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豊中市立第八中学校校区の保護者向け講演会。六月に一度今日の講演の会場のせんりひじり幼稚園で講演をしたことがあり、その時に聴かれた人もたくさんこられていた。丁寧に時間をかけて大人と子どもとの対人関係の構えが縦であってはならない、その連関でほめないという話をしたが、講演の後に、「ほめてはいけないとさらりといわれたが」という発言があり大いに困惑してしまった。小さい子どもを認めてあげるためにはある年齢まではほめることも必要ではないかという指摘があったが僕はそうは考えない。小さい子どもだからといってほめていいわけでもなく、よそさまの子どもならほめてもいいということにもならない。もっとシンプルに初めから誰の子どもでも何歳の子どもでもいっさいほめないというふうに考えたほうがわかりやすい。 なぜほめないか。ほめるというのは能力のある人が能力のない人にいわば上から下に向けてくだす評価の言葉であるからである。えらいね、よくできたね…カウンセリングに母親が小さな子どもを同伴してきたとする。その子どもが一時間静かに待っていたとする。いつもはこんなにじっとしていられないのに、と親は思う。帰る時親は声をかける。「えらいね、おりこうさんやね、よく待てたね」カウンセリングにきたのが夫で、妻が同席したとしたらどうか。一時間のカウンセリングの後、夫が妻にいう。「えらいね、よく待てたね」…私だったらそんなことをいわれたら嫌です、と講演にこられた人。でもそんなふうに自分がいわれたら嫌なことを子どもにいっているわけである。大人と子どもでは話が違う? そうは考えない。
2002年11月30日
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石部高校の職員研修で講演。事前に担当の先生が僕の本やHPの文書をコピーして配付してくださっていた。こんな話をしてほしいといわれていた内容が多岐にわたっていてやや(かなり)情報過多になったかもしれないが、質疑応答を含めて二時間話した。小さい子どもさんをお持ちの親向けに講演をすると言葉が通じないとか、そんなことさせられない(身辺の自立、子どもの課題に口出ししないなど)といわれることがあるが高校生の場合、そういう反論は残念ながら通用しない。 京都駅でポケットに入っていた紙を捨てた、これはもう必要はない、と決然と。見たくなかったから。でも後で気づいた。もう一枚入っていた捨ててはいけない書類を捨ててしまったことに。前日のことを思い出して、めずらしくひどくいらいらしていた。 曾野綾子の小説に(『帰る』)こんな話が出てくる。日本のある都会にある古い教会にイタリア人の神父が腎臓を悪くして、とうとうイタリアに帰ることになった。その時、これであの人はもう日本には帰ってこないだろう、と人々は思った。「だけど立つ間際に、彼はおどおどと信者さんたちに聞くんだって。もし皆さんが必要だと思うなら、私は必ず戻って来ます、って」 そして実際彼は戻ってきた。もう二度と故国に戻れないかもしれないのに。今、こんな感じかな、とたまたまこの短編を読んで思った。本当はそんなふうに「もし必要だと思うなら」と消極的なことではいけないのかもしれない。積極的に自己アピールすることが苦手である。
2002年11月29日
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奈良女子大学出講日。プラトンの『ソクラテスの弁明』の続き。翻訳で読めばすぐに読めるところを時間をかけギリシア語で読むと何度読んでも新しい気づきがある。 講義の後、ギリシア語の講座を管轄する学科の教授と面会。来年度のギリシア語不開講が教授会で決まったことを告げられる。大学の独立法人化に向けて経費削減のために非常勤講師を減らすことになり、受講生が少ないという理由で不開講が決定されたとのこと。この決定に僕が何をいっても決定が覆ることはないのだが、百五十人も受講学生がいるという講義と比べられることが不本意なので精一杯の反論した。「学問の価値を質ではなくて量で決めるのか」「そんなことをいってられる時代ではない」「経費の削減というが非常勤講師の給料がいくらかおわかりか」「わかっている」…というわけで、今年は受講できないが来年是非受講したいといってくれていた学生諸君、困ったことになりました。 ちょうど講義の後、このギリシア語ははたして存続するのかという話をしていただけにあまりにタイミングがよくて僕には未来を予知する能力があるのかと思ってしまったほどだ。何年か前にも一度存続の危機があってその時は西洋史学の教授がギリシア語の講座がなくなることは奈良女子大学の恥である、と他教官を説得してくださったので無事だったのだが。有用でない学問はこんなふうにして切り捨てられるのか(有用って何にとって有用?)学生の評判が悪いというようなことだったらあきらめられるかも。受講学生が少ないというのがその証拠?(とは思わない) これでまた一つ生活の不安材料が増えたわけだが、つくづく一年先のことも読めない人生のことを思う。
2002年11月28日
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今日も明治東洋医学院で講義。講義の前に駅にある喫茶店で昼食。「上手やねえ」と店の人が話しているので小さい子どもが食事をしているのかと見たら二十歳代の男性が食事をしていた。「ボーナス出るんやろ? お母さんにもあげるんか?」「はい」「そうなん、えらいねえ」小耳に挟んだ会話だったが驚いてしまった。話しかけた人に悪意があったわけではないことはわかるのだが。そしてその男性に障害がある子ともすぐわかり作業所で稼ぐわずかな(驚くほど少ない、精神科に勤務していたことがあるので知っている)給料を母親にすべて渡しているのだろう。しかし…なぜ「上手やねえ」「えらいねえ」ということになるのだろう。 今夜の「天才柳沢教授の生活」。末っ子の娘が父親とけんかをして家を飛び出し男と同棲しようとする。柳沢は、動揺する母親とは違って「自分で決めたことだから」と反対しないが、夜九時に寝るはずの柳沢が眠れない。娘の行動は父親の注目を引くためのものだろうが、こんな時父親が同棲に反対して止めないことがかえって娘を困惑させる。上の娘にふともらした「私も頑張っているのです」という言葉が柳沢の本音だったのだろう。子どもの人生が子どもの課題であることを思い知ることは親にとって容易ではない。帰ってきた娘にいう。「巣立ちの準備を進めていきましょう」これは娘に巣立ちを促す言葉ではない。「お互いに」という言葉を最後に柳沢は付け加えたのである。親の子どもからの自立を援助するカウンセリングをする機会は多い。
2002年11月27日
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明治東洋医学院で講義。今日は中性の行動をめぐって。実質的な迷惑を及ぼすという意味での不適切な行動ではなく、かつさりとて適切な行動ともいえない行動を中性の行動という(『アドラー心理学入門』p.162)。このような行動は本人の意志を尊重し、頼まれもしないのに介入する権利はないという話をしたのだが、中性の行動への対処の仕方について話しているといつもエキサイトしてしまう。本人が好きでやっていてもちろん誰にも迷惑をかけていないことでもこの国ではなかなかほうっておいてもらえない。他の人の行動、あるいは生き方が自分の考えと違うからといってとやかくいう権利はない。移籍交渉が決裂した野球選手について球団のオーナーが、モヒカンや金髪は球団のカラーに合わないといっているという記事を読むとなんとも時代錯誤な発言のように思う。このことについてはここの日記にも何度も繰り返して書いた。「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)というのがコモンセンスになる日がくるのだろうか。今は若い頃とは違って普通にしているけれども奇をてらっていたことがあった。僕がいつまでも働かないことは父にもずいぶんと批判されたし、母が生前世話になった人にもよくは思われなかった。ある夏の日、僕はどう見てもこれからバカンスに行くような格好をして街を歩いていた。僕の姿を見たその人は頭の先から足の先まで軽蔑の表情をあらわにして眺めた。その後、完全に無視されるようになった。 聖カタリナ女子高校(衛生看護専攻科)から手紙。来年度も心理学を教えることになった。今年は10回だったが15回。うれしい。
2002年11月26日
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UNIXについて知りたくてインストールなどの作業をしていたら既存のプログラムに不具合が起こってしまったようで修復に手間取ってしまった。おかげでいろいろとわかったてよかったのだが。 キーホルダーが破損し、その途端に鍵が消えた。キーホルダーはポケットの中から出てきたが鍵はなかった。今朝、あきらめ、合い鍵を作るべく出ようとした時ふと思いついて(といっても鍵のことではない)もう長く行方不明のランダムハウス英和辞典のCD-ROMがひょっとしたらあるかもしれないと腰をかがめた途端、鍵が目に飛び込んだ。鍵の行方にとらわれているうちは出てこないでふと、鍵へのとらわれから離れた時に見つかるなんて不思議。考えごとをしている時もこんなことはよくある。ふと違うことを考え始めた時にそれまで行き詰まっていた考えに突破口が見つかるのである。 今日はiTunesで80曲ほど(4時間)ビートルズの曲をMP3に変換して保存。かなり聞き込んだつもりでいたがまだまだ知らない曲がある。イギリス人の先生について英語を習っていたことがあって、その先生がリバプール出身だった。でも、と先生はいった、僕にビートルズの英語のこと聞かないでね、わからないから。わからないところがあるという意味だろうが、僕がわかると思っているところが実は先生がわからないというところなのかもしれない。 息子の研修先がニュージーランドになったことをもう一つの日記に書いたらさっそくニュージーランド情報をいただいた。ありがとう。軍事力をあっさり放棄した、北朝鮮と国交を結んだ、小学校の入学式が5歳の誕生日である、自国の自動車産業がなく日本車が多い、などなど。いずれも知らないことばかりだったがこれだけもこの国に興味を持てる。息子に伝えようと思うが、そんなことも知らなかったのか、といわれるのだろう。僕は知らなかった。
