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Tuesday, January 30, 2024 晴れ。 午前7時半出社。今日明日と出張でした。大分駅まで営業車を使いました。そこからソニック、小倉で新幹線に乗り換えました。福山で下車。出張の楽しみは食事です。昼は奮発、O市の食堂に突っ込み、穴子定食を注文。量が多く、ご飯を少し残しました。 午後、O社を訪ねました。来年度事業計画のassessmentが終わり、予てから予定の遠出でした。包括ケアシステム関連で弊社の上を行くことを知り、勉強することにしたのです。内容は割愛。 今日の写真は、新幹線ホームから見た福山城です。見事な石垣でした。Wednesday, January 31, 2024 曇りのち小雨。 昨日のうちに姫路入り。午後6時半、駅前、某航空会社名のついたホテルに投宿。紙おむつに尿取りバッドを装備なので、夜の街探検を我慢。ホテル内の中華で紹興酒を流しました。写真は駅前のビル屋上に聳え立つ看板です。嗚呼、ここは播州。 揖保乃糸か。学生時代、このあたり出身の輩がいたな。彼の実家から幾度となくこれが届き、茹でて食べたな。赤いきつね緑のたぬきを拵える会社に入ったが、今はどうしているか。もう一人はこのまちの水族館で働いているらしい。二人ともまだ現役かな。音信不通なので知るよしもないです。 そんなことを思いながら、近隣のK社を訪問。最近はやりのDX関連で先進の取組を覗かせて貰いました。内容は割愛。次の写真は訪ねた会社のすぐ近くにあった丸亀製麺です。なんとこの店舗がトリドールホールディングスの第1号店。そうなんです、丸亀とありますが、この会社、四国がホームグランドではありません。 昼過ぎ、姫路駅へ戻りました。写真は姫路城です。駅の北口に立って望遠でパチリ。列車の時刻が迫り、訪問能わず。 次の写真はSAKURAです。なんともスマートな車体ではあります。 午前の会社訪問で時刻が押しました。昼は駅弁、幕の内にしました。車内に持ち込んでパクつくことにしました。隣の席は年配のご婦人でした。私「遅い昼になりました。失礼して、ここで弁当を広げます。すみませんね」彼女「いえ、かまいませんよ。欲しがりませんから。」 嗚呼、見事に切りかえされました。素敵なユーモアです。鹿児島の方。岐阜に暮らす子ども夫婦に頼まれ、孫の守りをしに出っ張ったのだそうでした。赤く染めた髪の中に白いものが混じっていました。ジーンズにスニーカー。スーツケースはなく、リュック1つ。大阪発鹿児島行き、この便に乗って家路だそうでした。 小倉でソニックに乗り換え、大分駅で下車。帰社は午後6時前。疲れました。道中、尿取りバッドが気になり、各駅のトイレで幾度となくそれを取り替えました。難儀でした。 家に戻り、湯船に浸かってさっぱり。冷酒燗酒、合わせて3合飲みました。写真は台所のアスパラ菜です。これ、ベーコンと炒めたらいい感じなのです。拙宅菜園に摘み放題が嬉しいです。当てはこれかと思いましたが、違いました。鍋でした。 今日の写真は出張の道中、暇つぶし、手に取った本です。吉村昭「関東大震災」。大正12年(1923年)の大地震を時系列、包括的に記録した内容です。20万人が死亡。うち、建物の下敷きになっての圧死は少なく、大半が焼死。吉村は体験した人の日記等を引用、悲惨さ、凄まじさは想像を絶するものでした。菊池寛賞受賞作です。
2024年01月31日
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Sunday, January 21, 2024 曇り時々晴れ寒い日が続きます。 終日、屋内にストーブの番をしました。豌豆の支柱をこさえたり、ジャガイモを植える準備があるのですが、その気分になりません。手持無沙汰の午前は読書。陳舜臣「日清戦争、上・中・下」を手に取りました。読了は数日後でしょう。 午後は映画と女子マラソンを摘まみ観戦。その後ジョグ。3㎞をゆっくり流しました。下腹の方、尿道あたりに微妙、鈍痛がありました。この症状、ドクターが心配不要と言ってくれたので、気にしていません。汗ばんでシャワー。午後4時、プシュッ。大相撲を観戦しました。 書くことがないので見た映画のことを。「ソルトバーン」米英合作です。印象を一言で言うなら「難解」。貧富、愛憎、妬み、人格の多面性・・・、これらが風刺や寓意的をもって至る処に表現されていました。と、このように書いても説明になりません。以下にストーリーを。 主人公、貧乏青年がオックスフォードに入学、成績はいいもののシャイかつ衣服貧相につき友人が出来ない、某日図書館に向かう途中、彼の或る親切がきっかけで貴族・裕福な青年と知り合う、主人公には虚言癖があり、それが奏功、次第、貴族青年の懐に入っていく、そして夏休み、ソルトバーンという彼の館(執事や使用人のいる広大な屋敷)に招待される、その館で繰り広げられる糜爛でシリアスの生活、途中、貴族青年に虚言癖を見破られ、館を去るよう求められる、立ち去る前夜に貴族特有の仮装パーティーがあり、貴族青年が死亡、主人公は家族の喪失感あって引き続きの滞在を求められる、そして時間の流れるうちに貴族一家は次から次と死んでいく、最後に主人公が貴族の財産をものにする。 私は10点満点中9点にしたいですが、意味不明と感じ、せいぜい4点という声もあるかもしれません。この映画、本邦未公開。アマゾンプライムで無料視聴できます。ハリウッド系ドンパチよりもシリアス調が好みの方にはお勧めです。 今日の写真はランの途中に写したユズリハです。当地では鶴の葉と呼び、縁起物として正月飾りに使います。Monday, January 29, 2024 晴れ。 午前5時半、トラに耳朶を咬まれて目が覚めました。もうすぐ立春です。春眠暁を覚えずといいますが、つい微睡んでしまいました。午前7時半出社。終日デスクワークとミーティング、会議。夕刻、帰りに主治医S内科に立ち寄りました。高血圧対策薬の処方箋を貰う為でした。 帰宅して着替え、薪を居間に運び込みました。走ろうとランシューズを履いて、妻に呼び止められました。事務的な案件が片付かないの、何とかして、と言われました。具体的なことは書くこと能わずですが、ネットでの買い物、相手先のシステムに入れずとのこと。代わってみましたが、どうしてもいけません。それに時間を取られ、風呂を浴びたのは午後8時。黒糖焼酎をお湯割りにして温まりました。 ネタ切れです。今日の日経から。 日本経済新聞が「日経ブルーオーシャン・フォーラム」を開催、その概要とシンポジウムの抄録を掲載していました。SDGsの一つ、海の保全と繁栄の切り口です。「海からも、脱炭素」と題していました。これを取り上げたのは、写真赤丸のところ。ニッスイ中央研究所大分海洋研究センター研究員、山下量平氏がパネリストに加わっているとありました。 写真を拡大。いい男です。彼、酔散の後輩です。幾度か杯を交わしました。記事の本文にありましたが、養殖種苗生産の研究をしています。これまで養殖鰤種苗の確保は沖取り、流れ藻に付くモジャコと呼ばれる稚魚を採取が方法でした。ニッスイは技術開発により人工種苗生産技術を確立、安定的に養殖業者へ供給できる体制を整えました。メンバーの一人が彼なんです。ちなみ、ニッスイの大分海洋研究センターは、私のまちにあります。山下君、今度一緒に飲もうね。
2024年01月29日
