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▼高野山で開眼東京帝国大学を退官した直後から6年間の福来の足跡については、よくわかっていない。透視や念写の実験を続けていたようだが、どこでどのように暮らしていたのか詳しくは明らかではない。断片的な情報をつなぎ合わせると、1916年東京に本籍を移し、『心霊の現象』という著作を発表。1917年には「観念は生物也」という論文を発表している。興味を引かれるのは、1919年に福来自ら超能力を得るために、和歌山県の高野山に籠もり修行を始めたことだ。晩年の福来をよく知る山形大学名誉教授の中沢信午(理学博士)は、『超心理学者福来友吉の生涯』の中で次のように説明している。「〔福来は〕夜は特別の宿坊(宝蔵院)に泊めてもらい、昼は奥の院で修行に励んだ。この修行の目的は自分自身が超能力を得るためであった。自ら念写できるようになれば理想的だが、そこまでいかなくても透視でもよい。あるいは、それもかなわぬならばせめて多少とも仏教の真髄がわかれば本望だ、というのであった」中沢によると、どうやら福来はその修行の結果、ある程度の神通力を手に入れることができたようである。福来がある日、奥の院を出て、金剛峯寺に近い明王院の赤不動の前に座って瞑想していると、何か「宇宙の大霊」あるいは「大生命」ともいうべきものが足の方から次第に浸透してくるのを感じた。その大霊は胸のところまで上がってきたが、それ以上は浸透しようとしない。福来はそのとき、その霊的な力が全身に満ちてほしいと念じながらふと、「こんなときに美しい音楽でも流れてくれば、宇宙の大生命が全身にみなぎるはずだ」と思った。すると、どこからともなくバイオリンの音が聞こえてきた。次の瞬間、福来は全身に不思議な力があふれるのを感じたのだという。(続く)
2007.05.31
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▼福来追放『透視と念写』を発表後、福来は上司である上田万年・分科大学長に呼ばれ、こう告げられる。「君は透視と念写の書物を出したが、あれは君のためによくなかった。一応相談してもらいたかった」そして上田は福来に、休職の辞令を告げたのである。「(正式に)辞令を渡すまでは秘密にしておいてくれ。そして君は、あくまで念写の研究をやるがよい」つまり、念写の実験をしたければすればよい。ただし、大学とは別のところでやってくれ、ということであった。当時の文官の身分上の変更を定めた文官分限令によると、休職満期になると自動的に退官となるとされていた。今日でこそ、国家公務員法で本人の意に反する休職は、心身故障の場合や刑事事件の場合に限られているが、当時は大学に都合が悪いと判断されれば、強引に首を切ることも可能であった。大学の体面を保つために、福来の存在は極めて都合が悪かった。福来の休職期間は二年間だった。二年後には体よく東京帝国大学から福来を追放できるわけだ。休職の辞令が出されたのは1913年10月27日だから、福来は二年後の1915年10月下旬には東京帝国大学助教授の地位を自動的に失うことになる。記録によると、正式に退官となったのは、1915年11月2日。ちょうど翌日、福来は46歳の誕生日を迎えるところであった。(続く)
2007.05.30
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▼四面楚歌長尾夫妻が亡くなり、千鶴子、郁子に続く第三の能力者として期待された人物も次第に能力を失っていく事態となり、福来も窮地に立たされていた。福来が実験結果の発表を躊躇していた1911年には、問題の実験に参加した藤と藤原の共著『千里眼実験録』が発表された。その中で藤らは念写現象を否定こそしていないものの、福来の念写実験は疑わしいと結論付け、念写が科学的に否定されたかのような印象を世間一般に広めてしまった。これにより、福来が迷信にとらわれ詐術まがいの実験を続けているとの風評は強まり、大学に対しても批判の矛先が向けられるようになった。福来はたびたび学長や総長に呼び出されるようになり、「君が大学の教員として透視や念写を研究すると、迷信を喚起するから大いに困る」「君が学者として己の信ずるところをあくまで主張するのもよいが、しかし事柄による」などと叱責を受けた。さらには恩師からも「千里眼問題に対する君の考えは大学諸教授とは非常に相違しているから、それを研究するには一時学校から離れてやったほうが君のためにも、学校のためにもよい。君の今の研究は心理学者による同情がない」と言われる始末。まさに四面楚歌の状況であった。そのころようやく福来は、千鶴子、郁子に次ぐ、第三の強力な透視能力者である高橋貞子に出会うことができた。霊能力者でもあった貞子に対する実験結果は後で触れることにするが、福来は三人の能力者の透視・念写実験の詳細な結果を『透視と念写』という著作にまとめ、1913年に発表した。長尾郁子の死から2年半、長尾判事の死から1年半が経過していた。福来にとって、千鶴子や長尾夫妻を弔うための渾身の著作であった。ところがこの著作の発表が、ますます福来の立場を悪くするのであった。(続く)
2007.05.29
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▼悲憤念写を詐術や手品の類であると言いがかりをつけられ、悲憤のうちに亡くなった郁子――。夫の長尾判事(與吉)は郁子の死後も、妻の名誉を回復しようと各方面に働きかけていた。1911年6月には「山川博士の実験に対する意見」と題する小冊子を作り、世間に誤って伝わっている実験の真相を明らかにしようとした。同時に福来に対しても、郁子の念写実験の詳細を早く発表するよう強く求めた。福来も何とか長尾判事の要請に応えたく思ったらしいが、発表を躊躇していた。福来はすでにほぼ完璧な条件下で念写の実験に成功しているのだから、早く発表すればいいではないかと思うが、再三の長尾判事の要請にも福来は今しばらく待ってほしいと答えるばかり。福来はなぜ、発表を遅らせたのか。直ちに発表できない理由があったと、福来は自著『透視と念写』の中で述べている。その第一の理由は、長尾と千鶴子の能力が世間で騒がれだした1911年1月、二人とは別に強力な透視能力をもつ人物が現われたので、その人物の実験に追われていたからであるという。千鶴子と郁子がこの世を去った今となっては、福来の実験を他の学者が追試しようにもできなくなってしまった。追試できない実験の発表をするよりも、新しく現われた、この第三の人物の能力を完璧な条件下で実験して、確かな証拠を示しながら併せて千鶴子と郁子の実験結果を発表したほうが得策だと考えたようだ。ところが、その第三の人物は当初こそ千里眼能力を発揮していたが、実験を重ねるに連れて段々能力が発現しなくなってしまった。新たな確証と「生き証人」をもって発表しようという福来の思惑は、大きく外れてしまった。哀れなのは長尾判事であった。福来が妻郁子の名誉を回復してくれると思っていたが、福来に何度催促の手紙を書いても、福来は「近いうちに必ず」と返答するだけで、一向に発表しない。そうこうするうちの1911年10月ごろ、長尾判事は胃病を患い、翌12年1月には病床に伏してしまう。福来への手紙も、娘が代筆してようやく出せる有様。長尾判事の病気は深刻で、胃には腫瘍が生じていた。そして、郁子の没後1年1ヶ月後に当たる1912年3月、息を引き取ったのである。後には三人の子供が残されていた。(続く)
2007.05.28
