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以下は、さっき勉強会のお母さん達のMLへ向けて流した文章です。みなさんにも読んで頂きたいので、転載します。日本人はまず正解を求めてしまいます。でも、自分の頭で悩んでいない人は正解を得ることが出来ないのです。“悩む”ということは“受け皿”を作ると言うことです。受け皿があるから、そこにその受け皿に応じた答えを乗せることが出来るのです。答えは一つではありません。全ての人を納得させることが出来る答えなど存在していないのです。人は(悩んだ末の)自分の受け皿に応じた答えを得るのです。だからこそ、10人いれば10通りの正解があるのです。ですから、自分でしっかりと受け皿を作っていない人(つまり、自分の頭で悩んでいない人)はいつまでも迷うことになります。(自分の頭で悩むと言うことは、自分の頭で考えると言うことです)***********************今日の内容は昨日の繰り返しです。しつこいようですが、ちょっと違う言葉で書いてみました。人間の脳はいつでも刺激を求めています。人間の脳細胞というものはどうも刺激がなくなると機能停止してしまうようなのです。ですから、外から刺激が来ている時にはそれをそのまま処理しているだけなのですが、外からの刺激が少なくなると自分の機能が低下するのを防ぐために自分で刺激を作りだして脳細胞に流しているようです。夢を見るのもその一つの形なのではないかと思います。面白い実験があります。完全にまっ暗で、無音で、刺激のない部屋を作って、その中に入っていると次第に幻覚、幻聴が現れるそうです。目から何にも情報が来ないと脳が勝手にその情報を作って脳に流してしまうのです。それで、まっ暗なのに“何か”が見えてしまうのです。音でも同じです。そして、長い間その状態が続くと精神を病んでしまうそうです。長時間に亘って、外界とのつながりが切れてしまうと脳が自己完結してしまって、現実世界の事象とのつながりが切れてしまうのかも知れません。つまり、自分が作った映像を見、自分が作った音を聞き、自分が作った感覚を感じるだけになってしまうということです。一人暮らしをしていると独り言が多くなると聞いたことがありますが、それもその脳の性質と関係しているかも知れません。生まれた時から目かくしをされた猫は、成長してから目かくしをはずされても見えないそうです。でも、その逆に刺激が強すぎる時には細胞がオーバーヒートすることを避けるために、逃げるという行動をとったり、感受性を鈍くすることで対応します。その時、それが視覚的、聴覚的な刺激であろうと、それと同時に思考や意欲の低下をもたらします。ジェットコースターに乗りながら数学の問題を解くことはできないのです。安全バーにつかまるだけで精一杯で、それ以上のことをやる余裕もありません。でも、ジェットコースターはそれ故に楽しいのです。脳が思考回路ではなく、運動回路を優先的に処理するようになるので一時的に悩みやストレスを忘れることが出来るし、危機的な状況でアドレナリンが豊富に分泌され興奮状態になるからです。そして、今の子どもたちはこのような状態で毎日の生活を送っています。テレビ、ゲーム、さらには自動車の音、蛍光灯の光などが過度の刺激を子どもに与えているからです。大人にとっては大したことのない刺激でも、脳の神経細胞が形成途中の幼児や子どもたちの脳にとってはかなり強い刺激なのです。毎日の塾通いも子どもの脳にはかなりきつい刺激なのかも知れません。大人でも毎日違う習い事に通っていたら神経が疲れるでしょ。では、子どもにとってちょうど良い刺激とはどのくらいのものなんでしょうか。それは“ちょっと退屈する”くらいの刺激なんです。そのくらいに時に、子どもは自分で考え、自分で感じ、自分で行動を始めるのです。でも、ゲームやテレビを自由にやったり見たりすることが出来る状況ではその状態を作ることは出来ません。ですから、お休みの時にはお弁当を持って近くの公園や野山に行ってただブラブラしてくるのがちょうどいいのです。そうすると、子どもたちは生き生きとしてきます。ちなみに私が子どもの頃には山と海という自然はいっぱいありましたけど、周囲に子どもはいないし、テレビも見ないし、自動車も来ないし(家が山の麓で通りからずっと奥だったのでめったに車が来ませんでした)という、今時の子どもにしたら退屈きわまりない生活でした。でも、そのおかげで自然と、そして自分と対話することを学びました。
2007.01.31
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1月21日に生き生きとした感覚、感情体験が乏しい子はそういうものに対する感受性を鈍くして対応します。愛情の乏しい環境で育った子は愛情を求めることを止め、それを別のもので満たそうとします。からだでの体験が乏しい子は、それを空想や妄想で補おうとします。そして、その状態が長く続くほどその状態が固定してしまい、元には戻りにくくなるのです。と書きましたが、そのような状態になってしまった子どもたちをどのようにサポートしたらいいのかとことで話を続けます。ここで知っておかなければならないことはそのような子どもたちでも、成長欲求はあるということなんです。どんなに自暴自棄になっていても、無気力になっていても成長欲求はあるのです。なぜなら、人間にとって成長するということは“未来への希望”を意味し、それはそのまま“生きる”ということとほとんど同意義だからです。ですから、成長が閉ざされた時、人は死を選びます。ただ、大人になったとき、その成長欲求がそのまま人間としての成長欲求として残る人もいれば、物質欲、権力欲という形に姿を変えてしまう人もいます。そういう人は物質欲、権力欲が満たされていく時、自分が大きくなったような気分になるのです。ですから、私はそれも“一つの成長欲の形”なのではないかと思っています。人間は何らかの形で心が満たされていないと生きていけない生き物なんです。なぜ、人間にはそのような欲があるのでしょうか。動物たちはライオンでさえ、満腹時には他の動物を襲いません。ライオンだけでなく他の動物たちもみな同じです。人間以外の動物たちは“満たされる”ということを知っているのです。でも、人間だけが満たされません。いつまでも、どんな時でも、どこまでも欲は途絶えないのです。その欲のおかげで文明も文化も生まれ、進化してきました。そして、その限りのない欲のせいで人類は今滅亡の危機にさらされています。仏教では「煩悩即菩提」といいますが、その煩悩を菩提(さとり)に変えることが出来るのか、それとも煩悩のまま人類は滅亡するのか、どうも科学者の言葉を聞いているとその運命は今生きている私達の肩に掛かっているようです。ということで、話しが大きくなってしまいました。子どもの問題に戻します。じゃあ、具体的にどうしたらいいのかということについて私の考えを書いていきます。まず、子どもを追い立てることを止めてください。精神的、時間的、肉体的、感覚的にゆとりを与えてあげて下さい。簡単に言うと子どもを“退屈な状態”にしてあげて下さい。大人はついトラブルを抱えた状態の子どもを見ると“何か”したくなりますが、その逆です。今子どもに対してやっていることを止めてみるのです。これが毒抜きになります。人間には知識でも思考でも感覚でも処理出来る速度や量というものが決まっているのです。(もちろん個人差はあります)その速度や量に合わせて子どもは自分で必要なものを見つけて成長していくわけです。ですから、大人の役目はその子に合った速度と量に合わせて、子どもの手の届くところにその“必要なもの”を“吸収しやすい状態”でセットしてあげることなのです。でも、その速度や量を超えて大人が子どもに知識や思考や感覚を押しつけようとする時、子どもの脳や心は“処理不能状態”で停止してしまうのです。(コンピュータ的に言うとフリーズです。)そして、暗記という方法だけで表面的に課題を処理しようとします。これは、お勉強だけではありません。音や視覚的な刺激でも同じです。また、大人の虐待のような心への強い刺激でも同じです。刺激があるレベルを超えると、その刺激を処理する回路ではなく、その刺激によって行動するように心とからだの回路が切り替わってしまうのです。つまり、それが弱い刺激なら“あれ、なんだろう”、“この刺激の意味は何かな”と???という(内部処理)モードにはいるのですが、それが強い刺激の場合は動いたり、逃げたりという行動の方につながってしまうのです。ダンス音楽でも、小さい音では踊れません。踊るためにはリズムだけでなくボリュームが必要なのです。ボリュームが大きいことで、思考回路がとまりからだが動き出すのです。つまり、簡単に言うと弱い刺激は思考(神経)に働きかけ、強い刺激は筋肉に働きかけてしまうと言うことです。ですから、強い刺激にさらされていると動きばかりが誘発され、思考が止まったままになってしまうと言うことです。人間は、強い刺激ばかりの中にいると動物的になってしまうのです。そして、その状態が長く続いていると“刺激中毒”になります。(触られただけなら、“誰かな?”とか“何かな?”と思いますよね。でも、それが痛い時にはそんなこと考える前に動いてしまいますよね。それでも動けない状態なら、無気力になることでその痛みから逃げようとします。)(武道でもこの原理を使っています。弱い刺激の方が相手をコントロール出来るのです。)また、大きな音の中にいると、音に対する感受性が鈍くなることは誰でも分かります。でも、音に対する感受性が鈍くなると他の感覚的な感受性も同時に鈍くなってしまうことはあまり知られていません。なぜなら、感覚というものはみな連動しているからです。静かな丘の上に座って空を見上げている時には、空の微妙な色の変化、また周囲の音の変化、風の変化にも敏感になります。でも、同じ屋外でも大音響のコンサート会場にいる時には強い色、強い音、強い感覚刺激しか感じることが出来なくなります。感覚の全てが一番強い感覚刺激のレベルの合わされてしまうからです。そして、そのような状態では気付きは生まれません。大人も同じなんですが、変わるためには気付きが必要なんです。そして、その気付きを得るためにはそれまでの刺激をなくして見ることです。すると、心と頭の中が動き出します。すると、それまで見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかったものが聞こえるようになるのです。すると気付き力が働きだし、成長欲が目覚め、能動的に動き出します。能動的に動けない子、またいつまでも同じことばかり繰り返している子は気付き力が働かなくなってしまっている子です。大人が直接子どもにアクセスするのは気付き力が働くようになってからです。気付き力が働き、子どもが耳を澄ます状態にならなければ大人の言葉、行為は届きません。但し、これらのことは9才を過ぎてしまうとなかなか難しいことになります。親が絶対的な存在ではなくなってしまうからです。9才を過ぎると、親がその刺激を子どもから遠ざけようとしても、子どもがその刺激を求めて親から離れて行ってしまうからです。******************今朝の朝日新聞の投書欄にある小児科医の先生が投書していましたが、いま妊婦の喫煙が増えているそうです。妊婦全体の10%もの人たちが喫煙しているというのです。さらに驚くことに“喫煙することで胎児の成長が抑えられ、出産が楽になる”と考えている人までいるというのです。昨日、保育ボランティアさんのための講座の帰りにご一緒させて頂いた方も“この子のせいで私は仕事をあきらめなければならなかった、この子がいなければ私は社会でもっと輝いていることが出来たのに”とはっきり言うお母さんがいるとおっしゃっていました。また、友人の幼稚園の先生の話では、ペット用のゲージを並べて子どもを預かる一時預かりの施設もあるとのことです。赤ちゃんをそのゲージに入れてただ“死なないように”世話をするだけなのです。“絶対に、子どもの育ちに影響が出るよな”と話したのですが、そういう施設を作る人も、そういう施設に子どもを預ける人もいるという現実。このような大人たちが増えているということが、児童虐待が増えている現実の背景にあります。子どもがではなく、大人たちが病んでいます。病んでいる大人に育てられた子どもが病まない方が不思議です。
2007.01.30
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今日は、ずっと出ていてパソコンの前に座る時間がなかったので、今日の講演会(保育ボランティアさんのための研修会)でお配りした資料を皆さんにもお分けします。ただ、講演会ではこれを説明しながら話をしたのですが、ここではその資料だけなので分かりにくいと思いましが、ご勘弁を。ちなみに、私の講演だと言うことで“おっかけのように”飛んできたという方もいらして嬉しかったです。******************************「テーマ」1.親子遊びの実際・遊びの種類 反抗期前 感覚遊び(五感への刺激-セットで与える) 運動遊び(からだ全体での運動体験) 反抗期以降 からだ遊び(自分のからだを自分の意志でコントロールする遊び/指先が器用になる)、仲間遊び・感覚遊び 視覚、聴覚、触覚などの体験/変化を遊ぶ 視覚-表情、動くもの、隠す 聴覚-声、音、歌、リズム 音源が見えた方が子どもは安心します。 ですからCD、テレビなどはあまり使わない方が子どもの感覚に届きます。 触覚-触れる、つつく、もむ、抱く、ゆする、くすぐる、さする これらが同時に与えられることで遊びになります 慣れた保育者は無意識にやっていることですが、子育てに不慣れなお母さん達は教えてあげないと出来ないようです。・運動遊び からだ全体での運動体験 おんぶ、抱っこ、グルグル、ゴロゴロ、ピョンピョン、クネクネ この時にも、視覚的、聴覚的な刺激とセットにすると遊びになります。 お母さんやお父さんにやってもらう遊びです。 ・からだ遊び 反抗期が来ると急に自分のからだのコントロール能力が高くなります。ですから、その能力を試すような遊びを喜びます。 コマ、縄跳び、けん玉、木登りといった昔からの遊びにも興味をしますようになります。 また、それまでやっていたグルグル、ゴロゴロ、ピョンピョン、クネクネなども、難しい“技”に挑戦するようになります。 ・仲間遊び 反抗期を境に仲間と遊ぶことを楽しむようになります 綱引き、縄跳び、隠れんぼ、ジャンケン、鬼ごっこ2.親子の関わりのあるべき姿 ・7才までの子どもはとにかく信頼関係を育てることが一番大切です。 これは後から取り戻すのはかなり難しいです。 ・そのためにまず必要なことは“笑顔”と“声かけ”です。 ・親子遊びは実際にどのように子どもと関わったらいいのか分からないお母さん、お父さんの手助けになります。 ・遊びでは大人が楽しむことです。楽しいことは伝染するのです。 ・子どもは“今、自分の成長にとって必要なもの”を与えてくれる人を信頼します。 例えば、お腹がすいた時にちゃんとオッパイをくれるお母さんを信頼するということです。 ・しつけはお母さんの見栄、体裁、都合のためではなく、子どもの将来を考えて行うことです。 ・子どもは周囲の大人を模倣しながら成長します。ですから、もし優しい子になって欲しいのなら子どもに優しくしてあげて下さい。強い子になって欲しいのならお母さんが強く生きて下さい。勉強が好きな子にしたければ、お母さんがいっぱい勉強して下さい。3.ボランティアとして子どもたちへの接し方、話しかけ方 ・今、子どもたちは親以外の大人の人と関わる時間がほとんどありません。日常的に、子どもたちが見ている大人は親とテレビの中の(おかしな)人たちばかりです。ですから、子どもたちが大人の人との関わり方が分かりません。平気でバカにした言葉を吐き、暴力を振るう子もいっぱいいます。イタズラをして注意しても平気で無視するか、暴言で言い返してくる子どももいます。でも、だからこそその子にとってボランティアさんとの出会いは非常に大切なものなんです。そういう場でないと今子どもたちが社会性を学ぶことも、みんなと一緒に遊ぶ体験もできないのです。 ・威張るのではありませんが、しっかりとした態度は必要です。 ・今のお母さん達は不安と警戒心が強いので、最初は身構えていることがあります。 笑顔と語りかけで警戒心を解いてあげて下さい。
