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見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 新約聖書ヨハネの黙示録 3:20 ケズィック3日目の中島先生のメッセージで語られたこの聖書箇所、特に「戸の外に立ってたたく」のみことばが妙に頭に残り、しばらく、ゆっくり思い巡らす機会となった。 戸があるっていうことは、家とか建物かな・・・ だとすれば、移動ができない不動産みたいな感じ?・・・ っていうことは、身動きがとれない?・・・ 身動きがとれない・・・? 昨年2月の生島先生のメッセージが思い出されてきた。よきサマリヤ人のたとえ話って、身近にいる困っている人にアプローチした人が、その人にとっての隣人となったというのが、よくなされる解釈(=だから、困っている人がいたら、隣人となって親切にしましょう・・・などなど)なんだけど、生島先生は一歩進んで、盗賊に身ぐるみ剥がされ、半殺しにされた人があなた自身だ、という切り口を紹介して下さった。そして、イエスさまが良き隣人となり、身動きとれない私を介抱し、抱きかかえて宿のある村まで運んでくれて、こともあろうか宿代まで支払ってくれた! (さてさて、シーンは、強盗に身ぐるみ剥がされたところに戻って) そこに横たわっているのは、身動きのとれない私・・・。そして、そこまで、主が来て下さった。もしかしたら、探し出してくれたのかもしれない。ずっと遠くからやってきてくれたのかもしれない。とにかく、主はまったく身動きできない私のところにやってきて下さった・・・。 ケズィック初日のブラウン先生のミカ書7章からのメッセージが心に浮かんでくる。身動きできない状態・・・ 「倒れ」ている(8節) 「やみの中にすわってい」る(8節) 「林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでい」る(14節) 光であり、救い主であり、羊飼いであり、勝利者であるお方の側からアクションをお取り下さり、悲惨な状態の私を救い出そうと、扉をたたき続けなさる・・・。だんだん、昨年6月の上沼先生の話が思い出されてきた。 苦難の時、主に呼び求める。叫ばざるを得ないところまで、追いつめられることさえ・・・「破れ目」上沼先生は、苦しみや挫折をそう表現された。主に叫び求める時、そこに「破れ目」という「窓」が生まれ、神さまとの関わり・交わりのきっかけが生まれる・・・ そしてね、この「破れ目」が、イエスさまがノックされる「戸」にも思えてきたんだ。そのこと自体は苦しいことかもしれない。悲しいことかもしれない。痛みを覚えることかもしれない。だけど、主イエスさまが、扉一枚へだてたところまで来てくださって、私が扉を開けるのを待っておられる。そして、神さまは「破れ目」の大きさの分だけ、「破れ目」を深い深い交わりの窓口に変えてくださるんだ。「破れ目」が大きければ大きいほど、神さまは近くて、癒され、慰され、大きな祝福へと変えられるんだ。 >だから、何もできないと感じること、人の世界では、負い目となることかもしれませんが、>信仰に生かされている時には、そのことが、神さまへの飢え渇きとなり、神さまを求める、>すなわち、神さまと近いところにいることを思わされます。自分だけの力では何もできない>と感じる時。それは、大きなチャンスの時でもあります。 昨年末、自分で励まされたことばが、再び、生きたことばとなって心に迫ってきた。 神さま、ありがとう。ただただ、ありがとう。
2004年02月27日
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「水の洗い」 投稿者:ぽん# 投稿日:2003/02/25(Tue) 23:30 水って不思議 汚れを落としてくれる 汚れはどこに行くの? 清かった水自身が 自ら汚れ 汚水となって 捨てられ 流れ去る 水って不思議 イエスさまみたい ( ~1年前の黙想~ )
2004年02月26日
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今日で、あれから、ちょうど1年が経過。振り返れば、まったく予期せぬきっかけから始まったこと(半強制的にまきこまれた感じ)によって、この1年間、考えられない成長を与えられた。自分がどんなにか成長させられたか、変えられているかは、自分自身が一番よく感じている。純粋に、みことばに触れ続けただけなのに。みことばを通して、神さまのみわざがなされるって、本当なんだぁ!いわゆる聖書「研究」や「勉強」でなく、霊的な語りかけ、生活密着直結の霊的食物として、その日の養いを受けるだけ。まさに、「食」が生活の基礎を支えるものであれば、「みことば」は霊の基礎を支えるもの。もっとも単純で、基本的なことなんだけどね。ああ~、もっと早くに、聖書のみことばのおいしさと、神さまと親しく語らい、交わる世界を知りたかったなぁ、というのは、ちょっとぜいたくなひとりごとかな? さて、今日の一日一章聖書日課の箇所は列王記第一12章。2章でダビデが没し、息子ソロモンが跡を継ぎ、イスラエル王国の黄金期を築くとともに、壮大な神殿建設事業を成し遂げた。8章では、神殿完成に当たって、ソロモンが神に心からの礼拝をささげ、神さまもそれを喜ばれたことが記されているが、のちに堕落し、偶像崇拝するようになってしまった。11章では、そのことを罰するために周辺諸国に「敵」が起こされ、先行きに黒雲が立ちこめる中、ソロモンもこの世を去る。 そして12章。初代サウル王に始まり、時に内戦状態に陥りながらもダビデ、ソロモンと続いた統一王朝は、ソロモンの死をきっかけに南北に分裂し、あっけなく終わりを告げる。もともとソロモンの家来で手腕家であったヤロブアムがソロモンに反逆、命ねらわれエジプトに亡命していた。ソロモンの死後、跡をついだレハブアム王のもとに戻り、自分も統治に協力し、参画する道を探るが、レハブアムは北10部族に対して非常に不遜な態度をとり、苦役を課すことをほのめかす。そのことを到底受け入れられないヤロブアムは、預言者アキヤに預言された通り、北王国を設立する。 王は民の願いを聞き入れなかった。それは、主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子 ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたからである。(15節)北の部族に苦役を課すことを得なかっただけでなく、王国が分裂してしまったのをみて、南のレハブアム王は、北に対する攻撃を企図した時・・・ 『主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人 と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。』 そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。(24節) 悪政を行うがゆえに分裂の原因を自らつくりだしたレハブアム王が、この時は、神さまの言葉に聞き従い、兵を引き上げたのである。あれれれっ?そして、それを見た北王国のヤロブアム王は、戦いが避けられたのに、とてつもない警戒心をいだく。その警戒心とは?・・・ ヤロブアムは心に思った。 「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮で いけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、 ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。 「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上 ったあなたの神々がおられる。」(26~27節)主の宮エルサレムは、南王国の首都であった。拍子抜けするほど、この時だけは、神に従っちゃった南のレハブアム王と民たち。もし、このまま、北の自分たちの民の信仰心に火がついたなら・・・ その結果、ヤロブアムはこともあろうか、便宜上、金の子牛という偶像をつくり、民に拝ませた。ああ、なんという悲劇と皮肉。しかも、出エジプトの時、アロンがつくってしまっったのと同じ金の子牛・・・。 しかも・・・ ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえを ささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命し た高き所の祭司たちをベテルに常住させた。 彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを ささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。 (32~33節) アジアのある国のことを思い出した。その国は、百数十年前、近代化を推し進めるに当たって欧米の西洋文化を採り入れようと必死だった。遣欧使節がヨーロッパの国々を回り、そして一つのことを発見する。民がまとまっているのは、進んだ文明や文化、政治だけによるのではない。精神的支柱、すなわち、キリスト教信仰が人々をしっかりとまとめ上げている、と。そして、自らの国にも、そのような宗教と精神的支柱が必要なのだと結論づけるに至った。帰国した遣欧使は、彼らの母国にキリスト教信仰を持ち込むのではなく、その国にもとからあった宗教を利用し、再構築、全く別の、国を支配するための便宜的宗教を、人工的につくりあげた。