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ここ2日間に、ネットをうろうろしていて見つけた、とある2件。● 井澤 豊 先生逝去5月17日に交通事故で急逝されたとのこと。1970~80年代に、奥様美智子さんと伊藤真嗣さんと3人でニューライフというゴスペル・フォーク・グループを結成し、大いに活躍、教会の若者に多大な影響を与えた。今でも、歌い継がれている歌はたくさんある。♪ 主に歌おう♪ 喜び 祈り 感謝♪ もしもキリストが来られたら♪ スピリット・ソング 日本語訳 (♪ 聖霊と愛が あなたを包む時・・・)2年ほど前には「New Life Forever」というCDが出され、久方ぶりのニューライフを楽しんでいたばかりだったのに・・・。すばらしい賛美の担い手が召された。今回の件で、井澤先生が大川先生の大和カルバリーチャペルの副牧師をされていることを知った。井澤 豊 先生 証 (召される以前のHP)CD「NEW LIFE FOREVER」 (いのちのことば社HP) 数曲視聴コーナーありピーター大垣さんのCD「NEW LIFE FOREVER」レビュー● ジェフ・ネルソン コンサート5月1日、神奈川の大和カルバリーチャペルで開かれたジェフ・ネルソンのコンサート風景がネットで公開されているのを発見。ジェフ・ネルソンとの出会いは、2002年4月に韓国に行った際、何気に購入したCDのうちの1枚が、たまたまジェフ・ネルソンだったこと。ちなみに、これまた2002年11月の大事件の時に心にしみ入って来たのはこのCD。ということもあって、思い入れのあるCDであり、思い入れのある人でもある。そして昨年11月に、ようやく大阪でのコンサートで、生のジェフ・ネルソンに触れることができた。この時も、いのちの尊さ、自分の無力さが、神さまに癒されていくきっかけを与えてもらった。そんな、なぜか、ここ数年の要所要所を助けてもらうきっかけを与えてもらっているジェフ・ネルソンのコンサートをネットで見ることができ、この2年、そして、昨年のコンサートを深く思い返す時となった。ついつい、ビデオに録画してしまったぜぃ。「ここ」をクリック して、カルバリー聖会(音楽:ジェフ・ネルソン師)(2004年5月1日)から見てね。前座?の賛美も、とってもうれしそうな心からの賛美!そして、ジェフ・ネルソンのコンサート1曲目は、昨年11月のコンサートでもっとも心に残った「You Are Good」 I will trust in you and believe your word each and every promise that I have heard I will praise your name I will praise your name Jesus, you are good all the time All the time you are good Even when I don’t understand your ways You are good all the time All the time you are good Even when I don’t understand your ways It’s you I praise, for you are good You hung upon a cross in my place that I may know your heart and see your face I will praise your name I will praise your name ああ、ちょうど半年前のコンサート光景、空気がよみがえってくる。そうそう、召されたKさんとは、あの日のさよならが、この世での最後の別れになったんだけど、最近、Kさんのお母さんと息子さんが教会に来られている。神さま、あなたの計画をなしてください! 聖霊さま、働いてください!たまたま、井澤先生の件と、ジェフ・ネルソンコンサートは、まったく偶然、それぞれ関係ないところから別々にたどり着いたのだけれど、2件とも、なぜか大和カルバリーチャペルがらみ。不思議不思議。 ニューライフおまけ! ♪ 主に歌おう 主のつばさは あたたかい羽根 そっとやさしく包んでくださる どこにいても 主はわたしを助けて 知恵と力と勇気を与えてくれる だから歌おう 心の底から 主に歌おう 声高らかに 詩と賛美と霊の歌で 主に歌おう 声高らかに 心の中に住んでる救い主は いつでもわたしを愛していてくれる だから歌おう 心の底から 主に歌おう 声高らかに ♪ 喜び 祈り 感謝 いつも喜び たえず祈り すべてのことを感謝しよう (くりかえし) ♪ もしもキリストが来られたら もしもキリストが この地上に戻って来られたら 心の用意はできていますか 主に会う準備はいいですか 天の雲に乗り 輝く栄光あらわしながら やってくるから 心の用意はできていますか 主に会う準備はいいですか
2004年05月31日
