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申し訳ありません。ちょっと事務連絡です。本文のブログは別ページです。2月のポランの広場の予定は「ここ」で確認してください。
2012.01.31
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まず最初に、昨日の「孤独からの脱却」に忠武飛龍さんから以下のようなコメントをいただきました。>それで「誰も助けてくれない」と文句を言うのはお門違いです。難しいですよね・・・何故目が開かないのか?何故手を伸ばせることができないか?まで踏み込まないと・・。<中略>お門違いではなく「もう少し冷静になりましょう」ってことかもしれません。これは全くそうで、私の表現はちょっときつすぎました。申し訳ありませんでした。その同じブログにBieneさんが以下のような質問を寄せて下さったので、今日はこのことについて考えてみます。忠武飛龍が書いて下さったコメントともつながってくると思います。意識を広げる、自分の感覚に意識を向ける、とお書きくださっていますが、それは、どうして自分がそのようにこわばってしまうのか、自分と対話するような感覚でときほぐしていく、、、、このような方法でよいでしょうか?よろしかったら、この点について触れていただけますと、たいへん心強く思います。日常的な状態の「意識」を意識するのは非常に困難です。一般的には「意識」を意識する時には意識が自分の内側を向いてしまうので、そこで感じる意識は他者に向かっている時の意識ではなく、自分自身と向き合っている時だけに感じることが出来る非日常的な意識になります。それは日常的な状態での意識ではありません。テレビなどを見ていると、結婚式などでのスピーチを頼まれた人が、鏡の前でスピーチの練習などをやる場面がありますが、「鏡の前のスピーチ」に上達しても、肝心の「人間を前にしたスピーチ」では「鏡の前」のようにはいきません。なぜなら、鏡に映っているのは自分自身ですから、自分を意識しながらでもスピーチの練習が出来ますが、実際の時には目の前にいるのは「自分」ではなく、「別の人」なので、意識がその人たちにとらわれてしまい、「自分」を見失ってしまうからです。また、意識が「ちゃんとやろう」という自分の意識にばかり向いてしまと、心とからだが固まってしまい、録音したテープを流すだけのような退屈なスピーチになってしまいます。そんなスピーチ、誰も聞きません。「よいお母さん」を目指して、子育て書通りの子育てを演じている人も同じです。そんな子育てでは子どもは育ちません。これは武術の稽古などでも同じなのですが、1人でやっている時には出来るのです。(正確には、出来てるつもり・・・)でも、実際に相手がいると全然出来ないのです。私なんかも年中その繰り返しです。でも、相手がいる時にも出来るようにならなければ、その練習には単なる体操以上の意味がありません。じゃあどうしたらいいのかということですが、今まで書いてきたことと矛盾するようですが、実は「意識」を意識し過ぎてはいけないのです。自分の意識を意識しすぎると、自分で自分を縛る結果になってしまい、逆に心とからだが身動きとれなくなってしまうからです。鏡の前の練習は自意識を強くするばかりなので、いくら鏡の前のスピーチが上達しても、人前では話すことが出来ないのです。もし、効果的にスピーチの練習をするなら、海や山に行って、海や山に語りかけるように練習した方が効果的です。ここで大切なことは「上手に話す練習をする」ことではなく、「他者に向けて語りかける練習をする」ということなのです。意識を「自分」ではなく「他者」に向けるのです。(この場合の「他者」とは必ずしも「人」とは限りません。)ですから、別に海や山でなくても、花瓶に挿してある花でも、ペットの犬や猫でもOKなのですが、広い所でやった方がスピーチの練習には効果的だということです。bieneさんは>自分と対話するような感覚でときほぐしていく、、、、このような方法でよいでしょうか?と書いて下さっていますが、確かに「自分との対話」は大切です。そのことで育っていく「自分」もあります。でも、意識を広げるためには「自分との対話」以上に、「他者との対話」が必要なのです。それは、直接自分自身と向き合うのではなく、「他者という鏡に写った自分」と対話するということです。その時、自分の意識とは対話せず、その意識をただ見ているだけの状態にします。「ああ、緊張しているな」とか「どうしてうまく話せないんだろう」などと思っても、その意識をただ見ているだけでスルーさせます。簡単に言うと「他人事」のように自分の意識を観察するのです。でも、自意識にがんじがらめになってしまっている人はこれが苦手です。実は、「自意識に捉われている」ということが、昨日書いた「目を閉じている」ということでもあるのです。だから「目の前にある浮き輪」や「差しのべてくれている手」に気付かないのです。自分との対話を繰り返して自分を変えていこうとしても、それは鏡の前のスピーチを繰り返しているのと同じなのですから、実際の場ではあまり役に立たないのです。むしろ、鏡の前の自分と、他の人を前にしたときの自分のギャップに挫折感を感じてしまうかも知れません。その時、効果的なのは「自己表現」という方法です。上に書いた「海や山に語りかける」というのもその自己表現の一つです。見えたこと、感じたこと、思ったことを、言葉にしてみる、声に出してみる、絵に描いてみる、踊ってみる、行動してみる、などということを通して、「自分という他者」と対話することが出来るのです。そこから意識が広がり始め、成長が始まるのです。*********************************<告知です>二つありますいずれもお問い合わせ、お申込みは<篠>までお願いします。★3月31日(土) 10:00~11:45 「親子で遊ぼう」 私が主催している「ポランの広場」という教室でやっている 遊びなどをご紹介します。 わらべうた、からだで遊ぶ、布やロープで遊ぶなどです。 ポランの卒業生も参加OKです。対 象: 2才から5才くらいまでの20組の親子 兄弟ならこれより小さい子、大きい子が一緒でもOKです。参加費: 1500円(子どもの人数にかかわらず) (ポランの広場の卒業生は1000円です。)備 考: 子どもは裸足でお願いします。お母さんはご随意に。 飛んだり跳ねたりゴロゴロするかもしれませんので、 子どももお母さんも動きやすい服装でおいで下さい。 スカート不可です。会 場: 茅ヶ崎市勤労市民会館5F 「A研修室」 JR茅ケ崎駅北口から徒歩5分です。 お申し込みいただいた方には詳しい場所をお教えします。***************************★「お母さんたちの自分育て教室」12回連続講座お母さんたちの「自分育て教室」を月一回のペースで12回連続で行います。その12回の内訳は 気質の学び 6回 / 表現ワーク 3回 / 心と体のセルケア 3回です。気質の時は連続して参加してほしいですが、表現ワークと、セルフケアの時は単発参加もOKです。ただし、連続して参加してくださっている方より参加費がちょっとだけ高くなります。参加費は基本1500円で参加して下さったときにお支払いいただきます。でも、最初に6回分まとめてお支払いいただけるなら7200円(1200円/回×6回)にします。第一回目は4月16日(月) 10:00~11:50 です。基本的に月曜日にします。会場は上と同じ勤労市民会館ですが、部屋は3Fの「B研修室」です。それと原則として子どもの同伴はできません。子どもはお母さんが何かやろうとすると邪魔をするという本能がありますから。ただし、1歳半頃までなら同伴可です。その頃までならまだお母さんの邪魔に入らないと思います。詳しことは篠までお問い合わせください。
2012.01.31
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1月22日に放映された「NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか」という番組の中で、戦後すぐにアメリカで発表された「幼児の精神的な病気」という論文のことが取り上げられていました。親を失ってしまった子どもたちを保護する施設で、衛生も栄養も充分に与えられていたのにもかかわらず、子どもたち91人のうち、実に2歳になるまでに37%の子どもが死んでしまったというのです。それで色々と調査した結果、結局原因として考えられたのは大人との人間らしい関わり合いと、コミュニケーションの不足でした。その施設では世話をするばかりで一切の話しかけをしなかったのです。また、別の話も読んだことがあります。昔、ある国の王様が、赤ちゃんに一切言葉を教えなければ、子どもたちは神の言葉であるヘブライ語を話し始めるに違いないと思ったそうです。それで、赤ちゃんをいっぱい集めてその実験をしたそうです。その王様も、アメリカでの施設と同じように、子どもたちに食事や衛生は充分に与えました。でも、一切話しかけなかったそうです。でも、そうしたら全員死んでしまったそうです。この話の真偽は不明ですが、意味するところはアメリカの施設の話と同じです。これらの話によって分かることは、幼い子ども達は肌のふれあいや言葉かけによる「心のふれあい」が失われてしまうと生きる気力を失ってしまうということです。テレビに映し出されていた施設の子どもたちの眼は恐ろしいほどに虚ろでした。その状態を「孤独」と言います。人間にとって「孤独であること」は死を意味するのです。お母さんがどんなに一生懸命に子育てをしていても、「○○教育」を取り入れていても、子どもとの間に「心のふれあい」がなければ子どもはの心は孤独になり、心とからだの育ちに歪みを生じてしまいます。逆に、ずぼらな子育てをしていても子どもとの間に心のふれあいがあるなら、子どもの心は満たされ、ちゃんと育っていきます。ただ、難しいのは、ほとんどの場合、子どもと心のふれあいをすることが困難なお母さんもまた孤独な人だということです。孤独だから子どもと向き合うことが出来ないのです。孤独だから自分自身とも向き合うことも出来ないのです。孤独な人はいつでも「自分を守ること」と、「苦痛から逃げること」ばかり考えています。だから、孤独な人は仕事や家事などに対してもちゃんと向き合うことが出来ません。そのため、お母さんが孤独だと子どもも孤独になります。でも、この孤独はお母さんのせいではありません。自分から望んで孤独になる人などいないからです。ちなみに「一人が好き」というのと「孤独」は同じではありません。でも、そのような状態のお母さんに伝えたいのですが、大人になると自分の力でその孤独から抜け出すことが出来るようになるのです、でも、そのためには意識を広げるのと、自分の感覚に意識を向ける必要があります。つながりを外に求めても無駄です。なぜなら自分自身がつながることが出来る状態になっていないからです。実際、あなたの周りに、あなたを助けたいと思っている人は必ずいるのです。でも、あなた自身がつながることが出来る状態になっていないため、そのような人とつながることが出来ないのです。おぼれているとき、周囲のみんなが浮き輪を投げてくれても、目を閉じたままでいたり、手を伸ばさなければその浮き輪につかまることはできないのです。それで「誰も助けてくれない」と文句を言うのはお門違いです。意識を広げたり、自分の感覚に意識を向けると心とからだが「つながることが出来る状態」になります。そうすると自然とつながりが生まれるのです。世の中には「つながりを作ろう」という活動をしている人はいっぱいいます。でも、それだけではつながりを作ることが出来ません。他の人とつながり、孤独から抜け出すためには本人もまた自分を変える努力をする必要があるのです。*********************************<告知です>二つありますいずれもお問い合わせ、お申込みは<篠>までお願いします。★3月31日(土) 10:00~11:45 「親子で遊ぼう」 私が主催している「ポランの広場」という教室でやっている 遊びなどをご紹介します。 わらべうた、からだで遊ぶ、布やロープで遊ぶなどです。 ポランの卒業生も参加OKです。対 象: 2才から5才くらいまでの20組の親子 兄弟ならこれより小さい子、大きい子が一緒でもOKです。参加費: 1500円(子どもの人数にかかわらず) (ポランの広場の卒業生は1000円です。)備 考: 子どもは裸足でお願いします。お母さんはご随意に。 飛んだり跳ねたりゴロゴロするかもしれませんので、 子どももお母さんも動きやすい服装でおいで下さい。 スカート不可です。会 場: 茅ヶ崎市勤労市民会館5F 「A研修室」 JR茅ケ崎駅北口から徒歩5分です。 お申し込みいただいた方には詳しい場所をお教えします。***************************★「お母さんたちの自分育て教室」12回連続講座お母さんたちの「自分育て教室」を月一回のペースで12回連続で行います。その12回の内訳は 気質の学び 6回 / 表現ワーク 3回 / 心と体のセルケア 3回です。気質の時は連続して参加してほしいですが、表現ワークと、セルフケアの時は単発参加もOKです。ただし、連続して参加してくださっている方より参加費がちょっとだけ高くなります。参加費は基本1500円で参加して下さったときにお支払いいただきます。でも、最初に6回分まとめてお支払いいただけるなら7200円(1200円/回×6回)にします。第一回目は4月16日(月) 10:00~11:50 です。基本的に月曜日にします。会場は上と同じ勤労市民会館ですが、部屋は3Fの「B研修室」です。それと原則として子どもの同伴はできません。子どもはお母さんが何かやろうとすると邪魔をするという本能がありますから。ただし、1歳半頃までなら同伴可です。その頃までならまだお母さんの邪魔に入らないと思います。詳しことは篠までお問い合わせください。
2012.01.30
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今日の文章は「お母さん業界新聞 湘南版」のコラムに書いた文章です。********************************* 現代人は毎日毎日忙しく生活しています。その状態を昔の人は「心」という字と、「亡」(うしなう)という字を組み合わせて「忙」と表わしました。それはつまり「心をうしなう」ということです。ただ、ここではっきりとさせておかなければならないことは、忙しいから心を失うのではなく、心を失ってしまうから忙しくなるということです。 どんなに多くの仕事をこなしている人でも、心を失っていない人は忙しさに振り回されないものです。でも、心を失ってしまっている人は、実際にはそれほどの仕事量でなくても忙しく感じてしまいます。 毎日、「忙しい 忙しい」と言っているお母さんは、心を失ってしまっているから忙しいのです。実際、ものすごい量の仕事をこなしながらも「忙しい」とは言わない人もいるのです。そのような人は「忙しい」とは言わず、「楽しい」と言います。 では、その「心を失っている状態」とはどのような状態なのかということですが、簡単に言うと、今やっている仕事に集中しないで、次にやることや他のことを考えている状態のことです。それが「心を失っている」という状態です。 お料理を作りながら、お掃除をしながら、子どもと遊びながら、次のことや他のことを考えていると、忙しくなってしまうのです。当然、楽しくもありません。なぜなら、頭が今やっていることに集中していないので、感覚や、心や、からだが統合されないからです。それは例えば、頭の中で掛け算をしながら、縄跳びをするようなものです。そんなことをしたら、楽しくないし、必要以上に疲れてしまうのは当たり前ですよね。そして現代人はいつでも次のことや他のことを考えながら生活しています。でもだから、疲れるばかりで、楽しむことが出来ないのです。 そして、子育てにおいてはこのことは単に「疲れる」ということ以上に大きな問題になってきます。なぜなら、子どもはお母さんのそのような状態を敏感に感じとり、不安を感じてしまうからです。お母さんは子どもにつきあって一緒に遊んでいるつもりでも、心がどっか他の所に行っていると、子どもは「お母さんがここにいない」ことを直感的に感じるのです。すると、何時間遊んでも、子どもの心は満たされることがありません。そのため、いつまでもしつこくお母さんにまとわり付くことになります。 それでお母さんは「さっきあんなにいっぱい遊んであげたじゃない」と言うのですが、子どもは「労働」を求めているのではなく「心」を求めているのです。心と心が触れ合うことで、子どもの心は満たされ満足するのです。その結果、必要以上にお母さんにまとわりつくことがなくなるのです。 ですから、子どもと遊ぶ時にはしっかりと子どもと向き合うことです。家事をする時にはしっかりと家事をすることです。それが子育てや家事を楽にし、また楽しくする方法でもあるのです。嫌々やっていると、苦しみが増えるばかりですよ。*********************************<告知です>二つありますいずれもお問い合わせ、お申込みは<篠>までお願いします。★3月31日(土) 10:00~11:45 「親子で遊ぼう」 私が主催している「ポランの広場」という教室でやっている 遊びなどをご紹介します。 わらべうた、からだで遊ぶ、布やロープで遊ぶなどです。 ポランの卒業生も参加OKです。対 象: 2才から5才くらいまでの20組の親子 兄弟ならこれより小さい子、大きい子が一緒でもOKです。参加費: 1500円(子どもの人数にかかわらず) (ポランの広場の卒業生は1000円です。)備 考: 子どもは裸足でお願いします。お母さんはご随意に。 飛んだり跳ねたりゴロゴロするかもしれませんので、 子どももお母さんも動きやすい服装でおいで下さい。 スカート不可です。会 場: 茅ヶ崎市勤労市民会館5F 「A研修室」 JR茅ケ崎駅北口から徒歩5分です。 お申し込みいただいた方には詳しい場所をお教えします。***************************★「お母さんたちの自分育て教室」12回連続講座お母さんたちの「自分育て教室」を月一回のペースで12回連続で行います。その12回の内訳は 気質の学び 6回 / 表現ワーク 3回 / 心と体のセルケア 3回です。気質の時は連続して参加してほしいですが、表現ワークと、セルフケアの時は単発参加もOKです。ただし、連続して参加してくださっている方より参加費がちょっとだけ高くなります。参加費は基本1500円で参加して下さったときにお支払いいただきます。でも、最初に6回分まとめてお支払いいただけるなら7200円(1200円/回×6回)にします。第一回目は4月16日(月) 10:00~11:50 です。基本的に月曜日にします。会場は上と同じ勤労市民会館ですが、部屋は3Fの「B研修室」です。詳しことは篠までお問い合わせください。
