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前にも書いたけど、琴子を失って以来、“お正月”は楽しみではなくなったし、それに付随する事柄も億劫に感じるようになった。唯一と言える楽しみは、伊達巻を食べること。蒲鉾とかは年がら年中食べるのに、伊達巻だけは何故か忠実にお正月にしか食べない。我が家では2003年のお正月までは、12月の“元旦に届くための受付期間”中に必ず年賀状を投函していた。それも旦那の凝った版画で、1枚1枚丁寧に刷った年賀状。2004年の分、2003年の暮れは喪中の挨拶を出した。2005年、2006年と、版画を作成する旦那も気が失せているのか、力作とはいえない程度になっているし、それまでは全員分が版画だったのに、刷る枚数もすっかり減ったし、元旦に届くことを全く目指さなくなった。今年(2007年用)は、版画を刷る案すら消え失せていた。忙しいことも理由のうちにあるのだけど、なんか年賀状を作る、挨拶を一言書くと言うのが楽しみではなくなっていて、年賀状は買ってあるのだけど、昨晩のうちにパソコンでプリントまではしたのだけど、挨拶や宛名を書くことをしていないから、投函できない。あと何日でお正月なんだ?一応、両方の実家に挨拶には行くけど、2004年のお正月の寂しさを、きっとどこかで誰かが感じているとおもうと、勝手な想像であれど、お正月はなんとなく気がひける。去年の出来事として、琴子が戸籍に載ったよ! と、年賀状に書いて皆に知らせたい気持ちはあるのだけど、うちでは年賀状には子供のことは書かないから、結局、琴子のことも書けない。お世話になっている皆様には大変申し訳ないのだけど…天国ではどんなお正月を迎えるのだろうか。琴子がどんな年賀状を出すような子供になる予定だったのか、琴子が持っていたかもしれない未来を少しだけでも見たいな。
2006.12.28
あまりにも世間が早くて、『いじめ問題』をマスコミが騒いでいたのもちょっとずつ過去のことになろうとしているように感じる。これだけ大きな問題を抱えているというのに、テレビでは殆どの時間がバラエティ番組に時間を割いている。私は自分の子供だからとかという、そういう括りが好きではないのだけど、人が悪いことをしたときには、やはり親の責任というのは問われてしまうともおもっている。この辺はまだ上手く表現できないのだけど、琴子の供養をし続けるのは私だし…これが親だからなのか、魂の繋がりなのか、純粋に言えば、私が琴子を愛しているだけだからなのかもしれない。いじめがどうのと話すとき、私の周りの人たちの殆どが、自分の家に一緒に住んでいる子供がいじめられるのではないかという心配ばかりをしているような気がする。それも確かに心配だけど、私はむしろ、リンズが誰かをいじめるかもしれないということ方が不安でならない。別にリンズにその兆候が現れているとか、そういう具体的な事柄があってのことではない。数の問題だけではないかもしれないけど、この世にはいじめられっ子の数よりも、いじめっ子の数の方が圧倒的に多い。1人の人間が10人、20人をいじめているのではなく、一人一人が集団となって、1人をいじめている。お子さんが自殺してしまった親御さんのメッセージを受けることは出来るのに、子供が人を死に追い遣ってしまった親のメッセージは聞けない。人前に曝されろということではなく、問題を真髄から知ることがなかなか出来ない。学校や教師を責めるような報道が多いけど、その子らを囲む家庭や環境、社会の持つ問題はどうなのだろうか。テレビではタレント同士が面白可笑しく騒いでいる。人が苦しんだり、痛がったりしていることを楽しそうに笑ったりしている。ついさっきまでは報道番組でいじめを悪いことだと言っていたのに、次の番組ではタレントが別のタレントを“職業としていじめている”。タレント同士は実際には仕事だと分かり合えているだろうから、本人同士には問題はなくても、見ている人たちにとってはどうなのだろうか。それを『テレビのこと』と分かっているつもりでも、何かを刷り込まれてはいないだろうか。