2002年11月25日
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矢沢永吉はロックンローラーになり億万長者になった。ところが腹心に裏切られて三十億の借金を作った。それがきっかけにして考えが変わった。何もかも失ったけれど愛する人も信頼できる人も、気持ちいいと思える瞬間もまったく変わらないで享受できることに気づいた。お金がすべて、といいきっていた時と矢沢の考えは変わったように見える。しかし、と宮台はいった。たしかに矢沢はアクティブでいろいろなことを実現してきた人でアクティブであれと扇動しているけれども、「なんとか」といって「であるがしかし」というふうに必ずいうのが彼の話し方の特徴だ、と。何かをいった後で、でも本当にそうか、と引く。自分でいったことの隠された目的を考えるわけである。こんなふうに一歩引いてみると違って見えてくる。しかし、何が本当に大事なのか、自分が勝手に大事だと思い込んでるだけではないのか、あるいは、それはそれかもしれない、しかし条件が変わると人は別のことを思うのではないか、と引くかどうかは人によって違う。宮台は「生き方」だといったがたしかにそのとおりだと思う。 自分がそのようにいわば立ち止まってふりかえっているかどうか考えてみた。いつもそうしてきたことに気がつく。考えすぎて身動きがとれなくなった時もあったのだが。 自分の行動の目的はまず自分について知ろうとするのでなくてはならない。たしかに自分について知ることはむずかしい。アドラーも自分について知ることはなんとむずかしいことか、といっている。 そこで昨日書いたようにまわりに行動の隠された目的を教えてくれる人がいるのはありがたい。宮台はそういう人のことを「おっさん」といっていたがこれもわかる。アドラー心理学のことをおじ、おばの心理学という言い方をすることがあるが、親だと同じことをいわれても利害関係がありすぎてうまくいかないことが多い。正論を親がいうとよけいに反発するということがある。おじやおばだと他人ではないから無関心ではないが直接の利害関係がないから適度な距離をおいて話すことができるわけである。 もちろん、このようなことを親ができないわけではない。最近、掲示板で話題になっているようなこと(子どもの勉強のことや子どもが学校に行かないこと)は本来子どもが自分で解決しないといけないという意味で子どもの課題であり、親といえども介入することはむずかしいのだが、もしも関係がよくなれば(つまりはおじ、おばくらいの距離をとれるようになればということだが)親子で話をすることは可能である。なんといっても生まれた時からずっと知っているわけだからカウンセリングで時々会うカウンセラーよりもはるかに親の方が子どものことを知っている。「このままだとどうなると思う?」という言い方は関係がよくないと皮肉や威嚇、挑戦に聞こえることがある。「このままだとどうなると思う?」「本当にそれでいいのか?」「どうしたいのか?」こんな言い方(いずれも子どもの課題である)が素直に受け止められるような関係を作ることが親子関係の目標であるということができる。そのような目標が達成できるために今何ができるかを考えた時、残念ながら今は静観するしかないことが多いのだが。
2002年11月24日
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久しぶりのオフ。納富信留『プラトン 哲学者とは何か』(NHK出版)続き。政治家になるはずのプラトンの生き方を決定的に変えたソクラテスとの出会いの不思議を思う。 夜、テレビで「成りあがり」。矢沢永吉の人生を描いたドラマを見ながら社会学者の宮台真司との対談を思い出した。宮台は何度も矢沢のまねをしながら熱く矢沢のことを語った。「もしも僕に矢沢永吉みたいなオジサンがいたら僕の人生変わってたと思うんですよ。どう変わってたかまったくわかりませんが、もっと…いい…人生だったかなぁ(爆)って気がするんですね、というか、「ホントにそうか?」っていってくれるおっさんが周りにいてくれてたらなぁって思いましたねぇ」「ちょっとずれた視点」から話を聞く、この人はなんでこんなふうなことをいっているのだろうと「目的」を考えるのが矢沢のコミュニケーションのスタンスである。テレビやCMでしょぼいおっさんを演じているけれども、彼がしゃべりはじめると何か違うのはこんなところにある、と宮台はいう。 対談では、矢沢について話ながら、金がほしい、成りあがりたいというエゴイスティックな動機について考えてみた。
2002年11月23日
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今日は湖東中学校で講演。授業参観の後の講演会だったのだが、僕は一度も中学校の授業参観に行った記憶がないので教育に熱心な親が多いことにまず驚いた。校長先生も最後まで聞いてくださった。ちょうど定期テストの一週間前ということもあって勉強は子どもの課題であるという話はタイミングがよかったのか悪かったのかわからない。教育や育児は親は実はあまりできることがなくて見守るしかない。もし関係がよければ子どもの方から援助を求めてくることがあるかもしれない。その時は可能ならば力になりたい。そう思って待つしかない。 帰りの電車でのアナウンス。いつもながら長々とアナウンスが続く。いつもと内容が違うことに気がついた。「座席はおひとり様おひとつです。座席を独占されているお客様はすみやかに席をお譲りください。マナーを守れない方は乗車していただかなくても結構です」車内が一瞬凍りつき、失笑が。そんな「マナーを守れない」人が実際にいるのだったら、新幹線のような長い車両ではないのだから、直接行って注意すればいいではないか、と思った。「最低限のマナー」(と車掌さんはいった)を守っている乗客にこんなアナウンスをしても意味がないではないか。ibookの下にあるのはギリシア語の辞書(Greek-English Lexicon, Liddel&Scott, Oxford)。今はインターネット上で引くことができる。昼寝をする時の枕としてはいささかかたい。 黒崎政男『デジタルを哲学する』(PHP新書)続き(MEMORIZEの十一月二十二日付け日記参照)。「ライプニッツの思索のように、今日の<現代>哲学の思索が、はたして百年後、三百年後に、時代がやっと追いつくような、深くて力強い<思想>を紡ぎ出すことができるか否か」(p.99) ライプニッツの思索とここでいわれているのは、哲学者のライプニッツが三百年前に得現代のデジタル技術の基礎となった二進法の研究をしていたことを指している。研究成果をパリの王立科学アカデミーに提出したが、数字が長く並び、なんら実用的でない、とまったく理解されず、学会誌にも掲載されなかった。「このような高望みは抱かないことにするにしても、例えば、二十一世紀のさまざまなテーマと対峙できないような哲学的<態度>は、もはや「自己欺瞞」であり、また、書物化されて確立した「現代哲学者十三人」を読んで研究すれば、現代哲学は事足れりとするのは、鈍感すぎる<態度>と言わざるを得ない」(ibid.) 同感である。
2002年11月22日
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買おうと思ったが高くて断念した『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店)が気になっている。田辺は昭和二十年三月に京都帝大を退官後、七月に北軽井沢に転住した。田辺が住む目と鼻の先に作家野上弥生子がいた。妻の千代との間で交際があったが、田辺と弥生子の関係に激変をもたらしたのは千代の病死だった。野上の全集には収録されていない二人の往復書簡が残っているわけである。竹田篤司は次のようにいう。「ともに文化勲章の受賞者でもある哲学者と作家、しかも同年の男性と女性が、齢七十歳を超えて、高度に知的な愛情関係をもち、親しく書簡の往復を行なったことは、日本はもちろん、おそらく西欧にも類を見ない」(竹田篤司『物語「京都学派』中央公論新社、p.225)。 奈良女子大学。今日から予定では八回、プラトンの『ソクラテスの弁明』の講読。何度も読んでいるのに読むたびに発見がある。学生に渡してある『原典 プラトン ソクラテスの弁明』(田中美知太郎校註、岩波書店)を初めて目にしたのは高校生の時だった。二年生の倫理社会の時間に初めてギリシア語を教えてもらったことはメインのHPの「哲学の出会い」の中に書いたが、ある日同級生の一人が「おやじの本棚にこんな本があった」と持ってきてくれたのである。