まるで、北イスラエルのヤロブアムのように。 その宗教、それは「国家神道」。(国家宗教を持ち込んだ遣欧使節は、旧500円札の岩倉具視か、旧1000円札の伊藤博文か、どっちかだったはず) ぜんぜん関係ないはずだけど、ヤロブアムが定めた8月15日という日付に、ちょっと、ぞぞぞぞぞ~っ。統治のための人造宗教と8月15日の参拝・・・。 でも、聖書記者は記述する。ヤロブアムが自らが王となろうとしたことのきっかけ、レハブアム王が北の民に苦役を課そうと考えたことは、「ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたから」(15節)。ヤロブアムが自らの手で偶像をつくることのきっかけ、レハブアム王が攻めようとしてやめたことは、「おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから」(24節)。これは、神さまの観点。すなわち、政治も社会も国家も為政者も、またその思いも、すべて、神さまが「しむける」ことができることであり、神さまの支配下にあるということ。たとえ、当事者があずかり知らなくとも・・・。 3000年前の出来事と、今の社会が、ある部分、妙にオーバーラップしながら読む、今日の聖書箇所だった。 神さま、あなただけを主として崇めさせて下さい。あなたが愛してやまないこの国を憐れんで下さい。キリスト者が、世の光、地の塩として、義をつくりだす者として用いられますように。主よ、あなたのみわざをなして下さい。
2004年02月25日
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「額ずく」 投稿者:ぽん# 投稿日:2003/02/23(Sun) 01:12 はじめて ぬかずいた 頭に血が上ってきた(下がってきた?) 首や鼻のあたりの血圧は かなりだろう おなかが 圧迫され ちょっと苦しい おでこは 意外と ちょっとの部分しか 床につかない 羊飼いたちや 博士たちは 家畜小屋の土間に ぬかずいたんだろうなぁ ( ~1年前の黙想~ ) 「ティップ」 投稿者:ぽん# 投稿日:2003/02/25(Tue) 01:28 世の中、ティップがたくさんある。 ティップって、裏技とか、知ってると便利な方法・テクニック。 パソコンの操作なんかで、右クリックしたり…… わたしの信仰生活、ティップだけの頭でっかちだったかも。 信仰生活の旅路、ティップだけたくさん吸収してたかも知れない。 でも、肝心の、前を見ていなかった。 よそ見ばっかりして、ティップだけを求めていたのかな。 前に進んでなかったかも。 ティップ あれば便利だけど、なければないなりに、根本的にさしたる問題にならないこと。 必ずしも必要なものではない。 信仰のみ 恵みのみ 聖書のみ ティップではなく、ただ、まことの君、あなただけを慕い求めます。 ( ~1年前の黙想~ )
2004年02月24日
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ケズィック最終日3日目。朝の部は、「戸外のキリスト ~信仰のリバイバル~」というタイトルで、中島秀一師のメッセージ。聖書個所は、黙示録3:14~22。 まず、中島先生が信仰を持つに至った経緯。ちょうど50年前、垂水教会での本田弘慈先生の伝道集会で信仰をもってすぐ、17歳の時、父親の事故死。しかし、のちに母親、兄弟たちが次々と信仰に入り、自分がそのことのために選ばれたのだという自覚。黙示録は、新約聖書唯一の預言書。老使徒ヨハネを用いて書かれた。 「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、 テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」 黙示録1:11 7つの教会は、当時、現実にあった教会と、そして、歴史的教会を指す。 エペソ 初代教会 スミルナ 迫害の時代 ペルガモ ローマ帝国の保護の時代 テアテラ 中世の暗黒時代 サルデス 宗教改革の時代 フィラデルフィア 世界宣教の時代 ラオデキヤ 終末の時代 = 今日の教会今日の個所ラオデキヤ 7つの教会のうち、何一つほめられるところのないただ一つの教会。ラオデキヤは、フィラデルフィアからエペソへの途上にあり、羊毛・香料・目薬の産地であった。 戸外で観察されるキリスト (14~17節) ・「冷たくもなく、熱くもない」(15節) 要は、生ぬるい中途半端な信仰。 料理や紅茶でもぬるければ・・・?・「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って」(17節) 外見的、物質的には繁栄している状態。・「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(17節) 外側は満たされているかもしれないが、実は、霊的にみじめな状態。 心の貧困。 しかも、そのことに気づいていない、問題意識さえ感じていない状態。ジョージ・バーナーという人の、鍋(釜)の中のかえるの話。沸騰したお湯の中にかえるを投げ入れると、かえるはびっくりしてジャンプして飛び出してしまう。しかし、みずの状態でかえるを入れて、徐々に徐々にその温度を上げていくと、かえるは温度変化に気づかないまま死んでしまう。イギリス国教会や、世俗主義の影響を受けたアメリカの教会に対する警告。 目を覚まし悔い改めよ! 2 戸外で勧告・忠告されるキリスト (18~19節) ・「火で精練された金をわたしから買いなさい。」 火による精錬によって不純物が取り除かれる。純粋な信仰を持つように。 ・「裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」 まず、自分たちが裸であることに気づいていないことの指摘。永遠の救いから遮断された状態。 白い衣は天国で聖徒たちが着る服。 義の衣・キリストの衣を着るように。 ・「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」 当時のラオデキヤは医学が盛んで、目薬の産地でもあった。 霊的に目が開かれるように。 3 戸外で哀願されるキリスト (20~22節) 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」ウィリアム・ホルマン・ハントという画家の「世の光」という絵には、キリストが戸の外に立って、ノックされる様子が描かれている。そして、その絵のドアには、ドアノブ(取っ手)がついておらず、中から開けるしかない・・・。こじ開けたり、押し入ることはされず、ひたすら待たれるイエスさま。私たちの側で、中に入っていただきたいという意志が不可欠。そして、いったん扉を開けて、イエスさまを心の内にお迎えしたならば・・・ ・心の内に住んで下さるイエスさまが、心の中に「入り」「住んで」下さる。霊となって下さったイエスさまだから、私たちの心の内に入ることができる。 ・食事を共にして下さるイエスさまは、いろんな人々と食卓をともにされた。しばしば罪人と 最後の晩餐 エマオ途上の弟子と 復活後のガリラヤ湖畔で・・・食事をともにするとは、親しさ・リラックス・親密さ。 そして、親しい交わりいったん、扉を開いてお迎えすれば、そのような場を、イエスさまの側で提供してくださる! Christ is the King of the house. The unseen guest of every meal. The silinet listener to every conversation. キリストは我が家の主人なり 食事のたびごとに見えざる賓客あり 談話のたびごとに静けき聞き手あり ・勝利と共に、父なる神さまの御座につかせて下さる 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。 それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(21節)すべての権威・力の座につかれるイエスさまと共に、その勝利の座につかせて下さる。 今日も、おいしいみことばと、その説き明かしでお腹いっぱい。聖霊さま、心の王座にお迎えします。心と思いを完全なあなたの御支配のもとに置き続けてください。主が、すべてをなして下さい。
2004年02月20日