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Saturday, January 27, 2024 午前5時起床。晴れ。 朝食を取らず、午前6時半過ぎに家を出ました。東九州自動車道を北上、別府向けでした。写真は大分インターを過ぎたあたりからの由布岳です。雪を被っていました。頂の左上に月が懸かり、風情あり。 今日は先だって入院していた病院を訪ね、切除した前立腺の病理検査結果を聞くためでした。切除面に癌細胞のあったら、私の側にそれが残っていることになります。次の治療を考えなければなりません。その有無についてでした。そのことを想定、今後の生活面を考え、妻を伴いました。 午前8時半到着。診察の前、採血と尿検査をしました。 30分ほど待ったあと、主治医が下の写真に写る病理検査結果を話してくれました。小難しい内容が書いてありますが、一言で言うと前立腺外への転移はないとのこと。安心していいと言われました。 ふり返ると、精密検査を勧めてくれたS先生、別府の専門病院を紹介してくれた地元医療センターの医師、そしてこの病院の医師とスタッフ、それに加え医療ロボット・ダビンチさん、全員と医学の進歩に感謝です。 戻ります。退院時に太鼓判のような話を聞いていましたが、それでも嗚呼、よかったな、そんな気持ちになりました。医師は尿漏れ対策について、あれこれ、時間を掛け、アドバイスしてくれました。私、今以て紙おむつをし、尿取りバッド(200ml用)を1日に5~6回取り替えます。難儀。骨盤底筋トレーニングを1度に100回、1日延べ5セットすると伝えました。医師曰く、それはやり過ぎです、やり方にはコツがあり、それは自分で探すしかありません、そんなに力を入れなくともいいですよ。合わせてベオーバ錠50mg(無意識に出る尿や頻繁に起こる尿意を改善する効能薬)1ヶ月分を処方してくれました。1ヶ月後の診療予約をし、そこを後にしました。今日の支払いは8ラー程。次の写真は採決結果です。ガンマGTPの値は29。入院の12日間、断酒でした。その効果覿面でした。 病院を後にし、予定していたBOOKOFFに突っ込みました。子どもたちが年始の帰省時に断捨離。その際、息子が高校時代に買いそろえたCDをリュック一杯、捨てずに取ってありました。少し値がつくかもしれない、レッコを止め、売却した方がいい、妻にそう話したそうでした。案の定、8ラーほどの買い取り価格でした。ラッキー。 それじゃーうどんでも食べようか。丸亀製麺に突っ込みました。写真はきつねうどんと竹輪の磯辺揚げ、イカ天でした。芋天に目のない妻はそれをチョイス。 折角なので温泉に浸かろうか。照湯に向かいました。写真はそこの湯船です。同じ形のものが男女別。男湯の方は貸し切りでした。 こちらは地中のからの吹き出しを管理するシステム。 タワーの上に蒸気を逃がす筒があり、白い湯気を噴き出していました。 湯浴みの後、ロビーで一休み。温泉玉子をパクつきました。 来た道をとって返しました。眠気の差しましたが、妻の世間話がおかげ、落ちそうになることはありませんでした。私のまちについて、いつものスーパーへ突っ込みました。鯵を購入。午後2時、帰宅してチャチャッ。トラに裾分けしました。 ブログを書いたり日記を記したり。あっという間に土曜日も夕方。ストーブの灰を掃除し、火を入れました。午後6時、プシュッとやった後、燗酒冷酒合わせて2合。ウイちゃんで締めました。バタンキュー。先ずは祝着の一日が終わりました。 今日の写真は隣家の庭に膨らみ始めた馬酔木です。浄瑠璃寺のそれもなのでしょう。春です。
2024年01月27日
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Friday, January 26, 2024 午前6時起床。晴れ。今日はポカ休を取りました。終日でした。午前中、珈琲を淹れてぼんやり。トラの頭を撫でていてあっという間に昼が来ました。黒ネクタイを締め、喪服を着ました。正午過ぎ、伯母の葬儀に向かいました。喪主(従兄)は現役を既にリタイア、会葬者は近親とご近所の皆さんでした。久しぶりの顔あり、従兄弟の子どもが結婚、伴侶やその子どもさんとは初対面でした。私の外側でも時間の流れていたこと、当たり前ですが、幾許かの感慨をもって遙かでした。 私の暮らす土地は、火葬の終わって葬儀です。近親は今日の午前にそれを済ませました。私の訪ねた時刻、祭壇に骨壺が座っていました。臨済の大和尚が導師、雲水4人が読経や鳴り物を務めました。最後、大和尚が「喝」を宣言、焼香という段取りでした。葬儀の終わり、会食の席に向かう途中、叔母が私に向かって曰く「もうお経はいいわ、時間の無駄。Hちゃん(私のこと)、あんたの父ちゃん(叔母の実兄)の時は、お経止めなさいよ。それがいいわ」 叔母は耳が遠く、声が大きいのです。回りに親族が大勢いて、皆さん苦笑い。私も内心そう思ってはいますが、人それぞれです。時と場所を弁えなければいけません。軽々は滅多と、ではあります。 会食を終え、家に戻りました。今日2杯目の珈琲を入れました。一息ついてスーツに着替えました。午後5時、市内某ホテルへ向かいました。地元経済界の皆さん200人近くが集まるパーティです。私も末席に。何せ人数が人数です。深い話は出来ません。 それとは別、私の入院中、今月初めに新年年始交換会がありました。しかし、私にとってはこの日が明けまして・・・でした。病気のことを知った方は、体調を気遣ってくれました。ノンアルコール。 午後9時帰宅。途中、いつものスーパーへ寄り、出来合いの酢海鼠を買いました。シャワーを浴びた後、冷酒、燗酒、都合2合を舐めながら録画の大相撲を観戦。バタンキュー。 今日の写真はネタ切れにつき、先日のショット。 退院して体力を取り戻すため、散歩を始めばかりの頃、某日、NのTやん宅を通りかかりました。彼が濡れ縁に板を打ち付けていました。「おっ、Tやん、いいことをしよるのぅ。じゃーけんど、そらーいけんわい。板を全部、裏表にして打ち付けよるわい。表を上にせにゃー笑わるるど。」Tやん曰く「えっ、知らんかった。板に裏表があるんけ。人間と一緒じゃーのぅ。年輪から外側に向かってのほうが表けぇ。ほいて、なし、そりゅーはよ言わんのか。はげらしいのぅ。あらまし打ってしもうたが。そりゅぅ笑いながら言うんじゃーけのぅ。Hちゃんな悪りー男じゃのう。教えてかさなぁ判らんままじゃったにぃ」 私の失言で手の止まったTやんです。
2024年01月26日
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Wednesday, January 24, 2024 晴れ 寒し。 午前5時過ぎ起床。夕刻は日の入り時刻が次第、遅くなっているのを感じます。朝は未だ、です。先週あたりが夜の明ける時刻,一番遅いはずです。節分、立春に向け,そろそろ朝も早まってくるように感じるかと。写真は拙宅梅林と青空です。寒さの中にも春です。 花ついでということ山茶花を。これは父宅の庭先。花弁の散って花絨毯ではあります。 南天が赤い実を撓(たわ)わ。 こちらは拙宅玄関のサクラソウです。この花が佳境に入ると春です。 以上、春先の彩りをアップしてみました。 午前7時半出社。終日、会議室に缶詰。新年度営業計画のassessmentが進みました。 午後6時、某ホテルに出向きました。某ボランティア団体の新春懇談会。挨拶をさせていただきましたが、相変わらずヘタクソ。それはそれとして見知った顔がちらほら。皆さん、犯罪を犯した方の社会復帰に取り組む方々です。関係機関のスタッフも幾人か。この会、コロナのこともあり4年ぶりの開催。各人、アルコールの入って、楽しい久闊の時間を過ごしたようでした。私はノンアルコール、ウーロン茶に徹しました。 午後9時前帰宅。ハイボールを2杯舐めてバタンキュー。 今日の写真はニオイセンネンボクです。居間に花が咲きました。蜜が床にポタポタ。それと知らず,底を踏んで,スリッパの裏がべたつきました。Thursday, January 25, 2024 晴れ。寒さが続きます。ここ数日、朝方は氷点あたりを前後。屋内も,ストーブに熾火の残っているものの、18度前後に下がります。今朝もそうでした。 午前5時半起床。 午前7時半出社。今週、ずっと続いたassessmentは午前で終了。肩の荷が下りました。昼はコンビニ野菜(袋に詰めたカット野菜を皿に出してドレッシングを掛けます),納豆でした。