リンズにきつくものを言うと、人が『まだ小さいのだから』と、リンズを擁護するようなことを言う。それはそれで温かい気持ちのひとつなのかもしれないけど、その温かさはもっと後年で与えても良いものではないかとおもう。リンズはもうじき2歳になるけど、咳やくしゃみをするときには、自分の口を手で覆う。他には苦手なこともたくさんあるけど、どんなに言っても出来ないことがたくさんあるけど、私はしつこく言う。英語なんて話せなくてもいいから、平凡極まりない人生で良いから、得意なことがなくても良いから、自分の命も人の命も同じなのだということを、当たり前のこととして身につけて欲しい。世界平和をとか、いきなり地球規模で物事を量れとは言わないし言えない。ただ、『自分さえ良ければ』とは、絶対に思わないで欲しい。琴子がまたどこかに生まれ変わるときに、そこに厳しく接してくれる人がいてくれることを祈っています。それは虐待だとかではなく、琴子がいじめっ子にならないために、しっかりと躾けてくれる人がいてくれますように…
2006.12.27
新聞をとっていないので、今日が『天国からの手紙』の放映日だとは知らなかった。実家の母と電話で話していたら、「あんたは珍しく見ていないんだね」というので、びっくりしてしまった。ので、残念にも途中から。犯罪被害に遭ってしまった姉妹の方からだったので、その前までの方たちのお話は聞けなかった。言葉にならないな…娘さん二人の命をあのような形で奪われてしまった母親の言葉を思い返すだけでも、自分の想像力の限界を感じるばかりで、そして、限界の中でも、十分に苦しい。父親、弟のお二人の記者会見もニュースで見ていたけど、極刑を望む気持ちは当たり前なんだとおもう。江原さんは言葉や思いで殺してしまっていることもあると、特別にあの記者会見の内容をさして言ったわけではないけど、あのような遺族の思い、言葉も“行為”とされてしまうのだろうか…この辺を聞きたかったな。妹さんの無念は癒されたのだろうか…救いは、姉妹が母親の夢に現れてくれたということと、薬を飲まなくても眠れたということ。グリーフケア、江原さん、是非是非お願いします。いつかそのうち、私にも是非。凄く不思議だったのは、番組を見ていたら、リンズが琴子の遺影と位牌に挨拶をしたいと騒ぎ出したこと。いつもは眠る前にしているのだけど、今日のようにまだ眠くないうちにやりたがることは初めてに近いかもしれない。「お姉ちゃんがいるの?」と聞いたら、「うん」と言ったから嬉しくなっていたら、遺影を指していたから、あれ? ちょっと違うかなぁと。でも、きっと何かを感じていたんだろうなぁ。『どんなに天国が素晴らしいところでも、私はまだ逝きたくない』殺されてしまった姉妹の、妹さんの無念さをおもうと、私までもが悔しい。合掌...
2006.12.26
一応、琴子が天使であるということは、仏教だとかクリスチャンだとかって関係ない世界にいるのだろうからとおもうと、自然とクリスマスは琴子が忙しいのかと、ちょっとだけクリスマスが気になる。でも、本当にちょっとだけ気になるだけで、実際にはあんまり好きではない。前から特別な日ともおもっていなかったし、友達と集まることが楽しいだけで、別にクリスマスでもなくてもいい内容だったり…でも、それでも今では琴子が忙しくサンタクロースのお手伝いでもしているのかもとかっておもうと、毛嫌いすることはないのだけど、それが過ぎると同時にやってくる“年末年始”はすっかり苦手になった。2003年の年末以来、新しい年がくるということへの期待感なんて全くなくなったし、2003年の年末は琴子の一年が終わってしまうということで、とにかくそれが寂しかったし、私だけでも2003年のままでいたかった。それでも当然、2004年がきて、子供が死んだ我が家へ平然と年賀状が何枚かやってきて、これが少しでも生きた子なら、こんなことはされないのだろうなぁと悔しかったり。勿論、2003年の12月には喪中の挨拶も送ってあった。それでも、人々は“死産”だと“人の死”とはおもわないらしい。