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イラクの事件は残念な結果になってしまった。あの若者についての賛否両論はあるが、帰らぬ人となった今、ただただ冥福を祈るばかりである。あの若者が人質になったあと、世論というかみんながどのような事を思っているのかが気になった。新聞やテレビだけでは表向きの事しか分からないので、ネット上のいろんな掲示板を覗いてみた。あるサイトで躍っていた文字は『自己責任』、『無知』、『無謀』、『仕方ない』、『自業自得』、『・・・どんな理由があるにせよ、人の命に期限をつけられたのである。もちろん若者は無謀で無知で無計画であった。しかしあの事件を知ってしまった者から出る言葉が『自己責任』や『自業自得』であるならば、その言葉は死への冒涜である。若者の行動を弁護する気などさらさらない。無事に帰って着たのであれば、思いっきり罵倒しようとさえ思った。ただ腹立たしかったのは、犯人グループが命に期限を付けた事と、それについて肯定した一部の心無い発言により、命が軽がるしく扱われたことである。わたしたちは知らず知らず人の死について麻痺しているのである。テレビの映像に新しい驚きを覚えないでいるのである。戦争の犠牲者は統計にしかならない。とよくいうが、この若者に対してもリアルだがバーチャルな映像にしか見えていないのである。この若者の死が私に教えてくれたのは、この若者の名前にあるようにひとりひとりの生きた証を知ることである。人の死は統計になってはいけない。死ぬということは生きたという証拠があるのだから…
2004年10月31日
世の中情報がありふれているようで、実は本当に必要な情報は手に入れにくくなっている。インターネットの普及で世界中の人がフラットな情報を手に入れることができるようになったが、信頼できる情報を常に仕入れる事が難しくなった。新潟中越地震では3人の家族が車ごと土砂に埋もれたが、第一情報では女性の声と、子供の声が聞こえたため3人の生存を確認したとのテロップがテレビ画面に流れた。結果的には女性はほぼ即死状態であり、小さな女の子も帰らぬ人となった。現場はいち早くネタになる情報を仕入れようとやっきになっているのであろう。おそらく救出を試みるレスキュー隊のささいな一言が、伝わり伝わって不確かな情報としてメディアに流されるのだ。私も早とちりで知り合いの方に、「新潟の家族、助かってよかったですね。」とメールを打ってしまった。後で私の早とちりだったと訂正のメールを送る羽目になったのは言うまでもない。イラクの香田さん情報も同じである。自衛隊が駐屯していながら、自国民の生死に関わる問題の情報すらアメリカ頼みである。政府たるものが情報管理できず、メディアにいいように報道されっぱなしである。日本のメディアは真実を伝えようとするジャーナリズム的な精神はほとんど消えうせた、お金儲けの為のマーチャント的なシステムに成り下がったのか。『情報』はあくまでも『真実』ではないという立場に立たないと、私達の情報は全てマスメディアがコントロールしてしまうだろう。『情報過多』と『情報過疎』は表裏一体。あふれる情報のなかに真実を探すのが難しくなった世の中、己の判断基準をしっかり持ちたいものだ。イラクで拘束されているであろう、香田さんの早期解放と日本への帰国を待ちわびると共に、新潟中越地震で犠牲になった方々へ冥福を祈りたい。
2004年10月30日
『ミートミーツ』のオープン秘話を一つ書こう。実は店舗名が『ミートミーツ』といかにもお肉屋さんのイメージが強いが、本店は山田ホルモンセンターといって、ホルモンが主体のお店である。ミートミーツをオープンした10ヶ月前も主力商品は現在よりも少なく15品程度。そのほとんどがホルモンをそのまま売るといった具合であった。もちろんホルモンだけを店頭に並べても売れるはずもなく、最初はさんざんな売り上げだった。ネット販売は低コストで出店できるメリットもあるが、送料や備品等、店頭販売には必要なかったコストがかさんでくる。と言う事は売れれば売れるほど店頭販売よりも利益は少なくなってくるのである。そこで考えたのが、素材そのものを売るのではなく、ある種の加工をして売るという手段である。ホルモンをそのまま売るのでは魅力がない。いくら新鮮とうたってみても、そんな事はどこの店でもやっている。今更また言うことではないが、我が家は日曜の度に焼肉を食べている。あのBSE騒動の最中ですら、焼肉を欠かした事がない。店先に置く肉がなくても、我が家で食べる分だけは必ずとって置くくらいである。(それは冗談だが…)日曜日にたまに食べる料理にもつ鍋があった。時々日曜日を狙って遊びに来た友人たちも、最初はがっかりしたものだが、一つ口にするとパクパク飛びついていた。よく考えるとお肉やホルモンを扱っているお店なので、新鮮なテールが手に入る。新鮮なホルモンももちろん手に入るので、かなり贅沢なもつ鍋を食べていたのであろう。とりあえず知人や親戚などをモニターに見立てて、山田ホルモンの女将は何度も分量や調理方法を改善した。私はといえば、ホームページに掲載するページ作りとネーミングを考えた。そして生まれたのが【MEET MEATAS】の『本格牛もつ鍋』である。