2007.01.29
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先日お知らせした私が出演するテレビ神奈川の「クーパカポカポ」のオンエア日が決まりました。 2月 8日(木)/ 9日(金)/ 13日(火)です。/////////////////////////////今日は冒険クラブでした。やったことは、いつもの河原で“ばばばーちゃんのおもちつき”です。絵本、「ばばばーちゃんのお餅つき」を真似て、ボウルとすりこぎでお餅つきです。美味しかったですよ。ちなみに、餅米は友人が育てた“古代米”です。モミが赤いのです。でも、中は白いのです。普通のよりはちょっと赤っぽいですけど。去年の秋に友人の家に行った時、昔ながらの機械で子ども達と脱穀しました。野生児のように・・・イチゴ大福が絶品あとは、枯れ野原で家作りみんなで協力して素敵なお家が出来ました妖精たちです大人の妖精です
2007.01.28
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今日、セルケアワークをやりました。そこで最後にお話しした“子育ての極意”を皆さんにもお伝えしますね。簡単なことです。いつも笑顔でいること(但し、作り笑いはだめです。)これが子育ての基本です。ただし、怒ってはいけないと言うことではありませんからね。怒りでも、悲しみでも色々な感情があってもいいのです。怒りも悲しみもあるからほんとの笑顔が出てくるのですから。でも、ベースはやっぱり“笑顔”なんです。大人にとっても、子どもにとっても笑顔は“自分の人生を肯定的に生きようとする意志の現れ”なのです。だからこそ大切なんです。○○教育とか、○○教室、また○○育児法をやってもこの“笑顔”がなければ全ては無駄です。“子どもを愛せない”と苦しんでいるお母さんは多いですが、そんなこと関係ありません。愛せなくても笑顔があれば子どもはちゃんと育ちます。また、愛情も湧いてきます。笑顔がないのは亭主のせいだ、子どものせいだなどと言わないで下さいね。子どもの笑顔は大人が作るものですが、大人の笑顔は自分で作るものなのです。自分の心とからだであり、自分の人生なんですから。(歳を取ってから“あんたのせいで・・・”などと、ご主人や子どもにグチを言わないで済むようにしましょうね。人生は取り返しが付きませんから。)そして、この笑顔を支えてくれるのがセルフケアの技術なんです。セルフケアは心とからだの状態を切り替える術なのです。ということで、3/15(木)に横浜でも“セルケアワーク”をやりますよ。詳細はまだ未定です。/////////////////////////////一昨日、お母さん達の勉強会で「表現」というテーマでワークをしました。以下は、あるお母さんのその時の感想です。そこで印象に残ったのは、表現しているときは、「表現している自分」対「聞いている人たち」になるので表現している自分だけがとても際立ってしまう、ということ。自分だけが目立つ・他の人と違う。確かにちょっとひるんでしまいますね。皆さんにも体験がおありでしょ。人には目立つのが好きな人と、目立つのが嫌いな人がいます。そして、胆汁質の人は目立つのが好きです。多血の人も恥ずかしいけど嫌いではありません。でも、粘液とか憂鬱の人は目立つのが苦手です。ただ、難しいのは憂鬱で、目立つのが嫌いな癖に、目立つことをするのです。また、目立つのを嫌がる癖に、誰にも見てもらえないと悲しくなってしまうのです。このように表現は気質によっても大きく影響されています。そして、日本人の多くの人の表現は粘液と、憂鬱の人たちのそれに似ています。以下にもう少し詳しくその気質と表現の関係について書いておきますね。胆汁の人の表現はかなりオーバーです。語気も身振りも表情もはっきりしているし、筋も通っているのですが、話の内容はそれがそのまま事実かどうかは疑わしい場合が多くあります。人にもよりますが、胆汁の人はそれが事実かどうかより、相手に受けるかどうかの方を大切にする傾向があるからです。(自分では気付いていない)ですから、人の話を聞いただけなのに、まるで自分が見たり、体験したかのように生き生きと話します。そして、当事者でもないのに当事者のような意見を言います。客観的な位置に立つことが苦手なのです。また、他の人と同じ表現を嫌います。オリジナリティーがあるのです。多血の人は、粘液や憂鬱の人たちといると比較的おとなしいです。多血が元気になるためには胆汁の火が必要なんです。ですから、多血の人は胆汁の人といる時にはおしゃべりで、活動的で、生き生きとしています。そして、胆汁の人を喜ばせ、火に油を注ぐようなことをします。でも、多血の人だけの集まりの時にはただ楽しいおしゃべりが弾むだけで行動にはつながりません。多血の人はおしゃべりが好きです。からだを動かすのも好きです。また、明るく楽しいので周りの人も楽しくなります。でも、流行に影響されやすく、一つのことに腰を落ち着かせることが出来ません。粘液の人は表現することにあまり興味がありません。でも、他の人の表現を見たり聞いたりするのは好きです。絵を見たり、音楽を聞いたりしていると気持ちが落ち着きます。描くことも好きかも知れませんが、それを人に見せようとは思っていません。とにかく、何か一つのことに“浸っている”のが好きなんです。人を喜ばせようとして話しを面白おかしく話すことはあまりありません。粘液質の人によっては、面白いかどうかより、それが事実かどうかの方が重要な問題だからです。内面には豊かな感情があるのですが、他人の目には何を考えているのかよく分かりません。表情にも出ないし、声の抑揚も少なく、発言もしないし、行動もしないからです。流行も気になるのですが、付いていけない自分を感じています。憂鬱の人は意外なことに表現するのが好きです。胆汁と同じように自己実現欲求は強いのです。でも、矛盾するようですが目立つのは怖いのです。“苦手”という感情ではなく“怖い”のです。(粘液の人は苦手なだけです)ですから、空想やお絵描きや手仕事などの“一人仕事”の中で自分を実現しようとします。でも、そのくせ“誰かに分かってもらいたい”という感情も強いのです。ですから、作品が褒められると喜びます。自分が目立つのは怖いのですが、作品が褒められるのは嬉しいのです。絵描きでもそういう人がいました。個展までやっているのに、個展の会場にいるのは嫌なんです。また、それでもどうしても人前で表現しなければならないような時には“過剰な表現”をします。過剰な表現をすることで逆に自分を隠そうとするわけです。ですから、その子の普段の様子を知っている人は驚きます。また、(たとえですが)人に見られるのが恥ずかしいので顔を隠して歩いて、余計に目立ってしまうような矛盾したことをやってしまいます。(本人は気付いていない)どうですか。あなた自身、そして周りの人の表現を理解する手助けになりましたか。ちなみに実際には気質は混ざり合っていますから、この状態が全て当てはまると言うことではありませんからね。典型的なパターンを書いているだけです。子どもの表現を誘導するためにはこのような気質のことも知っておく必要があります。そうでないと、表現を誘導するための行為が、逆に表現を止めてしまう結果になってしまうことも考えられますから。お呼び頂ければ気質のワークしますよ。(基本的には6回で1クールですが、お試しで一回だけでも可です。)
2007.01.27
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最初にちょっとお知らせです。28日の「冒険クラブ」(ばばばーちゃんのおもちつき)は、雨天の場合は2月18日(日)に延期します。開催の有無は、当日の朝、ブログとメールでお知らせします。ご確認をお願いします。****************************ここまでに書いてきたように、日本では芸術や表現は個人のものではなく集団に属するものでした。ですから、その人がどのような表現をするのかでその人がどのような集団に属しているのかが分かったのです。そして、そのような集団がそれぞれ役割分担を引き受けながら社会の秩序や文化を保っていたわけです。それは、300年にも亘る長い長い鎖国の結果だったのだろうと思います。その鎖国の間に組織や役割が固定され、人々が空間的、職業的に移動しなくなり、ただ親から受け継いだものを子に伝えるだけの社会が300年も続いたわけです。その退屈を埋めるために世界に誇る素晴らしい文化が生まれたわけですが、変化を嫌う幕府は個人の自由な表現を認めませんでした。(何度も個人の過剰な表現に対する幕府からの規制が出されたようです。)それに、集団で活動させていれば上からの命令も伝え易いわけです。先の戦争の時も、地域の中に集団組織を作ってそこで個人を管理、監督させました。キリスト教会も本来一つ一つが独立していたものを、日本キリスト教団というものを作ってそこに参加させ、管理しました。でも、現代ではそのような個人を縛る集団は消えました。ですから、私達は他の人の迷惑にならない範囲でなら、自由に考え、自由に行動してよいわけです。ところが、どうも組織に依存し、束縛されていた頃の記憶がDNAの中に残っているようなのです。狭い檻の中に飼われていた動物は広い野山に放しても、狭い範囲でしか行動出来ません。ジャンプすると頭がぶつかるような低い天井の箱の中で飼われたノミは、外に出してもジャンプしなくなるそうです。檻や壁がなくなっても、その記憶によって縛られてしまうからです。その亡霊を消すためには実際に行動してみるしかないのです。それはそんなに難しいことではありません。ただ、思いついたことを試してみる。伝えたいことを言葉にしてみる。やってみたいことをやってみる。感じたことを他の人に伝える。それでいいのです。最初は怖いかも知れませんが、それが表現の始まりであり、芸術の始まりなんです。“芸術って素敵ね”と美術館に行ったり、音楽会に行っても、この自分を表現する怖さと向き合えなければ芸術はファッションに過ぎません。そして、その怖さと向き合えない人は子どもたちの表現を受け止めることも出来ないし、また表現すること、そして芸術を通して子どもたちを育てることも出来ないわけです。
2007.01.26
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昨日からの続きです。どうして、日本人にとっての芸術の意味をしつこく書いているのかというと、それは“日本人にとって芸術とは何か、表現すると言うことはなんなのか”ということをきちんと考えた上でないと、日本の教育の場に芸術や表現を持ち込む込んでも意味がないからなのです。そうでないと、総合学習の二の舞になってしまいます。“自分で考える力を育てる”などといっても、自分で考えることが出来ない人たち(先生)にそれを任せても無理だったのです。まず、大人が自分たちが“自分たちには何が足らないのか、何が問題なのか”ということを考えることとが必要なのです。そして、その自分たちの問題と取り組む作業と並行して子どもたちの授業を進めるべきなんです。そうでないと未来永劫日本の教育は変わりません。欧米にも芸術があり、日本にも芸術があります。それは昔から変わりません。でも、欧米の芸術と日本の芸術は同じではありません。それを昨日書きました。つまり、欧米の芸術は個人の表現ですが、日本の芸術はある集団によって守られ、受け継がれるべき“様式”であるということです。そしてその枠内なら個性が認められますが、その枠からはみ出た表現は許されないのです。その様式を守るために存在してきたのが“家元”という制度です。つまり、日本では表現は個人ではなく流派、派閥に属するものなのです。そして、その様式は高度に複雑化していますから、一般的な庶民がそう簡単に真似したり、取り組んだりするなどということは出来なかったのです。ギュスターヴ・モロー(19世紀に活動した、フランスの象徴主義の画家である)という画家がいました。彼の弟子にマチスとルオーという二人の巨匠がいます。でも、この三人の絵は全く違います。技法もテーマも全く違うのです。でも、絵画が個人の表現ならそれはまったく自然なことです。師匠は弟子達に技術を教えます。でも、それだけです。そこから先の“表現”は弟子が自分で発見し、創り出すものであって、師匠が教えることではないのです。(ただ、その技術と表現は切り離せない部分も多いので最初のうちは結果として似てしまいますけど。)でも、日本の絵画教室の発表会に行くとみんな先生と同じ絵を描いています。全てではないでしょうけど、先生もまた、自分と同じような画風でないと認めない人も多いようなのです。狩野派の画家は狩野派の絵を描かなくてはなりません。“別の派のここが素敵”と勝手に別の派の描き方を取り入れることは出来ないのです。そんなことしたら破門されてしまいます。武術でも、先生から学んだ型をそのまま受け継ぐことでその流派の名前を使うことが出来ますが、自分の創作を入れてしまったら別の一派を作って出ていくしかないのです。そして、日本の学校教育でも同じことが行われています。音楽でも絵画でも先生はそれを表現としては見ていません。また、表現としてみてしまったら点数など付けることが出来ないはずなんです。ですから、日本の学校教育では芸術は様式を教える時間になっています。“空は青く、木は緑で、はみ出さないように塗る”、これは技術ですらありません。ただの労働です。そして、先生がその家元になっています。日本における様式文化、家元制度は芸術の世界だけの話しではないのです。学問の世界でも、政治の世界でも、科学者の世界でも、医者の世界でも似たような状態がはびこっているのです。そして、国語や算数を教える時でさえ、先生は家元のように振る舞います。ですから、分からないところに対する質問は受け付けますが、子どもの意見、考えは受け付けないのです。子どもが自分の意見を言うと“生意気だ”ということになってしまいます。また、昨日は“自問自答文化”という言葉も使いましたが、教室もそのような状態で閉じてしまっています。クラスでトラブルがあっても先生は自問自答を繰り返すばかりで、それを公にしたり、他者の協力を求めようとはしません。ですから、自問自答の末、精神を病んでしまうのです。子育て中のお母さんもまた同じです。私は、日本人のこのような状態はその気質から出ているのだと考えています。日本人は憂鬱質と、粘液質が強い国民です。そして、憂鬱質の人は変化を怖がります。粘液質の人は変化が怖くはないのですが急激な変化にはなかなかついていけません。新しい環境になかなか感覚が慣れないからです。憂鬱質の人はパッと動けるのですが、不安から過剰に新しい環境に適応しようとしてしまいます。(不安がないと動かないのですが・・・)明治維新の時も外国からの圧力でようやく開国したのに、開国した途端に過剰適応してしまいました。先の終戦(敗戦)の時も同じでした。**************************以下は、「伝統文化・宗教充実を」と題した「教育基本法改正受け素案」です。昨日の朝日新聞の朝刊からの抜粋です。<略>基本法の改正で、国語や社会、音楽、美術などで伝統・文化に関する教育を充実することが明記された。素案では、その具体的な例として、小学校での古文や漢文の音読・暗唱を示した。おいおい、古文や漢文が日本の伝統・文化のメインかよ・・・。 宗教教育では、中学校の社会で世界各地の宗教の特色や役割に関する指導の充実を目指す。道徳については「内容、形式両面にわたる見直し」とし、高校での社会奉仕体験活動が例示された。どの宗教をどのように教えるんでしょうか。ちなみに、先日も書いたように、日本には日蓮宗、浄土宗、真言宗、禅宗(他色々あります)など色々な宗教がありますが、仏教という宗教はありませんからね。みんな教えも信仰対象も違います。また、クリスチャンでもない先生がキリスト教をどのように教えるのでしょうか。偏見が入らないでしょうか。<略> 教育再生会議が提言する見通しになっている授業時数増加については、多くの学校が取り組んでいる朝の10分活動を授業時数に計上することや、長期休業日の活用などを例示したが、増やすとは明言しなかった。朝の読書の時間が消えないことを祈ります。
2007.01.25
