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ゲームは面白いです。刺激的だし、夢や冒険やファンタジーもあります。現実の世界では出来ないことも出来るし、体験出来ないことも体験出来ます。ゲームの世界の中で子どもはスーパーマンにも、魔法使いにも、お姫様にも、大金持ちにもなることができます。どんな欲望もかなえることができます。人殺しさえ可能です。でもそれ故に、一度ゲームの魅力にとりつかれてしまうと、逃れることが出来なくなります。自分が生きている現実の世界に夢や希望を感じなくなってしまいます。ゲームの中では「なんでも出来るヒーロー」なのに、ゲームの外では「何も出来ない無力な自分」と向き合わなければならないのですから。ゲームは「子どもの夢や、希望や、やりたいことを全て吸い取ってしまう魔力」を持っているのです。さらに問題なのは、技術の進歩によって、さらに映像がリアルになってきているということです。AIが創り出す映像は、もう実際の写真と区別がつかないくらいです。実物ソックリの動画も作れます。「本当に人を殺した所を映した動画」と、「ゲームの中の動画」の区別が付かなくなってきたのです。VRを使えば、実際にその場にいるような体験すら出来ます。現実と融合した映像を創り出すことも出来ます。リアルな感覚も感じる技術も次々生まれています。相手に触れた感触を手にはめたグローブが再現してくれるのです。皆さんが子どもの頃に遊んだゲームと、今のゲームは全く別物なんです。これらの技術はまだ生まれたばかりですが、やがてこれが大きな問題になっていくでしょう、子どもには「大人が作った嘘」と「現実」の区別が付かないからです。そして、一度ゲームの魔力に取り込まれてしまうとその魔力から逃れることが出来なくなってしまいます。どんなにお母さんが叱っても無駄です。自分で自分をコントロールする能力自体が育っていないからです。ゲームでばかり遊んでいる子ほど、自己を抑制する能力が育たないのです。ゲーム機を隠すなどして強制的にゲームを止めさせようとすれば怒り出します。お母さんとの信頼関係も崩れます。以前、ゲームを禁止することで子どもに殺されてしまった親もいました。そういうものは、もはや「麻薬」であって「遊び」ではないのです。お母さん達は、「ゲーム」も、他の遊びと同じ「遊び」だと思い込んでいますが、ゲームは鬼ごっこや、縄跳びや、木登りや、コマ回しや、泥んこ遊びといった、「現実の世界の中の遊び」とは全く異なるものなんです。ゲームは、人類の歴史で、いまだかつて人間が体験したことがない遊びです。私たちは今、「子どもの成長に対するゲームの影響についての人体実験」をしているのです。そして、様々なところからその副作用についての報告も上がってきています。ネットで調べれば、すぐに、「幼い頃からのゲーム中毒は、重大な副作用をもたらす」という、実際のニュースや記事を見つけることが出来ます。でも、テレビではそういう情報を流しません。ゲーム業界は一大スポンサーだからです。だから、お母さん達も知りません。意識を持ってネットで調べたり、小児科や精神科の先生の本を読めば、ネット中毒の怖さはすぐに分かるのですが、そういう意識を持っているお母さんは多くないです。ただ、だからといって「100%ゲームをやらせてはいけません」という事ではありません。また、今の時代そんなこと不可能です。ゲームも、大人のお酒やタバコと同じように、嗜好品程度、おやつ程度にたしなむだけならいいのです。また、9才以上の子の場合は、関わり方次第で子どもの育ちに肯定的に働く可能性もあります。日常的には体験出来ないことが体験出来るということで子どもの意識を広げることが出来るからです。ただしそれはリアルな世界の遊びも知っている子の場合です。ゲームしか遊びを知らない子は、どうしても、ゲームに「遊び」を依存してしまいます。それしか遊び方を知らなければ、それは当然のことです。それが問題なんです。だから、お母さんが積極的に子どもと関わって、リアルな世界の体験の楽しさや、仲間と一緒に遊ぶ楽しさを体験させて上げて欲しいのですが、お母さん自身がそれを知らないので、結局ゲーム機やスマホを与えることになってしまうのです。
2024.01.31
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「不思議感覚」は「理解したい」「知りたい」という想いから生まれます。ですから、子どもでも大人でも、「理解したい」とか「知りたい」という想いがない人は、何を見ても、何を聞いても「不思議」は感じません。それはつまり、暗記だけで勉強してきたような人は「不思議を感じる能力」が弱いということでもあります。また、自分の頭で考えずに他の人の指示や命令に従って生きてきた人も同じです。育児書通りに子育てをしようとしている人も同じです。子どもの成長や、行動や、感覚や、考え方は「不思議」に満ちていますが、そのような人は毎日子どもと関わっていても、その不思議を感じることはなく、「自分の期待通りに子どもが育っているのかどうか」ということばかりを気にしています。また、子どもが見せてくれる「不思議」を感じることがないので、「子どもの言葉」にも耳を傾けません。子どもがやっていることにも興味を示しません。子どもの成長や言葉に驚きを感じません。そして、そういう人ほど「方法論としてのしつけ」ばかりを聞いてきます。「どうやったら子どものこういう行為が収まるのでしょうか」というような質問です。でも、子どもの行動を矯正するよりも前に、「なんで子どもはそんなことをするんだろうか」ということを考え、理解する必要があるのです。そうでないと「子どものため」と思ってあれこれやったりしつけをすることで、逆に、子どもの成長を阻害してしまうことが多いからです。それに対して、子どもの成長や、行動や、感覚や、考え方に「不思議」を感じることが出来る人は、子どもを監視するのではなく、子どもを見たり、子どもと関わることを楽しむことが出来ます。子どもがやっていることを一方的に止めたり、矯正するのではなく、一緒にやったり、もっとやらせてあげたくなります。そうやって、子どもが見せてくれる不思議を楽しもうとするのです。そのような人は、「押しつけるしつけ」にはあまり興味がありません。じゃあ、「そういう子育てを受けた子」は「とんでもない子」に育ってしまうのかというと、実際にはその逆のことが多いのです。厳しいルールを押しつけられて育っている子は、ルールの抜け道を探すのが得意になります。お母さんの見ている前では「いい子」で、お母さんがいなくなった途端に「問題児」に変身してしまう子もいます。また、ルールを破ることに快感を感じるようになる子もいます。でも、お母さんが子どもの成長や、行動や、感覚や、考え方に「不思議」を感じ、それを子どもと一緒に楽しんでいると、子どもは逆に自分でルールを見つけたり、作ったりするようになるのです。ルールがないと楽しくなくなってしまうからです。鬼ごっこだって、ルールがあるから楽しいのです。ルールがなかったら鬼ごっこだけでなく、「みんなでやる遊び」は何も出来なくなってしまいます。同じ「鬼ごっこ」でも。ルールをちょっと変えるだけで、違う「鬼ごっこ」を楽しむ事が出来ますよね。ルールは人を規制するためのものではなく、みんなが人と人のつながりの中でもっと楽しく、もっと幸せに生きるために必要なものなんです。お母さんや偉い人が押しつけてくるルールは、お母さんや偉い人のためですが、子ども達が発見したルールは自分たちのためなんです。また、人は不思議を感じた時。「なんで?」「どうして?」と、その意味や理由を考えようとします。そして「理解する」ということは「ルールを見つける」ということでもあるのです。古代の人はそうやって、この世界の不思議の裏側で働いているルールを見つけようとしたのです。それが神話や様々な昔話として残っているのです。それが、人間が人を楽しませるために作った物語と、昔の人が、自然や不思議を理解しようとして生まれた神話や昔話などとの大きな違いです。7才までの子ども達は「ファンタジー」と呼ばれる世界の中で、いつもその不思議と出会っているのです。でも今、7才になる前に「ファンタジーの世界」から引きずり出されてしまっている子どもがいっぱいいます。そういう子ども達は「不思議」を感じる力が弱いです。「あれって不思議じゃない?」と振っても、知識で答えようとしてきます。
2024.01.30
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私には不思議なことがいっぱいあります。ちなみに、“どのようにして”は科学で説明できるかも知れませんが、不思議感覚から生まれた“なぜ?”には科学では答えられません。「自分が生まれてきて、今ここでこうして生きている」という不思議。「人にはなぜ心というものがあるのか」という不思議。感情はイヌにも猿にもあります。そして、確かに感情も心の一部です。でも、感情は心に力を与えてくれたり、心を萎えさせたりはしますが、心そのものではありません。心の世界の中にはなんでもあります。時には宇宙すら心の中にあります。時間にも束縛されません。過去も未来も心の中にはあります。また、距離にも束縛されません。地球の裏側のことだって宇宙の果てのことだって意識を向けることが出来ます。その「心」は「生きがい」を求めます。でも、どうして人間は生きがいを求めるのでしょうか。またどうして、正解を求めるのでしょうか。不思議です。どうして人間は「真・善・美」を求めるのでしょうか。なんで美しいものを見たがるのでしょうか。美しいものを見たって何の役にも立たないのに。「美」だけでなく「真」も「善」も何の役にも立ちません。でも、人の心はその真・善・美がないと苦しくなります。どうしてなんでしょうか。不思議です。どうして、人間は人間の赤ちゃんだけでなく、他の動物の赤ちゃんも可愛いと感じるのでしょうか。人間が、人間の赤ちゃんを可愛いと感じるだけなら理解できます。同じ種だからです。でも、イヌや猫はもちろんのこと、さらにはヘビやワニの赤ちゃんまで“可愛い”と感じる人がいるのはなぜなんでしょうか。さらには、わが子のようにそれらの動物を可愛がる人もいます。不思議です。もっと不思議なのは、そのように可愛がられると自分とは異なる種なのに、動物たちが人間になつくのはなぜnなのでしょうか。不思議です。どうして宇宙は生まれたのでしょうか。宇宙は無から生まれたと言われています。宇宙は一つだけではなく無数にあるという学説もあります。宇宙には大きさはあるのに、果てはないと言います。ビッグバーンなどなかったという説もあります。そもそも、この世界の全ては更に高度な知性体によって作られたシミュレーションに過ぎないという説すらあります。本当はどうなのでしょうか。不思議です。どうして人間は見えない世界のことを考えたり、観ようとしたり、聞くことが出来ない音に耳を澄ますことが出来るのでしょうか。不思議です。人間は心の中に現実世界のコピーを持つことができます。そして、そのコピーを神のごとくに自由にいじくり回すことができます。神ですら心の中に創り出すことが出来ます。それはまるでCGの世界のようです。どうしてそんなことができるのでしょう、不思議です。もう少しすると、毎年出会う不思議があります。枯れ野原に一面の草が萌え、葉のない木々に突然花が咲きます。あっという間に世界の色が変わります。これは何回体験しても不思議が消えません。私にはもっともっといっぱいの不思議があります。そして、私はその一つ一つが気になってしょうがないのです。それで、その“なぜ?”を解き明かしたいと考えます。毎日毎日考えています。どうして、私はそんなにもいっぱい不思議を感じるのでしょうか。それも不思議です。皆さんにも不思議はいっぱいあるのでしょうね。よかったら教えてくれませんか。
2024.01.29
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レイチェル・カーソンという人が書いた「センス・オブ・ワンダー」という本があります。以下はamazonでのその本の紹介文です。 化学薬品による環境汚染にいち早く警鐘を鳴らした書として、いまも多くの人々に読み継がれている名著がある。『沈黙の春』だ。その著者レイチェル・カーソンの遺作として、彼女の友人たちによって出版されたのが本書である。 本書で描かれているのは、レイチェルが毎年、夏の数か月を過ごしたメーン州の海岸と森である。その美しい海岸と森を、彼女は彼女の姪の息子である幼いロジャーと探索し、雨を吸い込んだ地衣類の感触を楽しみ、星空を眺め、鳥の声や風の音に耳をすませた。その情景とそれら自然にふれたロジャーの反応を、詩情豊かな筆致でつづっている。鳥の渡りや潮の満ち干、春を待つ固いつぼみが持つ美と神秘、そして、自然が繰り返すリフレインが、いかに私たちを癒してくれるのかを、レイチェルは静かにやさしく語りかけている。 そして、レイチェルが最も伝えたかったのは、すべての子どもが生まれながらに持っている「センス・オブ・ワンダー」、つまり「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を、いつまでも失わないでほしいという願いだった。そのために必要なことは、「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる」ことだという。本文中に挿入されているメーン州の海辺、森、植物などをとらえた写真も美しい。『沈黙の春』と同様、読者の魂を揺さぶらずにはおかない1冊である。(清水英孝) 幼い子どもたちにはこの不思議感覚に優れています。昨日子どもは“風の声を聴く”ということを書きましたが、それもこの不思議感覚の働きです。また、子どもたちが“ものがたり”でこの世界を理解しようとするのもこの不思議感覚の働きです。そして、その子どもの言葉を嘘と感じ、“ものがたり”より事実の方が大切と考える人はこの不思議感覚を失った人です。でも、人間の精神はこの不思議感覚から生まれたのです。というより人類に精神という働きが目覚めた時に同時に不思議という感覚も目覚めたのだろうと思います。なぜなら人間の精神は気付くことによって目覚めるからです。そして、気付きは不思議感覚から生まれます。また、気付きは“他者”の発見であると同時に“自分”の発見でもあるのです。人は他者と出会うことで自分と出会うのです。他者に気付くことで自分に気付くのです。両手が出会った時に出る音と同じです。その出会いに驚きを感じた時に人は不思議を感じるのです。そしてそこから純粋な思考が始まります。「どうやったら餌をとることが出来るか」という動物たちの思考と、「どうしてお月様は自分に付いてくるのだろう」という人間の思考とは根本的に違うのです。動物たちは餌を得るための思考はしますが、不思議を感じ、納得を得るための思考はしません。納得のために思考するのは人間だけなんです。ですから、実は難しい方程式を解くために考えることよりも、「どうしてお月様は自分に付いてくるのだろう」という理由を考える方が思考としてはより高度なのです。難しい方程式の答えは機械でも出せますが、「どうしてお月様は自分に付いてくるのだろう」ということの答えは人間にしか出せないからです。そして、応用力はこういう思考の延長にあるのです。だからこそ気付きが精神の育ちを促すのです。そして、自分と出会うことから逃げようとする人はいつまで経っても気付かないのです。そして、精神も成長しません。センス・オブ・ワンダー [ レイチェル・カーソン ]
2024.01.28
