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例年こんなに講義数は多くないのだが、突如として集中講義を依頼されたので四月当初は週に一度、一コマだったのが、やがて一日三コマ、七月になって週に三回出講し、一日に三コマ、四コマ講義をした。この他に講演もあったので例年になく忙しく疲れもしたが、喜んでくれる学生がいてよかった。 辻邦生の表現を借りると、何かと(人のこともあれば、学問のこともあれば、風景のこともある)「in love with」な状態、「恋仲のような状態」(辻邦生『言葉の箱』)にあれば、与えられた現実を超えることができる。生命感が高まり、喜びの感情、勇気の充実した感じを持つことができる。 数学を専攻している友人がこんなことをいっていたのを思い出した。数学の問題を考え始めると夢中になってはっと気がついたら三日三晩が過ぎている、と。 電車に乗っている時に今まさに日が沈もうとしていて空が赤く染まっていても見ている人はいなくて皆うつむいている。身体は疲れ果てていても、このような美しさに気づけるのとそうでないのとでは大きな違いがある。 ある時は目の前にいる人の顔に見とれる。どうしてこの人はこんなに美しいのか、と。 このような「自分の好きな世界」が、「ぼくたちの日常の退屈であったり、不幸なものに満ちていたりしても、モノトーンだったり、無感動だったりという現実を超えて存在して、現実に対して絶えずそれが力を与えてくれる」(辻)。「何かおもしろいことない?」と問われると驚いてしまう。おもしろいことは不断に見出すことができるから。
2002年07月31日
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大阪での講座の次の日は休みということが多かったのだが、集中講義の真っ最中で月曜もしっかり講義をした。昔精神科に勤務していた頃も当然月曜日は勤務だった。就職するときの条件として講演をすること(基礎講座も含む)、大学院の非常勤講師も続けるということが取り決められていたのだが、実際問題としては、当然のことながら本業に差し障りがあってはいけないわけで、何食わぬ顔をして出勤するのはなかなか大変なことだった。勤務最優先なので講演はあまりしていなかった。今は誰の顔色をうかがうこともなく講演や講義ができるのはありがたい。先週来講義がまとまってあるので少しきついが身体は疲れても充実感はある。 講義が終わってから学生が質問にくる。教室の外の廊下で呼び止めれることもあれば、講師の控室にいるときに学生からの呼び出しがあることもある。講義を聴いて友人のことで相談したいというような内容である。どのクラスも人数が多いのでなかなか学生の顔を覚えられないが、個別、あるいは少人数のグループと話をすると顔を覚えることができる。 夕方までもう一人の先生と僕だけが控室にいた。間があくのはしんどいですね、というような話。僕はずっと寝てますよ。4コマもあったら寝ないといけないですよ。その先生は僕とは違って机に向かってずっと勉強されている。僕は本を読もうと本を出しても、コンピュータを起動しても何もしないで寝てしまう。 辻邦生の『言葉の箱 小説を書くということ』(メタローグ)続き。 自分がいつもそこに身を置けば、どんなに宇宙が崩れようと、平気だ、と思える、また、そこに身を置けば、楽しく、いきいきとしていられる「生命のシンボル」を発見し、それを伝えたいといっている。それは、その人の生きる根源の力、ひとつの信念、確信となっている。 はたして僕にとっての「生命のシンボル」は何か。 僕にとっては哲学であり、心理学であり、愛する人の交わりである。 辻はさらにこんなことをいっている。 人生は一度きりである。だから、「あしたもあればあさってもあれば、きのうもあって、きょうなんてどうでもいいや、ではダメなんです」今のこの世界からしか生命のシンブルはつかめないし、本当の創造力も生まれてこない。「これは肝に銘じて、ほかのことは忘れてもいいから、あなた方の生きているという大事さを、今夜寝るときに一人でよく考えてください」 よく考えながら寝よう…
2002年07月30日
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土曜日、日曜日と大阪でアドラー心理学の基礎講座。二日で十二時間というのはいつものことながらかなりハードだが、聴いてくださっている人がどう思われているか気になるところだが、二日目には一日目の話と関連づけていくことができ終わりに近づくにつれて理解が集大成されていくように工夫している。ただしこれは僕一人の力ではできない。グループの力のようなものが働いて、質疑応答を通じて理解を積み重ねていくプロセスの中で少しずついろいろなことが見えてくる。時に僕自身も見えてなかったことがあって、話をしているある瞬間にふいにわかることがある。今回もそんなことが何度かあった。 人が考えていることはわからないと思ってつきあう方が安全だという話をした。ここの日記でもN子ちゃんの話の中で書いたように、親しくしていてもわからないことは多々ある。相手に自分のことをわかってもらいたいと思う一方で、わかっているといわれたら、どうわかっているの、といいたくなることはある。 そんなことを考え、またいつもいっているのだが…時々いろんなことがわかりすぎるというか、見えすぎて、そのことでつらい思いをすることがある。カウンセリングでない場面で人の心を読むことは失礼なので、プライベートでは極力読まないようにしているが、わかる時はわかってしまう。わからないことを前提に「なぜ~なの?」とたずねてみても、答えを聞くまでもなくわかってしまうことがある。オィディプス王ではないが、知ることが少しも幸せでないと感じられることがある。 今週は集中講義は火曜日で終わる。なんとか水曜日まで持ちこたえたい。
2002年07月29日
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大阪で基礎講座。学校の講義とは違って聴きたい人が集まる講座なので質問が(しかも鋭い質問が)飛び交うので、そんなふうには見えないかもしれないがかなりの緊張が強いられる。口もきけないくらい疲れる。しかし貢献感があってもっとも楽しい仕事の一つである。 今日は勇気づけと上手な自己主張についてレクチャー。今回は後半なので前半の講師がしっかり講義された後なのでやりやすい。勇気付けが伝統的な育児、教育とどこが違い、どういうことなのかを具体的な実例を多数交えて説明。後半は、感情的にならずとも感情を使う目的さえわかればそれに代わる方法を用いればやがて感情を使わないですむようになるという話。 わかるというよりは率直に疑問点を提示してもらえるのがありがたい。最近の集中講義の90分モードが頭にあるものだから、休憩を入れる回数が少なかった。 求めて学びにくる人たちばかりなので研修会などで経験するような反発はあまりなくて議論にはなるが雰囲気はきわめて友好的である。しかし、とある人が質問されたのが、「現実」の世界はこんなものではなくて、敵がいて競争がある社会である、としたらわれわれが子どもたちと接する時に競争から離れたところで接し、叱ったりほめたりしないことは子どもたちにどんな影響を及ぼすのか、と。 協力ということを最終的に子どもたちに学んでほしいのだが、協力をしっている子どもたちは必要があれば競争するだろう、しかし、逆は真ならず、である。競争はしても自分のことにしか関心がない子どもでは困る。 このグループの中では安心感があって(初めからそうだったわけではないだろうが)、外の世界ではそうではないとしたら、ひょっとしたらこのグループの方が、その中で感じられるこの感覚があるが故に「現実」かもしれないという話をした。 講座では具体的にどんなふうにするかを学ぶ。先週も木曜日に新大阪駅でこんなアナウンスを耳にした。他の音にまぎれて全部を正確に聞けなかったのでまちがっているかもしれないのだが、なんでも今社会を明るくする運動をしている、ついては「社会が明るくなるようにご協力をお願いします」というアナウンスだった。どうすればいいの? どうすることが社会を明るくすることがをいわなければ無内容のメッセージである。 同様に、子どもに寄りそってあげてくださいというようなことも実は内容がないスローガンでしかすぎない。僕はいつも可能な限り具体的な話になるよう努めているつもりなのだが、はたして聴講生はどう受け取ったことか。 今日も六時間講義。
2002年07月28日
