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寒くて、でもって、旦那の仕事の手伝いをしたりして、なかなかブログが書けないです。来週には落ち着くとおもっています。レスがつけられなくて、申し訳ないです。また、メールをくださっている方々にも、この場をかりて、返事が出せないことをお詫びします。でもって、後でゆっくりと落ち着いてメールします。皆さんから頂いている書き込みやメール、読んでいます。ありがとうございます。p.s.アカネイロさん、久しぶりです!
2006.01.30
以前、この日記でも気持ちを打ち明けたのだけど、やはり今のままでの和解なんて到底無理と、あれからすぐに弁護士さんに伝えました。弁護士さんも、今まで以上に気持ちを理解してくれているというか、今までの中では一番、私の心情を表すのに的確な言葉で会話してくれて、とっても安心しました。そもそも、助産師を訴えようと決心できたのは、この弁護士さんが琴子をきちんとした人間として認めてくれたことにあります。初めて弁護士さんに会った日から1年が過ぎ、色々なことを思い返します。裁判すべきか否かを悩みつつ、相談に行った日のこと。その日のうちに、裁判を頑なに拒んでいた旦那が「お願いします」と頭を下げ、そこから今日まで、何度も弁護士さんと話をしました。死産(本当は新生児死だったんだけど)ということで、戸籍にも残せなかったし、リンズが生まれたことで、次女のはずが長女となり、琴子がいたことが消えうせていくという事実が一層強調されていく。そういう日々の中、反比例するかのように、弁護士さんとの会話の中で、琴子は生き生きとして姿を現してくれる。弁護士さんが「琴子さんは」と言ってくれる。学校にも保育園にも何処にも行けなかった琴子だけど、時々、琴子の名前を誰かが呼んでくれる。やっぱり名前は呼ばれると、生きるのだ。「これからももっと、あなたたちの気持ちを伝えてもらい、それを私がどうしていくかを考えますから」きっとこれは当たり前の言葉なのかもしれないけど、琴子の葬儀しか出してあげられなかった親としては、とっても嬉しい言葉でした。弁護士さん、これからも宜しくお願いします。
2006.01.24
琴子の墓地の近くに、旦那の親戚筋の知人宅があり、そこのご主人が私達の実家のお墓を掃除してくれていると聞き、琴子が世話になっていることもあり、挨拶を兼ねて寄ることにしたことがある。あれは確か、琴子の亡くなった年の秋だから、2003年11月のこと。まず、琴子の墓前へと行くと、少し前に供えられただろう、菊の花が枯れていた。「キヨシおじさんだな」と旦那が言う。キヨシおじさんとは、親戚筋の知人宅のご主人のことで、菊の栽培で生計を立てていることもあり、よく菊の花を供えてくださっているとのことだった。嬉しい気持ちを抱えて、キヨシおじさんの家を訪問した。すると、キヨシおじさんはその2週間程前に突然死で亡くなっていた。琴子に菊をくれてから、すぐのことだったそうだ。驚いた。キヨシおじさんに会えるとおもって行ったら、まだ四十九日の法要前で、遺骨があり、それも法要が数日後ということで、もう少し後に墓参りに行っていたら、なんていうのだろう、もう既に肉体のあるキヨシおじさんには会えないのは同じなのだけど、遺骨にすら会えなくなるところだったのだ、遺骨に会えただけでも嬉しかったのだ。あまりにも突然のことで、四十九日を終えるまでは、報告を控えていたと言う。今日はキヨシおじさんのご縁での出会いの話。その日、キヨシおじさんの奥さんと、その奥さんの妹さんが家に居た。琴子を亡くしたと聞いていたので、あちらから琴子の話をしてきてくれた。そして、なんとキヨシおじさんと奥さんにも、生後1週間で亡くなった愛児ちゃんがいて、そして妹さんにも、妊娠後期に胎内死亡で逝った愛児ちゃんがいたのだ。キヨシおじさんと琴子の計らいなのか、そこに天使ママが三人、居合わせることになったのだ。三人ともで泣きながら会話したのを、今でも切なく思い出す。それぞれに悲しみを持ち、そして、それぞれが似たような経験から相手を思い遣る気持ちも似ていて、凄く居心地の良い悲しみの空間だった。なんていうのか、とにかく同じだった。お子さんを亡くされた方に出会うと、悲しみが倍増して苦しくなることもあるけど、ふっと天使に包まれているような、優しい気持ちも感じることが出来る。自分を誰かが支えてくれている、見守ってくれている…それが琴子であり、琴子が私に出会いを贈ってくれているって、私にはわかる。今度、時間のあるときに、キヨシおじさんの愛児ちゃんと、妹さんの愛児ちゃんのお話もします。