その写真がないので,朝に出たアスパラ菜の炒めもの。拙宅菜園に撓(たわ)わ,始末に負えません。味はいい感じです。 午後4時、早退しました。ポカ休をとって家に戻りました。喪服に着替え、妻と某葬祭場へ。今朝、伯母が亡くなったのでした。96歳。可愛がってくれたとは妻の弁。お寺は臨済。観音経でした。それの終わって、棺の中。顔は小さくなって,元気な頃の面影はありませんでしたが,穏やかではありました。 家に戻って風呂。さっぱりして瓶ビールを飲みました。ん?いつものバドではないような。後口が微妙、軟らかさのないような。ラベルを見て韓国で作られたものとありました。 ネタ切れなので大相撲のことを。録画し,毎晩、早送りで取組を観戦。いい相撲が続きます。贔屓の北勝富士休場は残念ですが、役力士が勝ち星を積み上げ、明日からの3日間、目が離せません。霧島が横綱に,琴の若が大関になるといいな。 余談です。勃然,そういえば大相撲を題材の小説を読んだこと,ないな。誰かその世界を書いた物語、知りませんか。いえ、力士の評伝とかではなく。と、そんなことを考え、扱いにくい、ノベルになりにくいのかな、土俵の上は。
2024年01月25日
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Tuesday, January 23, 2024 晴れ 寒波襲来 日中の最高気温が5℃でした。寒し。 午前5時起床。午前7時半出社。終日缶詰。合間を縫っていくつかミーティング協議がありました。 午後6時前帰宅。寒いので散歩はなし。風呂にまったりした後は今日もチビリやりながら大相撲の録画を観戦。北勝富士の休場、残念です。 土俵に一喜一憂しながら、栗山の残り半分(2合)をやっつけました。同じ写真を掲載するのは興ざめなので、写真は退院した日(確か)に飲んだ福司。北海道の背骨、日髙山脈を挟み、分水嶺を超えて東西の甘露を楽しむの図。贅沢ではあります。 さて、ネタ切れです。こんな折は、猫の写真をアップします。1枚目は製材工場に食客のウルップです。一昨日の散歩中にパチリ。高いところが好きのようです。 こちらは昨日の図。私に対する警戒心、日ごと解いてくれているようです。もう少しで触れそう。 同日私の住む地区に初見参の白黒です。数日前、川向こう、桟敷中区のほうで見かけました。釧路/KAZUさん宅のまーちゃんに似ているぞ。もう一度行き遇わせたら名前を付けようかな。 猫の最後は拙宅のトラです。ストーブの前でまったり。齢19ですが,元気です。 今日の写真はストックから。昨年末、入院の直前、休日に隣家DのH姉がやって来て曰く「鯛をもらったの。捌いてくれない。半分あげるから」 お安いご用。アイアイサー。寒い日だったので温かく着込んで包丁を持ちました。どうですか、見事な魚でしょう。鎌には塩を打ち、白身は昆布締め。 運のいいことに,丁度届いた多治見の甘露を開栓。それぞれを流しました。皆さん、有り難うございました。
2024年01月23日
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Monday, January 22,2024 午前5時起床。晴れ。午後になって冷えてきました。 午前7時半出社。午前に2つ協議あり。今週は週末まで来年度の予算案件で缶詰の日が続きます。午後にassessmentが始まりました。全体規模は7千万ラーです。全国に1,700余りある同業他社の中では中位に位置づけされるのかな。 小一時間早めに終了しました。午後4時過ぎ、ポカ休を取りました。先週後半の3日間、帰宅が遅くなったので,このくらい、許されるでしょう。ということで伸びた髪を切りに。千円カットに突っ込みました。さっぱりして帰宅。寒い中、散歩しました。途中、少しの距離、ジョグを混ぜました。うん、走れないことはないな。 Rさん宅前を通りました。夕暮れが迫り,強い北風のこともあり,誘いませんでした。恐らくテレビの前で大相撲観戦なのでしょう。 前後します。ジョギングシューズを履こうとしていたとき「今日はすき焼きよ。葱を取ってきて頂戴」 妻にそう言われました。アイアイサー。 畑に出たら,隣に暮らすA姉がブロッコリーを一玉くれました。早く食べないと闌けてしまうからと、こちらが気の毒に思うことのないよう気遣いながら、でした。残念なことに写真を撮り忘れましたが,とても立派な品でした。次の写真は根を切って薄皮を剥いた後の葱です。これも昨年、苗(長さ10cm、楊枝のような大きさと太さ)をA姉に貰い、1年がかりで育てました。いい感じでしょう。 散歩を終えた際の夕焼けがいい感じでした。立春は2月の始め。これからの10日余り、寒い日が続くんだろうな。それでも夕方、日没の少し遅くなるを感じる今日この頃ではあります。 夕食、すき焼きの写真はなくとも、お酒のそれは忘れずパチリ。北の錦です。栗山の蔵元が醸造。鍋に箸を付ける前、2合やってみました。夕張、芦別両岳に振った雪解けの水を使うであろう甘露です。北海道を感じました。こよなくさんご夫妻、感謝です。有り難うございました。 午後9時前、バタンキュー。 ということで,気の利いた話はありません。 今日の一句 寒空の高みに鳶の悠然と 今日の写真は散歩途中に見かけた突き井戸作業です。水田の端をボーリングしていました。地面に直接パイプを打ち込む工法です。地下水は無料なので,農業用水として利用する場合、安易にして費用僅かの手法です。
2024年01月22日
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Sunday, January 21, 2024 曇りのち晴れ。 午前3時起床。ここ数日、入院のあれこれを纏めていましたが、今日の未明もそうしました。倦いて珈琲を淹れぼんやり。サンデーモーニングを見ていたら、中学の折の恩師Y先生からTEL。賀状に書いた病気のことを心配、連絡をくれたとのこと。曰く この頃、教え子たちが不如意、先に逝くケースもあり、かくいう私も古希となりガタが来た,妻もよろしくない,あっ,酒は飲んでいるけどね,君は仕事が忙しいはずだからくれぐれも体を労ってほしい。 嬉しい声かけでした。 午後一、古物商(リサイクル)の方がやって来ました。楽器、オーディオなどガラクタを断捨離するため、お願いしていたのでした。ヴァイオリンやチェロ(それぞれ入門用の安物)、何組もあるヴィンテージオーディオのうちから好みのものを残して全て、などでした。結構満足のいく金額になりました。安めの地中海クルーズ1名分程度でしょうか。これはアドリア海行きの虎の子としてへそくりします。エヘヘ。 荷を積んだトラックを見送り,散歩しました。風呂を浴び,大相撲を観戦しながら燗酒を舐めました。午後9時前、バタンキュー。 それでは、以下に入院のその後と退院、それに癌を告げられた際の心模様などを。 正月三が日(術後6日目以降8日まで) 元旦、早くに目が覚めました。というか、個室ですから24時間,いつ起きていつ寝てもいい環境です。夜昼おかまい無しの時を過ごせます。ただし、午前8時朝食、正午昼食、午後6時夕食は定時。サイクルが決まっています。写真はこの日の昼に出た御節です。 こんな挨拶文が添えられていました。新年を病院で無聊の患者に対する心遣いではあります。 さて、4階病棟の東に広く明るい食堂があります。其処に緑茶ほうじ茶の無料サービスあり。毎日、午前7時前後から日の出(おおよそ7時半)までぼんやり別府湾とその向こうの大分、コンビナートの灯りを眺めました。初日の出もそこからでした。眺めて感慨めいた思いにはなりませんでしたが。 毎朝、太陽が顔を出したのを潮、部屋に戻りラジオを聴きながら新聞に目を通すのが日課。新聞はタブレットを使ってのこと。朝日毎日読売日経、それぞれ会員です。全紙面を読むことが出来ます。時間はたっぷりあるので、普段に増して精読。