2012.01.29
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毎回、きついことばかり書いて申し訳ありません。でも、私は誰も非難はしていません。ただ、ちゃんと見ることが出来る目を持ちながら、目を閉じたまま歩き、穴に落ち、壁にぶつかり、蛇を踏み咬みつかれ、崖に向かって歩いている人に、「目を開けなさい」と言っているだけです。確かに、目を開けたら、穴や、壁や、蛇や、崖が見えて怖いかも知れません。だから目を閉じていたいのでしょう。でも、人はそれでも前に進まなければならないのです。そのままの場所に留まっていることはできないのです。自分が動かなくても穴や、蛇や、崖は向こうからやってくるのです。確かに、苦しみと向き合うのは苦しいかも知れません。でも、ちゃんと目を開けて苦しみを見ないことには、それを避けようがないのです。ただその時、「いいかっこ」することを考えてはいけません。怖いよ、やだよ、苦しいよと叫んで、誰かに助けを求めてもいいのです。大切なことは「かっこつけること」ではなく、目をそむけないこと、目を閉じないことだからです。目を閉じて怖くないふりをして、かっこつけても、目を閉じたままでは苦しみから逃れることは出来ないのです。また、私の太極拳の先生は「相手を握るな」と言いました。人は相手の自由を奪おうと思って相手を握るのでしょうが、実は握られた相手より握った方が不自由になってしまうからです。握ることで相手を束縛しようとするとき、からだや腕などに力を入れる必要があります。でも、そのことで逆に自分自身が不自由になってしまうのです。相手の腕を握った時、相手も素人でこちらの力に反応してからだを固め、頑張ってくれれば力と力の勝負になり、力が強い方が勝ちます。でも、相手が力を入れなければ相手の自由を奪うことは出来ません。こちらは力を入れて不自由になっているのに、相手はこちらが握っている部分以外を自由に動かすことが出来るのです。それでは勝ち目がないのです。こんな武術の話し、自分や子育てに関係がないと思っていますか。でも、「からだの使い方」は「心の使い方」と相似形なので、実はそのまま関係しているのです。子どもを束縛しようとしているお母さんは、子どもを束縛するためにいつも心とからだを固めています。でも、子どもは自由に行動します。束縛されるとしてもお母さんがいるときだけです。だからほとんどの場合子どもの方が勝ちます。子どもはいつもお母さんの予想を超えた動きをするものです。そんな、自由に動く子どもと対等に関わるためには、お母さんもまた自由でなければならないのですが、目を閉じたままでは自由に動くことが出来ません。だから目を閉じたままのお母さんは子どもを束縛しようとします。でも、自由な状態の子どもは逃げます。それでも、お母さんの方が力が強いので、お母さんが力づくで羽交い絞めにすれば子どもの自由を奪うことは出来ます。でも、その状態ではお母さんも子どもも何にも出来ません。その結果、お母さんは子どもを束縛することだけを考え、子どもはお母さんから逃れることばかりを考えるようになります。そして、親子ともそのまま一生を終えることになります。でも一般的には、お母さんの方が先に人生を終えます。また、結婚などでお母さんから離れることもあります。理屈としてはそこで自由になることが出来るはずなんですが、でも、幼い時からお母さんに抱きつかれたまま、自由を体験しないで育ってしまった人は、現実を見ることを恐れ目を閉じたままです。しかも、自分が目を閉じていることすら知りません。でも、だから自由に生きることが出来ません。自由に生きることができないということが「目を閉じていること」の証拠なのですが、でも、そんなこと誰も教えてくれません。また、知りたくもありません。そして、自分もまた抱きつく相手を求めます。誰かに抱きついていないと不安だからです。多くの場合、身近にいる子どもに抱きつきます。子どもが逃げようとすると羽交い絞めにします。その結果、歴史が繰り返されます。この悪循環から抜け出すためには自由になる必要があるのです。目をあけ、苦しみと向き合うのは自由になるためなのです。また、固まってしまっている心とからだを緩める必要もあります。いくら自由になりたいと思っていても、心とからだが固まったままでは動きようがないからです。下を見てばかりいる人は上も見るようにしましょう。すると首が緩みます。部分ばかり見ている人は全体も見るようにしましょう。すると目が緩みます。自分のことばかり考えている人は、相手のことも考えるようにしましょう。すると意識が緩みます。歩かない人は歩くようにしましょう。するとからだが緩みます。声を出さない人は声を出すようにしましょう。すると胸が緩みます。こういうことは全て自由になるために必要なことなのです。自由になると、自然に束縛は消えていくのです。実は自分を縛っているのは自分自身だからです。*********************************<告知です>二つあります★3月31日(土) 10:00~11:45 「親子で遊ぼう」 私が主催している「ポランの広場」という教室でやっている 遊びなどをご紹介します。 わらべうた、からだで遊ぶ、布やロープで遊ぶなどです。 ポランの卒業生も参加OKです。対 象: 3才くらいから6才くらいまでの20組の親子参加費: 1500円(子どもの人数にかかわらず) (ポランの広場の卒業生は1000円です。)備 考: 子どもは裸足でお願いします。お母さんはご随意に。 飛んだり跳ねたりゴロゴロするかもしれませんので、 子どももお母さんも動きやすい服装でおいで下さい。 スカート不可です。会 場: 茅ヶ崎市勤労市民会館5F 「A研修室」 JR茅ケ崎駅北口から徒歩5分です。 お申し込みいただいた方には詳しい場所をお教えします。***************************「お母さんたちの自分育て教室」12回連続講座お母さんたちの「自分育て教室」を月一回のペースで12回連続で行います。その12回の内訳は 気質の学び 6回 / 表現ワーク 3回 / 心と体のセルケア 3回です。気質の時は連続して参加してほしいですが、表現ワークと、セルフケアの時は単発参加もOKです。ただし、連続して参加してくださっている方より参加費がちょっとだけ高くなります。参加費は基本1500円で参加して下さったときにお支払いいただきます。でも、最初に6回分まとめてお支払いいただけるなら7200円(1200円/回×6回)にします。第一回目は4月16日(月) 10:00~11:50 です。基本的に月曜日にします。会場は上と同じ勤労市民会館ですが、部屋は3Fの「B研修室」です。詳しことは篠までお問い合わせください。
2012.01.28
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25日のブログに「自分探し」ということに関してそのメガネに気づくためには、メガネを探すことをやめる必要があります。メガネを使ってメガネを探すことをやめた時、メガネの存在に気づくのです。ということを書いたのですが、今日はそのメガネ(自分)に気づく方法について簡単に説明させていただきます。「座禅」という方法があります。基本的に座禅はただ座るだけです。ただ座るだけなのに、どうして色々なことに気づいたり、自分自身を成長させることが出来るのかというと、からだの動きを止めることで、そのからだの内側で働いている心や感覚の働きに気づくことができるからです。自分を見失ってしまっている人は、その心や感覚の働きに支配されて、毎日自動機械のように同じパターンで考え、同じパタンで感じ、同じパターンで行動しているものです。でも、そのことに気づいてはいません。なぜならそのことに気づいた人は同じことを繰り返さなくなるからです。だから、毎日繰り返している人は「気づいていない人」なのです。お母さんたちは毎日「早くしなさい」と子どもをせかしていますが、私が今まで何百人という人に聞いた結果からすると、どうも子どもは「早くしなさい」と言われても早くすることが出来ないようです。それが出来たという子の話を聞いたことがないからです。それでもお母さんたちは毎日「早くしなさい」と言い続け、子どもを追い立てています。言っても無駄だということはお母さんたち自身がよく知っているはずなのに、それをやめることが出来ないのです。実は、それが苦しいことでも、意味がないと分っていることでも、一度身についてしまった習性を変えることは非常に困難なんです。そのように心と感覚の状態が固定してしまっているからです。特に、そのことを学んだ時期が幼ければ幼いほど変えることが困難です。例えば、字の書き方、歩き方、話し方、しぐさなどはめったに変えることが出来ません。ですから、お母さん自身も、幼いころから「早くしなさい」と言われるづけてきたのでしょう。それと同様に、感情の使い方、感覚の使い方、からだの使い方も変えるのが困難です。なぜ困難なのかと言うと、そのようなものは全部「無意識」が処理してしまっているからです。人間は、幼い時に学習したことは無意識が処理してしまうようになっているのです。そして、人は「無意識」が処理しているものを、自分の意志で変えることは出来ません。なぜなら、意識出来ないからです。意識出来ないものを変えようがありません。人が意識することができるのは、その無意識が行った「結果」だけです。子どもを叱ったり、叩いたりした後で、叱ったり、叩いてしまったことに気づくのです。そして、反省するのですが、また、叱ったり、叩いた後にそのことを思い出すばかりです。叱る前、叩く前に気づいてそのことを回避できればいいのですが、なかなかそううまくはいかないものです。また、気づいたとしても、自分の感情とからだは自動的にいつもと同じ反応で動いてしまい、それを抑えることは困難です。なぜなら、自分の心やからだと対話する方法を知らないため、心やからだを説得することが出来ないからです。座禅は、ただ座るだけです。何もしません。でも、何もしてはいけない状況なのに無意識は勝手に何か活動を始めようとします。座禅をしていないときは、すぐにその無意識の誘いに乗ってしまって反応してしまうので、無意識の存在に気づかないのですが、無意識からの誘いを断ることで無意識と向き合うことになるのです。そして、心やからだ(感覚)との対話が始まります。そのような修行をズーッと続けていると、無意識に働いていた自動処理プログラムを停止することが出来るようになるのです。そして、オート(自動)ではなく、マニュアル(手動)で自分の心とからだ(感覚)と関わることが出来るようになります。つまり、簡単に言うと「座禅」は「無意識に支配されたオートマ的な生き方」を、「意識と自覚に基づくマニュアル的な生き方」に変える作業なのです。そこで初めて、自分が「自分」の主人公になることが出来るのです。でも、当然そこには義務と責任が発生してきます。「オートマ的な生き方」をしている人は、「自分の苦しみや行動の原因は自分を育てた親のせいだ」と言いますが、「マニュアル的な生き方」では、すべて自分自身の責任になります。自分を「アダルト・チルドレンだ」と言って、身を守ろうとしている人は「オートマ的な生き方」をしている人です。また、「オートマ的な生き方」をしている人は、いつも「忙しい 忙しい」と言っています。なぜなら、自動処理プログラムによって振り回されてしまっているからです。「忙」という漢字は「心を失う(亡う)」と書きます。仕事の量にかかわらず、人は、心を失っている時に「忙しい」と感じるのです。ですから、「マニュアル的な生き方」をしている人は山のような仕事を抱えていても忙しいとは感じず、「オートマ的な生き方」をしている人は、ちょっとしかやることがないのに忙しいと感じてしまいます。そして、「こんなにも頑張っているのに」と言います。「座禅」は、このような状態から抜け出すための方法です。でも、だからといって私はみなさんに「座禅をしなさい」と言いたいわけではありません。また、子育て真っ最中のお母さんにそんな時間的なゆとりはありません。また、一人では出来ません。お寺ではグラついたら叩いてくれるお坊さんがいるから、座っていることが出来るのです。じゃあどうしたらいいのか、ということです。<明日に続きます>
2012.01.27
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今日は、あーやんさんからの以下のコメントに答えさせていただきます。ただ、あーやんさんだけでなく、似たような状態のお子さんをお持ちで、同じような問題で苦しんでいる方へのメッセージも含めています。初めてコメントします ^ ^子どもを追い立てないこと・・・とても大切だと思いますが、小2の息子は、宿題・明日の用意・習い事の練習(バイオリン)を自分からすることは無く、やらねばならないことよりも、目の前にあるやりたいことを選んでしまうので、追い立てずには生活が成り立ちません。放っておけばご飯も着替えも取り掛からず、やりたいことに集中してしまいます。発達障害(アスペ&ADHD)のせいもあると思いますが。。。現在、通級指導教室に週1で通っているので、相談しながら叱らずに済む工夫(事前告知⇒褒める⇒乗せるシステム)をする毎日です。自己肯定感を損なわぬよう、叱りながらも「そんな君が大好きだよ」のメッセージは忘れないように心がけています。発達障害や自閉症の子どもたちの一番の特徴は「見て学ぶ」ということが苦手なことです。そのような障害を持っていない子の場合は、ただ一緒に暮らし、普通に関わっているだけで、特に教えなくても周囲の人のやっていることを見て、勝手に学んでいくことが出来るのですが、このような障害を持っている子はそれが困難なんです。それにはいくつかの原因があります。また、障害によっても原因は異なります。人間の能力の仕組みは基本的に自己学習型ロボットと同じです。そして、その能力はいくつかの要素に分けることが出来ます。それは「入力能力」「内部処理能力」「統合能力」「出力能力」「フィードバック能力」「コントロール能力」などです。そして、人間の場合、この能力の中のどれか一つでも不安定なら、それは「障害」という形で現れます。そして「見て学ぶ」ということが困難になります。一概には言えませんが、ADHDの子の場合は、主に「入力能力」「統合能力」においてトラブルがあるのではないかと思います。その背景には「からだ」の問題が隠れています。一般的に発達障害の子のからだには強い緊張があります。そして、なかなかゆるまないのです。でも、その一方で弛緩したままで力が入らない部分もあります。そのため、「過敏」と「鈍感」が共存した状態になっています。好き嫌いも強いです。つまりからだ全体がつながりの中で「一つのからだ」として統合されていないのです。ですから、からだ全体を統合して使うような活動は苦手です。(必要以上に力を入れて激しく動くことはできても、ゆるめてゆっくり、丁寧に動くことは苦手です。)そのため、感覚にも偏りが生じ、周囲の世界からの情報を正確に読み取ることが出来ません。また、「感覚の偏り」は「好みの偏り」にもつながります。つまり、そのようなトラブルがない子の場合は、それなりに全体を見ることが出来るのですが、そのようなトラブルを持った子は常に部分しか見ることが出来ないのです。その結果、出来ることと出来ないことの差が大きくなり、全体としてのバランスがとれた成長は遅れることになります。でも、この場合追い立ててしまっても問題は解決できません。根本的な問題が何にも解決できないからです。無理して追い立てればなんとか結果は合わせることが出来ますが、それで子どもが成長するわけではありません。ですから、「追いたてる人」がいなくなれば、子どもは何もしないままになってしまいます。また、追いたてることで何とかすることが出来るのは低学年までです。高学年になると追い立てても動かなくなります。思春期が来ると、動かないどころか暴力という形で反抗するようになることもあります。大事なことは、お子さんがただ単にやる気がないのでも、お母さんに反抗しているのでもないということです。お母さんには考えられないことかも知れませんが、すぐに「今自分がやっていること」を忘れてしまったり、「何をしたらいいのか」、「どうしたらいいのか」が本当に分らないのです。だからといって、説明しても分りません。説明の前提となる部分が共有されていないからです。だから「追いたてる」のではなく、ただ単に「どうしたらいいのか」を具体的に教えてあげるのです。一見、効率は悪くなりますが、長い目で見た時にはその方が効果的です。無理して学校が要求する結果に合わせる必要はありません。学校はお子さんの人生に何の責任も持ってくれないのですから。周囲の人の目を気にするのもやめた方がいいです。お母さんはお子さんの成長だけをしっかりと見て下さい。お子さんの「成長」を見ることが出来るのはお母さんだけであって、先生にも、周囲の人にも見えないのです。周囲の人に見えるのは結果だけです。だから好き勝手なことを言うのです。その時、簡単な「作業のチェック表」のようなものを作り、自分でチェックさせたりすると効果的です。「洋服を片付ける」「宿題をする」などという項目ごとにチェックできるような表を作るのです。そして、その作業を忘れていたら教えてあげる。チェックが出来たら褒めてあげるということです。自分のやっていること、やるべきことが視覚化されることで意識が統合化されていくのです。逆に、出来ていない所を叱り、追いたて、出来ても「当たり前」という態度を続けていると、ますますやる気を失うばかりか、心が傷ついて一生のその傷に苦しむことになります。また、からだ全体が統合されるような遊びも有効です。それは例えば、お手玉、けん玉、竹馬、コマ回しなどです。それらは昔の子の遊びです。つまり、昔の子どもたちは遊びを通して「自分育て」をやっていたのです。逆に、テレビやゲームはその統合を壊すように働きかけるので、ゼロにしろとは言いませんが、出来るだけ少なくした方がいいです。そうしないと回復が遅れます。また、感覚に働きかけるような言葉かけ、関わりも重要になります。感覚は「意識」、「知性」、「心」、「からだ」など、人間の「まるごと」とつながっているので、感覚の働きが整うと「全体」が整うのです。一見無関係なようですが、整体も有効です。ここにも書いたように、このような子どものからだには強い緊張と偏りがあるからです。私が整体を学んだ岡島瑞徳先生は「子どもの問題行動も整体で治せる」と言っていました。「心の問題」の背景には「からだの問題」が隠れているということです。「ブレインジム」という体のバランスを矯正するようなエクササイズもあります。そして今、生活がゆがむことで子どもたちのからだもゆがんできてしまっています。それが「心のゆがみ」を生み出しています。