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▼郁子死す本来公正であるべきはずの実験者(立会人)の不可解な行動、乾板の盗難、それに脅迫状――自分の周りで次々に起こる怪事件に、郁子は疲弊していった。特に脅迫状をもらうに至っては、郁子は言い知れぬ恐怖を感じ、精神を沈静させるのに時間がかかった。当然、福来の実験は中止となり、福来は13日夕には丸亀を後にして、東京へ帰っていった。その後も透視実験や念写実験をめぐるゴタゴタは続いた。1月17日の朝日新聞には、実験を失敗させた張本人である藤の談話が掲載された。その中で藤は、実験をする前から郁子の念写は手品であると思っていたこと、郁子の念写した写真をみると細工をした形跡があることなどを得意気に語っていたのである。まったくの言いがかりである。藤は最初から念写の事実を証明する実験をするつもりはなく、念写という“詐術”を見破る実験をする意図があったことがわかる。郁子は藤の談話が掲載されたことを知り、激怒する。ところがこの記事が出た翌日に千鶴子が服毒自殺し、福来や郁子に大きなショックを与える。精神的に追い詰められた郁子は自分に着せられた汚名をすすごうと、自宅で判事の夫とともに懸命に念写実験を続けた。千鶴子の弔いを兼ねて、「佛」という字や観音像の念写に成功、それ以外にも「東京」や「神通」という文字を念写させ、それらの実験の詳細を福来に手紙で伝えた。しかし、こうした念写実験に没頭したことが郁子の体力を奪ったのか、再び観音像を念写しようとした1月26日、郁子はとうとう熱を出して寝込んでしまう。医師はインフルエンザと診断したが、発熱は続き、一向に回復しない。心労と無理がたたったのだろうか。郁子はその後、回復することはなく、1ヵ月後の2月26日に永眠する。1月24日に念写した「通力」が郁子の最後の作品となった。この「通力」こそ、フィルムの入ったケースを盗まれた13日に念写することになっていた文字であった。本当は富士山を念写する予定だったが、郁子はふと13日に念写することになっていた「通力」を思い出し、富士山の代わりに念写したのだという。(続く)
2007.05.27
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▼盗難と脅迫大阪時事新報はさらに、詐術を見破られた郁子は二度と念写実験などしませんと山川に誓ったとまで事実を歪曲していた。この記事には山川本人も驚き、ただちに新聞社に抗議、記事の取り消しを求める書簡を送った。しかしこれに対するまともな返答はなく、世間一般には山川博士が念写の詐術を看破し、結局念写は存在しないのだという考えが広まってしまった。そこには「ああ、やはり念写はなかったのだ」と安心する人々の群れと、その心理に付け込む新聞社があった。多大な被害を被ったのは、長尾夫妻と福来である。実験の失敗は山川側、とくに藤の「落ち度」にあった。それなのに念写は詐術であったと断定するとはどういうことか。福来は郁子らの名誉を挽回するために、新聞記者立会いのもとで念写実験をすることを提案した。間違った記事を掲載した大阪時事新報は参加しなかったが、1月12日には朝日新聞、報知新聞、香川新報の記者が見守る中、「活人剣」という文字の透視と「忠」という字の念写に成功した。ただしこの実験では、念写に使った乾板が11分間だけ監視外におかれる時間帯があったので、乾板に代わり巻きフィルムを使うなど、さらに厳密な実験を翌13日に行うことにした。ところが13日の実験の最中、東京から川口と名乗る人物が長尾家の玄関先に来て、実験に立ち会いたい、福来とは立ち会う約束がしてあると言いはじめた。「東京の川口」など福来には思い当たらない。実験の途中であったので立ち去るように家人を通じて伝えても、立ち去らない。仕方なく福来が応対して追い返そうとしたら、そこにいるはずの「川口」はいなくなっていた。同時に別室に置いてあった、試験に使うことになっていたフィルムを入れたケースもなくなっていた。「試験物を泥棒に盗まれた!」――。福来がそう叫ぶと、長尾夫妻や立会いの新聞記者が集まってきた。「東京の川口」が盗んだとしか思えなかった。皆でフィルムの入ったケースを探したがどこにもない。さんざん探した挙句の午後3時ごろ、郁子の透視に従って屋外まで捜索の範囲を広げたところ、ようやくケースが発見された。ケースの中には紙片が入っており、次の文字がカタカナで書かれていた。「カクシテイタストイノチハモラッタゾ」脅迫文であった。(続く)
2007.05.26
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▼怪事件が残した禍根今日においても、あの怪事件が誰かの策略であったのか、それともただのミスだったのか、わかっていない。もし前者だとしたら、福来の実験に反感をもつ東京帝国大学のグループが実験を失敗させる明確な意図をもって、乾板の入ってない箱に向かって郁子に念写させ、それを現像したと偽って何も写っていない写真を示し、念写現象の「インチキぶり」を喧伝するつもりであったのだろう。おそらくこのグループにとっての計算違いは、郁子に本物の透視能力があったことだ。郁子はまさに、常人では知りえないような事実を透視し、見事陰謀を見破ったのだから。だが単なるうっかりミスだとしたら、郁子は山川らの前でもう一度、念写実験をして念写が真実であることを証明すべきであった。あのとき郁子が山川立会いのもとで完璧な透視実験を成功させていたら、郁子は心労などから病気で死ぬこともなかったし、福来も後に大学を“追放”されることがなかっただろう。そして何よりも、日本の超心理学研究がその後100年間、これほど異端扱いされることもなかったのではないだろうか。そうであっても、郁子・與吉の長尾夫妻にはどうしても実験を継続したくない理由があった。“ミス”をした張本人である藤が、その後一度も長尾夫妻や福来博士と会おうとせず、いっさいの説明を事実上拒否していたからである。二日後の1月10日午前になって、藤はようやく長尾宅先を訪れ、暇乞いをした。しかしその際も、汽車の時間が迫っているという理由で藤は詳しい説明をせず、乾板の件は自分が粗忽だったからだとだけ告げて立ち去った。怪事件発覚後の藤の挙動は、福来や長尾との面会を拒絶するなど、不審な点が多かった。後にわかった藤の説明によると、藤ともう一人の技手が高等女学校の暗室で乾板を取り扱った際、お互いが乾板をボール箱に入れたと“勘違い”して、空の箱を実験で使ってしまったのだという。だが、乾板を入れた箱と入っていない箱では明らかに重さが違うはずである。この稚拙な説明を信じろというほうが無理であった。ところが驚くべきことに、悪意をもってこの怪事件を取り上げ、郁子の念写がインチキであると報じる新聞が出てきた。1月11日付の大阪時事新報である。山川博士の実験は成功し、郁子の千里眼がまったく研究価値がないだけでなく、人心を惑わす詐欺まがいの行為であると断じたのだ。(続く)
2007.05.25
