全2件 (2件中 1-2件目)
1
私が、石田衣良さんと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、 何と言っても、まず、『池袋ウエストゲートパーク』。 何年か前に、TSUTAYAでDVDを借りてきて、全話見ました。 ところが、原作の小説は、実は何ひとつ読んでいません……。 で、本著は、リクルート「R25」に連載された 「空は、今日も、青いか?」2006年1月~2008年2月掲載分に、 加筆・修正を施して、一冊にまとめたもの。 だから、読者としてのターゲットは、社会人になりたての若者ということになります。全体が6つのパートに分けられていますが、時間を追って、書かれた順に、エッセイが並んでいるわけではありません。何らかの意図をもって、このような構成になっているのだと思われますが、ことさら、それを前面に押し立てているようすもないです。読んでみると、出だしからしばらくの間は、個人的には、「何だかなぁ……」という感じで、共感するというよりは、石田さんって、こういう考えのヒトだったんだと気付かされる部分の方が多かったです。でも、後半に向かうにつれて、「そう、そう」と頷ける部分が増えていきました。 それでも、ぼくはいいたいのだ。 子どもたちを消費者やマーケットとして見るのは、もうやめませんか。 今の日本の状況では、親も教師もとうてい企業の高度なマーケティング技術の敵ではない。 (中略) 第一、大人の消費傾向自体が、悪しき「見せびらかし」に走ってしまっているのだ。(中略) こうした風潮は、まだ自分で働いて金を稼いでいるわけでもなく、 成熟した価値判断ができない子どもたちを巻き込むのは、異常な事態である。 子どもたちを子どもマーケットから守り、チャイルドブランドの奴隷にしてはいけない。 消費社会の果てに広がる荒野に、新しいモラルが求められている。(p.133~134)世に蔓延る「拝金主義」や、何でも、資本主義的な「損得勘定」で判断してしまおうとする現代社会の歪みに、警鐘を鳴らす一文ですね。 情報が増えるということは、それだけ迷いも増えることだ。 ぼくたちは今や携帯電話やパソコンのメールやネットにぶらさがるように生きている。 人間が主人なのではなく、携帯電話を運ぶためののりものになったようである。 でも、この数日ネットから遠く離れて気づいたことがある。 ちいさな声でいうけれど、それは別に新しいテクノロジーなど、 なくてもまったく快適に生きていけるということだ。(p.209)これは、実感です!便利だと思っている様々なツールに、実は私たちは、24時間縛り付けられ、振り回され続けているのです。それらから解放されるなら、どんなにゆとりある暮らしになることでしょう(もちろん、効率の面だけで言うなら、必ず悪くなるのだけれど)。 ぼくたちの時代は知の時代である。 何かを知ることが、力であり善だと無意識のうちに考えられている時代だ。 だが、人という存在のなかには、とうてい理解不可能な悪がある。 それを知ることで、逆に悪い影響を受けるほどの毒が眠っているのだ。 「深淵をのぞきこむ者はまた、深淵にのぞきこまれる」 晩年精神を崩壊させたドイツの哲学者ニーチェの言葉で、 これほど恐ろしいものはないだろう。(p.227~228)少年事件の報道を受けての、この一文も示唆に富んでいます。知るべきことと、知らなくてもいいこと。その線引きを、マスコミの側がしてくれることは、あまり期待できそうにありません。情報化時代に生きる、私たち自身の理性が試されていると言えそうです。 ぼくはときどき不思議に思うことがある。 格差社会という言葉ができるまで、社会にたいした格差は存在しなかったのではないか。 あるいは、負け組という言葉ができるまで、 ほとんどの日本人は自分を中流階級だと単純に信じられたのではないか。 ある現象が名前を与えられることで、あとから急激にリアルな現実として立ちあがってくる。 それは言葉が現実を生んでしまう皮肉な逆転現象である。(p.238)これも、まさしく真理!何とも言いようのなかった感情が、ある瞬間に、言語化された途端、例えば、「辛い」とか、「悲しい」とか、「苦しい」とか、ネーミングされた途端に、一気に、自分の心の中に押し寄せ、そこから抜け出せなくなってしまうのと同じです。あとは、第5部のところが、結構楽しめました。業界裏話的な要素があり、新鮮でした。
