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<習慣?>29日は部屋の大掃除…大掃除と云ってもひとり暮らしなので、そんなに部屋は散らからない。自分で書くのも変ですが…意外にマメに掃除をするタイプ。換気扇を洗ったぐらいで…ハイ!終わりみたいな感じです。実家にいたときは年末になると畳を上げて干したり、障子紙や襖を張り替えたり、餅つきをしたりと大騒ぎでしたねー今では、その様な風景も見られなくなりました。今日は午前中に墓参りに行き、午後から買い物に出かけましたが…この買い物が曲者なんです。昭和時代を長く過ごしてきた人なので、つい…年末になると買いだめをしてしまいます。いつもの倍以上の食料品や日用品…ストックがまだあるにも関わらずつい買ってしまう。正月は商店が数日間休みになり買い物が出来ない…悲しいかな…そんな昔の年末の習慣が、未だに抜けきらない買い物でした。(ちょっぴり反省)
2009.12.30
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<柊の花>宝物を守るように鋭い棘が花を守っていた…「近寄るな」と言わんばかりに鋭い棘が突き刺さる…指先から出た血が、白い花に一滴…チクリとした指先の痛みが、ズキズキと心の痛みに変わってゆく…留守をして日記をサボってしまいました。年末、年始…日記がランダムになると思います。今年もお世話になりました。有り難う御座いますm(_ _)m来年も宜しく御願い致します。皆様にとって、新年が良い年でありますように…
2009.12.27
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<駅前が変わる>12月15日、三菱地所が名古屋駅前にある大名古屋ビルヂング(中村区名駅3)の建てかえを発表した。東海道新幹線開通後間もない1965年に名古屋駅前桜通口正面に竣工されて以来、その特徴ある看板「大名古屋ビルヂング」が掲げられているため全国的に知名度が高い建物だと思う。そもそも何故、ビルディングではなくビルヂングなのか?文字の多さの違いだそうです。これは大名古屋ビルヂングに限らず日比谷国際ビルヂングや有楽町電気ビルヂングと東京にもビルヂングと掲げた看板があるので、三菱地所さんの看板代の節約というところでしょうか。でも…同じ三菱地所さんでも横浜のランドマークタワーは特別?お洒落だわねー。あっ…話が逸れてしまいました新ビルは地上38階、地下4階で高さが約190メートル。地下街への接続のバリアフリー化や周囲の緑化などに配慮したビルになると伝えられます。2012年度に着工、2015年度内に完成する計画。愛知県民として時々名古屋に訪れますが、あの「大名古屋ビルヂング」の看板と屋上にある球体の広告と共に親しんできた風景…新しくなるのは仕方ないと思いますが、名古屋駅前の風物がまた一つ消えると思うと少し寂しい気がします。また大名古屋ビルの向かい側にある松坂屋名古屋駅前店などが入店する名古屋ターミナルビルと隣接する旧名古屋中央郵便局の敷地にもJR東海と日本郵政グループが2011年度着工、2012~2017年度完成予定で2棟のビルを建設する計画があるという。我が地元の駅前は昔とそんなに変わり映えしないですが、都会は暫く行かないと随分変わっています。都会に行くたびに最近の私は、浦島太郎になった気分を味わいます
2009.12.18