年末年始は特集記事も多く、何の通か判りませんが,通になった気分でした。 入院中、部屋に備え付けのテレビがありましたが、一度もスイッチに触れませんでした。元旦のニューイヤー、2日3日の箱根、それぞれの駅伝も少しラジオで聴いただけでした。能登半島の地震、羽田の航空機事故が報に震えました。後者の生じた日、娘息子が羽田を利用して大分・佐伯へ帰省しました。事故はその日の夕刻でした。二人は午前の便だったので事なきでした。しかし、年始を実家で過ごした後、帰京の便への影響が心配でした。後日、案の定,遅れが生じたとのこと。 妻は子ども二人を連れ,私を見舞うことを考えたそうですが、何せ拙宅から病院まで片道2時間は折角の帰省に無駄です。固辞し,楽しい時を過ごすよう言いました。そうしたようでした。加わらなくても、家族が団欒を過ごせば嬉しいのですが、LINEに添えられた料理のあれこれは目の毒でした。写真は娘が火鉢に焼いた餅です。これを雑煮に入れた由。いりこだしのそれ、食べたかったです。 さてもの年始、私の過ごし方は以上ですが、病院スタッフはその間も毎日部屋を覗いてくれました。ドクターも連日、午前に顔を見せてくれ、世間話も交えた会話をしてくれました。看護師は交代で休みを取っているようでしたが、主治医が顔を見せなかった日はありませんでした。頭の下がる思いです。1月4日(入院9日目) 病院はこの日が診療開始日。新たに入院してくる患者もいて、病棟も賑やかになりました。手術日、膀胱側の尿道と「ペ○ス」側の尿道、それを縫合(つなぎ合わせた)したのですが、この日はそれがきちんとくっついて、腹腔内に尿漏れのないか否かを検査する日でした。午前、1階の手術室に向かいました。狭い手術台に横となりました。この台に上がるのは3回目。慣れたものです。尿道カテーテルに造影剤を注ぎ入れますよ,そう説明がありました。管を通じ「ペ○ス」を通り、膀胱にそれを注入するのだそうです。尿意を催すけれど我慢してください,そう言われました。入れ始めると確かに強い尿意がありました。膀胱内に満タンとなった造影剤をカメラ撮影。縫合の後がきちんと繋がっていれば,繋ぎ目からの漏れがありません。それのあると、もう少し時間を掛けて縫合部分がきちんとくっつくのを待たないといけません。撮影後「はい、Tさん、きちんとくっついていますよ。大丈夫です。カテーテルを抜きますよ」 そう言われ,目の前がパッと明るくなりました。よし、これで開放される。退院も早いな。引き抜かれる際、ちょっとだけ尿道の奥に疼痛がありましたが,それもあっという間。これで身体に刺さった管は全て外れました。爽快の気分です。早速シャワーを浴びました。 しかし、その後がいけません。折角の開放感が一瞬で萎みました。失禁が止まらないのです。紙おむつとその内側に尿取りパッドをしました。すぐに尿取りパッドが漏れた尿で重くなります。カテーテルの取れて以降、キャパ200ccのパッドを一日に5~6枚使いました。夜、横になっていると,膀胱内に溜まった量で尿意を催しますが、身体を起こすといけません。シャーッ、漏れるのを感じます。時とところを選ばないから難儀です。暫くこれを手放せません。(退院) 1月5日(入院11日目)病棟廊下を散歩していて,主治医に行き遇わせました。「Tさん、如何ですか。仕事が気になるんでしょう?退院はいつにしますか。」 そう切り出されました。私「なんとか早くなりませんかね」ドクター「はい、判りました。明日退院にしましょう。問題は失禁です。骨盤底筋体操を心がけて下さいね」 骨盤底筋とは、骨盤の底にある筋肉群で、排尿、排便などに大きく関係する。これらの筋力が弱まると,尿道を締める力が弱くなるため,頻尿や尿漏れなどが生じる。骨盤底筋体操で筋力を高めると,排尿の問題を改善することが出来る、とパンフにありました。オナラや尿を我慢する筋肉です。尿切りや肛門を締めるのに使うところです。それを意識的、1日数回に分け合計10分程度、締めるよう繰り返すトレーニングです。これを続けると1~3ヶ月で尿漏れが改善するとのことでした。面倒くさいけれど,いつまでも垂れ流しでは按配が悪い。努めなければ。 ということで1月6日(土)退院しました。病院の玄関を出て,駐車場に止めてあったマイカーのハンドルを握ったとき,人心地のついた気持ちになりました。エンジンをかける前、暫く運転席に座って病院の建物を眺めました。この12日間をここで過ごしたんだな,感慨じみた気持ちと,それがあっという間に終わったな、年末年始の正月気分を味合わず,ぽっかり穴の開いて今年が始まったような妙な気持ちでした。 高速道路を2時間掛けて家に戻りました。途中の運転、眠気の差していけませんでした。玄関を入ると,息子の上京した後でしたが,娘は明日まで在宅。顔を見ることができてよかったです。 とまあ、以上が一連の前立腺癌発見と入退院の顛末でした。入院に要した費用は差額ベッド代(個室使用料)を含め、500ラー(ラーは岐阜県多治見市のごく一部に使われる仮想通貨単位、1ラー=600円)でした。(癌の宣告について) 退院してこの方、健康診断でボーダーラインを超えた数値の出て後、あれこれの検査を経て前立腺癌の確定、入院・手術、一連を書いてきました。その内容は、事実関係を時系列で纏めたものであり、癌宣告を受けた際の自身の気持ち、受け止め方、揺れの有無などについては記していません。ということで、大げさですが,この歳になっての死生観じみたものも含め,つらつら書いてみます。とりとめのない内容となります。 いきなりですが,若い頃、死は恐ろしいものでした。自分の存在が無になる,それでいて世の中は続いていく,このギャップに慄(おのの)いていました。それが次第、友人知人、同僚先輩後輩、家族、身の回りの誰彼が世を去り、自身も50台を経て還暦、体力の衰え、酒に弱くなったこともあり、次第と何気なく死を受容するような感じを覚えるようになりました。これは老いと共に遺伝子の一部がそう思わせるような働きかけを始めているのかもしれない、勝手にそんなことを思ったりもしました。 それはそれとして、日本人の平均寿命から自身の年齢を引くと残された年月は幾許(いくばく)かを漠然,考えるようにもなりました。さらに単なる余命に加え,健康寿命のことを思うと、折に触れ、上の諦観じみた思いとは別、なんだか焦燥感に似た思いが過りました。 いえ、悲観的なニュアンスではありません。それはそれで仕方のないこと、生を受けた者は必ず死ななければならない、そう決まっているので、還暦を祝う慶びに似た感じ、あれこれあってもこの歳まで生きた,生かされてきた,有り難い、後はボーナスだな、これから死ぬまでの間をそんな朧気な感じで捉えている心持ちです。まさに歳をとったという子でしょう。 60台になって、そんな思いでぼんやり暮らしていたので、宣告というか、病名を告げられたとき、嗚呼私も患者の仲間入りか,2人に1人は癌になるご時世、特別なことではない、それが正直な感想でした。入院・手術もどこか醒めた感じ。なるようにしかならぬ、半分他人事のような気持ちでした。ツルゲーネフ「父と子」のバザーロフ然りだな、ちょっと悦に入った気分でもありました。勿論、難儀な部位だったり、各所に転移していたりというのではなく、早期発見、しかも治癒率の高い前立腺癌であったことも,悲観的な気持ちにならずの一因ではありますが。 さて、それはそれとして、病気のことをして夫婦の会話もその辺りが話題となること多しでした。 話が跳びます。私、毛が三本足りません。人のことを思いやるという心遣いに疎い、常々そう思っています。家族に対しても「まあなるようにしかならん」ということで、結婚以来、深い愛情には無縁、結構ドライな夫であり,父親でした。 そんな私です。