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今日は三島で仕事だったのですが、行きの電車の中で近くに乗っていた2才ぐらいの男の子が、熱海で電車から降りる時「でんしゃさん 遊んでくれてありがとう」と言っていました。熱海で乗り換えた電車でも、やはり2才ぐらいの男の子が何かを手に持って、「ねえ みてみて」と通路の反対側の「知らないおじさん」に話しかけていました。お母さんは「すみません」と恐縮していました。このように、子どもはいつも大人の目から見たら理解不能なことをやっています。靴を左右反対に履くのも、靴下を左右違った模様のものを選ぶのも普通のことです。晴れている日に長靴をはいている子もいます。大人は子どものこのような「理解不能の行動」を見ると、「まだ分かってないんだ」と思って、「正しいこと」を教えようとしますが、子どもはしっかりと抵抗します。なぜなら、子どもは子どものなりの感覚でちゃんと分かってやっているからです。でたらめにやっているわけではないのです。だからこそ、大人が「ちゃんと」直してあげても、子どもは「子ども流」のちゃんとで、それをさらに直してしまうのです。また先日、あるお母さんから、「年少の子どもが夢中になって遊んでいる時にお漏らしをしてしまうんですけど・・・」という相談を受けたのですが、その時に「でも、不思議なんですよね。お漏らししているのに本人も気付かないし、一緒に遊んでいる他の子も気付かないんですから」というようなことを言っていました。子どもって本当に不思議な存在です。7才前の子なら、からだや知能に障害を持っている子でも、全く区別も差別もすることなく、そのまま何の違和感もなく普通に受け入れて遊んでいます。そんなことに気付いてもいないような感じです。「障害」というのは大人が頭で創りだした概念なのでしょう。ただし、このような時、大人がそのことを指摘すると、子ども達はその障害を意識し始めます。「障害」という概念を学習してしまうからです。先の「おしっこ」のお母さんも、みんなの前で「ほら、オシッコがもれているよ」というと、本人は「もれてない」とムキになって否定しますが、周囲の子ども達はその時点で急に気付くようだと言っていました。うちの教室にもときどき「おしっこくさい子」がいますが、でも、周囲の子は誰も気にしていません。また、お母さん達はよく「知らない人について行っちゃだめよ」と子どもに言い聞かせていますが、これは全く意味がないどころかかえって危険だという話も聞いたことがあります。それは「知らない人」という言葉の意味が子どもと大人では異なるからです。大人にとっての「知らない人」とは「正体がはっきりとしない人」というような意味なのでしょうが、子どもは「正体」などという概念は全く理解出来ません。大人は知らないもの同士が一緒に活動する時には、まず「自己紹介」から始めますが、「自己紹介」をしてから遊び始める子など存在していません。子どもは「まぜて」と言って、「いいよ」と言われればもう「仲間」なんです。名前すら聞きません。「お前は どこの誰か」などと気にするのは大人だけです。子どもにとっては、ちょっとお話ししたり、ちょっと遊んだりすればもう「知っている人」なんです。だから「付いていってもいい人」になってしまうのです。また、公園などで子どもが他の子のオモチャを取ってきたら、「これはお友達のだから返して上げて」と言います。一回も遊んだことがないのに、お母さんは「お友達」と表現しますよね。大人の感覚ではこれは明らかにおかしいのですが、でも、子どもは何の違和感も感じません。大人の世界では、一人一人が分離しています。だから「他人」という存在がいるのです。でも、子どもの世界ではみんながつながっているので「他人」という存在は存在していないのです。また、物が個人に所有されているという考え方も理解出来ません。子どもの感覚では、使っていないオモチャが転がっていれば、それはそれを見つけた子のものなんです。「物」の個人所有が始まったのは、物が「お金」によって購われるようになってからだと思います。「私のお金」で買ったものだから「私の物」なんです。でも、人間がまだ自然の恵みで生きていた時代には、「物」は先に見つけた者のものだったのではないでしょうか。古代人の感覚で生きている子ども達は、そんな価値観の世界に生きているのです。うちは自宅で造形教室をやっていますから、色々な造形材料があります。そして時々、片付け忘れたビー玉などが床に転がっています。すると、それを見つけた子どもが、「ぼくが見つけたからぼくのだ」と主張することがあるのです。そこで、「おいおい、ひとんちの床に落ちていたら、それはお前のじゃないんだぞ」と言って返してもらうのですが、子どもにはそういう感覚があるということです。
2015.01.31
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みなさま今日二度目のアップです。去年も一年間やった講座の2015年版です。チラシは「ここ」にあります。内容は、新しい人の参加が多ければ似たようなことをやる場合もありますが、基本的には去年とは違うことをやります。形としては、去年よりもグループでのワークが増えます。会場はJR茅ヶ崎駅近辺の公共施設です。日時は、基本的に土日の10:00~11:50です。初回は4月12日(日)です。ただ、会場が3ヶ月、2ヶ月、1ヶ月前でないと取ることが出来ないので、そこから先の予定は会場次第になってしまいます。参加費は、参加した時にお支払い頂きます。ということで、ご興味のある方は是非ご参加下さい。お呼び頂ければ出張ワークもします。お問い合わせ下さい。ちなみに私のワークの方針は「種まき」です。私は人を変えようとは思いません。ただ、「種」を蒔くだけです。その「種」を温め、水や栄養を与え、花を咲かし、果実を実らせるのは皆さんの仕事です。「気付いたら変わっていた」というのが私の理想です。ですから、ノンビリお付き合い下さい。
2015.01.30
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日本人は「自分」を表現することを避けようとします。「自分」を表現しないのですから、「自分の頭」で考える必要もないのです。そして、「自分の頭」で考えていないのですから「なぜ?」も目覚めないのです。ではなぜ、「自分」を表現しようとしないのかというと「失敗」や「目立つこと」を恐れるからでしょう。幼い子どもには、その「失敗への恐れ」がありません。だから、どんどん自分の頭で考えて、どんどん自分を表現します。そして、まだ知らない他者と出会い、「なぜ?」が目覚めます。「なぜ?」が目覚めるためには自他が出会う必要があります。幼い子どもがすぐに「なぜ?」と聞くのは、毎日が「新しいもの」との出会いだからです。大人になるとその「出会い」がなくなるのです。科学では実験する前に必ず結果を予想します。なぜなら、その結果を確認するのが実験の目的だからです。ですから、そこでも「自他の出会い」が起きています。「自分の予想」と「現実」が出会うのですから。そのような「実験」もまた、自己表現の一種なのです。そんな時、「失敗」恐れていたら、実験など出来ません。そこで、予想通りの結果なら「自分の予想」を確認することが出来ます。でも、予想通りでなければ「なぜ?」が発生します。一般的には、その状態を「失敗」と呼びますが、でも、科学の世界では「失敗」も「重要な発見」なんです。「こうすれば失敗する」と分かっただけでも「発見」なんです。その「失敗という名の発見」を積み上げて、少しずつ「自分の予想」に近づけて行くのです。ですから、「失敗」を否定してはいけないのです。「失敗」は「成功への羅針盤」なんですから。「失敗」を否定してしまったら、「成功」にたどり着けないのです。少なくとも自分の頭で考えている人はそのような判断をします。そして、「失敗」を恐れません。自分の頭で考えている人は「失敗」を恐れないのです。子育てに悩んでいるお母さん達は山のように「失敗事例」を抱えています。でも、その「失敗事例」を、「自分がダメ人間であることを示す証拠」として捉えるばかりで、少しも「成功への羅針盤」とは考えません。だから、いつも同じような失敗を繰り返すばかりで少しも前に進むことが出来ないのです。そんな時、「私はなんでいつも同じ間違いを犯すのか?」という「なぜ?」が目覚めれば、「失敗」が「羅針盤」として機能し始めるのです。そして迷路から抜け出すことが出来るのです。「自分の頭で考える」ということは、そういうことなんです。自分の頭で考えていない人は、「悩むこと」と「考えること」を区別出来ていないのです。でも、子ども達は本能的に「失敗から学ぶ能力」を持っています。だからこそ、最初はよちよち歩きで簡単に転がっていたのに、次第に立って歩き始め、走り始めることが出来るのです。ただし、お母さんが「子どもの失敗」を否定したり、「出来ないこと探し」をしていると、子どもは「失敗」を避けるようになり、「失敗から学ぶ能力」が萎えていってしまいます。そして、お母さんの顔色を見て行動するようになり、「自分の頭で考える能力」が低下していきます。学校でやっている「減点法」という方法は子どもにそのような働きかけをしています。せめてお母さんは、子どもをどんどん褒めてあげて下さい。そして、自分自身も褒めて下さい。「結果」を評価するのではなく「努力」を評価するのです。そうすると、「失敗」が「成功への羅針盤」に変わっていくのです。******************以下は告知です。友人のかめおかさんが私の気質のワークを企画して下さっています。次回が二回目なので、日が迫っての企画なのでまだまだ参加者が集まっていません。ということで参加してみたいと思われる方はかめおかさんの方に連絡して下さい。それと、ビデオを撮って配信するという形でのWEBでの参加も出来ます。この場合は、質問は予めお聞きしています。以下はかめおかさんからのメッセージです。***************こんにちは! かめおかゆみこです。メルマガで、ときどき紹介させていただいている、篠秀夫さん。長年の、信頼できるお友だちです。その篠さん、ふだんは、造形教室をいとなむかたわら、子育てと遊びの研究家・気質の研究家として全国各地で、ユニークな活動をされています。私も何度か受講させてもらい、いろいろ勉強させてもらっています。2008年から、「『聴く』を磨く」講座を立ち上げて、足かけ7年。もともと、気質には興味があったのですが、「気質」を学ぶことで、「聴く」ことがより深まるなあと、強く想うようになりました。それで、試験的に、昨年12月に、「『聴く』を磨く」講座の有志を中心に、プチ勉強会をひらきました。これが、とってもおもしろかったのです♪「参加してよかった! 気質を意識して対応したら、 相手の反応が変わりました!」と、すぐに変化があらわれたひともいます。ちなみに、プチ勉強会では、はじめてのこころみとして、「WEB視聴」をとりいれました。遠方だったり時間帯の関係で参加できないひとのために、当日の講座のようすを、動画で、限定公開することにしました。これも好評で、こんな感想をいただきました。★S・Kさん気質のお話は、本当に深く難しいと思いました。でも、とても面白かったです。映像でワークの様子も見ることが出来、自分だったらどう動くかなど考え、その場に参加している気分にもなりました。ますます自分の気質について考えたりし、ワークも実際に体験したいと思いました。篠先生の講座やかめおかさんの講座に、遠くて参加できない事が残念なのですが、今回の視聴による参加はとても嬉しい事でした。-----------★N・Sさんこれまでに篠さんのブログや冊子を読んで、気質というものについて思い浮かべていたことが、参加者のみなさんの行動や発言をとおして裏付けられていくのを見せていただいたようでした。気質がおたがいの「関係」によって揺れ動くということが印象的でした。おたがいの気質を理解したり思いやったりすることで人間関係が変わってくるのだなあと勉強になりました。それと、いろんなひとたちが参加するワークをまるごとに近いかたちで拝見できてよかったです。自分がこのなかにいたらどんな感じがするかなあ、などと考えたりして、新鮮でした。-----------というわけで、ぜひ、より多くのひとと、この学びを共有したいと想い、あらためて、間口を広げて、勉強会をひらくことになりました。ご興味が湧いたかた、ぜひご参加ください♪奥の深い気質の世界をお楽しみいただけますよ♪今回も、「WEB視聴」ありです!(*^_^*)★勉強会★篠秀夫さんに学ぶ、「気質」と「聴く」の関係-----------日時/2015年2月5日(木)9時20分~11時50分会場/横浜市内施設(横浜駅5分) ※参加者に直接お知らせします。定員/リアル参加20名。WEB視聴は制限なし参加費/2000円(リアル・WEBとも)お申し込み/https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=Evzlcry問い合わせ/info@kamewaza.com-----------※リアル参加されるかたは、WEB視聴があることを 了解のうえで、お申し込みください。※お申し込みいただくと、すぐに自動返信メールが届きます。 会場の詳細、振り込み方法など、必要な内容が盛り込まれていますので、 届かない場合は、お手数ですが、お問い合わせください。★WEB視聴参加についてビデオ撮影したものを、ネット上で限定公開するかたちで、対応いたします。素人の撮影ですので、多少の見づらさはあるかと想います。ご了承ください。なお、リアル講座に参加されるかた全員にも、WEB視聴版のURLを公開します。参加費は、直接参加されるかたは、当日、会場にてお支払いください。(できるだけお釣りのないようにお願いします)WEB視聴については、お申し込みは、できるだけ、2月4日までにおこなってください。当日のようすを、ビデオ撮影し、限定公開のかたちでアップします。アップ次第、URLをお知らせします。目安としては、2週間前後になるかと思います。動画ができましたら、URLをお知らせしますので、確認したのち、お振り込みをお願いします。ではでは、お申し込み、お待ちしています♪感謝をこめて★追伸 動画のご案内かめおかゆみこのひとり放送局、よかったら、お聴きくださいませ♪1日2分、さくっと聴けます。(*^_^*)先刻、今日のぶんをアップしましたあ♪・かめおかゆみこのいま・ここ・チャネルhttp://urx2.nu/fL8z(短縮URL)
2015.01.30
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子どもと大人の違いはいっぱいありますが、「非常に好奇心が強い」ということも、子どもが大人と大きく違うところだと思います。大人でも好奇心の強い人はいますが非常に少数です。でも、幼い子ども達はみんな好奇心の固まりです。多分、人類にもそのような時代があったのだと思います。「子どもの心の発達」は、「人類の心の発達」を繰り返しているように思えるからです。そのような時代に、様々な神話が生まれたのでしょう。「なぜ?」があるから、物語が生まれるのです。それは科学でも同じです。幼い子ども達は「なぜ?」の答えを物語の形で求めますが、思春期が近くなった子どもは「客観的な論理」で求めるのです。それが「科学的な心」の目覚めです。7才前の子どもなら「どうしてリンゴが落ちてくるの」という問いに、「クマさんがお腹を空かせているからよ」で納得しますが、思春期が近い子どもは「地球には重力というものがあってね」という説明の方で納得します。(実際には、リンゴは「地球の重力」だけによって引っ張られて落ちるのではなく、リンゴもまた地球を引っ張っているのです。リンゴにもその質量に応じた「重力」があるのです。)そして、思春期もまた「なぜ?」がいっぱい生まれる時期です。でも、なぜだか分かりませんがそれ以降、大人になってしまうとあまり「なぜ?」を感じなくなります。それは簡単に言うと「自分の頭で考える」ということをしなくなるということでもあります。そして、自分の頭で考えるより、本やネットの中に「知識」や「正解」を探すようになります。それに対して、子ども達はいつも「自分の頭」で考えています。だからこそ、その答えは常に大人の常識とは無関係に「個性的」なんです。自分の頭で考えなくなった大人達は、子ども達のその「個性的な答え」を馬鹿にして、世間一般の知識や常識を教えます。でも、子どもにはその「世間一般の知識や常識」が理解出来ません。そこで、親子の対立が生まれたりします。ただし、大人でもその「なぜ?」が消えない人もいます。私もその一人です。ですから私はいつも「なぜ?」と考えています。そして「どうしてみんなはなぜ?と考えないのだろう?」と考えています。どうしてマスコミはメリットばかりを言い立てて、デメリットについては言わないのだろうか?というのも、その一つです。ネットで色々な情報を調べていると、今人類も、地球も、自然も大変な状況にあることが分かります。でも、テレビでは単なる娯楽しか流しません。学者達はテレビやゲームや早期教育の害をよく知っていますが、マスコミはその害については知らん顔しています。原発推進派は原発のメリットばかり語り、反原発派は原発を止めるメリットしか語りません。そして、双方共に、デメリットについて語ると「悲観的だ」と言われたり、パッシングを受けたり、仲間から追い出されたりします。戦争中、「兵隊さんがかわいそう」と作文に書いた少女が、「反日的」「赤だ」ということで、厳しく叱られたそうです。今の日本にも同じような状況はあります。そして、「なぜ?」については誰も言及しません。「なぜ?」と言っただけで「反日的」と言われてしまうこともあります。なぜ人は大人になると「なぜ?」と問いかけなくなるのでしょうか。不思議です。自分の身を守るためでしょうか。