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ケズィック2日目。今日の午前の部は、「聖霊」というタイトルで、スティーブン・オルフォード先生のメッセージ。聖書個所は、ヨハネの福音書14:14〜26、16:7〜11から。 ピューリタン時代のジョン・オーウェンのことば。 旧約時代の最も大きな罪は、父なる神を拒否したこと 新約時代の最も大きな罪は、子なるキリストを拒否したこと そして、現代における最も大きな罪、それは、聖霊なる神さまを拒むこと・・・ 聖霊に対する間違った態度・逃避主義 = 聖霊について語ることを避けたり、その力を認めない 聖霊の火を消す結果・極端主義 = 聖霊が意図していない、計画していないことを教会で教える危険聖書の記述、聖書の原則に立ち返る必要。 聖書的バランスが必要主なる神は、霊なる神であると同時に、みことばの神。みことばだけなら、霊は枯渇し、律法主義に陥ってしまう。霊だけなら、感情は爆発してしまう。聖霊の光に照らされることによって初めて、みことば=聖書の深みを知ることができる。聖霊の助けなしに、霊感によって書かれた書物、聖書の奥義を理解することはできない。 1 聖霊は人格を持ったお方(person) イエスさまは、ヨハネ14章で、聖霊があたかもイエスさまご自身であるかのように語られる。 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたに お与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるために です。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。 世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知 っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるから です。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。 わたしはあなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたし を見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、 あなたがたも生きるからです。 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがた におることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、 わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人 を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 (ヨハネ14:16〜21) 聖霊は、父なる神、子なる神と同一人格であり、愛して下さるお方、配慮してくださるお方。聖霊は「助け主」 英語では「カウンセラー」、また「弁護人」とも訳せる。聖霊は「ともにおられる」=「同伴者」「コンパニオン」 いっしょに旅するイメージ。3年半の間、イエスさまと寝食をともにし、語り、論じ合い、そして旅した弟子たち。イエスさまが十字架を直前に、動揺する弟子たちに語ったのが、このヨハネ14章。「いつまでも」 「慰め主」conforter として、イエスさまが弟子と生活された時と全く同じように、聖霊は変わることなく、愛情を注ぎ、保護して下さる聖霊。 聖書の中の聖霊の表現 「水」「鳩」「風」「火」・・・しかしどんな表現がなされようと、聖霊は人格を持ったお方。喜ばれたり、悲しまれたり、考えられたり、行動されるお方。 2 聖霊の御臨在 あなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる (17節) あなたがたとともに(=with you)住み、しかし、あなたがたのうちに(=in you)おられる。この前置詞 with you から in you の順序。「世は受け入れません」(17節)聖霊は「受け入れる」「受ける」もの。ペンテコステの時に、ペテロたちは約束の賜物を受けた。「聖霊の注入(incoming)」そして、「聖霊の内住」が、クリスチャンの経験すること。 3 聖霊の力 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたに すべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こ させてくださいます。」 (14:26)・啓示( revelation ) 内に住み、真理を現す。 「すべてのことを教え」 黙想・デボーションなどの中で、聖霊が働いて下さる。 ・思い起こさせる力( recollection ) 「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて」 聖書は、聖霊が聖書記者たちに必要なすべてのことを「思い起こさせて」書かせた書物。 有名な説教家であったスポルジョンの寝言メッセージを奥さんが書き留めた不思議な体験。 ・実現する力( realization ) イエスさまご自身が現実に内に住んで下さる = 内にイエスさまのご性格を形づくって下さる = イエスさまのすばらしさが、内に実現される すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るの ではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 ヨハネ16:13〜14 愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制・・・これら御霊の実を実現するのが聖霊。神学の知恵・聖書知識自体が、人をクリスチャンたらしめるものではない。聖霊ご自身の力と働きが不可欠。聖霊が栄光を現して下さる。私が何かをするのではない。聖霊が私を通して、超自然的なことを実現して下さる。 ・悪いものから矯正する力( recorrection ) その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。 (16:8〜11) イエスさまが、弟子たちを世界規模の宣教へと召している真っ最中のことば。聖霊が、個人に教会に臨まれる時、聞く者に、「罪」「義」「裁き」について正しい自覚に導いて下さる。それは、どんな人のわざでも成し得ないこと。聖霊のみができること。 罪 聖霊ご自身が、自責の念を与えて下さる 義 聖霊は罪の指摘のみならず、義の必要性をも示される キリストこそが私のすべてであること 裁き この世を支配するものがすでに裁かれている そして、この世は、いずれすべて裁かれるペンテコステのメッセージを聞いた人々は、ペテロたちに「それでは、どうすればいのでしょうか?」聖霊が人々に臨み、罪・義・裁きについて、正しく示されたから。 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、 よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 エペソ5:15〜19 酒 = サタンによる働き この世の興奮剤 に酔ってはいけません 聖霊 = 神が与える約束の力 に満たされない 「満たされなさい」 命令形 = 守るべきイエスさまの指示 受動形 = 自分自身を聖霊にお任せする必要 「満たして下さい」と願う必要 人が聖霊をコントロールできない。聖霊の御支配 現在形 = 今、満たされ続ける必要 瞬間瞬間、永遠に 電話する時、手紙を書く時、仕事をする時、講壇でメッセージする時・・・ 召される時か、イエスさまがもう一度いらっしゃる時まで、満たされ続ける必要 主よ、どんな時も、どこででも、どんな状況でも、私を満たし続けて下さい・・・。力強い、そして、今、必要だったメッセージを与えて下さった神さまに感謝!
2004年02月19日
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今年もケズィックの季節がやってきた。ケズィック・コンベンションは、聖書的に聖潔(きよめ・ホーリネス)を求める聖会(集会)。東京(箱根)は、宿泊しての聖会らしいんだけど、大阪は市内の施設を利用して、宿泊なしの通いの3日間、朝昼晩各1回、合計9つの集会。おかげで参加しやすい面もあるかな。ただし、今年は3日間とも、午後から仕事なので、3つの集会しか出られない。(泣)自分は、今年、3回目か4回目の参加。参加するたびに、1年前とは違う(着実に変えられている)自分がいることを感じさせられ、感慨深いなぁ。 今年は39回目なんだって。テーマは、ピリピ書2:5から「キリストの心を心とする」う~ん、すてきなテーマだなぁ。ちょうど、今、必要としていることのような気がして。初日午前の部は、レイモンド・ブラウン師のメッセージ。聖書個所は、ミカ書7:7~9、14~20から。 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。 しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。 主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。 彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。 彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、 私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、 そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。ミカ書は決して有名な書ではない。この時代4人の預言者。2人は北王国で、2人は南王国で活動。・アモス 南王国から来た王国に渡り、悔い改めを求めるきびしいメッセージ・ホセア 自分の結婚の破綻の経験から、恵みと希望のメッセージ 真剣に、しかし暖かく語る ・イザヤ ユダ王室に出入りできた人物 そして・ミカ イザヤとは対照的に、都会ではなく地方から語り始め、町々村々をまわった。当時の宗教は、外見はいかにも宗教的、しかしその実、内面は神さまを悲しませるものだった。