スープはテールを使わなくても本当はそれなりの味が出来るのである。しかしそんなところのコストを削減するのではなく、家庭で味わえる最高級のもつ鍋を作りたかったのだ。ということでネーミングに『本格』という二文字を入れることにした。『牛もつ鍋』としたのは、もつ鍋のもつ(ホルモン)を牛の小腸と赤千枚の2点に絞ったためである。何を言ってるのかと言えばもつ鍋の具材に豚のもつを入れる店もあるので、牛だけ使ってますよ、という意味である。売り上げは最近寒くなるにつれ上々である。鍋は冬のイメージが強いので夏にはほとんどアピールをしなかった事もあるが、この冬は間違いなくヒットするであろう。問題は大型台風の被害により野菜が急騰している事であるが、価格も据え置きで販売する予定だ。今年の冬は【MEET MEATS】の『本格牛もつ鍋』で暖をとってみてはいかがだろうか。
2004年10月28日
山田ホルモンセンターはお休みである。朝から家中は台風のつめ跡である、水が漏れた壁紙の張替えで店のシャッターが開いている。仕入れから帰ってくるとシャッターが開いているせいか、今から営業が始まりそうでなかなか落ち着かない。肉の真空パックが終わると今日の仕事から全て解放され本格的な休養に入ることになる。しかし実家から車で3分の新居の庭掃除や電気の切り替え、テレビの設置にネットの回線接続、風呂掃除や旅行の写真の現像など、仕事は山盛りである。たしか婚姻届もまだ出していなかった。結婚式を挙げることで社会的には認められたものの、まだ法的には結ばれてないのである。若女将は「今なら、まだ間に合う!」とか変な冗談まで言っている、がそれどころではない。まず最初に行わなければならないのは、祖父への挨拶である。私たちのしきたりでは、年長者は絶対的な権限を持っているので、結婚した後に挨拶が遅れる事は許されない。こまごまとした仕事はほっといて、まずは祖父への挨拶廻りである。私の祖父は叔父と温泉宿を営んでいる。祖父の家を訪ねると叔父が迎えてくれた。今から祖父を呼んでくるという。私たち若夫婦は緊張した面持ちで祖父を待った。祖父は会うなり「挨拶をもらおうか!」と床にペタンと座った。若夫婦は言われるままに、正座で座り大きくお辞儀をした。仰々しいがこれが結婚後に祖父を訪ねる場合の我が家の儀礼である。挨拶をしてすぐ帰る予定だったが、今日は祖父の誕生日であった。叔父の「食事でもどうだ。」の一言に甘え夕食を一緒にすることになった。叔父は体こそ小さいものの不精髭を生やして威厳がある。いろんなものに興味があるらしく物知りである。叔父は「焼肉をよく食べに行くが、ここらへんではお前の家が一番いい肉を出している。」と言ってくれた。「お客さんがよく入っている店はいっぱいあるけど、本当に美味しいかと言えば絶対ではない。料理はそこそこでも店の雰囲気、サービス、そしてなによりもシステムが大事だ。」「若い時はそこそこの失敗を経験しなきゃだめだ。成功体験も大事だが、失敗体験がより人間を大きくする。お前も焼肉戦争に飛び込まなきゃいけないな。」と言ってくれた。この『焼肉戦争』という言葉が何よりも衝撃だった。焼肉業界は現在苦境と立たされている。一時の『狂牛病』騒動程ではないが、アメリカ産牛肉の輸入再開も目処が立たない今、順風満帆とは言いがたい。まさに生き残りをかけたバトルロワイヤルなのである。そんな苦境の中の焼肉業界でも勝ち組と負け組みははっきりと存在する。変わらない伝統を誇示し続ける強さや、変わり続ける事ができる攻めの強さ。要は目に見えるコンセプト(概念)とプランニング、そしてシステム作りができた者が勝ち組に属するのである。私はこの『焼肉戦争』の中にいながら、まだ勝負の場に立つことすらで来ていない。まさにそれを見透かされたような助言であった。『焼肉戦争』に飛び込む勇気があるのか?自問自答してみた。いや問うと言うより運命である。私の今までの人生はそれなりにスリディングなものであった。しかしこれからの人生はもっとエキサイティングになるであろう。私は今『焼肉戦争』に飛び込んだことを認識したのである。
2004年10月26日
昨日の夜、またもやスン君から電話があり、「明日時間が合えば一緒に食事でもしないか。」との誘いの電話があった。もちろん喜んでその誘いにのった。待ち合わせ場所は凱旋門があるドゴール広場である。「シャンゼリゼを散策しながらゆっくり来ればいいよ。」さすがスン君、待ち合わせ場所まで凝っている。明日は朝の9時から飛行場に向かうので、今日はパリでゆっくりできる最後の日である。午前中は買い忘れたお土産を買いにラファイエットに向かった。実は昨日から目を付けていた若旦那お気に入りのマフラーがどうしても欲しかったのだ。(若旦那)「これ、買ってもいいかな。」私は若女将におそるおそる聞いてみた。(若女将)「親類や家族にお土産を買ってあげたけど、自分たちに記念になるものは何も買ってないんでいいよ。」と言ってくれた。喜々として、私たちは一路シャンゼリゼ通りを目指した。凱旋門からコンコルド広場に至るまでの全長1880mの大通りである。散歩コースにもってこいの並木道通りを過ぎると、カフェやブティックなどが軒を連ねる。あのルイ・ヴィトンのお店は休業中であったが、どでかいヴィトンの柄の看板がパリの景観を壊しているようであった。