2015.01.29
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牛の特質を持たない生き物は「牛」ではありません。「犬」の特質を持たない生き物は「犬」ではありません。そして、人間の特質を持たない生き物は「人間」ではありません。では、「人間の特質とは何か」ということです。人間は一人一人違います。そして私たちはその「一人一人の違い」に敏感です。なぜなら、私たちは「人間」が作った社会に生きているからです。「人間」しかいない世界に生きているのですから、「人間としての共通項」を意識する必要はないのです。むしろ、「違い」の方を意識しないと生活が出来ません。そのような社会で、「つながり」が断たれてしまうと、今度は「競争」が起きます。でも、その競争が「人間らしさ」の範囲内ならいいのですが、あまりに競争が激化すると「戦いが」が始まり、その戦いが激化すると、とても人間とは思えないようなことを平気でやる人間が現れます。人間は、意地の張り合いが始まると、限界が分からなくなってしまう習性をもっているのです。そして、自滅するまで戦いを止めることが出来なくなります。そんな習性を持っているのは人間だけです。それもまた「人間らしさ」の一部ではあるのですが、でもそこに人間の落とし穴があります。これは子どもの集団でも同じです。年齢や能力において多様な子どもが集まっている場では競争は起きにくいのですが、同質の子ども達が集まっているような場では競争になりやすいのです。それでも、その子ども達が「遊び」のようなものを通してつながり合っている場合は「競争」は起きにくいのですが、「つながり」が断たれた状態のままだと、簡単に「競争」が起きてしまいます。そして、そのような状況になると、子ども達はちょっとの「違い」にも敏感になり、対立したり、威張ったり、いじめたりし始めます。人間は地球上に「人間が支配する世界」を創り上げました。その世界の中では「人間であること」に価値はありません。その点に関してはみんな同じだからです。そして、「おれは日本人だ」「おれは○○人だ」「おれは社長だ」「おれは男だ」「私は美人だ」「私は背が高い」「私はお金持ちだ」というような違いばかりに価値を求めています。その結果みんな「人間であることの価値」を忘れ、「競争」に一生懸命になっています。「人間らしさ」とは何なのか、その「人間らしさを支えるものは何なのか」ということも忘れました。でも、その「人間らしさ」を科学的に調べている学問があるのです。それが「発達心理学」と呼ばれるものです。これは子どもの成長における「心の変化」を科学的に調べ研究する学問です。実は、人間の「人間らしさ」はその「発達過程」の中に現れているのです。そして、7才前の子どもは時代や文化が異なっても、共通項の方が大きいということも分かっています。大人になると、人間は知識や常識といった「人間が作ったもの」を基準に行動するようになるため「違い」が大きくなるのですが、7才前の子ども達は遺伝子が決めた成長プログラムに従って行動している部分が大きいのでそれほど違いが現れないのです。そしてそこには「人間の本質」につながった共通項があります。自然の中で暮らしている5才の子どもと、ニューヨークのど真ん中で暮らしている5才の子どもとでは身なりは全く異なるかも知れませんが、その「心の状態」や「行動パターン」に関しては「違い」よりも「共通項」の方が大きいのです。というか、そういう事実があるから「発達心理学」という学問が成り立っているわけです。ですから、7才前の子ども達を見ていると、「人間とはどのような存在なのか」ということがよく分かるのです。その世界には「憎しみ」も「殺し合い」もありません。あるのは「信じる心」と、「愛を求める心」と、「仲間を求める心」です。確かに色々な問題行動を起こす子もいますが、そのような行動の大部分は、基本的に「自分を守るための行動」であって、「相手を支配するための行動」ではありません。それは野生動物にも見ることが出来る現象です。人間は「熊に襲われた」と言いますが、熊はただ自分の身を守るために行動しただけです。大人は「欲望」に支配されやすいですが、子どもは「欲望」よりも、「成長への本能」の方が強いのです。そして私は、それこそが「人間らしさの根幹」だと思うのです。実際、子どもも大人も、「自分の成長」を実感できる人は幸せを感じているはずです。
2015.01.28
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野生の動物は、周囲に食べ物がいっぱいあっても食べ過ぎないそうです。でも、人間に飼われている動物は、食べ過ぎることもあるそうです。実際、かなり太った犬や猫もいます。じゃ、どうして野生の動物は食べ過ぎないで、人間や人間に飼われている動物たちは食べすぎるのかということです。それで実験した人がいるようです。そこで分かったことは、味付けをしていない素朴なままの味のものなら食べ過ぎないのに、味付けをしてしまうと必要以上に食べてしまうということでした。自然界にあるそのままの味のものなら、必要限度しか食べないのに、自然界にない味だと限度を超えてしまうのです。これは不思議な現象ですよね。「何万年と続いてきたからだの記憶」にない味なので、対応しきれないのでしょうか。これと似たような実験を「赤ちゃん」に対して行った結果もどこかで読んだことがあります。赤ちゃんは結構「ばっかり食」をします。ある時期は「○○ばかり」食べていたのに、その時期が過ぎるとなぜか急にそれは食べなくなり、別の何かばかり食べることがある、というような現象です。それで、お母さんは、あれも、これもちゃんと食べさせようと苦労するのですが、「もし放っておいたらどうなるのか」という実験です、そうしたら、短期間的には「○○ばかり」食べるので栄養が偏るのですが、しばらくすると「別のもの」を食べ始め、長期的に見たらちゃんとバランスよく食べていたそうです。生命の本能がうまく調節しているのでしょう。「○○ばっかり」食べていた時には、その栄養が必要な時期だったのでしょう。うちの長女は、2才ぐらいの時は「梅干し」ばかり食べていましたが、ある日突然ぱったりと食べなくなりました。幼い子どもは、自分の生命やからだを育てるための本能がちゃんと備わっているようです。だから、お母さんが頭で考えただけ、本で読んだだけの知識で、子どもの要求を一方的に無視しない方がいいです。子育ての本には「一般論」は書いてありますが、目の前の「我が子」のことが書いてあるわけではないからです。ただし、赤ちゃんの場合でも人工的な味付けをしてしまうと食べ過ぎるそうです。特に、甘くしてあげると食べ過ぎるようです。私たちの周りには「甘いもの」がいっぱいありますが、でも、自然界には「甘いもの」はそんなに多くないのです。果物などは甘いでしょうが、でも、自然に近い種の果物はそれほど甘くありません。品種改良しているから甘いのです。砂糖やチョコレートのように甘いものは、自然界には滅多にないのです。そして、人類はつい最近まで、自然の中で暮らしていました。だから「甘いもの」を防御する本能を持っていません。そのため、赤ちゃんでも「甘いもの」は食べ過ぎます。そして過剰に太ります。(子どもにはあまりスナック菓子を与えない方がいいのはこのためです。砂糖がいっぱい入った飲み物も少なくした方がいいです。生命のシステムが狂ってしまう恐れがあります。)自然の中では春には「春のもの」しか食べることが出来ません。夏には「夏のもの」、秋には「秋のもの」、冬には「冬のもの」しか食べることが出来ないのです。現代の栄養学では「一日何品目食べて下さい」などと言いますが、野生動物も、そしてつい最近まで人類も、「今ある食べ物」しか食べることが出来なかったのです。でも、年単位ではちゃんとバランスが取れていたのです。生き物のからだは自分が生まれ育った環境に合わせてちゃんと成長するように出来ているのです。そうやって何億年も命をつなげてきたのです。そうでなければ、生き物はとっくに絶滅しています。でも、科学の進歩と共に、人類は今まで出会ったことのない味や環境で暮らすようになりました。私たちは生まれてからズーッとかも知れませんが、人類の歴史からしたらこれはつい最近のことです。そのため、人間の心やからだは「人工的な環境」に対応する本能的防御システムを持っていないのです。何億年前から同居してきた微生物や細菌には対応するシステムを持っていますが、プラスチックや、化学肥料、科学的な農薬や、合成調味料には対応するシステムを持っていないのです。不潔だと思われている土をなめるよりも、消毒してあってもプラスチックのおもちゃをなめる方が危険かも知れないのです。エアコンや自動車など機械との関わり方も知りません。だからといって、「だから排除しろ」ということではありません。ただ、だからちゃんとした管理の下、使いすぎないように気を付ける必要がある、ということです。「困った結果」が出てからでは遅いのです。テレビの害、ゲームの害も同じです。大量にその害に侵された子どもや大人が出てくれば、社会も学習してその対応を考えるでしょう。ですから、もしかしたら100年後はアルコールと同じように、「テレビやゲームは子どもには与えないで下さい」という法律が出来ているかも知れません。でも、我が子に結果が出てからでは遅いのです。
2015.01.27
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「科学」は夢を見させてくれると同時に、現実を忘れさせてくれます。その働きは「麻薬」にも似ています。現代人はどんな困難も災害も科学が進歩すれば乗り越えられると思い込んでいます。でも、実際には、現代社会における様々な問題の多くは、その「科学」が作りだしてきたものです。確かに科学は部分的には成功しています。人間の欲望を叶えるという分野では大きな成功を収めています。でも、そのことによって「生命の世界」や「地球の調和」が乱れ、「生命の世界」や「地球の状態」において大きなトラブルが発生しています。ネットをよく見ていると、現在進行形の様々な問題の記事も見つけることが出来るのですが、テレビなどのマスコミは一向にそのような情報は流しません。そして、「どんなトラブルでも科学が進歩すれば乗り越えられる」、「科学こそ希望であり夢である」というような情報ばかり流しています。なぜなら、科学の進歩が人間の経済活動を支えているからです。その経済活動によって支えられているマスコミが、科学の進歩に疑問を呈するようなことを言うのは「タブー」なんでしょう。テレビは決してスポンサーの不利になるようなことは言えない仕組みになっているのです。私たちはそのことを理解した上で、マスコミの報道に接した方がいいです。そうでないと、「科学という麻薬」にだまされてしまいます。昨日もNHKが、まもなく実現しそうな「未来の技術」を紹介していました。人間の楽しさが増え、生活が豊かになり、お手軽に色々なところに行き、お手軽に色々な体験が出来るようになるそうです。バーチャルシステムを使えば、自分の部屋にいながらヒマラヤのてっぺんに登ることすら出来るようになるそうです。死んだ人とも対話が出来るそうです。それはまるで、麻薬の力で仮想体験が出来るようなものです。人間は「脳が創り出す仮想世界」と、「からだが生きている現実世界」の二つの世界にまたがって生きているのですが、現代人は「脳が創り出す世界」ばかりを大切にして、「からだが生きている世界」を無視しています。そのことで「心」と、「からだ」と、「生命の状態」に大きな不調和が生まれているのですが、それも科学の力で何とかなると考えています。でも、実際には科学がどんどん進歩しているのに、人々の心や、からだや、生命の状態はますます悪くなってきています。ウィルスのような「外部から人間にトラブルをもたらすもの」に対しては、確かに科学は有効ですが、「生命の内側」から発生してくるトラブルに対しては科学は無力なんです。対象療法的な治療は可能ですが、生命力が萎えてしまっているような状態では根本治療は非常に困難です。それでも、大人には「科学という麻薬」が効くので、そのことを無視しながら生きて行くことも可能です。ゴーグルを付ければ、ミミズやネズミを「牛ステーキ」と思い込んで美味しく食べることもできます。リアルな世界では裸でも、脳の中の世界では、素敵なドレスを着ているような気持ちになることも出来ます。目の前にオオカミがいても、それを「可愛い子犬」に変えて見せること出来ます。オオカミに噛みつかれても、それを快感に変えることすら出来るようになるかも知れません。そうなったら怖い物なしです。痛みも恐怖心も感じる事なく「あの世」に行くことが出来ます。科学がまだ進歩していなかった時代には、こんなことが出来るのは「麻薬」だけでした。私は、現代社会のこのような状態に非常に問題を感じています。「頭の中の空想世界」と、「からだが存在している現実世界」の乖離がどんどん広がって来ているからです。私がインドにいた頃に、マリファナのような麻薬(ガンジャと呼んでいました)を吸って、自分は空が飛べると思い込み、ビルの屋上から飛び降りて死んだやつがいる、という話を聞いたことがあります。現代社会は、今それに近い状態なのですが、みんな麻薬に夢中なので現実が見えず、その恐ろしさに気付かないのです。また、私が一番大きな問題だと思うのは、「バーチャルな世界」に慣れてしまった大人は「子どもという現実」と向き合うことが出来なくなってしまうということです。科学は「思い通りにならないもの」を「思い通りにするため」に進歩してきました。そして、現代人は子育ての場にも科学を取り入れて、もっと簡単に、楽に、効率的に子育てをしようと考え始めています。赤ちゃんのからだにちょっとしたセンサーを付けて赤ちゃんの感情の動きやからだの調子をスマホに送って、お母さんが子どもの側に居なくても安心して子どもを見守る(?)ことが出来るような道具まで発明されています。大人はそれで満足かも知れませんが、でも、お母さんやお父さんが実際に側にいてくれない赤ちゃんは、それで満足するのでしょうか。大人は「脳が創り出す仮想世界」の中だけで満足することができますが、子どもは「からだが生きている現実世界」の中でしか生きることが出来ないのです。子どもは「現実世界との関わり」の中で生きているし、また「現実世界との関わり」を通してしか成長することが出来ないのです。でも、仮想世界にばかり生きている大人は、その「子どもが生きている現実世界」に対応出来なくなってしまっています。大人は「子どもは空想の世界に生きている」と思い込んでいますが、実際には逆なんです。ただし、私は「科学」そのものを否定しているわけではありません。科学は単なる「道具」であって、それ自体は「夢」でも「希望」でもないということです。「科学」は正しく使えば人類を幸せに導くでしょう。でも、使い方を誤れば人類を「絶望」へと導くでしょう。でも、その「使い方」に関する議論が全くないのが怖いのです。
2015.01.26
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私たちが生きている世界は「目に見える世界」や「機械で測定出来る世界」と、「目に見えない世界」や「機械では測定出来ない世界」の二種類の世界の組み合わせで出来上がっています。そして、「五感」で感じることが出来るのは、「目に見える世界」や「機械で測定出来る世界」の方だけで、「目に見えない世界」や「機械では測定出来ない世界」の方は「心」で感じることしか出来ません。「目に見える世界」や「機械で測定出来る世界」では、全ての存在はお互いに切り離されています。そして、生まれたり消えたりしています。何かが失われるのはこの世界での出来事です。もう一つの、「目に見えない世界」や「機械では測定出来ない世界」の方では、何も生まれず、何も消えません。ただ形を変えるだけです。波は海に戻り、また海から波が生まれますが、波と海は一つのものですから、本質的には何も失われてはいません。「波」と名付けた形が消えただけです。「目に見える世界」や「機械で測定出来る世界」は「形」にこだわる世界ですから、「形」が変わっただけで「失われた」と感じてしまうのですが、「目に見えない世界」や「機械では測定出来ない世界」の方は、「形」ではなく「生命」(エネルギー)の方に意識が向いているので、「形」が変わっただけでは「失われた」と感じないのです。生き物が死ぬと、その生き物のからだは大地に還ります。そしてまた、別の生命を支えるエネルギーになります。また、その生き物の子孫は、その生き物の「生命」を受け継ぎます。つまり、「生命」は駅伝リレーのように受け継がれて行くだけで、消えはしないのです。物理学には「エネルギー不変の法則」というものがありますが、それと同じです。般若心経で、色即是空空即是色とか、不生不滅不垢不浄と言われているようなことです。その世界は、「私は部分であり、同時に全体である」「私は世界の中に存在し、世界は私の中に存在する」という世界です。この「目に見えない世界」には「不安」というものが存在しません。何も失われることがないからです。「目に見える世界」「機械で測定出来る世界」 は「頭で認識する世界」です。そして、現代人の意識や、現代人の社会はこの「頭で認識する世界」を重視しています。領土問題も、お金や権力も、学歴も全て「頭で認識する世界」の話です。そしてこれは「失われる世界」でもあります。ですから、奪い合いも起きるし、「不安」とセットになった世界でもあります。それに対して「目に見えない世界」の方は「心で感じる世界」です。古代の人達はこの世界を大切にしましたが、現代人はこの世界のことを忘れています。というか、むしろ否定しています。でも、こんな世界にあってもまだ古代人の感性を生きている7才前の子ども達は、「心で感じる世界」を生きているのです。ですから、幼い子ども達は基本的に「何かを失う不安」を感じる事はありません。「不安」を感じるとしたら「お母さんに叱られる不安」ぐらいです。憂鬱質の子どもは「恐がり」ですが、「恐がり」と「不安」は異なります。「恐怖」は現実ですが、「不安」は空想です。ですから、犬や猿などの動物たちも「恐怖」は感じますが、「不安」は感じません。明日から「不安」から「子どもの心」にテーマを変えます。訳の分からない話にお付き合い頂き感謝です。