2008.09.28
コメント(0)
風変わりなタイトルである。 しかも、現役高校生が、すべてケータイで書いた小説だという。 読んでみると、確かに、色んな意味で、大人では表現しきれないであろう 現代の高校生活や、リアルな男子生徒の世界が、内・外面共に描かれている。 しかし、よくこれだけのものをケータイだけで書けるものだと感心する。 こんなことに感心してしまうのは、 私が、「気付けば、そこにケータイがあった」世代ではないからだろう。 今の若い世代にとっては、「何で、そんなことに感心するの?」と言われそうだ。さて、風変わりなタイトルについては、作品中できちんと説明されている。 いじめなんかよりいじりのほうが全然怖いと思う。 一文字違うだけだが、りはめより100倍恐ろしい。 いじめだって靴隠しだのシカトだのカツアゲだの地獄はたくさんあるが、 両者には決定的な差異がある。そして、中学生時代に周囲からいじられ続け、高校生になったばかりの主人公が、「いじめ」と「いじり」の違いについて、語り始める。 いじめには被害者に絶対的原因がある、と思う。 理由や要素もなくいじめられる奴なんて希有なケースだ。 そいつはよっぽど不運としか言いようがない。 たまに雑誌とかに載っているいじめ相談コーナーで、 イスに画鋲を仕掛けられました、お金を奪われました、腹を殴られました。 私は何もしてないのに、何もしてないのにいじめられて…… と被害者ぶる悲劇の人間がいるが、大有りだ、絶対そいつにも非がある。 性格上に問題がある。協調性がなく浮いているだけだ。かなり独りよがりな解釈で、小説中の言葉でなければ、色んなところから、相当非難を浴びることになりそうな内容である。しかし、実は、これが「いじめ」に対する高校生たちの実感、ホンネかもしれない。現役高校生が書いた小説だからこそ、描くことができたリアルさが、ここにある。例えば、オトナ世界のいじめというものについて考えたとき、オトナたちも、実は、これと同じようなことを感じたり、思ったりしているのでは?それを、周囲に知られることなく、「正義」の体裁を前面に打ち出し、振る舞うことができるのは、年齢・経験を重ね、本音と建て前を使い分けられるようになったからにすぎないのでは? いじりは原因がこれといってない。 強いて原因を求めるなら、そいつがとっても面白いということだけだ。 一発芸なんかを進んでやるだけだ。 人気者といじられキャラは紙一重。紛れもない事実なのだ。中学生時代にいじられ続け、高校生になった今、そこから脱却しようとする主人公。彼の中では、「いじり」と「いじめ」は、あくまでも別物である。「自分は、いじられているのであって、いじめられているのではない」と主張するのは、彼が、自分自身のプライドを保つための、ギリギリの言動と言えるかもしれない。 それに先生は誰も助けてくれない。じゃれあいととられるだけだ。 やられている俺も笑顔という仮面を装着しているのだから、 証拠もないし深刻さの欠片もない。 いじめなら証拠もあるし先生も敏感に気づく。親も考えてくれる。 必要とあれば登校拒否だってできる。いじりには逃げ道がない。 そして、いじめはふと止まる可能性がある。いじりは終わらない。 一度始まったら卒業まで収まらない。さらに加害者の罪の意識も少ない。 それが一番のいじりの残酷さだ。だからこそ、主人公においては、「りはめより100倍恐ろしい」ということになる。しかし、世間一般のオトナであれば、この小説の中で展開する高校生たちの言動を、単に「いじり」として済ませられないだろう。どう見ても、これは、やはり、正真正銘の「いじめ」である。そして、現代の「いじめ」が、潜在化し、周囲に気付かれにくい理由は、上記、主人公の言葉通りである。自分のキャラをたて、それを演じ続けることを要求される現代の学校生活、そこを生き抜いていくことの難しさを、本作は、リアルに伝えてくれる。
2008.09.28
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1