2004年の正月は、旦那と二人っきりで過ごしていたのだけど、テレビも見る気には全くなれないし、だからといって、二人で話すことはないというか、琴子の話をしたら泣いてばかりだから、結局なんとなく避けていて、元旦から営業しているデパートに行ったのだけど、これがまた寂しさを増すことばかりで、すぐに帰ってきた。どちらの両親にも会う気にはなれないから、とにかく二人で本を読んだりとかしていたような思い出がある。正月を過ぎた頃に、私の実母から荷物が届いた。食料と、『琴子ちゃんへ』と書かれたお年玉が入っていて、確か祖父母それぞれから1000円ずつだったとおもう、それを見た途端に、玄関で泣いてしまった。あぁ、私は自分の親にも不孝をしたんだと思い知らされたような気がした。今年はまだもう少しある。今年は琴子が戸籍に載ったという喜びがあったから、私たち家族にとっては、2003年のもうひとつの年末を迎えられるような気がしてもいるのだけど、戸籍に載せられなくても大事に想っていた命でもあるから、なんか妙に複雑。琴子は天国で何しているのかなぁ…
2006.12.18
私の過去の日記に対して、自宅出産を経験された方が自分のお産の話を書き込まれました。私はこの方の言う“バーストラウマ”というのは、ご自身が受けられたのだとおもっています。私は子供には柔軟性があり、意外とこだわらず、大らかに受け止めて育っていくことが多くあるとおもっています。むしろ心配なのは、母親や父親、周囲の人間の発言です。「この子はこんな可哀相な生まれ方をした」と言われ続けたら、子供は『自分は可哀相な生まれ方だったんだなぁ』と刷り込まれてしまうからです。勿論、この方が最初のお子さんを産んだ産院の行為は許されることではないです。しなくても良い会陰切開をして吸引までして自分の都合で産ませて…この産院に対して直接意見を言っても良かっただろうし、それが直接は難しいとしたら、意見の受け口を探し、改善などを求めるのも正しかったとおもいます。ひとつに、『陣痛促進剤による被害を考える会』があります。ここは名称からすると、陣痛促進剤に限ったことにおもわれるけど、実際にはお産全般の事故や、危険の可能性があるお産についての相談を受けていらっしゃるし、必要であれば、実際に力を貸してくれる会であります。(助産院でのお産のことも、受けてくれましたから、助産師会に相談するのが直接的過ぎて難しいという方でも是非)それらがどうしても不可能だとしたら、周囲の方に、その産院での話をして、その産院でのお産を止めるべきだろうし、それはしていたでしょう。この点には同情し、私も不要な医療の介入を問題におもいます。でも、この方は産院で産んだ子が最初に目にしたのが白衣を着た人だったということを嘆いてもいるのですが、これはいかがなものでしょうか。重箱の隅を突っつくつもりはないのです。本当にこういう発言がどこかで当たり前のように言われているのかとおもうと、これからますます産む場所は減っちゃうよって、皆が心配していることを、私も心配しているのです。「産院が減っても、助産院や自宅で産めれば良いんだ!」っておもう人もいるのかもしれないけど、産院が減れば、バックアップ体制なんてものがなくなるんだから。この方、結局は自宅出産で産んだお子さんのときに、近くの総合病院にバックアップ体制を頼んでいるのです。だとしたら、もしもの場合は、結局は白衣を着た人を最初に見ることになるのですが、そんなにそれが嫌なのだったら、白衣を着た人が待つ総合病院にバックアップを頼むのは何故なのでしょうか。昔は白衣を着た天使なんてことまで言われて、白衣って悪いイメージがなかったのに。こういうことを言っている限りは、医師の方たちの中で、助産院を無条件に否定してしまう方がいるのは仕方の無いことだとおもう。だって、正直、気分悪いでしょう、自分たちは救おうと必死になっているのに、「あなたが着ている白衣を最初に目にして、私の子供は不幸です!」みたいなことを言われたら。実際には直接言わないで済んでいるとしても、こうやって語ってしまえば、結局は言ってしまっているわけですからね、不快指数は上がりますよね。医師でない私ですら、こういう発言には不快感があります。