森田理論学習のすすめ

森田理論学習のすすめ

2017.04.25
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カテゴリ: 森田番外編
江戸時代尾張藩の武士が27年間にわたって日記を残していた。

100石どりの武士は、夫婦2人、子供1人、作人4人の家計が十分に成り立っていたという。
家屋敷は250坪前後で、門があり、屋敷の周囲には生け垣をめぐらし、カヤぶき平屋建ての母屋には両親が住んでいた。
別棟には本人たちは住み、野菜などは畑で自給自足であった。
関ヶ原の戦いから100年も経過しており、時代は元禄時代を迎え、平和で町人文化が花開き、優雅な生活を楽しんでいた。
当時の人がどんな生活をしていたのか、早速紹介してみよう。

重章氏が隠居した父親の後継いで初出仕したのは22歳の時だった。
最初の仕事は名古屋城の警備の仕事だった。今で言うと警備係長といった仕事だった。

3人1組で9日目ごとに1昼夜の勤務だった。
まずこんな勤務実態に驚いた。現代ではとてもあり得ないことである。
その勤めものんびりしたものであった。ご馳走を用意して、勤務中に酒を飲んでいたようだ。
ほとんど仕事らしいことはしていないのである。それでも解雇される人はいなかったという。
藩庁は、藩士たちの酒を禁じることもなく黙認していたという。

非番の日は、表向きは武芸、学問の自宅研修ということになっていた。
実際には誰もそんなことはしない。それよりも、直属の上司や同僚たちとの交際の方を重視していた。
この交際さえ真面目にしていれば、月に3度だけの勤務で給料をもらえ、後は全て自由時間だった。

重章氏は有り余る時間をどのように過ごしていたのか。
魚釣りをしたり、人目を忍んで御禁制の芝居小屋をのぞいたり、植木や菜園の手入れをしていた。
その他、酒、女、博打、音曲、様々な暇つぶしの芸、慰楽に首を突っ込んでいた。

重章氏は好奇心旺盛でこれらすべてにのめり込んでいた。
そのため、アルコール中毒で体調を悪くして45歳で病死している。

重章氏は27歳の時、御畳奉行に栄転している。御役料40俵が加増となった。
翌年藩命により京都や大阪へ公用出張している。1回の出張期間は2ヶ月である。
出張期間は、身の回りの世話をする人が付き、宿泊場所も立派なところが用意されていた。

それが仕事のようなものだった。相撲や芝居見物、観光や料亭での接待が中心の出張であった。
日記の中に仕事の話はほとんど出てこない。
45歳で亡くなるまで合計4回、この出張は続いた。
行く先々に御用商人たちがてぐすね引いて待ち受けており、重章氏にとっては全くの役得旅行であった。

私が注目したいのは、江戸時代の武士の仕事ぶりである。
ほとんど仕事らしい仕事はしていない。でも一家が困らない程度の収入はあった。
現代の人たちの仕事ぶりと比べてなんという違いであろう。
今から300年前の武士の仕事ぶりはみんな似たり寄ったりだったようだ。
この人は有り余る時間を好奇心のままに、いろんなことに手を出して楽しんでいたのである。
誤算はアルコール中毒で健康を害して早死にをしたことと、放蕩三昧で結婚や離婚を繰り返して家庭には安らぎがなかったことだ。
もし、酒をほどほどに楽しみ、家庭を大事にして、家族仲睦まじく生活していたとしたら、現代人が見ると中身の濃いい、とてもうらやましい人生を送っていた人に思える。
現代の日本人は便利で食べ物やほしいものは何でも手に入る生活であるが、そのためには多額なお金がかかり、お金に振り回されている。
そういう生活は本来の人間の生き方ではありませんよと教えてくれているようであった。
今の仕事人間のような生き方をしていると、望むべきもないことであるが、本来の人間の生き方というのは、実はこんな生活を送ることかもしれない。
自分たちの働き方を見直してみることが必要なのかもしれない。
(元禄御畳奉行の日記 高坂次郎 中公新書参照)





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Last updated  2017.04.25 06:30:08
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Re:江戸時代の武士の生活(04/25)  
仏のヤス さん
驚きました!先ほど鎖国の提案をしたばかりですが、この文章を見てまさにこれが理想の幸せだと考えます。このタイミングも恐ろしいくらいです。

この様に、神経質な私には驚くべきアイデアが泉のごとくあふれてきます。森田生涯さんとも相性が合う気がしてなりません。 (2017.06.23 16:57:07)

Re:江戸時代の武士の生活(04/25)  
仏のヤス さん
もう一つ驚くことがあります。私は2015年から先祖の事を調べています。私が20歳ごろある日突然父親が、わが家は〇〇〇〇の子孫で戦国時代に落ち武者でこの地に居ついたと一言つぶやきました。当家は元来、田地一町ほどの専業農家だった。しかしなぜか納屋に大・小刀、兜、鎧、銅の手鏡などが長持ちに隠してありました。

当時、父親から先祖の武士名を言われても冗談だと思い、50年間過ぎました。2015年5月に何気なくネットで、その名(ひらがな)を検索したらその武士は大阪夏の陣で戦った武将だったのです。後藤又兵衛とほぼ同格の武将でした。

大阪では、今でも人気があり当時は若く(20歳)、正義感があり、勇敢で、男前の武将です。昨年のNHKドラマの真田丸でも出演していました。

不思議なのは、なぜ50年後まで私がその名前を覚えていたかです。その時は、丁度ピタリ400年前1615年の大阪夏の陣で豊臣方が敗れた月です。

大阪夏の陣の敗戦後、豊臣方の武士は賊軍として徳川家康に打ち首、さらし者にされた。その家族も全国に命からがら逃亡しました。その一族が我が家だったということです。その後、いろいろ調べていると益々不思議なことが重なります。

私の性格も正にその武将そのものです。そして今まで、なぜ私は世間に反発して他人では尻込みする市民運動をしたのか自分でも不思議でした。

もしかして〇〇〇〇の性格、思想が私に引き継がれたのではないかと思ってしまいます。来週にも、同族ではないかと思われる旧家を訪ねて調べる予定です。

他人は、「そんな話はどこにも転がっている。あなたがそうだと思えばそれでよいではないか」とアドバイスしてくれます。しかし私は、そんなアドバイスは自分では納得できません。

〇〇〇〇がなぜこうまでして私を動かすのか、それを確認したいのです。それはもしかして、勇気ある〇〇〇〇の執念の技ではないかと思っています。

昨日このブログを拝見して、ここで江戸時代の武士の生活が語られたことも不思議な縁だと思っています。それを重ねると〇〇〇〇は本来、平和主義者だったのではないかと想像します。そうすると、今まで行ってきた私の活動が理解できます。

私は単なる神経症ではなく、先祖のはからいかもしれません。おかしなことを申しましたが、森田生涯さんとこの機会に何らかのきっかけができるかもしれません。 (2017.06.24 10:08:28)

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