あんなに厳しいパリの看板規制もヴィトンには何も言えないのか。待ち合わせ場所に着くとオギとはすんなり会うことが出来た。スン君は学校から直接向かってきていると言うのだが、人通りが多いためすぐには見つからない。しばらくすると、雑踏の中悠々とプジョーの袋を片手に、ポルシェのサックをからったスン君が歩いてきた。もちろんジャケットはポールスミスである。カッコいい。私たちが、ここに来て一度も美味しいフランス料理を口にしてない、と聞くとオギは、「この店が美味しかったよ。」と昼食を誘ってくれた。鍋やスプーンを装飾品に見立てた、牡蠣が美味しいと評判のおしゃれなレストランである。オーダーはフランスに2年滞在しているオギが担当である。滑らかなフランス語で注文してくれた。やっと本物のフランス料理を心置きなく食べられる若夫婦はご満悦である。料理の後のコーヒーはスン君が注文してくれた。照れくさかったのか、私達が知らぬ間にさりげなく注文をしてくれていた。コーヒーも終わり、まだ止まぬ話題の中、若女将はみんなのコップに水がないのを気遣ってボトルを持ち上げた。その瞬間スン君は血相を変えて。「俺がするよ。」とヒョッとボトルを受けみんなに水を注いでくれた。スン君曰く、フランスではレストラン等で女の人が水を注いでくれるのはおかしいらしい。特に『レディーファスト』は守られ、狭いドアを通る時は必ず女の子が優先だ。スン君はフランスの文化までも身に付けてしまったのだ。食後シャンゼリゼ通りを散策している途中、オギが私に「何か記念になる物でも買った?」と聞いてきた。私はマフラーを買ったと嬉しそうに答えたのだが、よく考えたら若女将に記念になるようなものは買っていなかった。スン君とオギは気を利かせてくれて、ルーブル美術館の地下にあるショッピングセンターに案内してくれた。スン君夫婦と若夫婦4人で記念撮影後、2組は惜しみながら別れることにした。若女将は何を買えばいいのかを決めあぐねていた。私はせっかくだから日本にはないようなアクセサリーを買ってはどうかと、アクセサリ売り場に足を運んだ。恐らく日本にないようなクリスタル製品が並ぶ一角に可愛いネックレスを発見した。2つくらい目星をつけると何度か着けてみてやっとお互いの記念品を購入したのである。この時点で若夫婦のパリ旅行は終了するのであった。当初フランスの名所を多数散策する予定だったが、私の提案でパリだけを十分に楽しむことにした。またフリープランにすることで観光客が滅多に入らない路地裏等を体験することが出来た。もちろん二人にとってのこの経験はかけがえのない財産として記憶に残るだろう。(おわり)
2004年10月18日
一週間の旅行は体がもたない。結婚式を終えて一日休む時間があったが、気づかれと疲労で唇に口内炎ができた。顔にも吹き出物が出来ている。パリに滞在する時間は今日と明日と二日間しかないが、このへんで休養をとることにした。と言っても親やお世話になった知り合いにお土産を買っていかなければならない。ということでホテルから5分の『ラファイエット』というデパートで買い物をすることにした。フランスのキリスト文化圏なので、基本的に日曜はお店が休みである。変わりに美術館や娯楽施設などは休暇を楽しむために必ず開いているのだ。本当はデパートは全て休みのはずなのだが、何故か『ラファイエット』だけは今日開いていた。ちなみに隣の高島屋パリ店はお休みであった。デパートと言ってもさすがはパリである。概観からデパートと想像できるものは、大きな垂れ幕くらいで、作りは宮殿のような造りになっている。でもブランド品などは日本のデパートとそれ程代わり映えしない物ばかりである。しかし日本にはない物がひとつだけあると言えば、8回まで吹き抜けの天井にステンドグラスである。最初は気づかずに夢中でお土産探しをしていたが、ふと天井を見上げたとたんびっくりしてしまった。若女将曰く「これは日本にないよ。」その通りである。昼ごはんは若女将が実家がある福井のレストランで、偶然フランスで料理の修業をしたことがあるシェフから教えてもらったお薦めレストラン、『シャルティエ』である。なんでもフランスの下町の匂いがする大衆レストランで値段も手頃らしい。ちょうど昼時に行ったので、レストランの外にも行列が出来ていた。かなり知られてレストランなんだろう。待つ時間も惜しいのでどうしようかと迷ったが、せっかく来たので店の中に入ると人数を聞かれ、すんなりとテーブルに案内してくれた。しめしめ。中は広々としていて300人以上座れるだろうか。観光客が多いように見受けられた。たぶんガイドブックにもかなり紹介されているのであろう。若夫婦は4人席に案内された。ほかの席を見る限り恐らく相席になるだろうと予想はしていたが、まんまと老夫婦が横に座ってきた。老夫婦は地元の人らしく、物珍しそうに店内の隅々を見渡す私たちを裏目に、フランス人らしく悠々と食前酒を飲みながら楽しそうな会話を始めた。私たちと言えばすぐにメニューに目を通し、注文を始めた。今日の私の課題はフランス語で料理を注文をすることである。昔とった杵柄と言いますか、フランス語はなんとなく読める。(むむっ…これは今日のお薦めだな。)「ヘイ、ムッシュー、今日のお薦めをお願いします。」「*!%$#&、+!