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私には西洋と日本の文化の違いについて一つの仮説があります。それは西洋の文化は“他者との対話”で成り立ち、日本の文化は“自分自身との対話”で成り立っているということです。簡単に言うと、日本の文化は“自問自答”によって支えられているということです。言い方を変えると“内省的”とでも言えるのでしょうか。他者との対話が成り立つためには相手との対等な個の個性が前提として認められている必要があります。そうでないと対話は成り立たないのです。でも、日本の社会では“役割を果たす”ことは求められても、個人の個性を求められることはあまりなかったように感じるのです。それは現代でも政治家が個性を持つ個人としてではなく、ただの“数”として動員されている現実を見ても分かる通りです。日本では個性を主張しようとするとつまはじきに会うのです。西洋では対話によって社会を運営しています。それが民主主義です。でも、日本には対話によって社会を運営するシステムはありませんでした。では、どういうシステムで社会が運営されていたのかというと、様式や型や前例という基準によって社会が運営されていたのです。そのため、日本では様式や型というものが非常に重要な意味を持っていたのです。一人一人が役割に合った様式や型を身につけているのなら、対話などなくても組織の運用は可能なんです。ただし、危機管理はできません。このシステムは様式や型からはずれるトラブルには非常にもろいのです。でも、トラブルがない限り対話を必要としないのですから非常に効率的です。日本人は他者と対話することが苦手です。でも、人は対話をしないことには自己を見つめることも出来ないし、成長も出来ません。じゃあ、どうしていたのかというと“様式”や“型”と対話したのです。日本の文化の中では、“様式”や“型”が他者として機能していたのです。ですから、武士も、宗教家も、芸術家も様式や型と対話しました。そして、自己を深めていったのです。私はそれを“自己対話型文化”と呼んでいます。そして、日本の芸術もまた非常に様式的でした。日本人にとって、芸術とは個性の表現ではなく、様式美だったのです。そしてその様式を守るシステムが“家元制度”だったのです。日本では、絵画でも音楽でも踊りでも武術でもみんな“個人”ではなく家元によって守られていたのです。ですから、明治になって欧米の芸術が紹介された時も日本人はそれを“表現”としてではなく“様式”として受け止めました。ですから、それまでの日本の様式は芸術ではないのです。“芸術”の様式に合っていないからです。でも、西洋の人は芸術とは“個人としての表現”と考えていました。ですから、日本の独特な芸術に接してその“表現”に驚嘆し、素直にその素晴らしさを認めたわけです。でも、だからといって日本人のように、それまでの自分たちの表現を否定はしません。表現という視点では同じだからです。“印象派”とか“キュービズム”などという“派”は、家元によって守られた日本の“狩野派”などとは違い、ただの“個人的な流行”に過ぎないのです。日本人は民主主義も様式として理解しました。学校も様式として理解しました。だから中身がないのです。当然、危機管理も出来ません。「自問自答文化」は他者を嫌うのです。ですから、政治の世界でも、学校でも、会社でも他者を入れません。トラブルがあっても内部調査しかしません。また、議論を嫌います。議論は他者を作り出すからです。また、“私はそう思いません”とか、“それは違うのではないでしょうか”という意見を嫌います。そして、そういう意見を言う人は他者として排除されます。そういう風土なので、自分の考え、感情、感覚を素直に言うことを肯定的に受けいれることが出来ません。子育てが難しくなってしまうのもそこにも原因があるのです。なぜなら、それらは“個”に属することであり、“個”を認めてしまったら“他者”が生まれ、“対話”が必要になるからです。でも、その自分の考え、感情、感覚を素直に言うことから始めないと、個も成熟していかないし、対話も芸術も生まれないし、一人一人が自立出来ないのです。でも、そういうことを言うと、必ず“それでは身勝手な人ばかりが増えてしまう”と言う人が出てきます。そういう人は、様式や型からはずれた人を認めません。それを“身勝手”と言います。でも、そうではないのです。他者と対話が出来ない人こそが“身勝手な人”なんです。そして、そういう身勝手な人が学校や政治の世界にはいっぱいいます。
2007.01.24
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昨日はそこでからだにアクセスすることと、“表現”ということが意味を持ってくるのです。ということで終わりました。今日は、その中の“表現”についてちょっと触れてみます。19日のブログにそんなことを色々と考えていて見えてきたのは、“芸術”を特徴づけているのは、その“作品”でも、その作品の扱われ方でもなく、それを作る人の心の働きなのではないかということなんです。それはつまり、何かを求めて、その求めたものに形を与えようとする精神的な追求が“芸術”を生み出しているのではないかということです。ということを書きました。この、“求めたものに形を与える行為”こそが、芸術としての“表現”ということなのです。ただし、芸術は必ず表現を必要としますが、表現されたものが全て芸術というわけではありません。誰でも分かるように、お腹がすいた時に“お腹がすいた”と表現するのも、嬉しい時に“嬉しい”と表現するのもそれだけでは芸術ではないのです。でも、これが芸術への入り口であることを多くの人は気付きません。“表現”は必ずしも芸術ではありませんが、表現しないことには芸術は生まれないのです。嬉しい時には“うれしい”と言い、悲しい時には“悲しい”と言う延長に芸術が存在しているということです。それは、人間は自分を表現する行為を通して自分と向き合い、対話する能力を育て、しいては何らかの“追求”が可能になるからなのです。哲学のような内面的な活動でさえ、言葉化するという表現に頼らないことには追求出来ません。武道家は実際にからだで試してみる(表現する)ことで追求します。科学者は実際に作ってみる、試してみるという表現方法で研究を追求していきます。でも、日本人はその“表現”が苦手です。特に、“自分自答”するような表現は得意ですが、人に向けた表現が苦手です。実際、嬉しい時に嬉しいと言い、苦しい時に苦しいと言うことすらなかなかできない人がいっぱいいるのです。なぜなら、そういう表現を“はしたない”と感じる感性が日本人には強くあるからです。そのため、中世の頃からそのような“表現”を生業とする人たちは社会の中で最下層の人たちか、アウトローの人たちばかりでした。特に、アウトローの人たちは社会の枠に支えられていなかったので、表現という手段なしには生きていけなかったのです。そして、多くの日本人は自分たちが表現出来ないものを自由に表現する人たちを見て笑い、共感することで、自分の中の表現欲求を満たしていたのです。でも、それはカタギの人がやることではなかったのです。日本にも“職業カースト”があったのです。そのため、自分で表現が出来ない人々は、それを専門にする人たちの表現を贔屓(ひいき)することで自分の表現に代えていました。日本の芸術は庶民が実際に行うのではなく、この贔屓によって支えられていたのです。浮世絵も、ものすごく流行していたようですが、自分で作ったりはしませんでした。歌舞伎も落語も人気があったようですが、それらも自分たちでやるものではありませんでした。特にそれは中・上流階級において強い傾向でした。ただし、社会の下層にいる職人や農民は芸能ととともに生きていました。それしか楽しみがなかったからです。つまり、日本の社会では、“表現する”と言うことはあまり高尚なこととは考えられていなかったわけです。そして、この文化はしっかりと現代にまで受け継がれています。いわゆるオタク文化も、アニメ文化、ブランド文化も同じです。“オタク”と呼ばれる人たちは“集めること”(贔屓すること)で、それを自分の表現に代えているのです。(ですから、日本は昔からオタク文化だったということです。)でも、実際にはそれは表現ではありません。それは一つの執着の形なのです。自分では表現出来ないことを何かに執着することで代弁してもらっているのです。ですから、その事に関してどんなに詳しくなっても自己との対話も深まらないし、芸術にも、精神的な成長にもつながらないのです。ただ、そのオタク的な収集物、知識を積極的に他の人にも伝えようとする時にはそれは表現に変化します。でも、テレビなどでオタクの生態を見ていると、それが出来ないような人が“オタク”にはまってしまうように感じるのです。ということで、また明日に続きます。以下は宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」(全文はここで。)からの抜粋です。先日から私が書いてきたこととつながっているのでここでご紹介します。****************************「農民芸術概論綱要」 宮沢賢治 農民芸術の分野……どんな工合にそれが分類され得るか……声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる準志は多く香味と触を伴へり声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす光象生活準志によりて 建築及衣服をなす光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず行動準志と結合すれば 労働競技体操となる
2007.01.23
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今日も昨日と同じ言葉から始めますね。成長欲求は生きる意欲と密接につながっているので、成長欲求がない子は生きる意欲も乏しいのです。なぜならこの言葉は子どもの様々な問題を考える時に非常に重要だからです。人間以外の動物は生まれてしまった以上必死に生きようとします。“与えられたから守る”というだけのことで、そこに意味や理屈など必要ないのです。人間だけが、“与えられた命を守る”こと以外に生きる目的、意味を求めるのです。どうしてそういうことになってしまったのかというと、人間は成長するために生まれてくるからなのです。人間の特徴である“長い子ども時代”はその成長のために必要なのです。ですから、成長することを阻害された子ども、成長欲求を失った子供は子どもでいることが辛くなってしまうのです。じゃあ、そういう子供にまた生きる意味、生きる喜びを伝えるためにはどうしたらいいのかというと、子どもの成長を阻害する要因を取り除き、成長する喜びを体験させる以外にないのです。ただし、昨日も書いたように一度そのような状態になってしまった子どもは阻害する要因を取り除くだけでは前に進めません。大人が条件を整えても、待っているだけでは動けないのです。子どもの心の中に、心の動きをブロックする何かが固まりとして存在しているからなのです。じゃあどうするのか。そこでからだにアクセスすることと、“表現”ということが意味を持ってくるのです。明日に続きます。
2007.01.22
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昨日の最後にまた、成長欲求は生きる意欲と密接につながっているので、成長欲求がない子は生きる意欲も乏しいのです。さて、それではそういう子どもたちにもう一度子どもらしさを取り戻してもらうにはどうしたらいいのか、それを明日考えてみます。と書きましたが、実はこれが非常に難しいのです。(だから幼児教育の大切さを説いているわけです。)人間は赤ちゃんの時には誰でも成長欲求に満たされています。ですから、子どもが求めるもの、必要とするものを適当な時に、適当な量、適当な形で与えていれば、子どもは自らの力で自分の成長欲求を伸ばしていきます。でも、そのようなものが満たされない状態が継続したまま育ってしまっていると、子どもはそれらを必要としないメカニズムを自分の心とからだの中に作り上げてしまいます。そうしないと生きていけないからです。目が見えない子どもが聴覚で目の働きを補おうとするのと同じで、満たされないものを別のもので補おうとするのです。生き生きとした感覚、感情体験が乏しい子はそういうものに対する感受性を鈍くして対応します。愛情の乏しい環境で育った子は愛情を求めることを止め、それを別のもので満たそうとします。からだでの体験が乏しい子は、それを空想や妄想で補おうとします。そして、その状態が長く続くほどその状態が固定してしまい、元には戻りにくくなるのです。それでも、10才前の子どもならまだ大人が子どもとの関わり方を変えることで大きく状態が改善されることもあります。でも、その状態が思春期まで持ち越してしまうとなかなかやっかいです。もう大人の影響が子どもの深いところに届きにくくなってしまうからです。あとは、本人の自覚が必要になります。本人が“自分を変えたい”と願えば変わります。でも、そう願わない人は変わりません。それはその人の運命なのです。今、“10才前の子どもならまだ大人が子どもとの関わり方を変えることで大きく状態が改善されることもあります”と書きましたが、でも、それは簡単ではありません。愛情が不足したまま育ってきた子は、愛情を必要としないように自分の中で心の回路を作ってしまっているので、ただ普通の子どものように愛情を与えるだけでは子どもの中に入っていかないのです。そういう子どもは大人が見せる愛情を疑い、どこまでも試そうとするかも知れません。そうすると時としてかなり困ったことになります。そして、大人がそれを受け止めきれなくなると“ほらやっぱり”と自分を納得させます。感覚体験に満たされない子は、感覚体験を与えようとすると退屈するかイライラするかも知れません。からだでの活動が不足している子は、からだを動かさせようとすると“つかれた”、“かったるい”を連発するばかりで、動けないかも知れません。そうなってしまうと、普通に子どもを育てるのとは全く別の見方、考え方、方法が必要になるのです。シュタイナー教育におけるいわゆる“治療教育”というようなものです。ただ、私は治療教育に関しては素人ですから、そちらの方面からの話しは出来ません。それでも、私なりに考えた方法を皆さんと一緒に考えるつもりで明日書かせて頂きます。皆さんも考えてみてくださいね。今、そういう子がものすごく増えていますから。そして、そういう子がいじめの中心人物になっているようにも思いますから。
2007.01.21