例えば,道中の交通事故が心配だ、見舞いなんぞに来なくてよい、退院の際も迎えは要らない,自分で運転して戻る、というような目先のことから、もしも死んだら墓は不要、灰は適当,父の山に撒いてくれればよい、一部、ほんの僅かだけ、母校の大学キャンパスの隅にサッ、小袋一袋分を人に見られないよう撒いて頂戴、そんな話をいい加減,笑い話のよう、つらつらしたところ「あなた、自分のことばかり考えて,先に死んだら私たちはどうなるの。もう少し家族のことを考えてよ」 叱られました。確かにその通りです。一応相槌を打ちました。でも、よく言うじゃないですか。「男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く。」心の中では心配なしと思っています。結局のところ、人は死ぬまでなんとか生きていかないといけないんです。 ということで,仕方がない,なるようにしかならん、それが人生と思い定めています。私にとって宗教は至って無縁。死は一切の無なのです。 話が大げさになってきました。戻ります。入院手術のため、少し休暇を取る旨、会社へ伝えました。途端,病如何、部下たちに問われました。癌だよと伝えたら、ほとんどの者が厳しい闘病とその先の死をイメージするのでしょう、もう私が死ぬ身であるようなレッテルを貼った目つきに見えました。見舞いの言葉にもそれを感じました。いえ、私自身、イメージとして癌は死に至る病、そういう固定観念を拭えずにいましたから、仕方ありません。部下の数人を若いうちにその病気で失いもしましたし。確かに癌は未だ医学が克服できない病ですから。それはそれとして、自身が罹患して、先に書いたよう,仕方のないこと,平気前進しかないとの思いである自分が、そのような目で見られることには、なんだか滑稽感を覚えました。纏めとして、それが私の毛の三本足りないせいだからかもしれません。今日の写真は鷹です。散歩の途中、架線に留まっていました。別の一枚をトリミングしてみました。精悍の姿です。それはそれとして遅ればせながら一富士二鷹三茄子です。何かいいことがあるといいのですが。
2024年01月21日
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Saturday, January 20, 2024 小雨 午前6時起床。昨夜の晩酌と以降の睡眠で,1週間の疲れが取れました。写真は朝食です。久しぶりのパン食。マンデリンの珈琲が美味しい。 降り込められ、終日居間に過ごしました。焼き芋を頬張りながら音楽を聴いたり,新聞に目を通したり。入院生活の続きをブログに書いてもみました。次の写真はストーブです。陽の射さない底冷えの日は,これが有り難いです。 拙宅トラも手持ち無沙汰。カリモクソファーにゴロリ。 夕刻、霧雨の中を散歩3km。途中、初対面のニャー2匹に行き遇わせました。カメラを持たなかったのが悔やまれます。それでは入院の続きを以下に。 (手術・入院生活) 大晦日の近づいた週に、株主代表会議が終わりました。手術を翌日に控えた26日に入院しました。妻が同行してくれました。彼女は別府のホテルへ宿泊。明日早朝に始まる手術に立ち会うためでした。 部屋は4階の南向き個室。病院自体が築後数年しか経っておらず、美しく広く快適でした。Wi-Fiが完備されていることを知っていたので,タブレットを持ち込みました。 午後4時頃、左手首から10cmほど肘に近いあたりの静脈に針を刺し、点滴が始まりました。何の薬か判りません。合わせて、下剤を飲み始めました。ボトルラベルに、サルプレップという名の経口腸管洗浄剤配合内服液とありました。500mlを40分かけて飲むように言われました。塩分の強く,しょっぱかったです。後口悪し。水1リットルも添えられました。飲み終えて1時間半程度で下り始めました。それの落ち着いて,シャワーを浴びました。シティホテルには劣りますが、ビジネスホテルのそれよりもずっと快適のバスルームでした。午後6時過ぎ、主治医が病室を訪ねてくれました。先般の生検結果を改めて説明してくれました。「前立腺癌の細胞ランクは6から10までの5ランクに分けられる。6はおとなしく、7は普通、8~10は暴れるレベル、Tさん、あなたのそれは7でした。なお、明日の手術で前立腺を全摘するのですが、身体から切り離した前立腺の切り口、即ち断面は大分大学医学部に送り、病理検査に回します。断面のに癌細胞が見つからなければ、前立腺の内部だけに癌細胞があったということになり、完全にそれを取り除いたことになります。断面に癌細胞があれば、身体側に未だ残っていることになります。その場合は次の治療過程に進みます。ということで、病理検査の結果待ちとなります。来月(年明け1月)末に判ります。何か質問はありますか。あっ、退院後の運動ですか。そうですね、自転車はサドルが丁度尿道のところに触りますから、春頃まで控えた方がいいでしょうね.それ以降は自由にどうぞ。はい、酒はOKですよ。ただしほどほどにしてください。飲み過ぎると括約筋が緩み、失禁が酷くなりますからね」 まだ手術前というのに,早くも退院後の生活を思う杣夫でした。 その日は病棟の消灯時刻、午後9時に就寝。その折、コーラックに似たピンクの錠剤2粒を飲みました.これも下剤なのでしょう。 ベッドの中、娘からのLINEによる励ましが嬉しかったです。 翌27日は午前4時起床。顔の髭を剃るよう言われたので、午前5時、カミソリを使いました。私、其程濃くはありません。チャチャッと済ませました。午前8時前、妻がやってきました。とりとめのない話をしていたら、呼び出しがありました。この階のエレベーター前で見送ってくれました。笑顔が瞼に焼き付きました。手術中、私は麻酔、前後不覚の時間ですが,待つ身の妻はどんな思いか。心配を掛けます。 手術室は1階でした。生検の時と同じ手はずでした。看護師がビニールの帽子を被せてくれました。私の頭に看護師の伸ばした手の先が届きません。屈んだら,有り難うございます、笑顔で礼を言われました。術前をしてのことですが、言葉の一言一言、些細な心遣いが嬉しく,気持ちが和らぎました。 狭いベッドに上向き,横になりました。ベルトで両手を固定されました。寝たまま気をつけをする姿勢になりました。麻酔医がテキパキ,それではいきますよ,そういいながら麻酔薬を最前の点滴管に入れたようでした。腕から身体の方へサーッと冷たい感覚が広がってくると思ったら、もう落ちていました。 午後3時くらいだったでしょうか、気のついてぼんやりの感覚でした。最初に見えたのは妻の笑顔でした。最前、エレベーターの前に見送ってくれた時の笑顔とは異なる、安心の目つきでした。写真はその折の私です。目が鰯のよう、潤んでいる。 ちなみ、こちらは手術前夜の私です。麻酔と手術のダメージは、この違いに見て取れます。 戻ります。術後の写真に、酸素マスクと心拍を測定するセンサーを見て取れます。そのほか点滴、尿道カテーテル、加えてドレーンが土手っ腹に突っ込まれていました。 ドレーンとは太いストローほどのビニール管です。長さは60~70cmほどでしょうか。ダビンチによる手術は,腹に6カ所、穴を開けてのことでしたが、そのうちの一つを利用、腹の中に深く差し込まれていました。その役目は前立腺を切り取った際、切り口から血液や体液などが染み出、腹腔に溜まるのだそうで、それを排出するためのもの。ビニール管の外側の口、即ち腹の外の方の口にはそこそこ硬いゴム状、透明、拳大の球体が付いてあります。それを握ると腹腔に空気が入ります。逆に握りを離すと、吸引,即ちマイナスの圧が腹腔にかかり、溜まった体液を中から吸い出すという仕組みになっているのです。差し込んでいる穴のところは、化膿しないよう絆創膏できちんと保たれていました。ドレーンによる吸い出し、なんとも原始的ではありますが、日々の経過と共に,吸い出される腹腔内の体液が濃い赤から薄いピンクに変わっていくのを見て、嗚呼,快方に向かっているんだな、それを実感しました。 戻ります。オペの無事終了を知って,妻は家路につきました。その夜,上向き、同じ姿勢による腰の鈍痛がありましたが、寝返りOKと聞いて,そうしました。