2015.01.25
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「不安」の原因をあれこれ考えてきましたが、その原因は非常に多岐に亘ります。その原因を抽象化してひと言で言うとしたら、「何かを失う可能性を感じた時」や、実際に「何かを失った時」と言えるのではないかと思えます。そのような時に、人は不安を感じるのだと思います。この「何か」は、「生命」かも知れません。「お金」や、「愛情」や、「地位や名誉」や、「自由」かも知れません。とにかく、その人が大切にしている「何か」です。逆に言えば、「失うもの」を持っていない人は不安を感じません。人は「お金」を失う不安を持っていますが、子どもはお金を100%親に依存しているので「お金を失う不安」はありません。でも、お母さんからの愛情が不安定だと、「愛情を失う不安」は持つようになります。砂漠の民は「水を失う不安」を持っているかも知れませんが、日本のように水の多いところに住んでいる人達はそのような不安は持っていないと思います。日本には「無駄遣いする」ことを「湯水のように使う」と表現する文化があったくらいですから。宇宙空間では「酸素を失う不安」があるかも知れませんが、地上で暮らしている私たちにはそのような不安はありません。お金に依存しない生活をしている人達は「お金を失う不安」を持っていません。死ぬことを「神様の所に行くこと」と考える人は、「命を失う不安」は弱いです。神様のために喜んで命を捧げる人すらいます。人目を気にしない生き方をしているに人は、「人から嫌われる不安」もないでしょう。また、手に職を持っている人は、何にも能力がない人よりは「お金が失われる不安」も強くはないでしょう。人は、何かに依存すればするほど、「不安」が強くなるのです。そして、「不安」から逃れるために別の「安心」を求め、更にその「安心」に依存します。するとまた、その「安心」が失われる「不安」が生まれます。現代人はまさににそのような状態です。結婚する前は、お金や、物や、自由や、娯楽に依存する生活をしていた人でも、結婚し、子どもが生まれると、その多くを失うことになります。それらの代償として、家族や、子どもや、幸せな生活を手に入れることが出来たのでしょうが、でも、それだけでは満たされずに、「失われたもの」に未練が強い人は、不安も強くなるでしょう。そして、いつもイライラすることになるでしょう。昔の人は、「楽あれば苦あり」と言いました。「金は天下の回りもの」とか、「若い時の苦労は買ってでもしろ」とか、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」とかいう言葉もありました。昔の人は、「豊かさばかり求める」、「楽ばかり求める」、「富ばかり求める」、「幸せばかり求める」ことによって生じる「落とし穴」を知っていたのだと思います。「貧乏だ」と苦しんでいる人は、「ちょうどこの際、貧乏を楽しんでみよう」と考えてみたらどうなるのでしょうか。今、子育てで苦しんでいる人も、「この苦しみによって何を学べるか楽しんでみよう」と考えてみたらどうなるのでしょうか。私は頭が痛い時、腹が立っている時など(滅多にありませんけど)、「ちょうどこの際、そのような状態の時のからだはどうなっているのか観察してみよう」と考えます。私は、「死」は「生まれる前にいた世界に還ること」と考えていますから、死ぬことそれ自体は怖くありません。「お迎えが来た時」が「還る時」なんです。時間がない、自由がないと苦しんでいる人は、この際自分の可能性を探ってみませんか。もしかしたら、自分が思い込んでいる以上に、自分には能力も余力もあるかも知れませんよ。こんな風に、不安や苦しみから逃げないようにすると、不思議なことに不安や苦しみが和らぐのです。逃げようとするから不安も強くなり、苦しくなるのです。
2015.01.24
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「不安」は気質とも強く関係しています。それは「憂鬱質の人は不安が強い」というような単純な関係ではありません。人は自分の気質と異なった状態の中では不安を感じるのです。憂鬱質の人は強い刺激や、先が読めないような状態や、知らない人や、自分の世界にずかずか進入してくるような人に対して強い不安を感じます。多血質の人は、仲間と一緒にいたり、楽しいことがいっぱいある状況では落ち着いていますが、独りぼっちになったり、狭い部屋に閉じ込められたり、楽しいことがない状態では不安を感じやすくなります。粘液質の人は一人でも不安を感じませんが、でも、自然を感じることが出来ないような環境や、自分のリズムを保つことが出来ないような状態の中にいると不安を感じやすくなります。(粘液質の人に仕事を頼む時には、あまり細かい指示を出さずに大雑把に任せた方が良い仕事をしてくれます。)胆汁質の人は思い通りに行動出来ない状態が長く続くと不安が強くなります。また、気質によって「自分のリズム」が異なるのですが、どの気質の人でも「自分のリズム」を壊されると不安を感じやすくなります。それは、自分の「生命のリズム」が狂うのと、先が読めなくなるからです。人間は「先が読めない状況」に置かれても不安を感じるのです。さらに、「自由」が奪われても「不安」は強くなります。人間は「自由」を失った状態の中にいると、精神的に「酸欠」のような状態になり不安を感じるのです。また、強いストレスも不安を強くします。「不安を感じる能力」そのものは動物たちが危険から逃れ、自分の身を守るためには必要な能力ですからむやみに否定してはいけないのですが、ただ、人間だけがその「不安」との向き合い方が違うのです。それは、動物たちは「不安」を感じたら、そのような状況からは逃げてしまうのに対して、人間だけは「我慢」して受け入れてしまうということです。でも、我慢しても「不安」は消えません。逆に我慢すればするほど不安は強くなります。そのため、「気を紛らわすためのもの」を求めます。そして、この「我慢」が不安とイライラの元凶でもあるのです。また、我慢している人は、子どものように「我慢していない人」を見るとイライラします。うらやましいのです。そして、「我慢」を押し付けます。ちなみに「我慢しない」ということは「ワガママに行動する」ということではありませんからね。その辺は明日書きます。
2015.01.23
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後ろの方に気質のワークのお知らせがあります。*******************人が「安心」を求める時は「根拠」を必要とします。「将来困らないためには、いい会社に入る必要がある。そのためにはいい学校に入る必要があるし、そのためには勉強をいっぱいする必要がある」という「根拠」を作って、子どもが一生懸命勉強していると安心します。でも、その「安心」は「安心」を手にした時しか存在しません。しばらくすると、今度はその「安心が失われる不安」が目覚め始めるからです。そのため、更なる「安心」を求めるのですが、その「安心」もまたしばらくすると「不安」に変わります。それでまた別の「安心」を求め、そして・・・と、これがズーッと繰り返されることになります。なぜなら、「安心」は「不安」の裏返しだからです。「光」を求めると、もれなく「影」も付いてくるのと同じです。そもそも、なぜ人は「安心」を求めるのかというと、それは「不安」だからです。「不安」の方が先にあるのです。そして、本来「不安」には決まった根拠がありません。なぜなら「不安」は「からだ」が創りだしているものだからです。「根拠」があるとすればそれはその人の「からだの状態」です。その人が困るような特別な原因などなくても、脳の中に電流を流したり、意識出来ないような低周波音を聴かせたり、本人が自覚出来ないような不自然な身体感覚を与えたり、生活を不規則にするだけで簡単に「不安」を創り出すことが出来るのです。「生命を支えるシステム」に不調和が生じると、人はそれを「不安」として感じるように出来ているのです。私たちは、「あれが不安」「これが不安」と不安の根拠を探しますが、実際には、自分の内側に「根拠のない不安」が先にあるのです。でも人間には、自分の内側ではなく他者に「根拠」を求める癖があります。だから、自分の周囲に「不安の原因」を探そうとするのです。でも、そのような状態の人はその「原因」が解消しても「不安」が消えないので、新しい「不安」の原因を探し出します。確かに「不安」が消えた直後は安心するのです。でも、すぐにまた自分の中の「不安」に気付くのです。それでまた新しい「原因探し」を始めるのです。そしてそれが延々と繰り返されます。これは、「愛情」に飢えている子どもが、その代償として「お菓子を買って」「おもちゃを買って」と求めるのと同じです。買ってあげた直後は子どもは喜び満足するのですが、すぐに「ぼくが本当に欲しいのはこれじゃない」と気付くのです。そして、せっかく買って貰ったものには見向きもせず、新しい何かを求めます。このような状態の子を見て、お母さんは「この子は物欲が強い」と思うかも知れませんが、そうではないのです。「物ではないもの」をも求めているのに、「物」でしか対応しないから子どもは満たされないのです。物欲が強いのは大人の方なのです。子どもには本来「物欲」などありません。「個人的に物を所有する」という概念自体がないからです。これは、「イライラ」でも同じです。お母さんは、「子どもが言うことを聞かないから」「子どもが片付けないから」「子どもが」うるさいから」イライラすると言います。でも、本当は「お母さんのからだの状態としてのイライラ」の方が先にあるのです。そして目の前の子どもがその「イライラの原因」にさせられてしまっているだけです。だから、からだの調子がいい時には、いつも怒っているようなことでも腹が立たないことがあるのです。逆に、腹が立つのはからだの調子が悪い時です。思い当たりますでしょ。表現は悪いですが、これは一種の「八つ当たり」なんです。ということで、中途半端ですが今日はここまでにさせて頂きます。以下は告知です。**************************友人のかめおかさんが私の気質のワークを企画して下さっています。次回が二回目なので、日が迫っての企画なのでまだまだ参加者が集まっていません。ということで参加してみたいと思われる方はかめおかさんの方に連絡して下さい。それと、ビデオを撮って配信するという形でのWEBでの参加も出来ます。この場合は、質問は予めお聞きしています。以下はかめおかさんからのメッセージです。***************こんにちは! かめおかゆみこです。メルマガで、ときどき紹介させていただいている、篠秀夫さん。長年の、信頼できるお友だちです。その篠さん、ふだんは、造形教室をいとなむかたわら、子育てと遊びの研究家・気質の研究家として全国各地で、ユニークな活動をされています。私も何度か受講させてもらい、いろいろ勉強させてもらっています。2008年から、「『聴く』を磨く」講座を立ち上げて、足かけ7年。もともと、気質には興味があったのですが、「気質」を学ぶことで、「聴く」ことがより深まるなあと、強く想うようになりました。それで、試験的に、昨年12月に、「『聴く』を磨く」講座の有志を中心に、プチ勉強会をひらきました。これが、とってもおもしろかったのです♪「参加してよかった! 気質を意識して対応したら、 相手の反応が変わりました!」と、すぐに変化があらわれたひともいます。ちなみに、プチ勉強会では、はじめてのこころみとして、「WEB視聴」をとりいれました。遠方だったり時間帯の関係で参加できないひとのために、当日の講座のようすを、動画で、限定公開することにしました。これも好評で、こんな感想をいただきました。★S・Kさん気質のお話は、本当に深く難しいと思いました。でも、とても面白かったです。映像でワークの様子も見ることが出来、自分だったらどう動くかなど考え、その場に参加している気分にもなりました。ますます自分の気質について考えたりし、ワークも実際に体験したいと思いました。篠先生の講座やかめおかさんの講座に、遠くて参加できない事が残念なのですが、今回の視聴による参加はとても嬉しい事でした。-----------★N・Sさんこれまでに篠さんのブログや冊子を読んで、気質というものについて思い浮かべていたことが、参加者のみなさんの行動や発言をとおして裏付けられていくのを見せていただいたようでした。気質がおたがいの「関係」によって揺れ動くということが印象的でした。おたがいの気質を理解したり思いやったりすることで人間関係が変わってくるのだなあと勉強になりました。それと、いろんなひとたちが参加するワークをまるごとに近いかたちで拝見できてよかったです。自分がこのなかにいたらどんな感じがするかなあ、などと考えたりして、新鮮でした。-----------というわけで、ぜひ、より多くのひとと、この学びを共有したいと想い、あらためて、間口を広げて、勉強会をひらくことになりました。ご興味が湧いたかた、ぜひご参加ください♪奥の深い気質の世界をお楽しみいただけますよ♪今回も、「WEB視聴」ありです!(*^_^*)★勉強会★篠秀夫さんに学ぶ、「気質」と「聴く」の関係-----------日時/2015年2月5日(木)9時20分~11時50分会場/横浜市内施設(横浜駅5分) ※参加者に直接お知らせします。定員/リアル参加20名。WEB視聴は制限なし参加費/2000円(リアル・WEBとも)お申し込み/https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=Evzlcry問い合わせ/info@kamewaza.com-----------※リアル参加されるかたは、WEB視聴があることを 了解のうえで、お申し込みください。※お申し込みいただくと、すぐに自動返信メールが届きます。 会場の詳細、振り込み方法など、必要な内容が盛り込まれていますので、 届かない場合は、お手数ですが、お問い合わせください。★WEB視聴参加についてビデオ撮影したものを、ネット上で限定公開するかたちで、対応いたします。素人の撮影ですので、多少の見づらさはあるかと想います。ご了承ください。なお、リアル講座に参加されるかた全員にも、WEB視聴版のURLを公開します。参加費は、直接参加されるかたは、当日、会場にてお支払いください。(できるだけお釣りのないようにお願いします)WEB視聴については、お申し込みは、できるだけ、2月4日までにおこなってください。当日のようすを、ビデオ撮影し、限定公開のかたちでアップします。アップ次第、URLをお知らせします。目安としては、2週間前後になるかと思います。動画ができましたら、URLをお知らせしますので、確認したのち、お振り込みをお願いします。ではでは、お申し込み、お待ちしています♪感謝をこめて★追伸 動画のご案内かめおかゆみこのひとり放送局、よかったら、お聴きくださいませ♪1日2分、さくっと聴けます。(*^_^*)先刻、今日のぶんをアップしましたあ♪・かめおかゆみこのいま・ここ・チャネルhttp://urx2.nu/fL8z(短縮URL)
2015.01.22
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最初にワークショップの告知をさせて頂きます。3月8日(日)に岡山で「親子遊び」と「心とからだの深呼吸」というワークショップをします。詳細は「こちら」で見ることが出来ます。ご興味のある方はご参加下さい。それと、私の本拠地の茅ヶ崎の方でも4月から「自分育て」の連続講座を始めます。初回は4月12日(日)、10:00~11:50です。基本的に月一で、土日に行います。詳しい案内は後日掲載します。去年と内容は違います。去年は私が全体をまとめながらやりましたが、今年はグループワークを多く取り入れていきたいと思っています。******************************目の前の「浮き輪」を掴むためには、今しっかりと握っている「藁」を手放す必要があります。でも人は、その「藁」を無意識的に掴んでしまったため、自分が「藁を握っている」ということに気付きません。そして、「藁」を握ったまま一生懸命に「浮き輪」を掴もうとするのですが、なぜかいつもちゃんと掴めず、スルッと滑ってしまいます。時には、「掴めたかも」と感じるまでいくこともありますが、しっかりと掴めていないのでちょっとした荒波が来るとすぐに手から離れて行ってしまいます。そして、絶望は更に深くなります。このような状態の人は、いつも「浮き輪のつかみ方」を知ろうと、色々な本を読んだり、色々な講演会に行ったり、色々な人に相談しています。そこで色々な「浮き輪のつかみ方」を学ぶのですが、どんなに効果的な方法を学んでも、「藁」を握ったままなので、成功しないのです。その「浮き輪」を「幸せ」、「藁」を「不安」に例えることも出来ます。人は「幸せ」(浮き輪)を得ることが出来て初めて「不安」(藁)を手放すことが出来ると思い込んでいますが、実はそうではないのです。まず先に、「不安」を手放さないことには、「幸せ」を掴むことは出来ないのです。「不安」をしっかりと握った手では「幸せ」を掴むことは出来ないのです。だから話が難しいのです。「不安」の中に生きている人にとっては、「不安」が全てになってしまっています。それがない状態など考えることも出来ないし、どんなに頑張ってもそれを消すことも出来ません。実は、そのように「不安」を握りしめている人は、「不安」を手放さないように心もからだも固めてしまっているのです。「不安」の方が勝手にとりついているのではなく、自分の方から掴んでいるのです。なぜなら、奇妙に聞こえると思いますが、「不安」を掴んでいると「安心」だからです。だから、「不安」が強い人は「不安」を手放せないのです。たとえ「藁」でも、「空っぽ」よりは安心するのです。でも、一度「空っぽ」にしなければ「新しいもの」は掴めないのです。ちなみに「不安」を失うことによって発生するのは「恐怖」です。人は、「恐怖」よりは「不安」を選ぶのです。そこで必要になるのが、感覚とからだに働きかけるという方法なのです。「不安」を掴んでがちがちに固まっているからだを緩めるのです。まず、からだが緩まないことには手を開くことが出来ないからです。またからだが緩むことで「恐怖心」も減ります。最近の時代劇では見ることが出来ませんが、黒澤明などの映画では、戦いが終わったのにもかかわらず、侍が刀を手放せないシーンが出てきます。不安と緊張の中で刀をぎゅっと握りしめ続けていると、手の筋肉がそのまま固まってしまい、戦いが終わっても自分の意志では手が開かなくなってしまうことがあるのです。それで、足などを使って刀を手から離そうとします。刀を使った実際の戦いの場では、「るろうに剣心」のようにかっこよくは行かないのです。PS)文明でも同じ現象が起きています。 みんな「安心という不安」を手放せなくなってしまっています。 そして、「安心」ばかりを求めるため、「幸せ」が遠のいています。