ミカ書の最後の部分は、まさに希望と赦しのメッセージ。ミカの確信は「神が変えて下さる可能性」。 「私は倒れても起き上がり」(8節)罪は赦される。時に罪に負け、罪を犯してしまうかもしれない。純粋でない場合もあるかもしれない。しかし、罪は赦される。 「やみの中にすわっていても、主が私の光」(8節)闇・・・過去の闇、現在の闇・・・ 罪、批判を受けること、失敗、病、環境の変化など・・・たとえ闇の真っ只中で、動くことさえできなくとも、主が我が光でいらっしゃる。1 主が私の光だから、私は立つことができる光が当てられていない時 = 自己満足、助けを必要と感じさえしない、問題に気づきさえしない状態。光は、過去の罪や私たちの内にある罪、今この時、現実にある危険を指摘。そして、光は、私たちに罪を認めることができるように導いて下さる。それだけでなく、主はまた、私たちの可能性にも光を当てて下さる。ルカ5章で大漁を経験した時のペテロ 「離れてください。罪深い者ですから。」光は罪を自覚させるが、罪がそのままの時、本能的に光を避けてしまう罪人の姿。しかし、主はそんなこと、とうにご存じでペテロに近づかれた。主は、将来の、活躍する宣教者ペテロの姿をご覧になっていたに違いない。 「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」(10節)主が、闇から光に連れ出して下さる。主は光だけど、和解を知ることで、もはや恐れる必要はない。 2 当時の社会の様子と、救い主 「彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、 有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。」(3節) 3~7節まで、当時の社会不正が次々と列挙される。本来、神さまの用を果たすために使われるべき手が、悪事を働くことに使われ・・・ 「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。」(7節)ミカの使命は、「自分の手を神さまのために用いたい」。主は光、主は救い主。その主を待ち望む希望。 「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのに まさって、主を待ちます。」詩篇130:5~6) 赦し、救い、きよめは瞬間的。しかし、それが行われる「時」がいつかは、神さまの御手にあり、最も完全な瞬間 perfect moment になされる。 3 林から連れ出し、緑の牧場に導く羊飼い どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。 彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、 バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。(14節) この箇所の「林」は暗闇。羊の住むことのできない場所。本来、いるべきでない場所にいる羊。しかし、その周囲は緑の宝庫。羊飼いなる主が、そこから助け導いて下さる。 4 真の勝利者 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。(18節) ミカの名の意味は「誰がヤハウェのようであろうか」。だから、この18節は、自分の名前にひっかけた言葉遊びの要素も。そして直後に、憐れみの奇跡が記される。 私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(19節) 聖書の約束、それは、勝利者キリスト>いかなる罪誘惑強いから、咎を踏みつけ、すべての罪を海の深みに投げ入れてくださることができる。この表現の中には、咎と罪に対する埋葬のニュアンスさえ。 光・救い主・羊飼い・勝利者 ・・・ 今日のキーワード これらの御性質でいらっしゃる神さまが、いつも共にいて下さり、直接に導き、私たちを変えて続けて下さるとは、何という幸いなことだろうか。しかも、神さまにひたすら反逆し続け、不正だらけのユダに対して語られているなんて。決して、自らあえて悪事を働いてはいけないけど、仮に罪を犯してしまっても、神さまの側で導こうとして下さって、回復しよう、赦したいと、願っていて下さるんだ。 神さま、ありがとう。こんな自分でも、いや、だからこそ、あなたのみそばにいつまでも住まわせて下さい。
2004年02月18日
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「大 中 小」 祈る時 あまりに大きいことは 無理だと決めつけ 祈らない あまりに小さいことは 自分でできると 祈らない 結局 自分の中で 中くらいのことしか 祈ってないのかな? 告白の時 あまりに大きな罪は 恥ずかしすぎて 話題に出せない (赦されないんじゃないかっていう誘惑も) あまりに小さい罪は みんなやってる 大した事ないはずって思っちゃう 結局 自分の中で 中くらいのことを 選んで悔い改めてるのかな? ( ~1年前の黙想~ 2003/02/15(Sat) 19:16 ) 「計画」 神さま あなたをほめたたえます あなたを畏れます 主よ 何をなさろうとしていらっしゃるのですか あなたのわざを楽しみに待ちます ( ~1年前の黙想~ 2003/02/17(Mon) 01:21 )
2004年02月16日
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今日与えられた聖書日課個所は列王記第一2章。 こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。 ダビデがイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、 エルサレムで三十三年治めた。 (10~11節) ダビデと歩んだ約2か月もおしまいだなぁ・・・。 礼拝メッセージのタイトルは「成就した」。 がんにかかった女性の話。自分を救いに導いてくれた宣教師に会いにアメリカに行った時、「がんをも、身近な死をも恐れていません。」と答えた。教会で、せっせと奉仕されていたが、まわりの人が見かねて、変わって差し上げようとしたところ、「奉仕を取り去らないで下さい。」と泣きながら訴えられたという。キリストの力・・・ ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。 「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(1~2節) 死を間近に、「強く、男らしくありなさい。」キリストの力を身にまとい、主に従うための鍵は何だろうか。1 神さまの指示は具体的ダビデは、4節までは原則を示し、5節以降、人名を挙げて、国を治めるための具体的な指示。神さまも、原則を提示しつつ、その都度、具体的な行動をお示しになる。ある御夫人た体験したお話。働かない御主人、経済的にも苦しいのに、ぜんぜん助けてくれない姑・・・ 牧師に相談し、「本気で神さま信じとるんか?」のことばにはっとされ、謝るべきを示され、謝ると、問題がどんどん解決していった。・謝るべきを謝る ・言いたいことだけどこらえる ・決心するそれぞれ、神さまとの交わりの中、具体的なことが、促しとして示される。 2 時に、きびしいこと・否定的なことを指摘しなければならない場合もある ダビデの指示には、政権を安定させるための、きびしいものも含まれていた。しかし、それは、ダビデの個人的な感情ではなく、神さまから出たものであった。私たちは、相手にいい顔をしていたいと思う者。しかし、神さまに従う時、時には、一見、相手をがっかりさせるような、失望させてしまうようなことをせざるを得ないことがあり得る。「できれば行きたくなかった。しかし、神さまが行けとおっしゃった。」ちいろばの榎本先生は、しばしば、そんなことを話された。時には、突然、家族に「明日引っ越す」と言って翌日、家族ともども、見知らぬ土地に移り住んだこともあったという。ペテロは、イエスさまに「水の上を歩いてごらん」と言われ、少し歩いたが、波風を見て怖くなり、沈みかけた時、「助けて下さい。」 一見、がっかりすること、させることであっても、「信じ切れないし、できないから助けて下さい。」これが、本当の祈り。そして、それに主は応えたもう。 3 しばしば生まれつきの本質に反する「神の律法を守るように」という、父ダビデのたっての願いを聞かされたソロモンだったが、のちの彼の人生が示す通り、ソロモンはその遺言とまったく違うものに変質し、しまいには異教の偶像礼拝するようになってしまう。 人間の本性は、たとえば、復讐の欲望。それは、まことに人の心にぴったりはまり、そして、徐々に徐々に、その人を、そして周囲をむしばんでいく。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 マタイの福音書6:12 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 ローマ人への手紙12:17~19 神さまの命じられることの中には、私たちの本質と真っ向から対立する、相容れないものがある。だから、真剣に神さまの声に聞き従おうとする時に戦いが生じる。 自分の力でどうしようもない・・・自分では守れない、しかし、すべてを守り通されたイエスさまのすごさと、その犠牲(=愛)の大きさ・・・そして、従うことができるように変えて下さる神さまの力・・・ 午後は、教会の予算総会。