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最初に、明日明後日と三重なので、ブログの更新は出来ません。お許し下さい。(朝、5:30くらいの電車に乗るのです。)*********************人間は他の生物に比べて非常に不完全な状態で生まれてきます。犬や猫の赤ちゃんは、生まれてすぐにでも自分から動いてオッパイに吸い付くことができますが、人間の赤ちゃんはお母さんがオッパイをあげない限りオッパイを飲むことが出来ません。つまり、それだけ母親の世話を必要とする生き物だということです。そして、人間はあらゆる生き物の中で大人になるまでに一番長く時間がかかる生き物です。脳神経の成長は21才頃まで続くといわれています。それは、大人になるまでに身につけるべき“人間らしさ”というものがどれだけ複雑なものなのかということを物語っています。そして、人間らしさというものが生まれつきのものではなく、生まれてから学んで身につけていくものだということでもあります。そして、その学びはからだの成長の段階に合わせて進んでいきます。そのからだの成長には順序と時期が決まっていてそれを人為的に操作して変えることはできません。寝たきりの赤ちゃんは次に寝返りを打ち始めます。そして、お座りするようになり、手を使うことが上手になり、やがてその手の助けを借りて移動するようになります。この順序は変えられないのです。それに、この作業にかけることが出来る時間もおおよそ決まっています。そのため、この時期にこの学びが完了していなくても、からだの成長は自動的に次の段階に移っていってしまうのです。成長は待ってはくれないのです。それはまるでオートメーション工場のようです。次の工程に送られた成長は、それまでの成長状態に合わせた形で調整されます。手を使うことを学ぶことが出来ないまま次の工程に送られてしまえば、手を使わなくても済むように成長を調整されます。考えることを学ぶことが出来ないまま次工程に送られてしまえば、考えなくても済むように次の段階の成長が調整されます。ある一定時期にその学びがない時には、この個体にはそういうものが必要がないものとして処理されてしまうのです。汗をいっぱいかく状況で育てられているなら、汗をいっぱいかくことが楽に出来るように次の成長が整えられていくのです。真っ暗闇で育てられてしまえば目の働きが機能しないままになってしまいます。そして、目が見えなくても何とかなるように他の機能が調整されていきます。歩くことが出来ない状況で育てられてしまうと、歩くという機能を必要としないように次の成長が整えられてしまいます。それはつまり、歩けなくなってしまうということです。他の人とのコミニケーションがない状態で育てられれば、コミニケーションを必要としないシステムとして次の段階の成長が整えられていきます。それはつまり、コミニケーションができない状態が固定されていくことです。つまり、成長は論理的な不整合がないように次の段階に進んでいくのです。指を使うことを学ぶことが出来なければ、指を使わなければ成長しない部分は工程ラインからはずされます。チューナーがないのにスピーカーだけあっても無意味だからです。生命の働きはできるだけ無駄を省こうとするのです。だから後になってステレオを聴きたいと思ってチューナーやスピーカーを付けようとしてもそう簡単にはいかないのです。なぜなら、スピーカーを取り付ける必要がない構造として次の段階に進んでしまっているからです。この成長の工程ラインを管理しているのは人間の生命の働きです。それは個人に属するものではなく、「ヒト」という種に属するものです。何百万年、何億年という生命の歴史がその工程ラインを管理しているのです。そこには個人的な趣味、興味、人情、優しさ、思いやりなど入り込む余地はありません。非常に厳格でシビアーな管理者なんです。そこで大切にされているのは「ヒトの遺伝子」であって、「○○さん」という個人ではないのです。だからちゃんと遺伝子を次世代に受け継ぐことが出来ないような個体は時に廃棄処理されてしまうのです。その管理者の前では、“もうちょっと待って”とか“失敗した、やり直させて”などということは一切通用しないのです。なぜならそれは時間を戻すことを意味するからです。そんなことは誰にも出来ないのです。成長とはそういうシビアーなものだということをしっかりと認識しておいた方がいいと思います。時々、“子育てに失敗しました、やり直せないでしょうか”などということを聞いてくる人がいますが、そんなこと神様にだって出来ないのです。でも、人間にも出来ることがあります。それは過去の偏りをこれから成長していく能力、自分の意志で育てることが出来る能力を使って調整していくことです。つまり、チューナーやスピーカーを取り付けることができない構造になってしまったとしても外付けという形ならそれが可能だということです。内蔵はできなくても、外付けでも音楽を聴くことはできるのです。ただし、内蔵と同じ機能を持たせることはできません。それはしょうがないことです。大人になって学んだ英語は外付けの言葉です。生まれた時から母国語として慣れ親しんだ人の言葉とは同じにはならないのです。でも、それなりに何とかなってしまうのです。それが人間のすごいところです。でも、様々な機能を内蔵するのは大人が意識して子どもと関わることで可能ですが、外付けは自分の力でやらなければなりません。本人の自覚と努力がないと新しい能力を育てることは出来ないのです。また、内蔵された能力でもちゃんと使っていないと、“必要のないもの”として倉庫送りになるか時には廃棄処理されてしまいます。宇宙飛行士はたった数週間無重力状態で生活していただけで筋肉はやせ細り、地上に戻ってきた時立って歩けなくなってしまうのです。生命は無駄なものはすぐに捨ててしまうのです。でも、ちゃんと使っていればいつまでも使うことが出来るのも人間の能力の素晴らしさです。だから、老人のような子どももいれば、子どものように若々しい老人もいるのです。これが人間の素晴らしさでもあり、怖さでもあります。
2008.01.31
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文明の進歩と共に私達の生活は随分と便利になってきました。お年寄りだから出来ない、障碍を持っているから出来ない、女性だから出来ないということが随分と少なくなってきました。駅にはエスカレーターやエレベーターが設置され、戸口から戸口へと車が運んでくれて、機械の操作はプッシュ式で簡単便利になりました。水道の蛇口も、ひねるものよりレバーで上下するものの方が一般的になってきました。ガスコンロの火を付けるのもボタン一つです。昔のものは押して回していました。洗濯も私が子どもの頃は洗濯おけと洗濯板で、汗水垂らさないと奇麗になりませんでしたが、今では放り込んでボタンを押すだけです。ガスコンロも無かった時代は朝早くから起きて薪や炭で食事を作っていました。お風呂も同じです。遊ぶのにも昔はなんにもない野原や林で遊んだのに、今では色々な遊具がある公園がいっぱいあります。こういうことは今では当たり前ですが、私はこういうことが当たり前になる境目に子ども時代を過ごしました。小学校の高学年から中学生の頃に急に社会全体が文明化されたのです。私が子どもの頃は電話など持っている家は少数でした。映画「トトロ」の中でさつきちゃんがお隣の電話を借りに行きますが、電話は一部の人しか持っていなくて、急ぎの時にはそういう家で借りたのです。私の子ども時代はちょうどあんな感じでした。(なつかしいです)ですから、友達と遊ぶ時にも“電話してから”などということが出来ませんでした。歩いていって、玄関先で“○○ちゃん あーそーぼ”と呼びかけるのです。そして、遊ぶ時はみんな歩きです。そして、平気で何時間も歩きました。どこまでも歩きました。そして、夕方に帰ってくるのです。え、歩いて何をするんだ?ですか。ただ、色々な発見と冒険をして遊ぶだけですよ。私が子どもだった頃は発見と冒険が遊びだったのです。ちなみに、これは地域性も強くて、私は年長から小3まで葛飾に住んでいたのですが、そこではむかし遊びが盛んでした。もちろん、発見と冒険でも遊んでいましたけど。鎌倉にはそういう子どもたちの群れがなかったのです。(うちの周辺だけかも知れませんけど・・・)いずれにしても今の子どもたちの遊びとはまったく違っていました。夏休みは毎日海で泳いでいました。沖の方に張ってある遊泳限界のロープの所まで行ってずーっと遊んでいました。そのおかげで早くは泳げませんが、何時間でも海で浮いて遊んでいることができます。自転車も子供用など持っている子はいませんでした。高学年ぐらいになると大人の自転車を横乗りになって乗ったのです。大体、自転車になど乗っている子は少数でした。こういうことが普通になりだしたのは私が中学生の頃です。1965年頃でしょうか。多分、皆さんが生まれた頃でしょう。ちなみにこれは鎌倉の話です。他の地域ではもっと早かったのかも知れません。まあ、こういうことを書いても切りがないのでこれくらいでやめておきますが、私は生活がこんなにも便利になる前の社会をなんとなく覚えているのです。その体験から今の社会を見ていると、確かにお年寄りや、障碍を持っている人や、女性には便利になってきました。でも、その“便利”が子どもの育ちを阻害してしまっているように思えるのです。弱者でも困らない社会は、子どもが弱者のままでも生活できる社会です。誰にでも使える機械は、子どもが成長しなくても使える機械だと言うことです。歩くことが苦手な人に便利な機械は、子どもから歩く必要を消してしまいました。ボタン一つで操作できる機械は五本の指を必要としないということです。エアコンなどでどこでも快適に生活できると言うことは体温調節機能を必要としないということです。生活の中から作ったり、直したりという作業が消えてしまったということはそういう工夫も技術も必要が無くなってしまったということです。最近幼稚園などでも水道の栓を回すやつではなくレバー式に代えているところが多いようです。最近の子どもたちは栓を回せないらしいのです。駅などでは子どももエスカレーターに乗るのが当たり前です。電車に乗ったらお年寄りが立っていても、子どもが座るのが当たり前です。それもしょうがないかも知れません。お年寄り並みの体力しかない子がいっぱいいるのですから。すぐ疲れてしまうのです。そして、腰が痛いなどと言います。本当に最近の子はすぐ“疲れた”というのです。クギを2,3本打っただけでも・・・。そして、お年寄りのようにからだが固いのです。それでも低学年の子どもたちはまだ元気です。でも、5,6年生になるともう老人のようです。以前、横浜の方の子供会で遊びの指導をしたのですが、体育館の中を数周走っただけでみんな疲れたといって座り込んでしまいました。体力と言うより、元気がないのです。筋力があまりに弱くておんぶが出来ない若いお母さんも出現しているようです。また、腰の筋肉が育っていないので自然分娩が出来ないお母さんも増えてきたという話しも聞いたことがあります。お父さん参加の親子遊びでも、ちょっと走ったり、動いたりすると音を上げるお父さんが結構います。まだまだ子育てで鍛えているお母さん達の方が元気です。子どもをおんぶや抱っこ、そしてぐるぐる回してあげて、“あとはお家でお父さんにやってもらいな”というと、“パパは腰が痛いからできないの”とか、“もう重くて出来ないといってやってくれない”と言う子どもが結構います。私が普通に出来る程度のことなんですよ。以前、西丸震哉という食物生態学者が「41才寿命説」という本を出しましたが、そこで指摘されていることは今長生きしているのは子どもの頃に粗食で、からだをいっぱい使って来た人たちだ、でも小さい時から高タンパク、高カロリーの食べ物を食べ、からだを使わない生活をしている今の子ども達の寿命は41才くらいしかないはずだ、ということです。アマゾンの本の紹介には『41歳寿命説』は、食・環境・生命など、われわれの生きている「現在」の条件を、長大な人類史と比較・対照して初めて得られた唯一の結論である。欲望と快楽に溺れた現代社会を待ち受けるものは、「短命化」という名の死神なのだ。あなたには「短命化」が避けられるのか。それとも「短命化」とどうつきあって行動するのか。と書いてあります。実際には医学の進歩がありますから、そんなには短くならないでしょうが、でも近い将来50才くらいになったらほとんどの人が老人病を抱えながら薬に頼って生活しなければならない状態になってしまうかも知れません。実際に、今その方向に流れている感じがありますから。お年寄りでも困らない社会は、子どものからだが成長せずお年寄りのような状態でも困らない社会だと言うことです。子どもの時からお年寄りでは長生きは出来ないでしょうね。のんびりのんびり生きてみませんか。駅ではエスカレーターなど使わず、子どもと一緒に階段を歩きましょう。電車でもお年寄りに席を譲って、自分は立っていましょう。電気屋さんに行って驚くのは、階段を歩くような機械、電車の中で立っているような運動が出来る機械をちゃんと売っているということです。それで私は“じゃあ、階段を歩けよ、電車の中で座るなよ”と文句を言いたくなってしまうのですが変でしょうか。ホームランナー、そんなもの使うのなら朝早く生きて町の中を走った方がよっぽど健康にいいと思うのです。今の世の中なんかおかしいです。もちろん、お年寄りや障碍を持っている人に優しい社会は素敵です。そのこと自体を否定しているわけではありません。でも、それは子どものためのものではありません。そこの所をわきまえて生活した方がいいでしょうね。そうでないと親より子どもの方が早死にしてしまうかも知れませんよ。それと面白いことに、幼い子どもたちは実は不便が好きなんです。本能的に自分たちの育ちに必要なものを知っているのだと思います。でも、大人がその不便に付き合わず、便利を押しつけていると、やがて心とからだが便利に慣れてしまい、不便に違和感を感じるようになります。そうなってしまってからだと、なかなか不便に戻すのは大変です。
2008.01.30
