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人は誰でも「意識」というものを持っています。夢を見ている時には寝ている時にさえ「意識」は目覚めています。幼い子ども達にも意識はあります。でもその意識の状態は大人とは異なります。大人は自分の意志で意識の状態をある程度コントロールすることが出来ますが、幼い子どもの意識はただ受け身的に働いているだけです。それはどういうことかというと、簡単に言うと「大人には捜し物が出来るが、子どもには捜し物が出来ない」ということです。これは「記憶の中の捜し物」でも同じです。捜し物をするためには、色々な可能性を考え、五感の働きを意識敵に使い、頭の中であれこれとシミュレーションしてみることが必要なのですが、子ども達は、ただ眺めて回るだけで「捜した」と言います。人間は様々な能力を持っていますが、その働きを使いこなすためには「意識の働き」が必要になるということです。ですから、この能力において劣る人は、いっぱい能力を持っていてもその能力を使いこなすことが出来ません。試験という状況では、色々なことを知っていて、色々なことが出来ても、実際の生活の中でそれを使うことも出来ません。人間は、この能力があるから、自分の意志で自分に必要なものを探し出すことが出来るのです。そしてその結果が、様々な文化であり、現代文明でもあります。「なぜ?」という疑問が発生するのもこの意識の働きが目覚めているからです。意識の働きが弱い状態の時には全てが「当たり前」で、「なぜ?」という意識が目覚めません。色々な悩みを抱え、苦しむばかりで、一向に答えを見つけることが出来ない人も「意識の働き」が弱い人です。すぐマニュアルに頼ってしまう人、すぐ答えを求める人、すぐ人に依存してしまう人、「自由にしていいよ」と言われると困ってしまう人なども、「意識の働き」において弱い人です。武術などでもこの意識の働きは非常に重要です。パワーとスピードがあっても、意識の働きにおいて劣る人は、自分よりパワーもスピードもない人に負けてしまいます。昔話などでも小さく弱い生き物が知恵の働きを使って大きく強い生き物をやっつける話しが多くありますが、これも意識の働きのおかげです。意識の働きに優れた人は、その場その場の状況に応じてベストな選択をすることが出来るのです。例えて言えば、「意識」は闇夜の懐中電灯のようなものです。その懐中電灯が小さく、更にどこかに固定されていたら、非常に限られたものしか見ることが出来ません。でも、広範囲に照らすことが出来、光量も大きく、自由に動かすことが出来るような懐中電灯を持っている人なら多くのことを発見出来るし、より自由に動くことも出来るし、不安も少なくなります。じゃあ、「その意識の働きにおいて弱い人はどうしたらいいのか」ということなのですが、意識の働きは、自分の努力で育てる事が出来るので大丈夫です。見ようとする意識、聞こうとする意識、感じようとする意識を常に保つように意識しながら生活していれば、意識の働きは高くなるのです。その時、何かの目的を持つと、見えてきます。目的がない状態ではいくら見ていても何も見えてきません。答えを探しながら見ているから答えを発見することが出来るのです。気功やヨガなどでは、自分のからだや感覚に意識を向けることを学びます。最初は訳が分からないのですが、でも継続しているうちに少しずつ分かってくるのです。とにかく、諦めないで継続することです。この継続が大事なのです。
2014.01.31
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昨日は「ゆっくりと丁寧に動いて下さい」と書きましたが、実は、これに「心を込めて」という言葉を足して、「ゆっくり、丁寧に、心を込めて動きなさい」という言葉は、私が若い頃太極拳の先生に言われた言葉です。一般的に太極拳などは「呼吸に合わせて動く」という風に理解されていますが、その先生は「呼吸のことなど考えなくていい」と言っていました。「ゆっくり、丁寧に、心を込めて動いていれば、自然な状態で呼吸と動きが一致してくるので、そんなこと意識する必要がない」ということです。そもそも、「呼吸」と「動き」を合わせることを意識することで、「動き」と「呼吸」のリズムは合うかも知れませんが、意識が「リズム」の方ばかりに向い、「からだ」と「呼吸」が合わなくなってしまうのです。そして、これは太極拳だけでなく、茶道でも同じだと思います。「動き」と「呼吸」のリズムを合わせるだけならそれほど難しくありません。また実際、そうしないと動けないものです。座っていた人が立ち上がる時にも、無意識のうちに一回息を吸って吐きながら立ち上がります。息を吐いて吸いながら立ち上がる人は多くないと思います。そもそも、吸いながらでは立ち上がるのが困難だと思います。みんな、そういうことは無意識的にやっているのです。スポーツ選手もみな動きと呼吸は合っていると思います。そうしないと力が出ないからです。また、太極拳などでは、力を抜いて、動きと呼吸を合わせてゆっくりと動いていると、瞑想状態になって気持ちよくなるので、「健康体操」としてはそれで充分だと思います。でも、「ゆっくり、丁寧に、心を込めて動く」というのは意識しないと出来ません。それにそれはただ単に「気持ちがいい」という状態でもありません。じゃあ、「なぜそんなことをするのか」ということですが、「ゆっくり、丁寧に、心を込めて動く」ことで、「頭」と「心」と「からだ」が一致して、「筋肉の力以外の力」が出るようになるのです。そして、この状態になると見ていて美しくなります。これは「作られた美」ではなく、「生命の美」です。太極拳だけでなく、茶道にも、能にも、武道にもこの美しさがあります。舞踏家などの身体表現をする人も同じです。また、「ゆっくり、丁寧に、心を込めて動く」ということが自然に出来るようになると、「頭」と「心」と「からだ」の間の矛盾が消えるので、疲れなくなります。無駄な力やからだの使い方も減ります。そして、「からだ」が無意識に支配されにくくなります。気が動き出すので、元気になります。このような人の動きは、「筋肉の力」ではなく「意識の力」によって支えられているので、あまり年齢の影響を受けません。あと、これは体験してもらわなければ分からないのですが、このように動いている人の動きは止めることが出来ないのです。「筋肉の力」で動いている人の動きは力で止めることが出来るのですが、「意識の力」で動いている人の動きは止められないのです。
2014.01.30
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昨日も書いたように、人間の思考や心や精神やからだは、「意識」と「無意識」という二つの働きによって支えられています。緊張すると呼吸が浅くなったり、声が出にくくなったり、表情やからだが固くなったりするのは「無意識」の働きの結果です。子どもを叱らないように自分を抑えていても、「気付いたら叱ってしまっていた」というようなことも「無意識」の働きの結果です。人間は、「意識の世界」の中で起こっていることは自分自身でも知ることが出来るし、意識の働きで関わることも出来ます。手を上げようと意識して手を上げた時には、自分の心とからだの状態を意識しながら手を上げることが出来ます。ですから、「もっとゆっくり」とか「もっと早く」と言われれば、そのように動くことも出来ます。でも、怒ったり、びっくりなどして手を上げるような場合には、その動きをコントロールすることは出来ません。無意識が働いているからです。私は結婚後、数年間ですが妻と二人で茶道を学んでいました。鎌倉に宗家がある「宗編流」という流派です。その時、よく先生から注意されたのは、「引く手が汚い」ということでした。茶碗を出す時には注意深く出すのですが、茶碗を置いて手を引く時に意識が外れて、無意識的な動きになってしまうため、美しくなくなってしまうのです。茶道でも武道でも、日本の「道」と呼ばれるようなものはみんな無意識の世界と向き合うことを求めています。日本人にとっては、その深さが「美」なのです。欧米の文化では「意識の世界」に美や文化を求めましたが、日本では無意識の世界の中に浸ることの中に美や文化を求めてきました。それは「コントロール」や「人智」を超えた「あるがままの世界」です。「無為の美」です。茶道において、「侘び寂び」(わび さび)と呼ばれるものもそのようなものです。なぜなら、「生命の世界」は「無意識の世界」の中にこそ感じる事が出来るものだからです。ちなみに、「古代神道」は「生命の世界」を神とする宗教です。欧米は「動の文化」で、日本は「静の文化」であるというような言い方も出来るかも知れません。私がいつも、「自分を取り戻すためには、ゆっくり丁寧に動くことを心がけて下さい」と書いているのもそのためです。実は、人は早く動いている時には意識は他者に向かうため、自分自身の心やからだに意識を向けることが出来なくなり、無意識の働きに支配されてしまうのです。それに対して、ゆっくりと丁寧に動いている時には、自分の心やからだや動きに意識が向かうため無意識の働きを感じやすくなり、「無意識の働き」に支配されにくくなります。そして「意識」と「無意識」の間の矛盾や対立が減り、心とからだが安定します。でも、現代社会はそれとは正反対の方に向かっています。だから頭でっかちになるばかりで、心とからだの生命力が萎えてきてしまっているのです。その状態から抜け出すためには、「ゆっくり」と「丁寧」を生活の中に取り戻す必要があります。私はいつも「からだを使って下さい」と書いていますが、それは「運動のため」ではありません。そうではなく、「自分」と向き合うためです。ですから、「ゆっくり」と「丁寧」が必要になるのです。などというようなことを言うと、「忙しくてそんな悠長なことなんかやってられない」とおっしゃるかも知れませんが、人間が人間らしく生きるために必要なことはそんなに多くはないはずです。無駄なことをいっぱい詰め込んでしまっているから忙しくなってしまうのです。【無為】(KOTOBANKより)道家思想の根本概念の一つ。道家思想では,一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的実在ないしは天地自然の理法としての〈道〉のあり方を体得することを窮極の目的とするが,その〈道〉のあり方を示すのが〈無為〉という概念である。〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。日本語本来の「自由」とか「自然」という言葉の意味は、この「無為」の思想とつながっています。それは、「束縛」に対する「自由」ではないし、「人工」に対する「自然」でもありません。「対立する他者」が存在しない世界です。
2014.01.29
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人間には「意識」というものがあります。「自己紹介」が出来たり、鏡を見て「自分」というものが認識出来るのも、その「意識」の働きのおかげです。この「意識」の働きが弱いと、自分以外のものへ意識を向けることは出来ても、自分自身に意識を向けるのが困難になります。動物たちが鏡に映った自分の姿を見て、それが「自分」であると認識出来ないのは、「意識」の働きを持っていないからです。(チンパンジーは出来るようですけど)女性が鏡を見てお化粧をすることが出来るのも、「お化粧していないと恥ずかしい」と感じるのも意識の働きのおかげです。幼い子ども達はまだこの「意識」の働きが弱いので、「自分のこと」を考えたり、「自分の心」と対話したり、ということが出来ません。ですから、「反省」ということも出来ないし、「恥ずかしい」という感情も弱いです。特に「反省」は、非常に高度な「意識の働き」を必要とするので、大人でも出来ない人はいっぱいいます。「意識」自体は成長と共に目覚めますが、その「使い方」は体験や学びによって学習するものなのです。「意識の使い方」を学ぶことが出来ないと、「自意識」ばかりが強くなって、自分の意識によって「自分」が束縛されることになります。その結果、いつも自分のことばかり考えて生きるようになってしまいます。この状態の人は、「思い込みの自分」に束縛され、自分を「他者の視点」から見ることが出来ません。そして、一度この状態に陥ってしまうと、そこから抜け出すのはなかなか困難です。そして、現代社会にはそのような状態の人がいっぱいいます。そのようなことになるのを防ぐには、子ども達に「手指やからだを使った遊び」をいっぱいさせることです。自分の意識でからだをコントロールしようとする時に「意識の働き」が育つからです。「折り紙」や「あやとり」や、「お手玉」や、「手芸」や、「竹馬」や、「コマ回し」といったような「手指やからだを使った遊び」を通して、子ども達は「意識の使い方」を学ぶことが出来るのです。人間が他の動物には出来ないようなからだの使い方が出来るのは、それは「意識」を使うことが出来るからに他なりません。ただし、一般的にサッカーなどのスポーツはこの「手指やからだを使った遊び」の中には含まれません。「他者」と競い合っている時には、意識が外側に向いてしまうからです。それでも「一人練習」をするなら「意識の働き」も育ちますが、子ども達はあまり「一人練習」はしないものです。これは、スポーツ以外のことでも同じなのですが、親や先生などから言われなくても、自分の意志で、一人で工夫して練習や学習が出来る人は、意識の働きにおいて優れた人です。また、この「意識」の状態は気質とも関係していて、「意識」の目覚めが一番早いのが憂鬱質の子どもです。憂鬱質の子どもは、他の子がまだ単純に「たのしい たのしい」という世界で遊んでいる時に、「自分」というものに目覚め始めます。すると、「自分」と「他者」が分離してそこに「壁」を感じるようになります。そして、「子どもらしい無邪気さ」が消えて行きます。それでも色々と体験して自信がついてきたり、「意識の使い方」が分かるようになってくると意識が外側に向かうようになります。すると、自他を分離していた壁が弱くなり、外の世界にも出て行くことが出来るようになります。でも、大人が追い立てたり、その状態に否定的だと、その壁がますます大きく強くなってしまい、子どもの意識はますます内側に籠もるようになってしまいます。また、人間がこれだけ素晴らしい文化や文明を築き上げることが出来たのはその意識の働きのおかげなのですが、同時にこんなにも自然を破壊し、他の動物以上に残虐なことが出来てしまうのもまた、人間が「意識」という能力を得たからです。実は、「意識」が生まれることで、同時に「無意識」も生まれたのです。これは「光と影」、「紙の裏表」の関係と同じで、必ず二つがセットになっていないとお互いに存在することが出来ないからです。そして、その「無意識の働き」が「生命」や「からだ」や「感情」を専門に扱っています。「人間の意識」(頭)が「人工の世界」を創り出し、「無意識」が「生命」や、「からだ」や、「感情」といった「人間の中の自然」を支えるようになったのです。でも、「意識の働き」の結果があまりにも素晴らしいものだったので、人間は「意識の働き」ばかりに目を向けて、もう一方の「無意識の働き」を否定するようになりました。両者がセットになって一人前なのですが、その片一方だけを大切にして、もう一方を否定してしまったのです。でもその結果、無意識の働きが担当している「生命」や「からだ」や「感情」を否定することになってしまいました。だから、色々なことが狂い始めているのです。現代人が否定しているその「無意識の世界」を知るためには、まず、自分の価値観で善悪の判断をすることをやめる必要があります。「ねばならない」というこだわりとか、「常識」とか、「人目」とか、「くやしい」とか、「恥ずかしい」とかいうようなものを一回捨ててみるのです。そして、ありのままの自分、ありのままの状態に目を向け、そのまま受け入れます。それは湖底を見ることを妨げていた「水面のさざ波」を消す作業です。すると、自分が「自分」という小さな枠の中だけに存在しているのではなく、他の人たちや、他の生命や、地球や、月や、太陽ともつながって生きているということが感じることが出来るようになります。
2014.01.28
