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祝70000カウントですね、、きっと今日は(o^-^o)\(^▽^)/\(^▽^)/\(^▽^)/みなさんのお陰です。本当にありがとうございました。☆blogランキング☆←ぜひクリックで応援宜しくお願い致します。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇車椅子の娘の思い。「ママどうして車いすのおもちゃがないの?」3才の小さなあなたが言った言葉をママは忘れていません。たしかに、、そんなことは考えたこともなかった。そして娘の車椅子を押しながらヘルパーのお仕事をしながらたくさんの方々にお会いして感じた気持ち。こころのバリアフリーを伝えるおもちゃを作成したいという思いへ。色んな気持ちに触れて 色んな思いを重ねて私は楽しく遊んでこころで感じる 心のバリアフリーを楽しく学ぶおもちゃを考えました。しかし、、そんなものやってどうすると誰も興味を持つはずがないと散々言われやめとけとマイナスな言葉をいっぱい聞いたけれど私の思いは何があっても揺るぎないものだったようでとうとう木型作成段階へ。今現実化へと向かっています\(^▽^)/いくつ作成するか?どれくらい発注をかけるか、、、?経済的なこと 不安もよぎるけれど私にはどうしても実現化したい強い思いがあります。でも弱い私もいて「はあ、、なにしてるんだろう、、」って思うときも。きっと誰もがそんな気持ちの戦いなのかもしれませんね。私にも弱虫conaもしっかりいるのだけれどたまに自分からバイバイしてまったく相手をしません 笑しばらくぼっとしていると娘の「おかあさ~ん おかあさん」っていう声と笑顔が浮かんでくる。前を向こう、、とこころを切りかえる。おもちゃ(教材)より先に こころに優しく届けるのには絵本を作ってみたらいい、、とあるときアドバイスを頂きやったこともないのに 「やってみます」と即答。「こころのバリアフリー」のことを描いた絵本、一冊目はなんとか出来上がりました。さてこれもどうなるか?先が見えないけれど道つけなきゃ、、ね。自分で。道ないんだから、、つけなきゃしょうがない 笑近いうちに私は東京へ行きます。ある出版社へその道がつくかどうかはまだわからないけれど。でも信じよう未来を。もうチケットは買ってある。子どもたちへそして心が傷ついた大人たちへ伝えたい想い、、出版の道はつくか、、?そしておもちゃはどうやったらいちばんよい方法で日本中に広がるかな?明日もガンバリマス(o^-^o)!☆blogランキング☆クリックで応援宜しくお願いします♪
2005.06.30
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~小学校1年生の感動した想い出から~☆blogランキングへ☆↑こころのことを一人でも多くの方に伝えたくてブログランキングに再登録しました。みなさんクリックで応援宜しくお願いします(o^-^o)本日1000位→276位へ♪~楽しい遠足の前に♪ 大好きなM先生とクラスメートと~◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇車椅子の娘は地域の公立小学校の一年生になりました。ももの補助の先生は「学習ルーム」と呼ばれる養護担当がはじめての新人のM先生でした。「お母さん 私は何もよくわかりません だから気がついたことはなんでも教えてください」先生は養護担当がはじめてだったけれどいつも謙虚で一生懸命でした。そんなお言葉を頂いたからこそ私は何でも先生と気軽にお話をすることができました。私は先生にたったひとつのことをお願いしました。「どうか彼女のの心を見てください、感じてください」やりたい気持ちはみんないっしょ。自分では身体を微調整できず ずっと車椅子に座りっぱなしの気持ち。本を開こうと思ってもページを開けないもどかしさ。書こうと思っても思うとおりに手が動かない気持ち。それは私たちが利き手でない方ですべてノートを取りなさいごはんを食べなさいといわれているのと同じかもしれません。先生が普通に子どもたちに指示することは彼女にとったら 足で上手にスプーンを使って食べてみなさいと言われているのと似てるのかもしれません。周りのお友達がみんなできて自分だけ 思うように身体が動かずそこにいるのは見えないストレスがかなりあると思います。もし自分だったら?と考えると感じるといろんなことが見えてきます。そんなことはただ車椅子に乗っている彼女を見ているだけでは決してわからないことで その心を見ようと感じようとしなければ気づかないことかもしれません。ただ表面だけを見る教師とその心を感じることができる教師を私はずっと見てきました。そんななかそんなことは周りの人にはこれっぽっちも感じさせずももは小学校が大好きになり 精神的にも大きく成長しました。新しいことを知ることが大好きな娘。学校は彼女にとってわくわくとても楽しいところとなりました。そうなれたのは 担任先生、そして補助の先生のクラス作りのお陰でもあると思っています。教師の言葉かけ1つで 子どもたちのものの捕らえ方は大きく変化します。そして子どものチカラを伸ばすのは周りの子どもたち。こどもたちのチカラがとても大きいと私は知りました。補助の先生は3人の障害を持った子を受け持ち一年の時は週9時間ももを担当して下さいました。1年生の時は養護の子どもたちのための「学習ルーム」へほとんど行くこともなくクラスでともにすごしました。先生の補助があったので授業も遅れることなく宿題も自分で時間はかかってもこなすことができました。また先生は 終わりの会などの時も出来る限り一年生のももについて下さいました。毎日ももかの状態やこころのことなどを必ず連絡帳に書いて下さいました。時には「今日こんなことがあったからおうちで思い切り誉めてあげてください、、」「きっと悲しかったと思うので話を聞いてあげてください」と書かれていました。そして先生がよく書いてくださっていたのは「ストレス」のこと。よくがんばってる、十分にがんばってるからこそ誉めてあげてください、、との言葉でした。先生とのノートは1年生の終わりまで毎日続きました。ももは毎日のように家に帰ってくると「M先生が大好き」という話をしました。先生の名前がでるとももはきらきら笑顔になりました。その笑顔でそのままに学校生活の状態を知ることができました。先生との2冊のびっしりと書かれた交換ノートは私たち親子の大切な宝物となりました。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇先生の謙虚さのお陰で私は心が開けたのだと思います。だから何でも先生にお話ができたしお互いによい関係を築いていけたのだと思います。「謙虚さ」は学びの基本。人間関係を含め すべての基本だと思います。私が素敵だな、、と思う方々はいつも前向きで楽しくて実に謙虚であるという共通点をお持ちです。人間には立場があっても上下はありません。みんな大切なひとりひとり。私も「謙虚さ」を生涯大切にして自分を見つめていきたい、今の自分から常に成長して素敵な女性になれるよう日々努力していきたいと思います(o^-^o)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇blogランキング☆クリックで応援どうぞよろしくお願い致します♪
2005.06.30
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昨日 娘のももは始めての野球観戦デビューでした。大好きなミップルちゃんも連れていきました。写真はももと親友ゆきちゃん(右は私の親友でもあり ももの親友でもあるゆきちゃん。ゆきちゃんとももは大の仲良し。 ゆきちゃんとももは 将来一緒に働きたいと言ってるほど(o^-^o)←マジで。ゆきちゃんが一緒だとももの笑顔がいっぱいになります。そんな大好きなお姉さんです。そしてそんなきらきら笑顔を見るたびに私はしあわせな気持ちになります。(ゆきちゃんいつもありがとう)これが大阪ドームの車椅子席です。左側に車椅子マークが見えますか?ここです。介助者として一名まで横に座れます。自分の席を選ぶか、車椅子スペースを選ぶかになります。ドームのコンサートの時もこのスペースか、または席の後ろに設けられた少し段がある特設の車椅子スペースに誘導されます。オリックス 楽天戦で私たちはオリックスの応援♪ももさん張り切って応援していました。それはもう大きな声で・・・応援団長のように、、爆笑おとなしい子ども時代をすごした私には私はたまにこの子が我が子なのか?と疑うことが、、、マジであります。そしてそれは一度や二度ではなく限りなく、、、(〓 ̄(∵エ∵) ̄〓)私もゆきちゃんも一緒にいったsakuraさんもももに「そこ応援足りへんで~」と何度も叱られました(* ̄▽ ̄*;「はい、、すみません、、」と頭を下げる私たち。たまに応援してるかのチェック厳しかったです 爆笑あの~あなた初めてきたんちゃうん???もも 常連のおっさんみたいでした。ももの元気なその声と真剣な応援にみんな振り返ってでも子ども声なので見て微笑んでにこにこしていました。そこに事件が、、、もも反対側の楽天も応援し始めたのです。一人ひとり名前を呼んで。(* ̄□ ̄*;(* ̄□ ̄*;(* ̄□ ̄*;「もも ももは今日オリックスの応援にきたんだよ」っていうと「みんながんばってるから応援してあげないと」ともも(* ̄□ ̄*;それはすぐ理解したようでやめたけれどこれが阪神戦だったら 私たち4人は袋叩きにあってたと思います 笑今日は観客が少なくてよかった、、、(。-_-。)汗もも「あ、、でも楽天勝てばいいなあ、、」と言ったと思ったら9回の表 プロ野球らしいナイスプレイでオリックスが勝利♪そうしたらももは「よかった オリックスが勝って♪\(^▽^)/」なんやねん それは、、 Σ\( ̄ー ̄;)十分に楽しんで家へ。寝顔が笑っていて それを見て笑ってしまった私です (o^-^o)思いっきりストレス発散できてよかったね♪ホームランも盗塁もナイスプレーも見れて実に野球を満喫しました♪もも野球にはまったりして、、、個人的には阪神の赤星選手を応援しています(^ー^* )♪blogランキングへ↑こころのことを一人でも多くの方に伝えたくてブログランキングに再登録しました。みなさんクリックで応援宜しくお願いします(o^-^o)
2005.06.29
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人生に無駄なことはひとつもないと私は思っています。与えられるどんなこともすべて。そんなことを教えてくれたのは小さなあなたでした。今の私はただあなたがそこにいて存在してくれているそれだけで毎日倖せを心にいっぱいに感じるのです。ありがとう、、ありがとう、、と感謝の気持ちがあふれるのです。母の気持ちを揺さぶり 動かす小さなあなたの力はすごいね。ママは未来を見つめているよ。そして今を楽しみ 全力投球で今を生きているよ。ももちゃん生まれてきてくれてありがとう、、ももちゃんのお母さんになれてよかった。大好き、大好き、だ~いすき(o^-^o)お母さんはももが大好きだから。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇【こころのバリアフリーを伝えるおもちゃを開発】ただ今もっと面白くできるように他のパーツも作成中。もっともっと楽しく♪サンプル会社さんと金曜日最終打ち合わせ。オッケーならば翌週には木型へ。ここから先大きく資金がかかってくるのでどうしていくかの壁を今乗り越えるところです。あのお金ないんですけど。本当にないんです。生活ぎりぎりなんです。これ本音。でもカタチにしたいんです。どうしてもどうしてもどうしても絶対にカタチにしたいんです。ない頭を振り絞り面白いアイディアを考えています、、私には無理という条件はそろっています。でも無理と思わずやってみるしかない、、、どうしても日本中に広げたいから。待っている子どもたちが必ずいるから。未来の子どもたちのために。神様、弱い私に勇気とチカラをお与えください。【こころのことを伝えるバリアフリー絵本】車イスの子や車イスの天使さんも登場♪こころがふわっと柔らかくなるかわいいイラスト入り(自画自賛 笑)子ども用に書いていましたが 大人も読める内容に仕上がりました。読んだら必ずしあわせになってしまう愛情いっぱいの魔法がかかっています(o^-^o)私が障害を持つ愛する娘からプレゼントしてもらったもの、気づき 学んだことがこころにそのままに届くように温かい言葉でちりばめられています。本当に大切なもの。あなたが真にしあわせになるために、、こころをこめての私からのメッセージです。ただ今出版社の方に見て頂いている段階です。こちら連絡待ちです。出版社さんお願いします!お願いのお願いです。心が傷ついた大人たちにも必要なメッセージです。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇今日はももちゃん初めての野球観戦♪\(^▽^)/オリックス対楽天です。大阪ドーム 車椅子席等取材してきます 笑今日もみなさんにとって笑顔いっぱいハッピーな一日になりますように!\(^▽^)/’’’’’’’’’’’’笑顔と元気をプレゼント♪。・:*:・゚★,。・:*:・゚☆ (*⌒▽⌒*) 。・:*:・゚★,。・:*:・゚☆届いた?◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇blogランキングへ↑こころのことを一人でも多くの方に伝えたくて再登録しました。みなさんクリックで応援宜しくお願いします(o^-^o)
2005.06.28
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本日はブログを2つ書いています。ぜひ読んでくださいね♪◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇昨日はご紹介を頂いて車イスの発明家のプチハウスななの栂さんにお会いしました。彼女はユニバーサルデザイナーであり福祉コンサルタント、その他色々なお仕事をなさっています。ももは「わあ、、素敵 ももちゃんもなりた~い!」とお会いするのをものすごく楽しみにしていました。駅のマニュアル作成や色んなアイディア商品など。そのパワフルさには本当に驚きました!何度すごすぎる、、を連発したか、、。明るく豪快、前向きな栂さんに出会えたこと、、感謝です(o^-^o)私はももに夢を持たせてあげたかったのです。ももにもできることは無限にいっぱいあるんだよ!って。きらきら輝いている素敵な女性にあわせてあげたかったのです。私の作成中のこころのバリアフリーを伝えるおもちゃを見て頂きました。絵本のことも色々とアドバイス頂きました。学びが多い一日でした。柔軟で色んな方向からモノを考え、作成、行動化される素敵な方でした。出会いに感謝、これからもどうぞ宜しくお願い致します。ももは人との出会いが大好き。昔はものすごい人見知りが強かったですが5歳ぐらいから人懐っこい子に大変身 笑すぐ誰とでもお友達になってしまいます。大人子ども関係なく、、仲良しに。色んな方に出会い 色んなお話を伺うことも大切な経験。何事も経験、、の積み重ねです。幼いうちから色んなことを自分で見て感じて吸収して学んで欲しいと想っています。私の夢は少しだけ前へ。まだカタチにもなっていないのに来年の関西のバリアフリー展で一緒に出展しましょうね、、みんなで手をつなぎあっていきましょう、、とお言葉を頂きそんな栂さんの精神に学び、温かさを感じた一日でした。絵本を読んで下さり 方向性が同じと感じて頂けたことは本当に嬉しいことでした。来年の春のバリアフリー展、、、いつか、、できたら、、と想っていたこと、、このおもちゃを通じてたくさんのドラマが生まれると思います。色んなカタチにそれぞれにデザインすることができると思います。たくさんの子どもたちにそして大人たちにも優しい輪がひろがっていったらいいな。実現化目指して目の前の壁を越えることまずは今これこれ♪(o^-^o)夢、、ブース、、そこには退院して元気なももちゃんもいます(o^-^o)ご紹介くださった素敵なご夫婦にも心から感謝申し上げます。こころをこめて
2005.06.27
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みなさん 昨日は温かいコメントをありがとうございました。とても嬉しかったです。ひとつひとつのコメントが心にしみました。本当にありがとうございます。感謝の気持ちををいっぱいこめて、、、◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇【週末のもも】土曜日 午前中は近所の商店街にお買い物に。骨の状態がいまいちのももに韓国のキムチや食材のお店のおばちゃんが「テールスープを煮込んで作っとくから必ず土日きなさいね!」「絶対よ!」と明るく声をかけて頂いたのがしばらく前。本当にありがたいことです。行ってきました。「ももちゃん待っていたよ(o^-^o)」とおばちゃん。テールスープの他にもお店の韓国ののり巻き、キムチなどご馳走になってしまいましたm(。-_-。)mももは今 お金の勉強中でくまさんのピンクのおさいふに1250円を入れて計算機を持ってのお買い物中。お金を払いたくて仕方がありませんでした。はるさめとオイキムチ、黒豆の煮物を買いました。ここのキムチ類は子どもでも食べれるしフルーティで美味しいんです。お財布からお金を出して計算するのですがなんだか多い 笑「出しすぎやん それ」、、そんなももちゃんです。お金の計算の旅、、これからしばらく続きそうです。お店にいらしたおばあちゃんに韓国語で数字を習いました。ありがとうとこんにちはを学びました。おばあちゃん、おばちゃんありがとう!(o^-^o)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇午後ももとおりがみをして遊びました。ケーキを作成。最近はこんなふうにリアルなケーキが作成できるんですよ。これ折るのちょっと難しかった、、(。-_-。)けれどどんなふうにケーキができあがるのか?私までわくわくして楽しみながら折ることができました。ももは嬉しそうに私が折るのを見ていてへんなおりがみの応援歌を歌ってくれました 爆笑とっても怪しい歌 笑ももはいつも即行でへんな面白い歌を作って歌います。昨日は「ケーキのおりがみの歌」そして夜はブルーベリーのヨーグルトが食べたくて母にお願いして母が冷蔵庫を開けるまでの間「ブルーベリーヨーグルトの歌」というのを創って歌って自分ではまって大笑いしていました。→かなりあほ(爆笑)さて元にもどってケーキをすべて作成。やっと出来た、、( ̄□ ̄;)ケーキや「ももや」(「momoya」か?)本日開店しました♪ももやのケーキ6個しかないので早い者勝ちですよ 笑子ども銀行のおもちゃも準備して嬉しそうなももでした。「本日美味しいケーキの販売があります。ももやへお越しくださいませ」とアナウンスするもも。私はデパートガールになりきり(笑)「本日はももやデパートをご利用頂きまして真にありがとうございます。本日8階催事場におきまして とびきり美味しい、世界一美味しいと評判のうわさのももやのケーキの試食販売がございます」とアナウンス。もう大喜びでにこにこはな丸笑顔全開に♪笑でも もものケーキ屋、、「おいくらですか」「2万円です」( ̄□ ̄;)!!「お宅のケーキ高いですね」「いえ200円でした」「これ下さい」「それは売れません。○○さんに食べさせてあげたいので」「じゃあこれください」「もうありません」( ̄□ ̄;)!!(すぐ売り切れるし、、買えない)しばらく我が家では週末にももやが開店しそうです。