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“見ることの大切さ”に関しては今までにも書いていることなんですが、今日もまた書きます。それは“見ること”が非常に大切なのにも関わらず、世間的にあまりその大切さが理解されていないように感じるからです。みんなやらせることにばかりこだわっているのです。もちろんやりたいと思った子どもに実際にやらせてあげるのも素敵です。でも、あまり安易にすぐやらせない方がいい場合も多いのです。それは技術が必要な活動です。例えば、包丁を使う、コマを回す、サッカーをするというようなものです。子どものタイプにもよりますが、あるタイプの子はちょっと見て、“何となく面白そう”というだけで“やってみたい”と言います。でも、そういう子は、あまりよく見ていないものです。だから、うまくできません。そしてうまくできなかった時のあきらめも早いのです。一見能動的に見えるのですが、猫が動く物にすぐ手を出すのと同じでこれは反射であって能動性ではありません。ですから、そういうタイプの子の場合、あまり安易に色々とやらせない方がいいのです。まず、見せるだけでいいのです。そうして子どもと色々話しをしてみて下さい。そして、“僕だったらこうするな”、“あれ難しそうだね”、“あれどうやるのかな”、“僕に出来るかな”、“あの人すごいね”などという感想が出てくるようならやらせてあげて下さい。でも、見ているだけではすぐに飽きてしまうようなら、ちょっと体験した程度ですぐにやめたくなります。見ることが出来る子だけが先に進むことができるのです。そして、先に進むことが出来るから楽しさが分かってまた先に進むことが出来るのです。先に進むことが出来ない子はすぐに飽きるのです。(子育てでも同じです。子どもを見る楽しさを知っている人は子育てにも飽きないのです。)だから、年齢も大事です。意識的に見ることが出来るような年齢になるまではただ見せておくだけでいいのです。無理してやらせる必要はありません。最近、なんでも子どもの要求をすぐに聞いてしまう優しいお母さんが多いのですが、それは子どものためになりません。かえって子どもの可能性を狭めてしまうのです。お母さんとしては、子どもが色々と好奇心を持って“あれやりたい”、“これやりたい”と言ってくれれば嬉しいのでしょう。それに応えてあげることで子どもの才能がどんどん伸びていくと思うのでしょう。それに応えることが親の義務だとも思うのでしょう。でも、それは違います。なんにでもすぐに手を出す子はあきらめも早いのです。それはおもちゃへの欲求を見ていても同じでしょ。欲しいおもちゃがなかなか買ってもらえずにずーっと我慢していた子の方が、すぐ買ってもらえる子よりおもちゃを大切にするのです。また、逆のタイプの子もいます。親がやらせようとしてもなかなかやらず。本人もやりたいと言い出さないタイプの子です。そういうタイプの子は親が一生懸命にやらせようとします。そして、“他のみんなはやっているのになんであんただけやらないの”と怒ります。それで、“やらないんだったらここにいても無駄だから帰るね”と連れて帰ってしまいます。(実際に、ワークに来たのに子どもを怒鳴りながら途中で帰ってしまったお母さんもいました。)たしかに全然見ようともしていないのならそれを押しつけても無駄です。でも、やろうとはしなくても良く見ているのならその場から連れ出してはいけません。見て学んでいるからです。そしてそういう子が時々いるのです。そういう子は、始めるまでは時間がかかりますが、始めてしまえば簡単に手を出した子より上手になります。ですから、“見るだけでやらないのに月謝を払うのはもったいない”などとは考えないことです。技術を必要とする活動には能動的な意志が絶対に必要です。能動的な意志がない子は技術を学ぶことが出来ないのです。それは造形でも、歌でも、踊りでも、また算数でも国語でも同じです。そして、その意志は“見る”という所に現れます。だから、子どもが何を、どのように見ているのかということに関心を持っていて下さい。でも、ただ待っているだけではなくもう少し能動的に子どもにアプローチすることもできます。それは“見ること”を誘導するのです。お父さんと一緒にサッカーを観戦に行ったとします。その時、お父さんが選手の動きを良く見て“あの選手の動きはすごいね”などと子どもに話しかけていると、子どもは見る目が育ってきます。また、あこがれも育ってきます。また、異年齢のグループなどで、お兄ちゃんやお姉ちゃんがかっこいいところを見せてくれれば子どもは良く見るようになります。あこがれも育ちます。お料理などではお母さんが楽しそうに包丁を使っていれば、子どもも良く見るようになり、やりたくなります。これはモアイさんの得意分野ですが、お父さんやお母さんが感動してそれを言葉で表現していると、子どもはそのお母さんやお父さんが感動したことを意識して見るようになるのです。また、子どもにやらせる前にお母さんやお父さんがやってみて、どんなに楽しいか子どもに伝えているうちに子どもも見る目が育っていきます。学校の授業でも、子どもが見たくなるように授業を展開すれば子どもはついてきます。子どもの学びは目から始まるのです。騒いでいる子どもたちに“これなんだ?”と何かを見せると、急に集中しますよ。このように、子どものからだ育ては見ることから始めるのです。
2008.01.29
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昨日のブログに対して nativemindさんが>私も「あぶない」ってほんとよく言うような気がします。と書いて下さったことに以下のようにご返事しました。大切なことなので、こちらの方にも書いておきます。子どもがまだ赤ちゃんのうちは危ない物は近くに置かない。危ない物を持ったら“ナイナイね”と言ってぱっと取ってしまう(タイミングが大切)。こういう場合でもあまり“あぶない”という言葉は使わない方がいいと思います。それにケガをしたことがない子は“あぶない”という言葉が理解できません。“あぶない”ということが分からないのです。もう少し大きくなって言葉の理解が進んだら、こんどは“あぶない”ではなく、“使い方”を教えてあげて下さい。木登りなら登り方を教えてあげて下さい。そして、間違った使い方、やり方をした時に“あぶない”という言葉を使って下さい。そうしないと“あぶなそうなこと”には近寄らなくなります。つまり、挑戦しなくなります。お分かりでしょうか。“あぶない”という言葉は正しいやり方とセットにして伝えないことには子どもは挑戦しなくなってしまうのです。なんでもそうですが、正しいやり方でやるなら危なくないのです。正しい使い方を教えても、まったく理解できないような状態ならまだ早いのです。そういう子は当然“あぶない”という言葉も理解できません。何でもかんでも“あぶない”と言ってしまうのは現実の危険に対する鈍感さと、怖がる必要のないものまで怖がる恐怖心を育てるばかりです。だから、“あぶない あぶない”といって、子どもを痛い思いから遠ざけているともっと危険なことになってしまうのです。子どもはすぐに親の目の届かないところで遊ぶようになるからです。だからこそ、親の目の届くところで遊んでいるうちに、痛い思いと、“あぶない”という言葉をつなげてあげる必要があるわけです。ただし、あぶないことをやっている時には子どもの様子をよく観察して下さいね。観察していないと的確な言葉かけができませんから。それと、観察していないと本当に危険なことになってしまう恐れもあります。また、教わったやり方でやろうとしていても最初のうちはうまくできません。その感覚を掴んでいないからです。ですから、見ていてもハラハラします。でも、子どもが努力しているのならそこは我慢して見ているしかないのです。最初は教わっても教わった通りになど出来ないのが普通だからです。それは皆さんだって同じでしょ。言葉で一輪車の乗り方を教わるだけですぐに乗れますか。乗れないでしょ。なんべんも転がって、痛い思いをしながら、ようやく教えてもらった言葉の意味が理解できるようになるのです。さて、今日は別の視点からこの問題を考えてみます。確かに、“あぶない あぶない”を繰り返すお母さんは一般的です。でも、その背景にはお母さん達の不安が隠れています。そして、その不安の根っこをたどっていくと、我々が生きている文明の問題にまでたどり着きます。ですから、この問題は個人的な問題だけではなく、我々みんなが考えるべき人類全体の問題でもあるのです。本来文明は自然を克服し、対立するものとして発展してきました。特に欧米の文明は自然を克服するために進歩してきました。でも、東洋の文明は自然と共存するために進歩してきました。だから東洋の文明を延長していっても決してコンピューターやロケットにはたどり着かないわけです。でも、東洋の文明は自然との共存のための技術を発展させてきたわけです。ですから、私は東洋では文化と文明が分離していなかったと考えています。それに対して、欧米的な考え方では病気の時、対症療法的に薬を使います。時には切ったり縫ったりします。からだが自分の力で治癒する働きを信じていないからです。その背景には自然というものに対する不信があります。でも、東洋の昔のやり方では根本からバランスを整えようとします。バランスを整えれば自然と治癒すると考えたからです。そしてそのために薬草を使いました。生命の働きを支えるためには生命の働きの手助けが必要だと考えるからです。(ヨーロッパでも昔はそうだったようですけどそれは魔女の働きにつなげられてしまいました。)ですから、ここには自然に対する信頼がありました。(非常に大雑把に書いています。厳密な議論はお許し下さい。)自然というものは関わり方さえ分かれば怖くない、むしろその自然には私達の心とからだを守ってくれる働きがあると考えたのです。それは私達の心もからだも自然に属するものだと考えていたからです。それに対して欧米(キリスト教)では魂は神に属し、肉体は悪魔に属すると考えていました。だから、人は死なないと神の下(もと)に行くことが出来ないのです。(仏教では仏の世界と人間の世界の境界は曖昧です。)そして現代ではその肉体を改造するために医学が進歩しています。西洋的な医学が目指しているのはできるだけ自然に束縛されないで、人間の意志でコントロールできる肉体なのです。より神に近い肉体です。いいかえれば、不自然な肉体です。そして、欧米的な文明観に支配されてしまった現代では、医学だけでなくこの人間社会全体が自然と分離した不自然な方向へと進みつつあります。その様な社会では、コントロールできないものに対する不安と不信があります。だからどこまでもコントロールしようとします。でも、本来バランスが取れているものを人間の思い込みだけでコントロールしようとするので余計にバランスが崩れおかしなことになります。すると更にコントロールを強めることで問題を切り抜けようとします。そうしてどんどん泥沼にはまっていきます。現代の社会の状況もまた、子育ての状況も似たような状態ではありませんか。子どもを育てるということは自然というものと向き合うことです。だからそこには先ず“自然に対する信頼”が必要になるわけです。そして、コントロールすることより、見守り支えることが大切になるのです。それはまた、その人のライフスタイルとも関係していると思います。文明に振り回されないで、自然を感じながらゆっくり生活してみませんか。急ぐことなんかないのです。勝った負けたなどということに一喜一憂する必要もありません。負け組だっていいじゃないですか。自然な子育ては自然な生き方から自然に生まれてきます。そうすると、子どもは自然に育っていくのです。短い人生、そんなに急いでどこに行く。百年後にはみんな骨。
2008.01.28
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親子で一緒に造形をするワークをすると必ず聞く言葉が“あぶない”です。子どもがハサミを持っただけで“あぶない”というお母さんもいます。ちなみに、子どもとは2,3才の幼児です。そして、お母さんが代わりにやってあげてしまいます。公園などで遊んでいてもちょっと高いところに登ると“あぶない”と降ろされてしまいます。今、子どもが何かに挑戦しようとすると何でもかんでも“あぶない”といって止めてしまうお母さんがいっぱいいます。そのくせ、車が通るような道路などで手をつながないで子どもを勝手に歩かせていたり、子どもを自転車の後ろに乗せたまま、自分は自転車を止めて近くのお店で買い物をしているお母さんもいます。ある時、その自転車から一人で降りようとしている子がいて自転車が傾いたので思わず抑えてあげました。お母さんは近くのお店で買い物中でした。これで倒れたら子どもが叱られるのでしょうね。公園などでもお母さんは携帯に夢中で子どもの状態には無関心です。子どもが道路へ飛び出してしまったり、滑り台から落ちでも気付かないでしょうね。自分は子どもを危険な目に遭わせておきながら、子どもが危険なことに挑戦するのは一方的に禁止してしまうのです。奇妙なことです。また、子どもがうまくできないと代わりにやって上げてしまう優しいお母さんがいっぱいいます。泣かれるのが嫌なようです。だからいつまで経っても出来るようになりません。そして、子どもはお母さんに依存するようになります。子どもが出来ない時には代わりにやってあげるのではなくちょっと補助をしてあげればいいのです。ハサミでうまく切れない時でも、ほとんどの場合お母さんが紙を持ってあげれば子どもでもキレルのです。切るのはあくまでも子どもです。それと、子どもがちょっとケガをするといつまでも“だいじょうぶ、痛かったね”と言い続けるお母さんもいっぱいいます。まあ、1,2回はいいのですが、ズーッと言い続けるのです。自分に言い聞かせるように・・・。もしかしたら、子どものことを思って“あぶない”と言っているのではないのかも知れません。お母さんが不安なんでしょう。また、簡単に手伝ってしまうのも子どもに泣かれる、ぐずられる、時間を取られる、ダラダラと付き合わされるのが嫌で手伝ってしまっているのかも知れません。もしそうでないとしたら申し訳ないのですが、どう見てもそうとしか見えないお母さんがいっぱいいるのです。子どもはいつでも何かに挑戦しています。それが成長する力だからです。でも、今のお母さん達はあまり子どもに挑戦をさせません。お母さんがやらせたいことは“なんでやらないの”と尻を叩くのに、子どもがやりたいことはやらせてあげません。それは多くの場合子どもが挑戦したいのは危険であったり、初めてのことであったり、予想がつかないことだからです。そして、みんなお母さんにとっては価値のないものばかりです。子どもはだから挑戦したいのですが、でも、お母さんはだから止めてしまいます。なぜかうちの4人の子どもたちはみんな木登りが得意です。長男が3才の頃公園で一緒に遊んでいたら、ジャングルジムに登りだし、アッという間にてっぺんまで行ってしまいました。それで、周りのお母さん達が“あぶない、あぶない”と騒ぎ出したのです。でも、うちの子はそんな程度の所で落っこちるような未熟者ではありません。だから、放っておきました。ただし、ここでポイントなんですが私はそういう時には危ないとは言いませんが子どもから目を離すことはしません。また、なるべく子どもの下に位置しています。でも、お母さん達はその逆です。子どもから離れたところで友達同士でペチャクチャ話しをしていて子どもの様子を見ていません。それで、何かの拍子に自分の子が危ないことをしていることに気付くと突然大きな声で“あぶない!”と叫びます。でも、これはかなり危険です。それが木登りや塀歩きのようなものなら子どもはその声に驚いて落っこちてしまうことがあるからです。お母さん達が子どもを危険な状態にしてしまっているのです。昔の子どもたちは大人の目の届かないところで遊んでいましたから、日常的にとんでもないことをやって遊んでいました。火遊びをしていて近くの小屋を燃やしてしまったというお母さんもいました。道志村で藤のツルにつかまってターザンロープのように、ガケから飛び出す遊びをしていたというお父さんもいました。もちろん、落っこちたら死んでしまうようなガケです。男の子は肝試しのような危険な遊びが大好きなんです。そのターザンロープのお父さんに“落っこちてケガをした子はいませんでしたか”と聞いたのですが、“そんなドジなやつはいなかった”ということです。子どもも危険な遊びでは真剣になります。集中します。また、それなりの自信がないとやりません。周りもやらせません。事故があったら自分たちの責任になってしまうし、もう二度とその遊びが出来なくなってしまうからです。昔の、子どもたちはそういう遊びの中でからだを育てていました。今の子どもたちのように、体操教室に通って安全な場所で、インストラクターに指導してもらうようなからだ育てではありません。この両者では子どもの中に育つものがまったく異次元のものだと言うことがお分かりになるでしょうか。遊びの中で育つのは心とつながったからだです。でも、体操教室で育つのは心とつながらないからだです。その延長に、一昨日書いた現在の子どものからだの状態があるのです。以下の絵本の中では新しく来た校長先生が、むかし遊びを通して子どもたちに挑戦することを体験させています。面白いですから、どこかで探してお読み下さい。
2008.01.27
