007
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これまで、いろいろなところで共依存の説明をしてきました。 「共依存」という言葉はまだ一般的ではありませんが、人がよく生きようとしたときに、避けては通れない概念です。 ヒカリズム的にいえば、共依存とは、存在価値不安症、存在意義不安症のことです。(ヒカリズム独自の言葉と説明です) 存在価値不安症、存在意義不安症とは、自分の生きる意義、存在する価値を感じられない、信じられなくて、他者から認めてもらうことで、その不安から逃れようとしている状態です。 他者から認めてもらうために一番の近道は、他者の期待に応えることです。 自分で決めずに他者の意見に流され、いつのまにか誰かの操り人形のように生きてしまう。 だから、自分を生きている実感がなくなってしまいます。生きがいをまったく感じられない日々になったりします。 そうではなく、こんなこともあります。 ボーイッシュな格好が好きな女の子がいて、母親はフリルの付いた服など女の子女の子した服を着せたがる、というようなことがあります。 母子で服を買いにいき、女の子はたまにはボーイッシュな服が欲しいと思い、「これが欲しい」というと母親が「まあ、それも悪くないけど、こっちの方があなたに似合うわよ、着てごらんなさい」と言って、フリフリの服を着せ「ほら、ごらんなさい、とってもステキよ、こちらのほうが似合うわよ」母親が喜ぶのを見てお母さんがそんなに喜ぶならと「わるくはないかな」というと「いいのね、じゃあこちらにしなさい」と強引に自分の意見を通します。 そういうことが繰り返されるうちに『お母さんが喜ぶのは、私の喜びだわ』と自分をごまかすようになっていったりします。防衛機制ですね。 そうやって、母親の期待に応えるように生き始め、母親の喜ぶ顔を見て自分もうれしく思うようになる。 そういうことが母親以外の他者との関係でも起きるようになる。 他人のために何かをして、その人が喜ぶことに満足して、自分がしたいことは他人を喜ばすことだ、と思うようになる。 ところが、いつも違和感を感じてしまう。 自分はいつもしたいことをして、満足しているんだけど、なんかしっくりこない、心からの満足感を味わえない、と感じる部分がいつも心のどこかにある。 それは、本当の自分を生きていないからです。 一歩引いて、他者の期待を優先させてしまうからです。 本当の自分と偽りの自分(他者の期待が自分のしたいことに感じられている状態) 本当の自分を生きましょう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 5, 2007
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「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな」 これは「いちずに一本道 いちずに一ツ事」という本の中にある相田みつをさんの歌です。 この歌を武井哲応(たけいてつおう)老師が評されました。「この歌なあ、下の句、いらんなあー」 それ以来、相田さんは「あってもなくてもいいものは・・・・・・」とつぶやくことで、人間にとって、いまここを生きている自分にとって、なにが一番大切で、どうでもいいことは何か?ないほうがいいものは何か?ということが自然にわかるようになってきたそうです。 さて、武井老師は、「下の句、いらんなあー」という批評を通して、何を言おうとされたのでしょうか? ここで、比較してもらいたいお話があります。盛永宗興老師の「無生死の道」(柏樹社)の中から後藤瑞巌(ごとうずいがん)老師のもとで最初に落ち葉でいっぱいの庭の掃除をやらされたときのお話です。-- 引用開始「老師、このゴミ、どこへ捨ててまいりましょうか」といったら、とたんにどなられた。「ゴミはない」「ないといったって、ここに」と言いかけたら、「お前はわたしを信じないのか」ときた。しかたがないから、「それでは、この落ち葉はどこに捨ててまいりましょうか」といったら、またどなられた。「捨てるんじゃない」「じゃあ、どうするんですか」と尋ねますと、「納屋にいって炭俵の空いたのをもってこい」といわれる。老師は一生懸命落ち葉の山をかき上げて、軽い落ち葉が上に、重い石やら砂やらが下に落ちるようにふるい分け、落ち葉を、納屋から持ってきた炭俵に足でぎゅうぎゅう詰め込んで、最後の一枚まで拾って入れ、「おい、これを納屋に持っていっておけ。風呂を焚くときの柴じゃ」といわれた。 私は落ち葉の俵をかついで納屋に運びながら、これは確かにゴミではない、しかし、あのまだ残っているものは絶対ゴミだぞ、と腹の中で思った。戻ってみると、老師はしゃがみこんで、落葉をとった残りの中から小石を拾い出しておられる。それもていねいに最後の一粒まで拾って、「おい、これを雨落ちのところへ持っていって並べろ」といわれました。 雨だれで穴があいているところへ持っていって、前から並べてある砂利と一緒に並べますと、穴もふさがるし、なかなか風情もあります。 なるほど、ゴミではなかった。