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家康について、おもしろい話がある。「鳴くなら、鳴くまで待とう不如帰」と、その忍耐力ぶりを謳われている家康ですが、実際は逆で、きわめて短気であった、という説。私は、家康に直接会っていませんし、そのころ彼の周辺にいた人のヒヤリングも皆亡くなっているのでできない。それで事実かどうか確認のしょうがないのだが、「辛抱強い」といった説には、疑問がある、と、私には思える。いずれにしても、短気な性格と、戦略思考には直接関係がない。家康は短気だったからこそ、将来(さき)に大望を抱いてその具現に向かって、こつこつと歩んでいくといった長期戦略を採った、と考えられる。以下、軽く文献等で経緯とその根拠に触れてみたい。幼児の頃、あることを契機に、家康は辛苦の生活を強いられた。我慢づよいとか短気であったか、といった性格云々にかかわらず、堪え忍ばざるを得なかった。その「あること」。天文16(1547)年、信長の初陣の年、信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た竹千代(家康の幼名)の父・松平広忠は今川義元に援軍を求める。その際、義元はその見返りとして、竹千代(このとき6歳)を,見返りとして、人質に差し出すよう要求する。広忠はこの要求を受け入れざるを得ず、竹千代を駿河府中の義元の元へ送ることにする。その護送の途中、戸田康光の家臣又右衞門が、竹千代を塩見坂で奪い去り、織田家に売り渡してしまう。 こうして信長の兄・織田信広と人質交換されるまでの約2年間、竹千代は尾張で人質生活を送ることになる。この「あること」が、彼の一生を決めた。この頃から、竹千代は何事かあると、管元総理みたいにいらつく。そして爪をかむ、といったこと癖が始まったとされる。それを彼の周囲の人は、「いら竹」と言ったかどうかわからない。しかし出血するぐらいきつく噛む、といったことであったらしい。こうみてみると、家康が辛抱強い、気が長い性格とは思えないのだが、どうだろう。
2015.03.19
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客体験を実際やってみればわかるが、経営者は、まずできない。ご本人は、お客になったつもりでも、全く駄目だ。ついつい経営者の視点ついつい競合店調査モードになっている。そもそも歩き方、目配り、身体の動き、そうしたものがとても一般の買い物客には見えないのだ。動画でとってもらって、見てみたらいい。仕事、職業に応じた歩き方、考え方が、身体に染み付いているのだ。それだけどっぷり、主観、売り手側の論理に汚染されているのである。そのことがわかるだけでも、最初は、「良し」としよう。次に、家庭サービスのつもりで、奥さんや子供の買い物について行く。大型スーパーか百貨店がいいだろう。この場合、「おい、あの売り場にいってみよう」といったようにリーダーシップを発揮したら、もうそれだけで駄目。失客。子供の走り足の後に付いていく。奥さんの手を引く方についていく。彼ら、彼女たちこそ、消費者であり、あなたこそ消費者失格者なのだから。どこの世界に、買い物をするに、ぎんぎらぎんの経営的視点で、売り場や商品を見る買い物客がいようか。家族がいやがって一緒してくれなかったら、それだけで消費者落第の印を押されたと見てよい。が、仕方がない。無理に一緒せず一人で街に出かけて、他の買い物客の後をついて行けばいい。そんな暇があれば、経営書でも読んでいた方が、といったことが少しでも頭を過ぎるようなレベルでは駄目だ。やがて、自分は、消費者、お客様のことなどまったくわかっていなかったんだと気がつく時が来る。必ず。
2015.03.18