2012.01.26
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昨日は子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。だから子どもも「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。と書きましたが、ではその「ありのままの自分」に気づき、受け入れるためにはどうしたらいいのかということです。最近は「自分探し」などをする人もいっぱいいますが、「自分」は探しても見つかりません。なぜなら、その自分探しをしているのが、「自分」だからです。それはつまり、メガネをかけてメガネを探しているようなものです。そのメガネに気づくためには、メガネを探すことをやめる必要があります。メガネを使ってメガネを探すことをやめた時、メガネの存在に気づくのです。小さい時から比較されてきた人の意識は常に外側をむいています。意識が外側をむいているので自分のことが分りません。それで、人からの評価や、学歴や、収入や、社会的地位や、テストの点数などといった「他者の基準」によって自分の位置を確認しようとします。でも、「本当の自分」はそんな基準では測ることが出来ません。本来、自分にとって「自分」は唯一無二であり、比較不可能な存在だからです。自分の生命も、自分の心もからだも、自分の人生も、唯一無二であり、比較不可能な絶対的存在なのです。だから、比較しても無意味なんです。よく算数の問題で、「リンゴ3個とミカン5個を足したら、全部で何個でしょう」などという問題がありますが、本当はリンゴとミカンは足せないのです。そもそも、「リンゴ3個」という言い方自体が変です。一個一個異なるものを同じ基準で数えてしまっているからです。その3個は大きさも色も味も違うかも知れません。一個は大きいけどまずくて、もう一個はまだ熟していなくて、最後の一個は小さくても美味しいかも知れません。これが「現実」です。そして、子どもたちも、またジャングルの中などで未開の生活をしている人たちもこの「現実」の世界を生きています。だから「数」が分からないのです。文明社会に生きている大人は、全ての存在を社会的価値基準に従って抽象化し、一つ一つの違いを無視する習慣がついてしまっているから、全ての存在を簡単に「数」に変換してしまいますが、そのような習慣がない子どもや人たちにとっては、「物や存在を数に変換する」という発想自体が予想外のことなのです。現代人は簡単に「人間」まで数に変換してしまいます。そして人と人を「数」や「量」によって比較しています。そのため、現代人は「本来すべてのものは一個一個が絶対で、比較不能な存在なのだ」ということを忘れてしまっています。70億人の人間の世界を「100人の村」に変換することで見えてくるものもありますが、逆に見えなくなってしまうものもあるのです。本当は、その「見えなくなってしまうもの」こそが大切にされなければならないことなのです。70億人の人間の中には「私」も入っていますが、「100人の村」の中には「私」はいません。その「100人の村」には生命も喜びも悲しみもありません。その村の住人には名前すらないでしょう。あるのはただ数と量だけです。山を切り崩して1万本の木を伐採しても、別の所に一万本の木を植林すれば何の問題もないと考える人たちがいます。それは100人の人を殺しても、また100人産めば問題ないという考え方と同じです。逆にいえば、100人産んだなら、100人殺す権利があるということになってしまいます。それって正常な考え方だと思いますか。確かに、統計的、政治的、経済的にはその通りかもしれません。でも、それは人間の観念の中だけに存在する空想の世界の話であって、現実の世界の話ではありません。そんなことをしたら、現実の世界は狂ってしまうのです。ありのままの世界、ありのままの自分を受け入れることが出来ない人は「空想の世界」に生きているのです。そして空想の世界の中に「本当の自分」はいないのです。ちなみに、「文明」はその空想の産物です。ただ私はその「空想」(文明)を否定しているのではありません。空想と現実を取り違えてしまっている現代人の意識と、その意識によって支えられている現代文明を否定しているのです。ですから、決してその社会の中で不可抗力的にそのような考えにとらわれてしまっている人を攻撃をしているわけではありません。なぜなら、そのような人もまた被害者だからです。現代人は頭が作り上げた「空想」の方が「現実」で、生命が生きている「本当の現実」の方を「空想」だと思い込んでいます。だから平気で子どもが言うことを否定することが出来るのです。その「空想の世界」は「裸の王様」が着ている「立派な洋服」のようなものです。子どもにはそんな「空想」、見えません。だから「王様ははだかだ」というのです。物語の中の大人たちはその言葉で「現実」に気づくのですが、現代人は逆に、子どもに対して「間違っているのはお前だ」と押し付けています。王様に褒めてもらってご褒美をもらいたいからなのでしょうか。それとも、もう現実を見ることが出来なくなってしまっているからなのでしょうか。
2012.01.25
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子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。だから子どもも「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。そして、大人になり、親になり、今度は自分の分身としての子どもを比較し、追い立てます。そのような人は、常に比較し、追いたてていないと不安なんです。成長を続けていないと維持できない経済システム、人口が増え続けていないと維持できない政治システムはそのような人たちによって作られ、維持されて来ました。また、そのような社会がそのような子どもや人を育ててきました。そのような社会を維持するためには、立ち止まること、自分と向き合うことに不安を感じる人が必要だからです。常に比較し、競争しようとする意識が経済活動を活性化させる原動力なのです。ですから、そのような社会の価値観を善とする人たちは、子どもを比較し、追いたてることも善であって、非難されるようなことではないと思い込んでいます。だから原発は善であり、原発反対は悪なのです。そして、その結果原発が、また社会全体がこのような状態になってしまっても、「原因不明」もしくは「不可抗力」で済まそうとするのです。それが現代日本の政治経済の中枢にいる人たちの価値観なんです。ですから、この問題は個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもあるのです。そのことに気付かないと個人の問題も解決できません。20万年前の感覚を持ったまま生まれてくる子どもたちにはその現代社会の感覚や考え方は理解できません。20万年前の人類に必要な能力は助け合う能力、分かち合う能力であって、比較し、競争する能力ではないからです。そんなことをしていたら人類はとっくの昔に滅亡していたはずです。実際、幼い子どもたちは助け合ったり、分かち合っている時には天使のような笑顔を見せてくれます。でも、比較され、追いたてられている時には悲しそうです。そして今、比較と競争によって支えられてきた社会が限界を迎えようとしています。これは日本だけのことではなく、世界全体で起きていることです。私たちの生命を支えてくれている地球が、比較と競争によって拡大し続ける人類を支え切れなくなってしまったからです。人類は20万年をかけて、森を切り開き、荒れ地を開墾し、海を埋め立て、獣を殺し、自分たちの住む場所を広げてきましたが、とうとう「地球」そのものが限界として立ち現れるところまで来てしまったのです。そしてこの「限界」だけは取り除くことができません。人々は何万年も狭い洞窟や村の中で助け合って生きてきました。今私たちはまた、狭い地球の上でどのように助けあって生きていくのかを考えなければならない時代になったのです。そして、この状況はこれから先も変わることがありません。古代の人たちと違って、私たちは地球の外に新天地を求めることが出来ないからです。「科学を進歩させ、別の惑星へ移住すればいい」と考える人もいますが、経済や政治が衰退してしまえば科学もまた衰退するのです。近代科学は、お金がなくなればそこでストップしてしまうのです。それに宇宙船を作るのにもお金は必要です。それにそのような宇宙船が出来たとしても、一部の特権階級の人しか乗り込むことはできないでしょう。少なくとも、私やあなたは乗り込むことはできないのです。だから私たちはこの狭い地球でどのように助けあい、支えあって生きることが出来るのかということを真剣に考えなければいけないのです。そのためには、まず、比較し競争することをやめることです。そして、自分と向き合うことです。どんなに苦しくても「自分」から目をそむけてはいけないのです。そして、子どもの笑顔が増えるような社会を作ることです。子どもの笑顔こそが、新しい未来を作る時の羅針盤なんです。なぜなら子どもたちは、人々がまだ助け合い、支えあって生きていた頃の記憶を持っているからです。逆にいうと、現代社会はその「子どもの笑顔」を否定する方向で発展してきたということです。だからこんなにも困ったことになってしまっているのです。
2012.01.24
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昨日の「NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか」をご覧になられましたでしょうか。番組の中で言われていたことの多くは、いつも私が言っているようなことです。そして私は、子育ての場においても、教育の場においても「なぜ人間になれたのか」という視点をもって、20万年前と同じ状態で生まれてくる子どもたちとかかわる必要がある、ということを言いたいのです。大人たちはその20万年の歩みをすっ飛ばして、いきなり「現代」を教え込もうとしますが、それは家作りにおいて、基礎も、土台も、構造も作らず、いきなり外装から作り始めるようなものです。でも、そのままでは外装を固定する構造がないため、接着剤で外装と外装をくっつけて見かけだけ整え、ごまかしています。それは映画などのセットのようで、一見本物のようですが、中身がありません。そのため、ちょっとした衝撃ですぐに壊れます。また壊れなくても、使い物になりません。人と人のつながりを大切にし、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と責任で行動出来ないような人は、奴隷やロボットのような仕事はできても、「人間としての仕事」が出来ないのです。その「人間としての仕事」の中でも一番難しいのが「人を育てること」です。これが出来れば人間として一人前です。これが出来なければ半人前です。なぜなら人間は「人を育てること」をつなげて「人間」になってきたのですから、人を育てることが出来ない人はその流れに入ることが出来ないのです。そういう意味での「半人前」です。そして当然のことながら、「人を育てる」ことは「お金を稼ぐ」ことよりももっと高度で難しいことです。でも、現代社会ではその人間を「人間」たらしめている根幹のところが崩れてしまっています。その一番大きな原因は、子育てや教育や社会などの場で、常に子どもたちを比較し、競争させていることです。子どもを比較し、競争させてはいけないのです。それをやってしまったら子どもたちは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうのです。比較や競争で育てることが出来るのは「個人的な能力」や「労働者として働く能力」だけであって、「人間」としてつながりの中で生きる能力ではありません。でも、現代社会は「個人的な能力」や、「労働者として生きる能力」が高い方が、高い収入を得ることが出来る社会です。だから、親たちはみんな子どもを追い立てて「個人的な能力」を育てようとしたり、「立派な労働者」にしようとしているのでしょう。でも、だから社会全体が崩壊しかかっているのです。社会をつないでいた「人間としての心」が崩壊しかかっているからです。そして、社会が崩壊してしまったら「個人的な能力」や、「労働者として生きる能力」は全く価値を失ってしまいます。つまり、私たちは私たちが乗っている木の枝を幹から切り離そうと、一生懸命ノコギリで切っているようなことをやっているのです。人はつながりのなかで人間らしく生きている時生き生きとしていますが、つながる喜びを感じることができない生き方をしていると、どんどん無気力になるのです。人間は本能的に「つながり」のなかに自己実現を求め、「つながり」のなかでの自己実現に幸福を感じる生き物です。それは子ども達がどんなに時に喜びを感じているのかをよく見ていると分ります。何かが出来た時、いいことがあった時、子どもは「ねえねえ、見て」とか「ねえねえ、聞いて」とお母さんのところに来ます。一緒に喜んでほしいからです。そして一緒に喜んでくれる人がいるから、それがまた喜びになるのです。どんなに頑張っても、どんなに素敵なことがあっても、一緒に喜んでくれる人がいないと、やがてそういうものに喜びを感じなくなってしまうのです。本来は、子育てもまたその「自己実現」の一つの形なのです。なぜなら「子ども」を通して「共に喜ぶ仲間」を得ることができるし、「自分が生きてきた証」を残すことも出来るからです。そのことが分っている人は子育てにも喜びを感じることが出来ます。まったくの会社人間で、子育ては全部お母さんに任せて、自分はただお金を稼ぐだけの労働者として生きているお父さんは、定年退職後自分が生きている価値を失うことになります。会社にとっての価値が消えるばかりか、お金でつながっていた家族にとっての価値も消えます。そのため、お父さんの定年退職を機に熟年離婚する人も多いようです。もう、一緒にいる価値がなくなってしまったからです。お父さんとしては「今まで食わしてやっていたのに裏切られた」と思うのでしょうが、「お金を運ぶだけの人」が、お金を運ばなくなったら必要なくなってしまうのは当然のことです。これはまた、子どもを追い立てているお母さんも同じです。子どもを追い立てているお母さんは「追い立てる」という行為の中に自分の居場所を見つけています。そして、「私が追い立てないと子どもは何もしない」と思い込んでいます。子どもはその押し付けから逃げようとするか、反抗するか、従順に従って依存するようになります。そして、子どもが逃げたり反抗すれば、「こんなにも苦労して育ててあげているのに・・・」と言います。でもそれは「食わしてやっているんだから」というお父さんの論理と同じです。子どもが従順に従うようになるとお母さんは満足します。でもその結果、子どもは「自分」を失い自己実現の道が閉ざされます。だから苦しくなります。そしてやがて、暴力的な形で「お母さん」という檻を壊そうとしたり、逆に「引きこもり」という形でお母さんから逃避しようとします。(これがお父さんの場合もあります。お母さんだけを責めてるわけではありません。)ただ問題は、子どもを追い立てているお母さんは、一見「子どものために一生懸命になっている立派なお母さん」に見えてしまうことです。お母さん自身もそう思い込んでいるのでしょう。だから厄介なのです。ここにも競争意識が働いています。お母さんが自分自身を他のお母さんと比較し、他の母さんたちに競争意識を持っているから、「自分」を失い、人間らしく生きることが出来なくなってしまっているのです。それもまた、幼いころから比較され、競争に追い立てられてきたことによって学習してしまった反射行動です。ちなみに、「子どもを受け入れる」ということは、子どもを他の子どもと比較しない、競争させないということでもあるのです。決して、言いなりになることではありません。そしてまた、「自分を受け入れる」ということは、自分を他の人と比較しない、競争しないということなのです。比較してしまったらそれだけで受け入れていないことになるのです。