お前が持っているのがいいとかいう話になって(本当によかったのだろうか。といっても今となってはどうにもならないのだが)なぜか僕がその本を持つことになった。持つことになったというのはもちろん読めなかったからであるが、ギリシア語の本を手にするのは初めてなのでどきどきしてしまった。 今年は去年の続きで、ソクラテスが知者といわれている人たちのところにいって話をしたら実は知っていると思っているけれど実際には何も知らないことが明らかになるところを見たソクラテスの近くにいる若者たちがソクラテスをまねて同じことをやり始めたという話からである。知者でないことがあらわにされた人たちは、ソクラテスは不届き千万な奴であると腹を立て、ソクラテスを若者に害悪を与えるということで告訴されたわけである。 何も知らないことを知っているというのは言葉では簡単なことに聞こえるかもしれないが深い意味を持っている。いつもこの言葉とともに息子のことを思い出す。まだ保育園に行っていた頃、よくテレビにくぎ付けになっていた息子はある日コマーシャルを見ていてこうつぶやいた。「あのコマーシャルはわからん」他のコマシャールはわかるという意味なのだが、どんなコマーシャルがわからないといっているかと思ったら「多い日も安心」というものだった。なるほどわからないだろうと思ったが、こんなふうにわかることとわからないこと、知っていることと知らないことを見極めることができるのに感心した。なんとかなくわかっているかのように思って本を読んだり人の話を聞いていることが多いように思うからである。無知は全知を前提とする。
2002年11月21日
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今日も明治東洋医学院で講義。5階の教室に行くのに階段を使った。もう始業のベルが鳴っていたので学生たちが急いで後から後から追いぬいていく。一人の学生が挨拶をして追いぬいた。しばらく行き過ぎてから立ち止まって振り返って僕にいった。「アドラー!」 今日の講義。人は誰も自分で意味づけした世界に生きている。その意味づけは人によって違うが、そのいずれが正しいかそうでないということはない。ただあまりその意味があまり私的(private)であるならば他の人とぶつかり生きにくいということはあるだろう。よりコモン(common)な意味づけを知っていることも時には必要なことはある。これをコモンセンス(common sense)という言葉で呼ぶが必ずしも「常識」ではない。常識を受け容れよというようなことをいわれて反発しないほうがおかしいといっていいくらいである。 正しい、正しくないではなく、より「善い」ということはある。ギリシア語で「善い」(agathon)という時道徳的な意味がはなく「ためになる」という意味であることは『アドラー心理学入門』の第4章で指摘した。自分のためにならないことをする人はないだろう。もし私的な意味づけがためにならないのなら、ためになる意味づけを採るのはどうか。ただし、何がためになるかということは人や状況を離れて固定的に決まっているわけではない。 山下和美の『不思議な少年』(講談社)という作品がある。その中の「ソクラテス」という短編では永遠の生を持つ少年が死刑の宣告を受け獄にいるソクラテスの前に現れる。そしてソクラテスを過去から様々な時代を経て現代の世界へと連れていく。少年はいう。「人類にとって不変の正義などというものはない。あなたの主張する普遍の正義も。目の前にある宗教・民族その国の正義に比べたら普遍の正義など机上の空論ですよ」ブッシュのいう正義はアメリカにとっての正義でしかない。国家の正義というものに疑問があるとソクラテスは現代の日本にきて人に話しかけようとするが誰も耳を傾けようとはしない。国家にとっての正義、会社にとっての正義などを考えると、少年がいうように普遍的な正義はないようにもたしかに見える。僕の立場は先に書いたように人や状況を離れた固定的な正義はないということである。しかしだからといってすべてが相対的であるということにはならないと考えている。常識(コモンセンス)という言葉をふりかざさず(学校に行くべし、仕事に就くべしなどなど)私とあなたとの間でコモン(共通)な善を個々の場面で見つけ出すという作業はしていかないといけないだろう。 山下の「ソクラテス」はプラトンの『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』などの対話篇を綿密に読み込んであって正直驚いた。どの言葉もプラトンの対話篇から出典個所を指摘できるほどである。(ソクラテス像に抱かれて眠る少年の絵でギリシア文字が書いてあるが、これが主格ではなく属格、「ソクラテスの」になっているのがささいなことだが残念)。 帰り、山下の『不思議な少年』と話題の(らしい)『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰、講談社)を買いに書店に。当然のことながら本を買いに行くと長居をするこことに。早くも空は暮れようとしていた。写真は京都駅。京都タワーがビルの窓に映っているのがわかるだろうか。
2002年11月20日
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昨日は少し遠出したからか朝なかなか起きられなかった。何度も携帯電話のアラームを止めた。午前中カウンセリングの後、昼から明治東洋医学院で講義。エレベータで乗り合わせた学生が挨拶してくれる。僕より先に教室に入らないと遅刻になるからか先に走っていったが戻ってきて「先生の講義おもしろい」といってくれる。こんなことがあると生きいてよかったと思う。 今日の講義のテーマは「神経症の論理」。アドラーが『人はなぜ神経症になるのか』の中で、うつ病の人にあなたは支配的な人ですね、といってはいけないと書いているが、いっているのと同じように、このようなことはカウンセリングの最初の段階ではいえないと前置きしながら七回目の講義でははっきりと説明してみた。このようなことを話しても受け容れてもらえるような関係を作ることが必要である。言葉でいうほど簡単ではない。 僕が勤務していた医院を辞めるに至った経緯を話した。辞めるためになんと複雑なことをしたかということが今さらながらよくわかった。早い段階で辞めたいと決めていたのにその事実に目を伏せていたように思う。いつかどこかに書いたのだが、ある日若い患者さんの一人が僕にいった。当時の僕は医院の中を忙しそうに走り回っていた。息をつぐまもなく、次何をしようかと考えずに椅子にすわることはなかった。そんな僕を見て彼はこういった。「もし僕が(病気が)治ったとして先生みたいになるんだったら治りたくない」この言葉にうまく答えられたという記憶はない。 よしもとばなながイタリアで会った八十二歳の映画監督のことを書いている。「私の小説をとても愛してくださり、ついでに熱烈な愛を告白され、ちょっと嬉し恥ずかしかった」(『イタリアンばなな』p.103)学会があってシカゴに行った時、一緒に行った友人がイタリアの心理学者に「私はあなたのためなら何でもする」といわれ困惑していたことを思い出した。ばななは、「私はもう結婚しているので、愛を告白されても困りますよ」といった。するとその監督はいった。「それがどうした、私だって四十年以上結婚しているぞ」
2002年11月19日
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二月に出る雑誌記事の監修をすることになりその打ち合わせ、インタビューのためにライターの尾崎さんと会う。事前にHPや本を綿密に読んでこられていて三時間近くの仕事だったが時間はまたたくまに過ぎた。強調したのは大人の課題を子どもに解決させてはいけないということ。アドラー心理学の技法は子どもを(親の思う通りに)育てるのに「使える」と理解してほしくないのである。子どもは親の思う通りには育たない。むしろ思う通りに育ってはいけない。なかなかそんなふうに思えないけれど、親の(子どもの、ではない)自立は大切である。できることならば何らかの形で援助したいが、それ以上のことは残念ながらできない。 よしもとばななの続き。「気持ちのいいことや楽しいことだけ書いて、それを読んでも自殺は止まらない。苦しみとか、苦痛とか、同じものが入ってないと、本の中に。におわしてあるだけでも書いてないと、人間は絶対に救われない」(『イタリアンばなな』p.82) カウンセリングを受けるとその時は気持ちよくなるのよね、という人は多い。でもそれではいけないのだと思う。あなたのせいじゃないといわれたらたしかに楽になるだろう。しかしそれでは何も変わらない。鋭いかみそりですぱっと切るようなことはもちろんしてはいけない。どうだすごいだろ、とカウンセラーが自分の力を誇示してクライエントさんが傷つくというのではいけない。しかし気持ちのいいことばかりいうわけにはいかない。他の人や自分以外のものに今の自分のあり方の責めを帰したいと思ってカウンセリングを受けるとやがてすべてが自分に返ってくることを知るとカウンセリングはなかなかハードなものになる。 やはりばななの言葉。「「この人がいれば大丈夫だ、どんなことがあってもこの人は変わらない」という安心感」(p.107)そんなふうに思ってもらえる人になりたいものだ。
2002年11月18日