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戦略の共有 大願、戦略は、単に個人的欲求を果たす、ということでは、その望み、戦略に他の多くの人たちを同調させることはできない。家康だけではなく、戦略を知るものは、その個人的戦略を、他の人が共有できるものに転嫁している。さらに言えば、共有とは、こちらの戦略を共有、といった側面で語られるのが一般的だが、これこそ片面思考である。それはそうだろう。組織を構成する各人にしてみたら、戦略の共有と言うが、俺個人の戦略は、いったいどうしてくれる、といった疑義が起きるのは当然である。この疑義が存在する限り、共有、統一は危うさが残る、といって良い。ここである。ここに真の戦略共有の要諦がある。この点を避けて、戦略の共有は存在しえないのである。家康に限らず、個人的大望、戦略を、可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く。これが組織拡大の命題になる。可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行くこれが第一である。加えて、それは可能な限り多くの人たち各人の個々の戦略を内包、組み込まれていなければならない。これが第二だ。多くの「戦略の共有」には、この第二の側面が、はなから欠損、考慮されていないのである。錯覚してはならない。組織力は、雇用数が多いこと、店舗数が多いこと、資本金が多いこと、といったこととは次元が異なることだ。戦略を共有しあっている人の数の大きさが、真の組織の大きさであり、強さである。ここで「戦略を共有しあう」とは、全体の戦略と個々の戦略が統合、融合されている、という意味あり、単に合算されたものではないということ。念押ししておきたい。本稿の総括。以下の3点。1に、人に勝ちを譲ってそれを戦術化することで戦略の実現を図る。2に、戦略は共有された員数で組織力となる。3に、できるだけ多くの人に共有できる大望、戦略を掲げること。(了)
2015.03.17
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命題について考えている。書きながら考える。いや考える前に指が動いているのかも。とにかく、これを書きたくなって、念のためにネットでしらべると、これ、命題とは、~一般に「何々は何々である」といった平叙文が表現する意味内容のこと。良く混同されるが、命題は文そのものではなく文の意味内容である~とある。なんじゃこれは。書いた本人、わかっているのか。まるでチンプンカンプン。これにとらわれれば、書けなくなるから無視して、ここでは、学者から誤用じゃ、とのそしりを恐れず文字通り、私は「命に与えられた題(テーマ)」と定義して、考えてみたい。生まれたと云うことは、死というゴールがあると云うこと。つまり「生」の達成点は「死」であるが、これでは人生は寂しく、つらい。だから、この死にいたるまでを帯体を命と設定。この帯体にタイトル、すなわち各自、自分の目標を設定する。それも楽しく愉快なものとし、死に置き換える。この帯体で、死を包み隠して生きるためのもの。これを「命題」と考えることにしている。事実、この死を覆い、包み隠している目標を失うと、「死」がのそっと顔を出し、恐くなる。死を覆い隠す以外に、死の恐怖から逃れる考え方としては死の先に、天国あり、という考え方が広く布教している。しかし、一方では地獄もあるぞ、としている。死者に選択権があるのなら、まず心配ないが、例えば天国が満席で、ということになれば、あるいは神仏が機嫌悪くて、この私を地獄へといったこともあるから、どうも穏やかではない。で、戻すが、命を、命の帯とし、この帯のデザイン、柄などの織りなしのテーマを、各個人に与え、あるいは設定させ、すばらしい帯を織りなされ、これが、まさに命題であるぞ、と、私は、この思いつきに、悦に入っているのである。なんでも自分の都合にいいことに、楽しいことに嬉しいことに、愉快なことに、こじつけをすることもまた、わが得意とする命題である。ちなみに、出た学校も明大。
2015.03.16