2005.06.27
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☆レントゲン結果と皆さんへのお願い☆前日に電話があり 急遽朝8時半 レントゲン結果を聞きに行きました。医師からの説明では 術後の回復は早かったが左の股関節の状態がいまひとつで 股関節が安定せず骨が定位置にあったり抜けたりしていて甘いとのこと。骨切りの手術も検討するようにとのことでした。左だけ、または両方。そしてしないチョイスもある。安定しないので足を45度に広げてLLBという装具で24時間の管理体制が続いているけれどまだしばらく股関節の状態がよくなるまでこれは続きそうです。医師からオッケーがでたら足の開きをもう少し狭めることが出来て通常の自分の車イスに乗れます。医師からは セカンドオペニオンも聞いて早急に、かつよく考えた方がよいとお言葉を頂きました。(私が聞いた上でよく判断するのを先生はご存知で気を使ったり悩まないようにレントゲンも即手続きをして貸して下さった。実にレントゲンひとつをお借りするのも許可を得なければならず大変なのです。。。先生に感謝、、です) 手術をするならば7月か8月とのことで退園の時期は3月となりなんとか来年の新学期には間に合うとのことでした。しなくてもあと少なくても3ヶ月は足の様子をみないといけない状態。早くても退園時期は10月か?手術をしても ももは歩けるようになるわけではありません。同級生はきっとももが歩けるようになると思ってるのかもしれません。ももは小学校に帰るのが怖いみたいです。歩けるようになるならば手術はさらに必要なのかもしれません。でも ももにとって「歩く」ということは夢のまた夢で医師からはできても「歩行器」止まりと言われています。前回の手術は股関節の骨を削っていてこのままでいくと痛みが走るようになるといわれて私は手術をチョイスしたのです。すべては股関節のためです。「骨切り」をする必要があるのか、どうか。実に悩むところ。もう十分すぎるくらい十分にがんばっているしがんばりすぎていると思います。PTの訓練の先生がももにわかりやすく手術の件もほのめかしてお話をしてくださいました。ももは言ったらしいです。「がんばります!(o^-^o)」って笑顔で。私はそのお話を聞いてもういいよ、、そんなにいいよって思いました。先生も同じお気持ちだったと。PTの先生は20年のベテラン。先生にも伺ってみました。先生は ももが今とても伸びている時期なのでPTとしてはあと3ヶ月は様子を見たいとのこと。私も同様の気持ちです。もう本人の気持ちも考えて手術はしたくはありません。もし手術になったとして来年の春に間に合わなかったとしても私は別にそんなことはたいしたことではないと思っています。赤ちゃんの頃からずっとそっと彼女の成長をそのままに見守ってきた、、新学期に間に合うのはいいのかもしれない。でも 今の私にとってはそんなことはこれっぽっちも大したことではなくて大切なのは彼女だし彼女の気持ちなのです。周りに合わせようとは思ってはいないのです。彼女のペースでそのままにでいいと思っています。時間はまだいっぱいあるのだから。私がOTの先生にお話したチョイスは娘の為に3ヶ月間真剣に祈ります。といったら先生はお母さんからそのチョイスがでるとは驚いたと にこにこ笑っていました 笑祈りの純粋なエネルギーのチカラはすごいと思う。うちのあまり元気がなかった観葉植物さん愛情をこめて言葉をかけてお水をかけていたらすごい急激に新芽を出しありえないくらい素敵に成長しはじめた。それは目に見えないエネルギーもプラスされるから成長が加速されるのかもしれない。学んだ遠隔でのレイキもその他学んだことも活用してみたいと思います。真剣に祈ろうと思います。でもみなさんにも心からのお願いがあります。私の祈りだけよりも祈りのチカラは多ければ多いほど強くなります。みなさんどうか力を貸して頂けませんか?もう十分にがんばっているから手術はさせたくないのです。どうかよろしくお願い致します。医師には歩けるようにはならないと赤ちゃんの頃から言われ続けてきました。でも私は歩けるようになると信じてあげたいと思っています。心をこめて.:*:'゜☆.:*:'゜♪.:*:'゜☆.:*:'゜☆.:*:'゜♪.:*:'゜.:*:'゜☆.:*:'゜ココロのバリアフリーを伝えるおもちゃ&絵本実現化に向けて♪(o^-^o)☆ブログランキング☆クリックで応援してください。みなさんの気持ちがとっても励みになっています。いつもありがとうございます♪
2005.06.26
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5年間使っていたエプソンのプリンター カラリオが壊れました。( ̄□ ̄;)!!( ̄□ ̄;)!!( ̄□ ̄;)!!ピンクの線がどうしても入って消えなくなってしまいました。修理へ。なんと5年間保障に入っていたと思ったら入ってなかった( ̄□ ̄;)!!修理代1万500円の見積もりでした。直すべきか、、新しいのを買うべきか、、古いタイプのプリンターの方がインク代が安いみたいで新しいのは印刷速度がもうそれは違う、、し。修理に2週間とのことで 仕事でそんなにまっていられないのもあり、、数日悩んだ?結果 新しいのを買うことに。まず値段を価格comで確認。(価格.comでわかります)売れ筋商品をチェック。(ランキングが出ています)最安値を調べる。大手量販店のネットショップを確認。(○フマップや○ョーシンなど)電話でお店の価格とキャンペーンをしていないかを調べる。お店によってはキャンペーンで5000円差がでることもあり。(でも最近は電話価格を統一にしているお店も)最安値に近く ルピー(ポイント)のもどりもあり5年保障がついているところを選びました。同じ商品で5000円近く価格が違いました( ̄□ ̄;)!!いちばん安かったのは○フマップでした。それは通常のお店ではなくネット上のお店。20%のポイント還元をしていたから。やっぱり人件費がかからない分安いのね。。。。。キャンペーンもありほぼ最安値。送料も無料(お店は500円だって)実際のお店の商品は1000円くらい高かった。ネットショップの方が気持ち安いけれど商品を実際に見て店頭の方の意見も聞きたくてちかくの○フマップまで散歩に。でも○フマップは土日安くなるので注意 笑迷ったけれど週末は娘ちゃんとともに、、だからあまりそのようなことに時間をかけたくない、、のでちょっと話を聞いて「これ下さい」すぐ決めました。店員さんは実に簡単なお客だと思ったことでしょう 笑ジョーシンも明日ちらしがはいって安くなる商品があるとのことだったけれど。。。ある程度割り切りも必要~即決の代わりに別売りのUSBケーブルと紙類などをつけてもらいました(o^-^o)これでネットショップと同じ価格。ほぼ最安値となる。今回は5年保障にしっかりと入った♪プラス1000円(o^-^o)今回はキャノンにした。キャノンpixus ip4100。複合機タイプも考えたけれどスキャナーももってるし他の機能はそういらないと判断。これがちなみに今人気でいちばん売れている商品。プリンターさんこんにちは。大切に使うからこれからよろしくね。玄関に届いている箱。見ていちばん喜ぶのはもも。プリント大好き。今日はいっしょにセッティングしたいと思います~♪(o^-^o)さて先生の面談。行ってきます♪どきどき。
2005.06.25
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朝看護婦さんから電話。レントゲンを撮ったのでできるだけ早く面談をとのこと。明日の朝8時半に決まった。そんなに急ぐ必要があるの?術後の回復は早かったけれど左の股関節の状態がいまいち固定しない。最悪骨切りの手術との話、、がちらっと出ていたけれど、、、?もう2度と手術はしたくないもも。私ももう十分、、もうさせたくない24時間装具をつけて毎日訓練ともう十分がんばっている、、、十分すぎるほどに、、神様見て下さっていますか?見てくださっていますよね、、きっと、、朝から泣いてしまいました。弱いなあ、、、そうやって心のバランスをとってるのだと思います。もものことになると強そうでいていつも心はガラス細工のようになってしまいます。私はいつまでたっても弱いです。検査結果を聞きに行くのはいつになっても慣れない、、です。もものこと、私がしんじてあげないと、、。未来も、、ちょっとこころのつぶやき、、です。突然ももの「お茶犬」のおもちゃが鳴りました。本当、、突然に。「きゅんきゅん クンクン♪きゅんきゅん♪」(元気出して♪って聞こえました)ももの涙ではなくてももの笑顔が浮かびました。
2005.06.24
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だからこそ、きっとできることがある。だからこそ、感じることが出来る。だからこそ、見えないものが見える。想いをカタチに。ひとりひとりに大切な役目がある。そのままの自分を700%発揮したい。夢そして希望。今 勇気を出してできることをできるところまでやってみたい。けっしてあきらめない。不可能を可能にしていきたい。どこまでも挑戦していきたい。伝えたい こころのこと。作りたい みんなが嬉しいもの。手にとって思わず笑顔になるものを。いつも わくわく感と遊び心を大切に。(o^-^o)blogランキングへ↑こころのことを一人でも多くの方に伝えたくてブログランキングに再登録しました。私が書いていることに伝えたいことにランキングには全く関係ありません。でも読んで頂けるチャンスが増えると思い再登録しました。みなさんクリックで応援宜しくお願いします(o^-^o)
2005.06.24
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最近電車の中で 車椅子だけではなく電動カートを見かけます。あの お買い物に行ったときにシニア世代の方々が乗られているあの乗り物です。あれが電車オッケーとは日本も変わったと思いませんか?思わず微笑んでしまった私です(o^-^o)さらにカートに乗ったおじいちゃんなぜか目的の駅で降りれなかったのです。周りにいた若い女性が突然「駅員さん!」って大声で叫びました。駅員さんがスロープを持って走ってこられました。駅員さんの「みなさんありがとうございます」おじいちゃんの「ありがとうございます」がとびかってなんともほほえましい風景でした。現実だけを見ると駅員さんの連絡ミスかもしれないし他の方を介助されていたのかもしれません。でも たくさんの人たちを乗せた電車を定刻に出すことは本当に大変なことです。この電車はちょっぴり遅れたかもしれません、、でも優しく動き出しました。以前駅員さんに伺ったことがあります。その駅は一日100回以上このスロープをつけるそうです。駅員さんいつもありがとうございます。私はしばらく前に毎日見ました。駅の改札の前で「ありがとうございます」「ありがとうございます」と頭を深々と下げて利用者の私たちに言葉をかけている駅員さんたちの姿を。それはカタチではなくて本当の「ありがとう、、」でした。こころからの「ありがとう」は 心にたしかに伝わってきます。さて元に戻りますがアメリカに昨年車椅子の娘と旅行した際驚いたのは車椅子同様にこの電動カートを利用している方が実に多いということでした。バスに乗り込む際は車椅子やカートが優先となり一般の利用者は完全に車椅子やカートの方々が乗り込んでシートベルトなども装着(5重になるくらい、、もういいよ十分と想うほど)完全に安全性が確認された上でバス運転手さんのオッケーが出たら乗り込めるシステムになっていました。それまでみんな列になって外で文句ひとつ言わず待つんです。ずるいとかじろじろ見る人もいません。笑顔でした。優しくお先にどうぞ、、というマナーがしっかりと根付いていて素敵だな、、と思いました。(最初はよろしいのですか?という気持ちでどきどきしながら乗り込みました)バスは車椅子、大きなカートを2台まで収納できるスペースがありちょっと大掛かりなリフトで上まで上がるシステムでした。たしか「ピーピー」と音もしたと思います。もうひとつ付け加えてアメリカの黄色いスクールバスは公立の学校に通う際のフリーのバスですがバスが生徒の家のそばやバスストップで止まる際必ず周りの車も止まらなければいけない規則があります。これには最初驚きました。子どもたちを守るための優しい規則なのです。
2005.06.23
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心のバリアフリーをつたえるおもちゃ(教材)はとうとう木型で型を起こす段階にきました。サンプル作成会社の社長さん、デザイナーさんも交えての打ち合わせです。私の想いは少しずつカタチに、、なんだかドキドキします。行ってきます(o^-^o)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇今日のももちゃんOTの訓練見学に♪習字をしていました。まじめな書道家のおばちゃんみたいで面白かったです 笑
2005.06.22
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ベランダでの家庭菜園の作り方を教えてください。どのような土でどのように始めるのがよいですか?最初が肝心。自己流に適当にすると挫折しそうなので。ハーブやミニトマトやきゅうりなどを作りたいです。宜しくお願いします(o^-^o)
2005.06.21
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今日は朝からベランダの掃除をした。窓やサッシの網目もお水をかけてきれいに。お水をかけるだけでも汚れがものすごく落ちます。物干し竿や干すための用具も洗えるものはお風呂場で洗ってきれいにぴかぴかに。排水溝もきれいに。観葉植物さんにお水と愛情もいっぱい注いでいらない古い葉っぱをごめんね、、といいながら切りました。新芽と新しい緑の葉っぱがとても若々しくていい感じ。キッチンと洗面所、お風呂場の水周りを洗いました。ぴかぴかに♪きもちいいな(o^-^o)お洗濯もオッケー♪火曜日は水周りの日に決めた。あ、、でも水周りの日は水だから水曜日がいいかな?決めないとなかなか難しいです。風水でも きれいなおうちでないとやはりよい運気はやってきません。水周りをきれいには基本、、(o^-^o)ですね。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇皆さんはお掃除の日やここを掃除するなど決めていらっしゃいますか?「こまめな水周りの掃除」「無駄なものは処分する」が今月のテーマです。テーマを決めないとばたばたと時間だけがただ過ぎてしまってできません(;_;) 一度には無理なので今日はここ!と時間を決めてやっていきたいと思います。おうちをきれいにするためにみなさんが心がけていること教えてください♪(o^-^o)
2005.06.21