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人間は、「今、その人に必要なもの」ではなく、「今、その人自身が必要としているもの」しか見ようとしないし、聞こうともしないものです。ですから、人は、見たいものしか見ないし、聞きたいものしか聞かないものです。特に、子どもにその傾向は強いです。ですから、「片付けなさい」とか「早くしなさい」という言葉はスルーして聞いていないのに、「お菓子があるよ」という言葉にはすぐ反応して飛んでくるのです。でも、これは大人も同じです。講演会などで私が「将来困ったことにならないために今、子育てに必要なこと」を話しても、お母さん達は「今自分が聞きたい問題の答え」しか聞いていません。また、人の言葉を「その言葉を言った人の価値観」ではなく、「自分の価値観」で判断します。子どもが綺麗な小石を見つけて「ママ、見てきれいな石」と持ってきても、「汚いからそんなもの拾ってきてはいけません」と対応したりします。子どもが幼稚園から帰ってきた時も、「子どもが話したいこと」には耳を傾けずに、「お母さんが聞きたいこと」ばかりを熱心に質問するお母さんもいます。そのため会話がずれてしまい、子どもは寂しい思いをすることになるのですが、自分の価値観だけを大切に生きているお母さんは、その寂しさを感じることが出来ません。子どもが障子を破っていると、「子どもがどうしてそのような遊びをしているのか」ということは考えずに、一方的にただ「そんなことをしてはダメでしょ」と大人の価値観を子どもに押しつけます。でも、子どもには大人の価値観は理解出来ませんから、その言葉を無視します。それでも恐怖心を感じるほどに強く叱り続ければ、子どもはお母さんの顔色を窺いながら行動するようになります。自分で判断することが出来ないため、お母さんの顔色にその判断基準を求めるのです。そして、一見「いい子」になるのですが、それはお母さんが怖いから大人しくしているだけなので、お母さんの目の届かないところで遊んでいる時や、成長してお母さんとの力関係が逆転し始めると困った状態になってしまうこともよくあります。ただし、私は「好き勝手にやらせなさい」ということを言っているわけではありません。「子どもの気持ちを理解した上で、対策を考えた方がいいですよ」ということです。そうしないと、子どもは孤独を感じるようになってしまったり、自分の育ちに必要なことが満たされなくなってしまう可能性が高いからです。ただ、難しいのは自分がこのような状態になってしまっていても、自分では「自分がこのような状態になってしまっているということ」になかなか気付けないということなのです。人間は、自分が見たいものしか見ないように出来ているからです。それ故に、相手のことを観察することは出来ても、自分のことを観察するのはなかなか困難なのです。これは、いつも偉そうなことを書いている私自身でも同じです。だから、自分のことを映し出してくれる「他者」と、その「他者に写った自分」に気付こうとする意識が必要なのです。自分が不機嫌な顔をしていれば相手も嫌な顔をします。お母さんがイライラしていれば、子どもは緊張が強くなり、そのストレスによって様々な問題行動を起こすようになります。それは「鏡に映った自分の姿」だからなのですが、そのことに気付かず、それを「自分の問題ではなく相手の問題」だと考えていると、いつまでも問題が解決するどころか、むしろ逆に悪化していきます。ただし、だからといって「一方的に自分の方が悪い」ということではありません。相手の方が先に不機嫌な顔をしているので、その鏡としての自分も不機嫌になってしまうこともあります。そして更に、私のその状態が相手に写って、自分に返ってきたりもします。すると、この状態はいつまでも終わらないことになります。それは、相手が「バカ」と言ってきた時に、こちらも「何を言っているんだ、お前の方がバカだ」、「そんなことはないわ、あんたの方がバカよ」と言い返し合っているようなものです。「子どもが悪いことをする」=>「お母さんが子どもを否定する」=>「子どもは不安と緊張が強くなり問題行動を起こす」=>「さらにお母さんが子どもを否定する」=>さらに・・・というのも同じです。このような場合、双方共に「いいかげんもうやめたい」と思っているのですが、でも、大人は自分が負けたまま終わるのが悔しいので、やり返してしまうのです。日本と韓国や中国との関係もこれと似た状態になってしまっています。(子どもはやり返しているわけではありません。植木に水をやらなければ枯れますが、それは自然現象であって、やり返しているわけではありません。それと同じです。)じゃあ、どうやってこの状態を終わらせたらいいのか、ということですが、一番簡単なのは自分が負けを認めてしまえばその場は収まります。夫婦げんかなどでは多くの人がこの方法を使っています。でも、その方法では相手は勝ったと思い、さらに要求をエスカレートしてくる恐れがあります。また、負けを受け入れた側にも「自分は悪くない」という思いがあるので、関係性そのものは悪化していきます。別の方法としては、相手の鏡になることをやめる、という方法もあります。それは、自分や相手に対して「どうして?」と問い返すことによって可能になります。また、「どうして?」と問い返すことで、自分のことも冷静に見ることが出来るようになります。「どうして、あなたは私のことをバカというのですか?」、「あなたは私に何を求めているのですか?」と相手に問いかけ、「どうして、私はバカと言われるのだろうか?」、「私は相手に何を求めているのか?」と自分に問いかけるのです。子どもはこんな事聞かれてもなかなか答えられませんが、「どうしてこんなことばかりするんだろうか?」とか、「子どもは私に何を求めているのだろうか?」とか、「私は子どもに何を求めているのだろうか」と自問自答することはできます。すると、今まで見えなかったものが見えるようになります。「答え」はそこにあります。
2014.01.27
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昨日は、人間には「頭の中の自分」と、「心や感覚の中の自分」と、「からだの中の自分」の三つの「自分」があるということを書きました。この三つのうち、「頭の中の自分」と、「心や感覚の中の自分」は、「自分が知っている自分」です。よく、「自分のことは自分が一番よく知っている」などと言いますが、この時の「自分」がこの二つです。でも、本当に「自分」のことは自分が一番よく知っているのなら、「自分」を変えるのも簡単にできるはずです。自分の短所や欠点も、中毒や依存症も、虐待などによる後遺症(PTSD)なども簡単に直せるはずです。あがってはいけないような時にはあがらずに、緊張してはいけないような時には緊張せずにすることも出来るでしょう。でも、実際にはそのいずれも出来ません。それは、そのようなことが「からだの中の自分」の現れであり、そして人はその「からだの中の自分」のことを知らないからです。実は、どんなに一生懸命に見ようとしても、「からだの中の自分」は意識の働きで直接見ることは出来ないような仕組みになっているのです。それは、「自分の眼」を、直接自分では見ることが出来ないのと同じです。私たちが見ることが出来るのは、「眼の働きの結果」に過ぎません。それと同じように、「自分が知っている自分」とは、「からだの中の自分」がやっていることの結果に過ぎません。人に出来ることは、ただ「からだの中の自分」がやっている結果を見ていることだけなのです。苦しみもそこから生まれます。じゃあ、どうしようもないのかというとそうではありません。実は、この「からだの中の自分」には、不思議な特性があるのです。それは、見られていないうちはその働きに従うしかないのですが、何らかの方法で、その「からだの中の自分」の状態を知ることが出来ると、変えようとしなくても、自然に変わってしまうことがよくあるということです。「大工と鬼六」の中の鬼や、グリム童話の中の「ルンペルシュティルツヘン」が、自分の名前を相手に知られたら死んでしまうのと同じです。隠れて活動している時には存在していることが出来ても、見られてしまうと、消えてしまうのです。人間には知ることで自分を変える能力があるのです。どんなに頑張って変えようとしても変わらないのに、知るだけで変わってしまうのです。だから、人間にとっては「知る」ということが非常に大切なのです。ただし、この「知る」とは「知識として知る」ということではなく、「感覚的に知る」ということです。「お風呂は温かい」ということを、本などで読んで知ることではなく、実際にお風呂に入って自分の感覚で知ることです。その感覚体験があると、今度はお風呂のことを考えただけでからだが温かくなったりします。寒い時にはお風呂に入りたくなります。からだが求めるようになるのです。でも、「お風呂は温かい」と知識で学んだだけでは、そのような状態にはなりません。「からだ」が変わらないからです。だから、実際に「お風呂」に入らなければならないのです。実際にやってみないことには、感覚的に知ることは出来ないのです。ただし、その時、一緒にお風呂に入って「どうだい、どんな感じ?」と聞いたり、「あったかいね」と気付きを促してくれる人が必要になります。そういう人がいないとなかなか体験しているのに、体験出来ないのです。からだは感じていても、「自分が知ることが出来る自分」がそれを認めないからです。そのような場として「自己表現ワーク」があります。*********★幸せ子育てさんへの返事はコメント欄にて書かせて頂きました。<お知らせ>5月から月一で「自己表現ワーク」を始めます。基本的に10:00~11:50で、参加費は2000円です。土曜日か日曜日を予定しています。(5月は18日です)会場は茅ヶ崎市内です。ただし、月によって違いますのでお問い合わせ下さい。まだチラシが出来ていませんが、詳しいことは後日お知らせします。0~1才児の子育て講座「ゆりかご」は2014年もやりますが、少し形を変えます。これも後日お知らせします。
2014.01.26
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実は、人間はいくつもの「自分」を持っています。一般的に皆さんが「自分」と認識しているのは「頭の中の自分」です。それは「他者としての自分」であり、「セルフイメージ」でもあります。「恥ずかしい」と感じるのも、「自己肯定感が低い」と感じるのも、脳が作りだしている「自分」です。その「自分」は「記憶」によって構成されています。ですから、その「記憶」の解釈が変われば、その「自分」も変わります。子どもの頃はお母さんにやられていたことが嫌だったのに、大人になり、親になってみると、そこにお母さんの愛情を発見したりすることがあります。すると、記憶の解釈が変わります。すると、「セルフイメージ」も変わります。怖かったことでも、慣れることで怖くなくなることもあります。それは、体験が「記憶」に働きかけるからです。この「頭の中の自分」を構成しているのは「思い込み」なので、なかなか頑固であまり変化しません。でも、時として突然変わってしまうこともあります。それはその「自分」は脳が作りだしている幻影でもあるからです。その「頭の中の自分」とは別に「心や感覚の中の自分」もあります。その「自分」は常に「今・ここ」に生きています。いいことがあったら嬉しくなります。嫌なことがあったら悲しくなります。熱いものに触れれば熱く、冷たいものに触れれば冷たいです。そして、記憶と違ってその喜びや感情や感覚は取っておくことが出来ません。どんなに嬉しく楽しいことがあって心が喜んでいても、悲しいこと、苦しいことが起きればその喜びは瞬時に消えてしまいます。どんなに暖かい部屋の中でぬくぬくしていても、寒風吹きすさぶ中に出たらからだは凍えます。「楽しかった」「暖かかった」という記憶は残りますが、その感情や感覚自体は残りません。」ですから、「心や感覚の中の自分」はその状況に正直であり、それ故に常に変化しています。そして、大人達は「頭の中の自分」を生きていますが、子ども達はその「心と感覚の中の自分」を生きています。それはつまり、子ども達は常に「今・ここ」に生きているということです。そのため、子どもは状況や場に合わせて別人のような状態になってしまうこともよくあります。泣いていた子が「いたいのいたいの飛んでいけ~」と言った途端に笑顔になってしまうこともあります。「お前なんか嫌いだ」「もうお前となんか遊ばない」と大げんかしていたのに、5分後には仲良く遊んでいることもよくあります。このようなことは「頭の中の自分」に束縛されている大人にはなかなか分かりませんが、子どもと関わっているとそのような場面にしょっちゅう出くわします。3.11の後でも、「子ども達は相変わらず子どもらしく、明るく楽しかった、それが救いだった」ということが言われたりもしましたが、それも子どもが「心と感覚の中の自分」を生きているからです。ただ、「自分」にはもう一つあるのです。それは「からだの中の自分」です。これは、「自覚出来ない自分」でもあります。そして非常に保守的です。またその「からだの中の自分」は、「無意識という自分」でもあります。「記憶」としては忘れたのに、夢の中に現れることがありますが、それは「からだの中の自分」の働きによるものです。私はインドにいる時、右足の水虫でジクジクしていたところからバイ菌が入り、ものすごく膿んでしまいました。足がリンゴのようにふくれあがり、押すと膿みが水てっぽうのように出ました。それでも、その時は医者にも行かず、「このままのたれ死んでもいい」的な覚悟でインドを歩き回っていました。その時、右足をかばって歩く癖がつきました。立っている時にも無意識にその部分を浮かしていました。もう、それから30年以上も経つのに、でも、その癖は今でも時々出ます。秋風が吹き始めると、スペインにいた時のことを想い出し、賑やかなクラクションの音を聞いたり、ジャスミンの匂いを嗅ぐとインドを想い出します。そういうものが「からだの中の自分」です。イジメや虐待を受けた子ども達が大人になってもその苦しみから逃れられないのも、その「からだの中の自分」が苦しんだままだからです。3.11の悲惨な状況を体験した子どもも、日常的には笑顔ですが、その「からだの中の自分」を癒さない限り、ズーッと苦しむことになります。私が時々書いている「表現」とはその「からだの中の自分」と出会うための方法でもあります。
2014.01.25