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組織は、機能分担である。それぞれが、共通の目標具現のために役割分担するためのシステム構成である。だから戦略の共有が絶対要件になる。戦略を一部の者にしかに知らせないといったことは、あってはならないことだ。 ところが、現実には、経営陣だけが知っていればよく、他には知らしめない。管理職までは知らしめるが、一般社員には知らせない。社員までは知らしめるが、それ以外例えば契約社員、パート等には知らせる必要はない。が、当然視されている。こうしたレベルの差は、例外なく存在している。そんなことを言っても、組織には企業秘密というのがあるので、情報漏洩があるので契約社員や派遣社員などには、とてもとても。と、いったことを良く耳にする。そして、ここで戦略の共有は、事実上建前に終わってしまい、次の論議がなされることは、まずない。 ○確かに、間違いなくリスクはある。しかし、何事でもリスクはあるのではないか。○漏洩といったことは管理者にも、否、経営陣にも起こりえるのではないか。○もっと踏み込んで考えてみたら、戦略が外部の漏れたとして、失うものはなにか○いやむしろ、外部の人たちにも共有してもらったらどうか。理念、社訓では、むしろ積極的にそれをやっている企業が多いではないか。等々・・・・・・・・・・。 物事をなすに当たり、リスクはつきものと考えたら、上の議論に決着を付ける考え方として、全員が戦略共有できていないことにより失う損失と、戦略が外部に漏れた場合の損失と、どちらが大きいか。そして、全員が戦略共有できていうことにより得る利益と、情報が内部だけに止めおかれた場合の利益と、どちらが大きいかを秤にかけた論議が必要と考える。そしてその上で、共有すべきことと、、そうでないことを、きちんと区分し、前者は全員に徹底的に共有を図る。少なくとも、このレベルには、というのが私の思いである。ちなみに、決算書、日々の部門ごとの売上等を、お客さまにもみてもらおうと、壁に掲げているお店を幾つか知っている。それは、お客さまを、売上を上げてくださるために、絶対不可欠な購買者と定義し、その意味で心的には仲間だという、そのお店の経営者の信念に基づく。
2015.03.15
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これまで客対応と言いながらその逆、内実は、内部の内部による内部のための対応であったこと。それを「お客様第一主義」といったきれいな包装紙で上手に包装。さらにそれに美辞麗句や気の利いたキャッチコピーやトークを添えて、といったことが上手な販売といわれ、努力、精進の目的とであった。要は、外部の消費者のお金を如何に内部に取り込むか、そのために、あの手、この手を講じること。それが「消費者に対応すること」ではなかったろうか。その考え方の一つとして、「お客様第一主義」ではなかったか。しかし、実態は「頭隠して尻隠さず」だ。消費者はその尻からちらちら垣間見えるしっぽの動きから、売り手側の本音を知ることになる。こうしたことで頭隠したこと自体が無意味になってくる。事実,今時、お客様第一主義」と、声高らかに唱えて、感動する人などいやしない。無意味な対応に苦心してどうなる。無意味な対応に工夫と改善を加えてどうなる。対応とは、対するものに応じる、ということであって、対するものに、こちらの思惑に応じてもらうことではない。対するものに応じるには、対するものの動きを知らねばならない。こちらがこちら都合に動いてもらうように仕向けることではなく、対するものが、自分いしで、こちらの思うつぼと合致するよう言動をしてもらうようにすること。これが「応ずる」ということだ、経営の場合、上の「対するもの」とは、消費者だ。ああした場合、こうした場合、消費者が、どう考えるか。どう動くか。企業内外での日常のあらゆるああした場合、こうした場合の、こちらの思考、言動に対して消費者はどう思うか、考えるか、どう動くか、を押さえることだ。それには、相手になりきる。これ以外にないのである。自分がお客だったら、そのことでどう動くか、そのことはお客にとって、直接的、間接的にプラスになるのか、消費者になり切る。お客になり切る。なり切りって、考える以外にない。では、そのためにはどうしたらいいか。オススメは、以前個々に書いた「客体験」だ。.