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集中講義は後二日、月曜と火曜を残すのみ。早くも金曜で八月分を終え、次は九月というクラスもある。二つ目の講義を終えて学生と話をしていたら一つ目の講義の学生たちが、先生帰らないのですか、と声をかけてくれた。残念ながら夜間のクラスが残っていた。もう今日で終わりなので次会えるのは九月ですね、といったのだが、学校にまだくるので来週まだ顔を合わせるかもしれないのにもう当分の間会えないかのような錯覚をしてしまった。 レインの自伝の続き。チェロ奏者のジャクリーヌ・デュプレに言及する個所を見つけた(デュプレについては『風のジャクリーヌ』を参照)。多発性硬化症によって両腕の共同作用能力を永久に失ったように見えたのに、ある朝目覚めたら奇跡的にも両腕とも使えることに気づいた。この一時的回復は四日続き、その間に何曲か記念すべき録音演奏をやり遂げた。長くチェロの練習をしていなかったにもかかわらずである。 辻邦生の『言葉の箱 小説を書くということ』(メタローグ)。もう新刊はないかとあきらめていたのでうれしい。「小説の魅力」と題する講演をまとめたもの。アテネに行った時、パルテノン神殿をアクロポリスの丘の下から見た瞬間、reveration啓示の光が胸を貫いたという話は初めて読んだのではないが、講演でも言及されていて辻の原点となる神秘体験だったようである。 今日、明日は大阪でアドラー心理学の基礎講座。長時間の講義になる。
2002年07月27日
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向田が飛行機事故で亡くなって久しい。今回出版された『向田邦子の恋文』(向田和子、新潮社)はカメラマンN氏への向田の手紙とN氏の日記、及び妹の向田和子のエッセイが収められている。 当時、向田は三十四、五歳。手紙は脳卒中で倒れ療養中だったN氏に宛てられている。N氏は後に亡くなる。この二人の恋愛については、先に『向田邦子をめぐる17の物語』(KKベストセラーズ)の中で語られているのを読んだことがある。「妹として」という題の、作家を兄、姉として持つ吉行和子と向田和子の対談の中で、N氏(対談の中ではこの名は使われていない)が亡くなった時のことを向田和子が語っている。「ある時私が隣の部屋で寝ていて、トイレに行こうと思って姉の部屋の襖を開きかけた。すると姉がヘナーッと座っているのが見えた。整理ダンスに何かをしまおうとしていたのだろうが、途中で放心状態になっていた。でも、「どうしたの?」と声をかけることができず、その後ずっと私の心の中に仕舞い込んでいた」 半分ほど引いた抽斗に手を突っ込んでいたという。 この時の真相は後に明らかになり、『向田邦子の恋文』の中にさらに詳細に語られている。手紙に見る姉について妹はこのようにいっている。「姉がありのままの自分をさらけ出している。甘えたり、ちょっぴり拗ねてみせたり、愚痴をこぼしたり。そして姉らしい、細やかな心遣いとユーモアがある」 二人は一緒になることはなかったが、秘密を共有し、人生のよきパートナーとして、互いを頼りにし、寄り添いあって、ある時期を生きた。向田は病のN氏のもとに多忙なスケジュールの合間をぬって通った。「邦子は一途だった。ほかに心を動かすことはなかった。それが、向田邦子という人だ」 後に飛行機事故にあった時、向田は亡くなったN氏くらいの年齢になっていた。機体の異常を感じた時、向田はN氏のことを思っただろうか。きっと思ったであろう。とすれば向田にとって死は恐ろしいものではなかったかもしれない。
2002年07月26日
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父とは離れて住んでいるので時々どうしているか心配になる。時々というのがたぶん僕の親への気持ちが冷たいといわれる(いや、別に誰もいっているわけでもなく自分が思っている)ところなのだが、声を聞いたり会ったりするとその前に会った時よりも元気がなかったりするとたちまち心配になってしまう。それと同時に僕と父の間にはある(ここには書けないが)確執があって、近くなるとそれが浮上してしてきて心がざわつくものだからやはり距離を置こうかと思ってしまう。 父の病気のことは昨日書いたが、とにもかくにもなんとか元気でいてくれることはありがたいことだ。父は若い頃から僕とは違って趣味が多彩である。本はあまり読まない。読むけれど僕の関心のあるジャンルの本は一冊も持っていなかった。読書は趣味とはいえないのかもしれないのだが、本は読まなくても父には趣味がたくさんあって、僕が想像しているよりは一人で時間を過ごせるようである。 影響を受けたのは音楽。クラシック音楽が好きでSP盤のレコードをたくさん持っていたのを覚えている。肝臓を悪くして家で養生していた時も枕元にラジカセを置いてずっと音楽を聴いていた。 それくらいか…美術館に行くのは好きなようで、今も京都を離れて長く住んでいた横浜時代にあちらこちらの美術館や博物館を訪ねた話をしてくれる。僕も好きなのだがもう長く行ってない。海外に行ったら別なのだが。 僕にはおよそ縁がないのはスキー。若い頃のアルバムを見ると、スキー場で撮った写真がたくさんある。どれくらい滑れるの、とたずねたら、曖昧な答しか返ってこなかった記憶があるが、父は若い頃ハンサムで(これも残念だが受け継がなかった?)決めのポーズで撮った写真があって笑ってしまう。母は「面食い」だったらしくてそんな父に惹かれたという話を聞いて笑ってしまった覚えがある。 写真。わけのわからない(失礼)写真がたくさんアルバムに貼ってあって驚いたことがある。風景写真もあったし、誰か(僕ではない)子どもの写真もあった。 ひょっとしたら僕よりも人生を楽しめているのかもしれない。母を亡くしてしばらくは生きていく気力も失せてしまったようで見るのもあわれだったが、一年ほど結婚した僕と同居した後、突如として横浜に行くと宣言して出ていったあの頃から力が漲ってきたのだと思う。その後、横浜ではつらいことも多々あったようだが。ようやく最近、そんな話もしてくれるようになった。 さて、今日は大学。後、休みまで今日を入れて二回。次は十月からなので暑いけれど頑張らねば。
2002年07月25日
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休みなので朝方まで起きてそれから目覚ましもかけずに寝てしまったら昼近くになってしまった。それでも電話が何本かかかってきたので起きて(たぶん)対応した。 父から電話。このところ熱があって調子がよくないという話は聞いていたのだが、元気そうだった。なんでもすぐに息切れがして歩けないのだという。前から心臓を患っているのだが、受診すると心臓ではない肺の病気だといわれたという。治療のしようがないし、薬もないといわれたが、いくらなんでもそんないいかたはないのではないか、と父は憤慨していた。たしかに調べると「一度壊れてしまった肺胞は元に戻すことができない」というようなことは書いてあるが、このあたり言い方を工夫しなければいたずらに恐怖心だけを募らせることになるだろう、と思った。父だけが特に過敏だとは思わない。癌だとはいわれなくてよかったというが、一度は可能性の一つとしていわれたようでおそらく医師のほうがよほど共感能力のない人なのだろう。真実を伝えないことがいいわけではもちろんなくて元には戻らないのに完治するというようなことをいうのは虚偽である。しかし事実を伝えた上で、これ以上悪くならないためにどうするか、とか、対処療法であっても痛みを軽減する薬について説明するというようなことがあってもよかったのではないか、と思う(その後別の医師の診察を受け、薬をだしてもらったようだ)。 今週の初め試験を実施したのだが答案が到着しなくて心配していた。電話をかければよかったのだが僕の方もずっと集中の講義ではたせないでいたところ今日答案が届いた。普通郵便だったことには驚いた。日本の郵便システムはかなり信頼できるとはいえ、マンションのポストに入ってからどうなるかわからないと思うのだが。採点の締切りがあさってなっているが…今度こそ電話をしないといけない。 答案を少し見たら、三問から選択してもらったのだが、この問題は私のことが書いてあるので驚いたという答案が何枚もあって驚いた。 男女共同参画会議の委員に選ばれたことは前に書いたが、来週初めての会議がある。今日その案内が届き驚いた。「○○市役所において、環境マネジメントシステムの実践として、適性冷房運転を実施しており、当日は軽装(ノーネクタイ)で出席していただきますよう併せてお願いします」適性冷房運転については問題はないが、服装まで指定される(推奨ということだが)のは驚いた。ネクタイをしていったら会議室に入れない? ネクタイをするしないはあまり暑い、暑くないということには関係ないのだが… 今日は驚いてばかりだ。
2002年07月24日