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▼怪事件の顛末このままでは拉致が明かないと判断した山川が、実験の箱を開けて乾板の有無を確認したのであった。郁子の主張は正しかった。そこには十字形の鉛があるだけで、乾板の影も形もなかった。これは一体どうしたことか。山川は藤原らを呼んだ。空っぽの箱を前に一同憮然とし、声も出ない。そのとき奇妙なことが起きた。山川に同行していた物理学者で東京帝国大学物理学教室講師の藤教篤が慌てて座を立ち、一同に何の挨拶もせずに立ち去ったのであった。一同は唖然とした。その後姿を見送りながら郁子の夫與吉が口を開いた。「藤君は何のために立ち去りましたか」山川が推量で答えた。「彼がボール箱中に乾板を入れたる男なれば、自らあやふやに思うて探しに行きたるならん(彼がボール箱に乾板を入れた人物なので、自分でもあやふやに思って探しに行ったのでしょう)」気まずい雰囲気が流れていた。山川はボール箱を調べながら、箱の中に置いた三個の鉛十字形に動かされた跡があることや、実験物を入れておいた鞄に荒らされた形跡があることなどを言い訳がましく説明した。皆は憤慨して、口々に「だれかがわれわれの研究を邪魔しようとしているのだろう」と言う。この間、郁子は台所に籠もり、犯人を探し出すべく霊視を試みていた。すると郁子には、陰謀の関係者として四人の顔が浮かんだのだという。乾板がなかったのは誰かの陰謀なのか。それともただのうっかりミスなのか。そこへ渦中の藤がひょっこり玄関先へ戻って来て、藤原を呼んだ。藤は藤原に「乾板はあった。自分は入れたと思ったが間違いであったから、このことを先生(山川のこと)に告げてくれ」と言い残して、そのまま立ち去ってしまった。それを聞いた山川は「やれやれ」と言って立ち上がると、台所の郁子のところに行き、郁子の前に両手をつき、白髪の頭を下げた。「藤のような粗忽者を使って、奥様に対してすみません。健次郎はこのとおり、両手をついてお詫び申します」山川にこうまでされて、郁子も許さないわけにいかない。「あなた様のような方にそんなにしていただいてはすみません。間違いとわかれば私も安心です」実験は中止となった。郁子の感情を大いに害してしまったからである。この状態では郁子は精神統一ができそうになかった。山川は渋々、宿に引き上げ、この日の会合はお開きとなった。この怪事件が、大きな禍根を残したのであった。(続く)
2007.05.24
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▼怪事件の発生精神統一を始めてから約一分五秒後、郁子は目を開いて顔を上げ、目の前にいる山川を見つめた。そして畳に手をついて一同に礼をすると、「一寸」と言って隣の部屋に退いてしまった。どうしたのだろうと一同、訝っている。すると郁子は、実験を以前から手伝っていた大学院生を部屋に呼び、「山川さんは仕掛けをしていらっしゃるから、実験はやめたい」という旨を伝えた。驚いた大学院生は、「なぜですか」と郁子に尋ねた。郁子は次のように説明した。いくら光を出して「健」の字を押し付けようとしても、硝子板(乾板のこと)がありません。ただ光る十字形が二つ見えるばかりで、いくら内をたちわっても硝子の板が見えませぬ。だから、山川さんは何か仕掛けをしていなさるであろうと思います。そのときの郁子は激昂しており、山川に対する不信感を募らせている様子であった。そのただならぬ様子に大学院生は「その旨伝えます」と告げて、山川の同行者で後に著名な気象学者となった藤原咲平に、郁子が実験の継続を拒絶していることと、その理由を伝えた。藤原が山川に乾板をちゃんと入れたかどうか確認したところ、山川は「確かにプレートを入れた」と断言する。それを聞いた郁子はますます激昂し、「あまりにもひどいなさり方」と涙を流しながら訴え、あくまでも乾板は入っていないと主張した。お互い譲らないため、藤原らは右往左往するばかり。藤原から相談をもちかけられた福来らが隣室で思案に暮れていると、山川らが待機している部屋から「藤原君、プレートがない!」との叫び声が聞こえた。声の主は山川本人であった。(続く)
2007.05.23
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▼トリックか本物かある一つの実験の成否が、その学問の将来を左右することがある。成功すればその学問は発展し、失敗は大幅な研究の遅延、もしくは終わりを意味する。1911年1月8日、丸亀の長尾郁子の家で行われた念写実験は、まさにそのような意味があった。当時の東京帝国大学では、福来のやっている念写実験は何かのトリックであり、とても科学的であるとはいえないとする意見が強くあった。厳封、密封された感光板に像が写ることは物理学的にあってはならないことであった。それが実際に起こってしまえば、既存の科学そのものが否定されることになりかねない。福来の「暴走」を何とか食い止めようとする勢力が黙っているわけはなかった。一方、福来にとっては、自分や郁子、千鶴子にかけられた嫌疑を晴らすチャンスであった。確かに福来の実験では、実験に使う乾板が一時、福来の観察が及ばない場所に置かれるなど問題点がある場合もあった。だが、完璧な条件下でも郁子は念写をやってのけていた。今回の実験でそれを証明できれば、世界でいまだ報告例がない、念写という世紀の発見が著名な物理学者によっても公認されることになる。実験当日、前総長の山川健次郎ら東京帝国大学から物理学の専門家三人と福来、それに地元中学の校長らが長尾宅に集まった。実験では郁子と山川が向かい合って座り、山川の背後には福来らが控えていた。郁子の夫である判事の與吉も郁子の傍らに座った。山川は乾板が入れてあるという箱を自分の膝の上に置き、両手でこれを持ちながら乾板に「健」という字を念写するよう要求した。言うまでもなく、山川健次郎の「健」である。箱は山川が持ったまま、郁子はいつものように精神統一を始めた。(続く)
2007.05.22
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▼長尾郁子と念写4福来立会いによる長尾郁子の念写実験は、年を越して続いた。郁子は黒丸を念写した同じ日に、黒い正方形と十字の図形を念で乾板に写しこんだ。12月29日には、図形ではなく「天照」という文字を念写することに成功。「天照」に関して郁子は、手本とする文字を見ることなく自分の頭の中に浮かべた文字を乾板に感光させたのであった。さらに1911年1月1日には「神」という字の、2日には「観音」と「仁」の、3日は「一」という文字の念写に相次いで成功した。4日は、福来は所用で神戸に出かけたために立ち会えなかったが、興味深い実験があった。友人の今村博士らが行った実験で、乾板を三枚重ね、そのうちの中央の乾板にのみ文字を念写するよう郁子に求めたのである。では、どのような文字を念写するかという段になり郁子は、乾板が三枚ならばその形を模して「川」という文字を真ん中の乾板に念写させましょうと言う。今村博士らもこれに賛同し、郁子はいつものように精神統一した。約40秒後、郁子は汗を拭いながら「写りました」と言う。念写の際、三枚の乾板は郁子の前に並列して現われ、その真ん中の乾板に「川」を写したのだという。今村らがすぐにこの三枚の乾板を現像したところ、三枚重ねの真ん中の乾板だけ、「川」という字が感光していた。この実験結果の面白いところは、郁子の心眼に三枚重ねの乾板が並列して現われたこともさることながら、上下二枚の乾板になんら感光もさせずに中央の一枚だけに文字を感光させている点である。この結果が本当なら、念写は人間の額から出る物理的な「怪光線」の類ではないということになる。怪光線なら前後の乾板にも何らかの感光があってしかるべきである。それがないということは、念は空間に突如現われるエネルギーのようなものであるかもしれないわけだ。とういことは、被験者が思い描くことができれば、どんなに距離が離れていようと「念のエネルギー」を送ることができる可能性も出てくる。これらの実験結果から、念写は福来にとって紛れもない事実となった。ところが東京帝国大学では、福来が迷信にとらわれた非科学的実験をしているのではないかという非難の声が上がっていた。そこで福来の実験が科学的かどうか調べるため、前東京帝国大学総長山川健次郎ら物理学者三人の前で郁子の念写実験が実施されることになった。そして、このとき起きた怪事件が、日本の超常現象研究の未来を決してしまうのであった。(続く)