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<出会った人たち>先日の寺巡りに石巻山では、いろんな方達と出合った。石巻山では山道で浜松の方達総勢20人くらいに出会った。男性が4名16名ほどが中高年の女性だった。道が狭いので譲り合いながらの挨拶。女性が多いと山歩きも賑やかですね。頂上では中年のカップルが一組お弁当が終わった直後のようだ。男性が私に双眼鏡を差し出して、「よかったらご覧になりますか?」と言う。「あっ、どうも…写真を撮りますのでいいです」と答えたのだが…なんか変な断り方だったかなぁ…で…私が「近くからお見えになったんですか?」「名古屋からです、駐車場まで車で…」「車から貴方の歩いているのを見ましたよ」「歩くのが好きなんですよー」などと暫く二人と話をした。10分ほどして二人が降りてゆき、その10分後に私が降りようと思っていたところに一人の男性が登ってきた。石巻山の駐車場を少し過ぎた山道を歩いていると車が停まって私に声をかける。「バスの時間は間に合いますか?良かったらバス停まで乗っていきませんか?」先ほど頂上で出会った中年のカップルだった。「親切なお心遣い有り難う御座います。大丈夫です、歩きますので…」「じゃあ、お気を付けて…」「ありがとう御座いました…さようなら」石巻山での一期一会でした。豊橋の市電吉良吉田駅の改札を抜け、最初に行く寺を地図の看板を見たが、イマイチ道がハッキリしなかった。感を頼りに適当に歩いていたら子供をベビーカーに乗せて散歩?していた若いママさんに出会ったので、「宝珠院はどちらの方にありますか」と尋ねたら若いママさんが親切に「近くですから一緒に行きましょうか?」と言うのでお言葉に甘えて、一緒に行ってもらった。たわいもない会話をしながら西福寺の場所も聞いた。若いママさんは目印をキチンと教えてくれ、丁寧で分かり易い説明をしてくれた。お礼を言って別れる。吉良吉田での一期一会でした。窓はサッシでしたが古めかしい木造の建物。珍しかったのでパチリです。誰も住んでないようでした。二度とあうことのないであろう人たち…親切で優しい人たちでした。世の中、マダマダ捨てたもんじゃないですね…
2009.12.17
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寺巡り…吉良吉田の西福寺二つの寺を回った後で、西福寺に向かって歩きました。15分ほど歩いていると右手向こう側に西福寺にある鐘楼の屋根が見えました。西福寺本堂本堂の扉に葵の紋がありました。説明書き本堂の手前左に私が目的とする鐘楼がありましたが…ご覧の通りでした…(ガッカリ)修復するのでしょうか…足場が邪魔でよく見えませんね。コレではまた出直すしかないかなぁ…鐘楼の画像をネットで拝借して載せました。足場のない鐘楼デス西福寺鐘楼この鐘楼は寺伝によると、もとは徳川3代将軍家光が再建した岡崎市にある伊賀八幡宮の鐘楼であったが、明治初年の神仏分離令により、仏教色の強い鐘楼は撤去されることになり、明治4年(1871)に西福寺に移築された。創建時は桧皮葺であったが、移築の際瓦葺に改められた。水仙(この画像石巻山近くで写したもの)今回、私の寺巡りはこの西福寺で終わりましたが、このほかにも吉良吉田には、■国宝の金蓮寺弥陀堂…源頼朝が安達盛長に命じて建立させた。建築の特徴は鎌倉時代中期の築造と考えられている。県内最古の木造建造物で昭和30年国宝に指定された。■幡頭神社…桃山時代の様式の本殿…等々近所の垣根に咲いていたサツキ…(温暖化の影響か?)機会があったら再度吉良吉田に訪れて上記■印の神寺などを見学してみたいと思います。
2009.12.16