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九時二十分からの講義なので六時半に出た。こんなに早く出なくても間に合うのだが、可能ならすわりたいからである。早く起きねばと思うと夜思う時間に眠れず、しかも朝早く目覚めてしまう。電車の中では当然その分寝ることになるが、次の駅で降りることがわかっていても寝てしまう。今日は時間があったので梅田でコーヒーを飲む時間があった。 朝、出かける時急いでいて走り出した途端、鞄の紐がはずれて落としてしまった。階段三段分転げ落ちた。コンピュータさえ中に入ってなければただ拾えばよかったのだが、学校にきて起動するまでは心配でならなかった。 講師の控室ではコーヒーを自由に飲めるようになっているが、コーヒーがセットしてなければ飲めない。これまでの経験では午後になると飲めるが、昨日はとうとう一日中飲めなかった。こんなことも主張すればいいのだろうが遠慮してしまう。昨日は医療倫理の先生と話す機会があったが、今日は病理学と教育学演習の先生と話すことができた。専門の違う先生と話すと学ぶことが多い。 精神科医のレイン(R.D.Laing)の自伝を読んでいる(『レイン わが半生』岩波書店)。親が体罰を加える話が書いてあった。鞭打ちのお仕置きである。「打たれている間に心にうかんだ慰めになる考えは、「これを忘れてなるものか」ということだった」 罰は適切な行動を教えない。ただこの行為は罰の対象になるということを学ぶだけで、ではどうすればいいかということを教えない。 娘は今日歯医者に行くことになっている。昨日帰ってから気になって確かめたら知っているという返事。僕がいなかったらこわいといって泣いたりしないのかもしれない。
2002年07月23日
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『エミリーへの手紙』読了。祖父の残したメールを読むためのパスワード解きは別になくてもいいのでは、もっといえば、周辺のストーリーの出来はあまりよくない。本のタイトルになっている肝心のエミリーは後半ほとんど登場しない(それがなぜかは物語の筋を追っていけばわかるのだが)。未読の方のために詳細にはストーリーはここでは書かない。 それでも祖父ハリーのメールはおもしろく、若い日の妻キャサリンとの出会いや暮らしに触れるエピソードは印象的である。ハリーがエミリーに語る言葉をいくつか引くと…「いつも最善を尽くしてください。それ以上のことはありません。一日の終わりに鏡に映った自分を見て、今日は精いっぱいのことをしたと思えたら、その先もきっと満足のいく人生を歩めます」 最善というより、できる限りの最善、といったほうがいいかもしれない。一日の終わりにできる限りの最善のことをしたと思いたい。できないこともあったかもしれないが、そのことに注目して自分を責めるない。明日しなければならないことが多いことを思って不安に押し潰されないでいたい。「私には君の代わりに(人生の)目的地を選んであげることも、方針を決めてあげることもできません。できるものならしてあげたいけれど、それは君自身でしなければね。でも、自分のものであれば―自分で決めた指針であれば―それは頑丈でゆるぎのない錨となることでしょう」 相談を受けてもいつも基本的にはハリーのいうように代わりに決めることはできない。決めるのを援助することができるだけである。 今日は昼から明治東洋医学院で講義。七回目の臨床心理学と初回の臨床心理学を二クラス。講義の後、質問をたくさん受ける。「先生おもしろかったわ。初めて最後まで寝ないで授業を受けることができました」といわれるとうれしい。
2002年07月22日
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本を切れ切れにしか読めずにこの一週間過ごした。日曜の朝、眠れなくて『エミリーへの手紙』(キャムロン・ライト、NHK出版)を半分ほど読む。ハリーが遺した詩集の中に孫のエミリーへ宛てられたメールを読むためのパスワードが隠されていた。話はここに至るまでやや冗長に展開し、十一章でようやく(全部で二十一章)ハリーの書いたメールを読むことができる。メールの中のハリーは、晩年の奇行があり正気を失いつつあった気難しい老人というイメージを一掃する。「君はまだ小さい。私のような老人に教わることなどあるものかと思うかもしれません。私だって、そう思います。すべての答えを知っているわけじゃない。今になって、やっと、いろいろな問題に答えを出そうと努力しているくらいだから。ただ、君には私よりいい人生を歩いてもらいたい。私の犯した過ちからなにかを学んでもらいたい。私の楽しかったときからも、あまり楽しくなかったときからも、なにかを学んでもらいたいのです」 十二章のハリーとキャサリン(エミリーの祖母)との出会いの話は生きることの喜びを伝える。「愛についてだれかに質問してごらん。たいていの人がこう言うはずです。―分かち合って、愛情を注ぎ合って、見返りを求めず、お互いの犠牲となれる人生を送って初めて、満開の愛を味わえるのだ、と」 見返りを求めている自分に気づく… この後話がどう展開するかわからない。
2002年07月21日
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津市の藤水小学校で講演(保護者と教職員の語る会)。挨拶に立たれた校長先生は一日のうちで一番眠い時間に講演があたったといわれるので、いやいや誰も寝ない講演をしようと思わず力が入ってしまったが、講演を始めるとすぐにそんな心配をする必要がないことがわかった。熱心に聴いてもらっているのがわかったからである。途中一度休憩をはさんで三時間講演をした。保護者向けの講演会に何人か先生が交じって聴くということはあっても、親と教師が同席しての講演はあまりこれまでなかったと思う。実は非常に講演しにくいのだが、そんなふうに感じることはなかった。 ちょうどこの日から学校は夏休みに入った。夏休み関係の話題をたくさん出してみた。子どもたちは休みに入るので普段ほどは勉強について口やかましくいわなくてもいい時期なので講演のタイミングはよかったと思う。ただ子どもたちが通知表を持って帰る日でもあるから、なんとかこの日を乗り切ってもらうべく通知表関連の話をいくつかしてみた。 別のところで書いたのだが、娘が一学期の成績表を見せてくれなかったことがある。息子は帰るなり持ってきたのだが、娘は持ってこなかったのでそれっきりになってしまった。夏が終わってからのある日僕は息子とこんな話をした。「(娘の)成績表を見なかったんだ…」「どうして?」「見せてくれなかったから」「あのな、お前それでも親か」 誰の課題かということを考えた時、親は子どもの課題である勉強にかかわらないでいいという話をしたら、一様に残念そうな表情をされるので、こんなふうになることを勧めているわけではないということは伝えてみた。勉強は子どもの課題だから通知表を親が見なければならないというわけではないが、通知表をもらってきたのを知っているのに声をかけないというのは不自然なコミュニケーションではある。 髪型を変えたのに気づいてもらえないという相談をよく受けるが、他の人に気づいてもらうことを期待してはいけないとはたしかに思うが、なぜ気づいてくれないと不満に感じて黙っているくらいなら、髪の毛切ったの、といっていけない理由はないだろう。 質問もたくさん受けた。講演の後、講演の担当の先生がバスの時刻を気にされているのがわかったので、時刻表持ってますから、というと、校長先生が津駅まで送りますから、と車で送ってもらえた。ありがたかった。
2002年07月20日
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木曜は大学の講義だけだったので(先週は夜、研修だった)それほど体力を使わなかったはずなのに夜思いがけず早い時間に寝てしまった。そのまま朝まで寝るということにならないのが問題なのだが。 ギリシア語は今の時点で六人。一人の学生が思いつめた表情で、今年は他の勉強が忙しくて続けられない、来年受けなおしたいといいにきた(先週のことだが)。これまで皆出席でかつよく読めたので翻意を試みたが決心は固かった。予習に相当時間がかかることはよくわかるのでそれ以上強く勧めることはできなかった。 しばらくきてなかった学生がいて気になっていたが、その学生は単位互換の制度を利用して京大でもギリシア語を受講しているということを初めて聞いた。テキストは同じで、ただし京大の方は僕が教えている奈良女とは違って週4時間コース。つまりギリシア語が週に二コマある。僕たちが一度に4課進んでいるのに対して、そちらでは一度に3課だが週に二回あるのではるかに先まで進んでいる。教えている先生は僕と大学院の同期の友人で、もう長らく会ってないので懐かしかったが、同じ教科書で違う教師から学んでいる学生がどんな印象を持っているかが気にはかかるところである。 煩瑣な動詞の活用などがあってなかなか思うように読み解けないギリシア文が多いのだがどんなふうに読んでいけばいいのかということを丹念に説明している。僕自身は読み解いていく作業はおもしろいのだが、はたして学生たちはどう思っているかどうか。これまで教えてきた哲学や心理学の講義などとくらべてきわめて禁欲的な(という表現が適当かわからないが)地味な講義なので時にギリシア語を離れて議論をしてみたいと思うことがないわけではない。 ギリシア語は試験はしないが(学生が少ないので毎時間試験をしているのと事実上同じ)まだ後二回ある。暑くさえなければと思わないわけにはいかない。クーラーのない部屋もあるようなので、効きのあまりよくないクーラーとはいえあることはあるのでよしとしなければならない。学生の一人が、私が男だったら背広に憧れます、ああ、暑い暑い、といいってネクタイを緩めてみたい、と笑うのだが、一度代わってみたらいい、暑い!