2007.05.21
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▼長尾郁子と念写3乾板やフィルムのような感光板に人間の念が働きかけ、感光させてしまう。今日では「念写」として知られる現象が初めて確認されつつあった。自分の仮説が正しいことを証明するため、福来は1910年の暮れも押し迫った12月25日四国丸亀を訪ねて、郁子の実験をすることにした。乾板一枚を光が入らないように厳封し、それをボール箱に入れて箱に「心」という字を書いた紙を貼り付けた。そして郁子に、この文字を念じて乾板に写し込むよう精神統一することを求めた。12月26日午後2時ごろのことだった。郁子は福来の目の前でその箱を膝の上に持ち、「心」という文字を凝視。次に両目を閉じて合掌しながら「天照皇太神宮」と唱え、精神統一をした。最後に合掌の手を下ろして膝上で指を組み「南無観世音大菩薩」と唱えた後、目を開けて言った。「何かわかりませぬが、とにかく念じこみました」。そのとき郁子は、額や腋の下が汗でびっしょりとなっていたという。福来はその夜、旅館の一室で友人立会いのもと実験に使った乾板を現像した。そこには「心」という文字こそなかったが、写真の中央だけが墨をにじませたように黒くなっていた。乾板の全面でなく一部だけ感光していたのである。なぜこのような現象が起きるのか。福来には念による作用としか思えなかった。しかしまだ、証明にはならない。翌27日、今度は白紙に黒丸を書き、箱の中の乾板に黒丸を念じこむよう求めた。郁子は既に勝手がわかっているためか、快く応じた。前日同様に精神を統一すると、2分ほどで「今日は確かに打ち込みました」と言う。福来がただちに近くの写真館の暗室で現像したところ、見事に黒丸が写真に写っていたのである。(続く)
2007.05.20
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▼長尾郁子と念写2郁子は千鶴子と違って、実験者や立会人が目の前にいようと気にすることもなく、また透視する物体(実験材料)を手に取らなくとも透視することができた。だが透視結果は千鶴子よりも気まぐれで、完全的中が続いたかと思うと、まったく外れる場合が続くこともあった。福来は郁子に対する実験を続けている最中、ふと、ある実験方法を思いついた。写真撮影をしてまだ現像していない乾板(写真の感光板)に写っている潜像を透視させるのである。これなら開封しても感光してしまうから、「開封した」などと言いがかりをつけられることもない。福来は1910年11月21日、「高」という文字を撮影したまま現像していない乾板を光が入らないように黒紙などで密封、信頼できる友人を介して郁子に透視するよう要請した。12月4日の実験で郁子は見事、その乾板の文字を透視してみせた。続いて無作為に抽出した三文字「哉天兆」を撮影した未現像の乾板を友人に郵送し、同様な実験を試みた。これも郁子は完璧に的中させた。通常では見ることができない乾板の潜像を、郁子は透視したのである。発見はそれだけではなかった。この実験で使用した乾板を現像したとき、同時に同じ条件で撮影・現像した写真と比べて、実験に使った文字の周囲にはぼんやり感光した現象が見られたのだ。これは実験中に開封した結果だろうか。いや、それはありえない。開封したのなら直ちに真っ黒に感光するはずである。では郵送中に長時間太陽光線を浴びて、薄っすらと感光したのか。福来は同じ条件で撮影した乾板を、わざと郵送した乾板と同じ条件になるように日光にさらしていたが、感光現象は現われなかった。福来は感光現象が生じた原因の一つ一つを検証していった。その結果、外界光線の影響ではなく、郁子が透視する際の精神作用によって生じたのではないかと考えるようになったのである。(続く)
2007.05.19
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▼長尾郁子と念写千鶴子の服毒自殺は、福来にとっても、また同様に福来の実験に参加していた長尾郁子にとっても、衝撃の出来事だった。長尾郁子も千鶴子の自殺から約2ヵ月後に、インフルエンザをこじらせ病死する。郁子も千鶴子同様に一部の新聞から「詐欺師」のレッテルを貼られ、外出すれば石を投げつけられるなど、いたたまれない状況に追い込まれていた。その汚名を晴らすこともなく病死したのは、さぞ無念であっただろう。郁子は実は、千鶴子よりも透視的中率は低かった。それでも郁子が福来にとって極めて重要な被験者となったのは、おそらく世界で初めて、念写という画期的な現象を発見することができたからであった。郁子は1871年、周防国徳山(山口県徳山市)に生まれた。その後東京で暮らしていたが、17歳のときに津軽藩の士族である長尾興吉と結婚。判事となった興吉とともに秋田、盛岡、宇都宮など各地を転勤で渡り歩いた。興吉が判事を退職して宇都宮で弁護士を開業していたとき、郁子は遠からず大火災があることを察知して家人に告げたところ、実際に「宇都宮大火」が起こり家人を驚かせた。興吉はこの火事後、再び裁判官職に戻り、四国丸亀の判事となった。郁子の能力は、「火事の予言」を的中させた後、いよいよ強くなっていった。丸亀市でも火災を言い当て、ほかにも地震や暴風雨の被害などの予言を的中させた。1910年には、千鶴子の透視能力を新聞で知った郁子が自分でもできるかもしれないと遊び半分でやってみたところ、透視ができるようになったという。その郁子の透視能力の話を1910年10月23日付けの東京朝日新聞で知った福来は早速、郁子の能力を実験してみることにした。(続く)
2007.05.18
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▼千鶴子死す当時のマスメディアは、千鶴子らの透視能力実験を大々的に取り上げた。最初はセンセーショナルに、千鶴子らの驚異の能力をもてはやした。新聞にはほとんど毎日のように「千里眼」の文字が躍った。しかしマスメディアは、昔も今も気まぐれである。注目さえ集まれば、どのような二ユースにも飛びつく。たとえば、地球温暖化の危機にコンセンサスが形成されつつあった2001年、米雑誌『ニューズウィーク』は「地球温暖化は誤りだ」という内容の特集記事を掲載、話題となった。読者は温暖化で地球が危ないという「不都合な真実」よりも実は温暖化など進んでいないのだという「都合のいい真実」のほうに安心する。ブッシュ政権の誘導があったかどうかは知らないが、特集はそうした大衆心理を巧みに捉えていた。以前紹介した日航寺内機長のUFO目撃事件でもそうであった。最初は好意的に取り上げ、後日「あれは星だったのだ」という説を大きく紹介して、読者を“安心”させる。特異な現象というのは面白いが、大衆を不安にもする。その不安を取り除きたいという心理を利用するのである。千里眼が耳目をひいていた1911年1月、この大衆心理につけ込んだのが、報知新聞であった。前年9月に東京で行われた千鶴子の透視実験を再度取り上げ、千鶴子は鉛管をすり替えた「大詐欺師」であると書きたてたのだ。雑誌『太陽』には、東京の実験を直接観察していない理学博士中村清二による「時々開封した形跡があったり、すり替えたりする形跡があることから、千鶴子の透視能力を信用しない」というコメントが掲載されていた。それらを読んだ千鶴子の心痛はいかばかりであっただろう。千里眼が成功した実験は無視して、失敗した実験だけをクローズアップする。そして被験者である「超能力者」の人格まで攻撃するのである。それを読んだ読者は「ああ、やはりあれはインチキだったのだ」と安心する。同じようなバッシングに似た報道は、スプーン曲げの清田益章氏に対してもあったことは周知の事実である。東京の透視実験において、千鶴子が結果的に鉛管を「すり替えた」のは事実だが、他意はなく「心得違い」であった可能性が強い。「時々開封した形跡があった」というのも言いがかりで、福来自信が中村清二に強く抗議している。だが自らの失敗に悩み、さらには金儲けの話に巻き込まれ、憔悴しきっていた千鶴子にとって、1月18日付けの報知新聞による攻撃はとても耐えうるものではなかった。千鶴子は同日、熊本市内にある義兄の家で、染料に使用する重クロム酸を飲んで自殺した。(続く)
