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なぜか私は、若い頃から「表の歴史」ではなく、「裏の歴史」に興味を持っていました。「裏の歴史」とは学校では教えてくれない歴史のことです。学校で教えてくれるのは正式な記録として残された「支配者の側から見た歴史」です。どうしてそうなっているのかというと、その「裏の歴史」を支えてきた人たちは、自分たちのことを記録などしなかったからです。記録したとしても、それを「大切なもの」として残していこうとする発想も、そのようなシステムもありませんでした。だから平気で「ふすまの下張り」などに使ってしまったのです。そもそも、そのような人たちの多くは「文字」を持っていませんでした。これは現代でも同じですが、「価値」は「権力」と結びついているので権力のない者達が大切にしていることになど社会的な価値はないのです。言い換えると、「権力者」とは社会的に価値のあるものをいっぱい持っている人のことなんです。それがいわゆる「勝ち組」と呼ばれる人たちです。ですから、みんな「社会的に価値のあるもの」を得ようと必死になっています。子育てでもそれを得ることを目的として子どもを育てています。でも、権力者の社会は「価値」が固定されているが故に、自由がありません。そして、みんな「価値」を守ることばかりに一生懸命になって、「新しい価値」を生み出すことが出来ません。権力者の世界では「価値」は財産として守るものであって、創造するものでも破壊するものでもないのです。そんなことしてしまったら「価値」に価値がなくなって、権力を「権力」として成り立たせている基盤を失うことになってしまうからです。だから「新しい価値」を創造することも、役に立たない価値を破壊することも出来ないのです。それに対して「裏の歴史」を支えていた人たちはその「価値」から自由でした。守らなければいけない「価値」を持っていなかったからです。社会的な権力はありませんでしたが、それ故に「価値」に縛られることもなかったのです。ですから、彼らは必要に応じて創造と破壊を繰り返していました。それが「アウトロー」の世界です。それはつまり、価値を創造する現場にいる芸術家や、宗教家といった人たちや、また子どもや、女性や、お産婆さんといった人たちが権力から排除されてきた理由です。そのような人たちの価値を認めてしまったら、権力者を支えている価値が価値を持たなくなってしまうのです。そして、創造と破壊の場では社会的な価値は無意味です。魔法の力で自由にお金を作ることが出来るような人とっては、お金に社会的な価値などないのです。ただ、「自分が作った」という「自分にとっての価値」があるだけです。でも、彼らのその「創造と破壊」が日本の文化を創ってきたのです。権力者はその中から自分たちの気に入ったものに「社会的な価値」を与え、守り伝えてきただけです。権力者は守るだけで、創造はしないのです。だから、次第に硬直化して、内部崩壊していきます。これは「権力」の必然なんです。そして実は、「大人の世界」と「子どもの世界」の間にも似たような構造が存在しているのです。子どもは大人を縛っている社会的な価値から自由です。ですから、自由に創造と破壊を繰り返します。でも、大人達は社会的な価値を守ることしか考えていません。その価値を得るために頑張ってきたのですから、その価値に疑いを挟んだり、ましてやそれを無視するなどと言うことは出来ないのです。それは自分の「社会的な価値」に疑いを挟むことに他ならないからです。ですから、子どもにもその価値を押しつけます。子どもにもその価値を押しつけることで「自分の価値」を肯定しようとするのです。でも、そのようなことばかりを繰り返していると、心が次第に硬直化して、内部崩壊していきます。じゃあ、どうしたらいいのかというと、まず「自分が信仰している価値」を疑ってみることです。そしてその価値が生まれてきた原点を考えてみるのです。「お金」という価値はどこから生まれてきたのか、「学歴」という価値はどこから生まれてきたのか、ということを考えてみるのです。これは何らかの思想に対してでも同じです。「シュタイナー教育では何を言っているのか」と言うことではなく、「どうしてシュタイナー教育ではそういうことを言っているのか」と言うことを考えるのです。そのように考えることで信仰に縛られなくなるのです。つまり、「始まりの視点」に立って物事を見てみるのです。すると、ただ守るだけでは見えてこないものが見えてくるのです。どんな場合でも、時々は「始まりの視点」に立ち返って、今の自分を見直してみるのです。そうすることで迷子になることを避けることが出来るのです。それは親子関係でも、夫婦関係でも、また自分自身の生き方でも同じです。シュタイナー教育でも、その「始まりの視点」に立って見た時、もっと自由な新しい世界が見えてくると思います。中途半端ですが、今日はこれくらいにしておきます。今日は、「冒険クラブ」で「ばばばーちゃんのお餅つき」をやります。河原で焚き火をして、餅米を炊いて、ボウルに入れて、すりこぎでドンドンやってお餅を作ります。後でまた写真をアップすると思います。
2010.01.31
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実際の「私」を知らず、このブログだけで私のことを想像している方はもしかしたら誤解しているかも知れません。それは、私がすごく立派な子育てをしていて、部屋の中はきれいに片づけられていて、シュタイナー的に美しいもので飾られていて、外食はせず自然食で、プラスチックなどで出来た「くだらないおもちゃ」など買わず、テレビは見ず、禁欲的な生活をしているというような誤解です。でも、実際には家は普通の家(多分)だし、子育ても普通(多分)だし、滅多に外食はしませんがそれでも外食は好きだし、テレビもそれなりに見ているし、プラスチック製やリモコン系のおもちゃもいっぱいあります。部屋の中も別にシュタイナー的に飾り立てているわけでもないし、きれいに片づいているわけでもありません。自然育児の人たち対象の遊びの会でも、みんなが玄米おにぎりや、手作り品しか持ってこないような場で、私は一人で「コンビニ弁当」を食べています。(ただ、玄米よりコンビニ弁当の方が好きだというわけではありません。私はどちらかというと白米より玄米の方が、お肉よりは野菜の方が好きですが、でもそれほどのこだわりはないということです。)それでも、私には妙なこだわりがあります。それは「一つのことだけにこだわることを避ける」「100%を目指さない」というこだわりです。まあ、それは単に私のいい加減な性格の現れを体裁良く言い表しているだけないのかも知れませんが、とにかく価値観を一つに決めてしまうことに何となく違和感を感じるのです。だからといって、100%を目指す人を非難、否定しているわけではありません。そういう人を見るとすごいなー、素敵だなーとは思うのですが、どうしても私はいい加減な状態の方が居心地がいいのです。それでも、私に価値観がないわけではなく、「自分なりの価値観」は持っています。だから、ブログや講演やワークを通してそれをお伝えするための活動もしているわけだし、私のこのような「いいかげんな実態」を皆さんに平気で書くことも出来るわけです。でもそれは、「具体的な形」を規定するような価値観ではありません。だから基本的に「形」にはこだわりません。私は常に全体が見渡せるところにいたいのです。そして、どんな価値観の人も排除したくないのです。だから、偏りたくないのです。それが私の基本的な「価値観」です。私は、「お茶室」の思想が好きです。茶室の中では全ての世俗的な属性は価値がなくなります。大臣であろうと、乞食であろうと対等です。そこで大切にされているのは、世俗的な価値ではなく、お互いに思いやる心と、美しいものを尊敬する心だけです。(実態はそうではないでしょうが、思想的にはそうなのです。)ですから、私の活動の場では特定の宗教、思想、人種、政治に偏った意見、活動はご遠慮願っています。また、子育てなどでもそれなりに大切にしていることもあります。それは「取り返しが付くこと」と「取り返しが付かないこと」を分けて、「取り返しが付かないこと」だけはしっかりとやるようにしているということです。あとは、いい加減です。その場合、世俗的な価値観などどうでもいいことです。あと、子どもたちに伝えたいことも「お互いに思いやる心」と、「美しいものを尊敬する心」だけです。だからといって、「お勉強などどうでもいい」という事ではありません。ただ、「お互いに思いやる心」と、「美しいものを尊敬する心」の育ちを阻害するような、お勉強は求めていません。(でも、おかげさまで中三まで塾にも行かず、勉強しろと強制もしないのに子どもたちはそれなりに成績優秀です。小6の4番目はこれからです。)また、子育てでも親自身の生き方としても、手や、からだや、心や、頭を使って創造的な活動をすることは非常に大切にしています。ですから、それを阻害するような要素は可能な範囲で排除しています。人間は創造的な活動を通してのみ「自由な心」を育てることが出来るからです。だから、テレビゲームは買いませんし、テレビを見る時間も制限しています。(携帯ゲーム機も持っていません)でもそれは厳密なものではなく、依存しない範囲で遊ぶ程度ならOKです。そのため、友人の家でやることまでは禁止していません。その友人達も時々我が家に造形しに来ていましたからお互い様です。それに、テレビゲームばっかりやっている友人はいないようです。それが、結果としてなんとなく「シュタイナー的」な子育てになってしまっているということに過ぎません。私は「シュタイナー教育の形」が好きなのではなく、宇宙や、人間や、生命や、自然とつながり、自由な心を育てようとするシュタイナー教育の「人間観」や、「生命観」が好きなんです。それに対して、今一般的に流行っているのは「能力開発型の教育方法」です。そこには「人間観」も「生命観」もありません。(でも、何を勘違いしてか、シュタイナー教育に能力開発を求めている人もいるようですけど・・・。)もし、私が幼稚園のようなものをやるとしたら、私の理想の教育は「シュタイナー教育を学んだ人たちによる、シュタイナー教育にとらわれない教育」というようなものです。具体的には、「ものがたり」(ファンタジー・言葉)を軸にして、「作ること」「育てること」「表現すること」「遊ぶこと」を大切にした教育です。それがまた私が大切にしている子育てでもあります。それ以外のことは「ケース・バイ・ケース」で考えます。
2010.01.30
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人間はそれが「特別なもの」であればあるほど、意識がしやすくなり、「普通のもの」であればあるほど意識することが難しくなります。でも、「何が一番大切なものなのか」というと、実はその意識することが出来ない「普通のこと」の方なのです。それは例えば「空気」や「土」のようなものです。それらはあまりにも当たり前すぎて、ほとんどの人がそんなものに気づかないまま生きています。そして、お金や、物や、人より優れた何らかの能力といった「特別なもの」ばかりを意識し、求めています。でも、お金や物を失っても、またやり直すことはできます。また、人より優れた能力がなくても、人間らしく生きることはできます。でも、空気や土を失ってしまったら、人間は生きていくことが出来ません。人と同じことができる能力、人とつながる能力を失ってしまったら社会生活が困難になります。当たり前のことが出来なくなったら毎日の生活が出来なくなります。でも、そういうものが少しずつ消えていく時、人はそのことに気付くことが出来ません。それが空気のようなものなら気づかないまま死んでいくでしょう。二酸化炭素中毒で死ぬ時のようにです。そして、現代では有史以来特に意識しなくても普通に伝えられてきた「普通のこと」が、ちゃんと意識して伝えようとしなければ伝えることが出来なくなってきてしまいました。でも、それらはあまりにも普通のことなので、多くの人がそのことの重要性に気づいていません。それで、「普通のこと」を代償にして、「特別なこと」を身につけさせようとしています。お母さん達のワークで時々やることなんですが、「自分に出来ること」を思いつく限り書きだしてもらいます。子どもについても同じことを書いてもらうこともあります。その時、「歩くことが出来るとか、寝ることが出来るというような何でもないことでもいいんですよ」と言うのですが、ほとんどの人が「英語が出来る」「簿記が出来る」「スキーが出来る」というような「特別なこと」しか書きません。それが書き終わったら、「その中で、失ってしまったら取り戻すのが困難な能力と、またやり直せる能力とを分けて、やり直せる能力の方を消していって下さい」と言います。そして最後に、子育てで大切なことはその最後に残った「やり直すことが出来ない能力」をしっかりと育ててあげることなんですよ、と伝えます。英語が出来なくなっても、簿記やスキーが出来なくなっても、それだけで生きることが出来なくなるわけではありません。でも、歩くこと、話すこと、人とつながることが出来なくなってしまったら「人間として生きる」ということが困難になります。「子ども時代」というのは、そういう「人間としての基礎」を育てている時期です。ですから、子どもたちは本能的にその「人間として生きるために必要な能力」を学ぼうとしています。その学びの形が「遊び」と呼ばれるものです。でも、大人達はそのような「当たり前のこと」には価値を感じず、「特別な能力」ばかりを子どもに求めます。そして、子どもが「特別」になると喜びます。でも、その「特別な能力」は、「特別ではない普通の能力に支えられていないことには何の役にも立たない」ということには気付いていません。そのような能力は、「人間としての普通の能力」に支えられていなければ、単なる「見せ物」でしかないのです。(サーカスの芸人のように、「見せ物として生きる」という生き方もありますけど・・・。)どんなに英会話がペラペラでも、その英語を通してちゃんと対話が出来なかったり、語るべき内容を持っていないのなら、それは海外旅行の時に便利なだけです。そして、その対話能力や内容は英会話の能力とは関係がありません。当たり前のことですが、みんなが英語が話せる社会では、英語が出来るというだけで仕事を与えてくれるなどということはないのです。ネイティブのような上手な発音でも、ネイティブの国の人を相手にする時にはそのことには何の価値もないのです。でもここで困難なのは、失ってしまったものが「普通のもの」である時、人はそれを想い出すことが出来ない、ということです。だから、「普通のもの」を失ってしまったことから起きてくる様々なトラブルに対して、どのように対処したらいいのかが分からず、「特別なこと」ばかりを色々と考えて小手先で対応しようとするのです。だから、問題がどんどん深刻化していくのです。私がこのブログで書いたり、講演やワークなどで伝えようとしているのもみんな「普通のこと」、「当たり前のこと」ばかりです。今、連続で「遊びの勉強会」というワークを企画しています。いまやっている内容は「作って遊ぼう」ということです。でも、ほとんど反応がありません。それで、先日お母さん達に話を聞いたら「今さら工作なんか覚えても・・・」というようなことをおっしゃっていました。でも、みんな子どもとのコミュニケーションでは悩んでいるのです。実際、子どもとのコミュニケーションがうまく行かなくて悩んでいるお母さんはいっぱいいます。でも、子どもはそのコミュニケーション能力を「今」育てている時期なので、コミュニケーションの仕方、楽しさを教えるという形でしか子どもと関わることはできません。それなのにお母さん達は子どものコミュニケーション能力を育てようとはせず、いきなり子どもに対して対等なコミュニケーションを求めてしまいます。だから、コミュニケーションが成り立たないのです。そして、子どもはコミュニケーション能力を育てることが出来ないまま成長していくことになります。じゃあ、どのようにしてそのコミュニケーション能力を育てるのかというと、一緒に何かをやりながら対話するしかないのです。面と向かって、「さあ、今からコミュニケーション能力を育てる訓練をします」というようなものではありません。いくら親子の対話が必要だと言っても、子どもを連れてきて「さあ、対話しましょう」などということが出来るわけないのです。私は、その「一緒にやること」として「造形」や「遊び」を提案しているのです。そして、その造形を通して、どのような形でのコミュニケーションや対話が可能なのか、どのようにして子どもの心の世界を広げることが出来るのかという「子どもとの関わり方」をお伝えしています。私がお伝えしたいのは「工作や遊びの方法」そのものではなく、「コミュニケーションツールとしての工作や遊びの使い方」なのです。昔、子どもたちが「お手伝い」という形で大人や生活に関わっていたり、仲間と群れて遊んでいた時代には、子どもたちはそういうものを媒介にしてコミュニケーション能力などを育てていました。そして、そういうことは「当たり前」のことだったので、誰もそのことの大切さなど意識していませんでした。でも、それらが失われてしまった現代、大人達は「特別なこと」でその「穴」を埋めようとしています。何を失ってしまったのかが分からないからです。ということで宣伝です。2月11日(木)「建国記念日」の午前に、その「遊びの勉強会」の5回目として「羊毛で作ろう」をやります。もうすでに羊毛をやっている人は多いと思いますが、この講座で私がお伝えしたいのは、単なる羊毛の技術ではなく、子どもでも簡単に出来る方法や、羊毛を使って色々と作ることを通して子どもとどのように関わることが出来るのか、ということです。つまり、「コミュニケーションツールとしてのフェルト工作」ということです。本屋さんに行っても、そういうことを書いてある本はないはずです。その後には、「子どものイタズラ描きを媒介にしてのコミュニケーション」というような内容を予定していますが、あまり反応がないようならこの企画は中止します。(日程、会場未定です。)それともう一つ宣伝です。これは横浜駅近くにある「Umiのいえ」という所の企画です。■ 自分育て講座 ~いのちに関わるお仕事の人のための講座とボディワーク~詳しくはHPをご覧になって下さい。テーマ的には■1回目:気質と感覚の話■2回目:子どものことを知ること■3回目:作ることと工夫すること(三回セットになっています)の三つになっていますが、いずれもただ知識をお教えするのではなく「人と人とのつながりを支えるもの」という視点でお話ししたり、ワークをします。ご興味のある方はUmiの家までお問い合わせ下さい。
2010.01.29