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~3才訓練の先生と~☆弱い私の力の源、、momoca mylove☆《心のバリアフリーを伝える教材、、進捗状況》1 先週院内学級で突然自己紹介をするはめに。 その時に作成している「おもちゃ」と「車椅子の子もでてくる絵本」を紹介。 子どもたちの笑顔と予想以上に喜んでくれる姿を見て 心が震える(;_;) その時に研修に来られていた大学講師の先生と知り合う。 ○大学の学生さんたちにモニターをお願いする道がつく。 感謝、、(;_;) この二つの出会いで木型を作成する勇気を与えてもらう。 色々あるけれど、、、やっぱり私は心のことを伝えたい。 私はやっぱり子どもたちが笑顔になる瞬間を作りたいと思った。 勇気を出して前に進もう、、と決心した。 サンプル作成会社の社長さんへ連絡。 2 「やりますか!」と社長さんからメール頂く。 同じ素材で作成した商品、先月社長と新聞に出ていたけれど ただ今大ヒットでとうとうNHKにも出演とのこと。 日曜日デパートでもすごい反響だった。 社長さんお忙しいのにこんなお金にならないお話しですみません。 そんな私につきあってくださる社長さんにも感謝しています。 初めてお会いしたとき名刺には「人間力で勝負!」と書かれていた。 今まで色んな名刺を頂いたけれどいちばん印象的だったし そのとおりの方だった。 色んな質問をすると本当に親身になり色んなアドバイスを 下さるこの社長さんが私は大好きだ。 水曜日 サンプル会社へ。 社長さん、デザイナーさんと細かなご一緒に打ち合わせ予定。 とうとうだ、、 もう戻れない、、。 ドキドキ、、する。3 K社さんのご協力→保育園の園長先生へおもちゃと絵本の 企画書を見て頂く予定。 「心のバリアフリー」のこと幼い子どもたちに優しく温かく 伝えたい幼稚園のモニターも探さなくては、、 楽しくまたどうしたら子どもたちにとってよいものにできるかを 真剣に考えてくださる人を探したい。4 経営企画のプロの友人(自閉症のお子さんをお持ちの素敵なパパ)が リビング誌とコンタクトを取って下さる。 幼稚園へ配布する雑誌とのこと。 たくさんの資料を持って来てくれる(;_;) 助成金 資金面のことなど調べてくれると、、 ありがとう、、本当に。5 HPを見られた名古屋の発明家の方が資料等をコピー、 バインダーに細かにまとめて送ってくださる。 無農薬のたまねぎがいっぱいあるからももちゃんにと、、 本当にありがとうございます、、(;_;) 6 大切な心のことを書いた絵本の出版 以前からお願いしていた方から 某出版社とコンタクト中と連絡頂く(;_;) 企画へ持ち込んで頂く。読んで頂けるか。 道はつくか?まだまだわからないけれど。 出版の道は厳しい現実の壁。 その出版社の方もお子さんが障害を持ち天使になられたとのこと。 同じ思い、、不思議なご縁を感じた。 どうにかカタチにならないか 動いてくださっているとのこと。 9月放映予定の「仙台四郎」の映画(知的障害さんであり 商売の神様となった仙台四郎さんの感動のお話) でコラボできたらいいね♪というお話。 それまでにできるならば、、間に合わせたいけど 現状かなり厳しい、、がトライ。7 セミナーで知り合った素敵なご夫婦に 車椅子の素敵な発明家の女性を紹介して頂くことに、。 日曜日ももちゃんも一緒に♪ 楽しみな新しい出会い、、 きっと思う方向性は一緒。学びやきづきを頂く日になると思う。8 大阪産業創造館あきないエード スタッフから連絡。 卒業発表の時の緊張しまくっていた私のプレゼンを 聞かれていた審査員の女性の方から イベントでおもちゃをおいてみませんか、、とのお話頂いたとのこと。 9 先週フジテレビニュース報道の方からメール頂く。 「絵本」に興味があるとのこと。10 アマゾンで一位になった「輝く女性の生き方100」の2冊目に お声をかけて頂く。 参加することに決めた。 決めないと前に向いていけないから ドキドキするけれど 怖いけれどそう決めた。 わくらくさん 先輩方どうぞよろしくお願い致します。 夏、、原稿を書くまでに私は輝く女性になれるかな、、?まだ全然カタチになっていないからただ焦る最近。先はまだドアがいっぱい、、でもひとつひとつ開けていきたい。私らしく、、飾らずそのままに。みんなが笑顔になってしまう今までにない、楽しいものを作っていきたい。「わくわく楽しい!」が基本♪◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇《もものこと》ももの足の状態左の股関節の骨の状態いまいち。術後の回復は早かったが 骨の固定は全く先が見えない状況。訓練あんなにがんばってるのに、、と思うと複雑な心境。もう十分に十分すぎるほどにがんばってるからがんばれという言葉はかけない。「ママいつも見てるからね。いっぱいももががんばってるのも知ってるし本当によくやってるなあ、、っていつも思ってるから、、焦らずももらしくでいいよ」と伝える。ももぽろぽろ涙を流して「うん、、」と言った。むぎゅって抱っこしたら大泣きになる。いっぱい泣いていいよ。そんな気持ちを私はそっと受け止めてあなたのそばにずっといたいと思う。24時間 45度足を広げたままの装具固定 これで3ヶ月経過。離れたくない淋しいとたまに涙を流しても不平不満、愚痴1つ言わずがんばるもも、、は強いと思う。私が子どもの頃とは全然ちがうと思う、、あんなに大好きだった小学校。みんなと離れたくないと泣いていたのに。でも今は 小学校や学童のお友達には会いたくという。小学校に戻るのがこわいのかな、、あったらあったで嬉しそうなももだけれど。そんな微妙なこころの動きを感じる。そろそろ小学校にも正式にご挨拶にいかなくては、、ももの小学校は障害児30名近く。車椅子の子どもさんも7名ほどはいると思う。小学校に戻っても先生の数が足りず、、。ももが帰るスペースはないと思う。現実は厳しい。ママはあなたのためになにができるかな《嬉しかったこと(o^-^o)》恥ずかしかったけど 療育園の帰り道ももにと思ってひいたサンリオくじ。大当たり\(^▽^)/で かわいいキティちゃんの抱っこ枕が当たった。このキティは今までのキティではなくてふわふわの毛がついたおしゃれな最新キティでちょっとお気に入りなのだ。セブンイレブンのお兄さんが「お~~これは!!!!!!!」と 笑これももが眠るときあったら楽だな、、って思っていたやつ。めちゃ嬉しかったです。神様、天使さんありがとう、、少しは睡眠の手助けになるか、、な?大きな枕を抱っこしてスキップして帰りました (かなりあほ満開)ももきっと喜ぶはず♪次の土曜日が楽しみ、、(o^-^o)それまでママの枕にしてもいい?(内緒で)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇《お手伝い》OT協会のイベントlogoデザイン作成依頼あり。先生、みなさん気に入ってくださるか、、何かお役にたてることは嬉しいことです。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇《学び》今日、明日とお昼から夜にかけて待ちに待った、、楽しみにしていたある勉強会。今夜は斉藤一人さんと10人の社長さんの講演会。楽しみです。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇よいことが雪崩の如くみなさんに押し寄せますように♪今日もありがとうございます!(o^-^o)感謝をこめて
2005.06.20
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朝食のときに娘ちゃんから「ママ 父の日にはバラの花を贈るって本当?」と聞かれた。そんなの聞いたことないぞ。私はそれはお花屋さんのお花が売れるために仕組まれたものでそんなカタチは決まってないと伝えた。さらにバレンタインのチョコレートに関しても海外では、主に男性から女性に花束やカード、お菓子などを贈るのが通常。日本でチョコレートを贈るようになったのはお菓子メーカーがバレンタインデーに合わせてキャンぺーンを行ったのが始まりだと伝えた。「ももちゃん だいたいさあ チョコレートが好きな男の人ってそんなにいると思う?」しばらく考えて「あんまりいないかも」「でしょ?」「多分カタチのチョコレートは欲しいと思っても その中身のチョコレートをそんなに喜んでる人はどれだけいるかな~って 思うよ」「いつもありがとう、、とか大切に思ってると伝えるものだから カタチにとらわれちゃダメだよ♪(o^-^o)」と私が言ったらももは「まだ子どもだからわからないことばかり 色々教えてください」と改まって言った 爆さらにしみじみと「まだ生まれたばかり、、これから人生長いです」ともも。その言い方が面白くて可愛かった。ところが、、、、それから 算数の暗算の勉強をした。集中してやっていたが もういやになったらしい。「もう少ししようよ」といったら「もういい お母さんと絶交する」といわれた( ̄□ ̄;)!!絶交、、そんなことで 笑(* ̄□ ̄*;そして「じゃあ好きなように自分でやってください」と言うと「絶交はやめます。許してください。教えてください」と。「ももちゃんとお友達になってよ ママ」「絶交中止!ママ」こんなももちゃんです。
2005.06.19
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車椅子のももかと買い物に行くと街の商店街のおじちゃんやおばちゃんが声をかけてくださる。私一人が自転車で買い物の時も「ももちゃんは元気?」と声をかけてくださる。そのお店は不思議にもいつも繁盛している。ちょっと離れた別の商店街で最近美味しい韓国のキムチのお店を見つけてはまってしまった。実にフルーティで美味。辛いけれどからくない。ここのはももかもペロッと食べてしまう。お気に入りはオイキムチ(o^-^o)おばちゃんは「これももちゃんに食べさせてね」とパックに頼んでいないはるさめの美味しそうなおかずを入れてくれた。優しい韓国のおばちゃん もものなかなかつかない骨のことを真剣に心配してテールスープがいいと一生懸命すすめて下さった。おばちゃんが昔骨折したとき韓国で骨のためには赤犬かテールスープと言われたそうだ。「赤犬は食べれないです、、(犬好きだから♪韓国では食べるんですよね、、)「わかりました♪ありがとうございます」と行こうとしたら「来週ももちゃん連れて必ずきてね家にあるのもってくるから土日絶対にきてね」と優しく押し切られた 笑でも思いっきり笑顔で、、みなさんの気持ちがありがたいな、、と思う。じろじろ好奇の目で見る人もいる。そしてその逆といろんな人の心を感じる毎日は心に学びや気づきが多い。温かい街、、この街が好き。ももかのリハビリのために住みはじめた街だけれど誰も最初は知らなかったけれど気がついたら知らない間に私とももかの大切な街になった。多分私たちはずっと大阪に住むと思う。
2005.06.18
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8才の車椅子の娘と二人でアメリカへ 4 下調べと空港編大好きなアメリカ☆フロリダディズニーワールドへ電動車いすの旅 下調べと空港編(o^-^o)これから障害児持つお子様を連れて海外へ行かれるご両親のために実際機内で働いていた時のあまり聞くことができない?アドバイスも付け加えて書かせて頂きます。何かのご参考になれば嬉しいです。もっともっとお子様といっしょに色んなことを楽しんで頂けたらと思います♪◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇普段元気でもこんなときに限って、、と熱を出す子ども。旅行中は熱を出したりと特に子どもの体調は変わりやすいのでどきどきものです。機内で働いている時 私は何人もの発熱のお子さんに出会いました。体調不良のお子様やお客様は一人のキャビンアテンダントにその旨を伝えて頂くことで まずそのクラスのクルー間で周知徹底されます。さりげなく全員で気にかけて細かなケアーをします。何時に何℃、、その体調、顔色、経過等も見守ります。新婚旅行帰りのなぜかご主人も体調をくずされる方が多いです。安心してしまうからでしょうか。機内でできる看護やお手伝いは冷やすなどの基本的なことでもちろん最低限度のことですが 体調不良時は隠したりせずクルーに伝えた方が安心です(o^-^o)体調をくずされた場合はその経過をメモにとって経過がわかるようにしてクルーに渡すとわかってもらいやすいですよ♪嘔吐の場合もそんなに気にされなくても大丈夫。すぐに快適に過ごせるようにその場をきれいに♪うがい用のお水やおしぼりをお持ちします。また臭いも気になるでしょうが 機内には消臭用のスプレーがあるので安心して下さい。機内で準備できるものは、体温計、冷やすもの、簡易の風邪薬などです。酸素ボンベも定数あり。緊急時用のメディカルキットも搭載されていますがsealがされており緊急時以外は使用しません) ももはいつも元気だけれど長距離は初めて。今回フロリダまでは3回の乗換え、、通常の旅行は大丈夫だけれど娘のもしもの体調不良時のことを考えて日本の航空会社をチョイスしました。空港での貸し出し用の車椅子はあくまで大人用。ももの体幹がしっかりしないため 大人用に無理して乗るといつも不安定でずり落ちそうになります。空港内を移動するだけでそれを見守りながら歩くと疲れてしまいます。どれだけ空港内を歩くかを考えた上で今回は不安定になるという安全面の理由を伝えて 本人の車椅子をドアサイドまで利用希望しました。(空港には子ども用車椅子がありません。大人用に乗り換えてほしいとほとんどの場合言われます。現状のままでは実は厳しいです。大人用でも固定ベルトなどウエスト周りにしっかりとしたベルトをつけて頂くことでマヒのある子どもたちも使用可能と思います。各航空会社さん できましたらよろしくお願いします) 。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★さてさて今回利用の車椅子は電動を使うか普通の手動車椅子にするかぎりぎりまで悩みました。結果 電動車椅子にしました。それは手動車椅子だとご協力を得てたたんで利用できるものも電動だと重さもありバス等にそのまま乗れないかもしれない、、国によってその地域によって状況が違います。かえって専用のバスを待って時間がかかったり手間がかかったりする場合があるからです。本人にとって快適に楽しめるのはどちらか?手動のほうが現実簡単にたためる。電動車いすで移動はスムーズか?電動でどれも移動できるならば本人が自由に動ける電動がいい、、。大手旅行会社にも相談しましたが「ディズニーワールドは電動でも多分大丈夫だと思いますが、、」という曖昧な回答でした。(でも多分じゃ困るのです、、)ネットを利用してディズニーワールド大好き♪な方々の掲示板で相談。みなさんに「電動でもバスにのっていらっしゃいましたよ」「大丈夫!」「楽しんできてください!」とたくさんのお声を頂き 本人の楽しめる電動をチョイスしました。みなさんありがとうございます。(でも行ってみるまで母だけドキドキ、、笑)さて電動車いすには車椅子を動かすバッテリーが搭載されています。そのバッテリーには大きく分けてドライタイプとウエットタイプがあります。ドライタイプは問題ないそうですがウエットは危険物扱いとなるそうで飛行機への持ち込みは不可となります。ほとんどの電動はドライタイプの様ですが確かな確認が必要となります。確認は車椅子のメーカーへ問い合わせるか 車椅子購入時のパンフレットで確認できます。旅行会社にも聞かれますし チェックインカウンターでも細かく(しつこく)聞かれます。 日本は慣れていない地上係員が多く実に時間がかかりました。電動車いす自体にあまり慣れてない気がしました。車椅子にもバッテリー表示のシールや携帯できる証明書があればよいと思いました(車椅子の会社さんお願いします♪)アメリカのカウンターでは即オッケーをもらって実に対応が早かったです。それくらいアメリカは電動利用者が多いということですね。(実際に日本ではそのチェックの時間に5分~15分以上かかり、アメリカでは 数秒でした。対応の差は地上係員の慣れによると思いますが 日本の航空会社のカウンターでは毎回どの方もマニュアルで確認して 時間がかかりました。これから車椅子の方は増えていくと思いますので どうかよろしくお願い致します) 車椅子のバッテリーはセキュリティーを通過してドアサイドまで利用可能です。色々面倒な方や 空港内を電動から手動に切り替えられるタイプの車椅子の方は 不便でなければ チェックイン時にバッテリーも荷物と一緒に預けてしまってもよいと思います。そうそう予約時にチャイルドミールの予約を忘れずに。チャイルドミールにはいくつか種類がありますので予約時電話で確認して下さいね。成田発はおいしいけれど 外地発はその国の特色がでます、、と書いておきます。次は機内編へ続きます(o^-^o)
2005.06.18
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8才車椅子の娘と二人でアメリカへ その3☆障害児とパスポート写真とサインの巻☆去年夏娘の術前に行ったアメリカ珍道中のことを書きますね。8才☆電動車いす「プーさん号」の娘を連れての二人旅。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇今回ももさん(8才にして生意気にも)海外旅行でパスポート申請が必要でした。パスポートはこども用は5年のみで5000円。(子どもはすぐ大きくなってしまうから5年のみなのね、、、)まず最初の関門はパスポート写真でした。車いすでは証明写真を簡単に写すスピード写真は不可。写真屋さんだとフラッシュで目をぱちくりさせてしまって目を閉じてしまう。(突然の光やフラッシュが怖い)そこでデジカメオッケーとのことで(驚きました)自宅で挑戦!しかし~正面を向いたたて4.5cm×よこ3.5cmのもの1枚(他にも頭上のスペースは5~9ミリあける事、顔の大きさはタテ方向25~29ミリといった制限があり)無地の背景で正面を向いたもの。頭頂からあごまでが2.7cm±2mmの範囲に収まってないといけません。このサイズ調整が実に難しかったです。しかし無背景、しかも影が写ってはいけないとなると、簡単にはいきません。なんとか撮って申請。しかし一度目は不可でした。その理由は髪を結んでいたから。(え~こんなわかるかわからないぐらいに結んでいてもだめだとは、、)帽子やヘアバンド、サングラスの着用や、メガネの反射した写真等は不可とは書いてあるけれど、、、驚いた。そして笑顔だったから。そして顔がちょっと大きかった(顔のサイズが少しでも出ては不可) 爆窓口で「すぐそこで取り直しできますよ、、」と簡単に言われたが「あ、、車いすは入れないと思うので自宅で取り直ししてきます、、」と言ったら窓口のお姉さんはたしかに、、という顔をされた。その後優しく「郵送で写真を受け付けますよ」と言って下さった。ありがとうございます、、♪(o^-^o)自宅で再度取り直しました。再度といっても100枚くらい ( ̄□ ̄;)写真を撮ろうとすると笑顔になりまたは目を閉じるの繰り返しでまじめな写真ってとりなれていないから苦労。なんだか大写真撮影大会みたいになりました 笑(サイズのこともあるので実に微妙、、汗)デジカメで100枚位挑戦してやっと取れたのがちょっと笑いはじめる前の写真、それがもう限界でした。それにしてもこれ写真屋さんだったら何枚とらなければいけなかったかな~デジカメがあってよかった、、、サイズや彩度等はフォトショップで加工。なんとかオッケーか。しかしこのうすら笑いになりかけの写真でオッケーされるだろうか。またもや不可では、、、とよぎる。なんとかオッケーそうな写真2枚を郵送した。「使える方を選んで下さい。 よろしくお願い致します」とお手紙を添えて。めでたく選ばれたのは今にも笑いそうなぽっぺがふくらみかけたまじめ顔だった 爆笑さてもうひとつ困るかな?と思ったのはパスポートサインだったのだけど、、、小学生以上のお子さんは「申請人自書欄」には本人が署名します。漢字が書けない場合は「ひらがな」でも可。就学前のお子さんは親の代筆により申請書に記入することになります。ももは小学生だし、、自分で書かないとやっぱりだめかな、、?小さなスペースの署名枠に書くのは当時娘には実に厳しく窓口で相談。(書いたとしても アメリカ入国手続き書類等もすべてその後 本人が同じサインを書くのは ちょっと今の段階では厳しいかな、、と思った、、)身体障害者手帳を提示ですんなり母代筆オッケーでした。「父代筆(母代筆)或いは by father(by mother)」と記入します。それにしてもデジカメカメコ ありがとう、、100枚とってプリント代30円だった。さてさてももちゃん 車いすのプーさんを本物のプーさんに会わせてあげる(見せるではなくて)と張り切っていました(o^-^o)さて本物プーさんにどこであえるか、、?車いすのプーさんを彼女は自分で紹介できるでしょうか?明日に続く♪(o^-^o)PS パスポートの電子出願が平成17年3月から 一部の県で行われるようになりましたよ(o^-^o) 時代は変わりましたね♪ 北海道・東北地方宮城県(平成17年5月13日~)関東地方栃木県(平成17年3月31日~)茨城県(平成17年4月18日~)信越・北陸地方実施していません東海地方実施していません近畿地方実施していません中国地方岡山県(平成16年3月29日~)四国地方実施していません九州・沖縄地方長崎県(平成17年4月1日~)熊本県(平成17年3月28日~)