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私の文章を読んで“どうして子どもの否定的な面ばかり強調するのだ、今の子どもたちにだっていいところはいっぱいあるぞ”と感じていらっしゃる方もいるかも知れませんね。よく、「コップ一杯の水を見て“もう半分しかない”と思うより、“まだ半分もある”と思った方が人生楽に生きることが出来るよ」というようなことが言われます。でも、この考え方には大きな欠点があります。それは時間的な変化が考慮されていないことです。現実は必ず時間的な変化の中で生起しています。コップの水の量だって変化しているのです。問題はどのように変化して今、半分になっているのかということなんです。最初いっぱい入っていたのにどんどん減って今半分なのか。最初はもっと少なかったのに増えてきて今半分になっているのか。それとも、いつでも大体半分の辺りで上下しているのか。下二つの場合なら心配する必要はありません。今まで通りで大丈夫です。でも、最初はいっぱい入っていたのにどんどん減ってきているのに“まだ半分ある”と減った部分に目を向けないのは無責任です。そして、今の子どもの状況がこれに似ているのです。だからこそ多くの識者がそのことを警告しているのです。ただし、ここで悲観的になる必要はありません。そんなことをしても意味はないし、余計に事態を悪化させます。でも、悲観的になる必要はありませんが、事実と現実は冷静に見極めておく必要があります。日本の歴史を見直す時にも、事実や現実を冷静に見極めようとする時“自虐的だ”と言って非難する人もいますがそれはナンセンスです。そういう意識では歴史が繰り返されるばかりです。ちなみに、日本人は歴史的に事実や現実を冷静に見極めることが苦手な民族のようです。そういう方法を持っていないのです。その方法を「哲学」といいます。日本人も哲学は持っていますが、科学につながるような“哲学的な方法”を持っていないのです。そのため“分析”ができないのです。日本人は分析が苦手な民族なんです。もちろん、それが日本人のよさを生み出している要素でもあるのですが、でも、それだけでは新しい時代に対応できません。日本人が危機管理が苦手なのもそのせいです。冷静な分析が出来ない人には絶対に危機管理は出来ないのです。冷静に事実と現実を見つめ、なぜ半分に減ってしまったのか、その原因を探るのです。そうしてまた増やす方法を考えるのです。そのような意志を持つ時初めて“まだ半分もあるじゃないか”という言葉が正しい意味を持ってくるのです。また増やそうとする時、“もう半分しかない”という考え方は邪魔になります。“まだ半分もある”という考え方が大きな力になるのです。分かりますか。半分に減ったしまった事実と現実を見つめ、このままでは大変なことになるという意識を持ったまま、“でも、まだまだ大丈夫、まだ半分も残っているから充分取り戻せる”というように考えるのです。でも、減ってしまった半分を見ないようにしていたらそのうちにさらにその半分になり、また半分になりとどんどん減っていてしまうでしょう。それでも、まだ残っているじゃないかと言って減った部分を見ようとしないのは無責任だと思います。以前、私の文章が悲観的だと言って私の通信の購読をやめられた方がいました。でも、それは誤解です。私は妄想でも幻想でもない、現実的で確かな希望への道を探るために今の子どもたちの状態を冷静に見つめようとしているのです。(なぜか日本人は“現実論”より、“希望論”が好きなのです。いつも夢を見ているのです。いままではその希望論が日本人を引っ張ってきました。でも、もうそろそろそれも限界なのではないでしょうか。そうそうそれと、日本人の“希望論”はうまくいかないとすぐに“悲観論”に変化してしまいます。いずれにしても“現実論”がないのです。)そうそれと私の年代が、このブログをお読み下さっている大部分の方より少し(?)上だということも私の言葉が悲観的に聞こえる原因の一つかも知れません。つまり基準としている子ども像が違うのです。私が基準としているのは1950年代60年代の、ナイフ(肥後の神)を自在に使ってなんでも自分で作っていた時代の子どもたちです。でも、その時代の子どもたちを知らない人たちにとっては今の子どもたちが普通に見えても仕方がありません。でも、子ども本来の能力は皆さんが思っているよりももっともっと高いのです。今では大人だって出来ないようなことを昔の子どもたちは平気でやっていたのです。そのような能力を持っていた子どもたちだったからこそ高度経済成長が可能だったのだと思います。(高度経済成長の善し悪しは別として・・・)そういうことを知っている世代から見ると今の子どもたちが自分の能力を使いこなせていないのを見るのが歯がゆいのです。だから、安易な楽観論は私には“子どもはこんな程度でいいんだよ”という子どもを侮辱した言葉に聞こえてしまうのです。最近の“子どもに優しいだけの子育て”も同じです。優しいだけの子育てでは決して親を越えることが出来ません。子どもの能力はもっともっとすごいのです。どうかご理解下さい。
2008.01.26
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私は自宅では造形教室をやっています。絵画、手工芸、陶芸、木工作、電気工作まで何でもやっています。でも、男の子達は“あそぶもの”を作るのが好きです。弓矢とかパチンコとかビー玉転がしとかなどを作りたがります。男心に響くのでしょうか。でも、今の子どもたちはあまりそういうもので遊んだことがありません。遊んでいる子どもたちも見たことがありません。さらにはほとんどそういうものを見たこともない子どもさえいます。ある子どもが“弓矢を作りたい”と言ってきました。それで、“棒とゴムをちょうだい”というのです。?????と思って、“弓矢で遊んだことある?”と聞くと、“ない”という返事。“じゃあ、見たことはある?”と聞くと、“この前テレビで見た”という返事。テレビでちょっと見てあこがれたようです。まあ、それはそれでいいのですが、テレビを見ていても弓矢がどんな材質で出来ていて、どんな構造になっていて、どのような原理で矢を飛ばしているのかということは皆目分かりません。また、“飛ばす技術”も分かりません。それまでにいっぱい色々なもので遊び、色々なものを作ってきた子どもならそういうことは大体予想がつくのですが、今の子どもたちは日常的な遊びの中でそんなことしませんからまったく予想もつきません。人はそれまでの自分の体験を組み合わせて新しい出来事を理解しています。だから、体験がない子は説明しても理解できません。説明しても、その説明が理解できるだけの体験的な裏付けがないからです。それで、“弓矢は木とゴムではなく、竹とヒモで作るんだよ”と教えて、竹とヒモを出してあげます。でも、竹で遊んだことがない子がほとんどなので竹がしなることを知りません。だから、なんであんなにゴムのように動くのかが分かりません。まあ、それは遊んでいるうちに分かることなので詳しくは説明しません。でも、それが分からないので材料を出されただけではどうしていいのか分かりません。それで、“ここ切って”、“ここ削って”、“ここにひもを結んで”というようにマニアル的な指示が必要になります。でも、話しはこれで終わりません。“ここ切って”というと“どうやって切るの?”と聞いてきます。それで、1.ナイフ2.ノコギリ3.手で折る4.超能力“どれで切ったらいいと思う”と聞きます。すると大抵の子はちゃんと“ノコギリ”と答えます。それで、“じゃあ、ノコギリで切りな”とノコギリを渡すのですが、なにやら怪しげな切り方を始めます。というより、それ以前におかしな持ち方をします。グッと握ってしまうのです。ノコギリはグッと握ってしまったら使えません。手首が動かなくなってしまうからです。(親指と人差し指には力を入れてはいけないのです。)中には逆さまに持つ子もいます。それで切り始めるのですが、まあなかなか大変です。手首が硬いのでノコギリが動きません。手先だけで動かすので刃が前後ではなく左右に動いてしまうので、そこら中に傷が付くだけでなかなか切れていきません。また、左手や足で押さえることも出来ないので、ヤスリで削ったようになるだけで1mmも切れないのです。私は最初はそういう状態をただ黙ってみています。でも、頑張っても全然切れないのでそのうち“先生やって”とか、“手伝って”という声が出てきます。そこで初めてノコギリの持ち方、動かし方、木の抑え方などを教えます。そして、ちょっとだけ切ってあげて、“後は自分でやりな”と任せます。多くの子は、それで何とか切ることが出来ます。それでも途中何回か手伝いが必要ですけど。それでも、“自分流”を変えることが出来なくてどうしても切れない子もいます。そんな時は“見る体験から”と思って、“良く見ていなよ”といって私が切ります。(でも、そういう子に限ってそれを見ようとしない子が多いのですけど・・・)これで竹が丁度いい長さに切れたとします。でも、竹を切ってひもを付けただけの弓ではよく飛びません。ナイフを使って両端を少し薄くするのです。ここでまた困難が待ち受けています。ノコギリもナイフも同じなのですが力ではないのです。実際、うちの子は3才頃から切り出しナイフを普通に使っていました。間違いなく3才児より小学生の方が力があるはずなんですが、切れないのです。その後はヒモを結ぶのですが、ここでも困難が待っています。ひもが結べないのです。ひもが結べる子でも、弓をしならせたままヒモ(弦)を張ることが出来ません。そんなこんなでまあ、弓矢が出来たとします。でも、今度は飛ばし方が分かりません。矢を弓につがえるという状態が分かりません。また、弓の真ん中がよく分からない子もいます。教えても理解できない子もいます。でも、しばらくやっているうちにそれなりに飛ばせるようになります。でもでも、ここから先にも問題が転がっています。多くの子がそこで終わってしまうのです。せっかく弓矢を作ったのに“作品が出来た”的に、それ以上それで遊ぼうとしない子が結構いるのです。飛ばし方が分ければ、それ以上それで遊ぼうとしないのです。不思議でしょ。実は、タイコや笛などの楽器を作っても遊ばない子の方が多いのです。作るだけなんです。その原因は“遊び方”が分からないからだと思います。飛ばし方、音の出し方は分かっても“遊び方”が分からないのです。そういうので楽しそうに遊んでいる子どもや大人を見たことがないからです。でも、これは教えることができません。というより教えても意味がないのです。遊び方は楽しく遊びながら学ぶものだからです。つまり、楽しく遊ぶことが出来る仲間と一緒に遊ぶことで遊び方を学ぶのです。そうやって学んだ遊びだから楽しく遊ぶことが出来るのです。それでも、中には的を作って、競い合いを始める子もいます。楽しそうに延々と弓矢で遊んでいる子もいます。でも、そういう子は幼稚園の頃からそういう遊びをいっぱいやってきたような子ばかりです。弓矢は初めてでもからだで遊ぶ楽しさを知っている子ども達です。コマを普通に回せるような子どもたちばかりです。また、自分はあまりからだ遊びをやっていなくても、そういう子どもたちがいっぱいいるところで育った子どもたちです。つまり、楽しく遊ぶ子どもたちを見て育った子どもたちです。そういう子どもたちはからだを動かす楽しさ、からだで遊ぶ遊び方を知っているのです。でも、幼児期にからだを動かす楽しさを味わってこなかった子は、弓矢が出来てしまうとそれだけで満足してしまう子が多いのです。からだを動かす楽しさを知らないからです。
2008.01.25
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皆さんは赤ちゃんが声の出し方、言葉の話し方をどのように学んでいるのかご存じですか。ちなみに“声の出し方”は“からだの使い方”とも密接につながっています。柔らかい声はからだを柔らかくしないと出てきません、強い声はからだの芯がまっすぐ通ってないと出てきません。からだの動きは目で見ることが出来るので真似をすることは難しくありません。でも、声の出し方は見えません。だから子どもが間違った発音を覚えてしまうとその発音を矯正するのが難しいのです。耳や喉に異常がないことが前提の話しですが、子どもが正しい発音、声の出し方を学ぶためには大人の声を聞いた時に、その声と共鳴するように自分のからだの感覚を調整する必要があります。そして、そういうことが自然に起きるのです。つまり、“あ”という声を聞くだけで、からだの中に“あ”という声を出す状態が生まれるのです。これは声だけでなく、感覚でも同じです。人は、“おいしい”というおいしそうな声を聞くと食べたくなります。“苦しい”という苦しそうな声を聞くと、苦しくなります。文字で読んだだけではからだは反応しません。実際に生の声を聞くとからだが反応するのです。(テレビでは無理です、特に子どもの場合。)赤ちゃんが大勢いる時、一人が泣き出すとみんな泣き出します。これも同じです。泣き声を聞いていると原因がなくても悲しくなってしまうのです。悲しいことがあるから悲しくなるのではなく、からだが悲しい状態になるから悲しくなるのです。このように、人間は共鳴する感覚と共鳴するからだを持っています。だからこの“共鳴感覚”の働きが調子悪いとうまく模倣できないことになります。すると、微妙に他の子とは違った発達をすることになります。そして子どもは、他の子どもとの間に微妙に違和感を感じることになるでしょう。それが、他の子とのトラブルにつながることもあると思います。ただし、これは個人差も大きいように感じます。声や音に対する共鳴感覚が鋭い子もいれば鈍い子もいます。動きに対して共鳴感覚が鋭い子もいれば鈍い子もいます。感情や感覚に対して共鳴感覚が鋭い子もいれば鈍い子もいます。ただし、日常生活を送るのに問題がない範囲ならそれは才能であり、個性の範囲です。この感覚そのものの問題は脳の機能に由来する先天的なものなのでここでは扱いません。あまり他の子と違う場合は程度によって専門家の治療が必要になると思います。感覚統合の問題ともつながっています。程度がひどければ、普通の子育てが出来なくなり子育てが困難になります。知的に遅れているわけでもなく、普通に育てているのに、普通に育たないからです。子どもも不安が強くなったり、イライラしたりするでしょう。でも、子どものからだ育てを考える場合にはそういう感覚のことを考えることから始める必要があります。子どもは自分のからだの使い方を周りの人のからだの使い方を見て模倣し学習しているからです。だから日本人は日本人らしいからだの使い方をして、欧米人は欧米人らしい(そんなのがあるのかどうかというつっこみは不要です、流れで理解してください)からだの使い方になるのです。ということは、周囲の人間がみんな猫背で歩いていれば子どもも猫背で歩くようになります。周囲の人間が毎日コマ回しをしていれば、教えなくてもコマを回せるようになります。周囲の人間が毎日竹馬で歩いていれば教えなくても竹馬で歩くようになります。人間が日本足で歩いているのだって同じことなんです。周囲の人がみんなハイハイで歩いていたら、子どももハイハイでしか歩かないのです。私は、高校の時毎日プールの脇で、水泳部の練習を身ながらお弁当を食べていました。(私は水泳部ではありませんでしたけど・・・)そこにバタフライの上手な選手がいて、“かっこいいな”と思いながら毎日見ていました。そうしたら、なんと見ていただけなのにバラフライが泳げるようになってしまったのです。そういうことです。続きます。
2008.01.24