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お母さんも、先生も、「知識をいっぱい覚えさせれば賢くなる」と思い込んでいます。そして、小さい時から色々なことを学ばせたり、習わせたりしています。でもそれは「大きな勘違い」なんです。「なんでリンゴは落ちてくるの?」と聞いてくる子どもよりも「リンゴが落ちてくるのは重力があるからだよ」と説明できる子どもの方が賢いなどということは全くないのです。サンタクロースを信じている子よりも、「サンタクロースなんていない」と言っている子の方が賢いということはないのです。むしろ、「なぜ?」を感じる前に知識を得てしまったが故に「なぜ?」を問わなくなってしまった子の方が「自分の頭で考える力」は低いのです。また、人工的で簡単で便利な生活ばかりしている子は「なぜ?」が目覚めにくいです。人工的な世界には不思議がないからです。色々なことをいっぱい知っている子よりも、学校の成績は悪くても、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、色々なことにチャレンジできる子の方が本当は賢いのです。その違いは思春期以降に現れてきます。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、色々なことにチャレンジできる子は、自分の興味や関心に従って、どこまでも「なんで?」「どうして?」を問い続けていくことが出来ます。そのため、成長が止まらないのです。また「他者によって決められた正解」に束縛されないので、子育てにおいても、人生においても、その時々の状態や与えられた条件に合わせて自分で答えを見つけることができます。それに対して、「なぜ?」「どうして?」という問いかけが目覚める前に知識(正解)を与えられてしまった子は、子育てや人生といったような「正解がない活動」においては思考が停止してしまうのです。そういう人は子育てにおいても「ちょっと自分の頭で考えたら分かるだろう」と思うようなことでも躓いて前に進めなくなってしまいます。そして、ネットや、色々な本や、色々な人に正解を求めます。でも、「知識としての正解」は、常に変化し正解がない現実の世界では通用しません。そのため「知識に依存する子育て」をしている人ほど、子どもが成長するに従って子育てが困難になってしまうのです。私は色々なところで色々なお母さんから相談を求められますが、極端な人は「私はどうやって生きたらいいのでしょうか?」などというようなことまで聞いてきます。そういう人には「しらんがな」としか答えようがありません。「篠先生は正解を教えてくれない」と文句を言われたこともあります。でも、教えないのではなく、一人一人置かれた状況が違うので教えようがないのです。子どもの知的な能力を育てるために必要なのはいっぱい「知識を覚えさせること」ではなく、「良質な問いを目覚めさせること」なんです。それは大人が子どもに問いかけることで目覚めることもあります。普通は、子どもがお母さんに「どうしてリンゴは落ちてくるの?」と聞きますが、逆に、お母さんが子どもに「どうしてリンゴは落ちてくるんだろうね?」と聞いてもいいのです。すると子どもは自分の頭で考え始めます。その際、お母さんが知っている知識とは異なる荒唐無稽な答えが返ってきますが、それを訂正せず、そのまま楽しんで下さい。訂正してしまったら子どもは自分の頭で考えなくなります。知識を覚えさせるだけの教育をしてしまったら、子どもの知的な能力の成長は止まってしまうのです。でも残念なことに、それが今の日本の教育です。学校では問題を作るのは先生だけです。子どもはただ「先生が期待している答え(正解)」を書くことだけを求められています。このような学びでは正解を覚えている子の方が成績は良くなります。でも、正解を覚えるだけの勉強をしている子の成長はそこで止まってしまうのです。でも、例えばですよ、子どもに問題を作らせてみて下さい。自分が得意な分野でいいのです。虫が好きな子は、虫に関する問題を作って、他の子にやってもらうのです。その過程で、もっと「なんで?」「どうして?」が膨らんでいくのです。子どもに授業してもらうのもいいです。ゲームが好きな子にはゲームに関する授業をしてもらうのです。すると、受け身的にではなく、能動的に考える能力が目覚めるのです。自分の意志で自立して生きていくことが出来る人間を育てるためには、知識(正解)を覚えさせる前に「自分の頭で考える力」を育てる必要があるのです。その順序を間違えてしまったら、「自分の頭で考える力」は育たなくなってしまうのです。知識(正解)を教えるのは10才以降からでいいのです。それまでは「なんで?」「どうして?」をいっぱい膨らませてあげた方がいいのです。「自分の頭で考える力」が育たないまま大人になってしまった人は、自立して生きていくことが困難になってしまうのです。
2024.01.27
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いつも書いていることですが、人間の能力は必要に応じて目覚めるように出来ています。人間は他の動物にはない多様な能力を持っていますが、でも、生まれたばかりの赤ちゃんにはそのような能力はありません。他の動物たちと何ら変わりがありません。大人の事情にはおかまいなく、泣きたい時には泣き、排泄したい時には排泄し、食べたい時には食べ、声を出したい時には声を出し、動きたい時には動きます。その時点で持っているのは「人間として成長する可能性」であって、「人間としての能力」ではありません。その「可能性」は、目覚める時期と順序と条件が決まっています。異なった時期に目覚めさせようとしても目覚めません。順序も変えることが出来ません。時期や順序は合っていても条件が整っていなければ目覚めません。「手を使う能力」や「言葉を使う能力」が目覚める前に「考える力」を育てようとしても無理なんです。話しかけてくれる人がいない状態で育っている子は、言葉を学ぶ時期になっても言葉を学ぶことが出来ません。子どもの成長は、生命の働きに基づく自然現象なので社会や大人の都合には合わせてくれないのです。幼児期には様々なものに触れ、口に入れ、匂いを嗅ぎ、動き回り、感覚の働きを目覚めさせています。この時期の子どもは生理的な本能に従って感じ、考え、行動しています。その点においては他の動物たちと何ら変わりません。感情や、考える力や、社会性が育つのはその後の話です。感覚や言葉の育ちが感情の育ちを支え、感覚や言葉や感情の育ちが思考力の育ちを支え、感覚や言葉や感情や思考力の育ちが、社会性の育ちを支え、そしてそれがまた感覚の育ち、言葉の育ち、感情の育ち、思考力の育ちへとフィードバックしていくのです。また、この時期の子どもは周囲にいる人間、特にお母さんの真似をしようとします。これも他の動物と同じです。ただ、犬の赤ちゃんは犬のお母さんの真似をして、ネコの赤ちゃんはネコのお母さんの真似をして、人間の赤ちゃんは人間のお母さんの真似をするだけです。だから、お母さんが日本語を話していれば日本語を、英語を話していれば英語を話すようになるのです。それを英語では「mother tongue」と言います。日本語では「母国語」となりますが、子どもは「お母さんの言葉」を真似しているだけであって「母国の言葉」を学んでいるわけではありません。「mother tongue」と「母国語」は同じではないのです。ですから、日本人の子どもであってもお母さんが英語で話しかけていれば、子どもは「日本の言葉(日本語)」ではなく「外国の言葉(英語)」を覚えます。ただし、赤ちゃんがどのようにお母さんを「お母さん」として認識しているのかというと、「いつも傍にいて、ぬくもりと安心を与えてくれる存在」を、赤ちゃんは「お母さん」として認識するのです。だから、人間の子どもであっても犬に育てられれば、犬を「お母さん」として認識し、「お母さん」の真似をするようになります。それはつまり、「犬らしく育っていく」ということです。ただし、犬に育てられた人間の子どもは犬らしさを身につけてしまいますが、犬は人間に育てられても人間らしくなりません。(多少は感化されますが)生まれつき持っている可能性の量が圧倒的に違うからです。人間は「犬らしく」も「人間らしく」もなることが出来る幅広い可能性を持っている珍しい動物なんです。まただから、「どういう環境で、どういう人と、どういう関わりの中で育っているのか」と言うことが、人間の育ちでは非常に重要になってくるのです。お母さんが日常的に日本語を話していても子どもに日本語で話しかけていないのなら、子どもは日本語を学ぶことができないのです。話しかけすらしていないのなら、いかなる「言葉」も学ぶことが出来ません。そして、言葉を学ぶことが出来なかった子は、その後の学びも出来なくなります。当然、人間らしさも育ちません。テレビを付けっぱなしにしていても、無駄です。いくらいっぱい動画を見せても無駄です。言葉を聞いたから言葉が話せるようになるのではなく、傍にいる人が自分に向かって話しかけてくれたから言葉が話せるようになるのです。子どもはお母さんや周囲にいる大人との日常的な関わり合いを通して、自分の育ちに必要なものを自分で選んで、自分の力で学び、自分の力で成長しているのです。子育てで大切なのは「子どもの育て方」ではなく、「日常生活の中で子どもとどう関わっているのか」ということなんです。子どもの成長を支えているのは「子育てのハウツー」ではなく、「大人自身の生き方や生活のあり方」なんです。でも現代人は、自分自身の生き方は疎かにして、子どもの教育にばかり熱心です。
2024.01.26
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最近の子ども達は「不思議」を感じ「問い」に目覚める前に「答え」を与えられています。また、「不思議」を感じ「問い」に目覚めるような関わり合いや体験も与えられていません。「不思議」を感じ「問い」に目覚めることがあっても、ネットで調べれば答えがすぐに手に入るので、自分の頭で考える必要がありません。また、お母さんを含め、答えを教えたがっている大人がいっぱいいるので、子どもが自分の頭で考えようとしているのに、先回りして答えを教えてしまいます。「いっぱい知識を教えてあげれば賢い子になる」と思い込んでいるのでしょうか。「自分の方がいっぱい知っていて賢い」ということをアピールしたいのでしょうか。ただ単に、待つことが苦手なのでしょうか。便利な機械を使えば、自分の感覚や、頭や、からだを働かせる必要もありません。またその方が安全だし、便利だし、効率的です。また最近のお母さんは、子どもの病気やケガを必要以上に恐れています。そのため、ハサミすら使わせていないお母さんがいっぱいいます。ナイフや包丁なんてもってのほかです。森や野原に連れて行くことも少ないですが、連れて行ってもそこにある「自然」に触れさせようとはしません。汚いし危険だからです。学校では、「問いの意味」や「答えの意味」が分かっていなくても先生が教えたとおりの答えを書けば「○」をもらえます。そのために必要なのは暗記であって、「自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えたり、自分のからだを使って調べたりする能力」ではありません。暗記する勉強しかしていない子は中学校に入ってから急に勉強についていくことが出来なくなってしまうのですが、多くのお母さんが「今、良い成績を取らせること」しか考えていません。小学生時代の子どもの成績は「親の手柄」として自慢が出来るからなのでしょうか。それに、中学に入ってからの成績の低下は「子どもの怠慢」として言い逃れが出来ます。でも子どもは、今まで通りにやっているのに何で急に勉強に付いていくことが出来なくなってしまったのかが分からず、苦しみます。かといって、他の方法を知りません。「考える能力」も育っていないので、「ではどうしたらいいのか?」を考えることも出来ません。最近の子ども達は、造形などの場でもすぐにやり方を聞いてきます。「とりあえずやってみる」ということをしないのです。そして、「どうしたらいいのか教えて」と言ってくるので「頭を使うんだよ」と言うのですが、その意味自体が通じません。そもそもの「頭の使い方」を知らないのです。そういう子は頭の中だけで考えようとします。またそれが「考える力が弱い子」の特徴でもあります。でも、考え方が分からない子が頭の中だけで考えることが出来るわけがないのです。「頭の使い方」は、頭を使って感覚を働かせ、頭を使って指やからだを使い、頭を使ってあれこれやってみる過程で育つのです。「頭を使った実際の活動の体験」が考える力を育ててくれるのです。「頭の中」と「頭の外の世界」との間の多様なやりとりが頭の働きを育ててくれるのです。そのような体験がない状態で育った子は「頭の使い方」も育たないのです。でも現代社会では、家庭だけでなく学校でも、頭の中だけで考えさせようとしています。だから「考える力」が育たないのです。自転車の乗り方を伝えたのなら、先ず、自転車を見せ、目の前で乗って見せて興味をもたせるところから始める必要があります。次に、触らせ、乗せて自分で動かさせてみる必要があります。その過程で転んでケガをするかも知れませんが、ケガの代償として、多くのことを学んでいきます。「考える能力」もその過程で育ちます。でも、最近の子ども達は、子ども自身がケガを恐れます。興味はあってもケガが怖くて手を出さないのです。親の教育がちゃんと効いているのでしょう。そのため、youtubeなどで「自転車の乗り方」を見ただけで「乗り方が分かった」と勘違いしてしまう子もいっぱいいます。youtubeで「ノコギリの使い方」を見ただけで、「自分もノコギリが使える」と思い込んでしまっている子もいます。そういう子にノコギリを渡して、実際に切らせてみても全然切れません。そして「どうしたらいいのか」を考えることなく、「ぼくこういうの嫌い」と言って止めてしまいます。「どうしたらいいのかを工夫する能力」(頭の使い方)が育っていないからです。思考は体験の積み重ねによって目覚めるのです。考える力は、自分の意志で自由に感じ、行動する過程で育って行くのです。体験や自由を与えなければ考える力も育たないのです。その体験にはケガやケンカも含まれます。でも、最近の子ども達の多くが、そのような体験から遠ざけられています。その背景には「親の不安」も大きいです。そして実際、最近の子はあきれるくらい自分の頭で考えようとしません。でも、頭を使う必要がない生活をしている人はそのことに気付きません。頭を使わないで生活している大人も気付きません。
2024.01.25