2015.03.14
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個があっての全体。全体があっての個。そして両者が、独立個体としての「個」と、独立個体としての「全体」の相互協力関係にある。相互協力関係とは、理念、戦略を柱として、その枝葉としての情報、これらの共有が図られる関係、と言っていいのではないか。そして、この関係は、そのまま組織のありかたに通じる。組織という概念には、組織内(自体)と組織外がある。以前にも別の原稿で何度も触れているが内と外では、圧倒的に外が広いし、深いし、大きいし、多い。いわゆる多勢に無勢の関係である、それが逆転することはない。こうした理屈と費用対効果、もしくは投資対リターンの経済の論理を合わせて、端的に言うと、組織外に仲間、同志、友達の多いことこそ、その意に添えるし、経済的にも有利になることがわかる。もちろんそれらは数だけではなく質も関係する。だから、極論をいえば人にしろ、組織にしろ、成功は、仲間、同志、友達の友人の数と質によるといえる。 このことを逆に言えば、孤立系、封鎖性の高い、他との連帯性の低い閉じこもり系の企業がうまくいかなくなる確率が高くなるのは当然ということだ。同根、「俺が俺が」の人もうまくいかない。「自分中心の人」も、うまくいかない。「自分で何事もやりたがる人」もうまくいかない。その理由の根本には、人は、自分の外部の存在である有機的システム、社会システムに組み込まれていることがある。 個は全体を構成し、全体は個を内包する。その全体もまた他の全体と、同様の関わりを持ってそれぞれ宇宙全体を構成している。畢竟、個は常に個の外部との関わりを有し、他との関わりのない個は存在のしょうが無いのである。時として個内部の論理で内部体制やシステムを強く固めることが、外部との関係を疎にし、時には切断するといったことが、結果的に死の戦略になりかねない理由はここにある。繰り返す。企業内の結束や統制、打わ合せを密にするといったことで、逆に外部との情報の流れを遮断するケースがしばしば起きる。これは外部と孤立したため相互交流が分断されたためである。 組織の内と外のつながりを通じ、情報は流れている。これは人の呼吸を考えればわかりやすい。呼吸とは、内部と外部との空気の交流である。この交流がとまった時が「死」。これは,自然の摂理である。人も企業も然り。内と外との相互交流が行われなければ、「死」である。その典型的な例が、「癌」
2015.03.13
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知識は固形燃料に似ている、その理由は次の2つ。1に、いくら持っていても、使わなければまったく何にもならない。2に、固形燃料は、すき焼きとか焼き肉とかを煮たり焼いたりするときに役立つもので、それそのものを使うものではない。だから料理屋で、固形燃料を料理やその材料として出すところはない。知識も知識そのものが直接ひらめかしたり売り物にしたりはない。企業であろうと、人であろうと、「知識」そのものが役に立つことはない。料理屋の冷蔵庫の中の材料と同じようなもの。料理の材料がそのまま、お客に出下としたらお客は、当惑し、怒るだろう。知識も、そして「知っている」も「わかる」も、自分の経験、知識の範囲内のものである。ましてや知識が、外部の人の行動を動かすことにはならない。そもそも自分以外の人は、こちらの思うように動いてはくれない。自分の思うように動いてもらうためには、「戦略とその共有」が不可欠な所以である。共有とは、世には大きく分けて、自分が知らない世界と知っている世界とがあって、「知っている」、「わかる」は自分の範囲以内でのことにすぎない。だから言葉を発したり行動したりするときは、自分の知らない世界がいっぱいある。それは自分が知っている世界とは比較にならないほど広い世界なのだという謙虚さ、それに、自分の世界は、自分ですらわからないことがある。ましてや他人が、私の世界をわかることは大変なことなのだ、といった認識があってこそ、人を受け入れられる。違いがあるから、そしてわかり合えないところがあるからこそ相互に補完しあえ、相互に学びあえるということを前提に、他者と戦略を共有する。ここに「共有すること」の意義と本質がある。
2015.03.11