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私は、造形や遊びの場で子どもたちと関わっていますが、いま昔の子どもなら普通に出来たことが出来ない子どもたちが増えています。針に糸を通す、コマを回す、ホッピングに乗る、輪ゴムをつなぐ、弓矢を飛ばす、けん玉で遊ぶ、ナイフを使う、ノコギリを使う、トンカチを使うなどです。いま、子どもたちの生活の中にはこういう活動が存在していないのである意味で出来なくて当然でもあるのですが、でも、そういうものを教えようとした時に、子どもによって学び方や反応のタイプが分かれてきます。1.教えなくても他の子のやっているのを見て出来るようになってしまう子。2.目の前でやって見せ、ちょっと説明することで出来るようになってしまう子。3.やって見せるだけでは分からないので、子どもにやらせてみて動きを修正してあげて出来るようになる子。4.やって見せても、動きを修正しても、何回教えても出来ない子。1番目の子は優秀な子です。勉強もできます。自分で考える力もあります。でも、そういう子はあまりいません。2番目と3番目の子は普通の子です。4番目の子はひたすらに自分のやり方にこだわり、いつまで経っても同じことを繰り返します。だから、いつまで経っても出来るようになりません。大抵、こういう子は“ぼくこういうの苦手”と言ってあまりそういうことをやりたがりません。新しいことに興味がないのです。今、2番目と3番目は普通の子、と書きましたが、でもここで訂正が必要です。“昔は”ということです。昔は、3番目くらいまでの子が普通でした。でも、今4番目のタイプの子が普通になりつつあります。1番目、2番目のタイプが希少になり、3番目と、4番目がドンドン増えています。特に4番目がドンドン増えています。丁寧に手取り足取り教えても、チンプンカンプンなんです。“本当にやる気あんの”という感じです。また、この3、4番目のタイプの子は他の子がやっていることに対して興味を示しません。“僕には関係ないや”という感じです。私の感覚からすると、他の子が自分の知らないことをやっていれば興味を持って、よく観察します。そして、面白そうなら真似します。でも、今他の子どもたちがやっていることに関心を示さない子が多いのです。普段から他の子のやっていることに関心を持って注意深く見ている子は、何かを学ぶのも早いです。でも、他の子がやっていることに関心がない子は自分がやりたいことだけで心が閉じてしまっているので新しいことを学ぶことが苦手です。そして、いつでも“自分流”にこだわるのです。先日、某所で某「子育て支援センター」の様子を聞かせてもらいました。大勢、子どもたちもお母さんも集まっているのに非常に不気味な雰囲気を感じたそうです。みんな「個」で遊んでいたのです。一人でおもちゃで遊んでいる子、友達と来たのか2,3人で遊んでいる子、そういう「島」がポツンポツンと点在しているだけで、その点同士はお互いにまったく“関係ない”状態だったそうです。お母さん達も同じで、大勢いても“関係ない”と言う感じで、ただ静かに座って見ているか、メールをしているかだけだったそうです。子どもと遊ぶわけでも、近くにいる人と会話するわけでもないのです。知らない人と会話することが苦手なのでしょうか。小さい時から毎日そういう状態で遊んでいたら子どもの世界は閉じてしまいます。外の世界への興味関心も生まれません。興味関心が生まれなければ模倣欲求も、学習欲求も、行動欲求も、成長欲求も生まれません。“今のままの自分”、“自分流”で充分満足だからです。子どもたちが異年齢の仲間達と遊んでいた時には、小さな子は何でも出来るお兄ちゃん、お姉ちゃんをあこがれの目で見ていました。だから、お兄ちゃんのようになりたい、お姉ちゃんのようになりたいと、お兄ちゃん、お姉ちゃんのやっていることを一所懸命に見て、真似しようとしました。だから自分で自分を成長させることができたのです。そしてまた同時に、自分で自分を成長させることができる能力を身につけました。でも今、子どもの周りにはそういうお兄ちゃん、お姉ちゃんがいません。同じ程度の能力しか持っていない同年齢の子がいるばかりです。だから、他の子のやっていることにあこがれを持つこともありません。また、兄弟がいてもテレビを見たり、ゲームをしたりという遊びではお兄ちゃんもお姉ちゃんもあこがれの対象にはなりません。お母さんも機械やスーパーに依存して家事をやっているだけなのでかっこよくありません。お父さんにいたっては、テレビの前でゴロゴロしているか、自分の部屋でゲームをしている姿しか見ていないのでマイナスのイメージの方が強いかも知れません。子どもの遊びは真似から始まります。それは全ての遊びで共通しています。からだを動かすことも同じです。そして、その真似は“あこがれ”から始まります。あこがれは“見る”ことから始まります。“すごーい”、“かっこいい”というあこがれが子どもの心を目覚めさせます。携帯電話に夢中になっているばかりのお母さんとズーッと一緒にいる子どもは何を見て、何にあこがれ、何を模倣しようとするのでしょうか。子どもの心の世界が閉じないことを願うばかりです。
2008.01.23
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1月20日にダージリンさんから先日、コメントのお返事で頂いた中にも「役割」という言葉があり、自分の役割は何なのだろう?と考えていますが分かりません。...ま、それはともかく。子ども達の関わりの中で「役割の体験」というのは、具体的にはどういうことなのか教えて頂けますでしょうか?(関わる相手を尊重しつつ、自分も生かすということ・・・?)というコメントを頂きましたので、今日はその事について書かせて頂きます。子どものからだ育ては明日にします。この“役割”という考え方は非常に大切な考え方なのですが、最近ではあまり重要視されていません。簡単に言うと“秩序を支える働き”ということです。そして、“自分がやりたいこと”ではなく、“自分が必要とされている働き”のことです。鬼ごっこをやっていて“ぼくは鬼なんかやりたくない”といって、つかまっても鬼をやらない子がいます。でも、鬼につかまった子が鬼を引き受けないことには鬼ごっこは成り立ちません。鬼をやりたくない子は鬼ごっこに参加してはいけないのです。“鬼をやりたい子が鬼をやればいいんだ”というのが現代的な考え方なのかも知れませんが、それでは鬼ごっこにならないのです。みんなで遊べないのです。みんなで遊ぶためには自分がやりたくないことでもやらなければならない場合もあるのです。そうですよね。PTAの役員を決める時にも同じことが起きています。そのうち“業者にでも委託しよう”などと言い出す人も出てくるかも知れません。(うちの学校のことではありません。うちの学校にはPTA自体存在していませんから。)また、先日小1の男の子が“なんで教室(学校の)の掃除を子どもがしなきゃいけないの?”と聞いてきました。やりたくないようです。でも、自分たちが汚した場所を自分たちで掃除をするのは当然の役割です。“お金を払って業者に任せればいい”というのが現代的な発想ですが、そういう感覚になれてしまうと大人になった時に“この社会は自分たちが支えているんだ”という意識を持つことが出来ないでしょう。“ゴミが落ちている”・・・“役所は何をしているんだ”“万引きをする子がいる”・・・“親は、警察は何をしているんだ”“環境が悪化している”・・・“政治家は何をしているんだ”“子どもがおかしい”・・・“母親は何をしているんだ”という考え方では世の中はおかしくなるばかりです。もちろん、その考えが間違っているわけではありません。これも一つの“役割”という考え方でもあります。専門家は専門家でしっかりと考え、仕事をしなければなりません。でも、それだけで世の中がよくなるわけではありません。そういう考え方に慣れてしまっている人は、専門家になっても同じ感覚のままだからです。これは水道課の仕事だ、うちの仕事じゃない。これは胃腸科の仕事だ、うちの仕事じゃない。これは母親の仕事だ、父親の私の仕事じゃない。とみんな責任逃れをするばかりでしょう。このような役割は“人任せ”といいます。そうではないはずです。これは水道課の仕事だが、うちでもこういうサポートは出来ます。これは胃腸科の仕事だが、うちでもこういうサポートは出来ます。これは母親の仕事だが、父親の私でもこういうサポートは出来ます。という考え方がない限り、絶対にものごとはうまく流れないのです。役割を引き受けるということは、自分に出来ることは自分でちゃんとやるということです。やりたいことばかりやっていてはいけないということです。自分の義務でないことでも、出来ることがあったらちゃんとやるということです。やってもらうことばかり期待してはいけないということです。人間のからだもこのように出来ています。歩いている時には足だけが仕事をしているわけではないのです。胴体も手も頭も歩くことに協力しています。脳みそも目も耳も協力しています。そうしないと足が安心して歩くことに専念できないからです。“やりたいことばかりやって、やりたくないことはやらなくてもいいよ”というのが現代的な考え方です。今、“自分探し”が流行ですが、それもどうも“自分がやりたいこと”を探すことのようです。自分が出来ること、自分がやらなくてはならないことではなく、自分がやりたいことを探すことにばかり熱心です。だから、ちょっとやってみて思い通りにいかないとすぐにやめてしまいます。確かに、自分がやりたいことを探すことも大切です。でも、だからといってやりたくないことから逃げていたら一生陽炎を追い続けることになるでしょうね。“やりたいこと”と“やりたくないこと”とは常にセットになっているのですから。この社会には、“やりたいことだけやっていればいい”などという仕事は存在していないのです。遊びの場では、“今度は○○ちゃんの番だよ”ということを喜んで引き受けることです。(これが苦手な子が増えています。兄弟が多い時にはこれが出来ないと兄弟関係がおかしくなりますが、一人っこでは“出来なくてもOK”ということも可能ですからね。)そして、こういう体験は意識していれば生活の場でも簡単に与えることが出来ます。それが“しつけ”の役割でもあるわけです。“今までは子ども役でしたが、今度はお母さん役をやって下さいね”と言われて、“やだー、まだ子ども役をやりたい”とダダをこねてはいけません。母親役として登場しているのに、子どもを演じてはいけないのです。それでは子どもが困ります。それが役割と言うことです。その役割の中に幸せを見つけることが出来た人は幸せな人です。(ただ問題なのは、その“お母さんとしての役割”が一体どのようなことなのかが分からなくなってしまっていることです。)人生の役割でも同じです。“自分にできることをする”のが役割です。ですから、出来ないことを無理してやることもありません。社会的な義務としてはそういう役割もありますが、人生ではそのような役割はありません。出来ないと言うことは、それはあなたの役割ではないということなんですから。だから、一生懸命にやっても出来なければ、出来ないことはあきらめて出来ることを探すことです、あきらめることも大切なんです。でも、もしそれがあなたの役割なら、今できることを積み上げていけばきっとそこまでたどり着けるはずです。“やりたいことが出来ない”と悔やんでもしょうがありません。今できることをしっかりとやる、それでいいんです。それでうまく行くんです。自分に与えられた人生の役割とはそういうことです。だから、遠くを探す必要はありません。今私に出来ることは何だろうと考えれば見つかるのです。
2008.01.22
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まず最初に、昨日のしつけの講座で話すことが出来なかったことを少し書きます。昨日は最初に皆さんのしつけに対する考えを聞いて、それとあまりかけ離れないところから話しを始めようと思ったのですが、人数が多かったので皆さんの話を聞いてそれにコメントしているだけで時間が終わってしまいました。昨日参加して下さった方はお分かりでしょうが、ひと言にしつけといってもみんなその考え方は違っています。また、実際に何をして、何をしていないのかと言うことも違います。よく考えている人もいれば、あまり考えたことがない人もいます。それと、しつけだと思って熱心にやっていることがただの押しつけであったり、“しつけなんか意識していません”という人が素敵なしつけをしていることもあります。要は“大人がどう思っているのか”ではなく、“結果として子どもに何が伝わっているのか”ということなんです。冷静になってまずそれを考えてみて欲しいと思います。優しい子どもになって欲しくて“優しくしなさい”と怒鳴っても、子どもの心に優しさが育つのかどうかということです。例えばですが、ただ抱きしめてあげるだけの方が優しさは育つのではないかということです。一般的な感覚としては“優しくしなさい”と子どもに言うことも“しつけ”の範疇に入るのかも知れませんが、ただ抱きしめてあげることはしつけとは言いにくいですよね。それは親としての当たり前の愛情表現ですから。でも、ただ抱きしめてあげる方が子どもの心に優しさが育つのならわざわざ“優しくしなさい”と言う必要はないわけです。よく、他の子に対して攻撃的な子がいます。そういう子どもに対して、“ぶってはいけない”、“悪口を言ってはいけない”、“突き飛ばしてはいけない”と指導することは当然のしつけですよね。でも、そんなしつけをしていなくても他の子に優しい子もいます。そういう子どもを良く見ているとお母さんとも仲がいいです。家族みんなが仲がいいです。でも、子どもや家族と楽しい関係を作ることはあまりしつけとは言いません。お手伝いなども、“お手伝いしなさい”と言わなくても、パッと動ける子もいます。そういうことが当たり前になってしまっている子です。そう考えていくと、もしかしたらしつけなど特に意識する必要がなくなるような子育てこそが素敵なしつけなのではないのかと思えるのです。私は、しつけなど必要が無くなるような子育ての基本は喜びと調和と真善美の体験だと思っています。そして、実際子どもはそういうものが好きです。本能的に、グチャグチャの状態より調和した状態を好むのです。何でも自分の言うことを聞いてくれる人より、正しいことを言ってくれる人の方を信頼するのです。確かに子どもは自分で散らかし、言うことを聞いてくれないと泣き叫びます。でも、それは子どもはその状態から始めるということに過ぎません。赤ちゃんですから。赤ちゃんが泣き叫んでも泣き叫びたいわけではありません。赤ちゃんがハイハイしかできなくても、ズーッとハイハイしたいわけではありません。赤ちゃんが言葉が話せなくても、言葉を話したくないわけではありません。だから成長するのです。それを、赤ちゃんが言葉を話さないのは言葉を話したくないからだと思いこんで言葉かけをしなければ非常に困ったことになってしまいます。この調和や真善美に対する感覚は人間だけが持っている本能なのです。人間が人間らしさを獲得するために神様が与えてくれた本能なのです。だからこれらに満たされている子は優しく、賢く、心が落ち着いているのです。と言っても話しが難しくなってしまうので、もっと具体的に言います。正しい子育てを目指すのではなく、子育てを楽しんで下さい。子どもと一緒の時間を楽しんで下さい。子どもの成長を子どもに共感しながら喜んで下さい。家庭の中に喜びと笑い声を満たして下さい。簡単なところでは親子でいっぱい歌を歌って下さい。歌の力は強力です。お話しをいっぱい語ってあげて下さい。絵本を読むだけでなく、自分の言葉で自分の体験を語ってあげて下さい。自分が子どもの頃のことなども語ってあげて下さい。どんなイタズラをしたのか。お母さんやお父さんに叱られたことなども。そうすると、子どもはお母さんやお父さんを“自分に命令する人”ではなく“人生の先輩”として意識するようになるでしょう。すると、お母さんやお父さんの言葉に対して聞く耳が育つのです。植物でも動物でも生き物の世話をさせて下さい。世話をされる体験だけでなく世話をする体験も必要なのです。親子で一緒に、いっぱい作ったり描いたりして遊んで下さい。一緒に作ったり描いたりすることで目的を共有する体験、役割の体験ができます。“一緒に”ということが大切なんです。その時、大人が指導してはいけません。大人はサポートするだけです。昔はそういうことはお手伝いや群れ遊びの中で体験しましたが、今ではお母さんやお父さんが意識的に子どもと関わって体験させてあげないことには子どもはそういう体験によって育つことができません。そのような関わりをしていれば自然としつけなど必要がない子どもに育っていきます。お母さんもまた育ちます。自分の思い通りに育っていなくても“それはそれでOKかな”と思えるようになるのです。うさぎに“はねるな”というのはしつけではありません。そういうことが分かってきます。但し、子どもが間違ったことをした時にははっきりと、そしてしっかりとその間違いを教えてあげて下さいね。でも、あまりそのことにばかり意識が行ってしまっていると、子どもを監視し、あら探しばかりしてしまうようになってしまう危険性があるということです。子どもの欠点探しが“しつけ”の目的ではありませんからね。それではモグラたたきと同じになってしまいます。それとお母さんが気になるところばかり注意していたら、子どもの育ちも偏ってしまいます。現代では、昔のようにしつけの基準があるわけではないので自分の趣味興味だけで子どもを育ててしまう恐れもあります。だからこそ現代のしつけでは“人間として”という視点は忘れない方がいいと思います。