2006.01.22
リンズを連れて、スーパーに買い物に行った。お豆腐を買おうと、陳列された商品を見ていると、横で作業をしていた従業員のおばさんが話し掛けてきた。最初は、自分の息子のところにきたお嫁さんにも早く子供ができないかしらと言っていて、「でもそういうことって、言ったら悪いからね~」と言って、私は「そうですね」とだけ返し、一度は話が終った。数十秒くらい間が空き、「いくつ?」とリンズのことを聞いてきた。そしてまた、お嫁さんに早く子が授からないかと言い、「私の頃はね、義母さんにさんざん言われたんだよ、早く産めとか、3人も男で、女は産めないのかとか、3人目のときには堕ろせとかってね、ひどいもんだった」と、何故か従業員と客の枠からはみ出るような内容になった。そして…「でもね、そう言われながらも産んだ3人目がね、死んじゃったんだもんね…」ドキッとした。「生きていれば、あなたと同じくらい。33歳になる子なんだ」いくつで亡くなったのだろう…聞こうかどうしようか迷いつつ、「私も一人、子供を亡くしているんです」と、それまでは相槌ばかりだったのだけど、琴子の存在を打ち明けた。おばさんもドキッとしたのだろうな、とっても驚いた顔をして、リンズに手を向けて「じゃぁ、この子の上?」と聞いてきた。頷く私を見て、「お兄ちゃん? お姉ちゃん?」と聞く。「姉ですね」「じゃぁ、二人なんだ」「はい、でも戸籍には載せられなかったので、世間では長女になっちゃうんです」「あら…うちは半年。辛かったよー、今でもね、辛いもん」「そうですよね、きっと、一生辛いですよね」「でもね、男っていうのは薄情なもんだね、旦那にね、“今日はなんの日だ?”って聞いてもね、もう“知らない”って言うんだよ、4月27日が命日なのにさっ。私なんてね、今でも毎日、陰膳を据えているっていうのに!」威勢が良い口調なんだけど、言葉中、愛息さんへの想いが一杯で、私は結構辛かった。多分、おばさんから見た私の目は赤く、泣き出しそうな顔をしていただろう。「いつまでも辛いよね、辛い、辛いよ」と言いながら、「でもね、この子は二人分、二人分元気だよ」と言って、微笑みながら会釈して別れた。おばさんは心の中でずっと、愛息さんの年を数えている。おばさんのお腹の中での日々、地上での半年の日々、33年前の4月27日からの日々、そしてこれからもずっとずっと、おばさんは三男坊さんの母親でいる。なんの前触れもなく、33歳の天使さんを知った。悲しいけど、嬉しくもあった。
2006.01.18
人が人に「それは諦めた方が良い」と、助言することがある。おもちゃを欲しがる子供に「あれは買わないよ、諦めなさい」というのは定番。でもじゃぁ、そう言っている人が、実際に見極めよく、諦めながら生きているのか。正しくは、人は人に「それは我慢した方が良い」と言うべきだそうだ。我儘を言う子供には我慢を教えることが大事なのであって、自分も出来ない諦めを、子供にだけ強いるのはおかしいそうだ。この話は、琴子を天国に見送った後、何で知ったのか、いつの間にか私の心の中に残っている。琴子が見えない生活にも慣れた。琴子は見えない宝物であることが普通になり、泣く回数も減っている。それを、もしかしたら人によっては「琴子ちゃんのこと、諦めることが出来たのだ」とおもっているのかもしれない。琴子が死んだ後、ただ泣き暮れる私に「諦めなさい」と、何人からも、何回も言われた。その度に、「諦めるってなんだろう…」と悩んだりもしていた。泣く回数が減ったのは、諦めがついたからなんかじゃない。琴子がいないことに、我慢することが出来るようになったのだ。人と話していて、ヘラヘラ笑っていた私が、誰とも目が合わずにいるときに、ふっと泣きそうになってしまうことは今でもよくある。泣くことを我慢している上に、常日頃、琴子のいないことを我慢しているのだ。天使ママさんたちとの交流の中で、この“我慢”をつくづくと感じる。皆、いつでも我慢をしている。誰も「子供の死を諦めました」なんて言ってきたことはない。あえて言葉にはしないけど、皆、我慢している。そしてその我慢が何処に通じているのかと言えば、皆、いつか天国で先に逝った我が子に会える時なのだ。