後半は、教会員研修会という名目で、教会の将来のビジョンを語ろう!という予定になっていたが・・・あることで、いろんな意見が出て、議論が深まり、前半の総会が、後半の研修会に食い込み、予定時間の多くを消費してしまった。しかも、牧師先生が想定していたものではない結論に導かれ、その結論を別の人に伝える必要のある牧師先生はちょっと大変そう。奇しくも、今日の礼拝メッセージの第2のポイントのような気もした。 後半の研修会は、すでに終了予定時間を過ぎていたけれど、15分ほどだけ、牧師先生が準備していた教会形成についての講義(?)。過去、教会研修会に外部からいらっしゃった3人の先生のお話のダイジェスト版。・5年前のF先生の研修会 「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」マタイ16:18 教会を建て上げるのは誰か? = イエスさま 私たちではないどこに教会を建てるか? = 岩の上、ここではペテロ直前の個所 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)この時は、深い意味も理解できないまま告白したペテロだったが、イエスさまは、そのペテロをいずれ用いることを約束され、宣言された。(なんと、すばらしい!) イエスさまに従っていく時、一歩一歩、神さまのふさわしい時に、ふさわしい者へと変えられていく。(その時は分不相応かもしれないけれど、真実な告白を、イエスさまは用い、実現して下さる!)教会の主体はイエスさまご自身であって、「私がどう思うか」「私が満たされるか」という思いが中心となっていく時、教会は破壊されていく。 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる エペソ1:10バベルの塔に象徴されるように、人はその罪の本質ゆえに、違う言葉(思い)にされ、散らされてしまった(=一致の破壊)。教会といえども、本来、いっしょにいることのできない罪人の集まり。それがキリストにあって一つに集められることで、神の支配が拡大していく。ヘブル語の「シャローム」は、「平和」という意味。しかし、単に「戦い・争いがない状態としての平和」を意味する言葉ではない。関係において、戦い・争いのもととなる思いさえない、真の平和を指す。(例えば「言いたいことがあるけど、我慢している」ことで保たれている平和は「シャローム」じゃないんだって。その苦々しい思いがなくなった状態のことなんだって。へぇぇぇ~。)キリストにあって一つに集められたからこそ、痛みが伴うことも。それは、上べの平和が、真の平和「シャローム」に変えられる過程の痛み。そして、その主体こそがイエスさま。実現して下さるのはイエスさま。・3年前のS先生の研修会この時はお話を聞くというスタイルではなく、参加者それぞれがのこれまでの人生の歩みの「頂点」と「どん底」を思い巡らすことが中心。(確か、ヤコブの歴史が引き合いに出されていたなぁ。たとえばヤボクの渡しの出来事はヤコブのどん底の直後・・・。この時、ヤコブは何歳だったでしょう?なんていうことをやってたやってた。)・昨年のI先生の研修会教会は愛の交わりの場、励ましの場。「本当に自分はだめだ。」そのことに気づけることは、すばらしいこと。ただし、いつまでも、その状態に留まっているべきではなく、ただ一つの解決法。それは、教会の交わりの中で解決を得られる。信仰生活は、神さまのみわざと栄光が現されている、教会・信仰者の交わりの中でこそ育まれるもの。 15分くらいの駆け足研修会になったけど、中身は濃い~もので、もっと深く反芻しながら、信仰生活を歩んで行きたいな。教会が、これからも神さまの御計画と導きと祝福と導きの中、歩んでいけますように。
2004年02月15日
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今日与えられた聖書一日一章の個所は、列王記第一1章。いきなり、年老いたダビデが登場し、なんと、息子アドニヤによる王権奪取未遂事件が展開される。 御父は、ご自身が油を注いでイスラエルの王としたダビデを無視して 自分の考えと工作でイエラエルの王になろうとしたアドニヤの企てを、 預言者ナタンによって粉砕された。アドニヤは年老いたダビデを見て、 彼を王とした御父を仰がなかったのだ。彼は彼の父ダビデがいかにして 王とされたかの歴史を学んでいなかった。彼の父は御父に油を注がれて 王とされたが、彼より先に御父に王とされたサウルを最後まで王と認め て抵抗しなかった。彼はサウルを尊んだのではない。サウルに油を注い で王とされた御父の御心を尊んだのだ。それゆえ御父もそのダビデ をサウルの後を継ぐ王とされた。これが御父を絶対主と仰ぐ者の在り方だ。 今、お前はお前の教会の主を誰だと心得ているか。お前は常にその主 を仰いでいるか。御父は誰を天と地の一切を支配する者としておられる か。日本と世界を動かしているのは誰だと思っているか。お前の家庭の 主は誰か。お前は御父が与えた家族を御父の御心のゆえに尊んでいるか。 人間だけを見てはいないか。御父が与えた者を御父の御心のゆえに尊べ。 それがお前が人々に尊ばれる道だ。歴史は御父の御業のご掲示だ。お前 の教会と家庭とお前自身の主を歴史的に確認して、受け止めて喜べ。 (小宮山林也師 友への祷告依頼 より) なるほど、なるほど。今日の個所で思わされたのは、アドニヤのこの謀反未遂があったけど、これがあったからこそ、ちゃんとソロモンに王位継承がなされるきっかけになったのかなって。きっかけがないまま、ダビデが没することだってあり得たわけだから。だから、そのためにも、この謀反未遂が、御手の計画の中、起こされたのかなって。 早天祈祷会の中で、祈りについて、こんな分かち合いをさせていただいた。かつては、自分の思い・祈る内容を整理してから、きれいな言葉と思いで祈っていた。イコール、本心でなかったり、本音でなかったり、背伸びだったり、いい子ちゃんだったり。けれど、最近は、とにかく心の中にあるままの言葉と思いを祈る(祈れる)ようになってきた。まとまっていなくても、中途半端でも、もしかしたら間違っているかもしれないけれど、とにかくそのまま。すると、祈りの中で、中途半端に答えが与えられ、間違っている部分は正され、ぶれているところは、ちゃんと軌道修正されていく。祈りの場に、問題さえ、差し出すことで、解決されていくことを、経験しているのだと。すると、A子さん、祈祷会の後で、こんな文章のコピーを、お部屋から探し出して渡して下さった。(英文も訳もコピーのまま。) My prayers, my God, flow from what I am not; I think thy answers make me what I am. Like weary waves thought follows upon thought, But the still depth beneath is all thine own, And there thou mov’st in paths to us unknown. Out of strange strie thy peac is strangely wrought; If the lion in us pray - thou answerest the lamb. ( from "Diary of an Old Soul" by George MacDonald ) 我が神よ 我が祈り 我ならぬところより流れいずる 汝のこたえ 我をして真の我ならしむるなり あまたの思い 疲れし波のごとく湧きいずれど その底の静けさは ことごとく汝のものなり その深みの知られざる小路に 汝はたらきたもう 不可解なる混沌の内より 汝の平安もたらさるる畏さよ 我らの内なる獅子祈るとも 汝 子羊よ とこたえたもう (口語意訳) 神さま。私の祈りは、本当の私でない私から出てきたものです。 でも、あなたのこたえが、私を本当の私に変えて下さるのですね。 さまざまな思いが、波のようにとめどもなく押し寄せます。 でも、その底には、あなたの静けさが広がっています。 その深いところで働かれるあなたのみわざを、私たちは理解することは できません。 なぜか、こんな心の混沌からさえ、あなたは私に不思議なあなたの平安を もたらして下さいます。私たちの心がライオンのように叫び祈っても、 あなたは「子羊よ」と、やさしくこたえて下さいます。 注 ジョージ・マクドナルドは、C・S・ルイスに多大な影響を与えた人なんだって。 ライオンのように叫びつつ祈る「古い」私。 混沌 騒々しさ 混乱 不安・・・内に住みたもう聖霊に取り扱われた「新しい」「本当の」私。 静けさ 平安 深み・・・どちらも私・・・ ライオンの叫びのように祈っても、神さまが、「子よ」と呼んでもらえるんだって。 主にある交わりって、すばらしいな。こんな分かち合いができるんだもん。 お昼前から、教会学校の高学年のお友だちと遊ぶ?会。讃美して、ゲームをして、お昼をみんなで食べて、午後は卓球で盛り上がり。夕方からは仕事・・・盛りだくさんの一日。今日も、神さまの恵みで、お腹いっぱい。 うっぷっぷ。
2004年02月14日