2008.01.21
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最初に、私のワークに参加して下さっている友人のかめおかゆみこさんがそのワークの様子をちょっと紹介して下さっています。ご興味のある方はご覧になってみて下さい。今日は「7才までのしつけ」という講座をやったのですが、大勢の方が参加して下さいました。あらためて“しつけ”に対する関心の高さを感じました。今、“子どもたちのしつけがなってない”ということを方々で言っていますよね。“だからもっと厳しくしつけなければいけない”、“もっと厳しくしなければいけない”などという意見もよく見かけますよね。確かに、今の子どもたちの状態はかなり困ったものです。でも、厳しくすれば何とかなるというものではありません。人間を育てるわけですから、人間としての関わりが必要なのです。そして今それが失われてしまっているのです。今日は短いですがこれで終わりにさせて下さい。
2008.01.20
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昨日は、子どものからだ育てて大切なことは心とからだをつなげることだということを書きました。心とつながっていないからだはただの肉体です。見せ物としては使えますがそのからだを動かすことで何かをすることはできません。思い通りに動かないからです。でも、人間はからだとして存在しています。私にとって“わたし”とは“私の心”のことですが、社会に存在しているのはからだであって心ではないのです。他の人が見ているのも関わっているのも心ではなくからだなのです。そして、社会的な活動はそのからだが行っています。だから、心があったとしてもその心がからだを動かすことが出来なければ現象的には心がないのと同じことになってしまいます。当然、自己肯定観も育ちません。だからみんなその肉体を飾り立てたり、整形したりして自分の存在感をアピールし、他人の評価によって自己肯定観を高めようとしているわけです。ですから、子どものからだ育てで重要なことは“使えるからだ”を育てることなのです。誰が使うのかというと、子ども自身がです。子どもが色々なことに挑戦したり、色々な想いや目的やイメージを持って動きたいと思った時、それにパッと応えてくれるからだを育てるのです。それがつまり、心とつながったからだを育てるということです。それは心とからだの間にしっかりとした回路を育てると言うことでもあります。それはまた脳の中に新しい回路を作ると言うことでもあります。そして、その回路が子どもの思考力の土台になっていくわけです。実は、子どもの学力育ては子どものからだ育てから始めるべきなんです。これは、人類の進化をたどってみるとよく分かることです。人間の脳は人間のからだが器用さを獲得する過程でそれを処理するために大きく、複雑になってきたのです。ですから、人間ほど何でも出来る器用な生き物はこの地球上に存在していません。個々の能力では人間に勝る生き物はいっぱいいます。でも、訓練次第で何でも出来る能力を持った生き物は人間以外に存在していないのです。また、次の段階としては複雑な群れ社会の中で必要とされる多様な感情を処理するために脳はより複雑になりました。ですから、複雑な感情を持っている動物は複雑な群れ社会を持っています。そして同時に高度な知能も持っているわけです。感情の成長と知能とは密接につながっているのです。(その群れ社会をつないでいるのは“役割”ということです。ですから、役割の体験は子どもの知能の成長にも非常に大きな意味を持っています。今、その役割の体験があまりにも少ない子どもが多すぎます。今、子どもたちを集めても猿レベルの群れさえ作ることが出来ません。とにかく協力しあえないのですから群れにならないのです。これでは知能も成長しないはずです。)人間はそういう進化の流れの果てにやっと知性が目覚めたのです。そして、子どもはその進化の過程を繰り返しながら人間らしい人間に成長するのです。では、子どもはその心とつながったからだの使い方をどのように学んで行くのかということです。ということでまた続きます。*************************今日、三島で例の「強い心の育て方」を講演してきました。まず最初に、“みなさんにとって強い人ってどんなイメージですか”と聞きました。“強い心”ではあまりに抽象的だからです。もう、その時点でみなさんバラバラです。つまり、“強い人とはこういう人だ”という基準などないのです。それぞれの人が自分の価値観の中で自分の理想を“強い人”と位置づけているだけなのです。まず、そのことに気付いて頂きました。それで、どうしたらいいのかということで、“子どもを否定しないでください”という話しをしました。“叱ってもいいから否定はしないで下さい”ということです。叱らなくてもしっかりと否定だけをしているお母さんもいます。ネグレクトはその典型です。でも、叱ることで子どもを肯定することができるお母さんもいます。叱ることと否定することは違うのです。否定された子どもは生きる意欲が萎えてしまいます。当然、強い人になどなることができません。だから、否定しないでくださいと伝えました。そのあと、以前もご紹介した「てん」という絵本をご紹介して終わりました。************************昨日と同じお知らせです。<ワークのお知らせです>友人のかめおかゆみこさんの勉強会で私が一日講師をすることになりました。まだ、申し込みOKのようです。場所は渋谷で19:00からです。ご興味を持たれた方は是非おいで下さい。●かめわざ快心塾「学び舎21」例会●2008.1.22***********************************************日時/2008年1月22日(火)19時~21時会場/大向区民会館 会議室(渋谷)参加費/3000円 ※当日、おつりのないようにご持参ください。定員/30名(できるだけ事前にお申しこみください)問い合わせ/かめおかまた、2/1(金)、2(土)と三重に行きます。津の生涯学習センターです。ご興味のある方には詳細をお知らせします。お母さん達有志による茶話会も企画されているようです。
2008.01.19
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さて、子どものからだ育ての話しですが、まず最初に“からだって何だろう”というところから話しを始めないと、からだ育ての方法も見えてきません。一般的には“からだを育てる”という言葉で連想することが出来るのは、身長、体重、筋肉、骨格、体力、運動神経、そして健康などでしょうね。だから、栄養のあるものをバランスよく食べて、適度な運動をすることが求められるわけです。そうすればこれらのものはそれなりにちゃんと育つだろうと思います。そして実際、戦後子どもたちのからだは昔の子どもたちに比べて比較にならないほど立派になりました。でも、今子どもたちはその立派な体をもてあましています。学校の体育でからだを動かしているはずなのに体力が無く、すぐしゃがみ込んだり、くにゃくにゃしてしまったりしています。集中力も根気もなく、指先は不器用で飽きっぽいです。立派なからだを持っているのに、そのからだを使いこなすことが出来ていないのです。それはつまり、心とからだがしっかりとつながっていないということを意味します。ちなみに、ここで言う“心”とは、主に意志とイメージの働きのことです。からだは無意識的に感情には反応しますが、意志とイメージの働きとつながるためにはそれなりの訓練と体験が必要になります。感情とからだのつながりは本能的なものですが、意志やイメージとのつながりは育ちの中で身につける非常に人間的なものなのです。そして、主に人間としての社会的な行動、文化的、芸術的な活動、そして創造的な活動のために必要なのは意志やイメージとつながったからだの方です。感情とつながったからだは反応するからだですが、行動するからだではないからです。そして実際、人間は意志やイメージの働きが萎えてしまうと、動けなくなってしまうのです。イメージは心の中のからだであり、意志はからだを動かすエネルギーなんです。ですから、イメージを持つことが出来ない動きをからだは動くことが出来ません。意志が萎えている時には能動的に動けません。ということで、続きます。*********************************<ワークのお知らせです>友人のかめおかゆみこさんの勉強会で私が一日講師をすることになりました。まだ、申し込みOKのようです。場所は渋谷で19:00からです。ご興味を持たれた方は是非おいで下さい。●かめわざ快心塾「学び舎21」例会●2008.1.22***********************************************日時/2008年1月22日(火)19時~21時会場/大向区民会館 会議室(渋谷)参加費/3000円 ※当日、おつりのないようにご持参ください。定員/30名(できるだけ事前にお申しこみください)問い合わせ/かめおかまた、2/1(金)、2(土)と三重に行きます。津の生涯学習センターです。ご興味のある方には詳細をお知らせします。お母さん達有志による茶話会も企画されているようです。
2008.01.18
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昨日のブログに対してnativemindさんがとても嬉しく思ったことがありました。それは、彼の世界をずっと大切にしてきてよかったなということです。ミニカー遊びとお絵描きが大好きなので、そこから世界を広げていきたいと思ってきました。いつでも何でも車から・・・といった具合です。そんなに好きなら極めなさい!!と(笑)とてもゆっくりですが、質は高まっていると思えました。世界もゆっくり広がってきました。と書いて下さいました。それに対してきんた67さんが絵本をつくり、、、遊びのバリエーションが増えるということは、楽しさを増やそうと挑戦しているのでしょうか?と書いて下さいました。お二人が直感で感じていらっしゃることは正しいのです。今歩いている道がどんなに人里離れた寂しい道でも、道は必ず人里に通じているのです。海賊も、ミニカーもお絵描きも人の世界から生まれてきたものだからです。子どもは自分にあった道を探して、そこから大人の世界へと歩き始めるのです。その時、親が勝手に違う道を押しつけると子どもは遭難します。その道の歩き方が分からないからです。でも、子どもが自分で選んだ道だとしても、時として立ち止まって動けなくなってしまうことがあります。それは、“なんでこんな道を歩くの!”と脅かす人がいたり、一人っきりでその道を歩かなければならない時です。初めて歩く道なので“この道でいいんだよ”、“この道はこうやって楽しもうね”、“この先にはもっと楽しいことがあるよ”と教えてくれるガイドがいないと不安が強くなって前に進めなくなってしまうのです。また、一緒に歩く仲間も必要でしょう。一人で歩くのは寂しいですからね。それは理屈ではなく、生理的に動くことが出来なくなってしまうのです。不安は心とからだを固くして身動きが取れないようにしてしまうのです。ですから、子どもを不安にするような働きかけは全て子どもの成長を阻害します。テレビやゲームなどの強い刺激も子どもを不安にします。大人はつい“こんな成績じゃ落ちこぼれるよ”“もっと勉強しないと受験に失敗するよ”“学校に行かないとホームレスになっちゃうよ”“お母さんの言うことを聞かない子はうちの子じゃありません”などと脅かして、子どもに言うことを聞かせようとしますが、そんなことをすると逆に子どもは不安を感じて動けなくなってしまうのです。子どものためを思っての言葉なんでしょうが、実際には逆効果になってしまうのです。ところが、学校では子どもにみんな同じ道を歩かせようとします。でも、その道が合っている子もいれば、合っていない子もいます。そして、合っていない子は不安を感じます。それで動けなくなります。その不安を取り除くのが親の役目です。先生や学校とグルになって子どもを脅かしてはいけません。また、何でもかんでも子ども任せにしているお母さんもいますが、その場合でも子どもは不安になります。子どもはまだこの世界に来たばかりでこの世界のことをよく知らないのに、“勝手にしなさい”とガイドが消えてしまったら不安になりますよね。人間というものは不安が消えれば動き出します。動物は動かなければ生きていけないからです。それは人間も同じです。病気でもないのに動けない時は不安を感じている時です。そんな時、脅かして動かそうとすると更に不安が強くなり、余計に動けなくなります。これは、動物に共通する生理的なものなので本人の努力の問題ではありません。先ず、不安を消してあげる、そして子どもが歩いている道を、子どもの興味に合わせてより広く豊かな世界への道へとつなげてあげるのです。希望を見つける手伝いをしてあげるのです。お釈迦様の像は右手を上げて前に向け、左手を下げて前に向けています。この印を「与願施無畏」といいます。右手は“恐れるな”ということです。不安を取り除く印です。そして、左手は願いを与えてくれる印です。人が正しい道を進むためにはこの二つが必要なのです。キリストが生まれる時に天使が最初に言った言葉も“恐れるな”でした。不安を取り除き、希望を与える、これが親の勤めでもあるのではないでしょうか。よく、教師のように振る舞っている親をよく見かけますが子どもは身動きが取れなくなってしまうでしょうね。そして、子どものからだ育ても同じ所から始めるべきなのではないかと思います。技術を伝える、自信を付けさせる、こういうことはみな不安を取り除いてくれます。ということで、明日はまた「子どものからだ育て」です。
2008.01.17