2002年07月19日
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今月はこれからいよいよ忙しくなる。今日は先週までの高校の看護科での講義がなくなったのでぽっかりと休みの一日となった。はっきりしない天気だったがにわかに雷と共に大雨になり、外に干した洗濯物を急いで取り入れた。買ったり図書館で借りたたくさんの本が読み止しになっている。本を最後まで読み通すコツは敢えておもしろいところで読み止すことだと誰かが書いていたが、たくさんの本についてこれをすると読みたい気持ちが募り精神衛生上あまりよくないようにも思う。 仕事の合間に読む本としては長篇小説は向かない。ついのめりこんでしまうからである(そんな本になかなか出会わないけれども)。この間から読み進めている池澤夏樹の『むくどり通信 雄飛篇』『むくどり通信 雌伏篇』(朝日文庫)は併せて1,000ページあるが、どこから読んでもいいので、書くのに行き詰まったらぱっと読む。適当に開いて読んでいるうちに、雄飛篇の方は読み終えてしまった。ただし考えこむこともある。 例えば…ヤマト運輸の配達のトラックは停車中はエンジンを停止することにしたと書いてある。もともとは盗難防止のためだったのだが環境保全の意義もこめようということになった。このエッセイは1997年に書かれたものだから今は他の会社でも同じようにしているかもしれない。池澤はいう。「これを徹底するために、キーは運転者のズボンに紐で結ぶことになっている。キーを抜くかズボンを脱がないかぎり車から離れられない。世の中を変えるのは個人の努力や思いやりではなく、習慣であり制度であるというのはこういうことだ」 なるほど、と思う一方で、習慣にしていいこととしてはいけないことがあるかもしれない。電車の中で自分がすわっている前に老人が立てば考えないで立って席を譲る。これは習慣にしてもいいかもしれない。怒られたら(嫌がる人はある、僕の父もその一人らしいが)すわり続ければいい。他方、挨拶は習慣にしない方がいい。習慣で挨拶をされても少しもうれしくはないからである。挨拶は心をこめてしたい…等々考え始めると、はっと気がついたらずいぶんと時間が経ってしまっている。 娘が二時半頃に帰ってきた。前の晩に歯医者に行くといっていたことを覚えているかと思ってたずねたら覚えていて行くという。じゃ、これから電話をしてみるから、予約制になっているからひょっとしたら今日は空いてないかもしれないけれど、といってみたものの、自分から行くといいだしたこのチャンスを逃すわけにはいかないという気持ちがなかったとはいえない。 電話をすると、もし痛みがなければ、明日の五時といわれたので、今日のところは治療してもらわなくてもみてもらうだけでもというわけにはいかないでしょうか、と頼んでみたら、待ってもらうことになるかもしれませんがそれでは、と四時に予約をいれてもらえた。ところが四時になる前に寝てしまった。時間になったので起こしたのだが…やだ~行きたくない~といい、涙がポロポロとこぼれた。ズボンが見る見るうちに涙で濡れる。 ティッシュを渡した。予約を入れているのに(しかも無理に入れてもらったのに困るという思いはあった)どうしようと思っていたら、しばらくすると、すくっとたちあがり歯を磨きに行った。無事、診察を受けることができた。 やさしい先生で説明もよくわかった、と好評だった。「前に行ったN先生は痛かったら(処置を)止めるといったのにやめなかった。めちゃむかついた。でも今日の先生はそんなことはなかった。そんなことされたらもう終わってたね」 治療はすぐに終わった(応急処置だけ、後、写真を撮った)。次回は麻酔を打たせてもらいます、という説明を僕にも先生は繰り反す。それを聞いて、帰ろうとしていた娘の顔がひきつった。それを見た受付にいた衛生士さんが今から泣かなくていいから、といったが、おやそれでは次の治療の時は泣くことになるといっているようなものだ、と思った。今日は僕がいたのでついていったが、次回からは友達がついてきてくれるらしい。一人で行くといわないところが娘らしいが、僕についてきてくれといわなかったので、今度からは一人で行ってね、という必要はなかった。さて、これから何度通うことになるのやら。
2002年07月18日
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朝、雨が強くなってきたのでいつもと違うルートで学校に行くことにした。9時20分という早い時間に行くのも初めてでできるならすわれれないかと考え、JRと阪急を併用することにした。京都駅から新快速ではなく普通で行くとすわれたが時間はかなりかかった。早く着くのをとるか、すわれるほうをとるかという決断を迫られた(おおげさ)。 朝方、息子が部屋にきてレポートの校正を頼むといいにいくる。提出が一日遅れたようだ。それほど長いものではなかったが細かいところまで目を通して朱を入れた。こんなことをしているうちに夜が明けた。 講義はこのHPでも取り上げた韓国で体罰が公認されるという話から始めた。体罰を加えるにあたって生徒の人権と権益を保護するための規定も設けられたとのことだが、そもそも体罰を加えることは生徒の人権に反するという話の流れで、友人に教えてもらったこんな話を取り上げた。 ある保育所で乳児がオムツ替えを嫌がるから、無理矢理替えては「人権」にかかわる、と一日に二回ほどしか替えないという。これこそ人権問題ではないか、と思うのだが、この言葉を出すことで、本来、保育士が果たすべき責任を見失ってしまっている。オムツ替えはデートに匹敵するような楽しいことであり、とっておきの楽しい時間であるというふうに考えないのだろうか。友人の表現を借りるとそんなふうには思わないで、むずかる子どもの足首をきつくつかんで動くな、と睨んだのかもしれない。モビールとか何かに気をそらせている間にオムツを替えようとしたのかもしれない。子どもに話しかけながら見つめあって(ほら、デートみたいだ)替えたことがないのかもしれない(僕はここでちょっと妙な連想をしてしまって恥ずかしかった)。そういう努力(苦痛ではない共に時間を過ごす喜びとしての努力)をすることなく「人権」という言葉を切り札に二回ほどしか変えないというのはおかしい。 行きすぎても(体罰)何もしないのも子どもの人権問題になってしまう。行きすぎても、という表現は適切ではない。そもそも体罰そのものが問題なので適度な体罰はないからである。 学校からの帰り、喜んでもらえるかと思って動いたことがうまくいかなくて少し落ち込んでしまった。人に期待するところがまだ抜けきらなくていけない。
2002年07月17日
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今日から明治東洋医学院専門学校で新しい講義を始める。新しいといっても、教育心理学のIを二週間前に終え、引き続き、IIを開講するのだが。学校から電話がかかってきた。明日からですのでよろしく、と。台風はどうでしょうね、と聞いたら七時に大阪に警報が出ていたら休校になりますが、その頃には通過していますから、ときっぱり明るい口調で。そういえば去年ロンドンから帰ってきた日、関西空港で携帯電話の電源をオンにしたらすぐさま学校から電話がかかってきた。ご無事で何よりです、明日からよろしくお願いします、とやはり明るい声で。その夜ニューヨークでテロが起きたがもちろんそんなことは関係なく時差でぼんやりしたまま講義をした。 前に住んでいた家は川のすぐ近くなので台風が近づくと浸水の心配をしなければならなかった。雨脚が強くなると川に行って増水の様子を見に行った。いつもなぜか浸水するのは深夜なので不安は増す。しかし不安であろうとなかろうと浸水する時は浸水するししない時はしない。浸水するとどうなるか、その後、どんな処置をしないといけないかさえわかっていたら不安になる必要はない。不安になっても意味がない。不安になって台風の進路を変えられるわけでもない。アドラーなら不安という感情を創り出すというふうにいうが、そうすることの目的は、今本当にしないといけないことをしないためである。雨風が強まりいよいよ浸水しそうだとわかったら不安になっていてはいけない。荷物を濡れないところに運び上げるしかない。 身体を壊して精密検査を受けたことがある。胃カメラを飲むのが一番大変だった。なにしろ初めてだったのでどんなものか見当もつかないのに恐かった。保健婦さんに胃カメラのことを聞く機会があった。するとその人はいった。「思っているよりは苦しいけれど、思っているほどは苦しくない」この謎の言葉を聞いて覚悟ができた。もうずいぶん前のことなので間違って覚えているかもしれないが、胃に到達するまでに三箇所痛いと教えてもらった。ひょっとしたらベテランの医師であれば苦痛は少ないのかもしれないが(個人差があると聞いたことがある)全然痛くないといえば嘘になる。しかし終始痛いわけではないらしいと知っているのとそうでないのとでは検査を受ける時の気構えが変わってくる。いたずらに恐れず事態を受け入れよう。それまでに必要なことがあればしておこう。それまでは不安におののくことなく人生を楽しもう。きっと死ぬことだって同じことなのだろう… 前の家に住んでいたら今頃心配でたまらなかったのに何も気にならない。しかし前の家は今もそのままあるわけだから浸水しては困るのだがこの落ち着きは川の増水を見ていないからである。そもそもまだ雨は降ってないのだが。