2015.01.21
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14日には「体験の共有を通して子どもとつながることが出来ますよ」ということを書きました。ではそのお母さん自身のいつも何かに追われているような不安感や、孤独感はどのようにしたら癒すことが出来るのかということです。そのための一つの方法として15日に「何もしないワーク」というものを書いて、そこから「時間」の話にはいってしまったので、もう一度話を「つながり」に戻します。人は常に何かとつながっています。つながっていないと心もからだも意識もその活動を維持出来ないからです。その時に問題になるのは「何とつながっているのか」ということなんです。本来は他者とつながるべき「手」なのに、側に誰もいてくれなかったので、仕方なく側にあった小石や小枝のようなものをつかんでしまっていることもあります。寂しいからです。「溺れる者は藁をもつかむ」と言いますが、それと同じです。「藁」なんか掴んだって何の役にも立たないのですが、人は不安が強い状態だと、それに耐えられなくなり、とりあえず身近にある何かとつながろうとしてしまうのです。問題は、一度「藁」を掴むと、「藁」を手放せなくなってしまうということなんです。目の前に「浮き輪」があっても、不安のためその「藁」を手放せないので、浮き輪を掴むことが出来ないのです。新しい何かを手にするためには、今持っている何かを手放さなければならないのですが、手放すのが怖いのです。15日の「何もしない」というワークはその状態に気付くためのワークです。またちょっと脱線しますが、2,3才頃の子どもはお母さんと同じことをしたがります。お母さんが掃除をしていれば「僕も」と言ってやりたがり、お母さんがお料理を作っていると「私も」といって手伝いたがります。でも、この時期はちゃんと出来ません。また、お仕事をお願いしても最後までやる気はありません。すぐに飽きてしまいます。さらにはケガをしたり、散らかしたりして余計にお母さんの仕事が増えます。そのため、お母さんは、もっと大きくなってちゃんとお仕事が出来るようになったら手伝ってもらおうと思って、その時は「テレビを見ていて」とか「おもちゃで遊んでいて」と言って、子どもを遠ざけます。でも、子どもが大きくなって、ちゃんと出来る能力が育ってから手伝わせようとすると、子どもは「お手伝い」を嫌がります。なぜなら、お母さんから遠ざけられていた時期に、子どもはその寂しさを紛らわすために別の何かとつながってしまうからです。それはゲームかも知れません。自動車や電車などのおもちゃかも知れません。ちなみに、子どもが自動車や電車にはまるのは、それらは機械なのに「人間的な要素」を持っているからです。だから自動車や電車を擬人化した物語がいっぱいあるのです。ゲーム機も同じです。ゲーム機は「相手をしてくれる」という点で人間的なんです。寂しさを感じている子ども達は、そのような「人間的な要素」を持ったおもちゃとつながることで、寂しさを紛らわそうとするのです。そして、それらが「友達」になるのです。ですから、「積み木」のような「人間的な要素を持たないもの」に夢中になる子はあまりいません。でも、一度それらのものと強くつながってしまうと、今度は本当の人間とのつながりが困難になってしまう恐れがあるのです。なぜなら、人間とつながるためには、ゲーム機や自動車や電車などとのつながりを手放さなければならない場合があるからです。そのような子は、おもちゃを独占しようとするばかりで、「一緒に」が出来ないのです。でも、一度そのような状態になっても、まだ7才前なら、周囲に仲間が多くいる状況を作って上げれば、子どもは次第に「おもちゃ」よりも「仲間」の方を選ぶようになります。それが子どもの本能だからです。でも、周囲に仲間がいず、お母さんも相手をしてくれず、相変わらず寂しい状態のまま成長してしまうと、子どもは人間以外の存在とのつながりの方が強くなり、その状態から抜け出すのが困難になります。そのまま大人になってしまった人もいっぱいいます。そのような状態の人がその状態から抜け出すためには、「今、何にしがみついているのか」「それはあなたにとって本当に大切なものなのか」ということを知るところから始める必要があります。そうしないとそれを手放すことが出来ない方です。手放せないと新しい「つながり」を得ることが出来ないのです。
2015.01.20
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子どもが大人になるまでには、まず「子どもの時間」をしっかりと生きることが大切です。これが7才頃までです。次に、群れ遊びを通して「仲間の時間」を学ぶ必要があります。これが4,5才ぐらいから思春期頃までです。子どもは、この「仲間の時間」を学ぶことで、必要に応じて仲間に合わせることが出来るようになります。でも、それだけではありません。次に「社会の時間」というものがあります。「社会の時間」といっても、学校の教科としての社会ではありません。「社会というものを支えている時間」ということです。「仲間の時間」は仲間と群れて遊んでいる時には、その場の状況に応じて自在に変わります。「こうでなければならない」という固定された時間ではありません。そういう点で「子どもの時間」と似ています。でも、「社会の時間」は自分が属している社会システムとつながっているため、それに従うしかありません。「10:00 開店」と書いてあったら、9時50分に行ってもお店に入ることは出来ないのです。夜中にどんなにアイスクリームが食べたくなっても、19:00閉店のお店に、19:30に行ったら、売ってくれないのです。これが、仲間がやっている個人商店なら、「そんな固いこと言うなよ」で通すことも出来るかも知れません。「仲間の時間」は仲間で決めることが出来るからです。でも、一般的には、そんな勝手なことは出来ません。それが「社会の時間」であり、「社会のルール」です。この「社会の時間」の学びは7才頃から始まります。この「社会の時間」は、古今東西、どの社会にも存在しています。というか、この「社会の時間」が存在していないことには「社会というシステム」自体が存在出来ないからです。でも、その社会ごとに異なった「社会の時間」を持っています。そこが、世界中で共通な「時計の時間」とは異なるところです。キリスト教社会の時間と、イスラム社会の時間と、仏教社会の時間は異なります。農耕民族の時間と、牧畜民族の時間も異なります。山岳民族と海洋民族の時間も異なります。でも、その文化に生まれたものはその時間を守らなければなりません。「子どもの時間」や「仲間の時間」のように自分たちの気分で勝手に変えることは出来ないのです。ここまでは「人間の時間」です。最後の「時計の時間」は、「人間の時間」ではなく「物の時間」です。ですから、「物」を対象にしている科学では必然的に「時計の時間」を使います。逆に言えば、科学に依存していない社会では「時計の時間」など無意味です。その「時計の時間」は「物の時間」ですから、本来「人間」を対象に使うべきものではありません。人間を「時計の時間」で管理したら、人間性が破壊されてしまうのです。でも、「時計の時間」で子ども達を管理している幼稚園もいっぱいあります。そのような園では、子どもの状態に合わせて活動をするのではなく、「時計の時間」に合わせて子どもの活動を管理しています。お母さん達は、子どもの「社会性」を育てるために、「ちゃんと挨拶しなさい」とか「友達と仲良く遊びなさい」などと子どもに強制していますが、そんなことを強制しても社会性は育たないのです。子どもの社会性が育つためには、自分が主人公でいることが出来る「子どもの時間」と、仲間と楽しい体験を共有するための「仲間の時間」と、大人達が支えてくれている「社会の時間」を体験を通して学ぶ必要があるのです。でも、今では「子どもの時間」すら満たされないまま大人になってしまっている人がいっぱいいます。そのような人は「自分の時間」を持つことも出来ません。だからいつも追われているのです。そしてそれは、「自分の人生」を持つことが出来ないということでもあります。
2015.01.19
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子ども達は「子どもの時間」の中に生きています。でも、大人達は「時計の時間」で生きています。そしてこの両者は全く異なっています。だから、「時計の時間」に支配されているお母さん達は、「時計の時間」に無関係に生きている子ども達を見るとイライラするのです。その「子どもの時間」は、「子どもの心やからだの中に流れている時間」です。それは「お腹が空いた時が食事時間」という時間感覚です。それに対して、大人が生きている「大人の時間」は、「時計」という機械が刻む時間です。それは自分の心やからだとは無関係に流れている時間であり、お腹が空いていなくても「12時になったら食事時間」という時間感覚です。両者は全く正反対なのです。そして、「時計の時間」は「外部の時間」であるが故に、支配されたり、追われたりする感覚になってしまうのです。でも、今は「子どもの時間」の中で生きている子ども達も、やがて「時計の時間」の中で生きなければなりません。そうしないと、「時計の時間」によって支えられている大人の社会の中では生きることが出来ないからです。そしてそのように導いてあげることが、「社会性を育てる」ということでもあります。だからといって、「子どもの時間」を否定して「時計の時間」を押し付けることは止めた方がいいと思います。「子どもの時間」の中に生きている状態の子ども達には、「時計の時間」の大切さなど理解出来ないからです。それでも無理に押し付ければ、子どもは「自分の心」や「自分の世界」が否定されたと感じるばかりです。そして、自己肯定感が育たなくなるでしょう。また、子どもでも大人でも、「時計の時間」に支配された人は「自分の心の世界」も失うことになります。「自分の心の世界」は「自分の時間」の中にしか存在することが出来ないからです。じゃあ、どうしたらいいのかということですが、そこで「群れ遊び」の意味が出てくるのです。「一人遊び」の状態の中には、「自分の時間」だけしか存在していません。いつ何をやり、いつ止めるのかも全部自分の気分で決めることが出来ます。そのような状態のまま育ってしまうと、「時計の時間」には強い抵抗感を感じるようになると思います。「時間」を押し付けられることで、強制的に支配されてしまうような感覚になるのです。実際、ゲームに夢中になっている子どもにお母さんが「○○時になったらやめなさい」などと言っても全く無駄です。それを強制したら子どもは怒り出すでしょう。群れて遊ぶ時にも「自分の時間」だけにこだわることは出来ません。大人は子どもに合わしてくれますが、子どもは子どもに合わしたりはしないからです。それどころか、みんなが「自分の時間」を主張します。その結果、群れ遊びの場では新しく「仲間の時間」が生まれるのです。「自分の時間」にこだわらずに、「仲間の時間」を共有することで、群れ遊びが可能になるのです。その際、同じ年齢の子ども達の群れでは、単純な力関係によって誰の時間に従うのかが決まってしまいます。力が強い子がやりたい時が「やる時」で、止めたい時が「止める時」になるのです。そのような群れでは「仲間の時間」は生まれません。「仲間の時間」が生まれるためには、「遊び方を知っている異年齢による群れ」が必要になるのです。「力の強い子」に合わせるのではなく「遊び」に合わせることで「仲間の時間」が生まれるからです。みんなが「遊び」に合わせることで平等になるのです。そのため服従することによる屈辱感もありません。これが、「大人の時間」(時計の時間)へのステップになるのです。これは大人と遊ぶ時でも同じなのですが、「遊び」には「遊びの時間」があるのです。「縄跳び」には「縄跳びの時間」があり、「鬼ごっこ」には「鬼ごっこの時間」があり、「かくれんぼ」には「かくれんぼの時間」があるのです。そして、みんながその「遊びの時間」に合わせないことには一緒に遊ぶことが出来ないのです。鬼ごっこで自分がつかまってしまったからといって、そこで「やーめた」などということは出来ないのです。「ゆっくり走りたい」などと言っていたら、いつも鬼になってしまいます。それは自分では思い通りにならない時間なのですが、子どもには「仲間と遊びたい」という本能があるので、それを受け入れるのです。そしてそこから「社会性」が育って行くのです。ただし、小さい時からゲームばかりで遊んできた子は、その「仲間の時間」も拒否します。何人かが一緒にいてもみんな「自分の時間」ばかりを主張します。異年齢のグループでも同じです。
2015.01.18
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昨日、ナショナルジオグラフィックで人間以外の動物で、いわゆるリズム知覚を持ち、リズムに合わせて体を動かすことができるものは少ないそうだ。チンパンジーやサルでも難しい、とのこと。一方、ヒトの大人はごく普通にできる。リズム知覚というのは、かなり人間的な行動なのだ。という記事を読みました。実は、人間のこの「リズム」というもの対する感覚は、音楽の分野だけでなく、人間の生命や、知性や、意識といったものを理解する上で非常に重要な要素なのです。それは、「生命」はリズムで支えられ、人間の感覚も意識も「リズム」のないものを認識するのが苦手だからです。「リズム」は人間の認識能力を支えている根幹的な要素なのです。それは視覚でも、聴覚でも、触覚でも同じです。実際、人間はリズムに支えられています。人間は心臓のリズム、体液が循環するリズム、呼吸のリズム、意識や感覚のリズムなど、様々なリズムの集合体なんです。それらの様々なリズムが生命の働きによって協調し合い、「私」という現象を一種の交響曲のように発現させているのです。でも、普段私たちはそのことに全く気付きません。でも、絵でも音楽でも体験でも、そこに何らかのリズムがある場合と、ない場合とでは、意識や記憶への影響の仕方が全く異なるのです。「三日前の8時頃は何をしていましたか」という質問に答えるのはそれほど難しくありませんが、「64時間前には何をしていましたか」と聞かれても、そう簡単に答えることは出来ません。「日」というリズムで考えることが出来ないからです。「日」や「年」は「体感出来るリズム」です。それに対して「時計の時間」にはリズムがありません。ただ流れるだけです。だから子どもには分からないのです。感覚的には、「一日」という時間と「24時間」という時間は同じではないのです。また、私たちが「時間の流れ」というものを感じることが出来るのも「自分のリズム」を基準にしているからです。そして、「一人一人のリズム」は異なります。ですから、一人一人が感じている時間の流れ方も異なっているのです。子どもの頃には一日が長かったのに、大人になると短くなるのは「時間」が短くなったのではなく、「時間」を感じている「自分のリズム」の方が長くなったからです。また、絵を見ている時、人は無意識的に絵の中のポイントを探してリズミカルに動いているそうです。意識にもリズムがあります。そのリズムとリズムの間に何か出来事が起きると、その出来事を認識出来ず、「あれ! 何でこうなっているの」という状態になります。武術や格闘技などでもその「意識のリズム」の隙間を狙うようです。この隙間に技をかけられたり、殴られたりすると、意識出来ないのです。私は子どもの頃、町道場で柔道をやっていたのですが、時々5段以上の人が来て稽古を付けてくれました。そういう人とやっていると、いつ投げられたのかが分からないのです。気付いた時には畳の上に横になっているのです。不思議ですよ。ちなみに、3段ぐらいの人では投げられる時に分かりました。そして人は、リズムのある時間や空間の中にいると安心します。世界が認識出来るからです。でも、リズムがないと不安になります。世界が認識出来なくなるからです。シュタイナー教育では、子どもの成長における「リズム」の大切さは強く言われています。リズムがある生活をすることで子どもは安心を得たり、生命力を強くすることが出来るからです。朝ちゃんと起きなかったり、夜更かししたり、ゲームなどをやり過ぎたり、昼間あまりからだを動かさなかったりすると「からだのリズム」が狂ってしまい、不安が強くなったり、生命力が弱くなったりします。