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昨日のブログに対してnativemindさんが以下のようなコメントを入れてくださいました。挑戦したり、新しいことが苦手です。ずっとお絵描きとミニカー遊びをしています。もう7歳ですが・・・ついいろんなことに口を出してしまうので、このお絵描きとミニカー遊びの時間は彼の好きなようにと思っていました。いつの間にか、新しいことを挑戦する気持ちを育ちにくくしてまったのでしょうか・・・いやいや、それは誤解です。nativemindさんは、“挑戦する”ということの意味がよく分かっていらっしゃいません。挑戦するということは、今やっていることと違うことをすることではありません。そうではなくて、“今やっていることをさらに一歩先に進める”ということです。ただし、量を増やすのではなく、質を高めるということです。サッカーをやったことがない子がサッカーをやりたがるのは、それは好奇心であってまだ挑戦ではありません。サッカーの難しさ、大変さを知った上で、もっと上達しようと頑張るのが挑戦です。そうでないと、あれこれ色々と手を出す子の方が挑戦的だということになってしまいます。ですから、nativemindさんのお子さんは好奇心が狭くなってしまっているということなのでしょう。それと、挑戦する気持ちを育てるためには子どもの気持ちに共感してくれる仲間や大人の支えが必要です。“なんで、こんなことばっかりやっているの、もっと違うこともやりなさい”というのは脅迫であって、共感ではありません。脅迫に応えるためには努力が必要ですが、逆に挑戦する心は萎えていくでしょう。勉強でも同じです。成績を上げるためにただ勉強時間を増やすだけならそれは“努力”かも知れませんが“挑戦”ではありません。挑戦とは、自分の勉強のやり方を色々反省、分析して、勉強時間は同じでも質を高めることができるように工夫することです。その時、心とからだの中に新しい回路が生まれるのです。すると“新しい自分”に進化するのです。それは“今までの自分を脱ぎ捨てる”ということです。簡単に言うと質を変えることで上を目指すのが“挑戦”で、単純に量を増やすのは“努力”だということです。量を増やすことで回路の強化は出来ます。ですからそれも大切なことです。でも、新しい回路は生まれません。それと、努力には限界があります。時間の限界、肉体の限界、能力の限界です。でも、挑戦には限界がありません。質の向上には限界はないのです。先日、大リーグで活躍しているイチローの番組を見ましたが、彼は挑戦し続けています。素人は努力だけでも何とかなりますが、挑戦しないプロはすぐに脱落します。人間は挑戦することで自分で自分を進化させることが出来る唯一の生き物なんです。そして、努力をする子はいっぱいいますが、挑戦する子はあまりいません。でも、努力ではステージを上げることはできません。nativemindさんのお子さんを例にとって考えてみましょう。お子さんはお絵描きとミニカーが大好きなようです。それで、nativemindさんは他のこともやらせようとなさっているのでしょうが、まずそのような必要はありません。そうではなく、今必要なことはそのお絵描きとミニカーの世界をもっと豊かにしてあげることなんです。多分、今お子さんは一人でその世界に浸っているのでしょう。それは、考えようによっては一種の閉じこもりです。だから、その中の世界も単調で、同じことの繰り返しだけしか起きていないと思います。同じことを繰り返していると安心するからです。その閉じた世界に新しい変化を引き起こすのです。具体的にどうしたらいいのかは、私が直接お子さんを知らないので一般的な話ししかできませんが、お子さんが好きなものをつなげて、広げてあげて下さい。ミニカーとお絵描きが好きなら、その二つをつなげて遊ぶ遊びを考えてみて下さい。新しい世界が生まれるはずです。模造紙をいっぱいつなげて部屋の中に広げ、街の絵を描いてミニカーで遊ぶとか、絵に描いたミニカーを切り抜いて、割り箸にくっつけて動かしてお話しを遊んでみるとか、「カーズ」の映画のように、ミニカーに名前を付けて、性格も考えて、遊んでみるとか、その世界から遠ざけるのではなく、その世界に新しい動きを創造するのです。そして、同じことの繰り返しの世界から抜け出す手助けをしてあげるのです。お子さんがそれを喜ぶようになれば、自然と新しいことへの興味も生まれてきます。でも、最初は子どもにやらせようとしないで、お母さんがまず挑戦してみて下さい。そして、楽しんでみて下さい。お母さん方が楽しんでいる姿を見て子どもは興味を持ち始めるからです。でも、それが一番難しいかも知れませんけど・・・。一般的に同じことの繰り返ししかやらない子は感情が閉じてしまっています。心の中にいつでも同じ感情しか働いていないのです。同じ感情しか働いていないので、同じ感覚しか働きません。感覚は感情の支配を受けるからです。また、思考も同じです。同じ感情に支配されている子は同じことしか考えることが出来ないのです。そしてそういう子は、表情もいつも同じです。変化が少ないのです。そして、自分を表現しようとしません。そういう状態では挑戦など出来ません。ですから、そういう子の場合はまず、新しい感情に目覚めさせることから始める必要があるのです。新しい感情は新しい感覚を目覚めさせます。そして、新しい考え方を目覚めさせます。すると挑戦したくなるのです。でも、努力を強いると、逆に古い感情に閉じこもります。
2008.01.16
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昔は大きな声で騒ぎまくり、反抗的で手に負えないような困りものが結構いたのですが、最近の子どもたちは大人しくて素直です。ですから、大きな声を出す必要も無くなってきました。10年くらい前には“ぼくバカだから出来ない”というように自分で自分を否定する子も時々いましたが最近ではそういう子もいません。その代わり、“やらないだけで自分は何でも出来るんだ”と思いこんでいる子が増えてきました。(実際にはやらないのですけどね・・・)ある子どもは“ラジコンヘリが作りたい”と言いました。それで、“作り方分かる?”、“仕組みは分かる?”などを聞くと、“分からない”ときっぱり。でもその後、こう言うのです。“でも、先生が教えてくれれば出来る”と・・・。大分以前ですが、“出来ないのは、先生の教え方が悪いせいだ”などというようなことを言った子もいました。自分には能力がある。出来ないのは出来るように指導できない大人のせいだ、という論理です。これを大人が言うのなら分かるのですが、子どもが言うのはちょっとおかしい気がします。そして、そういう子に限って教えても出来ません。教えてもらうのを待っているような子は教えても出来ないのです。でも、教えてもらう前から自分の考えで挑戦するような子はちょっと教えただけで出来るようになります。造形でも、昔は何だか訳の分からないものを一生懸命に作る子どもも多かったのですが、最近の子どもたちは訳が分からないものに対して生理的な違和感を感じるようで、そういうものは作りません。そのため、みんなが知っていて、単純で役に立つもの、目的がはっきりしているものばかり作りたがります。新しいことに挑戦しようなどとは思わないようです。ということで、あまり芸術的な作品には取り組みません。芸術は真似できませんからね。特に、絵が好きな子は激減してしまいました。男の子では人間を描いても棒人間しか描けない子が増えてきました。先日も、“棒人間じゃないと人間が描けない”と言っていた小1の男の子がいました。そして、全体的に絵が観念的で生き生きとした心の動きを感じなくなりました。粘土工作をしても、お皿のように簡単な形で目的がはっきりとしたものをものばかり作りたがります。また、今の子どもたちは“自由に作って(描いて)いいよ”と言われると困るようです。挑戦する心がない子には“自由”は自由ではないのです。そして、一つ一つ丁寧に教えてもらいたがるのです。それでも自由にやらせると、非常に幼い表現しか出てきません。言うことは年齢以上なんですが、実際に出来ることは年齢以下なんです。そこに大きなギャップがあるのです。だから、挑戦しようとしません。理想は高いのに、自分にはその技術がないということを知っているからです。そして、やたらに“しっぱいした しっぱいした”といって、逃げようとします。逆に言うと、失敗したという感覚が目覚める前に何かに挑戦し、喜びと共にそれを乗り越える体験が少なかったのではないかと思うのです。子どもはいつも挑戦しているようですが、子どもの挑戦には共感してくれる人が必要なんです。共感してくれる人がいるから次から次へと挑戦するのです。でも、共感してくれる人がいないと、次第に子どもは挑戦しなくなります。そして、心もからだも育たなくなります。1月12日ブログに対してモアイさんがそこで、子供が"できた!"という瞬間を観察して、そのタイミングで"すごいね。"と、伝えるのです。鼻高々の息子さんの様子が目に浮かびます。とコメントに書いて下さった通りのことです。この繰り返しの中で子どもの中に挑戦する心が育つのです。話題が戻りますが、これが“強い心”なのかも知れません。そして、子どもの心とからだは何かに挑戦することで育つようにできています。それは大人でも同じです。挑戦することで新しい神経回路が生まれるのです。そして、成長すると言うことは頭と心とからだの中に新しい回路を育てると言うことに他なりません。(医学的には全て神経回路なのでしょう。)ただ、量的に大きくなるだけのことではないはずです。そして、当然のことですが、新しいことを始めないと新しい回路は生まれないのです。それが挑戦すると言うことです。でも、それは今までの回路では対処できないということを意味します。だから、不安も生まれます。だから、立ち止まりたくなります。でも、そこで止まってしまっては新しい回路は生まれないのです。ですから、挑戦しない人は成長できません。挑戦することを忘れてしまった子どもは心とからだの育ちが止まってしまうのです。
2008.01.15
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昨日は隔月でやっている「冒険クラブ」の日で、毎年恒例の「ばばばあちゃんのおもちつき」をやってきました。これが「ばばばあちゃんのおもちつき」です。餅米を炊いて、ボウルに入れて、スリコギでゴンゴンやります。するとちょっと半殺し状態のお餅ができます。美味しいですよ。それに、アンコやきな粉だけでなく、お菓子なども色々入れたり、付けたりして食べます。昨日は「ベビースターモチ」「ムギチョコモチ」もありました。みんなでゴンゴン。親子でゴンゴン寒いのでお湯で手を洗っています。朝はちょっと雪がぱらついていましたからね。その後は凧をつくって遊んだり・・・子どもは風の子・・・クギ差しをしたり・・・(大人も夢中になっていました)親子でクギ刺し・・・河原の粘土で芸術作品を作ったり・・・素敵でしょ・・・最後は鬼ごっこでしめました。あとは、川で石投げをしたり、川の中を歩いていた子もいたそうです。昨日は寒かったせいか他のグループがいなくて、広い河原を貸し切り状態で遊んできました。楽しいかったですよ。
2008.01.14
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今日は一日忙しいので早めに書いておきます。昨日は、“子どものからだ育てに競技化されたスポーツは向かない”ということを書きました。ここで、子どもの育ちを考える時に非常に大きなポイントがあるのです。それは“思春期前の子どもが何かを学ぶ時には喜びとハラハラ・ドキドキ・ワクワクという感情の動きが必要だ”ということです。これは、からだ育てだけでなく、心育て、頭育て、感覚育ての場合でも同じです。思春期が過ぎた子は、自我の働きが目覚めているので、感情が動いていなくても自分の意識で自分の心やからだを能動的に動かすことができますが、思春期前の子どもは感情が動かないことには感覚も、頭も、からだも能動的に働かないのです。実は、人間が何かを学ぶことが出来るのは無意識的に学んだ時か、能動的に学んだ時だけなのです。人間には“意識”というフィルターがあって、そのフィルターを通り抜けることが出来るのはそのフィルターに気づかれないで入り込む無意識的なものか、本人が能動的に許可したものだけなんです。そして、喜びとハラハラ・ドキドキ・ワクワクという感情の動きがフィルターの門を開くのです。ですから、喜びと共に学んだことはどんどん入っていってしまいます。だからこそ子育てでも教育でも無意識に働きかけることと、感情に働きかけることが非常に重要になってくるわけです。人間は意識のレベルで否定的な感覚を感じたものは自分の内側(心・魂)には入れないようになっているのです。それで、逃げるか、避けるか、表面的にだけ相手をすることになります。そういう時、人間は自分の心とからだをまるで道具のように使います。自分の感情と切り離して使うのです。ですから、嫌々何かをさせても子どもの心には届きません。でも、道具としての頭やからだの使い方だけは上達します。筋肉を使わせれば筋肉も育つでしょう。筋肉も道具ですから。それで大人たちは満足します。でも、そういうことが長く続くと心や魂にエネルギーが届かなくなって虚無的になり、鬱になります。なぜなら、生き生きとした感情の働きこそが心と魂のエネルギー源だからです。また、無意識に働きかけることで、そのフィルターの質を変えることができます。だからこそ、無意識に働きかけることと、感情に働きかけることが非常に重要なんです。じゃあその方法ですがが、無意識に働きかけるためには“さりげなく”が重要です。一番簡単な方法はお母さんやお父さんや周囲の大人がお手本を見せてあげることです。その際、言葉で説明してはだめです。無意識に届かなくなってしまうからです。子どもはお母さんやお父さんを見て、自分のフィルターを作ってきます。お母さんがホームレスの人を見て、無意識的に“やーねー”と言えば、その無意識的な言葉は子どもの無意識の中に入っていってそういうフィルターを作ります。無意識の働きには一つの特徴があって、無意識的に出たものは相手の無意識に響くのです。そして、意識的に出したものは相手の意識に響きます。必ずということではありませんが、そういう傾向があります。だから、子どもは親に似るのです。お母さんが一生懸命自分に似ないように気を付けていても、子どもはお母さんの無意識を真似してしまうのでかえって逆効果になってしまうのです。お母さんが自分を変えようと努力する時、子どもはそんなお母さんを見てお母さんを超えていくのです。そして、子どものからだ育てという問題もこの視点から始める必要があるのです。ということで続きます。
2008.01.13
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今、子どもたちの体力低下が問題になっています。先日の朝日新聞にも出ていたのですが、子どもの体力を偏差値で表して親に通知するという動きもあるようです。(これはまったくナンセンスです)ですから、これはダメ母さんのお子さんだけでなく、日本中の子どもたちの問題でもあるのです。そして、このからだの不安定さが心の不安定さにつながっていて、落ち着かない、集中できない、頑張れない、不器用、思考力の低下、感情が切れやすい、我慢が出来ないなどの状態として現れているのです。さらには、実はそれが子どもの学力低下ともつながっているのです。ですから、子どもたちのそういう状態を理解して手品のように授業を進めることが出来る先生、子どもをお客さんのように喜ばせながら授業を進めることが出来る先生のクラスではそれなりに落ち着いていますが、まじめに、まともに、正攻法で授業を進めようとする先生のクラスでは子どもたちは騒ぎ始めます。(実は、子どもに自由を与えると子どもは騒ぎ始めるのです。それが今の子どもたちの特徴です。ゲームは子どもに自由を与えてくれません。ディズニーランドも子どもに自由を与えてくれません。100マス計算も子どもに自由を与えてくれません。だから子どもは騒がないのです。でも、それが子どものためになっているかどうかは別の問題です。)昔は多少先生の能力が未熟でも子どもたちが適当に合わせてくれていたのですが、今の子どもたちにはそれが出来ません。ですから、余計に教師としての高い技術が求められています。また、今の子どもたちは一人一人で相手をしてもらいたがります。自分だけ特別扱いをして欲しいのです。みんなと一緒はあまり嬉しくないのです。また、一対一でないとコミニケーションが通じにくいのも今の子どもたちの特徴です。そして、お客様扱いして欲しいのです。お客様扱いしないとすねる子もいます。更に問題なのは、今では親たちも同じ状態だということです。ですから、今先生は子どもに振り回され、親に振り回され、そして校長に振り回され、文科省に振り回されています。さらに困ったことには、若い先生達にもこのような状態の人が多いということです。 まあ、でも今学校問題は扱いません。ここでは、じゃあ子育ての場ではどうしたらいいのかということを考えてみます。上で、今の子どもたちは一人一人で相手をしてもらいたがります。自分だけ特別扱いをして欲しいのです。みんなと一緒はあまり嬉しくないのです。また、一対一でないとコミニケーションが通じにくいのも今の子どもたちの特徴です。そして、お客様扱いして欲しいのです。お客様扱いしないとすねる子もいます。と書きましたが、実は子どもに対してこのように関わっているお母さんが多いようなのです。今、一人っ子が増えています。そして、近所にも子どもがいなかったりすると幼稚園に入るまでほとんどお母さんと二人っきりという子どもも珍しくありません。すると子どもは一対一で相手をしてもらうことが当たり前になってしまいます。そして、一対一ですからいつでも特別扱いです。アイスクリームもお菓子も一人で食べることが出来ます。おもちゃも自分だけで遊ぶことが出来ます。でも、兄弟がいたり、他の仲間がいたりすればそんなことはできません。みんな分け合って食べたり使ったりするのです。昔はそれが当たり前でした。また、お母さんと子どもが一対一でずーっと一緒なので、お母さんは疲れ、退屈します。子どもに泣かれたり、わがままを言われることが辛いので、先回りして何でも子どもの要求を聞いてしまっているお母さんもいっぱいます。また、子どもが一人しかいないのでそれが出来てしまうのです。そして、そのくせ子どもは一人で放って置かれます。お母さんが機嫌がいい時には相手をしてもらえますが、機嫌が悪い時にはテレビシッターに預けられてしまいます。今では珍しくない風景ですが、昨日も近くの公園でお母さんはベンチで携帯、子どもは一人でしゃがみ込んで何かをやっていました。でも、そんな生活をしていた子どもの心もからだも育つわけがありません。さらに突然兄弟が生まれたら、子どもは人生で最初の挫折を味わうことになります。単に、お母さんの愛情が弟や妹に向けられてしまう寂しさだけでなく、自分が王様でなくなってしまうことが受けいれられないのです。だから、兄弟が生まれると自分の地位を奪われないように余計に王様のように振る舞い始めます。兄弟が生まれた時の寂しさはお母さんが気を付けてあげていればやがて消えていきます。でも、王様の座から転落してしまった子どもの反乱はそう簡単には収まりません。それは、実際にトラブルを引き起こしていれば自分がお母さんを支配できるからです。学校などでしょっちゅうトラブルを引き起こしている子どもも同じです。そういう子どもは自分が王様になりたいのです。表面的にはトラブルを起こさない子でもそういう気持ちを持っている子も多いでしょう。そういう子は、友達関係でそれが現れます。それだけ3才までの生活は重要なんです。3才頃までにどのような人と、そして仲間とどのような関係を作り、どのような遊びをしたのかということがその後もずーっとつながっていくのです。それで私は12,3年くらい前に「ポランの広場」という2才からの親子で遊ぶ幼児教室を始めたのです。今日は子どものからだ育てについて書こうと思って始めたのですが、違うところに来てしまいました。子どものからだ育ては明日書きます。ひと言だけ書いておくと、競技化されたスポーツはあまりお勧めしません。競技化されたスポーツで育てるからだは特殊化されすぎていて、子ども時代に育てるべきからだとは違うからです。競技化されたスポーツは大人のためのものです。