#¥!!」(やばい!!いらん事フランス語で注文したから、フランス語で話しかけよる。全然意味わからん!)若旦那ピンチ!どうしようもなくモジモジしていると、仕方なさそうに英語で話してくれた。「…しゃべれないなら、フランス語で話すなよ…」みたいな相席の老夫婦を横目に、英語で仕切り直した。(若旦那)「これが今日のお薦めですよね。」(ギャルソン)「そうさ。魚とマトンがあるが、どちらにする?」(若旦那)「それじゃあ、マトンを彼女に、僕は魚にしてくれるかな。」(ギャルソン)「ワインは要らなかったのかな?」(若旦那)「水をコップでもらおう。」なんとか難を逃れた。相席の老夫婦は「…もう食事かよ!」と言いたそうにチラチラと見ているがお構いなし。ガッツリと食べさせてもらった。食後に小さなカップでコーヒーを頼んだのだが、飲んだ瞬間若女将は「これ、失敗したコーヒーみたいやね。」と言うのだ。私も一口飲んだ瞬間、粉コーヒーだとスプーン5杯分位入れるとこの濃さになると思った。やはりフランス料理のような重い料理を食べた後は濃いコーヒーでお口直しをするのだろう。さてお支払いの時間である。なぜか注文は全て紙のテーブルクロスに書いている。計算もそのクロスに書きながら計算をする。これが昔ながらの雰囲気を醸し出している。二人で50ユーロは食べただろうか、相場としては5ユーロくらいかな。私は若女将に指令した。(若旦那)「5ユーロを用意してくれ!」(若女将)「了解!!」しかしおつりが7ユーロある。この場合はどうすればいいのか。おつりをもらってチップを手渡せばいいのか?とりあえずお金を渡すとギャルソンと若夫婦は凍てついた氷のような数秒を過ごした。ついでに相席していた老夫婦もそれを見守った。(ギャルソン)(…お金をもらったのはいいが、もちろんおつりはチップだろうな!)(若夫婦)(…チップの相場は5ユーロ、おつりは7ユーロだから、ちゃんとおつりはくれよな!)ほんの2秒くらいの私たちは見つめあった。ギャルソンはポケットから7ユーロを投げるようにテーブルに置いて行った。若女将は手に握り締めた5ユーロをギャルソンに渡そうとしたが、時すでに遅し。「ムッシュー!」の声は虚しくごった返すレストランの雑音に消された。相席の老夫婦も大きく息を飲み込み小さく吐き出した。老夫婦は私たちに目配せしながら、「失敗しちゃったね!」と言う様にチャーミングな笑みを送ってくれた。またしても失敗である。どんよりとした気分でホテルに帰る道すがら、「正規の値段のおつりを貰って、なんでこんな気持ちにならなきゃいけないの?」と若女将が言った。私は「今日の夕飯はマックにしよっか?」と聞くと若女将は小さく頷いた。
2004年10月17日
昨日の夜ホテルに着くとすかさず親友のスン君とオギから電話があった。スン君とオギとは高校時代からの親友で、オギは絵の勉強のため2年前からパリに留学しているのである。去年日本で結婚し、今はパリで住んでいるナイスカップルである。スン君は「明日俺の家に遊びに来ないか?」と誘ってくれた。もともとフランスに来たら遊びに来いと念を押されていた。そうたしか土曜だったら空いているといってたが今日は木曜日だし… (若旦那)「うん。行こうか… でも土曜しか空いてないって言っとったやん。」(スン君)「うん。だから明日来いよ!」(むむっ…何か話が合わない。)(若旦那)「…今日木曜日だよね。」(スン君)「………何言ってんだよ!今日は金曜日だよ!」急いで手帳に記されているカレンダーを探した。なんと今日は金曜日だったのだ。私達若夫婦は丸二日間、曜日を間違えていたのである。と言うことで今日はスン君とオギの家にお邪魔することにした。メトロ(地下鉄)で最寄り駅に到着するとスン君が迎えに来てくれた。約1年分の再開であるが、こんな所で会えるとは喜びもひとしおである。スン君はパリに来て少しおしゃれになったのか、ポールスミスのジャケットをおしゃれに着こなしていた。少し歩くと白いおしゃれなマンションが表れた。部屋に入るとオギが出迎えてくれた。スン君夫婦は久しぶりの再会とあって私達の結婚を祝うためワインとプレゼントを用意してくれた。スン君は空けたワインのコルクを「今日の記念に持って帰ってよ。」と若女将に渡していた。どこまでおしゃれなんだ!オギが「今からスナフに電話するから!」と受話器を渡してくれた。スナフとは大学で4年間フランス語を習った仲である。専攻ではなく、第2言語習得であったためなかなか身に付かなかった私とは反対に、卒業後もフランス語の勉強を欠かさず、ついには念願のフランス留学を果たしたのだ。(若旦那)「ボンジュール、マドモアゼル。コマンタレブー?」(スナフ)「サバビアン、メルシー・・・って えっ だれ?! もしかして…」と電話だが久しぶりの会話を楽しんだ。日本から遠く離れたフランスに居ながら、頼れる友人が居ることがすごく心強かった。私は久しぶりに安心しきったのか、ワイン2杯ほどで酔ぱらってしまった。若女将といえば、酒が入ると益々元気になり興奮気味に話まくっていた。ここだけの話、若女将は酒豪である。昔は一升瓶を枕にして寝ていたと言う伝説があるくらいだ。私はソファーで横になり、若女将はオギと一緒にショッピングに出かけた。スン君といえば、私に毛布を被せてくれて、横で静かに小説を読んでいたらしい。