2005.06.17
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最近のももの訓練の様子です。もものOTの先生は新人の訓練士の先生です。水曜日のOTの時間は訓練部長の先生も来られて よりよい訓練指導がなされているかを確認、フォローして下さいます。いつも優しく温かく実に細かく様子を見て下さるので私も学ぶことが実に多いです。写真のももの後ろは実習生の先生です。手前が訓練部長 そしてOTの先生。まんなかがももです。実習生の先生にあとで「割り算の教え方を教えて欲しい」とお願いしていました。やり方ではなくてみんなで教え方を教えてもらうのは難しいねえ~となんだか面白い会話が、、笑 。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★術後しばらくしてOTの訓練の先生が変わりました。手術の日に担当看護婦さんも大好きだった看護婦さんもお辞めになり なんとOTの先生まで術後編成のため変わってしまうということでショックを受けていたぱんだ家でしたが、、、新しいOTの先生は新人の先生で正直最初は心配していました。(ごめんなさい、、先生)とても意欲的でしっかりしている上に謙虚な先生でまた子どもの心をよくつかむのがお上手で真剣に訓練に取り組まれています。ももちゃんは小さな声で「先生かわいいから好き」と母に教えてくれました 笑実際先生は山口もえちゃんに似ていて本当に可愛いです。女性が自立できる職業として高校時代から専門職のOTを目指していらしたとか。先生は看護婦にもなりたかった時期があったそうでその話を聞きながらももは 「もしなったら絶対病棟でも ももちゃん担当になってね」と言っていました。ならない、ならない~~ 笑この意味不明な会話が可愛かったです。今日の課題は絵の具を使っての迷路でした。迷路が大好きで もっともっとやりたい!と楽しそうで意欲的でした♪先生が用意していた課題をやり終えてしまったのでOTの先生が即効で作って下さったのがこれ♪「どんな迷路がいい?ももちゃん」会話の中で ももが「介護福祉士のNさんがすきなの」と若いお兄ちゃんの話になりました 笑(あ~~また変わってる 笑 と母は思った。 ももには好きなお姉さんやお兄さんがいっぱいいる)では指令を与えます!N君のハートをゲットせよ♪^^」きゃっきゃ言いながら 筆をもって迷路をたどります。「人生山あり谷ありだ!進め~~!! ぶつかっても乗り越えるのだ~♪」「ハートをゲットできるまではあきらめないのだ~~!」と先生盛り上げてくれてそれは楽しい訓練時間でした。 見ていてもそれは楽しそうでした。私も面白かったです。先生ありがとう、、、
2005.06.16
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昨日療育園に行った時に学校見学をさせて頂いたのです。子どもたちの後ろで見学していたところ実習生さんがこられ自己紹介をされました。そうしたら子どもたちから私も前で自己紹介をするように求められました 笑子どもたちの前で自己紹介をさせて頂いたときこの楽しい心のバリアフリーを学ぶおもちゃと世界初☆車いすの天使さんや車いすの子がでてくる絵本を作成していることを伝えて 偶然持っていたサンプル資料を子どもたちに見せることができました。子どもたちは「うわあ、、」ってすごく驚いて笑顔で喜んでくれたのです。その無邪気さが、、子どもらしい笑顔が私の心にいっぱいに伝わってきました。そこにいたももかもとっても嬉しそうでした。みんなも自己紹介をしてくれたのですがある女の子が「私はももちゃんのお母さんと色んなお話がしたいです お友達になりたいです」と言ってくれたのが とってもかわいくて嬉しかったです。この絵本やおもちゃ(教材)を通して もしかしたらとても子どもたちと仲良くかかわるきっかけをすべての人たちがつかめるのでは、、と感じました。また子どもたちは その絵本のひとつひとつの挿絵に喜んでそれは笑顔で反応してくれたのです。私の心は震えました。車いすの子がそのままにそこにいるということは子どもたちにとって本当に嬉しいことだったようです。「できたら見せてね!もってきてね」純粋な子どもたちの笑顔と気持ちをそのままに感じて 私の迷いは吹っ飛びました。これからかかってくる資金のことなどで本当にやっていけるのか goサインが自分の中でなかなかでなかったのです。みんな本当にありがとう、、、できたらいちばんにみんなのところに持って行くね。そして今日であった実習生の方に帰り際お声をかけて頂きました。その方は某大学の福祉関係で助手をされている方でした。現場を学びたくて週一回療育園で実習を受けてるとのことでした。そしてももたちの担当とのことでした。おもちゃ(教材)を 学生さんたちに実際作って頂き感想を頂く橋渡しをしてくださると、、ありがたくもご協力をいただけることになりました。本当に、、ありがとうございます。勇気を出して 製作過程に踏み切りたいと思います。まだまだ実現には壁ばかり、、、でも今日の子どもたちの笑顔を胸に忘れずに、、前を向いていきたいと思ったのでした。
2005.06.16
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泣き虫だった私 誰にも会いたくないと思っていたわたしからこころのバリアフリーを伝えるおもちゃ(教材)実現に向けての歩み 。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★。・゜゜・。☆。・゜゜・。★半年間 入居させて頂き実に学びが多く月1~2回のワークショップでの発表は実にドキドキものでした。人前で話すのが苦手な私は毎回その日がくるのが憂鬱でした。でもそれを重ねるごとに少しずつ少しずつ慣れていきました。時間感覚を持ち まとめて発表ことなど勉強になりました。即 入居時のプランは白紙にするように言われました(;_;) 0からの出発、先が見えなくて焦りました。約4ヶ月ほど色々考えて崩して考えて、、をくりかえしました。「私は何がしたいのか?」「何を作りたいのか?」を何度も問われ「そんなの作っても無理」とマイナスの声もいっぱい聞こえました。そんな中 最後まで「心のバリアフリーのことが伝えたい」という私の強い気持ちは変わることがありませんでした。先生方、先輩方、同期となった仲間たち、スタッフの方々に出会えたこと こころから感謝しています。温かく励まされ突き放され 笑そして半年間 試行錯誤を重ねて私なりに考えに考えて生まれたのが現在のこころのバリアフリーを楽しく学ぶおもちゃ(教材)でした。平行してネットショップの学校にも通いました。これはバリアフリー教材等には全く関係のない別の為に通っていたのですが 大阪人は熱かった!同期の方々、先輩たちにもアドバイスを頂き そんな温かさが心にしみました。みなさんにご紹介を頂きひとつひとつ歩いて回りました。「今からこころのバリアフリーの企画を持って○○さんが行くから くれぐれも真剣に話聞いてやってな。頼むで~」(大阪弁)そんな初めてあった方のご紹介をひとつひとつ繋いで頂き 温かい言葉の紹介状を持って次へ次へと歩いて回りました。大手企業さん 教材会社、市会議員さん、社会福祉関係をまわり色んなアドバイスを頂きました。「出来たらもって来てください。検討します」あとはカタチにするのみ。ここから先は実に製作に 型代など実にかなりお金がかかってくるのでやはり勇気が必要です。誰も知らない大阪に来たのは5年前の夏でした。まだ4才の娘の車いす代わりのベビーカーを押してふたりぼっち。すべてがマイナスからのスタートでした。関東から大阪に行くと決めたとき友人たちは「親戚も誰も知らないところにいくなんて」と全員言いました。そして全員言ったことは「大丈夫 あなたならできる」 笑実際私は新しいことをする不安よりも先にこれから誰に出会えてどんなふうに人生が変わっていくのかわくわく楽しい気持ちのほうが大きかったのです。マイナスからの出発ということは後はあがっていくだけ♪と私はいつも思っていました。ですから新しい出会い一つ一つがとても心に新鮮でした。ひとつひとつの出会いに心から感謝しています。そんな出会いをひとつひとつを重ねてみなさんが温かいご縁をつないで下さったお陰でサンプル作成までこぎつけることができました。サンプルがカタチになってきたら「そんなもの!」とか「わからない」「やっても無駄」といっていた人たちが「これ面白いかも」「へ~すごいね 初めて見た!」と態度が変わっていきました 笑私の中では画像としてビジョンで見えていたものが形になってきてそれまでなんやそれ、、と思われていた周りの反応が変わっていきました。それまで実に色んなことを言われ続けて心が痛かったです 笑それからやったこともない企画書作りそしてイラスト作成にPCに向かう日々が続きました。0からないものを作っていくのは本当に大変で何度も何度も投げ出したくなりました。「私何してるの?別にそんなことしなくてもいいじゃない」「もうやめたら、、、」「そんなことしたって何が変わるわけでもない」弱い私の声が何度も聞こえます。そんな時 何度も娘の笑顔が浮かびました。「おかあさん、、おかあさん、、、」私は未来を見つめています。5年後、10年後、20年後の未来を。それぞれの障害がまるでめがねをかけるのと同じように偏見も壁もなくなっている未来を、、。みんな違ってていいということ心のことも幼い時期に楽しく学ぶことができたら、、大人のマイナスの価値観が埋め込まれる前にプラスのイメージや正しい知識をそのままに与えてあげることができたら きっと「いじめ」も「偏見」もなくなっていくと信じて前を向いていきたいといつも弱い弱い私の心を切り替えたのです。
2005.06.16
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泣き虫ママからスタート。~こころのバリアフリーを伝えるおもちゃ(教材化)までの道~◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇障害を持った子を授かってみて 初めて味わった色んな気持ち。「障害」という言葉や人の言葉にも敏感で多感な時期を過ごし愛するがゆえに大切な我が子の障害の受け入れはできているようでできなくて 私自身(悩んでもないように見えて)振り返ると色んな葛藤がありとても時間がかかりました。障害のある我が子をありのままにそのままに自然体で愛していきたい気持ち そして現実、毎日の生活、、、一歩一歩子どもとの生活の中で学び、気づき素敵な出会いや新しい発見、小さな成長に喜びを重ねて知らない間にそれは変化していったように思います。障害宣告時のその細かな気持ちはベールに包みなんとなくしか表現はしていませんでした。やっと最近のブログにその当時どのような気持ちだったかを人には一切見せなかった気持ちを素直に隠すことなく書ける様になりました。時間がかかったけれど・・・でも時間は人に優しいということを身をもって体験しました私が改めてもう終わった過去のことを書いた理由は それぞれの人生に与えられる課題はみなカタチが違うけれど乗り越えるには 何か共通点やkeyがあるのでは、、と思ったからです。どうやって気持ちが変化してプラスに切り替わっていったのか、何がどう効果的だったのか何をしたら変化していけるのか、、見つめて見つけたいと思ったからです。そしてその心境を書くことでママたちのなんらかの参考にして頂けたらという思いがひとつ、、最後にあなたのそばにいる同じ状況のママたちの遠くからは なかなかわからないその気持ちを少しでも心に感じて頂けたらと思ったからです。もちろん子どもの障害名やその状態によってその過程はもちろん違いますしひとつとして同じものはありません。これは私の真実だけれど でも子を思う親の気持ちは一緒。ほぼ似たような心理になり そこからみなさん歩んでいかれていると思います。周りに同じ様な方がいらしたら どうか地域で優しく温かくそっとサポートして頂けたらありがたいです。つたない文章ではありますが何かを心に感じて頂けたらとても嬉しいです。赤ちゃん時代から施設等で母子通園をしてであった子どもたちの気持ち、ママたちのきもち車いすを押しながら日頃感じたこと健常者側のきもち 障害者側の気持ち 親としての気持ちヘルパーとして働いて初めて感じることができた高齢者のみなさんのその気持ち、、、私はどうしても 障害者と健常者の間の目には見えないこころのどこかにあるバリア(壁)をいつも感じてそれをなんとかどうにかしたいといつも娘の車いすを押しながら考えていました。でも私はただの一人の四肢麻痺の障害児のママです。そんなたった一人の小さな力では何もすることはできないししても無駄だと多くの人に言われました。でも私でもできる何かをしたい、、そんな想いはこの9年間変わりませんでした。昨年夏 娘が手術目的で長期入院が決まったときリハビリも含めまた一年間は離れ離れになってしまうことで心の中は悲しみでいっぱいでした。「未来を向いていこう。楽しいこともいっぱいあるよ」そう娘に伝えたくて楽しい想い出を作りたくて二人でアメリカのディズニーワールドに8日間行ったのです。なぜアメリカのディズニーワールド?しかも遠いフロリダ?それは私がいちばん感激して「楽しい!」と思えた大好きなところだったから。術前で不安がいっぱいの娘にその楽しさを心に感じてほしかったのです。そして私たち親子の心の切り替えのためでもありました。娘にとって外国はもちろん初体験でした。「ママあと○日で帰るの?あと○日、、帰りたくない」「ももちゃん楽しいこと考えよう!いっぱいママと想い出を作ろう!」「そしてその後はがんばるって一緒にきめたよね?「うん」 「大丈夫。一人じゃないよ」8日間 本当に楽しい時間を娘と共に過ごすことができました。そしてその8日間に実に車いすの娘は100人以上の方々に笑顔で声をかけて頂きました。なぜそんなに声をかけてもらえたのか?それはまたブログでご紹介させて頂きたいと思います。このアメリカ旅行で私は「えっ?」と思う偶然ではない必然の出会いをします。それが心のバリアフリーを伝えるおもちゃ(教材)そして絵本づくりの本当のきっかけになったと思います。でも原点は3才の時に娘が言った言葉、「ママどうして車いすのおもちゃはないの?」でした。その言葉はずっと私の心のなかにありました。娘は昨年夏に入院して集中訓練が始まりました。娘を含めその幼い子どもたちのただもくもくと前を向いてがんばる姿を見て私は何度もこころに感じるものがありました。「私にもできることはありますか? どうかチカラを与えてください」ただ純粋に強く強く思っていました。娘が入院中のこの一年間娘もがんばっているからこそ何もせずにはいられませんでした。ただそれを見ていることはできませんでした。親元を離れて 涙を流しながらがんばっている娘を見てこんなに小さな子どもたちががんばっているのに、、私は何をしているのだろう、、負けてはいられない、、と勇気をもらいました。私の心の中で「こころのバリアフリーを楽しく広げるおもちゃのような教材を作りたい」という気持ちが強く強くなっていきました。今ならば動ける、、でもひとりではどうやって企画していったらよいかわからない、、そこで大阪市の大阪産業創造館にある大阪市サポートの起業オフィスに応募することにしました。一年以上HPを眺めては 応募できず諦めたり やはりと思ったりでもやっぱり今しかないと応募しました。どのようにしていったらこれがカタチにすることができるのか、たくさんの子どもたちに楽しんでもらえるように広げていくことができるのか色んな方々と出会い アドバイス頂きたかったのです。応募申し込みの資料作成資料を見てため息。そんな資料作成も全くしたことがありませんでした。でもどうしても心のバリアフリーを伝えたい。でも最初から現在のおもちゃが頭に浮かんでいたわけではありませんでした。この時は 他のプランで望みました。何度も書き直し提出。書類選考が終わり面接の連絡がありました。17階の広い会議室。面接は時間で区切られていたので他の応募者とはすれ違いませんでした。3人の経営コンサルタントの先生にぽつんと私一人。重い空気、、。30分の質問攻め、、まるで就職試験のようでした。思っていた以上にたくさん質問されたように思います。久しぶりに緊張して手が震えて心臓音がばくばく自分でも聞こえました( ̄ー ̄;)あまりにたくさん質問されて答えた内容は覚えていません。ただ素直にその熱い思いをそのままに伝えました。最後に「ワークショップにはすべて参加できますか?」「は、、はい」そこだけ覚えています。その後 外部選考がありやっと合格通知を頂きました。正直 これだけ熱い思いをぶつけてそれでもだめなら大阪市は冷たいぞ!~~~~~って思っていました 爆(今だから書くけれど 笑)私の熱い思いのラブレターが届いて嬉しかったです 笑2004年秋から2005年春にかけて半年間勉強させて頂くチャンスを頂きました。