2008.01.12
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私は大勢の子どもたちを見てきていますが、自分で考えて、自分の意志で行動できる子と、依存心が強く、“やってやって”、“できないできない”、“わかんない”を連発する子の間にはからだの違いがあるような気がするのです。自分で考えて、自分の意志で行動できる子のからだは全般的に姿勢が良く、安定していてよく動きます。けん玉や竹馬などにも挑戦し、そしてすぐできるようになります。でも、依存心が強い子どもたちのからだはなんとなくフニャフニャしています。でも、柔らかいわけではありません。ストレッチは全然出来ないのですが印象としてフニャフニャしているのです。背中に筋が通っていないと言う感じです。そして、コマ回し、けん玉、竹馬などからだを使う遊びが苦手です。うちには木で作った竹馬のような「木馬」や、ホッピングなどが置いてあるのですが、そういう子はあまりそういうものに挑戦しようとしません。置いてあっても興味を示さないのです。それでもやる子がいると“ぼくもやる”と言って引きずられてやろうとするのですが、そういう子が竹馬やホッピングに挑戦するとすごく変なのです。からだ全体が一緒に動かないのです。マンガのようにちぐはぐな動きをするのです。例えばホッピングでは、まず片足を載せてからもう一方を離すということができないので、壁により掛かって両足を載せます。それで、小さい子はお母さんに支えてもらいながらなんとか動こうとするのですが、なんかジャカジャカジャカと動くだけで全然ホップしません。上半身と下半身、ホッピングとからだがつながっていないのです。からだだけおかしな様に動かすのですが、動かした力がホッピングに伝わっていかないのです。ですから、全然ホップしません。それですぐに諦めます。自分でも全然無理だということが分かるのでしょう。簡単な遊びですから少し頑張ればすぐに出来てしまうはずなんですが、ちょっとやって思い通りにいかないとすぐに辞めてしまうのです。とにかくあきらめが早いのです。これは造形をやっている時も同じです。そして、これは小学生でも同じです。以前は、ホッピングのような単純なものは誰でも簡単に出来ると思っていたのですが、でも、今ホッピングが出来ない子の方が多いのです。コマ回しも同じです。(ただし、これは幼稚園によって大きな違いがあります。コマ回し、竹馬が出来るのが当たり前の幼稚園もあります。)そういう子を見ていると、からだ全体がバラバラなんです。頭とからだの対話が出来ないのです。ですから当然からだと道具との対話が出来ません。最近、縄跳びもできない子が増えてきたと聞きます。ジャンプは出来る、ヒモも回せる。でも、全体がつながらないのです。頭とからだがつながっていないということなんだろうと思います。そういう子は最初に書いた通りホッピングだけでなく、他のことに対しても挑戦ということをしないのです。知らないこと、初めてのこと、ちょっと難しそうなこと、時間がかかりそうなこと、ちょっとやって出来なかったこと、うまく出来そうもないことなどには挑戦しません。失敗することを非常に恐れるのです。そして、何回もやって知っていること、ちゃんと出来そうなこと、一目で分かること、簡単そうなことなら手を出します。これはいわゆる“成功体験”の少なさが大きな原因なのではないかと思うのです。成功した時の喜びを知らないのです。ですからそういう子に成功した時の喜びを体験させたくて“頑張れ”と言うのですが、成功した時の喜びを知らない子は頑張ることもできないのです。頑張ることが出来ないから成功しません。そして、成功しないから頑張ろうとしません。という悪循環になってしまっているのです。ということで、明日へ。
2008.01.11
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今日は簡単にします。すももさんがおっしゃっている通り出来ない、出来ない・・・ばかりでいっぱいになっていると、よけいに何も出来なくなる。出来ない状態のなかで、出来ることは 力を抜くこと、自分を客観視すること。。。などでしょうか?ということなんですが、でも、その力を抜くことがなかなか出来ないわけです。力を抜くことが出来れば気持ちを切り替えることが出来ます。そして、出来ないことではなく、出来ることを考えることが出来るようになります。でも、力を抜くことが出来ない人にはその気持ちの切り替えができないのです。頭では分かっていても心が言うことを聞いてくれないのです。そんな時はからだを切り替えると、心も切り替わります。からだを切り替えるためには普段と違う動きをしてみることです。スキップしてみる、ジャンプしてみる、手やからだを振ってみる、大きな声を出してみる、逆立ちをしてみる、疲れるまで歩いてみる、片足で立ってみる等々です。お相撲さんがよくやっているように顔を勢いよくパンパンパンと叩いて、“ヨッシャー”と言ってみて下さい。思っている以上に簡単に気持ちが切り替わってしまうはずです。心とはそういうもんです。こういうことは一つの技術なんです。いくら自分を責めても、心だけで努力しても自分の心を変えることなどできないのです。それではただただ苦しくなるだけです。それと、子どもなら何かしらの技術を身につけさせて下さい。ピアノとかヴァイオリンなどといったような高尚なものでなくてもOKです。コマの回し方でも、竹馬でも、一輪車でも結構です。お勉強は自信につながりませんが、からだで学ぶ技術は自信を育ててくれます。ただし、テレビゲームのようなものは含みません。ゲームでは技術の修得そのものが目的ではないからです。ゲームの目的は点数であり、クリアーすることです。それにゲームで使われている技術はからだのコントロール能力を育ててくれるものではありません。逆に鈍くしてしまいます。ゲームに必要なのは基本的には慣れと反射神経です。からだの動きがワンパターンですからね。けん玉で玉をうまく受けられるようになるだけで嬉しいものです。そういう嬉しさをいっぱい体験して育った子は自己肯定観も高いのです。
2008.01.10
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私達は人間ですから感情が高揚したり、沈んだりということは日常的に普通にあることですよね。出来ると思って挑戦したのに出来なかった時は沈んだ気持ちになってしまいますよね。あの時、こうすれば良かったのに・・・・あの時、ああ言えば良かったのに・・・・なんで、あの時あんな事をしてしまったのだろう・・・・などと思い返して、暗い気持ちになることはありますよね。でも、こういう時は自己肯定観が低くなっているということなのでしょうか。そもそも自己肯定観はそんなに簡単に上がったり下がったりするものなのでしょうか。私は、そんなに何でもかんでも自己肯定観とつなげて考えなくてもいいのではないかと思うのです。苦しい時は苦しさを味わい、悲しい時は悲しさを味わい、辛い時は辛さを味わっていればやがて通り過ぎます。通り過ぎなくても、自分の感情とそのように関わっていればその苦しさ、悲しさ、辛さと付き合う術を学ぶことが出来ます。それもまた、自己肯定のあり方の一つの形なのではないでしょうか。問題は自分の中のその負の感情を否定しようとすることなのではないでしょうか。特に現代人はその傾向が強いように感じるのです。それは、明るくよい子でなければいけない自分へのこだわりなのでしょうか。子どもを愛することが出来ない自分を否定している人がいます。子どもをぶってしまう自分を否定している人がいます。自分の意志で決めることが出来ない自分を否定している人がいます。成績が悪かった自分を自分で否定している人がいます。家事が出来ない自分を自分で否定している人がいます。いつも途中で挫折してしまう自分を自分で否定している人がいます。私は、“子どもを愛せないんですけど・・・”と言う人には、“愛せなくてもいいんだよ。そんなのしょうがないじゃん。でも、愛せなくても一人の人間としての関わり合いだけは大切にしてあげてね”と言っています。子どもを愛することが出来ないからといって自分を否定することなんかないのです。自分が出来ないことは出来なくて当たり前なんですから。そんなことで自分を否定していたら人間は生きていけません。何にも出来ない赤ちゃんは自己否定の固まりになってしまいます。問題はそういう人の多くが、出来ないことにばかりにこだわって自分が出来ることを探そうとしないことなんです。負の感情に囚われて、出来ないことの前で止まってしまうのです。自分が出来ることを探して行動しようとしないのです。そういう点で頭が固いのです。応用力が乏しいのです。試行錯誤ができないのです。赤ちゃんは歌も歌えません。歩くこともできません。話すことも出来ません。それでも自分で出来ることを探して一生懸命に行動しています。その繰り返しの中で歌が歌えるようになる、歩くことが出来るようになる、話すことが出来るようになるのです。今できないことでも、今できることを一生懸命にやっていれば将来できるようになるかも知れません。それでも出来なければ、それはそれで仕方がありません。それがあなたの人生なんです。それだけのことです。自分を否定する理由などどこにもないのです。出来ないことばかり考えているから自分を否定したくなるのです。冷静に考えたら、出来ないことより出来ることの方がずっと多いはずなんです。そうではありませんか。武術的には力の強い相手に腕を掴まれたら腕をはずそうと頑張ってはいけません。そうではなく、腕を掴まれた状態でも出来ることを探すのです。すると、結果として腕ははずれるのです。それを腕をはずそうと頑張ってしまうからよけいに動けなくなってしまうのです。
2008.01.09
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今日はまた違う発想をしてみましょう。皆さんは自分の自己肯定観の低さを感じる時はどんな時ですか。自己肯定観というものをどんな時に意識するのかというと、自分の自己肯定観の低さを感じた時ですよね。そういう点で、自己肯定観は“空気”と似ていませんか。だから、そうでない時、つまりうまくいっている時には“自己肯定観”などということは意識しませんよね。だとすると、自己肯定観を高めると言うことは“自己肯定観”という言葉から自由になることなのかも知れません。そして、“自己肯定観を強く持ちなさい”という言葉は現実的ではないのかも知れません。みなさんはどんな時に自分の自己肯定観の低さを感じますか。自己肯定観の低さに自信がある人、どんどん考えてみてください。言いたいことが言えなかった時ですか。やりたいことが出来なかった時ですか。自分で決めたことなのに守れなかった時ですか。自分で決めることが出来なかった時ですか。すぐに他の人に依存してしまう時ですか。子どもを叱ったりぶったりしてしまった時ですか。失敗した時ですか。それとも、いつでも、どんな時にでも感じていますか。でも、これらを全部他人のせいにしてしまう人は自己肯定観は低くないのです。そうですよね。こういうことを全部自分の責任だと思うから自分で自分を責めてしまい、自己肯定観が低くなってしまうのです。ですから、自己肯定観とは何かが出来るとか出来ないとか、その人の能力とは直接関係がないことになります。つまり、優秀な人の中にも自己肯定観が低い人もいれば、そうでない人の中にもそんなこと感じていない人もいるということです。ただ問題なのは、自己肯定観の低い人は失敗を恐れて結果の見える行動しかしないということです。冒険をしないのです。悩むことは得意なんですが、具体的に行動することは苦手です。そして、出来たことではなく、出来なかったことばかり考えています。その結果を次回にどう活かすかということを考えずにただ落ち込むための材料に使うのです。
2008.01.08
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じゃあ、子どもの自己肯定観をそだてるためにはどうしたらいいのかということなんですが、それは難しいことではありません。子どもの自発的な活動に共感し、肯定し、認め、褒めてあげればいいのです。出来ないことを求めるのではありません。出来ていることをちゃんと見ていて、支えてあげていればいいのです。ハイハイしている赤ちゃんに、“早く立って歩きなさい”などと求めてはいけません。“いいよいいよ、今はいっぱいハイハイしなさい、ハイハイをいっぱい楽しみなさい”と言っていると知らないうちに子どもは立って歩き出すのです。せかしたからといって速く歩くようになるわけではないのです。“なんでこんなことも出来ないの!”という言葉や気持ちは子どもの自己肯定観の育ちを阻害します。子どもは大人になっても“こんなこともできない自分”を自分で責めるようになってしまうのです。確かに、大人の社会ではそんな悠長なこと言っていられません。与えられた役割、仕事をうまくこなせなければ“なんでこんなことも出来ないの”と非難されます。でも、それは大人だからしょうがないのです。大人というものはそういうもんなんです。だから努力しなければいけないのです。そこで“どうしてみんな私のことを分かってくれないの”などと他の人のことを非難するのは見当違いです。それに対して、子どもは環境を整え、働きかけ、気長に待ってあげていればその要求が特別なものでない限り自然に出来るようになるのです。子どもに努力を求めても無駄です。子どもは自分で自分の成長をコントロールすることが出来ないからです。子どもにとって自分の成長は周りの環境によって引き起こされる自然現象なんです。でも、大人になるとその“成長”という自然現象は停止してしまいます。だから、もっと成長したい人は自分の意志と努力で自分を成長させる必要があるわけです。そして、実際大人になると自分で自分を成長させる能力も目覚めるのです。でも、子どもの時に自分の成長を楽しむことが出来なかった人は、その自然現象が停止した後まで自分を成長させようとは思わなくなります。成長することに楽しい想い出がないからです。能力はあっても、それを使ってまで自分を成長させる動機が存在していないのです。そのかわり、そういう人は“別の自分”にあこがれます。自分の成長の先に理想の自分を求めるのではなく、今の自分を否定して、まったく別の自分に自分の理想を求めるのです。整形やファッションもその道具なのでしょう。そして、子どもにも同じように変身を求めます。お金を掛けて整形するようにお金を掛けて子どもの成長を作り替えようとするのです。自分に似て凡才のわが子を、自分とは似ていない“優秀な子ども”に整形して作り替えてしまおうとしているわけです。つまり、大人が自分の可能性を信じていないから、子どもの可能性を信じることが出来ないのです。でも、子どもにしてみたらそれは自分が否定されているのと同じことです。それでは自己肯定観が育つわけがありませんよね。