2002年07月16日
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「何時まで起きてる?」と息子が部屋にやってきてたずねる。今日締切りのレポートがあるようだ。しばらく前から本を読んでいるのを知っている。僕のところにも本を借りにきたからである。もっとも必ずしも彼が望む本を持っているわけではないのだが、渡したけれども関心を示さないので読まないかと思っていた本を読んでいて意外な思いがした。夕方に「心身二元論と現代医学についてはどこに書いてある?」と今からだととても全部を読むことはできない本を持ってきていた。「後一時間は起きていると思うけどね」「確実に夜が明けると思うけど、(レポートの)校正が終わるまでは君寝られないからね」 一瞬迷った。土曜、日曜仕事があってかなり疲れていて今日も代休というわけでもないから。それでも僕が依頼を受けたのは思いがけずも息子のレポートを読めるから、ここは一つ眠たさを堪えて待つことにした。 試験の採点の結果を火曜日の講義の時に持っていかなければならない。全般によくできていて不可をつける必要はないが、成績をつけることには責任が伴うので最後の最後まで迷ってしまう。これは今日の憂鬱材料。 土曜、日曜のセミナーの二日目、分科会の後の全体会で、「宇宙でただ一回限りのおはよう」という話をしたら泣く人があってどぎまぎしてしまった。あいさつは習慣にしてはいけない。今日会う人は昨日も会った人でおそらくは明日も会えるかもしれないが、この人と私が今ここで「おはよう」といえるのは最初で最後である。そんな感動と共に挨拶をしたいし、そんなふうに思って子どもと会った時その子どもが昨日とは違う新しい子どもであることがわかるだろう。なのに、またこの子どもに会うのだ、この子どもは~な子どもだ(この「~」にはいろいな言葉を当てはめることができる)と思って会うと、その子どもについて何か重要なことを見逃すことになるかもしれない。土曜、日曜と研修を受けた保育士さんたちが今日、保育園で子どもたちに違った感じで会えてたらいいな、と思う。
2002年07月15日
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保育創造セミナーに参加。一日目は全体会で三十分だけの講演だったのでエネルギーをもてあましぎみ。二日目の分科会に出る人にはゆっくり話ができるのだが、三十分でどれだけのことが伝わったか。後になって思えば思うほどいい落としたことばかり思い出されていけない。 講師の一人の樋口正春先生の話の中で僕の興味を引いたことをいくつか(かっこ内は僕のコメント)。・大人(保育士)と子どもが普通に話せるということ。「さあ、今から散歩に行きたいと思います」と突然「先生言葉」を使わない(カウンセリングでも同じで、カウンセリングだからといって突如普段の言葉使いとは違ったふうに話すのはおかしいだろう) 「先生」ではなく、「私」が子どもとどう向き合っていくか、「先生」という鎧兜を脱ぐ(家庭でも「親」という仮面persona>personを脱ぎたい)・子どもを落ち着かせる保育士と、興奮させる保育士がいる。「~君」「…はい」「元気ないね、大きな声でっ!」このような対応は子どもを情緒不安定にさせる(かどうかはわからないけど…)・自宅ではサッカーに夢中になっていうのに、保育園ではそれとはまったくかけ離れた例えばお絵描きをするのはおかしい。生活からかけ離れた保育ではいけない(準備してしまうと子どもと過ごす時間が死んでしまう。朝になって子どもの顔を見てからでないとその日何をするか決められないということはあるだろう。今回、高山智津子先生の話を初めて聞く機会があったが、その場でふと思いついた話をされる。一生懸命ノートをとっていた保育士たちがペンを止めて話に聞き入るのが印象的だった) 夜は食事の後、フォークロアの演奏。その後は…大変。大声で話し続けたので声が出ない。分科会での講演が残っているのにいささか心配である。
2002年07月14日
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今日はこれから仕事。京都の宇治で保育創造セミナーという催しがあって、今日、明日講演をする(講師の一人)。今年は旅館を貸しきってあるらしく不安。「夜が盛りあがる」などと案内には書いてあるが、そういうのはすこぶる苦手。夜はいつものことながら眠れないので、他の先生と相部屋だったりしたらどうしよう、と不安。不安といえば集合時間を聞いてなかったことに気がついた。たまたまスタッフの一人からメールが別件で届いたので、ところで今日は何時にいけばいいのかたずねたら、すぐに電話があって一時であることがわかった。三時からなのに。メールをしなければよかったかも。そのかわり、重要な情報を得られなかったことになるが。場所わかりますか、とたずねられたので、地図ありますから大丈夫です、といったら15分かかり暑いですからタクシーで、といわれたのである。早く教えて…待っていてはいけない。不審な点があればこちらから問わないといけない。何度かの苦い経験を経てやっと学んだ。 一日目は全体会で講演、二日目は分科会ということになっている。分科会では(僕のところに集まる人がいればいいのだが)質疑応答を中心に具体的な事例を取り上げながら子どもとのかかわりなどについて考察してみようと思っている。 コンピュータも持っていくのでたいへん。電源アダプター、モデムカード、ケーブル…出発時間を早めることになったので大変。ウィーンに行った時にアダプターを持っていくのを忘れ、ただの重い箱になったことを思い出した。
2002年07月13日
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木曜は大学の講義と研修会。疲れて帰ってきたのに眠れない。 奈良女子大学にきてから何年になりますか、と学生にたずねられた。もう十二年になります、と答えたのだが、我ながらもうそんなにたったのかと驚いてしまう。その間に小学校に入学した子どもであれば高校を卒業してしまうわけである。息子は今高校一年生だから、保育園の頃に大学に通い始めたことになる。僕を呼んでくださった先生はもう退官されたので僕を知っている先生はもう大学には誰もいない。出席のハンコを押すために行く講師の控え室と演習室を往復するだけで、もう何年も大学の先生とは会ってない。 学生は年によって、今年のように多いこともあれば、一人だった年もあった。一人だからといって仲良くなるというわけではなく、ただひたすらギリシア語を日本語になおし、必要があれば僕が訂正し必要な説明を加える。学生が多いと練習問題のギリシア文をもとに講義をするようなこともあるが、これも年によって違う。今年は秋には『ソクラテスの弁明』を読みたいので、基本的には黙々と練習問題を進めているが、練習問題として引かれるギリシア文が置かれている文脈を時間を忘れて説明することはある。ギリシア語はやさしい言語ではないので(何語であれ「やさしい」言葉というのはないだろうが)強力な動機付けがないと続かないので。最近のトピックは、ギリシア語は日本語と似ているということ。 動機付けといえば…研修の前に本屋に行ってインドネシア語の教科書を買った。インドネシアの人とメールのやりとりをしているのだが、かつて勉強したことを思い出したのである。何冊も入門書を持っていた。ところがあの頃は使うあてがなかった。使うことがなければ学ぼうとは思わないものでやがて学習が途絶えた。英語でメールを書いているが、一行でもインドネシア語を使えたら、と思って勉強すると違うものである。 夜、研修会。もう長く続けている研修会である。研修で取り上げた話題についてはメインページの日記に書いた(7月12日付け)。いつも熱心にノートをとりながら話を聞いている若い先生が発言され僕は驚き感動した。声も聞いた記憶がなかったのである。