やっぱりおしゃれだ。すっかりスン君とオギにはお世話になった。帰りはバス停まで見送ってくれた。若夫婦は一路モンマルトルに向かった。実は今日の夜は二人でキャバレーに行くのだ。なにか怪しいようだが、実は『ムーランルージュ』といってれっきとしたショーなのである。赤い風車が目印の『ムーランルージュ』はキャバレーなだけあって、フランスでも歓楽街と言われる界隈に位置している。入り口付近には横のクラブのボブ・サップ並のごついガードマンが危険物がないかチェックしている。その辺に血の気の多そうな若者がうろついている。本当はこの界隈は観光客が簡単に来る場所ではないのだ。中に入ると1500人収容できるというこじんまりとしたテーブル席が用意されていた。真っ黒な幕が上がるとサーチライトで照らされた美女軍団が現れた。シンバルの音と共に上半身の服を脱ぎ去った。会場はいきなりの大盛り上がりである。若女将曰く「何がいやらしいかと言えば、最前列でへばりついて見ていた親父が一番いやらしかった。」らしい。しかしいやらしいと言うよりはダンスや余興がすばらしく、2時間はあっという間に過ぎ去った。その頃にはすでに夜中の1時半を過ぎていた。しかしパリの夜はまだまだ眠る気配は無かった。
2004年10月16日
前々から行きたかった所があった。私のパリのイメージはエッフェル塔ではなく、凱旋門でもなく、ましてやシャンゼリゼ通りでもなく、ビクトル・ユゴーである。また難しい話が始まったと思われるが、大学時代に読んだ『レ・ミゼラブル』は衝撃だった。少し長かったが、キリスト文化を知る上でかなり影響を貰った書物である。そのユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』の舞台になったノートルダム大聖堂に行ってみたかったのだ。ノートルダムはパリの中心にあるシテ島に位置する。ノートルダムの広場に星型のプレートがはめ込まれているのだが、パリからほかの地点への距離はすべてここから測るという。私は美術的なこころや建築知識など持ち合わせてないが、この建造物からただよう荘厳な雰囲気は歴史の重さを物語っていた。頂上まで階段で昇れるというので上がってみた。らせん状の白い階段が延々と続く。階段はこれまで幾千の人々が昇ってきたのだろう、ステップの踏み足部分だけが窪んでいる。若女将曰く「まるで少林寺みたいやね!」(分かる人は分かる)せっかくの雰囲気がだいなしである・・・ 時々見える小窓からの風景がすこしずつ小さくなってくる。キマイラ回廊に着くと『カルグイユ』と呼ばれる奇妙な怪物像がパリの町並みを見下ろしている。1320年頃完成したので、かれこれ700年近くもパリの歴史を見続けてきたのであろう。ここはキリスト信者にとって神聖な場所であるが、大聖堂の中も観覧することができた。巨大なステンドグラスからは幾色の光が照らし出されていた。ひとつひとつのモザイク模様にキリスト文化の歴史が刻まれているのだが、私達にはほとんど知ることが出来ない。若女将の「この高さ吸い込まれそうやね。」の一言で天井を見渡した。一目では見渡せない広さと高さである。天井を見上げながらグルッと一周してようやく若女将の言葉に同感した。「…うん、怖いくらいに高いね。」念願のノートルダム大聖堂を見てごきげんになった後は昼食の時間である。ノートルダムの近くのカフェでオムレツを2種類頼んだ。私達を接客してくれたのはイタリア顔の小さくていかついギャルソンである。この店は観光客が多いのか、フランス語を喋れない私達にしきりになれない英語で話かけてくれた。カフェやレストランでは接客してくれるギャルソンがコーヒーや料理を運んでくれるし支払いもする。もちろんチップを受け取るのも同じギャルソンである。私達は美味しいオムレツを頬張りながら接客してくれたギャルソンと楽しい時間を過ごした。緊張する瞬間はチップをあげるタイミングである。チップをあげる文化がない国で育ったため、どのタイミングで渡すのか、どれくらいわたすのかという感覚がまったく分からない。若女将は私の顔を見ながらしきりに、「どれくらいあげればいいんだろ?」と合図をしてくる。昨日行った店では料理にサービス料が含まれているからチップは要らないと言われた。おそらくこの店もチップが要らないであろう…と思ったのは大間違いであった。右手にペンを持って、左手に書き込むしぐさをするとそれが支払いの合図である。二人で29.90ユーロである。30ユーロを出すと10サンチーム(¥14位)のおつりである。相場では食事の10%~15%がチップを手渡すらしい。30ユーロだと3ユーロ(¥400位)位が相場だろうか。私はサービス料込みだと思い込み、チップを渡すつもりはなかったので10サンチームのおつりを待ち望んだ。しかし待てど暮らせどおつりをもってこない。接客をしてくれたギャルソンも心なしか機嫌悪そうに、さっきまでの陽気さとは裏腹にカッカしてるようだ。帰りがけに「おいしかったよ。」と挨拶しても見向きもしなかった。やはりチップを渡したほうがよかったのだろう。チップの良し悪しや必要性などあるとおもうが、私は郷に入れば郷に従えと思っている。私達にはチップを渡すのは面倒で慣れないが、フランスではそれは文化になっている。美味しい物を頂いたら満足した分だけチップを払う。乗り物の乗ったら楽した分だけチップを払う。その習慣をその土地で見習わなければ、そういう歴史や文化を壊すことを意味する。若女将が「せっかく美味しい物を食べて楽しい時間を過ごしたんだから、帰り際まで気持ちよくチップを払おうよ!」と言ってくれた。その日から枕元に1~2ユーロを部屋の枕元に置くことにした。シーツを替えてくれるホテルの人が気持ちよく仕事をしてくれるように。