これは見解の違いとか、価値観の違いではないでしょう、人間としての感謝の気持ちがあるかないかです。ちなみに、私が助産院で産みたかった理由に白衣の是非はありません。分娩台で産むのは辛いと聞いたりしていたので、刷り込まれた恐怖に対して、あの頃は少しでも自由な姿勢を選べるなら…とおもっていたのだけど、最初に選んだ里帰り出産の予定の助産院は、分娩台の上での自由な姿勢ということで、結局は分娩台なんだけどまあそれでも良いやとおもっていたくらいで、リンズを産んだ総合病院も、希望があれば分娩台の上でだけど、楽な姿勢を求めても良いということでしたので、この点は探せば希望を叶える努力をしてくれる産院はあるはずです。また、分娩台をやたらに否定する方が多いけど、聞くに、結局は仰向けが楽だったという人も多いのだそうです。分娩台は冷たいから嫌だというのかもしれないけど、私はリンズを産むときにのった分娩台、冷たい打とかなんだとかなんて、記憶にカケラも残っていません。個体差のある話だから、いずれにしても経験だけでしか語れないのだけど、私は分娩台だけではなく、緊急帝王切開に瞬時に対応してもらえるためにも、手術台の上で産めないものかとすらおもっています。私の個人的な希望です。この方が自発的にこのようなことを言っているとはおもえない。どこかで、このような意見の刷り込みを受けているのだとおもう。私に同様のというか、似たような経験があるので、そうおもう。また、この方は誰かにも刷り込んでいる可能性がある。私は病院を完全否定して助産院を選んだつもりはありません。必要であれば、当然、病院へと搬送されるのだとおもっていました。でも、結局は病院へはいけず、子供は死んでしまいました。裁判で、H助産師は「病院に搬送しても手遅れだった」と、平然と言っています。実際にはどうだったのだろうかと疑問におもうし、助かった可能性はたくさんの場面であったはずなのです。私は過去の自分への問いも含め、助産院や自宅出産を“素晴らしいお産”とか、“お産は生き方”という方に何遍でも問います、産み方は生き方なのですか? では、病院でのお産はどういう生き方なのでしょうか?
2006.12.04
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琴子を亡くしてから2ヶ月も経たない頃だったとおもう。溢れてしまう母乳を止めたくて、でも病院の敷居は高く感じられて行けず、知人の紹介で、断乳のケアをしてくれる方を紹介してもらい、通い始めた頃だった。あの頃はまだ車の運転もする気になれず、旦那に毎回一緒に来てもらっていたので、旦那が暇つぶしをするために本を買いたいとなり、本屋に入ったときに、この本に出会った。著者のひろさちや氏は私にとってはとっても読みやすく、以前から勝手に親しみを持っていたので、内容はどうであれ、なんとなく惹かれて購入した。帰宅後、すぐに読み始めたのだけど、まさかこんなに素敵な言葉に出会えるとはと、この本を直感で買った自分をも褒めたくなった。お子さんを亡くされて、その悲しみとどう向き合ったら良いのか、世間からは『早く忘れてあげなさい』とか、『親が悲しんでいると、子供も辛いだろうから』とかって言われて辛い心の方には是非、読んで欲しい。中にある、『ガウダミーの嘆き』というのを読んで欲しい。勿論、他の内容もとても救いのあるものばかりなので、いずれは全編を読んで欲しいけど、とりあえず気持ちを落ち着けたいとおもう方には、『ガウダミーの嘆き』をいきなり読んで欲しい。宗教は毒にも薬にもなる。同じように宗教や死生観を抱いていても、経験の差によって、全く違うものにも化ける。解釈の違いで、全く違う見方をする人もいる。私は子供を亡くした方に、無理に明るく生きるようにとはおもわない。ずっと泣いていても、それでも仕方の無いことだと思う。私は笑えるようになった。テレビでも本でも他者との会話でも、琴子のことを感じないで過ごす時間を持つようになった。でもそれが100%の私ではない。こうやって、ブログでは琴子を中心として考え続けている私もいる。忘れられるわけなんてない。