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気質の勉強会には、「子どもや夫のことを理解したくて」という動機の方が結構来ます。相手のことを理解することで「より良い親子関係」、「より良い子育て」、「より良い夫婦関係」が築けると思っているのでしょう。でも、いくら気質のことをいっぱい学んで、「相手が感じていること」や「考えていること」がおぼろげに分かったとしても、それは頭での理解に過ぎません。また、理解は出来ても共感できるわけではありません。理解と共感は全く別のものだからです。夢中になって泥団子を作っている子はいっぱいいますが、「なんで泥団子作りが楽しいのか」ということを頭で理解することは出来ても、その気持ちに共感できる人は多くないでしょう。お風呂から出た後、洋服を着ないで走り回っている子はいっぱいいますが、「どうして裸でいることが気持ちがいいのか」ということを頭で理解することが出来ても、その感覚や感情を共有することが出来る人はあまりいないでしょう。そして、感覚や感情を共有出来なければ、その理由が理解出来ていたとしても「早く洋服を着なさい」と追い立ててしまうでしょう。ただ、理由が理解出来ていれば、それまでと同じように追い立ててもその状態を否定することはなくなるでしょう、不安も消えるでしょう。憂鬱質の子が、子どもの群れに入れなくてイライラしたり、心配していたり、子どもを追い立てていても、それがしつけに失敗したからではなく、それがその子の「自分らしさ」なんだと分かれば無理に追い立てなくなるでしょう。いくら気質のことを学んでも、その知識を使って相手を変えることはできないのです。群れに入れない子を群れに入れるように変えることは出来ないのです。自分を変えることも出来ません。ただ、「子どもの状態にはちゃんと意味と理由があるんだ」ということが分かるようになるだけです。でもそのような学びをすることで、子どもを必要以上に追い立てなくなるのです。子どもや自分の育て方を否定しなくなるのです。「子どもが群れの中に入れないのも、落ち着きがないのも、乱暴なのも、泣き虫なのも、いつもボーッとしているのも、お母さんの育て方が悪かったからではない」ということが分かるからです。そして、気質を学ぶことで、そのような子ども達が持っている長所にも気付きます。お母さんには「短所」に見えることが、実は「長所」なんだということに気付くのです。ただ、お母さんの気質ではそれが長所に見えないというだけのことです。だから、お母さんが「乱暴で困っているんです」と言っている子が、周囲からは「みんなを引っ張って遊んでくれる元気で素敵な子」などと言われたりすることがあるのです。友だちと遊ぶのが大好きな多血質のお母さんは、我が子も友だちと遊んでいると安心します。でも、子どもが一人で遊ぶのが好きだと心配します。多血質の人には、「子どもが一人の世界で何をやっているのか」が理解できないからです。でも、憂鬱質や粘液質のお母さんはいつも友だちと遊んでばかりいて落ち着きがない我が子を心配します。気質を学ぶことでそのような心配は減ります。子どもの状態を否定しなくなります。子どもが大切にしていることも分かって来ます。そしてそのことで、子どもは安心を得ることができます。子どもが安心して成長するためには、「お母さんの安心」が必要なんです。お母さんが安心すれば、無理に、子どもの状態を変えようとしなくても、子どもは自分にとって丁度いい状態に成長していくのです。気質の学びで一番大切なことは、お母さんが安心を得ることと、子どもの状態を否定しなくなることなんです。子どもやご主人を操作するためのものではないのです。(やれば出来ますが、それが目的ではないと言うことです。)お母さんが安心を得て、子どもを否定しなくなれば、子どもは自分の気質に合わせて自分の力で勝手に育って行くのです。ただし、「好き勝手にさせなさい」ということではありません。ダメなことは「ダメ」と伝えるのは親の役目です。大切なのは「行為」は否定しても「子ども」を否定しないことです。逆に言えば、気質のことなんか学ばなくても子どもの「自分らしさ」を肯定し、子どもを追い立てなければ、結果として子どもの気質に合わせた子育てが出来てしまうのです。でも、それが出来ない人には気質の学びが必要だと思います。
2024.01.24
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世の中には「話し合えば理解し合える」と考えている人がいっぱいいます。「誠意を持って一生懸命に説明すれば想いは通じる」と考えている人もいっぱいいます。でもこれは思い込みや幻想に過ぎません。火傷したことがない子に火傷の痛みを理解してもらおうと説明しても、理解できるわけがないのです。熱帯で生まれ育った人に、北国の寒さを理解してもらおうと説明しても、理解できるわけがないのです。愛されたことも、愛したこともない人に、愛について語っても、理解できるわけがないのです。私は赤緑色弱ですが、そうでない普通の人にはこの世界がどのような色に見えているのかが分かりません。見えない色に対して説明してくれても理解できません。男性には女性の感覚が分かりません。女性には男性の感覚が分かりません。子どもには大人が考えていることが理解できません。大人は、子どもが考えていることが理解できません。子どもが他の子を打って泣かしてしまった時、「打たれたらこんなに痛いんだよ」と、打たれた子の痛みを伝えるために、我が子を打つ人もいますが、そんなことをしても絶対に「打たれた子の痛み」なんか分かりません。子どもに分かるのは「お母さんに打たれた痛み」だけです。また、打った子に打たれ返されるのなら分かるのですが、「何の関係もないお母さんになぜ打たれたのか」が分かりません。客観的に考える能力が目覚めていない幼い子どもに「三段論法」は通じないのです。思春期前の子どもには「社会」という概念が理解できません。そのため、社会によって定められている様々な価値観が理解できません。時間やお金の価値や意味も、社会的な様々なルールや法律の意味も理解できません。いくら優しい言葉で丁寧に説明しても理解できません。そのため、お母さんが一生懸命に説明すればするほど、子どもの心はお母さんから離れていきます。大人が語る「価値や意味について説明する言葉」を覚えることは出来ますが、理解することは出来ないのです。道徳についても同じです。「イジメは悪いことだ」「イジメはしてはいけない」と教えれば、「イジメは悪いことだ」「イジメはしてはいけない」という言葉は覚えることが出来ます。でも、イジメ自体は減りません。むしろ、隠れてやるようになるだけです。このようなことは基本的に、同質言語を使い、同質文化や同質精神性を持ち、同質論理で生きている人たちが創り出す社会の中で生活している日本人には分かりにくいことですが、欧米のような、「異なった歴史や、文化や、価値観や、宗教や、生活形態を持ち、異なった精神性や価値観や論理を持っている人たちが共存して暮らしている社会」に暮らしている人にとっては当たり前のことだと思います。そのような世界に生きている人たちにとっては他者が理解できないのは当たり前なんです。また無理して理解しようともしません。イスラム教徒はキリスト教徒のことを理解しようとしないでしょう。キリスト教徒もまたイスラム教徒のことを理解しようとはしないでしょう。それでも、すぐ側にいるのですからなんとか共存して生きていかなければなりません。だから話し合うのです。理解するために話し合うのではなく、共存するために話し合うのです。まただから自分の意見をしっかりと言い、きちんと自己表現をする必要があるのです。理解してもらうことは出来なくても「自分が大切にしていることはこういうことなんだ」ということを伝え、それを大切にしてもらうことは出来るからです。子どもは自分が作った泥団子を大切にしています。お母さんにはその泥団子の価値は分からなくても泥団子を大切にしてあげることは出来ますよね。そういうことです。そういうことで、お互いに幸せに共存できるのです。同質文化、同質精神性の中で生きている日本人は、「言わなくても分かるよね」「言わなくても分かってよ」という甘えのような感覚を持っていますが、欧米ではその感覚は通用しないのです。欧米文化の社会では、ちゃんと自分を表現し、ちゃんと自分の言葉で言わなければ受け入れてもらえないのです。また、客観的な表現が得意な欧米の言葉はそのような使い方に向いています。そして、その「客観的な表現が得意な言葉」が欧米の人たちの気質の土台を作ってきたのでしょう。それに対して日本語は、主観的な表現が多いので客観的な話し合いには向いていません。日本人は話し合うことよりも、感じることの方を大切にして来ました。日本人が英語を学ぶ意味はそこにもあるのです。英語を学ぶことで、日本人とは異なった視点、論理、価値観と出会い、日本人には苦手な「客観的に世界を見る能力」や「客観的に世界を語る能力」を育てる必要があるのです。ただし、そのために必要なのは、生活の中で慣用的に使われている「英会話」ではなく、しっかりとした論理で作られている「読み書く英語」です。文法も必要です。文法の違いの中に、その言葉を使っている人の論理や価値観が表れているからです。今の時代、わざわざ英会話を学ばなくても性能がいい翻訳機を持っていれば、旅行や日常生活レベルでのコミュニケーション程度なら用が足りてしまうのです。また、日本の社会も均一性を失い、多様になってきました。ですから、現代人は「客観的に語ることが出来る言葉」を学ぶ必要があるのです。話がずれてしまいましたが、明日「気質」に戻します。
2024.01.23
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私は色々なところで「気質」について皆さんにお話ししています。「人は一人一人違う」ということは、体験的に誰でも知っています。だからお互いに理解し合うために話し合う必要があるのですが、一般的には考え方の違い、行動の違いが人と人の対立や戦いを生み出してしまっています。また、話し合っても大枠では理解し合えても、具体的なところに来ると理解できなくなります。抽象論では話が合うのですが、具体論になると話が合わなくなるのです。ほとんどのお母さんやお父さんは子どもの幸せを願っています。お互いに「子どもが幸せになって欲しい」と願っている点では同じなんです。でも、「だからこうしよう」という所で違いが生まれるのです。「子どもに幸せな人生を送って欲しい、だから幼いうちは自然の中で、仲間と思いっきり遊ばせたい」と考える人もいれば、「子どもに幸せな人生を送って欲しい、そのためには競争に勝つ必要がある。だから、小さいうちから勉強や習い事をいっぱいさせよう」と考える人もいるのです。ここで夫婦が対立することがよくあります。「子どもの幸せ」を願っている」のは二人とも同じなんですが、「だからどうする」という具体的な点で一致しないのです。そしてお互いに非難し合うことになります。これは国と国の関係でも同じです。平和を願っていることはみんな同じなんですが、目指している「平和の形」がみんな違うのです。そのような「具体論の違い」の背景には「気質の違い」が大きく影響しています。「キャンプが好き」という点では共通していても、「仲間を誘って大勢で行くキャンプ」が好きな人もいれば、「一人で行くキャンプ」が好きな人もいます。多血質や胆汁質の人は「大勢で行くキャンプ」が好きです。一人で行っても話し相手もいないし、一緒に遊ぶ相手もいません。だから楽しくありません。同じ「キャンプ好き」でも、そういう人にはソロキャンプが好きな人の気持ちなんか分からないでしょう。それに対して、粘液質や憂鬱質の人は「一人で行くキャンプ」が好きです。価値観が共有出来てじっくりと話し合うことが出来るような仲間となら一緒に行くことは出来ますが、それも2,3人までです。それ以上になると、「楽しさ」よりも「煩わしさ」の方が勝ってしまいます。問題は親が多血質や胆汁質で、子どもが粘液質や憂鬱質の場合です。親は、「キャンプが楽しくなるように」と大勢の仲間に声をかけるでしょう。でも、「みんなで一緒」を強要してしまうと、粘液質や憂鬱質の子どもにとっては楽しくないキャンプになってしまうのです。自分のリズムやペースが乱されてしまうからです。また、自分がやりたいことに集中することも出来なくなります。<続きます>
2024.01.22
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昨日は、多くのお母さんが、子どもがやっていることには興味を示しません。一人で遊んでいたらその時間に家事をしたり、スマホを見たり、ゲームをしようとしてしまいます。と書きましたが、そんなお母さんでも子どもに目や意識を向けることがあります。それが、子どもが「困ったことをしそうな時」や「している時」です。そして、子どもが「困ったこと」をしようとしていたり「困ったこと」をしていると「そんなことしちゃダメじゃない!」と叱り、今やっている行為を止めさせます。それでも言うことを聞かないと、子どもを罵ったり、時には叩いたり、「おやつをあげないよ」「ご飯抜きだよ」などと脅迫します。でも、客観的に見ていると、そういう子育てを受けている子ほど、いつも「困ったこと」をして、お母さんだけでなく、周囲の人や仲間を困らせています。叱ったり、叩いたり、脅迫するのではなく、一生懸命に言葉で説明して子どもを納得させようとしている優しいお母さんも多いですが、この方法でも子どもは変わりません。そのため、毎回同じ状況が発生し、お母さんも毎回同じ事を説明しています。どうして、これらの方法では子どもの状態が変わらないのかというと、叱ったり、脅したり、説得するなどといったやり方では子どもが成長しないからです。自我の育ちが未熟な思春期前の子どもは、自分の感情や行動を自分の意志で抑制することが出来ません。思春期が過ぎていても、叱られたり、叩かれたり、脅迫されたりすることで行動をコントロールされて育った子は「自我の育ち」が遅れてしまうため、自分の感情や行動を自分の意志で抑制することが出来ません。そのまま大人になってしまう人もいっぱいいます。私は、子育てで大切なことは「叱られたら大人しくする子」を育てることではなく、「叱られなくても自分の意志でやっていいこととやってはいけないことを判断し行動できる子」を育てることだと思っています。それはつまり、問題行動を減らすために必要なのは「子どもの行動をコントロールすること」ではなく「子どもの成長を支えること」だということです。そのため必要なのは、「指示や命令によって子どもをコントロールすること」ではなく、「子どもの成長を促してくれるような「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自由意志で行動できるような自由な時間と、自由な空間と、それを共有出来る仲間達」が必要になるのです。子どもは、そのような時間と、空間と、仲間達に支えられて「自分の感情や行動を自分の意志で抑制する能力」を育てることができるのです。日常生活の場においては、子どもが「困ったことをした時」だけ子どもに意識を向けるのではなく、子どもが大人しくしている時や、何かに夢中になっている時にも意識を向けて下さい。そして、「我が子の生態観察」をして下さい。すると、「子どもがやっていることの意味」が見えてきます。お母さんにとってはただの「困ったこと」であっても、子どもにとってはちゃんと「意味や理由のある行為」なのかも知れないのです。それが見えてくるようになると、単に「ダメ」ではなく「こうした方がいいよ」とか「ここではダメでも、ここならいいよ」と提案できるようになるのです。でも実際には多くのお母さんが、子どもが「困ったこと」をした時だけ、子どもに目を向けます。そのため、寂しさを感じている子は、お母さんに振り向いてもらうために、わざと「困ったこと」をするようになります。よい子にしているとお母さんはどっかに行ってしまい、困ったことをすると自分の所に戻ってきてくれるのです。そして、その繰り返しで、子どもはそのことを学習します。そして、寂しい時にはお母さんが困るようなことをするようになります。子どもは、お母さんが戻ってきてくれるのなら、多少は叱られても気にしないのです。お母さんが大好きだからです。
2024.01.21