2004年10月15日
朝起きるとぐっすり寝たのか寝起きがいい。時計を見ると午前7時。窓の外を見るとまだ星が出るほど真っ暗である。(若女将)『パリの朝は暗いね。』 (若旦那)『そりゃあ~ パリやけんね!』と意味浅な言葉で私達のパリ旅行は始まったのだ。なにはともあれ腹ごしらえと思い、7時から始まるホテルの朝食に出向いた。レストランはパンこそ出来上がっていたが、コーヒーもミルクもなく、電気も点いていない。ホテルに来る道すがら添乗員さんが言ってた、フランス人ののんびりした性格なんだろうと思い、とりあえず朝の散歩に出ることにした。「ボンジュール ムッシュー!」、添乗員さん曰く、ホテルマンには満面の笑みで挨拶すると仲良くなれるらしい。(若旦那)「ボンジュール ムッシュー!」 (ホテルマン)「ボンジュール ムッシュー 君達やけに朝が早いな!」 (若旦那)(・・・はは~ん。フランス人は朝は苦手なようだな・・・) (若旦那)「朝食がまだ準備できてないようなので、先に朝の散歩に行ってきます。」 (ホテルマン)「朝食は7時からやってるから、いつでも大丈夫だよ!」 (若女将)「さっき行ってきたけどまだ暗かったですよ。」(ちょっと切れ気味) (ホテルマン)「だから朝の7時から始まるから、もうちょっと待ってね。」 (若旦那)(ムムッ・・・なにかおかしい) (若旦那)「ムッシュー 今何時ですか?」 (ホテルマン)「朝の6時を少し過ぎたころかな。」やっぱりそうだった。フランスはまだサマータイムなのだ。フランスのガイドブックを飛行機の中で読んできたのだが、まさか10月のこの季節にサマータイムが続いているとは思いもせず、飛ばして読んでいたのである。朝食までまだ時間があるので、勢いで真っ暗な闇の中に朝のパリ散策を始めることにした。ホテルは『オペラ・ガルニエ』のすぐ側で『ブールバルド・オスマン』(オスマン大通り)と『ブールバルド・デジタリアン』(イタリアン大通り)の間の路地にある。ブールバルドとはパリの中心地のシテ島をグルリと囲んでいた城壁を壊して作った道路である。なので観光にはもってこいの場所である。デジタリアンに出ると、暗闇の中に照らし出された『オペラ・ガルニエ』の巨大な建造物を見たとき足がすくんだ。王冠を抱いたような頂の両端には金色のアポロンが見える。その建造物の全体が照明により照らし出されているのである。これからどんな旅になるのかと、胸躍らせながら朝の散歩を終え朝食をとる事にした。カフェオーレとクロワッサンをほうばりながら、これからの旅順を考えた。事前知識が無いことと、フリープランなので予め決められた旅順がないので、とりあえずバス観光でパリの有名所のグルッと回ることにした。モンマルトルの丘、ムーランルージュ、コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門、エッフェル塔、サンジェルマン地区、カルチェラタン、ノートルダム寺院、ルーブル、オルセ美術館をひと通り外から見渡す事ができた。6日間の旅でこの全てを周れるわけじゃないので、この中からピックアップして観光しようと決めた。しかし先立つものは空腹感。パリでの初レストランなのでガイドブックで吟味したが、ここから少し遠いようである。土地勘も無く、3時を過ぎると昼休みでほとんどのレストランが閉まるとあって、近くの英語が通じそうなレストランで食事を取ることにした。あまりガッツリ食べると胃がもたれるので、牡蠣を6つとビーフステーキを二人で分けて食べるように注文した。が出てきたのはしっかり二人分。一緒に水を頼んだのだが、1.5リットルのボトルが1本テーブルに置かれた。負け惜しみではないが、あたかも「その1.5リットルのお水が欲しかったのよ!」と言わんばかりに二人で水を飲み干した。食べ過ぎたのか胃がもたれ夕食はホテルでワインとチーズを少し食べ就寝についた。私の英語力もまだまだなと気づかされた一日であった。
2004年10月14日
まえまえから私の新婚旅行はイタリアと決めていた。若旦那の日記にも何度か『若旦那のイタリア語会話』と題して勉強を重ねていたが、いろんな事情でフランスのパリに旅行に行く事に決まったのである。実は私若旦那は、大学時代フランス語を第2言語学習として、4年間学んだ事がある。フランス旅行なんてお手の物と言いたい所だが、実は真面目に勉強をしなかったせいか、会話の方はトンと苦手であった。朝7時30分の飛行機で福岡空港から成田空港に向かった。羽田には何度がいった事があるのだが、成田に行くのはこれで2回目、といっても前は10年前に来たので、成田空港内の地理が全く分からない。やっとの事で搭乗カウンターに着いたのだが、私達が乗り込むはずの「エール・フランス」のカウンターが無い。