忘れようともおもわない。忘れた方が楽な人もいるかもしれないし、忘れられる人もいるだろう。それを間違っているともおもわない。それがその人にとっての亡くなった子供との関係ならば、それで良いんだとおもうから。でも、忘れられた人がいるからって、忘れられない人を否定するのはおかしいとおもう。子供の死を無駄にするなって言うけど、無駄ってなんだろう。それこそ、お釈迦様がこう仰っているのを知っているのだろうか-『人間は何かを成すために生まれてきたのではない』実際には忘れられた人はいないよね、考えないように蓋をすることが出来るか否かの差と表現するべきかな。私の知人の実姉さんは、ご自身が60歳になってから、30歳過ぎの息子さんをバイクの事故で亡くしてしまった。もう一人娘さんがいて、その娘さんはお元気なのだけど、息子さんを亡くしたことで、ずっと心が闇の中にあるという。30歳になった息子さんを亡くした母親には、きっと誰も『早く前を向いて』なんて言わないのだろう。お腹の中で亡くなった子供や、生後すぐに亡くなった子供の親には、『早く前を向いて』というようなことを、なんで言うのだろう。『あるがままに』ということは、悲しみもあるがままなんだ。泣いているよりも憎んでいるよりも悔やんでいるよりも、笑っているだけの方が楽だってことは誰にだって分かっていること。それでも、その当たり前のことが出来ないということも、知って欲しい。私は泣く回数は減った。号泣することは殆ど無くなった。でもだからって、心の中が完全に軽く、楽になったということは一度も無い。リンズの産声を聞いて嬉しかったときも、その反面では琴子の死を想って、辛い気持ちも沸いていた。今でも、空を見上げると、琴子がどこで遊んでいるのだろうかと想うのが常。琴子が亡くなってからしばらくは、空を見上げれば辛く、また、下を向いて土をみれば、あの子は親よりも先に土にかえるのかと辛かった。時は確実に流れ、私も泣く回数は減った。空を見上げられるようになったことは、大きな進歩だとおもう。私もいつか、同じ空へと逝き、同じ土へとかえる。その日まで、あるがままに生きよう。
2006.12.03
旦那の仕事に便乗し、12日間という、長期の宮崎旅行(旦那は出張)に行ってきました。到着した日から雨雨雨…旦那の雨男はかなり激しく強いものらしく、宮崎県の方が驚くくらいに、この季節にしては長い雨の日々だったようで、結局、10日間くらいは雨だらけでした。友人の家に住まわせてもらっていのたで、経済的にはかなり助かりました。ただ、晴れてくれればもっと楽しかったのに…琴子、水撒き過ぎッ!宮崎県は食材は山のものも海のものも畑のものも牧場のものも、どれもこれも美味しいのだけど、美味しい食堂はありませんね…飫肥天なんかは、思い出しても辛いです。甘いのです、どれもこれも。味も濃く、油が凄い。有名なチキン南蛮のお店も、最初の一口は美味しかったのだけど、途中からは辛かった。宮崎の友人はもともとが関東の方なので、味覚は私たちと同じため、やはり色々と警戒していたわけで、その理由は、外食をしてよーくわかった。宮崎の方、ごめんなさい、でも、関東の人間には辛いです…;;ただ唯一美味しいとおもったのが、宮崎牛。宮崎市内で美味しい焼肉屋さんがあるというので、旦那の友人がわざわざ四国から来てくれた日に、一緒に皆で行ったのだけど、これは美味しかった。そして、なによりも安い!!!一人4000円であの内容は実に素晴らしかった。あぁ美味しかったと、最後に食べた『紫芋アイスクリーム』も、自家製なのか、凄く美味しくって、大変満足して帰った…ら、翌日に…まさか食中り?! と、わが身を疑う状況が勃発した。朝から激しい下痢と、水を飲むだけでも吐くという状況下に陥った。他の人は皆元気だから、これは食中りではないのかなぁ、でももしかしたら、私が食べた何かだけに?もうしんどくって、それも、よりにもよって、日曜日。旦那はそれでも仕事に行かなくちゃならないし、友人夫婦も仕事があるしで、私とリンズの二人っきりで寝込むことにした。リンズは具合は悪くないのだけど、私が「お願い、今日はとにかく寝ようよ」と言っていたら、何故かよく眠ってくれた。