難は軽減です。 術日の夜は、心電図センサーと各種チューブのせいで,寝苦しかったです。看護師が入れ替わり立ち替わり病室を覗き、おかわりありませんか,声をかけてくれました。朝になって,さあ歩きましょう、看護師が身体を支えてくれました。傷口(内部も含め)は全く痛みませんでした。ただし、咳・嚔(くしゃみ)をしたとき、うっ、鈍痛が走りました。スタスタ歩くことが出来ました。努めて動くようアドバイスされました。傷の治りが早いのだそうです。夕刻、食事が出ました。所謂重湯でした。味も素っ気もありません。 29日(術後3日目)の朝は3分粥、昼に5分、夜は7分、翌朝が粥、30日の昼に普通食となりました。それぞれおかずは二品。味噌汁が付きました。夕刻、看護師がやって来「Tさん、「ペ○ス」の洗い方を教えますね。紙パンツを下げてトイレに腰掛けてください。尿道カテーテルを挿入していると、尿道壁とカテーテルの隙間から尿が漏れるし、血尿も混じります。それが「ペ○ス」の回りに付いて汚れます。匂いも出しますから、洗いましょう。(彼女、お湯の入ったペットボトルを片手に持ち、摘まんだ私の「ペ○ス」にそれを掛け,優しく汚れを落としてくれました)こうしてお湯を掛け、少しずつ流していきます。血糊などを流したらこのペーパータオルで拭いてください。はい、お終いです」 うーん、プロに徹した扱いとドライの言葉遣いに頭が下がりました。 30日(術後4日目)にドレーンと点滴が外れました。ドレーンを差し込んだ穴は臍の右上でしたが、腹腔の左下まで差し込まれていて、抜く折、痛みはありませんでしたが、他の臓器に触るの感あり、とても妙な違和感を覚えました。ということでこの日以降は尿道カテーテルのみでした。シャワーの許可が出ました。「ペ○ス」の先から管が出ていて,少し始末の悪い入浴でしたが、浴びた後は自身の身体にシャンプーの香りが残り、いい気持ちでした。忽ち睡魔に襲われました。次の写真は手術痕です。 穴は全部で6つですが、右脇腹奥のところは写っていません。向かって左の穴がドレーンの刺さってあったところ。臍の上が一番大きな穴でして,切り取った前立腺はここから出しました。医師に後で聞いた話ですが、切り取った前立腺は腹腔内でビニール袋に入れ、他の臓器に触れないようにして取り出したそうです。穴は、右上のところを除き、全て縫わずに特殊な絆創膏で留めただけでした。シャワーを浴びたら絆創膏が剥がれ、瘡蓋の傷口がむき出しになりました。それでいいのだそうです。痛みは全くなく、腹筋に力を入れたら,ほんの少しの鈍痛。それも日薬、次第と消えていくのが判りました。僅かの痒みがのこりました。 大晦日(術後5日目)、昨日今日と病院内はとても静かでした。外来は数日前から年末年始の休み。入院患者も都合のつく人は正月を家庭で過ごすため仮退院のようでした。4階病棟は30人近くの入院キャパがあるようですが、数えたら10人未満でした。当直の看護師もモニアーチェックはするものの、傍目、手持ち無沙汰のようでした。病院全体が休暇モード。朝昼晩の配膳も,その担当が休みとなり,看護師がやってくれているようでした。自由に歩くことが出来るようになり、海に面した明るく広い食堂兼面会室で食事をしてもよかったのですが、そこで他の患者に声を掛けられ,話し込まれるのはちょっと・・・。と言うことで入院の間、部屋食を通しました。手術の日から暫く経つと、24時間、手持ち無沙汰となります。本は荷物になるので持ち込みませんでした。先だって書いたとおり、青空文庫を紐解きました。活字に飽くとラジコです。年の瀬の音が,世間から隔離の病室に届き、寂しいようでいて,これもいい経験、還暦を過ぎ、世事の煩雑に紛らわされず自己を見つめる時間のあることも悪くない、そう独りごちた大晦日でした。写真はこの日の昼食です。手前右の椀に蕎麦でした。年越しをしてのことでしょう。(続く)今日の一句寒烏櫟の天辺声絞る 今日の写真は尿パックです。管の上手は尿道カテーテルに繋がっています。2.5リットルの容量。8分目程溜まると,看護師が大きなプラスチック製ビーカーを持って来、中身をそれに移し,処分してくれました。
2024年01月20日
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Friday, January 19, 2024 曇り 午前7時半出社。出勤途中、パラつきました。 午前午後ともミーティングや会議。お客様もありました。睡眠時間2時間。寝不足で頭の回転が悪かったです。今日の夜も会議がありました。午後8時半帰宅。グロッキー。昨日、風呂に入りませんでした。妻はコーラスに出かけ不在。のんびり湯船に浸かりました。眠気が差しました。夕食は彼女作り置きのチャーハンとふろふき大根。缶ビール1缶プシュッとやって、燗を1本つけました。大相撲の録画を見ながらチビリ。ポートシャーロット(写真)のストレートを舐め、午後11時、バタンキュー。 書くことがないので、今日も前立腺癌の続きを以下に。 (診断確定) 12月は年4回ある株主代表会議のシーズンでした。その合間を縫っての中旬、検査結果を訊きに、病院を訪ねました。予約の時刻に訪ねると、医師曰く「Tさん、残念ながら癌が見つかりました。場所はMRI検査で特定されたところの部位です。針を20か所刺して、その一部にありました。悪性度は良性と悪性の中間です。癌は癌ですが、安心してください。治療の選択肢もいろいろありますよ。放射線や重粒子線を使ったり、ホルモン療法だったり、或いは摘出手術だったり。放射線は治療設備のある大分市の大きな病院に2週間通う必要があります。重粒子線は、福岡県の病院にしか設備がありませんし、これも幾日かの通院が必要です。お住まいが佐伯市なので,通うのは大変ですね。それにお仕事もお仕事だし。それで、どうします?ああ、手術を希望しますか。そうですよね、わかりました。それじゃぁ日程ですが、まあ、暖かくなって3月ないし4月あたりにしましょうか。前立腺癌は進行が遅く、Tさんの状況ならそんなに急ぐこともありませんしね。年度末は忙しいでしょうから、4月になってからにしますか?えっ!年内ですか?うーん、ほかの患者さんのオペが入って、厳しいなぁ。ちょっと待ってください。えーと、えーと。そうですか。12月末なら何とか押し込めるけど、うーん、それにしても年末年始、正月を病院で過ごすんですか?それでかまいません?ああそうですか。そこまで言うのでしたらわかりました。それじゃぁえーと、12月27日、病院年内最終オペということでいきましょう。手術は年末年始を休みますからね。でも本当に正月を病院でいいんですね。も一度言いますが、春になってでもいいんですよ?うんうん、ハイ、分かりました。それではと、26日入院ということで。手続きしておきますね。それでは、今日はそれを前、前立腺は骨に転移することが多いですから、念のためCT検査をしておきましょう」 私、年末の手術を希望したのには理由がありました。一つには急がなくてもよいと言われても,早いに越したことはないという思い。も一つは、年末年始は会社が休みとなり、仕事上,迷惑をかけることも少なくなるから。正月気分を味わえないことよりも、前者二つの理由を優先することが先と思い定め、病院に無理を言ったのでした。 なお、この日のCT検査結果は、幸い、転移無しでした。CTで骨に転移の有無が判るのか、ちょぅっと疑問ではありましたが。(入院・手術の説明) 診断の確定した日、医者に手術内容とリスクの説明を受けました。その内容は次の通りです。 全身麻酔で行う、手術時間は6時間、オペはロボット手術となる、ロボットの名称はダビンチ、腹に穴を6つ開ける、そこにライト、カメラや鋏、縫い針、ピンセットなど先端端子の付いた細いアームを差し入れて前立腺を切り取る、それらの操作は離れたところにある制御装置で医師が行う、手術は手術担当の医師2名、麻酔医1名、看護師2~3名が担当する。写真はそのダビンチです。