2007.05.17
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▼自信喪失福来がこうした厳密な実験にこだわったのには理由があった。千鶴子が有名になるにつれ、一部の科学者や新聞から、千鶴子は詐欺師であるとか、実験でインチキをしているなどと誹謗中傷を千鶴子が浴びるようになったからであった。こうした報道や中傷で一番傷ついたのは千鶴子であった。「千里眼」をもつ千鶴子といえども、いつも透視を的中させられるわけではない。調子が悪ければ失敗する。失敗をすると、「インチキ」「詐欺師」などと言われ、意気消沈する。精神が安定しなければ、透視もままならなくなる。千鶴子は1910年9月に東京で行われた実験で失敗してしまう。東京帝国大学総長山川健次郎や、東京高等師範学校教授で著名な生物学者丘浅次郎ら早々たる顔ぶれが立会人として並ぶ実験で、透視すべき鉛管ではなく、あらかじめ福来が練習用に渡していた鉛管を透視してしまうという失態を演じたのだ。千鶴子にとってはどちらの鉛管でもいいと思ったのだろう。だが立会人からは、鉛管をすり替えたとの疑義が出された。二日後の実験では成功したものの、実験方法が不十分であるとの指摘を受けた。半ば意気消沈して熊本へ帰った千鶴子はその苦しい胸のうちを手紙にしたため、東京の福来に送った。驚いたのは福来であった。手紙の文面からは、千鶴子が憔悴しきった様子が伝わってくる。また、千鶴子の能力を利益のために悪用しようとする「有力者」も現われたらしい。千鶴子の苦悩は深まるばかりで、このままでは透視能力も衰退していくのではないかと思われた。そこで千鶴子の自信を取り戻す意味からも、福来は同年11月に再び熊本の千鶴子を訪ね、実験をすることにしたのであった。その実験で千鶴子は福来の眼前でも透視することに成功したことは既に述べた。千鶴子は自信を取り戻したようであった。立会人の眼前で透視ができれば、もはや「インチキ」だなどと誹謗されることもなくなるはずである。翌1911年4月に再び上京し、山川総長ら著名な学者が居並ぶ前で実験を成功させようと誓い合い、福来は熊本を後にした。このとき上熊本駅のホームまで福来を見送った千鶴子は「来年の4月には上京します」と、微笑を浮かべて答えていた。しかし、福来が千鶴子の顔を見たのは、それが最後となった。(続く)
2007.05.16
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▼透視実験の問題点福来はその後も、通信(郵便)による実験を続けた。その結果はすべて千鶴子に透視能力があることを裏付けるものばかりであった。当然福来は、千鶴子の透視能力が実験により証明されたと確信した。しかし一点だけ、実験には問題があった。それは千鶴子が透視する際、千鶴子は集中が乱されるという理由で部屋に独りきりになることを求めたからである。千鶴子が透視する瞬間を見たものがいなかった。封筒には開封された形跡はまったくなかったが、科学的な実験としては不十分であると指摘される可能性があった。今日では監視カメラを導入すれば解決した問題かもしれないが、当時はそのような機材もなかった。そこで福来は、もっと厳密な実験をできないかと考えた。それは、長さ約5センチの鉛管内に福来自身が文字を書いた紙片を折りたたんで入れ、管の両端を半田付けして密閉するという手法だった。これなら千鶴子がいくら独り部屋に籠もろうとも、開けることはできないだろうというわけだ。1909年9月、京都に千鶴子を呼んでこの方法で実験したところ、最初は失敗したが、やがてこれも言い当てることができるようになった。福来はさらに厳密性を強めるため、同年11月再び熊本の千鶴子を訪ね、自分の目の前で透視をするよう頼んだ。千鶴子は精神統一ができないという理由で最初は断っていたが、千鶴子の顔を垂れ幕(襖の鴨居からたらした毛布)で覆い隠し、手元だけ見えるようにして、千鶴子が観察者である福来に気を散らすことがないようにすることで、ようやく了解を取り付けた。これならば観察者の福来から千鶴子の手元が見えるため、千鶴子が開封したのではないことが確かめられる。千鶴子は最初の二回、おそらく慣れない実験に対する緊張から失敗したが、続く三回の実験では見事福来が看視する目の前で、透視実験に成功したのであった。(続く)
2007.05.15
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▼千鶴子の透視実験2ほかの5枚の封筒の透視結果も、福来を満足させるものであった。6番の封筒では、「井」を「水」と読み違えており一字不的中であったが、「東京都小石川区小日向茗荷谷町52番地 深水虎蔵(実際は深井虎蔵だった)」と、住所は完璧に透視していた。この名刺には「井」と「虎」の部分に錫箔が貼られていた。7番の封筒は、「福」と「松」の二字に錫箔が貼ってあったにもかかわらず「東京帝国大学分科大学学生 澄田福松」を完全的中。8番の封筒では、「大塚俊一」の「塚」を「壕」のような字に間違えた以外は的中させ、9番、10番の封筒では「恭賀」の「恭」を「添」と記した以外は、「高橋穣」という名前全部と「桑田芳藏」の「桑田」(芳藏には錫箔が貼られており、千鶴子は「薄黒くて」わからなかったという)を言い当てた。この結果を見て、千鶴子に千里眼能力があると確信した福来は1910年4月10日~15日の間、福来の友人で、既に千鶴子についていくつかの実験を成功させていた京都大学の今村信吉医学博士とともに熊本を訪問、直接千鶴子の透視能力を実験した。実験は千鶴子の義兄の家で行われた。千鶴子は当時の婦人としては背が高く、痩せ型色白で落ち着いた風情であった。千鶴子は福来らの目の前でも透視能力を現わすことができるだろうか。実験が始まった。ところが最初は緊張しているせいか、千鶴子は透視が思うようにできないという。最初の4回の実験のうち的中させたのは1回だけであった。それでも千鶴子は次第に実力を発揮しはじめる。福来と今村が50枚の名刺の中から自分でもわからないように一枚を抜き取り、錫製茶壷に入れ、さらにそれを桐の木箱に入れて密封した。千鶴子はそれらを約8分~15分かけて次々と透視し、ほとんどを的中させた。全17回の実験のうち、完全的中11、一字誤読2、完全な誤読2、透視不能2であった。(続く)
2007.05.14