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人間だけが他の動物たちと違って知性を持ち、文化や文明を持つようになったのは昨日書いた“追求する心”の働きによるものなのではないでしょうか。この“追求する心”が心やからだや知性の進化の原動力になってきたのでしょう。人間の手やからだや知性がこれほど器用なのはそういう使い方をしてきたからに他なりません。実際、ただ生きていくためであるならこんなにも器用である必要はないのです。その証拠に人間以外の生き物たちはわずかな得意能力だけで生き延びているわけですから。先日、「学校へ行こう」というテレビ番組で有名な体操選手をいっぱい育てている高校のレポートをしていました。そして、高校生達が普段の練習を見せてくれたのですが、全くすごい身体能力です。でも、はっきり言って実際の生活には何にも役に立たない能力です。でも、役に立たないからといって否定しているわけではありません。むしろこの役に立たないことに夢中になり、更に深く追求したいという欲求があるからこそ人間は心とからだと知性の可能性を広げることが出来たからです。縄文土器の造形美はすごいものです。縄文人の燃えるようなエネルギーを感じます。でも、あのような飾り、模様はほんらい土器には必要のないものです。あんな模様が付いていたら作るのにも手間だし、扱いにも邪魔です。でも、縄文の人たちはそれを作りたかったのです。そして人類の歴史はそのような無駄の積み重ねなんです。中でも一番の無駄は、“人は何のために生きるのか”ということを考えることです。こんなこと考えても何の役にも立ちません。でも、そういう無駄を積み重ねてきたからこそ、人間は高い精神と、知恵も知識も技術も、そしてそれを処理する心とからだの能力を得ることが出来たわけです。でも、犬や猫のような他の動物でもこの“無駄なこと”を一生懸命にやることもあります。それは子どもたちです。人間以外の動物たちでも成長過程にある子どもの時には無駄なことをいっぱいやるのです。そして、この“意味のない無駄なこと”が、大人になった時の能力を支えているわけです。そして、人間は大人になってもそのままです。だから、ずっと成長することができるわけです。でも、最近人間の子どもたちがその無駄を遊ぶことが出来なくなってきているようです。なぜなら、その無駄な時間や好奇心をテレビ、ゲーム、おもちゃそして塾に奪われてしまっているからです。それで、子どもらしくない子どもたちがいっぱい出現しているのです。このような子どもたちは便利な道具がないと生活出来ません。自由な時間が与えられても退屈します。“自分で考えなさい”と言われると困惑します。からだを使うとすぐ疲れます。そして、すぐムカツク、イラツク、かったるいと言います。そして、成長することに興味を示しません。これが今の子どもたちの一番の問題なんです。成長欲求は子どもらしさの一番の特徴のはずなんですが、それが消えてしまっているのです。(大人でも成長欲求の強い人は子どものようです)また、成長欲求は生きる意欲と密接につながっているので、成長欲求がない子は生きる意欲も乏しいのです。さて、それではそういう子どもたちにもう一度子どもらしさを取り戻してもらうにはどうしたらいいのか、それを明日考えてみます。
2007.01.20
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昨日の補足です。今日は朝のうちにアップします。昨日は時間がなかったので、話しを随分とはしょってしまいましたから。“芸術とは何か”ということを考えていった時、色々なことが頭に浮かびました。先ず、“調和”や“美しさ”かなということです。でも、わざと調和や美しさを壊した芸術も存在しますし、調和と美しさだけなら自然界にもいっぱい存在します。それもまた“自然の芸術”、“神様の芸術”と表現することもあるでしょうが、それは人間にとっての芸術からの転用であって本来の芸術の意味で使われているわけではないと思います。それに、Artという言葉自体が、語源的にもともと“自然的なもの”と対立する意味を持っているようなのです。また、“精神性”も考えました。でも、芸術を作る人は精神性を考えて作っているわけではありません。高度な精神性は結果としてその作品に込められてしまうだけで、それを意図して作品を作っているわけではないのです。そんな風に色々と“芸術とは何か”ということを考えていくと、“芸術”とは、どうも“人間らしさの一つの形”ということになるようなのです。では、“芸術”という言葉で現される“人間らしさ”とは何なのかと考えていった時、それは“追求”ということなのではないかと思いついたのです。文明も文化もその追求の結果です。人間以外の動物たちは追求しません。猿は道具を作り、使うと言われていますが、その道具は用が足りればいいだけであって、“もっといい道具”を作ろうと追求することはないのです。 マルセル・デュシャンが工業製品の便器を自分の“作品”として展示しようとした話しは有名ですが、そこでは工業製品そのものが“芸術”なのではなく、その便器を“芸術作品として扱うという行為そのものの中に、彼なりの“追求”があったのではないかと思うのです。芸術の世界には私達の常識を越える“作品”がいっぱいあります。わざと破壊を見せる作品すらあるのです。私の趣味ではありませんが、美しくもなく、調和も取れていない“芸術作品”もあります。また、人に見せる作品が“芸術”かというと、作った作品を発表しない芸術家もいれば、人に見せる目的でない芸術作品もあります。かのレオナルド・ダビンチの「モナリザ」も、彼はずっと手元に置いたままで描き続けました。人のためではなく、自分のために描いていたのでしょう。ですから、芸術作品という“結果”だけを見ていても、“芸術とは何か”ということは全く見えてこないのです。そんなことを色々と考えていて見えてきたのは、“芸術”を特徴づけているのは、その“作品”でも、その作品の扱われ方でもなく、それを作る人の心の働きなのではないかということなんです。それはつまり、何かを求めて、その求めたものに形を与えようとする精神的な追求が“芸術”を生み出しているのではないかということです。これは、絵画でも美術でも技術でも技能でも同じです。そして、その追求を支えているのが“自己との対話”だということです。つまり、ただの対話ではなく“追求のための対話”ということです。ですから、その対話のためだけに絵を描き続ける人もいます。また、精神的な修行のために絵を描く人もいます。シュタイナー教育における“ぬらし絵”もそのような目的を持つもののようです。ちなみに、追求に似たものに“執着”があります。子どもがテレビゲームに夢中になるのも“執着”です。でも、一生懸命に絵を描いたり、工作をするのは追求です。経済活動は執着によって成り立ち、文化は追求によって成り立っています。追求は自己との対話を求め、そして“執着”は自分との対話を否定します。
2007.01.19
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“芸術”とは何なんでしょうね。ちなみに、私達は絵画やクラシック音楽などを芸術と呼んでいますが、まずそこから考え直した方がいいですね。芸術は英語ではArtですが、Artという言葉を辞書で引くと“芸術, 美術; 技術, 技能; ”と出ています。つまり、本来的に職人的な仕事も、手仕事もArtなんです。でも、日本語に訳した時、職人的な仕事や手仕事を芸術と呼ぶことはありませんよね。その辺から、日本人の“芸術観”が偏っているのだと思います。つまり、日本の伝統美術と欧米から来た鑑賞用の美術を分けて、後者のみを芸術と呼ぶようになったのでしょう。では、“芸術, 美術; 技術, 技能; ”に共通して流れているものは何でしょうか。私は、それを“自分自身との対話によって生み出されたもの”と解釈しています。絵画は色や形などを媒介として、自分の感覚や心との対話によって生まれたものでしょう。技術は、自分のからだや知識と“物”との対話によって生まれたものでしょう。これは実際にやってみればすぐ分かることです。絵を描く時にも、詩を書く時にも自分自身との深い対話が必要なんです。その深い対話が出来ない人は芸術的な活動はできません。でも、“お茶を飲む”という単純な行為ですら、“今ここにいる自分”との対話の結果ならそれも芸術です。それが“一期一会”です。自分との対話は内面的なことですが、それが形に現れる時“美”になるのです。ですからマニアル通りに動いているだけ、ノルマをこなしているだけの活動は芸術にはなりません。ですから、芸術や手仕事などの活動は子どもたちに自分の心との対話を促すのです。それが、思考の目覚め、意識の目覚めの基礎になっていくのです。そしてまた逆に、自分との対話を楽しむことが出来る子は芸術的な活動や手仕事を楽しむことが出来ます。(ゲーム漬けの子は自分との対話が苦手なようです。)ちなみに計算がいくら速くてもそれは“反射”です。文字をいっぱい覚えるのも反射です。結果が決まっているものは自分との対話を必要としないからです。明日に続きます。
2007.01.18
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今日は“まりすけどん”さんから頂いたコメントから話しを進めます。(ということで、コメントへの返信は省略させて頂きます。)> ただし、上手下手にこだわったり、ノルマがあったりしたら余計疲れます。意識が心とからだの統合をさまたげるからです。 そうそう、学校の中では、せっかくの芸術の時間なのに、他人と比べ下手だ、自分はできないとか、苦手だとか思う心が強まっていましたね。そして、「芸術」と聞いただけでとても縁遠く感じるようになりました。このごろ少しずつ生活のすぐそばにあるもんなんだ!と感じるようになってきました! (2007.01.17 11:33:03)どうしてこのようになってしまったのかというと“芸術”は明治になって欧米から輸入された新しい概念だからなんです。もちろん、日本にもそれ以前から芸術はありました。でも、その芸術は美術館に飾るものでも、鑑賞するものでもなく生活の一部としてあったのです。さらには、人々の立ち居振る舞いの全てが芸術だったのです。だから、しつけは“躾”という文字で書かれてきたのです。でも、明治になって“飾るもの、鑑賞するものとしての芸術”がやって来ました。そして、人々の生活の中から芸術が消えていきました。“芸術”と“生活”が分離してしまったのです。昔の人たちの身体繰法も、スポーツの到来と共に同じ運命をたどりました。日本にはそれまでスポーツなどありませんでしたが、身体能力に関しては欧米人に劣らなかったのです。それは生活の中で高度なからだの使い方を身につけていたからです。まあ、この話は以前も書いたことですから、ここらへんで止めておきます。さて、“生き方を育てる”という話しの延長でここまで来ました。覚えていらっしゃいますか。長い話しでごめんなさいね。この長さ故に読者が増えないのでしょうね。突然来られても訳が分かりませんからね。まあ、でもそれがこのブログの“味”だと思ってお付き合い下さい。それで、今日私が書きたいことは“7才までにからだの使い方、手の使い方を学ぶことが、子どもが自分の人生の生き方の基礎を学ぶことにつながるのです”ということなんです。7才までの学びにはそういう意味があるのです。それはどういうことかというと、この時期の子どもたちはからだの使い方、手の使い方を学ぶことを通して脳の基礎的な神経回路を育てているからなのです。からだや手の使い方と、生き方がつながっているなんて突拍子もない発想のように聞こえるかも知れませんが、でも、実は人間の脳はそういう点では実に単純なんです。その人の、思考パターン、行動パターンは状況や対象が変わっても基本的には同じことを繰り返すからです。つまり、大切なのは“思考パターン”の形成なのです。7才までの子どもは、様々な体験を通して形成されたそのパターンが脳神経に組み込まれるのです。そういう時期なんです。だから、7才までに体験したことはなかなか抜けないのです。そして、これは手の使い方、からだの使い方を通してでも育てることが出来るのです。そして、それがそのまま生き方として転用されるのです。ここで、“生き方とは何か”と考えてみましょう。“生き方”とはなんだと思いますか。難しく考える必要はありません。簡単なんです。それは、自分の心とからだの使い方、時間の使い方、空間の使い方、知識の使い方、経験の使い方に過ぎないのです。それが“自分の人生の使い方”であって、それを“生き方”と呼んでいるのです。違いますか?そう考えてみると、手仕事や芸術的な活動を通してでも生き方を学ぶことが出来るということがお分かり頂けるでしょうか。******************全然関係のない話題です。家内がお店から納豆が消えたといっていました。うわさは事実のようです。うちでは昔から毎朝納豆を食べているので困ります。どうして日本人はこうも洗脳されやすいんでしょうか。納豆を返してくれ・・・・・。
2007.01.17
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14日のブログにでも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”分野もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。ということを書きました。これは本当に不思議なことです。社会全体としては便利を求めてどんどん進んできましたが、それでも不便なままの手仕事を求め、楽しむ人たちがいるのです。私の遊びのワークでは手仕事がいっぱいです。そんなワークに子育てで疲れているはずのお母さん達がやってきて、モクモクと手仕事に夢中になり、“楽しかったです”、“ストレスが取れました”、“楽になりました”と言ってくれるのです。ここでひと言付け加えると、そのようなワークには手仕事が好きな人、手仕事が得意な人だけが集まっているわけではありません。“やったことがないんです”、“苦手なんです”という人がいっぱいいるのです。それでも、帰る時には“楽しかった”と言ってくれるのです。絵を描くことも同じです。“子どもの時は絵が嫌いでした”とか、“絵を描くのは苦手です”という人が、“こんなに楽しく絵を描けたのは初めてです”などと言ってくれるのです。どうしてだと思いますか。簡単に言うと、“充実感”があるからです。どうして充実感があるかというと自分と対話が出来るからです。他人の目や、様々な刺激に縛られていたフォーカスを自分自身の内側に向けることが出来るからです。それはどうしてなのか・・・。手を使うからです。手に意識を集中すると、心とからだが統合されるのです。ただし、上手下手にこだわったり、ノルマがあったりしたら余計疲れます。意識が心とからだの統合をさまたげるからです。手仕事をしていると、色々なことを考えることが出来ます。しかも、冷静に考えることが出来ます。思考が迷路に入らないのです。これは全く不思議なことです。意識的に手を使うことで脳みそが目覚めるのかも知れません。見ることに集中すると人は緊張します。でも、感じようとすると、からだがゆるみます。目は疑いを引き起こし、感覚は納得を与えてくれます。だから、芸術は癒しを与えてくれるのです。ということで、また明日。
2007.01.16