しかし、まだある。最後に残った土くれとか、コケの端くれみたいなもの、あれだけはどうしようもないぞと内心思っていた。ところが、老師はむぞうさにそれをかき集めて手のひらにのせ、地面をすかして見て、へこんだところへ持っていっていき、それを置いて、足でトントンと踏み締められたら何も残りませんでした。そして、いわれた。「おい、どうだ、少しはわかったか。本来、人に物にもゴミはないのだぞ」と。 これが瑞巌老師のもとへいって最初に聞かされた説法でした。(P27~P30)-- 引用終了 すばらしい教えですね。日常を通してお釈迦さまの教えを見事に伝えています。『人にも物にもゴミ(いらないもの)はないのだ』というのが仏教、禅の基本的な考えです。(それ自体に固定的な意味を持っているものは無い、すべては仏性を持っている、という考えからそういえる) 同じく禅者である武井老師も当然同じ考えを持っています。その老師が「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな」という歌を評されて、下の句は要らないと言ったのなら、それは「『ないほうがいい』ものなどないのだから、その考えは手放しなさい」と諭してくださっているのだと私は解します。 「ないほうがいいものがある」という考えを持っていると自分がその立場になったときに、落ち込むことになります。 相田さんの作品には、そういう凡夫の葛藤が素直に表現されているので、それを隠しながら生きている多くの人に清清しさを感じさせ、また共感を得ているのでしょうね。 さて、すべては相対的ですから、基準や時間の変化で姿を変えるものです。 あるとき、ある考えからすると『なくていい』と思えるものも、基準が変われば、『あったほうがいいもの』に変わり得ます。 逆に『ないほうがいい』と絶対的な考えを持つと、そこから外れたものを否定してしまうことになります。 では、相田みつをさんの捉え方は間違っているのかというと、悟りという意味では間違っていますが、在家として日々の暮しを生きるうえでは、とても大切な考え方となっています。 ところで、みなさんは、武井老師の「『ないほうがいい』という句(考え)はないほうがいい」という一見矛盾した言葉に気づきましたか? 『ないほうがいい』ものなどない、と言っている老師が「ないほうがいい」と言っているのですよ。(笑) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 4, 2007
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生きがいとは、生きていることの価値です。「グラマラススカイ~人生の意味」でお話したように、自分の人生に対する価値は、自分で創るしかないのです。 ドイツ強制収容所の体験をつづった「夜と霧」、「それでも人生にイエスと言う」の著者 V.E.フランクルは、精神科医であり、実存分析(ロゴセラピー)の創始者としても有名な実存主義者でした。 フランクルをやさしく解説した本があります。お奨めします。 実存主義とは、私の解釈によって平たく言えば、自分が今生きているという実感は、人間とは本来これこれこういうものであるという概念定義よりも先にその人個人に認識されるのだから、その最初の実感を優先しよう、どう生きるかを大切にしよう、という考え方のことであり、『人は、何のために生を受けたのか?』『神が創ったのか?』などという答えの出ない問いをもてあそぶより、ただ今生きているこの生をどう生きるか?を問い、その答えを自分で創り出し、その答えを自ら生きよう、というものです。 フランクルは、その著書「それでも人生にイエスと言う」の中で、-- 引用開始 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。(P27P28)-- 引用終了 と語っています。 人生というのは、選択の連続です。たとえ何もしないでボーとしているだけだとしても、それは何もしないことを選択し続けているということです。 その選択の結果が人生であり、生きているということになります。 そうであれば、私たちがより良い人生、価値のある人生を生きようとするのなら、流されずに自分で最善を選択することが必要だということです。 流されるというのは、『他の人もそうするから』とか『まあ常識的にこれを選んでおくか』というやり方で、これは他者の価値判断に身をゆだねているということです。 たとえば、何かをしようとしたきに母親に「○○にしておきなさいよ」と言われ、その言葉に流されて○○を選んだとします。 その結果が失敗に終わったとき、「母さんが○○にしろというから、選んだのに失敗したじゃないか!母さんのせいだ」とその責任を擦り付け、自分は失敗の責任を放棄をすることができます。 だから、流されるのは、失敗の責任を取らなくていいから、自分の心の問題としてラクなのです。 でも、それは他人の価値観を生きることになりますから、自分を生きている実感を味わうことができません。 自分を生きることこそ、幸せそのものなのです。自分の価値観を実現することが幸せなのです。 