午後になっても吐き気も下痢も治まらず、なんだか異常なんだなっておもえてきたので、急いで旦那に連絡し、休日の担当医を調べてもらったら、タクシーとかでないといけないって言う。四国から来た友人は、車とフェリーを駆使して来てくれていたので、友人に頼み、旦那にも一端帰宅してもらい、病院に行った。そうしたら、症状を言うなり、「旧州全域で流行っている、嘔吐下痢症だね」と言われ、ビタミンなどの点滴を受けた。朝から水一滴も受け付けられずにいたから、脱水症状が目前になっていることを自分でも感じていたので、点滴は恵みの雫のような気がした。リンズにも当然、感染していた。それまではまだ元気だったのに、帰宅後、いきなり嘔吐。あぁ、病院で一緒にみてもらえばよかったかしらとおもいながらも、点滴のお陰でなんとか快復を感じていたので、なんとかしてみようとおもっていたら、リンズは嘔吐は1回で済んだ。その後にいくらか下痢が続いたけど、それでも元気だった。最悪なのは、翌々日に、お世話してくれていた友人夫婦の旦那さんに感染し、発病。その翌日には私たちが帰る日であったので、最後の晩餐も出来ず、それでも翌朝にはいくらかお元気になってくれていれば…とおもっていたら、翌朝、旦那さんはいくらか快復していたのに、今度は奥さんが…結局、感染しなかったのは旦那だけ。発病する前に友人夫婦の奥さんから、「宮崎空港の3階にあるレストランのとんこつラーメンはまだ大丈夫な方だよ」と聞いていたので、それだけを最後の楽しみとして空港に行った。15:05発のSNAの便の予定で、友人夫婦も最終日には海でも見ながら帰ったら良いと計画してくれていたのだけど、友人夫婦はそれどころじゃなくなったしで、じゃぁ暇でも空港で時間でも潰すかと早めに出た。空港に着いたのは11:20頃。そうしたら、12:20発のSNAの便に空席があるからどうだと言う。早く着く分には助かるということで、急遽、便の変更をお願いした。そうなると、今度は唯一の楽しみにしていたとんこつラーメンを食べる時間がない。私は空港で売っているお弁当でもいいかなぁとおもっていたら、旦那は意地でも食べたいと言う。じゃぁということで、駆け込むようにして席に着き、メニューもろくに見ずにとんこつラーメンを食べたのが11:50。12:10には搭乗手続きをしなくちゃと、本当に忙しいお昼だった。無事に栃木に着き、ほっとしたら疲れもどっと出て、ここ数日はひたすら眠るばかり。楽しくって、辛い宮崎でした。うまくいったら、2年後にまた行く予定です。色々と大変だったけど、決して嫌いではないです。なぜなら、道行く人の殆どが、とっても優しい人だったから。栃木のような田舎でも、他人同士はギスギスしていて、今日なんて、自転車に乗っている小学生同士がガチャガチャのゴミを道路で投げあったりして、結局捨てていっていたりしたのを見てしまったのだけど(注意できない私にも問題ある)、宮崎では、リンズを抱いて歩いている私を追い抜いていった小学生男児が、デパートの入り口のガラスドアをずっと開けて待ってくれていて…あれには涙が流れそうになった。あの子には日本の首相になってほしい。お年を召した方でも、心に余裕があるんだろうなぁ、とにかく、色々な場面で感動をさせてもらいました。だから、あのこってりとして甘くて辛い外食文化だけど、また行きたくなっちゃうんだろうな。さすがは神が降り立った地。友人夫婦の家には電話がなく、今では安否の確認のとりようがない。多分今頃はお元気な頃とおもうのだけど…『無事デスカ?』と、電報を送ろうかとおもう。あと、こじつけるわけじゃなく…帰りの飛行機の中で見た、雲の幻想的な風景を見て、旦那が嬉しそうな顔をしていたのが、私も嬉しかった。お互いに言葉にはしなかったけど、空が綺麗なのは嬉しい。そこが琴子達のいる場所だと信じているから。写真をとっておきたかったけど、デジカメは駄目だそうで、残念、撮れませんでした。
2006.12.02
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