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今、若者がとっても大事にしてるもの、それは「個性」と「友達」。 まぁ、これらを大事にしょうと思う気持ちも、分からないではない。 だって、世間でも、学校でも、それらが「大事」「大切」の大合唱。 その大合唱の中で育ってきたんだから、そう思うのも至極当然。 ところが、これらを「大事にしよう」「大切にしよう」と思うと、 とっても疲れてしまうんだよね……。 どうなれば、「自分らしく個性的」になれるのかなんて、大人でもとても難しい。 ましてや「友達は大事」といって、誰とでも仲良くするなんて、できそうにない。要するに、「個性」って何? 「友達」って何なんだ?ということ。この辺の解釈が、あまりにもルーズだから、若者が困ったり悩んだりするわけだ。その点、本著では「個性ハ必要ナシ」「友達ハ大切ナモノニアラズ」など、今の世間や若者の感覚に対して、ケンカを売っているかの如くだ。 いきなりだが、「個性」なんて、わざわざ「作る」ようなものではない。(中略) 消そう、なくそうと必死になっても、気配のように漂ってしまう - しょうがないから、その気配を「個性」って呼んでおきましょうというくらいの、 扱いの軽いもの。それが「個性」なのである。 「個性」とは、生まれつきそなわっているもののことを言うのだ。(p.20) 学校とは、いっぱいひとが集まっているところだ。 「いっぱいいるし、みんなとすぐに友達にならなきゃいけない」 と焦らなくてもいい。(中略) お互い好きでもないのにただ強制的に集められて、 ヤングのうちの一定期間を一緒に過ごす意味など、(中略) 「世の中にはいろんなヤツがいることに気づく」、これしかない。(p.66)そして、本著は、まだまだケンカを売り続ける。学校の綺麗事に対して、世間の夢想に対して。 現状に不満であるというのは、 「こんなに自分はがんばってきたのに、報われないってどうなのよ」 「いまの状態に、自分をボーボーに燃え上がらせるものなんて、なにひとつないぜ」 などと思ってしまったりすることである。 挙げ句の果ては「世の中の大半はいい思いをしているのに、 なんで自分だけ、スポットライトが当たらないのだ!!」と悲愴な心境になってしまう、 ということなのであろう。 しかし。 がんばっても報われないことなんて、ふつうである。 自分を燃え上がらせることを見つけられないのは、単に注意力が散漫なんだろう。 しかし、それがいったい、なんだというのだ。 世の中の大半は、脇役人生だ。それがいったい、どうしたというのだ。(p.115) 「頑張れば、誰でも、何とかなる。念ずれば、夢はかなう。」誰でもが、「そんなハズないだろう……」と思いながらも、正面切って反論することはしないという、甘い、あま~い魔法の言葉。そんな言葉を、こんなにも明快に一刀両断してくれた、本著に拍手!!それにしても、本音・現実を語ってくれる大人が、何と少なくなってしまったことか。世間や学校のばらまく夢想の妄言に、若者たちが、こんなにも悩み苦しんでいるのに……。しかし、若者の側もまた、そんな甘々の妄言に惑わされることなく、現実をしっかりと受け止め、さらに正面から立ち向かっていかねばならない。そして、その時、初めて、見えてくるものがあり、自ら、それを手に入れることができる可能性が生まれてくるのだ。
2008.08.16
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初版発行は、1996年3月。 それから、10年以上の月日が流れているので、 本著で描かれている社会や学校、家族の風景も、変化・進歩している。 しかし、社会人として、親として、その根幹となるものは変わらない。 それは、家族、自分自身、社会、会社の4つに対して責任があるということ。 この4つの責任は常にイコールであり、 どれが欠けてもバランスのとれた、いい社会人にはならないということ。 そのため、この4つに対し、均等な時間配分を要するということ。大前さんは、勿論、その辺にゴロゴロいるような、ただ者ではない。十代のアメリカ人女性を、妻として日本に連れて来るあたりからして、その生き様は、誰にでも、すぐに真似ができるというような代物ではない。それは、氏のこれまでの経歴を見れば、誰もが納得するところであろう。それ故、家族や子どもたちへの思いや行動も、所謂「普通」じゃない、かも……。