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先週1週間の、とある出来事・・・ 日曜日 第三次(大惨事)夫婦げんか勃発す! (注 別に本当に3回目なわけぢゃぁ、ありません。きっぱり!) 原因は、些細なことがきっかけで、昨年、自分がいやな思いをしたことが引き出されてしま ったみたい。その半年以上前の事件の過程で、Xさんという人が絡んでいたんだけど・・・ 夫婦げんかの後も、不快な思いは去らず、忘れていたと思っていたXさんに対するマイナス の感情「傷つけられた」「赦せない」が、ムクムクムク・・・ 完全にノックアウト。 妻が関わっていないわけではないが、実は、Xさんと自分の問題だった。 月曜日 Xさんに対するマイナス感情は増すばかり。 怒りに近かったかも。 火曜日 なぜ、自分がXさんに反応してしまったかを振り返る。 処理しきれず抱えていた自分の中のよくない感情が、Xさんによって引き出された感じも 少しはするが、苦々しい思いは相変わらず。 Xさんに「不快な思いをさせられた」「傷つけられた」との思いが支配的。ぷんぷん☆ 水曜日 祈祷会で、いっしょに祈りのグループになった人に、具体的内容はふせながら、今、とある 問題を抱えていることを分かち合う。 苦手と思っているものごと(Xさんとの関係)があって、その背景に、(Xさんとはまった く関係ない)別の原因、もしかすると、自分の成長過程にまでさかのぼるものがあるような、 と言っていた記憶がある。(かっこ内はぼやかしながらだけどね、もちろん。) その中で「真っ暗闇の向こうに、ぽつんと光が見えるような気がするけれど、その光を認め たくない思いがある」とも発言していたような。 進むべき方向性がしだいに、神さまに明らかにされていたのかもしれないけれど、解決の糸 口が神さまから提示されていても、従いたくないという思いが支配的。だって、自分が悪く ないでしょ(と思っていたい)。 木曜日 だんだん、光に見えていたものが、心の中で、次第に大きく具体的になっていく。 つまり、自分の側「にも」大きな問題があったってこと。(なんと往生際の悪い・・・) 確かに、Xさんによって、引き出されたかもしれないが、それは自分がもともと持っていた 弱さ。確かに傷ついた部分は多少、あったかもしれないが、それを「傷つけられた」という ことばで、(無意識のうちに)相手(Xさん)を責めることで解決しようとしていたのかな。 何より、「痛さ」「つらさ」云々を、必要以上に自らの選択で選び取っていた?・・・ Xさんに「~された」と思うことで、「自己憐憫」を正当化できていた?・・・ なんだ、Xさん、もともと、たいして悪いこと、してないじゃん。 えっ? ということは?・・・ 金曜日 昨日は、劇的な気づきがあってけど、やっぱり認めたくなかった。 今日も葛藤・・・ ボールは自分の側にある(みたいな)のに・・・ げげげっ。とうとうやって来た。 「やっぱり、謝んなきゃ」っていう、絶対、認めたくない思い。 水曜日の光って、これだったのかな。 土曜日 「謝らなきゃ」という思いがどんどん強くなっていく。 それに比例して葛藤。謝るなんてやだよ~。いてててて。うわぉ~。 日曜日 もうだめ。 (自分を責めるでなしに)、謝らざるを得ない状態に。 (恵みに溺れる状態 あっぷあっぷ) でも、Xさん本人と話す機会も与えられて、まさに押し出されるように、簡単ないきさつと ともに、「Xさんは、もともと、直接は関係なかったのに、自分の勝手な選び取りで、不愉 快な思いをさせてしまったことお詫びしなきゃと思って」と謝る機会が。 恥も外聞もないけれど、そんなこと、全然、感じなかったよ。 上手に表現できないけれど、「今は謝るべき」との思いしか与えられず、とにかく、押し出 されるように。 気張りとか、無理も、まったくなかったんだ。 そうそう、あの感覚。 エスカレータに乗せられたように、あれよあれよと、ことが進んでいくような・・・ 今になって思えば、半年以上前のいやな出来事だったけど、解決できずに、自分で忘れようとしていたのかな。でも、神さまが、夫婦けんかを通して、そのことを思い出させて下さって、そして、内に働いて、自分をつくりかえて、その患部(いやな思いをしたこと、自己憐憫に陥っていたこと)に触れ、摘出して下さったんだろうな。 おかげで、事件のわだかまりも、相手に対する悪感情も、きれいさっぱり消え去った。すごいよ、神さま。これが、主にある和解なのかな、平安なのかな。やっぱり、あの光と思えたものは、聖霊の働き。後ろめたさを隠してるままでは、すべてを露わにする光に恐れを感じたのかもしれないな。 ああ、それなのに、神さまの方は、ちゃんと最善の時と、もっとも適切な治療法をもって、接して下さったんだなぁ。 ああ、神さま、ますます、あなたのすばらしさ、偉大さをほめたたえます。ハレルヤ~ッ!これからも、主治医として治していってくださいね。
2004年02月12日
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「住む」 「住む」ってどんなこと? 家の中で寝食をともにすること? だけど お招きするお客さまに対しては使わないな。 同居? 生活を一にすること? 一定期間以上 生活の根拠を構えること? 内住のキリスト この土の器の中に わたしとキリストが 同居している ( 1年前の黙想 2003/02/05(Wed) 01:31 ) 「地の果て」 地の果てってどこ? ウズベキスタンや、アルゼンチンや、南アフリカのような、遠いところ? そう、そこも、地の果て。 でも、身近な、地の果て。 会社、家族、学校、幼稚園、職場、図書館、町内会…… 福音の伝わっていない領域との接点、そこが、地の果て。 そう、わたしの半径50センチのところにもある、地の果て。 もっと近い、地の果て。 心の中にある、福音・愛・キリストの御力を必要とする部分。 これから、お取扱いを受ける必要のある傷・憎しみ・傲慢・赦していない部分との接点。 そう、わたしの中にもある、地の果て。 ( 1年前の黙想 2003/02/09(Sun) 09:51 ) 「復元力 回復力」 たとえ離れても 離れてることに 気づかせてくれ 戻ろうとする 復元力 あなたからの 賜物 一方的な 恵み ( 1年前の黙想 2003/02/12(Wed) 19:50 )
2004年02月11日
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寒かった~!予想最低気温 氷点下8度は、半端じゃなかった。結局、夜中に、あまりの寒さに、備え付けの電気毛布のスイッチを入れてしまったぜ。(母親がふとんに仕組んで置いてくれたのだが、「どうせ使わない」と言っていたのだけど・・・」^^)(もう一つの理由は、あんまりいい布団ではないので、厚さの割りにあったまらないのだ・・・)朝は、布団から抜け出るのが、おっくうなこと、おっくうなこと。布団から出ることより、着替えの「服が冷たい」ことが、もっとおっくう。昔は、ストーブを布団から手の届くところに配置、翌日着る服をストーブの前に着る服をならべてから寝るのが常だったなぁ。朝は、布団に寝たまま、体を伸ばしてマッチを擦ってストーブつけて・・・ 朝食をとり、(病院からそのまま大阪に戻るので)荷造りを済ませ、バス時間を待つ。母親がデイケアの日なので、今日は、病院に一人で向かう。ちょうど、バス時間の10分ほど前に、デイケアの迎えが来たので、母を見送りながら、バス停に。 とってもいい天気。ぴりっとした寒さ。10分弱の時間があったので、家の周りで、ちょっと写真を。 つらら つらら つらら・・・歩道は除雪できないまま こんな道を通学したっけなぁ・・・道路の横はたんぼ こどもたちの恰好の遊び場スーパーの駐車場 除雪した雪が山積み・・・ 病院に着くと、父は横になったまま、両手はベッドに縛られたまま。まだ意識が完全ではないことや、人によっては、自分の意に反して、体が動いてしまう人もいるため、夜は固縛しているみたい。特に、父は、流動食を流し込むためのチューブを鼻から体内に入れているのだが、一度、抜いてしまった前科があるそう。担当の看護士さんは毎日変わるのだけれど、対応や判断も、看護士さんごとに、けっこうばらつきがあるみたい。(お一人で、何人もの患者さん見なきゃならないし、しかも、毎日、担当が変わるから、仕方ないんだけどね。)とりあえず、「昨日の看護士さんは、昼間の時間、ずっと体を起こしてくれてたんですよ。」と伝え、手をほどいてもらい、ベッドの背もたれを起こしてもらう。父は、昨日よりは、ちょっとうとうとする時間が多いみたい。疲れてるのかな? その日その日の調子があるのかな? おかげで、向かいの人や隣の人と、わずかだけど話をする機会が。 向かいの人は脳腫瘍。お母さんが患者の息子さんに付き添っておられる。一度は、手術と治療で、まさに今の父のようなプロセスで回復に向かっていたが再発し、今は、目は開けていたままだけど、話しかけても反応がないとのこと。お隣は、80歳代の御夫妻で、御主人が入院されている。意識もあるし、食事も奥さんのちょっとした助けが必要だけれど、ご自身で食べられる。奥さんが、身の上をしきりに話してくださった。手術と治療は、ほとんど済んだのだけれど、痴呆が出てきたのか、言動が要領を得ない。「脳外科での検査」では正常と診断されるので、痴呆という理由では、入院し続けられないので、病院を出なくてはならないのだそううだ。家で介護するか、施設に入れるか、東京に出ていらっしゃる息子さんと相談しながら、まさに結論を下さなければならないとのこと。 ああ、この方々に、イエスさまの福音をお届けしたい。お伝えしたい。愛と、罪の赦しと、永遠の命と、平安と、すべてを益として下さる神さまのみわざを。お聞きしながら、痛切に思った。本か、テープか、何か方法はないのかな。もう一度、お会いする機会はあるのかな。神さま、あなたのご計画があるなら、進めてください。午後は、近くの100円ショップダ●ソーで、手と頭の運動にと木でできたパズルというか、を買ってきて、父にやらせてみる。ものには、好奇心を示すのだ。 明日は仕事があるので、大阪に帰らなければならない。名残惜しいが、病院を後にする。 山形発3時半の直行バスで仙台空港へ。4時53分にカウンターに駆け込むと、5時5分の飛行機に乗せてもらえた。飛行機は、沈む太陽を追うかのごとく、西へ西へと進む。しばらくすると、日も沈んでしまった。 夕焼けの下、猪苗代湖と磐梯山が眼下に伊丹発6時半のなんば行きバスに乗り、阪神高速が渋滞したものの自宅には8時前着。大阪の、なんとまあ、あったかいこと、あったかいこと。