2008.01.07
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(続きです)ということで、今度は“自己肯定観の育て方”というタイトルで書いてみます。すると、“強い心”の時とは違った話になってきます。“強い心を育てる”という考え方の根底には“今はまだ強くない”という前提があったわけです。つまり、比較の問題です。でも、“自己肯定観の育て方”という考え方ではその辺がちょっと違ってきます。なぜなら、幼い子どもにはまだ“自己肯定観”そのものが存在していないからです。というより、“自己”、つまり“自分”という感覚そのものがまだ出来上がっていないのです。だから、“育てる”ということになるわけです。これは、低くなってしまった大人の自己肯定観を高める場合とは本質的に異なっています。実は、低くなってしまった大人の自己肯定観を高めるのはなかなか困難なんです。ゆがんだ形に育ってしまった木の形を直すようなものだからです。そのゆがんだ形は、その人の心の歴史そのものです。だから、その心の歴史が変わらないことには、そのゆがんだ形も変わりようがないのです。周りの人がその形を変えようとどんなに一生懸命になってもその歴史が変わらない限りその形も変わらないのです。そして、その歴史は本人にしか変えることが出来ません。でも、子どもの“自己”は、まだ種の状態です。ですから、その成長に必要な栄養や関わり方を満たしてさえいれば、自然と素敵な木(自己)が育っていくのです。ただし、木に例えればリンゴの木はリンゴの木らしく成長します。杉の木は杉の木らしく成長します。これを変えることができません。まだ種の状態でそれがどんな木に成長するのかは分からないのですが、でもリンゴの種は杉の育て方をしても杉にはならないのです。そして、人間にもこの違いはあります。そこに優劣はないのですが、質の違いはしっかりとあるのです。その違いは赤ちゃんの時から、いやお腹の中にいる時からあります。うちには四人子どもがいますが、みんなお腹の中にいる時から、そして生まれたばかりの赤ちゃんの時から違っていました。でも、その違いを無視してリンゴの木を杉の木のように育てようとする時、木の形はゆがみ、リンゴらしくないおかしな木になってしまうのです。そして、“私はどうして立派な杉になれないのだろう”、“私は不良品だ”、“みんなの期待に応えることが出来なくて申し訳ない”、“こんな役立たずの自分なんかいなくても同じだ”という思いばかりが大きく成長してしまうのです。これが自己肯定観が低い状態です。最初にも書いた通り、そのような状態になってしまった大人を変えるのはなかなか困難なことです。なかなか自分が“リンゴの木”だということを認めたがらないからです。リンゴの木なのに、“リンゴの木にだけはなりたくない”とこだわるのです。自分がリンゴらしく見られてしまうことに恐怖心を感じます。わが子を杉のように育てたい人は何かというとすぐにリンゴの木のように曲がってしまうわが子を否定し、どうにかして杉のように真っ直ぐに育てたいと頑張ってしまいます。それで、子どもが幼い時から杉に対するあこがれと、リンゴに対する侮蔑観を意識的に植え付けようとするのです。子どものためを思って・・・。でも、リンゴの木はリンゴの木です。真っ直ぐには成長しないのです。それがまたリンゴの木の良いところでもあるのですが、それを否定されて育っているとその自分らしいところがみな短所に思えるようになってしまうのです。実がなると、恥ずかしくてその実を人に見られることを恐れて大きくなる前にそっと自分で落としてしまうのです。杉の木に実がなったら変ですからね。でも、実(み)は自然に出来てしまうのです。なにしろリンゴの木ですからね。それで、落としても落としてもこんな“おかしなもの”が出来てしまう自分を恥ずかしく感じるのです。このように、自己肯定観が低い人が、自分の短所だと感じている所こそが、実は本来のその人の長所だったりするのです。つまり、“グズでノロマ”という短所が、“落ちつきがあってゆったりしている”という長所なのかもしれないということです。そのように、わが子を無理矢理杉に育てようとする大人は素敵なリンゴの木を知らないのでしょう。多分、その人も無理矢理杉のように育てられた“杉もどき”なのかもしれません。“杉もどき”だからこそ、“杉らしい杉”に必要以上にこだわるのです。でも、本当の杉の木は“杉らしさ”にはこだわらないものです。それが自然な状態なのでこだわる必要がないからです。杉だけではありません。リンゴらしいリンゴの木も、桜らしい桜の木も自分に対するこだわりはないのです。自分に素直であればいいので、“○○でなければならない”という考え方は必要がないからです。ですから、そういう木(人)は他の人に対しても“○○らしさ”を強要しません。ということで、続きます。
2008.01.06
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今まで色々と“強い心”について書いてきて色々と見えてきましたが、どうもまだストンと来ません。それは“強い”という言葉のイメージが曖昧だからかも知れません。何をもって“強い”というのか、それがはっきりとしていないのです。それで、ちょっと辞書(goo辞書)で調べてみました。私は考えていてよく分からなくなると時々辞書で調べてみるのです。すると「強い」ということではつよ・い 2 【強い】(形)[文]ク つよ・し(1)力量や技量がすぐれている。「腕力が―・い」「―・い力士」「彼は碁が―・い」(2)丈夫で物事に耐える力がすぐれている。抵抗力がある。「―・い体」「アルコールに―・い体質」「地震に―・い建物」「―・いナイロン糸」(3)精神的に抵抗力がある。多少のことでは動じない。「―・い心」「―・い意志」「正身は―・う思し離るとも/源氏(夕霧)」(4)(ある分野に対して)知識や能力を十分にもっている。「スポーツに―・い」「機械に―・い」(5)作用の度合が大きい。程度がはげしい。「―・い風雨」「―・い日ざし」「―・い火」「―・い酒」「―・い臭気」「うぬぼれが―・い」(6)ゆるみがない。かたい。「―・く結ぶ」「本妻―・くものし給ふ/源氏(夕霧)」と書いてありました。これを見て分かったことは「強い」という言葉は何かを比較する時に使われている言葉だということです。でも、それしか分かりません。あまりにも多様な使われ方をしているからです。実際、“強い心”と“強いお酒”、“強い音”などと言う言葉で使われている“強い”は同じ意味ではないですよね。“お酒の強さ”は感覚的なものです。だから、人によって同じ結果になるとは限りませんよね。(アルコール度数だけで決めてしまえば簡単ですが・・・)音も“柔らかい音”と“固い音”があって、“固い音”の方が大きく、つまり“強く”聞こえますよね。日常生活の場では、単にエネルギー量だけで強さを比較することは出来ませんよね。これは、強い、弱いということは、その人(物)自体の属性ではなく、その価値判断をする人の価値観や感覚によって決まってしまうということです。だから“強い心って何だろう”と考えていても、なんかスッキリとこなかったのです。つまり、私にとっての“強い心”と、あなたにとっての“強い心”は同じであるとは限らないということなのです。ですから、むしろ同じではないということの方が自然なわけです。だとしたら、“強い心の育て方”ということも、最初から考え直さなければならないかも知れません。そもそも、その方法に正解はないのですから。正解がないものを正解として押しつけられることで、子どもはお母さんの言うことを聞くことだけに頑張るようになるでしょう。自分で正解が分からないのですから叱られないためにはお母さんの言葉に従うしかないのです。そして、子どもは自分に自信をなくし、自己肯定観の低い心の弱い子に育っていくのです。つまり、お母さんが考える“強い心”の基準を子どもに押しつけると、自分の基準を否定された子どもは自己肯定観のない“弱い心”の子どもになってしまということです。大人の基準と子どもの基準とはまったく異なっているからです。子どもは“強い心”になどまったく興味がないのです。子どもの心が強くなるためには、子ども自身が自分を肯定することができるようになることが必要なんです。ですから、子どもの自己肯定観を育てようとするのなら子どもの価値観を知り、それを大切にするところから始める必要があるのです。ということで、「強い心の育て方」というタイトルは、「自己肯定観の強い子どもの育て方」というように変えた方がスッキリとします。でも、どうしてこのテーマの講演を依頼してくれたお母さん達は“自己肯定観”より、“強い心”という言葉に惹かれたのでしょうか。自己肯定観の低い人は“強い心”にあこがれるのでしょうか。ちなみに、辞書でしらべてみて一つ面白い発見をしました。それは、“強い”は“怖い”と同じ語源だと言うことです。こわ・い こはい 2 【▽強い】(形)[文]ク こは・し〔「怖(こわ)い」と同源〕(1)(物が)かたくて処理しにくい。弾力がない。「―・い毛」「―・い飯」(2)気が強くて、こちらの思い通りにならない。強情だ。「情の―・い奴ぢやな/阿部一族(鴎外)」(3)疲れる。骨が折れる。「この仕事は―・い」(4)つよくはげしい。たけだけしい。「疾き足をいたして―・き力をはげみて/宇津保(俊蔭)」(5)征服するのが困難だ。手に余る。「―・き物の怪にあづかりたる験者/枕草子 157」「坂の―・きを登り侍りしかば/大鏡(道長)」(6)生硬だ。こなれていない。無骨だ。「この文の言葉いとうたて―・くにくげなるさまを/源氏(若菜上)」[派生] ――げ(形動)
2008.01.05
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今日は、モアイさんに刺激されて息子(4番目、小4)と大山に登ってきました。雪があると思っていましたが、全然ないようです。これが大山です。一応1247mあります。昔から「大山詣で」で栄えたところで、昔ながらの土産物屋が並んでいます。行きも帰りもケーブルは使いませんでした。写真は下社からの登口です。巨大な霜柱がいっぱいありました。素敵でしょ。昔はここに茶屋もあって浮世絵にも描かれているそうです。頂上です。頂上からの眺めです。江ノ島が見えているのですが、分かりますか。帰りの富士山です。
2008.01.04
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アッという間にもう三日ですね。それにしても駅伝はすごかったですね。本当に生命を架けた戦いでしたね。テレビを通してですが、選手や関係者が一生忘れることが出来ないような出来事に立ち会えたことに感動しました。でも、向こうは寒さの中で命がけで戦っているのに、こちらは暖かい部屋の中で美味しいものを食べながら命がけで戦っている人たちを見ているという違和感は失わないようにしたいと思います。この違和感を感じなくなると、人間らしさを失ってしまうような気がするからです。
2008.01.03
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今日は、お昼頃に友人の家で新年会で、その後家内の実家(高円寺)に行ってきます。元「お肉やさん」なので、家内の実家では毎年お正月には高級牛肉のすき焼きを“もう食えない”というくらいご馳走になります。それで(そのせいだけではありませんけど)、毎年正月明けには簡単に断食をします。でも、毎年家族からは白い目で見られています。家内は“具合も悪くないのにご飯を食べない”なんて考えられない人ですから。まあ、でも今は素直にお正月気分に浸って美味しいものを食べていますけどね。それで、お正月気分に浸ってお正月の騒々しいテレビも見ているのですが、最近のテレビは本当に軽薄になりましたよね。芸能人の大騒ぎとか、なぜか小学校のお勉強をテーマにしたクイズ番組とか、演技もろくに出来ないようなただ有名なだけの若手タレントを主役に仕立てたドラマや時代劇などが目白押しです。テレビを見ていても、そこに出てくる人に“芸”がないのです。例えば、お正月には時代劇が多いのですが、主役の役者のほとんどが(特に若手)全くの素人です。(年輩の脇役の方がしっかりとしています)昔は、時代劇でも歩き方だけで芸になっているような役者さんも多かったのですが、今歩き方だけで芸を見せることが出来る役者さんは滅多にいません。それで、テレビで時代劇を見ていると腹が立ってくるのです。(これは年輩の役者でも同じです。)刀を差して、着物を着てそんな歩き方はないだろう・・・・なんて。また、首も腰も座っていないチンピラが剣豪の役などをやっているとまるでコメディーです。と、そんな文句を言いながらテレビを見ていると家内や娘に叱られます。(だって、どうみてもヤクザにしか見えないような若造がお殿様なんかやっているんですから・・・)また、芸人と呼ばれる人たちの間でもちゃんと“玄人芸”を見せることが出来る人は多くありません。素人芸のままでテレビに出ているのです。あれでは、子どもたちは努力の大切さを感じませんよね。プロは、素人には絶対出来ない技を見せるべきなんです。プロですから。(これは学校の先生も同じです。プロの先生が学生の家庭教師に負けてしまうようでは困るのです。)子どもがそういうプロを見て“かっこいい”と思えば、子どもは努力を始めるでしょう。“オパッピー”だけで、人気者になれるのなら、必要なのは運だけです。本気で生きている人はかっこいいです。ちゃんと修行した人はかっこいいです。歩き方が違います。目つきが違います。姿勢が違います。声が違います。しぐさが違います。街を歩いていてもそういう人は一目で分かります。オーラ(雰囲気)が違うのです。以前、東京駅で前を歩いている人のオーラが普通ではなかったので、さっと通りすぎて顔を見たら團伊玖磨でした。ヤクザもヤクザで独特のオーラがあります。そういうオーラの人がいたら近寄らないようにします。かっこいい人になりたいですね。まだまだ道は遠いです・・・・。ワークを撮影したテレビに映った自分の姿を見ると、穴に入りたくなります。
2008.01.02
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明けまして おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。皆様いかがお過ごしですか。茅ヶ崎近辺は大晦日もお正月も快晴ですが、吹雪の中で除夜の鐘を聞かれた方も多いのでしょうね。(吹雪の中じゃ聞こえないか・・・)私と、三番目(中二)と四番目(小4)は大晦日から鎌倉の実家に行っていました。(家内と他の子どもたちは1日にやって来ました。)大仏に寄りました。実家の裏山から撮った、2007年最後の夕日です。そして、裏山から撮った2008年の朝日です。元旦の朝の富士山と鎌倉風景です。奇麗でしょ。私です。坂本龍馬を気取ってみました。ということで、今年一年もよろしくお願いします。皆様も、おからだを大切に、楽しいお正月を、そして楽しい一年をお過ごし下さい。
2008.01.01
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