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皆さんは、頑固に自分の主義主張を押しつけてくる人と、ニコニコして人の話を聞いてくれる人とどちらの方が強いと思いますか。一般的な「強い」という印象は前者の方でしょうが、影響力の大きさという点では後者の方が強いでしょうね。前者は自分の力で相手を変えようとします。でも当然、その時相手は抵抗します。無視するかも知れません。人間は、子どもでも大人でも、自分を変えようとする働きに対しては抵抗するように出来ているからです。それは本能のようなものです。ですから、無理に押しつけようとすれば必然的に戦いになります。そして力ずくで勝った側が自分の主義主張を相手に押しつけ、相手はしかたなくその押しつけを受け入れます。でも、そこには屈辱感があります。また、表面的には受け入れても、心までは明け渡しません。ですから、押しつける相手の力が萎えてきた時、それまで押さえ込んできた感情が爆発し戦いが生まれます。思春期にその感情が爆発して非常に困った状態になってしまう子もいっぱいいます。それまでは「親の言うことを聞くよい子」だったのに、突然反抗的、暴力的になり、親に対して報復を始めるのです。子どもの価値観を無視して、一方的に自分の価値観を押しつけるような子育てや、仕付けや早期教育に熱心な子育ても、そのような状態になる可能性が高いです。戦争中、日本は韓国や中国に対しても同じようなことをしたのでしょう。だから、日本軍が強い時には素直だったのに、日本軍の力が萎えてくると急に反抗的になり、抵抗を始めたのです。そして、その時の屈辱感はいまだに消えていません。「日本は韓国や中国に悪いことなんか何もしていない」などという人がいますが、ではどうして韓国や中国はこんなにも日本を恨むようになってしまったのでしょうか。暴力的に何をしたのかはよく知りませんが、少なくとも一方的に「従順」を押しつけ、彼らの心やアイデンティティーを否定したのは事実だと思います。子育てでも似たようなことをやっている人がいっぱいいます。そのような子育てを受けた子は、思春期になって自分と親の力関係が変わってくると、それまで押さえ込んできた感情を爆発的に吐き出し始めます。そのような状態の子どもに「こんなにも一生懸命にあなたのために頑張ってきたのに」「私はあなたに対して何にも悪いことなどしていないのに」と訴える人もいっぱいいます。そのような人は、たとえそのつもりがなくても、自分が相手の心を否定したことに気付いていないのです。「力ずく」という方法では、そういう結果になるのです。そして、何も変わらないどころか、事態は更に悪化します。よく、「子どもを変えたい」「亭主を変えたい」という相談を受けますが、それも無理です。これは、反戦とか反原発という活動でも同じです。主義主張自体は正しくても、「反抗する」とか「押しつける」という方法では本質的な問題は解決しないのです。だからシーソーゲームになってしまうのです。先日も書いたことですが、物事が本質的に変わるためには、「内側」から変わる必要があるのです。子ども自らが「変わりたい」と願うようになれば、不可逆的な成長が起きるのです。そして、そのような変化を起こすためには、自分の考えを押しつけるのではなく、相手の考えや気持ちを聞いてあげる必要があります。そして、ただ「何をしたいの?」「どうして?」と問いかけるだけです。これは「非難」の「どうして」ではありません。「気付き」を促すための「どうして?」です。その結果、その人の意識は自分の内側に向かいます。すると成長が起きるのです。ただ、力ずくで変えれば、すぐに変えることが出来るでしょう。でも、それは表面的な変化だけです。ですから、力関係が逆転すればすぐに元に戻ります。さらに、恨みもついてきます。それに対して、内側からの変化には時間がかかります。さらには、こちらの思い通りに変化するとは限りません。でもその変化は不可逆的です。さらにそこには「恨み」の代わりに「感謝」があります。ただ問題は、「私にとって大切なことは何なのか?」「私は何のために生きているのか?」「私は何がしたいのか?」「私はどうしていつも叱ってしまうのか?」などと自分自身に問いかけることが出来る人にしかこの方法は使えないということです。その時、様々な表現活動は自分自身に問いかける働きを促します。素直に自分を表現出来る人は「問いかけることが出来る人」です。その逆に、自分を隠そうとする人は、「押しつける人」です。
2014.01.24
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人類の歴史上、国と国の戦いのほとんどは「正義と正義の戦い」だったのではないでしょうか。双方がお互いに「正義」を主張し、その正義を守るために戦いが起きているのです。「自分たちの方が間違っている」と認識しながら戦争を起こす国はあまりないと思います。それに、それでは兵士の士気も上がらないでしょう。「正義のための戦い」だからこそ、兵士は士気が上がり、死をも恐れなくなるのです。第二次世界大戦の時にも日本には「日本の正義」があり、アメリカには「アメリカの正義」がありました。この「正義と正義の戦い」は、単に「戦争反対」を唱えるだけでは止めることが出来ません。それは「正義のための戦争」を否定することが、「正義」を否定することにもなってしまうからです。そして「正義」を否定する人が肯定されることはないのです。でも、その結果、敵も味方も大勢死にます。戦っても戦っても勝てない戦争もあります。何のために戦争をしているのかすら分からなくなってしまう戦争もあります。時には、親兄弟が殺し合うようになってしまう戦争もあります。その結果「何を」得ることが出来るのでしょうか。「正義のための戦い」で人は平和を得ることが出来るのでしょうか。「正義のための死」は「戦わない平和」よりも尊いのでしょうか。私はそうは思わないのです。そもそも「正義」って一体何なのでしょうか。子ども達は「正義」などというものを振り回したりはしません。時にはケンカもしますが、でも、すぐに仲直りして一緒に遊びます。大人は「どちらの方が悪い」ということを決めたがりますが、子どもはそんなこと気にしません。子ども達にとっては「仲良く遊ぶこと」こそが一番大切なことだからです。言い換えると、それこそが子どもにとっての「正義」なのです。ですから、仲良く遊ぶことを邪魔するような子は阻害されます。でも、「一緒に遊びたい」という意思表示をすればすぐに仲間として受け入れます。そこに「恨み」はありません。だから子ども達はすぐ仲直りが出来るのです。でも、大人は「恨み」が残るのでなかなか仲直りが出来ません。「平和を守ること」もまた「正義」です。そして私は、「仲良くすること」と「平和を守ること」の両方こそが「人類普遍の正義」だと思っています。大人が作った「イデオロギー的な正義」は対立しますが、「子ども達の正義」は対立しないのです。私は、そのように対立を乗り越えたところにこそ「人類が目指すべき本当の正義」があるのではないかと思っています。そして、その「正義」に目覚めるためには、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で表現し、自分の責任で行動することが必要なのではないかと思っています。そうでないと、イデオロギーに振り回されたり、他の人の意見に支配されたりしてしまい、「本当の世界」が見えなくなってしまうからです。すると、「セクト」が生まれ、その「セクト」を守るために戦いが始まります。でも、その戦いには「話し合い」がありません。自分の頭で考えない人たちの集まりですから「話し合い」が出来ないのです。そこには、ただ勝ち負けがあるだけです。学生運動が盛んな頃にはそのようなセクトがいっぱいありました。でも、話し合いが出来ない人たちのグループは非常に危険なんです。「戦争」もまた、「話し合いが出来ないグループ」が始めます。「戦争反対」を訴えるグループでも、感情的に訴えるばかりで冷静な話し合いが出来ないようなグループなら危険です。そして、話し合いが出来ないグループほど「秘密」を持ちたがります。「嘘をついている」ということや、「きちんと話し合っていない」ということがばれてしまっては困るからです。そのような状態から抜け出すためには、自分の中の「小さな疑問」を大切にして、「なぜ?」と問いかけることです。そして、考え、学ぶことです。実は、他の人を支配しようとする権力者にとっては、この「なぜ?」が一番怖いのです。この「なぜ?」を押さえ込むために「話し合い」や「自分の頭で考えること」を否定するのです。教育の場でも、権力者の価値観によって一方的に評価することによって、子ども達が自分の意見を持たないように指導するのです。反対するだけの人は隔離してしまえばOKです。でも、「なぜ?」と問いかける人は、他の人にも「なぜ?」と問いかけます。すると、その人もまた「なぜなんだろう」と考え始め、また別の人に「なぜ?」と問いかけます。つまり、「なぜ?」は簡単に伝染してしまうのです。そして、「なぜ?」を抱えた人たちは真実を知りたがります。私はその先にこそ「みんなが仲良く出来る平和な世界」があるのではないかと思っているのです。「主義主張を持っている人」よりも「疑問を持っている人」の方が強いのです。
2014.01.23
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「反○○」という活動は「○○」を前提にした活動であり、相手に勝った段階で終わります。そういう意味で、「反○○」は「条件が整った時だけしか行わない特別な活動」という事になります。戦争の気配もない状態の時に「反戦活動」をする人は多くないと思います。原発を作ろうとする動きがない状態の時に「反原発」の活動をする人もいないでしょう。そういう点で「反○○」は常に「後手に回る活動」なのです。相手が仕掛けてきてからそれに反応して動いているのに過ぎません。本当に、そのようなことを回避したいのなら、そのような気配が起きる前に、そのようなことにならないように活動しておくべきなのです。イジメが起きてから「イジメ撲滅」を訴えるのではなく、普段からクラスのみんなが仲良くなるように工夫しているのなら「イジメ撲滅」という活動は必要がないのです。子どもに問題行動が出るまでほったらかしにして、問題行動が出るようになってから「どうしたらいいんでしょうか」と聞かれても、そう簡単に問題を解決することはできません。病気と戦って、病気を克服しても、日常生活を変えないことにはまた同じことを繰り返すことになります。「病気を克服する方法」と、「病気にならないからだを作るための方法」は同じではないのです。日本は第二次世界大戦に敗れて「平和」を手に入れることが出来ました。そして、70年近く平和を謳歌してきました。でもその間、日本人は「敗戦によって得られた恵」を享受するだけで「恒常的な平和」を創り上げるための努力はしてこなかったような気がします。だから、近隣国とのトラブルは絶えないし、イジメ、自殺、引きこもり、鬱、ノイローゼなども増えるばかりで消えないのです。それは、若い時に健康な人が、その健康に任せて暴飲暴食や不規則な生活をして好き勝手に生きてきたようなものです。その結果が年を取ってから出てくるのです。でも、病気になってしまってから「病気に打ち勝とう」と頑張ってもその戦いのために多くのことを犠牲にしなければなりません。本当に大事なのは、「何かが起きてから戦う」ことではなく、普段から「何かが起きる条件を作らないように努力すること」の方なのです。「ケンカに勝つ方法」を学ぶよりも「仲良くなる方法」を学ぶ必要があるということです。それが出来なければ「シーソーゲーム」を繰り返すだけになります。「平和」は「戦い」で勝ち取るものではなく、日常的な努力によって創り出すものなのです。敵をやっつければ「安全」にはなりますが、「安全」と「平和」は異なるものです。日本人は平和を享受するばかりで、平和を維持するための努力をして来ませんでした。だから「反○○」という活動が必要な状況になってしまったのです。「反○○」という活動は分かりやすいです。何をすべきかも簡単に分かります。ですから呼びかけもしやすいです。でも、普段から「○○が起きる条件を作らないようにするためには何をしたらいいのか」ということは、自分の頭で考えるしかありません。「想像力」や、「創造力」や、「工夫すること」や、「素直に自分を表現すること」も必要です。でも、日本の教育はこの全てを否定しています。そして、子ども達の「欠点探し」ばかりを行い、大人の価値基準だけで評価し、「助け合い」ではなく「競争」に追い立てています。私は、「子育て」や「教育」が変わらないことにはこのシーソーゲームは終わらないと考えています。戦争を肯定するような教育をするから戦争が起きるのではなく、子ども達を競争に追い立て、「想像力や、創造力や、工夫することや、素直に自分を表現し他者とつながる能力を育てるような教育」をしないから戦争が起きるのです。子育てや教育こそが「根源的な平和」を創る力なのです。そこが狂ってしまっているから世の中全体がおかしくなってしまっているのです。
2014.01.22
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昨日書いたことに誤解がないように補足をしておきますが、私は別に「原発反対」「戦争反対」という活動自体を否定しているわけではありません。ただ、それらの活動には、対症療法以上の意味はないということです。確かに、それ以上状態を悪化させないためには、応急的な処置として対症療法が必要になります。でも、対症療法で悪化を食い止めるのと、健康なからだを育てるのとは全く別の方法が必要になります。風邪を引いて高熱が出た時などには、解熱剤が必要になることもあります。でも、解熱剤を飲んでいれば「風邪を引かないからだ」になるわけではありません。私は「原発」や「戦争」を必要としない社会と理想として考えています。その社会では「原発反対」とか、「戦争反対」などと訴える必要がありません。ただ、そのようなものが現実に存在している社会では「原発反対」とか「戦争反対」という活動も必要になります。それは認めます。でも、「反対という方法だけではシーソーゲームを繰り返すだけになりますよ」ということです。ちなみに、市民が「戦争反対」を訴えて、戦争が回避できた例はあるのでしょうか。多くの場合、みんなが戦争に賛成するようにマスコミが操作され、知らないうちに反対意見が消えて行ってしまったのではないでしょうか。ですから、ここでも「自分の頭で考える」ということが重要になるわけです。自分の頭で考えない人はすぐにだまされてしまうのですから。ですから私としては、「自分の頭で考えることが出来る若者を育てる」ということが、恒久的な平和につながるのではないかと考えています。大人達もまた、「プロパガンダ」(宣伝)にだまされることなく、自分の頭で考えるようになる必要があります。私は、世界中のみんなが、自分の頭で考え、自分の周囲の人や生き物たちと「小さな平和」を作ることが出来るようになれば、別に反対運動などしなくても世界は平和になると考えています。お魚屋さんはお魚屋さんの立場で出来ることをすればいいと考えています。主婦は主婦の立場で出来ることを、母親は母親の立場で出来ることをサラリーマンはサラリーマンの立場で出来ることをお百姓さんはお百姓さんの立場で出来ることをすればいいと考えています。それも立派な「自己表現」であり、平和活動です。「じゃあ、具体的に何が出来るのか」ということは、自分で考えるしかありません。子どもを抱きしめることも世界平和につながるでしょう。家族が仲良くするのも世界平和につながるでしょう。近所の人に挨拶するのも世界平和につながるでしょう。消費を減らすのも、エネルギーに依存しすぎないのも世界平和につながるでしょう。「自分には何が出来るのか」ということを自分の頭で考えるのです。すると、「考えること」や「日々の活動」が「祈り」になります。「祈る」ということは単に「願う」こととは異なります。「そのことのために考えること」が祈りなのです。願うばかりで考えなければ、その祈りは成就しません。その「祈りの力」が恒久的な平和を生み出すのです。状態が悪化している時には対象療法的な「反対活動」も必要ですが、でも、この「日々の祈り」を忘れたら「健康体」を育てる事は出来ません。現代人はみんな「結果の見える活動」にばかり価値を求めますが、本当に大切なことは、日々の「結果が見えない活動」の中にこそあるのです。
2014.01.21