2005.06.15
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ひとつだけ 元気がなくなっていた観葉植物がありました。最近「きれいに咲いてね、大きくなってね、見てるからね、、」ってお水をあげながら愛情をいっぱい込めて声をかけていたらかわいい新芽がいっぱいでてきて 朝からとっても嬉しい私です。かわいい かわいい かわいい♪って声をかけたらとても嬉しそうでした、、♪「ありがとう」「感謝」「きれい」「かわいい」「大好き」よい言葉をかけているとその言葉をかけた 水の結晶はそれは美しく輝きます。言葉には言霊がたしかにあり 生きています。目には見えないけれど エネルギーがたしかにあります。人間もほとんどが水でできているから同じですね^^子どもにも大切な人にも友人たちにも周りの人たちにみんなに素敵な言葉のお水をいっぱい心を込めてかけていきたいです、、。今日もありがとうございます。感謝をいっぱい込めて
2005.06.15
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我が子が障害児と解り市の肢体不自由児施設に通い始めたのは生後9ヶ月からでした。娘のリハビリのためがその理由だったけれど振り返ると私の心のケアのために必要だから通っていたように思います。とても素敵なママたちに出会えたことは本当にラッキーなことでした。この時期 先輩のお母さんたちの話を聞くのがいちばんこころに安らぎや栄養を与えてくれたように思います。母親は10ヶ月自分の体内で生まれてくる子どもを慈しみ育てて少しずつ母親になっていきます。つわりや自分の身体の変化と共に、、そして我が子に会う日を誰もが楽しみにして出産を迎えるわけです。出産という苦しみは男性には超えられない痛みだと聞きます。たしかにこの世にこんな痛みがあったのかと思う程の痛みでした。私は自分が出産後初めて母に感謝することができたのです。こんな思いをして私を生んでくれてありがとう、、それが産後私が自然に母に言った言葉でした。母になって初めて見えることがたくさんありました。出産の大変さを乗り越えるとモノの見え方が少し変わった感じがしました。角度が広くなる感じかもしれません。いきなり産後 「親」よいうものになります。なったら永遠に親です。なって初めて親としての自覚というものが生まれてきます。でも正確には親になっても自分というものは 何も変わっていなくて子どもによって子どものような自分が親にしてもらって成長させてもらって親というものになっていくのだと思います。子どもが段々に成長して親になっていくように親も段々に成長して親になっていく、、父親は生まれてから我が子の顔を見て段々にが大きな違いで実に母親のそれと時間差があります。子どもが障害を持って生まれたときどれだけ父親が同じように子どもを大切に思っていると言っても思っても母親のその思いを同じように理解することは到底できないと私は思っています。なぜならば全く違う性を持っているから。私の場合の気持ちを素直に書くとこうでした。母親として「ちゃんと生んであげれなかった」という気持ちで苦しみ自分の責任でこの子がこうなってしまったのでは、、と自らをさらに追い詰めました。さらに○○が原因だったのでは?これが理由?あれが理由?と原因探しを始めました。それをしても 何も現実は変わるわけでもないのに。自らが自らを追い込み さらに自分の心を傷つけました。まるで自分の運転ミスで愛する子どもを事故にあわせ大きな後遺症を持たせてしまったようなそんな気持ちがずっと消せませんでした。何度も何度もその時を思い出しやがて何度もその時にとフラッシュバックが始まってしまいました。障害宣告を受けたのは夏でした。その時と似ている夏の感覚や聞こえていた蝉の声を聞いただけで そこへと何度も意識がワープしました。女として自分は欠陥なのではないだろうかと苦しんだ。ちゃんと生んであげることもできなかった、、という苦しみ。ごめんなさい、、ごめんなさい、、と何度も何度謝ってみてもそれは変わるものではなくて、、、母親は自分の中で大切に育んできたからこそ愛すればこそ愛しいからこそ子どもが障害児であった場合それが出産時のトラブルだったとしても先天性であったにとしても理由がまったくわからなかったとしてもそんなことは全く本当は関係がなくて深く傷つき さらに自責の念でさらに自分を痛みつけるそんな時期が障害児を抱える母親には誰にでもあると思います。そんな心をそう簡単に見せようとは思いません。自己防衛心も働きました。私じゃないって言って欲しいと何度も思っていました。それでいてさらにさらに自分を追い詰めてそのうちに理由なんてどうでもよくなっていきました。平行して毎日子どもが少しでもよくなることを ただただ願っていて 小さな心は一日中いろんなことに敏感に反応して実に色んなことを考え自分で自分を追い詰めていたように思います。女性は強そうでいて実に繊細。強く見えていても ガラス細工のように心の部分は傷つきやすいのです。全国の障害を持つ子のパパさんへどうかママのこころを感じてあげてください。生涯の大切なパートナーとして大切に支えてあげてください。パパも驚いたかもしれないけれど一日中ママは子育てに追われて自分を見つめる時間もなく過ごしています。この時期私は仕事をしているほうがどれだけ楽だろうかと真剣に思いました。ママは現実をそのままに受け入れようと一日中 慣れない病院通いや検査、そして療育とマニュアルにない障害児の子育てをそのままにがんばっているけれどでも本当は心がついていけないのにがんばってる、、(私は今まで多くの母親たちを見てそう感じています)こころのバランスがとれないでいます。そして自分を心の片隅で最初は責めています。すべてのことが初めてでママは一生懸命です。どうか大切な愛する人をそっとそばでささえてあげてください。時には照れくさいかもしれないけれど言葉にして態度に示して、、そんな一言がたった一言が女性は嬉しいものです。つらい時期だからこそどうか現実から逃げないで仕事に逃げないでママをささえてあげてください。そしてママへ愛する子どもが障害を持ってこの世に生を受けたこと中途障害になったことどれもママのせいではありません。障害をもって生まれてくるということもちゃんと生まれる前に子どもたちは選択して取り決めて喜びでこの世に生を受けています。そして信じたくないかもしれないけれどその親になることも実は自らがチョイスしています。なんでそんなことが言えるのか。私にはそんな前世の記憶がその部分だけしっかりと残っているからです。少なくても私の中ではこれは真実です(o^-^o)(現実の私はこんななのに 生前生まれてくる前喜びで障害を持つ子を授かることを チョイスしている私のなんともいえない不思議な記憶、、)それを超えていくだけの強い何かをもって子どもたちはちゃんと生まれてきているのですから。そして私たち親も ちゃんと超えられるからこそ神様はこんな私たちに大切な大切な一つの輝く魂をそっと優しく手渡して下さったと私は信じています。あなたなら慈しんで育んで大切に育ててくれると選んで下さったのだと信じます。私たちは子どもたちによって学びと気づきを与えられるチャンスをもらったのです。実にラッキーなのです。なぜならばその分 魂の成長が加速して違う自分を手に入れることができるのですから。子どもが小さな成長をするたびに心が震えるような味わったこともない喜びを心で感じることでしょう。そしてその子を授かったからこそ与えられるすばらしい出会いも未来にはいくつも用意されています。そのたびにあなたは素敵な出会いに心から感謝をすることでしょう。イノチの輝きを感じる瞬間を得る時が必ず来ることでしょう。もう自分を責めるのも過去を悔やむのも一緒にやめましょう。すぐにやめれなくてもやめるように努力しましょう。「こつ」は気持ちの切り替えです。難しいと思ったらなんでも難しいけれど本当は実に簡単、シンプルなことです(o^-^o)マイナス思考になって得られることは何もありません。マイナス思考はマイナス波動を自らが呼び込み 自らを苦しめるだけでいいことはひとつもありませんし起こらないと断言します 笑十分にもう苦しんだはずです(o^-^o)もういいんです。もう、、(o^-^o)人間はひとりも同じ人はいません。違っていていいのです。そしてそれぞれが光り輝いています。その輝きを見てください。輝かない部分ばかりを見ないでその輝きをどうか感じてください。大好きなママやパパに泣いて欲しいなんて子どもたちは思っていません。そんなことを知ったら悲しんでしまいます。子どもたちを見てください。子どもたちはそのままに自分を受け入れ楽しんで生きているでしょ?笑顔の瞬間をいっぱい作ってあげたいですね♪そして親として無理もする必要はありません。あなたはそのままのあなたでいて私は私でいい。それでいいんです。こころをこめて
2005.06.14
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最近私はよく療育園で小学生低学年の電動車いすの子どもたちを見るようになりました。嬉しそうに電動車いすを操作して 動き回る子どもたちの姿を見ると とても嬉しく思います。でもまだまだ日本中同じ状況ではないと思います。早く日本中でそんな光景がたくさん見られるようになったら、、そう願っています。数年前ならば小さな小学校低学年の子どもたちには電動車いす作成の許可がなかなか医師から下りませんでした。。まだ危ないとか低学年では早すぎる、必要ない等 色んな理由でまず許可は厳しいものでした。許可が下りるまでには 粘り強く子どもの為にと医師に何度も掛け合って道を開くなんともたくましいお母さんたちの姿が必ずあります。幼い時期に自由自在に自分の意思で動くというのはとても大切なこと。低学年の時期だからこそ 自分の思うように動ける気持ちを大切にしたいと何度もかけあって 許可が下りず それでもかけあって数年後に許可が下りたというケースを身近で見てその大変な話を聞いていました。できるだけ早く自分の意思で好きなところに動く気持ちを体験させてあげたい。子どもたちが自由に走り回るように、、。ただ自由に動く そんなチャンスを与えてあげたい。私も気持ちは一緒でした。うちの子が電動車いすの希望を出した頃はまだかなり厳しい時期でした。実は就学前から希望を出し訓練の先生にも厳しいと言われてはいたけれど許可が思っていたよりも早く下りたのは そんな道を切り開いてくれたパワフルなお母さんたちがいらしたからと心から感謝しています。療育園でも電動のお友達が増えたなあ、、、と感じるようになったのはここ半年以内のことだと思います。3年生の春に プーさんの電動車いすが我が家にもやってきました。(電動にも手動にもなる車いす)もうそれは満面の笑み、笑顔笑顔笑顔でした(o^-^o)許可を頂く際に医師に提案したのは下記のこと。学校までの道やプライベートで使用する。☆小学校ではまだ安全面のことも考えて完全に自由自在に使用できるように なるまで学校の先生方のオッケーがでるまで使用しません。(低学年のうちは子どもたちが触っての誤操作等 どんなことがあるかわからない。 通学時 親がついているときだけ電源をonにする。 学校では誤操作があってはいけないのでバッテリーをはずすようにしました)☆自分で運転はできる範囲ではあったけれど 何事も自分のものにするには練習が必要。 共に練習して早く自分のものにさせたいので今から取り組みたい。 と医師にお願いしたのです。さらに本人ももが先生に「自分で動けるように早くなりたいです。お願いします。 いっぱい練習します」と笑顔でお願いしてオッケーが出ました。電動車いすは簡単なように見えて 実は原付バイクのような感じで思っていた以上に難しいのを皆さんはご存知ですか?実に電動車いすは運動神経がいるのです。障害を持たれ それぞれの麻痺の状況に合わせて持ち手はスティック上のようになっていたり色んなカタチでそれは動くようになっています。私たちにとってはそれは慣れですぐできることかもしれません。しかし 一度失ったものをリハビリ等で克服してまたは残存する能力を活用して細かく操作できるようになるのは本当にすごいことだと一人で車いすで移動される方々を見るたびに私は思います。(実にあこがれていました)そして素敵だな、、っていつも思うのです。いつの日か ももかも一人でおでかけするようになるのかな、、大きくなったらきっと。でもそうなる頃 しばらく私は影武者のように遠くから見て見つからないように離れて後を追うかも、、笑私とろいからすぐ見つかるかもしれませんが、、。私が初めて高学年の女の子の電動に試しのりさせてもらったときの感想は「難しい」でした 笑安全面のことは十分な配慮が必要だと感じています。現在は整形の術後でしばらく大きな特殊車いすのお世話になっています。自由人な娘。いや子どもだって大人だって誰だって自由に動き回りたい気持ちは変わりません。後ろを押してもらうよりも自分で動きたい、、そんな気持ちは誰もが一緒です。現在自分で動けず 後ろを押される生活はかなり窮屈だと思います。また嬉しそうに自分で動ける日が一日も早くきますようにそう 祈っています。今日もありがとうございます(o^-^o)
2005.06.14
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最近私とももは療育園への帰り道が淋しくないように暗唱ゲームを始めたのです。一番に選んだのは長くて難しそうだけど覚えて欲しかった宮沢賢治の「雨にも負けず、、」でした。宮沢賢治は、宇宙の愛を感じ、宇宙とつながることを願って生きた詩人の一人です。母親を通して宇宙のたくさんの愛を吸収して育った賢治の他人に対する愛情は 子どもの頃から尋常なものではありませんでした。子どもはするする覚えてしまいます。でもある途中からはなかなか進むことができませんでした。ところが 同じ4年生の最近入園してきた女の子がすらすらとそれを暗唱できると知ったももは「Aちゃんみたいに全部覚える~\(^▽^)/」と張り切っていました。同じ年齢の子の刺激はやはり大きいですね。でも東、西、北、南のところはなかなか覚えられず苦戦していました。長いんです。実に。そうしているうちに知らないうちに担任の先生が教室でも取り組んで下さっていました。↑これを見たときは驚きました。(先生達筆、、それにしてもこれを作るのは大変だったと思います。 感謝、、、です。先生ありがとうございます)ももは合格したらしいです\(^▽^)/しかし先生曰く「まだ私の方が早いです」と。先生も取り組んで下さっていたのですね。「お母さんは覚えましたか?」あ、、まだです( ̄ー ̄;) 汗もも先生に勝った!と今日喜びの報告をしていました。クラスぐるみで取り組んでくださって感謝です。ここは養護学校の分校の院内学級。実に厳しく温かい先生が担任。それぞれの持つものを引き伸ばそうと先生方はいつも一生懸命です。さらに英語の勉強や手話など子どもたちの興味があることを上手く導入してくださっています。この子たちはここまでと決め付けず どの子にも無限大の能力が必ずあると信じて下さっている先生のお気持ちが私は嬉しいのです。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇最近のももです。毎日PTとOTの訓練に前向きに取り組んでいます。OTの先生が「高校生の方々にOTの仕事を理解して頂くイベントがあるのです。その時にももをモデルに写真を使っていいですか?」ということでパチリ。本人もどうぞということでしたので。お役にたてることは嬉しいことです。しかし自然な写真を撮るのは実に難しく、、「はい 撮ります」というとももさんカメラ目線になって思いっきり笑ってしまうのです 爆笑ももは元気いっぱいです(o^-^o)みなさん今日もありがとうございます。
2005.06.12
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「いたずらばかりして、、もう、毎日大変よ、、」という、言葉を耳にした。ちょっと懐かしく思いだしたことがある。この言葉は、数年前、わたしにとっては、とても、羨ましい言葉だった。いたずらなんて、夢のようなことだった。その頃、ももかはまったく、手が使えず、おもちゃを握らせても落とした。手を広げることも 上にあげることもできなかった。おもちゃのがらがら、ひとつでも、これなら持てるかな、、なんて、色んなおもちゃやさんを見てまわった。握りやすいもの。色がはっきりしているもの。かわいい音のするもの。そして、すこしでも、手を使ってくれたら、、、そんなことばかり考えていた。おもちゃもただみるだけだった。くるくるまわる、オルゴールのサークルメリーをただ見つめていた。公園に行くと、成長の差ははっきりと解った。まわりの子どもたちは、目が放せないくらい活発に動きまわっていた。公園のお砂場でお城を作っている子どもたちや、ぱしゃぱしゃと噴水で水遊びする子どもたちの姿はとても、まぶしかった。いたずらしてくれるなんて、夢のようなこと、、、そう、真剣に思っていた。 <はじめて、いたずらを、した日>まるで、ひまわりの観察をするように、ゆっくり、ゆっくり成長するももかを、ずっとそばで見守ってきた。それは、それは、気が遠くなるほどゆっくりの毎日だった。早期の療育のおかげだろう。少しづつ、、本当にすこしづつ 手も使えるようになった。たくさんの方々に支えられ 親子で小さな一歩を積み重ねてきた。そんなある日のこと突然 みどり色のマジックでおもいっきり、じゅうたんに絵書いた、ももか。わたしは 驚きと感謝で涙がとまらなかった、、いたずらの度にあの時の気持ちを思いだす。そのとき 「ももか!」と叱りながら、こころの中で、微笑んでいる自分がいた。こころから叱れない自分がいた。いたずらって、とっても、しあわせなこととっても。とっても、、
2005.06.11