それでも、その発想は、万人にとって、大いに参考になるものである。子どもたちが、自分の力で未来を生きていけるようにアドバイスするためには、親として、未来を読み取り、それを提示して見せることが必要なのである。ところが、多くの親たちは、未来どころか、今現在すら正確に読み取ることができず、過去の遺物となった地図を、三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せるかの如く子どもたちに指し示し、それをもとに、未来を歩んで行けと強要している節がある。これでは、子どもたちはたまったもんじゃない……。本著のタイトルにあるように「親が反対しても、子どもはやる」のである。その「反対してでもやろう」ということを、子どもたちが見いだす前に、好ましい感覚、好ましい感情を持ち合わせた子どもに、いかにして育てるかである。この「好ましい」というもの自体も、大いに曲者ではあると思うが……。
2008.08.16
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ラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調」。 この曲の中に、千秋が見いだした“のだめ”演奏のイメージ。 それを、Ruiとの共演に持ち込むことをためらう千秋。 そして、その躊躇を払拭して成し遂げた、二人の見事な演奏。 その演奏の中に、千秋が自分に求めてくれていたはずのものを、 しっかりと感じ取ってしまったのだめ。 戸惑い、落胆、そして、自己存在価値喪失……。 そして、「結婚してくだサイ!」千秋の、のだめに対する想いも、のだめの千秋に対する想いも、どっちも、本当に伝わってきた。そして、二人の音楽に対する気持ちも……。そして、新たなる展開。それをもたらす者の名は、フランツ・フォン・シュトレーゼマン。その口から発せられたのは、悪魔のささやきなのか……。その言葉が誘う終着点は、本当に下界なのか……。それにしても、今巻で描かれた各キャラクターの表情は、本当に素晴らしかった。のだめはもちろんのこと、秀逸はシュトレーゼマン。のだめの演奏を聞いたときの、その表情の移り変わりは、まるで、動画を見てるかのような錯覚に陥った。そして、忘れちゃならない、ムッシュー長田。その口から発せられた「雅之?」の一言の重さ。そこに込められた、作者のメッセージ。間違いなく、#21は、これまでの最高傑作!!
2008.08.16
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本著を読んで、改めて思ったのは、 人というのは、その育った環境と、そこでの経験に影響されるところが、 本当に大きいということである。 それは、学者といえども、まったく同じである。 このことを、最初に感じたのは、志水宏吉教授の『学力を育てる』を読んだとき。 志水氏の、西宮市で育ち、公立の小・中学校で学んだという体験がなければ、 苅谷教授との研究をさらに前進させた、前著の成果に至ることはなかっただろう。 今回、内藤氏の研究にも、同じようなことを感じた。 著者の誕生から十代までにした経験は、かなり特異なものと言えるだろう。自身の出身高を、ここまで書かなければならないのも辛いが、それ以上に、自分を生み育ててくれた両親のことを、ここまで書かなければならないのは、「辛い」を通り越して、今いうところの「痛い」である。このように「痛い」体験の上に成り立っているのが「いじめ学」であるが、本著の第1章「いじめ議論はデタラメばかり」に示された「いじめにまつわる、いくつもの誤解」の例は、分かりやすい。(まえがきでは、広田照幸氏の『日本人のしつけは衰退したか』を推薦している)また、第6章以降に示された「いじめ発生のメカニズム」や「いじめ蔓延のメカニズム」は、納得できる部分が大変に多い。学校という場の持つ特殊性も、多くの人に理解できるだろう。さて、本著を読んで、私が、特に印象に残ったのは、次の部分。 彼らにとって好ましいのは、この「ノリ」を盛り上げることです。 だから彼らの社会では、それが「ノレる」ものである限り何をしてもかまいません。 それこそ人が死ぬかもしれないことだろうが、 「ノレる」限りは何の問題もなく許されるのです。(p.171)とても怖いことが書いてあるけれど、残念ながらこれが現実……。なぜなら、 逆に、みんなの「ノリ」から浮いた言動は、 集団内部にあっては、何よりも嫌われ、憎まれる「不道徳」な行為です。 