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宗教については微妙な話題なので昨日一日でさっと通り過ぎるつもりでしたが、今日も少し触れさせて頂きます。但し、以下に書いたことは私の個人的な考えですから、もし異論反論がおありの方はどんどんコメントにお書き下さるようお願いします。昨日、 e-Hypericumさんからアニミズムなんだろうな、と思います、私。そういう人多いと思うのですが。というコメントを頂きました。それに対して、私はアニミズムは宗教であると同時に宗教ではありません。子どもの心の世界はここからはじまっているからです。そこに、社会に受け継がれる「物語」が伴っている時、大人にとって「アニミズム」という宗教になるのではないかと思っています。とお返ししました。ちなみに、“物語”の他に“儀式”も付け加えます。アニミズムは宗教の原点であると同時に、心の原点でもあります。幼い子どもの心は、アニミズム的な世界の中に目覚めるのです。アニミズムは子どもの哲学であり、科学なんです。そして、この子どものアニミズムに一番近い宗教がどうも神道のようなのです。でも、天皇家とつながった時点でそのアニミズム的性格が見えなくなってしまったようです。神道という言葉を聞いて軍隊や右翼や天皇家を意識して嫌な印象を感じる人でも、神道という言葉を隠して、神道のメッセージを聞くとすごくほっとすると思います。それは、神道の基本的なメッセージは様々な生命に対する思いやり、優しさ、謙虚さ、感謝という日本人の感性そのものだからです。“宗教なんか必要ない”という人が、“朝日をよろこび、今日も生きていることに感謝し、木や自然の生命を大切にし、・・・それだけでいいんじゃないですか”と語る時、それが神道の思想であることには気が付きません。実は、日本人の美意識は神道とは切り離せないのです。そして、神道は一つの“美意識の形”であって基本的なところで宗教ではないのです。なにしろ、“信仰”を求めないのですから。とにかく、その原初においては“何を信仰したらいいのか”という教義が存在していないようなのです。(国のために解釈され直された神道ではどうなっているか分かりませんけど。)神道で求められるのは信仰することではなく、祭ることなんです。祭ることで守ってもらおうというのが神道の考え方のようなのです。(神道では偉い人、立派な人だけが祭られるわけではありません。)だから、“心”より、“型”が非常に重要になるわけです。非常に日本的でしょ。また、日本は“仏教国”だといわれますが、これも大分怪しいです。確かに、仏教の流れをくんだ宗教の国ではありますが、お釈迦様が説いた仏教とは根本的に違うし、また日蓮宗、禅宗、浄土宗、密教(真言・天台)などは、これらを別の宗教と呼んでもおかしくないほど根本的に異なっています。なぜなら、日蓮宗、禅宗、浄土宗、密教では信じているものがみんな違うからです。ちなみにお釈迦様が説いた仏教は“信じる宗教”ではありません。お釈迦様が説いたのは“目覚める知恵と方法”なのです。それを“宗教”に仕立てたのは後生の人たちです。キリスト教にも色々な派があります。でも、イスラム教も含めてみんな“同じ神様”を信仰しているという認識はあります。ただ、神様との関係、付き合い方の解釈が違うだけです。でも、一神教の世界ではその関係と付き合い方の解釈が違うことが大問題なのです。それは、“どの解釈が神様に受けいれられるのか”ということであり、“どの解釈でないと天国に行くことが出来ないのか”ということだからです。でも、日蓮宗、禅宗、浄土宗、密教ではみんな違うものを信じています。ですから、どうしてこれが同じ“仏教”という枠でくくられるのかがよく分かりません。ちなみに、私はクリスチャンです。どうしてクリスチャンなのかというと、“自分の人生を他者を生かすために使う”というキリストのメッセージが好きだからです。でも、現実の私はそれとはほど遠い生き方をしていますけど・・・・。そしてこれはキリスト教の得意分野です。だからキリスト教の中からマザーテレサのような人が出てくるわけです。マザーテレサの目的はキリスト教の布教ではありません。布教のために慈善をしているわけではないのです。“自分の人生を他者を生かすために使う”ことが神様の願いだからです。ですから、人のために生きている時、神様は常に側にいてくれるのです。その喜びがあるからこそ苦しくても人のために生きることが出来るのです。“生き方”を語る時、“宗教”を避けて通ることは出来ません。なぜなら、日本以外のほとんどの国では宗教が生き方の規範になっているからです。ですから、その国の宗教を知ることがその国の人たちの生き方を知ることにもつながります。でも、日本人は自分で自分の生き方を探さなくてはなりません。そういう自覚がないとただ流されるばかりの一生を過ごすことになってしまうでしょう。これで、宗教の話題は終わりです。
2007.01.15
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人類は、不便、危険であることを嫌い、どのようにしたら不便や危険を解消出来るのかということを色々と考え、研究してきました。その結果、世の中はどんどん便利で安全になりました。今では、お料理の仕方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の機能は低下します。人間の機能はそのように出来ているのです。お年を召して機能が低下した人や、障害を抱えている人にとってはそれは意味のある大切なことだとは思いますが、今その機能を育てなければならない年齢の子どもたちにとってはそれはあきらかに子どもの成長を妨げる邪魔者です。それでも、昔のように大人の社会と子どもの社会が分離していた時代には大人の社会が便利になっても、子どもたちは外で走り回っていました。でも、今、子どもたちは大人と同じ空間で生活しています。同じ物を使い、同じ環境で生活しているのです。ですから、当然子どもたちもその“便利”と“安全”を享受しています。但し、“自分の成長”と引き替えにです。昔の子どもは平気で何時間も歩き、遊び回りました。でも、今の子どもはそんなには歩きません。移動する時には自転車を使います。何時間も子どもを歩かせるイベントもあり、何時間も歩き通す子どもも確かにいますが、でも、イベントとして歩くのと生活の中で歩くのでは心とからだに対する影響の与え方が根本的に異なります。現代人は不便や苦労を楽しみません。昔は、“若い時の苦労は買ってでもしろ”と言いましたが、今の若者にはその意味は理解出来ないでしょう。苦労したら、苦労した分のお金をもらわないことには割が合わないと思っています。最近流行の地域通貨でも同じです。“仕事をさせてくれてありがとう”という発想ではありません。どこかで元を取ろうという、現代人的な感覚がそこにはあります。ちなみに、キリスト教にも仏教にも地域通貨的な発想はありません。人のために尽くすのは自分のためだからです。だから人のために働けることを感謝します。でも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”分野もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。そして、自分の心とからだと知性と魂の全てを注ぎ込む必要があります。つまり、丸ごとで自分を投入しないことには芸術的な活動は出来ないのです。ですから、悩みのある人も手仕事や芸術に没頭すると、その間だけでもその悩みを忘れることが出来ます。そして、心とからだが楽になります。フォーカスがチェンジするからです。でも、だからこそ子どもの育ちには芸術が必要なんです。さらに、付け加えると7才前の子どもが宗教と出会うことも必要です。芸術に関しては明日以降話を続けマスが、宗教に関してはここで少し説明しておきます。日本人は宗教を誤解しています。そして、宗教を信じていないので、その代わりにお金と物を信仰してしまっています。人は何かを信じていないと生きていけない生き物なんです。それが、全ての生物の中で唯一“心を持った存在”である人間の宿命なんです。ですから、自分では無信仰だと思っていても、必ず何かを信仰しています。あなたがどのようなものを信仰しているのかは、あなたのフォーカスを探ればすぐに分かります。どんな人でも、人は必ずフォーカスに偏りがあるのです。それがあなたの信仰です。もし、その信仰が不動のものならあなたはしっかりと立って自分の道を歩くことが出来るでしょう。でも、お金や権力といった不安定なものなら、あなたの生き方もまた不安定なものになるでしょう。また、愛や慈悲という概念、考え方は宗教から生まれてきたという事実も見逃してはいけません。ただし、私は“宗教家になりなさい”とか、“洗礼や得度を受けなさい”と言っているわけではありません。幼い時に、宗教に触れることで宗教的なものの見方を知り、人間を越えた大きな力、働きに気付くことが、子どもが“自分の人生を幸せに生きる大きな助けになってくれるでしょう”ということです。子どもは純粋に、宗教の良いところを吸収する能力を持っていますからご安心下さい。大人のように宗教で喧嘩などしません。///////////////////////////“フォーカス”の補足です。フォーカスを共有していない人達がいくら話し合っても解決策は見つかりません。話し合いはまず、お互いのフォーカスを共有するところから始めるべきです。つまり、“何のための話し合いなのか”ということを明確にした上で話し合わないことには余計に亀裂が深まるだけだと言うことです。
2007.01.14
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“フォーカスのコントロール”と聞いても、初めてこのブログを覗かれた方や、しばらくぶりにおいで下さった方には何のことか分からないでしょうね。私のブログは一話完結ではなく連続で話が展開していますので、1/8あたりから読んで頂けると今日の話しの意味が通じると思います。お急ぎでない方は是非ごゆっくりとしていって下さい。お茶は出ませんけど・・・。今日から、数回にわたって“フォーカスをコントロールする能力を学ぶ方法について書いてみます。と言っても特別なことをするわけではありません。今日9729さんも時々ご指摘下さっているように私が言っていることは、分かっている人には分かっていることばかりです。でも、それが無意識であったり、言葉化されてこなかったり、整理されていないことが多いので私はそれを意識化し、言葉化し、整理して意味づけを行っているわけです。私は新しいものを創造するアーティストではなく、職人なのです。ですから、新しいことを期待しないでくださいね。と言い訳をした後で、最初に言いたいことは“子どもを機械やおもちゃ任せにしないで下さい”ということです。人類の文明が目指してきた“便利”とは、“人任せ、機械任せに出来る物やシステムを作ること”でした。そして、現代文明はそのシステムによって支えられています。でも、その結果人間はその部分の能力を失ってきました。必要が無くなってしまったからです。ですから、現代人をそのシステムから隔離して、例えば電気も水道もない森の中に連れて行って“ここで暮らしなさい”と言ったとしても、それはほとんど無理な話です。そして、現実にはそのようなことは滅多に起こりません。でも、多くの場合その部分の能力があったからこそ、その機械やシステムを作ることが出来たのだと言うことを忘れてはいけません。いま、昔の職人の技術を機械が受け持っていますが、でもその機械を作る時にはその職人の技術を参考にして作っているのです。それは、洗濯機は手仕事での洗い方を、炊飯器は専門家のご飯の炊き方を参考にして研究、開発されてきたということです。それは、もっともっと専門的な分野でも同じことが言えます。つまり、職人の技術や感を分析してSEがプログラムを設計したわけです。ですから、その職人の技が消えてしまえば新しい技術を開発するのは困難になります。SEやプログラマーにはそのような能力がないからです。また、現場でトラブルが起きた時にもその能力を持った人が現場にいないと、システム全体がダウンしてしまいます。ということは、“現代文明を維持するためには現代文明が無くても生活出来る技術を持っている人や技術が必要である”ということになるわけです。それが文明を継続的に発展させるための“危機管理”になるわけです。だからこそ、自給自足の能力がこれからの新しい文明を考える時に必要になるわけです。それをフォーカスという視点から考えてみます。物や機械にはそれを使う人のフォーカスをコントロールしようとする働きがあります。それはどんな機械やおもちゃにもあります。スプーンを持った時と、フォークを持った時とではフォーカスの使い方が違ってくるのです。そしてそれはその機械やおもちゃを作るときのフォーカスとは違います。“使い方”と“作り方”は全く異なったフォーカスの使い方を要求するのです。作る人は自分のフォーカスを自由に使いこなす必要があります。でも、使う人に求まられるのは決まったレールの上を歩くだけのようなフォーカスに過ぎません。“便利である”とはそのようなことです。道具というものは、使うのは便利ですが、作るのは不便なのです。そして、フォーカスの使い方を学ぶためにはその“不便”が必要なんです。ですから、便利な道具を使うだけの生活をしているとフォーカスの使い方を学ぶことが出来ません。道具を使わなかったり、不便な道具を使っている時には人は自分の心とからだの使い方を学ぶ必要があります。そうでないと、何にも出来ないからです。そして、その心とからだの使い方を学ぶからこそ、文明に振り回されずに、新しい文明を創り出し、使いこなす能力を得ることが出来るわけです。子ども時代(思春期前)の子どもたちは、自分の心とからだの使い方を学ぶ時期です。それが思春期以降の“頭の使い方”の基礎になるのです。フォーカスという考え方を使うと、それを統合的に説明出来るようになります。心とからだの使い方を学ぶと言うことは自分自身に向けてのフォーカスの使い方を学ぶと言うことであり、そのフォーカスの使い方が頭の中で行われるとそれが“思考”になるというようにです。物(機械)に依存した生活をしていると自分でフォーカスをコントロールする能力を育てることができません。ひどくなれば、自分のフォーカスを持つことすら出来なくなってしまうかも知れません。そうなってしまうと、ただ“反応するだけの生き物”になってしまいます。そしてそれは、オカルトや軍隊がやっていることと同じなのです。そして、そのような状態の子は自分の心とからだをコントロールすることができません。今の子どもたちの様々な事件を見ているとその事実をつくづくと感じます。ちなみにコンピュータゲームは子どもからフォーカスをコントロールする能力を奪います。あまりに、完成度が高すぎます。以下は、二人の友人から届いたメールです。<Sさんから>今回の帰省には新幹線を使いました。何だか悲しくなる新幹線の移動でした。私は子どもにゲーム機を与えていないのですが、最近の子どもはみんなDS?というゲームを持っているんです。帰省時にあった子どもの従兄弟たちも皆持っていました(びっくり)。新幹線乗車時・・・それはそれは車内は静かなものです。みんなゲームしたり、イヤホンで音楽聴いたり・・・(子どももです)家の子ども達は普通に話したり、手遊びしたり、しりとりしたり・・・などするのですが、あからさまに隣席の方に睨み付けられたり、中には帽子かぶって耳を両手で塞ぐポーズで訴えられたり・・・うるさいほどの大声ではなかったはずなのですが、他に声が聞こえてこない車内では騒音だったのでしょう。私は昔から子どもが好きであまり子どもの声をうるさいと思ったことがないもので自分の躾のなってなさを反省する前に、子どもの声を笑って聞き流せないなんて、悲しいなー・・・と批判的に受け取ってしまいました。<Uさんから>お正月も半径3km以内で過ごし2学期、まったくできなかったなわとびを30回跳ぶというのが冬休みの目標で、毎日公園で練習しました。腕とジャンプがばらばらで、分割した練習を夫婦であれこれ考えるのが楽しくて子どももかんしゃくおこしながらもがんばりました。父親にはあたらないのに私にはいつもやつあたりばかり。(役回りはわかっちゃいるけどイライラもしますよ)で前跳び59回、後ろ跳び、走り跳びまでできるようになりました。今はあや跳び、二重跳びに挑戦中です。そして今日は幼稚園で「101回跳べたよ!」と帰ってきてもう家族みんなでガッツポーズ、達成感にひたっていました。センスで器用にやるタイプではなく、頭で考えすぎて硬くなってしまうタイプなのでさかあがりも自転車もつまづきつまづき、でもがんばってクリアしてきて「あきらめずにがんばればできる」ということを実感できたようです。DSを何時間もやっても何にも学べませんが、Uさんのお子さんはいっぱい学んでいますよね。こういう学びを通して、子どもは自分の心とからだの使い方を学んでいるのです。
2007.01.13