2012.01.23
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人間はその「人間らしさ」の大部分を、他の人間との「人間らしい関わり」を通して学んでいく動物です。今、人間は高度な文化や文明の中で暮らしていますが、これは過去数万年の歴史の積み重ねで、子どもから子どもへと「人間らしい関わり」を通して伝えられてきたものです。ですから、現代に生まれた子どもたちでも、他の人間との「人間らしい関わり」を失えば簡単に数万年前の人間の状態に戻ってしまうのです。いや、下手をするとそれよりも状態が悪くなってしまうかも知れません。なぜなら、未だかつて子どもたちが群れから切り離されて育てられていた時代はないのですから。簡単に言うと、人間の文化も文明も「伝承」による自転車操業的な状態の上に成り立っているということです。そのため「伝承」が止まれば文化も文明も簡単に消滅してしまうのです。そしてこれは、思想や哲学や価値観の問題として処理すべきではなく、事実として受け入れ、向き合わなくてはいけない問題です。子育ても教育もこの事実を前提にして考えられなければならないのです。それなのに、子育ての専門家も教育の専門家も「個」の問題だけを扱い、このことを語りません。現代人の多くは子どもたちの「個の能力」を高めることだけに夢中です。そして「つながりを作る能力」、「つながりの中で生きる能力」「伝承するつながり」を育てようとはしていません。私は長い間子どもとかかわる仕事をしていますが、子どもがどんどん幼稚になってきているような気がしてならないのです。うちの子の上二人はそれぞれ公立高校と公立中学の先生をしているのですが、高校の方はそのレベルにあった子どもたちですからそれは「それなりに」という状態ですが、中学の方は地域の普通の子どもたちが集まっています。その「普通の子どもたち」がヤバイ状態なのです。先日、某小学校の先生ともお話ししたのですが、その小学校の状態もなかなかすさまじいものでした。私が子どもの頃には考えられないような状態が、今普通の状態になってしまっているのです。ちなみにその小学校は私の母校です。でも、私たちには学校を変える力はありません。確かに、担任の先生とお話しすることでクラスを変えることは可能です。でも、それも先生次第です。親たちがつながりあって校長先生とお話し、学校を変えることも可能です。でも、それも校長先生次第です。そして出来るのはそこまでです。「日本の教育」までは変えようがありません。でも、家庭を変えること、子どもとの関わり方を変えることで、子どもの育ちをサポートすることなら私たちにも可能です。というか、私たち一人一人が確実に出来ることはそれしか残されていないのです。具体的にはどうしたらいいかと言うと、子どもを比較しないこと、子どもを追い立てないこと、子どもを「つながり」のなかに連れ出すこと、子どもと様々な形で関わること、そして家族を「助け合うつながりによって支えあう共同体」にすることなどです。すると、子どもは柔らかいですからすぐに変わります。子どもの年齢が低いほど変わりやすいです。でも、年齢が上がるにつれて変わりにくくなります。思春期が近くなってきたり、思春期が過ぎてしまうと本人の自覚がないと変わらなくなります。でも、本人の自覚さえあれば人は何歳になっても自分を変えることが出来ます。それは人間だけが持っている素晴らしい能力です。そのためには自分の環境を変えることです。心の中だけでどんなに苦しんでも、自分で自分を追いつめても、環境を変えない限り自分を変えることはできません。人間は環境に適応する形で変化するのです。人間は環境によって作られる動物なのです。それは子どもも大人も同じです。「修業」とは自分の成長に必要な環境の中に身を投じ、その環境を肯定的に受け入れることです。また、今現在逃げようとしている状況(環境)を肯定的に受け入れることもまた「自分を変える修行」になります。子どもは大人が作った環境の中で生きることしか出来ませんが、大人になったら自分でその環境を変えることが出来るようになるということです。それが人間の可能性です。そして、子どもにとって一番影響力の強い環境が「家庭」であり、「家族」なのです。だから、お父さんの役割はただ「お金を運ぶ」だけではないのです。「家族」というつながりに参加しなければいけないのです。一般的には、今、子どもたちの周りに「家族」以外の「助け合うつながり」存在していないのですから。子どもたちに食事風景、家族の絵などを描かせると、「お父さん」を描かない子が結構いるようです。「仕事でいないから」というだけでなく、毎日一緒に食事していても、絵の中に描いてもらえないお父さんが結構いるのです。先日も書きましたが、子どもの絵は「子どもの心の世界」の現れです。子どもは「事実」を描くのではなく、「自分の心の中の世界」を描くのです。ですから、子どもの絵に描いてもらえないお父さんは、「子どもの心の中にいないお父さん」だということです。でも、それって寂しいですよね。ちなみに、「家族の絵」を子どもに描いてもらうと、子どもが「家族」に対してどのような印象を持っているのかよく分りますよ。もしあなたが、家族というものに全く協力的ではない男性と結婚してしまっているのなら、お母さん自身の「仲間作り」を通して、子どもの環境を変えて下さい。そのことで同時に「お母さん」も変わることが出来ます。
2012.01.22
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子どもは「助け合うつながり」によって支えられている共同体の体験を通して「人間らしさ」を育てていきます。もっといえば、そのような共同体の体験がない子は、どんなに高い能力を育てることが出来ても、「人間らしさ」を育てることは出来ません。このことが分らない人は「人間らしさとは何か」ということが分らない人です。今、助け合うことが出来ない人、他の人とつながることが苦手な人が増えています。そして、その状況は子どもたちにおいてますます加速しています。大人であれば、それでも理性の働きによって、または利害関係によって、頑張って他の人とのつながりを維持することが出来ます。だから心もからだも疲れてしまうのですが、でも、無理をすれば出来ないことではありません。でも、それは大人の話です。本当は、「学校」もこの「人と人のつながりによって支えられている共同体」としての要素を持っているはずなので、それが機能すれば子どもたちは「共同体」の体験が出来るのですが、今の学校のシステムは子どもを管理するようにしか出来ていません。子どもたちを点数化して競争させ、また常に「勉強しないと・・・」と子どもたちを脅かしているような場では「助け合うつながり」は生まれようがないのです。そして子どもたちは苦しくなります。なぜなら、子どもの育ちには「つながり」が必要だということを、子どもたち自身が本能的に知っているからです。だから群れようとするのです。確かに、つながりによって支えられている素敵なクラスもありますが、それは学校のシステムとしてそのような状態が作られているのではなく、担任の先生の個人的な人間性によって支えられています。そして、そのようなクラスは多くありません。自我というものがまだ未成熟な子どもたちは、自分を抑えることが出来ません。また、子どもは目先のことしか分らないため、大人ほど「利害関係」というものを理解することが出来ません。そのため、いつでも衝動のままに動いてしまいます。だから、子どもたちがどのような衝動を持っているのかという状態を見ていると、子どもたちが置かれている状況が見えてきます。助け合ったり、他の子とつながったりすることが出来る子もいます。そのような子は我慢しているわけでも、無理しているわけでもなく、それがそのような子の衝動なのです。そのような子は「助け合うことによって支えられている共同体」の体験がある子です。それは「家族」の場合が多いのですが、そうでない場合もあります。それに対して、授業中でも自分勝手に動き回ったり、欲望や興味のままに行動する衝動が強い子が増えてきています。そのような子は、何らかの障害を抱えているか、「助け合うことによって支えられている共同体」の体験をすることが出来ないまま成長してしまった子です。昔もそのような子はいましたが、その多くは何らかの障害を持った子どもたちでした。ですから、そのような子がふらついていても学級が崩壊するなどということはありませんでした。でも、今では何の障害もない子どもたちもまた同じように行動します。だから、簡単に学級が崩壊してしまうのです。助け合ったり、他の人とつながりたいという衝動こそが「人間らしさ」の根幹なのです。その「人間らしさ」が文化や文明を生み出し、そして、その文化や文明を現代にまで伝えてきたのです。人類が、助け合ったり、他の人とつながりあうのが苦手な性質をもった動物だったら文化も文明も生まれなかったのです。その「人間らしさ」が未成熟なまま大人になった人は、自分の衝動や欲求を抑えながら生きています。そのようなことが苦手でも、そのようなつながりの中で働かないことには収入を得ることが出来ないからです。だから、成人した時、会社に入った時、結婚した時、子どもが生まれた時に、「もうおれの人生は終わった」などとおかしなことを考える人がいるのです。でも、助け合ったり、他の人とつながるのが好きな人は、成人した時、会社に入った時、結婚した時、子どもが生まれた時などには「自分の世界が広がった」と喜ぶのです。この「助け合うつながりによって支えられている共同体」の最小単位が「家族」なんです。そして、その共同体の要が「お父さん」なんです。男女同権が叫ばれる社会でも、子どもがお父さんに求めるものと、お母さんに求めるものは同じではないのです。それは生理的、動物的、歴史的現実なのでそのまま受け入れるしかないのです。
2012.01.21
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昨日、忠武飛龍さんが 会社や村が「家族」を守ってきた時代は過ぎ去ろうとしてます。 と書いて下さいました。そう、「家族」を取り巻く社会の状況が昔と今とでは全く異なってしまっているのです。昔は「村」という大きな家族の中に、親子のつながりによる「家族」が含まれていました。そして、お父さんはその「村」を守るために働いていました。そして、村は家族を守っていました。農耕社会は助け合いによって支えられていますから、村のみんなが助け合わないことには村自体が崩壊してしまうのです。そして、村が崩壊したら家族も生きていくことが出来ません。また、お父さんが村のために働かなければ、その家族は村の中で「のけもの」(村八分)にされてしまうということもあったでしょう。ですから、お父さんが村のために働くことは家族のためでもあったのです。そのような状況下では、子どもはお父さんが村のために働く姿を見ながら育ち、自分も大きくなったら村のために働くことが当然だという意識が育っていました。また、家族の中では家族を守るための働くお父さんは「大黒柱」として大切にされました。そして、お母さんはもっと直接的に、家事を通して家族を守っていました。さらに仕事もしていました。昔の仕事は家族全員でやっていたからです。現代人のように、お父さんは会社に行き、お母さんは家事をして、子どもは学校に行く、というようにバラバラに生活するのではなく、家族全員で「家の仕事」をしていたのです。子どもたちはその「家の仕事」の合間に寺子屋や学校に通っていました。だから家の仕事が忙しい時には学校は休みました。でも、今では社会も、家族の状況も全く変わってしまいました。村は消え、地域のつながりも消え、家族というつながりだけが砂漠の中のオアシスのようにぽつんと残りました。(そのオアシスも崩壊しそうです。)今、地域は家族を守ってくれません。そもそも地域にどんな人が住んでいるの、名前も、家族構成も分りません。隣の家族のことすら分りません。私の父親は鎌倉で地域(材木座)の防犯の責任者になっていますが、最近津波の問題がかなりの騒ぎになっているようです。鎌倉では想定される津波の最大の高さが14mにもなるということで、どこに、どのように避難するのかが大問題なのです。それで、父がいざという時、「動けない人」、「障害を持っている人」などを助けるために、どの家にそのような人がいるのかを調べようとしたら市にも民生委員にも「個人情報だから教えることが出来ません」ということで拒否されたそうです。それはつまり、「災害が起きた時、自分で逃げることが出来ない人は見捨てますよ」ということでもあります。それが現代における「地域」の現状です。また、「お父さん」の会社は労働の対価としてお金はくれますが、お金以上の関わりはありません。昔はお父さんの家族も、会社という大きな家族の一員として受け入れているような雰囲気もありましたが、今の会社の人間関係はもっとクールでシビアです。会社の業績が悪化すると、簡単に解雇されてしまいます。村は村民を守るための共同体でしたが、会社は会社を守るための営利団体です。このような状況下で、お父さんが単に「お金を運んでくるだけの人」になってしまったら、家族は崩壊してしまうのです。お母さんは生活と子どもを守り、お父さんはお母さんと家族を守るという意識を持たないことには、「家族」という「人間らしさを支える最後の砦」まで崩壊してしまうのです。今、自分のために生きることを優先的に考えるお母さんやお父さんが増えてきました。お金で何でも買える社会では、助け合わなくても生きていくことが出来ますから、家族のために、子どものために、生活のためにという意識は必要ないのです。そこに必要なのはお金だけです。確かにお金があれば生活には困りません。でも、生活には困らなくても家族がバラバラになります。そして、家族がバラバラでは子どもが育たないのです。人間は社会的な動物です。ですから、「人間らしさ」というものは、社会とのつながりの中で育ちます。社会とつながっていない人には人間らしさは必要ないのです。また、人間らしさを学ぶことも出来ません。ちなみに、知性も、優しさも、勇気も、愛も、希望も、すべて人と人のつながりの中でしか生まれません。そして今、子どもが属している「つながり」は、家族しかないのです。
2012.01.20
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1月16日のブログに対してマシュマロさんから>こんな話しを私の夫に話しをすると、聞きたくないと言われます。>すごく辛いのだそうです。そういう話を聞く事自体、苦しくなるのだそうです。そういう方もいるのですよね。私は苦しくても挑む事が出来ましたけれど・・・これはどうしたものかと思っているところです。男の人には酷なのかな・・・というコメントを頂き、それに対して私は「この問題に関してはあまり男女差はないのでは・・・」というようなことを書いたのですが、この件に関して少し付け加えておきます。お母さんたちのワークをしていると、「結婚前はあんなにも話が合って、気が合っていたはずなのに、子育てをしているうちにどんどんずれてきて、最近はどうしてあんな人と結婚したんだろうと思うんです」という言葉を聞くことが時々あります。これはご主人が悪くなったのではなく、お母さんが成長してしまったからです。お母さんは妊娠、出産、子育てを通して「逃げることが出来ない苦しみ」を引き受けなくてはなりません。愛するわが子のために前向きに苦しみと向き合うのです。また、食べ物のこと、心とからだのこと、人間関係のこと、政治のことなど色々なことを学ぶ必要も生まれます。だから、お母さんたちは、結果として子どもを育てている過程で成長してしまうのです。でも、この時、嫌々やっている人、出来るだけ手を抜こうとしている人、「何で私だけが」という被害者意識が強い人は成長しません。そのような人にとってはこの苦しみは修行ではなく、拷問だからです。同じ苦しみなのですが、前向きに向き合うと自分を成長させる修行になり、逃げようとするとただ苦しいだけの拷問になるのです。そして最近は、この逃げようとするお母さんたちが増えてきたようです。子育て支援関係の人たちも同じように言っています。子育て支援の場に来ると、子どもをボランティアさんに預けっぱなしで子どもと関わろうとせず、自分は隅の方で1人で携帯をいじっている人がいっぱいいるそうです。このようなことを書くと、「お母さんにも息抜きが必要なんだからいいじゃないか」と言う人もいるのですが、でも、だから子育てが苦しくなってしまっているのも事実なんです。保育ボランティアさんは遊びをいっぱい知っています。多くの子どもと関わっているので遊び方も上手です。ですから、お母さんも一緒に遊べば、お母さんはそこで保育ボランティアさんから遊びや、子どもとの関わり方を学ぶことが出来るのです。また、その場で遊んだ遊びを知っているので、家に帰ってからもその遊びをすることができます。そうすると、次第に子どもと過ごす時間が苦痛ではなくなり、時には楽しくなっていくのです。でも、「やっと解放された」などと思っていると、いつまでも苦しみが続くのです。それでも、お母さん達はお父さん達より多くを学び、修行せざる負えない状況にあるのは事実です。また、子育てを通して自分自身の「育ちなおし」も出来てしまいます。だから苦しいのですが、だから成長してしまうのです。でも、お母さんたちにその自覚はありません。だから時間と共に相対的にご主人の問題点が見えるようになってしまうのです。それに対して、男の人は「子育てはお前に任せた」と言って、逃げようとすれば逃げることが出来る位置にいます。そのような人はいつまでも子どもの時の意識のままで大人になることが出来ません。男の人には大人になるための生理的な通過儀礼(イニシエーション)がないのです。だからこそ、昔は意識的に様々な通過儀礼(大人になるための儀式)を作って伝えてきたのです。割礼をしたり、ライオンと闘ったり、バンジージャンプをしたりというものもみなその大人になるための通過儀礼です。それは多くの場合苦しみを伴いました。女の人が生理的な痛みによって大人になるのと同じように、男性も大人になるためには痛みが必要だと考えたのでしょう。でも、近代社会ではその意味は失われ「成人式」のような痛みを伴わない単なるお祭りになってしまいました。また、社会的な「男なんだから」「大人なんだから」「お父さんなんだから」という束縛も弱くなりました。今でも「お母さんなんだから」という束縛は強いですが、それに対して「お父さんなんだから」という束縛は昔ほどではないように思います。だから余計に大人になることが出来る女性と、大人になることが出来ない男性の差が大きくなってしまったのです。でも、女性も科学や社会システムの発達とともにその痛みや苦しみから逃げることが出来るようになりました。痛いのが嫌とか、体形を崩したくないという理由だけで、帝王切開や人工乳による子育てを選ぶ女性もいます。「一日中子どもと居るのがいや」というだけの理由で、仕事を探し、子どもを保育園に預ける女性も増えています。それとともに大人になることが出来ない女性も増えてきました。そのようなお母さんは、子どもが保育園を出ると、今度は塾や様々な教室にいっぱい通わせます。そして「教育費が大変で・・・」と言いながら仕事に出ます。そのような意識のお母さんは成長しません。そして成長しないお母さんの子どももまた成長しません。お母さんが向き合ってくれないからです。実は子どもの成長とお母さんの成長はセットになっているのです。今では、大人になることが出来るかどうかは一人ひとりの意識のあり方にゆだねられています。男性でも、父親であることから逃げずにしっかりと家族と向き合い、家族を守る覚悟をすることで大人として成長することが出来ます。女性もまた同じです。マシュマロさんが昨日夫もかなり辛い子供時代だった事は何度も聞いているのですが。夫と子供との関わり方を観ていて、つい口出ししてしまったり・・・ここから脱する方法は信じて見守るしかないのでしょうか。とコメントを書き込んで下さいましたが、これはご主人の自覚の問題ですから何とも言えません。