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多くのお母さんが、子どもがやっていることには興味を示しません。一人で遊んでいたらその時間に家事をしたり、スマホを見たり、ゲームをしようとしてしまいます。そういう子育てをしているお母さんにとってはテレビやゲームは救世主です。そういうものがないと子どもは寂しくなったり、退屈したりしてお母さんにまとわりついてくるからです。でもテレビやゲームは、子どもから「人や自然などとの多様な出会い」や「多様な体験」の機会を奪ってしまいます。それは、子どもの社会性や、他者との間のコミュニケーション能力や、自我の育ちを阻害してしまうのですが、多くのお母さんが、「今、どうやって自分の時間を作るのか」ということばかりに夢中です。でも、今、自由を得ようとすることで、次第に子育てが困難になっていくことは知りません。基礎で手を抜けば、後から問題が出てくるのです。そのため、どんどん自由が奪われていきます。もしかしたら、それは一生続くかも知れません。でも、ちゃんと基礎を創っておけば、子どもは自分で感じ、考え、自分の意志で行動するようになるので、お母さんはどんどん楽になっていきます。でもそこでも勘違いしているお母さんがいっぱいいます。子ども時代に基礎を作るために、厳しくしつけ、早くからお勉強をさせようとしてしまうのです。「そうすれば後が楽になるだろう」と考えているのでしょう。でも、現実はその逆の方向に進んでしまうのです。なぜなら、そのようなことは「お母さんの物語」の中では必要なことであっても、「子ども自身の成長に必要なこと」ではないからです。お母さんが追い立てなければやらないようなことは、子ども自身の成長には必要がないことなんです。お腹が空けばお母さんが「食べなさい」などと追い立てなくてもちゃんと食べますよね。それと同じです。子どもは自分の成長に必要なことなら追い立てなくてもそれをやろうとするのです。ただし、テレビやゲームでばかり遊んでいて、「自分の成長に必要なものとの出会い」がない子は、やろうとはしませんけど。それがどんなに子どもの成長に必要なことであっても、出会わないことには取り組めないのです。また、「時期」の問題もあります。子どもの興味は、子どもの成長段階に合わせて変化していきます。3才の時に必要なことは3才の頃には興味を示しますが、その時期を過ぎてしまうと興味を示さなくなるのです。そして、「必要な時期」に「必要なものとの出会いの機会」を奪われてしまった子は、自身の成長を実感することが出来なくなり、成長することに対する欲求や喜びを感じなくなってしまいます。そして、新しい出会いを求めなくなります。最終的には「ゲームがあれば他に何もいらない」という状態になってしまう子もいます。親が、途中で「これはまずい」と気付いても、成長は段階を追ってしか進んでいかないのでやり直しが出来ません。内装や外装をする段階になって、基礎の問題点が発覚しても、どうしようも出来ないのです。そのような結果を望まないのなら、日常的に子どもがやることに興味を持って下さい。子どもが見ているものを一緒に見て、子どもが聞いているものを一緒に聞いて下さい。食事は一緒に食べ、近くに出かけるときは自転車や自動車を使わず、お話ししながら、遊びながら歩いて下さい。子どもがしつこくまとわりついてくるのは、お母さんが逃げようとするからなんです。子どもは逃げようとすれば追いかけてきて、追いかければ逃げる生き物なんです。でも、「共に」を大切にしていると「丁度良い距離」で子どもと関わることが出来るようになるのです。そして、子どもの成長に伴って子育てがどんどん楽になっていきます。もうすでに、お子さんがゲームでばかり遊ぶようになってしまっていたら、お母さんもお子どもと一緒にゲームをして下さい。そうすることで子どもがゲームの世界の中に取り込まれることを防ぐことができます。ただし、この方法が有効なのは7才から9才頃までです。
2024.01.20
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ライオンを主人公にしたドキュメンタリーではライオンだけが主人公であとのウサギや鹿やシマウマはただの「食べ物」や「獲物」になります。ですから、子どもを育てているメスライオンがウサギをとり逃すと「ライオンさんかわいそう」などと思います。でも、「ウサギ」を主人公にしたドキュメンタリーでは、ライオンは凶暴な敵になります。そして、ウサギがライオンから逃げ切ると喜びます。人間はこのように情報操作されやすい生き物なのです。それは人間の「意識」というものが、常に一つの視点しか持つことができないからです。(権力者はこのことを熟知しています)ですから、ライオンに意識を向ければ「ライオン」が主人公になり、ウサギに意識を向ければ「ウサギ」が主人公になるのです。同じように、子どもの「悪い面」に焦点を合わせれば、どんな子でも「悪い子」になり、「良い面」に焦点を合わせれば、どんな子でも「よい子」になります。でもそれは「その子の本体」ではなく、相手を評価しようとする人の頭が勝手に作り出した幻影に過ぎません。どんな場合でも、子どもはただ自分らしく感じ考え行動しているだけなんですから。そこに善悪はないのです。どんな生き物にも、どんな人にも多面性があります。「こちらから見たら美しくても、あちらから見たら醜い」ということも普通にあります。ちょっと視点を変えるだけで、そのものの姿は大きく変わってしまうのです。ある宗教では救世主でも、別の宗教から見たら悪魔として扱われてしまうことだってあるのです。実際、キリスト教はそうやってキリスト教以外の宗教を駆逐してきたのですから。どうしてそういう事が起きるのかというと、人は自分の心の中の物語に従って、自分が見たもの、聞いたもの、体験したものを解釈しようとするからです。何か苦難に突き当たったとき、簡単に「災難だ」「行き止まりだ」と考え、前に進めなくなり苦しむ人もいますが、同じような苦難に出会っても、それを「成長のための試練だ」と考え、あれこれ工夫して前に進むことが出来る人もいます。どうしてそのような違いが生まれるのかというと、それは、「その人が生きている物語」が人によって違うからです。人間は自分の頭の中に創りだした物語に従って生きようとする生き物なんです。だから、幼いときに「自分を肯定できるような物語」を創り出すことが出来た子は、自分の人生を肯定的に生きようとするのです。逆に、「自分を否定するような物語」を創りだしてしまった子は、自分の人生を否定的に生きようとするのです。そして、幼い子ども達が「自分の物語」を創るときの土台にしているのが、「毎日の生活の中でお母さんから聞かされている様々な物語」です。「勉強しないと・・・」「学校に行かないと・・・」「手を洗わないと・・・」などというような「不安をかき立てるような物語」をしょっちゅう聞かされながら育っている子は、自分自身も否定的な物語を生きるようになってしまうのです。でも、日々、肯定的な物語を聞かされて育っている子は、自分自身も肯定的な物語を生きるようになるでしょう。その違いを生み出しているのが、「お母さんやお父さんが生きている物語」です。子どもは親との関わり合いを通して、無意識的に「親が生きている物語」を引き継いでしまうのです。だから、虐待を受けて育った子は、自分の子育てでも虐待をするようになってしまう可能性が高いのです。でも、虐待を受けて育ったのに、自分自身はその連鎖から抜け出すことが出来た人もいます。どうしてそういうことが可能なのかというと、そういう人は、「親の物語」だけでなく、様々な人との出会いによって「様々な人の物語」を自分の物語の中に取り組むことが出来たからです。「他者の物語」と出会う事で、他者の視点で「自分が生きている物語」と客観的に向き合うことが出来るようになるのです。だから、修正が出来るのです。絵本や昔話などの様々な物語でも同じような効果があります。だから「自分に似て欲しくない」と思うお母さんはいっぱい絵本を読んだり物語を聞かせてあげて下さい。色々な物語を聞いて育った子は、その色々な物語の要素を自分の物語の中に取り込むことができます。冒険物語を聞いて育った子は、何か苦難に出会ったとき、その冒険物語の主人公のことを想い出すことが出来るかも知れません。そういう子は、自分に与えられた苦難と前向きに取り組むことが出来るでしょう。ただし、子ども達が「他者の物語」と出会うことができるのは、「語られた物語」や「本で読む物語」の中だけです。テレビやビデオなどを通して「見る物語」では出会えません。子どもの成長には「映像が作り出す物語」ではなく、「言葉が作り出す物語」が必要になるのです。子ども達は「言葉が作り出す物語」の中で「他者の視点」を「自分自身の視点」として体験することができるのです。そしてそれが大切なんです。
2024.01.19
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私はよく「子どもに物語りを語ってあげて下さい」と書いていますが、この「物語」は「人が想像によって作り出したお話し」だけではありません。考古学者は、遺物や遺跡を調べることで、その遺物や遺跡の中に含まれる「物語」を解き明かそうとしています。天文学者は星を観測することで「宇宙の物語」を解き明かそうとしています。昆虫学者は昆虫を研究することで、「昆虫の物語」を解き明かそうとしています。つまり「そこで何が起きたのか」「そのものに何が起きたのか」「どうしてそうなったのか」ということを解き明かし、その「意味」を理解しようとする行為そのものが「物語」を紡ぐ作業なんです。そして人間は「意味」を知りたがる生き物です。赤ちゃんですら「意味」を知りたがります。だから、成長と共に理解力が深まるのです。子どもが「どうしてリンゴは落ちてくるの?」「どうして毎日夜がくるの?」と聞いてくる時、子どもは「知識」を知りたいのではなくその意味を理解したいのです。そして、そのためには「物語」を語ってあげる必要があるのです。「理解する」ということは、その「意味が分かった」ということなんですが、「意味」は「物語」の中でしか発生しないので「物語」が分からない限りその意味も理解することが出来ないのです。でも大人はそんな子どもの「なぜ?」に対して、「物語」を語らず、「知識」や「因果関係」だけで答えようとしてしまいます。「どうしてリンゴは落ちてくるの?」という質問に対しても、「重力があるからよ」とか「風が吹いたからよ」とか、「熟したからよ」などと答えますでも、これは単なる「物の世界に起きた現象の説明」に過ぎません。「リンゴが落ちてきた意味」が含まれていません。「リンゴが熟す意味」も含まれていません。そのため、そういう説明を聞いても、子どもは知識を得ることは出来ても、その「意味」を理解することは出来ないのです。足下に落ちている小石ですら、その地域の物語、日本の国土の物語、地球誕生の物語、宇宙の物語を含んでいます。全ての生命や存在は、長い長い「物語」の結果、今、ここに、こういう状態で存在しているのです。みなさんの今の状態にも、そこに至るまでの長い「物語」があったはずです。そして、その「物語」の一部として「今日」があり、あなたの子どもが存在しています。今は「現実」でも、明日になったら、「今日」は「物語」の中にしか存在しなくなるのです。子ども達も、日々「自分の物語」を紡いでいます。お母さんとの関わり合いも、子どもの物語の大切な一部に組み込まれていきます。「子育て」とは子どもの「物語」に参加し、子どもが素敵な「人生という物語」を紡ぐ手助けをすることでもあるのです。単に、ご飯を作って、洗濯をして、「早くしなさい」と子どもを追い立てることではないのです。お料理の作り方を伝えたり、空の雲を見上げ「クジラさん見たいだね」と一緒に楽しんだり、道ばたの花に足を止め、色や匂いを楽しむのも「物語」を伝えることです。そしてそれらの「物語」は、子ども自身の物語の中にも組み込まれていき、子どもの人生の導きになっていくのです。
2024.01.18
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週刊誌などの見出しを見ていると、現代人にとって“幸せ”とはお金で買うことが出来るもののようです。かのホリエモンもかつて“お金で買えないものはない”と豪語したそうです。その価値観は子どもたちにもしっかりと浸透していて、“魔法使いが出てきて願い事を叶えてくれるとしたら何を願う”と聞くと、ほとんどの子が“お金が欲しい”とか、お金につながるようなことばかりを言います。“魔法が使えるようにしてもらう”という子がいたので、“それでどんな魔法を使いたいの”と聞くと、やはり“自由にお金が出せるから”などというようなことを言います。でも、そのお金の使い道は男の子の場合なら、“お店のゲームを全部買い占める”というようなものばかりです。世界一周がしたいとか、ロケットで月に行きたいなどということは今の子どもたちにとっては魅力的な夢ではないようです。また、マスコミは勝ち組、負け組などというような“幸せの条件”なるものを設定していますが、幸せを比較し合ってランクをつけるのも現代人の特徴のようです。どれだけ資産を持っているか、どれだけ高学歴か、どれだけブランドを持っているか、どれだけ高い社会的な地位を持っているか、どれだけ成績がいいかということで幸せを決めるのです。この価値観も、しっかりと子どもたちに浸透していて、いつでも“あのゲーム機持っている?”、“あのソフト(カード)持っている?”などと話し合っています。そして、いっぱい持っている子がいるとみんなで“いいなー”とうらやましがります。また、そのような価値観で人の価値も判断するため成績が悪い子、学校を出ていない人を平気でバカにします。学校でも家庭でも、いつも“成績がよい子がいい子、いい学校を出た人が立派な人”というようなことを言われていれば子どもたちがそうなっても当然のことです。ワークなどでお母さん達に“幸せって何ですか”と聞いても、“依存する幸せ”(子どもや、家族や、お金や、社会的な価値などに依存する幸せ)か、この“比較によって得る幸せ”のどちらかだけで大部分を占めてしまいます。育児書通りに子育てして、子どもの成長に一喜一憂するのも比較による幸せです。育児書には自分の子どものことは書いてないのですが、でもそこに出ているデータとわが子の状態を見比べて子育てをしています。また、他の子どもの成長と我が子の成長を比べて不安になったり、喜んだりするのも同じです。学校の成績にこだわるのも、公園や幼稚園などで自分の子どもがみんなと同じように遊べないのを嘆くのも同じです。でも、比較による幸せは同時に“いつ自分が転落するか”という不安とセットになっています。60点しか取れなかった子が100点を取れば嬉しいですが、でも、その嬉しさはすぐに、次も100点を取らなければと言うプレッシャーや、点数が落ちたらどうしようという不安につながります。現代人はもう“比較”という方法でしか自分の幸せを確認出来なくなってしまっているのでしょうか。そして、多くの産業がその不安を利用して経済活動を行っています、不安は人を情報や物やお金に依存させ、経済を活性化させるからです。でも、不安に追い立てられて得た「その場限りの幸せ」は人間を成長させてくれません。むしろ逆に心を狭い世界に閉じこめてしまい、成長を止めてしまうのです。ゲームが与えてくれるのも、ゲームをやめた途端に消えてしまう「その場限りの幸せ」です。子どもと一緒に、消えることがない本当の幸せを探してみませんか。「自分の成長を喜ぶ幸せ」を感じることが出来るようになった子は、人生の最後まで幸せに生きることが出来ると思いますよ。