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“生き方を育てる”というテーマで書いてきて、“フォーカス”という話題につながってきましたが、なぜ“フォーカス”が“生き方”とつながっているのかと言うことを復習がてらちょっと説明しますね。“人生とは毎日の生活の積み重ね”であり、毎日の生活の中にしか“自分”はいません。また、だからこそ“どのようにその毎日の生活を生きているのか”ということがそのままその人の“生き方”になるわけです。そして、その毎日の生活に大きな影響を与えているのが“フォーカス”だということです。人はそのフォーカスに導かれるように、自分の人生を歩むのです。フォーカスは闇夜のライトのようなものなのです。ですから、自分探しをしたいのならスピリチャルカウンセラーのところに行ったり、本を読んだりするより自分がいつもどのようなことにフォーカスを合わせているのかということを考えてみれば、自分というもの、自分の人生というものが見えてきます。そのフォーカスの中にあなたがいるのです。ただし、世の中にはそのフォーカスに振り回されコントロールされている人と、逆に自分のすすみたい方に向けてフォーカスをコントロール出来る人がいます。コントロール出来ない人はフォーカスが照らす方にしか進むことが出来ません。でも、フォーカスをコントロール出来る人は、自分が進みたい方にフォーカスを合わせることが出来ます。今日、フリーバードさんが書いて下さったコメントはちょうどその例になっています。 今朝、布団の中で「起きなくちゃ!」って思いながらも抜け出せなくていた時、「美」っていう字は、富士山の形に似ているな~って突然、頭の中から出てきて、なんか嬉しくなって今までの気持ちがウソの様にか~るく起きる事ができました。フリーバードさんの中でフォーカスがチェンジしたのです。このコントロールが出来るようになると、悩みに悩むことが少なくなります。悩みは誰にだってあります。お釈迦さんやキリストにだって悩みはあったのです。でも、そのような人は“大切な悩み”と“大切ではない悩み”を分けることが出来ました。彼らにとって“大切な悩み”とは、“人のための悩み”です。“大切ではない悩み”とは、“自分のための悩み”です。かめおかゆみこさんが“マザーテレサ”のことを書いておられますが、マザーも同じです。でも、我々凡人は“自分のための悩み”に苦しみます。でも、“人のための悩み”は社会的な行動につながり、人を動かしますが、“自分のための悩み”は自分を縛り、自己中心的な狭い世界に人を閉じこめます。すると、真っ直ぐ前を向いて人生を歩くことが出来なくなってしまうのです。そんな時、自分のフォーカスをコントロールすることが出来たらならその悩みから抜け出し、もっと広い世界に出ていくことが出来るのです。そして、宗教にはそのような働きがあります。正しい宗教はフォーカスをコントロールする能力を育ててくれます。でも、オカルトのように固定したフォーカスを押しつける宗教もあるので、要注意です。今朝の新聞に“スーパーから納豆が消えた”という記事が出ていました。テレビの“あるある探検隊”(だったかな?)で“納豆には痩身効果がある”と特集したことが原因のようです。メディアは私達のフォーカスをコントロールします。多くの人が、オカルトには嫌悪感を感じても、それと同じことをやっているテレビは喜んでみているのです。少し考え直した方がいいかも知れません。7才前の子どもたちにとっては生理的な欲求が求めるフォーカスは絶対です。生理的な欲求が求めてくるフォーカスを無視することは出来ないのです。でも、心とからだが満たされている状態の子は、そのフォーカスが生理的な欲求に縛られないため、好奇心などに向けることが出来ます。ですから、学ぶということ成り立つわけです。ということは、その逆にお母さんとの信頼関係、和気あいあいとした家族、バランスの取れた食事、きちんとした生活リズムがない状態でいくらお勉強塾に通わせても、勉強が嫌いになるばかりで、賢くはならないということです。ですから、1/10のブログに e-Hypericumさんが書いて下さった「手当て」とか、そういった、目には見えないんだけど、痛いところを母や父に、手を当ててもらって、そして抱きしめてもらえた、そしたら痛みを忘れられた、小さいことだけど、そういう経験、体験が、ヒトには必要だと思います。という日常が、子どもが自由なフォーカスを育てるためにも必要になるのです。自由なフォーカスを持っている人が自由に生きることができるのです。明日は、そのフォーカスをもう少し意識的にコントロールする方法の学び方を書いてみます。
2007.01.12
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昨日の続きです。昨日は、“大きな木だね”と言葉かけをすることで子どもの心がその対象に“フォーカス”するというようなことを書きました。でも、実際には“大きな木だね”と言っても、無関心な子がいっぱいいます。それで、もっと関心を持ってもらおうと繰り返していったり。“○○くん、ほら大きな木だよ”と言うことになるのですが、多くの場合最初の一言で反応しない子は繰り返して言ったとしても聞いていません。なぜなら、そういう子どもの心はもうすでに別のものにフォーカシングされてしまっている可能性が高いからです。それは、足元にいる虫かも知れません。また、お腹がすいていたり、疲れていてその事ばかり考えているのかも知れません。また、悩み事があって気持ちがその事にフォーカシングされたまま固定されてしまっているのかも知れません。ちなみに、フォーカシングに関しては一つの法則があるのです。それは、人の心は基本的に一つのことにしかフォーカスを合わせることができないということなんです。同時に二つ以上のことにフォーカスを合わせることが出来ないのです。そして、先ず生理的な欲求が優先されます。自我の働きが弱い子どもの場合は、お腹がすいていたり、おしっこが溜まったままではそこからフォーカスをずらすことが出来ないのです。次に感情的な欲求が優先されます。お母さんに叱られた、嫌いな虫が近くいる、いじめられている、などというような時にもそこからフォーカスをずらすことが出来ません。ですから、この生理的、感情的なところにフォーカスが合ったままになってしまっている子は当然ながら勉強に身が入りません。そして最後に知的なことにフォーカスを合わせることが出来るようになります。昔の人が“衣食足りて礼節を知る”と言ったのもそういうことです。また、フォーカスが共有される時、共感が生まれます。ある子どもが、“空が青いな”と思っている時に、“空が青いね”と声を掛けてもらうと、共感を感じます。苦しいと思っている時に、“苦しいね”と言ってもらえると共感が生まれます。そして、共感してくれた人に心を開きます。すると、言葉が届くようになります。これは、カウンセリングの基本でもあります。また、子どもいうものは近距離にしかフォーカスが合いません。どうもそのように出来ているようです。生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんに抱っこしてもらった状態でお母さんの目を見る距離が一番よく見えるようになっているそうです。また、小さな子どもは地平線とか、水平線とかは見えません。見えていても心のフォーカスが合わないのです。雲の色や形の面白さに気付くようになったらかなり成長した印です。そして、それはまた子どもたちの心の状態を示しています。目のフォーカスと心のフォーカスとはリンクしているからです。これは面白いですよね。ですから、身の回りのことばかりが気になってフォーカスしてしまう人は、夢や希望といった未来のことを語りません。未来という時間に実感を感じることが出来ないのです。未来という時間に心をフォーカス出来ないからです。人の心の中では“空間的距離”と“時間的距離”は同じものなのです。だから、遠い過去や未来のことを考える時、人は“遠くを見つめるような目”になるのです。明日も続きます。
2007.01.11
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今日は、e-Hypericumさんから頂いたコメントから始めたいと思います。テレビの話ではいつも思い出すことがあります。湾岸戦争当時の報道をさして、「ミサイルが建物に当たって爆発するのがテレビに繰り返映りました。皆さんは、あの爆発の中で人が死んでいくのが見えましたか?私には見えました。」そう、ひめゆり学徒隊の生き延びた証言者はおっしゃいました(言葉は正確ではありません、私のつたない記憶なので)。…言葉を失いました。そう、体験のある人は映像の裏側まで見ることが出来ます。でも、体験のない人にとってはただの視覚的な刺激に過ぎません。よく戦争の悲惨な写真を見せて、“戦争はこんなにも悲惨なんだよ”と語る人がいます。でも、私はそれはあまり意味がないと感じています。戦争の悲惨な写真を見て“悲惨”だと感じることが出来る人は、もうすでに“人が死ぬことの悲しさ”を知っている人なんです。“人が死ぬことの悲しさ”さを知らない人にとってはその“悲惨な写真”が、逆に興味深い、面白そうな写真に見えてしまうことだってあるのです。ですから、テレビなどで“悲惨な映像”を見ることで、その映像に非日常的な興奮、興味を持ってしまう子どもたちだっているのです。それは、人が死ぬ、自分が死ぬと言うことに対して実感がないからなのです。そんな時は、言葉だけの方が力を持ちます。言葉は聞く人の実感に訴える力があるからです。映像にはその実感を確認するだけの働きしかないのです。私は若い頃ヨーロッパやインドをフラフラしてきましたが、テレビでインドの映像を見るたびに“違うんだよな”と感じてしまうのです。あの暑さと、喧噪と、匂いと、疲れの中で体験したインドはテレビの中にはないのです。でも、インドを旅行した人の文章を読むと、“そうそう、そうなんだよね”と感じることが多いのです。言葉には、視覚、触覚、嗅覚などの感覚を蘇らせる力があるからです。どうしてかというと、言葉には意識をフォーカシング(焦点を合わせる)する働きがあるからです。森の中に遊びに行っても、喉が渇いた、お腹が減った、疲れた、などというようなことばかり考えている子どもは森の中にいるのに、木も花も見ないでしょう、木々の梢を流れてくるそよ風も感じないでしょう。そんな時、“耳を澄ましてごらん、鳥の声が聞こえるよ”と語りかけることで、意識が鳥の声にフォーカシングされます。すると、鳥の声が聞こえるようになり、その声が実感と共に吸収されるのです。また、目の前に大きな木があっても子どもは足元の虫やきれいな花に気を取られて見えていないかも知れません。そんな時も、“ほら、大きな木だね”と声かけをすることで、その木に意識がフォーカシングされます。すると、その大きな木が実感として吸収されます。子どもに話しかけなくても、大人が“大きな山だなー”と言うだけでも、子どもの意識はフォーカシングされるのです。子どもは大人が見ているものに興味を持つからです。ですから、実感を育てるためにはただ自然体験をさせたり、実物に触れさせるだけでは意味がないのです。たとえ都会の中に暮らしていても、お散歩の途中でお母さんが“夕焼けがきれいね”とか、“まあ、このお花素敵ね”と話しかけているだけで、子どもは自然というものに意識をフォーカシングすることが出来るようになり、自然に対して実感を持つことが出来るようになるのです。それに対して、“ほら、自動車が来るでしょ”、“なんでちゃんと前を見ていないの”などと言ったりしていると、自動車や前から来る人にばかりフォーカシングしてしまうでしょう。また、お母さんが一人で先に歩いて子どもが後を追いかけてばかりだと、子どもはお母さんしかフォーカシング出来なくなるかも知れません。さらに多くをくどくどと説明するとフォーカシングが出来なくなります。“ほら、あそこに大きな木があって、その脇にはお花が咲いていて、チョウチョも飛んでいるでしょ”などと言ってしまったら、子どもはどこに心を向けていいのか分からなくなってしまうのです。また、こんなこともあります。手を握り合います。温かいです。そして、その時“温かいね”と言います。すると、子どもの心はその温かさにフォーカシングされます。そしてその“温かさ”が実感として吸収されます。モアイさんの実験じゃありませんが、ペットボトルのキャップに少しずつ水を足していくと、表面張力で盛り上がります。その時、“わー、ほら盛り上がっているよ!”という言葉で意識がフォーカシングされ、その体験が実感に変換されるのです。体験は確かに必要です。でも、体験だけで実感が生まれるわけではありません。そこに子どもの意識をフォーカシングしてくれる的確な言葉を発してくれる大人が必要なんです。
2007.01.10
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昨日のブログの中の価値観や生き方は生活の実感の中で生まれてくるものだからです。という言葉に “今日9729さん”と“グーテンタークさん”のお二人からコメントを頂きました。そう、価値観や生き方は押しつけることが出来ないのです。借り物や押しつけられた価値観や生き方では自分の人生を生きることが出来ないからです。でも、子どもの育ちと積極的に関わり、意識的にその実感と出会わせてあげることで子どもが自分自身の価値観や生き方を育てる手助けはできます。例えば、子どもと一緒に種を蒔きお花や野菜を育てる、一緒に小川に行ってザリガニをつかまえ世話をする。そこにはテレビで見ているだけでは触れることが出来ない“実感”があるのです。そのような実感の中で子どもは価値観を育て、自分の生き方を育てているのです。ここで多くの人が忘れてしまっている事実があります。それは、“生きる”ということは“生活すること”そのものだということなんです。日々の生活の連続が自分の人生なんです。生活を離れた人生など存在しないのです。だとすると、“毎日どのような生活をしているのか”、ということがそのままその人が“どのような人生を生きるのか”ということにつながってくるのです。ですから、子どもに生き方を伝えるためには、その毎日の生活を整える以外に道はないのです。人は誰でも、今現在の毎日の生活の延長にしか自分の人生を築くことが出来ないからです。でも、“生き方探し”、“本当の自分探し”をしている人たちの多くは、今の生活、今の自分は“仮の姿”だと思っています。そして、今の生活に感謝し、大切に生きることをしません。だから、いつまで経っても“自分”が見つからないし、自分の人生を変えることが出来ないのです。そういう人は、子どもの頃に、豊かな実感に満ちたしっかりとした生活をしてこなかったのではないでしょうか。生活の中に実感がないから“本当の自分”を感じることが出来ないのです。そして今の子どもの環境を考えるとき問題なのは、今子どもたちが生活の中で出会うことが出来る実感がどうも偏っているということなんです。昔はカブトムシは山や林に行って自分でつかまえました。でも、今はお店で買ってきます。前者は自分の力、能力でカブトムシを手に入れていますが、後者はお金やお店に依存して手に入れています。ここで子どもたちが触れる実感には天と地ほどの違いがあります。テレビがない時代の子どもたちは現場でそのものと出会いました。現場に行くことが出来ないときには話しだけしか聞くことが出来ませんでした。だから、想像力でそれをイメージし、夢を膨らませました。今、子どもたちは簡単にテレビで映像を見ることが出来ます。ですから、イメージする必要がありません。でも、そういうことが子どもの想像する力を萎えさせていることには気付きません。テレビは知識を与えてくれるだけで実感がないのです。ですから、価値観や生き方の育ちを支える力にはならないのです。また、教育も実感を通して学ぶことが出来るとき、その学びは子どもの価値観を育て、生き方を支えてくれます。実感のない学びはただ試験のために記憶されるだけです。そう、“生き方を育てる”、“生き方を伝える”と言っても、生き方そのものを語るわけではないのです。そんなことをしても人生経験の浅い子どもたちには理解出来ません。そうではなく、「1+1」が2になるという実感、生きた言葉の実感、生活とつながった社会や歴史や理科の実感、そういう実感が子どもの価値観を育て、子どもの人生を支えてくれるのです。ちなみに、“勉強しなさい、勉強しなさい”とばかり言われている子どもはどんな生き方を身につけることが出来ると思いますか。ちょっと考えてみませんか。ということで、明日に続きます。
2007.01.09