2015.01.17
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私たちは一人一人異なった時間の中に生きています。そのため、歩くリズムも、脈のリズムも、言葉のリズムも、年の取り方も、考えるリズムも、感覚のリズムも、体液が循環するリズムも人それぞれです。物理的には同じ10年でも、実際には7,8年分くらいしか年を取らない人もいれば、逆にもっと多く年を取る人もいます。また、生き物たちはそれぞれ異なった時間を生きています。一年という短いサイクルで生きている生き物もいっぱいいますが、木のように基本的に寿命がない生き物もいます。実は、「時間」はものを計る時の物差しとして、人間が発明した人工的な概念なんです。cmやmといった「長さ」や、kgといった「重さ」と同じです。実際にそのようなものが存在しているわけではありません。ただそのようなものを使うと色々なものが比較しやすくなるため、人間はそのようなものを基準にして生活しているだけです。ですから、今ではそのようなものは文明社会の間では共通した単位として使っていますが、昔は、文化が違えば「違った長さの単位」、「違った重さの単位」、「違った時間の単位」を使っていたのです。ちなみに大人達は「時計の時間」で生活していますが、子ども達は「自分のからだの中の時間」で生活しています。それは、「お腹が空いた」「眠い」「朝が来た」「夜が来た」というような「からだの感覚が教えてくれる時間」です。そして、「自分の時間」しか知りません。そのため、「時計の時間」は理解出来ません。客観的な意識が目覚めていないので、「自分の時間以外の時間」というものが存在することを理解出来ないのです。ですから、いくら「早くしなさい」と叱っても無駄なんです。ちなみに7才前の子ども達の感覚は、「人間社会」ではなく、まだ「自然」に属していますから、近代的な人間社会の中で生まれた「お金」とか、「約束」とか、「清潔」とか、「生命」というような概念も理解出来ません。その理解がないまま子どもと暮らしているとストレスが溜まるばかりです。実は、「生命を大切にする」ということは「自分に与えられた時間を大切に使う」ということであり、「自分を大切にする」ということは「自分の時間を大切にする」ということでもあるのです。この場合の「自分の時間」とは、「時計の時間」のことではありません。「からだの感覚が教えてくれる時間」です。常に「次」のことを考え、常に色々なことをやっていないと落ち着かない人は、「時計の時間」的な意味での自分の時間は大切にしているのでしょうが、本当の意味での「自分の時間」は大切にしていないのです。だからイライラしたり、疲れたりするのです。それはまた、自分の生命や人生を大切にしていないということでもあります。人は、「自分の時間」の中にいる時にはイライラもしないし、それほど疲れないものなのです。仕事などでも、自分のリズムで仕事が出来るのなら、仕事の量が多くてもそれほど疲れないのです。でも逆に、仕事の量が少なくても、自分のリズムが否定されるようなリズムで仕事をしなければならない時には強いストレスを感じます。だから、「ちょっとした時間」待てばいいだけなのに、子どものその「ちょっとした時間」を待つことが出来ずに「早くしなさい」と怒鳴ることになってしまうのです。ちなみにゲーム機は子どものリズムを破壊します。子ども同士で遊んでいる時には、みんな「子どもの時間」の中で遊んでいます。一人一人の時間感覚は違いますが、でも、子ども達はそれを一人一人の個性として受け入れます。でも、ゲーム機は絶対的に服従を求めるのです。そこにあるのは「機械やゲームの時間」だけです。服従しないことには遊べないのです。それが「機械」を相手にする時に起きている現象です。そのため、ゲームばかりやっている子は強いストレスを感じています。イライラもしています。また、女の人が機械が苦手なのは、相手に合わせることに抵抗感があるからです。女性は男性とは逆に、自分の方に合わせて欲しがります。うちの家内もパソコンに向かって文句を言っています。でも男性は、自動車やパソコンといった機械類に合わせるのが得意です。会社や競争やゲーム機にも簡単に合わせます。でも、その結果、「自分」を失い、「自分」を壊してしまう人がいっぱいいます。どうしてそのような違いがあるのかというと、それは男性のからだよりも、女性のからだの方が保守的だからなのでしょう。では、そのような「自分の時間」に生きていた子ども達がどのようにして「社会の時間」や「時計の時間」を身につけていくのか、ということです。
2015.01.16
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昨日は「今」の連続が人生を作るのです。ですから「今」を大切にしない人は「自分の人生」を失うのです。ではその「ゆとり」をどのように作るか、ということです。それでまた新しい「つながり」が必要になるのです。という所で終わりました。一つのエクササイズとして、15分程度の「何もしない時間」を作って下さい。この程度の時間なら何とかなるはずです。何もしないと気持ちが焦るかも知れませんが、実際には、皆さんが15分間何もしなくても、大きな問題はないはずです。そして、この15分間はなるべくからだも動かしません。正座でも、イスに座ってでもいいですが、横にはならないで下さい。寝てしまっては意味がないですから。姿勢は真っ直ぐにして下さい。これはある種の「簡易座禅」のようなものです。ただし、からだを動かしさえしなければ、無念無想など目指さなくて結構です。心の中では何を考えても構いません。「何もしなくていい」というのですから簡単でしょ。頭で考えればこれほど簡単なエクササイズはないのですが、実際にやってみると、これがなかなか難しいのです。「こんな事やっても意味がない」とか、「そんな時間取れない」とか、色々と言い訳も頭に浮かぶでしょう。それは、次のことばかり考え、いつもからだを動かしている人にとってはからだを動かしている方が楽だからです。普段からからだを動かさない人にとっては、からだを動かすことには非常に大きなエネルギーが必要なのですが、普段から動き回っている人の場合は逆に、「何もしない」ということの方が大きなエネルギーを必要とするのです。では、「何もしないこと」にどのような意味があるのかというと、それは「心とからだの整理整頓」になるのです。いつも、意識が外側に向いていて、何かをしていないと落ち着かない人は、心とからだの中に無駄なものがいっぱい溜まってしまっていたり、あるべきものがあるべき位置になく、混乱状態になってしまっているのです。それままるで「ゴミ屋敷」のようなものです。ですから、捜し物があっても見つけることが出来ません。自分の心なのに邪魔なものがいっぱいあって身動きも取れません。そのような人は「ちゃんと考える」ということも苦手です。確かに、「何もしない」という行為には何にも社会的な価値はありませんが、そんなゴミ屋敷を少し片付けることには役に立つのです。そして、少しでも片付けば捜し物を見つけやすくなります。身動きも取れるようになります。すると、それまで気付かなかったことにも気付くようになります。私は30才の頃、リュック一つで一年間ヨーロッパとインドの旅に出ました。ヨーロッパは素敵な所でしたが、まあ想定内の体験しかできませんでした。でも、インドでは想定外の体験をいっぱいさせてもらいました。その中の一つに、時間感覚の違いがあります。欧米の人も日本人も、基本的にはみんな「時計の時間」で動いています。でも、インドの人達はどうも「時計の時間」では動いていないようでした。というか、「自分たちの行動を管理するような外的な時間」というものを想定していないようなのです。それは「子どもの時間」と似ているのかも知れません。子どもも「時計の時間」では行動しませんよね。「何時までにやる」という発想ではなく、「出来た時が出来た時」なんです。言っている意味が分かるでしょうか。インドの電車はしょっちゅう止まります。(私がインドに行ったのは33年前ですから現在はどうか分かりませんけど・・・)それで、最初の頃は電車が止まる度にイライラしていました。そして、ちょこちょこ時計を見ていました。5分経過、10分経過、15分経過・・・それでも動きません。驚いたことにアナウンスも全くないのです。何のアナウンスもないまま止まり続けるのです。日本だったらみんな怒り出すでしょうが、インドの人は全く普通の状態のままです。そのまま、1時間とか2時間とか止まったこともあります。あまりにちょくちょく電車が止まるので、最初の内はイライラして時計を見ていたのですが、次第に慣れてきました。「これがインドなんだ」と諦めたのです。そうしたら、窓の外で昼寝をしている牛や人達が見えてきました。頭の上に荷物を載せて運んでいる女性も見えてみました。インドの時間に慣れてきたら、インドが見えてきたのです。現代人は「時計の時間」だけが「時間」の全てだと思い込んでいますが、実際には子どもには「子どもの時間」があり、生命には「生命の時間」があり、自然には「自然の時間」があるのです。また、人それぞれも異なった時間を生きています。実際には、Aさんが生きている時間と、Bさんが生きている時間は同じではないのです。「何もしない」というエクササイズは、「時計の時間」に振り回されていた人が「自分の時間」に気付くためのエクササイズでもあるのです。
2015.01.15
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昨日は、子どもと体験を共有することで子どもとつながることが出来るということを書きました。お散歩の時に、子どもがしゃがんで何かを見ていたら「早くしなさい」とか「汚いから触るんじゃありません」などと言わず、お母さんも子どもの脇にしゃがんで、子どもが見ているものを見て、子どもが感じていることを感じるようにしてみると、子どもと体験を共有することが出来るので、子どもとつながることが出来ます。お料理を作る時に一緒に手伝ってもらえば、それも「体験の共有」です。子どもがテレビを見ているときに、子どもの隣に座って一緒にテレビを見ることでも「体験の共有」は出来ます。「子どもにテレビを見せたくない」と愚痴を言っているだけでは何にも変わりません。体験の共有をしているから、「ねえ ねえ あの○○レンジャーのベルト、一緒に作ってみない」と、それを遊びにつなげることも出来ます。読み聞かせもまた「体験の共有」です。ですから、「ぐりとぐら」を読んだあと「ホットケーキを作ろうか」と、子どもと一緒に「ホットケーキ作り」の遊びをすることが出来ます。「よあけ」という絵本を読んでいれば、キャンプなどに行ったときに、暗闇の中に朝日が出てくるまでの変化を子どもと味わうことも出来ます。「体験の共有」を通して「つながり」を作ることが出来れば、その「つながり」を利用して、色々なことが可能になるのです。そして、子どももまたその「つながり」を通して、お母さんとの心の触れ合いを感じ、安心と喜びを感じることが出来ます。そしてまた更に新しい「つながり」が生まれます。「一緒に夜明けを見た」という「つながりの記憶」は、子どもが大きくなってもズーッと子どもの心の中に残っていくでしょう。そのようなことの繰り返しの中で、子どもは落ち着いてくるのです。そうすれば問題行動も起きにくくなるのです。そのような根本的な問題に目を向けず、「子どものこういう行動をやめさせたいのですけどどうしたらいいのでしょうか?」と聞かれても、なかなか答えにくいのです。大切なのは「問題行動を直す方法」を探すことではなく、「どうしてそのような問題行動が現れてしまったのか」という根本的な原因を探し、根本的なところを変えることなんです。そうでないと、全てが対症療法になるばかりで、どんな方法を使っても一時的な効果しか得ることが出来ません。でも、一時的にでも効果的に働く方法があるのもの事実なので、お母さん達はすぐにそれに飛びついてしまうのです。それは、「熱が出た」といってすぐに解熱剤を飲むようなものです。でも、そんなことばかり繰り返していたら、やがて「取り返しのつかないこと」になってしまいます。ただ、問題は、子どもと体験を共有するためには、お母さんの心に「ゆとり」が必要だということです。「ゆとり」がない状態では心が急いてしまうため、子どもを思い通りに動かそうとするばかりで、待つことが出来ません。一緒にしゃがんだり、絵本を読んでいても、次のことを考えてイライラしてしまうでしょう。心にゆとりがない人の特徴は、「今 ここのこと」に気持ちを向けずに、常に「次のこと」ばかりに気持ちを向けていることです。だから、子どもの気持ちに気付かないし、子どもと一緒に色々なことを感じたり体験することも出来ないのです。不安が強い人も、自己肯定感が低い人も同じ特徴を持っています。でもそれは、大切な「今」という時間をどぶに捨てているようなものなのです。そのような生き方をしていると、「自分の人生」を失ってしまうのです。人間には「今」という時間しか与えられていないからです。「今」の連続が人生を作るのです。ですから「今」を大切にしない人は「自分の人生」を失うのです。ではその「ゆとり」をどのように作るか、ということです。それでまた新しい「つながり」が必要になるのです。
2015.01.14
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昨日は「人と人をつなぐもの」として、「遊び」や、「言葉」や、「祭り」や、「宗教」や、「お手伝い」といったものをあげましたが、でも今の時代、このようなものは消えつつあるものなので、子どもに与えるのはなかなか難しいことでもあります。ただ、これらの他にも皆さんが自分の力で創り出すことが出来る「つながり」もあります。それは「体験」を共有することによって創ることが出来る「つながり」です。いわゆる「竹馬の友」とか「同じ釜の飯を食う」というようなことです。一緒に旅行に行く、一緒にテレビを見る、一緒に雲を見る、一緒に美味しいものを食べる、一緒に笑うと言うような「体験の共有」もまた「つなぐもの」として機能するのです。それらは、「遊び」や、「言葉」や、「祭り」や、「宗教」や、「お手伝い」のような「伝承されてきたもの」ほど子どもの心やからだの育ちに積極的に働きかけはしませんが、でも、「子どもとお母さんやお父さんをつなぐもの」としては充分に機能します。そして、子どもとの信頼関係も築くことが出来るでしょうし、子どもも安心しながら成長することができます。ちなみに、その「体験の共有」は親と子をつなげてくれますが、「伝承されてきたつなぐもの」は、子どもと子ども、子どもと社会、子どもと見えない世界、子どもと世界、子どもと歴史をつなげてくれます。だからこそ非常に大切なんです。これらが消えてしまうと、人は「時空を超えた世界とのつながり」を失ってしまい、「自分」という狭い世界の中だけで生きるようになります。確かに、子ども達は知識としては学校で、世界のことや、過去のことや、宇宙のことなど色々なことを学びます。でも、「つながり」の中での学びではないので、学んだことに「リアリティー」がないのです。学校で学ぶ宗教と、毎週教会に行って学ぶ宗教は同じではないのです。教科書で学ぶ「外国のこと」と、実際に行って、見て体験してきた「外国のこと」は同じではないのです。そして、そのような「広い世界とのつながり」を失うと、どんなに知識がいっぱいあっても、人は自意識ばかりが強くなり、ちょっとしたことで悩んだり苦しんだりするようになります。実際、自分の悩みや苦しみを訴えてくる人ほど、世界の至る所で苦しんでいる人のことや、文化や、芸術や、過去や、未来のことや、宇宙のことなどには興味がありません。そして、「自分のこと」ばかりを語ります。熱く芸術のことや世界のことを語るような人は、「自分の悩み」にはあまりこだわらないものなのです。昔はそういう人が結構いましたが、今ではそのような人は本当に少なくなりました。そしてみんな「自分のこと」だけで悩み苦しんでいます。それもまた時代の変化なのでしょう。そんな現代人が求めているのは「自分の平和と幸せ」だけです。でも、だから悩みが深くなってしまっているのです。「自分の幸せ」ばかり願っているから、いつまで経っても幸せになることが出来ないのです。「自分の自由」ばかり願っているから、いつまで経っても自由になることが出来ないのです。そうではなく、「相手の幸せ」を考えるとき、自分も幸せになるのです。「相手の自由」を考えるとき、自分も自由になるのです。子どもを束縛しておいて、「もっと自由が欲しい」と言っても無理なんです。子どもを自由にしてあげれば、お母さんも自由になるのです。子どもを幸せにしてあげれば、お母さんも幸せになるのです。自分を束縛しているのは自分自身なんです。そのことに気付くためには、もっともっと広い世界とのつながりの中に入っていく必要があるのです。是非、子どもと体験を共有しながら色々なところに行き、色々な人と出会い、色々な体験をし、子どもと一緒に「つながりの中での学び」をしてみて下さい。それだけで「子育てのハウツー」など学ばなくても、「子育ての悩み」 なんて消えてしまうと思います。そしてお母さん自身の「育ち直し」も出来ると思います。
2015.01.13