そして彼らが基本的なヒューマニズムとか個人の尊厳のようなものを憎悪するのも、 これらが彼らの「ノリ」に背くものであるからに他なりません。 彼らの価値基準はとてもシンプルなものです。 いじめは、その時その状況にいるみんなが、 気持ちよく「ノレる」限りにおいてはガンガンやるべき「良い」ことです。 そして、その「ノリ」にうまく気持ちと体を同調させるのも、 そのシチュエーションでは歓迎される「良い」ことです。(p.172)もう、怖すぎる……。でも、こういう感覚があるように思えるは、残念ながら事実。しかし、これは、今、学校という場において、こどもたちの間でだけで発生しているわけではなく、色んな時代に、色んな場所で、大人たちの間でも見られたことは、著者の述べているとおり。 多大なリスクを背負い込んでまでいじめが起こることがほとんどないのとは対照的に、 リスクの少ない環境であれば、いじめはやむことなく、 どこまでもエスカレートします。(p.176)だから、リスクを背負い込む状況を作れば、いじめは減るというのが著者の主張。 学校改革を含む自由な社会の構想は、 お互いの違いを許容するというところから始まります。 「許容する」というのは、「攻撃しない」という一点においてであり、 嫌なことを飲み込んで、無理に「仲良くする」ことではありません。 むしろ仲良くしなくてよいからこそ、相手の存在を許せるのです。(p.213)これも、私としては、同意したいところ。ただ、p.221から示された、著者による「日本社会、希望の未来像」には、ちょっと、ついていくことが出来なかった。それは、そんな受入体制をどうやって作るのかといった、現実的な部分だけじゃなく……。
2008.08.09
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『大人が知らない携帯サイトの世界』を読んだことが切っ掛けとなって、 最近、『ケータイ世界の子どもたち』や『ケータイチルドレン』を読み、 さらに、『爆発するソーシャルメディア』や『ネットvs.リアルの衝突』を読んだ。 そして、現在は『ウェブ進化論』を読んでいる最中である。 本著も、そんな流れの中で読んだ一冊であるが、 最近話題の「学校裏サイト」や「ネットいじめ」について扱ったものである。 しかし、これまで読んだ著作では、決して見られなかった視点から、 「ネットと子どもたち」を、しっかり捉えており、待望の必読書となっている。まず、著者が明らかにしようとするのは、「学校裏サイト」として知られることになった「学校勝手サイト」の実体と、それに関わる子どもたちの現実の姿である。これまでの統計データが、どれほど当てにならないものか、そして、「学校裏サイト」の不安がいかにして作られたのかが述べられる。ただし、著者の用いているデータも、著者自身が断っているように、額面どおりに受け取るわけにはいかないものも多い。また、子どもたちのインタビューへの回答にしても、それが、多くの子どもたちの、一般的な考え方や行動様式であるとは言い切れまい。それでもなお、「中間集団全体主義」や「キャラ戦争」といった学校空間における人間関係を基に、ネットいじめを見ていこうとする姿勢は、先にも述べたように、斬新で納得の出来るものであり、これまで刊行された書物では、軽視されていた部分である。そして、プリクラ、まる文字、ギャル文字といった「学校文化」の変遷の中で、ケータイやプロフを捉えているのは、さすがに若い世代の感覚で、素晴らしい。また、コミュニケーションにおける「地形効果」という発想も、ゲームに親しんだことのある世代でなければ、出てこないものだろう。著者が言うように、「臭い物に蓋」式の方法、即ち、フィルタリングで、全てが解決するわけでは決してない。「ネットいじめ」の根本にある「子どもたちの人間関係」「学校文化」を直視し、ネットにおける「大人側の成熟度」が増さないかぎり、現状は何も変わらない。
2008.08.09