2006.01.16
民亊裁判では、裁判の長期化を防ぎたいということで、やたらと和解を薦めているそうだとか。民亊裁判では和解が流行っているということか。うちの弁護士は、「判決文を書くのもかなり面倒臭いのでしょうね」と言っていた。そこから、『司法のしゃべりすぎ』で有名な井上薫裁判官の話になり、私は本の存在、その後の上司を罷免請求したことを知っていただけで、この本は読んだことはなかった。ので、内容に対し、どうこう言えないのだけど、和解をなるべくなら避けて、判決文が欲しいとおもっている今、判決文に付ける判決理由を“蛇足”と言われて省略されたりするってことが、ちょっと怖い。というか、井上裁判官は横浜市の人だし、私が関わることはないのだけど、弁護士と話していて、ついつい、ちょっとだけ深く考えてしまった。ちなみに、井上裁判官は『判決文は面倒臭い』などとは言っていませんから。うちの場合、助産師の過失を被告側(保険屋&代理人の弁護士)も既に認めているからか、争点がないままに進んでいる。最初っから、裁判官は「和解はどう?」なんて感じで被告側に言っていたし、その後も、「和解は?」ばかり。ついに、次回までに、被告側が和解金の提示をするとなってしまった。私達は常に弁護士に「和解なんていやだ、嘘をついたままなのに、どうして和解が受け入れられる?」と訴えているのだけど、弁護士は「提示額次第では、蹴るに蹴れない」と言う。「でもきっと、ろくな額を言ってこないでしょうから」とも言う。「どうか、ろくな額を言ってきませんように…」と、妙な祈りを捧げる日々。私達は裁判が長期戦になっても、全然構わない。肝心の琴子は既に死んでしまっていて、時に追われることはない。納得いくようにします。
2006.01.15
H助産師は、私達夫婦に「助産師をやめます」と、平成15年の暮れにはそう言っていたのに、去年、助産師会から聞いて知って、そして驚いたことに、平成17年の8月にまで、分娩の予約を入れていた。助産院の閉鎖を正式にしたのは平成17年5月。助産師会の人が8月のお産について、「琴子の母さんの気持ちを考えて」と言ったそうだが、その後、8月の予約の人はどうなったのだろう。H助産師はきちんと断ったのだろうか。それとも、廃業すると言いながらも受け続けていたということを指摘された際、「どうしてもと頼まれたから」という、とても安易な理由で、8月の人も結局受けたのだろうか。私の気持ちとしては、H助産師が私達夫婦に対して辞めると言ったのだから、それは守って欲しかった。今更、H助産師が何をしようと琴子はかえってこないけど、「琴子の冥福を祈る日々」というような一文があったのだから、そう信じたかった。近いうちに助産師会に問い合わせてみよう。
2006.01.13
今日、第4回口頭弁論が行われました。もう相手側は何も出せない、言えないといった感じらしく、裁判官からそのようなことを聞かれ、認めていました。ま、嘘もつき尽くしたといった感じなのでしょうか。今日は3分くらいかな。3分もかかったかな?う~ん、とにかく短かった。裁判官の声は私には小さく、いつもモニョモニョっと話していて、聞き取れない。一生懸命聞き取ろうと、口元を見てもいるし、耳に力を注いでいるのだけど、聞き取れない。だからいつも、終了後に弁護士さんに説明をしてもらう。テレビのドラマなんかでは、どの人も言葉がはっきりしていて、聞き取れないなんてことはない。小説なんかで読んでいると、読み落とすこともなく、言葉の情報がきちんと入ってくるから、ストーリーに合わせて、裁判の状況も想像したりしていたけど、事実は全然違う。