2002年07月12日
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川のすぐ近くにある家に住んでいたので台風が近づくとたびたび浸水した。大体は不思議なことに夜中に浸水する。台風が通りすぎ晴れ渡った朝、浸水した田んぼを農家の人たちが見にくる。そんなことが毎年のように続いた。 変な寝方をしたので眠れないでいる。夜が明けてきた。この時間が好きでよく無理をしてでも起きていることがある。頭が冴え冴えとしている。 母が入院していた時、僕は12時(夜の)から夕方の6時までベッドサイドにすわっていた。母は早くに意識をなくしてしまったので、話すこともできず、これといってすることもなく毎日が過ぎた。大学に行けないので復帰した時に遅れをとらないように専門の本を読むこともあったが、母の側で読書を楽しむにはあまりに母の病状は重かった。 深夜の病院は時間が歩みを止めてしまう。深夜勤の看護婦さんが時折まわってくる。「どうですか?」声を潜めてたずねる。「静かに眠っています、ありがとう」昼間とは違って化粧を落とした彼女たちは別人のように見えた。クリスマスの夜も、大晦日もいつもと変わらず深夜の病院は医師と看護婦が働いていた。積め所で新年を祝う声が聞こえてきて年が変わったのを知った。
2002年07月11日
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聖カタリナ高校看護専攻科での最終講義。台風が接近していて休講になるのではないかと危ぶんだが雨は止んでいた。駅の窓口で、ええっと東京まで新幹線で、とチケットを求める男性を見た。えっ、動いてないって…まったく予想していなかったという様子ではたして予定があるだろうにどうされるんだろう、と思いながらも僕の方はこの十回、一度も休むことも、遅刻することもなく学校に行けたことの幸運をありがたい、と思った。 講義はまとめ。もう会うことはないので何か気のきいた話をしたいところだがそんな言葉も思い浮かばなかった。患者にとっては治療を受けること、入院することは非日常的経験である。看護師にとっては日常的経験であるかもしれないがこのことをいつも忘れないでほしいという話。 また、看護師としてというより一人の人間としてこれから生きていくにあたり、1)「運が悪い」といわないでおこう、2)努力しても外からの働きかけがないと人生が動き出さないこともあるが、その機会がいつ訪れるかは誰にもわからないので、いつも準備を怠らないでおこうという話で講義を終えた。 長田弘の「最初の質問」の続き。 あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。 僕が生きていることを誰か一人でも忘れずにいてもらえていると感じられる日。 「ありがとう」という言葉を、今日、あなたは口にしましたか。 はい。今日は最後の講義だったので何度も。勤務先の専門学校の先生から紹介してもらい教えに行くことになったのであるが、引き受けたら、引き受けなかったら会うことのなかった人にたくさん会うことができた。僕の、そして、学生さんたちのこれまでの人生が少しでも違っていたら会うことはなかったことを思うと、そういう運命の不思議に驚くと共にありがたいと思う。 窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。 頂きを雲におおわれた牛松山。地元の人しか知らないだろう山。子どもの頃、死のことを考えつづけていた。きっと僕はこの山を見ながら死ぬだろう、と思った。なぜそう思ったかは今となってはわからないのだが。窓にクーラーをつけたのでこの僕の横にある窓は30センチも開かない。でも開くと山が見える。夏祭りの日には窓を開けばここから花火が見える。
2002年07月10日
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明治東洋医学院は今週は休講なので、カウンセリングだけの静かな一日を過ごすことができた。 韓国の小・中・高校で二学期から生徒に対する罰点制が導入され、罰点が一定基準を超えると体罰を与えることが公式的に許可されるという「朝鮮日報」と「中央日報」の記事を読み、一日あれこれ考えていたがうまく考えをまとめることができない。日本の学校では体罰は禁止されているが、この国ではどうだったのか、そういうことについてすら何も知らないので情報収集の必要がありそうだ。 掲示板で内村鑑三について質問を受けたので前の家に行ってきた。蒸し暑くて汗が流れ出てきたことをのぞけば、田んぼの中の畦道を通って歩いていくのは気持ちがいい。鞄に一杯の本を持ち帰ることになった。 もうずいぶんたくさんの本をマンションの方に運んできている。どちらにあるのかわからないこともある。神谷美恵子の『ヴァジニア・ウルフ研究』(著者集4)を探したが見当たらず帰ってきて押し入れ(そこにも本をいれている)を見ると奥の奥から見つかった。三年間眠っていたわけである。 インドネシア語の教科書を何冊か。一冊見当たらないので買うことになるかもしれない。最近、インドネシアの心理学の先生とメールのやりとりをしていて、時々日本語で書いてあることがあって、インドネシア語を思い出してみようと思いついた次第。どうなることか。娘の名前をインドネシア語からとったことを思い出した。 長田弘の「最初の質問」(『小道の収集』講談社)から。答えてみよう。 今日、あなたは空を見上げましたか。空は遠かったですか、近かったですか。雲はどんなかたちをしていましたか。風はどんな匂いがしましたか。 昨日はずっとこもっていたので空を見上げることはなかったが、今日は前の家に行く途上で空を見ることができた。京都から近いところにある街なので開発も進んでいるのだが、駅の裏側は今も家が建たず田んぼが広がっている。その畦道を歩いた。空をすべて見ることができる。視界を妨げる建物はない。梅雨の空は遠く雲は空一面を覆っていた。風はたっぷり湿気を含んでいたが、川と田んぼにはられた水の匂いがした。 2週間ほど友達の家に滞在していたことがあった。平家の落武者が隠れ住んだという里にいる間ずっと降ったりやんだりの日が続き雲は厚く垂れこめていた。あそこに、と友は指差しながら教えてくれた、晴れたらあそこに琵琶湖が見える。しかし来る日も来る日も湖は見えなかった。ようやく帰ることになったその日の朝梅雨が明けた。見ればたしかに友がいうように眼下に湖が見えた。来る時はバスしかなかったのだが、その日開通した湖西線で京都まで帰った。
2002年07月09日
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何やら心がザワザワしてかつ頭が忙しく、外に出かけなかったのに落ち着かない一日だった。本をあれこれ読み漁る(という感じ)。前に図書館で借りた長田弘の本がおもしろくて続けて借りた『詩人であること』『自分の時間へ』『小道の収集』。「この世は一人のわたしなしでもかまわないのである。しかし一人のわたしは、この世なしにはない。それがこの世のひとのありようなのだという思いは、それからいつかわたしの生き方の考え方のもとになった」 戦争で殺された女性との手記を編んだ仲宗根政善は書いている。「沖縄島最南端の喜屋武岬の断崖に追いつめられて、いよいよそこで最後を遂げて、岩かげに朽ちはててしまうのかと思ったときほど、さびしかったことはなかった」 誰にも知られることなく死んでいく。「さびしい」という言葉が重く感じられる。今の世は幸い死ぬことを強いられることはない。それでも一人死んでいくという事実はいつの世も変わらない。その日がくるまでは、「わたし」がそれなしには存在しない「世」のために何かできることをしたい。そして何かを残したい。内村鑑三はそれを後世への「遺物」といい、その中でも「最大遺物」は各人の人生である。「それならば最大遺物とは何であるか……それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います」(『後世への最大遺物』岩波文庫) 格別勇ましくなくてもいいだろう。吉野弘は「不幸な日曜の朝の親友」ボブ・ディランの言葉を引いている。「誰かのこころに一生のこること。それが歌というやつで、一番大事なことじゃないか」 そして、こんなふうにコメントする。「何でもないような言葉かもしれない。しかし、ほんとうのことというのは、いつでも何でもないような言葉によってしか語られることはない」 勇ましくなくても高尚でなくても、普通の人生を生き、できるならば誰かのこころに残れたらいいのに。