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あいあいさんがうちの子には”発達障害”があるのですが、これが、なかなか難しいのではないかなと感じます。”からだ”(感覚)の支配が強すぎて、「言葉」(理性)の発達が困難になるのかな、と感じています。とコメントに書き込んでくださったので、確かに、感覚に偏りがある子は、言葉とからだがうまく出会うことが困難です。と、ご返事を書きました。今日はこのような子どもたちの話を書きます。まず、以下の図をご覧になって下さい。右は丸みを帯びた形で、左は尖った形です。さて、ここで問題です。この二つの図はあるキャラクターの絵です。そして両者には名前が付いています。一方が「ブーバー」といい、もう一方は「キキ」といいます。さて、どちらが「ブーバー」で、どちらが「キキ」でしょうか。ワークなどでお母さん達に質問すると、大部分の人が左が「キキ」で、右が「ブーバー」だと答えます。これはある種の心理学的な実験で、世界中の地域で同じように聞いたそうです。すると、98%の人が、お母さん達と同じ答えをしたそうです。詳しくはこのHP(Weblio)をご覧になって下さい。ただし、このHPでは図に色が付いていますが私が以前確認したいくつかの資料では色が付いていなかったので、この「色」はこのHPだけの便宜的なものだと思います。ですから、引用では色を抜いてあります。でも、よく考えると不思議じゃありませんか。どうして図を見ただけで「音」が分かるのでしょうか。ただし、この場合もある種の人には苦手なようです。上記のHPにはなお、大脳皮質角回に損傷のある人や自閉症の人では、上のような顕著な結果は得られず、ラマチャンドランらは、これらの人が不得意とする隠喩の解釈と関係があるのではないかと考えている。と書いてあります。ただし、質問の「裏」を考えて答えるようなタイプの人や、知識や論理で答えを探そうとするタイプの人は、異なった答えを選ぶことがよくあります。そのような人は自分の身体感覚を信用していません。ですから、「苦手だから自閉症だ」ということではありません。「自閉症の人にはそのような傾向が強い」ということです。人は「音」や「形」を身体感覚で受け取り、解釈しているのです。そして、言葉には「音」だけでなく、「形」も、そして「色」もあります。爆弾が爆発する時の「バーン」という文字にイラスト的に色を塗ろうとする時には、多くの人が「赤い色」を選ぶでしょう。それは「赤」という色を見た時に身体的に感じる感覚と、口から「バーン」という音を発する時の身体感覚が似ているからです。ですから、「爆発」という状態をなんと呼ぼうかと考えた古代の人は、その印象に合った音を選んで付けたはずです。特に日本の古代の人たちはその身体感覚をそのまま音に変換したような言葉を作りました。それが日本語です。それに対して英語は身体感覚より、意味が重視されて作られてきました。だから「意味」を表現する時には日本語は英語に敵いません。でも、日本語では意味もないものを表現するのは得意ですが、英語はそういうことは苦手です。雪が「サラサラ降る」「ミミズがグニャグニャ動く」などというような「オノマトペ」は、それを見た時の身体感覚をそのまま音に変換したものです。ですから、そこに意味はありません。でも、その音を聴いた時に感覚は伝わるので、日本人はそれも「言葉」として取り入れているのです。ただ、英語圏の人にそのような感覚がないわけではありません。だから「爆発」は「explosive」なのに、爆弾は「bomb」なのです。確かに、「音」は耳で聞き、「形」は目で見て、そのまま脳で処理されるだけですから、聞いたり、見たりしているだけなら、からだと直接出会っているわけではありません。でも、言葉を発する時の「口」や「舌」や「喉」や「胸」の感覚と、口から発せられる音は密接につながっています。つまり、音を聞いているのは「耳」だけですが、音を作っているのは「からだ全体」だということです。ですから、人は言葉を聞きながらその人の「からだ」を感じているのです。「く」という音を聞くと、なんとなく喉が詰まる感じがします。「く」という音を聞くだけで、自分の中にそういう感覚が共鳴してしまうのです。だから、「くるしい」という言葉を聞いているだけで、身体感覚が敏感な人は、自分も苦しくなってしまうのです。それは「からだの共鳴」に依るものですらから、必ずしも「優しさ」を意味しているわけではありません。幼い子どもたちは、そのからだで感じたものを再現する形で言葉を模倣し、学習していくのです。幼い子どもたちはそのような感覚が敏感なのです。言葉は脳ではなく「身体感覚」で学習するものなのです。(この話題と関係しているものに「共感覚」というものがあります。形を見ただけで、音や色が見えたり、味を感じたりするものです。そして幼児は大人よりこの感覚が強く働いているということです。)でも、その身体感覚に偏りがあるような子の場合、他の人が話す言葉を聞いても、自分の身体感覚と共鳴しないので、うまく模倣することが出来ません。一生懸命に「耳」で聞いて、その音を再現しようとするのでしょうが、音を作っている時の「口」や、「舌」や、「喉」や、「胸」の身体感覚が分からないので、音がうまく作れないのです。その結果、発音がおかしくなったり、発話が遅くなります。多分「音痴」という現象も同じ事だろうと思います。そのように感覚に偏りのある子の場合、他者と感覚を共有することが困難なため、対人関係でも自然なつながりを作ることが困難なのではないかと思います。その結果「KY」と呼ばれるような状態になってしまうでしょう。そのような子の場合、言葉で言われれば分かるのですが、見ただけで状況を感覚的に感じることができないのです。
2010.01.28
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全ての生き物のからだは「土」からの借り物で出来ています。ですから、死ねば皆「土」に戻ります。人間も例外ではありません。そしてそれと同じように、人間の「心」は「言葉」からの借り物で出来ています。だから人は自分の心を「言葉」で伝えることが出来ます。そして、その人が死んでも「その人の心」は「その人の言葉」として残すことが出来ます。人が死んだ時、いつまでも「自分のもの」として残せるのは、「自分の言葉」だけです。「物」はアッという間に人のものになってしまいます。ただし、「感情」も心の一部ですが、「快・不快」につながるような生理的な感情は「からだ」に属します。だから、脳を電極で直接刺激するだけで、何の原因もなく喜怒哀楽を感じることができます。そして、そのような生理的な感情は「からだ」に属するものであるが故に、それを言葉で伝えるのは困難です。ただし、そのような感情はその人と共鳴しやすいからだを持った人には感じることが出来ます。それは一人が「ムカツク」と言えば、周囲にいる仲間も「ムカツクようなものです。これは共鳴ですから特別な原因などなくてもムカついてしまいます。でも、その人のからだと共鳴できない状態のからだの人には、説明されても「なんでムカついているのか」、また「ムカツクということがどういう事なのか」はさっぱり分かりません。これは「言葉」に属するものではなく、「からだ」に属することだから言葉では説明出来ないのです。「人間らしい心」はその「言葉」と「からだ」の相互作用によって生まれます。ですから、心には「言葉」で言い表すことが出来る部分と、言葉では言い表すことが出来ない部分があるのです。でも、「人間としての心」という区切り方をしてみると、その大部分は「言葉で表すことが出来るもの」が中心になります。幼い子どもたちの心は「からだ」との結びつきが強いので、彼らの言葉を「言葉」として理解しようとしてもなかなか理解できません。ですから多くの場合、共鳴によって感じ取るしかありません。だからお母さんや兄弟には理解できても、他の人には理解できないのです。でも、子どもたちは、言葉と出会い言葉とつながることで少しずつ「からだ」の支配から自由になっていきます。すると、お菓子やおもちゃをもらった時に「ぼくも欲しいけど、一個しかないから弟にあげる」ということが出来るようになるのです。そのようなことが出来る子どもは「言葉」もちゃんと使うことができます。「言葉」と「からだ」が出会うことで、心がからだの支配(感情、欲求、本能)から自由になっていくのです。「言葉」が「人間らしい理性」を創り出すのです。それが失敗しない「しつけの方法」です。言葉との出会いがないまま、単に「叱る」という方法でしつけられている子は「押しつけられている」「強制されている」としか感じていないので、やがて大人の言うことを無視するようになります。叱られ慣れている子ほど、自分の気持ちを言葉で説明することが出来ないものです。だから「ムカツク」と表現します。逆に言えば、「言葉」が「からだ」とつながることが出来ない子どもは、いつまで経っても「からだの支配」から自由になることが出来ないということです。そのような人は大人になっても「自分」との対話が出来ずに、感情、欲求、本能に振り回されるようになります。「言葉」という方法を使わずに「自分」と対話することは出来ないのです。ちなみに、これは大人になってからでも学び直すことは可能だと思います。ただし、何年もかかると思います。その時、一番効果的な方法は「日記」や「詩」を書くことではないかと思っています。先日、家内が「アンネの日記」の絵本を借りてきたのですが、「アンネの日記」には「アンネの心」が書かれています。だから読む人の心を打つのです。それを媒介しているのが「言葉」です。
2010.01.27
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自然と共に生きている全ての生き物は、「土」という場で出会い、つながっています。草木は直接「土」から生まれます。そして、その草木を食べる生き物がいて、さらにその生き物を食べる生き物がいて、そして死んだらその死骸を食べる生き物がいて、結局また土に還っていきます。そのようにして生命が循環しているのです。その循環を支えているのが「土」という働きです。世界中の(植物が育つような)土と、石油と石炭のすべては生き物の死によって作られたものです。ですから、私たちの生命も生活もすべて有史以来の生き物たちの死によって支えられているのです。人間もまた、基本的には土から生まれたものを食べ、最後には土に戻る生き物です。お墓に入れられていても何百年後にはそのお墓も消えてみんな土に還っています。ただし、それは人間の「肉体」の話です。人間は「肉体を支えている生命」の他にもう一つ「心という生命」を持っています。その心もまた肉体の生命のように受け継がれ、誕生し、成長します。ただし、「心の死」に関しては諸説あり、どうなっているのか分かりません。「肉体が死んでも心は魂として生き残る」と考えている人もいれば、「心もまた肉体の死と共に死んでしまう」と考えている人もいます。でも、幼い頃に心が目覚め(生まれ)、様々な体験を通して肉体と同じように成長していくという点に関しては一つの事実として受け入れられているのではないでしょうか。その時、心は肉体の体験を通してその「栄養」を取り入れています。ですから、肉体を通しての体験が少なかったり、偏ったりしてしまうと心は栄養失調になってしまいます。そして、これも肉体と同じように、幼い時にその栄養失調状態が過度に継続してしまうと、それは「歪み」として一生心の中にその影響が残っていきます。ちなみに、この「肉体の体験」は「感覚の働き」を通して「心」に届きます。肉体と心をつないでいるのは「感覚の働き」だからです。つまり、「感覚」は肉体における口や消化器官に相当するわけです。ですから、感覚に働きかけるような体験でないと、子どもの心を育てることは出来ません。では、肝心のその「栄養」とは何か、ということです。それは人と人のつながりによって支えられている「言葉」というものを通して伝えられるものです。そもそも、人と人のつながり自体が「言葉」に支えられているのですから、その栄養とは「言葉を体験すること」と言うことも出来るかもしれません。「痛い」という言葉をどのように体験するのか。「愛」や「勇気」や「希望」や「冒険」といった言葉をどのように体験するのか。「歩く」「走る」「飛ぶ」という言葉をどのように体験するのか。そこではあいあいさんんがコメントしてくださった「対話」も含まれます。人は対話によって「人間」という言葉を体験することが出来ます。それは、ヘレンケラーが井戸から流れ落ちる水に触れながら「水」(ウォーター)という言葉を体験したのと同じものです。それは「ウォーター」という言葉を覚えるだけの作業とは全く別のものです。(難しい言葉で言うと「言葉が受肉する」ということです。)肉体が成長するためには「土によるつながり」が必要なように、人間の心が成長するためには「言葉によるつながり」が必要なんです。「土」は、生命誕生以来この地球上に生きていた「生命の記憶」によって作られています。それと同じように、「言葉」は私たちの先祖すべての人たちの「心の記憶」によって作られています。「言葉」とはそういうものなんです。ですから、「密室育児」のような孤独な子育てがなぜいけないのかというと、その「言葉のつながり」から切り離されてしまうからです。それはまた、「心」から切り離されてしまうことも意味しています。どんなにお金があって、お母さんが優秀で、生活には困っていなくても、言葉のつながりをたたれてしまったら子どもは心を育てることが出来なくなってしまうのです。そして子育てはつらくなるばかりです。また、本を読まない子は「昔の人」「遠くの人」「自分とは価値観が異なる人」とつながることが出来ないので、心を豊かに育てることが出来なくなります。
2010.01.26
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昨日、実際、自然農法などで土を生き返らせると、その周辺の様々な生き物や菌も生き生きとしてくるそうです。虫や鳥や土の中の生き物たちも元気になるのです。土は単なる「栄養源」ではなく、「生命のつながりを支える場」なのです。と書きましたが、なぜ「豊かな土」が「生命の働き」を支えてくれるのかと言えば、「生命」はそのつながりの中で生まれ、つながりの中で進化してきたからです。実は、その「つながりを維持しようとするシステム」こそが「生命というシステム」なのです。草木が花を咲かせ、実を結ぶのも、動物が子供を産んで育てるのも「つながりを維持しようとするシステム」の表れです。何かを食べ排泄するのも「つながりを維持しようとするシステム」の表れです。人間が「生きたい」、「死にたくない」と思うのも、「つながりを維持しようとするシステム」の表れです。だから子どもに血が受け継がれたり、想いや願いが受け継がれると、安心するのです。だから親は子どもに自分の想いを押しつけるのです。でも、その「つながりの世界」では自分に有利なことばかりが起きるわけではありません。土はいつでも「生命」を土に分解しようとして働きかけています。土の中には根を腐らせる細菌も、根を食い荒らす虫や生き物もいます。栄養だって充分にあることはまれでしょう。自然環境だって「自分のためだけに有利な環境」ではないでしょう。自分を食べようと狙っている生き物だって周囲にいっぱいいるでしょう。つまり、「つながりの中で生きる」ということはその「負荷」の中で生きるということでもあるのです。でも、その負荷とバランスを取る働きが「生命」という働きであり、また「生きる」ということなのです。ですから、そのバランスを維持できなくなった生き物は「土」に還っていきます。それが「自然界の掟」です。この「土に帰そうとする働き」は生命の働きそのものの中にも働いています。だから「寿命」というものがあるのです。でもだから「誕生」もあるのです。ちなみにこの「土に帰そうとする働き」は憂鬱質の働きでもあります。でも、近代的な農業はその負荷を減らすことばかりを考えてきました。つまり、不利な要素を出来るだけ排除して、有利な要素だけをいっぱい与えようとしたのです。ですから、確かに収穫は増えます。でもその結果、その野菜などの生命システムはバランスを崩し、生命力が萎えていきます。だから病害虫に弱くなります。そこで人間は生命力を高めるのではなく、遺伝子を組み替えて「負荷に強い種」に改良することで対応しようとしています。中には、他の生き物などに食べられないように、微弱な毒を持った種に改良することもあります。でも、そのような「種」は自然界のつながりの中には入ることが出来ません。そのような「種」にはつながりを支える能力がないからです。時には、「ガン細胞」のように自分勝手に振る舞い、その場のつながりを破壊してしまうこともあるかも知れません。また、生命力が萎えているので、人間に管理されないと実を結ぶことが出来ない場合も多いようです。でも、その「生命力」と引き替えに、生産者の思い通りの作物を作ることが出来ます。だから、人間は夢中になってその方法を研究しているのです。ここまでお読み頂いて、皆さんにはもうお分かりになったと思いますが、実は同じようなことが、農業だけでなく、子育てや教育の場でも行われています。いや、もっと社会全体の中で同じようなことが行われています。それはつまり、子どもに不利な要素を出来るだけ排除して、有利な要素だけを与えて、純粋培養状態で子どもを育てようとする子育てや教育です。確かにその結果、子どもたちは特定の機能、能力に関しては昔の子どもたちより優秀になったと思います。それは機械を扱う能力や、沢山の知識や、立派な体格として表れています。空気を読む能力もそうなのかも知れません。この点に関しては、今の子どもの方が私が子どもだった時の子どもたちよりも明らかに優れています。でも、その一方で「不利な要素」から学ぶことが出来なくなりました。「不利な要素」とバランスを取って生きることが出来なくなりました。「有利な要素」に有難味を感じなくなりました。「生きている」という実感を感じることができなくなりました。つながりの中で生きていく能力を失いました。野菜ならここで遺伝子組み換えを行って、この問題を乗り切るのでしょうが、人間ではそういうわけにはいきません。今、自分の子どもを守ろうとすることばかり考えているお母さんがいっぱいいます。そのようなお母さんは先回りして、次から次へと子どもに不利になるような要素を取り除こうと一生懸命です。そして、有利な要素だけを与えようと頑張っています。みんな、自分には似ていなくて、自分の能力を越えた能力を持った子どもに育てたいと願っているのです。でも、実際にスズメの子が鷹になったら、子どもは親を見下すでしょうね。そして、親を見下すような子が親になった時、ちゃんと子育てが出来るのかどうかが心配です。また、その方法で「よい子」を作ることは出来るかも知れませんが、でも、その「よい子」は一人では生きていくことが出来ないでしょうね。
2010.01.25