2004年02月10日
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朝方、ちょっと寒くて目を覚ました記憶がある。毛布と布団をはねのけてたので、直して、また寝た記憶がぼんやりある。何時だろう、母親が起こしに来た記憶もある。けれどけれど、9時近くまで寝てしまった・・・ 家から数十メートルのところにバスの折り返し停留所がある。(市内から見て終点、市内行きの始発)10時発のバスで、母といっしょに、父の入院する病院へ。1か月ぶりのお見舞い。母の話では、先週から左手が動き始めたとのこと。しかし、肺炎が続き、床ずれもちょっとひどくなっているようだとのこと。2週間ほど前から始まった流動食も、最初は、胃が受け付けず、吐き出してしまうこともあったらしい。そうそう。先週あたりから、目を開けるだけでなく、話すことも始まっているらしい。 バスで10分ちょっとで病院へ。脳外科病棟へ。いたいた。おおぅ、目をあけている。手を握り、「帰ったよ」って、報告。両手で揺すりながら、ぎゅぅっと握り返してくれた。父も、いろいろ話しかけてくれるのだけれど、声が小さかったり、もごもごしていたりで、ほとんど聞き取れない。でも、父、寝た姿勢のまま、肘を折り、ベッドに突っ張っている。起きようとしているみたい。すごいすごい。腕に力を入れているが、さすがに体を支える力はないから、「分かった分かった」と言って、あきらめて、横になってもらう。1か月前に比べ、格段の進歩。目を開けただけで、大騒ぎしてたもんなぁ。母親に頼まれ、すぐそばのダイソーで買い物をして帰ると、今度はベッドの上で体を起こしているではないか。背中は最初60度くらいだったのが、すぐ、様子を見ていた看護士さんが直角にまでしていた。流動食を食べるにも必要で、床ずれを改善するのに効果があるんだって。今度は、両手をついて腰を浮かそうとしている。もしや、立とうとしているのでは。まだまだ無理だけど。本当に、そんな意志がでてきているのなら、うれしいな。お昼過ぎには、細長く折りたたんで、結んでいたスーパーのナイロン袋(手提げ袋)を、父が両手を使ってほどいていた。けっこう、器用じゃないか。先週まで、本当に、左手が動かなかったって、うそみたい。会話は、思ったほど、通じない。話している内容は、聞き取れるものは、脈絡のないものが、まだ多い。期待が大きかった分、その点が、ちょっとストレスっぽくなりそうになるけれど、焦りは禁物。ゆっくりゆっくり・・・ただ、「暑い?」「寒い?」「横になりたい?」「疲れた?」っていう問いかけには、「うん」「ううん」って、うなずいたり、首をふったりしながら、はっきり答えてくれることが多い。意思表示できるだけでも、ずいぶんと、気持ちいいだろうなぁ。 病院の窓からの風景。曇りの一日だったけど、時おり、日が差す時間も・・・ 母親は、市の福祉の人が家にくる予定があるそうで、3時過ぎに病院を後にした。父は、夕方4時頃まで体を起こしたまま、過ごしていた。6人部屋の、まわりの人の話では、昨日まで、酸素マスクをつけていて、体を起こすのも流動食の時間だけだったらしく、昨日に比べても、目に見える格段の進歩だって。へぇ~、そうだったのか。 主治医の先生が来て、お話ししてくれたことは、肺炎と、持病の耳鼻の病気によるたん以外は、順調な回復とのこと。このままいけば、1か月くらいすれば、流動食ではなく、一般食!もいけるかもしれないとのこと。この1か月が、ぐ~んと、回復する時期になるのでは、とのこと。どこまで回復するのかな。それから、先生のお話しでは、この時期の患者さんの思考って、霧がかかっているようなものらしい。回復した後、今ごろのことを聞いても、覚えていることは、あまりないのだそうだ。 夕方には、リハビリ(マッサージかな?)担当のスタッフが来て下さった。腕を片方ずつ、ゆっくり大きく上に上げて下ろすのを10セット。手のひらを広げた「ぱー」の状態で、親指から一本ずつ折り曲げて「ぐー」にしていき、こんどは小指から一本ずつ開いていき「ぱー」にする練習も、右左ともにできている。うんうん、すごいすごい。 近くのスーパーで、夕食用のすしを2人前買い求め、自宅行き最終バス(といっても6時40分発)で帰宅。母親と二人で夕食。 天気予報・・・明日は、高気圧の覆われ、いい天気らしい。そして、放射冷却のため、この冬一番の寒さになるらしい。予想最低気温 氷点下8度だって。なつかしいな、あの、頭がき~んとする寒さ。 でも、やっぱ、寒いのは、やだなぁ。ぶるぶるぶる~!
2004年02月09日
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今日の夜、実家に帰省予定。明日は、1か月ぶりに父を見舞う予定。大雪らしい・・・。寒いらしい・・・。 なので、しばし、更新&レスできません。 それでは、ごきげんよう。 シャローム! --- --- --- 礼拝後、4時半過ぎまで教会の役員会。朝は、荷物を持って教会に来たので、そのまま出発。なんばからは5時半のバスで伊丹へ。飛行機は6時45分発、仙台着7時55分。仙台は、ほとんど積雪なし。(日陰の軒下に、ほんの少し残っているだけ。)最寄りの館腰行きバスがあったのでJRで仙台経由で山形へ。仙台では20分ほどの待ち合わせ時間があり、プラットホームの立ち食いそばを食べる。食べ終わった頃、1番線に上野発札幌行きの寝台特急「カシオペア」がやってきた!さて、仙台から山形までは、東北の背骨、奥羽山脈の山越え。(ちなみに仙台駅・山形駅間は60キロあるけど、仙台市と山形市は隣接してる。)峠部分は、面白山トンネルという冗談みたいな名前の5000メートルを超えるトンネルでクリアするが、その前後の雪は深い。高校時代だったかな、乗っていた列車がトンネルまであと何百メートルというところまでたどり着いたが、機関車の車輪がスリップして登れなくなったことがあったっけ。坂のゆるやかな所まで後退し、助走をつけて突破!を2、3回試みたけどダメで、結局、数キロふもとの駅までバックし、除雪車が来て雪かきしてもらうのを待つことに。2時間くらい遅れたっけな、あの時は。 その宮城県(仙台)側県境の駅 ホームは除雪してるけど、すごい雪・・・ その峠も、今や何のその、スムーズに定刻で駆け抜け、最寄り駅で降りる。山形市内、積雪はひざくらいかな?月が、ぼんやり出ているけれど、小雪が降ったり止んだり・・・大雪は数日前。その後、晴天もあったようで、道路の除雪はすみ、路面はほとんど乾いていて、ふつうのズックで歩けるほど。ところどころ、ちょっとすべる場所はあったけど!徒歩20分ちょっとで実家へ。もう11時近く。ちょっとだけテレビを視て、12時半頃に眠りについた。 明日は、父のところだ。
2004年02月08日
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お祈りいただいたゆうじくんですが、術後の経過が良好で、来週まで入院予定だったのが、もう、退院できたそうです。土曜日は、手術をがんばったごほうびに、これからエキスポ・ランドで遊んで、トイ●ラスでおもちゃを買ってもらって、夕ご飯は、伊丹空港でおすしを食べるという予定を立てていたそうです。お祈りくださった方々、本当にありがとうございました。
2004年02月07日
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昨年、出版と同時に買い求めたヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷 ~父の家に立ち返る物語~」・・・ 20~30ページくらい読んだだけで、なぜか、いつの間にか放置してしまっていた。(あれまぁ。)それで、最近、また、最初から読み始めた。 う~ん。さすが、ヘンリ・ナウエン。深い。まずは、弟が家出から、父の家に帰るに当たって、まず、「自分が息子である」という自覚があったからだという視点。その通りだなぁ。それは、とりも直さず、神さまと自分に当てはまること。自分は、本来、裁かれるべき罪人なのだけど、その前に、父なる神さまが、子なるキリストを犠牲にしてでも惜しくないと思われるほどに愛された存在であること。 「Doing」と「Being」ということばがある。自分のアイデンティティを求める2つの方法。一方は、何かをすること、達成することでしか満たされない。もう一方は、存在を認められているから、ありのままでいるだけで満たされる。 一部、印象に残ったところのメモメモ。 家とは、わたしという存在の中心のことであり、次のような神の語りかけを聞くことのできる場のことだ。 「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」この同じ語りかけが、最初のアダムに命を与え、そしてイエスに、つまり第二のアダムに注がれた。この同じ声が、神のすべての子たちに語られていて、闇の世界のただ中にあっても光の中に留まりつつ、自由に生きることを可能にしてくれるのだ。 わたしは、この声を聞いたことがある。