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▼千鶴子の透視実験千鶴子の話を聞くにつれ、福来はますます千鶴子の千里眼能力を試さずにいられなくなった。その年(1909年)の秋にも実際に熊本を訪れようと思ったが、急用で行かれなくなると、翌1910年2月には居ても立ってもいられなくなり、とうとう通信による実験を行ったのである。実験は厳密に行わなければならなかった。福来は手元にあった多数の名刺の中から無作為に19枚を選び出し、名刺の名前の全部、あるいは一部を錫箔(すずはく)で張りふさぎ、さらに見えないように名刺の表や両面を不透明の白いカードで覆った。その上で、その全体を不透明の封筒に入れ、念のために封じ目に紙を貼り福来の印を押して厳封した。これなら通常の視覚では太陽に透かそうとも水に濡らそうとも、封筒の中身を見ることは不可能であった。これを熊本に住む福来の友人宅に郵送し、その友人を介して千鶴子に「封筒の中には名刺が入っている」とだけ告げ、封を切らずに名刺の名前を読み取るように求めた。二週間ほどが過ぎた。封筒が入った包みが送り返されてきた。福来が包みを開けると、19枚送った封筒のうち7枚が入っていた。19枚には通し番号が付いていたが、送り返されてきた封筒は4~10番であった。封はそのままで、開けられた形跡はまったくない。結果はどうだったであろうか。福来は千鶴子の透視結果と実際に封筒に入った名刺の名前とを照合していった。4番目の封筒について、千鶴子は「文字は見えない。白紙一枚、別の一枚には長さ一寸(約3センチ)幅2分(約6ミリ)くらいの薄黒い紙が貼ってある」という透視内容を記している。実際、4番目の封筒は白色のカード二枚が入っているだけであった。そのうちの一枚には、長さ一寸三分五厘、幅二分五厘くらいの錫箔が貼ってあった。福来は19枚の名刺の中で、白紙のカードを入れていたが、千鶴子は見事に言い当てたのである。ではそのほかの封筒はどうか。五番目の封筒について千鶴子は「酒井忠道 白紙上下二枚、中の紙に右の文字あり。文字には表裏に薄黒い紙が貼ってあるのを見た」と書いている。実際5番目の封筒には、酒井忠道の名刺が入っており、名前の表裏に錫箔が張られ、さらに白色のカード二枚で挟んであった。これも完全的中である。これは驚異的な千里眼能力であった。(続く)
2007.05.13
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▼千里眼「千鶴子」との出会い福来の心理学の研究は順調に進んでいた。『教育心理学講義』『心理学講義』などの著作を発表、1908年には東京帝国大学の助教授に昇進した。しかしその間にも福来は、催眠がもたらす不思議な現象に心を奪われていた。その福来が千里眼(透視)能力をもつという御船千鶴子の話に飛びつかないはずはなかった。千鶴子の噂を聞いたのは1909年春のことであった。千鶴子は熊本県松合村に住む御船秀益の次女で、当時23歳ほどの感情豊かな女性だった。あるとき義兄が、当時民間でも流行していた催眠術によって千鶴子に「千里眼ができる」と暗示をかけたところ、その能力が発現したという。千鶴子が発揮した千里眼の一つに、こういうことがあった。1904年7月15日、日露海戦の最中、沖ノ島付近で常陸丸が撃沈されたとのニュースが報じられた。しかしそのニュースだけでは、知人が所属している第六師団が常陸丸に乗り込んでいたかどうかわからない。そこで義兄は千鶴子に催眠術をかけて第六師団の兵士が常陸丸に乗っていたかどうか尋ねた。そのとき千鶴子は「第六師団の兵たちはいったん長崎を出発したが、途中で都合により引き返したため、常陸丸には乗っていない」と答えた。それから三日後に第六師団の兵から家族に入った連絡により、千鶴子の透視が事実であったことが確認されたのだという。このことがあってから義兄は、覚醒中の千鶴子に対し深呼吸をして無我の境地になれば万物が透視できると告げ、毎日瞑想するよう命じた。すると千鶴子は、催眠誘導がなくても深呼吸することにより千里眼能力を開花させていったという。梅の木の中にいる虫が見えたり、海辺で落とし半ば砂に埋もれた指輪を見つけたり、ブリキ缶や封書に入れた名刺の名前を当てたりして、皆を驚かせるようになったのである。(続く)
2007.05.12
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▼催眠中に発現する透視能力飛騨・高山生まれの秀才、福来友吉が超常現象にのめり込むことになったのは、東京帝国大学の大学院で自分の専攻である催眠心理学の実験中に、ある出来事が起きたからであった。その出来事以外の催眠実験は、ある意味で非常に順調であった。すべてが論理的に説明可能だった。催眠により学習・記憶能力が増す可能性があること、自分が忘れたと思っていた知識や情報も催眠状態になると思い出せること、催眠により別の人格転換が起きること。福来はそれらの実験結果をまとめ、『催眠心理学』などを発表。1906年、37歳のときには同大学の講師となり、文学博士の学位を取得した。しかし福来の心に一番残ったのは、説明ができないその出来事であった。ある被験者を催眠にかけたところ、机上に閉じて置かれていた学術書の何ページに何が書かれているか言い当ててしまったのだ。その学術書は高度な専門書で、被験者が読んだはずも理解したはずもないものであった。しかもこの特異現象はしばしば観測することができたのだという。昔の記憶が催眠によって呼び起こされ、思い出すことができるというのは理解ができる。普段忘れていると思っていることは、記憶を呼び戻す回路がうまく機能していないだけであるわけだ。ところが、読んでもいない本、それも高度な専門書の内容を言い当てるのは、理屈では答えが出ない。そこから導き出せる結論は、人間にはもしかしたら透視のような、眼を用いずにものを見たり知ったりする能力があるのではないかというものだった。福来の前に、超心理学という、とてつもなく大きな可能性を秘めた研究テーマが現われた。(続く)
2007.05.11
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▼欧米と日本の取り組み超常現象の研究に力を入れている大学・研究機関は、プリンストン大学だけではない。アメリカでは超心理学研究の中心的役割をはたしてきたデューク大学(現在はライン研究センターに引き継がれている)、イアン・スティーブンソン教授(今年二月に死去)が中心になり「前世」や「死後の世界」の研究を進めているヴァージニア大学医学部人格研究室、月面着陸に成功した宇宙飛行士エドガー・ミッチェルがカリフォルニア州に設立したノエティック・サイエンス研究所などがある。そのほか、ジョセフソン素子の発見でノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンがPSI(サイ=超能力や心霊現象のこと)に関する物理的研究を進めている英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所心物統合プロジェクト、科学ジャーナリストのアーサー・ケストラーの遺産で1984年に英国エジンバラ大学に設置された超心理学講座「エジンバラ大学ケストラー講座」、脳波研究で知られるハンス・ベンダー教授が1950年にドイツに設立したIGPP(心理学と精神衛生の境界領域)研究所、オランダではアムステルダム大学心理学部特異認知研究室がある。中国や旧ソ連も国家として超常現象の研究に取り組んでいた。ところが日本に目を向けると、超常現象や超心理学の研究はまだ社会的・学術的に認知された学問であるとはいえず、研究も遅れているとの感が否めない。かつては防衛大学校の大谷宗司教授(現名誉教授)や電気通信大学の佐々木茂美教授(現名誉教授)が研究をしていたが、二人とも現在は退官している。私が知るところ、現在超心理学の講座を持っている大学は明治大学メタ超心理学研究室の石川幹人教授ぐらいである。なぜ日本は研究が遅れてしまったのか。欧米に比べ超常現象や超心理学の研究が社会的に認知されていないように思われるのはなぜか。そうした日本の現状を考えるうえで、かつてメディアを巻き込んだ大論争に発展して自殺者まで出した、あの悲劇に言及しないわけにいかないであろう。(続く)