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物事が本質的に変わるためには「内側」から変わる必要があります。でも、実際には人間は「本質」よりも「みかけ」の方を重要視するようで、みんな「内側」のことには目を向けないで、「外側」だけを変えようとしています。特に、現代人にはその傾向が強いような気がします。いじめの問題にしても、「イジメをなくそう」という活動はしますが、「みんながお互いに思いやり、支え合うようなつながりを作ろう」とは言いません。子ども達を競争させておいて「イジメをなくそう」と訴えるのは偽善です。そのため結局は、「モグラ叩き」になってしまっています。現代人は薬やサプリが大好きですが、そういうものは「見かけの健康」を作るだけで、その人の生命力自体を活性化させてくれるわけではありません。解熱剤を飲んで熱を下げても、病気が治ったわけでも、健康になったわけでもありません。美容整形をしても、美しくなるのは見かけだけです。でも、多くの人がその「見かけだけの美」を求めて大金を払っています。素敵にお化粧して、かわいい洋服を着て、高級そうなブランド物を持っているのに、だらしない歩き方をしている女の子もいっぱいいます。原発の問題でも「原発反対」を訴える党を当選させても、「原発が必要のない社会」を作らないことには結局はシーソーゲームを繰り返すだけです。実際、私たちはそのシーソーゲームを目の当たりにしたはずなのに、まだシーソーゲームを繰り返そうとするだけの発想しかない人たちがいっぱいいるのが不思議です。戦争反対を訴えるだけで戦争を回避できるわけではありません。人々が自分の利益ばかり考えて相手のことを理解しようとしなかったり、お互いの間にしっかりとした信頼関係が築けていないから戦争が起きるのです。戦争は「お互いの信頼とつながりの欠如」の結果に過ぎません。「9条を守っていれば戦争は起きない」というのは神話に過ぎません。実際には相手が攻めてきたら戦わざるおえないのです。どんなに熱心に神様に祈っても、その神様自体を否定する相手には全く無意味です。つながりを作る努力をしなければ、戦争をしたくなくても起きてしまうのです。「私には人権がある」と訴えても、「なにそれ?」という相手には無意味です。「子ども達を戦場に送るな」という反対理由においても、我が子のことだけではなく、相手の国の子ども達のことも一緒に考えて、相手の国の人たちと一緒になって「戦争をやめよう」と訴えるのなら、戦争を回避する力になるかも知れませんが、我が子のことだけを考えているなら無意味です。どんなに一生懸命に見かけを整えても、中味が崩れてしまえば、やがて隠しきれなくなるのです。これは子育てにおいても同じです。よく、「よいお母さん」を演じているお母さんがいますが、子どもは「自分を隠して演じているだけのお母さん」からは、「自分を隠してよい子を演じること」を学ぶばかりです。そして、お母さんとのつながりを育てる事も出来ずに、孤独と寂しさに苦しむことになるでしょう。私たちはもっと素直に「自分」を表現していいのです。素直に「自分」を表現するからこそ、その「自分」が成長していくのです。「自分」を檻の中に閉じ込めておいたら、成長できなくなってしまうのです。「そんなことをしたらみんなが自分勝手になってしまう」と思われるかも知れませんが、それは自分を抑えている人が自分の状態を肯定するための論理に過ぎません。実際には「素直に自分を表現する」ということと「自分勝手」は全く別物だからです。「相手の表現を否定する」「相手の話を聞かない」「自分の表現の方が正しいと押しつける」というのが「自分勝手」なのであって、「素直な自分を表現する」ことは「自分勝手」とは異なることなのです。ですから、「素直な自分を表現してはいけない」と押しつけるのもまた、「自分勝手」なのです。
2014.01.20
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お母さん達の話しを聞いていると、「忙しくて子どもと遊んでいる時間などない」と言います。また、いつも忙しく動いているため心の落ち着きを失っています。そのため、しっかりと感じる事も、考えることも出来ない状態です。 このような状態だから、自分のからだや、感覚と向きあったり、対話することが出来なくなってしまっているのです。 では、なんでそんなに忙しいのでしょうか。というか、本当に忙しいのでしょうか。 昔の人は、ボタン一つで何でも出来るような便利な機械など持っていませんでした。毎日食べるご飯を作るのでさえ、朝早くカマドに火を入れるところから始めなければなりませんでした。洗濯だって、洗濯機がないわけですから、一つ一つ丁寧に手で洗うしかありませんでした。また、昔は共稼ぎが普通でしたから、家事や育児の他に仕事もしていました。確かにそれは非常に忙しい毎日だったと思います。 でも、現代社会ではカマドでご飯を炊いている人はめったにいません。ガスか電気で簡単に炊いています。洗濯だってまとめてぶっ込んでボタンを押すだけです。 冷蔵庫がない時には、保存が出来ないので、食事ごとにちょこちょこ買い物に行かなければならなかったでしょうが、今では時々スーパーに行ってまとめ買いをして冷蔵庫に入れておけばOKです。 ですから、客観的に考えたら現代のお母さん達は昔のお母さん達よりも遙かに暇になって、ノンビリと生きていてもいいはずなのですが、でも現実はその逆になってしまっているような気がします。昔のお母さん達の方が、からだは忙しくても心の方はゆとりがあったような気がするのです。だから待つことも出来たでしょう。 実際、今でも自然と共に生きている人たちはいっぱいいますが、そのような人たちはそんなくあくせくしていません。ですから昔の人たちも同じだったと思います。どうして暇になっているはずなのに、逆に忙しくなってしまっているのでしょうか。 私は、それはからだや感覚を使わなくなってしまったため、生命や、からだや、魂の充足を得ることが出来なくなってしまった現代人が、その欠乏感を「刺激」によって満たそうとするようになってしまったからだと思っています。 それは、心が満たされない人が、強い刺激や、買い物や、物欲や、権力欲などでその「欠乏感」を満たそうとするのと同じです。 そのため、便利になって空き時間が出来ると、そこに新しい「何か」を詰め込んでしまうのです。「空白の時間帯」が怖いのです。でも、このようなことをやっていたら忙しくて当然です。さらに「忙しいから子どもと遊ぶ時間がない」と言いますが、「子どもと遊びたくないから忙しくしている」ということはないでしょうか。子どもと遊ぶのは退屈だからあまりやりたくないのです。 でもそれは当然のことでもあります。大人と子どもでは心の働きも、感覚の働きも、からだの働きも事なり、それ故に興味の対象も異なるからです。そして実際、昔はお母さんもお父さんも子どもと遊ぶことは滅多にありませんでした。子どもの周囲には「子ども達」がいたし、地域の中に子ども達の活動を見守る大人達もいました。 でも、今では「お母さん」しかいません。だから、お母さんが子どもと関わってあげないと、子どもは「楽しくない」ということだけではなく、「人間として生きて行くために必要な学び」すらも出来なくなってしまいます。 そのことはお母さん達自身も知っていると思います。だから頑張って「関わってあげなければ」「遊んであげなければ」と思うのでしょうが、心の落ち着きを失ってしまっているので、それが非常に困難なんです。そしてまた、その義務感がお母さんを追い詰めています。でも、そのような状態ではなおさら遊べません。子どもも楽しくありません。この状態から抜け出すためには、感覚の働きに意識を向け直す必要があるのです。
2014.01.19
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やえこさんが引っ込み思案の内弁慶の3歳になったばかりの長男は家族といる時はそうではないのですが、友達と遊ぶと友達を無意味に押す、嫌なことがあると叩く、無理矢理奪う、オモチャを譲れないのです。他の子を見てるとオモチャを譲れたり、手をあげたりしない子が多い気がします。言葉も話せますがすぐ手がでます。次男がもう時期生まれますが親子関係も良好です。このブログを見るたびにうちの子は本能的で子供らしくて良いと思えていましたが、長男が手をだすたびに叱ったり、前以て、叩かないよう注意したり、言う方も辛いですが、長男が可哀想にも思います。3歳になったら落ち着くと思ってましたが一向に落ち着かず、独占欲が強まるばかりです。と書いて下さったので、今日はこの問題について書いてみます。やえこさんのお子さんと同じような状態の子どもは結構います。私が指導している親子教室にもいます。どこかで泣き声が起きると、ほとんどの場合その子が原因です。他の子が近くに寄ってきただけでも、まだ歩き始めたような赤ちゃんでも容赦なく突き飛ばすし、おもちゃの取り合いをすると噛みつくし、大人の言うことは聞かないし、大変な状態です。その都度お母さんは謝って歩いています。公園などではあからさまに嫌われていて、みんな近づいてこないようです。一般的にこのような子を見ると、周囲のお母さん達は「仕付けが出来ていない」「甘やかしている」「どうしてもっと厳しく叱らないのかしら」などと思うようですが、実際にはそんなことはありません。このような子のお母さん達はみんな必死になって、子どもを仕付けようとしたり、叱ったりしています。また、私が昨日書いたような、「近くによって目を見て語りかける」ということを心がけているお母さんだっていっぱいいます。それでも、子どもの状態は変わらないのです。ですから、お母さんを責めても、いいことなんか何にもありません。むしろ子どもやお母さんを追い詰め、更に状態を悪くしてしまうばかりです。結論から言うと、これはお母さんの仕付け方や、育て方の問題ではないのです。(生活の問題ではありますけど・・・。)むしろ、お母さんがどんなに叱っても、叱れば叱るほど子どもの状態は悪化するばかりです。このような状態の子でも、その成長には安心と安全が必要だからです。私の教室などで、子どもがこのような行動を取った時には私が叱ります。誰かが「いけないことはいけない」ということを伝えなければならないからです。そしてその時、「お母さんは叱らないで下さい」と伝えています。私が強く叱ると、子どもが泣くこともあります。そして、お母さんの所に行きます。その時にはお母さんは抱きしめてあげて欲しいのです。お母さんも一緒になって叱ったら、子どもは居場所を失ってしまいます。ここで大切なことは「このようなことはいけない」ということを伝えることであって、子どもを怯えさせたり、不安にさせることではないのです。このような子どもがいる場合は、周囲の大人みんなで子どもやお母さんを支えてあげる必要があるのです。それと、これは子どもの「からだ」の問題なので、状態を改善するためには「からだの育ち」という視点から関わる必要があります。簡単に言うと、このような子は神経系が不安定で、緊張が強い傾向があります。からだも固いです。目を見ても、目に落ち着きが在りません。目を合わせないこともよくあります。からだをコントロールする能力も低いです。そして、安心できる場ではあまり問題行動を起こさないのですが、少しでも緊張したり不安を感じるような状況になると、急に不安定になって、混乱してしまいます。また、興奮しやすい傾向もあります。そして、興奮したら手が付けられない状態になってしまいます。こういうことは、自分ではコントロール出来ないことなので、叱っても心が傷つくだけで、問題は解決しません。どうしても子どもを叱ってしまうお母さんに、「叱らないように」叱っても、無駄ですよね。それと同じです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、生活の場から出来るだけ強い刺激を遠ざけて下さい。テレビやゲームといった刺激の強いものは子どもの状態を悪化させます。甘いものを取り過ぎないようにして下さい。甘いものの取り過ぎは神経系を不安定にします。味付けを薄くして、出来るだけ素朴な味を楽しむようにして下さい。寝る時間、起きる時間などを整えて下さい。対話したり、歌を歌ったり、絵本を読んであげたりして下さい。マッサージなども効果的です。子どもと一緒にからだを使って遊ぶ遊びをいっぱいして下さい。年上の子ども達と遊ぶ機会を作ってあげて下さい。子どもの育ちにおいては、お母さんが子どもに何を言って、どのように仕付けているのかということよりも、お母さんが子どもにどのような生活環境を与え、子どもとどのように関わっているのかということの方が影響が大きいのです。その証拠に、子どもは「お母さんが言ったこと」は覚えていませんが、「お母さんの言い方」はしっかりと覚えています。それは、お母さんが「優しくしなさい」と怒鳴れば、子どもは「優しさ」ではなく、「怒鳴って押しつけること」の方を学んでしまうと言うことです。あと、最後になりますが、私が関わっているほとんどの子どもは年長さんぐらいから状態が改善し、落ち着いてきました。9才頃になって、別人のように落ち着いてしまった子もいます。ですから、それを信じて、もうしばらく頑張って下さい。
2014.01.18
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胎児は出産によって、自分が人間として生きる世界と出会います。そして、母親と出会い、父親と出会います。そして、様々な形で「自分が人間として生きる世界」や「お母さん」や「お父さん」とつながろうとします。その結果、「成長」が発生します。人間が成長するためには、それまでにはなかった新しい要素との出会いが必要なのです。逆に言えば、全く変わらない世界(環境)の中で、全く変わらない生き方をしている人は成長しないということです。どんなに悩んでも、それだけでは何にも変わりません。そんな時は、ちょっとだけでも、自分が生きている世界との関わり方を変えてみることです。世界の方を変えるのは困難ですから、「自分」の方を変えてみるのです。すると、結果として「関わり方」が変わります。そして、「関わり方」が変わると「世界」が変わるのです。すると「成長」が始まります。いつもより30分早く起きてみる、いつもは挨拶しない人に挨拶してみる、いつもは叱っているところを、叱らないようにしてみる、お店に通う道を変えてみたり、いつもは素通りしているところで立ち止まってみたりするだけで、「世界」が変わり、「成長」が始まるのです。このように「自分の意志で自分を変えてみる」という行為は人間以外の生き物には出来ない行為です。9才前の子どもにも出来ません。人間が地球や自然をこんな状態に変えてしまったのも、人間が「自然から人工へ」と生き方を変えてきたからです。地球を変えようとして変えたわけではありません。だから、地球がこんな状態になってしまっていても気付かないのです。逆に言えば、「地球や自然を回復しよう」という活動をしても、多分、地球や自然は回復しないと言うことです。でも、「自分たちの生き方を変えよう」というように意識が変われば、結果として地球や自然も変わるのです。これは、「原発」の問題でも「子育て」でも同じです。お母さん達の相談を聞いていると、みんな「子どもをどうしたらいいのか」という事ばかりを聞いてきます。でも、どんなに「子どもを変えよう」と努力しても、子ども自身にも、お母さん自身にも自ら変わろうとする意志がなければ、苦しみが増えるばかりで何も変わりません。そして子どもは、自分で自分を変えたいとは思わないし、そのように努力することもありません。せいぜい、「叱られないように」工夫するだけです。お母さんとしてはそれだけでも「叱る原因」が減って満足するのかも知れませんが、それは「ずるがしこくなった」というだけのことであって、「成長」したわけではありません。グチグチと叱ってばかりいると、子どもはどんどんずるがしこくなります。嘘もつくようになります。そんな時は、「子ども」を変えようとするのではなく、「自分」を変えてみるのです。などというと、「私は変わらなくていいんです、変わる必要があるのは子どもの方です」と言いたい人がいっぱいいると思いますが、その意識が変わらない限り子どもは変わらないのです。子どもの状態は、「お母さんとの関係性の結果」だからです。子どもは「親の鏡」、「大人の鏡」なのです。そして、「自然」は「人間の鏡」です。その時、大切なのは「自分そのもの」を変えようとするのではなく、ただ単に「相手との関係性」を変えるようにすることです。私が言っている「自分を変える」というのはそのような意味です。自分で「自分そのもの」を変えることなど出来ないからです。それが出来るなら何にも苦労はありません。でも、相手との関係性を変えることは出来ます。そして、相手との関係性が変わることで、結果として「自分」が変わるのです。意味が通じていますでしょうか。子どもの表情に意識を向けてみる。子どもの言葉に耳を傾けてみる。「早くしなさい」を少し減らしてみる。いつもよりもちょっと近くによって話しかけてみる。立って上から話しかけていたのを、しゃがんで、目を見て話し、目を見て話を聞くようにする。このようなことを意識するだけで、子どもとの関係性が変わります。特に、「子どもと目の高さを合わせる」というのは非常に重要です。これだけで、子どもとの関係性が大きく変わります。目の高さが一緒だと子どもの表情が見えるようになります。話を聞きやすくもなるし、お母さんが自分の気持ちを伝えたり、子どもの言葉を待つこともしやすくなります。子どももまた、「自分の気持ち」を話しやすくなります。すると、「お母さんと子どもの関係性」が変わります。結果として、子どももお母さんも変わります。どうぞ、お試しあれ。
2014.01.17