たとえば、『フェラーリはかっこいい』と思う人がフェラーリを買って乗り回せば幸せですし、『KAT-TUNがステキ』と思う人が、CDを買ったり、コンサートに行けば幸せなのは、自分の価値観を実現し体験しているからなのです。 そのかわり、自分で選ぶとその責任は自分が負うことになります。フェラーリを買って支払いに四苦八苦しても、「母さんが買えと言ったからだ」と言うわけにはいきません。(笑) 先ほどの、引用にはの続きがあります。-- 引用開始そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。(P28)-- 引用終了 さて、責任を負う覚悟ができたら、生きることに価値を与えましょう。 フランクルは、以下の3つの価値創造を提案しています。1.創造価値2.体験価値3.態度価値創造価値とは、仕事・労働・子育て・学問・芸術などあらゆる創造行為、世界に何かを創り出すことにより得られる意味、価値体験価値とは、世界のうちに既にある自然・芸術にふれる体験、愛する体験など体験を通して得られる意味、価値態度価値とは、避けることも変えることもできない運命に対し、どのような態度を取るか、その事実をいかに引き受けるかによって得られる価値、意味 人は、肉体と心と魂からなる存在だと言えます。 それは、実際に魂があるかどうかということを離れて、肉体として、物質に対する喜びを直接の目的とするのか、味わう感情そのものを直接の目的とするのかスピリチュアルな無条件の愛を直接の目的とするのか、という自由意志の基準のありようを肉体と心と魂という概念に代表させて説明しているのだと言えます。 そういう視点から見ると、フランクルの価値創造は、それぞれに当てはまっていることがわかります。 ヒカリズムでは、ここにもうひとつ、前提的な価値創造を提案します。 それは、フランクルの3つの価値創造に先立って、0.存在価値 を与えることです。すべてのあるがまま、ありのままを認めことで、すべてのものに存在価値が与えられるのです。 もし、そうでなければ、何かを創造し創造価値を味わっているときに、「くだらないものを作ったな」と、誰かにその価値を批判され、自分がそれに同意してしまったら、創造価値が崩壊してしまうからです。 芸術を鑑賞し、体験価値を味わっているときに、「そんなものをありがたがっているか」と、誰かにその価値を批判され、自分がそれに同意してしまったら、体験価値が崩壊してしまうからです。 態度価値も同様です。 すべては相対的ですから、この世界に不要なものなど無いのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 3, 2007
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私たちは、生きがいといえるような大切なもの、たとえば、最愛の人であったり、人生のすべてをかけたこととかを失ったとき、絶望して、『こんな人生にどんな意味があるの?』と思い、自殺まで考えることもあります。 生きがいを感じられない苦しいだけの境遇に生まれて『何のために生まれてきたの?』と問う人がいます。 また、中島美嘉さんのGLAMOROUS SKY(グラマラス スカイ)NANA starring MIKA NAKASHIMA作曲・プロデュース HYDE作詞『NANA』原作者の矢沢あいの歌詞の中にも「繰り返す日々に 何の意味があるの?」というフレーズがあります。 単調で生きがいを感じられない日々に疑問を持ち、生きることの意味を問います。 出版された本やサイトの中にも人生の意味、生きる価値などについて書かれたものがたくさんあります。 でも、その中に明確な答えを出したものがいくつあるでしょうか? 前述の人生、生きることに対する質問に答えはあるのでしょうか? ヒカリズムには、生きることの意味、人生の意味に対して、論理的で明確な答えがあります。 まず、どんなものにも、それ自体には意味などないのです。(もし、それ自体に意味があるものがあったら教えてください)■価値というものは、あるひとつの意志が『~したい』と目的意識を持ったときに、その目的に対して相対的に生まれるものです。 非常にシンプルです。 つまり、生きること、人生に対しての価値は、ある意志の持った目的によって決まるのです。 さて、ここで、生、生きること、人生に対して人は、二つの意志を想定します。 ひとつは、その生を生きる自分自身、そして、もうひとつは、その生を与えたと思われている一般に神と呼ばれる存在です。 前述の3つの疑問『こんな人生にどんな意味があるの?』『何のために生まれてきたの?』『繰り返す日々に 何の意味があるの?』は、実は神に対して問われたものです。 答えは決して返ってこないでしょう。 ですから、自分の人生に対する価値は、自分で創るしかないのです。 たった一つのことに依存せず、現状をあるがままに受け容れ、誰かの期待に応えようとせず、自分のしたいことをすると決めることです。 自分がしたいことをすると決めることが、生に価値を与えるのです。■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 2, 2007