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最近、お天気の良い日に、近隣の市町村に電車で出かけたりしています。ある日、本屋で立ち読みしていたら、ウオーキングガイドの本に載っていた内容の中に吉良の歴史と文学に出合う道…なんていうのが目にとまった。数日後、地元の駅からローカル電車に乗って「吉良吉田」まで出かけた。吉良(きら)といえば…忠臣蔵の悪役、吉良上野介とか清水次郎長の子分の吉良の仁吉…人生劇場の著者、小説家の尾崎士郎の生まれ故郷…等々。今回私の目的は寺巡りです。まず駅を降りて私が最初に向かったのは…宝珠院というお寺でした。道路から六角形の珍しい建物が目を引きます。右の方に写っている観音像も5メートル以上はあろうかと思われました。六角形の建物を下から見ると鐘が二つ吊されていました。左側に吊された鐘…智恵の鐘。右側に吊され鐘…慈悲の鐘まだ新しい感じがしましたので、最近建てられたものではないか…と思いました。こちらが本堂です。正面からは六角形の建物で本堂が見えません。私の独り言…(本堂が泣いているような気がする)説明書き今回私が気になったのがこの案内板次のお寺への案内が…では、看板に従って行ってみましょうか。本堂は普通にある寺と変わりませんでしたが、門扉が気になったのでパチリと…此処にも次の寺への案内板がありましたしかし…へそ曲がりな私はこの案内板に従わず、寺巡りには載ってない「西福寺」というお寺を目指しました。ここから歩いて15分くらいの所にあります。何故そのお寺を選んだのか…この西福寺には岡崎市の伊賀八幡宮から移築された鐘楼があると知ったから。その鐘楼は明日に…
2009.12.15
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<石巻山>…その弐最終回昨日の続きになります。皆さんも私と一緒に登った気分になって、楽しんでいただけたら嬉しいです(*^_^*)山道を歩いていますとこの様な岩が見えました。左が小天狗岩、右が大天狗岩と書いてあります。山には天狗にまつわる伝説が多く伝わっていますね。この天狗岩もその伝説にまつわるものでしょう。天狗岩…説明書きは特にありませんでした。次に見えてきたのが蛇穴です。蛇穴説明書きの内容。この蛇穴は石灰岩の風化水蝕によってできたもので、径約60センチ、奥が13メートルあり、その形から昔、神様のお使いの大蛇がすんでいた。と伝えられている。今度はダイダラボッチの足跡…楽しいですね~ダイダラボッチの足跡説明書きの内容。昔、ダイダラボッチ(民話の巨人)が石巻山と本宮山をまたぎ、小便をして豊川が出来たといわれる。(豊川は東三河にある川の名)実際には石灰岩塊の水蝕によりできたものである。周りにはこの様にマメツタがついた岩が沢山ありました。マメツタのついた岩蛇穴の様な穴が此処にもありました。上を見上げると…こんな風景がロッククライミングが出来そうですねぇ…ここから鎖場と呼ばれる岩場を登ります。鎖場は此処まで…この鉄骨の階段を上れば頂上です。がんばれー!高所恐怖症の方には足がすくむかな?お疲れでした…頂上に着きました。頂上は十人もいたら満員になりそうなくらいの広さしかありませんでした。途中で出合った二十人くらいの団体の方達はさぞかし狭く感じたことでしょう。頂上には名古屋から来ているという中年のカップルが一組。双眼鏡であちこち眺めていました。下手な画像ですが頂上からの風景を数枚…さて…お弁当にしましょうか。静かで良い景色です…カップルの方は下に降りていきました。数分の間、石巻山の頂上を独り占め。「うーーーん、良い眺めーー」一人ではしゃいでいたら…男性が登ってきて、その後に若いカップルが…そろそろ場所を譲って下に降りましょう…「こんにちはー」「お気を付けてー」山や高原などで出合うと必ず耳にする挨拶。人は自然の中では素直になれますね。画像満載でPCが重くなり申し訳ありません。お付き合い有り難う御座いました。石巻山は如何でしたか?