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ソーシャルメディアとは、 意見、洞察、経験、見解を互いに交換するための ツールやプラットホームのことで、 マイスペース、ユーチューブ、セカンドライフ等がある。 そして、日本国内では、ミクシィ、モバゲータウン、ブログ等がある。 こんな説明が、本著冒頭でなされるのだが、 私自身は、これまで、PCに触れてきた時間は結構長いにもかかわらず、 「ブログ」を除くと、これらのものとの付き合いは、本当に希薄だ。というわけで、それらがどんなものかを知るために、本著を手にしてみた。「マイスペース」や「セカンドライフ」については、言葉としては知っていたが、本著を読んでみて、まずまずイメージできるようになった。しかし、会員登録して、その中を実際に覗いてみようと言うところにまでは至っていない。また、「ミクシィ」や「モバゲータウン」についても同様。特に「ミクシィ」については、紹介者がいないことには、登録すら出来ない。(もちろん、本気になれば、いくらでも手段はあるのだが、そこまでして……)とにかく、これらに関わると、途方もなく時間がかかりそうで……。その点、「ユーチューブ」には、時々だが、お世話になっている。お気に入りのアーチストのPVを見たりするのはもちろん、話題になった場面の動画は、かなりの確率でアップされているので、気が向けば、ちょっとばかり、チェックしたりする。 ***私にとって、仮想空間内でビジネスが成立するという事実は、なかなか衝撃的だった。かつて、「現実世界」と「仮想空間」との間には、厳然たる壁があった。しかし、今や、一部の人にとっては、そんな壁を意識することなく、どちらの世界でも同じように、(いや、ひょっとすると仮想空間を主に)生きている。そんな感覚が、今後、社会にどんどん広まっていくようにさえ思う。それほどまでに、人々は、自らのクリエイティビティを、ソーシャルメディアにおいて、発揮し始めているということだろう。まさに、情報社会の到来である。
2008.08.09
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民間からUターンで公務員に転じた主人公が、 市の作ったテーマパーク再建のため、奔走するいうお話。 『神様からひと言』と同じく、主人公が配属された部署は、 「何だかなぁ……」といった人たちの集まり。 さらに、このお話では、彼に関わる人たちのほとんどが、そんな感じ。 主人公が以前所属していた劇団の面々やイベントのプランナー、 そして、イベント施設の施工に当たることになったメンバーも……。 公務員の世界とはかけ離れた、かなり特殊で強烈なキャラクター揃い。テーマパークの運営会社である第三セクターは、市役所OBと出向社員等で構成されており、主人公が出向することになったのは、その中に置かれる新設セクション。しかも、市長直々に設置を決めたという特命チーム。民間出身とは言いながら、すでに何年か役所勤めをしてきた主人公にとっても、新たに配属された部署での、時間の使い方や、そこでとられている行動は、すぐには受け入れがたいような、ぬるま湯状態。さらに、第三セクターの会議における発言は、耳を疑うようなものの連続。そんな状況を、かなり特殊で強烈なキャラクターたちと共に、一つ一つクリアしながら、イベントの成功まで持っていく展開は、読んでいてクワクするもので、たいへん心地よい。そして、このままハッピーエンドと思ったのだが……。 ***さて、このお話を読んでいて、心に残った言葉がいくつかある。まず一つ目は、主人公に「ゴジラがなんで日本人に受けるか」という話をする中での、劇団座長の次の言葉。 この国の人間って、 昔から闘っても勝てないものをたくさん相手にしてきたから、闘うのが下手なんだよ。 サムライの国なんかじゃない。百姓の国。 無理して闘おうとすると、舞い上がるは、とち狂うはで、ろくなことにならない。 誰かが何かをしたから、んじゃオラもやるべって、周りを見て雰囲気で突っ走るだけ。 みんなで集まって堪え忍ぶ方が得意なの。 そして、そうやって耐えている自分たちが実は案外好きなのさ。次も座長の言葉だが、主人公にマーケティングについて語る場面で、公務員について述べたもの。 きちんと考えないと店が潰れる、会社をクビになる、家のローンが払えない、 私立に通わせてたガキは退学、家族が路頭に迷う、首をくくるしかない。 そういう背中につきつけられた拳銃がないから、 くまのプーさんみたいなのん気なことばかり言うんだ。最後に気になった文章を。 (前略) 支持団体と、習い性のように現体制を維持しようとする駒谷市役所の人間たちの手で、 常に致命傷にならない前に握り潰されていた。(p.288)
2008.08.09
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