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より良い生き方をしようという志を持った方の中には、プラス思考をしていらっしゃる方も多いと多いと思います。 プラス思考にはメリットも多いですが、それは苦を減らすという意味においてです。 もし、プラス思考という言葉で指し示す概念が、マイナス部分と比較したり、別のプラス部分を考えることに切り替えたりするもの、ということであれば、その人は基本的な考えの中に、ずっと『足を失ったことは絶対的に悪いことだ』という考えを持ったままです。 このような意味でのプラス思考は、極端に言えば、苦を減らすではなく、苦を超えるという意味では、まったく役に立たないのです。 たとえば、病気や事故で左足を切断することになった人がプラス思考をすると『まだ右足がある、失ったのが両足でなくて良かった』『自分の仕事はパソコン作業で手と頭の仕事だから、片足であることは、あまり関係ない』というように考えると思います。 そうすると、仮に同じ病室に両足を失った人がいるとその人に対して『私はまだ片足で済んだが、あの人はかわいそうに両足を失ったんだ』という哀れみの気持ちを持つことになるでしょう。 この場合、この人自身が残った右足も失うことになったら、また落ち込むことになります。 このように、プラス思考の根っことして自分の基本的な考えに絶対的な良い悪いを持っていると状況が悪く変わるたびにプラス思考のままではいられなくなります。 また、状況が非常に悪いとき、落ち込んでいるときに無理にプラス思考にしようとしても、プラスを見出すために、自分が絶対的にマイナスだと思っている部分に一度焦点を当てるので、よけいに落ち込むということになりかねません。 そこを無理して一時的にプラス思考しても、もともと持っている絶対的にマイナスだという考えを思い出すと反動でさらに落ち込むということになってしまいます。 たとえば、婚約者に婚約破棄を告げられたら、『やっぱり、片足を失った自分は価値がなくなったんだ』と余計に思うかもしれません。 『片足を失ったくらいで落ち込んでいてはダメだ』と自分を追い込むと、プラス思考ができない自分を『ダメなやつだ』と思うことになって余計に落ち込むこともあります。 プラス思考に似たものに、ポジティブ思考があります。ポジティブには、積極的と肯定的という意味があります。 ここでは、肯定的な考え方という意味でお話します。通常、何かを肯定するとき、その前提に基準と否定するものが想定されています。 こういうポジティブ思考は、プラス思考と同じと考えられます。 ところが、無条件の愛という状態は、すべてを肯定しています。 無条件の愛は、無条件の受容であり、条件がないのですから、それは、あるがままの受容であり、否定する基準となる条件がないのですから、すべての受容です。 つまり、すべてを肯定しているということです。 この場合の肯定は、否定を想定していませんから、状況が変わってもすべてを肯定しています。ですから、否定を前提に持つ肯定とはまったく別物です。 これができるためには、自分の価値を何か特別なことに依存していないことが必要です。 たとえば、『五体不満足』の著者、乙武さんを見て、ダメな人だ、生きる価値がないなどと思う人はまずいないでしょう。でも、『健常者とかけっこをしたら乙武さんが負けるだろうな』『その点では、乙武さんが劣っているだろう』とは、思うはずです。でも、そのことが人間としての価値とは何の関係もないことを私たちは知識としては知っています。でも、腑に落ちていない人がほとんどなのです。 つい、常識的、一般的な良し悪しを固定観念として持っていて、ついつい、絶対的なものであるかのように思い込んでしまうのです。 プラス思考、ポジティブ思考は、そのような比較の考えを前提(基本的な考え)として持っていて、その改善として使われるものです。 だから、比較の基準のレベルを下げたり、マイナスになる基準を見ないようにして、別の基準に切り替えたりするのです。 愛(無条件の愛)、無条件の受容というのは、まずその比較の固定観念(絶対的な正しさがあるという基本的な考え)を書き換えたところに成立するものです。『私は片足を失った、ただそういう状態である』『あの人は両足を失った、ただそうである』とまず、あるがままに見ている、比較を超えて見ているのです。 もちろん、では「走るという目的に対してはどうか?」と考えたときに、『足を失ったのでその能力は落ちている』と認めることができるのです。でも、そのことと自分の価値を同一視しない、依存しないのです。 それが、悟りといわれる境地なのです。 たとえば、乙武さんは、バリアフリーのアドバイザーをされたそうですが、おそらく、健常者が頭で考えても思い浮かばないことも実体験から適切にアドバスされたことでしょう。 つまり、この状況では、一般の固定観念ではマイナスと思われること(五体不満足)がプラスになり、価値が認められているわけです。 つまり、価値があるかどうかは、状況との相対関係で決まるのです。決して、絶対のものではない。 そのことを基本的な考えとすると愛になることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 2, 2007