2009.12.14
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昨日は「吉良吉田」まで、寺巡りのハイキングをしてきましたが、今日は豊橋市にある石巻山(いしまきさん)に登ってきました。「吉良吉田」の寺巡りは、お寺ばかりの画像が続いたので、石巻山の後に載せることにしました。<石巻山>…(その壱)後ろの方に写っているのが石巻山です。石巻山…標高358メートル山頂付近は石灰岩の巨岩が露出する険しい地形となっており、石灰岩地特有の植物が多く見られることから、1952(昭和27年)「石巻山石灰岩地植物群落」として国の天然記念物に指定されています。豊橋駅からバスで約20分で石巻山登山口まで。ここから石巻山の山頂まで約1時間30分歩きます。まずは普通に畑や民家を眺めながら…バス停の直ぐ近くに小さな川が流れていました。のどかな感じがいいですね~。この様な風景を見るとテンションが上がります。登山道を少し歩いた所にこの様なお店がありました。とろろって書いてあるけど…自然薯かな?むぎとろご飯が美味しいんだよね~と想像だけ。おにぎり持参してるし…横目で見て通り過ごします。山の中腹までは車で来ることが出来て駐車場と観光旅館などの施設もあります。時々車が私を追い抜いてゆきます。山は歩かなきゃ意味がないのにね~~まだ緑色を残したモミジが見られました。山を歩いているとこのモミジのように、季節はずれの紅葉も見られたりする。カラスウリも沢山見ました。山の中腹に石巻神社があります。ここからは車も入れません。この神社の鳥居横を入ってゆくと、いよいよ石巻山への頂上に向かう道になります石巻神社山上社さて、ここからが本番!いよいよ山道になりますまずはこの様な山道…樹齢何年くらい経っているのでしょう…大人3,4人ぐらいが輪なったくらいの幹の太さがありました。幹を撫でて元気を貰いました。で…暫く歩くと…この様に岩がゴロゴロしています足元に注意です。この続きは明日に…頂上までと頂上からの風景画像を…
2009.12.13
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昨日は雨降りだったので、大掃除とまではいかなかったですが、少しだけ家の模様替えを…普段余り動かないせいか、ベットを移動しただけで…バテてしまった。我ながら「体力ないなぁ…」ベットを動かして他の家具を移動していたんだけど、どーも収まりが悪い…ベットの位置も気に入らなくなってきた。「やっぱり元の位置に戻すかな…」「ひぇ~重いよ~」木製のセミダブルのベットなので、重くて、重くて…「ひぇー腰が痛いよ~。ヒーヒー」と一人で奮闘した挙げ句…結局、前と何も変わらなかった…「骨折り損の草臥れ儲け」ってこのことだなぁ…で…掃除は暫くオアズケにしとこう!今日はお天気も良くお出かけ日和…地元の駅から30分ほどローカル電車に揺られて、「吉良吉田」に寺巡りのハイキングに行って来ました。
2009.12.12
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音を聴く…そんな文字を書くと何やら大袈裟でいかにも風流な日本庭園にある水琴屈の音でも聴いたのか…などと思われそうですが、残念ながら全く予想外の音で、私の聴いた音は、風流の欠片も感じられないような機織りの機械の音でした。近所に昔と変わらず、家族で細々と機織り工場を営んでいる家があります。私は、その工場の前を通る度に、機械が出す「ガッチャン、ガッチャン」という音と共に子供の頃の風景が頭の片隅に浮かんできます。その昔、実家の工場でも朝早くからこの音がしていました。物心着いたときから、この機械の音と共に育った。音が聞こえない時は、お正月とお盆くらいで、そんな時は、辺りがもの凄く静かで「正月だなぁ…」なんて子供心に感じたものです。先日、工場の塀にもたれ、「ガッチャン、ガッチャン」という機織り機械の音をボーっと聴いていました。音の中には、子供の頃の風景が広がってゆきます。アイスクリームやさんが鳴らずベルの音、紙芝居のおじさんが叩く太鼓の音、下駄履きのおじさんが歩く音…機織りの機械の音が私を昔に連れ戻す…子供の頃の風景が見られる懐かしい音、皆さんには、どのような音があるのでしょう…