2007.05.10
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▼統計を狂わす人機械と対話するなどと言うと、とても尋常とは思われない。一人夜、自室の壁に向かって話しかけるようなイメージがあり、暗い感じすらする。しかし超能力者に言わせると、それほど突飛なことでもないようだ。スプーン曲げで知られる清田益章氏はスプーンを曲げたり切断したりする際、スプーンと「対話」すると言う。そしてスプーンと心が通い合ったとき、スプーンは曲がったり折れたりするようだ。秋山眞人氏はUFO(宇宙船)の中で、操縦パネルの前で意識を使って操縦する宇宙人に会っている。秋山氏もUFOの操縦訓練を受けたとき、意識を使って宇宙船を操作させられたが、宇宙船は秋山氏の意識に呼応して動いたという。仮に意識の状態が安定しないと、宇宙船は酔っ払ったようにふらふらと危なっかしく動くのだという。秋山氏自身、実はプリンストン大学工学部特異現象研究(PEAR)が開発した「ランダム・イべント・ジェネレーター(REG)」を使って、ある実験に参加したことがあるという。細かい実験内容は忘れたが、たとえば流れ落ちるボールをどちらか一方に動かす実験をしたとして、秋山氏はある程度、自分が念じた方向へとボールを誘導することができたという。つまり、意識により統計を狂わせることができたわけだ。秋山氏によると、この実験には秋山氏の天敵で、あの元早稲田大学教授(現在は名誉教授)のO氏も参加、見事自分が念じたのとは「逆の結果」をある程度出すことに“成功”したのだという。O氏にも、意図に反して「統計を狂わす素質」があるようだ。おそらく人間の意識は機械や物と「対話」することができるのだろう。心で機械に呼び掛ければ、機械はそれに反応して動く。今は電極や電波で結ばないと動かない機械も、未来の科学技術をもってすれば、意識だけで動かせるようになるはずだ。朗報(?)かもしれない。たとえばパチンコ台を流れ落ちる玉を、念じることによりある一方向に誘導することも可能なわけである。もう既に、無意識のうちに成功している人がいるかもしれない。特異現象は、実は誰にでも起きている可能性が強いのだから。(続く)
2007.05.09
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▼プリンストン方式ほとんどの人がまったく注目していなかったと思うが、今年2月10日、米プリンストン大学工学部特異現象研究(PEAR)プログラムの実験室が閉鎖されることになった。物理学者で同大学のロバート・ジャン教授(現名誉教授)が1979年に創設して以来、28年間にわたりプリンストン大学の地下で続けられていた驚異の研究に終止符が打たれたのだ。特異現象の研究――。いったい彼らは地下の研究室でどんな実験をしていたのか。一言で言えば、人間と機械との対話である。実験参加者は無作為に出力するコンピューター「ランダム・イべント・ジェネレーター(REG)」を使って、次々に落とされるボールに命令して特定の方向に動くように命じたり、REGの出力によって鳴るドラムのビートを速くしようと念じたりして、人間の意識が機械に与える影響を測定し続けた。そして数百万回に上る実験の結果、心と機械が対話できる可能性を示す、わずかだが「統計的に有意な」データを検出することに成功したのである。この実験室は大学構内にあったが、大学からの資金援助を受けてはいなかった。運営資金は、米マクドネル・エアクラフト社の創立者ジェームス・S・マクドネルら財界人や個人の寄付でまかなわれた。マクドネルは、戦闘などでストレス下にある戦闘機の操縦者の意識が高度な精密機器に影響を与えることもあるのではないか考え、ではどのような機器にすれば操縦者の意識による影響を受けないかを探ろうとしたのだという。こうした実験結果は公開されており、防衛、情報、宇宙などの米政府機関も興味を示しているという。一定の成果を上げたからだろうか、プリンストン方式として脚光を浴びた特異現象研究の実験室はこのほど閉鎖された。だが、ジャン教授を中心とする活動の拠点は国際意識研究実験所(ICRL)という非営利団体に移されて、実験は続けられている。(続く)
2007.05.08
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▼宇宙の終末世界には終わりがあるのだろうか。ビッグバンに始まったとされるこの宇宙の最後はどうなるのか。宇宙の終末については、これまでにいくつもの仮説が提示されてきた。ビッグバンによって誕生・急膨張した宇宙はやがてその膨張を止め、今度は重力のせいで宇宙は収縮し、最後は銀河同士が衝突・融合して終わるというビッグクランチ説(クランチは「つぶれきる」というような意味)がある。この説だと、宇宙の最後は灼熱地獄だ。個々の恒星がぶつかり合う前に、お互いの強烈な光を浴び解けてしまうだろうし、宇宙そのものの温度も急上昇し、その熱により恒星が崩壊する事態が予想されるためだ。その宇宙の熱の前にはどのような生命も存在できないだろうと考えられている。そして宇宙そのものも最後は一点でつぶれる。しかし幸い(?)なことに、重力が膨張の効果を上回ることはなく、永遠に膨張し続けるのではないかとの説もある。探査衛星WMAPを使った最近の観測で、一度は減速したかにみえた宇宙の膨張は、再び加速していることがわかってきたからだ。どうやら宇宙には重力を上回る反重力という未知の力が働いているらしい。この説だと、宇宙の最後は究極の冷凍庫だ。宇宙を押し広げる反重力は、宇宙の体積に比例すると考えられるため、宇宙が膨張して大きくなるほど強くなり、その結果宇宙の体積はますます加速して増える。これまで地球から観測できた何十億もの銀河は事象の地平線から姿を消し、銀河間の空間は光速より速く広がる。あらゆるエネルギーは膨張する空間に広がり、おそろしく過疎になった宇宙はやがてその温度を失い、凍りつく。これがビッグフリーズ説である。絶対零度近くまで下がった温度では、どのような生命も存在できないと考えられている。宇宙はすべての生命活動を止めるのである。現在のところ、ビッグフリーズ説が有力になっている。だが、いま観測されている加速膨張がこのまま続くのかどうかはまだわからない。もしかしたら、まるで宇宙が呼吸をするように加速膨張と減速収縮を繰り返しているのかもしれない。200億年掛かって息を吸い、200億年掛かって息を吐く・・・。一種の振動宇宙説である。ただし科学者はこの仮説には否定的で、宇宙はいずれ終末を迎えると主張する。火あぶりの刑か、凍え死ぬのか――。でも、ご安心を! 私たちの目と鼻の先に存在するパラレルワールドへ脱出できる可能性もまだ残っているのだから。
2007.05.07