モニョモニョっとしていて、ササッと終ってしまう。まだ尋問までいかないから、尋問が始まればまた違う印象が生まれるのかもしれないが、今のところは『これが裁判?』。警察署には旦那一人が行きました。私も行くつもりだったのだけど、リンズが裁判所で騒いでいたので、警察は遠慮しました。今日は『とにかく相談』ということで、弁護士さんにも同行願わずに行きました。行く前に弁護士さんとたっぷりと話し合い、弁護士さんの意見も聞き、とっても参考になりました。日本の司法は実に不思議で、「なるほど」と「は?」が交錯してばかりでした。ここしばらく、急用でパソコンに向かう時間がめっきり減ってしまい、皆さんから頂いているコメントを読んではいますが、レスはつけられずにいます。仙台の男児誘拐は無事に解決し、誘拐なんてことが起こること事態が許し難いことだけど、起こってしまった後としては男児も元気だったし、犯人もきちんと捕まったし、良かったとおもいました。メールでもご連絡くださっている方、返事が出せなくて申し訳ありません。もう少ししたら、またゆっくりとパソコンに向かいます。
2006.01.11
仙台の乳児連れ去り事件、早く無事解決したという報道を得たい。不安で不安で、どうしようもなくなる。連れ去られた方と、リンズを産んだときの私の部屋の様子が同じで、私も四人部屋で、あの位置に丁度いた。リンズに添い寝していたし、もしも「火事だ!」と言って、マスクして白いズボンの男性が入ってきたら、連れ去りを心配するよりも、やっぱり火事を心配しちゃうだろうし、もしも…と考えると、あまりにも無差別で、警戒しようのない事態に震えがおこる。早く無事解決して欲しい。あの男児には生きていて欲しい。無事にママの元に返して欲しい。病院も、もし問題を持っているのなら、とにかく情報になることは警察に全て話し、捜査に全面協力して欲しい(していると信じています!)。昨日も今日も、早く無事解決のニュース速報が流れないかと、祈りながらテレビとラジヲを消せずにいます。神様、琴子、お願いします!生きて返してください!!!!
2006.01.07
何気なくチャンネルを変えていたら、細木数子氏の顔。何気なくそのままにしていたら、小学生からの質問に答え出した。ある小学生が「どうして人は死ぬのか」と聞く。すると細木氏は『清らかな心の人ではないから、神様に見捨てられて早く死ぬ』というようなことを、小学生相手に得意げに言っていた。え?細木氏の発言、おかしくないの?誰も彼も、一緒に出ている子供の親たちまでもが黙って聞いている。どう解釈しても、いくら相手が子供だとしても、間違ったことを言っていませんか? って、どうして誰も言わないの?そうじゃないでしょう。死生観は十人十色、色々な意見があるのは当然だけど、若くして亡くなる、幼くして亡くなるほどに、心が澱んでいて、神様から見捨てられた人だというのか。子供たちに『正しく、清らかな心で生きろ』と言いたいのだろうけど、言うべき場面じゃない。それとこれとは意味が違う。まぁ、細木氏の愚かな発言くらい、ちゃっちゃと聞き流す術で応対するべきなんだけど、相手が子供というだけに、聞き捨てならない心境になりました。『お前の○ちゃん、心が汚いから神様に見捨てられたんだぞ、やーいやい!』なんていう、そんなイジメが発生しないことを祈るばかりです。細木氏、子供って侮れないよ、テレビなんだからもっと侮れないよ。私なら…「じゃぁ、何故人は生まれてくるのか」と問い返した後、『命(生きること)を大事にするために、終わり(死)が用意されているのではないでしょうか』と言うかな。私の答えが正しくないとしても、それ以上に正しくないのは細木氏の答えだということだけには、自信がある。
2006.01.06