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今日のタイトルは「生き方を学ぶ」です。でも、このようなタイトルを聞くと身構える人がいっぱいいます。“生き方”を強制されると思うからでしょうか。実際、戦争中には“生き方”が強制されました。国から“理想的な生き方”が示され、それを目標として生きるように学校などでも教育されました。また、最近でも“美しい日本”などを唱える人たちがまた“国のための生き方”を強制しようとしています。ですから、自由が好きで進歩的な人ほど“生き方伝える”とか“生き方を学ぶ”というような言葉に敏感に反応するのかも知れません。日本は昭和20年に戦争に破れ、それまでの価値観が崩壊しました。それまでの生き方も否定されました。でも、それまでの価値観、生き方が崩壊しただけで新しい価値観や生き方が創られたわけではありません。実際、終戦とともに日本という国が急に消えてしまったような状態になってしまったので、みんな生き延びるだけで精一杯で新しい時代に合わせた価値観とか生き方などということを考えている余裕がなかったのです。その結果、その“生き延びること”、そのためには“豊かになること”だけが日本人の共通の価値観になってきたのです。そして、アメリカを見習い、アメリカに追いつこうと思って必死に頑張って来ました。その結果、急激な経済成長をなしとげ、世界でも有数の金持ち国になりました。でも、しっかりとした価値観や生き方の基準を持っていない日本人、そして日本はお金の使い方が分かりません。若者はただブランドや物を買いあさり、国はただお金をばらまいているだけです。そして、お金が足らなくなったら個人はサラ金で借り、国は取りやすいところから集めます。そこに何の生き方も哲学もありません。そして、そんな日本の社会の中で、“自分探し”、“生き方探し”に放浪する人たちが急増しています。生活に困らなくなった途端に、どう生きていいのか分からない自分に気付いてしまったのです。また、生き方探しをしない人たちでも、目先の刺激、快楽を求めることの中に自分の生き方を求めようとしています。そういう人は、簡単にお金を手に入れることに熱心です。そして、簡単に使ってしまいます。なぜなら、しっかりとした価値観や生き方や持っていないので目先のことしか考えることが出来ないからです。人は自分自身の価値観や生き方によって自分の未来のことを考えるのです。今朝の朝日新聞に“スピリチャルブーム”のことが出ていました。新年のテレビで大晦日の渋谷の路上で大騒ぎする若者達の姿を映していました。みんな自分の人生をどう生きたらいいのか分からないのです。ちなみに、“自分探し”は無意味です。自分を知らない人が自分を探すのですから見つけられるわけがないのです。例えば、タマネギを知らない人にタマネギを渡すようなものです。“これはまだ皮だ、これも皮だ”とどこまでも皮をむいていくばかりで、いつまで経っても“タマネギ”と出会うことは出来ないのです。それよりも“他者探し”の方が有効です。“自分を生きている”と感じた人のことをよく調べてみるのです。そうすると、自分には何が足らないのかが見えてきます。その人は皮をむくのではなく、そのまま食べているかも知れません。そういう状況の中で、“美しい日本”という考え方が出てきました。“昔の価値観、生き方に戻ろうよ”という考え方です。“そうすれば昔のような美しい日本がまたよみがえるのです”ということです。でも、これにも無理があります。価値観や生き方は生活の実感の中で生まれてくるものだからです。生活の実感とつながらない価値観や生き方は伝えようがないのです。それで、強制することになります。でも、押しつけられたものは自分の価値観、生き方にはならないのです。ということで明日に続きます。
2007.01.08
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モアイ2463さんの今日のブログに"お父さん、難しい所は手伝ってや。""おう。"という親子の会話が書かれています。この言葉を見ただけでお子さんが素敵に育っていること、素敵な父子関係が育っていることが伺えます。詳しいことはモアイ2463さんのブログをご覧になって下さいね。この言葉が出るためには、まずお子さんが“自分の意志”で活動しようとしていることが必要です。自分の意志で活動しようとしていると言うことは、その課題に対して好奇心を持ち、そして“どのように手を付けたらいいのか”という大きな筋道が理解出来ていると言うことです。さらには、その課題をこなすだけのある程度の知識、技術も持っているということです。逆に言えば、その知識技術があるから筋道を理解することが出来て、どこから始めたらいいのか、どんな時に助けを呼んだらいいのかということが分かるのだということです。だから、"お父さん、難しい所は手伝ってや。"という言葉が出てくるのです。その筋道が理解出来ない子は、課題に取り組むことが出来ません。そして、やってみる前から“教えて”、“手伝って”と言います。中には、一目見て“ぼくには出来ない”と投げ出す子もいっぱいます。うちの教室でも、最初から“先生作って”などと馬鹿なことを言う奴もいます。そんな時は、“先生が作ったら先生のもんだからあげないよ”というと、しぶしぶ“じゃあ、自分でやる”と言います。でも、その筋道は言葉で説明しても理解出来ません。というより、言葉で説明して理解出来るような子は、ちょっとヒントを与えるだけで自分の力だけでも大まかな筋道を理解出来るのです。なぜなら、そのような子は体験があるからです。子どもたちは体験を通して理解力を育てているのです。そして、お子さんが活動している間モアイさんはお呼びがかかるまでコタツで昼寝さ。と、監視しないで、でも心を向けて、でもそれを気にし過ぎもせず、のんびりと待っています。この“待ち”が大切です。何にもしていないようですが、子どもが“助けて”と言ったとき、即座に“おう”と応えることが出来る状態をキープしていると言うことです。ちなみに今の学校の先生にはこの“待ち”が全くないようです。何かするばかりがいいのではありません。“何にもしない”というのも大切なことなんです。この“待ち”の間に子どもの自学自習が進むのです。それを信頼することです。また、“おう”と応えることが出来るためには、大人にその手助けが出来るほどの実力が求められます。ちなみにモアイさんのお子さんが作っているのは "大人の科学 Crab MECHAMO"という機械の蟹だそうです。みなさんは“おう”と応えられますか。体験の少ない子どもは、常識にとらわれないとんでもないことを言ったり、やったり、聞いてきたりします。ですから、“待ち”の姿勢で子どもの成長につき合うためには、大人の側に広範な知識、技術、そして柔らかさが必要になります。それに対して、全員にカリキュラム通りに同じことを教えるのは簡単です。マニアルさえあればアルバイトの大学生でもできます。試験も、採点もアルバイトでもできます。(残念ながら、塾のアルバイトの先生よりも劣る先生もいるようですけど・・・・。)同じ課題を同じ手順でやらせるわけですから、出てくる質問、トラブルも予め想定出来ます。ですから、それもマニアルで対応出来ます。でも、子どもに任せてしまうと子どもの思考にはマニアルはありませんからとんでもない質問、トラブルが出てきます。つまり、“待ちの教育”は本当の専門家でないとできないということです。自由に答える文章題はアルバイトには採点出来ないのです。私が12/30日に書いた“自学自習”という考えはこのようなものです。“自学自習”といっても、勝手にやらせるわけではないのです。子どもの状況に合わせて課題は大人が用意します。そして、興味を持たせるなどの動機付けをして、基礎的な知識、課題の概略を伝えあとは子どもに任せ、大人は待ちます。質問が来ても、ヒントは出しますが基本的には自分で考えさせます。すると、子どもは自分で発見します。この“自分で発見する”ということが非常に大切なんです。子どもが“そうか、そうなんだ”、“わかったぞ”という時、“自学自習”が進んでいるということなんです。この体験は自己肯定観を育ててくれます。今の子どもたちは教え込まれて自己肯定観を低くしてしまっています。教え込まれる子どもは常に無力だからです。でも、教育とは本来自己肯定観を高めるためのものではないのでしょうか。それが教育の役割なのではないでしょうか。それと、自学自習のいいところは、学びの場が学校だけではなくなるということです。自学自習の方法、楽しさを知った子どもはありとあらゆるものから学ぶことが出来ます。世界中どこに行っても、何歳になっても、一人だけでも学ぶことが出来るのです。それに対して、今の“教え込む教育”は学校という場の中だけでしか成り立ちません。学校を出たらそんな丁寧に、優しく教えてくれる人なんていないのです。自分で学ぶ力を身につけた子どもたちがドンドン増えていったとき、日本は変わるでしょう。え?そんな悠長なことをやっていたら諸外国に追いつけない?学習指導要領を消化出来ない?何を馬鹿なことを言っているのですか。しっかりとした基礎を作らないで高層建築など建てられないでしょ。基礎部分は地面の下に入ってしまって見えませんがこれをしっかりとしないと耐震疑惑のビルのようになってしまうのです。中学、高校までにしっかりとした基礎を作っておけばその上にどんどん積み上げることが出来るのです。姉歯さんと同じことを日本の学校ではみんなやっているのです。あれは、姉歯さんの個人的な問題ではなく、日本人の体質なのかも知れません。日本ではしっかりとした基礎を作っていないので、大学に行ったらもうすでにそれ以上積めない状態になってしまっています。そして、社会に出るころには使い物にならなくなってしまっています。自学自習できる人は社会に揉まれて成長します。そして、自分でもそれが分かるので、社会に出ていくのが怖くありません。でも、自学自習が出来ない人は社会に揉まれてつぶれていきます。自分でもそれが分かっているので、社会に出ていくのを怖がります。あなたはお子さんにどちらに進んで欲しいですか。
2007.01.07
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今日は横浜にテレビの収録に行ってきました。テレビ神奈川の「クーパカポカポ」という幼児教育の番組です。多分、ごらんになっている方はいらっしゃらないのではないでしょうか。私も全然知らない番組でした。それでもワークの時にテレビ局が来て撮影するのは何回も経験していますが、スタジオ撮影は初めてなので興味半分で出演OKしました。にぎやかなお兄さんが二人いて、きれいなお姉さんが一人いて、ハイテンションで番組は進みます。先日打ち合わせに行ったときに、“これ見ておいて下さい”とビデオを渡されたのですが、そのあまりに“テレビ的”な雰囲気にたじろぎ、“どうすりゃいいんだ”と思いましたが、“まあ、台本を無視していつも通り取りやっちゃえ”と開き直って出かけました。実は、前日に台本のようなものが送られてきて、そのあまりにテレビ的な進行に“こんなもんやってられっか”と思ったのですが、相手も相手で私にはその台本通りやるのは無理と察したようで、打ち合わせの時に“お好きなようにやっていいですよ”と言われ、一安心。(それでも進行の途中でディレクター?の人から色々指示を出されましたけど。紙に書いて見せるのです。でも、あまり目に入りませんでした。)でも、普段のワークは2時間で、この収録は30分で、途中お兄ちゃん、お姉ちゃん達のチャチャが入り、それはそれで楽しかったのですが、表面的なワークしか出来ませんでした。というより、もともとワークを録画する番組ではなく、遊び紹介のためにワーク形式を演出しているだけなのでそれはそれで仕方がないのでしょう。集まってくれたのは1才児とそのお母さん達。やったのは、“もみもみ”、“つんつん”、“こねこね”などの感覚遊びと、“逆さお馬さん”とか、“ぞうさん”などといった、運動遊びです。意味不明でしょうが、適当にイメージして下さい。それで、最初に“じゃあ、先生をお呼びします”と言われて中央に出たら、いきなりお兄ちゃんに“亀仙人だ”と言われ、“実は私はよそでも亀仙人で通しているのです。くれぐれもエロ仙人ではありませんから”などと馬鹿なことを言って返したら、どうも彼はワークの間も話しをそっちに持っていこうとするのです。と、これ以上はテレビを見て下さいね。でも、2月だという以外いつ放映されるか分かりません。テレビ神奈川です。決まりましたら、またお知らせします。とここまでは軽い話題。以降は急に重くなります。で、その帰りの電車の中で「教室の悪魔」(見えない「いじめ」を解決するために)(ポプラ社880円)を読んでいました。本当に背筋が寒くなるような具体的な話しがいっぱい出ています。大人の想像を越えています。“いじめなんて昔からあったのに”とか、“やられたらやり返せばいいのに”、“何で逃げないんだろ”、“どうして先生や親は気付かなかったのか”、“どうして親や先生に言わないんだろう”などと思っていらっしゃる方は是非お読み下さい。そんな考えぶっ飛んでしまいます。まさに地獄です。昨日の続きは明日書きます。
2007.01.06
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私は、学びは“自学自習”に勝るものはないと考えています。でも、だからといってただ放っておかれても子どもたちは学ぶことが出来ません。自学自習にも“方法”が必要だからです。ですからそこに子育てや教育の意味があるのです。でもその際、“学ぶことの根本は自学自習にある”ということを忘れてしまっては、かえって子育てや教育が子どもの学びを阻害することになってしまいます。つまり、教え込もうとすることがかえって子どもの学びを阻害してしまうのです。“学ぶ”ということは、外側にあることを内側に取り入れ、すでにそれまで自分の中に溜まっていたものと統合され意味づけされることです。ここで大切なことは、すでにその子が持っているものと新しいものがきちんと統合されることなんです。この統合が成り立たなければ、学びではなく、ただの詰め込みになってしまいます。そして、いくらいっぱい詰め込んでも学力は高くなりません。そういう意味で、学ぶと言うことは高層建築の建造に似ています。新しく鉄骨を運び込んでも、その鉄骨が所定の位置にきちんと取り付けられないのならいくら鉄骨を運び込んでも建物は建っていかないのです。それどころかやがて、その無駄な鉄骨の重みで全体が崩壊してしまう恐れすらあります。用途や大きさの異なる様々な建物を同時に建てている状況を考えてみてください。全く同じ建物を建てているなら、それがいくつあっても同じマニアル、同じスケジュールで工事を進めることが出来ます。ですから、そのスケジュールに従って工場は機材を現場に送ることが出来ます。つまり、工場から送られてくる機材を目安に工程を進捗していくことが可能なわけです。そして、工場も現場に行かなくてもそれぞれの建物の状況を把握することが出来ます。でも、それぞれの現場で全く異なる建物を建てているとしたら、各現場に一斉に同じ機材を送りつけるこのシステムでは建物を建てることが出来ません。工場が現場の状況に合わせることが出来ずに、基礎を作っているときにコンクリートではなく鉄骨を送ったり、5mの鉄骨が欲しい時に10mの鉄骨を送ったりしてしまうことが起きるでしょう。必要なときに必要な機材が届かない現場では、その機材は現場で山積みにされるだけです。でも、やがて必要な機材が届いたときにもその山積みにされた機材が邪魔して、必要な機材を所定の場所にセットすることができません。そんなことが続いていたら現場の職人さん達はやる気をなくしてしまうでしょう。途中で職場放棄をしてしまう人も出てくるかもしれません。じゃあ、どうしたらいいのかというと、必要なときに、必要なものを取りに来てもらえばいいのです。これはビルの建設では無理ですが、工作や教育の場では可能なことです。実際に職人さんや寺子屋の学びの場では可能だったのですから。うちの造形教室でも同じことをしています。うちの教室では子どもたちが一人一人違うものを作っているので、自分の判断で自分で材料を見つけないことには先に進まないのです。子どもに“何を作っているの?”と聞いても“ひみつ?”と言って教えてくれないこともよくあるので、こちらで材料を勝手に用意するわけにはいかないのです。(ここから話しは教育に戻ります。)でも、子どもたちは最初はその“必要なとき”と“必要なもの”が分かりません。だから、大人は最初から大人が必要だと思うものを子どもに与えることでその作業を続行させようとするのですが、でも、多くの大人が子どもの育ちの現場や進捗を見ないまま思いこみだけで“必要だと思うもの”を押しつけています。親が必要だと思うもの、先生が必要だと思うもの、国が必要だと思うものなどです。でも、それらのほとんどは子どもの育ちの現場で、その育ちを阻害する邪魔者にしかなりません。それで、子どもは自分の育ちを自分で伸ばす力を育てることが出来なくなってしまうのです。また、よしんばそれがその時子どもが必要なものだったとしても、子どもは自分で選んだものならそのまま受けいれますが、押しつけられたものなら拒否してしまうことが多いのです。子どもは“あまのじゃく”なんです。ちなみに7才までの子どもはその“必要なとき”と“必要なもの”を見分ける力を育てているのです。ですから、出来るだけ試行錯誤して、無駄なことをいっぱいやる必要があるわけです。つまり、最初の話しとつなげると、7才までの子どもは様々な体験、遊びを通して“自学自習の力”を育てている時期なんです。でも、今の子どもたちを見ているとこの“自学自習の力”が本当に弱いのです。よく言われる“今の若者は指示がないと動けない”というのはそういうことなんです。でも、人間の思考に関わる神経細胞は自発的な意志に感応して働くようになっているらしいので、指示がないと動けない子に論理的な思考を求めても無理なんです。その状態ではただ反応するだけで精一杯でしょう。教室で、子どもが“どうしたらいいのか分からない”と聞きに来たとき、まず、“君はどうしたらいいと思う”と聞き返します。でも、ほとんどの場合“分からない”という返事しか返ってきません。それで、三択で答えを絞ってあげると答えることが出来ます。でも、その三択までの作業が出来ないのです。ということで、明日に続きます。