2002年07月08日
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今日は一歩も外に出ず、仕事をしている。息子は図書館でホリスティック医療の本とか、中医基礎理論などの本を借りてきてレポートを書こうとしている。読む本について助言を求められた僕として『藤澤令夫著作集』(岩波新書として出ていた『ギリシア哲学と現代』所収)を読むようにといったところ、読み始めてはいるようだ。予備知識のない者がいきなりこんな本を、というが、ふだん読んでいる本と比べて格別むずかしいとは思わない。言葉のむずかしさはない。 韓国で体罰が政府で公認された、と掲示板でヨッシーさんに教えてもらったが、これについてはまた後日。『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕―国内が戦場になったとき』(石原昌家、集英社新書)再読中。 手記を読みながら、去年、こんなことを書いたことを思い出した。2001/09/15(土) 03:24:00今時の戦争 ロンドンから離れて湖水地方と呼ばれる土地で過ごしたある日、湖を船で渡った。その時、轟音がしたので驚いて空を見ると空軍の戦闘機が2機、低空を飛び去っていった。何度かそんなことが繰り返された。対岸の街の人は何も反応しない。街の中心にある教会の尖塔にぶつかるのではないかと思うほど低く飛んでいるというのに。僕のような旅行者は空を見上げていた(僕だけだったかも…)。 その時ふと思ったが、今の戦争というのは(恐ろしいことに目下、現実化しようとしている)、昔と違って空襲警報が鳴って防空壕に避難するとやがてあちらこちらから火の手があがってというような悠長なものではなく、あ、戦闘機! と思った次の瞬間自分の身に何が起こったかもわからないうちに命を落とすのだろう、と。(引用終わり) 正しい戦争も、いい戦争もない。いい体罰がないのと同じである。
2002年07月07日
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雲が多かったが夕方買いものに出た帰り、夕焼け雲がきれいだった。稀に大阪から帰る時電車の窓から、遠く西の空に真っ赤な夕日が沈むのが見え、僕はあまりの美しさに息をのむ思いで眺めるのだが、通勤帰りの疲れた人たちはうつむいたままで外を見ようとはしない。 今は沖縄に住んでいる池澤夏樹が、土地の言葉でガマとよばれる壕に入った時の経験を語っている(『むくどり通信 雄飛篇』)。この壕の中に野戦病院が設営され、動員された女学生たちが傷ついた兵士の世話をし、彼女たちの多くが十七、八歳で殺されたことはよく知られている。 僕は沖縄に行った時には海軍壕と名づけられている壕を見てきた。この中に短時間いるだけでも強い閉塞感にとらわれた。ここに何日も留まることの困難を想像するのは難しいことではなかった。ここで撮ってきた写真には(息子に壕の中で写真を撮ることの非常識をとがめられたが、言葉だけでは僕の見たものを伝えることができないと思ったのである)負傷して、あるいは手榴弾で自決した多くの人たちの無念が写った。 池澤は壕の奥まで入って懐中電灯を消した時、闇の中をふわふわ飛ぶホタルの光を見た。ホタルは美しかった、と池澤はいう。しばらく飛んで、ふっとホタルの光は消えた。 壕の中を走り回る女学生たちは腰に懐中電灯をぶら下げていた。筒型のではなく、昔、自転車の前につけたような箱型のものだったのかもしれない。接触が悪くてしばしば点滅する光の尾を引いて動く彼女たちのことを負傷兵は「ホタル」と呼んでいたのだ。 池澤はいう。「この場でセンチメンタルになるのはたやすい。ホタルなんか出てくるとすっかり形ができてしまう。それではいけないとぼくは思う」「感情は個人を動かす力になるけれども、社会を動かす力にはならない。社会を動かす感情は論理化されなければならない。ある感情を体験しただけで、自分が何か生産的なことをしたと錯覚してはいけない。それはただのカタルシスだ」 涙が枯れるまでないてもそれだけでは何の問題の解決にはならない。池澤は感情は個人を動かす力になるというが、個人の場合も、感情はたしかに人を動かすかもしれないけれども根本的な問題の解決にはつながらない。カウンセリングが、どんな形であれ受身的な癒しであってはいけないのはこのことに関わる。私はこの悲劇的と見える状況で何をしなければならないか、何ができるかを考えていくのでなければならない。 戦争によるトラウマがあるとすれば、傷を癒す作業が必要はないとまではいわないがそれに終始してしまえば、そもそもあってはならない戦争を引き起こしたことの責任を問うことこそ必要であり、そのことを通して(受動的ではない)真の意味での癒しは達成できることが忘れられることになるかもしれない。
2002年07月06日
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右折バイクが青信号とともに(というか交差点まできたら青信号に変わったので実際には止まってない)ダッシュしてきて(直進の車よりも先にまがろうとしたのだろう)横断歩道を渡ろうとしていた僕に突っ込んできた。僕のことなんか見てなかったので、猛スピードで突っ込んできた。僕は横断歩道を渡る前からこのバイクの動きを見ていたので気をつけねばと思って身構えていたのだが、まさか僕が見えてなくて突っ込んでくるとは思わなかったので信号が変わったので道を渡り始めたのである。止まる気配がないので僕は決めた、動かないで、バイクを運転する若者に運命を委ねることにした。僕に気づくとバイクを左右に振った。そして、僕の前(後ろではない!)を猛スピードで駆け抜けていった。こんなに観察する時間があるなら走ったらいいではないかと思われるかもしれないが、こいう危機的な状況の時、時間が歪むのである。まるでスローモーションの映像を見ているかのようだった。 中学二年生の夏休み、自転車に乗っていた時バイクが前方から突っ込んできて、この時はよけることができず、僕は宙に舞った。 バイクが遠ざかり道を渡り切った後でひざが震えた。もしもバイクにはねられていたらどうなっていたのだろう。転倒してうちどころが悪くて死んでいたらどうなっていただろう…世界はその時も僕が死んだこととは関係なく存続し続けるのだろうか…小学生の頃、祖母、祖父、弟を亡くした時初めて死というものを知った。その時の恐れを持ち続けたまま中学生の時、事故にあって九死に一生を得た。その時前から迫ってくるバイクを見たのを最後に意識が途切れ、次に気づいた時には病院にいた。この間どれくらいの時間が経ったかはわからないが、傍目には意識があったようだが、僕は何も覚えていない。こんなことがあったので、その後の人生は「余生」なのだ、と中学生の僕は考えた。 娘が帰ってきて僕の部屋に入ってきた。玄関を入ってすぐ右手に僕の書斎がある。「ただいま」と声をかけていつもだとそのまま自分の部屋に入るのに今日はめずらしく僕の部屋に入ってきた。「帰りにすずめが死んでるのを見つけたの。ふまれてつぶれてた…それでお墓を作ってあげた。おはかがありますから踏まないでください、と書いておいたよ」 椅子にすわってこれだけいうと出ていった。昨日来読んでいる『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(仲宗根政善、角川文庫)に出てくる数々の女子学生の無念の死のエピソードを思って、しばし茫然と過ごした。