まだ決まっていませんが、旦那が昨年末までに出すといった答えは、「今度の裁判で出向いた後、警察署に寄る」ということです。私は刑事告訴をするか否か、意見を持たないことにしています。旦那が出した答えに対し、その意志に従い、その中で自分のすることをしていくつもりです。民亊裁判をするのも、最終的には旦那が決めました。私は旦那に「裁判を考えようよ」と何遍も言いました。でも、結論は旦那が出しました。私は意見がないのか?違うのです、やっぱり刷り込まれた言葉っていうのはいつまでも残っているものでして、いっつもどこかで「私が悪いのだろうか」「あなたが決めたことでしょうって言われたら、もう立ち直れない」とかって、警戒しちゃうのです。刑事告訴をしようと、何遍も調べたり、人からアドバイスを受けたりしていましたし、その度に旦那と話し合っていたけど、「じゃぁこれから警察に行こうよ!」とまでは言えなかった。警察署に行くってことは、旦那は刑事告訴をするっていう覚悟がほぼ固まっているのでしょう。警察が実際に動いてくれるのかどうか、これは私達には決めれらないことだから、もしかしたら不起訴で終るのかもしれない。それでも、行く価値は十分にある。自分の抱えている恐怖や不安に対し、もう弱気ではいられないっていうか、もし仮に『自己責任論』を言われたら、このブログで皆と話したことをお守りにして、自分の中の弱さに負けずにいきたい。うまくまとめられないけど…
2006.01.05
どうして私がH助産師を信用したのか。何度かこのブログでも書いたとおもっているのだけど、H助産所を訪ねた日、居間(兼診察室?)の仏壇の右上辺りに飾られていた表彰状。確か、厚生省が優良助産師として、H助産師を表彰したもの。延べ3000人の赤ちゃんをとったということで、優良な助産師として表彰されていた。「凄いですね」と、その表彰状について話しが及んだ時に、私が感嘆の声をあげると、H助産師はそれが自分の誇りだという感じで、嬉しそうな顔をしていたことを覚えている。「昔は年間に100人以上とっていたけど、最近は少子化だなぁ、年間、80人くらいだもんな」分娩者の年間数が減った理由を高齢としていないことにも、『さすがだなぁ』なんておもっていた。洗脳っていうやつなのだろうか。H助産師を私に紹介した知人から、「凄い助産師さんだよ」という話をさんざん聞いていたし、県内では有名なカフェ経営者の方の3人のお子さんを全員とったとか、もう一人のちょっと有名なカフェ経営者もその年の春にここで産んでいたりとか、NHKでも神の手として紹介されていたとかって、『H助産師は立派だ!』がたくさん並んでいた。その状態だからこそ、疑えるという人もいるというのに、私は…それにしても、随分と適当な資料で表彰をするのだとおもった。カルテを書いていないこと事態、異常なことだとおもうけど、そもそもカルテを書いているとしても、回収するわけでもないし(助産師会だけじゃなく、医療界全体がそうなのだろうけど)、何を基準に表彰したかといえば、きっとH助産師の自己申告だけでしょう。助産師会に登録している助産師誰もが『私は3000人とったよ!』と言えば、もしかして表彰してくれちゃうのかしら。そのうちの何人が元気で生きていて、何人が死産で、何人が新生児死となり、そして何人に後遺症が残ってしまったかなんて、誰も調べてくれないから凄いことだとおもう。平成15年当時、『助産院で逆子は扱ってはいけないのです』と明言していた助産師会。でもH助産師は逆子を受けたのは私だけなんかじゃない、もっともっとたくさん受けていた(数々の症例を話していた)。更には、これから開業しようとしていた助産師に逆子の教育まで勝手にしていた。そんなH助産師の行為や発言を全く知らず、『この助産師は優秀です』と表彰していたのだ。私って単純で悲しくなるけど、私はあの表彰状をみて、更にH助産師を信頼したのだ。H助産師は嘘ばかりを述べている。正しくは、出産前から嘘ばっかりだった。出産後も、測定していないのに嘘の数値を母子手帳に書いたり、他にもたくさんの嘘ばかりを並べている。そんな人だなんて、表彰した人たちも知らなかったのだろうけど、よく調べもしなかったのも事実でしょう。産む時には、“名誉”も“栄光”もどれだけ必要のないモノなのか、よくわかった。悔しいのは、その引き換えに琴子の命を奪われたこと。もう誰のことも信用しないから、琴子の命を返して欲しい。こんなことを言ってしまう私を、もしかしたら琴子は「お母さん、後ろ向き過ぎ!」と言って、悲しんでいるかもしれない。だから、あまりこういうことは言わないようにしたい。ただ、琴子の死は無駄にしたくない。表彰されているからといって、必ずしも正しい助産師だとは言えない。