2024.01.17
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水泳を学ぶためには、先ず、「水」に入る必要があります。いくら動画を見せても、いくら教科書で教えても、実際に水の中に入らない限り泳げるようにはなりません。逆に、動画など見なくても、教科書で教えてもらわなくても、ちょこちょこ水の中に入って仲間と遊んでいれば、自然と簡単な泳ぎは覚えてしまうものです。陶芸を学びたければまず粘土に触れてみることです。粘土で色々と遊んでみることです。イメージを形にしてみることです。その過程で「もっと上手になりたい」と思ったときに、「学ぶことの大切さ」にも気付くのです。「形」は必要に応じて生まれるからです。必要ないのに「形」を教えても身に付きません。また「形の意味」を理解することも出来ません。それは、言葉でも、考え方でも同じです。そして、「責任感」も「大切な人とのつながり」の中で生まれるものです。社会の中で生活している限り「社会的責任」は勝手に発生してしまいます。歌いたいときに歌ったり、寝たいときに寝ても、それが家の中なら問題ありませんが、図書館の中だったり、電車の中だったりしたら、社会的な責任を問われます。それに対して「責任感」は、本人の自覚がない限り発生しません。責任は押しつけることが出来ますが、責任感は押しつけることが出来ないからです。そして、責任感がない人を人は信用しません。大切な仕事を任せません。高い給料をもらえるような仕事も与えてもらえません。問題は、責任感は「大切な人とのつながり」の中で育つものなのに、現代の子ども達の多くが「人と人とのつながり」や「仲間とのつながり」から切り離された状態で生活しているということなんです。「家族とのつながり」すら失ってしまっている子も多いです。こんなこと、人類の歴史では前代未聞のことだと思います。そして、「人と人とのつながり」、「仲間とのつながり」、「家族とのつながり」から切り離された状態で生活している子は、責任感だけでなく社会性も育たなくなります。「子ども」と「社会」を良好な関係でつないでくれるのが、子どもがつながっている大人や、仲間や、家族だからです。子どもが自分一人で、誰の手助けも得ることなく大人が作っている社会とつながるのは非常に困難なんです。その結果、歪んだ形で社会とつながってしまう子もいっぱいいます。また、そういう孤独な子を取り込もうとする困ったグループもいっぱいあります。気楽な気持ちで闇バイトに手を出してしまうような子は、責任感を育ててくれるような「大切な人」との出会いがなかったのでしょう。またそのため、社会というものとちゃんとつながることが出来なかったのでしょう。だから、自分のことしか考えることが出来なくなってしまったのでしょう。反社と呼ばれるような組織に属する人や、自分の手を汚さずにお金を得ようとする人たちは、そういう「責任感がない子ども達」や「社会性が欠如した子ども達」が増えることを望んでいます。でも、そんな期待に応えるような子育てはやめた方がいいですよ。
2024.01.16
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実は、私も子育ての講座などで、あの校長先生と同じようなことをお母さん達に伝えています。子どもの成長は自然現象です。ですから、子どもの行動もまた自然現象です。子ども達は「自分の成長」や「自分の興味や関心」につながるようなことは、〝やれ〟と言われなくてもやるし、〝やるな〟と言われてもやります。そこに時代の変化に伴う社会の価値観や大人の価値観は関係ありません。だから、大人達は困ってしまうのですが、でも、子ども達は「自分の判断」に従って「自分の意志」で行動しているのではなく、自分でもコントロール出来ない生命欲求や成長欲求に従って行動しているだけですからその行動には責任がありません。だから叱っても無駄なんです。子ども自身もどうしようも出来ないことで子どもを叱り続けていたら、子どもはどんどん自己肯定感を失っていくだけです。それに対して、大人は社会的な意味や価値を基準にして自分の判断に従って行動しているので「責任」を問うことが出来るのです。だから、子どもが困ったことをしたときは、お母さんは周囲の大人に謝って下さい。そうでないと人間関係において様々な問題が発生してしまいますから。でも、そのことで子どもを叱ったり、子どもに責任を求めたりしないで下さい。叱っても、責任を求めても、問題は解決しないし、子どもの状態はさらに悪化していくだけですから。あの校長先生もこのようなことを言いたかったのではないかと思います。だからといって「好き勝手にさせておいてもいい」ということでもありません。責任は求めなくても、ダメなことはダメとちゃんと伝えるのも親や大人の義務です。それと、私の話の対象は7才前の幼児です。小学生ではありません。小学生は10才頃から大人が生きている価値観が分かるようになってきます。「自由には責任を伴う」ということも理解できるようになってきます。ただし、放っておいても理解できるようになるわけではありません。だからといって、責任を押しつけるだけでは子どもは拒否します。子どもにも「子どもの言い分」があるからです。子どもが、様々な活動を通して「自由には責任を伴う」ということを自分自身で発見する必要があるのです。そのためには「自由に自分の意志で判断し行動する事ができる場」が必要になります。自分の意志でやったことだから、自分で責任を取ることが出来るのです。子ども達に「自分の行為の結果がダイレクトに自分に返ってくるような体験」を与えてあげる必要もあります。例えば、ナイフなどをいい加減に使っていると自分の手を切ってしまいます。自分で自分の手を切っても他者から責任を求められることはありませんが、「痛み」という形で自分で責任を負うことになります。だから、気を付けるようになります。木を切って箱などを作る場合も、「自分がやりたいようにやってもいいんでしょ」などと、いい加減に切って、いい加減に組み立ててもちゃんとした箱は作れません。自分の意識と、心と、からだの状態が出来上がった箱の状態にそのまま表れてしまうのです。そういう形で、自分の責任を自分で負うことになります。また、「大切な仲間」を得ることで、更にしっかりとした責任感が育ちます。責任を押しつけられたから責任感が育つのではなく、大切な仲間や、自分が大切にしていることを守るために責任感が目覚めるのです。仲間との約束を守るのも大切な仲間を失いたくないからです。大人は、大切ではない相手でも「約束は約束」として守ろうとしますが、子どもにはそんなこと出来ません。だから、いつもゲームなどで一人で遊んでばかりいる子は責任感が育ちません。また、ゲームを通しての仲間は「取り替え可能」です。ゲームの中では、相手が人間じゃなくてAIだって、仲間としてプレーすることは出来るのです。大人は子どもに責任を押しつけますが、責任感が育っていない子に責任を押しつけても無駄なんです。そして、責任感が育っている子は、大人が指示や命令を出さなくても、自分の意志で必要な行動をし、失敗から学ぶことも出来るのです。昔の子ども達は、家事の手伝いや群れ遊びの場で責任感を育てることが出来ました。人と人とのダイレクトな関わり合いが責任感を育ててくれていたのです。でも今の子ども達にはそのような責任感を育てる場がありません。AIが進歩して自分の代わりに色々とやってくれるようになったら、さらに責任感は育たなくなるでしょう。自分で描いた絵のできばえは自分の責任です。でも、AIが代わりに描いた絵の責任はAIにあります。命じた人には責任はないのです。自分で運転して事故を起こしたら、その責任は自分にあります。でも、自動運転の自動車が事故を起こしたら、その責任はその自動車を作った会社になるのでしょう。
2024.01.15
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昨日の「何でも好きにやっていいんだよ」と子どもを好き勝手にさせるのは無責任です。好き勝手に言ったり、行動している子に責任感が生まれるとも思いません。からの続きです。図書館や、お店の中や、電車の中のような所で、子どもが大声を出しながら走り回っているのをただニコニコして見ているだけのお母さんも時々いますが、そういう育てられ方をしている子に責任感が生まれるとは考えにくいです。ダメなときに、ダメなところで、ダメな行為をしている時は、ちゃんと「ここではそういうことをしてはいけない」ということを伝えるのが親の義務でもあります。ただし、厳しく叱る必要はありません。また、ただ厳しく叱るだけでは同じ事を何回も繰り返します、子どもの意識が変わらないからです。特に、お母さんとの間に信頼関係が築けていない場合はなおさらです。だからといって、くどくど説明しても無駄です。子どもは大人の面倒くさい説明は聞き流すだけですから。理屈で説明ばかりしていると、子どもはその理屈を逆手にとって、お母さんに何か言われたときに理屈で反論するようになります。さらに子どもは、「大人の論理」を超越した「子どもの理屈」で反論してくるので太刀打ちできません。これは家庭でも学校でも同じですが、大人との間に信頼関係が築けている子は、それほどダメなときに、ダメなところで、ダメな行為はしないものなんです。また、「ここではそういうことをやめようね」と言えば、大人との間に信頼関係が築けている子は、多少は自分の意志で自分の行動をコントロールしようとするのです。(ただし、発達障害の子は自分の行動を自分の意志でコントロールするのが苦手です。)また、身近にいる人と信頼関係を築く事が出来ないような状況で育っている子は責任感も育ちません。責任感が育つためには周囲の大人や仲間との間の信頼関係が必要になるのです。「うちの子はいつも困ったことばかりする」と嘆いているお母さんは、お子さんとの間に信頼関係が築けていないのでしょう。そのようなお母さんを見ていると、いつも叱ってばかりいます。逆に、子どもがダメなことをしているのに何も言わないお母さんもまた、子どもとの間に信頼関係が築くことが出来ません。そのようなお母さんは子どもがやっていることに無関心です。そのため、子どもはお母さんの気を引くために「ダメなこと」をしている可能性もあります。それでもお母さんが無視していると、行動はどんどんエスカレートしていきます。ですから、その場、その時だけ何とかしようとしても無理なんです。日常生活から変えていく必要があるのです。これは家庭の中でも、学校でも同じです。子育てや教育で、まず最初に必要になるのは、子どもと大人の間の信頼関係を築くことなんです。「何を教え、伝えるのか」というのはその後の話です。夢みる小学校の予告編に出てくる校長先生の大人が責任をとるからね。自由には責任を伴うというのはこの学校ではタブーなんです。という言葉も、子どもとの間に信頼関係を築くためのものなんでしょう。だからといって、何もせず、何も伝えず、何も言わないでただ見守っているだけでは、子どもとの間に信頼関係を築くのは難しいと思います。人目を気にしてではなく、子どもの成長を願って「ダメなことはダメ」と伝えることも、子どもとの間に信頼関係を築くためには必要なことなんです。子どもは、叱らないお母さんよりも、ちゃんと叱ってくれるお母さんの方を信頼するものです。それは皆さんが、お茶でも、歌でも、踊りでも、何かを学ぶ時のことを考えればよく分かると思います。「褒めるばかりの先生」や「叱ってばかりいる先生」を信頼することは出来ませんよね。ただし、行為は否定しても子どもを否定してはいけません。「それをやっちゃダメよ」と伝えるのはOKです。でも多くのお母さんが、その後に、「全くあんたは何回言っても聞かないんだから」とか、「私の仕事を増やさないで」などと、子どものことを否定するようなことを言っているのです。でもそれは、子どもの成長を願っている人の言葉ではありません。子どものことを信頼していないから出てきた言葉です。そして、お母さんに信頼されていない子どもがお母さんとの間に信頼関係を築くのは難しいです。また、子どもに色々なことを伝えることも、子どもとの間に信頼関係を築くためには必要なことです。お母さんがお料理を作っているときに子どもが「私も一緒にやりたい」と言ってきたら、包丁の使い方や料理のあれこれを伝えることでも信頼関係は生まれます。さいしょから、「じゃあ、一人でやってみな」と放り投げるようなことをしていたら、信頼関係を築くことは出来ません。「あんたには無理」と、子どもの気持ちを否定していても信頼関係を築くことは出来ません。子どもの意志を肯定しながら、子どもに出来る事は子どもに任せていくのです。その際、「ダメなことはダメ」とちゃんと伝える必要もあります。包丁の使い方などもちゃんと伝えないとケガをしてしまいます。お母さんにはその痛みも責任も負えません。また、多くの場合、子どもが困ったことをするのは「退屈なとき」です。何をしたらいいのか目的が見つからないときに、子どもは「簡単に楽しめる何か」をして楽しもうとするのです。ときにはそれがイジメだったりします。そして、信頼できる仲間がいない子はいつも退屈しています。
2024.01.14
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人が、「人と人のつながり」の中で生きている限り、その人の言葉や行動には必ず責任が付きまといます。そして、人間の社会はその責任を引き受け合うことで成り立っています。責任を押しつけ合うと統制国家になってしまいますが、引き受け合うのなら幸せな社会が生まれるのです。これは家族の関係でも同じです。私も、「押しつける責任」は嫌いです。ですから、子どもにも責任は押しつけません。でも、自分の言葉や行動に責任を持つことが出来る人にはなって欲しいと思っています。今の時代、匿名になると言いたい放題、やりたい放題の人がいっぱいいますが、たとえ匿名であっても、その言葉や行為によって傷つく人のことを思いやることが出来る人にはなって欲しいと思っています。また、「親ガチャ」のように、自分の人生を人のせいにすることなく、自分の人生は自分の責任で生きて欲しいとも思っています。子育てでも、親としての責任、人生の先輩としての責任は持って欲しいと思っています。ただし、責任を押しつけることには同意しません。そういう自覚を持って欲しいということです。責任を押しつけても、良い結果にはつながらないからです。問題は「責任」を押しつけるのは簡単ですが、「責任感」を育てるのは非常に難しいと言うことです。「何でも好きにやっていいんだよ」と子どもを好き勝手にさせるのは無責任です。好き勝手に言ったり、行動しているだけの子に責任感が生まれるとも思いません。<続きます>
2024.01.13