2012.01.19
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今日は、mahaloさんの以下の質問に答えさせていただきます。>今目の前の子どもと幸せな時間を過ごせば、その子どもは大人になってからまで、自分の子ども時代のことで苦しまなくても済むようになるのです。森の声さんが仰る「幸せな時間」というのはどういうものでしょうか?親だけが幸せだと思っていても駄目だし、こどもの心はなかなかわからないです。 人は他の人の心の中のことなど分りません。それは大人同士でも同じですし、ましてや大人とは異なった心の世界に生きている子どもの心のことなど分りません。確かに、ある程度は、発達心理学やファンタジーの世界のことを学ぶことで子どもの心のことを知ることは出来ます。でも、それは単なる「知的な理解」に過ぎません。それは例えば、お風呂に入ったことがない人が、お風呂に入った人の体験談を聞いて「お風呂」について理解するようなものです。でも、どんなにいっぱい色々な人の話を聞いても、どんなに科学的な調査をしても、実際にお風呂に入った時の感覚を感じることは出来ません。人はお風呂に入ると心とからだが緩みます。だから気持ちがいいのですが、どんなに知識を集めてもからだが緩むことはありません。「理解する」ということと「体験する」ということは全く別の次元の話なのです。ですから、子どもと「幸せな時間」を過ごすためには必ずしも子どもの心を理解する必要はありません。逆に、理解しようとする意識の働きが、「幸せ」を素直に感じることを妨げてしまうのです。mahaloさんはどんな時に幸せを感じますか。人によっては「幸せなど感じたことがない」という人もいるかも知れませんが、mahaloさんはいかがですか。走っている時が幸せだ、という人がいます。絵を描いている時、友達とおしゃべりしている時、家族と一緒にいる時、音楽を聞いたり、素敵な景色を見ている時に幸せを感じる人もいます。そのような「幸せになることが出来る時間」を持つことが出来る人は幸せな人です。でも、「宝くじが当たった」とか「100点を取った」とか、「いいこと」があった時に「幸せ」を感じることが出来ても、「幸せな時間」というものを感じることが出来ない人もいます。「幸せな時間」の中では「自分」は消えています。何かと一体化しているからです。「音楽を聴いている時が幸せな時間だ」と言う人は音楽を聴いている時には「自分」は消えて音楽と一体化しているのです。逆に、「宝くじが当たった」とか「100点を取った」とかいうように、「いいこと」があった時には「自分」が強調されます。そしてその幸せは一時的なものです。それは「幸せな出来事」ではあっても「幸せな時間」ではないのです。実は、「幸せな時間」を感じるのは「自分のこと」など忘れ、自分以外の何かと一体化している感覚に浸っている時なのです。「お風呂に入っている時が幸せだ」と感じることが出来る人は、お風呂に入っている時にお風呂のお湯の中に心も体も溶けて一体化しているのです。そこでは何が起きているのかというと一種の「共鳴」です。お花や夕日に見とれている時、人はお花や夕日と共鳴しているのです。共鳴することで一体化しているのです。それは合唱にも似ています。合唱では「私の声」は「みんなの声」と一体化して消えます。だからといって、「私」は必要ないのかというと違いますよね。むしろ、一体化することで「私の声」は価値を持つのです。幼い時から競争世界を生き抜いてきた現代人にはなかなかその感覚が分りません。現代人は、「自分という個」が明確になっていないと不安を感じてしまうのです。でも、「幸せな時間」はその「自分」を忘れないことにはやってこないのです。実は、「自分を大切にする」ということは、自分を守ることではなく、自分を生かすことなのです。そして、「幸せな時間」はその延長にあります。子どもとの「幸せな時間」は、お母さんが「お母さんとして自分を生かす」ことの延長にあるのです。「命を大切にする」ということは「自殺しない」「殺さない」ということではありません。そうではなく「自分の命を生かす生き方をする」ことなのです。種が自分を守ってばかりいて、いつまでも「種」のままなら、その種の「種としての価値」は消えてしまいます。お料理の時に塩を入れますが、その塩が「ぼくは塩のままでいたい」と言って、お湯の中に溶けていかなければ、その塩は取り出されて捨てられてしまいます。塩は「塩」の形を失うことで「塩」として生きることが出来るのです。その時、みんなと一体になります。その状態が「幸せ」という状態なのです。でも、現代人はその「溶けない塩」のような生き方ばかりしています。それは、「自分」を消すことを押し付けられてきた反動なのかも知れません。競争社会では「個」は競い合うばかりで溶け合うことがありません。でも、だからといってその「個」が大事にされているわけではありません。競争社会においては、「個」は順位を表わすための単なる記号に過ぎなくなってしまうからです。学校の生徒たちの「個」は成績表や内申書という記号によって評価されるばかりです。そこには「一人の人間」としての扱いはありません。でも、みんなその「記号」を「自分」だと思い込み、その「記号」を守ることばかりを考えています。だから「自分」を生かすことが出来ないのです。そのような、学校や社会の中で競争を生き抜いてきた感覚のまま子育てをしているから、「幸せな時間」を感じることが出来ないのです。
2012.01.18
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今日は、昨日までの内容とつながっていると思うので、あるところから依頼されて書いている文章を転載させていただきます。後日、同じ文章を目にする人もいるかもしれませんがお許しください。*************************** 心の感覚を育てるためには、心を込めて、焦らず、慌てず、結果を急がず、ゆっくりと、丁寧に、を心がけていることが必要だ、ということは前号で書きました。でも、このような説明では、理屈としては理解できても、具体的にはどうしたらいいのか分りませんよね。ということでもう少し具体的に書きます。 このことを分りやすく説明するのにちょうどよい寓話があります。ヨーロッパで言い伝えられてきたお話だと思います。 ある人が散歩の途中で石を運んでいる石工に出会いました。それでその人は「何をしているのですか?」と聞きました。 するとその石工は「見れば分かるだろ、石を運んでいるんだ」と答えたそうです。 帰りにまた同じ道を通ると、今度は違う石工が石を運んでいたそうです。 それでその人はもう一度「何をしているんですか?」と聞きました。 するとその石工は、誇らしげに「教会を建てているんです」と答えたそうです。 この二人の石工の「やっていること」は同じです。ですから同じ賃金をもらっているでしょう。でも「向き合っているもの」は全然違います。ですから、丁寧さにおいては全く違った仕事をしていると思います。 最初の石工は手早く、合理的に石を運ぼうとするでしょう。もしかしたら倍の石を運ぶことで倍の賃金を要求するかも知れません。でも、「教会を建てている」と答えた石工は、手早さよりも心をこめ、丁寧に仕事をすることを心がけているでしょう。 石を運んでいるだけの石工がやっていることは単なる「肉体労働」です。ですから、早く終わらせ、家に帰って一杯やることばかりを考えながら仕事をしているかも知れません。でも、「教会を建てている」と答えた石工がやっていることは永遠の世界とつながっている創造行為です。ですから、間違いなく自分の仕事に誇りを持って丁寧に仕事をしています。 たとえ、その教会が出来上がった時には素敵な装飾が施され、その石工が運んだ無骨な石は見えなくなってしまっていても、その素敵な教会を支えているのはまぎれもなくその石工が運んだ石なのです。「教会を建てた石工」はそのことを知っています。ですからみんなが装飾ばかりを褒めても気にしません。 そして、このようなことは、子育てにおいても同じなのではないでしょうか。お母さんは毎日食事や、洗濯や、掃除や、しつけに振り回されています。それは石工が重い石を運んでいるのと同じです。そんな状態のお母さんに「心を込めて、焦らず、慌てず、結果を急がず、ゆっくりと、丁寧に、を心がけて下さい」などといったら「何をばかなことを言っているんだ」と叱られてしまうかも知れません。また実際そんな心の余裕はないでしょう。 でも、時々でもいいですから「私はこの労働を通して一人の人間を育てているんだ」と考えてみてください。お料理を作りながらでも、洗濯をしながらでも、「私は今子どもを一人前の人間に育てるために頑張っているんだ、私もこのようにして育てられたのだ」と考えて欲しいのです。それで仕事が楽になるわけではありませんが、自分が今やっている仕事の「意味と価値」は生まれます。そしてその「意味と価値」が生まれることによって、結果として「丁寧に」とか「心をこめて」という状態になるのです。さらには、精神的ストレスは減り、自己肯定感も高くなるでしょう。 子育てが苦しいのは、ただ単に肉体労働がきついからだけではありません。そうではなく、会社などでの仕事に比べて今自分がやっていることの「意味と価値」が分りにくいからでもあるのです。だから、子育てや家事に簡単、便利を求めたり、多くの塾や教室に通わせて手早く育てたいと思ってしまうのです。子どもに多くを求めたり、子どもを比較したり、競争に追い立てるのも同じ理由からです。でも、そのような子育てをしている多くの人が、子どもが思春期を迎えるころになって初めて「幼児期の子育ての意味と価値」を知り、後悔するのです。でも、結果が出てから後悔しても遅いのです。 現代人にとって労働は「お金を稼ぐ」ためだけにものになってしまっています。でも、ボランティアなどは「意味と価値」がはっきりとしているためお金をもらえなくても参加します。さらに、自分が頑張った結果が評価もされます。 子育ては「無報酬」という点ではボランティアに似ています。でも、その「意味と価値」はあいまいです。ですから、やりがいがありません。そのため、すぐに目に見える結果を求めてしまうのです。 なぜなら、成績が良くて、何でも出来て、お母さんの言うことをよく聞く「良い子」に育てれば、その努力をみんなが評価してくれるからです。また、「人間性」という視点を失ってしまった現代人は、そのように目に見える形の結果を得ることが出来ないと不安になってしまいます。 でも、実際には子どもはそんな思い通りに育ったりはしません。それどころか、お母さんを困らせるようなことばかりやります。叱れば叱るほど余計に手に負えなくなります。また、他の子にも迷惑をかけたり、公共の場所でも騒いだしします。そして、見も知らない人から「お母さんのしつけがなってない」などと言われます。さらには、どんなに頑張っても誰も褒めてくれません。 逆にだからこそ、「今、私は一人の人間を育てているんだ」と自覚することが必要なんです。その自覚がないと、「本当に大切なこと」を見失い、目先のことばかりに夢中になり、子育てはますます忙しくなり、ますます重労働になり、ますます苦しくなります。そして、子どもが思春期を迎える頃になって後悔するのです。 私は多くのお母さん達から子育ての相談を受けています。そして、ほとんどの場合、その相談の内容は、お母さん自身が子どもの頃に受けた子育てと深くつながっています。30歳、40歳になっても、まだ子どもの頃に受けた子育てで苦しんでいる人がいっぱいいるのです。確かに今、目の前にいるのは「わがままで、手に負えない子ども」かも知れません。そして、その子の20年後、30年後などは想像できないかも知れません。でも、今目の前の子どもと幸せな時間を過ごせば、その子どもは大人になってからまで、自分の子ども時代のことで苦しまなくても済むようになるのです。
2012.01.17
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「背筋を伸ばしてまっすぐ立ちなさい」と強制された人のからだは棒のように固くまっすぐになります。それは、北朝鮮の兵士たちの姿勢のようです。そのような状態は心とからだに強い緊張を作り出しストレスを与えます、また、思考を停止させ、感覚を麻痺させます。これは「死」を恐れてはいけない兵士には必要な要素かも知れませんが、少なくとも子どもの教育で求める方向ではありません。それに対して、自分の意志でまっすぐに立つ人のからだは、芯が通り、しなやかで棒のような堅さはありません。心とからだに対するストレスもなく、思考も感覚もよく働きます。そして、外で走り回っているときの子どものからだもまた、そのようにまっすぐです。この両者は「姿勢が良い」という点では似ています。そして、その区別がつかない人もいっぱいいます。特に、「棒」のようなからだを持っている人は「棒のようなからだ」と「しなやかなからだ」の区別が付かないようです。ですから、他の人にも「棒のようなからだ」を求めます。でも、その両者を心とからだの状態から見たら正反対です。前者のからだは「型にはめられたからだ」です。ですから不自由です。そして型にはめられたからだを持つ人の意識は「型」を守ることばかりに向かうので、内的な成長は止まってしまいます。いつも大人の顔色を見て、大人の前だけで「良い子」を演じている子は、その「良い子」という「型」に押し込められている時のストレスを、大人が見ていない場で発散します。でも、そのことをお母さんも先生も知りません。でも、そのような子のからだは「棒」のようになっているはずなので、見る人が見れば分かるのですが、自分自身も「棒」のようなからだを持っている大人にはそれを見分けることが出来ません。だから、子どもが何か事件を起こしてしまった時、突然の出来事に驚くことになるのです。ちなみに、その「棒のようなからだ」を持っている子がいっぱいいます。学級崩壊を起こすような子どもたちのからだも「棒」のようになってしまっているのではないかと思います。中には発散できないくらい中まで固まってしまっている子もいます。そのような子は「欝病」になりやすいのではないかと思います。「型を守り続ける」ということは「自分を否定し続ける」ことでもあるからです。ですから子どもたちに「型」を押し付けてはいけません。だからといって「型など不要だ」というのもまた違います。例えばですが、コマを上手に回すためにはそれなりの「型」があります。でも、「型」だけを守ってもコマは回りません。「型」は自分で発見し、自分で創り上げたものでないと使いこなせないからです。「用の美」という言葉があります。トンカチには「トンカチ」として使いやすい形があります。そして、えてしてその形は無駄がなく美しいものです。でも、そのトンカチの形の素晴らしさを実感できるのは、無駄なくからだを動かしてトンカチを使うことが出来る人だけです。無駄なからだの使い方をする人は、道具にも自分の無駄な動きに合わせた無駄な形を求めるからです。そうでないと使いにくいのです。「棒のようなからだ」の人が一番動きやすいのは部分だけを直線的に動かす動きだけです。からだ全体を協調させて動かす動きは苦手です。ですからボタンを押すだけの「機械」を使うのはいいのですが、からだを使って「道具」を使うのは苦手です。また、「棒のようなからだ」の大人が子どもにも「棒のようなからだ」を求めるのは、そうでないとどのように関わったらいいのかが分らないからです。逆に言うと、「用の美」を備えた道具を使いこなせるように工夫していくうちに、自分自身のからだから無駄な動きが消えていくのです。武道や茶道などにおける「型」にもそのような意味があります。ただ単純に型通りに動けばいいのではなく、その型で動くのが一番楽になるように心とからだを練ることで「中味」が育っていくのです。そして、「中味」のことが分かった人は「型」に縛られなくなり、自由になります。実は「型」に正解はないからです。ただ、努力目標としての「型」があるばかりです。すべての「型」は便宜的なものに過ぎないのです。でも、正解を求めたがる現代人は「正解としての型」を固定しようとします。そして、その「型」を特許申請したり、学校で「正解」として覚えさせたり、その「型」を学んだ人に資格を与えています。学校で円周率は「3.14」と教えています。ちょっと前はそれが「3」になって元に戻ったようですが、でも、実際の円周率は「3」でも、「3.14」でもありません。実際には、円周率としてどのような数値を使うのかは状況によって異なるのです。ここで大切なことは円周率を「3.14」を覚えることではなく、どんな時に「3」を使い、どんな時に「3.14」を使い、どんな時に「3.1415926535・・・」を使うのか、というその判断が出来るように学ぶことなのです。細かい数値そのものは忘れたって問題ではありません。必要な時には調べればいいのですから。そして、そういうことは大人が手本を見せてあげることで子どもに伝える以外にないのです。そこで手本を見せるための「型」が必要になるのです。進歩的と自認している人たちの中に「型」を否定する人たちが多くいます。そういう人はなんでもかんでも「自由でいいんだ」と言います。教育の場にもいっぱいいます。でも、「型」がない状態では大人が手本を示すことができないのです。逆にいえば、そのような人たちは「手本」を見せたくないのかもしれません。お母さんでも、「自分以上の人間になって欲しいからなるべく手本は見せないようにしています」というお母さんがいます。でも、手本を示されないで育った子は、そのお母さんを超えることすら出来ないでしょう。言い換えると、子どもがお母さんを超えるために、お母さんが手本を示してあげる必要があるのです。「型」から自由になるために「型」を学ぶのです。でもだから、子どもに「型」押し付けてはいけないのです。そうではなく、大人が手本を見せるために「型」が必要なのです。でも、多くの大人が自分は手本を示さずに、子どもにだけは「型」を求めています。ピカソがあれほど自由に絵が描けたのは完ぺきなデッサン力があったからなのです。最初から自由に描かせていたら、決して自由に描くことが出来るようにはならないのです。