2006.01.04
新年を迎えました。このブログを通じて、大勢の方から色々なご意見を頂き、また、メールも頂くようになり、パソコンの電源を入れると“琴子との時間”が持てて、とても充実した日々を過ごせております。ありがとうございます。今年も宜しくお願いします。今年届いた年賀状の中で、夫婦で声に出してまで驚いてしまった報告があった。それは、旦那の大学時代の先輩の突然の結婚の報告。一昨年の秋に会った時には全くそんなことは言っていなかった。それどころか、彼女がいるってことは聞いていて知っていたのだが、結婚は? と聞くと、いつもその先輩は結婚を否定していた。相手の問題ではなく、自分には結婚願望がないと断言していた。私の旦那をえらく気に入ってくれていて、「お前に会う時は、大学生時代の自分に戻りたいからなんだ」と言って、大学時代のバカ話をしてくれていて、私なんかはその思い出の中に存在しないのに、いつも聞く話が同じなお蔭で、すっかり私まで存在していたかと錯覚してしまえるほど、私のことも可愛がってくれていた。そんな先輩から届いた年賀状の写真は、正装した新郎姿の先輩と、ウエディングドレスを着た新婦の姿。「えー、なんで結婚式に呼んでくれなかったの?!」って、私達夫婦はショックも含めて一緒に叫んでいた。早速電話して、留守電に旦那が意味不明のコメントを残し、そしてしばらくしてから先輩から電話がきた。先輩と旦那のいつも通りのくだらない、とても40歳近い男性同士の会話とはおもえない内容の中、時折旦那が「はい、元気ですよ」「うん、今も笑っているし」と、私の方に視線をうつしてきた。私はリンズの面倒をしながら聞いていた。10分くらいで電話を切り、旦那が切るなり、「君のことをとっても心配していたよ」と言った。リンズを妊娠中の一昨年の秋、先輩に会った時にも「良かったね」と、心配そうな目で一度だけ私の妊娠に言葉を貰った。「君が元気にしているか、なんだか凄く気にしていたよ」電話での会話中、何度も私に視線をうつしていたから、その度にきっと、先輩が私のことを言っていたのだろう。リンズが生まれたら琴子のことを忘れてしまう(実際には忘れていなくても、その方が良いと思われている)ことの方が多い中、先輩はリンズが生まれたからこそ、琴子への私の想いが強くなることを、感じてくれていたのだろうか。「死ぬまでさ、私が死ぬまで、傷が癒えることはないから」と、何故か今日は旦那に寂しく言ってしまった。旦那の大学時代の先輩で、もう一人、G先輩という女性がいるのだけど、この方にも妊娠7ヶ月のときに天国に逝ってしまった天使ちゃんがいて、琴子が亡くなった後しばらく、私はG先輩にたくさんの言葉を貰い、救ってもらっていた。いきなり結婚した先輩のお祝いをするために、G先輩も地方から春に上京してくることになったらしい。都合が合えば、私もG先輩に会いたい。かなり遠方に住んでいるので、お世話になったのに、いまだにお会いしたことがない。旦那が風呂に入っている間に、琴子を亡くしてからしばらくG先輩とやりとりしていた日々を思い出し、涙が溢れてしまった。突然結婚した先輩に、直接会って伝えたい。「ご結婚、おめでとうございます。私のこと、心配してくれて、どうもありがとうございます。基本的には元気です」あの頃を救ってくれたG先輩にも直接伝えたい。「G先輩、実は裁判を始めたんです。後ろ向きの気持ちからではなくて、前向きに。先輩が『自分だけがわかっている、心の中で想っている』って言ってくれたこと、『時間薬』の話もずっとずっと、私の中で続いています。ありがとうございます」そして、琴子へ。「琴子、明けましておめでとう! ほら、お年玉だよ!」春になったら、二人の先輩に会えるかな。春になったら、琴子のお墓参りに行きたいな。
2006.01.03
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