慌てて近くの係員に聞くと「エール・フランス」は第2ターミナルにあると言う。福岡空港は第1ターミナルと第2ターミナルは並んで建っているが、なんと成田空港はバスで移動しなくてはならない。時間には間に合うが重いカバンを引きずりながら第2ターミナルにむかった。搭乗手続きを終え、出国手続きを済ませ、いざ日本を出発した。フランスまでは12時間の長旅である。時差は-8時間。私の時計を8時間マイナスにして、フランス現地時間に、そして若女将の時計をそのまま日本時間に合わせておく事にした。席はもちろんエコノミー。でも入り口の側の席のため足は伸ばし放題で快適な旅だった。飛行機が飛び立ちまもなくすると、私たちの前に座っているファーストクラスの席にカーテンが掛けられた。まもなく機内食が運ばれてきた。私たちの料理はバイキングのお盆に温められた缶詰のような料理が出てきたが、ファーストクラスの席からはお皿とフォークやナイフがカチャカチャと鳴る音が美味しそうに鳴り響いた。若夫婦はそれを恨めしそうに聞きながら、次来るときは絶対ファーストクラスにしようと誓い合った。夜も寝静まった頃に、プ~ンと懐かしい匂いが機内に充満した。暗い機内はいそいそと歩き出す乗客が増え、ブックランプも灯り始めた。匂いの元はカップラーメンである。別に腹が減っていた訳ではないが、匂いに誘われるまま機内の最後尾を目指した。最後尾はトイレに行く乗客とカップラーメンを奪い合う乗客でごった返していた。私たちもなんとかシーフードヌードルをゲットし、トイレの前で美味しく頂いた。それがその飛行機の最後のカップヌードルと知ると、美味しさもひとしおで小さな喜びを噛み締めた。少し睡眠をとると、またもや機内食。食べては寝、寝ては食べながら12時間はあっという間に過ぎ去るのであった。まもなくフランスのシャルル・ド・ゴール空港に到着するとアナウンスがなると、雲の合間からパリ郊外の農村地帯が目の前に広がった。「山田とあんまり変わりないね。」という私の言葉に若女将は、冷ややかな眼差しを送り続けた。「…山田とは大違いよ!」と言いたげな…空港に到着するとバスでホテルまで送ってくれた。パリに近づくに連れ、町並みも石造建築物に変わりパリらしい美しい町並みに変わったきた。少し雨が降っていたせいか、私たちが滞在するオペラ座界隈のホテルまで1時間30分を要したが、初めてのパリの町並みは飽きることが無かった。雨が降っていたので明日の観光に備えその日はすぐに寝ることにした。(つづく)
2004年10月13日
朝から眠気眼で結婚式場に着いたが、早すぎて私と若女将だけ。それというのも若女将の着付けで8時30分に式場に着いたのだ。もちろん式は12時位。もちろん男は化粧や着付けの手間がいらないので、「適当に時間を潰して来て下さい.」と着付け担当者から言われ、しぶしぶと新郎の待合室でお茶をすすっていた。昨日は結婚式の前夜祭で、友人や先輩と楽しい時間を過ごしたが、少し顔は腫れているし、頭は痛いし、式の最後の挨拶の言葉も考えていないし、と思いを巡らしながらウトウトと眠りに着いてしまった。ドタバタと親戚が到着した頃にやっと私の着付けが始まったが、新婦にかけた時間の10分の1の時間。ものの5分ほどで身支度が揃った。若旦那の結婚式は式場の大ホールを貸し切って行われた。友人、知人や父母の知人など400人弱が集まってくださった。多少人数が多いようだが、私たちの結婚式では毎度こんなものである。1回目の登場は民族衣装を装い、荘厳な雰囲気の中で執り行われた。登場する最中、友人やラグビー部の先輩らが、「緊張するな!笑え笑え!」と冷やかすが、笑うような状況ではない。履き慣れない民族衣装のブーツが引っ掛かり、歩きにくいし400人から注目される事も普通の生活の中では有り得ないので、緊張しっぱなしの30分だった。2回目の登場はキャンドルサービスである。バシッとタキシードを着込んだのはいいのだが、これまた靴がシークレットブーツのため歩きにくい。友人は知ったもので、「お前、背が高くなったな!」とまたまた冷やかしの声が聞こえてくる。私はしきりに「シークレット!シークレット!」と小声で言うのだが、それを知るとさら声が大きくなる。3回目の登場はスーツに着替えての登場である。まず私が一人で登場し、その後に新婦が父を伴い登場する。3人でガッシリと手をつなぐと新婦の父は「お前に任せた!」と力強い口調で言ってくれた。結婚式の実感として残っているのはこの瞬間だけで、後は緊張の連続であった。式が佳境に近づくにつれ、私の緊張度はさらに高まった来る。何故かと言えば、式の最後の挨拶を新郎がするようになっているからである。「え~今日は~…お忙しい中~……どうもありがとうございました!」次々に継ぎ足してくるビール攻撃に耐えたものの、最後はほろ酔いのためタジタジになりながらもどうにか乗り切れる事ができた。結婚式が終わったあと、若女将の父と母に挨拶に向かった。若女将の実家は他県にあるため、遠く娘を送る事が心配だったのだろう。私の「一生大事にします。」という一言に胸を撫で下ろしたのか、父は笑顔で、母は少し涙目で見送ってくれた。これで晴れて山田ホルモンに若女将が誕生したのだ。
2004年10月11日