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9才頃までの子どもは楽しければそれだけで満足します。でも、9才を過ぎる頃からそれだけでは満たされなくなります。「意味」というものを求めるようになるからです。「生きる意味」「勉強する意味」「遊ぶ意味」などです。大人は最初からその「意味の世界」を生きていますから、幼い子ども達が意味のない活動をしていると、それを「無駄な時間」「無駄な行為」と感じて、もっと「意味のあること」をさせようとします。でも、幼い子ども達には「意味」ということが分からないので、単純に「自分が否定されている」と感じるだけです。さらに、それでも大人の期待通りに動くことはありません。なぜなら、大人が期待しているものが分からないのですから、頑張りようがないのです。その、「意味が分からない」というのは、ただ未熟だからではありません。「意味」というものよりも先に学ぶべき事があるからです。それは、「生きるって楽しい」「学ぶって楽しい」「仲間と一緒に活動するって楽しい」「何かを作るって楽しい」「表現するって楽しい」というようなことです。このようなことは「意味というものの価値」を知るよりも先に学んでおかないと、学びにくくなってしまうのです。そして、この学びで得たものは、一生子どもの心の中で働き続け、様々な「子どもの活動」や「生きる」ということを支えます。これは冷静に考えれば分かることなのですが、人が生きていること、生まれてくることに「客観的な意味」などないのです。宗教がまだ生きていた時代にはその「意味」を宗教が与えてくれていましたが、宗教が消え、科学的価値観だけで物事を判断するようになった世界では、「死にたくないから生きる、生まれてきてしまったから生きるという現実」以上の「生きる意味」など見いだせないのです。でも、人間はそれでも「生きる意味」を求めます。科学は「意味」を否定しますが、もともと人間は非科学的な存在ですから、それでも「意味」を求めるのです。人間は本質的に「非科学的な存在」なのです。ですから、「科学信仰」は「人間否定信仰」でもあるのです。科学を「道具」として使うのはいいのですが、依存したり信仰する対象にしてはいけないのです。そうでないと、人間は「人間が作ったもの」によって滅びます。その「意味のない世界」を生き抜くためには二つの方法があるような気がします。一つは、「人工的な意味」を設定して、その意味のために生きることです。それは、「お金を儲けること」、「出世すること」、「勝ち組になること」、「社会的に成功すること」などです。このような考え方の対象になっているのは常に「結果」です。成績を上げるために勉強をするのです。ですから、成績が上がらなくては勉強をする意味がないのです。さらには、「結果」を得ることが出来なければ、「生きる意味」自体が消えてしまうのです。勉強の意味を「一流大学合格」に設定していた子は、希望校に合格出来なければ、それまでの「自分の人生の意味」まで失うことになってしまうのです。さらに、その「意味を結果に設定する考え方」は「競争」を生み出します。そのため、限られた人しか「自分の努力」の結果に「意味」を得ることが出来ません。でも、それとは別の生き方もあります。それは「楽しむ」という生き方です。学ぶこと自体を楽しみ、仕事を楽しみ、子育てを楽しみ、生きるということ自体を楽しむ生き方です。このような生き方で大切になるのは「結果」ではなく「過程」です。そして、この方法は競争を生み出しません。逆に、人と人とのつながりを創り出します。9才までの子ども時代は、このような「楽しさを発見する能力」を育てるための期間なのです。だから「結果」には価値を感じないようになっているのです。
2014.01.16
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人間は「思い込み」を生きています。そして、「思い込み」の世界では、「他の人」を疑うことはあっても「自分」を疑うことはありません。宗教も「思い込み」だし、常識と呼ばれるものも「思い込み」です。「勉強しないと落ちこぼれる」というのも、「自分は自己肯定感が低い」と考えるのも「思い込み」です。「昨日も食べ物があったし今日もあるから、明日もあるだろう」というように考えるのも「思い込み」です。その「思い込み」には根拠がありません。というか「根拠」を必要としていないのです。幼い子ども達は、みんな「お母さんやお父さんは自分を愛してくれている」と思い込んでいます。「だから、自分の世話をして、衣食住を与えてくれているんだ」と思い込んでいるのです。その「思い込みの世界」は、「天動説」的な世界です。「自分(地球)」が動いているなどとは考えなければ、動いているのは「太陽」の方に決まっているのです。そこにも確かに論理はあるのですが、「自分を見る眼」(他者の眼)がないのです。「文学の世界」は、この「思い込み」によって出来上がっています。でも、「自分を見る眼」がないことには、科学にはならないのです。この、「自分を見る眼」が目覚め始めるのが9才頃なのです。それ以前にも、「なぜ?」、「どうして?」という疑問はあります。一生懸命論理的に考えたりもします。でも、その全てが「思い込み」による論理なので、「文学」的ではあっても、「科学的」ではないのです。子どもの心の成長を比喩的に説明すると、7才までの子ども達は神様が存在する「神話的な世界」に生きています。その世界は、「心の世界」と「心の外の世界」が一体化していて、夢の中の世界のようです。その世界では「体験」がそのまま「論理」になります。ですから、7才までの子どもは、体験したことがないことを考えることが出来ません。逆に言えば、それが特別な体験で、一般的ではなくても、子どもはそれを一つの論理として一般化してしまうのです。病院に行って痛い思いをしたら、「病院は痛いところ」という論理が出来上がってしまうのです。この論理は「思い込み」で出来ていますから、子どもを病院に連れて行きたい大人が「この前は注射を打ったけど、今日は診てもらうだけだから痛くないよ」と説明しても無駄です。このようなことは大人にもあって、一度嫌な思いをした相手とは関わりたくなくなるものです。それが「勘違いかも知れない」という可能性があっても、そのようには考えません。でも、7才を過ぎると「体験」と切り離した「論理」というものが理解出来るようになります。それが「1+1=2」という論理です。この論理が分かるようになって始めて「頭での学習」が可能になります。でも、まだ「自分を見る眼」が目覚めていないので、その論理は「文学的」です。文学の世界では主人公の目だけで全てが語られます。自分に原因があって友達が出来ないような場合でも、「みんなが僕をのけ者にする」と、友達が出来ない原因を全て相手のせいにします。「もしかしたら原因は自分にあるのかも知れない」などとは考えないのです。これが9才頃までの子どもの論理です。でも、9才頃から「自分を見る眼」が目覚め始めます。(今の子ども達の心の発達は、昔の子ども達よりも遅れているようですから、もう少し後の年齢になるかも知れません。)すると、「比較」によって物事を考え、理解しようとするようになります。思い込みによって支えられていた「絶対」が失われてしまうため、「相対的関係」の中に「絶対」を見つけようとするのです。科学はそのような思考の延長にあります。ただし、このようなことは「可能になる」というだけのことであって、誰にでもそのような能力が目覚めるわけではありません。神話的な世界に留まっている大人もいれば、文学的な世界に留まっている大人もいます。でもそれはそれでいいのです。色々な人がいるから、この世界に多様性が生まれているのですから。ちなみに女性は男性よりも、神話的、文学的な世界に生きています。そのため科学的に語ろうとする男性とは対話が成り立ちません。
2014.01.15
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(昨日からの続きです)このようなことを踏まえて「9才」という年齢の意味を説明すると、「9才という年齢は、物語的価値の世界から、社会的価値の世界へと移行する転換点である」と言うことになります。それは、「魂」が、「子どもの世界」から「大人の世界」へ生まれ出ることでもあります。 ただし、ここで言うところの「9才」とは、「9才前後」ということであって、「正確に9才」という意味ではありません。実際には、生活環境や、親の価値観や、子どもの気質によっても、その時期は異なってくると思います。また、その変化は数年に亘ります。 この頃を境に、遊びなどでもただ「楽しければOK」という状態から、「自分の活動における意味」を求め始めるようになります。それはつまり、ゲームだけやっているだけでは満足できなくなってくる、ということでもあります。 それまでは、一緒にゲームが出来ない子は仲間に入れてもらえなかったのに、この頃から逆に、現実世界の中で「何か」が出来る子の周りに「仲間」が集まり始めるのです。 それまでは「釣りゲーム」で満足できていたのに、社会的価値に目覚めると、「実際に海や川に行って生きている魚を釣る釣り」の方がかっこよくなるのです。ですから、この頃から遊びが少しずつ、「ゲーム」から脱却し始めます。 そして、現実世界の中で色々なことにチャレンジし始めます。ただその時、「善悪の価値観」が未成熟な上に、好奇心だけで行動してしまうため、色々と「困ったこと」をしてしまうことも多々とあります。でも、これにも意味があるのでしょう。「善悪の価値観」は行動を抑制してしまうため、好奇心やチャレンジ精神より先に出来上がってしまっては困るのです。 ただし、全ての子がゲームから脱却できるわけではありません。「9才」という幼い年齢でありながら、もうすでに「社会」というものに絶望している子や、山や海や自然の中で遊んだり、仲間と群れて遊んだりというような「ゲーム以外の活動」の体験がない子や、自己肯定感を失い「社会」というものが怖くなってしまっているような子や、不安やストレスが強いような子は、「社会的な価値観」を否定し、いつまでも自分が主人公でいられる「物語の世界」の中から出たくなくなってしまうのです。そのような子にとっては、ゲームが「遊び」ではなく、「逃避場所」になってしまうため、ゲームから脱却するどころが、むしろ逆に依存が強まってしまうのです。そして、一度この状態に陥ってしまうと、そこから脱却するのは非常に困難になります。実は、「9才」というのは、それまでの子育ての結果が現れ始める時期でもあるのです。9才になってからいきなり「9才の危機」が始まるわけではないのです。幼い時から色々な体験をし、素敵な大人達といっぱい関わりながら育った子は、「大人の世界」に夢や希望を感じることが出来るように育つでしょう。そのような子は、9才になってもそれほど危機的な状況にはならないと思います。ですから、この時期の子ども達の活動に必要なことは、積極的に社会の中に出ていって、色々な人と会い、色々な体験をすることです。そのことで、子どもは自分が「新しく生まれ出た世界」(大人の社会)に希望を持つことが出来るようになるからです。そして、「自分の価値」にも目覚めるでしょう。
2014.01.14
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頼まれている原稿が終わらないので、それを書いていて遅くなりました。まだ終わっていませんが、今日までの所をブログにもアップさせて頂きます。******************** うちには年の離れた4人の子どもがいます。女・男・女・男の4人です。 その4人の子ども達の育ちを見ていて発見したことがあります。それは9才頃までは弟や妹と「仲間」として遊んでいたのに、お姉ちゃんやお兄ちゃんが9才を過ぎた頃から「仲間」としてではなく、「お姉ちゃん」や「お兄ちゃん」として関わるようになってきたということです。 そして、「幼児期の無邪気さ」が消えて行きました。長男が「学校に行きたくない」と言い出したのもその頃です。また、自宅でやっている造形教室の月謝の中から不自然な状態でお金が消え始めたのもその頃の出来事です。 前者の問題は、人ごとなら簡単に「じゃあ休ませてあげて」と言えるのですが、我が子に言われると、色々な不安が横切り色々と考えました。それで、知り合いがやっている不登校の子ども達が共同生活している場所があったので、「そこに行くなら学校は休んでもいいよ」と言いました。 その場所は足柄の山の上にあり、その時は中学生と高校生ばかりで小学生はいませんでしたが、本人が「それでもいい」と言うのでそこで預かってもらいました。 息子はそこで、中高生のお兄ちゃん達と遊んでもらい元気を取り戻したようで、たった三日後には元気に帰ってきて学校にも行き始めました。以来「学校に行きたくない」とは言わなくなりました。何かに目覚めたのでしょう。 「お金」の問題は友達のお母さんが、「こうちゃんお金をいっぱい持っているけど大丈夫?」と連絡してくれて発覚しました。その時もどのように対応したらいいのか悩みましたが、「君には分からなくても、君のやっていることはお母さんやお父さんは分かっているからね」というメッセージを暗黙のうちに伝えるだけにしました。 強く叱るだけでは反発してきたり、子どもの心が傷ついたり、もっと巧妙にやるようになるだけだと思ったからです。そして、それ以来「お金が消える」という不思議な現象は消えました。 このようなことも、いわゆる「9才の危機」と呼ばれるものと関係していると思います。 うちの子だけでなく、9才頃になるとそれまでとは違うことを言い出したり、違うことを考え始めたり、違うことを始めたりする子が多いようです。 それは、それまで見えなかったことが見えるようになって来たり、考えることが出来なかったことを考えることが出来るようになって来たからなのでしょう。 うちの子は「自分の家のお金」をちょっと失敬した程度でしたが、「万引き」という困ったことをしてしまった子もいます。 子どもは、9才頃から急激に「物事を客観的に見る能力」が目覚め始めます。そのような変化は、絵を見てみるとよく分かります。9才頃から絵が急にリアルになるのです。 客観性の目覚め自体は7才頃から始まるのですが、7才から9才までの間は、まだまだ夢の中から目覚めきってはいないような状態です。写生画を描かせても、目で見た色や形をそのまま描いているのではなく、自分の感覚で感じた色や形を描いています。そのため、自動車でもビルでも、描かれたものに子どもの心を感じます。 でも、9才以降の子どもの写生画は、「子どもの心」ではなく、「子どもの目」を感じるような表現になっていきます。それと同時に、お母さんや大人を無条件には信じなくなってきます。 実は、「客観性の目覚め」と「疑う心の目覚め」はセットになっているのです。そしてそれは、今まで無邪気な子どもの魂を守ってきた「物語の世界」が消え、「無機的で冷たい現実世界」と出会うということでもあります。「物語の世界」の中では、お母さんやお父さんはスーパーマンにも匹敵するような「特別な存在」だったのですが、客観性が目覚めてしまうと、お母さんやお父さんは、何ら「特別な人」ではなく、ただの普通の人だと言うことが分かるようになってしまうのです。そして自分もまた、「特別な人に愛されている特別な存在」ではなく、どこにでもいる、「普通の子ども」であることを知ることになります。<続きます>
2014.01.13