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人と人がつながるためには、人と人を「つなげるもの」が必要になります。その「つなげるもの」がない状態では、どんなに頑張っても、人と人はつながり合うことが出来ません。お母さん達は、子ども達に「ケンカをしないで仲良くしなさい」と言います。でも、「子どもと子どもがつながることが出来るようなもの」を与えなければ、どんなに叱っても、子ども達は仲良くすることが出来ません。でも、子ども達は本能的に仲間とつながりたいという欲求を持っています。それは、「つながり」というのは子どもが自分の成長に必要な栄養を吸収するための回路だからです。例えていえば、それは「へその緒」のようなものです。子ども達は、仲間や大人と多様な「つながり」を持つことで、多様なことを吸収し、「人間」として成長することが出来るのです。それは「遊び」であったり、「言葉」であったり、お手伝いであったりします。「祭り」や「宗教」なども「人と人をつなぐもの」として機能してきました。人類は太古の昔からそのような「つながり」の中に生まれ、その「つながり」によって成長し、文化や文明を受け継ぎ、発展させてきたのです。子どもは「つながり」がない状態では人間として成長出来なくなってしまうのです。でも、現代社会ではその「つながり」が非常に希薄になってきてしまっています。今の子ども達は、「言葉」という人間にとって一番大切な「人と人をつなぐもの」でさえ満足に与えられていません。そのような「つなぐもの」を与えられていない子ども達でも、本能的に「つながりたい」という欲求は持っています。なぜなら、これは大人でも同じですが、人は「他者とのつながり」を感じることが出来ない状態の中では、強い不安や孤独を感じるように出来ているからです。密室育児をしているお母さんも同じ状態です。でも、「つながるもの」を持っていないので、どのようにつながったらいいのかが分かりません。それで、突き飛ばしたり、ぶったり、悪口を言ったりして「ケンカ」を始めます。どうやったらつながることが出来るのかが分からないので、とりあえず相手が強く反応するような行為をするのです。相手を褒めても、良い子にしていても相手はあまり反応しません。でも、ぶったり悪口を言うと強く反応してくれるのです。子どもにとってはそれも「つながり」なんです。そして、「困ったこと」をするとすぐにお母さんが飛んできてくれます。その結果、友達を突き飛ばすことが「お母さんとつながる方法」になってしまうのです。お母さんの方から積極的につながりを作ってくれない場合は、子どもは必死になって「お母さんとつながる方法」を発見しようとするのです。叱られたり、叩かれたりという「苦しいつながり」でも、子どもにとっては「孤独」よりはまだましなのです。そして、そのことを学習すると、今度はそっちの方がメインになってしまいます。友達とではなく、お母さんとのつながりを求めて「困ったこと」をするようになってしまうのです。これが子どもだけの群れ遊びの中でのことなら、他の子に乱暴する子は相手にされません。一緒に遊んでくれなくなってしまいます。だから、そのような行為はしなくなるのですが、常に「お母さんに保護されている状態の子ども達」は、お母さんとつながることが出来れば仲間に嫌われても問題がないのです。また、子どもは無視されているよりは叱られている方が安心するのです。その時だけは孤独ではないからです。虐待は苦しいのですが、少なくとも、虐待されているときには孤独ではないのです。子どもは虐待よりも孤独の方が苦しいのです。実際、幼児虐待の治療では、身体的虐待よりもネグレクトによる虐待の方が治療が困難だと言います。幼児虐待の記憶がなかなか抜けないのもそういうことが関係していると思います。「虐待された記憶」は、そのまま、「お母さんやお父さんと自分をつなぐ記憶」でもあるのです。だから、忘れたいけど忘れることが出来ないのです。これを忘れたら、「お母さんやお父さんとのつながり」も消えて「孤独」になってしまいます。よく、「子どもがケンカばかりして困るのですがどうしたらいいのでしょうか」とか、「他の子を突き飛ばしてしまうのですがどうしたらいいのでしょうか」という質問を受けるのですが、実は、直接的にそれらの行為を止める方法はないのです。子ども達に、「子どもと子ども、子どもと大人をつなぐもの」をちゃんと与えてあげれば、そのような困った行為は、必要がなくなり自然に消えてしまうからです。子ども達は、必要があるからそのような行為をするのですから、その行為自体を否定しても問題は解決しないのです。お母さん達にとっては「困った行為」でも、子ども達は「必要に迫られてやっている行為」なのです。そのことに気付かないと子どももお母さんも苦しくなるばかりです。***************私はよく「子どもがこういう状態なんですけどどうしたらいいのでしょうか」という質問を受けます。でも、「子どもの状態」は、私が知らないその人の「日常生活」の結果ですから、いきなりそんな事聞かれても答えるのが困難なんです。子どもの状態に問題を感じている人は、今日、ブログに書いたようなことを参考に、毎日の日常生活をチェックしてみて下さい。
2015.01.12
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今日も親子遊びの会にコマを持って行ったのですが、みんな頑張っていました。でも、頑張ってうまく回ったとき、お母さん達が子どものように「見て見て 回った回った」と大はしゃぎをするのです。実は、「昔の遊び」はこのように仲間がいると楽しいけど、仲間がいないとそれほど楽しくはないのです。一人でコマを回しても、見ていてくれる人も、競い合う人もいなければ、それほど楽しくはないのです。(大人の場合は一人だけでも「極める喜び」を求めて頑張る人もいますが、子どもはそんなことはしません。一人で凧を揚げている大人はいても、一人で凧を揚げている子どもはめったにいないのです。)実は、「昔の遊び」は「仲間と仲間とつなぐもの」として存在していたのです。だから、ある意味で「不完全」なんです。仲間がいて初めて完成する遊びなんです。それが「昔の遊び」の特徴でもあります。現代でも、カード遊びにはその様な要素があります。でも、カード遊びでの勝敗は、努力だけでなく、どれだけお金を使ったかも大きく影響しているようです。そういう点でフェアじゃないのです。それではマジメに努力するのはバカバカしいですよね。最近の「子どもの遊び」は経済活動と密接につながっていますから、本人の努力には関係なく、お金をかけた方が強くも、楽しくもなるように出来ているのです。悪く言えば、大人が子どもを食い物にしているのです。そこでは、「どうやったらいっぱい売れるか」という工夫ばかりがあって、「どうやったら子どもの成長を支えることが出来るか」という発想は全くありません。おもちゃ屋さんに行けば、「子どもの成長を支える」とか、「考える力や感性を育てる」とかいうような説明書きがついたおもちゃも置いてありますが、それはお母さん達の不安や競争意識につけ込んで商品を売るための策略に過ぎません。実際には、そんな根拠どこにもないのです。人間は「人間との関わり」を通してしか「人間」として成長しないのです。そんな最近のおもちゃは、一人でも遊ぶことが出来ます。機械が相手をしてくれるからです。何人かで対戦出来るものもありますが、あくまでも「おもちゃ」や「機械」を通してです。その向こうには人間がいても、子どもが直接向き合っているのは「人間」ではなく「機械」なのです。そして、「その向こう」に人間がいても、子どもには「その向こう」は認識出来ないのです。大人でもそういう人はいっぱいいます。だから平気で読む人が傷つくようなことを平気で書き込むことが出来るのです。そしてネットでのトラブルが簡単に起きてしまうのです。今、人間は「人間との関わり」を通してしか「人間」として成長しないのです。と書きましたが、でも、人と人が関わり、つながるためには、「人と人をつなぐもの」が必要になります。ただ2人で向き合っているだけでは「関わり」も「つながり」も生まれないのです。昔のおもちゃは、その「つなぐもの」として機能していたのです。「おもちゃ」だけではありません「お手伝い」もまた「つなぐもの」だったのです。だから、子どもは「お手伝い」を通して「つながり」を感じる事が出来るのです。「お手伝い」は大人がやっている「労働」とは全く異なるものなのです。そして、近代的なおもちゃはそのつながりを必要としません。というか、「つながり」を破壊するように働きます。「それはそれで社会の変化なんだからしょうがないじゃない」という意見もありますが、そのような遊びしか体験しないまま大人になると、他の人とつながることに臆病になったり不安を感じたりするようになってしまうのです。実は、「○○するのは楽しい」という子どもの頃の体験は、大人になっても一生続くのです。そして、その逆もあるのです。
2015.01.11
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昨日、5年生の女の子が「凧が作りたい」と言ったので、簡単にできて、しかもよく飛ぶ「ビニール凧」を教えて上げました。それが出来上がると、「飛ばし方が分からない」と言うので、一緒に外に出て飛ばして見せました。すると「凧って楽しいんだね。わたし初めて凧を飛ばした。」と言いました。時々公園などで凧を飛ばしている子もいますが、でも、凧を飛ばしたことがない子も多いようです。昨日はコマ(大山ゴマ)も大量に出していたのですが、それを回したのはコマ回しを保育の中に取りいれている幼稚園を卒業した子だけで、他の子は全く見向きもしません。5,6年ぐらい前まではコマを出しておくと2、3人ぐらいはコマを回して遊んでいたのですが、最近ではほとんど遊びません。興味を持つ子はいるのですが、ヒモを巻くのが面倒くさいようで、すぐにあきらめます。ただ、ケンダマはちょっと流行っているようで、結構上手な子もいます。先日は、幼児とお母さんが一緒に遊ぶクラスにもコマとメンコとケンダマを持って行ったのですが、何人かのお母さん達がメンコに挑戦していました。そして「なつかしい~」と言うのです。なぜか、私の幼児教室のお母さん達は年齢がちょっと高めの人が多いのですが、「子どもの頃メンコで遊んだ」というお母さんが何人もいました。でも、今では全く見かけませんから、どの時点で途絶えたのでしょうか。そのお母さん達は「ゴムダン」(ゴム跳び)などでもよく遊んだと言います。でも、これもいまでは見かけません。お手玉などはもっと早い時点で消えたようで、おばあちゃん世代の人は結構上手に出来ますが、お母さん世代の人は普通に二つをクルクルやることしか出来ません。以前、私と同じような仕事をしている友人の大畑真由美さんをお呼びして、「鞠つき」と「お手玉」の勉強会を企画したのですが、非常に遊び方が多様なのでびっくりしました。多分、このブログをお読み頂いている人には想像も出来ないほど色々な遊び方があるのです。ただし、みんな「熟練の技」を必要とするものばかりで、「教わったから簡単にできる」という代物ではありませんでした。昔の子は、毎日毎日このような遊びをして技を磨いていたのでしょう。そして、「こんなの出来る?」とお互いに自慢し合っていたのでしょう。そうじゃなければあんな難しい技を習得出来るわけがないからです。今の子ども達は、ゲームの点数や、アイテムや、レベルなどを自慢し合っているようですが、昔の子ども達は自分のからだで実際にやってみせることが出来る技や、力を自慢し合っていたのです。そのような遊びは子どもの心とからだの成長に大きく働きかけたはずです。仲間とつながる能力も、負けや失敗との向き合い方も学んだでしょう。子どもの能力の成長は大人の想像を遙かに超えています。3才頃になれば、からだの機能の基礎は大まかには出来上がるようで、身体的活動としては大体のことは出来ます。木登りも、コマ回しも、トンカチやノコギリやナイフを使うことも、泳ぐことも大抵出来ます。ただし、実際にそのようなことが出来る子は、そのようなことが許され、しかもお手本がいる環境で育っている子に限られますが、可能性としては3才頃にはこのようなことが出来る能力が育っているのです。うちの子は3才で、普通に「切り出しナイフ」も「トンカチ」も「ノコギリ」も使っていましたが。今では、ハサミですら「あぶないから」といって自由に使わせてもらえない子がいっぱいいます。そのため、小学生でもハサミがうまく使えない子もいます。持ち方すら分からない子もいます。ナイフやトンカチやノコギリに至っては問題外です。でも、このような「からだで学ぶもの」には「学ぶ時期」というものがあって、その時期を逃すと、なかなか身につかなくなるのです。年齢が高く、頭で理解出来る方が、「学ぶ能力」が高いということではないのです。そしてそれは、社会性の育ちとも大きく関係しているようです。子ども達を見ていると、不思議なことに、「社会性」が育つ時期と、「身体能力」が大きく育つ時期が一緒なのです。だから昔の子ども達は、仲間との群れ遊びの中で夢中になって技術を競い合っていたのでしょう。「社会性の育ち」と「からだの育ち」には何か密接なつながりがあるのかも知れません。
2015.01.10
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現代人は、「遊び」には無関心だったり否定的なのに、「スポーツ」には強い関心もあり、また積極的に子ども達にやらせようともしています。でも、子どもの育ちには「スポーツ」よりも圧倒的に「遊び」の方が必要なのです。とはいっても、「遊び」と「スポーツ」は時としてよく似ています。実際、見ただけではその違いが分かりにくい場合もあります。羽子板は「遊び」ですが、バトミントンは「スポーツ」です。でも、そのバトミントンでも友達同士や親子でやるときには「遊び」になります。子どもがお父さんとやるキャッチボールは「遊び」ですが、スポーツチームでやるキャッチボールは「野球」」というスポーツの一部です。「ゆうびんやさん おはいんなさい」と歌いながらやっている縄跳びは「遊び」ですが、「スポーツ」としての縄跳びもあります。やっていることは似ています。でも、遊んでいるときには笑顔がありますが、スポーツの時には笑顔がありません。どんな種目でも、笑いながらプレーしている試合など見たことがありません。「遊び」と「スポーツ」の違いは「やっていることの違い」というより、「取り組む意識の違い」なんです。私は若い頃スペインに半年ほどいましたが、どこの公園でも子ども達がサッカーで遊んでいました。色々な年齢の子が、ゴールもない普通の公園や広場で、子ども達だけで、ルールにも束縛されずに、自由にボールを追いかけ回しているのですから、これは「スポーツ」ではなく「遊び」です。実際、子ども達も笑顔でボールを追いかけ回していました。そこには「仲間で遊ぶ楽しさ」があるばかりで、勝ち負けにこだわる「スポーツの必死さ」も、大人の評価も、点数もありません。確かにコマ回しや、相撲や、メンコのような「遊び」の場でも、子ども達は必死になって勝とうとします。でも、「遊び」において大切なのは、ただ単純に「勝つこと」ではなく、「勝ったり負けたりを楽しむこと」なんです。だからそれを点数化して競ってしまうと別のものになってしまうのです。「スポーツ」では常に勝てるのは素晴らしいことですが、「遊び」では逆に常に勝ててしまったら楽しくないのです。また、そんなに強かったらだれも遊んでくれないでしょう。「遊び」とは「仲間と仲間をつなぐもの」として存在しているのです。だからそこには「勝ち負けを楽しむ心」と「笑顔」があるのです。それに対して、「スポーツ」が目指しているのは「相手を倒すことによって得られる記録」であって、「仲間とのつながり」でも、「喜び」や「楽しさ」でもありません。また、スポーツにおける「負け」は、心に否定的な影響を与えます。でも「遊び」では、「負け」は逆にやる気を起こさせます。だから「勝ったり負けたり」しながら「もう一回 もう一回」と延々と遊ぶことが出来るのです。それは、スポーツの試合では「やり直し」は出来ませんが、「遊び」ではやり直しが出来るからです。そして、その繰り返しが、工夫し努力することを喜びにかえる体験になっているのです。このように、やっていることは似ていても、その機能は全く異なるのです。スポーツが目指しているのは「記録」です。でも、子どもは「記録」などには全く関心がありません。「記録」が欲しいのは大人だけです。子どもにとって一番大切なのは「仲間とつながることが出来るか」ということと、「楽しいか 楽しくないか」ということだけなんです。そして、子どもの育ちにはこっち方が圧倒的に大切なんです。でも、最近の子ども達はその「仲間と仲間をつなぐ遊び」をよく知りません。仲間と群れて遊ぶ体験が少ないからです。そのため「遊び」の場でも勝ち負けにこだわります。だから楽しくならないのです。羽子板は羽根を突き合って、ラリーを楽しむ遊びです。ですから、形式的には対戦しているのですが、相手もまた仲間なんです。でも、子どもと羽子板をするとわざと打ち返せないような玉(羽根)を返してくるのです。そして、「勝った 勝った」と言います。テニスのようなスポーツではそれでもいいのでしょうが、コートもネットもルールもない羽子板でそれをやられると「やったもん勝ち」になってしまい、全く面白くなくなります。また、そのような子はコマ回しでも「ぼく出来ないからやらない」と言ってやりません。一見して出来そうな時は参加するのですが、「失敗」や「勝ったり負けたり」を楽しむという感覚がないため、出来ないようなことには手を出さないのです。そして、挑戦しないからいつまで経っても出来るようになりません。ちなみに「スポーツ」でも、あまり大人による評価をせず、勝つことを求めず、楽しむことを目的とするなら「遊び」になります。そして子ども達は自由になります。そのスポーツが好きにもなります。遊びだから色々と楽しむ工夫もします。失敗も許されるので、自由なチャレンジも出来ます。そのような根底があって、後にそこから本格的なスポーツに入っていった子は、小さいときから追い立てられながらスポーツをやってきた子よりも伸びるのではないでしょうか。中南米やスペインなどのサッカーが強いのは小さいときからサッカー教室で学んだからではなく、私がスペインで見てきたように、野原や公園でただボールを追い回して遊んでいたからなのではないでしょうか。