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土に依存しない科学的に管理された農業が見落としている大切なことがあります。それはまた、子どもを管理、コントロールしようとする子育てや教育においても見落とされていることです。植物や野菜は土から栄養を得て成長しています。だからもっと効率よく、また質の良い栄養を与えてあげれば植物や野菜ももっと効率よく成長するはずです。また、栄養を無駄に使わないように出来るだけ負荷を減らしてあげた方が、効率よく栄養を吸収することが出来すでしょう。という考え方の基に近代的な農業はそのシステムを構築してきました。ですから、園芸やさんに行けば様々な肥料が売っています。これはまた人間の場合で言えば「一日何種類の栄養素をバランスよく摂りましょう」という栄養学的な考え方につながるのでしょう。また、ネットを掛けたりハウスにしたりして「自然」からの負荷を減らそうともしています。その結果、野菜も人間も大きく立派に成長するようになりました。それで「めでたし めでたし」で終われば良かったのですが、でも、現実はそれほど単純には出来ていなかったようです。見かけは大きく立派になったのですが、どうも野菜も人間も生命力において萎えてきてしまっているようです。その結果、野菜も人間も免疫力が落ちて、病気にかかりやすくなってしまいました。ですから、科学肥料の発展と共に農薬も発展してきました。人間の場合も栄養学や医学の進歩で病気が減ったとはとても思えない状況です。そうでなければ、こんなにもみんなが毎日サプリメントや薬を必要としているわけがないからです。野菜には心がありませんからいいですが、人間は心においてもその生命力が萎えてきてしまっています。その結果不安が強くなったり、神経過敏になったりする子どもや大人が急増しています。では、見落とされていることとは何なのか、ということです。確かに、植物や野菜は土から栄養を得て成長しています。では、土の役割とはそれだけでしょうか、ということです。実は土には、植物を支え、守る働きもあるのです。土は栄養を提供するだけでなく植物を支え、守ってくれていたのです。だから土が元気なら植物や野菜も元気なんです。確かに、植物を土から離して栄養素がいっぱい入った水だけで育てることも出来ます。でもその場合、虫も菌もいない状態の環境を作らないとすぐに病気になってしまうでしょう。野生の植物は誰の世話も受けていないのにちゃんと成長し、花を咲かせ、実を付けます。それは土が支え、守ってくれているからです。野生の状態の植物の生命は、その場所にいる様々な生命とつながって生存しています。周辺の草や、様々な動物や鳥や虫や菌などとつながって生きているのです。それらの生命は個別に生きているのではなく、お互いに支え合って生きているのです。土はそのようなつながりを支える場として存在しています。実際、自然農法などで土を生き返らせると、その周辺の様々な生き物や菌も生き生きとしてくるそうです。虫や鳥や土の中の生き物たちも元気になるのです。土は単なる「栄養源」ではなく、「生命のつながりを支える場」なのです。だからといって、それらの生き物たちにその野菜なりがやられてしまうのかというとそんなことはありません。確かに管理された環境で育てられた野菜や果物より見かけが美しいとか、大きいとか、甘いということはないかも知れません。でも、生命がいっぱい詰まった野菜や果物が出来るでしょう。そもそも「土」というもの自体が「生命」の記憶なのです。もともと地球には「岩」しかありませんでした。その岩を土に変えてきたのは様々な生命達です。ですから、生命が存在していない月には「土」が存在していません。あるのはただ「岩」とその岩が砕けた「砂」ばかりです。「土」は生命の歴史そのものなんです。皆さんも死んだら「土」になるのです。「生命」というものは、土から生まれ、土に還るシステムになっているのです。ですから、「土」と「生命」は本質的に分離できないのです。だからこそ「土」には生命を支える力があるのです。ですから、「土を遠ざける文化」は「生命を遠ざける文化」です。「土を汚いと嫌う文化」は「生命を嫌う文化」です。「子どもを土から遠ざける子育て」は「子どもを生命から遠ざける子育て」です。では、人間の心や精神の成長にとって必要な「土」とは何なのかということです。
2010.01.24
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「奇跡のりんご」で有名な木村秋則さん、また自然農法で有名な福岡正信さんなど、有機農法で農業をなさっている方達は口をそろえて「土を育てることの大切さ」を訴えています。近代的な農業では、農地を一つの工場として考え、人間の都合に合わせて生産や品質をコントロールする仕組みになっています。そのために、農業の中から出来るだけ不確定要素を排除して、人工的に管理できる要素だけで生産を維持しようとしています。つまり、農業から「自然」を排除して、出来るだけ「人工的な環境」だけで育てようとしているのです。そして、その方法はある部分成功し、目的に合わせた大きさ、味、見かけを持った野菜を生産できるようになってきました。それでも、天候は管理できないので、テレビなどで見ていると全く室内の工場のようなところで行われる農業も研究されているようです。そして、天候や遺伝子まで含めて100%生産をコントロールできるようになってしまえば、「土を育てる」などと言うことには全く意味がなくなってしまいます。これが現代人が持っている典型的な「自然」に対する考え方です。なぜか人間は「自然」を克服すると達成感を感じるように出来ているようです。昔の人も、自然を管理、コントロールしようとはしていましたが、まだ科学のレベルが低かったので自然をコントロールしきれず、「共存」という考え方と方法も大切にされていました。でも、遺伝子すらコントロールできるようになった現代ではミクロな範囲でなら生命をほぼ100%コントロールできるので、「共存」という考え方は必要なくなってきました。そして、現代人は全く同じ発想で「子どもという自然」も克服しようとしています。可能なら100%管理された状態で育てたいのではないでしょうか。そうすれば思い通りに「理想の子ども」を育てることが出来るからです。だから「子どもを東大に入れる方法」とか「子どもを天才に育てる方法」「よい子に育てる方法」などというようなテーマの本が売れているのでしょう。でも、実際には東大生も天才も増えていないし、よい子も増えていません。実は、このような考え方には大きな欠陥があるのです。まず、100%生産をコントロールされた農業で、世界中の人間の食料を生産することは100%不可能です。貧しい国ではそれだけの設備投資が出来ないからです。日本でもそのような農業は限定的にしか実現されないでしょう。大きな資本が必要だからです。「そのような技術がある」ということと、「それが広く実現する」ということは全く別の話しなんです。ですから、これからも私たちの大部分の食べ物は、自然に依存せざる終えない農業によって支えられていくでしょう。そのような事実があるので、一部の企業などでは生産を100%管理する農業が研究されている一方で、もっとグローバルな視点から「自然と共存する農業」も研究されているのです。そこで重要になってくるのが、最初に書いた「土を育てる」という考え方なのです。子育てにおいてはもっと話が複雑です。人間が人間を育てる時にはお互いに共鳴し合ってしまうので、管理することなど出来ないからです。それを無理に切り離して、管理しようとすると、子どもは育つことが出来なくなります。子どもは大人との共鳴によって多くを吸収し、成長しているので、共鳴しないような状態におかれてしまうと成長出来なくなってしまうのです。でも、共鳴してしまうような状態では管理することが出来ません。だから子どもを管理し、理想の子育てを目指す人は、子どもとの共鳴を避けようとします。共鳴してしまうと子どもは親に似てしまうので、理想の子育てが出来なくなってしまうからです。でも、それでは子どもが人間として成長できないので、結果として「理想の子育て」どころではない状態になってしまいます。そして、子育てで苦しむことになります。子どももまた自分の力で自分の人生を生きることが出来なくなり、苦しむことになります。ということで時間がないので明日に続きます。
2010.01.23
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昨日は私が主宰している「ぽこぺん」という表現遊びのクラスでした。(親子一緒に遊んでいます。)月二回やっていて前回は羽子板で遊び、今回は「福笑い」と「すごろく」で遊びました。ただし、表現遊びのクラスですから、普通の遊び方はしません。羽子板の時にはフェイスペイントのペンを持っていき、負けた人は顔に色々と描き込まれました。(羽子板も作りました。)みんな必死でした。特にお母さん達は顔に描かれては困るということで、ものすごいバトルでした。あるお母さんは、フェイスペイントの絵を落とすと化粧も落ちてしまうので、それは困るということでそのままの顔で帰りました。(車です。)昨日やった「すごろく」は人間がコマになって遊びます。マスには「ここで片足ジャンプで22回飛べ」とか、「子どもをオンブして会場を一周しろ」とか書いてあります。そして、「福笑い」は以下の写真の通りです。楽しかったですよ。子どもたちが自分たちが描いた目鼻口などを持って、他の人の顔の所に行って荒らしまくっていました。みんな大笑いして遊びました。その笑い声をお届けできないのが残念です。ちなみに、ある種の発達障害を持った子はこの表情の意味を読みとることが出来ないそうです。泣いている顔と、笑っている顔の区別が付かないのです。だから、必然的に「KY」になります。相手が嫌がっていても、その表情を読みとることが出来ないわけですから。でも、そういう子でもこのような遊びを通してある種の治療的な効果を得ることが出来るのではないかと思っています。実は遊びには治療効果があるのです。私が幼児教育を始めた頃、障害についても色々と勉強し、療育と呼ばれる場ではどんなことをしているのか調べたことがあります。すると何のことはない、療育でやっているのは私が幼児教育の中でやっている遊びばかりなんです。育ちに何らかのトラブルを抱えた子どもたちを治療するために「遊び」が使われているのです。それで、あるお母さんはお子さんの障害を直してもらいたくて、療育センターに通わせたのですが、そこでやっているのは遊びばかりなので「子どもを遊ばせるだけなら必要ありません」と言って子どもを連れて帰ってしまったそうです。そのお母さんは何らかの「特別な訓練」を予想していたのでしょう。でも、実際には子どもが一番育つのは遊びを通してなのです。そのことを多くの大人が分かっていません。今ではみんな「特別な訓練」「特別な教育」ばかりを求めています。英会話や能力開発に夢中になるのもその表れでしょう。でも、子どもが育つのは「日常の生活の中での人と人の関わり」を通してであって、特別な場の中ではありません。心とからだがゆるんでいる時に体験したことだけが子どもを育てる栄養として子どもの心とからだの中に取り込まれていくのです。確かに、「○○教室」に通わせれば部分的な能力は開発できるかも知れません。でも、人間としての成長は生活の中でしか育たないのです。ですから、生活を犠牲にして子どもを追い立てていると後で困ったことになってしまいます。その生活で一番大切なことは、笑いにあふれた生活をするということです。そのような生活が、子どもを「素敵な人間」に育ててくれます。(「ポコペン」は第1、3木曜日 3:30~5:00にやっています。会場は茅ヶ崎です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。ただし新規募集は年長から小学3年生までのお子さんに限らせて頂きます。お母さんも一緒に遊びます。次回は「動き」で遊びます。)
2010.01.22
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今日の内容は横浜自然育児の会報ののために書いた原稿です。*********************************** 人間は科学の力で色々なことが出来るようになりました。遺伝子を操作して生命すら操ることが出来るようになりました。でも、「生命」そのものを作ることと、人間を人間らしく育てることに関しては、科学の力は無力です。実際、これだけ科学が進歩したのに、現代人が昔の人より優秀になったのかと言えば、決してそんなことはありません。知識は豊富になりましたが、むしろ精神面では退化しているのではないかとさえ思えます。そして、いくら科学技術が進歩しても、精神面で退化してしまったら、やがてその科学技術も退化していくでしょう。なぜなら、「科学」はその「科学では育てることが出来ない精神」の働きの結果だからです。 実際、現代人はだんだん非科学的になりはじめているように感じます。科学的な知識や技術はあふれているのに、それが新しい信仰になるばかりで、科学的に考えることができない人たちが増えてきているのです。子どもたちが科学を理解できなくなってきたのもその現れです。 その理由としては、昔は「宗教」と「科学」にははっきりとした役割の違いがあったのに、宗教を失ってしまった現代では、人々が宗教の代わりに「科学」に救いを求めるようになってしまったからだと思います。もともと人間の心は弱いものなので、どんなに文明が進歩しても、常に「何か」に救いを求めていないと生きていくことが出来ないのです。 そして、そのように科学を信仰している人たちは、科学では説明できないことを「科学的ではない」の一言で簡単に否定してしまいます。科学以外の価値観を認めないのです。その結果、「宗教」や「心の世界」までも否定されてしまっています。でも、本来の科学はなんにも否定しないのです。科学は「否定するための方法」ではなく、「なぜ?」を解き明かすための方法だからです。「否定」はいつでも科学的ではない「生理的な感情」によってもたらされます。だからムキになって否定するのです。 そもそも、コンピュータを作ったりロケットを飛ばす科学は「量」しか扱うことが出来ません。科学の根底となっている「1+1=2」という論理は「量の論理」なんです。でも、人の心は「質」という視点がないと解明することが出来ません。そしてその「質」は人間の感覚に依らないと認識することが出来ません。それを「科学的ではない」と否定することは、「科学」を生みだしてきた大元の働きを否定することになってしまい、矛盾が生じるのですが、ほとんどの人はその矛盾に気付いていません。「心」とか「精神」と呼ばれる、人間の非科学的な働きが「科学」を生みだしてきたのは歴史的な事実なのです。 今、子どもたちの「科学離れ」が問題になっていますが、でも実際には子どもたちは「科学的なこと」は大好きです。子どもたちは「科学的な機械」を欲しがり、「科学的な知識」も山ほど持っています。ただ、その「科学」を信奉するばかりで、物事を論理的、科学的に考える能力は非常に低下してしまっています。それで大人達はもっと科学教育にに力を入れようとしているのですが、でも、それは失敗に終わるでしょう。なぜなら、科学教育では「子どもたちの心」を育てることが出来ないからです。 上にも書いたように、「科学」は「非科学的な心」が生み出すものなのです。幼い子どもたちの「なぜ?」「どうして?」という素朴な疑問が科学の原点なのですが、それは科学教育の成果ではありません。その疑問は心の目覚めと共に現れる、人間としての生理的な現象なのです。そして、「なぜ?」「どうして?」を感じないような子どもたちは論理的、科学的に考えるようにはなりません。その必要がないからです。 そして今、その「なぜ?」「どうして?」を感じない子どもたちが非常に多いのです。それは考えるよりも前に知識を与えられてしまうからです。だから、考える楽しさを体験することができないまま知識ばかりが増えていくのです。 では、子どもたちにその「考える楽しさ」を体験させるためにはどうしたらいいのかということです。それは手を使い、からだを使い、何かを作ったり、仲間と遊んだり、自然と触れあい、物語をいっぱい聞かせてあげることです。そのような生活は子どもたちの心の中に「なぜ?」「どうして?」をいっぱい生み出してくれます。 つまり、皮肉なことに科学に依存しない生活の中でこそ、子どもたちは「考える楽しさ」を体験していくのです。コンピュータで遊んでいる子より、山の中で虫取りをしている子の方がずーっと多くのことを考えているのです。そしてそれが将来、科学的、論理的に物事考える時の基礎になっていくのです。 子どもたちは、ドロ団子作りや、コマ回しや、様々な遊びを工夫する過程で一生懸命に考えています。一生懸命に考えないと、正しい結果にたどり着くことが出来ないからです。そして、その考えた結果を喜びと共に得ることが出来ます。いっぱい考えて、一生懸命に工夫したから、コマがちゃんと回るのです。すると、考えることと、工夫することがますます楽しくなります。 ですから、ここに機械文明の落とし穴があるのです。どんどん科学が進歩し、どんどん生活が便利になるに従って、人間は機械を操作するだけになり、どんどん科学的な思考能力は低下していくのです。そこで求められるのは「機械を操作する能力」だけです。そして、確かにそれは幼い時から慣れている子の方が得意です。考える力より知識の方が役に立つかも知れません。でも、「機械を操作する」能力がいくら高くてもそれは科学的に考える能力とは別のものです。実際、「ラジコンを操作する能力」より、「竹とんぼを作る能力」の方がずーっと科学的なのです。 だから、みんなが便利な生活に依存するようになってしまったら、逆に科学は衰退していくのです。また、心が育たないので一人の人間として幸せに生きていくことも難しくなるでしょう。夫婦関係も親子関係も友人関係も難しくなるでしょう。人間は機械とは異なるものだからです。 だから、少なくとも子どもが幼い頃には可能な範囲で機械に依存せず、手やからだを使った生活をして欲しいのです。科学に依存しない生活こそが、科学的に物事を考えることが出来る子どもを育てるのです。 今、自然育児、シュタイナー教育などが「科学的ではない」という理由で否定される傾向が強まっているようです。でも、そのような考え方は科学的ではありません。心を育てる教育法こそが科学的に考えることが出来る子どもを育てるのです。そしてそのために必要なのは科学知識や科学的な機材ではなく、子どもの心を感じる感性と、問題解決のために論理的に考えることが出来る能力です。「人間らしい心」は「人間らしい心」によってしか育てることが出来ないのです。科学はその「人間らしい心」の結果に過ぎません。また、人間らしい心から生まれた科学でないと、人間や他の生き物や地球を不幸にするばかりです。今私は、単なる「能力開発」によって作られている科学が、人間や他の生き物たちを不幸にするような方向に進んでいるのではないかと心配しているのです。
2010.01.21