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現代社会は、家庭の中や地域の中から「多様性」が失われ、子どもが育つ環境としては非常に貧弱な状態になってしまっています。それは、人と人との関わり合いが減り、生活や社会が合理化され、色々なことが便利になり、からだを使う必要性が失われ、人々が受動的に、機械的に生きるようになってしまった結果でもあります。そのため、子ども達は歩くことも、からだを動かすことも、考えることも、感じることもしなくなりました。本来は、子どもの育ちに非常に大きな役割を果たしていた「遊び」ですら、多様性が失われ、簡単、便利になり、子どもの育ちを支える力を失いました。人間の様々な能力は生まれつきのものではなく、日々の生活の中での必要性に応じて育つように出来ているので、能力が必要がない環境で育っていれば、能力が育たないままになってしまうのです。確かに、お年寄りや障害を持っている人には、簡単便利な機械や生活は必要なものかも知れませんが、これから様々な能力が成長しなければならない時期の子ども達にとっては、「簡単便利な生活」は、その成長を阻害するようにしか働かないのです。ですから、子どもが幼いうち、少なくとも7才頃までは、なるべくあまり便利な生活をせず、手や、からだや、頭や、感覚を使う必要がある素朴な生活の方が、子どもの成長には肯定的に働きかけるのです。人類はそのようにして、つい最近まで生きてきました。生活や社会が、こんなにも簡単便利になったのは、何万年とか何十万年と言われる人類の歴史のうちの、たった数十年のことに過ぎません。ですから、私たちは今、今まで人類が体験したことのない人体実験を、自分たちに行っているのです。人間は様々な野生動物を飼い慣らし、家畜として扱いやすいように品種改良してきました。人間だけでなく、様々な動物たちも環境に合わせて生きているので、人工的に環境を変えることで、人間の都合に合わせて動物たちの性質や能力やからだを変えることも出来るわけです。更に人間は、そのような動物の中でも非常に環境に対する適応能力が高いため、何世代もかけなくても、生まれた時からそのような環境で育てれば、その環境に適応した状態に育ってしまうのです。だからこそ、人間の子どもの育ちにおいては、生活環境が非常に重要な要素になってくるのです。とはいっても、現代社会に生きている限り、そう簡単に昔のような素朴な生活をすることは困難です。実際、我が家もそれなりに簡単便利な環境の中で子育てをしていました。でも、それだけではいけないということも分かっていましたから、休みの時や、暇を見つけては子ども達を自然の中に連れ出すようにしていました。食べ物も可能な範囲で素朴なものを食べるようにしていました。インスタントラーメンやハンバーガーなども食べましたが、本当に「まれに」という状態でした。それと、私が大切にしたのが「何かを作る(創る)」という活動です。自由な創造活動は、人間の持っている総合的な能力を必要とするため、自由な創造活動を楽しむような環境を生活の中に作ることで、子ども達は「現代的な環境の中では育てる事が出来ない能力」を育てる事ができると考えたのです。それで、長女が5才、長男が3才の頃に「造形教室」を始めました。それが23年ぐらい前のことです。そのおかげで、うちの子達はみんな作ることが好きになりました。他の科目の成績は悪くても、図工だけはみんな5でした。私はそれでいいと思っています。その造形教室をやりながら「茅ヶ崎 賢治の楽校」という活動も始めるようになり、様々な表現活動とも関わるようになりました。(この「賢治」は宮沢賢治の「賢治」です。)そこでは劇遊びや、様々な身体表現などで遊びました。更に、3番目の娘が2才の頃から、「ポランの広場」という「親子で遊ぶ会」を始めました。(この娘が明日成人式を迎えます。)子どもの育ちには、「子どもがお母さんとどのような関わり合いをするのか」ということと、「仲間と一緒に遊び、思いっきり声を出し、思いっきりからだを動かす体験」が必要だと気付き始めたからです。造形活動は、基本的に一人で行う活動ですから、個人としての能力の育ちを支える働きは大きいのですが、他の人とつながり、共に生きる能力を育てるためには、それだけでは足らないのです。********今日は、「私はどのような子育てをしてきたのか」ということを書きましたが、親が直接子どもに出来ることには限界があります。だからこそ「環境を整える」ということが重要になってくるのです。子どもは「お母さん」によって育てられているのではなく、「環境」によって育てられているのです。「お母さん」や「お父さん」もまた、その「環境」の中の一部に過ぎません。お母さんがどんなに頑張っても伝えることが出来ないようなことでも、環境を整えることで伝えることが出来ることも多いのです。
2014.01.12
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確かに、子どもの育ちにおける母親の役割は非常に大きいです。でもそれは、「母親だけで何でも出来る」ということではありません。子どもの育ちにおいて、「母親さえいれば」というのは大体2,3頃までであって、それ以降は次第に、仲間や大人や自然との関わりの方が重要になってくるからです。2、3才頃までの子どもにとって「お母さん」は絶対的な「保護者」です。そして、この時期の子どもの育ちに必要なものは、すべて「お母さん」からやってきます。そのため、この時期の子どもは100%「お母さん」を信じています。この時期の「お母さんの役割」は、衣食住を与え、毎日の生活を安心と安全と愛情で満たしてあげることです。でも、3才頃から子どもは「仲間」と「冒険」を求め始めます。この頃から、それまでの「保護する」という意識を少し緩め、「見守る」という意識も必要になってきます。そして同時に、お母さんだけでは子育てが出来なくなります。お母さんがどんなに頑張っても、「仲間」の代わりにはならないし、子どもは「冒険」と出会えないからです。この時期の子どもにとっては、「お母さんから離れる」ということ自体が最大の「冒険」なのです。「お父さんの役割」が大きくなるのもこの頃からです。また、3才頃から身体機能も成長し、少しずつですが、トンカチ、ノコギリ、ナイフ、木登り、ケンダマ、コマ回しなどに興味を示すようになり、また出来るようにもなります。うちの子ども達も3、4才頃にはこのようなことが出来るようになっていました。長男は年中の時に保育園でのコマ回し大会で優勝し、四番目は3才でノコギリ、トンカチ、切り出しナイフを普通に使っていました。でも、このような遊びには「危険」が伴います。でも子どもは、その「多少の危険が伴う冒険」が好きなのです。なぜなら、そういうことが子どもの心とからだの成長に必要なことだからです。そのため、「保護」という意識から抜けられない人は、このような危険から子どもを遠ざけようとします。その結果、子どもは「仲間」や「冒険」と出会えなくなってしまいます。すると、子どもは次第に「外の世界」に興味を感じなくなっていきます。「仲間」や「冒険」は、子どもを「外の世界」に出会わせるために必要な「きっかけ」なのです。また、この頃から子どもはお母さんや大人を「お手本」として模倣するようになります。そして、お母さんがやっていることに興味を示し、お母さんと同じことをやりたがるようになります。「お母さんごっこ」や様々な「ごっこ遊び」などもその表れです。ですから、色々なことを一緒にやってあげることも必要になります。子どもは教えられても出来ませんが、一緒にやってあげるとそれなりに出来るものです。でも、5才頃からまた「子どもがお母さんに求めるもの」が変わってきます。「一緒に」ではなく、自分のやっていることや、頑張りなどを認めて欲しくなるのです。この頃から子どもは「目的」を決めて行動することが出来るようになります。つまり「努力」が出来るようになるのです。だから、お母さんが子どもがやっている努力や頑張りを積極的に見つけて褒めてあげると喜びます。この時、「出来ないこと探し」、「欠点探し」ばかりしていると、努力すること、我慢することが嫌になってしまいます。7才前後になると、子どもはお母さんの保護や見守りを必要としなくなります。子どもは衣食住以上のことをお母さんには求めなくなるからです。この頃から、子どもは仲間との関わり合いによって学び始めます。そして、子どもは少しずつ「一人の人間」として生き始めます。でも、それと同時に、人間としての色々と悲しいこと、辛いこと、苦しいこととも出会うようになります。ですから、お母さんは「人生の先輩」として、色々と話を聞いてあげる必要が出てきます。最初は、「保護者」だったのが、次に「お手本」になり、次に「認め励ます人」になり、次に「先輩」になるのです。そしてその変化に伴って、子どもに伝えることが出来ることも変化しています。
2014.01.11
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5日に、ぶーてぃさんから幼児期の子育てにおける親の役割について、明確に書いていただきとてもわかりやすく参考になりました。学童期(細かくわかれるのかもしれませんが・・・)の子育てにおける親の役割を同様におしえていだだけないでしょうか?ちなみにわたしには小学一年生(6歳)の息子がいます。よろしくおねがいします。という質問を頂いたので、このことについて書いてみます。実はこれはなかなか難しいのです。2才頃までの子どもは、「お母さん」が側に居ればそれだけで必要なものが充分に満たされてしまうので、お母さんとの関係が子どもの状態に直接的に影響してきます。でも、いわゆる「反抗期」(イヤイヤ期)が来る頃から少しずつ「仲間」との関わり合いが必要になります。この頃から「お母さんとの関係」だけでなく、「仲間との関係」の中にも自分の居場所を求めるようになるのです。そのため、この頃から、子育ては「子どもとどう関わるか」ということだけでなく、「子どもにどういう環境と仲間を与えるのか」ということが重要になってきます。つまり、「お母さんの役割」が変化するのです。4、5才頃になると仲間と群れて遊ぶことが出来るようになりますが、これは「役割」とか「人と人の関係性」というものが見えるようになってきたからからです。ですから、「仲間」も、「遊ぶ場所」も、「遊ぶ時間」も、また「束縛されない自由」も必要になります。この頃から、お母さんには「そのようなものを子どもに与え、そして見守る」という役割が必要になります。それは、子どもが困った時には手助けし、泣いて帰ってきた時には抱いてあげ、一生懸命にやっている時には励まし、そして待ってあげる、でも子どもを信じて、あまり手も口も出さないという関わり方です。また、役割というものが分かるようになってくるので、「お母さんの状態」だけではなく「家族の状態」も重要になって来ます。2才頃までは「お母さん」が一緒ならそれだけでOKだったのですが、次第に「家族と一緒」が必要になってくるのです。6、7才頃まではそのような状態なのですが、小学校に上がる頃から子どもの育ちに必要なものがまた変わってきます。この頃から子どもはもっと広い世界に気付き始めます。大人達が作っている「社会」というものが見えてくるのです。そして、自分のお母さんや家族だけでなく、色々な大人や色々な仕事などにも興味を持ち始めます。ですから、この頃から子どもの育ちには、「家庭以外の場での、色々な大人や社会との出会い」が必要になります。ただ、昔は地域の中に「子ども達が大人達と出会う場」が普通にあったので、子ども達は仲間と遊びながら自然と「色々な大人」の姿を見、「色々な大人」と関わることが出来たのですが、地域のつながりが崩壊してしまっている現代社会では、子ども達は家の中で遊ぶか、公園という閉鎖空間の中でしか遊んでいないので、親や先生以外の大人と関わったり合ったりする場がないのです。それ以外に、子ども達が見ている大人は「テレビの中の大人」ばかりです。そのため、「大人」とか「社会」というものについての、正しい認識を得ることが出来なくなってしまっているのです。それが今、様々な問題の原因になっているのです。ということで続きます。
2014.01.10
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人間は「自分はなぜ生まれてきたのか」と考える生き物です。人間が生き生きと生きるためには「生まれてきた意味」が必要なのです。これは他の動物にはない、人間だけの特徴です。そして、ここから人間の「人間としての苦しみや喜び」が生まれています。虐待の中でも「ネグレクト」された子どもの治療が一番難しいと言います。イジメでも、一般的には暴力行為ばかりが問題にされますが、本当は「無視されること」の方が苦しいのです。だから、大人達は簡単に「逃げればいいのに」と思うのですが、そのいじめっ子の中にしか自分の居場所がない子は、いじめられながらも付いていくのです。否定されてはいても、無視はされていないからです。そして、「自分を表現する」と言うことはその「生まれてきた意味」を創り出す行為に他なりません。あなたが、真っ白いキャンバスに「自分で感じ、考えた絵」を描く時、その行為によってあなたが「生まれてきたこと」や、「生きていること」が証明されるのです。それを「私はそういうのは苦手だから」と自分を表現することから逃げていたら、その人は「自分が生まれてきた意味」を自分で否定することになってしまいます。幼い子ども達は、「成長の本能」に導かれながら、100%「自分を表現する世界」を生きています。そして、その行為の中に「生きている喜び」を感じています。幼い子ども達は、芸術家のように「自分で考え、自分で感じたこと」だけを行っているのです。だから、そのような子ども達と関わる大人達も芸術家のような感性で子どもと関わり、その子どもの状態を喜び、楽しんでいることが出来るなら、全く問題は起きないのですが、多くの大人の人が、子ども達のその「自由な表現」を否定しています。でもそれは、子どもにしてみたら「生まれてきた意味」を否定されているのと同じ事なんです。ただしそれは「好き勝手にさせろ」ということではありません。「共にという関係性の中で創造的に関わって下さい」ということです。子どもは「共に」という関係性の中では、自分の意志で大人を模倣するようになるからです。子どもを押さえつけていたり、無視したりしていると、その「苦しみ」を表現するために、困った行動を取るようになってしまうのです。子ども達の様々な「問題行動」は「苦しみ」や「悲しみ」の自己表現なんです。
2014.01.09
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人間は「心の世界を生きる生き物」です。よく、夢のようなことを言う若者に対して「もっと現実を見ろ」という大人がいますが、そのような大人が言う「現実」もまた、その人の価値観が創り上げた「心の中の世界の現実」に過ぎません。ですから、時代の雰囲気や社会や文化の変化に伴ってその「現実」も変わります。また、一人一人もその価値観の違いに応じて異なった「現実」を持っています。でも、そんな曖昧な「現実」などあるわけがないのです。「現実」とは、一人一人の価値観を越えたところにこそあるもののはずです。そして、人間がそのような「心の世界を生きる生き物」であるからこそ、人間は「自然から分離した世界や社会」を構築することが出来たのです。でも、人間以外の生き物にとっては「自然」こそが「現実」です。そして、「人間が生きている人工の世界」は全て「非現実」です。現代人にとって一番大切な「お金」は人間社会でしか価値を持っていません。自然の中に持って行ったら、ただの紙切れです。総理大臣であろうと、虎の目にはただの「獲物」にしか見えません。それが、「自然界の現実」です。そして、人間のからだも「自然界の現実」を生きているので、「紙切れ」よりも「人の温もり」の方を喜びます。「紙切れ」を喜ぶのは「頭」だけです。でも、「頭」だけが喜んでも、その「頭」を支えている「からだ」の方が萎えてしまっては意味がありません。さらには、そのことが「心のトラブル」にもつながっています。ですから、20世紀の人間は「自然」を排除し、「純粋な人工世界」ばかりを追い求めてきましたが、21世紀の人間は「自然と人工が調和した世界」を構築するようになるでしょう。というか、そういう世界を作らないことには人類はその「生命の働き」が狂ったり、「自然という現実」の逆襲によって、隕石などが落ちなくても自滅するでしょう。そして、それは現在進行形の現象です。自然の中で生活している人たちは、木の実を取ったり、獲物を捕まえたり、畑を耕したり、洗濯をしたり、火を囲んだり、歌ったり、踊ったりというような日々の生活を普通にしているだけで「生きている」という実感を得ることが出来きます。なぜならそれが「現実の世界」だからです。でも、「人間の心が作り出したバーチャル的な世界」を生きている現代人たちは、ただ生きて生活しているだけでは「生きている」という実感を得ることが出来ません。「生命に響いてくる現実」がないからです。そのため、その実感を得るために、美味しいものを食べたり、スリルを味わったり、スポーツなどで競い合ったりしています。自分の体を痛めつける行為も「生きている」という実感を得るための行為です。暴走族の暴走も、「イジメ」もそうだと思います。もしかしたら「自殺」も、「自分が生きていること」を確認するための逆説的行為なのかも知れません。過食と拒食を繰り返している人は、その苦しみの中に「自分の存在」を確認しようとしているのでしょう。それはつまり、「必要があってやっている」ということです。だから、やめられないのです。そのような人が過食と拒食の状態から抜け出すためには、別の「自分の存在を確認する方法」が必要になるのです。そして、その不安と恐怖をうまく利用して、現代社会の経済は成り立っています。「表現行為」はそのような現代人に「生きている」という実感を与えることが出来ます。なぜなら、何かを表現するためには「能動的意思」が働き、「表現されたこと」によって「生きている自分」を確認することが出来るからです。自分にしか出来ない事をやるから、その行為によって「自分」という存在を確認することが出来るのです。それは上手下手とは関係がありません。言われた通りに動いているだけの人、マニュアル通りに動いている人、義務をこなしているだけの人、やらないと困るからやっているだけの人、みんなと同じように動いているだけの人は、どんなに上手に「それ」を行うことが出来ても、「生きている」という実感を得ることは出来ないのです。例え失敗しても、上手ではなくても、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で表現するからこそ「生きている」という実感を得ることが出来るのです。