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今日は聖霊降臨日ペンテコステ。教会学校では、子どもたちに、ペンテコステについてメッセージ。昨日の発見が、自分にとっては、ものすごく衝撃的で、ついつい熱く語ってしまった。ペンテコステの直前まで、弟子達が、まったくとんちんかん、勘違いしていたこと。ある意味、とりつく島もないというか、つける薬もないというか。そんな弟子達が、イエスさまの命令通り、エルサレムを離れずに留まり、心を一つにして祈っていただけで・・・。誰も、そんな弟子達の間違い、勘違いを指摘さえ、しなかったのに・・・。ペンテコステのその日、ペテロ達弟子は町へ出て行き、十字架の意味、救いの意味をまったく正しく、しかも旧約聖書からひも解きながら正確に語り始め、多くのユダヤ人がイエスを信じるという出来事が起きた。ただ、聖霊が臨んだことにより。ただ、聖霊の力によって。 それと関連づけて子どもたちに話したこと。学校の道徳で教えること。まず、善悪の知識、特に相手の気持ちに立った思いやり。その上で「仲良くしましょう」「いじめをなくそう」「謝りましょう」「正直にいいましょう」。むかついても、我慢して「仲良くしましょう」相手が憎たらしくても「いじめないように」悪いことをしてしまったから「謝りましょう」うそはよくないから「正直に」極端な話、学校で教える道徳は、心の根っこの問題に対して、何の力もない。時に、心の状態はそのままに、外側に見える振る舞いだけ、いかにも正しく行動するだけ。でもね、神さまは違うんだ。聖書は違うんだ。なぜなら、聖書を通して、祈りを通して、教会学校を通して神さまに触れていく時、心の根っこが変えられていくんだ。ただ、神さまの力が臨むことにより。ただ、神さまの力によって。ペテロら弟子達が、代々の聖徒らが、そして今、自分が経験し続けている、このすばらしい神さまのみわざを、子どもたちにも体験してほしいな。だって、神さまって本当にすばらしいんだもん。今日の礼拝メッセージは、歴代誌第二28章から「誠実なこと」というタイトルで。3ポイントを、忘れないようにメモ書き。 本当の誠実とは・・・?1 たとえ波風が立ったとしても、神さまを第一にすることが土台。 ヒゼキヤ王の偶像廃棄(1節) しかし、前章30:10には「人々は彼らを物笑いにし、あざけった。」という記事。 決して、簡単に実施されず、かえって抵抗があったことがうかがえる。 神さまに対して誠実であることは、相手がどう思うかよりも優先されるべきこと。2 具体的に、自分のなすべき分を果たすこと。ことを起こすこと。 主の律法にしるされているとおりに、朝夕の全焼のいけにえ、安息日、新月の祭り、 例祭ごとにささげる全焼のいけにえのため、王の分は王の財産から出した。(3節) ヒゼキヤは自分が献げるべきものは、自分のところから出した。 献げることが、祭司とレビ人、ヒゼキヤが同時(3節)、次いでエルサレムに住む民が献げ(4節)、 次第にイスラエル全土に広がり(5~6節)、しまいには、ヒゼキヤ自身がとまどうほどの祝福となった。 自分のなすべきこと・・・。 例えば、自分が悪くないと思うことでも、謝るように、聖霊に促される時、それに従うこと。3 自分の罪を認め、神と人の前にへりくだる。 神さまの恵みと祝福によって大きな祝福をいただいたヒゼキヤであったが、高ぶるように。(25節) しかし、ヒゼキヤと民は、神さまの御怒りが下るとへり下った。 心のうちに秘めていた怒り・悪意・罪が示される時、それを認め、へり下る必要。礼拝メッセージに引き続き、3名の方の洗礼式。感動、感動、すごい感動。 ハレルヤ~ッ!おめでとうございます!神さま、今日、洗礼を受けられた方々の信仰の歩みを、力強い御手をもって、導き、支え、お守りください!(今日、別の教会で洗礼を受けられたかっちゃんさんもおめでとう!)礼拝後、ペンテコステ恒例、教会全体写真を撮影した後、お昼を食べながら受洗お祝い会。みなで聖歌「輝く日を仰ぐ時」を賛美し、お祝いのことばがいくつかあってから、ジョイという会のメンバーで、「キリストにはかえられません」を賛美。その後、小学高学年から歌のプレゼント。このHPのトップページでBGMで流している「Cares Chorus ゆだねます あなたに」わたしのすべての 心配ごとを主にゆだねます。どうしていいか 分からなくても ゆだねます あなたにわたしの重荷を 主の足もとに置きますどうしていいか 分からなくても ゆだねます あなたにこの歌、先月から教会学校高学年で歌っているのだけれど、実は、今日の朝、教会学校の時間に、急きょ、歌のプレゼントをしよう!と決まった。洗礼を受けた方からは、とてもすてきな歌だったので歌詞のコピーを欲しいとお願いされるほど好評。そんなに喜んでもらえて、こちらもうれしかったなぁ。きっと、神さまがその方に、歌を通してメッセージを語ってくださったんだろうな。神さま、すてき!お祝い会の後は、今度の土曜日に教会で開かれる、韓国の賛美チーム「オンギジャンイ」コンサートの近隣へのちらし配布。とってもとってもすてきな、充実したペンテコステの1日。ただただ、感謝感謝!!!