それはかつてわたしに語りかけ、いまも語りかけている。それは決して途切れることのない永遠からの愛の声であり、それを聞く者につねに命と愛を与え続ける声である。わたしはその声が聞こえるとき、自分は父と共に家におり、何も恐れることはないと知る。天の父に愛されている者として、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩篇23:4)。愛されている者として、わたしは「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」うことができる(マタイ10:8)。「ただで受けた」のだから、「ただで与える」ことができる。愛されている者として、拒絶されることへの恐れや、認めて欲しいという願いを抱くことなく相手と直面し、慰め、たしなめ、励ますことができる。愛されている者として、復讐心を抱かずに迫害に耐えることができ、また、自分に向けられた賞賛を、自分の善良さの証明と思わずに受け止めることができる。愛されている者として、自分に与えられた愛は死よりも強いという確信を少しも疑わずに、拷問を受け、殺されることができる。愛されている者として、自分に生きることで命を与え、死ぬことに置いても自由に命を与えることができる。( 中 略 ) それでもわたしは、何度も何度も家を出た。祝福しようとする手を払いのけ、遠いところに愛を求めて走り去った!これこそ、わたしの人生における大きな悲劇であり、これまでにわたしが出会った、たくさんの人々の悲劇だ。どういうわけかわたしは、「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけてくださる声に耳を貸さなくなり、その声を聞くことのできる唯一の場所を去り、「家で見つかるはずがない、それ以外のところで見つかるだろう」という願望に必死にすがり、飛び出してしまった。 こう聞いただけでは、こうしたことは起こり得ないと思われるかもしれない。自分にとり、もっとも必要とされる声を聞くことができる場から、どうして逃げ出さなくてはならないのか、と。そのことを考えながら、しだいに明確になってきたことは、真の愛の声は、とても穏やかでやさしく、私のもっとも気づきにくい場所で語りかける、ということだ。騒々しくして、無理に押しつけたり、こちらの注意を引こうとしたりしない。それは、何度となく泣き、何度となく死を体験した、ほとんど盲目に近い父親の声なのだ。その声は、それが自分に届くことを受け入れる人のみが耳にすることのできる声だ。 祝福の神の手が触れるのを感じることと、「愛する子よ」と呼びかけてくださる声を聞くことは一つであり、同じものだ。それは、預言者エリアを見るとはっきりする。エリアは神に会うために山の上に立っていた。初めに嵐が起きたが、神は嵐の中におられなかった。次に地震が起きたが、神はそこにもおられなかった。続いて火が起こったが、神はそこにもおられなかった。最後に、とてもやさしく、かすかな風のそよぎとも、ささやく声とも言えるものが聞こえた。エリアはこれを感じると、すぐ顔を覆った。神がおられると分かったからだ。神のやさしさの中で、神の声は彼に触れ、何かが触れたと感じたものは、神の声であった(列王記第一19:11~13)。 しかし、声はほかにもたくさんある。大声で、約束をいっぱい並べたてた、とても魅惑的な声がある。それらは、次のように言う。「出て行って、自分に価値があることを証明せよ」。イエスは、「あなたを愛している」と呼びかける声を聞いたすぐあとに荒れ野に導かれ、その声を聞いた。その声はイエスに、成功し、有名になり、力を手に入れ、自分が愛されるに値するものであることを証明せよと迫った。 これと同じ声に、わたしもなじんでいる。それらは、いつもそこにあり、わたしの善いところにつねに文句をつけ、わたしの存在価値を疑わせる。固い決意で努力をし、懸命に働いてそれを得るのでなければ、決して愛されることはないと忠告してくる。それらの声は、わたしが愛される価値があることを、自分にも他人にも明らかにせよ、と求めてくる。そして、他人から受け入れられるためには、何でもできることをせよ、とわたしを追い立て続ける。それらは、愛はまったくの無償の贈り物であることを大声で否定する。「あなたを愛している」と呼びかける声への信頼を失うたびに、わたしは家出をし、心からわたしが欲する愛を勝ち取るために、ありとあらゆる手段を提供しようと申し出る声について行ってしまう。
2004年02月06日
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お友達からのお祈りの課題です。どうぞ、示された方、お祈りに覚えていただければ幸いです。以下、引用です。>私には、息子が2人います。そのうちの長男が来月の2月5日、手術をする事になりました。>彼には先天性の目の病気があり全身麻酔での手術となります。彼の心もからだも守られるように、>お祈りいただければ感謝です。この、小さなお友だちは、ゆうじくん(5歳)といいます。一昨日、手術準備のため、阪大病院に入院しました。まぶたの筋肉の手術です。手術とその後の回復過程にリスクもあり、成長と共に改善する可能性もあるということで、生まれてこの方、ずっと様子を見てきましたが、視力低下という別の影響が出てきたため、いよいよ手術することになりました。まぶたの手術なので、部分麻酔でもできなくはないそうですが、手術している様子が見えてしまうそうなので(子どもなのでかなり怖いらしい)、全身麻酔という方法を取るそうです。昨日の段階では、午前中に手術がスタートする予定とのことです。主の深いご計画だけがなされますように。幼いゆうじくんに、ご家族に、上からの平安と慰めと励ましがありますように。執刀する先生をはじめ、手術に関わるお一人一人に、主が働いて下さいますように。 その後、お昼過ぎに、無事、手術は終わったそうです。 >ゆうじ君は泣き続けていたみたいですが、元気だそうです。 >痛いようなので、続けてお祈りお願いします。 とのことです。お祈りありがとうございました。 来週あたりまで、入院する予定です。 それから、たまにこちらにもカキコして下さる春太郎さんのお母様が、今朝、危篤になられたそうです。1年前から癌の告知を受け、先日、ホスピスに入院されました。 春太郎さんのお母様の残された婚約期間が、恵みに満ちあふれたものとなりますように。痛みや苦しみや不安を、主が取り除いて下さいますように。御家族や、関わるお一人一人に、インマヌエルの主が伴って下さいますように。 春太郎さんのお母さまは、今日、召されたそうです。 >病院に着いたときには、もう、召された後でした。 >でも、すごく、穏やかな最期であったそうです。お祈りを感謝します。 >葬儀はあさって、本人の強い要望で本当に近い親族だけで行います。 >まだ、未信者の方々に主の愛が届きますよう。お祈りください。 春太郎さんをはじめ、ご遺族の方々に、神さまからの直接の平安と慰めと希望がありますように。 まだ、イエスさまを知らない方々に、福音が届けられる機会となりますように。 主の深いご計画のもと、主の御栄光だけが現されますように。 今も、生きて働いておられる主の御名をほめたたえつつ・・・
2004年02月05日
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「格闘技」 信仰の歩み 自我との戦い それは 時に 神さまとの格闘技かもしれない ヤボクの渡しでの格闘 神さまに体当たり すぐにもものつがいをはずすこともできたであろう神さま でも 一晩 胸を貸してくれた 神さまの側も 傷ついたに違いない けれど その打ち傷によって ヤコブのある部分が 癒されたのかな? お前は 神さまの胸を借りているか 神の懐の深さを信頼しているか 神の祝福を 貪欲に求めているか (某BBSで 格闘技の話題になってたもんで つい熱く) ( ~1年前の黙想~ 2003/02/03(Mon) 13:56 )
2004年02月03日
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「♪ み怒りは過ぎいくべし」 ♪ み怒りは 過ぎいくべし 我が身の 隠れ家 大いなる主 (???忘れた???) 愛の御手もて 愛の御手もて 教会員の絢子さんのお話を聞いて頭に思い浮かんだフレーズ「私たちが本来受けるべきものだったもの、それは御怒り」 さびのメロディしか思い出せない。だから、どの何番か、思い出せない。 はちこさんの日記で、はちこさんがJさんの件で祈られたお祈り「イエスの血潮によって、お守りください。」 門に羊の血が塗られ、主の裁きは過ぎ去った。 あっ、イエス様の十字架の血潮は、だから、過ぎ越しの祭りというタイミングで流されているんだ。(今ごろ、関連に気づき、あぜん) この身に、イエスの血潮が塗られ、あなたの刻印がおされている。 ただただ、感謝。 ( ~1年前の黙想~ 2003/02/01(Sat) 11:19 ) 「続 ♪ み怒りは過ぎいくべし」 過ぎ越し 種なしパン 柱とかもいに、ほふられた羊の血 出エジプト 過ぎ越しの祭り 種なしパン ぶどう酒 新しい契約 十字架 イエスの血潮 犠牲の血汐によって、み怒りは過ぎ越す。 聖餐式のたびに、出エジプトと、十字架の、2つの「過ぎ越し」を追体験する。 昨日の気づきから、今日の聖餐式中に、びびっ、ときたこと。 ( ~1年前の黙想~ 2003/02/02(Sun) 23:02 )
2004年02月02日
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