2014.01.08
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私は色々なところで色々な勉強会やワークをやってきましたが、その経験の中で気付いたことがあります。それは、積極的に「自分」を表現しようとする人は成長することが出来るが、ただ悩むだけ、ただ一生懸命に勉強するだけの人は成長出来ないということです。心に傷を負っていたり、苦しみを抱えていたりしても、それを言葉や、行動や、絵画や、身体表現など様々な形で表現しようとする人は成長することが出来るのですが、自分を表現することから逃げている人は、苦しみから逃れることも、成長することも出来ないのです。それは、人間にとって「自己を表現する」と言うことが、自分の「存在意味」や「存在価値」を発見したり、また創り出すことに他ならないからなのでしょう。「人はパンのみにて生くる者に非ず」というのはキリストの言葉ですが、人間以外の生き物はパン(食べ物)があればそれだけで生きることが出来ますが、不思議なことに人間だけはパンだけでは生きることが出来ないのです。だからこそ、こんなにも豊かな社会の中で、多くの人が苦しみ、心を病んだり、自殺をしたり、引きこもったりしているのです。皮肉なことに、食べ物が少なく、みんなが助け合って生きているような状況の中で生きている人たちの方が自殺も、心を病む人も少ないのです。日本は戦後「豊かさ」ばかりを求めてきましたが、その「豊かさ」を得る代償として、「人が生き生きと生きるために必要な何か」を失ってしまったようです。その現代社会で苦しんでいる人たちは、その心の苦しみを「自分の個人的な問題」として捉えています。そして、医者や、セラピストや、カウンセラーなどに通ったり、色々と本を読んで勉強したりして、自分の力だけで何とかしようとしていますが、その多くはあまり効果的な結果を得ることが出来ていないようです。でも、冷静に考えればそれは当然のことなのです。「社会の変化に伴って生まれた苦しみ」を、自分一人だけの力や、医者の力で癒やせるわけがないのです。その現代人の苦しみを生み出している最大の原因の一つに「つながりの喪失」があります。日本は、「豊かさ」と引き替えに、「母子のつながり」、「家族のつながり」、「地域のつながり」、「仲間のつながり」、「自然とのつながり」、「生命とのつながり」、「心とからだのつながり」の全てを破壊してきました。でも、多くの人がそれらを失ったことすら気付いていません。それがもう当たり前の社会になってしまっているのと、最初からそのようなつながりのない家族や地域や社会の中に生まれ、育ってしまった人たちが増えてきたからです。でも、その状態を「当たり前」と感じているのは「頭」だけです。「頭の中の世界」は「現実の世界」とは異なります。「頭」の中に、「現実の世界」とは異なる世界を持っているからこそ「現実の世界」を変えることも出来るのですが、でも「心」や「からだ」の方は何万年も前から変わらない状態のままなのです。そのため、人間が「頭の欲望」だけに従い、「心」と「からだ」が生きている「生命の働きに支えられたつながりの世界」を否定し、「機械的なつながりだけで構成された無機的な社会」を作りだしてしまうと、「心」と「からだ」が苦しくなってしまうのです。じゃあどうしたらいいのかということですが、「つながり」を失うことによって生まれた苦しみは、「つながりの再生」によって癒していくしかないのです。実は、そこで必要になるのが「自分を表現する」という行為なのです。自分を表現しようとしない人は他者とつながることが出来ないからです。そしてだから成長することも出来ないのです。また、人は表現を通して「自分が知らない自分」と出会うことが出来ます。多くの人が「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いますが、それは単なる思い込みに過ぎません。本当に「自分のこと」が分かっているのなら、悩みも苦しみもないはずだからです。ワークなどでお母さん達に様々な表現をしてもらうと、「自分がこんな表現をするとは思ってもいなかった」とおっしゃる人が多いのです。「表現」は「頭」ではなく「心」や「からだ」の働きによって生まれてくるので、「頭が知らない自分」や「頭が肯定したくない自分」が出てきてしまうのです。でもだから、「苦しみ」を抱えている人ほど「自分を表現すること」に恐れを感じ、逃げるのかも知れません。そしてだからこそ、そのことから逃げない人は「本当の自分」に気付き、成長していくのでしょう。「自分を表現する」ということは、「私は今ここで生きている」という証を、他者に向けて、世界に向けて、宇宙に向けて、そして自分自身に向けて宣言していることでもあるのです。「つながり」はそこからしか生まれないのです。
2014.01.07
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子育てや仕付けでお母さんが困難や苦しさを感じるのは、子どもがお母さんの言うことを素直に聞かないからなのでしょう。大人の社会における「会社」のような場では、部下は上司の命令に素直に従います。なぜなら、大人達は頭で自分の行動をコントロール出来るし、また、利害や損得で行動しているので、「上司の言うことを聞かなければ不利になる」というような状況では、自分がやりたくないことでも我慢してやります。そして、多くのお母さん達が「親子という関係」も、会社のような「上限関係」だと勘違いしているので、子どもの気持ちなど無視して子どもに指示命令を出し、言うことを聞かなければ一方的に叱り、時には叩き、そして、子どもにも「部下のような従順さ」を求めます。また、「衣食住を与え、養ってあげているので、指示命令に従わせるのは、親としての当然の権利であり、また義務でもある」と勘違いしています。でも、子どもの方は「お母さんと自分の関係」を「上下関係」などとは思っていません。お母さんが考える「お母さんと子どもの関係」と、子どもが本能的に感じている「お母さんと自分の関係」は全く異なっているのです。「お母さんが考えるお母さんと子どもの関係」は個人的価値観や社会的価値観の変化に従って変化しますが、「子どもが本能的に感じているお母さんと自分の関係」は、何万年も前から変わっていないからです。そしてそのことが「お母さんが子どもに与えたいもの」と、「子どもがお母さんからもらいたいもの」のすれ違いを生み出しているのです。また子どもには、お母さんの言葉を理解する能力も、自分で「自分」をコントロールする能力もないので、当然のことながら「お母さんの指示」に従うことが出来ません。2,3才頃の幼い子の場合には、指示を覚えていることすら出来ません。「○○をしなさい」と言われても、三歩歩いたら忘れてしまうのが幼児期の子どもです。また、因果関係で物事を理解する能力がないので、いくら丁寧に説明しても無意味です。記憶を操る能力も弱いので、「どうしてそんなことをしたの?」などと聞かれても答えられません。さらには、「自分」に意識を向けることが出来ないので「反省する」ということも出来ません。子どもの意識は常に外側に向いたままなのです。だから内側からの衝動には逆らうことができないのです。でも、だからこそ危険や困難にひるむことなく、色々なことに挑戦して成長することが出来るのです。大人が大きなケガや病気などをして動けなくなったら、失われた運動機能を回復するためにリハビリをします。でも、そのリハビリは苦痛に満ちています。でも、歩き始めた子ども達は、転びながら、ケガをしながらでも、喜びと共に運動機能を獲得していきます。「転ぶと痛いから歩かない」などという子はいないのです。子どもは「生命の衝動」に逆らうことは出来ないし、「生命の衝動」に従っていると喜びを感じるように出来ているのです。そして、その「生命の衝動」があるから、子どもは放っておいても周囲の大人を手本としてながら、ちゃんと成長してしまうのです。そんな子ども達でも、お母さんに従う場合があります。それは「愛情」を餌に指示や命令に従うことを求められた時です。「お母さんは、お母さんの言うことを聞かない子は嫌いだな」とか「お母さんの言うことを聞かない子は悪い子だ」などと言われると、叱っても、叩いても言うことを聞かない子でも、お母さんに嫌われないためには一生懸命従順になろうとするのです。子どもにとってはお母さんに嫌われることが最大の恐怖だからです。叩かれるより、嫌われる方が怖いのです。ただしそれも、子どもにその能力がある場合に限ります。そうでない場合は、子どもは「お母さん大好き」とお母さんに訴えることしか出来ません。お母さんに嫌われないように「お母さん大好き」と言うのです。そしてお母さんは、子どものその気持ちを利用します。ただし、このような子育てをしていると、子どもは「自分」を失い、思春期が来ても自立できなくなってしまう可能性が高いです。そして、自己肯定感が低く、いつも何かに怯え、不安ばかりが強く、自分を表現することに恐怖を感じる大人にになってしまうような気がします。また、非常に支配的な人間になってしまうかも知れません。支配されて育った人は、「支配と従属」という人間関係しか知らないからです。そのような状態になってしまっている人は、「自分を表現する」というワークをすることで、その状態が改善されることがあります。でも、それは「不安と恐怖で固まってしまった心のリハビリ」なので、非常に苦しいと思います。PS)今年は、連続で「自己表現ワーク」を中心にした「自分を取り戻すワーク」というものをやろうと思っています。ただし、これは子ども同伴不可です。子どもがいない人でも、結婚していない人でもOKです。声を出したり、動いたり、絵を描いたり、即興劇をやったり、笑ったり、泣いたりします。ただし、あまり過激なことはしません。「自分」と向き合い、「自分の状態」に気付くきっかけを提示するだけです。人間は、無理に変えようとしなくても、知るだけで変わってしまうことがよくあるのです。私はそういう穏やかな自己変革が好きです。
2014.01.06
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今日は、遅ればせながら大晦日に頂いていたはなさんからの以下の質問に答えさせて頂きます。大晦日に質問で申し訳ありません。私は、旦那との育児方針の話し合いがうまくいかなくて悩んでいます。子供は2歳の女の子と0歳の男の子です。数日前の甘やかすことについての記事ですが、うちは二人の子がおっぱいを飲んでいます。上の子は、寂しい時、眠い時、怒られた時などに飲みたがります。たまに二人共飲みたい時、上の子が独り占めしたくてすごーく騒ぎます。旦那はそれが甘えでわがままに思えるようで、授乳を止めたら、と何度も言うし、子供にも怒ります。私は、子供が自然と止めるまではなるべく飲ませようと思っているのですが。旦那からみると私は子供に甘すぎるようです。食事中に騒ぐのも、冬に水遊びするのも、机に乗るのも、そういうのを許している私は子供の奴隷になっているんでしょうか?外ではしないよう声掛けしているつもりですが…いつも旦那とは育児方針で喧嘩になります。お互い相手の意見を聞かず、否定するばかりになってしまい、支配するかされるかの関係のようです。お互いに子供の幸せを願って、やっていきたいのですが…なんだか愚痴のようになってしまいすみません。いつも書いているように、はなさんのなさっていることは「あまやかし」ではないし、子どもの要求も「わがまま」ではありません。母親としては当然の対応であり、子どもとしては当然の生理的欲求です。幼児期の子育てにおける親の役割は、子どもに「人間としての手本」を見せ、「人間としての生き方」を伝え、「衣食住」を提供し、生活の場を「安心と安全」で満たすことです。それが全てです。これは「私がそのように考えている」ということではなく、実際、幼い子ども達はお母さんやお父さんにこのようなことしか求めないものです。それ以外のことは幼児期の子ども自身の成長には必要がないものだからです。>食事中に騒ぐのも、冬に水遊びするのも、机に乗るのも、そういうのを許している私は子供の奴隷になっているんでしょうか?これは2才の子どもとしては自然な状態です。甘やかしているからそういう状態になっているわけではなく、それが子どもの自然な状態なのです。ただし、それでも「他の人の迷惑になるようなこと」は「いけないこと」として伝えて下さい。「分かるようになってから伝えよう」と思っていると、手遅れになります。ただし、叱って子どもを怯えさせるのではなく、「こういうことはやめようね」と伝えるだけでいいです。子どもを怯えさせてもいいことは何にもありません。そんな時は、子どもの欲求を「遊び」の中で満たしてあげて下さい。「机の上に乗る」という行動は、「高いところに乗りたい」という衝動の現れかも知れません。それなら、段ボールか何か別のものを使って遊びにしてみて下さい。そして、「ここは乗ってもいいけど、机の上はダメだよ」と伝えて下さい。「机の上に乗る」ということは否定しても、「高いところに乗りたい」という衝動は肯定してあげるのです。そのように関わっていれば、子どもの成長に合わせて次第に子どもはそのような行動が出来るようになります。また、はなさんがそのような関わり方をしていることをご主人が見ることで、はなさんがご主人の言っていることを否定しているわけではなく、「何を大切に子育てをしているのか」ということが伝わるかも知れません。(はなさんのご質問の中にはありませんが)食べ物をグチャグチャしてしまうのも、それが「食べ物」だから困るのであって、「グチャグチャしたい衝動」自体を否定する必要はないのです。そのような衝動は、ドロンコ遊びや粘土遊びなどで満たしてあげて下さい。それでも、そういうことが出来るようになるためには「時期」が必要です。ですから「働きかけながら待つ」という態度が必要になるわけです。いくら厳しく追い立てても、時期が来なければ出来るようにはならないのです。だからといって、「分かるようになったら、出来るようになったら教えよう」と思っていると、手遅れになります。あと、はなさんの問題は、「子育ての問題」だけでなく、「夫婦の問題」でもあります。また、ご主人の育ちの問題でもあります。ご主人は厳しく追い立てられながら育てられたのでしょう。そのため、はなさんの子育てのやり方を肯定出来ないのです。それを肯定したら、自分の育ちを否定することになってしまいますから。もし可能なら、私の「子ども発見」という冊子を読んでみるように勧めてみて下さい。
2014.01.05