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真実の記録☆泣いていた私から心のバリアフリーを伝える教材化に向けての歩み(o^-^o)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇今から8年前にワープします ダッシュ!≡≡≡ヘ(* ゚-)ノ私はほとんどテレビを見ません。癒し系の音楽を聞き流しているのが好きなのです。でも当時は娘のための童謡がエンドレスでしたが、、笑そんな私があるとき何気なくテレビをつけたくなりぱしっとつけたのでした。この「ぱしっ」で未来が変わったのです。それも偶然ではなく必然だったと思います。夜8時、、今日も娘は一度もお昼寝をしなかった。やっと眠った娘。今日も泣き虫大魔王さんとの長い一日が終わった、、と。私はやっとほっとして その日ただなんとなくテレビをつけたのでした。つけたと同時に画面に映る情景、、障害?歩けない?公園に行けない?えっ?そこに映る心の葛藤、表現される様子はその時の私そのもので私はその番組を見ながらあまりに状況が似ていていることに驚いてしばらくテレビに釘付けになりました。それは同じ脳性まひの子どもを育てるある漫画家の人のドキュメンタリー番組でした。障害宣告を受け 未来に希望も夢ももてなくなっていた私はそれをみて娘の未来を初めてプラスの方向へと考えることができたのです。未来を見つめてもいいの?そうなのです。マイナスばかり言われすぎてプラスのイメージが持てなくなっていたのです。「この子 目は見えてるのかな?」「眼震が強いみたいだねえ」「正常に生まれたならば進行性の病気かもしれません」「水痘症にてんかんも併発するでしょう」「言葉はでるかわかりません」「立てるかも歩けるかもわかりません」「こんなに悪いと思わなかった」「次の子は大丈夫」そんな医療関係者の言葉にもう心はずたずたでした。もう麻痺しすぎて自分の心が泣いていることも悲しんでいることも解らなくなっていたのかもしれません。そんな時 そのテレビを見て最初は葛藤して悩んでいたお母さんがやがて自分を見つけ取り戻しそのままにその子を愛し自分らしく漫画でそのことを表現し始めます。 親子共に明るく生き生きと成長していく姿を見て心に希望という光を与えてもらったのです。その漫画家の先生はみずの圭先生。(お薦めの本は ドキュメンタリー育児コミック ママがんばって Part1~part4 障害をもっていても、ごく自然に地域の保育園・小学校に通う 我が子の成長をドキュメンタリーとして綴った子育てコミック 小学館) この本を即 購入して私は一揆読みしました 笑当時ネットは普及してなかったのでその日のうちにTsutayaへ買いに行きました 笑 ヘ(* ゚-)ノ 読んで私はものすごく元気と勇気を頂いたのです。私ひとりじゃなかった、、、ひとりぼっちじゃない、、前を向いていくチカラを下さったこの先生にいつかいつか、、お会いしてみたい!そう思っていたのです。本当にその本がすごくよかったので翌日の市の通園施設へのバスの中で 他のお母さんと職員の先生にそのお話をしました(o^-^o)私は学園にお願いして「おかあさん文庫」を作りました。ママたちには情報が必要なので読み終えた本はみんなでシェアできたらと考えたのです。おもちゃ箱の上のスペースを空けて利用させて頂くことができました。しばらく学園ではその本がブームになりました。みんなでかわりばんこに読みました。しばらくたったある日のこと信じられないことが起こりました。なんとタイムリーにもその施設の母親研修の企画でその漫画家みずの圭先生を呼んで下さることになったのです。職員の先生が出版社に連絡を取りそれが実現したのでした。たくさんのお母さんたちも大喜びでした。研修は楽しくあっという間でした。私はこころに未来を見つめる光を与えてもらいました。そして先生にお礼を言うことができました。あのテレビ番組を作成して下さった方々にもみずの先生にもただの一人の母のつぶやきを大切にして下さった職員の先生にもこころから感謝しています。こころをこめて
2005.06.10
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我が子は正常に生まれたにもかかわらず生後半年のときに脳性麻痺と宣告を受けました。そしてしばらくたって 初めて聞いたのが療育という言葉でした。それまで私はそんな単語を聞いたことも見たこともありませんでした。首の座らない子どもたちがいることすら知りませんでした。外来で訓練を少し受けた後 人見知りの激しい娘のために(なんと生後3ヶ月からの人見知り)人や場に慣れていく大切さを痛感して その後母子通園を生後9ヶ月から始めました。ももはまだ赤ちゃん!でした(o^-^o)その頃の娘は首も全く座る気配もなく、身体は柔らかく全く手が開かずモノも持てない、足もほとんど動きませんでした。知的障害も大きくでるといわれ言葉もでるかわからないとたくさんのマイナスを当時医師に言われました。ですから私の心も正直ずたずたで未来も希望も全く感じることができない状態だったと思います。核家族で主人は仕事が遅くどうしても母子家庭状態が続いていました。私は過敏で泣きじゃくる娘といつもふたりぼっちを感じていました。親友や友達には一切状況を話すことはしませんでした。(だからみんな長い間知りませんでした)親にすら気持ちを打ち明けることもできませんでした。親は健常な子どもしか育てたことがないのでこの気持ちはわからないと思ったのです。同情されるのは嫌だったし泣かれるのも嫌だったし変に気を使われるのも嫌だった。あの時の○○がいけなかったのかな?自分を責めて責めまくってなぜ?マークが心の中にいっぱいあった時期でした。その時の私の中には この気持ちは同じ立場に立たないと絶対にわからない、、と思うものがあったのだと思います。あの頃の私は母子通園を即始めてよかったと思います。それは子どもの身体のリハビリ等の療育のためにも大切だったけれど母の私のためにいちばん必要だったと思うのです。自分を見つめて自分を取り戻すために。障害のある子どもを大切に育てていくためにはまずは情報を得ていくこと。そして育てる母親の(中心となる)心のケアが大切だと私は思っています。障害児を育てるということはとてもスペシャルなことではないと私自身は思っています。(これは今だからそう書けるのかもしれませんが)ただちょっとしたコツを掴んでその子に合わせて生活するだけのシンプルなこと。もちろん配慮が必要なことはでてきますがとてもスペシャルにするか、シンプルにするかはその気持ちひとつな気がします。今の私はシンプルにどんなことも共に楽しみたいといつも考えています。 さてさて元に戻って その頃私がいちばん欲しかったのは生きていくための気力でした。なんのために生きているのかすらわからなくなっていたのです。私は勇気を出してすぐ最初の扉を開けました。おそるおそるでもちょっぴり楽しみな気持ちで、、=*^-^*=♪私はそこできらきら輝くたくさんの素敵な先輩ママさんや温かい職員の方々に出会うことになります。いくつかのイノチの大切さを心に刻む出来事を体験します。イノチの長さと輝きのことを知り素晴しさを身をもって体験します。素敵なフィリピン人のママに出会います。生きる!ってすごいよ。母のチカラってすごい!ってこと教えてもらいます。一生涯忘れることはないだろうと思われる美しき母の姿を見ます。そしてその後長いお付き合いとなる何でも話せる大切な本当の親友もそこで得ることになります(o^-^o)学びや気づきをいっぱい得て 心の状態は大きく変わっていくこととなります。新しいことを行動化するには誰でも最初は不安な気持ちがいっぱいです。でも必ず素敵な出会いが待っています。あなたの前の扉を開けてください。必ず明るい未来が待っていますこころをこめて(o^-^o)今日もありがとうございます!
2005.06.10
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真実の記録~~こころのバリアフリーを伝える教材化までの道素敵な出会い。・:*:・゚★,。・:*:・゚☆ ・:*:・゚★,。・:*:・゚☆まだ娘が障害宣告を受けたばかりの生後半年の頃。その診断名は何度も裏返った。一度脳性麻痺といわれても○子ども病院、○女子医大でも異常なしと診断が下された。そんなわけもわからない状態が続いて不安な日々を送っている頃某子ども病院で素敵な出会いがあった。病院の待合い。障害を持つ子どもを一人であやしてその場に何時間もいるのは思っている以上に大変なこと。その頃の私は定期的に行われる検査や検診に疲れ果てていた。その日も娘と二人だった。朝から眼科と小児科と整形と確か3つをかけもちして診察と検査が続いた。その頃は 無意味とも思えるような検査が続き「お母さんはここで待っていて下さい」と離され泣き声が大きくこだまする度に 検査で固定するためまだ乳飲み子の娘に医療関係者の手形がいくつも真っ赤について出てくるたびに私は私の赤ちゃんをこれ以上苦しめないで欲しいと思い心の中で泣いていた。「神様 つらい思いをするために この子は生まれてきたのですか?まだ赤ちゃんなんです」私は 聞きたくもない検査結果をもうほとんど誰もいない待合で待っていた。そんなときだった。そこで難病でたくさんの機械をつけた高校生のお姉さんとそのお母さん、そして付き添いの保健婦さんとたまたま一緒になった。「まあ赤ちゃんね、、、(o^-^o)」とそのお母さんが声をかけて下さった。「はい」「かわいいわね」「、、ありがとうございます、、」「どうしたの?」きっと私はももかを抱えながらも不安な顔をしていたのだと思います。「いえなんでもないんです」「いえ、、あの、、のうせいまひって言われたんです」そう私はおそるおそる答えたのです。その頃の私はその病名だけで何の理解もせず不安になっていました。そう私が言ったときそのお母さんはとても優しいまなざしで強く凛とした態度で私に言って下さったのです。「大丈夫よ、絶対に大丈夫。あなた一人で育てなくていいのよ。地域でみんなで育てていけばいいのだから。必ずお手伝い下さる方や素敵な出会いがあるわよ。心配なんてひとつもしなくていいのよ」「ね、、赤ちゃん あなたはちゃんと あなたらしく生きていく道が 用意されてるから安心しておっぱい飲んで大きくなるのよ(o^-^o)」「ちゃんと育つだけのよい運も もって生まれてきてるものね(o^-^o)♪」といって抱きしめて下さった。その時となりにいた その難病のお姉さんも 小さなももかと私を見て思いっきりの笑顔で微笑んで「うん」とうなずいてくれたのでした。私はその微笑を見てそれが本当に心からのもので温かくて 自然に涙がぽろぽろっと流れました。隣にいらした保健婦さんも微笑んで下さいました。ふと我に返ると難病のお姉さんは酸素マスクをつけてその機械は本当に大掛かりなものでした。ももは生死をさまよっているわけでもないのに それくらいのことを私はなんだかそんなことを言ってしまって申し訳ない気持ちになってしまったのです。色んな思いをしてきっと色んなことを乗り越えてこのきらきらと輝く素敵な親子があるのだな、、と私は感じました。凛とした母の強さ、、、は本当に素敵でした。「またね♪赤ちゃん(o^-^o)」爽やかな出会い、、彼女たちとはそれが最初で最後の出会いでした。一期一会、、いつか私も こんな素敵な優しく、強く、温かい、凛としたこんなお母さんになりたいとあの頃の弱い新米ひよこママの私は思ったのです。お母さんになってまだ半年目の夏、、、神様に与えてもらった優しい出会いでした。
2005.06.09
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今日は長編の3つをお届け♪(o^-^o)ちょっと長いけれどさらさら読めちゃいます。これがあって今の私があります。ひとつひとつの心の気づきと学び、、(o^-^o)よかったら読んでください。真実の記録~心のバリアフリーを学ぶための教材化までの道~◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇障害を持つ娘が生まれる前 私は空の仕事をしていたことを恥ずかしいけれど書きました。(どうしても過去のことを書かないと表現ができないからです(/o\) )フライトで行く先で色んなものを目にして心に感じることが多くありました。いちばん衝撃的だったのはバンコク滞在の際ステイ先のホテルのそばに向かいの大きなデパートに渡るための歩道橋があり その歩道橋の階段を登りきったところにいつも小さな奇形児の赤ちゃんを抱えてただそこに座るお母さんがいたことです。横に置かれた哺乳瓶にお金を入れる入れ物。当時の私はただ赤ちゃんをこんなところに、、こんな炎天下の暑い日に 子どもを見世物のようにしてその時の私はただその現実だけを見て物乞いをする彼女が許せなかったのです。だからそこに寄付することはしませんでした。しかし娘が障害を持って生まれ初めて私は自分の力で努力してもどうしょうもないことがあることを知りました。無気力になって生きる希望も持てなくなった時私は初めてあの時の彼女の気持ちがおこまがましいけれど 少しだけ解かったというよりもいやただ心に感じたのです。彼女はただ生きる気力をなくしていたのだと思ったのです。ただそこに座ることさえも精一杯なのに生きるために子どものためにただ精一杯のことをしていたのではないかと。あの時の彼女が仕事を得ることは難しかったでしょう。いつもふたりだったからふたりぼっちだったのかもしれません。ステイ中いつも彼女たちの姿はそこにありました。私は自分自身が子どもの障害を受け入れる過程においてその後なぜか何度も あの暑いバンコクの感覚とこの親子のことを不思議にも思い出したのです。あの子はどうしてるかな、、あのママは、、、ちゃんと生きていて欲しい、、。今の私だったらどうするのだろう、、と思い出すたびに心の中で考えました。そしてなぜか何度もあのバンコクのあの地にワープしたい行きたい気持ちになりました。今の私だったらどういう気持ちを向けるのかな、、と。きっと私はただ微笑んであの子を抱きしめていいかと彼女に聞くでしょう。そして心からハグするでしょう。あのママのことも。そしてこころをこめてそこに寄付という上から与えるようなことはしないと思います。愛をこころこめて真心からのお金を入れるでしょう。数日食べれるお金をというカタチのエネルギーを。そしてできるならば新しい衣服を。そして彼女たちの祝福を心から祈るでしょう。神様の愛とたくさんの天使たちのお守りを、、、と。真実の愛だけが人の心を魂を揺さぶり生きる気力となることを私は愛する娘に教えてもらいました。それは小さなただのきっかけ。そのきっかけをどうしていくかは彼女次第だと思います。そのままその生活を続けていくかもしれないし、なんらかの生きる希望を新たに見出すかもしれません。そんな小さなきっかけで人生は驚くほど大きく変わったりすることがあります。人との出会いは奇跡、実にミラクルですね。私自身もこの数年後いくつもの出会いときっかけを通して心を揺さぶられ 生きる気力を与えられ 自らが掴み前を向いて生きてきたから今があります。心のつながりを大切にする、そんな素敵な友人たちとの出会い。今与えられた現実は 私自身のこころが変わりひとつひとつを感謝して 超えてきた結果、与えられたものだとすべてのことに心から感謝しています。娘が生まれるまで私はすぐ人を見てジャッジしようとしていました。こうだからこうと決め付けていたように思います。物乞いの彼女のことも。ジャッジすることはくだらないことだとある時気がついたのです。色んな価値観があっていいのだと。みんな違うのだから。一人として同じ人はいないのだから。大切なのは自分から湧き出てくる真実の気持ちだと知ったのです。娘は私の心の成長を加速させるために私のところにきてくれたのでは、、と思うときがよくあります。なぜなら現実の私は一歩一歩涙を流して受け入れていくのが精一杯なのに 障害を持った子(しかも肢体不自由児)を喜びで授かることをチョイスしている、この人生を歩みますとチョイスしている 生まれる前に自分で決めた、前世の記憶が不思議だけれど嘘みたいだけれど私の中には確かに存在するのです。そして娘は夢で見たとおりその日に生まれてきた事実。いくつかの不思議な体験を通して親子の絆をさらに強く私は感じることとなります。どの子もママをしっかりと選んで生まれてきてるのだと思います。泣き虫で泣き虫で大変だった我が子もきっとこんな私をどこからか見て選んで生まれてきてくれたに違いありません。人生において無駄なことはひとつもない。これが私が手に入れた答えです。どんなこともです。どんな壁もどんなつらいことも。何かを気づくために自らが与えた壁で答えは自らがすでに持っているのです。すべては自分が生前にチョイスしたことだと私は信じています。必ずどんなことがあろうと超えられるはず、、と思う強い私も弱い私と一緒に存在しているのも事実。私は今回この人生から何を学び気づかなければならないのでしょうか?現実の私は一歩一歩手探りで見つけて確認してひとつひとつの扉を自分の力で開けていきます。私のしたいことは 娘を授かり彼女との毎日の生活の中で色んなことを感じ娘の車いすを押しながら色んな思いをして心にひとつひとつ色んなことを感じながら泣いたり笑ったりしながら日々クリアーになっていってる気がします。(o^-^o)今日もありがとうございます!こころをこめて
2005.06.08