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今日は林檎さんが書いてくださった以下の質問に答えさせて頂きます。「幼稚園がなくなってしまえばいい」という男の子たち、まるでうちの年中の長男のようです。幼稚園に何か嫌なことがあるわけではない、ただ、家(テレビ・ゲーム)>幼稚園ということのように思います。テレビは多少見せすぎだと反省していますが、ゲームはゲーム機があるわけでなく地デジにしたらテレビでゲームができるようになってしまって、でもそれはそんなに長くやってはないです。これから私にできることは、テレビやゲームの時間を今より減らすこと、でしょうか。いや、それもありますがそれだけではありません。子どもたちがテレビやゲームに夢中になるにはそれだけの理由があるからです。その理由を考えずに、結果だけを調整しようと考えるのは、結果だけを求める子育てや教育と同じものです。それはピーマンが嫌いな子に「ピーマンを食べなさい」と強制し、大人しくできない子に「大人しくしなさい」と強制し、勉強しない子に「勉強しなさい」と強制するのと同じです。全ての物事には、そうなるべくしてそうなる理由があるのです。空が青いのにも、海がしょっぱいのにも、子どもが泣くのにも、富士山が高いのも、ちゃんとみんな理由があるのです。ですから、その状態を変えたいと思うのなら、その理由をしっかりと考える必要があります。テレビやゲームが大好きな子から、むりやりテレビやゲームを取り上げたらそこでバランスが取れていた子どもの心が不安定になってしまうでしょう。また、母子の間の信頼関係にもひびが入るかも知れません。テレビやゲームの害は確かにありますが、それらが大好きな子どもの心は否定してはいけないのです。そうでないと、テレビやゲームは止めさせることが出来ても、子どもは心に傷を負い、二次障害として問題が残ってしまう恐れがあります。ただ、テレビやゲームには「麻薬性」「中毒性」があるので、ある程度の量は超えないようにきっぱりとした態度を持つことは必要です。じゃあどうしたらいいのかというと、これはテレビやゲームだけの問題ではなく、お母さん、お父さんを含めた生活全般の問題であり、また幼稚園や地域や社会全体の問題なのです。まずそのような認識を持つ必要があります。そのような認識の上で、どうしたらいいのかを考えるのです。そうでないと子どもにばかり責任を押しつけることになってしまい、子どもが苦しむことになります。それでは、テレビやゲームがなくなってもまた新しい形で問題が生まれてしまういます。まず、大人が「便利」に依存する生活をあらためることです。そして「結果」だけを求めるのではなく、「過程」を楽しむ生活にあらためる必要があります。成績をあげることではなく、勉強を楽しむことを大切にします。生活の中の娯楽をテレビやゲームに依存するのではなく、手仕事をしたり、お話をしたり、トランプやカルタ、そして将棋などの昔の遊びを楽しむようにします。幼稚園ぐらいの男の子なら相撲やプロレスごっこなども大好きです。テレビやゲームの時間を減らすのは、このような生活全般の改革とセットにして行うのです。そういう具体的な遊びをお伝えするために「遊びの勉強会」というワークを企画しているのですが、ほとんど反応がありません。生活を変えることなく、子どもだけが変わることを望んでいる人が多いのでしょうか。でもそれは無理です。生活を変えることが出来ないのなら諦めることです。その方が子どもの心は傷つきません。(次回は2月11日に羊毛をやります。でも、あまりに反応がないのでもしかしたら「遊びの勉強会」はこれが最後かも知れません。)また、子どもたちは仲間と同じ遊びをやりたがるものです。だから、「自分のうちの子」だけ変えようと思ってもなかなかうまく行きません。ですから、子どもの仲間も一緒にキャンプや釣りに連れて行ったり、また様々な体験が出来るような場に連れて行くことです。そのためにはその子どもたちの親とのつながりを深めることも大切になるでしょう。つまり、テレビやゲームに依存しない子どもに育てるためには親の仲間作りも必要だということです。孤独な親は孤独な子育てをします。孤独な子育ては子どもを孤独にします。孤独な子どもはテレビやゲームに依存するようになります。そういうつながりがあるのです。
2010.01.20
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昨日も例の「じじー」の幼稚園で仕事だったのですが、玄関にいると3人の男の子達が遊んで欲しそうに絡んできました。それで、その「遊んで欲しそうな男の子達」が最初に何をしたのかというといきなりパンチをしてきました。しかも全力パンチです。まあ、子どものやることは見え見えですから、不意打ちも食うこともなくそのまま受け止めてあげました。幼稚園児のパンチですから全力で打ってきてもどうって事はないのですが、相手が子どもや女の人だったら結構痛いかも知れません。子どもの方は全力でパンチして逆に手が痛かったようで、「固いぞ」などと言っていました。ですからそこで「パンチ」の洗礼は終わりました。(キックもあったかもしれません)このような時、痛がったり、叱ったりすると弱肉強食の世界で生きている男の子達は相手を見下すようになります。そして言うことを聞かなくなります。子どもは子どもの論理で生きているので、大人の正論は子どもには通じないのです。その後は、遊びの部屋まで付いてきて「お相撲ごっこ」です。最初は、コテンコテンと簡単に倒れていたので、「ガンバレ、倒れるな」と言っていると、少し粘りが出てきました。そこで「おじさんは強いんだぞ」と持ち上げてグルグルやっていたら、「ぼくも ぼくも」と今度はグルグルごっこになりました。みんなやってもらいたくてしょうがないのです。(中の一人は負けそうになるとかみついてきました。これは幼児性の現れだと思います。)その辺まで来てようやく「おじさん なんて言うの」と名前を聞いてきました。ここまできて、ようやくただの「じじー」でも「パンチする相手」でもなく、「遊び相手」として認めてくれたようです。その後、5,6人の別の男のグループがやってきてそのグルグル遊びに加わり、グルグルやっていたら先生が子どもたちを迎えに来ました。でも、子どもたちは言うことを聞きません。それで「じゃあ最後に一人一回ずつだぞ、一回やったら帰れよ。」と言って、一人ずつグルグルやってからお尻をパンと叩いて「さあ行け」というと、みんな素直に帰っていきました。子どもは「正論」に従うのではなく、「大好きな大人」や「一目を置く大人」に従うのです。これは仲間同士でも同じで、大好きな友達になら優しくするのです。でも、今の子どもたちは「遊びを通してつながる」という体験があまりありないので、大人がその核になってあげる必要があります。子育てや教育の場でも大人はまず子どもたちとの信頼関係を築くことから始める必要があります。そして、子ども同士でも遊びを通して仲間同士のつながりをつくるのです。様々な「指導」はその過程の中にそれとなく潜ませるのです。「指導」が先に来てしまうと、子どもは反発し、子育ても教育も困ったことになってしまいます。その、昨日の子どもたちが私の懐中時計をいじっていたので「それは爆弾だぞ」と言ってお話遊びをしていました。その時子どもたちは「幼稚園が爆発してなくなってしまえばいいな」と言っていました。一人ではありません、その時いた5,6人の子全員がそういうのです。それで、どうしてそう思うのと聞くと、「だって幼稚園がなくなったら一日中ゲームして遊べるから」と言っていました。ちなみにその幼稚園は子どもに寄り添うことを大切にする素敵な幼稚園です。手仕事を大切にして、子どもを管理することも、大きな声で叱ることもありません。でも、ゲームが大好きな男の子達にとっては、それだけでは物足りないのかも知れません。追伸)だからといってみなさんにもパンチをからだで受け止めろとか、グルグルをやれと言っているわけではありませんからね。ただどんなときでも、子どもの気持ちは真っ正面から受け止めてあげて欲しいということです。
2010.01.19
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ではどうしたらいいのかと言うことです。(昨日からの続きです)子どもはお母さんから生まれて、お母さんのお乳を飲んで、お母さんに守られて、お母さんを模倣して、そしてお母さんに色々と教えられてその人生を始めます。この状態は2,3才頃まで続きます。女性の側の論理からすると、「そんなに何でもお母さんに押しつけるな」ということになるのかも知れませんが、少なくとも幼い子どもはお母さんにそれを求めています。これは人間が人間に進化する前からの子どもの生理的な要求なので、大人が頭で考えた価値観で安易に否定すべきことではありません。その事実を認め、受け入れないことには子どもは自分の成長過程で迷子になってしまいます。子どもは社会の変化に対応せず、何万年も前と同じ状態で生まれてくるのです。ですから、そんな子どもを育てるためには社会の方が子どもに合わせるしかないのです。つまり、人間は出産と子育てを通して毎回「人間の原点」に回帰しなければならないのです。それは川に住んでいるウナギが出産のためだけに海に出て、フィリピンの方の深海にまで潜って出産するのと同じです。生命の仕組みは非常に保守的に出来ているのです。ですから、この時期までに父親や周囲の人が出来ることは、お母さんをサポートすることであって、子育てを肩代わりすることではありません。お母さんもまた、やむ終えない事情がない限り、子育ての肩代わりを求めるのではなく、自分の責任で子育てをすべき時期なんです。この時期に周囲がお母さんをサポートせず、孤独にしてしまうと、お母さんは自分自身の生存を守ることの方に一生懸命になり、子育てに気持ちが向かわなくなります。すると子どもも孤独になり、満たされない欲求を求めて色々と困った自己表現をするようになります。子どももまた、自分自身の生存を守ることに一生懸命になってしまうのです。でも、このことでお母さんを責めることは出来ません。それはお母さんを支えることが出来ない周囲の責任です。でも、2,3才頃の反抗期を過ぎる辺りから、子どもはお母さんだけでなく他の大人や、仲間との関わりを必要とするようになります。でも、それはまだお母さんを中心とした関係であって、お母さんから離れて仲間だけの関係を作ることは出来ません。痛いことや、悲しいことや、不安があった時にはお母さんの所に行って慰めてもらう必要があるのです。その「仲間だけの関係」が出来はじめるのが5,6才頃です。この頃になると、痛くても、悲しくても、一人で何とかしようとする気持ちが目覚め始めます。でも、お母さんに見守っていてもらいたいという欲求はあります。一応、お母さんから離れることは出来るのですが、まだ見守っていてもらいたい年頃なんです。7才を過ぎる頃になると、「見守り」より、「分かって欲しい」という欲求が強くなります。だから、子どもの言葉を真剣に聞くことが大事になってきます。このように、子どもの成長の状態は、お母さんや、他の大人や仲間との関係状態の変化として確認することが出来ます。昨日書いた保育園の子どもたちは、年中さんや年長さんなんですが、まだお母さんや他の大人の人との「一対一のつながり」が充分に出来るようになっていないのです。本来、仲間とのつながりが出来る年齢なのですが、まだ一対一での関係作りが不安定なのです。だから、次の段階としての「仲間とのつながり」まで進むことが出来ないのです。このような子どもたちにいきなり「集団としての行動」を求めても無駄です。多分、先生の言っていることが理解できないと思います。ですからまず、先生は一人一人と向き合って、一人一人の気持ちを理解してあげる必要があると思います。擬似的に「お母さん」の役割を果たすのです。そして、先生が中心になって横のつながりを育てるのです。確かに幼稚園はそのような場ではないかも知れません。保育園ならそういうこともその役割として認識されているかも知れませんが、幼稚園に求められているのは「保育」ではなく「教育」だからです。ちなみに昨日書いた保育園は、保育園なのですが保育より教育に力を入れていました。でも、今では幼稚園の年齢になっても、その「保育」が満たされていない子どもが非常に多いのです。そのような子は、4,5才児でも、2,3才児のような反応と行動を繰り返し、先生や大人に「保育」を求めます。そのくせ言葉だけは達者なんです。でも、現実問題としては幼稚園で保育をすることは困難です。それだけの人数もいないし、時間もないでしょう。また、保育園の先生と幼稚園の先生とでは、学んでいる知識や技術にも違いがあります。でも、今の子どもたちのトラブルと向き合う時には、このような視点も持っていて方がいいと思います。そうすれば、何か解決策も見いだせるかも知れません。ちなみに、今小学生でもこのような「保育」を必要とするような子どもたちが増えてきています。そのような子の親は、学校の先生に「しつけ」まで求めます。
2010.01.18
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今日は、あいあいさんが書いて下さった森の声さんが感じたこの違和感、違いはどこにあったのでしょうか?できれば、もう少し詳しくお伺いしたいです。という質問にお答えします。その園長先生も、子どもの成長のことを心配していました。子どもたちのその状態に対して問題意識は持っていたのです。そして、怒鳴りまくるわけでも、命令で強制的に支配しようともしていませんでした。そういう点では「いい先生」なのです。でも、残念なことに人間や「子ども」というものに対する理解が乏しかったのです。これは、「園長先生」としては致命的です。そのため、「育てる」というより、「指導する」「訓練する」というような考え方と方法を使っていました。つまり、子どもたち同士の横のつながりを育てたり、先生と生徒の間の信頼関係を育てようとせず、先生の指導に従うようにばかり求めていたのです。子どもたちを「仲間」として、「友達や先生とのつながり」の中で育てようとするのではなく、個々の子どもを対象にして、言葉による指導によって一人一人の能力を育てたり、短所を矯正しようとしていたのです。ですから、みんな「一人作業」はそれなりに出来るのです。でも、一緒に協力して何かをやったり、助け合うということがほとんど出来ませんでした。普段の園の活動にはそのような場がなかったのでしょう。でも、私は子どもたちにそのような体験をして欲しいので、意識的にそのような活動を取り入れていました。でも、仲間がいっぱい集まって一緒に何かをやろうとすると、それだけで子どもたちは興奮してトラブルが起きるのです。そこで先生が厳しく指示命令を出せば子どもたちは大人しくなるのでしょうが、それでは子どもが育ちません。それは「調教」の考え方です。そんな時、園長先生は「○○君、ちゃんと手をつなぎなさい」、「○○さん、大きな声を出してはいけません」、「○○君、走ってはいけません」と指導しようとします。だから私は、「園長先生、すこし黙っていてください」と言うのですが、すると「先生が甘やかすから子どもたちが勝手なことをするのです」と文句を言ってきます。ちなみに、私はそんなに難しい遊びを子どもに要求したわけではありません。昔の子が普通に遊んでいた「わらべうた」をやろうとしただけです。でも、「輪になる」、「手をつなぐ」といった最初の段階でもうすでに大変な状態なのです。そんな時、命令で輪にして、手をつながせることは簡単かも知れません。でも、そんなことしたら「わらべうた」が訓練になってしまって、「遊び」ではなくなってしまいます。ましてやそのつながりの中で子どもが育つなどと言うこともないでしょう。そして、子どもは逃げ出すことばかり考えるでしょう。それに、このような「命令」や「指導」に子どもが従うのは低学年までです。以前、小学四年生(だったと思います)の学級崩壊しているクラスを見に行ったことがありますが、その先生がまさにこのような指導をしていました。全然、先生と生徒も、また仲間同士もつながっていないし、「楽しい授業」という場も出来ていませんでした。先生はずーっと「○○君、大きな声を出さない」、「○○さん、机の上には必要なもの以外出さない」、「○○君、授業中に後ろを向かない」と言い続けているのです。その合間に授業をしているような感じです。その時、「この先生は一体何がやりたいんだろうか」と思いました。せめて授業が楽しければ子どもたちは落ち着くのに、とにかく授業がつまんないのです。落ち葉の紅葉の話なのに、実物が一つもなくて、たんたんと言葉だけで説明しているのです。だから子どもが騒ぐのに、その騒ぎを押さえることばかりに意識が向いてしまって、ますます肝心の授業がおろそかになって、余計に授業がつまらなくなってしまっているのです。だから、さらに子どもたちが騒ぐという、悪循環になってしまっていたのです。子どもは楽しければ集中するのです。集中すれば静かになるのです。また、クラスの中に「仲間意識」が育っていれば、「ぶっちゃいけない」「悪口を言っちゃいけない」「いじめちゃいけない」などと指導する必要はなくなるのです。もっと言えば、生きていることが楽しい子は死んだりはしないのです。それを「死んではいけない」「生きていればきっといいことがあるから」というメッセージを出すだけで何とか出来ると考える考え方は変です。そんな言葉、今現在苦しんでいる子ども達の心には届かないのです。誰だって死にたくなんかないのです。「死」を選ぶ子は未来に絶望してる子です。未来を絶望している子に、不確実な可能性を当てにして、「生きていれば」と語る言葉はどのように聞こえるのでしょうか。「死ね」とか「死んでもいいよ」と言われても、「僕は生きていることが楽しいから死なない」と言い切れる子どもに育ててあげたくないですか。今、子どもたちによる凶悪な事件は減ってきています。でも、逆に自分で自分を殺す子どもたちは増えてきています。閉じこもりの増加も、それと同じです。子どもたちに「生きるってこんなにも楽しいんだよ」ということを伝えてあげないと、大変なことになります。そして、それは指示や命令や指導や能力開発では伝えることが出来ません。大人が手本を見せ、また、子どもたちがその楽しさを体験できるような場をいっぱい作ってあげることです。家が楽しい、学校が楽しい、勉強が楽しい、授業が楽しい、地域が楽しい、仲間と遊ぶのが楽しい、という体験をいっぱい子どもたちに体験させてあげるのです。学力はその「結果」に過ぎません。そして、このような体験が子どもの自立を支えてくれるのです。いきなり結果だけを求めてはいけないのです。
2010.01.17