2012.01.16
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「文化」というものは、別に昔から伝えられているものとは限りません。新しく生まれた文化もあれば、これから生まれる文化もあります。そして、どのような文化が生まれ、そしてどのような文化が消えていくのかという状況の中に、その時代の、その社会の特色が現れています。でも、今の日本ではその「文化」全般が消滅しつつあります。なぜなら、「人と人の精神的つながり」が消えつつあるからです。「文化」は「人と人の精神的つながり」の中にしか存在することができません。それに対して、知識や、科学技術などといった「文明」に属するものは、言葉や映像や物的資料として残すことが出来ます。文明は物資的な存在に還元することが出来るのです。つまり、地球から遠く離れた高度な文明をもつ宇宙人の文明でも、地球人が理解できる言葉で書かれた資料と、映像と、実物が伝えられれば地球人にもそれを再現することが可能だということです。なぜなら、「文明」は論理によって構築されているからです。それに対して、「文化」は精神的価値観や、心やからだの感覚や、感情などによって構築されています。「茶道」という文化は、あのような儀式的な行為そのもののことではありません。あの儀式的な行為は「茶道」によって伝えたいことを入れるための「器」に過ぎません。禅宗では「座る」ということを文化として伝えてきました。でも、その「座る」という形は「器」に過ぎません。禅宗ではその器に中味を満たすために座るのです。「器」は「中味」を入れるために存在しているのです。その「中味」こそが「文化」の本体だということです。武道における「型」でも同じです。「型」を学ぶのはその「型」という器を得て、その中味を満たすためであって、「型」だけを覚えても何の意味もありません。ですから、「型」を強制するのは無意味です。自分の意志で受け継ごうとしない限り、「器」が満たされることはないからです。でも、「空っぽの器」を持っている人に限って、その「器」ばかえりを見せびらかします。そして、自分と同じ形の「器」を他の人にも押しつけます。逆に、器が満たされている人は「器の形」にはそれほどこだわらないものです。今の日本には、「空っぽの器」としての「文化もどき」はいっぱい存在していますが、「中味が満たされた器」は多くありません。現代人は「器」には興味がありますが、「中味」には興味がないからです。アメリカ人はヨガのポーズを特許登録しようとしているそうです。もしそれが認められてしまったら、インドの人はアメリカにお金を払わないとヨガをすることが出来なくなるようです。(詳しくはこの記事を読んでください。腹が立ちますよ。でも、これが文明が進んでいる方向なのです。)そのうち茶道も武道もアメリカによって特許登録されてしまうかも知れません。アメリカ人にとっては「中身」よりも「器」の方が大事なのでしょう。「中味」には形がないので特許登録できませんからね。でも、日本人も同じ方向に進んでいます。資格を取ることに夢中な人が増えているのも、その流れとつながっています。それは現代人が「中味の入れ方」が分からないからでもあるのです。<続きます>
2012.01.15
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音楽が大好きな人や、音楽を大切なこととして考えている人が音楽を伝えれば、その音楽は「文化」として伝わっていきます。でも、音楽が嫌いな人、もしくは好きでも嫌いでもない人が音楽を教えれば、その音楽は「文化」ではなく、「技術」になります。そしてそれは、伝わってはいきません。基本的に「文化」というものは文明と違って役に立たないものです。役に立たないものが伝わっていくためには何らかの「内的な動機」が必要になります。それは、そのことに価値を感じるか、そのことをやっている人が楽しそうか、その人とそのことを通してつながりたいと思うか、などというような動機です。幼い子どもはお母さんとつながりたいと思っています。だからお母さんの真似をします。そのようにしてお母さんが持っている「文化」が子どもに伝わっていきます。また、子どもたちは仲間ともつながりたいと思います。だから仲間の中で流行っているものを自分も持ちたいと思うし、仲間が出来ることは自分も出来るようになりたいと思います。そうやって仲間からも「文化」が伝わっていきます。お母さんが子どもに伝えたいと思うことも、それを子どもと共有したいからです。子どもと一緒に、ファンタジーや夢や希望を共に楽しみ、喜びたいと思うからそれを子どもに伝えようとするのです。学校の授業でも、算数が大好きな先生が算数を教えれば、それは子どもたちに「文化」として伝わります。でも、単なる仕事として教えているだけなら、子どもたちは技術としてしか学びません。でも、今、子どもたちの話しを聞いていると、「文化」というものに対する内的な衝動(あこがれ)がほとんどないようです。そして、ただ「物」ばかりを欲しがっています。多くの子どもにおいて、「何かが出来るようになりたい」とか、「こういう人になりたい」とか、「大人になったら○○がやりたい」というような衝動がなく、「こういうゲームやカードが欲しい」というような話題しか出てきません。時に夢を語る子がいても、「アイドルになりたい」というような、マスコミが作り上げた現実離れした「夢」がほとんどです。でもそれは「ゲームが欲しい」という夢と同じ質のものです。自分の努力でそのものになるのではなく、与えてもらう質のものです。努力もするでしょうが、それは「与えてもらうための努力」です。けん玉や竹馬に上達するための努力とは本質的に異なります。今の子どもたちは「文化」には興味がないのです。大人たちもまた、学力や能力を育てることには夢中ですが、「文化」を伝えることには無関心です。役に立たないことだからでしょう。でもそれは、「日本人の心の中の世界が滅びかけている」ということでもあるのです。<続きます>
2012.01.14
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私は、子どもの頃「お習字」を習いに行っていました。(でも、全く才能がないので私は我が家で一番字が下手です。)その時に言われたのが、静かな気持ちで墨を摩ること、姿勢を正しくすること、筆を正しく持つこと、心をこめること、手を抜かないこと、などなどです。でも、先生にもよるみたいですが、今の学校のお習字ではあまりそのようなことは言わないようです。そもそも、自分で書いてみせることをしない先生も多いようです。私が親しくして頂いている元小学校の先生に習字の名人がいます。その先生の話では、今、小学校の先生たちの多くが自分ではお習字が出来ないそうです。それで、自分で「お手本」を書くことが出来ないので、教材屋が持ってくる「お手本」を見せて、子どもに書かせているそうです。当然、そのような先生が、習字の面白さ、奥深さ、文字の由来と意味、筆で字を書くことの意味などを伝えることが出来るわけがありません。そして、ただ単に見かけだけ似せた「上手な字」を書くように指導しているのでしょう。その「習字名人」の先生は、今では定年退職なさっていますが、時々お習字をみんなに教える講座を開いてくれています。その場で話されることは、人間の文化や歴史の話であり、心とからだの話しでもあります。そしてそれこそが「文化を伝える」ということでもあるのです。今の学校教育では知識や小手先の技術ばかりを教え込み、その知識や技術に伴う「心とからだの使い方」と「歴史の話」がすっぽりと抜け落ちてしまっているのです。そして、これは習字だけの問題ではありません。実は算数(数学)や国語や理科や社会などでも同じなのです。皆さんは、大人になってから学校で習った算数や数学を使っていますか。特別な仕事に就いている人以外はほとんどの人が四則演算以上の算数を使っていないのではありませんか。うちでは原則として、勉強は本人が「教えて」と持ってこない限り教えていません。塾も本人が行きたいと言わない限り行かせません。それで四人のうちの上三人は中三になってから塾に行き始めました。今、一番下は中二です。そろそろ数学が分らなくなってきたようで、私に聞いてきます。確かに、全然わかっていません。単純に答えが合えばいいと思っています。私は、問題を繰り返し読むこと。頭だけで理解しようとするのではなく、絵や表や図を描いたりしてその問いの中に何が書かれているのかを理解すること、手を抜かないこと、きちんと整理して考えること、式は丁寧に書くことなどを伝えようとするのですが、学校では今までそういうことを聞いてこなかったようで、全く理解できないようです。極端にいえば、基本的な考え方や、取り組み方が正しいのなら、答えなんか多少間違っていたっていいのです。今の時代、正解を知りたいだけなら電卓を使えばいいのです。そうではなく、数学を学ぶことの本当の意味は、客観的、論理的に考える考え方を学ぶことなのです。だから将来数学を使う職業に就かない子にも数学を学ぶ意味があるのです。こういうこともまた「文化」なのです。正解を導き出すための技術を教えるだけでは、「数学の進歩と共に育ってきた精神文化」が途絶えてしまうのです。今、数学が苦手な子が増えています。特にみんな応用問題が苦手なようです。大人も同じです。それはつまり、今、客観的、論理的に考えることが苦手な人が増えているということでもあります。そしてこれは、マスコミやデマ情報に騙されやすい人が増えているということであって、実は非常に危険なことでもあるのです。(原発賛成を押し通すためのデマもあれば、原発反対を押し通すためのデマもあります。デマを基準に話をしても問題は解決しないのですが、客観的、論理的に考えることが出来ない人は「デマ」と「真実」を見分けることが出来ないのです。)数学も含めてすべての学問は人類の大切な「文化」です。子育てや家事もまた「文化」です。そして、その文化はそれぞれの分野に固有の心とからだの使い方を必要とします。また歴史的な意味もあります。そのことを子どもたちに伝えていくことが「文化」を伝えるということなのです。ただ単に、音楽や踊りを伝えることが「文化を伝える」ということではありません。逆にいえば、音楽や踊りを単に「技術」」として伝えているだけなら「文化」は途絶えてしまうのです。つまり、歌や踊りや学問や家事や歩き方といった目に見える技術や形の背景にあるのが「文化」であって、「文化」そのものは精神的なものであって、目には見えないということです。ですから、欧米の人が、ただ単純に「箸の使い方」を学んだだけでは「文化」を受け継いだことにはならないのです。また、さまざまな芸能などを「映像」として残しても「文化」を残したことにはならないのです。そして、その「文化」を受け継ぐ過程で子どもたちは心とからだを育てていくのです。体育やスポーツでからだを動かしたり鍛えたりしても、それだけでは「からだ」は育たないのです。ちなみに「育つ」ということは「量が増える」ということではありません。「質が向上する」ということです。そして、質が向上するためには「文化」が必要なのです。それは日本だけでなく、世界中で同じです。「子どもが育つ」ということは、単に背が伸び、体重が増えることではありません。人間としての質が向上することです。それは例えば、十の知識を百にすることではなく、その十の知識の意味を知り、使いこなせるようにすることです。だからこそ知識を百に増やすことにも意味があるのです。日本人は、歩き方から箸の上げ下ろしに至るまで、心とからだの使い方とつなげて伝えてきました。ただ「技術」を伝えていたのではなく、その技術と共に「日本の文化」が伝えられていたのです。「箸を使うこと」が日本の文化なのではなく、「箸を使うことと共に伝えられてきたこと」が日本の文化なのです。日本人は今でも箸は使いますが、でも今ではそういうものは単なる技術の問題になってしまっています。それはもう「文化」ではないのです。
2012.01.13
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現代人が非常に強く勘違いしていることがあります。それは人類の未来は政治家や科学者が救ってくれると思い込んでいることです。でも、人類の何十万年という歴史で、政治家や科学者という存在が現れたのはつい最近のことです。たかだか、百年単位のレベルです。それはまた、国家というものが巨大化する時期でもありました。つまり、政治家とか科学者というものは国家というものを巨大化し、維持するためには必要な存在ではあっても、必ずしも人類の存続には必要な存在ではないということです。実際、今でも政治家や科学者という存在を持たないまま生活している部族の人たちはいっぱいいます。人類社会は、文化と文明という二つの柱によって支えられています。文化は個人、もしくは共同体の生活や精神性やつながりを支えるものとして存在し、文明は国家の豊かさや強さを支えるものとして存在しています。科学は武器の開発のためや、都市の豊かさを維持するために進歩してきたのは確かな事実です。確かに、どちらも必要なものですが、「国家」という存在がない世界には文明は必要ありません。それ故に、ファンタジーの世界には文明は現れないのです。また、子どもにも「文明」というものが理解できません。でも、文化というものを持っていない部族は存在していません。文化を持っていないということは、言葉も衣服も火も生活も持っていないということを意味しているからです。ただし、誤解しないでほしいのは私は文明不要論を言っているのではないということです。そうではなく、人類を支えるもう一方の柱としての「文化」というものの大切さをもっと思い出してほしいということを言いたいのです。文明が滅んでも、文化が生き残れば人類は「人間として」生き残ることが出来ます。そしてまた「文明」を再生することもできます。でも、文明が残っても文化が滅びてしまったら、人間は人間性を失い「都市に住み、機械を操作する奴隷」になるばかりです。そのような人間に「文化」を再生する能力はありません。実際、都会の中で暮らしている人間はどんどん文化を失うばかりです。都会の中では、工場やマスメディアが作り出したものを「文化」と呼んでいるだけです。でも、人から人へと直接伝えられず、また、人と人の間で共有されていないものは「文化」ではないのです。猿や犬が洋服を着ていても、それを人間からもらっているのなら、それは猿や犬の文化ではないのと同じです。そして、「文明」を維持、発展させるのは政治家や科学者の役目ですが、「文化」を子どもたちに伝えるのは母親や家族や地域の役割なのです。特に、母親の役割は非常に大きいのです。などというと、「なんで母親にばかりそんな責任を押し付けるの」と怒り出す人もいるかも知れませんが、これは「人間はそのように出来ている」ということであって、私の個人的な価値観ではありません。実際、お母さんが否定しても、何十万年前と同じ状態で生まれてくる子どもは、お母さんに「文化」を求めるのです。お父さんが英語を話していても、お母さんが日本語を話していれば、子どもはまず日本語で話すようになるのです。なぜなら、子どもはお母さんを「人間代表」として関わり、学ぼうとするからです。それは子どもの人間としての本能であって、大人が作った社会の変化とは無関係です。ですからそのことを認めない限り話が先に進みません。現代のお母さんたちにとってはそれは「重荷」に過ぎませんが、古代のお母さんたちにとってはそれは「誇り」でもあったのです。そして、男性たちもまたその「お母さんの力」を認めていました。そのような価値観が崩れ始めたのが、部族や国家という集団が生まれ、その部族や国家を守るために強い軍事力を必要とするようになってからです。戦いのない社会においては女性の力の方が大切にされたのですが、戦いによって支えられている社会では男性の力の方が大切にされたのです。でも、これから先、世界がグローバル化され、地球規模で「戦いのない世界」を目指すなら、もっともっと女性の力、母親の力が大切にされなければいけないのです。そのことが、人類が人間らしさと文化を回復する力になるでしょう。でも、そのためには世の中のお母さんたちがもっと「母親であること」に誇りを持つことが必要なのです。そしてまた、みんなで「お母さんたちが誇りを持つことが出来る社会」を作っていく必要もあります。