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~真実の記録☆心のバリアフリー教材化に向けてたどった道~いつの日からか ももはバスに揺られていくみどり学園への毎日が楽しみになっていった様子だった。バスを待つマンションの一階。バスを見つけるとある時からももは笑顔になった。「ももちゃんおはよう!」嬉しそうな笑顔。ももにとって嬉しいことだと解かり私はそんな笑顔を見ることがただ嬉しかった。初めて通園が決まり みどり学園さんへ初めて行った日。玄関へ入るや否や「ももちゃんが来ましたよ(o^-^o)」「ももちゃんいらっしゃい♪」「待っていたよ ももちゃん!」「わあ、、赤ちゃんだ、、かわいい赤ちゃん」どこへ行っても職員の方に笑顔で「ももちゃん」「ももちゃん」と声をかけて頂いて抱きしめてもらった。色が白いねとは誉められても泣いてばかりの娘はかわいいとはあまり言ってはもらえなかった。あの日のあの笑顔と温かさとぬくもりを私はきっと一生涯忘れないと思う。私は心に感じるなにか、、そう温かいさりげない自然な気を使ったものではない(実際にはそうだったかもしれないがそれを感じさせない)人のぬくもりが欲しかったのだと思う。病院で我が子を否定ばかりされて障害が解かるや否や先生方は無表情になり まるで可哀想なものを見るような目の保健婦や医療関係者。「うちの家系にこんな子はいない」と言った今は亡き義理の母。親戚、私の心はずたずただったから。「僕の大切な同級生なんです」(※ その1に書いてあります)あの時のあの声が何度も私の頭の中でこだました。いつかあなたにもあんな素敵な友達ができるといいね。首も全く座ることなく斜視も強くなる一方の娘。(斜視は3才で改善)私はあの記憶を思い出すたびに我が子を優しく抱きしめた。そして娘の目を見て「ももちゃんにも必ず素敵なお友達ができるよ」と微笑んだ。誰がなんて言おうとママが守ってあげるから大丈夫、、そう私は心の中でいつも抱きしめるたびに思った。「生まれてきてくれてありがとう。あなたはママの宝物、大好きな子だよ(o^-^o)」そう私は毎日 娘が生まれた日から眠る前に必ず話しかけて抱きしめている娘は口パクで私の言っていることが解かることを最近知って驚いた(現在9才)小さな我が家の習慣だ。いつまで続くかな、、(o^-^o)娘が生まれて私は本当に無条件に人を愛することを初めて知った気がする。無気力にただ不安を抱えて生きていたあの頃生きる意味が解からず 自分を否定してばかりいたあの頃自分で自分を自らが追い詰めていた。自分の存在が無価値にも思え死というものも真剣に考えたあの頃私が心の中で求めていたのはカタチあるものではなくてただ目には見えない人と人とのつながり温かいぬくもりだった気がする。精神的にどん底に落ちて私はある時私の中の価値観でとらわれへんなプライドでがちがちになり自分が人にどう見られているかばかりを気にして生きていることに気がついた。第三者の目、、、。そんなくだらないものにがんじがらめになっていたなんて。愚かだったと気づいた。真実は1つ。私はこの子を愛おしく思い愛しているということだった。障害という言葉に怯えショックを受けたけれどそれは人間が作ったただの分けるための名詞だと気づいた。レッテルと貼られることが嫌だったのは私のこころだった。娘は何も変わらず 毎日の生活を楽しんでいる気さえした。それは私が意識の中で勝手にやっていたことだ。障害者というのは障害がある人のことを刺すのではなく普通の生活を送るには「障害」がありすぎる人たちのことを指すのだと自分の中で変に納得した。「差しさわりがあり害のあるもの」と書く字の通りの、障害者なんて一人もいない。そのままでその人は十分に輝いている。作り出しているのは環境面、否定的に考えたり可哀想と考えてしまう心理的な面。人間の価値観だ。私はいつの日から汚い愚かな価値観を持つようになったのだろう。子どもの頃はそんなことはなかったのに、、すべて捨てて0から出発することを決心した。なんて私は汚い人間だったのだろうと気づいたから。真っ白な気持ちになってみた。私は私らしく、この子はこの子らしく。それでいい。そのままにそれでいい。時間がかかろうと何と比べる必要もない。一度落ちたならば後は登るだけ上がるだけだと思ったら気持ちが楽になったのだ。(o^-^o)
2005.06.08
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~真実の記録☆心のバリアフリーを伝えるための教材化に向けてたどった道~我が子は正常に生まれた。首がなかなか据わらず肢体不自由児だとわかったのは生後半年のこと。以前は関東の千葉に住んでいた。0歳のまだ赤ちゃんの頃から母子でお迎えにくるバスに揺られて毎日地域の成長がゆっくりでまだ歩けない子どもたちのための市の施設、みどり学園さんに母子通園した。毎日保育があり、訓練はたしか週に2~3回、PTとOTが入っていたと思う。内容的にも充実していた。ご縁があったことを心から感謝している。しばらく、電車に揺られて全く首の座らず過敏で泣きじゃくる6ヶ月の我が子を抱っこして外来という名の訓練に通ったけれどそれは毎回 実に大仕事だった。自宅からはかなり遠く駅からもかなり歩いた。前抱っこでまだ赤ちゃんの小さな我が子の顔を見ながら夏の炎天下をリュックを背負って帽子をかぶりとぼとぼと歩くその道は 当時我が子の障害というものを受け入れたくない気持ちでいっぱいで まだ慣れない初めての育児、不安と緊張、自責の念、絶望感が交じり合ってとても遠い道に感じられた。、きっと嘘だと思う。何かの間違いだ、、そんな風に思いたかった。首さえ座ったらきっと追いつく。あの頃の私は何も知らず本当に無知だった。首の座りが遅れるということはお座りも遅れてすべての成長が遅れるということを全く解かっていなかった。いや単純に現実を受け入れたくなくて知りたくなかったのだと思う。産後数ヶ月で私は精神的にまた授乳もありなんと20キロ近く痩せてしまった。ベビーカーを押しながらこのまま倒れてしまうんじゃないかと何度も思った。今では羨ましいことだけど体重計に乗るたびに一キロずつおちていった。産前プラス10キロだからちょっと太めさんになっていたのだけれど見る見るうちに授乳で胸はふ~みんのような爆乳でウエストは引き締まりよく書けばとてもナイスバディなお痩せさんになってしまったのだ。(授乳ダイエットかもしれない~でも一挙に痩せすぎてつらかったかも ダイエットは健康的にがいちばん♪だからこれはお薦めできない~ 現在は元に戻っている(。_+)☆)実家は遠くて初めての育児、しかも障害児の子育ては手探りだ。主人は仕事で忙しく常に母子家庭状態。私はいつも一人ぼっちだった。障害宣告を受けたとき 実家の母が一番に泣いた。私は泣くことすらできず ただそれを見ていた。いや正確には 涙も出ないくらいつらい時を過ごしそれでいて 遠く離れている両親にこれっぽっちも心配させたくなくて「私は大丈夫だから」と無理に笑顔を作り気丈に振舞った。両親はただおどおどと 心配をするばかりだった。離れていて何もしてあげれなくてと電話口で泣く母。そんな姿を私は見たくなかったのだ。親不孝だとすら思った。(今では笑い話だけれど うちの両親本当に大丈夫と思っていたらしい、、(;_;) 本当は赤ちゃん誕生で喜びで過ごした部屋を見るだけで心は痛くつらくえぐれるような時間を過ごしていたのに、、。当時の私はかなり無理をしていたと思う。その頃のももかは泣き虫で過敏状態が続き掃除機や電話の音、ファックス音、家の呼び出しのインターフォンの音に大きく反応して泣いた。新聞の勧誘等の突然のピンポ~ンは本当につらいものだった。「赤ちゃんが眠っています」と玄関のインターフォンの前に張った。それでも平気で押してくる無神経さは本当に信じられなかった。相手はそんな生活がわかるわけもない。トイレに行ったりお風呂に入るたびにも大泣きした。何をしても泣く。泣くのは抱き癖がついてるからだと勝手なことを言う人もいた。泣けるだけ泣かしてみたらいいとアドバイスしてくれる人もいた。でもそれは娘には通用するものではなかった。また心にも痛いもので私にはできなかった。私はいつでもどこでも優しく抱きしめて育てることをチョイスした。まともな精神状態だったら気が狂ってしまう状態だと思う。私は自分のこころを見ないようにした。心の成長にとって大切な時期である3才になるまではどんなことがあろうと親という権限で感情的に叱ることは絶対にしないでおこうと心に強く決めたのだ。慣れない訓練、過敏で先生も触れることもできず泣いてばかり、、正直行く意味などがあるのかと思うほどで帰ってきたらもう母の私は身体的にも肉体的にも毎回ぐったりだった。いつも心の中は張り詰めていた。ももかは過敏だったので一日の授乳とオムツ変え回数も2倍~3倍はかかった。日記には一日にオムツ買え16回という記録が今では勲章のように残っている 笑(それくらい過敏だった)一日の授乳回数20回と記録が残っている。これは新生児期だけれど。欲しがったときに与えたのだ。泣く回数も一日20回以上。いつまでたっても新生児状態の育児は続いていて緊張感を解くと一緒にすべてが崩れてしまいそうだった。私は私の心を閉じた。それでも見ないようにしていても十分に心は色んなものに勝手に反応した。自分のことで悩めることは本当にしあわせだな、、と思った。そんな時間もなくてただただ一日でいいからぐっすりねむってみたい、、そう思っていた日々だった。当時母の私は色んなことに過敏にだった。成長の遅れは著しく それまで撮っていた写真もビデオも一切撮ることもできなくなっていった。育児のマニュアル本のようなそれまで楽しみに買っていたた○○クラブなどの育児雑誌なども 突然に辛いものになり以後買うのをやめた。「この子は歩けるようになるのですか?」という問いに医師はしばらく無言だった。出産のお祝いに頂いた靴は一番つらいプレゼントとなった。ずっときれいなままで飾ってある3足の靴。触れたくないからしまえばいいのに でもお祝いでかけつけてくれた友人たちの顔が浮かぶ。 いつか、、と思い片付けられずずっとそれは飾りっぱなしになっていてでも見るたびに何かが心に刺さった。あんなに大切にしていた楽しみだった母子手帳の記入も一切できなくなった。楽しみにしていた検診も一切行かなくなった。正確には行く気力がなくなっていた。はっきり遅れているのがわかっているのにそれを指摘されるのはもう十分だと思っていた。書いてあってもいちいち細かく医師たちは聞いてくる。読むより話した方が早かった。何度も何度も繰り返して医師たちに伝えるうちに私はすべてのことを暗記して簡潔にすらすらと経過を答えている私に驚いた。毎朝通っていた公園も それまで仲良くしていた生まれる前から仲良しだった赤ちゃんグループのお友達やママたちとは会う勇気もなくなり 時間帯をずらして朝早く出かけた。それは避けていたというよりもみんなには会いたかったけれどいっぱい色んな話もしたかったけれど他の子どもの成長を見ることが目にも心にも痛くて我が子と比べたくなくても比べてしまう。あの頃の私はただ会う気力もなかったのだと思う。みんなにどう説明をすればよいのかも、どう自分自身が受け入れたらよいのかもわからなかったのだと思う。人はご挨拶のように「まあ赤ちゃん、、今何ヶ月?○○ヶ月位かしら」という。一才半の時に生後半年と間違われたり今となっては全然たいしたことではないけれどそんなことにも過敏に反応する時期が私にもあった。それ以来私は勝手に推測して年齢を言ったりすることはなくなった。幼く見えても小学生だったりするお友達もいる。なんて酷いことを私は過去無意識にしてきたのだろうと思った。昔 それはもう遠い娘が生まれる前のことだけれど私は大空で仕事をしていた。ある日 高校生の修学旅行生の団体の担当になった。そこには一般のお客様ももちろんいらした。高校生の男の子の横に小さな幼稚園児位の男の子がちょこんと座っていた。高校生の男の子に「お客様、お飲み物何に致しますか?」と丁寧に聞いて その後私はその小さな男の子に「僕は何がいいかな?(o^-^o)オレンジジュースと○○ジュース、、、」と説明を始めた時 隣の高校生の子が私に言った。「お姉さん、僕の大切な同級生なんです」私は驚いて 即「本当に失礼しました。ごめんなさい」と即謝った。小さな彼は「お姉さん大丈夫です。いつもみんな間違えるから。全く気にしないでね」と優しく笑顔で言ってくれたけれどせっかくの修学旅行で、、と私の心は申し訳なさでいっぱいだった。私は娘が「何ヶ月?」と聞かれるたびにあの時のあの二人のことを何度も思い出した。外来で訓練をするよりも 毎日通園をする方が訓練の回数が多いとのことで私は即母子通園を決めた。またこの訓練施設は自宅からは離れて駅からも遠くとても毎日電車で赤ちゃんを抱えては通うのは厳しかった。通園になればバスのお迎えがあることと、バランスのよいお給食もある。保育の時間も充実していた。泣きじゃくる我が子だからこそ多くの人たちに慣れていかなければいけない。幼い時期からの集団生活が必要だと判断した。あの時の私と娘には母子通園が本当によかったと思う。娘のためもあるけれど 私の心のケアーのために先輩のママたちの話を聞くことや新しい友達を作ることはとても大切なことだった。障害を受け入れるための大切な第一歩はまずは地域の母子通園できる施設に行くことと私は思っている。悩んで途方に暮れているママたち全員に勧めたいと思っている。それは必ず新しい出会いがそこにあるからだ。我が家は学園からいちばん遠くてバスはみんなのおうちを回るので最初に乗って最後に降りるパターンだった。一時間は乗っていただろうか。でもそのバスタイムも他のママたちや学園の保母さんたちとお話していたらあっという間だった気がする。気が紛れた。その頃の一日はとても長かったから、、、、バスの中で見えないようにそおっと授乳をした。(女性しかいません念のため)おっぱいはももにとって魔法のおっぱいだった。ももかの魔法のこころの安定剤だった。だからあえて私は他と比べずももが自然におっぱいを離れる時期を待った。2才3ヶ月まで、、、。おっぱいの香りとママの胸に抱かれているその時間はももにとっていちばん居心地のよい安心できる空間だから障害があるならばあるからこそ愛情たっぷりのその時間はもっともっと彼女には必要と私は思っていた。小さな声で歌を歌いながら そしていつも数冊の絵本を持参してパスの中で読み聞かせをした。そんな毎日がももにとったら楽しい時間のようだった。積み重ねで知らないうちに3才までの読み聞かせは延べ3000冊を軽く超えた。そんなに読むつもりもなくただ積もり積もってそうなっただけのことだ。一日10冊。小さな子の絵本は短くてあっという間だ。お気に入りばかりを読んでいたかもしれない。赤ちゃんが生まれたらお歌を歌って絵本をたくさん読んであげることは実に高校生時代からの夢だった。そんなささやかな夢を娘はかなえてくれた。何冊読んだかは記録をとってないからその後はわからない。続く
2005.06.08
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私はいつもどう転んでも「よかったな探し」をします。昨日体調を崩してよかったな、、と思いました。なぜって?私は体調を崩すと必ずその後たくさんの気づきがあります。日頃の当たり前の生活が決して当たり前ではなくてなんて守られていてしあわせなのだろうと。普段当たり前になって鈍くなっていることを再確認します。そして反省すべき点をはっきり心に感じてどうやったらプラスにしていけるかをよく考え見つめることができるチャンスになるからです。どんなこともチャンス♪私のなかに「不幸」や「アンラッキー」はひとつも存在しません。どんなことにも必ず学びと気づきがあることを私は知っているからです。そして小さなしあわせを数えられることは本当にしあわせなこと、、、耳が痛くなって ももちゃんのお話をちゃんと聞いていたかなこころで感じていたかな、、と反省して どうしてあげたらもっと彼女が楽しめるのかな、、と。そうそう私はももちゃんはももちゃんのままであなたのままでいいといつも思っているのに山のような宿題と数ヶ月のちに普通小学校へ復学するプレッシャーで補助もほとんど全くつかない状態ということでチカラをつけなければ、、と無意識に焦っていたのだと感じました。来週は計画を立てて楽しくゲームのように遊んで学べるようにママも考えるね。楽しい思い出になれるくらい楽しいやり方をママなりに考えるね。次にももちゃんに会えたときに「ももちゃんごめんね」を言おうと思います。子どもと言えども「個」があるからです。悪かったことは悪かったと認めてちゃんと伝えたいと私は思っています。 一生懸命頑張ってることを誉めて ママが焦っていたことを誤りたいと思います。 一緒にわかんないところを教科書見ながら 繰り返して何度でも何度でもやってみたいと思います。 時間はまだまだ十分にあるのだから、、、と。 もものペースでゆっくりと積み重ねていきたいと思います。すべてはママの私だったと思いました。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇私の心は今しあわせを感じてありがとう、、て感謝の気持ちでいっぱいになりました。体調を崩したお陰♪(o^-^o)しあわせは遠くにあるのではなくてこうなったらしあわせと条件をつけるのではなくてもうすでに与えられているもの。毎日のないげない生活の中にたくさんそれはたくさんちりばめられていています。マイナスを見るのではなくたったひとつでも光るプラスを見はじめるとプラスを数え始めます。しあわせ探しをしていると笑顔になってしまいます。ものの見え方が違ってきます。自分自身の気持ちの設定次第で不思議なことにまわりがすべて変わっていきます。重い肉体をまとっているけれど本当は誰もがきらきら輝く光、、、の存在。すべての人が輝くことができるのです。そして光輝くことを自らがチョイスしない限り絶対に輝くことはできません。すべては自らのチョイスです。私は娘の内側の光をどう輝かせてあげるかが大きなそれは楽しいママとしての過大だと思っています。今日もありがとうございます。こころをこめて(o^-^o)
2005.06.07