今日は火曜日。もちろん山田ホルモン及びミートミーツは休業日である。田舎でのんびり過ごすのもいいけど、せっかくの休みである。ドライブがてらショッピングモールに出かけた。実は前から気になってたお店が一軒あった。大型ショッピングモールのデパチカにあたる、ケーキやお菓子が売ってるお店の群れに、一軒だけ毎日行列の出来るチーズケーキ屋さんがあるのだ。いつ行っても行列なので、「美味しいんだろうな~」とは思ってはいたが、面倒臭がりやのため今度、今度と伸ばしてきた。今日は平日のためか珍しく行列は無く、無ければ無いで買おうとも思わない天の邪鬼ごころと、「・・・本当は美味しくないのでは・・・」などのこころが相まって、結局買わず仕舞いで帰ってきた。しかし偶然にも山田ホルモンの女将もショッピングモールでお買い物をしたらしく、いつも行列の、そのチーズケーキをゲットしていたのだ。さっそくコーヒーを注ぎ試食タイム!! 第一声は、(若旦那)「・・・うん。普通に美味しいけど並ぶ必要な無いね。」(女将)「当たり前くさ!!あのチーズケーキはお客さんが来てから焼きようとよ。」(若旦那)「(もぐもぐ)・・・へ~・・・(もぐもぐ)」(女将)「目の前で焼いて、一個一個袋に包みよったら行列にもなるくさ。」(女将)「そして、あんたみたいな人が行列に騙されて買うったい。」(若旦那)「(もぐもぐ)あったまいい~(ごっくん)」なかなかのアイデアである。「お客様を待たせてはいけない。」というセオリーは、実は存在しないのである。待たせる事によってお客さまの目を楽しませんる。待たせる事によってお店に行列を作らせる。既製品をスピードで捌く事だけが商売の王道ではないのだ。(若旦那)「それじゃ、山田ホルモンもお客さんを待たせて行列を作らせようよ!」(女将)「あなた馬鹿ね!そんなんしたらお客さんがみんな帰ってしまうが!!」
2004年10月05日
イチロー選手がとうとう84年間破られることの無かった記録を打ち破った。私のような野球ファンならずとも歴史的な安打に心打たれた。歴史的な偉業をこの目で見ようと、朝からBSテレビに釘付けになりっぱなしであった。第1打席の三塁手の頭上を越える安打で記録に並ぶと、続く第2打席で中前へはじき返し新記録を樹立。あっけなくと言うか、はたから見ると平凡な安打にさえ見えた。いや平凡な安打だったのだ。イチロー選手がある時こんな事を話していた。「数字にこだわっていません・・・1打席1打席を大切にするだけです。」(*正確な引用ではありません)そう、一つの安打は平凡かも知れないが、それを積み重ねることで偉大な山を築き上げる事ができるのだ。この偉業を達成した後のインタビューで、記者は最後にこう聞いた。「次の目標は?」イチロー選手は言った。「次のヒットが目標です。」ある意味特別に日本人らしいかもしれない。大きな構想をぶち上げて、なりふり構わず突進するのではなく、小さなことをコツコツと積み上げる。一見地味なようだが誠実に努力を積み重ねなければ成し得ない事である。客商売も一緒ではなかろうか。1打席ごと異なるピッチャーの癖や球種を描くように、1件ごと異なるお客様の注文や接客に対応しなければならない。一つの球を見逃すように、一人のお客様を見逃す事がある。一つの球種を読み切り安打につなげるように、消費者動向を読み切りヒット商品を作ることもある。イチロー選手の大記録は、1打席1打席、いや1球1球に並々ならぬ集中力と弛みない努力を注ぎ込んだ結晶である。私も大きなホームランだけを狙うのではなく、1件1件のお客様を大切に、一つ一つの商品に全力を注ぎ込もうと思う今日この頃である。
2004年10月02日
10月に入った瞬間、少し肌寒くなった。ミートミーツをオープンたのが1月8日だったので寒い部屋の中で慣れないパソコンのキーボードを押し続けた日々を思い出した。あれから9ヶ月が過ぎようとしている。初めて品物を送った時のことを思いだす。メールは無事に送れたろうか。品物は時間通り着いたのだろうか。お客様の口に合ったのだろうか。どんな食卓になっただろうか。満足して頂けただろうか。初めてクレームを受けた時のことを思いだす。しっかり真空パックしたはずなのに… 電話の対応が悪かったみたいだな・・・ もう一度メールで謝っといた方がいいのかな・・・ お客様に誠意が伝わったかな・・・メールが届くたびに急いで返信した。励ましの言葉あり、厳しいお叱りの声あり、情報提供あり、意味不明の怪文書あり、何度も読み返して打ち直して返信した。質問に対する適切な答えだっただろうか。自分を伝える事が出来ただろうか。日記を書く度に思う。面倒くさかったり、仕事の範囲から脱線したり、楽しかったり、行き詰ったり・・・ 支えてくる人がいて、教えてくれる人がいて、熱烈な読者がいて、書き続ける事ができた。たった9ヶ月の期間にいろんなお客様と出会い、楽天広場の仲間と接する事で自分を積極的に成長させる事が出来た。同時にミートミーツを育てる事ができた。立ち止まっていないだろうか。すでに初心を忘れていないだろうか。創意工夫を怠っていないだろうか。これから毎月一日の日を、自分の中の『仮想創業日』と名づけよう。常に初心に立ち戻り進歩してゆく為に・・・
2004年10月01日
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