2009.12.11
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ひとりごとを書くつもりでした…が、昨日載せた鬼の顔をした石がとても気になり興味深かさも手伝った事もあり、色々調べてみましたが、残念ながら詳しいことは何も分かりませんでした。ただ、毎年旧暦の正月7日頃(2月)に行われる火祭りが鬼祭と呼ばれる訳は?火祭りは鬼の面を厄年の男の人が被るようです。滝山寺の本堂横に柵に囲まれた鬼塚が祀られています。この鬼塚は、昔、二人の山伏が滝山寺に訪れ、祭に参加したが身を清めずに鬼面を被ったために、面が取れなくなって悶死したという伝えがあります。人々は二人を哀れみ薬師堂の前に塚を築き鬼塚と名付けたという。祭で被る鬼面は、元々祖父面、祖母面、父、母、子の面と計五面あったのですが、父面、母面は、山伏が被ったまま埋められたため、この二面は今は存在しないと伝えられています。岡崎市は御影石でも有名で、江戸時代から石工の多かった土地でもありますから、誰かが鬼の顔を彫った石をここに埋めたとか…鬼面を被って悶死した山伏が埋められた場所だったとか…この石について手がかりが全く無いので、私は勝手にこの様なことを想像してしまいました相変わらず貧しい想像力ですねェ~ひとりごとはまた明日にでも…
2009.12.10
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今日も滝山東照宮からの日記となります。階段を数段上がって鳥居をくぐると東照宮の拝殿があります。■滝山東照宮本殿は正保3年(1646)に完成。昭和44年に大改修された。境内に各大名、岡崎藩代々城主の寄進した石灯籠が約50基。滝山東照宮拝殿賽銭箱拝殿の奥にも建物がありましたが、金柵で囲まれていて近くで見ることが出来ませんでした。頼めば拝観出来ると思うのですが…私一人なので遠慮しました。寄進された石灯籠帰りは別の道で石段を下りました。その石段を降りる途中で、一風、変わった石を見つけたのでパチリです。私には、鬼の顔が彫ってあるように見えたのですが…滝山寺は毎年旧暦の1月7日に近い土曜日に火祭り(鬼祭)が行われます(無形民族文化財)この滝山寺に近い場所に松平三代信光が建てたという万松寺も近いと聞いていましたがバスの時間の都合で、行くことが出来ませんでした。地元の駅に着いたときの空の景色日の暮れが早くなったのを感じながら家路を急ぎますお付き合いありがとう御座います。
2009.12.09
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前日の続きです。仁王門から離れた所にある滝山寺には、歩いて10分くらいでしょうか…木々を眺め、青木川を流れる水音を聞きながら、楽しく歩きました。青木川の流れ右手に川の流れ、左手を見ると保見山「弘願寺」真宗大谷派の寺がありました。本堂は工事中でした。道路側から眺めただけです。川沿いに大きな銀杏の木があり、栞にしようと葉っぱを数枚拾いました。左手にまたまたお寺のような建物が見えます。石段もかなり古い感じがします。掲げられている看板の文字も全く読みとれず名前が分かりませんでした。ここも道路から見上げ、通り過ごしました。やがて大きな鳥居が左手に見えますやっと滝山寺下に着きました。目の前にある階段をあがると本堂です。石灯籠が多い寺でした。本堂に向かう階段の途中にあった石灯籠。階段をのぼると滝山寺本堂が目の前に…滝山寺本堂滝山寺本堂は寺伝によると1222年(貞応元)に建立され、1254年(建長6)に修復された愛知県下最古の建物で、重要文化財に指定されています。ずらーっと並んだ石灯籠滝山寺本堂は屋根は桧皮ぶきの寄せ棟造りで、和様、唐様、天竺様を取り入れた様式は、鎌倉時代の代表的な様式を示すといわれます。説明案内板7世紀後半に建立され一時老廃したが、12世紀初めに再興され源頼朝の従兄弟の寛伝(かんでん)上人がいたことで頼朝によって大伽藍が建立された。本堂には源頼朝の等身大の観音像や、運慶作と伝えられる日光、月光菩薩像がある。本堂に隣接して建っているのが「滝山東照宮」日光、久能山とともに家光が建てた三大東照宮の一つです。滝山寺東照宮の前の鳥居この日は、私の他に一組しかいませんでした。以前訪れた久能山とは随分異なり小規模でしたが、威厳は保たれているように感じます。東照宮と名の付く建造物は他にも数ありますが、ちょっぴり寂れた感じがする滝山東照宮です。通常日だったということもあるのかな…明日も今日の続きで、滝山東照宮からの最終回となる予定です。