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今日とっても不思議な体験をした。今日お昼から予定が入っていたが朝起きたら喉が痛くて リンパがはっきり解かるほど腫れていた。全然昨夜は元気だったのに、、実におかしい~。しかも耳が痛い、、(私のこと)左耳。中耳炎になりかけかも、、しれないと思い(T0T)早めに近くの病院へ。、、と思ったがいつも行く耳鼻科は混んでいる上に事務的で値段が高くて治りも遅い 笑突然直感で近くの耳鼻科を調べるようにと♪調べたら案外自宅の近くにネットの評判もよい耳鼻科を発見。ネットでは仕事が速く必ず治してくれる先生です、、と書かれていた。行ってみると人気があるようで実に混んでいた。実はたどり着くのがやっとで壁にもたれかかるように衰弱してた(。_+)あの~仕事早くないよ、、先生はみんなの会話をちゃんと聞いて(よいことだ)おばあちゃん達の果てしない世間話も全部聞いて進めて行くので耳がますます痛くなっていく今日の私には実に(;_;) だった。(でも先生のそんなところは実に素敵だと思う)私の診察も結局10分くらいはかけてくださり過去の同じような状況、薬のこと、治り方など詳しく聞かれた。先生の診察は◎ 人気があるのが納得できた。実に珍しくリンパが腫れて滅多に熱もでないのに熱が出るゾクゾク感があり血液検査と長引かせないため注射を打たれた(T0T)過去に同じ症状で悪化させてしまい約2ヶ月かかったことがあると伝えたためか、、。私は普段薬は一切よっぽどのことがない限り飲まない。できるだけ自然治癒していきたいと思ってるから、、(o^-^o)でも耳は実に悪化すると痛い(T0T)ので今回はしょうがなくである。先生が注射を用意するその後姿、、、あ~~~ももちゃんも注射が嫌いだけどママも嫌いよ~~あ~~逃げたい~~なしにしてもらえませんか、、と心でつぶやくけれど聞こえるわけでなし、、勇気を出して「あの~先生やっぱり注射打たないとダメですか 汗」「リンパ腫れてるよね これから高熱でてもいいかな 治り遅くてもいいならいいけれど」「い、いやです(;_;) 」熱は出した方がいいといつも思っているし注射で熱は下げるべきでもないと思ってるけれど のどの痛みと耳の痛みは強くなっていくのを感じたのでそうなると今週一週間は寝たきりになると思い「解かりました、、、」(;_;) とお答えした。そ、それにしてもこの注射 打つと同時に打った部分がじ~んと熱くなって大丈夫か、、これ~とマジで思った。胸苦しくないですか?(いや苦しいよ~~)ゆっくり呼吸して、、と先生。ますます大丈夫なのかな~と思いながらも本当に気持ちそうで(気持ちの問題か、、)抗生剤を打たれて42度の熱を出してあの世に行きかけたのを思い出してしまった、、☆なぜ今を楽しんで生きているかの答え☆へ私が病院嫌いなのはそのためだ。打ちながら胸がむかむかしてくる、、気分がダウンと思ったら急に嘔吐。「先生トレー貸してください」間に合った、、でもきれいな嘔吐で全然汚くなくて逆に驚いた。「あの~先生今の嘔吐注射と関係していますか?」「それはありません」と先生きっぱり。でも全くそれまで胃のムカツキ感などはなかったのですが、、、、先生と周り5人の看護婦に囲まれての嘔吐は恥ずかしい、、と思う暇もなく もうぎりぎりラインまで行ってたみたい、、今になって恥ずかしいかも。「や、、やっぱり今日は家でおとなしくしています」と伝えもうろうとしながら自宅へ帰った。初診プラス検査プラス注射で3800円はまずまずの料金かな、、。って思えるのだから余裕あったのか。固形物を取る気力がないので 薬をとるため美味しいチョコレート味のプロテインを飲んだ。そして痛いよ~と思いながら爆睡。起きたのは電話が鳴ってたったの1時間後だった。あれ???あれあれ?????完全にどこも痛くなく治っていた。そんなのありえない、、眠ったら食欲も出て一気に蒸しパンを平らげた 爆笑あの時吐いたのがよかったのかもしれないし薬も注射も実にタイムリーだったのかもしれない。念のため大事を取り今日はお昼寝をゆっくりして養生した。「明日も来て下さいね(o^-^o)」と先生に病院で言われたけれど行かないでよいかも、、♪(血液検査の結果もあるからなあ、、)それにしても今までの耳鼻科は薬だけ出されて終わりだった。明日もきてくださいねと言われたことは一度もない。はやり丁寧だ。先生も元気でぴんぴんした私を見たらさぞかし驚くだろう。いや驚かせに行こうか(^▽^)先生は本当に治してくれた。感謝を伝えに行かなければ、、、♪天使さんたち~どうか最善の道をつけてくださいとお願いしていたから病院サポート天使さんが現れたのかな? とても不思議体験(o^-^o)でした。ご心配をおかけしました。すっかり元気に復活です♪
2005.06.06
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朝からももは割り算の筆算の山のような宿題をしている。療育園から小学校へ帰る準備が始まっている。退園はまだいつかわからないけれど。秋から冬にかけてだろう。療育園の分校は訓練等も毎日2時間あるので科目によっては遅れ気味。担任の先生も小学校へ帰ってからの本人を思い 厳しい指導体制をとって下さっている。先生もまるつけが大変な様子。私もだ。「お母さん宿題少なくしましょうか?(o^-^o)」とは言われたが やはり最低学年×20分の勉強時間のアドバイスを頂きさらにももは書くに本当に時間がかかるのでもう少し計算時間が早くならないとかなり厳しい。上記の時間の倍をかけて毎日宿題をこなしているわけだ。先生と話し合って宿題の量はそのままでお願いした。しかし~ 優しく教えていても何度教えても同じところにつまずいてさらにもものやり方を主張、、あげくの果てには「それは一年生の問題だよ もも(T0T)」ということが一度や2度ではなく、、(T0T)ももちゃん算数好きなのに3桁の計算等は解けても え~って思える初歩の問題が解けなかったりする。すっかり忘れているのかちゃんと理解できていなかったのか、、愕然、、はあ、、とため息。窓を開けて空気の切り替えをしてしばらく外をぼ~っと見て気持ちを切り替えた。(。_+)☆「もう一度一年生からのやり直しようね♪」というと「いやや!」と(T0T)「だって4年生やもん」「4年生だからこそ基礎作りをしっかりしていないと 中学にはいけないよ」「行かない」(T0T)「行かないじゃなくて行くんだよ。誰でも中学生にはなれるけれど 本当は楽しいお勉強がわからなくなったらつまらなくなっちゃうよ」「わかった」「算数は積み重ね。 本当は楽しいんだから。ただその場だけ点数をとれればという 感覚じゃダメだよ。 ももは本当は解けるんだから。 やればできるんだから。 算数もやり方を覚えるだけ。 やり方覚えたらあとはどんな計算も 必ず全部ひとりでできるからね(o^-^o)」「わかった(o^-^o) 」ともも。我が子を教えるのは難しいというか気持ちを切り替えてまるで家庭教師に行ってるような感覚に自らをイメージして持っていかないと厳しいのかな。ももの数字はずいぶん読めるようになったけれどそれを枡の中や定位置に書くことは彼女には優しいことではなく大きすぎてはみ出したり重なって読めなかったりを繰り返しそのたびに何度も消して何度も書き直しをして一問一問を解いていく。忍耐、、、。頭の中でイメージしていることをそのままに出力できないのはかなりのストレスがあると思う。本当によくがんばってると思う。自分で消しゴムで消すのも難しいので「ママ消してください」と何度もいう。「私がここは書き直ししようね」と消したところを「せっかく書いたのに!」「せっかく解いたのに、、」と大泣きして1時間以上抗議大泣きした日もあった。優しくすることは簡単。影で支えるのは心に厳しい。やってあげた方がどれだけ楽か。うちの母はお花の先生で私も習ったけれど私には厳しく感情的になるので私は続かなかった。あ~やっておけばよかったと今では思うけれど。ちなみに妹はちゃんと母から免状を取った。妹がエライのか 母が優しくなったのか~~いやふたりともかも。土日になると正直この山のような宿題に頭を悩ましているのは事実、、でも「少なくして下さい」といえば本当にそれで終わりのことだ。いくらでも勉強もしない方向へ持っていくことも出来る。楽しく算数を教えてくれる人はいないだろうか、、と心の中でつぶやいてしまう私なのでした。いや楽しくしよう♪と毎回心切り替えるがおんなじところでつまずき説明中へらへらと笑うもも。「ももちゃ~ん怒られているときへらへら笑っちゃだめだよ~~」でもこれ笑いたくて笑ってるわけでもなくて反射によるものもあるのかな、、と考えたりもする。複雑だ、、この件に関しては忍耐、、修行かな、、、(T0T)毎週迎えに行くと宿題はすべて終わらせていたももだけれど最近は多くて終わらない様子。「ももちゃんお母さんとしたいから持って帰るって言ってました」その気持ち、、大切にしてあげないと、、。来週はもっと楽しく取り組める方法を見つけよう。私に魔法をかけた。
2005.06.05
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昨日はあるセミナーの名刺交換で出会った素敵なご夫妻と夕食をご一緒した。「こころのバリアフリーのことがしたいと聞こえたのですが、、、」と声をかけて頂いたのが最初の出会いのきっかけだった。(ありがとうございます!)「はい、そうなんです(o^-^o)!楽しく広めていきたいんです♪ そのためのツールを作っています!」メールを頂いたのはその後すぐだった。奥様もHPを見てくださったとのことで長い心のこもったメールを頂いた。何通かのメール交換の後 昨日ご夫妻にお会いした。前向きで明るくて楽しい方々で話題も豊富、すぐ意気投合して 色んなアイディアなどこれは止まらなくなりそうな気配を感じるくらい色んな話をして盛り上がり 時間はあっという間に過ぎてしまった。今日はこの辺で、、ということで♪本当に楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。「とても会わせたい人がいます。すごくパワフルな方なんです!」とご紹介頂いたのは なんとしばらく前 偶然にHPで見つけた方で「うわあ、、この人すごい!」会ってみたい!と思っていた笑顔が素敵なその人だった。大阪のパワフルなおばちゃんベスト10に入るのでは?正直かなり驚いた。シンクロがまた起こった。きっとそのパワフルな生き方から強烈な衝撃を受けるだろう、、(予感が今からしている)素敵なご夫妻との出会い私はとっても心に温かいものを感じて家へ帰ってきた。同じ方向を向いていろんなことを楽しく考えている仲間たちがいる。私は一人じゃない、、そう感じて嬉しかった。みんなで協力し合って今までにない楽しいことを考えたり作ったりいろんなことができたらしあわせだな、、と思う。愛と調和があることは必ず道がつくと信じたいシェアしあって協力し合うそしてどこまでも惜しみなく自らが持つものを与えていく。そうしていればどんな困難な道でも 必ずいつかは道がつくと信じている。新しい素敵な出会いに感謝。ひとつひとつの出会いを大切にしていきたい。こころをこめて
2005.06.04
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なぜ私が「こころのバリアフリーのことを伝えたい」と思ったのか。いや最初は悪いけれどそんなことはこれっぽっちも思っていなかったし本館のHPももかの宝箱 だってそんなつもりで始めたわけじゃない。娘との子育て日記を書こうと思ったわけでもない。あの頃の私はこころを埋めてくれるものを探していました。こころに何か感じる人のぬくもりや温かいものを求めていたのに生きる希望となる言葉が欲しかったのにどこにもどんなに本を読んでも私が欲しいメッセージがなかったのです。未来が見えず不安だった私はただ心を潤してくれる安らぎとなる灯火を探していたのかもしれません。愛する子どもの障害の受容はそんな簡単なものではありません。体験しないと決してわからないものだと思います。壁を乗り越えていくにはマニュアルはなくそしてそのカタチはそれぞれでひとつとして一緒のものはありません。それぞれの立場にならないとわからないもの、家族でもわからない気持ちがあります。ある時に思ったのです。出会いの中で私が得た欲しかったメッセージ私が心に気づいたこと学んだことを記すことで日本中のどこかに住む同じ状況のママの気持ちが少しでも楽になったら、、とこんな思いはして欲しくないと。ただ素直にそう思ったのです。そのままに飾らずに心の気づきを素直にまとめていこうと思ったのです。どこかにすむたった一人のあなたへ伝わったらいいなあ、、と。それが たくさんの素敵な出会いとの始まりになるとはあの時の私は想像もしていませんでした。「朝から泣きました」というメール。「死ぬのをやめました」という長いメール。たくさんのメールを5年間頂きました。そうしているうちに 思ってもいなかった人たちからメールが舞い込むようになってきました。中学生、高校生の方々からでした。授業やヘルパーのセミナーで使用して下さったという内容のものもありました。正直驚くことばかりでした。そうしてひとつひとつのこころのふれあいを通して私はどんなことでもどんな壁でも乗り越えるにはある共通点があるということも気づいていきます。これから私がこころに感じた素敵な出会いのこと、お伝えできたらと思います。そして心のバリアフリーのことを本当に伝えたいとこころに強く感じたある偶然の出会い、衝撃の日のことも。誰も知らない大阪へ来てまったくゼロからの出発をして実現化に向けてどうしてきたか、この先どうなるのか、、、こころのなかを綴りたいと思います。子どもが泣いて途方に暮れているママはいませんか?どんなに泣こうがわめこうが大丈夫♪優しく泣き止ます方法など子育てが楽になる魔法等私が生活の中で見つけた魔法も♪これから伝授しちゃいます(o^-^o)いつもありがとうございます(o^-^o)楽しい週末をお迎えくださいませ♪
2005.06.04
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今朝訓練見学の時間変更を確認せず療育園へ。時間変更があって訓練は午後からとのことだった。朝9時20分。きっと教室かな、、学校の入り口の小窓からだけどももかの様子が遠くに見えた。私はその様子をしばらく離れたところからただ眺めていた。プロンボードという立つ装置にたって授業を受けていた。ちゃんと聞いているのかな?テーブルを触ってみたり(。_+)☆\ とおもったら前を見たり、、、(o^-^o)いつもの何気ない場面。そしてなにげない風景。それなのに涙があふれてきた。でもね その涙は淋しい涙や悲しい涙ではなくてありがとうの涙なんです。ただあなたが元気にそこにいることが嬉しかったのです。ありがとう、、、そして周りの方々にありがとう、、あなたに会うとママはいつもピュアな気持ちになれます。大好きな子♪まだ後で会いに行くね(o^-^o)
2005.06.03
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大切なイノチのことを描いてみました。みなさんにとって今日もしあわせをいっぱいこころに感じる一日になりますように(o^-^o)by cona
2005.06.03
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ありがとうありがとうありがとう今日もありがとう(o^-^o)ありがとうはきらきら輝く素敵な言葉「ありがとう」と「感謝します」はハッピーを呼び込む魔法の言葉今日もありがとう♪みんなありがとう。生きていることにありがとう。今にありがとう。すべてにありがとう(o^-^o)そう娘にも伝えていきたい、、こころをこめて
2005.06.02
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~大丈夫。ずっとこころをつないで ふたりぼっちだよ~今長期入院中の娘はリハビリ生活を顔晴っています(o^-^o)母の私は娘の入院期間を与えられた大切な時を思い心のバリアフリーを伝えるひとつのツールとしてこころに感じる教材をただ今 企画しています。その教材をいきなり伝えるよりもこころに優しく届く絵本などがよいのではというアドバイスを何人もの方に頂き できない、、そんなのと思いながらもやれるだけのことはやってみようと挑戦中、、ただ今文章がなんとかまとまり イラストを作成中です。絵本はこころに温かい何かを感じて頂けることを目標としています。こころのバリアフリーの第一歩です。希望、愛、思いやり、優しさなどを描いています。誰もがほしいキラキラ輝く言葉たち。ステキな言葉が空に輝くお星様のようにちりばめられています。しかも読んだ人は必ずしあわせになってしまう魔法がかかっています 笑早く皆さんにお届けできるといいなあ、、と思います。車いすのキャラクターなど今までにないものに仕上がってきています。昨日は京都の教材やさんに行ってきました。バリアフリー教材を持ってです。ご紹介を頂いてお会いしたのは60代の社長さんでした。教材に関しては面白いけれど国の指導要領に合わなければ難しいとのことでした。 こころのことは難しいからやっても叩かれるだけだというのです。必要だとは思うけれど 戦後の教育が間違っていたから今がこうなのだと。心のことを伝えようとするならば何十年も見ていかなければいけないとお言葉を頂きました。そこで私が感じたことはまだ学校教材にすべきではないということ。これはまだ学校の教材にする段階ではなくいずれそうなってほしい願いは決して捨てないでいきたいということでした。まずはこれをこんなのあったらいいよね、面白いよねと思わず見て微笑んでくださるところこんなのやってみたいこれ作って遊びながら学んでみたい、、という幼児教室や母と子のワークショップ、ボランティアセンター、福祉関係と遊んでみたい♪やってみたいとそのままにこころに感じてくださるところを探したいと思います。実は昨日はね本当はあまりにずばずば言われて涙がでてきそうでした。帰りの電車の中は気持ちが晴れませんでした。求めているものが違うのだな、、と思った次第、、しかもそのままの気持ちで帰れなくてひとりで梅田の大好きな焼き鳥屋さんとり平に飲みにいってしまいました。(これ私の内緒のお店)飲みにというよりも焼き鳥が恋しくてお店のおばちゃんが恋しくて行ってしまいました。こんな時も必要ね~そして朝になって私が気付いたことどんなふうに転んでもきっとこれから先も何十年もきっとイノチが消えるまで同じことを伝え続けていくのだろうな、、とその社長さんのお陰で今日初めて気がついたのです。社長さんに感謝です(o^-^o)販売ルート開拓は難しい。まずはルートを開拓しないとリスクが大きく商品化にお金をかけることもできません。今までにないものとのことで現状○○協議会さん、民間さん、できたら持って来てね、、とプラスのお言葉も頂いてはいるけれど商品を作らないと持って行きたくても持ってはいけない、、。正直 私はこの先どうやって商品化につなげていこうか頭を悩ませています。マイナスな言葉は聞こえるけれど私は形にしていきたい、、なぜならば これを手にしたときの子どもたちの笑顔が私には見えるから。カタチにしていくのは難しい、、大変だ~~という気持ちを切り替えこのプロセスを楽しまないとなあ、、たくさんのこどもたちのこころにプラスのイメージを届けるおもちゃのような教材、、みんなちがっていいということをたくさんのこどもたちに伝えたい、、な。私が絵本を書いているときももが嬉しそうに「ママの本いつ本になるの?」と言った。「え~そんなのまだまだだよ」って言ったのに「ママの本が発売になります」って勝手にそれは嬉しそうにももは訓練の先生に話していた。(あ~~~赤面(>_
2005.06.01
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