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昨日は、この「主観的な体」を私はひらがな表記で「からだ」と書いています。この「からだ」は物質的な存在ではありません。「肉体」に属するのではなく「心」に属しています。というか、正確に言うと「肉体と心をつなぐ働きをしているもの」です。これは機械では調べることが出来ませんが、確かに存在しているものです。と書きましたが、もっと具体的な説明をすれば、この「からだ」は「神経」の働きや、「感覚」や「記憶」の働きの複合体です。何かを思い出す時に、その出来事だけでなく、その時の感情や感覚まで同時に想い出されてしまったり、その時と同じからだの状態になってしまうのは、「記憶」と、「神経の働き」と、「感覚の働き」とが密接につながっているからです。ですから人間は、「目に見える体」と「目に見えないからだ」という二つの“カラダ”を生きているのです。学校の身体検査で検査されるの「目に見える体」ですが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などで問題になるのは「目に見えないからだ」の方です。子育てなどで問題になるのも「目に見えないからだ」の方です。ブルームさんが変えたいのも「目に見えないからだ」の方です。不安や、恐怖や、緊張といったものはこの「見えないからだ」に属しているものだからです。その意識がないまま、「体のエクササイズ」をしても、あまり効果はありません。そうでなければ、体操選手はみんな自分の問題を解決できていることになってしまいます。また、「意識」もまたこの「見えないからだ」に支配されています。ただ難しいのは、「目に見える体」の方は直接的に働きかけたり、鍛えることも出来ますが、この「目に見えないからだ」の方はその人の「心」や、「神経」や、「記憶」の中に存在しているので、外部からはその状態も分からないし、働きかけることも出来ないということです。ですから科学の対象にはなりません。でも、この「見えないからだ」が歪んでいると、「見える体」の働きとしての様々な機能や能力も歪みます。「見えないからだ」が緊張で固まると、「見える体」も固まります。「見えないからだ」が見たくないものは、肉体の機能としては見えていても見えません。聞きたくないものは、聞こえていても聞こえません。認識できないのです。幼い頃に虐待を受けた人は、大人になっても他の人に触れられただけで、その恐怖で「体」が固まってしまうことがありますが、それは「見えないからだ」の働きのせいです。「子どもの笑顔が見たくない見えないからだ」を持っている人には、「子どもの笑顔」が見えません。でも、ということは、逆に考えれば、自分には何が見えて何が見えないのか、何が聞こえて何が聞こえないのかということを知り、見えないものを見ようとし、聞こえない音に耳を澄ますように意識を向けることで、「見えないからだ」の歪みを矯正することが出来るということでもあるのです。でも、「見えないもの」を見るわけですから、「見える人の指導」が必要になります。見えない人が一人で頑張っても、頑張るだけでは見えるようにはなりません。だからやっかいなんです。ですから、ヨガの先生などに学ぶのはいいと思います。ただし、昨日も書きましたが、「自分の内側のからだ」と対話しながら行わないと、「目に見える体」に属している筋肉は柔らかくなったり鍛えられたりしますが、本来の目的である「目に見えないからだ」の歪みは消えません。「ヨガ」だけでなく、「茶道」や「気功」もいいと思います。でも、本当は自分一人でも「目に見えないからだ」を変えることが出来るのです。どうしたらいいのかというと、「ゆっくり」「丁寧に」「心を込めて」ということを意識しながら生活するのです。「目に見えないからだ」は、ただ「過去」を繰り返そうとばかりします。だから、感じる事も、考えることも、行動することも無意識的になってしまい、「苦しい」「変わりたい」と思っていても何も変わらないのです。「怒らないようにしよう」としても怒ってしまう、「ノンビリしよう」としてもイライラしてしまうのでノンビリ出来ないのはそのためです。ここで大切なことは、「自分を変えよう」とはしないことです。自分を変えようとすると失敗します。そうではなく、ただ「いつも自分がやっていること」を静かに見つめるだけでいいのです。「見えないからだ」に支配されている時には、「いつも自分がやっていること」が見えないのです。でも、「ゆっくり」「丁寧に」「心を込めて」をやろうとすると「いつも自分がやっていること」が見えてくるのです。なぜなら、「見えないからだ」は必死になって、その「ゆっくり」「丁寧に」「心を込めて」を邪魔しようとして来るからです。その時、それまで意識することが出来なかった「見えないからだ」を意識することが出来るようになるのです。でも、それだけでいいのです。無理にそれを変えようとしてはいけません。「ああ、私はこういうからだを生きているんだ」と自覚するだけでいいのです。すると、内側からほどけて行くのです。
2014.01.04
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今日は、ブルームさんから頂いた以下のコメントにお答えさせて頂きます。私の両親は真面目で小さい頃からいい子で育ってきましたが、自分の言いたい事などが言えないまま大人になり、パニックや不安障害などに悩み、カウンセリングを受けたり、薬を飲んだりしていました。しかし、あまり効果的とは感じず、体へのアプローチが必要と思っています。'からだという視点'というのは、ストレッチや運動をするという事でしょうか?今年はヨガを始めようと思っています。からだという視点について具体的に教えていただきたいです。まず、「“からだ”とは何か」ということについて書いてみます。「いい体をしているね」という場合は、その人の「体格の良さ」を示しています。この場合の「体」は筋肉や骨格の外見的な状態を指しています。「体が柔らかい」と言う言葉は、筋肉や関節部分の柔らかさを示しています。「体力測定」で測るところの「体の力」とは、「体」の持つ様々な能力のことです。これらの「体」の状態は客観的に検査したり、機械で調べることが出来ます。でも、「今日は体の調子が悪くって」という場合の「体」は、客観的に検査することが出来ません。内臓の状態などは客観的に検査することが出来ますが、その本人が感じている「体の調子」は、客観的に検査することが出来ません。よく、聞かれるのが「体の調子がおかしいので病院に行って検査を受けたのだけど、異常がないと言われた」という言葉です。西洋医学では「客観的な体」はその対象として扱うことが出来るのですが、「主観的な体」はその対象外なのです。「体が目覚める」という場合の「体」も「主観的な体」です。「耳で聞くのでも目で見るのでもなく、体全体で見て、体全体で聞きなさい」というような言葉が指している「体」も科学では扱うことが出来ない「主観的な体」です。ヨガや瞑想などが働きかけるのもこの「主観的な体」です。「頭で判断するのではなく体で感じなさい」という場合の「体」も「主観的な体」です。青い空を見、風の音を聞き、野の花に見とれるのも、この「主観的な体」です。さらに、不思議なことに、この「主観的な体」は肉体としての「客観的な体」を抜け出してしまうことすらあります。夢の中の自分の体は「主観的な体」です。この「主観的な体」を私はひらがな表記で「からだ」と書いています。この「からだ」は物質的な存在ではありません。「肉体」に属するのではなく「心」に属しています。というか、正確に言うと「肉体と心をつなぐ働きをしているもの」です。これは機械では調べることが出来ませんが、確かに存在しているものです。この「からだ」があるから、「心の状態」が「体の状態」に表れ、「体の状態」が「心の状態」に表れるのです。「プラシーボ」という偽薬が働くのも、プラシーボがこの「からだ」に働きかけるからです。人が死んだ時、「肉体」は残りますが「からだ」は消えます。そして、そのように「主観的なもの」であるが故に、「感じることが出来る人」と、「感じることが出来ない人」がいます。肉体の機能としての五感や、骨格や筋肉の状態は客観的、物理的な存在ですから誰でもその存在を知っています。そして、道具として使っています。でも、「からだ」の方は「主観的な存在」ですから、その存在に気付いていない人もいっぱいいるのです。ちなみに憂鬱質の人は、他の気質の人よりもこの「からだ」に対する感受性が高いようです。だから、いつも「からだ」に意識が向いていたり、心の状態がからだの状態に表れやすいのです。精神世界に惹かれやすいのもそのためだと思います。その一方で、「からだ」に対する感受性が一番鈍いのが胆汁質です。また、日常的に緊張が強い人や、不安が強い人もこの「からだ」を感じる能力が低いです。ですから、憂鬱質の人でも否定され続けて緊張と不安の固まりになっているような人は「からだ」を感じる事が出来ません。そのような人は「支配的」になります。そのような状態の人の「心の苦しみ」を緩和するためには「からだ」に働きかける必要があります。その「からだ」が緩まないことには、心が緩まないからです。また、そのような人の「心」は閉ざされていますが、生きている限り「からだ」が閉ざされることはないので、「からだ」から「心」に働きかけるのが一番効率的なのです。でも、難しいのは「からだ」は主観的な存在なので、感じる事が出来ない人にそれを理解してもらい、更に感じることが出来るように指導するのがなかなか困難だということです。ヨガなどの身体的な活動は直接的に肉体に働きかけます。でも、その状態を「からだ」で感じていなければ、いくらヨガをやってもそれは「心」には働きかけません。それは、夏休みに毎朝やったラジオ体操と同じような効果しかありません。ブルームさんは'からだという視点'というのは、ストレッチや運動をするという事でしょうか?今年はヨガを始めようと思っています。と書いていらっしゃいますが、実際には「何をするか」が問題なのではなく「どういう意識でやるのか」ということが問題なのです。ヨガをやっても、それが単なる「肉体を動かすだけの行為」になってしまっては「心」に働きかけることが出来ません。逆に、歩くだけ、呼吸をするだけ、家事をするだけでも、その行為を「心」で感じながら行えば「からだ」に働きかけることが出来ます。ですから、指導者の質が大きく問われます。「自分のからだ」と対話しながら、常に心を込めて、丁寧に行うのなら、どんなことをしても「からだ」を変えることが出来ます。その結果「心」も変わります。ですから、そのように意識しながら生活することで、自分で自分を変えることは出来ますが、他の人を変えることは出来ません。
2014.01.03
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全ての生物の中で、人間だけが自分の意志で「自分」を変えることが出来る能力をもっています。でも、それが人間の素晴らしさであると同時にもろさでもあります。なぜなら、その能力は自分を「良い方向」にも「悪い方向」にも変えることが出来るからです。そしてもし、多くの人が「自分中心」の価値観だけで、「自分のことばかり」、「人間のことばかり」、「自分の国のことばかり」「大人のことばかり」「健常者のことばかり」「元気な人のことばかり」を考えるようになってしまったら、人々の意識も、感覚も、世界も閉ざされ、「心の中の光」も「他者とのつながり」も失われ、社会も、世界も、未来も、「悪い方向」へと流れていくでしょう。それでもそのような価値観の人たちは「他の人」を責めるばかりで、「自分自身の生き方」を反省しないでしょう。そのような社会では、子育てや教育は「人間としての成長」という視点が失われ、単に「飼育」や、「調教」や、「訓練」と同じような意味しか持つことが出来なくなります。そして、「子どもの笑顔」が消え、この世界は「支配するもの」と「支配されるもの」だけに分けられるようになるでしょう。私は、そんな社会は大嫌いなのですが、でも困ったことに、人々の意識も社会全体の流れもその「悪い方向」に動いているような気がします。そんな流れの中で、社会が「悪い方向」に向かわないように色々な活動をしている人たちがいます。私の周囲にも多くの「賛成派」や「反対派」がいます。そして、署名活動をしたり色々な活動をしています。でも、私はいわゆる「賛成派」にも「反対派」にも与(くみ)しません。私は、「原発のない社会」「戦争のない社会」を望みます。ですから、そのような活動をしている人を応援はしています。でもだからといって、私自身は「○○反対」とか「○○賛成」といった活動には参加しません。私は、結果の如何に関わらず、両者がお互いの意見を尊重し合い、ちゃんと話し合い、対話し、その結果出た答えを尊重します。「勝ち負け」だけで出た答えは危険です。戦いだけで勝ち取った安全や平和は独りよがりであると同時に不安定です。それは歴史が証明していることです。そして私は、両者がお互いの意見を尊重し合い、ちゃんと話し合い、対話すれば、人間は「原発」や「戦争」を選択しないと信じています。なぜなら、人間はその本質において「幸せや平和を望む賢い生き物」だと思うからです。じゃあ、どうしてこんな社会になってしまっているのかというと、それは現代社会が「対話を否定する社会」だからです。実は、人間の賢さは「対話」の中で育ち、「対話」の中にこそ現れるのです。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がありますが、人間は対話することで仏様に匹敵するほどの智恵を得ることが出来る不思議な存在なのです。でも、「対話」を失った人や社会は、その賢さを育てる事も発揮することも出来なくなり、「人間」よりも「野生動物」に近い状態になってしまいます。なぜなら、「人間の賢さ」は遺伝子に書き込まれたものではなく、「対話」を通して育ちの中で学ぶものだからです。また、自分で「自分」を「良い方向」に変えようとする場合にも、多くの人との対話が必要になります。自分一人だけでいくら考えても、多くの場合「自分」を否定する方向にばかり考えが進んでしまうため、「自分」を変えることが出来ないのです。「自分」という世界を閉ざしたままでは、決して「良い方向」へは変わらないのです。「対話」には、その「閉ざされた世界」の扉を開く働きがあるのです。多くの子ども達と接していて感じる事ですが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じることが出来、心が落ち着いているような子は一様に「対話が出来る子」です。多分、家庭の中にも対話があるのでしょう。でも逆に、自分の利害損得ばかり主張し、平気でみんなが困ったことをするような子や、自分の頭で考えたり、自分の感覚で感じたりすることが苦手な子とは「対話」が困難です。家庭の中にも対話がないのでしょう。その背景には、テレビや、ゲームや、ネットや、携帯といった「直接的な人と人の対話」を否定する道具の進歩と、家庭内への浸透があるのだと思います。また、「便利な機械」が「自分との対話」までも奪ってしまいました。私が20年以上前に教室を始めた時に一番驚いたのが、この「対話が出来ない子ども達」との出会いでした。そして今、この「対話が出来ない子」が普通になってきてしまっています。そのような子は親になっても、子育てが困難だと思います。子どもは「自分の言葉に耳を傾けてくれる人」の言葉には耳を傾けますが、「言葉をただ押しつけてくる人」の言葉は無視してしまうものです。また、「子どもから学ぼうとする人」からは「良いところ」を学ぼうとしますが、「子どもを調教しようとするばかりの人」からは「悪いところ」ばかりを学ぼうとします。ちなみに、コメントに色々と書き込んで下さるのも一つの「対話」の形です。
2014.01.02
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明けまして お目出とう ございます。今年もよろしくお願いします。昨日は鎌倉の実家に泊まってきました。写真は、由比ヶ浜で撮った日の出の写真です。時間は7時4分です。それにしてもあんなに人が来ているとは思いませんでした。毎年、日の出は見ていますがいつもは地元の人しか知らないような山の上で見ていましたから。ちなみに、ちょうどこの朝日が出ている山の上に、私が出た中学校があります。こんなにいっぱいの人が来ていました。朝日に手を合わせている人もいっぱいいました。PS)立派なお母さんでなくてもいいんですよ。大事なのは自分を誤魔化さずに一生懸命に生きているかどうかです。子どもはちゃんと見ていますから。
2014.01.01
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