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羽曳野市の駒ケ谷小学校で講演。日曜参観の後の講演でたくさんの方が参加された。子どもとのコミュニケーションをどうするかという話をした。講演の後、思いがけず花束の贈呈があって驚いた。ぼくのせたけのはんぶんくらいあるのではないかというほどの立派な花束で京都まで抱きかかえて持って帰った。ありがとう。何ヶ所に分散して生けた。 これは僕の部屋に置いた花。本しかない僕の部屋が少し華やいだ。 講演が終わってから校長先生、PTAの役員の方と話す。会長の阪本さんが講演の後「早く子どもに会いたい」といわれたのが印象的だった。僕の話はこれまでの自分の考えと全然違うという感想を講演の後話されていたのだが。『イタリアンばなな』続き。第三部のジェレヴィーニの論文「よしもとばななの原点を読み解くキーワード「家族」「食」「身体」はおもしろい。『キッチン』はよしもとの言葉を引くと「生きていることが難しいくらいのすれすれのところにいる」(p.80)人たちにとっての「食」に特に力をいれて書かかれた作品である。その「食すること」と「性的行為」の類似性を指摘するジェレヴィーニの指摘は適切だが、その解釈には異論がある。指摘するためには『キッチン』を再読しなければならない。 日本未発表エッセイのばななの「クリスマスの思い出」。クリスマス間近のフィレンツェでの思いで。もうすぐ旅を共にした友人と別れなければならない。暮れ行く空が藍色に変わっていき、明かりが次々に灯っていく。「私は突然寂しくなって、一緒に歩いていた、これから数分後に別れる友人の手をぎゅっと握った。彼がぎゅっと手を握り返してきた時、私はかつてないほど実感した。この一週間毎日会って笑い転げていたこの大好きな友人たちは、来週には、決して触れない距離に離れてお互いの生活を始め、今度いつ会えるのかわからないのだ。 そのことを、冷たい空気の中の手の温もりが痛いほど伝えてきたのだった」(p.122) どんな関係でも本当は今度いつ会えるのかわからないのだ。そんなことにも講演で少し触れた。「早く子どもに会いたい」という阪本さんの言葉は僕にはよくわかる。
2002年11月17日
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塚口で講演。マンションの一室でマイクも使わずに二時間話をする。若い女性ばかりだったので育児の話ではなく男女関係に焦点を当てて私とあなたの関係がよいといわれるための要件について話してみた。つき合い始めた初めはいいのになぜいつの頃からか関係がよくなくなるのかという話。ひょっとしたら途中からよくなくなるのではなくて最初からよくはなかったのかもしれないのだが。 帰り、本屋。『イタリアンばなな』(アレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ、よしもとばなな、NHK出版)。ジェレヴィーニはばななの翻訳者。二人の対談、エッセイ、論文などを収録。目下、半分くらい。 日本では本を出版するとすぐにお金の話になる。ずいぶん売れましたね、何を買いましたか、というふうに。どういう小説を書き続けたいか、というような質問は心ある数人の人しかいってくれないという話が印象に残っている。 ばななは小説を通してしたいこととして次のようにいっている。あらすじもわからなくていい、人の名前も覚えなくていい。物語の内容もほとんど覚えてなくていいから、読んだ時に「あるひとつの感覚」(p.35)を持ってほしい、と。自殺しようと思っている人が自分の小説を読んで、二時間別の世界に行ったら自殺を明日まで思いとどまるかもしれない。「一生のばすまでの力はなくても、その二時間とか、その一晩をのばしていく可能性をつくれたらいいなと思うんですね」(ibid.) 僕もそんなことができたらと思うが、感覚ではなくて論理、つまり僕の書いたものを読んで納得して、また、僕の話を聞いて納得して、人生を変えてほしいと思う。ばななは読んでなくてもわかってなくてもいいというが、このあたりずいぶんと違うと思った。
2002年11月16日
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一年ぶりに地元の小学校での講演。前年に引き続き講演を頼まれた。校長先生が昨年と同じ話をといわれたが、きっと同じ話ではなかったと思う。休憩をはさんで質疑応答もあわせて三時間の講演。 教師の子どもへ影響は大きいがそれに対して親として何かできることがあるかという話になった。話しながら僕の息子が四歳の時、保育士をてこずらせたこととか、小学校に入ってしばらく宿題をまったくしなかったことなどを思い出していた。いい影響を受けた先生もおられたが、そうでない先生もおられたわけで、だからといってその後の息子の発達に悪影響を与えたとは思えない。子どもが困っているから何とかしてほしい、先生に話をしてくれというようなことをいってきたら話は別だが、親が子どもが困っているだろうと推測して動くのは望ましくないと思う。子どもは実際何も困っていないかもしれないし、親から見て問題と見える教師を好きかもしれないのである。 そんなことを思うと、宿題を忘れた息子の名前が黒板の端に書いてあったのを書いて訪問の時に、先生に問いただしたのは今となっては越権行為だったかなと思う。それをいったことがきっかけに担任の先生は息子に働きかけ次の日から宿題をするようになったのだが。『天才柳沢教授の(癒)セラピィ』(川嵜克哲、山下和美、講談社)。柳沢教授をセラピストであるという視点からとらえ、教授の話を分析した本。教授の「セラピー」(セラピーと呼べるのだろうか? 原作の引用あり)は明快なのに解説は僕にはむずかしい。モデルは原作者の山下和美の父親で、本の最後にある父親のことを語る山下と川嵜との対談はおもしろい。 山下の父親も夜九時になる人だった。今、八十五歳である。家を新築しようとして、不動産屋で書類に記入するがどれも七十歳になっている。「年が違うじゃん」といったら、父親はいった。「八十五歳だったらなめられるから」
2002年11月15日
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大学の講義。教科書を終了。僕自身もかつて使い、よくできた教科書なのだが課が多く大学の週一コマの講義では終われないことがあるので別の教科書を使っていたこともあるが、今年は昨年に引き続き受講する学生がいることもあって、『ギリシア語入門』(田中美知太郎、松平千秋、岩波書店)を使った。思いがけず今日終わったので来週からプラトンの『ソクラテスの弁明』を読む。去年の続きから読む。今年初めての学生には申し訳ないのだが、こんな形で奈良女子大学からギリシア語の講座がなくならない限り、毎年読み続けていければと考えている。 高校生の時にギリシア語を少しだけ学ぶ機会があった。別のところに書いたので繰り返さないが大学受験に力をいれる学校であったにもかかわらず倫理社会の授業は高度だった。外国語を学ぶことの重要性を説く先生の僕への影響は強く、哲学は僕にまだほとんど未知同然の人生について教えてくれる一方で学問として強く僕を引きつけた。他の人よりも優れているために、あるいは負けないために早い時期に始めた勉強だったが、人生の早い段階で幸運にも出会うことになった先生方の影響で学ぶことそれ自体がおもしろいと思えるようになってきた。教育は他の分野とは違って成果、結果がすぐに現れないのが特徴であるが今もこうして十代に出会った先生方の影響を受けていることを思うとよきにつけ悪しきにつけ影響を学生に与えることがあれば責任は重要である。今日学生と読んだ練習問題の中に、人は哲学者と交わればよりよい人として立ち去ることになるというギリシア文があったが、ふと自分のことに引きつけてこの文を読んでしまった。そうであればいいのにと思う。 では僕が悪しき教師だったらどうだったか。人間はアドラーがいうように外からの刺激に機械的に反応するわけではない。反面教師ということもあるだろう。 テレビドラマの「天才柳沢教授の生活」でこんな話があった。柳沢の妻はもう三十年もピアノを弾いていなかった。本の中に埋もれてしまっていたのである。そのピアノを再び弾くことを柳沢は勧め、その上、調律に要する費用を計算して新しいピアノを買う方がいいと考えピアノを買いに行く。ところがどのピアノで妻がショパンの「ノクターン」を弾いても柳沢は納得しない。後に判明するのだが、結婚して家にピアノが運びこられた時から既に音は狂っていた。柳沢は妻の弾くピアノの音程が正しいと信じていたので正しい音程のピアノの音を聞いても納得できなかったのである。柳沢のように本を読むことを習わしにしている人がレコードやCDで音楽を聴かなかったとは思えないのだが、原作でもドラマでも妻のピアノの狂った音程こそが正しいと思い込んでいると描かれている。 もしも教育がこのような影響を与えるとしたら恐ろしい。このようにならないためにできる限り多くの教師につくことが有用だろう。同じ専門分野でも複数の教師につけば学生はどの教師がすぐれているかそうでないかを判断するのが容易になるだろう。 この点、家庭教育には問題がないわけではない。親は多くの場合一人ずつであるから間違ったことを親が教えていても子どもが気づかないということはありうるからである。親は子どもの行動を規制しようとするがその際の基準になるのが何がよくて何がそうでないかという家族価値と呼ばれるものである。両親ともに同じ家族価値を持っていることもある。その場合、この家族価値は強力なものになる。子どもたちにとって必要なのはできれば多様な価値観に触れることだと思うが、そうできないことも多いように思う。親の影響がもし好ましくなければ教師が正すしかないがその教師の考えが歪んでいたらどうなるのか。こんな悲観的なことを考えない方がいいだろう。