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昨日はある幼稚園での未就園児の親子を対象にした遊びのワークの日でした。それで私が部屋で準備などしていながら待っていると、通りがかりの幼稚園の子が窓越しに中を覗いて「じじーがいるぞ」と言って通り過ぎていきました。以前、この幼稚園の年長の子どもたちを相手にした時も、何人かの子から「じじー」と言われました。これは他の幼稚園でも普通に体験することなので特に驚きませんし、また怒りもしませんが、ただいつも悲しくなるのです。友人の小学校の先生も、担任の先生の替わりに授業に言った時、「くそジジー」と言われたと言っていました。この友人も怒ってはいません。今では、「じじー」だけでなく、「しね」とか「ころすぞ」とか「消えろ」というような否定的な言葉を平気で使う子どもが少なくないからです。そして、そのようなことを問題に感じたお母さんが注意すると、「子どもたちは意味が分からないで使っているだからいいんじゃないですか」と言い返されるそうです。でも、私には意味が分かって使う子の方が、まだまともな気がするのです。意味が分からないまま、平気でこのような言葉を使う子は、「人と人のつながり」とつながることが出来ないまま生きているのです。それを感じてしまうから悲しくなるのです。実際、このような子に限って、仲良くなると異常に甘えてくるのです。だから悪意ではないということもよく知っています。このような子は他の子や大人とのつながり方が分からないのです。それは生活の中にそのようなつながりがないからなのでしょう。簡単に「意味が分かっていないんだからいいんじゃないですか」と言ってしまうお母さんは、子どもとつながっていません。「意味が分かっていない」ということがどういう意味なのかが全く分かっていないのです。「意味が分かっていない」ということは「意味を教えてくれる人が側にいない」、「意味が分かるような体験がない」ということなのです。それは、お母さんと子どもの間に密接なつながりと信頼関係がないと言うことであり、その親子の生活が地域や仲間とつながっていないということなのです。そのため、友達や大人に平気で否定的な言葉を浴びせるような子に限って不安が強く、孤独で寂しいのです。だから、自分を受け止めてくれる大人がいると、異常に甘えてくるのです。そのようなことを理解していないと、そのような子どもたちの育ちを支えることは出来ません。以前、ある保育園で仕事をしていた時(月二回、遊びと造形の仕事です)、そのような子どもたちがいっぱいいました。遊びをするためにみんなを集めるとすぐにケンカが起きました。こづいたり、けっ飛ばしたり、時には友達の首を絞める子さえいました。それで私はまず子どもたちとの信頼関係を作ろうと思いました。そして、オンブしたり、抱いてあげたりしていました。実際、そのような子に限って際限なく、異常に甘えてくるのです。すると、園長先生が「子どもを甘やかさないでください」と文句を言ってきました。そして、ピアノをじゃんとならすとパッと整列して、音楽に合わせて行進を始めます。無言のうちに、「ほらみなさい、こうやれば子どもたちは大人しくなるのです」というアピールなのかも知れません。でも、その異常さには気付いていないようでした。その保育園では二年仕事をしましたが、結局園長と意見が合わなくてやめてしまいました。(そのくせ、その園長先生はいつまでも子どもが成長しない、落ち着かない現状を嘆き、このまま小学校に行ったらどうなるんだろうかと心配しているのです。)この園長だけでなく、多分その園児のお母さん達も同じような考え方なのでしょう。だから、子どもの心がいつまでも幼児のままで成長していかないのです。ですから、「ジジー」とか「死ね」と言ったからといって子どもに罪はありません。だから、言葉遣いが悪いといって子どもを叱るのは筋違いです。そこまでは確かにその通りです。でも、叱るのではなく、誰かがそのことを注意し、その意味を教えてあげることは必要だし非常に重要なことなのです。そのことで、他の人とのつながりが生まれるからです。でも、もっと重要なことはそのような子どもとの信頼関係を築くことなのです。最初は「ジジー」と言っていた子でも、私と仲良くなってしまうと、そういうことは言わなくなるからです。「そういう言葉を言うんじゃありません」などと叱らなくても、仲良くなったら自然に言わなくなるのです。つまり、子どもはちゃんと分かって言葉を使っているのです。「死ね」、「うざい」、「消えろ」、「くさい」もみな同じでしょう。「そんなこと言うんじゃありません」などと怒鳴らなくても、仲良くなれば自然とそんな言葉は使わなくなるのです。その子が使う言葉は、その子の「人間関係」の状態をそのまま表しているのです。
2010.01.16
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昨日は、「話す力」だけではなく「聞く力」もないことには、人と人がつながるようなコミュニケーションはできない、ということを書きました。もともとこの二つはセットなんです。でも、現代人は「話すこと」「表現すること」「自己主張すること」ばかりを大切にして、「聞くこと」「待つこと」を大切にしていません。子育ての相談でも、「うちの子は先生や他の人に話しかけられても何も話さないのですが・・・」という相談はあっても、「口ばかりが達者で、ちゃんと人の話を聞かないのです」という相談はありません。「無口な子」は問題になるのですが、「おしゃべりな子」はあまり問題にならないのです。それは「反応の良さ」と「頭の良さ」を取り違えている大人が多いからなのでしょうか。でも、授業を崩壊させたり、イジメの主犯になるのはこのようなタイプの子なのではないかと思います。だからといって、単に「無口な子」が「聞く力」があるということでもありません。「無口な子」の中には、「傷つくのが怖いから何も言わない」という子も多いからです。これは大人でも同じです。そういう子は「自分の世界」に浸るばかりで、コミュニケーション自体にあまり興味がありません。この辺りのことは気質も関係していますが、育ちも大きく関係しています。ですから、「話すだけの子」も「聞くだけの子」も、心と心のやり取りが出来ないという点では同じなのです。この二つの能力はセットであり、セットとして育つべきことなんです。でも現代では、この両者がちゃんとセットとして育つことが困難な状況になってしまっています。なぜなら、この両者がバランスよく育つためには、「語ってくれる人」と「問いかけてくれる人」、そして「気長に子どもの言葉を待ってくれる人」が必要だからです。それは結論を急ぐ人には出来ないことです。また、生活の中で何かを伝えたり、伝えられたりしながら言葉を学ぶ必要もあります。お料理の作り方、洗濯の仕方を伝えられながら言葉を学ぶ時、言葉を理解する能力が育つのです。これは一緒に造形をしたり、一緒に野原で花摘みをしても同じです。大切なことは「一緒に何かをやりながら言葉を伝える」ということです。つまり、「人と人をつなげるコミュニケーション能力を育てるためには、人と人のつながりの中でその能力を育てる以外に方法がない」ということです。だからこそ、子どもが成長して人と人のつながりの中で生きていく時に、その自立を支えてくれるのです。昔は、このようなことは家族や地域の中の兄弟やお年寄り、そして仲間達が相手をしてくれました。でも、現代ではお母さんがその役割をする以外に、子どもの相手がいません。こんなこと、人類史上初めてのことなのではないでしょうか。私たちは人類史上初めての出来事を体験しているのです。だからこそ、現代ではお母さん達が積極的に仲間作りをしてつながり合う必要があるのです。そのつながりが子どもの「自立能力」の育ちを支えてくれるのです。「○○教室」に通わせても、自立能力は育たないのです。
2010.01.15
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私たちがこの社会の中で自立して生きるためには様々な能力が必要です。言葉も話せなければなりませんし、知識も必要です。時として学歴も必要でしょう。でも、それだけでは充分ではありません。言葉を話せても、他の人とうまくコミュニケーションすることが出来ないのならその言葉は役に立たないのです。実は、「言葉を話せる」ということと「コミュニケーションが出来る」ということは同じではないのです。なぜなら人と人のつながりを支えているコミュニケーションは、一方通行ではなく、「双方向のやりとり」だからです。ですからそこでは「話す能力」だけではなく、「聞く能力」も必要になるのです。幼い頃からテレビ漬けの子は、テレビで言葉を覚えることもあります。そして、大人もビックリするような言葉や言い回しを使うこともあります。その使い方はテレビで見ているので、それなりに適切に使っています。それで大人達は「賢い子だな」と勘違いしてしまいます。でも、そのような子は「聞く力」を持っていません。テレビのように一方的に話すばかりです。確かに、場面場面で適切な言葉は使っているのですが、人の言葉に耳を傾け、相手の言いたいことや、気持ちを理解することが出来ないのです。それは、「待つことが出来ない」という症状で見分けることが出来ます。実は、「聞くことが苦手な子」は、「待つことが苦手な子」でもあるのです。それは、「聞く時の心の状態」と「待つ時の心の状態」が同じだからです。だから、「聞く力の弱い子」は、辛抱や我慢も苦手です。更に言えば、「聞く力」は「思考力」とも関係しています。「ちゃんと聞くことが出来る子」は「ちゃんと考えることが出来る子」でもあるのです。ところが、子どもたちの「話す能力」がどれくらい育っているのかは簡単に分かるのですが、「聞く能力」がどれくらい育っているのかは、そう簡単には分からないのです。そんな時は、子どもが他の子と話をしている時に、相手の言葉を待つことが出来ているかどうかをよく観察してみて下さい。相手の言葉を待つことが出来ていて、更に自分の言葉で相手の言葉に返すことが出来ているのならその子の「聞く力」はちゃんと育っています。ただしその時、一方的に聞いているだけの子は待っているのではありません。だから、聞くことも出来ていないと思います。子どものその「聞く力」は、お母さんが子どもをせかさず、子どもの言うことをちゃんと聞き、適切に受け答えしてあげたり、五感や、「心の感覚」や、「からだの感覚」を育てることで育っていきます。なんでここで「感覚」が出てくるのかというと、感覚が育っていないと、単なる言葉のやり取りは出来るようになっても、「相手の言いたいこと」「相手が感じていること」を正しく受け止めることが出来ないからです。ですから、その能力がないと「コミュニケーション」がただの情報伝達に終わってしまって、「共感」の共有と「対話」になっていかないのです。でも、現代社会は「待つことが出来ない」社会です。子どもの成長もどんどん急がせるばかりです。名作もあらすじだけで読んだり、速読が重宝される社会です。情報のやり取りはありますが、対話はめったにありません。「対話」は時間がかかるものです。また、子どもたちが五感や、「心の感覚」や、「からだの感覚」を育てるような場も、時間も、仲間も消えつつあります。その結果、子どもたちの聞く力はどんどん衰えてきています。だから、みんな待てないのです。そして、聞く力が弱いと「イメージ能力」も弱くなってしまうので、他の人の苦しみや痛みをイメージすることも難しくなっています。現代社会では「話す能力」、「表現する能力」、「情報を発信する能力」ばかり大切にされていますが、でもその背景に、「聞く力」、「感じる力」がないと、人と人がつながり、人間が人間らしく生きることが出来る社会が消えて行ってしまうのです。もう、症状はかなり深刻な状態ですけど、まずは家庭の中から変えていきませんか。
2010.01.14
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ウィルスセキュリティーを入れているのに、昨日はウィルスメールに感染してしまい大変な状態になってしまいました。その後、ウィルスチェックをして削除しましたから今は大丈夫ですが、一件しか送っていないメールが勝手に何件も送られたりして収拾がつかない状態になってしまいました。それが分かったのは、宛先を自分にして、CCやBCCで送ったものが何通も自分の所に届いたからです。もし、自分を宛先にしていなかったら、勝手に同じメールが何通も発送されていても気付かなかったかも知れません。運が良かったのか悪かったのか・・・・。私のMLに登録している人で、同じメールが何通も届いていたら、決して開けないでそのまま削除してください。ご迷惑をお掛けしました。(今原因が判明しました。詳しくは最後に書いてあります。ウィルスではありませんでした。)でも、どうしてこんなウィルスを作る人がいるのでしょうか。ウィルスだけでなく、私はアドレスを公開しているので迷惑メールも山のように来ます。10件来たら、9件は迷惑メールです。一応、キーワード検索やアドレスによるチェックは掛けて自動的にゴミ箱に行くように設定はしてあるのですが、それでもすり抜けてくるものもあれば、ちゃんとしたメールなのにゴミ箱に振り分けられてしまうものもあります。ですので、内容は風俗関係のどうしようもないものばかりなのですが、ゴミ箱を空にする前には一応タイトルを確認してから消すようにしています。でも、更にそのタイトルにも巧妙なのが多くて、ものによっては中味を確認してからでないと消すことが出来ません。友人達に聞いても、みんなこの迷惑メールには困っているようです。でも、考えてみたら今、小学生、中学生でもメールをやっているわけですから、小学生、中学生の所にも風俗関係の迷惑メールは届いているのでしょう。昔は、このような情報は自分から探さないと目に触れることがなかったのですが、様々なメディアを通して情報が向こうから勝手にやってくる現代では、それを拒否することは困難な状態です。さらに、世の中全体がそのような情報伝達を前提に成り立っている社会では、携帯やパソコンやテレビをやめれば、必要な情報まで失うことになることもあります。時には、今の仕事を辞めなければならない人も出てくるでしょう。昔は、ある程度社会が階層化していました。そして、日常的には違う階層の人たちは「そのような場」に行かないと、あまり出会わないようになっていました。だから、子どもと大人が触れる情報は分かれていました。社会の表で生きている人と、裏側で生きている人が触れる情報も分かれていました。でも、今では、小学生でも簡単に「自殺の方法」や「爆弾の作り方」といった危険な情報を手に入れることが出来ます。「便利である」ということには、こういう危険性もあるのです。そもそも、情報が向こうからやって来てしまうのでどうしても人々の意識が受け身的になってしまいます。また、パソコンの前に座れば世界中の情報を手に入れることが出来るので、わざわざどこかに行って調べる必要もなくなります。でも、ネットで簡単に調べた情報と、図書館に行ったり、現地に行ったり、当事者と会って調べた情報とは同じではありません。ネットで調べた実験結果と、自分で実験して確認した実験結果では全く意味が違うのです。簡単にネットで調べてしまうような子は、科学者には向いていないでしょう。文字にしてしまえば同じになってしまうのかも知れませんが、その人の中での「その情報が持つ意味」が全く異なってしまうのです。本をゆっくり読むのと速読やあらすじだけで読むのも全く異なります。私は若い頃ヨーロッパやインドをフラフラ歩いていましたが、行く前に予め学んでいた知識と、現実は全く異なるものでした。文字にしてしまえば同じになってしまうのですが、自分の中でその両者は全然別物なんです。ヨーロッパやインドに関する情報は私を育ててはくれませんが、その体験は大きく私を育ててくれました。体験には人を育てる力があるのです。でも、情報にはその力はありません。ただ、頭でっかちになるばかりです。でも、「体験から学ぶ」という体験をしてこなかった人にはその違いが分からないのでしょう。そして、結果だけを子どもたちに覚えさせています。でも、「水は100°で沸騰する」と教科書で学んだだけの子と、実際にやってみた子とではその知識の意味が全く違うのです。教科書で覚えただけの子は単に知識が増えただけですが、実際に実験してみた子はその実験によって成長することが出来るのです。そのような体験をいっぱいしている子は、教科書に書いてないような出来事に出会った時も、その出来事から学ぶことが出来るようになるのです。すると、色々と新しいことに挑戦することが楽しくなります。でも、簡単に情報を手に入れることに慣れてしまった子は、あらかじめ情報を持っていないことには臆病になってしまうでしょう。そして、「知っていること」ばかりを繰り返します。造形の場でもそういう子がいっぱいいます。体験から学ぶことが出来る人は、子育てからも多くを学ぶことが出来るようになります。ですから、子育てを楽しむことも出来るようになります。これはどんなことでも同じですが、あることを楽しむことが出来る人というのは、その活動から何かを発見することが出来る人でもあるのです。発見を通して自分が成長していくことを感じることが出来るから、その活動が楽しいのです。そして、そのような人は「自立した生き方」ができるでしょう。「自立した人」というのは、どんなことからも学ぶことが出来る人でもあるのです。ですから、情報を一方的に押しつけて、覚えさせるだけで満足してしまう今の教育システムでは、自立した人間を育てることが難しいのです。**************************追伸)その後判明したこと。ウィルスチェックをかけたら確かに未処理のウィルスメールが一通あったのですが、どうも今回のトラブルの原因はそれではないようです。よく分からないのですが、MLに送った時だけ、おかしなことが起きています。メーラー(Becky)のせいなのか、MLのサーバーのせいなのか、不明です。追伸2)原因が分かりました。 なぜかは不明なのですが、私が参加している某mlにメールを送った際、同時に送った別のMLのアドレスがすべてグループメールとして登録されてしまいました。そのためそのmlに送ると、送っていないはずのml関係者にもメールが届いてしまうようです。
2010.01.13