手術台に横になったら、これが腹の上に被さるのでしょう。このロボット、価格は3億円位と聞きました。メンテも1回が300万円位だそうです。ちなみに,私のお世話になった病院のHP(HP)です。このリンク先にダビンチの紹介があります。 前にも書きましたが、前立腺は30g程度の重さ。小さな穴を開け、ロボットがアームを差し込み、切り取ります。問題は、前立腺の中を尿道が通っていることです。膀胱からの尿道が前立腺内を通過、「ぺ〇ス」に至ります。ということで、膀胱側と「ペ〇ス」側の尿道をちょん切らないと、前立腺を取り出すことはできません。切断部分のうち、「ペ〇ス」側を膀胱の側に引っ張って縫い付けるのだそうです。尿道は引っ張ると伸びるので、問題ないとのこと。また、両者を縫い合わせて繋ぐ作業は、ロボット手術技術としてはそれほど難しくないとは医者の弁。むしろ、前立腺が肛門近くの直腸にくっついているので、その部分を切り剥がさないといけないのだそうです。その部位は非常に薄く、難しいそうです。 なお、手術はは約30度、足の方を上げた状態で行うとのことでした。傾け、腹腔に二酸化炭素を吹き込んで膨らませ、前立腺切除の切り取り認識空間を確保するためだそうです。なるほど、ペチャっと臓器が引っ付いた状態では無理。よく考えたものです。 最後に術後の影響について。前立腺を切除すると「ボッキ」不全と失禁が生じるとのこと。後者は3カ月から半年続く者もあるけれど、9割方、収まるそうです。前者の生じる確率、元に戻る程度の説明はありませんでした。加えて大切なことは、「シャセイ」不能となることです。「セイエキ」の通り道、前立腺がなくなりますから、「シャセイ」できません。当然、「セイコウ」での妊娠能わずとなります。それでもよいですかと問われました。もうこの年ですし、妻も既に閉経。全く問題ありませんが、医師はその点を重要視、気遣い、丁寧な応対をしてくれました。若い男性(夫婦)の場合、とても大きな判断になろうことは想像に難くありません。 説明は他に入院の手続き、支払い関係、個室か否か、等がありました。病院のパンフレットがよく整理されていて、分かり易かったです。最後に入院期間は半月から二十日ほどと言われ、その日は病院を後にしました。 病院側としては、本人にだけではなく、家族にも同じ内容を説明したいとのことでした。入院前に妻を伴い、も一度、訪ね、夫婦二人そろって話を聞きました。妻は一通りをして、安心したようでした。(以下続く)今日の一句水仙のひそり咲くなり小正月今日の写真は庭に咲くフサザキスイセン(房咲水仙)です。大寒を前にほっこり。
2024年01月19日
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Thursday, January 18, 2024 晴れのち曇り一時雨午前7時半出社。終日勤務。午前7時半出社。終日勤務、午後7時、今日もUNIONとのやり取りがありました。帰宅は午前3時。病み上がりには辛いです。しかし、相手側に歩み寄ってもらい,いい結果となりました。 さて、書くことがないので、前立腺癌に至るあれこれを以下に書き記しておきます。(疑い) 昨年(2023)夏、会社の定期健康診断を受診しました。主治医をふた月に一度、血圧の薬処方を求めて受診するのですが、定期健診直後の受診にその結果を持参しました。毎年のことです。主治医のS医師、それを見て「Tさん、PSIの値が4.0、ボーダーライン(3.5)を越えているね。一度専門医を受診したほうがいい」。勧めてくれました。自覚症状は全くありませんでした。 PSIとは前立腺癌の有無を調べる指標です。指標を上回ると前立腺癌を疑うのだそうです。採血で判定されます。通常、検診の一環として受ける場合、自費となります。2千円から3千円程度ですが、自治体によっては助成があります。私は毎年の健康診断にその料金を追加していたのです。 ということでS医師の勧めで10月、佐伯市内の総合病院Nを受診。MRI、CTの両方を使い、前立腺を診察してもらいました。結果は「前立腺に癌らしき影あり」でした。しかし、その場では疑いが濃くなっただけで、診断確定には至りませんでした。総合病院Nの医師は、生検を勧めてくれました。「うちの病院でもできるけれど、生検技術は専門医の方が上だから」といい、腎臓・泌尿器の専門診療を行う医療機関を紹介してくれました。大分大学医学部付属病院と別府湾腎泌尿器病院の2施設でした。医学部付属病院は患者数が多く、急患によって診療日時の変更多しということから、後者を選びました。 11月のはじめ、ポカ休を取りました。バックの中にN医療センターの医師が用意してくれたMRI、CTのデータなど分厚い資料を持って、その病院へ向かいました。あらかじめ予約していたので、待ち時間はほとんどありませんでした。持参の資料に目通しした医師は、生検の必要を改めて口にし、検査概要を丁寧に説明してくれました。生検とは癌の疑われる部位に針を刺し、細胞を採取。それを顕微鏡で観察、判定する検査のことです。1泊2日、全身麻酔で行い、痛みは全くなしとのことでした。前立腺の大きさはピンポン玉程度、重さにして30gだそうです。私の場合、その一部に小豆大の影があるとのこと。細胞採取はその部分だけではなく、前立腺の内部と周囲全部、併せて20か所ほどの部位細胞を採取するとのこと。針を刺すところは「いんのう」と「こうもん」の間。前立腺が膀胱と「ペ〇ス」の間にある臓器だからです。その日、11月中旬に入院・生検の予約をして病院を後にしました。(生検) その日がやってきました。ポカ休を取って再び別府へ。前夜9時以降、食事を取らないよう指示がありました。勿論当日の朝食は抜き。病院に着いて、病室へ案内されました。院内着を渡され、それに着替えました。1泊ですが、入院は入院です。検査とはいえ、全身麻酔です。昼食も抜き。手術の順番待ちでした。午後2時前、看護師に促され、手術着に着替えました。膝上までの長さの前開き木綿製の羽織物でした。下はスッポンポン。最前の説明が如く「いんのう」と「こうもん」の間に針を刺すのですから当然です。続いて「浣腸します」といわれ、ベッドに横へなりました。おしりを押し開かれ、チューブを「こうもん」に差し込まれました。そろり液体の入ってくるのが判りました。僅か10秒かそこいらの処置でした。数分後、差し込みがあり、トイレに突っ込みました。渋り腹とはこのことだというような感じでした。便器に10分ほど座り、小康を得ました。トイレ備え付けのボタンを押して看護師を呼びました。すぐにやってきて排便の現物を確認してくれました。「はい、OKですよ。病室に戻ってください」。 前の患者の手術が長引いているようで、なかなか呼ばれませんでした。午後3時過ぎ、使者がやってきました。別階にエレベーターで移動しました。手術室入室には二つ扉がありました。二つ目を過ぎると別世界。スリッパを履き替え、頭にビニールを被せられました。女性が風呂に入る折、被るあれにちかかったです。すたすた前に進むと、無影燈の下に手術台がありました。縦横とも何とも狭い感じでした。私が上向きに横になって少し動けばはみ出るだろう、そのような広さでした。手術室の中はテレビで見たような器具がそこここに置かれ、広さは10m×10mほどでしょうか。広く感じました。全体の色調は少し暗い青かな。 ここで全身麻酔のことを。私が検査入院した病院は、専門医5人と麻酔医1人がスタッフのようでした。手術前、麻酔医からも丁寧な説明がありました。全身麻酔の投薬は手の甲の血管から入れる、呼吸が止まるので気管に管を入れ、人工呼吸の措置をとる、リスクは低いがあれこれの副作用あるかもしれない、その詳細まで詳しく聞かされました。最後に説明同意のサインを求められました。勿論、こちとら俎板の鯉です。サラリ、名前を書きました。 「Tさん、それでは麻酔、いきますよ。すぐ眠くなりますよ」。 途端、針を刺した左手甲からサーッ、冷たい感じの感覚が左半身に広がり始めました。