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自国民の内政への関心を、他の国にそらすやり方を、 私は「あっち向いてホイ戦法」と名付け、愚策として蔑んでいる。 本来は、自国民が自分たちを慕い、支えてくれる状況を創ること。そのためには如何せん、というのが国策の根本戦略なのだ。それがやれないから、他の国に喧嘩をふっかけてくる このあり方は、下の下策、誠に迷惑である。そんことは彼の国の彼らも十分承知していて、それでもあえてやらねば、ということだろうから、 人心が政権側から離れているか、内政上に爆弾を抱えていてほっとけば政権危うし、という状況とみてよい。このことを逆に言えば、 他の国にその危うさ、窮地を自ら披露、あるいは何かを懇願していることに他ならない。では、その他の国の一つである我が国は如何せん、というのが安倍政権に課せられた外交面の課題である。ちなみに彼の国以外に、 我が国にはあっち向いてホイの矛先を剥けてはいないが、上の彼の国よりやばい、 問題の国がある。ロシアである。国際的には、こちらが大きな問題。 私は、緊急性が高い、と読んでいる。エリツイン政権というより反エリツインの要素が強いからである。 元親エリツインノリの離反者が、目立つことがそれを証している。当面目が離せない。
2015.03.10
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戦略の達人 秀吉の、「負けるが勝ちの戦略」、家康の、「立ち枯れの戦略」を考察した。ここで少し戻って、今一度信長の桶狭間の戦いをみてみたい。生きるか死ぬか。今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、死ぬのはいや、ということで、「生きること」を択一した。生きるためには、今川軍に勝つことだ。今川軍に勝つためには、今川義元の首をとる戦略と、今川軍と戦い、勝つ方法。この択一だ。前者、後者、どっちが勝利の確度が高いかを考え、前者を択一して義元の首を取ることを考えた。ワンマン経営者が、いなくなると企業は衰退する。元々今川義元が、京を目指すのは、彼個人の課題。組織全員の目標ではない。彼がいなくなれば、京に行く目的より、早く故郷に戻り妻子の元へ、となるだろう。ランチェスターの「弱者の戦略」を勉強していなくとも信長でなくとも、そうなる。戦略は決まった。次にその方法、戦術だその戦術は、アレがある、これがある、いろいろある。あれとこれと組み合わせて、今川の首を取ってしまった。ということで、一か八かの戦いに挑み、奇跡の勝利、でも運良くでも、強運に恵まれ、といったことでは全くない。ましてや一か八でも、ヤケクソでもない。まさに信長は、「脳力開発」の達人。戦略を立て、それを組織全員に共有する。「生きたいか!」 「オ-!」「それなら狙うは、義元の首ぞ。他にかまうな!」「オ-!」その狙う首が、どこにあるか。その首が、どこにある場合が彼の首を取りやすいか。その首を取りやすい時間帯と場所は? 戦略を具現するためには、まずこうした情報収集だ。信長は、他の武将にまして、かねがねから「情報収集」の重要性を認識していた。戦略を具現するためには、科学的計算にもとづき、様々な戦術の中から、最適のものを組み合わせるのだが、現場と相手の動きは流動的で、変化する。だから、戦術は任せる、ことなのです。否、任せる以外にないのです。それを、アーセー、コーセーと上が仕切るから、うまくいかない。方法、戦術まで指示命令する企業をみたら、うまくいかない企業とみてまちがいない。実際に城野先生に引きつられて、桶狭間、長篠を見てきましたが、信長という人の戦略思考、並じゃなかったのだ、ということが今の地形からも滲み、感じ取ることができた。
2015.03.09
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その後日談とは、家康は昨日述べた秀吉の戦略を読んで、あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下にはいった、という話である。その家康の大戦略とは、秀吉の立ち枯れを待ち、 自分が天下人になるということである。それは時間差、すなわち自分と秀吉の年齢差を利用したのである。私名づけて「立ち枯れの戦略。[泣かぬなら、泣くまで待とう時鳥]織田信長、豊臣秀吉、それに徳川家康という三人の人間性をそれぞれ後世の人が句に詠んだもので、「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長。「泣かぬなら泣かせてみせようホトトギス」が秀吉、家康は「泣かぬなら泣くまで待とうホトトギス」とされたもの。通常は、無理せずに機会がやってくるのをじっと耐えて待つ、という意味に用いられる言葉である。「じっと時の経過を楽しみに待つ」に、 家康の戦略があり、ただ我慢、耐えていたのではないのである。「臥薪嘗胆」の話を思い出しまでもなく人は、勝算 (夢。目標) のないところに我慢はできないものなのである。忙しい現代人には、なかなか考え及ばない戦略である。それだけに、経営的活用には、大いに行かせるし事実、私自身、多くの企業に活用してきた。家康さん、ありがとうと御礼を申し上げたい。