2002年11月14日
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どちらかといえばあまり目立たないでいることを願っていた僕が昨日書いたようにみんなの前で話すようになった。児童会の役員になるというのはそういうことである。後に中学校に入ってからも生徒会の役員になった。放課後、生徒会室というのがあってそこであれこれ話をした。パスカルについて友達に話をしたことを覚えているのだが、中学生の時にパスカルを読んでいたのか今となってはよくわからない。中学生になってからはクラブ活動も熱心にするようになり本を読まなくなったからである。 こんなことがあって人は変われるものだと思った。ただ自分が優秀でなくてはいけないという思いはずっとあってよくできる同級生と競っていた。後に息子が中学生になって塾に行くことになった時のこと。遅れて塾に通い始めたので、学校よりもはるかに早く進む塾の学習進度についていけず最初の頃試験を受けても二十点くらいの成績しか取れてないことを知った時僕はそんな経験をしたことがなかったのでさぞかしつらいのではないかと思ったが僕の勝手な思い過ごしだったようだ。 私立の高校を受験するということになって、担任の先生が家庭教師について勉強するようにと勧めた。今になってよくわかるのだが経済的にはかなりの負担だったはずなのに親は何もいわなかった。この家庭教師の先生が仏教を専攻する人だったことがその後の僕の人生に大きな影響を与えることになるが、そのことは僕にも親にもわかっていなかった。研究者という人種を生まれて初めて見たのである。ある時、先生の鞄に『仏教における時と永遠』という本が入っているのが見えた。もとよりその題を見てもどんな本なのか少しもわからなかったがこれまで知らなかった世界があることはわかった。今とは違って塾に行くことも家庭教師につくことも珍しかったこともあって誰にもいわなかったが何かいわれるのを恐れていただけかもしれない。進学した高校は仏教系だったが、僕は宗教者にはならず哲学者になった。 先に書いたように、中島義道が、人はすべて傲慢にならないように一つの棘が与えられているという説明はよくわかる。講演などで、暗いといわれるとそんな自分のことを受け容れることはできないが「やさしい」なら受け容れられるという話をする時、僕が子どもの頃、ずいぶんとひどいことをいわれても言い返したり、他の人が嫌がるようなことをすすんでいうことはないことを思う。自分の言葉がどんなふうに相手に聞こえるかということを意識できるようになったことをよかったと思う。後にプラトンの書いたものを読むようになった時に、もしも人が不正を行うことか不正を受けることが避けられないのであれば不正を行うことではなく不正を受ける方をむしろ私は選ぶというソクラテスの言葉を聞きその通りだと思った。 ただあれから考えてみたのだが、仮に「棘」がなかったら僕ははたして傲慢になっていたかというとそんなことはなかっただろうと思う。そんな自信はなかったし、むしろ自信がなかったからこそ、「棘」は僕が対人関係がつまずくことを正当化する理由として機能していたように思う。こんな自分だから他の人との対人関係がうまくいかなくてもしかたがない、なにしろ僕には「棘」があるから、と。こんなふうに考えて積極的に人と関わっていこうとしなかった。生徒会のような活動に参加しようと思ったことが今となっては不思議である。勉強は「棘」の補償として機能したが、勉強もできないのでは困るので勉強以外の活動にエネルギーを注いだとしたらなんとも複雑なことを考えていたことになる。ただ勉強すればよかったというのに。
2002年11月13日
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一時前に息子が部屋にきて六時に起こしてほしいという。五時に目覚ましを合わせておくけれどというのでそれなら別の僕が起こさなくてもいいではないかといったが声をかけてほしいという。講演があってちょうどその時間に起きるつもりだったので引き受ける。しばらく最近読んでいる本のことを話す。『カラマーゾフの兄弟』を読み始めたとのこと。もうずいぶん前に息子に渡した記憶があるが、その時は興味は見せなかったのだが。ロシア人は本当にあんなに延々と話すのか、と問う。たしかにドストエフスキーの作品に出てくる人は長々と話す。あきれるほど長い。『カラマーゾフの兄弟』は文庫本で三冊の長編なのにわずか数日の出来事でしかない。よく言葉を尽くすという表現を僕は講演などでするのだが、これくらい話さないといけないとしたら大変。 二時半頃にやっと寝ることができた。それなのに三時に目が覚めてしまい眠れず。しばらく本を読んでようやく再び眠りに。夢の中で息子を起こしている。六時にセットした目覚ましでは起きられず起きたのは六時十五分。息子の部屋に行くともう既に起きて勉強していた。十五分遅刻ね、といわれたが機嫌はよかった。どうもずっと三時間、四時間くらいしか寝ていないようだ。 講演先の近くの駅に着いたのでここから地図を片手に歩き出さねば(9:27)。 ここから実は迷いそうになってしまった。公民館の場所を聞いても知らないという答え。後で聞けば数年前に移転したからかもしれないとのこと。僕としてはしかし道をたずねることができてよかった。それがどうしたといわれたらそれまでなのだが、人にたずねるのは苦手なので僕にはかなりの勇気を要することなのである。 今日の講演は松原市の家庭教育学級。質疑応答の中で、私は人生を複雑に生きてきたような気がするという発言があって驚いてしまった。話は育児や教育のことが中心で必ずしも生き方に言及するような内容ではなかったからである。子どもとどう関わっていくかという話をする中でその延長線上でこの私がどう生きるかということはたしかに視野に収めて話していたので正しく理解されたと思う。人生が複雑なのではなくて、私が人生を複雑にしているということを僕はアドラー心理学を学ぶ前は知らなかった。 講演の中でも少し話したのだが、小学校の時、勉強ができないのがいやだった。僕の家は校区の外れにあって、子どもの足だと三十分くらいかかった。学校の門の前に住んでいた同級生がいた。彼はいつも先生にいわれていた。あなたは学校の一番近くに住んでいるのに勉強ができない、なのに岸見君は一番遠くに住んでいるのに勉強ができる、と。ずいぶん今思うとひどい言い方だと思うのだが、実際のところは僕はそんなに勉強ができたわけではない。勉強ができるべきだったのである。なのにできないことが嫌だった。その上に、背が低くてスポーツができない。学級委員に選ばれることもなかった。 二つの光景を思い出した。一つは図画の時間に自画像を描いた時のこと。僕は自分の顔をわりと気にいっていたので描き上がった作品は実はいいできだと思っていたのである。それなのに、貼り出された僕の描いた絵を見た同級生たちが、「これ、誰の絵?」といっているので聞いて、あわてて絵に書き加えた。「全然似てない」ただ、「これ、誰の絵?」という言葉を聞いただけなのに。 もう一つは児童会の役員の選挙に立候補した日のこと。後に名前が廊下に貼り出された時に、他のクラスの人が「岸見って誰?」といっているのを聞いてがっかりするのだが、それよりも先にクラスの中で立候補すると手をあげた時のこと。僕が手をあげると皆が(と思った)驚いた。えっ、なんであいつがという反応だったように僕は思った。手を上げるのが恥ずかしくてならなかった。しかし、この時の決断がきっかけとなって選挙に当選し、児童会の議長になった。議長になったということは皆の前で話をしたということである。あれほど目立つのが嫌だったというのに。私立の中学校の受験のことを母は担任に相談したことを後で聞いた。先生は僕には無理だ、といった。学力的にも精神的にも。母はどうやらその説明を納得したらしい。僕はこの話をきいて自分の人生の最初の軌道修正を試みた。小学校六年生の時だった。
2002年11月12日
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ホーソンの『痣』(The Birthmark)という短編がある。学生の頃英文学の演習か何かで読んでから一度も読んでないので間違っているかもしれないが、主人公の科学者が妻の頬にある痣を手術をして取り除こうとするのであるが、「人間の不完全さの唯一の印」である痣が彼女の頬から消えるのと同時に彼女の命そのものも失われるというような話だった。 痣といい、昨日書いた鼻といい身体的な特徴を書くのはためらわれるが、身体的特徴に限ることはない。自分が短所だと思っているような性格特徴でもいいわけである。それがなければ自分はどれほど幸せだろうと思うようなことである。19世紀のアメリカの小説家であるホーソンの英語はその頃の(きっと今もだと思うが)僕にむずかしかったが、この短編は再読の機会はなかったがずっと印象に残っている。自分の完全さを損なうと思えることがなくなれば人は自分自身でなくなるわけである。 その後、アドラーの著作を読み、何が与えられているかではなく与えられているものをどう使うかが重要であるという言葉を読み深く納得した。たしかにそのとおりなので癖があってもこの私という道具を他のものに置き換えることはできないということはよくわかった。 中島義道は、人はすべて傲慢にならないように一つの棘が与えられているという。パウロが、私の身に一つの棘が与えられた、といっているように(「コリント人への手紙」II12:7)。