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私はシュタイナー教育が大好きです。シュタイナー教育が提示する人間観や宇宙観や子どもの成長に関する考え方が好きです。でも、シュタイナー教育だけが絶対だとは思っていません。「シュタイナー教育でないと子どもが素敵な人間に育たない」などとも思っていません。むしろ、「シュタイナー教育の方法」に拘ることで精神の自由を失い、見かけは「シュタイナー教育」であっても、中身は「R.シュタイナーが目指した教育」ではなくなってしまう可能性もあります。方法に拘ると精神の自由は失われてしまうからです。そもそも、私がシュタイナー教育に惹かれたのは、シュタイナー教育と出会う前に学んでいた宗教や、芸術や、自然や、宇宙や、霊的なことや、人間の成長に関することなどが、シュタイナーの思想や教育の方法の中にうまくまとめられていたからです。だから私の中身はシュタイナーではないのです。私はお釈迦様も、イエスキリストも大好きです。そして、R.シュタイナーも釈迦やキリストも肯定しています。でも、釈迦もキリストもシュタイナー教育を受けていません。そもそも、R.シュタイナー自身がシュタイナー教育を受けていません。シュタイナーが提示した世界に近い感性を持っていた宮沢賢治や八木重吉といった人たちもシュタイナー教育を受けていません。多分、皆さんが「素敵だな」と思っている人のほとんどがシュタイナー教育を受けていないと思います。そもそも、シュタイナー教育のやり方だけが人の魂や精神性を育てる正しい方法なら、そんなもの知らないで育ったそれらの人たちは否定されてしまうのです。ネイティブ・アメリカンやチベットの人達の精神性も否定されてしまいます。「方法」は、「迷子にならずに目的にたどり着くためのガイド」のようなものです。これはシュタイナー教育だけでなく、モンテッソーリ教育でも、その他の方法でも同じです。でも、目的に向かう道は一つではありません。同じ富士山の頂上を目指していても、登り方はいっぱいあります。そもそも、最初にいる場所が違えば、同じルートで登ることが出来ません。体力がある人が登るルートと、体力がない人が登るルートも同じではないはずです。目的地は同じでも、岩場を登る人もいれば、砂のようなものに足を取られながら登る人もいます。さらにいえば、登りたい山も同じではありません。みんながみんな富士山に登りたいわけではないのです。そして、富士山を目指す人だけが偉いわけではありません。それほど高くなくても、無理なく登れて景色がきれいな山の方が好きな人もいます。だから世界中には無数の宗教があり、人が幸せになる方法も無数にあるのです。子育ての方法も無数にあります。子育てをするときには、ほとんどの人が「子育て書」を読むと思いますが、参考として、ヒントとして読むのならOKですが、それを「正解」として読んでしまうと、子育てが苦しくなってしまうのです。子どももお母さんも苦しくなってしまいます。皆さんが読んでいる「子育て書」は、皆さんの子育てを対象にして書かれているわけではないからです。子育て書の中に出てくる子どもは皆さんの子どもではありません。お母さんも皆さんと同じではありません。全てはヒントなんです。そして、全てがヒントだと分かると、あらゆることをヒントとして学ぶことが出来るのです。アリがエサを運んでいる姿を見て何かを思いつく人もいます。子どもが折り紙で遊んでいるのを見て何かを思いつく人もいます。道ばたに落ちている石っころを見て何かを思いつく人もいます。育児書など読まなくても、子どものことをよく見ているだけで上手な子育てが出来てしまう人もいます。木々から落ちてくる枯れ葉を見るだけで、命の素晴らしさやこの世の無情に気付く人もいます。誕生や病気や死に出会う事で「命の不思議」に気付く人もいます。青い空、太陽、雲、夕日、星、そういうものは世界中の誰でも見ることが出来ますが、昔の人はそのようなものを見て壮大な物語を創り上げました。この世界にあるものは全てがヒントなんです。そのことに気付くと全てが教師になります。自然も、子どもも教師になります。R.シュタイナーも、そのヒントに気付いてシュタイナー教育を作ったのです。でも、多くの人が身の回りにあるヒントには目を向けずに、自分とは無関係な人が考え出した方法に頼ろうとしています。
2024.01.12
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子どもの育ちにとって「大人との関わり」は非常に重要です。子どもは全ての文化や文明が生まれる前の状態で生まれてきます。人間らしい知性も、感性も、心も全くない状態で生まれてきます。もちろん、知識や技術も皆無です。子ども達はそういうものの全てを、「そういうものを受け継いできた大人」との関わり合いを通して、大人から受け継いでいくしかないのです。そのため、その「大人との関わり合い」がなければ、子どもは「人間以前の状態」のまま肉体だけが成長していくことになるのです。本来、「しつけ」や「教育」は「人間以前の状態」で生まれてくる子ども達に、祖先が創り出し、受け継いできたものを伝えることで「人間らしさ」と「人間らしく生きる能力」を育て、さらにそれを次世代の子ども達に受け渡す能力を育てるためのものです。でも、競争意識ばかりが強くなってしまった現代人は、しつけや教育を「祖先が創り出し、受け継いできたものを伝えるためのもの」とは考えなくなりました。そして、「しつけ」や「教育」を「子どもが社会的に成長するためのもの」「子どもを親の期待通りに成長させるためのもの」と考える人が増えてきました。そこで求められるのは「競争に勝つための能力の育ち」だけであって、「人間らしさの育ち」は無視されています。それほど「競争」を望んでいない人もいますが、そのような人は「みんな同じ」「みんな一緒」の中に安心を求めています。そのため、そのような人も「祖先が創り出し、受け継いできたもの」には興味がありません。もちろん、伝えようともしていません。というか、親自身も知りません。家族や地域や人と人のつながりの崩壊と共に、伝承が途絶えてしまったからです。その結果、子ども達が大人を尊敬しなくなりました。大人に「かっこよさ」や「あこがれ」を感じなくなったからです。昔は「早く大人になりたい子」がいっぱいいたような気がするのですが、最近の子は「大人になりたくない子」の方が多いような気がします。大人になっても、自由に行動し甘やかされている子どもに嫉妬している大人がいっぱいいます。大人とのつながりが希薄になってしまったため、人間の心や、からだや、知性や、感覚や、様々なつながりや文化を支える働きをしている「言葉」すら学ぶことが出来ない子ども達が増えてきました。同じ感覚や、同じ知性や、同じ知識や、同じ文化を持った仲間との間で日常会話をする程度の言葉は学ぶことが出来ていますが、その程度の言葉では学ぶことも、考えることも、感じることも、対話することも出来ないのです。当然、昔の人の精神性や、思想や、感受性を理解することも出来ません。「嫉妬」や「嫉み」という言葉を知らない子には、こういう感情は理解できないのです。「美しい」という言葉を体験を通して学ぶことが出来なかった子は、美しいものを見ても何も感じないのです。そんな状態の最近の子は、「会話」は出来ても「対話」が出来ません。そして「対話」が出来ない子は学ぶことも出来ません。相手の言葉を覚えることは出来ても理解することが出来ないからです。そして「対話」が出来ない子は他の子と目的を共有して一緒に活動することも出来ません。一緒に楽しく遊ぶことも出来ません。ただし、お母さんや家族の間で対話が出来ている子は、仲間とも対話することが出来ます。そして助け合って活動することが出来ます。でも、家族との関わり合いを通して子どもの対話能力が育つためには、毎日の生活の場で、家族が様々な体験を共有し、つながり合っている必要があります。でも、簡単で便利な機械に囲まれている現代人の生活ではそれが消えてしまっているのです。
2024.01.11
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大分前に読んだ記事ですが、先進的な教育について学ぶために、政治家や教育者がフィンランドなどに視察に行ったとき、施設を見て、資料をもらって、説明を聞いて、それだけで帰ってしま人が多いそうです。つまり、わざわざ現地に行ったのに、ネットなどで得ることが出来るような情報だけをもらって帰ってきてしまうのです。その記事には、ほとんどの人が「現場で働いている人の言葉に耳を傾けない」と書いてありました。日本人の多くが、「形」には興味があっても、その「形」が生まれた思想的、文化的、風土的背景や、実際に働いている人たちの言葉には興味がないようなのです。明治維新の時もそうやって西洋文化を取り入れました。政治制度も、学校制度も、軍隊制度も、経済制度も欧米のやり方(形)を真似ました。ただし、取り入れたのは「形」だけです。その中身は明治以前のものをそのまま詰め込みました。でも、いくら現地の設備やシステムを真似して形だけソックリなものを作っても、中身が異なっていたら同じようには機能しないのです。むしろ「形」と「中身」の乖離が、様々なトラブルの原因になっていきます。これはシュタイナー教育やモンテッソーリ教育、その他の「教育法」でも同じです。森の幼稚園も同じです。モデルとなったものがいくら素晴らしくても、その背景を無視して、表面的な形だけ真似しても同じようには機能しないのです。気候風土や文化的風土が異なった場所でも同じような結果を得たいのなら、「その土地に合わせた新しい形」が必要になるのです。「乾燥地帯で快適に暮らせる家」と「高温多湿の地帯で快適に暮らせる家」とでは、同じ「快適」を求めていても、家の形や構造は違うのです。スペインやフランスの「快適で素敵な家」をジャングルの中に建てても快適な生活は出来ないのです。伊那小学校でやっていることは、その土地の気候風土や、その土地で暮らしてきた人たちの思想的、文化的背景があって初めて可能になったのです。そのことを理解しないまま、ただ結果だけを見て感激して、形だけを真似しようとしても、同じ結果にはならないのです。大切なのは「形」ではなく、その「形」を創り上げている気候風土や人々の意識の方なのですから。「形」を真似すれば中身も付いてくるような錯覚があるのかも知れませんが、それは幻想です。「中身」が「形」を作るのであって、「形」が「中身」を作るわけではないからです。シュタイナー教育で絵を描くときは「輪郭」は描きません。物に輪郭など存在していないからです。輪郭は人間の頭の中にしか存在していないのです。輪郭があるから物が生まれてくるのではないのです。顔にも輪郭などないですよね。顔があるから、その顔の周囲をなぞることで輪郭を認識することが出来るのですよね。そして、その本体は「作るもの」ではなく「生まれてくるもの」です。様々な要素が絡み合って、長い時間をかけて生まれてきた結晶のように少しずつ「そのもの」が育って行くのです。その輪郭をなぞれば形を確認することが出来ますが「形」は中身が創り出した結果に過ぎません。「形」から始めるのは塗り絵と同じです。誰か別の人が作った「形」を使って、中の色だけ自分で塗って、あたかも自分が描いたかのような錯覚に浸って満足するのです。でも、そんな塗り絵ばかりやっている子に、真っ白い紙を与えても何も描けません。元になる形(正解)がないと何も出来ないのです。それはつまり、「心の自由を失ってしまう」ということでもあります。「形」は正解を決めてくれます。キャラクターの塗り絵なら、もう、色まで決まっています。でもそれと同時に、「形」は限界を固定してしまいます。枠からはみ出してはいけないのですから。枠の内側を自由に塗ることは可能ですが、枠を無視して塗ることは許されていないのです。伊那小学校の実践に感激したなら、皆さんが住んでいる場所で、それまでの生活の延長で、今できることを探して始めてみて下さい。そして、それを発信していれば仲間が現れます。その際、オリジナルを正解にしないことが重要です。オリジナルを正解にしてしまうと、命を持たないマネキン人形と同じになってしまいますから。
2024.01.10
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日本人は何でも「形」から入るのが好きです。武道でも、芸術でも、学問でも、しつけでも、「形」から入ります。そして、授業中はちゃんとイスに座って、ちゃんと先生の話を聞いていれば、勉強も進み、頭のよい子が育つと信じています。ちゃんとお片付けをして、ちゃんと手を洗い、ちゃんと勉強して、ちゃんとお母さんの言いつけを守っていれば「賢くていい子に育つ」と思い込んでいます。部活の指導でも、指導者が与える「形」を守らせようとします。そして、先生や指導者が与える「形」を守らない子は、困った子、ダメな子として扱われています。民主主義も「形」から入りました。日本におけるシュタイナー教育教育も、ドイツにおけるシュタイナー教育の形を模倣しているようです。それは、日本人には、「形を整えれば、中身も、その形に合わせた形で整っていく」という思想というか、思い込みのようなものがあるからなのでしょう。確かに、「形」の学びには、それに合わせて内側を整える働きがあります。ただし、内側が整うためには、本人の意志でその「形」を身につけようと努力する場合に限られます。本人の意志で取り組むのではなく、他者によって「形」を押しつけられただけの人は、何年やっても、何十年やっても内側が整うということは起きません。むしろ、形だけは立派になっても、中身は空っぽになってしまいます。それが今の日本の民主主義です。教育も同じです。先生達も、学校としての「形」を整えることばかりに夢中になっています。「夢みる小学校」で扱われた伊那小学校はその形を捨て、「子ども達の成長を支えるためには何が必要なのか」ということをみんなで考えた結果、あのような形になったのでしょう。でも、映画を見た人たちは「先生がいない」「宿題がない」「子ども達が自由だ」などというような「普通の学校にはない形」に「新しい教育の形」を感じてしまうのでしょう。そしてマスメディアもその「形の特異さ」ばかりを取り上げます。でも、それを望んでいない子ども達、望んでいない親たち、望んでいない先生達にその「形」を押しつけて無理矢理「形」を整えても、学校が「子どもが育つ場」にはならないのです。そんなことをしても、内側からすぐに崩壊します。また、「子ども達の成長を支えるためには何が必要なのか」ということを考えたのならば、自分の子育ての場でも、色々なことが可能になるはずなんです。そしてそれが、自分が置かれた状況の中で出来る「形」となっていくでしょう。「中身」が「形」を作っていくのですから。そのため、自分とは異なった状況の中で成功してい人の形をソックリに真似しても、同じ結果にはならないのです。家庭の中や、子どもとの関わりや遊びを「子どもが自ら体験して学ぶ場」になるように意識すれば、日常の子育てや子どもとの関わりがそのまま伊那小学校のような「学びの場」になるはずなんです。「夢みる子育て」です。それはまた「楽しくて幸せな子育て」になるはずです。でも、「先生がいない」「宿題がない」「子ども達が自由だ」などというような「形」にばかり意識が向かっている人は、伊那小学校でやっていることと自分の子育てをつなげて考えることが出来ません。あの映画を見て感激した人は山のようにいるでしょうが、その中の何人が自分の子育てや家族のあり方を変えることが出来たのでしょうか。単に、「あんな学校が近くにあったらな」「うちの学校があんな風に変わったらいいな」などと思っただけでは意味がないのです。そういう人にとっては、あの映画は「学校を非難、否定する口実」になっているかも知れません。でもそれでは意味がないのです。自分で出来る事は自分でやる。それが広まって、みんなが変わっていったとき、学校も社会も変わっていくのです。伊那小学校だって、公立小学校なんですから、地域の支えがなかったらあんなことできないのです。
2024.01.09