2015.03.08
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「その戦い、くれてやるわい」 人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。 これを、戦いに活かした典型的例が、小手・長久手の戦い。 秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとりました。 家康に負けることで、家康を臣下におく、家康を臣下に置くことで、念願の「天下取り」が成就 (秀吉の大戦略)。そして全国の不満分子のぶつぶつを収めることに成功しました。それは家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、さきにあったからです。戦いそのものにすら、戦術に使っている。 秀吉のまさにすごさといえましょう。つまりこの場合、家康さえ治めれば天下統一が具現できる。そのためには、この戦、くれてやるわい、という大戦略。 負けを撒き餌にして、家康を釣る。繰り返しますがそれは家康をつり上げることで天下をとれる、という確信があったからに他ありません。その後、戦をくれてやるだけでは、まだ心許ない、と思い嫁に行っていた自分の妹(朝日姫(あさひひめ).秀吉の異父妹)を離縁させ、徳川の第二正室として付けている。それでも足りないとみて、 実母まで、送り込む、といった徹底ぶりである。 (ちなみに、この二人は、家康への人質ということになる)常識で考えれば、これは勝者が敗者にとる態度ではない。いかに秀吉が、大戦略の具現にあの手、この手を惜しまなかったか、の歴史的事実である。これには後日談があります。たぬきの家康、そうした秀吉の戦略を読んでいて、あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下にはいった、という話があります。なぜ配下にはいったか。それは、明日にでもお話したいと思います。
2015.03.07
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自分は、消費者、お客様のことなどまったくわかっていなかったのだ、ということがわかることは、次の2つのこと。1に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、消費者は、我が社を選び、あるいは選ばず、我が社の商品を買い、あるいは買われないということ。2に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、消費者は他社を選び、他社の商品を購入されているということ。そんな想いが頭を過ぎるようになったら、わかったとみていい。そして自分の組織の連中が、なんと自分たち経営の都合でものごとを考え、動いているかに驚くだろう。それが客観だ。消費者は、そうした視点で我が社を観ているのだ、と。おめでとう。脱「経営者」思考!消費者として仲間入りだ。組織内に、組織単体という視点だけの部分最適の判断ではなく、組織とその外をワンセットにした全体最適の判断ができる人が、組織に1人でもいいから「いる」ことが、いわば企業の死活を決めると、いってよい。組織内部では、「部分最適ではなく、全体最適でものを見よ」と配下に口を酸っぱく言っている経営者も、彼のいう考える「全体」とは組織全体、組織内部のこと。外は含んでいないことが殆どである。真の意味の「全体最適」、すなわち組織全体ではなく、組織の外まで組み入れ、俯瞰的にものごとを捕らえ、その最適、最善手を図ることこそ、求められることである。そんな余裕などない。それでは企業が損をする、といった意識、あるいは無意識が、ブレーキとなって、全体最適の、全体」を狭義に設定し、それでよしと甘んじていたのかもしれない 。経営者よ、消費者体験をなされ。経営者よ、日常生活の中に過ごしなさい。