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多くの人は、否定的な出来事に出会うと第1段階 : 否認第2段階 : 怒り第3段階 : 取引第4段階 : 抑うつ第5段階 : 受容という5段階の精神状態を経るといわれています。 これはエリザベス・キューブラー・ロス博士が死を宣告された人に接することで見つけ出したことから、『死に至る5段階』とも呼ばれていますが、別に死に限らず、とても否定的な出来事に出会うと人は同じ心理過程をとおるのです。 最終的に現状を受け容れまる「受容」と呼ばれる段階で否定的な出来事に対する抵抗が終わり、苦しみから解放されます。 その過程が「苦しみ」なのです。 そうであれば、なぜ人は最初から受け容れないのでしょうか?否定してしまうのでしょうか? このことはあまり知られていないと思います。 ヒカリズムの解釈はこうです。 人は、その成長過程で社会に適応するようにしつけられるために、社会の期待する「こうあるべき状態」を理想として自分の中に取り入れます。しかし、そんな完璧な人はいませんから、程度の差はあれ、すべての人は、「存在価値(意義)不安症」(ヒカリズムの造語です)になります。 ありのままの自分では、生きる価値がないと思ってしまうのです。 そこで、他者が評価してくれる何かを身にまとうことで、自分の価値を補完するのです。 ワーカホリックという仕事に依存する状態がありますが、そのような状態です。 この場合の依存とは、自分の存在価値をそれに託している、というような意味です。 ワーカホリックの人は、有能に仕事をこなすことで他者から高い評価を得ることに依存しています。 これはうろ覚えですが、アメリカでの話です。将来を有望視されたあるアメフト選手が事故だったかで両足が使えなくなりました。それこそ、アメフトに命をかけるくらい熱中していて、アメフト選手としての人生しか考えていなかった彼は、選手生命を絶たれた状況を受け容れられず、絶望して死を考えるしかなかったそうです。 つまり、この彼は、アメフト選手として活躍することに依存していた、ということです。 なぜ、自分の置かれた現状を受け容れられないかというと、それまで、アメフト選手として有望である状態に自分の価値を見出していたのですから、その依存していた状態(有望なアメフト選手)がダメになったということは、自分の生きる価値そのものが無くなったということだからです。 絶望するのがあたりまえです。 ちびまるこちゃんの丸尾君は、学級委員であることに自分の生きる価値を見出しているから、あんなに夢中になって学級委員になろうとするのです。 顔の美しさに依存している人が顔をやけどしたりして絶望するのも同じことです。 顔の美しさに価値があり、他者が評価してくれることを知っていてもそれだけに自分の価値を託していなければ、それは依存ではありません。 共依存という概念が見つけられたアルコール依存症患者とその家族の場合、たとえば、アルコール依存症の夫に尽くす妻は、周りの人や教会から高い評価を得ることで自分の価値を感じていたから、もし、夫からアルコール依存症でなくなったら、尽くすことができず、周りから高い評価を得ることができなくなるから、顕在意識とはうらはらに、夫をアルコール依存症のままにしておこうとする心理が働くのです。 妻も夫を通してアルコールに依存していて、結果として、共にアルコールに依存している。 また、アルコール依存症の夫に依存する人間関係、ということから、共依存と名づけられたのです。 自分の生きる価値を支える依存対象は、自分の生きる価値を保証するものであり、ひいては、自分の生きる価値そのものになってしまうので、それを失うことを受け容れられなくて否定するのです。(だって、依存対象の崩壊は、依存している人にとっては、「おまえには生きる価値がない」と言っているのと同じことなのですからね!) 一方、愛の人、悟った人は、あるがままであり、無条件の受容なのです。 最初からあるがままを受け容れているのです。だから、苦を超えているのです。 ロス博士は、こう言います。--- 引用開始「どうしてこんなに幼くてかわいい子供たちが死ななくてはならないの?」と聞く人がありますが、答えは至って簡単です。それは彼らは学ぶべきことをごく短期間に身につけたからです。学ぶべきことが何かは人それぞれに違います。しかし、戻る前に一つだけすべての人が共通して学び取るべきことがあります。何だかお分かりですか?それは、無条件の愛です。(エリザベス・キューブラー・ロス著「死後の真実」日本教文社刊から)--- 引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 1, 2007
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