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昨日、論語の中の『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』「学んでも考えなければ、[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなければ、[独断におちいって]危険である」孔子 『論語』(金谷治訳注/岩波文庫)よりという言葉を紹介しましたが、幼い子どもたちはこの「思う」(考える)と言うことが出来ません。もちろん、無意識的にはやっているのですが、大人のように意識的な作業として「考える」ということが出来ないのです。子どもたちは必要に応じて考えるばかりで、必要もないのに「考えなさい」と言われても考えることは出来ないのです。ですから。子どもたちは「思考」というフィルターを通すことなく、学んだことを無条件に吸収してしまいます。それが子どもの能力であり、その能力があるからものすごい勢いで様々なことを吸収することが出来るわけです。でも、そのまま大人になってしまったら自分で考えることが出来ない大人になってしまいます。それは誰かに依存しないと生きていくことが出来なくなってしまうということを意味しています。なぜなら、人間は、自分で考える力によって、「自分の意識」と「自分の意志」を支えているからです。ですから、アルコールや薬などで「考える力」が萎えてしまうと、同時に無意識状態になり「意志の力」も萎えてしまいます。それは思考や、意識や、意志といった人間的な機能を司る脳の部分が同じだからです。それで、幼い子どもたちは感じ、行動し、発見する遊びを通して「考える力」を育てています。「考える力」は、知識によってではなく、実際に体験することによってしか育てることが出来ないからです。しかも、そこで必要なのは「やらされる体験」ではなく、「やりたい」という「能動的な意志に基づいた体験」です。「やりたい」という気持ちでやることだから、一生懸命に考えるのです。ちなみに、「大人の意志」は「意識」や「考える力」が支えていますが、「子どもの意志」は「成長するエネルギー」が支えています。でも、それは遊びを通して、「意識」や「考える力」に受け継がれていかないと、成長が落ち着くに従って消えて行ってしまいます。7才から9才が大きな境目だと思います。それと、「お勉強」では考える力を育てることは出来ません。子どもの場合は手やからだを使った活動でないと、脳が活発に働かないからです。でも、ただ遊べばいいということではありません。考え、工夫することで、もっと楽しくなるような遊びが必要なのです。子どもたちは楽しいことが大好きですから、考えたり、工夫することでもっと楽しくなるのなら、どんどん考え、どんどん工夫するようになるのです。そしてやがて、「考えること」、「工夫すること」自体が楽しくなっていきます。それは我が子の遊ぶ姿を見て強く実感していることです。幸いに私には価値観を共有できる仲間が何人もいます。そして、うちの子はその仲間の子どもたちと遊ぶのが大好きです。今では学校の友達ともよく遊びますが、低学年の内はその友人の子どもたちとしか遊びませんでした。そして、その遊んでいる姿が本当に楽しそうでした。その仲間達は、年がら年中色々な遊びを工夫していました。一日中、自分たちだけで遊びを考えて遊んでいるのです。自分たちでお話を作って劇遊びをやったり、造形をやったり、庭に穴を掘ったり、その他にも毎日のように遊びを創って遊んでいました。でも、学校の友達との遊びは、鬼ごっこ(住宅街で「逃亡中」という鬼ごっこをやっていたようです)か、カードか、ゲームになってしまいます。つまり、考え、工夫する範囲が非常に狭いのです。これでは楽しくないでしょう。実は、「遊びを創り出す遊び」ほど楽しい遊びはないのです。遊び始める前に子どもたちはみんなで相談します。そして、あれがいい、これがいい、と話し合います。そして、じゃあどうやってやろうかと決めていきます。子どもたちにとっては、この「みんなで一緒に考える」という過程自体がワクワクする遊びなのです。ちなみにこの過程に大人は参加していません。子どもたちだけでやっています。大人はただ見守っているだけです。うちの教室では、毎年この時期「コマ」を出しておきます。今の子どもたちにはあまりなじみのない、機械を使わずヒモで回すタイプのものです。昔からこの時期にはコマを出していて、数人の子どもたちが回して遊んでいたのですが、とうとう今年はもう誰も回さなくなりました。置いてあっても興味も示しません。回してみせると、やってみたいという子は現れますが、ちょっとやってみて難しそうだということが分かると、すぐに止めてしまいます。少しの工夫があれば、回せるのですが、その工夫が出来ないのです。それは「工夫する能力」が無いというより、「工夫する」という発想自体がないようなのです。そしてこれは、造形での様々な場面でも観察することが出来ます。教えた通りのことはできるのですが、教えたことでは対応できないような状況になると、自分で考えずに、すぐに聞きに来るのです。(そうでない子もいますが、今では大部分の子がそのような状態です。)以前やったことを応用すればいいだけのことでも、その「応用」が出来ないのです。そして、自分で考えながらやっていないので、すぐに忘れます。そしてすぐに聞いてきます。また、いつまで経っても同じことを繰り返すばかりで、次のステップに上がることが出来ません。でも、同じことを繰り返しているだけですから次第に飽きてきます。考え、工夫するから楽しくなるのですが、今の子どもたちはその楽しさを知らないのです。これは「子育て」でも同じです。考え、工夫しながら子育てをしていると、子育てがどんどん楽しくなっていくのです。それは子育てから多くを学ぶことが出来るし、子育てを通して自分が成長していることを実感することが出来るからです。でも、考え、工夫することが出来ない人は、子育てが辛いばかりになってしまいます。確かに「子育て」は大変です。でも、それが辛いものであるかどうかはその人が子育てとどのように向き合っているのかということで決まってくるのです。つまり、子育てが辛いのは子どものせいばかりではないということです。それは、人生を生きることでも同じでしょう。考え、工夫することが出来ない人は人生でもうまく行かないことがあるとすぐに他人のせいにします。そして何も学びません。だから、被害者意識ばかりが強くなってしまうのです。でも、そのまま人生を終えてしまったらせっかく生まれてきたのにもったいないですよね。私は、「生命を大切にする」と言うことは、生きている間にどれだけ自分を成長させることが出来るのか、ということと同じなのではないかと思っています。どっちみち、やがて終わりが来てしまう生命ですから。
2010.01.12
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今日二回目のアップです。これはワークのお知らせだけです。日が迫っていますが、楽しいですから是非ご参加下さい。■本文以前もご案内した「遊びの勉強会」の2010年度の続編です。ご興味のある方は是非おいで下さい。また、興味のありそうなお知り合いにもお知らせ頂けると幸いです。 内容は基本的に実技を伴う講義になります。扱う内容も多いので、じっくりと遊びを楽しむことは出来ません。基本的に大人向けの講座です。でも、それをご承知の上でならお子さまをお連れになっても構いません。一緒に遊ぶことも可能です。また、ノート、もしくはメモなどをご用意下さい。デジカメもOKです。<日程と内容> 開催は基本的に毎月月1回を予定しています。★1月14日(木) 梅田青少年会館2F ホール 内容: 「お正月おもちゃあれこれ」 風船を使った羽子板、ビー玉を使ったコマ、ビニールの凧、福笑いなど昔からの 「お正月おもちゃ」を作ったりして遊んでみます。★2月11日(木) 「建国記念日」 勤労市民会館4F C研修室 内容: 「羊毛で色々作ろう」 最近、羊毛を使った造形も身近になってきました。それで羊毛を使った簡単な造形を お教えします。羊毛ボールやマットがメインですが、ニードルを使っ た作品作りもやってみましょう。★3月11日(木) 会場は未定です 内容: 「絵を描く」 子どもの日常的なイタズラ描きをベースにして、そこに物語を加えることで「絵を描 く」ということにつなげてみたいと思います。また、枠や形にとらわれないようなリ ードをすることで、子どものイメージがどんどん広がることもお伝えします。<時間> 10:00~12:00<会場> 当日の会場は入口の掲示板で「ポランの広場」と記 されているところです。<備考> 参加は内容ごとに個別でも通しでも構いません。 3回通しの方は割り引かせて頂きます。<参加費> 1500円(1回) (三回通しでお支払い頂くと、4500円の所を4000円にさせて頂きます。)
2010.01.11
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論語に『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』という言葉があります。その意味は「学んでも考えなければ、[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなければ、[独断におちいって]危険である」孔子 『論語』(金谷治訳注/岩波文庫)よりということです。ここで、「学ぶ」ということは人や、本や、様々なメディアを通して、「他者」から学ぶという事です。つまり、社会的に「回っているもの」(9日のブログ参照)を学ぶという事です。この学びを通して、人は「他の人」と、また「社会」とつながることが出来ます。そのために必要になるのが「コミュニケーション能力」です。でも孔子は、「それだけでは真実は分からない」と言います。それが「くら(罔)し」と言うことです。人から学ぶだけでは、知識や技術をただ脳やからだの中に中に記録しただけです。それだけでは、その「学んだこと」が自分のものになっていません。だから、「自分の言葉」で話すことも、「自分の考え」で行動することもできません。また、常に他の人のことばかり気にしていなければならなくなるので、いつでも不安になるし、つい競争に流れてしまいます。それが今の日本の子どもたちが、学校や、塾や、家庭で学んでいる「お勉強」の姿です。日本の教育システムでは、「学ぶ」ということが「分かる」、「納得する」、「使えるようになる」ということとつながっていないので、子どもはいつまでたっても「不安」と「競争」から抜け出すことが出来ないのです。だから孔子様は、「学んだことを分かるため、納得するため、使えるようになるため、自分の頭で考えなさい」と言うのです。「1+1=2」ということを学び、覚えるのは簡単です。でも、この式がどのような意味なのかということを理解するのはなかなか困難です。それを「当たり前じゃないか」と簡単に言ってしまう人は、自分の頭で考えることが苦手な人です。でも、芸術家や哲学者や詩人と呼ばれるような人にとっては「1+1」は必ずしも「2」ではないのです。ですから、芸術的、哲学的、詩人的に物事を考えるタイプの子どもにとっては「1+1」がどうして「2」になるのか不思議に感じます。だから、このことを学んだ時に、立ち止まり、考え込みます。すると授業についていくことが出来なくなります。そして落ちこぼれていきます。今の日本の教育システムでは、「自分の頭で考えようとする子」は授業についていくことが出来なくなってしまうのです。そして、「自分の頭で考えない子」ばかりが優秀な成績を収め、一流大学に進み、大企業やお役人になってこの国を動かしています。だから、この国では、総理大臣ですら「自分の言葉」で語ることが出来ないのです。だから日本独自の外交が出来ないのです。では、どのようにして「自分の頭で考える方法」を学ぶことが出来るのかということです。そのためには、社会的に「回っているもの」ではなく、「回っていないもの」の中から自分で発見する能力が必要になります。そのために必要なのは、野原に遊びに行って「ぼく、この花の名前知っているよ」という判断、判別する「知識」ではなく、「このお花、いい匂いだね」と、そのものから直接学ぶことが出来る「感覚」が必要になります。(SENSE)また、土を掘り返したり、木に登ったり、花を摘んだりするような行動力も必要になります。(ACTIVE)そして、「どうして秋になると葉っぱは赤くなって、落ちてしまうの」という「不思議を感じる能力」も必要になります。(WONDER)これらは今の子どもたちの生活の中から抜け落ちてしまっているものです。どんなに教育的なテレビ番組を毎日見ていても、このような学びは決して出来ません。そのような体験が「知識」を受け入れ、整理し、その意味を理解し、使えるようにする能力を育てていきます。この能力があるから、思春期頃になって抽象的な知識を学んだり、抽象的に物事を考えることが可能になるのです。でも、「知識」を先に学んでしまった子が、このような「自分で考える力」を育てるのはなかなか困難なことになります。それは、知識を学ぶことで「不思議感覚」(Sense of Wonder)が萎えてしまうからです。幼い子どもたちは生まれつきその「不思議感覚」を備えていますが、でも、実物ではなく知識によってその不思議感覚に応えてしまうと、不思議感覚は萎えていってしまうのです。そして、いちど萎えてしまうとそれを取り戻すことが非常に困難になります。それを取り戻すためには「感動」が必要になります。一度「不思議感覚」が萎えてしまった子は、どんなに不思議なことを見ても何も感じないか、「どうしてだか、ぼく知っているよ」としか言いません。今の子どもたちと接していて、そのことを強く感じます。そして、「不思議」を解き明かしたいとも思いませんから、チャレンジもしません。チャレンジする動機がないのです。ある、登山家が「どうして山に登るのですか」と聞かれて、「そこに山があるからだ」と答えたのは有名な話ですが、登山家は「山の不思議」に魅せられて山に登るのです。ですから、「何のために」と問うのはナンセンスです。「健康のため」という様な人は命を掛けてまで山登りなんかしないのです。でも、今の子どもたちはその「何のため」がないと行動しません。だから世界が広がっていかないのです。だからと言って、「自分で考えているだけでは独りよがりになってしまって危険だよ」と孔子様は言うのです。人と人とのつながりの中で学ぶことも必要なのです。今の世の中には、「自分で考えない人」と、「自分だけで考えている人」がいっぱいいます。だからみんな苦しくなってしまうのです。ちなみに、子どもたちはその「自分で感じ、考え、行動する活動」を通して、「自分と対話する能力」を育てています。だから、自分で考えることが出来ない子どもたちは、自分との対話が出来ません。それは大人でも同じですそして、自分と対話することが出来ない人は「真理」に目覚めることが出来ません。でも、自分との対話が出来ても、他者と対話が出来ない人は自分で「真理」を作ってしまうことがあります。本当の真理に目覚めるためには、両方必要なのです。
2010.01.11
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ごめんなさい。今日は時間がないので、予告だけです。明日は人間としての自立を支える能力として必要なものとして、昨日書いた「他者とのコミュニケーション」の他に「自分との対話能力」を取り上げます。
2010.01.10
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昨日は、人間は人と人とのつながりの中で生き、学び、そして成長しているので、そこで求められる「自立能力」とは、他の人とつながる能力だということを書きました。一流大学を出ていても、英語がペラペラでも、色々な資格を持っていても、一人で何でも出来る能力を持っていても、他の人とつながる能力を持っていない人は自立することは出来ません。なぜなら、人間は人間が作った社会の中でしか生きることが出来ないからです。逆に、「一匹狼」的な生き方をしている人は人間の社会の中ではいつまで経っても自立することが出来ません。そのような人は「一人で生きている」と思い込んでいるかも知れませんが、実はその人が何とか生きていけるのは、周囲にその人を支えてくれる人がいるからなのです。そうでないと「人間の社会」の中では生きていくことが出来ないのです。でも、そのような人は「自分を支えてくれる人」の存在に気付きません。だから「一人で生きている」と思い込んでいるだけなのです。もし本当に一人で生きていきたいのなら、人間社会から離れて自然の中で暮らすべきです。でも、実際にはそういう人に限って「本当の一人」では生きていくことが出来ないものです。また、「自分は独りぽっちで生きている」と思い込んでいる人も同じです。独りぽっちだというのは思い込みに過ぎません。なぜなら、毎日食べているものにはそれを作った人の想いが込められているからです。そのことに気付かないから、自分を支えてくれているつながりが見えないのです。(さらには自然とのつながりもあります。)おかしな言い回しですが、人間は他者に依存しないと自立することが出来ない生き物なんです。そもそもその育ちからして、赤ちゃんはお母さんに依存しないと食べ物を得ることも、言葉も、歩き方も、感じ方も、考え方も、コミュニケーションの仕方も学ぶことが出来ないのです。人間は依存し合わないと「人間として」生きていくことが出来ない生き物なんです。だからそこで求められるのは「一人で何でもやる能力」ではなく、「どう、お互いに心地よく依存し合える関係を作ることが出来るのか」ということになります。実は、人間として自立していると言うことは、そのような「お互いに心地よい関係を作る能力に優れている」と言うことなんです。それが「人」という漢字の形の意味です。そして、そのつながりによって「社会」というものが作られているのです。上にも書いたように、皆さんが毎日食べている野菜でも、魚でも、肉でも、皆さんが獲ってきたものではないですよね。「自然」から皆さんの食卓に届くまでに大勢の人の世話になっていますよね。その時、「自分で稼いだお金で買っているんだから、誰の世話になどなっていない」と考えるのは大きな勘違いです。その途中で働いている人がいなくなれば、そのお金には何にも価値がなくなってしまうのです。一生懸命に働いてくれている人がいるから、お金に価値が生まれてくるのです。また、雇ってくれる人がいなければ、その「お金」すら手に入らなくなります。また、上司に悪い評価を付けられたら賃金は下がってしまいます。現代人は宗教のように「お金」そのものに価値があると思い込んでいますが、それは全く大きな勘違いです。極度のインフレやデフレになってお金の価値が崩壊してみればそのことがよく分かるはずです。「お金の価値」は社会が支えていて、その社会は「人と人のつながり」が支えているのです。(今、網野善彦の「日本の歴史をよみなおす」という本を読んでいるのですが、そこにはお金の価値が生まれた背景には宗教が関係している、と書いてありました。宗教を信じることと、お金を信じることはどうもつながっているようです。日本人は「お金教」の信者になってしまいました。だから他の宗教はいらないのです。)ですから、そこで必要になるのは「一人で何でも出来る能力」ではなく、つながりの中で「人のために何かが出来る能力」なのです。「自分のための能力」ではなく、「人のための能力」を持っている人が人間の社会では自立して生きていくことが出来るのです。なぜなら、社会はそういう人に「価値」を感じるからです。例えば、英語がペラペラなだけでは生きていくことが出来ません。そんな人、英語圏の国に行ったら普通の人だからです。大切なことは「その英語を使って人のために何が出来るのか」ということなのです。その能力がある人は自立して生きていくことが出来ます。でも、ただ英語が話せるだけでは自立できないでしょう。どんなに成績が良くても、一流大学を出ていても、人のために働くことが出来ない人はこの社会では自立して生きていくことが出来ません。それが「人間の社会」なのです。だから「自分を守ること」しか考えていない人は、自立した生き方をすることが出来ないのです。そして、自分で出来ないことは他の人に任せればいいのです。それを「他の人に依存したくない」と考えて拒否してしまう人は、結局誰かに一方的に支えてもらっていないと生きていくことが出来ないのです。「他の人に依存したくない」と考えている人は、他の人の人を支えることからも逃げます。だからいつまで経ってもつながりの中に入ることが出来ずに、自立することが出来ないのです。「金は天下の回りもの」という言葉があります。その「回りもの」が人と人をつなぎ、健全な社会を維持しています。でも、その「回りもの」は「お金」だけではありません。「笑顔」や、「優しさ」や、「思いやり」や、そして「言葉」や、「考え」も「回りもの」なんです。その「回りもの」があるから、人と人はつながり、生きていくことが出来るのです。そして、自分から発信した「笑顔」や、「優しさ」や、「思いやり」や、「言葉」や、「考え」が巡り巡って自分の所に返ってくるのです。「相手より先に、笑顔や、優しさや、思いやりを見せたら損をする」などと考えていると、いつまで経っても自分の所に「笑顔」や、「思いやり」や、「優しさ」は巡ってこないものです。その「回りもの」を回していくのが「コミュニケーション」ということなのです。コミュニケーションとは「つながりを支える働き」のことなんです。だから、コミュニケーション能力が未熟だと、その「つながりの輪」の中に入ることが出来ないのです。
