セレンディピティ

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2017/04/19
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カテゴリ: 歴史

古代の人類集団は、【トーテム】をもち、そのトーテムの名で呼ばれます。

【牛】の原産地はメソポタミア。そのウルク期に於いて牛はウルと呼ばれていました。

牛族が王族となったため、ウル王朝と呼ばれ、都市もまたウル市といわれました。

それから34世紀経ったBC1世紀、古代満州の扶余に

牛を部族名とする【牛加】が実在しました。【加】とは、人の意であり、部でもあります。

【牛加】が官名であると同時に部族名でありました。 

牛加には二種あり、一つはウル族、一つはシオ族。

この【塩族・シオン族】は、BC2800年前後頃から、牛族のウルクと帯同して原郷の

メソポタミアを離れ、インドでは釈迦の名で呼ばれ、殷では、【召方ショウホウ】と呼ばれました。

【日本書紀】垂仁天皇二年の条の第一の一書にあった【額に角の有る人】という記述は

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牛の角形のついた冠帽をかぶった人の形容で、これが【兜】になり、二本の牛の角のある

【牛冠】をかぶる古代の習俗だったのです。【ツヌガアラシト】はツノガアルヒト(角がある人)

であると共にアラシトは、後代実在した加羅の人名、また王号でもありました。

【蘇】は【于斯うし】牛の朝鮮語のsoです。

【牛冠】とは、人間の身分を表し、【王】のシンボルだったようです。

BC2500年、アッカド王国では、ナラム・シン王がかぶっていました。

BC800年、ウラルトゥ王国では、牛冠のスフィンクスが王座の一部でした。

祟神・垂仁朝、牛冠をかぶっていたというウシキアリは王子でした。

【日本民族を形成するアジア五加】

馬族・・・・・アルタイ系種族(白人系)

牛族・・・・・オリエント系種族・シュメール人(白人系)

犬族・・・・・印欧系アーリア種族(白人系)

鳥族・・・・・殷人(黄色人系)

蛇族・・・・・原南洋人(オウストロネシア語族(黄色人系)

縄文晩期の西日本は、原南洋人、オウストロネシア語族、

蛇をトーテムとするオラン・ラウトの生活舞台でした。

次いで弥生早期に洛東江流域から南加と原シナ人(鳥をトーテムとする猪加)という

猪加とは、チュルク族、つまりトルコ人のことです。

猪加というのは、扶余の王族である馬加の文化人が蔑んで名づけた名でした。

黄色人同士、稲作農耕民であるところの二種族が西日本へ渡来しました。

これが日本列島へ稲作文化を搬入した二加であり、

原畿内人であり、銅鐸人であったと考えられます。

次に、弥生中期になると、扶余の王族、高句麗の前期王族、

そして、馬韓王の系譜につながる馬加を盟主とする連合軍が、まず北九州の松盧国に上陸

し、以後しだいに先住の狗加、牛加、猪加、南加たちを制圧して九州に入りました。

これが日本の天皇氏族であり、種族の系譜としては馬をトーテムとするアルアイ系人種、

すなわち北方騎馬民族の一種です。

また、馬加が西日本一帯を完全に制圧したのは、【三国志・魏志・倭人伝】によると、

247年、九州の狗奴国(狗加の国)が邪馬壱国に敗北した時点になります。

弥生時代の【弥生】という名は東京の本郷弥生町からとったものであり

もとの地名は【向ガ岡】、ムコガ岡を語源学的に表記し直せば【馬加賀岡】。

即ち、東大農学部構内の弥生土器が出土した地点には弥生後期、

馬をトーテムとする人間集団馬加が小邑落をつくっていたのであり、

そこから出土した弥生土器はアルタイ系人が使用してものでした。

また、大森の久が原遺跡は、弥生中期、狗加族(くかはら)が住んでいた跡であり

板橋の前野遺跡は馬拝(まへの)が住んでいた後期遺跡であって、

日本中の古代遺跡跡地の【地名】は、みな、そこに住んでいた種族、アジア五加の

名が付けられていたといいます。

現在、地名がどんどん新しく改変されています。

歴史の唯一の手がかりを惜しげなく消してしまっていいのでしょうか。






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最終更新日  2017/04/19 11:14:18 AM
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