中島はそれは当人がもっとも醜悪と感じる部分であり、自分から切り離したい、それさえなければ幸福が実現するのにと思うまさにその部分である、という(『不幸論』p.202)。それがその人固有の「かたち」を作り、その人の不幸を磨きあげることである。 中島は続いてキルケゴールを引き、人生の目標は幸福になることではなく、自分自身を選ぶことである、という。自分自身を選ぶことが、自分自身の不幸のかたちを選ぶことにはならないと僕は考えるのだが、自分自身を選ぶことは勇気が必要であるというキルケゴールの言葉を引きながら次のように自分自身についていっていることにはうなずける。「自分自身とは何か、それがどこかにころがっているわけではない。「そのままのあなたでいいの」という甘いささやきが表すような安易なものでもない。それは、各人が障害をかけて見いだすものだ。しかも、それはあなたの過去の体験のうちからしか、とりわけあなたが「現におこなったこと」のうちからしか姿を現わさない。とくに、思い出すだけでも脂汗が出るようなこと、こころの歴史から消してしまいたいようなこと、それらを正面から見すえるのでないかぎり、現出しない。(パウロの棘のように)あなたを突き刺すあなた固有の真実を覆い隠すのでないかぎり、見えてこない」(p.204) 中島がいうようにこういうことを見ないように、考えないようにすることで幸福が成立するのであれば、僕が考えている幸福もそのような安直な幸福でない。しかし、「だから、あなたは自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。あなた固有の不幸を生きつづけなけければならないのである」(ibid.)という結論には僕は到達しないだろう。不幸に見えるようで実は本当の幸福をこそ人は追求するべきである、と僕ならいいたい。
2002年11月11日
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高校を卒業してまもなく街で中学校の校長先生に会った。先生は、一度遊びにいらっしゃいと僕に声をかけた。今思えば本心からの言葉ではないようにも思うが僕はうれしくてその後ほどなくして先生の家を訪ねた。 部屋に入るとすぐに中学校を卒業してからのことについて話をした。そのうち、お酒と煙草が出された。驚く僕に先生は高校を卒業したのだから、と。あ、でも僕は未成年と思うまもなく酒が注がれ煙草に火が。僕は自分がもはや子どもではないと背伸びをするようなところはあったが、残念ながらこのような経験をすることで大人になったと思うほどシンプルには人間ができてなかった。しかし思えば、この時煙草を吸ったことがきっかけになってしばら煙草を吸うことを習慣にするようになった。ほどなく心臓に痛みを感じるようになり、まだ死ぬわけにはいかないと思った僕は煙草を吸わなくなったのだが。煙草を吸うことがかっこいいことだというようなイメージをテレビなどのコマーシャルが放送するので大人になったことの証として煙草を吸い始める若い人は多いのかもしれない。もしも煙草を吸うことがひどく恥ずかしいことで見つかったらもう生きてはいけないと思うほどはずかしいことだと思われるようになったら誰も吸わなくなるかもしれない。お酒の方はウィスキーだった。僕はお酒が飲めないのですぐに赤くなったはずである。 何を話したかは今となってはほとんど覚えてないのだが、先生の言葉で一つ覚えている言葉がある。僕が小柄なのを見て先生はいった。「君は商売人には向いてない。君とは違ってもっと身体が大きくがっしりしていなければこの仕事はできない。なんといっても押しが強くなければなければね。でも君はだめだ」 しかしそれに代わってこんなことができるというふうにいってもらったらこの日僕は先生に会えてよかったと思って気持ちよく先生の家を後にできたのかもしれないが、そんな話にはならなかった。僕は前から父のように会社に勤めることはできないと思っていたから図星を指されてどぎまぎしてしまった。 この時の話が一つのきっかけになって僕は僕が生きる一つの形がわかったように思う。人生の負け組だと宣告されたような気がした。前からわかっていたのにあらためてはっきりといわれて驚きもしたが、やはりという気もした。 幼い頃から劣等感があった。自分が劣っているという感じは主観的なものだから、他の人が聞いてもなんだそんなことかといわれるようなことである。実際、友人に相談したら「しょうもない」といわれた。それは大変だ、といわれなくてよかったと今は思う。中島義道は芥川龍之介の『鼻』を引いて、「(内供は)垂れ下がった鼻が自分に不幸をもたらすとしても、その鼻をもつことしか自分自身でありえないことを自覚したのである」という。この私しか私ではないというのはよくわかる。ただし中島が「内供は、自分の「かたち」を変えて幸福になる(ふりをする)よりも、不幸であって自分自身であることのほうを選んだのである」ということには必ずしも賛成できない。自分自身であることは不幸ではなく、皮相の幸福ではなく、あるいは他の人から幸福と思われることではなく、本当の意味での幸福であると考えるからである。
2002年11月10日
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アメリカの大学からホームページ(英語版)にアップロードしたファイルをコピーして配付することの許可を求めるメールが届いた。検索して探し当てられたようだが思いがけずも役立つとしたらうれしい。 野口悠紀雄の『「超」文章法』(中公新書)。読者に伝えたいメッセージ(テーマ、主題)を明確にすることが文章作成の核心である。文章が成功するかどうかは8割方メッセージの内容に依存する。これを見つけるには考え抜くしかない。メッセージが見つかった時のことを野口は「天使が立っていた」という比喩で表現している。書くことが見つかればコンピュータを使えるから執筆と構成を考えることは平行して進めることができる。野口のいうようにメッセージが明確に見つからない時はなかなか書き進めることができない。論文を書き上げた時の快感、達成感は何にも代えがたいものだが、そこに至るまでの苦しみも大変なものである。 テレビでルルドの泉の話。フランスのピレネー山脈北麓にあるルルドの羊飼いの少女、少女ベルナデットが聖母マリアを目撃し、奇跡が起ったという泉があり、ここには世界各地からたくさんの人が巡礼に訪れる。医学から見放された人も治癒することがあるという。ルルドに以降と思い立ったその日から病がよくなることもあるようだ。 番組ではルルドに湧き出る水を日本に持ち帰って分析し、通常の水の60倍も含まれているという活性水素とプラシーボ(placebo)効果から奇跡の説明が試みられた。これだけでは解明できず番組ではさらに死後も腐敗していないというベルナデットの遺体を見せていた(一回は、番組のスポンサーの名前が画面一面にあってほとんど見えず、二回目は一瞬)。 アドラーもルルドに言及している(『人はなぜ神経症になるのか』p.53)。アドラーは精神医学の他の学派が神経症の治療に成功を収めてきたことは否定しないが、治癒はその方法によるというよりは、むしろ、たまたま患者と医師がよい人間関係を持ったこと、あるいは、とりわけ、患者を勇気づけたからである、と説明している。そして、ルルドを訪ねることが「人の生きる姿勢をかなり改善させること」が時々あり、「ルルドを訪ねることが、同じことを引き起こすかもしれない」といっている。 アドラーは奇跡を必ずしも否定はしないが、「より骨の折れるものであるとしても、患者に自分自身の誤りを理解してもらうという、より単純なプロセスのうちにあることを確信している」という。「単純なプロセス」であってもより骨が折れるというのはよくわかるが、ルルドに行かなくても治癒するなら救われる人は多いということはできるだろう。 番組で取材に行った若者が何気なくルルドの水を飲んでいたが水の効果を期待しない人にも効果があるのか。検定しようとする薬物と対照用の偽薬とを医師・患者ともに知られないように投薬する二重盲検法でも効果は見られるのだろうか。そうとは僕には思えないのだが神のはかりごとは人知を超えるから断定的なことはいえない。
2002年11月09日
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八日市で午前、午後と二回講演。八日市へはJRで近江八幡へ行き、そこで近江鉄道に乗り換える。京都でいえば京福電車のようでもあり、仕事でなければ長閑な沿線の景色を楽しめたのであろうが、さて何を話したものか考え始めるとたちまち風景は僕の視野から消えた。運賃からすると遠いのかと思っていたのにすぐに八日市に到着。ここから会場の八日市市老人福祉センターへ。「生きがいつくり」の話。何を話そうか迷ったが、やはり対人関係がよくなければ生きるかいもなくなるので具体的にどんなことに心がけて人とかかわっていくかという話から始めた。後半の「今ここ」の話は若い人を前に話す時とは違って現実感があって、話ながら少しどぎまぎしてしまった。 (1)所属感について。人の基本的な欲求である所属感(ここに自分の居場所があるという感じ)を得られないと様々な手段で、とりわけ自分の身を痛めつけて(怪我、病気など)所属感を得ようとすることがあるが、そんなことをしなくても何かしてほしいことがあれば言葉でお願いしよう。そぶりで伝えようとしない。言葉でいわないことは何も伝わらない。(2)課題の分離。対人関係のトラブルは人の課題に(人が自分の責任で解決しなければならないこと)土足で踏み込むことが起こる。原則的には他の人には介入しない。(3)勇気づけ。自分が役立たずであると思うと自分のことを受け容れることができない。他の人に貢献したい。そのことを他の人が認めてくれるかはわからない。しかし私は他の人の貢献に注目して言葉をかけたい。(4)今ここに。過去もなく未来もない。「~したら~しよう」と先延ばしにしない。(5)できることから。何かを始めよう。特別なことである必要はない(家の前で車で通勤する人に毎朝手を振ったアメリカの男性の話、内村鑑三の『後世への最大遺物』の話)。 梗概だけを書いたがエピソードをいろいろと話す。質疑応答の後、講演を終わる。その後、思いがけないことに「今日の日はさようなら」を参加した人全員で歌ってくださる。うれしかった。 昼からは図書館で講演。基本的なアドラー心理学の話。質疑応答の中で息子と娘のことを聞かれる。対等の横の関係でかかわっていたら社会に出た時、またその前でもクラブ活動などで縦の対人関係の中に入る時子どもは困らないか、と。親が子どもと対等の関係でかかわってもいろいろな人がいるのでいわば純粋培養のようなことはできない。しかし、その中にあって子どもたちが自分でどちらの対人関係をよしとするか判断するであろうし、僕は子どもたちを信頼している、と答えた。