2010.01.09
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「自立しているということは、自分一人で何でも出来るということではない」ということを繰り返し書いてきましたが、では、実際には「自立している」ということはどういうことなのでしょうか。今日はそのことを考えてみたいと思います。まず、被害者意識が強く、愚痴や言い訳が多く、人のことばかり気にして自分の言いたいことも言えず、自分がどう感じているのか、何をしたいのかも分からず、ちょっとの失敗ですぐに諦めてしまうような人は、たとえ東大を出ていても、英語がペラペラも、人間として自立できているとは言えませんよね。確かに、収入や生活面で自立できることは大切なことです。自分の衣食住を自分で確保することが出来ることは、全ての動物において「生存のための必須条件」です。(動物には「衣」は必要ないですけどね。)でも、人間以外の動物は他の動物と戦いながら、「自然」から直接「食」と「住」を得ています。その時誰も助けてはくれません。だから、「個としての能力」に優れた個体が生き残ることになります。でも、人間は「自然」の中で生きているわけではありません。人間は「人間が作った社会」の中で生きているのです。だから、そこで求められるのは「自然」の中で生き延びる能力ではなく、「社会」の中で生き延びるための能力なのです。人間は、「自然」からではなく「仲間」から「衣食住」を得ているのです。それが「文明」と呼ばれるものの働きです。そして、そんなことをしている生き物はこの地球上で人間だけです。確かに、一人で「自然」の中で生きていくのなら「自分一人で何でも出来てしまう能力」は必要です。でも、「人間」の中で生きていくためには、それとは違う能力が必要になります。まず、そこで必要になるのは「コミュニケーション能力」です。確かに、「あれが出来る」、「これが出来る」ということも大切ですが、コミュニケーション能力に劣った人は、この人間の社会の中で生きていくのが困難なことになります。ちなみに「知的な障害」と呼ばれるものは、そのほとんどにおいて「コミュニケーション」における障害とつながっています。どんなに記憶力があっても、どんなに算数が得意でも、人と人とのコミュニケーションにおいて障害があるのなら、その子は「障害児」と呼ばれてしまうのです。そして今そのような「障害児」が増えてきています。一月一日の朝日新聞に「支援校併設増55校」という記事が出ていました。その中には、知的障害者向けの特別支援学校高等部の分教室や分校などを同じ敷地内に設置する公立高校が、2012年度までに少なくとも18府県の55校に増える見通しであることが朝日新聞の調査で分かった。<中略>このような分教室、分校が増えている背景には、特別支援学校の高等部に通う生徒の急増がある。文部科学省によると、02年度は4万1206人だったが、09年度には5万3093人に達した。その一方で、全国の高校生の数は少子化に伴って89年度の564万人をピークに減り続け、09年度は334万7千人まで落ち込んだ。この結果生じた空き教室を、特別支援学校高等部の生徒の過密化解消に利用するねらいだ。とまとめています。つまり、子どもの数自体はどんどん減ってきているのに、「特別な支援を必要とする子ども」は逆にどんどん増えてきているのです。変ですよね。でもこれが、悲観論でも何でもなく、今の日本の現実です。この現実と向き合わずに楽観論だけで問題を処理しようとする人は、この現実をさらに悪化させることに手助けしていることになります。(ただし、「悲観しなさい」と言っているわけではありません。ちゃんと事実は事実として向き合おうよ、ということです。)その障害を「個性だ」と言い換える人もいますが、人が人のつながりの中でないと生きていくことが出来ない現実の中では、コミュニケーションにおける障害はやはり「生きていくための障害」となってしまうことには変わりがありません。そこが本来の「個性」とは決定的に違う点です。だから「障害」なのです。そのことに目を向けないと、障害を持った子どもたちが人間らしく生きることをサポートすることが出来なくなってしまいます。彼らに一番必要なのは、まず「コミュニケーション」におけるサポートなんです。なぜ、こんなにも「特別な支援を必要とする子どもたち」が増えてしまったのでしょうか。そこには食べ物、環境汚染、ライフスタイルの変化、電磁波など様々な要因が絡んでいるとは思いますが、でも私は、子どもたちが「コミュニケーションを学ぶ場」を失ってしまったことも非常に大きな要因だと思っています。ある小児科の先生の本に書かれていたことですが、最近「発達障害」が疑われる子が連れてこられることが多くなったそうです。目を合わせない、奇声を発する、落ち着かない、コミュニケーションが取れないなどの症状です。それで、家の中での様子を色々と聞いていくと、一日中テレビばかり見ている子が少なくないようなのです。つまり、生活の中に「人と人とのコミュニケーション」を体験する機会がほとんどないのです。それで、その先生はまず「テレビを消してください」、「お子さんにもっと話しかけてあげて下さい」と伝えるそうです。すると、それだけで状態が改善されてしまう子が本当に多いらしいのです。特に、幼ければ幼いほどすぐに「普通」に戻ります。でも、年齢が上がるに従って改善されにくくなってしまいます。このように「コミュニケーション能力」が育っていない子が、最近非常に増えてきているのです。それは私が日々実感していることです。普通に生活することは出来ます。自分で色々なことも出来ます。知識もあります。ピアノも水泳も英語も出来ます。でも、コミュニケーションが通じないのです。だから仲間や大人とつながることが出来ません。もちろん、学習にも障害が出ます。子どもは先生とのコミュニケーションを通して学んでいるのですから。このような子がそのまま大人になったら、「人間の中」で自立して生きていくことは困難になってしまうと思います。でも、その理由が分からず人をうらやみ、愚痴を言い、被害者意識ばかり強くして生きていくことになるでしょう。人間は、「他者とのコミュニケーション」によって学び、成長する生き物ですからコミュニケーション能力において劣る子は、自分の苦しみの原因が分からないのです。むしろ、なまじ個人的な能力に優れた子ほど「ねたみ」の感情は強くなるかも知れません。
2010.01.08
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多くの人が思い違いをしているのですが、人間は大人になった時に自立できていればいいのであって、子どもの時から自立させる必要はないのです。むしろ、幼い頃から自立を求められてしまった子は、大人になっても自立することが出来なくなってしまうのです。それは、子ども時代は人間としての器を作っている時期なので、器を作るために必要なものを与えるべきであって、子どもたちに完成された器としての機能を求めてはいけないということです。また、未完成な状態の器の中に色々な物を詰め込もうとしてもいけないのです。子どもたちに必要なものは「中味」ではなく「器を作るための材料」なんです。では、何が「中味」で、何が「材料」なのかということですが、それは子どもたち自らが判断します。なぜなら、その子どもの育ちの過程の進捗も、また目指している「器」の形も一人一人違うからです。そのような「材料」が子どもの周囲にあれば、子どもは勝手にその「材料」を吸収して成長していきます。でも、現代人の生活の中には子どもの育ちに必要な材料があまりにも少ないので、大人達は子どもの様子をよく観察して、「今はこれが必要なんだな」と判断し、意識してそれを与えてあげる必要があります。そうでないと、不完全な器しか作ることが出来なくなってしまいます。走り回るようになったら、「走り回る」という行為(材料)が必要になったということです。ですから、思いっきり、そして楽しく走り回ることが出来るような状況を用意してあげる必要があります。そうでないと、「走り回る」ということで育つべき成長の部分が脆弱になってしまいます。もしかしたら大人になった時に、そこから水漏れしてしまうかも知れません。一般的に、そのような子どものサインは「いたずら」や「困ったこと」として現れます。現代人の生活の中には子どもの成長に必要なものがあまりに少ないので、子どもはそれを求めて「困ったこと」をやろうとするのです。それは、お腹が減ってくるとイライラして怒りっぽくなったり、人の話が聞けなくなったり、落ち着きがなくなるのと同じです。それを「イライラするんじゃありません」とか、「もっとちゃんと人の話を聞きなさい」とか、「落ち着きなさい」と叱っても無駄なことです。そうではなく、その状態をよく観察して、「ああ、今はお腹がすいているんだな」と判断して、何かを食べさせてあげれば子どもは落ち着くのです。叱る必要などないのです。でも、本当に多くの大人達が「目に見える現象」にばかりこだわり、見かけだけを取り繕うとして、その「背景」については考えようとしていません。だから子どもを叱ったり、追いかけ回すばかりで状況はますます悪化してしまうのです。そのように「イライラし、人の話が聞けず、落ち着かない状態の子どもたち」の気を紛らわすための最高のアイテムが「ゲーム機」です。だから、子どもはゲーム機を手放せなくなってしまうのです。そして、大人達は「ゲームで遊ぶ時間」を餌にして、子どもの調教をしようとしています。(「餌」はゲーム機でない場合もあります。)確かに「よく調教された子ども」は何でも出来るし、自信もあるように見えます。でも、「指示」と「餌」がない状況では、どうしていいのか分からなくなってしまいます。それはつまり、「自分の人生」を自分の意志で生きることが出来なくなってしまうということを意味しています。そういう人間を「自立した人」とは呼べないですよね。テレビに出ているチンパンジーのパン君は何でも出来ますが、自立していると思いますか。皆さんは、あのパン君と同じような能力を子どもたちに求めてはいませんか。子どもたちに「大人を喜ばせるための芸」を求めてはいませんか。でも、そのような能力は人間や大人を喜ばせるための単なる「見せ物」に過ぎません。それどころか、むしろその能力はパン君や子どもの「自立」を妨げるものなのです。お母さん達のワークをやっていると、時々、美人でスタイルもよく、ピアノも英語も何でも出来て、一流の学校も出ているのにも関わらず「子育てが苦しくて仕方がない」とか、「自分に自信が持てなくて苦しい」と訴える人がいるのです。そのような人は、その人の親から見たら「子育てに成功した」と言えるのでしょう。でも、確かに「生活の自立」は出来ているのですが、「心の自立」が出来ていないのです。だから「自立した生き方」が出来ないのです。だから不安が強く、苦しいのです。(なぜか私のワークには子どもの頃、成績優秀だった人が多いのです。)では、「心が自立している人」とはどのような人なのでしょうか。それは簡単に言ってしまえば「自分にOKを出せる人」です。自分にOKを出せる人は、自分で自分のことを決めることが出来ます。そのような人は、ちゃんと自分の中に「判断基準」を持っているのです。でも、「心が自立していない人」は自分の中に「判断基準」を持っていないので、常に人目を判断基準にして生きています。だから不安から逃れることが出来ないのです。これはその人の学歴や能力の高低とは必ずしも関係がありません。学歴が無くても、特にすごい能力を持っていなくても自立している人はいるのです。むしろ、そのように結果ばかり求めて子育てをしていると、その結果どんなに優秀な子どもに育ったとしても、その判断基準を大人(他人)に依存することになり、自分にOKを出すことが出来なくなってしまうのです。そして、自立できなくなってしまうのです。すると、「優秀な子ども」だけで終わってしまって、「優秀な大人」にはなることが出来ないのです。
2010.01.07
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最近のお母さん達は、子どもに「何でも自分一人で出来る子」になって欲しいようです。そして、それが「自立」だと思い込んでいるようです。それと関係しているのかも知れませんが、子育て支援関係の人と話をしていると、時々「最近のお母さんは子どもから離れたがっている」という話しも聞きます。それは、子どもと一緒にいる時間を楽しむことが出来ないお母さんが増えてきたということなのでしょう。そういうお母さん達は、子どもを愛してはいても、具体的に毎日の生活の中でどう接したらいいのかが分からないので、子どもとの関わりを楽しむことができないのだろうと思います。つまり、「一緒にゲームをやるような距離感」での関わり合いは出来ても、顔と顔を向き合わせ、肌と肌、心と心を直接触れ合わせるような距離感での関わり合いは苦手なのではないかと言うことです。その結果、着飾らせたり、おもちゃを買って上げたり、一緒にディズニーランドに行ったりして遊ぶことは出来ても、毎日の生活の中ではあまり関わりたくないのかも知れません。やましたさんが書いてくださった3歳の子供が沢山歩いて疲れたと言うと、「疲れたなら座って休めば良いでしょう。抱っこしてなんて甘えないで自分で管理しなさい」と告げ、疲れた子を横で待つと、周りから「子供のペースを守ってあげて素敵なママ。スーパー子育てだね。凄いわね。」と誉められていましたが…。というエピソードのお母さんも、「子どもは子ども、私は私」という子育てをしているように見えます。そして、それが子どもとの対等な関係であり、子どもを一人の人間として尊重し、自立を促していると思い込んでいるのでしょう。周囲のお母さんもまた、そのように考えているのでしょう。確かに、幼い子どもはお母さんや大人に依存を求めてきます。そして、多くのお母さんや大人達がそれを単なる「甘え」や「わがまま」だと思い込んでいます。そして、そのような「依存」や、「甘え」や、「わがまま」を受け入れたら子どもが自立できなくなってしまうという理由で、その「依存」や、「甘え」や、「わがまま」を拒否しようとしています。でも、その論理には何の根拠もありません。実際、発達心理学関係の専門書にはそんなことどこにも書いてないからです。そういうことを言ったり書いたりしているのは、「子どもの事実」に則さないで、思い込みだけで大人の都合を子どもに押しつけるような子育てをしている人ばかりです。大人の思い通りに子どもを育てようとしている人ばかりです。我が子が東大に入っても、有名人になっても、それだけでその人の子育てが肯定されたことになどならないのですが、なぜかその本人も、周囲もそれが「優秀な子育ての結果」だと信じてしまっています。そして、その「子育ての方法」を、他の人や子どもにも押しつけようとしています。そのような人たちは、「子どもの事実」を受け入れたら、自分の方が否定されてしまう不安を無意識に感じているのかも知れません。実は、幼い子どもの成長には「依存」や、「甘え」や、「わがまま」が必要なんです。成長に必要なことだからこそ、幼い子どもたちは強くそれらをお母さんや大人に求めてくるのです。赤ちゃんが泣くのにも意味があるように、幼い子どもの「依存」や、「甘え」や、「わがまま」にもちゃんとした意味があるのです。ですから一方的にそれらを「悪いこと」として拒否してしまったら、幼い子どもは人間らしさを学び、育てることが出来なくなってしまいます。大切なことは、その「依存」や、「甘え」や、「わがまま」を通して、お母さんと子どもがどのように関わるのかと言うことなんです。これらは全て、「関わり合い」のきっかけだからです。幼い子どもはお母さんとの関わりを求めて依存し、甘え、わがままを言うのです。それを「甘ったれるんじゃありません」の一言で切ってしまったら、子どもはお母さんとの関わり合いの機会を失い、「人と人との関わり方」を学ぶことが出来なくなってしまいます。お母さんに依存しない子、甘えない子、わがままを言わない子は、お母さんとの関わりを放棄し、他の子との親密な関わり合いが出来なくなってしまった子なのです。そのような子は「孤独」の中で一人で生きていくことになります。でも、そのような子は大人になってからも、その「満たされぬ想い」から自由になることが出来ません。それで、他者に依存し、甘え、わがままを要求するのです。子どもの時に満たされなかったことを大人になってから他の人に要求するのです。それはつまり、成長してからも「幼児のような大人」になってしまうということを意味しています。幼児の時に「依存」や、「甘え」や、「わがまま」を真剣に受け止めてもらっていないと、幼児のような大人になってしまうのです。そのような大人は求めるばかりで与えることが出来ません。そして、今そのような大人が急増しています。そのような大人は、求めるばかりで与えることが出来ないので、子育てでも子どもに自立を求めます。夫婦の間でも助け合うことが出来ません。それでバラバラに生活することになります。そして、「大人としての夢」を持つことが出来ずに、「幼児のような夢」ばかりを願うようになります。結果として、社会全体が幼児化していきます。そしてそれを、豊かな経済社会が後押ししています。幼児のように「求めるばかりの大人」が増えた方が経済は活性化するのです。ただし、誤解しないで欲しいのは「依存」や、「甘え」や、「わがまま」を肯定すると言うことは、それらを全部そのまま受け入れるということでは無いということです。子どもが求めているのはそれらを通した「関わり合い」であって、結果ではないからです。「おもちゃが欲しい」と言った時に、ほいほい買って上げてしまったら、それは「甘え」を拒否されたのと同じことになってしまうのです。ですから、お母さんがそのことに気付くまで「甘え」はどんどんエスカレートしていくでしょう。大切なことは、どうその欲求と向き合い、それらを通して子どもと関わるのかということなのです。子どもはその「関わり合い」を通して、「大切にされている自分」を感じ、人間として成長していくのですから。
2010.01.06