2009.12.08
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綺麗な花嫁さんでした…うれし泣き、もらい泣き、そして笑顔…日曜の朝早く親戚方の車に同乗して一路大阪まで…(高速の方が安いということで)折角、大阪に行ったんだから帰りに親戚の方達とは別行動をして、神戸辺りを散策しようか…と内心考えていましたが、私一人が勝手な事を言い出すわけにも行かずトンボ帰りで、夜帰宅するという忙しさ。皆さん翌日には仕事ですから仕方ないですねで… 一夜明けた今日、岡崎市にある滝山寺というお寺まで行ってきました。岡崎市は松平、徳川の縁の町だから、その両氏に関する社寺だけでも50以上を数えます。この町はそれらの歴史を秘めた文化財の町ともいえます。その中の一つ、滝山寺に…まずは仁王門。仁王門…国指定文化財文永4(1267年)の建立で、三河最古の山門といわれています。この仁王門は滝山寺と離れた場所に建っています。本堂はこの門をくぐり800メートル歩いた所にあり、開基は、朱鳥元年(686年)役の行者。のち、源頼朝によって大伽監が建立され、今の本堂(滝山寺)は、鎌倉時代に改築されたもの。仁王門の説明書き仁王像…阿形仁王像…吽形仁王像は市文化財。運慶の作と伝えられている。仁王門の後ろ側に回ってみると、常夜灯がありました。裏側からみた仁王門モミジの葉が風に吹かれて舞っています。足元にはこの様にモミジの葉が…降り積もったモミジの葉仁王門に別れを告げ、滝山寺に向かいます。風が強くて少し寒かったですが、初めて見る風景なので、気分は最高でした。この続きは明日に…
2009.12.07
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明日、姪が大阪で結婚式をします。今年は身内の不幸もあり、気分の塞ぐ事が多かったが、最後の、最後におめでたい事があり、なんだか救われたような気分…この姪の結婚式が、身内での最後の結婚式となるだろう…あぁ…周りも、私もいつの間にかそんな年令になっていたんだなぁ…
2009.12.05
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我が地元に怪盗、鼠小僧次郎吉の墓がある…そんな情報を知って、どうしてこんな所にあるの?と少々、疑問を抱きながらも、取りあえず行ってみる。■鼠小僧次郎吉■金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商人家から盗んだ金銭を分け与える…とされ義賊して扱われてきた。お墓は東京の両国の回向院にあるとされていますが、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市などにも、義賊に恩義を受けた人々が建てたなどと伝えられる墓が各地にあるとされています。我が地元にあるという委空寺の次郎吉の墓もその一つかも知れません。自宅から歩くこと15分…民家の中にその墓はありました。委空寺の次郎吉の墓う~ん…(何も言えねェ…)←個人の感想です。「鼠小僧の墓石を持っていると博打に勝てる」という俗説から次郎吉の墓石を削りお守りに持つ風習から、現在も東京の両国の回向院では、特に合格祈願に沢山の受験生がお参りに来るそうです。一方…我が地元の次郎吉の墓は、その存在すら市内でも、少人数にしか知られていないだろう…(信憑性に問題ありか?)ところで…鼠小僧次郎吉が盗んだ金銭の総額は、3000両以上(現在のお金に換算すると…分かりませんデス(^^;)と伝えられています(武家屋敷71箇所、90回にわたり忍び込んだ)では、そのお金の行方は…?「貧しい者に盗んだ金銭を分け与える」この噂は次郎吉が捕縛される9年も前から流れていた。事実、次郎吉が捕縛された後、役人による家宅捜査が行われたが、盗まれた金銭は殆ど発見されなかった。