2002年07月05日
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大学の帰りに本を何冊か。仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』は初めて見た本だった。『沖縄-戦争と平和』(大田昌秀)『ひめゆりの祈り』(香川京子)『沖縄のこころ』(大田昌秀)『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕-国内が戦場になったとき』(石原昌家)等々、沖縄関係の本をたくさん読んできた。学会で沖縄に行った際、かの地での地上戦が想像を絶する悲惨なものであったことをひめゆりの塔の記念館などの資料を見て思い、胸が裂ける思いをして以来のことである。沖縄で見てきたことを思い、今夜はずっと茫然と過ごしていた。また、沖縄のことについては改めて。 同じ本を何度も読むという習慣はあまりないのだが、これも今日買った佐藤春夫の短編集(『美しき町・西班牙犬の家』岩波文庫)の中にある「美しき町」は小学校の時初めて読んで小説ってなんておもしろいなんだろう、と思って読み、高校の時にも読んだ。今再び読み始めたのだが…隅田川の中州に理想の町を作ろうという話なのだが、少しも心が弾まない。この中で暗に前提とされている幸福観が今の僕には受け入れられないのかもしれない。 毎週、高校の看護科で教えに行っているが、学校までの道に小さな(これは余計)「マイホーム」が立ち並んでいる。大学を卒業してから何年も経った頃、大学の先生に電車の中で会った。「どうして先生、この電車に?」「いやあ、それが、家を買ったんだよ。**(僕が住んでいる町)に住みたかったんだけど高くてね、**(高校のある町)に買ったよ」それから数十年。もうローンを払い終えてられるだろうか。僕がいつも見ている家のどれかに住んでられるのだろうか、とふと思う。そして、僕がそんなささやかな幸福とはずいぶんとかけ離れたところに生きていることに思い当たるのだ。
2002年07月04日
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九回目の看護科での講義。先週末、答えられなかった質問に答え、さらにこれまでの講義で触れていなかったことについて話す。 母が入院し結局生きては帰れなかったということがその後の僕の人生に影響を及ぼすとは思ってもいなかった。大学院に入った年のことで新進気鋭の哲学者になるぞ、というような気迫をもって、それまでの、あるいは、その後の人生のどの時期よりも勉強していた時に母は倒れたので、後ろ髪を引かれる思いで毎日病院で過ごした。後に精神科に勤務したり、看護学校で講義をすることになろうとは夢にも思わなかった。母を看ないといけないという思いと、自分の人生目標との板ばさみにあって苦しい毎日だった。毎日、感じたこと、思ったことがいろいろあって、意識のない母親の横にいても特に何をすることもなく時間を過ごす中こつこつとノートを書いていた。ただそばにいるということだけで母が何かを感じ取っていてくれていたらいいのに、と思ったが、今となっては確かめる術もない。そのように待っていたのに結局何もできなかったことを後になって悔やんだ。 その後の人生でもこんなふうに待つことが多いように思う。僕はここにいるから、僕の力がいるようだったらいってといっておいて待機するのである。自分の力で苦境を乗り切ればそれでよし、僕が待っていることが忘れられてもいいと思う。ただ何かの折にふと思い出してもらえたらうれしい。人が死んでから意識が残るのかわからないけれど、もし何か残るとしたら、死んでから何年もしてから、ふと誰かに思い出してもらえるようなことがあればうれしいだろう。 講義が終わってから廊下に出たら学生が、サインしてください、と頼んできた。生きているといいこともあるということか。
2002年07月03日
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明治東洋医学院の教員養成科で試験。学生も緊張するだろうが教師である僕も緊張してしまう。はたしてどれくらい講義を理解してもらっているかがわかるからである。すぐに何人かの学生の答案を読んで安堵。 昨日の日記に書いた<大好きだ!>攻撃の話を昼からの講義で取り上げたらうけた。「N子ちゃんもおれのことずっと好きだったってこと、おれはわかっている」 精神科医のレインが、学校から駆け出してくる幼い男の子と母親との関係に四つのタイプがある、といっている。その一つが上と同じである。 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、少し離れて近寄らない。「お前はお母さんが好きではないの?」「うん」母はいう。「だけどお母さんはお前がお母さんを好きなんだってこと、わかっているわ」そして息子をしっかり抱きしめる。 レインを引いて、鷲田清一はこう説明する。男の子は母親とは別の存在としておそるおそる首をもたげようとしたとたん、「それはほんとうのおまえではない」と母親の中で彼が占める位置へと没収され、母親に対する他者としての彼の位置が消去される。「他者の他者」としての存在を認められない。彼は母親の解釈体系に呑み込まれ(「<ほんとうは>あなたは私のことが好きなのよ」)母親の分身でしかありえず、母親とは分離した存在であることが許されない。 N子がなぜ彼から別れようと決心したか。彼の解釈体系(おれのこと好きだということはわかっている。黙ってしまうのは照れ屋だから」)に呑み込まれず、自分が彼とは独立した存在であることを主張しなければならなかったからである。N子ならずとも彼の一部であることに甘んじることは到底できない。 あの子のことは親である私は一番よく知っているという親にはたくさん会ってきた。
2002年07月02日
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ずっと明日の試験を考えている。先週「模擬試験」をしたので、それを踏まえてということになると一問はほぼ決めているのだが。採点のポイントは、理解度(講義をどれだけ理解できているか)、論理性(僕の考えに異論を唱えるのはもちろんオーケー。ただし僕が呼んでなるほどと納得できるように論理的に書かれているかを見る)。稀に(いや、よくあるかもしれない)僕が話したことのコピーのような答案があるが、そういう答案は学生には意外かもしれないが得点は低くなる。理解度、論理性に加えて三つ目のポイントは独創性である。僕が思いもよらない視点から論じてあることが望ましい。 鷲田清一がある大学の倫理学の授業でこんな答案に出会ったという(『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書)。「ためらいなくその年の受講者約四〇〇名中の最高点をつけた」講義は最初の一回しか出ていないというのに。鷲田がその答案の問題シーンだけを取り出してまとめたのをさらにまとめると次のような答案である。 答案のタイトルは「<大好きだ!>攻撃」。つきあい始めた彼がいるのだが、やがて「おれ、N子ちゃんが好きだ」と時々いうようになった。はじめは悪い気はしなかったがどうして答えないといけない状況になった。ところが自分でも自分の気持ちがはっきりしない。そのことを正直につげると、彼はとたんに息せききってこういった。「おれ、N子ちゃんが好きだ、愛してる」そして続けて、「N子ちゃんもおれのことずっと好きだったってこと、おれはわかっている」と。 こんなふうに「<大好きだ!>攻撃」が続いた。次第に返事をするのがおっくうになり、ある日とうとう黙ってしまった。すると彼は、彼女の髪に手をやり、耳に息を吹きかけるようにして、こう囁いた。「照れ屋さんなんだから…」 さて、これを読んで自由に論じなさい。彼女はやがて彼と別れる決心をしたが、もしあなたがN子さんならどうしただろうか?という問題を出そうか…(ここで公表したら当然出せないけれど…)
2002年07月01日
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