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「夢みる小学校」の予告編を見たときに感じた違和感の正体が大分、分かってきました。それは予告編の「奇をてらうようなナレーション」や、様々な有名人達の「こんなにも新しくて、こんなにも凄い教育なんです」という大げさな解説のせいだったようです。予告編が始まると最初にその学校にはテストや宿題がありません。先生もいません。というナレーションが流れます。そして、子どもだけで作ったとは思えないような立派なテラスを映しだしてこのテラスも子ども達の作品ですと説明します。「子どもだけで作りました」ではなく「子ども達の作品です」という紹介の仕方に何らかの意図を感じます。この言い方では子ども達がどこまでこのテラス作りに関与したのか分かりませんから。自分たちでアイデアを出して設計図を描き、構造計算をして木材を購入し、カットや組み立てまで全て子ども達だけでやったのなら、間違いなく「子ども達の作品」です。でも、子ども達がアイデアを出して大人がそれを設計図に描き、子ども達はその作業を手伝っただけでも「子ども達の作品です」という言い方は可能です。しかも、予告編では作業を手伝っている大人の姿が映っていません。映像は、あたかも子ども達だけで作ったかのように編集されています。そこに「子ども達だけで作った」と思い込ませたい制作側の意図を感じてしまうのです。実際には、このテラスは大人にも手伝ってもらって出来たのでしょう。だとしたら「大人に手伝ってもらって作りました」でも全然素晴らしいことなのに、なぜ、そう説明しないのでしょうか。「先生がいません」という言葉にも違和感を感じます。実際に「先生」がいないわけではなく、「先生」の役割が普通の学校とは異なっているだけなのでしょう。だとしたら、「先生がいません」という言い方は事実に合っていません。また、この学校を褒め称える偉い人たちの言葉にも違和感を感じます。子どもの村のこどもたちはみんな際立っているわけです。みんな質問が出来る。確かに、質問が出来る事は素晴らしいことです。でも、質問しなくても素晴らしい能力を持った子はいっぱいいます。多血質の子は簡単に質問してきます。でも、憂鬱質の子はあまり質問しません。そして、自分で調べて、自分で考えて答えを見つけようとします。大人が責任をとるからね。自由には責任を伴うというのはこの学校ではタブーなんです。子ども達に「自由には責任が伴う」ということを伝えるのは悪いことなんでしょうか。体験型学習をすることで子ども達の脳のOSが書き換わるんです。そんなこと当たり前です。なぜなら、太古の昔から、子ども達にとっては、毎日の生活の場や遊びの場がもうすでに体験型学習の場だったからです。それが子ども本来の学び方なんです。別に新しい学びの形ではないのです。だから子ども達は、大人が教えなくても、大人がやっていることを見て、真似して、自分の意志で様々な体験を繰り返して、歩くこと、言葉を話すこと、感じること、考えること、そして、様々な知識や技術を学んで来たのですから。未来の学校の姿がこの学校にはある。そうではないのです。子ども達は昔からこの方法で学んでいたのです。大人達が、それを否定して子ども達から「体験によって学ぶ場」を奪い、学校を「知識を教え込む場」にしてしまったのです。それを今更「未来の学校の姿が・・・」などと言っていることに抵抗感を感じます。文科省が2020年から学びを探求型で迫っていく方向に大きく舵を切り替えたお墨付きをもらった・・・、ということなのでしょうか。そんなことどうでもいいのに。
2024.01.08
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あれから色々と「伊那小学校」のことを調べてみました。本当に素敵な教育をしている学校のようです。だからといって、ことさら特別なことをしているわけではないようです。公立学校としてはかなり特別なやり方をやっていますが、「学びの形」としては、昔から子ども達が遊びの中で自然にやっていたようなことばかりです。まただから、子ども達から肯定的に受け入れられているのでしょう。そして、子ども達も生き生きとしているのでしょう。子どもは自分の育ちに必要なものは、必要なときに自分で選びます。だから、効率よく吸収できるのです。その逆に、必要ではないものを、必要ではないときに押しつけられると拒否します。表面的には受け入れても、吸収することはありません。ですから、いっぱい知識を知っていても、その知識を学ぶことで成長することが出来ません。それが普通の学校でやっている、普通の教育です。伊那小学校では自分の育ちに必要なものは自分で選ばせ、遊びのような活動を通して学ばせています。それがいわゆる「体験学習」ということになるのでしょう。まただから、楽しいのでしょう。シュタイナー学校もまた「遊んでばかりいる学校だ」と言われているようです。「体験学習」というとかっこいいですが、「遊び」と「学び」をつなげてあげれば、遊びの全てが「体験学習」になってしまうのです。だから、公立小学校で全ての教科をこれでやっているのはかなり特別なことですが、やっていること自体は特別なことではないのです。ただし、周囲にないものは選びようがありません。知らない食べ物は食べたいと思わないのです。学びでも遊びでも「出会い」がないことには始まらないのです。だから、そのような学びを支えるために大人達は裏側で色々考え、色々と活動しているはずです。そんな素敵な教育をしている伊那小学校に通わせるために、わざわざ遠くから移住する人も多いみたいです。それとは逆に、「もっと普通の教育を受けさせたい」と別の学校を選ぶ地域の人もいるみたいです。でも、伊那小学校の学びが「遊び」を土台にしているのなら、「移住」などというような過激なことをしなくても、近くに伊那小学校のような学校がなくても、自分たちで伊那小学校のような学びの場を作ることは可能なはずなんです。学校を変えることは難しくても、学校の外に「子どもが育つ場」を整えてあげることは出来るはずです。お野菜のことを学びながら子どもと一緒にお料理を作れば、それも立派な「体験学習」です。コマ回しでも、どうやったらヒモを巻くことが出来るのか、どうやったらうまく回せるようになるのかということを子どもと一緒に考えながら、お母さんやお父さんも遊べばそれもまた体験学習であり、伊那小学校でやっていることと同じです。そこで大事になるのが一緒に感じ、一緒に考え、一緒に学び、一緒に体験するということなんです。またそれが「遊び」と「学び」の基本でもあります。そして、そういう活動を楽しみたい仲間を集めれば、自分たちの力で伊那小学校のような学びの場を作る事も出来るのです。無いものねだりをしていても、状態は良くなりませんよ。でもそのためには子どもも大人ももっと自由になる必要がありますけどね。ゲームは子どもの趣味や興味を固定して、子どもを不自由にしてしまいます。私が予告編を見た感じたのは、伊那小学校がやっていることを特別扱いすることに対する違和感かも知れません。
2024.01.07
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最初にお断りしておきますが、ここに書いたことは「予告編を見て感じた印象」ですから、「そこ違うよ」という点がありましたら、コメント欄でどんどんご指摘下さい。予告編はここで見ることが出来ます。***********「夢みる小学校」の予告編の最初に、子ども達がテラスを作っている映像と共に、「このテラスは子ども達だけで作りました」というナレーションが入っています。「この学校には先生もいません」というナレーションも入ります。確かにそれは「凄いこと」です。でも、「素晴らしいこと」だとは思いません。校長先生の「大人が責任を取ります。自由には責任を伴うという言葉はこの学校ではタブーなんです。」という言葉も意味不明です。「子どもが失敗しても、大人は子どもを責めません」ということなら分かりますが、子どもでも大人でも、人が「人と人のつながり」の中で行う活動には全て責任が伴います。それは「人と人のつながり」の中で生きている人間の必然です。それは、当事者にしか取ることが出来ない責任です。「大人が責任を取ります」と言っても、実際には、子ども達は大人には取ることが出来ない責任の中で生活しているのです。大人の役割として大切なことは、「子どもの代わりに責任を取る」ことではなく、「その失敗をどう子ども自身の成長につなげてあげることが出来るのか」と工夫することなのではないでしょうか。また、子ども同士はもっとシビアです。一人の子がいい加減な仕事をすることでみんなで一緒にやっていた活動が失敗してしまったら、子ども達はその子に対して「おまえのせいで」と言うでしょう。大人は責任を求めなくても、子どもは責任を求めるでしょう。このような場合どうするのでしょうか?「先生」がいないのですからほったらかしにするのでしょうか。また、このような活動の場には「指示命令する先生」はいなくても、「教え、支え、導き、共感してくれる大人」は必ず子どもの側にいるはずです。「子どものあこがれになるような大人」もいるでしょう。そうでなければ、子ども達だけであのような活動は出来ませんから。私はそういう人こそ立派な「先生」だと思うのですが、このナレーションにおける「先生」という言葉の定義が分かりません。また、尾木ママが「この学校は子どもファーストの学校だ」と言っていますが、その意味も不明です。これはこの予告編や映画を作った人の意識の問題なのかも知れませんが、この映画がそういう意識(普通の学校で行われているような教育に対する反感)で編集されていて、そういう意識で見る人が多いのなら、そのことにも問題を感じます。私は、大人主体の教育から子ども主体の教育へ大人ファーストから子どもファーストへというような、右から左へ、黒から白へと反転させてしまう考え方自体に違和感を感じるのです。これはネガとポジの関係のように見かけは正反対でも、「どちらか一方が主人公になる」という構造はそのままです。今の現状に不満を感じる人は、極端に反対方向を目指す傾向があります。中間には興味を感じないのでしょう。でも、一般的に「丁度いい」のはその中間にあるのです。私が理想と考えている教育は、大人主体でも、子ども主体でもありません。大人ファーストでも、子どもファーストでもありません。大人と子どもがお互いに信頼し、支え合い、学び合い、共に育ち合うような教育です。大人は子どもを尊敬し、子どもも大人を尊敬し、大人も子どもに対して「ダメなことはダメ」と言い、子どもも大人に対して「ダメなことはダメ」と言い合える関係でつながった教育です。そしてこれは子育てでも同じです。大人と子どもがお互いに信頼し、支え合い、学び合い、共に育ち合うような子育ては楽しい子育てにつながるでしょう。でも、子ども主体、子どもファースト、子どもに責任を求めない子育ては、最初は良くてもどんどん苦しくなっていくでしょう。兄弟が増えてくるとさらに困難になります。年令も欲求も異なる子ども一人一人が「自分ファースト」を求めてくるからです。あの映画を見た人は多いと思いますので、異論反論大歓迎です。コメント欄に書き込んで下さい。
2024.01.06
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昨日、東京にある「和光小学校」の一年間を追った「あこがれの空の下」という映画を見てきました。和光小学校での取り組みは大分以前にもテレビで見たことがありますが、なぜかピンと来ないのです。同じような映画として「夢みる小学校」という長野県にある伊那小学校での活動を追った映画もあります。ネットでは以下のように紹介されています。学びの本質とこれからの教育のあり方を改めて問い直していくドキュメンタリー。宿題もテストもなく、子どもたちの個性を尊重し、本格的な体験学習を軸に子どもたちの主体的な学びを実践していく「きのくに子どもの村学園」。通知表のない伊那小学校や、校則や定期テストをやめた世田谷区立桜丘中学校など、公立学校の取り組みも紹介する。私はこの映画の予告編は見ていますが、本編は見ていません。茅ヶ崎でも自主上映会は時々行われていますから評判はいいのでしょう。予告編しか見ていないので断定的なことは言えませんが、でも、エッセンスは予告編の中に入っているのではないかと思います。この両方の映画に共通しているメッセージは、「大人主体の教育から子ども主体の教育への転換」ということです。そして、「子ども主体の教育をすることで子ども達はこんなにも素晴らしいことが出来るようになるのだ」とか、「こんなにも素晴らしい子ども達が育つのだ」ということが、映像の紹介と共に次から次へと出てきます。でも、和光小学校を作ったのも、伊那小学校を作ったのも大人達です。運営しているのも大人達です。学びの方向を決めているのも、善悪の基準を与えているのも大人達です。「子ども達を集めて自由にさせたら、勝手にこんな素晴らしいことを始めた、こんなに素晴らしい子ども達が育った」ということではありません。大人から「自由にしていいよ」と言われたから自由に活動することが出来ているのです。大人から「失敗してもいいんだよ」と言われたから、失敗を恐れないでチャレンジすることが出来るようになるのです。子どもは常に「大人の言うこと」や「大人がやっていること」を羅針盤にして、感じ、考え、行動しているからです。またそれが子どもの成長を支えている本能でもあるのです。ですから、「子ども主体」という言葉に惑わされて、大人が大人の役割と責任を放棄してしまったら、子ども達は迷子になってしまうのです。また、子ども達は大人達を羅針盤にしているのですから、大人達の無意識の要求も子ども達の状態の中に表れます。大人が頑張っている子を褒めれば、子ども達は「頑張ることはいいことだ」という価値観を持つようになります。それは一見いいことのように思えますが、それはまた、頑張れない子に対するプレッシャーにもなります。そして、頑張れない子はいっぱいいます。「こんな素晴らしいことが出来る子がいる」とアピールすることで、その素晴らしいことが出来ない子が負い目を感じます。映画の中では「子ども達はこんなに素晴らしいことをやっています」「こんなに素晴らしい子ども達が育っています」という事ばかりが出てきます。大人達はそれを見て感動するのでしょう。でも、へそ曲がりの私は、その「子ども達はこんなに素晴らしいことをやっています」「こんなに素晴らしい状態に育ちました」というアピール自体に違和感を感じてしまうのです。大人が光を当てれば、必然的に子どもの中に陰が生まれるのです。でも、本来子どもは子ども自身が発光体であり、自ら光を発しているのです。そして、自ら光っているのですから陰は存在していないのです。お母さん達に、子ども達の長所を聞くと、そのほとんどがお母さんの喜ぶようなことばかりです。言われなくてもちゃんと手を洗う、ちゃんと宿題をやる、ちゃんと片付けをする、ちゃんと下の子の面倒を見る、ちゃんと時間を守ってゲームをするなどなどです。私はこれらの映画にそれと同じ視点を感じてしまうのです。ただ、大人による指示命令によってではなく、子ども自身に考えさせることでそれを実現しようとしているだけです。私は、命の本能に従って、ムダなことや、役に立たないことや、大人の価値観(現代社会の価値観)から見たら意味がないことに夢中になっている子ども達が好きです。言うことを聞かない子どもや、ダダをこねている子どもが好きです。水たまりに入ってドロドロ、グチャグチャになっている子が好きです。夢中になって描いたり、歌ったり、踊ったり、創ったり、遊んだりしている子が好きです。お母さんに叱られることを忘れて遊びまくっている子どもが好きです。勉強する子だけでなく勉強しない子も好きです。また、そういう子ども達を肯定し一緒に遊ぶことが出来る大人も好きです。多くの大人達はどうして「そのままの子ども」や「子どもらしさ全開の子ども」を肯定し褒めないのでしょうか。でも子どもは、「ありのままの自分」を受け入れてくれる大人を受け入れ、そのような人から学びたいと思うのです。そこで初めて伝承や教育が可能になるのです。「すごいこと」や「素晴らしいこと」が出来るようになるのはあくまでも結果であって、それを目的にしてしまったら「困ったこと」が起きてしまうのです。以下の写真は「縄文土器」ですが、縄文土器は、ゴテゴテと無駄な飾りをいっぱいつけています。全く実用的ではありません。機能美は皆無です。でも私は、この「無駄を楽しむ精神」の中に縄文時代の人の心の豊かさや素晴らしさを感じるのです。そして、子ども達は様々な芸術的な活動の中で「無駄を楽しむ精神」を育てることが出来るのです。「遊び」もまた芸術的な活動です。コロナの時はこのような活動は「不要不急」と呼ばれて否定されましたが、でも、これが人間らしさの原点でもあるのです。