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▼岩茸石山から惣岳山、そして御嶽駅へ高水山で少し休んだ後、先日紹介した岩茸石山へ向かいます。ここからは尾根道ですので歩きやすく快適です。眺望もいいですね。最後はちょっと急な坂がありますが・・・そこを乗り切れば、すぐそこは岩茸石山の山頂が待っています。山頂。山頂からの風景です。右端には、先ほどまでいた高水山が見えます。高水山から岩茸石山までは距離にして1キロ、15分ぐらいです。この頂上は広くて眺望がよいので、休憩するのに最適です。草の上に寝転がり、「光の群れ」を見たりしながらしばし休憩。ポカポカと日差しが心地よいです。20分ほど休んだ後、三山の最後である惣岳山を目指します。杉林の中の道が続きます。杉林が途切れる場所から遠くを望みます。惣岳山が見えてきました。神奈備型のきれいな山です。山頂到着。樹木に遮られて眺望はよくありませんが、山頂には神社があります。青渭(あおい)神社です。創建年代は不明。主祭神は大国主命で、古代から信仰の山であったとされています。山頂付近には磐境や磐座がありそうです。社殿に彫られていた龍です。ここから一気に御岳山駅まで下ります。杉の大樹に神域を示す紙垂(しで)が張られていますね。磐境もところどころにあるようです。ドンドン杉林の道を下っていくと、ようやく里が見えてきました。ほどなく御嶽駅に到着。約三時間の山歩きでした。
2007.05.06
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▼野球観戦本当は予定していなかったのですが、招待券があるからということで急遽、東京六大学野球の早稲田対立教戦を観に行きました。野球観戦は久しぶりです。確か5年前の早慶戦。現在福岡ソフトバンクホークスで活躍している和田投手が早稲田のエースだったときです。注目の早稲田の斎藤佑樹投手は明日先発とのことで、今日の当番予定はなかったはずですが、早稲田のリリーフ陣が崩れてしまいます。特に斎藤投手と並んで注目されている新人の福井投手が大誤算。140キロ台の速球をもっているのですが、コントロールが悪すぎましたね。9回裏2死満塁。一打逆転もありうる場面で斎藤投手の登板です。まさか斎藤投手が登板するとは思わなかった観客は大喜び。上に方に座っていたのでわかりづらいと思いますが、中央下の帽子の男性のすぐ上でボールを投げているのが斎藤投手です。マウンドに登って投球練習。ファンのために、なるべく拡大してみましょう。ツーボールからの登板でしたが、二球続けてストライクを取ります。スピードは140キロ台。一球ファールになりますが・・・最後はこのバッターを145キロの速球で三振にとって、試合終了。早稲田が立教を7対5で下しました。熱狂的な早稲田ファンが斎藤投手を写真に収めようとフェンスに殺到していますね。今日先発した須田投手が早稲田のエースとのことですが、この日の見事な救援により、実質的には斎藤投手がエースになったように感じました。
2007.05.05
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遅れましたが、4月30日に登った高水三山コースの紹介をしましょう。奥多摩に近い、青梅線軍畑駅からスタートします。軍畑というぐらいですから、かつての戦場ですね。戦国時代に青梅一体を支配した三田氏と小田原の北条氏の合戦場所だったそうです。軍畑駅近くの民家。今はのどかな風景が広がります。新緑がまぶしい。沢に光が当たってきれいです。20分ほど歩いたでしょうか。ようやく登山道の入り口に到着。後ろを振り返ると、このような感じです。滝の流れる沢で一休み。オーブは写っていませんね。ここからかなり急な坂道が延々と続きます。ようやく尾根の道に出ました。もう少しで高水山の山頂です。遠くの山が見えるところまで出ました。山頂はもうすぐそこです。高水山の山頂。駅からここまで約1時間15分ぐらいでしょうか。山頂でお昼を食べる人も。私にとっては8年ぶりの高水山。そのときも、アメリカ滞在中に増えた体脂肪を落とすためにやってきました。歴史は繰り返す・・・!?(続く)
2007.05.04
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藤の花が咲く季節となりました。さすがに藤の香りをお届けするわけにはいきませんが・・・想像力で補ってくださいませ。このような藤棚になっています。菖蒲(あやめ)も咲いていますね。これはモクセイ科のオウバイモドキだそうです。この木にはピンクがかった花が咲いています。ベニバナトチノキです。今日は神代植物園から見頃となっている花々を紹介しました。
2007.05.03
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春の高尾山に咲く花を紹介します。これはシャガ。別名胡蝶花。この時期、高尾山一帯で咲き誇っています。イカリソウです。尖山の石田さん宅にも咲いていましたね。奧高尾・小仏城山付近で咲いています。次は、調べてみましたが、種類はよくわかりませんでした。新緑がきれいです。高尾山に登るコースとしては沢沿いの6号路か、尾根伝いの稲荷山コースがお奨めです。その稲荷山から都心の方向を望みます。手前が八王子市街。見晴らしがよければ、筑波山も見えるそうです。
2007.05.02
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▼富士が見える丘と太陽の色私が高尾山に山歩きに行くときは、コンクリートに覆われた高尾山頂(599メートル)へはほとんど立ち寄りません。山頂付近の湧き水で水分を補給した後、一昨日紹介した紅葉台や、一丁平を経て小仏城山(670メートル)へと向かいます。そこでお弁当を食べて、芝生に寝転がり、空を見つめながらお昼寝をします。これがその芝生のある斜面です。ここからは、相模湖と富士山が見渡せます。前にも紹介しましたね。少しですが、相模湖が見えます。別の角度から。薄赤い色の花が咲いている木は桃ですね。その桃と富士山。さて、本題はここからです。この富士山が見える芝生の上で、いつものように仰向けに寝転がり、光の群れ(プラーナ?)を観察しました。私には、この光の群れが大気中にあるのではなく、目の前のスクリーンに映し出されるように見えます。つまり第三の目のスクリーンに映る画像に見えるんですね。ただし、もしそうなら目をつぶっても見えるはずなのに、目をつぶると見えなくなります。それが理解できないところです。脳が作り出した影像のようでもあり、外にある現象のようにも見える。そこで、目をつぶっても見えないかどうか釈迦力になって試しました。すると見える瞬間があるんですね。それは目をつぶって太陽を”見た”ときです。目をつぶった”視界”に、ちらちらと光が飛びます。目を開けてみるときほどではありませんが、同じ種類の光のように思われます。そのとき、もう一つ面白いことを発見しました。目をつぶったまま太陽を見ると、太陽の色が七色に変化するんですね。私が見える太陽の色は、黒、紫、赤、緑、オレンジ、黄色、白です(なぜか水色や青系統の色が見えません)。まぶたのフィルターを通して、これだけ多くの色が見えるとは、さすが太陽エネルギーですね。夕方テニスをしているとき、夕日を見つめて目を閉じると紫の太陽がまぶたに焼きつきますが、そのような感じで目をつぶると光の色が見えます。太陽のオーラかなとも思いますが、はっきりしたことはわかりません。最後は、紅葉台の上空で見た雲です。今日は東京地方は雨ですが、昨日までの二日間は本当に素晴らしい天気でした。
2007.05.01
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