2007.01.05
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今日は、遅ればせながらお正月休みとさせて頂きます。ちなみに以下の写真は中一の娘の撮ったものです。(写っているキャラクターも)
2007.01.04
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昨日は、“聞く力”、“考える力”、“表現する力”、つまりコンピュータ的に言い換えると“インプット能力”、“内部処理能力”、“アウトプット能力”が“覚える力”、“学ぶ力”、“使う力”の基礎として働いているということを書きました。なぜなら、この“インプット能力”、“内部処理能力”、“アウトプット能力”が働かないことには人間はいかなる力も育てることができないからです。そして、これらの能力は誰でも生まれつき持っています。そして、この三つの働きで一つのシステムを構成しています。単独では働かないのです。でも、このシステムはこれだけでは完全ではありません。アウトプットした情報に的確に反応しその反応をまたインプットとして返してくれる相手が必要なんです。ゲームで言えば“プレイヤー”です。プレイヤーがいなければゲームは先に進まないのです。その繰り返しの中でその相手の働きを吸収するのです。ですから、もしコンピュータに学習能力があったら、ゲームを通してプレイヤーの感じ方、考え方を学ぶことが出来るでしょう。それと同じことを幼い子どもたちはやっているのです。私は学力という言葉は曖昧なので使いません。でも、この成長のメカニズムは一つの事実です。コンピュータでもこの事実を再現することが出来ます。実際、オペレータとのやりとりによって自分で学ぶ“自己学習型”のコンピュータも研究されています。学力と呼ばれているものもこのシステムによって生み出されるものだとしたら、“学力の低下”と呼ばれるものは何らかの事情でこのシステムがうまく機能していないことを意味しています。それが、“覚える力”であろうと、“学ぶ力”、“使う力”であろうと同じです。ちなみに、幼いときには子どもたちはからだで覚え、からだで学び、からだの使い方を学びます。思春期までの子どもは感情で覚え、感情で学び、感情の使い方を学びます。そして、思春期以降は知性で覚え、知性で学び、知性の使い方を学びます。ですから、学力を“学ぶ力”だと定義すると、幼児期の学力とは“からだで学ぶ力”のことです。また、思春期までの子どもの学力とは“感情で学ぶ力”のことです。覚える力、使いこなす力も同じです。ですから、からだで覚える時期の子どもがいっぱい知識を知っていてもそれは学力ではありません。幼児期の学力とは“独楽が回せる”、“竹馬に乗れる”、“針に糸が通せる”というようなことです。このような学力が後の感情や知性の学力につながっていくのです。また、無味乾燥な知識の記憶は知性の働きによって支えられています。感情に響く記憶は感情の働きによって支えられています。からだに響く記憶はからだの働きによって支えられています。ですから、ただ知識を暗記するだけの作業なら思春期の子どもたちが一番得意です。思春期の子どもたちはその気になれば山のような暗記をすることができます。でも、それ以前のからだの論理、感情の論理で動いている子どもたちにはそれは辛いことです。からだの働き、感情の働きまで弱くなってしまうでしょう。ですから、強制してはいけないのです。でも、このようなことを理解した上での学力論議を見たことがありません。もし、お子さんが幼稚園で色々なからだ遊びが得意なら、お子さんは高い学力を持っていることになります。もし、お子さんが小学生で、生き生きとして、感情が豊かで、好奇心が旺盛で、仲間との関わり合い、助け合い、遊び方が得意なら高い学力を持っていることになります。地球が平だと思っていても、人間が生き返ると思っていてもそんなことは単なる知識の問題に過ぎません。大したことではないのです。生まれ変わると思っているから自殺するわけではありません。数百年前までは大人もみんなそう信じていたのです。私がここに書いたことがもし事実なら、今子どもたちの学力が下がっている理由もすぐ分かります。つまり、7才までに“からだの学力”が育っていない。思春期までに“感情の学力”が育っていない。だから、思春期になって知的な学力が育たないのです。つまり、思春期前の子どもたちにも、思春期以降の学力を求めてしまって、その時期に必要な学力をきちんと育てていないから、子どもたちの学力が低下しているのです。だから、塾に行っていなかった昔の子どもには出来て今の子どもたちには出来ないのです。だとすると、“学力、学力”と大騒ぎすることがかえって子どもたちの学力を低下させてしまうことになります。もっと簡単に言うと、“勉強しろ、勉強しろ”と子どもを追い立てているから、勉強が苦手な子になってしまうということです。でも、だからといって“塾を廃止すれば問題が解決する”と考えるのは短絡的です。からだで学ぶ、感情で学ぶ場と機会を子どもたちに与えることが出来なければ意味がないのです。そのためには、子どもの年齢にあった学びを子どもの側から検証し直すことが必要になるのです。そして、その実現のために親も、社会全体も、地域も変わる必要があるでしょう。思春期前の子ども達にとっては、地域全体が学びの場として必要だからです。昔の子にはそういう学びの場があったのです。
2007.01.03
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さて、去年からの続きです。去年は“学力って何だろう”ということで書いてみましたが、その言葉の意味がどうもはっきりしないということが分かってきました。(12/30)どうも人によって言葉の定義が違うようなのです。つまり、同じ学力という言葉を使ってはいてもお互いに違うものをイメージしているので話しが合わないのです。そして、本当は話し合いを通して、“本質的な問題は何なのか”という共通の認識をきちんと導き出してからでないと問題解決のための議論はできないはずなのですが、どうもみんな“自分が正しい”というところから動く気がないようなのです。そして、“相手をやっつけるための言い合い”ばかりしています。勝つか負けるかの議論は敵を作り、恨みを増すばかりです。そして、結局最後には“数の暴力”で決着が付いてしまいます。多数派には、“話し合った”という“大義名分”が残りますが少数派には恨みしか残りません。話し合いは相手を変えるだけでなく、自分が変わることも受けいれることが出来ない人にはできないのです。“有り難うございました、話し合いを通して私も成長出来ました”という言葉が出てくるような話し合いが、問題を解決へと導いてくれるのです。でも、実際には多くの人が“いかに相手をやっつけるのか”ということばかり考えています。当然、まともに相手の話を聞く気はありません。揚げ足を取るために表面的な言葉だけを聞いているだけなんです。そして、“それはどのような意味ですか、よく分からないのですが”という単純な質問を攻撃として受け取ります。そういう人は、“私は間違っていない、あなたが問題の原因なんです”と言います。そして、自分と同じ意見の仲間をつのって数の力で押し切ろうとします。どうしてそうなってしまうのかというと、“聞く力”、“考える力”、“表現する力”が弱いからなんです。これは、コンピュータ的には“インプット能力”、“内部処理能力”、“アウトプット能力”と言い換えることもできます。そして、これらの能力は12/30に学力の定義として書いた、“覚える力”、“学ぶ力”、“使う力”を支える能力でもあります。つまり、“聞く力”、“考える力”、“表現する力”のどれがかけても、学力は伸びないということなんです。コンピュータでもこの三つの能力のうち、どれか一つでも欠けてしまったらコンピュータとして機能しません。そして、今の子どもたちはこの能力がかなり貧弱です。学校教育の中にもこれらを育てるまともなカリキュラムがありません。先生任せです。また、“聞く力”、“考える力”、“表現する力”が弱い人は、対人関係において常に不安を感じています。それは目も耳も口も塞ぎ、両手を縛った状態でジャングルを歩いているようなものだからです。だから、ちょっと居心地のいい場所を見つけると、そこから動きません。動けないのです。また、当然そういう人は、自分に自信がありません。だから、依存心が強いのです。目と耳と口と手を誰かに借りないと動けないからです。そして、そういう人は自分も守れないし、また国を守ることも出来ません。個人として自分を守る能力と、国を守る能力は本来別のものではないのです。言いなりになる兵隊さんばかり増やしても、第二次世界大戦の悲劇を繰り返すばかりで本当の意味で国を守ることは出来ません。ですから、“教育は個人のためだ”、“いや、国のためだ”という議論は最初からナンセンスなんです。そういう人は、教育というものの本質が分かっていません。でも、なぜか日本の政治の中枢にいる人たちの思考は戦中のまま停止してしまっているようです。しかも、“竹ヤリと大和魂があれば鉄砲なんか怖くない”という、戦争末期の頃の軍人の思考です。戦前の政治家はもっとまともだったように思うのです。でも、優秀な政治家は軍部によってどんどん殺されたり、失脚させられてしまいました。そして、日本はあのような形で負けました。戦後、日本は新しい国を創るはずでしたが戦争に批判的な意見を言った人たちが政治の舞台に戻ってくることはありませんでした。そして、戦争中と同じ人たちが政治を継続したのです。学校でも“鬼畜米英”と言っていた先生がそのまま同じ教壇で、戦後は“自由は素晴らしい”という授業をしたのです。だから、政治の舞台でも、学校でも戦争への徹底した反省が為されなかったのです。安倍さんではないですが、たしかに日本の人たちが輝いていた時代もあったのです。素晴らしい政治家もいっぱいいました。だからこそ、(良くも悪くも)日本はこんな短期間で欧米に追いつくことが出来たのです。でも、それをつぶしたのが軍部の圧力なんです。そしてそれは今の政府のやり方と似ています。その悲劇を繰り返してはいけません。じゃあ、どうしたらいいのかというと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動出来る子どもたちを育てるのです。そしてそれは聞いて、考え、理解し、表現出来る子どもたちです。なぜなら、聞いて、考え、理解し、表現出来ない子は他者に依存するしかないからです。そして、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動出来る子どもたちが増えていくとき、世の中は多様化していくでしょう。色々な生き方、考え方の人が生まれてくるでしょう。でも、そのように異なっていてもバラバラにはなりません。話し合い、支え合い、補い合うことが出来るからです。それが“心豊かな社会”です。私は“美しい国”よりそんな“心豊かな国”の方が好きです。“美しい国”と言われても何のことだか分かりません。私は、心豊かな人、心豊かな国こそが美しい人、美しい国なのではないかと思うのです。安倍さん、今からでも変えませんか。支持率がアップするかも知れませんよ。
2007.01.02
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明けまして おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。以下は今朝の鎌倉の写真です。大晦日から材木座の実家に泊まっていました。今日の朝、8:00の鎌倉の八幡様です。勉強の神様、菅原道真を祭った「荏柄天神」です。受験を控えた方は、手を合わせて・・・冗談です。長男が受験生なので、8:00頃にお札をもらいに行きました。寒かったです。大晦日はつまらない番組ばかりで、紅白を見たり、格闘技を見たり、あれこれチャンネルを回して時間を過ごしていましたが、途中1分ほど討論の番組を見ました。政治家の「ハマコー」さんなどが出て、教育のことについて言い合っていました。ある人は“昔の寺子屋では休みは50日だけだったんですよ、今の学校よりも勉強していたんですよ”などと言い、またハマコーさんは“国を大切にする、お母さん、お父さんを大切にする、そういう子どもを育てるのが教育の目的でしょ”(言葉ははっきり覚えていませんが、内容的にはこんなことです)と言い、それに対して、別の人が“教育は個人のためでもあるのですよ”と言い返し、するとハマコーさんは“そういう考えは社会主義や共産主義の考えだ”と言い返し・・・・。と、そこまで見たら子どもが“つまらないから変える”と言い、私も“これはどうしようもないな”と思ったので、紅白に回しました。それであらためて思ったのは、“日本人は話し合いが出来ない国民なんだ”ということです。総合格闘技の試合では、様々なジャンルの格闘家が参加していますが、ちゃんと共通ルールを決めて戦っています。そうでないと試合ではなく、喧嘩になってしまいます。でも、その討論番組ではみんな違うルールで、感情的に言いたい放題に言い合っているだけでした。そもそも授業日数だけを比べても意味がありません。また、個人を大切にしない教育こそが共産主義、社会主義の特徴であることをハマコーさんはご存じないのでしょうか。(でも、個を大切にするということは国より個人の方が大切だという考え方ではありません。それは、“人の生命は地球より重い”などという馬鹿げた論理と同じです。この両者は比較するものではないし、比較出来ないものです。)このような討論をいくら重ねても溝が深くなるばかりで解決策は見えてきません。どうして、もっと冷静に本質的な議論が出来ないのでしょうか。それとも、この番組はただの“見せ物”として、そのような罵り合いを演出しているのでしょうか。民主主義では多数決が大切な働きをします。でも、その多数決が正しく意味を持つためには、きちんとした話し合いが必要なんです。ちゃんと資料を揃え、相手の理性、感情、感覚に届くように、疑問に答え、客観的、具体的、協力的に話し合うことが必要なんです。そういう話し合いをきちんとした上での多数決だからみんなが納得し、数が大切な意味を持つのです。その話し合いが出来ない組織は権力集団が支配するファシズムに過ぎません。なぜなら、つねに権力者こそが多数派だからです。でも、その話し合いの技術を日本では学ぶ機会がありません。学校も、政治家もそういう話し合いの場を設定しません。いつでも、“まず結論ありき”の話し合いばかりです。昔は、地域社会そのものの中に、秩序が組み込まれていました。人は秩序の中に生まれてきたのです。ですから、人々はその地域社会の中で自分の役割を果たしているだけで、社会の秩序は守られていました。でも、いまではその秩序は崩壊しています。ですから、代わりに個人が他の人とつながり合って秩序を構築する能力を持つ必要があるのです。それが話し合いの能力であり、その能力の上に民主主義が成り立っているのです。ですから、話し合いの能力を持たない人たちに民主主義は運営出来ないのです。そして、子どもたちにその話し合いの能力を身につけさせることこそが民主主義の根幹を守っていくことにつながるのです。でも、いつもここで悩んでしまうのは“それを誰が教えるのか・・・”ということなんです。
2007.01.01
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