2015.01.09
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6日に「子育ては簡単なんです」と書きましたが、でも子育てがうまく行かずに苦しんでいるお母さんがいっぱいいるのも事実です。では、本来は簡単なはずのものがどうして難しくなってしまっているのかということです。今日はその「苦しみの原因」を考えてみます。確かに昔から子育ては大変だったでしょう。お母さんは「家事」と、「子育て」と、時には「仕事」も掛け持ちでやっていた訳ですから。 男性がやっていることは「仕事」だけですからそれに集中出来るでしょうが、女性はあれこれやらなければならないのでよっぽどしっかりと自己管理が出来ないと振り回され、苦しくなってしまうのは当然です。でも、現代ほど子育てが困難な時代はなかったと思います。6日も書いた通り、「子育て」だけならそれほど難しくないのです。人間以外でも子育てをする生き物はいっぱいいますが、「子育て」がそんなにも大変なら、そのような生き物はもうとっくに絶滅しているはずです。人間は義務感で子育てすることも出来ますが、人間以外の生き物にはそんなものはないので、苦しければすぐに止めてしまうからです。人間でも、人々がまだ自然と共に素朴な生活をしていた時代は、「子育て」はそれほど苦しいものではなかっただろうと思います。近代化した社会でも、子ども達が自由に外で遊べ、人と人のつながりが密な社会なら、「子育て」はそれほど苦しいものではないとおもいます。日本でも昭和20~30年代にはまだそんな状態が残っていました。その頃のお母さん達は授乳中の赤ちゃんをオンブして家事や仕事をしていました。ですから、家事や仕事の間でも子どもと一緒にいることが出来たのです。これは子どもにとっても、お母さんにとっても都合の良いことでした。ただおぶっているだけで子どもの心は安定し、お母さんと子どもの間の信頼関係も育ち、密なコミュニケーションも出来たのですから。でも、最近のお母さん達はあまりオンブしないようです。それは体力的な問題もありますが、意識や、ファッションや、生活スタイルなどの変化も影響しています。でもそこにあるのは全て「大人の都合」や「大人の視点」だけで、「子どもの育ち」という視点は全く抜け落ちています。今では、「子どもの都合や子どもの視点も大切にしようよ」などと言うと、「子どもの犠牲にはなりたくない」とか、「子どもを甘やかしてはいけない」などとトンチンカンなことを言う人が増えてきてしまいましたが、でも、「子育て」は「子ども中心」でも「大人中心」でもうまく行かないのです。そこに必要なのは「共に」という発想なのですが、どうも現代人は「どっちを取るか」と考えるばかりで「共に」という発想が苦手なようです。これは男女の関係でも、国と国の関係でも同じです。もちろん、昨日書いたような兄弟が多い子育ての場合でも同じです。この「共に」という発想が消えてしまうと、「子育て」は結構難しいものになってしまいます。お母さんが家事をしているときでも、子どもはお母さんと一緒にいたいものです。ですから、その時間に一人で遊んでいたり、一人でテレビを見たり、一人でゲームで遊んでいる子はお母さんが家事が終わるのを待ちかねています。寂しいからです。それでお母さんが忙しいときに限って様々なトラブルを起こす子もいます。トラブルを起こすとお母さんが来てくれるからです。また、トラブルを起こさない子でも、お母さんが家事を終えるのを待ちかねて「お母さん遊んで」とやって来ます。子どもにはお母さんが疲れていることも、お母さんの都合も分かりません。子どもはただお母さんと一緒にいたいだけです。それでお母さんは身も心も疲れ果てます。また昔は、「オンブ期」が終わる頃には、兄弟や近所の子ども達に世話をされながら外で遊びました。基本的に、子どもは子どもの世話をするのが大好きなんです。だから、お母さんも安心して家事や仕事をすることが出来ました。でも、今ではそれも出来ません。外は危険だし、外に行っても他の子はいません。いたとしても、「一人遊び」だけで育った子は小さな子の世話をすることを嫌がります。そして、自分のことだけを考えます。ですから、今では「オンブ期」を過ぎても子どもを外出すことが出来ません。でも、子ども達は遊びたいので「遊び相手」」としてお母さんを求めます。「オンブ期」の赤ちゃんの時は一緒にいてあげればそれだけで充分だったのですが、「オンブ期」を過ぎた子は一緒に遊ぶことを求めるようになるのです。なぜなら、この頃の子どもは「遊び」を通して学び、成長する時期なので、本能的に「遊び」を求めるからです。そして、成長と共にお母さんに対する要求も高くなり、お母さんは子どもの相手をするだけで精一杯になってしまいます。そうなると家事どころではなくなります。でも、それでも子どもの心は満たされません。なぜなら、子どもは本当は「子ども」と遊びたいからです。それが子どもの本能なんです。「お母さん」はその代用品に過ぎません。だからお母さんがどんなに頑張っても子どもは満たされないのです。その時、テレビやゲームを与えると、子どもはそちらに夢中になります。だからお母さんも楽になります。でも、テレビやゲームには子どもを育てる力はありません。そのため、テレビやゲームだけで育ってしまうと良い意味での「子どもらしさ」ではなく、困った意味での「子どもらしさ」が抜けないままの大人になってしまいます。それは協調性がなく、我慢が出来ず、自分中心にしか考えたり、行動したりすることが出来ない大人です。最近、このような状態の大人が増えてきているような気がします。この問題を解消するには、お母さんが「家族づきあい」が出来るような自らの仲間作りをするのが一番簡単なんですが、でも、このような問題に苦しんでいるお母さんに限って仲間作りが苦手なようです。一般的に、仲間作りが得意なお母さんは、子どもと遊ぶのも得意です。だから、それほど子育てがこじれないのです。じゃあどうしたらいいのかと言うことなんですが、何か「一緒に出来ること」を見つけるといいと思います。例えばですが、ベランダなどで「一緒に野菜を育てる」とか「お花を育てる」というのもいいでしょう。一緒に「お料理」を作ったり、「手仕事」をしたりするのもいいでしょう。自分には対応出来ないような「子どもの遊び」に合わせるのではなく、お母さんが得意な分野で「一緒に出来ること」を探すのです。お母さんが相手をするような遊びでは、子ども達はお母さんの奪い合いをしますが、みんなで一緒に出来るような活動なら、「お母さんの奪い合い」も起きないのです。少数派だと思いますが、親子で一緒に「山登り」をしている人もいます。冬でも登っているようです。教室の生徒で、毎週土日はキャンピングカーでスキーに行っている家族もいました。そんな過激なことをする必要はありませんが、なにか「一緒に出来ること」を発見してみて下さい。それだけで少しは子育てが楽になると思いますよ。
2015.01.08
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かえるくん さんが以下のようなコメントを書いて下さいましたが、かえるさんのような状態になってしまったいる家は結構あります。年長の長男、年少の双子の3兄弟の母です。我が家の子達は…みんながお互いを羨ましがっています。「いいな、○○ばっかり…」「○○みたいにして?」と…。一番困るのが、寝るときの場所決め?年少の双子が夜中に起きたりするので、私の両脇にいるんですが、長男はトイレも1人で行きたがらない怖がり…でも両脇が空いてないので今日も拗ねて寝て行きました。「ちゃんと聞いてるの?」「最後までちゃんと見て!」と言われるたびにドキッとして、つい、体が3つほしい…と思ってしまいます。自己肯定感、ちゃんと育ててあげたいなぁ。どもってみたり、チックのような症状を出してきたり…三者三様、足りてないぞ〜と体で表現しているかのようです。子どもにとって「お母さんのぬくもり」は、お菓子よりも、おもちゃよりも大切なものです。ですから、必死になってそれを求めようとします。特に、ライバルがいる時は必死です。子どもが一人の場合はその要求に応えるのは難しくありませんが、子どもが複数いるとそこに優先順位が生まれてしまうため、競争が起きます。それでお母さんは一人一人順番に相手にしようとするのですが、一人を相手にすると他の子がすねます。お母さんとしてはちゃんと順番通り平等に相手をしていても、子どもは「平等」ではなく「自分だけ特別扱いされること」を求め、ねたみます。子どもには「平等」という概念は理解出来ないのです。どんなに説明しても理解出来ません。客観的意識がまだ育っていないため、「自分が他者と同じ存在だ」ということ自体が理解出来ないのです。大人でもその状態の人はいっぱいいます。じゃあ、このような時はどうしたらいいのか、ということですよね。子どもはみんなお母さんを独占したがりますが、でも、年齢によって「お母さんに求めるもの」が違うのです。年長さんと年少さんでは「お母さんに求めるもの」が違うのです。それを同じものを与えようとするから競争が起きるのです。年長さんならお母さんと一緒に家事などの「お手伝い」が出来るはずです。ですから、一緒に家事を手伝ってもらえばいいのです。この時大事なのは、「お仕事」としてやらせるのではなく「遊び」のように一緒にやってあげることです。そして「手伝ってくれてありがとう」「お母さん助かるわ」と伝えることです。子どもはその「一緒の時間」や「特別扱い」されていることを喜びます。そして、年少さんはこれを羨ましがるかも知れませんが、ねたんだりはしません。能力が違うし、お母さんに求めているものも違うからです。また、同じ年齢でも気質によってお母さんに求めるものが違います。子ども達一人一人の、その「要求の違い」を感じ分けると、画一的な「平等」ではなく、子ども一人一人が満たされる「平等」に近づけるかも知れません。ただしこの時、テレビやゲームで遊ぶ習慣がついてしまっていると、この方法は使えないかも知れません。また、年長の男の子なら、そろそろお母さんと遊ぶよりも、お父さんと遊ぶことの方を喜ぶようになっているはずです。でも、年少の子ども達は「お父さん」よりも「お母さん」を求めるでしょう。ですから、「お父さん」に活躍してもらうと、お母さんを独占しようとする競争が弱まるかも知れません。ただこれも、お父さんが忙しくて子どもと遊ぶ時間が無かったり、お父さんが子どもと遊ぶことが嫌いだったり、子どもがお父さんと遊びたがらないようなときには使えません。と色々書きましたが、兄弟が多くても兄弟同士が助け合って、競争などしない兄弟がいるのも事実です。必ずしも、兄弟が多いから競争が起きるわけではないのです。兄弟間の「縦のつながり」がしっかりと出来ていないから競争を始めるのです。そして今、そのような状態の子が「普通」になってしまいました。それはお兄ちゃんやお姉ちゃんが、「お兄ちゃん」や「お姉ちゃん」としてしっかりと育っていないということでもあります。どうしてそうなってしまうのかというと、生活の中から「お手伝い」が消え、地域の中の「群れ」が消え、「遊び」が「一人遊び」になってしまったからです。群れ遊びの中で、子ども達は「仲間」という意識が目覚めます。兄弟でも、他の仲間達や、お母さんやお父さん達と一緒に群れて遊べば、「ライバル」ではなく「仲間」になります。でも、みんなが一人遊びをしていたら「仲間」としてのつながりは生まれません。ですから競争を始めます。「お手伝い」や「群れ遊び」には「子どもを育てる力」がありますが、「テレビ」や「ゲーム」にはその力は無いのです。むしろ、幼児性を固定させてしまう傾向すらあります。また、お母さんが「お母さん」としてしっかりとリーダーシップを取っていなかったり、夫婦の助け合いが出来ていない場合にも子ども達はバラバラになります。バラバラになった子ども達は生存競争を始めます。かえるさんのお宅の状態が分からないので、一般的な話として書かせて頂きました。
2015.01.07
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基本的に私は、「子育てで悩んでいるお母さん」や、「勘違いの子育て」や「自分勝手な子育て」をしているお母さんに向けてこのブログを書いています。それは、そのような状態の子育てを受けた子は、「喜びや幸せの体験」が少なくなってしまうため、「喜びや幸せの創り方」を学ぶことが困難になってしまうからです。さらには、「孤独や、寂しさや、苦しさの体験」は豊富にあるので、そういうものを創り出す能力は高くなります。実は、「孤独」も、「寂しさ」も、「苦しみ」も外からやって来るのではなく、自分で創り出しているのです。そのことに気付かない限り、自分で創り出しているものだから逃れようがないのです。人間の「感覚」や、「心」や、「からだ」は、7才頃までに自分が生まれ育った環境に適応するようにその機能が整えられます。(実際には機能によってそれが完成する時期は違うのですが、全体的にその機能が完成するのが7才頃ということです。そのサインが「歯の抜け替わり」です。)そして、基本的に大人になってもその状態はあまり変わりません。生まれた時から「言葉」の中で育った子は、特に教えなくても自然に言葉を学んでしまうのですが、7才まで「言葉」がない環境で育った子は、7才を過ぎてから「言葉」を学ぶのは非常に困難になります。自分が生まれ育った気候風土に対応する「感覚」や、「心」や、「からだ」もその頃までに出来上がります。7才までに「感覚」や、「心」や、「からだ」を開く喜びを体験した子は、「感覚」や、「心」や、「からだ」を開くことで人や世界と関わろうとします。ですから、どんどん「自分の世界」を広げることが出来ます。でも、苦しみや悲しみの中でそれらを閉ざすことを学んでしまった子は、7才を過ぎても、「感覚」や、「心」や、「からだ」を閉ざそうとするため、他者や世界との積極的な関わり合いが困難になります。そのため「自分の世界」を広げることが出来なくなり、逆に「自分の世界」に閉じ込められるようになります。だからこそ「7才までの子育て」が非常に大きな意味を持っているのです。だからといってそんなに深刻になる必要はありません。子どもの言葉に耳を傾け、子どもと一緒に遊び、一緒に笑っていれば、子どもはそれなりにちゃんと育つものです。実際、子どもがお母さんに求めているのは「一緒に居てくれること」と「話を聞いてもらうこと」ぐらいなものです。他のことはそれほど重要ではありません。子育てで大切なことはそれほど多くはないのです。ところが、悲しみや苦しみの中で「感覚」や、「心」や、「からだ」を閉ざすことを学んでしまった人は、その「一緒に」という感覚がよく分からないようなのです。そのため、側で見ているとちゃんと出来ているのに、本人に「出来ている」という実感がないのです。子どもの頃から自分が求めていたものが、「こんな簡単なこと」だとは思えないのでしょう。そのため、そのような人に限って「何か特別なこと」や「ありもしないもの」を求め続けてしまうのです。そして、目の前の子どもとの「一緒の時間」を大切にしなくなってしまうのです。その結果、子どもは寂しさと苦しさを感じ、お母さんと同じように「感覚」や、「心」や、「からだ」を閉ざすようになっていきます。実は、子どもの育ちに必要なことは「特別なこと」ではなく、どんな人にでも簡単にできることばかりなのです。それは子どもの頃に虐待されて育った人にでも出来ることです。「子育て書」なんか必要ありません。じゃあどうして、そのような人は「自分は体験がないから分からない」と言うのかというと、出来ているのに「出来ている」という実感がないからです。それはちゃんと手を洗って手はきれいなのに、「まだ汚い まだ汚い」と手の皮がむけているのに手を洗い続けるようなものです。そのような人が子育てで意識しているのは、「目の前の子ども」ではなく、自分自身の「子どもの頃の不安」なのです。そんな時は自分に「だいじょうぶ だいじょうぶ」と言ってあげて下さい。そして「目の前の子ども」に意識を向けて下さい。子どもに笑顔があれば、お母さんの気持ちが満たされなくても、子どもはちゃんと育っているのです。「子育て」は誰にでも出来る簡単なことなんです。難しいのはお母さんが「自分の不安」と向き合うことの方です。
2015.01.06