2012.01.12
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「世界がもし100人の村だったら」というたとえ話があります。それは今、世界が置かれている状況を、自分たちの生活感覚レベルに変換することで分り易く説明するための方法の1つです。でも、そのたとえ話では時間を「現在」に静止させてしまっています。でも、静止した時間など空想の産物です。時間が静止するはずがありません。その「100人の村」にも歴史があるはずなのです。そのたとえ話の中には6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍80人は標準以下の居住環境に住み70人は文字が読めません50人は栄養失調に苦しみ1人が瀕死の状態にあり1人はいま、生まれようとしています1人は(そうたった1人)は大学の教育を受けそしてたった1人だけがコンピューターを所有していますと書いてあります。でも、ここで本当に大事な問題は「どうしてそうなってしまっているのか」という「過去の歴史」と、「このままではどうなるのか」という「未来の歴史」の流れの中で、現在作られている最中の「100人の村の歴史」を想像してみることです。そうでなければその数値には何の意味もありません。その100人の村の人口は増え続けています。「世界人口の推移」を見ると、西暦1500年から産業革命頃に世界の人口は7000万人を超えていますから、その頃のこの村の人口は一人か二人でした。現在は70億人を超えています。(このHPのグラフを参考にしています。是非ご覧になって下さい。)そこで統計学者はその7000万人をまた「100人」として換算しなおすのでしょう。逆に、現在100人の村の人口が1万人を超えてもまたそれを「100人」として換算するのでしょう。でも、それは統計的なごまかしです。人口はそのように常に総量を「100人」として扱うことも出来ますが、地球上の資源の量や面積や酸素の量は基本的に定数であって、変化しないからです。それはつまり、昔の「100人の村」は広大な自然の中にあったけど、今では東京ドーム程度の広さの荒地の中にあるのかも知れないということです。統計的にはどちらも「100人の村」という同じ形に変換することが出来ますが、でもその村の置かれた状況は全く異なります。そして、いま実際に問題になっているのはそのことの方なのです。狭い空間の中で、少ない資源を奪いあっている状況があるから6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍80人は標準以下の居住環境に住み70人は文字が読めません50人は栄養失調に苦しみ1人が瀕死の状態にあり1人はいま、生まれようとしています1人は(そうたった1人)は大学の教育を受けそしてたった1人だけがコンピューターを所有していますという状況になってしまっているのです。今私たちに必要なのはその村を歴史的な視点で見直すことです。その歴史的視点を持たないまま「100人の村」の数値を見ても無意味です。現在、地球環境は危機的な状況です。それに対して、エコ的な製品を作り出すことで、何とか地球に優しく生きる方法を探そうとしています。そして、多くの人が「新しい技術が人類を救う」と思っています。でも、その新しい技術はレアメタルという地球上にちょっとしか存在していない資源に依存しています。そして、それが存在している場所も限られています。ですから、非常に激しい国際競争が起きています。原発で使われているウランも同じです。そしてそれらのレアメタルは消費したら消えてなくなるばかりで決して増えることがありません。厳密に言うと、地球上から消えてなくなるわけではありませんが、結局はゴミになってしまい再利用できなくなってしまうということです。またどんなに技術革新が起きても、先に見た「世界人口の推移」のグラフのまま人口が増え続けることは100%あり得ません。それは容量が一リットルの牛乳パックの中に、二リットルとか三リットルの水を入れようとするのと同じです。そんなこと幼稚園児にだって分ります。でも、誰もそのことをまじめに議論しようとはしていません。そして「見ないふり」をしています。原発の放射性廃棄物も同じです。ちょっと考えれば、原発というシステムはそういう「人間には処理しきれない危険なゴミ」を大量に出すということは明らかなのに、偉い人たちはみんな見てみないふりをしてきました。その結果が今のこの現状につながっています。人口も、経済も、科学技術も、必ずどこかの時点で増加や発展は止まり、減少に転じます。でも、今の政治システム、経済システム、社会システム、金融システムはそのような人口減少の社会に対応することが出来ません。そして、「国家」というシステムそのものが崩壊してしまうでしょう。だから先進国は必死になって「自分の国だけは生き延びよう」と色々と工作しています。アメリカはTPPもそのような手段として使おうとしています。私たちは、「地球」という変化しない定数の上で暮らすためにの「ちょうどよい生き方」を探るべきなのです。そして、「大きな話」からいきなり「小さな話」になりますが、それは「目の前の子どもをどのように育てるのか」ということとつながっているのです。この問題は政治家には解決できません。科学者にも解決できません。彼らには延命処置を施す能力はあっても、回復させる能力はないからです。この問題は、お母さんたちにしか解決できないのです。子どもこそが「未来」だからです。だから子どもたちを追い立てたり、競争させたりしないでほしいのです。
2012.01.11
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昔々、周囲を崖に囲まれた盆地の中に小さな村がありました。周囲を崖で囲まれていたため、他の部落との交流はありませんでしたが、木々は生い茂り、様々な鳥や獣が住み、きれいな川が流れ、土地は豊かでした。人々はその土地を耕して野菜や穀物を育てたり、また森や山や川に行ってその恵みを頂いて平和に暮らしていました。村の生活は決して豊かではありませんでしたが、人々は必要以上のものを作らず、必要以上のものを採らず、必要以上の生き物を殺しませんでした。なぜなら、他に逃げることが出来ないこの盆地の中では、村の自然や生命を守ることがそのまま自分たちの生命を守ることだということを知っていたからです。そのため人々は、子どもたちに「森や山や川には神様が住んでいるから大切に敬え」とか、「自分たちの生命は森や山や川の生き物たちの生命によって支えられているのだから、森や山や川の生き物たちの生命も自分たちの生命とと同じくらい大切なものなのだ」ということを伝えました。そんな村にある時一人の男の子が生まれました。その子は便利な道具や機械を作り出すという特別な才能を持っていました。そして自分の能力を過信して、森や山や川の神様を信じませんでした。そして、村の人たちのために色々と便利な道具や機械を作り出しました。そのおかげで村の人たちの生活は豊かになり、便利になり、畑や森や山や川に行って苦しい仕事をする必要もなくなりました。それまでは食べるものもみんなで分け合って食べなければなりませんでしたが、今では一人一人が食べきれないほど食べることができます。それだけではなく、食べきれずに大量に捨ててもいます。その結果、今ではもう人々は森や山や川を敬うことをしなくなりました。森や山は道具や機械を作るための「資源」と呼ばれるようになりました。川はごみや排水を流すために使われるようになりました。森や山や川に生きている生き物たちでも、人間の食料になるものは大切にされていますが、食料としての価値がないものは「存在」を無視されています。「生命あるもの」としての価値は消えてしまったのです。当然、人口もどんどん増えました。狭い盆地は今では人でいっぱいです。それでも、便利な道具や機械で山を削り、川を埋め立て、人の住む所を広げ続けています。その結果、森も山も川も死んでしまったのですが、人々は食べ物は「工場」で作られているから大丈夫だと考えています。その食べ物には自然界に存在していなかった毒が含まれています。でも、今ではもうそんなこと気にしている人は滅多にいません。実際、その毒が入っていない食べ物はもう手に入らないのですから。その一方、人々が生まれる以前から存在していた菌を「バイ菌」と呼んで自然界には存在していない毒素で殺しています。でも、人間のからだは基本的に長い間付き合ってきたバイ菌には対応できるのですが、人間が作った毒には対応できないのです。・・・・・・・・・・・*******この先も考えたのですが、あまり楽しい話にはならないのでこの辺でやめておきます。この先この村がどのような運命になるのかは、皆さんで予想してみてください。
2012.01.10
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天然堂さんから以下のようなご質問を頂きましたので、今日はそれに答えさせていただきます。循環という考え方うんこの話が出たので話しますが、僕の水俣のお茶農家の友人の家や新潟に移り住んだ友人の家では、うんこが循環しています。この考え方はとても重要なことではないでしょうか。生産と消費を考える上で最も重要なポイントではないでしょうか。今の使い捨て文化、或いはお金ですべてを買うとういうような不思議な価値観が崩れた論理だと理解する時がきていると感じますけど…。篠さん、どうでしょうか?ある所に、対岸が見えないほどの大きな湖がありました。その湖には多くの魚や生き物が生きていました。そんな湖にある時どこからか小さな藻が飛んできました。この藻は水面に浮いて繁殖します。そして、毎日倍の大きさになります。飛んできたのは小さな葉っぱ一枚だったものが、翌日には二枚になり、さらに翌日には四枚になりました。そのように増え続け、何万年という歳月をかけて湖の半分にまで広がりました。では、ここで問題です。この藻が湖の半分の面積を覆うまでに10万年かかったとします。では、あと残りの半分を覆うまでにはどれくらいの時間を要するでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・お分かりになりましたでしょうか。実はたった一日なんです。半分になるまでは10万年かかっても、あと残りの半分を埋め尽くすのにはたった一日あればいいのです。そして、藻に覆い隠された湖の生き物は死滅し、水は腐り、やがて藻も死滅してこの物語は終わります。でも、この「最後の一日」に気づく人はほとんどいません。以下は「EICネット」というところのHPからの引用です。「種の絶滅」 何らかの原因で、これまで生息・生育してきた種が存在しなくなること。生物種の絶滅は自然状態でも起こっている。地球上の約9割の生物種が絶滅した2億5千万年前をはじめとして、過去に5回の大絶滅期があったと言われている。しかし、こうした自然状態での絶滅には数万年から数十万年の時間がかかっており、絶滅速度は年に10~100種程度であったと考えられている。現在、人間活動によって引き起こされている種の絶滅は過去とは比較にならない速度であることが問題視されている。1600年~1900年の絶滅速度は1年に0.25種であったものが、1900年~1960年には1年に1種、1960年~1975年には1年に1,000種、1975年以降は1年に40,000種と、種の絶滅速度は急激に上昇し続けている。 最初に書いた話は空想の話ですから色々と無理がありますが、このEICネットの話は現実の話です。でも、今現在このような現実が進行していることを知っている人は多くありません。ところで、別の湖でも同じようなことが起きました。広さも同じで、飛んできた藻も一日に倍に増えます。でも、この藻と、先に書いた湖の藻とは少し性質が違いました。最初の湖の藻は密集して増え、しかも湖の状態とは無関係に倍に増えましたが、この湖の藻は少し隙間を空けて増えました。だから、湖に蓋をするような状態にはなりませんでした。逆に、日陰を作り生き物たちの住処にもなりました。また、湖に住む生き物たちの糞や死骸を栄養にしていたため、生き物の数が減ると必然的に栄養不足になり、増加が抑えられました。また、その藻は実を実らせ湖の中の生き物たちの食べ物になりました。そのようにして自分たちの栄養源を作り出す生き物たちを支えるように進化してきたのかもしれません。そのため、この湖の藻は一定量まで増えるとそこで増殖がとまり、いわゆる「共生」という状態になり、それ以降ズーッとその湖に生き残りました。
2012.01.09
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先日、マシュマロさんのコメントへの返事で私は>でも最近、私が書くブログは重すぎないかな、と思い始めています。と書きました。実際、私は連日のように重い話を書いています。明るく希望に満ちた話は少ないです。だからといって私が希望を持っていないわけでも、未来をあきらめたわけでも、絶望しているわけでも、不安ばかり持っているわけではありません。逆に、まだ希望があるからこそ、今向き合わなければならない「重い現実」について書いているわけです。本当に救いようのない状態になったら希望の話ばかり書きます。もう死が確定しているような人には明るい話しかしません。望みをなんでもかなえてあげるために手助けもするでしょう。でも、まだ頑張れば復活できる人にはその克服すべき目標としての辛い現実の話をします。そして、辛さから逃げようとしたら「ガンバレ」と突き放すこともあるでしょう。ですから、私から見たら「大丈夫だよ」とか「きれい事」しか話さない人は「もう諦めてしまっている人」か、諦めてはいなくても「どうしたらいいのかが分らない人」に見えてしまうのです。明るい未来は棚からぼた餅が落ちてくるようにはやってきません。自分たちの努力で創り出す以外にはないのです。そして、そのためにはまず現実と向き合わなければなりません。未来は現実の延長にしかやってこないからです。その現実がどんなにつらい状態でも、そこから目をそむけたら決して「明るい未来」を創造することはできないのです。これは個人についても同じです。肯定してくれる言葉、ほめてくれる言葉、耳に心地よい言葉だけを求め、辛い言葉から逃げようとする人は成長しないものです。でも、いまそのような人が増えてきています。だからセラピストが繁盛しているのでしょう。不安や苦しみを取り除けば安心することが出来ます。その方法は簡単です。別のことに目を向けさせ、不安や苦しみを忘れさせてしまえばいいのです。それを人にやってもらうのを「洗脳」と呼び、自分自身でやるのを「逃避行動」と呼びます。アルコールや麻薬を使ったり、楽しいことしか存在しない空想の世界の中に逃げ込んだり、お金を出すだけで救ってくれるような宗教を信じたり、買い物や、ゲームや、ネットや、様々な娯楽などに夢中になることで自分と向き合わないようにすれば、(見かけ上は)不安や苦しみを消すことが出来ます。でも、その代り成長することができなくなります。それに対して、成長することが出来る人は、その不安や苦しみと向き合い、そこから何かを学ぼうとする人です。人は学ぶことによってしか成長しません。そしてそれは「学ぼうとする意思」を持っている人にしかできないことなのです。ここで大切なことは、不安や苦しみと戦うのではないということです。そこから学ぶのです。それはつまり、食べて吸収してしまうということです。戦って倒しても、蘇ります。何べん倒しても、蘇ります。逃避行動によって忘れようとしても、常に忘れるために何かをしていないと蘇ります。逆に言うとだから忘れられないのです。不安や苦しみというものはそのような性質を持っているのです。食べて、吸収して、自分自身の「血肉」や「エネルギー」にしたり、「ウンコ」にしてしまわない限り蘇るのです。でも、吸収し、成長することで、その不安や苦しみが逆に「希望に満ちた未来」を創り出すための「栄養」になるのです。ですから、成長する人だけが苦しみを乗り越えることができるのです。そうでない人は苦しみから逃げ回るだけの一生を送ることになります。*********************以下は某建設会社のコマーシャルソングです。この歌を聞くたびにいつも「待っているだけじゃ未来はやって来ないんだぞ。」とテレビに言い返しています。ドキドキ、ビックリ、ワクワクしたいのならそのために努力しなければいけないのです。努力もしないのに信じる人は必ず後悔します。いつかきっと できるよね しんじてれば できるよね たのしみに まってるよ おねがいしまーす!ドキドキしたいよ ビックリしたいよ ワクワクしたいよ (こんなこと そんなこと あんなこと!)いつかきっと できるよね しんじていれば できるよね おねがい きっとだよ まってまーす!〈2番〉♪いつかきっと かなうよね しんじてれば かなうよね たのしみに まってるよ がんばりまーす!ウキウキしたいよ ドッキリしたいよ ルンルンしたいよ(こんなこと そんなこと あんなこと!)いつかきっと かなうよね しんじていれば かなうよね おねがい きっとだよ おうえんしてまーす!