2002年11月08日
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今日は大学への出講日。四月来、ギリシア語を初歩から教えているが、後一回で『ギリシア語入門』を終えられる。その後はこの日記もたびたび書いてきたようにプラトンの『ソクラテスの弁明』を読むことになっている。このテキストは課が多くて多いとはいえない一年の講義では最後まで終わらないこともあったが今年は思っていたよりも早く終われうれしい。講読は昨年の続きから。去年の講義にも出席していた学生が二人いる。 四月や十月は学生が学内にあふれている感じがするか、今ごろになると少し落ち着いてくる。学内の木々が紅葉する。まれに鹿を見かけることがあるが、今年はまだ一度も見ていない。 今月は講演が多い。今日も一件依頼があった。明日、八日市の二ヶ所で講演をするのだが、午前の講演は老人福祉センターで、テーマは「生きがいつくり」。主催者によると参加者は「おおむね60歳以上の方」とのこと。どんなところでのどんな講演でもたじろいだりしないのだが、この講演ばかりは緊張してしまう。いったい、若輩者の僕が人生の先輩方に何を話したものか。 中島義道は『不幸論』の中で他の人の不幸、自分の死に目を向けなければ人は幸せであるかのように感じることもできるかもしれないが、他の人の不幸、死の存在を直視すればどんな人生も不幸であるという。まさかこんな話をするわけにはいかないのである。四十九歳で脳梗塞で人生の道半ばで倒れた母は不幸だったのか。中島はそうだというだろう。アテナイの市民に死刑を宣告されて毒杯をあおったソクラテスは不幸だったのか。中島ならそうだというだろう。僕は賛成するわけにはいかない。
2002年11月07日
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先週で教育心理学の講義を終えたので今週からは午後からの臨床心理学の講義だけになった。一コマだけの講義のための出講はいろいろな意味でわりにあわないのだが、夏の集中講義の時のような一日4コマの講義というのは消耗してしまう。 大学院を終えてすぐに非常勤で教え始めた。その頃は今とは違って心理学は学んでいなかった。何を教えてもいいといわれて(哲学特講)大学院での研究テーマであった徳(アレテー)の教育可能性(徳は教えうるか)について講義した。「よい人」という時の「よさ」が徳(アレテー)なのだが、親が立派でも子どもが必ずしもそうではないケースをプラトンは対話篇で取り上げ徳は教えられないのではないかという可能性を示唆している。もちろんここで何をもって立派というかは問題なので例に引かれる政治家が必ずしも「よい」人かどうかは大いに疑問なのだが。どの対話篇を見ても徳が教えられるものかどうかはわからないというところで終わっているのだが、プラトン自身は徳は教えられると考えていたと僕は考えている。 その後、このテーマは文献で調べるというのではなく子どもとの関わりの中で現実的なものになった。知識を教えることはできてもこの社会の中で他の人と関わっていくにはどうするかというようなことが教えられないのなら教育の意味の大半はなくなるように思う。知識の伝授は重要だが、そのことを可能にするためには対人関係がよくなければならない。嫌な大人から子どもは学ぼうとはしない。だからといって知育ではなく徳育が大事というな話には持っていきたくはない(最近はこのような話はあまり聞かない)。 さて、講義。ライフスタイルについての講義の3回目。ライフスタイルの形成についての話の続き。失敗することを恐れる人はそもそも失敗しないように課題に挑戦しないか(挑戦しなければ失敗することもない)、失敗してもダメージが最小限であるようにあらかじめ綱渡りをする人が落ちた時のためにしたにネットを張るようなことをする。たしかにいつも成功するわけではないし、失敗することはある。時にその失敗によってかなり大きなダメージを受けることがある。しかし、失敗が致命的なものであることはまれで、多くはやり直しが可能である。道に迷っても砂漠で迷ったわけではない。 いつだったか急に雪が降り始め見る間に辺り一面真っ白になった。僕が乗っていた電車は途中で止まってしまった。雪のために運転を見合わしているというアナウンス。それほどの大雪だった。その時僕は講演を終えての帰り道だったので急ぐことはなかったのは幸いだったが、ふともしこのまま電車の中に閉じ込められ一夜を車内で過ごさないといけないことになったらどうしようと思った。外部との連絡といっても携帯電話のバッテリーはいつまでも持たない。一晩くらいなら食べなくてもなんとか我慢できるだろうか。こんなことを考え始めてたら際限もない。ふと外を見て愕然とした。たしかに電車は駅ではないところで止まっているが別に山の中でもなく線路のすぐ横には道路があって民家が並んでいる。電車の中で一晩過ごすとは 笑止千万であることがわかった。 何かに失敗した直後はこれとよく似た状況にあるのかもしれない。深刻であればなおさらそうである。しかし失敗は失敗として真剣に受け容れ(どうでもいいわけではない)必要ならば失敗によって失ったものの回復を図り、次に同じ失敗をしないための対策を練ればいい。それしかない。
2002年11月06日
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出講日なのだが学校祭の振り替えということで休み。午前、午後とカウンセリング。 道に迷った時には動かないでその場にじっとしていた方がいいといわれることがある。援助の手が確実に差し伸べられるのであれば動かないでじっとしていた方がいいだろう。しかし、その場にとどまれないこともあるし、とどまっていてはいけないこともある。援助は得られるかもしれないが、必ず得られるとは限らない。援助してもらえたら幸いだが、援助を待たずに自力で何とかしなければならないこともあるだろう。そんな時はどこかこちらという方向を決めて歩き出そう。 迷ったらどうしたらいい? この道ではないことがわかったらどうしたらいい? 戻る、あるいは、他の方向へ進む。でもこの道ではなかったことに二十年前に気がついていたらそうしていたかもしれないという人があるかもしれない。もう人生の折り返し点をすぎてしまった今となっては手遅れである、と。本当に手遅れだろうか。この先、たしかにどれほど生きられるかわからない。しかし仮に後二十年生き延びれば同じことをいうかもしれないのである。二十年前に気がついていたら、と。気がついていた、なのに、方向転換をしなかったのである。 僕のことでいえば、二十歳代の頃は方向転換することを恐れた。今やっていることが有用かどうかはさしあたって今は成果としては見えないが必ず何かの形で結実するだろう、と思っていた。なのに道半ばで違う方に向いてしまった。実のところ、時々後悔する。粘り強く研究を重ね初志を貫徹した人たちを知っているからである。公募があるたびに三十回も書類を出したという哲学の教授のホームページを見たことがある。僕はそこまで努力をしなかったではないか。何度か挑戦したが、出さずに断念したことも何度かあった。研究の蓄積もこれからの見通しもないに等しいが、それならそれでこれからどうするかを考えていくしかないのであって過去を悔やんでも意味はない。前進あるのみ。
2002年11月05日