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みどりの木こり さんから以下のようなメッセージを頂きました。先生のブログを久しぶりに拝見させて頂きました。感銘を受けてはメモったりして 今後の生活の糧となればと思っています。私は 繊細すぎて 直ぐに 人間関係でつまずいてしまいます。最終的には その相手に会いたくなくなるのですが根が寂しがりやなので 嫌になった相手のその仲間のグループの集まりや輪の中に行きたくなります。やはり 行く事で 新しい出会いや 為になる情報などを教えてもらえたりする事が多かったので 頑張って行きたいなぉと思う自分と 、あぁ あの人が居るなら 本当に行きたくないなぁと思う自分 二つの自分がいます。そういう時は 気持ちが どっちつかずで とっても疲れしまいます。行かなければ寂しくて悲しくなり行けば 怒りがこみ上げてきますそれでも 行く方が 行かないより良いのかなぁと一度きりの人生を もっと 楽しく 生活したいと強く強く思い 思いきって先生に思いのたけをMessageしてみました。みどりの木こりさんは、幼い頃から「受け身的な生活」ばかりをしてきたのではないでしょうか。それは「ああしなさい」「こうしなさい」という指示に従うばかりの生活です。そのような、「受け身的な生活」の中では「自立心」も、「自信」も、「自己肯定感」も生まれません。また、「受け身的な生活」は「他者に依存した生活」なので、そのような生活の中で育った人は「喜び」や「楽しさ」も他者に依存しようとします。みどりの木こりさんの文章の中にもその「依存」が読み取れます。でも、「依存」によって得ることが出来る「喜び」や「楽しさ」は刹那的です。それはおもちゃを買ってもらったり、ディズニーランドに連れて行ってもらうような喜びや楽しさです。でもそれは、「その時だけの喜びや楽しさ」なので、すぐに消えてしまいます。そして寂しくなります。孤独にもなります。アルコールやタバコに依存している人も同じです。アルコールを飲んで気持ちが大きくなっても、アルコールが消えればその反動で余計に気持ちがしぼみます。だから繰り返すのです。最近の子と、昔の子の大きな違いは、最近の子は非常に依存心が強いということです。昔の子は自分でやりたがりましたが、最近の子はやってもらうことばかり考えています。さらに、やってもらったのに「ここが変だ」などと文句ばかり言います。そして、「退屈だ、つまんない」と繰り返します。自分から始めたことでも、ちょっと思い通りにならなかったり、想定外のことが起きたりするとすぐに止めてしまいます。そのため毎回中途半端になります。それは、繊細だからではなく、不安が強く、自分に自信が無く、臆病だからです。これは最近の若いお母さん達でも同じです。そのため子育て支援の現場でも困っています。「子育て支援」の本来の目的は、「子育てを頑張っているお母さんの支援」のはずなのに、最近のお母さん達は、自分の代わりに子育てをしてもらいたがるようなのです。本来は親がやるべき仕付けまで、他人に任せようとします。そのような人の特徴は、「感謝」は少なく「文句」が多いということです。子どもに対しても「ああしなさい」「こうしなさい」と要求ばかりを繰り返します。でも、自分から率先して行動しようとはしません。どこまでも「お客さん感覚」なのです。一生懸命にやるから楽しくなるのです。失敗を恐れず頑張るから大きな喜びを得ることが出来るのです。そしてその繰り返しで、「自信」と、「自己肯定感」と、「自分の世界」が育って行くのです。途中であきらめてしまうことを繰り返していたら何にも変わらないのです。みどりの木こりさんは私は 繊細すぎて 直ぐに 人間関係でつまずいてしまいます。と書いていらっしゃいますが、人間関係における「つまずき」なんて誰にでもあるのです。ただ、みどりの木こりさんのように「そこから引き返してしまう人」と、「それでも前に進もうとする人」がいるだけです。受け身の生活をしていた人は、簡単にそこで引き返してしまうのです。そして、すぐにそこから引き返してしまう人は毎回同じ「つまずき」を繰り返します。そのため、いつまで経ってもそこから前に進むことが出来ません。つまずいても踏ん張って、更に一歩前に進めようとする意志の力が人生を変えるのです。逃げてはいけないのです。それはみどりの木こりさんも分かっているのではありませんか。本当は「つまずいた」のではなく、不安の中の不安が自分にブレーキをかけているだけなのではありませんか。「そこから先の世界」に入ったことがないので不安なんだと思います。
2015.01.05
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昨日は人間は「頭」、「心」、「からだ」の三層構造で出来ているということを書きました。そして人間はまず「からだ」として生まれ、その「からだ」の中に「心」が生まれ、「心」の中に「頭(意識・客観的思考能力)」が生まれるという順に成長していきます。そして最後に生まれた「頭」が人間の「対外的な活動」の多くを管理しています。でも、自分自身の「生命の管理」については、その「頭」はあまり役に立っていません。「頭」が充分に機能を発揮するのは、獲物を捕ったり、敵から逃げたり、何かを作ったりするような何らかの「行動や活動の目的」がある時です。つまり、「頭の働き」は「目的指向型」なんです。それはコンピュータの働きと同じです。ですから、何にもすることがなくてボーッとしているようなときには、人は「頭」ではなく「心」で考えています。そのような時の思考は、主観的で、非論理的で、直感的で、空想的です。でも、「頭」で一生懸命に考えても見つからなかった答えを発見することが出来るのはそんな時です。子ども達も「心」で考えていますから、子どもの思考は「行き当たりばったり的」です。そして、目的指向的に考えるのは困難です。「どうやったらいいか考えてみろ」と言っても、どうしようも出来ません。でも、だからこそ大人には思いもつかないような発想をすることが出来るのです。また、大人は悩みますが、子どもは悩みません。(大人は考えすぎて苦しくなりますが、子どもは単純にからだが苦しくなるのです。)そして大人は、悩めば悩むほど迷路に入ってしまいます。なぜなら、大人が考えるときに「道具」として使っている「意識」は、懐中電灯のようなものですから、細い道をたどるのには適しているのですが、「全体」を見るのには適していないからです。悩み続けている人は一生懸命にその懐中電灯だけで細い道をたどり、答えを探しています。だから、迷子にもなるし、「答え」も見つからないのです。私はキャンプなどに行ったときに夜の山を歩くことがあります。そんな時は、足下が危険ですから当然、懐中電灯を使います。でも、懐中電灯を使うと足下の道しか見えなくなります。光で照らされた範囲の外は真っ暗です。非常に怖くもあります。でも、立ち止まり、懐中電灯を消してみると全く別の世界が現れます。それまで懐中電灯の光で見えなかったものが見えるようになるのです。星が見え、月明かりで空も、遠くの山も見えます。さっきまでは数メートル先までしか見えなかったのに、懐中電灯を消すことで逆に遠くの方まで見えるようになるのです。すると、今、道のどの辺りを歩いているのかが分かります。懐中電灯の光がなければ崖から落ちてしまうかも知れません。でも、懐中電灯の光にだけ頼っていると迷子になってしまうのです。光を消したからこそ見えるものがあるなんて面白いですよね。ちなみに、座禅でやっていることもそのようなことだろうと思います。たまには悩むのを止めて山にでも登りに行きませんか。
2015.01.04
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いわゆる「五感」と呼ばれるものは、人間の「外部」と「内部」をつなぐ働きをしています。そして、その「内部」は、「頭」(知性)、「心」、「からだ」などで構成されています。(「魂」とか「霊体」というものはここでは扱いません。)ただ、それらはバラバラに存在しているのではなく、「分離不可能な統合体」として存在しています。お互いに密接に関係し合いながら生命を支えているということです。ただ、その関係性は対等ではありません。生命にとっての重要度が異なるからです。生命にとって一番重要なのは「からだ」です。実際、「頭」も「心」もなく、「からだ」だけの生物はいっぱいいます。というか大部分の生き物がそのような状態です。次に大切なのは「心」(感情)です。なぜなら、人間の行動や生き方を決めているのは「頭の働き」ではなく「心の働き」だからです。そして、生命にとって一番重要ではないのが、知性や論理的思考能力を担っている「頭」です。そのため、人間においても、状況に応じて「頭の働き」(知性や論理的思考)は簡単に停止します。アルコールや、恐怖心や、緊張や、疲れや、怒りや、欲望などが「頭の働き」を停止させてしまうことはよくあることです。そのような状態の人は「論理的な思考」が出来ません。また、日常的に「頭の働き」(論理的な思考能力)が鈍い人もいっぱいいます。そのような状態の人は「頭」ではなく「心」で考えます。「心」にも思考能力があるからです。でも、その「心の思考」は「論理的」ではありません。「心」は、「論理」ではなく、「体験」と「好き・嫌い」だけを基準にして考えているからです。そのため「心の論理」には「客観性」は全くありません。「頭」は客観性を基準にして、「体験」や「好き・嫌い」を越えた思考をすることが出来ますが、「心」にはそういう思考は出来ないのです。思春期前の子ども達の思考はこのような状態です。ですから、子どもの言葉を論理的に解釈しようとしても、よく意味が分からないのです。また、自分勝手なことばかり言うのです。このような状態の子ども達に何かを伝えようとするなら「頭」ではなく、実際の「体験」とのつながりの中で「心」に響くように働きかける必要があります。子どもが受け入れるのは、「正しい説明」ではなく「心に響く説明」なのです。大人でも、女性は男性よりもこの傾向が強いです。「からだ」もまた思考します。「からだ」は「本能」と「快・不快」を基準にして考えているのです。赤ちゃんはこの状態です。「寝返り」と呼ばれるものは、からだが「快・不快」を基準にしてからだの状態を調節している現象です。子どもはこの感覚に優れているので「寝返り」が多いのです。大人は「からだの思考能力」が低下しているので、寝返りが少なくなるのです。熱いものに触れたときに、思わず手を引っ込めるのも「からだの思考」の働きです。いちいち「頭」で考えて手を引っ込めている人などいませんよね。このように、「生命の働き」に対する重要度からいえば、一番大切なのは「からだ」であり、次に「心」で、一番大切ではないのが「頭」ということになります。実際、子ども達はまず「からだ」、次に「心」、最後に「頭」という順に成長していきます。その時、「からだの育ち」が「心の育ち」の基礎になり、「心の育ち」が「頭の育ち」の基礎になるのです。これはまた、進化の繰り返しでもあります。でも、現代人の価値観はこれとは全く逆になってしまっています。現代人にとって一番大切なのは「頭」です。次に「心」。そして最後に「からだ」です。そのため、幼いうちから一生懸命に「頭」にばかり働きかけようとしています。でもその結果、「心の育ち」や、「からだの育ち」に問題が起きているのです。さらには、「頭の育ち」にも悪い影響を与えています。そのように育てられた人は、自立が困難になったり、支配者のようになったりします。自己肯定感も低いです。心とからだの緊張も強く、自分を守ることばかりを考えています。なぜなら、「心」や「からだ」は直接他者とつながった世界に存在していますが、「頭」だけは「他者から切り離された世界」に存在しているからです。また、「他者について知る能力」は高いのに、「自分について知る能力」は低くなります。自分のことを知るためには、「頭」が「自分の心やからだ」と対話する必要があるのですが、「心やからだの育ち」を否定されて育った人にはそれが出来ないからです。ちなみに、「頭に働きかける」というのは別に「お勉強をさせる」ということだけではありませんからね。子どもの「なぜ?」に大人の論理で答えるのも、「頭に働きかける」ということなんです。子どもが「どうしてリンゴが落ちてくるの?」と聞いてきたとき、「重力があるからよ」というのは頭に働きかける答えです。それに対して、「下でクマさんが待っているからよ」というのは心に働きかける答えです。そして、子どもは「心に響く答え」の方を喜びます。また、大人は子どもにも「約束」を守らせようとしますが、「約束」という概念は「頭の働き」の産物です。ですから、「からだの思考」と「心の思考」しか出来ない状態の子ども達には「約束」の意味すらよく分かりません。何かをやらせたいのなら、「約束」で子どもの行動を管理しようとするのではなく「やりたくなるように」状況を整えるしかないのです。子どもの思考方法と大人の思考方法は異なるのですから、子どもに何かを伝えようとするなら「子どもの思考方法」に合わせるしかないのです。そのためには、大人が自分の心やからだの感覚に目覚め、それを肯定するところから始める必要があるのです。
2015.01.03
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よつばさんから以下のようなご質問を頂いたので、お答えさせて頂きます。私は息子の幼稚園選びで凄く迷い、引越しをした今、今度は妹の幼稚園選びに迷い答えがでません。この記事を繰り返し読み返しても解決法が判りません。私の理解力がないからでしょうか?よつばさんは非常に大きな勘違いをなさっているようです。息子さんの幼稚園選びの時には、その経過を通してどのようなことを学びましたか。「自分が学んだこと」を明確に言葉化出来ますか。その選択は、ご自身の価値観とどのようにつながった判断だったのですか。幼稚園選びを通して学んだことで自分自身が成長しましたか。「同じ事を繰り返す人」は、自分の体験を通して「自分自身」を成長させることが出来ない人です。そのような人は、色々な体験を通して「自分以外のこと」には詳しくなりますが、「自分について」は何も学んでいないため、状況が変わるとまた同じことを繰り返すのです。「学び」には「他者についての学び」と、「自分についての学び」の二種類があるのですが、よつばさんは「他者についての学び」はちゃんと出来る人なんでしょうが「自分についての学び」はあまり出来ない人なのでしょう。私の理解力がないからでしょうか?という言葉でも、そのことがよく分かります。だから「同じ状況」になると「同じ事」を繰り返すのです。ただしこれは、いつもいつも「早くしなさい」と子どもを追い立てているような人でも同じです。「早くしなさい」と言っても何にも問題は解決しないことを知っているのに、毎回同じ事しか繰り返さないような人は「自分についての学び」が足らない人です。ですから、これはよつばさんだけの問題ではなく、現代人一般の問題でもあります。なぜなら、現代人は「他者についての学び」は大切にしていますが、「自分についての学び」は全く無視しているからです。学校教育でも、家庭教育でも同じです。でも、どんなに「他者について」多く学んでも、「自分のこと」が分からない人は、その学んだことを活用出来ないのです。子育てでも、どんなに「子どものこと」を学んでも、「自分のこと」を知らなければ、その知識はかえって害になるばかりです。そして、「自分のことを知るための学び」は自分の力でしか出来ません。私にもどうしようも出来ません。学校でやっているようなテストや成績で分かるのは「他者についての学び」だけです。「自分についての学び」は全く分かりません。「他者についての学び」は競争させることができますが、「自分についての学び」は競争させることが出来ません。でも、「自分についての学び」は人を自由にしてくれます。「本当の不自由」は「自分自身による束縛」なのです。現代人は「他者による束縛」しか概念として理解出来ませんが、どんなに他者による束縛をふりほどいても、それだけでは「自分自身による束縛」は消えないのです。地球上で一番の権力者になったとしても、人は「自分自身による束縛」からは逃れることが出来ないのです。当然、「苦しみ」も消えません。昔の人は「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言いました。なぜなら、人は自らの意志で苦労することで人間として成長するからです。昔の人は「人間としての成長はお金には代えがたいものだ」ということを知っていたのです。でも、現代社会では「苦労したならその分のお金をもらえ」と言うのが常識です。そしてその価値観で現代社会は成り立っています。子育てや主婦の労働をお金に換算する人達もいますが、そのような発想をする人達は「自分についての学び」を大切にしない人達だと思います。お母さん達は子育てを通して「お金には代えがたい学び」をすることが出来るのです。そのことに気付き、そのような意識で子育てをしている人は、その学びを通して成長することも出来るし、どんどん心が自由になっていきます。喜びも増えます。ただし、そのようなことが起きるのは、そのような意識で前向きに子育てをしている人に限られます。子育てを単なる「労働」としてしか考えていない人は、「子育て」は「苦しみ」のままであり、「人間としての成長」も、「自由」も得ることが出来ません。もちろんこれは男性の仕事でも同じです。その「自分についての学び」が簡単に実感出来るのが何らかの「技術」を学ぶときです。「知識の学び」は「他者についての学び」ですが、「技術」を学ぼうとするときには、「他者」と同時に「自分自身」についても学ぶ必要があるのです。そうでないと「技術」というものは学ぶことが出来ないからです。これは「コマ回し」や「お料理作り」のようなものでも同じです。でも、現代人はそのようなことを「面倒くさい」と考え、機械を使うことで簡単に処理してしまおうと考えています。そして、「お金」で「技術」を買ってしまいます。でも、そのことで「自分」について学ぶ機会を失います。そして、自分を成長させることが出来なくなります。今はお正月ですが、コマ回しにでもチャレンジしてみませんか。多少は「自分について」知ることが出来ますよ。
2015.01.02
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明けまして お目出度うございます。今年もよろしくお願いします。茅ヶ崎の海岸から見た初日の出と、朝日に照らされる富士山です。雲が厚かったので、きれいな日の出は見ることが出来ませんでしたが、一瞬でも朝日が見えたので良かったです。真ん中に“ポチョン”と光っているところが朝日です。拡大すると丸いことが分かります。富士山はきれいに見えました。
2015.01.01
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