2024.01.05
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「知識」は実際に存在した、もしくは存在している何かを説明するために、その〝何か〟から抽出されたものです。自転車に乗ることが出来る人は、自分の体験から「自転車について」語ることが出来ます。そしてそれが「自転車に関する知識」になります。自転車を作っている人は、「作る」という視点から「自転車について」語ることが出来ます。そしてそれも「自転車に関する知識」になります。実際にインドに行った人は、自分の体験からインドに関していくらでも語ることが出来ます。実際に体験した人は知識を創り出すことが出来るのです。でも、ガイドブックでインドに関する知識を得ただけの人は、ガイドブックに書いてあることだけしか語ることが出来ません。実際にコマを回せる子は、コマに関する知識を学ばなくても、コマについて語ることが出来ます。そしてそれが「コマに関する知識」になります。「知識」は、あくまでも「○○について」の説明であって、いくら知識を学んでも、そのもの自体の体験が出来るわけではありません。知識を学んだからといって、それだけで自転車に乗ることが出来るようになるわけでもありません。知識として「ノコギリの使い方」を学んでも、youtubeでノコギリを使っている人を見ても、それだけでノコギリが使えるようになるわけでもありません。youtubeで、山のように太極拳の動画を見ても、それだけで太極拳が使えるようになるわけでもありません。youtubeで得ることが出来るのは「情報」であって「体験」ではないからです。知識や情報は、試験や情報交換の場では役に立ちますが、自分自身の生活や生き方においては役に立ちません。でもだから、みんな大人になると子どもの頃に学んだ知識や情報を忘れてしまっていても普通に生活することが出来ているのです。また、いくら知識を学んでも、そのものに関する実際の体験がない人はその知識を理解することが出来ません。「知識や言葉が構成する論理」は理解できても、「知識の基になっている中身」を理解することが出来ないからです。お母さんが子どもに対して「○○してはダメよ」と言っても、子どもは平気でお母さんが禁止したことをやってしまいます。なぜなら、お母さんが言った「ダメよ」という言葉は理解できても、お母さんの頭の中にある「意図」が理解できないからです。幼い子どもに熱い飲み物を渡したとき、「フーフーして飲みなさい」と言うと、「フーフー」と言うだけで、息を吐き出して「フーフー」はしません。お母さんの頭の中にある「意図」が理解できないからです。でも日本の子ども達は、情報交換や試験の時にしか役に立たない知識を学ぶことに子ども時代の多くの時間を奪われてしまっています。だから、社会に出てから、結婚してから、子育てをするようになってから、どうしていいのか分からなくて不安に陥ってしまっているのです。今の日本の社会には、子ども達が自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動する能力を育ててくれるような「実際の体験」が出来る場がありません。知識は体験を整理し、理解するためには非常に役に立ちますが、先に知識が入ってしまうと、体験から学ぶ能力が低下してしまうのです。それが「育児書に頼ってばかりいて、目の前にいる子どもから学ぼうとしない子育て」にもつながっているのです。その原因は、現代人の過度の「競争意識」にあるのでしょう。その競争意識の背景には「不安」があります。その不安の背景には「体験の不足」があります。知識が創り出す虚構の世界の中だけで生きてきたので、「生きている実感」を感じることができないのでしょう。
2024.01.04
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私はいつも「子どもの成長には多様な体験が必要だ」ということを言っていますが、でも実際には、子どもが体験から学ぶ仕組みはなかなか複雑で、「ただやらせれば体験し、そこから学べる」というわけではないのです。映画などにもなっているような素晴らしい教育を実践している学校もありますが、だからといって、普通の学校に通っている子をいきなりそのような学校に連れて行っても、混乱するだけです。「森の幼稚園が素晴らしそうだから」といって、お勉強に熱心な幼稚園に通っていた子をいきなり森の幼稚園に通わせても、子どもは混乱するだけです。「頭と心とからだの中の受け皿」が育っていないからです。そこに子どもに何かを体験させたり、学ばせたりするときの難しさがあるのです。ジャンクフードばかり食べている子は、高級なお料理よりもジャンクフードの方が美味しく感じるのです。自然について、草花について、何も知らないか全く興味を持っていない子を、草花や自然がいっぱいの野原に連れて行っても、何も気付かず、何も発見せず、何も感じず、ただ退屈するだけです。そのため、そのような状態の子に、そのような体験をいくら与えても、子どもの成長にはつながりません。でも、(たとえば)「いわむらかずお」が描いた絵本「14ひきのシリーズ」を、毎晩お母さんと色々楽しいお話しをしながら読んでもらっている子は、野原に行ったら絵本に描かれている草花にすぐに気付くでしょう。絵本に脇役として登場している小さな虫たちにも気付くでしょう。<b>子どもは「心の中の世界」を「現実の世界」の中にも発見してワクワクするからです。そしてそれが「学び」につながるのです。</b>ただしこれは、「先に知識を与えておく」ということではないですからね。そこで必要なのは「知識」ではなく「物語」なんです。絵本の中で草花が描かれたページだけを切り取り、「14ひきの家族」の話をせずに、単なる知識として、その絵に描かれている草花の説明をしても、子どもはそれほど強く草花に興味を持たないでしょう。<b>その草花が「14ひきの家族の物語」や「絵本を読んでくれるお母さんと自分との楽しい記憶」とつながっているからこそ、その草花が「特別な存在」になっていくのです。そしてだからこそ、それを自然の中で発見すると嬉しくなるのです。</b>自然に関心がない子にドングリを見せても目で見える以上のものを感じることはないでしょう。でも、「ドングリと森の物語」や、「ドングリと森の生き物の物語」や、「森と川や海との物語」などを楽しく聞いたことがある子にとっては、小さなドングリは「目で見ることが出来る以上のもの」になるでしょう。自分でドングリを育てようとするかも知れません。<b>子どもだけでなく人がそのものに強く興味を持つのは、そのものが「自分の心の中の物語」と強くつながっているからなんです。</b><b>「もの」自体が人を引きつけるのではなく、「ものと自分のつながりの物語」が、そのものへの興味を生み出すのです。</b>ただし、この場合の「もの」は物質とは限りません。歌や踊りに対しても同じです。だから「もの」とひらがなで書いています。これは勉強でも同じです。歴史を楽しい物語として聞いて育った子は、その物語が学術的に正確なものでなくても「歴史」に興味を持つようになるでしょう。そして、9才を過ぎた頃から「本当はどうだったのか」と正確な知識を求め始めるでしょう。大人は子ども用の物語を「荒唐無稽なもの」「正確ではないもの」「あり得ないもの」としてあまり価値を感じませんが、子どもの好奇心を目覚めさせるために必要なのは「正確な知識」ではなく「ワクワクする物語」なんです。幼い子どもがまず知るべきことは「この世界の全てはつながり合っている」「自分と世界はつながっている」ということなんです。その事実を伝えるためには「物語」が必要になるのです。幼い子どもに与えなければいけないのは、「つながりから切り離された知識」ではなく、「全てのものが意味のつながりの中に存在している物語」の方なんです。その「意味」の部分が「客観的な事実」に置き換わればそれが科学になります。実は、荒唐無稽に見える「物語」と、客観的事実に基づく「科学」は兄弟なんです。「つながりを解き明かす」という点では物語も科学も同じなんです。それが分からず、つながりから切り離された科学の知識だけを覚えさせるから、子どもは科学への興味を失ってしまうのです。19世紀に活躍したSF作家、H・G・ウエルズやジュール・ヴェルヌの作品は、現代の科学から見たら馬鹿げた、あり得ないようなものばかりです。でも、彼らの作品を通して科学に興味を持った子は数知れないと思います。私自身もそうでしたから。どうか、幼い子どもには「知識」や「体験」を押しつけるのではなく、まず「物語」を与えてあげて下さい。その物語の中での体験が現実世界への興味を目覚めさせ、現実世界の中での体験から学ぶ力や、知識への興味を与えてくれるのですから。絵本だけでなく「昔話」もいっぱい聞かせてあげて下さい。14ひきのもちつき (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのぴくにっく/いわむらかずお/子供/絵本【3000円以上送料無料】やまのぼり ばばばあちゃんのおはなし (ばばばあちゃんの絵本) [ さとうわきこ ]
2024.01.03
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現代の子どもたちは兄弟が少なかったり、群れて遊ぶ機会が少なかったり、群れていても基本的に同じような年令の仲間とだけ遊んでいるので、赤ちゃんや、小さな子どもと関わる機会はあまりありません。また、兄弟がいたり異年齢の子どもたちがいる状況でも、最近の子どもたちの遊びは個人的なものになっているので、「小さな子の面倒を見ながらみんなで遊ぶ」ということはありません。また「みんなで遊ぶ遊び」も知りません。その場に色々な年令の子がいても、結局同じような年令の子だけが集まって、自分たちだけで遊んでいます。しかも。2人以上ではなかなか遊べません。「小さな子も混ぜてあげて」と言っても嫌がります。嫌々混ぜてくれたとしても、小さな子にも自分たちと同じルールを押しつけます。平気で大人の価値観を押しつけるお母さんや大人達と同じ事をするのです。昔の子どもたちの群れでは、小さな子には「特別ルール」が適応されました。いわゆる「オミソ」というやつです。そして、同じルールで遊ぶことが出来るようになるまでの成長を待ったのです。でも、最近の子に「この子は小さいから特別ルールでお願いね」などと言うと「ずるーい」と言われます。逆に、小さくもないのに自分から「マイ・ルール」を主張する子もいます。「ぼくはこうやりたいんだからいいでしょ」と、勝手なことを言ってやろうとするのです。小さい子を特別扱いすると「ずるーい」というのに、自分には「特別扱い」を求めるのです。もちろん全部の子がそうだということではありませんが、そういう子が珍しくなくなってきたのも事実です。最近の子どもたちは、急かされるばかりで待ってもらえません。群れ遊びの場での仲間は待ってくれても、機械仕掛けのゲームは待ってくれません。お母さんも忙しいので、話も聞いてもらえません。大勢の仲間と群れて遊ぶ体験も、幼い子どもの世話をするという体験もないまま成長し、大人になっています。そして、結婚し、子育てをしています。そのせいか、現代社会では、自分の価値観を押しつけるような子育てをするお母さんが多いです。それは「待てない子育て」であり、「支配する子育て」でもあります。2,3才の子にも大人のルールを守るように求めます。「うちの子は、ちゃんとおイスに座って、ちゃんとご飯を食べないのです。どう、仕付けたらいいのでしょうか?」という質問を受けたことがあります。年齢を聞いたら3才でした。それで、「その年齢の子はそれが普通です」と答えました。でも、「子どもの普通」が分からない大人は、幼い子どもにも大人の価値観を理解するように求め、大人と同じように行動することを求めるのです。我が子に対してさえ、「まだ小さいんだから」という特別扱いはしないのです。でも、どんなに子どものことを思っていても、子どもの意思や成長リズムを否定した「待てない子育て」は、子どもの人間らしさの否定に他ならないのです。文明は「待たなくてもいい社会」を目指してきました。効率的、合理的に事を進め、時間を短縮することだけを求めてきました。そしてその価値観が、「子どもの遊び」や「人間の生き方」まで支配するようになってきたのです。「子育てのあり方」にも大きな影響を与えています。そして多くの人が、「効率の良い子育て」、「失敗のない子育て」、「結果の見える子育て」、「苦労が少ない子育て」を求めるようになってきました。そのため、子どもが生まれたら「子育て書」を頼りに子育てを始めます。子どもや人間についての知識や体験が乏しいのでマニュアルがないとどうしていいのか分からないからです。でも、「子育て書」を、子どもを理解するために読むのならいいのですが、「子育て書」に「子育ての方法」を求めてしまうと困った事になってしまうのです。子育て書に「○才になったら○○が出来るようになる」と書いてあれば、我が子にもそれと同じ成長を求めてしまいます。そして、その基準より遅れていると、悩み、苦しみ、「こんなにも頑張っているのにちゃんと成長してくれない子ども」に腹が立ち、追い立ててしまいます。逆に、その基準よりも早く成長していると喜び、「うちの子天才かしら、もっとちゃんと教育したらすごい子になるかも知れない」などと思い込み、子どもを追い立てます。でもしばらくすると、その勘違いに気付きます。
2024.01.02
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今日のブログは新年のご挨拶だけにさせて頂きます。今年やりたいのは「劇遊び」(即興劇)です。子どもと一緒のものだけでなく、大人だけのも企画します。以前から、親子での劇遊びや、大人の即興劇はやっていたのですが、去年の後半、改めてその力の素晴らしさに気付いたので今年はそれに力を入れていきたいと思っています。人生も、日常生活も脚本のない即興劇そのものです。そして、その即興劇で皆さんは全員主役です。主役ですから、皆さんが変われば話の流れも変わります。ハッピーエンドで終わるのか、バッドエンドで終わるのかを決めているのは、主役である皆さん自身なんです。即興劇ではそんな体験も出来てしまうのです。
2024.01.01
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