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子どもだけでなく一般的に人間は、愛してくれる人を愛し、優しくしてくれる人に優しくし、話を聞いてくれる人の話を聞こうとし、自分を嫌う人を嫌うものです。また、喜んでいる人の側にいると嬉しくなり、悲しい人の側にいると悲しくなり、イライラしている人の側にいるとイライラしてきます。特に、子どもの場合はその傾向が強いように感じます。これは昨日書いた「ミラーニューロン」のせいかもしれませんが、人間はこのようにお互いに共鳴しあいながら生きています。この原理を理解しないで子育てや教育を行うと、当初の目的とは正反対の結果につながってしまうこともよくあります。「優しくしなさい」と怒鳴ったり、叱ったりしていると、「優しくない子」になってしまうでしょう。「勉強しなさい」と子どもを追い回していると、「勉強が嫌いな子」になってしまうでしょう。「我慢しなさい」と「我慢」を押しつけていると、「我慢が出来ない子」になってしまうでしょう。「自分一人でやりなさい」と「自立」を押しつけていると、「自立することが出来ない子」になってしまうでしょう。ただ、この例に関してだけ補足を付け加えますが、だからといって代わりにやってあげても依存するばかりで自立できなくなります。そうではなく、一緒にやったり、手助けしてあげればいいのです。自立能力は、お母さんやお父さんや周囲の大人に支えられることで成長するのですから。実は、本当の意味での「自立している」ということは、「一人だけで何でも出来る」ということではなく、「他の人と助け合ったり、お互いに支え合うことが出来る」ということなのです。人間は一人だけでは生きていくことが出来ないのですから、一人だけで何でも出来ても自立した生き方は出来ないのです。無人島で暮らす時には「一人だけで何でも出来る能力」が必要かも知れませんが、社会の中で自立して生きていくためには「助け合ったり、支え合う能力」が必要なんです。逆に言えば、「自立していない人」は助け合ったり、支え合うことが出来ません。だから「孤独」になってしまうのです。「独りぼっちで孤独な状態」と、「自立している」ということは同じではないのです。むしろ、助けが必要な時には「助けてください」、「手伝ってください」とちゃんと言える人こそが「自立している人」なんです。でも今、幼い内から自立を押しつけられ、「独りぼっちで孤独な状態」の中で、自立できずに苦しみ、もがきながら生きている若者がいっぱいいます。実は、今の子どもたち(若者達)に我慢が足らないのは、我慢を押しつけられてきたからなのです。自立が出来ないのは自立を押しつけられてきたからなのです。学力が下がってきたのは、勉強を押しつけられたからなのです。それなのに、子どもの心が分からない大人達は、さらに強く「我慢」と、「自立」と、「勉強」を押しつけようとしています。そのことに気づかない限り、子どもや若者の状態はますます悪化していくでしょう。それと、「我慢」は「大切なものを守ろうとする時目覚める意志」です。ですから、押しつけて育つものではありません。今の若者達に「我慢」が足らないのは、守るべき「大切なもの」を持っていないからです。そしてそれは大人の責任です。そのような若者達に「我慢」を押しつけたら、大人への反感が目覚めるばかりです。今、その「大人への反感」に満ちた若者がどんどん増えてきています。そのような若者は「大人になること」を拒否します。
2010.01.05
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人間には無意識のうちに相手のやっていることを模倣してしまう習性があるようです。これは脳の中の「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞の働きであって、この働きがあるから人間は歩き方、動き方、言葉や話し方、考え方、感じ方などを学ぶことが出来るわけです。それはつまり、人間は成長の過程で「人間らしさ」を学ばないことには人間らしく成長することが出来ない動物だということです。他の動物では予め遺伝子に書いてあるようなことでも、人間は生まれた後から学ばなくてはならないのです。そして、その基本的な方法は「教わる」という方法ではなく、「見て学ぶ」という方法です。つまり、あくまでも「学ぶ方」が主体であるということです。だから、一緒に暮らしているだけで子どもは周囲の大人を模倣しながら人間らしく成長することが出来るのです。でも、その結果多くの大人達が、人間も他の動物たちと同じように、「どのように育てても人間らしく育つように出来ている」と勘違いしてしまっています。でも、人間の子どもは「人間らしく」扱われていないと、「人間らしく」育つことが出来ないのです。それは「人間らしさ」を模倣できないからです。また、「見て学ぶ」ということは、つまり、本人が学びたくないものは教えても学ぶことが出来ないということです。子どもは自分にとって必要なことしか学ぶことが出来ないのです。だから犬猫の調教方法と、人間の教育方法は根本的に異なっているのです。それが分かっていない人が多すぎます。犬や猫は人間を模倣しませんから教えなければならないのですが、人間の子どもにそれをやってしまったら、非常に困ったことになってしまうのです。これらは様々な研究によって分かってきた人間に関する「事実」です。ですから、子育てや教育を考える時には、すべてこの「事実」を土台にしてその方法を考えないことには間違いなく失敗します。でも、多くの人がこの「事実」を無視して、子どもに押しつけるような子育てや教育をしています。だから、子育てや教育がうまくいかないのです。例えば、お母さんが子どもに「あそこに行きなさい」と言っても、子どもはお母さんにしがみつくばかりで行こうとはしないものです。でも、お母さんがその場所にまで行って「こっちへおいで」と言えば、子どもはやってきます。お母さんが「口を開けなさい」と言ってもなかなか開けません。でも、お母さんが口を開けて「あーん」と言えば、子どもも口を開けます。少し大きくなって、「命令に従わないと叱られる」ということを学習した子は、指示命令でも動きますが、でも、「学ぶ」というような内的な活動に関してはこの方法は一切通じません。身体的な動きや行動は、自分の意識でコントロールすることが出来ますが、「学ぶ」とか、「感じる」とかいったような「内的な活動」は意識でコントロールすることが出来ないからです。強制や指示命令で教えることが出来るのは「意識を使った活動」に限られるのです。でも、その「意識の働き」を支えているのは「無意識の働き」です。そして、子どもたちは「無意識」もまた「模倣」によって学んでいるのです。つまり、子どもは指示命令を受けながら、指示命令を下している人の無意識を模倣によって学習しているのです。その「無意識」は、「他の人のやっていることが気になってしょうがない」というような無意識です。そして、考えたり、感じたり、自分と対話するような「内的な活動」を支えている無意識は育ちません。それが「KY」に敏感な若者達の増加につながっているのだろうと思います。そのように、指示命令ばかりで育てられた子は、考える力、感じる力を育てることが出来ずに、指示命令に従う生き方しか出来なくなってしまいます。だから、自立を求められる思春期になると苦しくなってしまうのです。目の前に広がる未来をどのように生きたらいいのか分からないからです。だからといって、ある程度以上成長してしまってから「考える力」「感じる力」を取り戻すのは非常に困難です。それが厳しい現実です。私たちは、そこから再スタートすることは出来ても、やり直しは出来ない時間を生きているのです。ですからそのように育ってしまった若者は、何か自立につながるような技術を学ぶ必要があると思います。内的な活動は苦手でも、見て学ぶことが出来る技術を学ぶ力はあるからです。そして、その技術を修練する過程で、自分の力で「考える力」「感じる力」を学んでいく以外に「考える力」、「感じる力」を育てる方法はないと思います。でも多くの場合、技術の習得は修行のような苦しみを求められます。それで、自分で考える力の弱い子は簡単に逃げてしまうのです。「自分で考える力」が弱い子は、「我慢する力」も弱いのです。だから周囲の支えが必要になります。でも、周囲に支えられてその修行を乗り越えることが出来れば、自分で自分を育てる能力も育っていきます。でも、実際にはその「修行」から逃げてばかりいる若者が多いようです。それだけ幼児期に失ってしまったものを取り戻すのは難しいのです。では、「考える力」「感じる力」を子どもに伝えるためにはどうしたらいいのかということです。でも、これは難しいことではありません。子どもと一緒に考えて、子どもと一緒に感じる生活をすればいいだけのことです。子どもに教えようとするのではなく、子供らから学ぼうとしていれば、子どもは模倣によって他者から学ぶ能力を育てることが出来ます。子どもと一緒に考えようとしていれば、子どもは模倣によって考えることを楽しむようになります。子どもと一緒に感じようとしていれば、子どもは模倣によって感じることを楽しむようになります。それだけのことです。子育てが上手なお母さんは、子どもから学ぶことが上手なお母さんです。教えることが上手な教師は、子どもから学ぶことが上手な教師です。自分の思い通りに育てよう、自分の思い通りに教えようとすると失敗します。
2010.01.04
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全ての出来事には必ず原因があります。今の日本の状況、子どもの状況にも原因があります。でも、その原因にも原因があり、またその原因にも原因があります。満員電車の中で誰かに押された時、直接あなたを押したその「誰か」を特定するのは難しくないかも知れません。でも、その「誰か」も他の「誰か」に押されたから、その人を押してしまったのでしょう。また、その「誰か」もさらに別に「誰か」に押されたのかも知れません。そして、その関係は一対一で連鎖して行くわけではなく、「玉突き」のように一つの原因が同時に多くの結果を生みだし、その結果がまた同時に多くの原因になっていくのです。ですから、そのような状況の中でたった一人に原因を見つけることは不可能です。だから、「究極の加害者」を決めることなど出来ないのです。このような状況ではみんながみんな「被害者」であることを訴えるばかりです。ヒットラーでさえ、誰かにその責任を問われたら「自分は被害者」だと言ったでしょう。そして今、日本には「被害者」ばかりがいます。「被害者」ばかりがいっぱい集まって、「加害者」探しをしているのです。でもそれでは事態は悪化するばかりで、決して問題は解決していかないでしょう。「私が究極の加害者です」などと言う人が現れるわけがないからです。これが今、日本がよい方向に変わることを阻害している最大の要因です。みんながみんな「被害者である自分」を主張して、お互いに縛り合ってがんじがらめになり、身動きがとれなくなってしまっているのです。だから事態が少しもいい方向に進まないのです。じゃあどうしたらいいのかというと、「被害者としての自分」を訴えて「加害者」に補償を求めるのではなく、一人一人が「加害者としての自分」に気付き、自分による「被害者」を作らないようにすることです。流れを逆転させるのです。でも、そのように言うと、「それじゃあ自分だけバカを見る」、「自分だけ損する」、「自分だけ頑張っても無駄だ」と言う人も多いと思います。それが今の普通の日本人の感覚だろうと思います。先の戦争での日本が行った「加害者としての責任」を言おうとしても、「日本は被害者だ」とか「そういう自虐的なことを言うな」と言う人がいますが、「加害者としての行為」を反省することがどうして「自虐的」ということになるのかが理解できません。むしろ、「被害者としての日本」を言い立てることの方が自虐的なのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。大人(たいじん・大物の意)は、被害者面をしないものです。被害者面をするのは気の小さい小人(しょうじん・小物の意)ばかりです。その「被害者意識」が抜けないからいつまで経っても「不幸な被害者」のままなんです。だから少しも前に進むことが出来ないのです。だから幸せになることが出来ないのです。それは「おまえが先に謝れ」「いや悪いのはおまえの方だからおまえの方から先に謝れ」と延々と繰り返している「子供のケンカ」と同じです。子育ての現場でも「自分は被害者だ」と訴えているお母さんはいっぱいいます。「子どもが言うことを聞かない、子どもがうるさい、子どもが汚す、子どもが寝かせてくれない、主人が手伝ってくれない、だから私は可哀想な被害者なんです」と救いを求めているお母さんは少なくありません。そのような人は、子どもに対しての「加害者としての自分」という意識がほとんどないのです。子どもをぶったり叩いたりしていても、それは「子どもが悪いから」であって、それは子どもの自己責任だと思い込んでいます。そして、「悪い子をぶったり叩いたりして仕付けるのは親の義務だ、だから私は正しいんです」と主張します。でも、子どもがうるさいのも、汚すのも、泣くのも生理的な現象なのでどんなに叱られても子どもはそれを止めることが出来ません。ですから、叱られたり叩かれたりしているうちに「自分は悪い子なんだ」と自虐的になっていきます。そして、心に深い傷を負うことになります。そして、「被害者意識の強い大人」に成長していきます。このようにして子育ては連鎖していきます。この流れを断ち切るためにはどこかで「被害者としての自分」という意識を手放して、「加害者としての自分」に気付く必要があるのです。そして、「心の傷」ではなく、「幸せ」を伝えてあげるのです。すると、それがみんなの間を回ってあなたの所に帰ってくるのです。特に他者に対して強い立場の人ほどそのような意識を持つ必要があるでしょう。この論理を、立場の強い人が、立場の弱い人たちに押しつけたら被害者が増えるばかりです。それが「君子の道」です。
2010.01.03
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なぜか人は「出来ないところ」「足らないところ」にばかり目が行ってしまうようです。病気や怪我をしてからだが以前と同じように動かなくなれば、動かなくなった所、失ってしまった能力ばかりを気にしてしまいます。また、他の人と比較して自分の足らないところばかりを気にしている人もいます。さらには、自分の理想と、現実の自分を比較して自分自身に絶望している人もいます。それは自分自身に対しても、また子どもや家族に対してでも同じです。そして、そのような人の大部分はその「足らないもの」「失ったもの」を嘆くばかりで何もしません。ですから、事態はどんどん悪くなっていきます。そして、「嘆き」もどんどん深まります。とは言っても、実際には何かをやろうとしても、何をやったらいいのかが分からないのでしょう。何かをやっている人でも、その多くはただ「足らなくなったもの」「失ったもの」を取り戻そうとするばかりです。子育てでも、我が子の「足らないところ」を重点的に補おうとするばかりです。でも多くの場合、そのやり方は失敗します。そのような「欠点にばかりに目を向けた考え方」では前に進むことが出来ないからです。進むべき方向がはっきりとしないのです。ですから、今の日本の経済も教育も「過去の栄光」を取り戻そうとしているだけなら失敗します。確かに「欠点の分析」は非常に重要です。私がブログで書いていることもそのようなことです。でも、欠点を指摘するだけでは問題は解決しません。欠点の指摘は「問題意識を高める」ということには効果がありますが、実際に問題を解決するためには全く異なった視点が必要になるからです。例えば、「チック」になった子がいたとします。それでお母さんは心配します。そして、一生懸命にその「チック」を直そ(治そう)うとします。でも、そのお母さんの意識がまた子どものチックを悪化させてしまうこともあります。それはお母さんが気にしすぎてしまうからです。お母さんが気にすれば子どもも気になります。すると、余計に治りにくくなってしまうのです。「吃音(どもり)」と呼ばれるものも同じです。さらに、病院に行ってそのことを指摘されたらお母さんは余計に気にしてしまうでしょう。でも、病院に行って、お母さんの関わりと、そのチックの関係を知ることは非常に重要です。だからといって、お母さんが自分自身を責めてしまっても問題は解決しません。ここが非常に難しい所なんですが、原因を知ることは非常に重要です。でも、次の段階としてはその原因を忘れてしまう必要があるのです。そして、そこから新しく始めるのです。チックに至った原因を後悔するのではなく、そのことを反省したら、過去のことは忘れて今から新しい子育てを始めるのです。過去は変えることが出来ません。過去を反省することは重要ですが、過去を否定することは事態を悪化させるばかりです。なぜなら、過去を否定することは、その「結果」としての、今現在目の前にいる「我が子」を否定するのと同じことになってしまうからです。「元に戻そう」という考え方は本質的に「非難」や「否定」を含んでいるのです。私は過去や現状を分析し、欠点を指摘しています。でも、私が言っていることは「指摘」であって「非難」や「否定」ではありません。また、「元に戻そう」などということを言っている訳でもありません。ただ、「今のままでは困ったことになってしまいますよ」「今現状はこんな所まで来てしまっていますよ」ということを訴えて、未来に向けて新しい選択を求めているだけです。未来に向けて新しい選択をすることで軌道を修正するのです。後戻りをしようとしてもそれは「同じ道」を戻るだけですから、何も変わりません。一時は元に戻っても、また「同じ道」をたどって同じ結果になるばかりです。(増えてしまった二酸化炭素を減らそうとするだけの考え方も同じです。)「新しい選択」を選ぶことで創られる未来は過去の再現ではありません。進化した未来です。それは未知の世界です。問題は「ではどのような選択をしたらいいのか」ということです。これは抽象的な表現になってしまいますが、ここで求められているのは「心やからだや意識が広がり、つながりが増えていくような選択」です。間違いを直そうとする選択ではなく、新しい喜びを創るような選択です。そして、人と人、人間と自然、見えるものと見えないもの、文化と文明、科学と宗教と芸術の新しいつながりを作り直すのです。そうすると、過去に作られた「問題点」は、自然に「問題」ではなくなってしまうのです。二酸化炭素を減らそうとしなくても、自然と適正な状態にまでその割合は減っていくのです。子育てや教育でも、「子どもの問題」を解決しようとするのではなく、子どもと大人との新しいつながりを作り直せばいいのです。そうすれば、自然に「子どもの問題」は消えてしまうのです。
2010.01.02
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明けましておめでとうございます。ようやく先ほど実家から帰ってきました。ということで今日は写真だけで失礼します。2009年最後の夕日です。夕日が隠れているのは稲村ヶ崎です。と、日が沈んでパッと後ろを振り返ったらなんと「満月」が出てきたところでした。この絶妙のタイミングにちょっと感動してしまいました。それと、昨日の夕焼けもすごかったですね。とにかく、東から西へと雲が大きな川のように横たわり、雲の南側が真っ赤になっていました。で、夜は息子(小6)と材木座の「光明寺」に「除夜の鐘」をつきに行ってきました。で、これは今朝の材木座海岸からの風景です。小坪マリーナで朝日が上がってきたところです。ということで、今年もよろしくお願いします。
2010.01.01
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