2015.03.06
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脳を創る 「継続は力」と、言われている。これは、「やろう」といった計画自体はいくらでも立てたり口にしたりできても、いざとなると実行しない。やっても続かない、ではなんにもならない。逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、という含蓄が背景に込められている、と理解している。継続は難しいことである。が、それだけに継続をなしたものは評価されるし、そのことが力となる、ということであろう。つまりこの「継続は力なり」の意味は、1にどれだけ継続出来るかどうかが本当のその人の実力だ、という意味と、2に小さなことでも一歩ずつ一口ずつ続けていけば、成果という意味での力を得られる、という2つの意味がある、と考えている。逆に言えば多くの人が、なかなか物事を継続ができないということだ。そうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にしているといった皮相的な教訓とも受け取れる。「継続」が、どうして重要かというと、1に、人にしろ、企業にしろ、信用・信頼は時間を経てこそ蓄積されるからである。その意味で、思いつきにきわどさがあるのは、こうした時間軸という意味での試練に耐えていないことである。だから何事でも、「継続」が出来ない人は、約束や時間を守れない人と同様、周囲から信頼、信用されない。これは古今東西の定理といってよい。2に、人間だけではないが、一定のことを意識して継続することで無意識に出来るようになる、私は、これを脳の回線作りといっている。古い習慣を改め、新しい習慣に置き換えていく、これを習慣の改更という。企業でいえばこれまでの悪しき組織風土や体質を改めることすなわち経営革新になろうか。脳力開発でいえば、継続できない人、企業は進歩発展出来ない、ということになる。継続が脳力を創る、と私が言う所以である。
2015.03.05
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しきりに私が言っていること。人はとかく、自分の心にしきりに「しきり」を描く。外部や過去からのすりこみであろうと、それを刷り込ませ、限界を作っているのは自分だ。経営でも然り。せいぜい10年構想。 10年で廃業する気なのだろうか。私は30年構想を必定とし、かつ毎年これをつないでいく人生事業計画を進めている。これは人生100年計画に事業100年計画を重ねるためのユニットだ。いかに全体を想定し、最適化を描けるか、いかに長期の目標を掲げ、長期的な観点から、 最適化を描けるかいかに俯瞰的に、大きな視野、 大きな全体を描けるかが、 経営者の器の大きさ如何と、申し上げたい。ならば器を広げればいいのだ。 視野が広がること。大きな全体を描くこと。 、実際にやらねばわからず、やればわかること。では実際にどう体感したらいいだろう。以下、私のお勧め、あれこれ。できるだけ大きな世界地図、日本地図を壁に貼る。それも国境や行政区分がないものがいい。(理由は、後述する)できるだけ小高い丘に上がって、そこから360度の視野を見下ろす あるいは見通しのいい平地に立ち、天を見上げる。海辺に立ち、その向こうのアメリカなり、中国なりの方向をみる。 高層ビルの上から、豆粒みたいな人や車の往来を眺める。といった、「なんだそんなことを」といったことだ。なんということはない。 人は、自分自身をちっぽけに感じるとき、 大きな世界をイメージできるし、また大きな世界を描くとき、 自分の小ささを感じることができるのである。元来、宇宙は広い。世界は大きい。それを「自分」という仕切りで仕切る。 「自分の課」という仕切りで仕切る。 「我が社」という仕切りで仕切る。 「我が集落」という仕切りで仕切る。 「薩摩川内市」という仕切りで仕切る。 「鹿児島県」という仕切りで仕切る。 「九州」という仕切りで仕切る・・・・といったように細切れに仕切るから、 狭くなる、そして縛られるのだ。 自分の思考、行動に仕切りを入れるのだ。もともと、自分とそれ以外という存在しかない。その自分も、自分と自分以外のつながりであり、そこに仕切りがあるわけではない。その仕切りはすべて人間が、自分が勝手に仕切ったものである。その証拠に、県境なり、市の堺に実際いってみたらよかろう。そこには行政のたてた区分版以外、どこにも区分はないのである。ましてや、思考のなかに仕切りがあるはずはないではないか。だからせめて、人生や経営を考えるときぐらい、 大きな思考、縛られない考えで考えてみようではないか、というのが、いいたいことである。