2012.01.08
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昨日からの続きです。昨日はよきリーダーの素質として「自分で判断することと、みんなのやる気を引き出す能力」をあげましたがそれに、「メンバーを成長させる能力」も付け加えます。以前、テレビを見ていたら、ある人が監督としてのビート・タケシを「名監督だ」と評していました。その理由を問われると、その人は「彼の映画に出ると役者が成長するから」というようなことを答えていました。単に生徒たちの成績を上げるのではなく、生徒達の人間としての成長まで促すことが出来る教師は生徒たちに尊敬されます。この「尊敬される」というのは優秀なリーダーとしてはかなり重要な要素です。尊敬されているから信頼され、理屈を超えてその先生に従うのですから。その「尊敬される要素」の中に、ものぐさ父さんが書いて下さった「精神的な強さ、ぶれないこと、任せる度量」なども含まれると思います。でも、そのようなことが実際に「リーダーに対する尊敬」につながるためには、やはりそのリーダーによってメンバー一人ひとりが成長していくことを実感できることが大事な要素になるのではないではないかと思います。ただ単に「まとめるのがうまい」というだけのリーダーは尊敬されません。業績を上げるだけでも尊敬はされません。でも、自分を成長させてくれるリーダーは尊敬します。その時、リーダーはお手本であり、あこがれになります。そういうリーダーを持っているグループは生き生きとしています。メンバーの一人ひとりが自己肯定感を持つことが出来ます。そして、失敗もあるかもしれませんが、失敗からも学ぶことが出来るでしょう。今の日本人が持っている一般的な「リーダー」のイメージは、「まとめるのがうまい人」「業績を上げることが出来る人」というようなものだと思います。「優秀な親」や「優秀な教師」というようなものもそのようなイメージだと思います。そこで必要になるのは「管理者としての能力」です。でも、子どもの成長にとって必要なのは「尊敬できるリーダー」なのです。それは「子どもと共に成長することが出来るリーダー」です。子どもの言葉に耳を傾け、子どもから学び、子どもと共に成長しようとする人を子どもは「リーダー」として尊敬するのです。大人の場合も同じですよね。リーダーとは「自ら手本を見せながら、先頭に立って導く人」のことだからです。ただ単純に、「指示命令を出す人」のことではありません。メンバーを成長させることが出来るリーダーは、メンバーとともに成長することが出来るリーダーでもあるのです。そして、今の日本にはそういうリーダーが育つ環境がありません。小さい時から競争にあけくれて育った子には、「ともに育つ」という感覚が分らないのです。「子育て」も「子どもと共に育つ」という意識で向き合えば苦しくなくなるのです。そして子どもはお母さんを尊敬するようになるでしょう。「ちゃんと育てなければ」と思うから、子どももお母さんも苦しくなるのです。そして、子どもはお母さんから逃げようとするようになってしまうのです。
2012.01.07
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現代社会は競争社会でもあります。ですから私たちは子どもの頃も、大人になってからも競争しなくてはなりません。そして、その競争能力に応じて成績や収入が与えられる仕組みになっています。競争能力において劣る人は、落ちこぼれたり負け組になり、時として公的な補助がないと生きていけなくなります。そこには「支えあう」という精神はありません。形式的にはお金がある人から税金なりを集めて、貧しい人に配るのですから、それを「支えあい」と表現することも可能ですが、それは社会システムを崩壊させないための仕組みであって、「人と人が支えあう」という精神の表れではありません。本来の「支えあう」という関係は一方通行ではありません。今の社会保障の制度は「保護」であって「支えあい」ではありません。それは家族の中においても同じです。親は子どもを支えていますが、同時に子どもも親を支えている時、「支えあっている家族」になります。そうでない時には子どもを保護しているだけの家族になります。ただし、この場合具体的に子どもが親のために何かをするという意味ではありません。親に「子どもに支えられている」という意識があるかどうかということです。たとえば、親に「子どものおかげでいっぱい学ぶことができた」とか、「子どもの笑顔のためなら頑張ることが出来る」というような意識があるのなら、その親子は支えあっていることになります。たとえ、その子どもに障害があって寝たきりでも、お母さんやお父さんがその子どもを愛し、その子どものために頑張ることが出来ているなら、それは支えあっていることになります。親は子どもに経済的な支援や様々な保護を与えていますが、子どもは親に元気や、生きがいや、やる気を与えてくれているからです。そのように、「支えあうつながり」のなかで育った子どもは自己肯定感を育てることもできるし、大人になっても他の人と支えあう関係を築くことができます。でも、競争社会ではその「つながり」は否定されます。競争に勝った者が上に立ち、負けた者は支配されることになります。そこでは強者と弱者という関係があるだけで「支えあう」という関係はありません。自分の力だけでは生きていくことが困難な子どもや、障害を持った人や、老人は保護の対象にはなりますが、支配者はそのような人たちに対して、「保護してあげている」という意識だけを持ち、「そのような人たちのおかげで」というような意識を持つことはありません。ただの「お荷物」であり、その関係は常に一方的です。そして、強者は支配し、弱者は依存するばかりの社会が出来上がります。今の子どもたちは小さい時からそのような競争社会を生きています。ですから、「支えあう」という意識を育てることができません。その結果、子どもたちの意識も「支配しようとする子」と、「依存しようとする子」に分かれてしまっています。でも、「支配」と「依存」は一枚の紙の裏表であって、基本的には同じものです。そこで問題になるのは、そのような競争社会ではリーダーが育たないということなのです。今の日本では競争に勝った人が組織の長になり、権限を得ます。でも、競争に勝ち抜く能力はあっても、「支えあう」というつながりの体験がない人は「支配者」になるばかりでみんなを引っ張る「リーダー」にはなることが出来ないのです。日本の社会では組織の末端にいる現場の人には非常に優秀な人がいるのに、上にいくにしたがって無能な人が増えていくのはそのためです。末端で働くための能力は持っていても、リーダーとしての能力がないので、上に行くにしたがい、リーダーではなく無能な支配者になってしまうのです。日本の教育システムは「上からの指示命令に従って現場で働く人」を育てるだけのシステムなのです。でも、リーダーとして一番大切な役割は、「自分で判断すること」と、「みんなのやる気」を引き出すことです。現場の人間は指示命令によって動くだけで済みます。でも、リーダーは自分で判断しなければなりません。でも、日本人はこの「自分で判断する」ということができないのです。日本の学校教育にはそのような能力を育てるシステムは皆無です。それどころか先生たちにさえ自分で考えないようにさせています。また社会の中にもそのような能力が育つ場がありません。もうひとつリーダーとして必要な能力が「みんなのやる気を引き出す能力」です。どんなに個人的な能力にすぐれていても「みんなのやる気」を引き出せないような人はリーダーには向いていないのです。それはつまり、「名選手としての能力」は、必ずしも「名監督としての能力」と同じものではないということです。でも、今の日本には「個人的な能力に優れた支配者」はいっぱいいますが、「みんなのやる気を引き出すことが出来るリーダー」はほとんどいません。競争社会を生き抜いてきた人は自分のことだけでせいいっぱいだからです。その代り、「支配者」にあこがれる子どもたちはどんどん増えています。ゲームの中の世界もまた競争社会であって、その競争社会で子どもは自分の分身であるキャラクターを支配し、競争に勝ち抜いていくのです。それは教育ママが子どもを自分の「分身」と考えて、子どもを支配し、競争に追い立てている姿と同じです。社長が社員を支配し、競争に追い立てるのも同じです。学校が子どもを支配して、競争に追い立てているのも同じです。でも、そのようなやり方は必ず行き詰まります。子どもや社員の「やる気」が損なわれてしまうからです。今の日本にとって必要な教育は、学力を育てることでも、個人的な能力を育てることでもありません。「判断力」と「やる気を育てる教育」こそが一番必要なのです。ただし、競争に勝つことでやる気を出させるのではなく、自分らしい能力を育てることでやる気を出させるのです。そうするとリーダーに向いている子はリーダーとしての素質を伸ばすでしょう。音楽家に向いている子は音楽家としての才能を伸ばすでしょう。家事や子育てに向いている子はその方面での才能を伸ばすでしょう。主役としての才能と、わき役としての才能は異なります。主役になることができなかった人が脇役になるわけではありません。そこには勝ち負けでは決まらない世界があるのです。だから、同じ価値観で競争させてはいけないのです。一部の財界人や政治家が言っているような「エリート教育」では、「支配者」ばかりが育って「リーダー」は育ちません。このままでは、組織をリードすることができない支配者と、その支配者からの指示命令に従って動くだけの人と、依存し保護を受けるだけの人の社会になってしまいます。そして人々はますますやる気を失っていくでしょう。
2012.01.06
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昨日新聞を見ていたら、週刊誌の見出しに石原慎太郎の言葉として「しつけとは体罰だ」と書いてありました。それでネットでも調べたら、もう少し具体的な石原慎太郎の言葉が出てきました。その一部を以下に抜粋します。石原:体罰はいいんだ。身にしみるからね。残虐行為とは全く違う。立たせるとか男のお尻をたたくとか、せいぜい平手打ちを食らわすぐらいあったっていいと思うな。やっぱり、しつけですよ。しつけっていうのは刷り込みなんです。たとえば九九算ですよ。あれは計算じゃなくて、刷り込みで暗記してる。それをやらなきゃダメです。それをある年齢まで来たときに、とにかく半ば強制的にやれるのは集団生活しかないから。このような考え方をする人の頭の中には白か黒しかありません。このように言う人に「いや、私は体罰は反対です」というと、「そうやって子どもを甘やかすから子どもがおかしくなるんだ」と言い出すでしょう。そんなこと言っていないのに、独断的に「もう分っているんだ」という反応をするのです。そして、人の言うことを聞こうとはしません。なぜなら物事を「白黒二元論」で考える人にとっては、「厳しくする」の反対は「甘やかす」であって、それ以外の選択肢は存在していないからです。そのような人が「黒だ」と言っている時に、「いや、黒ではないですよ」と言うと、誰も「白」などとは言っていないのに、「何をばかなこと言っているんだ、あれが白なわけないじゃないか」と反応します。そのように「白黒二元論」的な考え方をする人は、少しでも自分とは異なることを言う人は全て「自分とは反対意見の人」として認識します。そして、それは「体罰反対論者」においても同じです。ちなみに私はここで「体罰の是非」を論じているわけではありません。世の中を「白黒」だけで判断する見方に対して異論を唱えているのです。そのように世の中を「白黒」だけで見ようとする人たちは、それが「事実」か「事実ではない」ということにはあまり興味がありません。そして、自分の意見をちゃんと検証しようとはしないでただ感情論だけで押し通します。実は、そのような人は「本当のこと」には興味がないのです。ただ自分の感情や価値観や自尊心を守りたいだけなのです。だから「それって事実なんですか?」と問い返すだけで、「敵」として位置づけられてしまいます。そして、すべてを「自分を肯定する意見」と「そうでない意見」の二つに分けます。だから二元論になってしまうのです。そのため、石原慎太郎のように「しつけは体罰だ」という人に、「いや、そんなことないんじゃないですか」と「しつけ」についての議論を持ちかけても、議論になりません。最初から「しつけ」などには興味がないからです。だから「それが本当かどうか」という検証をする気も、議論をする気もありません。もともとただの思い込みであって何の根拠もないからです。そして、本人もそのことを知っています。だから、「そんなこと言うのなら、本当にしつけに体罰が有効かどうかを科学的に検証してみましょう」などと言ったら怒り出すでしょう。白黒二元論にこだわる人は、事実には興味がないのです。とにかく、自分を守りたいだけなのです。そのような人は小さい時から否定されて育ってきたのではないかと思います。競争社会の中で、幼い時から成績や能力によって比較され続け、「一人の人間」として受け入れられてこなかったのでしょう。問題は、日本ではそのように「自分を守りたいだけの人」が政治のトップに立ってしまっているということです。政治家だけではありません、今では日本人の多くがこの白黒二元論的な考え方しか出来なくなってしまっています。だから「白黒」をはっきり言う政治家に人気が集まるのです。そのような人の特徴は「話し合い」が出来ないということです。相手の意見を聞かず、ひたすら自分の意見を押し付けようとします。ちなみに、仕事がら多くのお母さんたちの話を聞いてきた体験から言うと、子育てを楽しんでいるお母さんたちの多くは子どものころ体罰を受けていません。むしろいっぱい愛されて育った人が多いように思います。逆に、体罰を受けて育ったお母さんは精神的に自立ができなくなり、子育てで苦しんでいる人がいっぱいいます。ただし、この場合の「体罰」は「しつけの方法」としての体罰のことです。子どもが危険なことをした時などに思わず手が出てしまうのはお母さんの「感情表現」であって「体罰」ではないと考えています。私は「本当のこと」が知りたいと思っています。そして、この現実世界には「真っ白」も、「真っ黒」も存在していません。「真っ白」や「まっ黒」は人間の頭の中にしか存在していない空想の産物だからです。現実世界は白と黒だけでなく、濃淡も色もある豊かで美しい世界なんです。体罰をするのでも、甘やかすのでもない子育てもあるのです。原発反対でも、原発賛成でもない考え方もあるのです。勝ち組でも、負け組でもない生き方もあるのです。多くの人が、経済的に豊かでないと貧しい社会になってしまうと思い込んでいますが、そうでない社会もあるのです。便利でないと不便になるわけではありません。自由がないからといって不自由になるわけではありません。お金がないからと言って貧しくなるわけではありません。白黒にこだわる人は、勝つか負けるかだけにこだわる生き方をしています。そして、勝てばうぬぼれ、負ければ自己肯定感を失い、「どうせ私なんか」と自嘲します。自分は自己肯定感が低いと思い込んでいる人も「白黒」だけで世界を見ている人です。もっともそのような断定的な言い方も「白黒」を付ける言い方ですけどね。ということで、「白黒で世界を見る傾向が強い人」と言い換えておきます。
2012.01.05
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今日から、またブログを再開します。また一年間よろしくお付き合いください。また、ご希望のテーマがありましたらお知らせください。それと、いっぱいうれしいコメントをありがとうございました。個々にご返事を書かなくて申し訳ありませんが、ここにお礼を述べさせていただきます。********************今は冬です。広葉樹の葉は落ち、木々に残っている葉っぱの色も深く沈んでいます。これから二月にかけてまだまだ寒くなるでしょう。でも、光は強くなってきています。日も長くなっています。「寒くなる」という負の要因と、「暖かくなる」という正の要因が同時に進行しているのです。秋に葉が落ちるのも、草花が枯れるのも「それで終わり」という意味ではなく、再生への準備でもあるのです。それが循環によって支えられている自然界の節理でもあります。そしてその節理を昔の人は「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」と言い表したのでしょう。ですから、葉が落ち、花が枯れても、それを「絶望」と考える必要はありません。「絶望」は「希望」の種だからです。でも、葉が落ち、花が枯れることを悲しむ心は大切です。「春になればまた咲くのだからだから」ということを知ってはいても、失われていくものを悲しむ心が人間性の根幹でもあるからです。今、人類は困った方向にどんどん進んでいます。これは見ようとしなくても、実際に世界中で進行している事実です。そして、それはいつも私が書いていることです。でも、その中に、まだ小さい種ですが、ちゃんと種が育ってもいるのです。今私たちに出来ることは一人ひとりがその「種」になることと、また子どもたちを「素敵な種」に育てることです。その方法は簡単です。一人ひとりが、生きていること、生かされていること、また支えられていることに「ありがとう」の気持ちを持つこと。子どもたちの心にも「ありがとう」の気持ちを育てることです。現代人は、競争ばかりに熱心になってしまい、その「ありがとう」の気持ちを失ってしまったから、人と人、人と自然、心とからだのつながりを失ってしまったのです。そして、それが現代文明の崩壊の引き金になっているのです。他者に対してだけでなく、自分の心に対しても、自分のからだに対しても、自分の命に対しても、自分の子どもに対しても「ありがとう」の気持ちを持つことです。そうすればきっと再生します。
2012.01.04
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あけまして おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。なぜか、一月中は楽天ブログに写真がアップできないようなので、文字だけで失礼します。写真入りは「こちら」です。*********************今年は、マヤ歴が終わる2012年です。それで「人類が滅亡する」と言う人もいますが、私は2012年は人類が滅亡する年ではなく、今までの文明のあり方、社会の在り方が崩壊する年だと思っています。その兆候はもう既にいろいろな所に表れています。それはつまり2012年が「歴史の一区切り」だということです。そして、そこから人類の新しい歴史が始まるのです。でも、その過程で多くの混乱が起きるでしょう。多くの災難や悲しいこともいっぱい起きるかもしれません。そんな時代だからこそ、見えるものだけに惑わされず、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することと、仲間を大切にする心が大切なんだと思います。子育てでも、教育でも、子どもを追い立ててはいけないと思います。追い立てられて育った子どもは人の眼ばかりを気にするようになり、「自分の人生」を生きることが出来なくなってしまうからです。もう既にそのように育ってしまった人は「自分を大切にする生き方」を心がけていれば大丈夫です。それが新しい時代を生きる生き方だと思います。
2012.01.02
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