それが最後でした。 「Tさん、わかりますか?」その声に意識が戻りました。午後6時ごろの病室ベッド上でした。痛みは全くありませんでしたが、尿道に違和感がありました。「ぺ〇ス」の先から膀胱へ向け、尿道カテーテル(ビニールの管)が差し込まれていました。加えて、左手甲に点滴の注射針が刺さっていました。その晩はカテーテルの為、尿意は無く、目の覚めたりうとうとしたり。スマホでアマゾンプライムの映画を見る余裕がありました。夜中、時折、当直の看護師が覗いてくれました。 一晩だけの検査入院ということで、4人部屋に入ったのですが、数年前に開院した病院ということで病室が広い。これまでのイメージの倍の広さがありました。夜中、イヤホンをつけてスマホをいじりましたが、同室、隣のベッドは同日、私の前に手術を受けた方でした。術前、随分重い病気を抱えていると本人に聞かされていました。術後、戻ってきた彼は一晩中痛みにうなされていました。 明け方、私の体から出た尿の色合いを見て(尿道カテーテルの先に目盛りの入った2.5リットルのビニール容器がついている)「はい、Tさん、抜きますよ」私の「ぺ〇ス」を摘まんで、ぬるり、カテーテルを抜いてくれました。その折、一瞬ですが、膀胱から尿道にかけてのところに疼痛が走りました。その足でトイレへ向かいました。尿が正常に出ることを確認。「しばらく血尿が混じります」といわれ、退院のOKがでました。 支払いは60ラーほどでした。クレジットカードを忘れ、近くのコンビニでキャッシュを引き出して病院に戻りました。恥ずかしかったです。 さて、生検の検査結果は12の月初め、ポカ休を取るわけにもいかず、土曜日のこととなりました。その内容は後に回すとして、生検後の経過について、付け加えておくことがあります。 20か所ほどに針を刺しましたが、痛みはほとんど残りませんでした。ただし、血尿が10日ほど続きました。最初は鮮血が混じりましたが、次第に赤黒くなり、時間の経過とともに薄くなりました。それはそれとして、「せいえき」です。なんと、「しゃせい」の折も鮮血交じりなのです。通常、「せいえき」は白濁です。驚きました。「しゃせい」の回数を経るごと、乾いた血糊のような色合いになり、これも10日ほどで正常の色合いに戻りました。精嚢から供給される「せいえき」も前立腺を通し、尿道に入り、「ペ〇ス」の先から出ます。前立腺に針をぶすぶす刺したのですから、これに血の混じるのは、当たり前と言えば当たり前でしょう。 とまあこんな日を過ごして検査結果の日に至ったのでした。(続く) 今日の写真はUNIONとの交渉前に食べたホカ弁のチキン南蛮弁当です。意外といけました。
2024年01月19日
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Wednesday, January 17, 2024 晴れ 色々ありまして、一か月余り、ブログ更新をしませんでした。年末年始を入退院。仕事は一昨日、15日(月)に復帰しました。ブログは今日から再開です。拙いあれこれですが、笑読してくれたら嬉しいです。 午前7時半出社。 夜,UNIONの交渉あり。帰宅は午後10時でした。帰り着いたら西の空に弓張月がかかっていました。南の中天にオリオン座。 もどります。さて、その「色々」とは、この元旦にアップした挨拶文の通り、先月初めに前立腺癌の診断が確定、大晦日を前に入院・手術を受けたことに伴う前後のあれこれでした。ドクターは「手術は春、暖かくなってからでもいいよ」と言ってくれました。彼なりに年度替わりが仕事に区切りのつけやすいこと、この癌の進行が遅いという特性をしてのことのようでした。しかし、年度末のスケジュールは既に立て込んでいて、3週間程度、会社を空けるのは心苦しい感じがしました。年末年始の休みを充てると、その思いが少し和らぐな。そう思い、年内手術の希望を頼み込みました。年末、株主代表会議の最終日を終え、その週の土曜日、24日にあった第九コンサートを聴きました。合唱に妻の声も交じり、聞き終えて「嗚呼、娑婆の垢を落とした気分」とはこのことだな、そう独り言ちました。 12月26日(火)入院、27日手術。前立腺を全摘しました。退院は年の明けた1月6日(土)でした。入院先は、別府にある腎臓と泌尿器の専門病院でした。写真はその病院最上階からの眺めです。目の前に別府湾の広がるいい眺めでした。売店の高級エスプレッソマシンが淹れてくれるエスプレッソは何倍飲んでも無料でした。 こちらは正月二日の日の出。嗚呼、酒を飲みたいな。 さて、予後の一週間は自宅療養。4㎏減った体重(79㎏になりました)と体力を取り戻すため、散歩を交えた時間を過ごしました。ドクターに「酒?ほどほどならいいよ」そう言われていました。それがいけませんでした。退院3日目に発熱。39℃が続きました。かかりつけの医院に行きましたが、インフルエンザ、コロナとも白でした。抗生剤と熱さましを処方してくれました。3日間寝込みました。酒をいきなり飲んではいけない、慣らし運転の必要を思い知りました。 1月15日(月)から出社。今日は17日(水)。やっと調子を取り戻したの感ありです。 前立腺は男性特有の臓器です。最近、この部位の癌は胃癌を上回り、男性に最も多い癌になったそうです。参考までに自身の「疑い、検査、確定、入院、手術、予後」を書いておくのも何かと参考になるのではないか、そう考えていますが、それはまたの機会。今日は取り敢えず復帰、ブログ再開ということで、それらはまた改めておいおいということにします。今日の一句寒行に弓張月の影が射し今日の写真は小説の新聞広告です。「中学生になるまでに読んでおきたい」というのがキャッチコピー。ほとんどが著作権切れです。青空文庫にありました。ということで入院中はこれらをまとめてやっつけました。
2024年01月17日
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謹賀新年 皆様、お変わりありませんか。私は今年66歳になります。経年、歳月を早く感じるこの頃です。それでは昨年のあれこれを記し、新年の挨拶とします。(コロナ禍) 正月、帰省の娘息子が相次ぎ罹患しました。私も濃厚接触者となり、仕事始めからの数日,休みました。七月には妻も感染。罹らなかったのは私だけでした。(野菜畑) 夏野菜冬野菜、あれこれを栽培しました。何れも出来栄えは今一でしたが、茄子は秋の深まっても結実でした。西瓜は父の足腰が弱り、作りませんでした。(読書と新聞) 本を手に取る時間が減りました。書斎に未読本山積み。読まずに断捨離が頭を過ります。新聞には目を通しています。毎朝、職場に午前7時半出勤。日読毎朝西合、都合5紙を斜め読み。好みは毎日新聞です。好きなコラムは日経「私の履歴書」と「朝日川柳」です。 趣味・運動) レコード・CDを聴きませんでした。音楽はもっぱらジョギングや散歩中のみ。俳句とブログも年の後半は滞りがち。通勤車中に「中高生の英会話 in English」を聞きました。ものになりません。自転車はゴールデンウィークのツール・ド・国東に出場。仏の里を75㎞、楽しみました。(酒) ほぼ毎日晩酌。2合程度。帰り道、魚屋で定置の小鰺を求めチャチャッ。刺身を楽しみました。外飲みは減りました。数カ月に1度程度だったかな。(家族) 妻は昨年も請われて支援学校に働きました。年末には第九を歌いました。都会に暮らす娘息子ともども息災です。この正月、1年ぶりに帰省予定。家族団欒の予定でした。しかし師走に入って私に前立腺癌が見つかりました。年末に入院手術、正月は病院ベッドの上です。幸い早期発見。心配無用に願います。 それではこの一年、皆様によいことがありますよう。 令和六年元旦 一人親方杣夫
2024年01月01日
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