2015.03.04
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「大望」という言葉が、私は大好きです。 韓国ドラマ「大望」のことではない。 辞書を引く。大望(たいもう)・大きな望み。たいぼう。「-を抱く」類語として、野心 ・ 志望 ・ 大志 ・ 希望(に燃えて) ・ 青雲の志 大きな望み ・ 雄途(につく) ・ 雄図(空しく~) 野望(をもつ) ・ 将来を期す ・ 雌伏する といった言葉がある。私が好きな理由は、言葉の響きともに、あの「太公望」からの連想だ。釣りをして、魚ではなく国をつり上げた、ということで釣り好きの人を「大公望」といいます。父母、家族と自分の国を滅ぼされ、 孤児となった彼、望は、敵への復讐心を「亡国を再興する」という戦略に置き換える。 個々がすごいところだ。 他の3人の孤児とともに20数年後にはそれを実現した。この大公 「望」の話です。すごいです。戦略の凄みです。彼のように変わらぬ大望をもち、 一つの戦略をも持ち続け、その戦略を共有する人数をじわじわ広げていったら、 国家さえ作れる。このように、戦略は大きさと心の広さが大いに関係します。ここは目先の勝ち負けにとらわれず、勝ちと功を相手に譲り、それをもって、自分の戦略を成就する、といったことに対して、 「あの人は器量が大きいね」とか「度量がある」といった言い方がされる。また「人望がある」とも言われます。それはその通りなのですが、大望をもち、その具現のため小異を捨て、功を人に譲るといったことで、 彼の周囲には人が集まる。こうしたことで他人から見たら器量や度量、人望がある、とあるように見える、ということでしょう。 逆に言えば、それは大望、戦略があるからこそ、ということができる。
2015.03.03
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ああら、不思議 組織の外、消費者のことまでを経営判断の範疇として、その全体最適を図ることが、組織のトップだけでも浸透すると、組織は、次第に活性化してくる。その理由は、組織内部、我が社のため、わが課のため、今期、今月の予算達成のため、といった、「のため」が、実は足かせ、縛りになっていたためと考えられる。だから内部と外部の、そうした仕切りが取れると一気に、視野が広がる。思考が広がる。よく「先の見通しが立たない」「先行き不透明だ」「お先真っ暗だ」「展望が開けない」といった言い方をする。そう言っている人をいちいち調査したわけはないが、その人たちが位置している場所は、上空ではあるまい。山のてっぺんではあるまい。先の見通しが立たないのなら、見通しが立つ場と位置に立てばいい。あるいは眼鏡の度数を上げるか、望遠鏡を使えばいい。先行き不透明なら、透明化を図る手立てを打てばいい。それができないなら、見えない先では見ず、この今見えるところで、仕事をすればいい。お先真っ暗ならどうするか。灯りを付けたらいい。普通の電灯で駄目ならサーチライトでお先を照らせばいい。明かりで失せない闇はないのだから。展望が開けない、のであれば、どこかの山上に行って展望台に上がってみるといい。展望台と名が付いているところで、展望が開けないところはないのだから。そもそも部屋にいて、展望が開くはずはないのだ。要は、見通しが立ち、透明で、明るい、展望の開ける場を探し、自分が手足を動かし変えたらいいのだ。それを、見通しが立たない、不透明だ、真っ暗だ、開けない、と口で言っている。言うことで、「仕切り」を増やす、といった逆のことをしきりになしている。自らブレーキを踏んでいながら、この車、動かなくなった、と言っている。家の中にいて、外が見えない、といっている。といったことで、組織のトップの思考、判断が全体最適化と言った場合のその「全体」が拡大し、外をも含まれることになれば当然、外の消費者も見えてくる。トップの思考、判断の仕切りが取り除かれると、あら不思議、いや不思議でも何でもなく、組織は、次第に活性化してくる。仕切りが外れると、各人、個々、何をなさねばならないのか、その優先順位までを含めて、見えてくる。やはり、あら不思議か。
2015.03.01
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