傍目から見ると次郎吉の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであることから、盗んだ金の行方について噂になり、この様な伝説が生まれたものと考えられる。当時の記録にもこの様な事実はどこにも記されていない。現在の研究家の間では、残念ながら?…「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」というなんとも現実的な説が定着している。聞いてびっくり、見てびっくり…ということは、まぁ…世間には、多々あるものですわね。おーっほほほ…
2009.12.02
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昨日、図書館が休館日だったので、今日、改めて足を運びました(笑)被害状況の実態を書いたものがありましたので、書き写してきました。少し長い文章になりますが、一読していただければ幸いに思います。<被害の実態、弱い地盤に被害集中>マグニチュード8の巨大地震であった東南海地震は、震度7の激震を記録した。これは人が這って歩くことも困難、木造家屋はほとんど全半壊してしまうほどの揺れである。愛知県下では、名古屋市港区、南区をはじめ、豊橋市、半田市、碧海群、幡豆郡(福地村では住家全壊率46,1パーセントと県下最大)知多郡、渥美郡などで大きな被害が発生した。その中でも名古屋市、半田市では、埋め立て地に建設されていた軍儒工場が倒壊し、多数の死者を出した。名古屋港では、埠頭や港湾施設に被害があった。三河地方の碧海群や幡豆郡の場合には、沖積平野上の家屋が、その地盤の弱さが原因で、数多く倒壊したのである。津波の被害については、熊野灘沿岸では、8~10メートルの津波があり、三重県、静岡県にも爪痕を残した。幸いにも愛知県では、伊良湖で、約1,5メートル、師崎で90センチ程度の波高であったため被害は少なくて済んだ。東南海地震は、震動範囲が広く、またその沿岸地域に大津波を起こした地震の顕著な例である。■被害は再び同じ地域で発生■三河地震の規模は、マグニチュード7、1と、東南海地震に比べるとかなり小さい。しかしながら、三河地方南部を震源とする内陸型地震であったために、住家全壊に対する死亡率は東南海地震の約4、7倍を記録。しかもそこみを襲われる結果になった。そのために、死者の中には、国民学校の疎開学童97名が含まれている。まさに戦時下での参事といえよう。この地震の場合にも、やはり名古屋市港区、南区、および西三河地域の矢作川流域に液状化現象が発生している。またもや地盤の弱さが被害を大きくした。体験者の話によると、「下からドーンと突き上げられたかと思うと、体が宙に浮き、それから思いっきり下へ叩き付けられた」「両側の壁が外側に崩れ、屋根が真下に落ちてしまった」など、アッという間のできごとであった事がよく分かる。内陸型地震の特徴が、よく現れている発言だ。突然、土地の隆起や沈降が起きたり、大地に裂け目が走るなど、その状況のすさまじさは容易に想像できるだろう…東海地域は、昭和54年に大規模地震対策特別措置法により地震防火対策強化地域に指定され、地震観測体制の集中設備、国、県、市町村などによる地震防火体制の緊急的整備が進められていて、愛知もこの中に含まれている。過去発生した東海沖に震源をもつ海洋型の大地震は約100年から150年の周期で発生している。これらはマグニチュード8以上のエネルギーをもつものであった。日々の生活用品にも事欠く戦禍の中で、追い打ちをかけられるように二度も震災に見舞われた。それは、何とかもちこたえてきた…親しい人たちの多くの命が奪われた痛ましい事件であった。まさに、三重苦の試練の時代であったろう…といえよう。 以上。お付き合いありがとう御座いました。お疲れ様でした。大きな地震が東海地方にあるかもしれない…と耳にするようになって久しいですが、その間にも大きな地震が各地を襲い、多くの人々がその犠牲になりました。これらの震災も被災者の方達にとって一生消えない記憶であろう…と思っております。
2009.12.01
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