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今日は朝からカウンセリング。昨日もカウンセリングで明日も(学校が学校祭の振替休日なので休み)カウンセリングなのでしばらく続けて外に出ない日が続く。 もうずいぶん前になるのだが、松江で基礎講座の講師をしたことがあった。その時参加していた大学生の一人が「話をきいて思ったのですが、アドラー心理学って言葉によるスキンシップですね」といったのをよく覚えている。スキンシップは大事で、ないよりあったほうがいいのかもしれないがそのことの有無は育児に思われているほど大きな影響を及ぼさないと考えている。カウンセリングにこられるケースでは今さらそんなことをいわれても、というケースがほとんどなので親の勇気をくじくようなことを僕は今さらいわない。子どもを愛していない親はない。しかし、それだけでは十分ではないし、子どもの愛し方を知らないというケースは多い。男女関係でも同じである。 ちょうどこの日記を書いている時に来年の講演のテーマについての打ち合わせのメールが入った。メインタイトルは「性の知識に自信ありますか?」なのだが(これは主催者からの依頼)サブタイトルがほしいというメールである。では、「言葉のスキンシップから始めよう」はどうですか、とメールを送ったら即オーケーが出た。このタイトルでたくさん人が集まればいいのだが。 言葉では本当に大事なことは伝わらないという人がある。それはたしかにそのとおりなのかもしれないが、言葉によってしか何も伝わらないのではないか。問題は言葉は言葉であって、ものであれ概念であれ言葉はそれらを指し示すけれども言葉そのものではないということである。ほらあの月を見てごらんと月を指差した時に指を見ても意味がないように言葉そのものを見ても意味はない。言葉が指し示すものを見ないといけない。しかしそれを見ようと思ったら言葉を手がかりにするしかないのである。また、同じ言葉を聞いてもそこから喚起されるイメージは人によって違うので、同じ言葉でも同じ理解ができていないこともあることに注意しなければならない。
2002年11月04日
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ヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読んでいる。他のはかなり読んだのに読んだ記憶がない。10歳のシンクレールは不良少年のフランツ・クローマーとの関わりから話は始まる。彼や彼の仲間と関わっていることで息の詰まるような思いがする。父が彼らとの交際を禁止することがわかっているからではなく、フランツ自身を恐れているからである。シンクレールは自分が属している世界とフランスの世界が違うことを知っている。身なりやしつけが違い、自分が異分子であることを知っている。「私は黙っていたが、まさに黙っていることで目立ち、クローマーの怒りを自分に向けることになるのではないか、と恐れた」そこでシンクレールはありもしない泥棒の話を創作して話して聞かせる。にらまれたくないために作った心にもない嘘が不幸な事件を招く。その苦境からシンクレールを救うのが「デミアン」なのだが、この小説の最初の方のドイツ語は僕にはむずかしくて遅々として進まず、今ようやく話が進もうとしているところで早くも挫折しそうである。 読んでいてふと小学校の時のことを思い出した。クラスにいじめられている女の子がいた。ボス的な存在の同級生がいて、彼がにらみをきかせていたので彼に嫌われたくなければその子をいじめるしかなかった。もしもかばったり、あるいは、いじめに加担しなければお前はあいつに気があるんだろう、というようなことをいわれた。僕はどうしたのだろう。一緒になっていじめた記憶はないのだが都合よく忘れているのかもしれない。習字で使う墨を顔に塗るか飲ませるというような陰湿ないじめだった。お前はあいつに気があるんだろうというようなことをいわれたことは覚えている。でも、積極的にやめろといわなかったこともはっきり覚えている。黙ってると目立つというヘッセの小説の言葉を読んで忘れていた記憶が突如としてよみがえった。 ひとたびこんなふうにクラスが暴走を始めた時(担任の先生はこのことを知っていたのかは今となってはわからない)誰も止められないというところに問題がある。考えを異にすることが他者に何か実質的な迷惑、被害をもたらさないのであれば個々人の信条の自由として尊重されてしかるべきだが、この小学校の時のようなことがあった時は決して放置してはいけない。世の中の多くのことの多くは、歯止めをかけないといけない場面で誰もが手をこまねいて傍観し、本人の意志を尊重していいことについてはいわば人の課題であるのに土足で進入し妨害しているように思える。
2002年11月03日
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早くも十一月。今月は講演の仕事が多い。仕事がどれくらい入るか予想できないのでひどく忙しい時とそれほど忙しくない時がある。忙しい時はこんな自転車操業でいつまでもつのか不安になる。今日は桑名で講演。指定席を取ったが僕がすわるはずの席にすわっている人がいる。きっとまちがいだとは思うが、次の駅であり通路側でも困らないので黙ってそのまますわっている。ずっと眠っている人を起こしてあなたは通路側だというだけの気力はない。 今のマンションに引っ越してもう3年以上になるが、その前住んでいた家の前にある宗教の集会所があったことを思い出す。若い熱心な人たちが集まっていてその人たちのことについて否定的に見たことは一度もない。ただ困るというわけではないのだが、僕の家に布教にこられるのでどうしたものか考えないわけにはいかなかった。 僕が立てた方針は時間のある時は応対しようというものだった。何度か話した後、僕がいう言葉は決まっていた。「今の世の中で大事なことは考えを同じくしない人がいかに仲良くするかということだと思うのですがそう思われませんか?」この問いに対してそうだと答えた人は次の時からこられることはなかった。これはその頃の、そして今の大きなテーマである。 まじめな人たちではあるが、その頃、僕が朝晩保育園に子どもの送り迎えをしていることについてなぜ父親がそんなことをするのかとたずねられたらもうだめだった。その人たちには家庭での男性と女性の役割について明確な区別があったのである。人の課題に踏み込んでこられたと思った僕は「今の世の中で大事なこと」の問いを出すことになった。宗教であれ道徳的な信念であれ何を信じていてもいいが、人にその考えを強いる権利はないだろう。 今から思うと話を聞いてはいけなかったのかもしれない。きっと僕が入信するだろうという期待感を抱かせたかもしれないからである。僕としては理解することと賛成することは別問題なので、その人たちがこの世界の終わりに自分たちだけが救われると考える理由を知りたかった。しかし僕はその日がきても自分だけが救われようとは考えなかった。だからあなたの考え方はよく理解できるが賛成はできないといっていいと考えていた。しかしこの論理はどうも理解されていなかったようだ。ならば最初から話を聞くべきではなかったのかもしれない。そうすれば無用な摩擦は避けられただろう。 断わるのがいつも下手である。学生が質問してきた。僕が答えられないことは最初からわかっていて精神科医の知人を紹介してほしいという。質問内容は簡単ではなく理解しようと努めたが正確に理解できているか自信はない。質問内容をメールに書いて僕のところに送ることを提案したのだが、毎晩帰りが11時になるのでそんな余裕はない、と。僕だってそんな余裕はない。引き受けたから何とかしようと思うが断わるのはトレーニングがいるようだ。
2002年11月02日
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人の考えや気持ちがわからないといっているのではない。そもそもまったくわからなければコミュニケーションそのものが成り立たない。気をつけたいのは私はこの人をわかっているはずという思い込みである。本当にわかっているだろうかという反省があるだけでもずいぶん違うと思うのだが、往々にしてそんなことすら意識に登らない。私が考え感じるようにこの人も考え感じているに違いない。そのような思い込みのある人が日常的に近くにいると摩擦は避けられずトラブルは不断に起こる。 わからないのではなくわからないと思った方がわかろうとする努力をするのでかえって人を理解できるということもある。僕は外国語で書かれた本などを読む機会が多い。外国語で読む方がよくわかるなどとはもちろん決していえないが、翻訳で時間をかけずに通読する場合と、時には一行に何語も辞書を引きながら読む場合をくらべると時間も労力もかかるが原文を読むことは理解という面では大いに報われることはよくある。当該の外国語を母語としない限り、本当に理解するということは不可能なのかもしれないがまったく理解不可能というわけではない。大事なことはたえず読み間違っていないか点検することである。わかったつもりにならないことである。 他の人の承認がなかっても大丈夫と思えるようになりたい。勇気づけとて他の人を勇気づけることは必要だが他の誰からも勇気づけられることがなくてもこの私が私を勇気づけたい。そんなふうに思えれば他の人からの承認や評価があろうとなかろうと平気でいられるだろう。 佐藤愛子の『私の遺言』(新潮社)を少し。北海道にある家で不思議なポルターガイスト現象が起こったという話から、神霊世界の真実を伝えることを自分の使命とするに至った自分の生涯を振り返っている。こんな話は誰も信じないだろうと本人もいうような話ばかりで身近にこういう話をする人がいたとしたらどうつきあっていけばいいものかと思ってしまう。信じられないだろうが本当のことであるという前提で話が進むので反駁のしようもない。個人的には荒唐無稽と無碍に否定する立場ではないのだが、母が亡くなった後、この種の話を持ち出してきて受け容れることのない僕からついには離れていった人たちのことを思い出す。しかし偏見なしにこの佐藤の本は読んでみようと思っている。 今日から11月。今月は講演が多い。明治東洋医学院の講義は教育心理学の講義を終えたので朝早く行く必要がなくなり少し楽に。奈良女子大学は今月の半ばくらいからいよいよプラトンの『ソクラテスの弁明』の購読に入る。
2002年11月01日
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