2004年05月30日
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先週末、朝5時就寝(起床じゃないよ!)を2日続けて行ったせいか、横浜日帰りを決行したせいか、季節がら(?)か、ちょっとお疲れモード。睡眠時間はたっぷりとっているはずなのに、なかなか起きられないのだ。結局、今週、早起きできたのは月曜日のみ。昨日、今日に至っては、起きたら11時半をまわっていた。就寝は2時くらいだったとはいえ、寝過ぎだ。いや、寝過ぎてかえって眠りが浅いのか、それとも本当に疲れがとれない年代にさしかかってきたのか・・・。 さて、明日はペンテコステ。復活後、イエスさまは弟子たちの見ている前で天に帰られる際、約束の聖霊が与えられるまでエルサレムに留まっていなさい、という指示を与えた。そして過ぎ越しの祭りから7週目に当たる五旬節(=ペンテコステ)の日に、弟子たちに聖霊が下り、彼らは町に出ていき、イエスの十字架こそが救いをもたらすものであることを理解し、大胆にのべ伝え始めた。さっき、もう一度、聖書の使徒の働きを読んでいたら、復活後、天に戻られる直前のイエスさまに、弟子たちは「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(6節)と質問しているのを発見。十字架の死、よみがえりを通してなお、弟子たちは、この地上での王国復興を待ち望んでいる。なんと、とんちんかんな! ところがこの数日後に聖霊が臨むと、十字架理解も、イエス理解も、聖霊理解も、聖書理解も、福音理解も、的を射たものに激変している。すごいすごい! 不思議! これがペンテコステなのかな!これまで、弟子たちが福音を大胆にのべ伝え始めたという切り口でしか見てなかったような気がするけれど、数日前にして、弟子たちが、こんなに、ぼんくらだったとは、ちょっと意外な発見。ますます、ペンテコステのペテロのメッセージが引き立ってくる。そして、明日、教会で3名が洗礼を受ける。お二人は牧師先生のご両親。牧師にとっても、ごりょうしんにとっても感無量に違いない。一時期は「息子を教会に取られた」的印象さえ持たれていたそうだから、神さまのなさるわざのすばらしさ、奇しさを、ほめたたえずにいられない! 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 新約聖書 使徒の働き16:31ああ、このみことばが本当なんだなぁ。そして、一度もお会いしたことはないのだけれど、Kちゃんさんも、明日、地元の教会で洗礼を受けることになったという話をB姉妹から聞いた。自分は何にもしていないのに、不思議な導きで、神さまが引き寄せて下さったことを、心から感謝感激。やっぱり、神さまってすばらしすぎるぅ~っ!!!
2004年05月29日
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朝8時過ぎ起床。妻と子どもたちはとっくに朝食も済ませていた。寝坊寝坊・・・。 8時半過ぎに家を出て、伊丹発10時の飛行機で一路羽田へ。羽田に着くとすぐに帰りの便のチェックインを済ませ、京浜急行で横浜へ。う~ん。昨日チェックした天気予報では、関東はくもり、気温も25度くらいまで上がるはずなのに、妙に涼しいぞ。いや、涼しさを通り越して寒い! 周りを見渡すと、半袖は我々だけ。薄手のコートを羽織っている人さえいる始末・・・。 なんでこんなに寒いんだ!横浜では、駅から歩いて10分ほどにあるライフセンター横浜書店に立ち寄り。ここのお店、母教団がらみで小さいころからお交わりがあり、後には山形の教会でお世話になったY先生が働いておられるお店。(実は、今回、妻がコンサートチケットを電話で注文したところ、応対されたのがたまたまY先生、「では、送り先を」「大阪府・・・ぽんです。」「え?ぽんさん?」という裏話も。)今日は、Y先生、お店にいらっしゃらず。(アポも取ってなかったけれど)ところが、店を後にし、通りに出たところで、昼の休憩を終えられたY先生とばったり。数年ぶりの再会。路上で、簡単にごあいさつだけして別れる。昼食はライフセンターの斜め向かいの中華料理屋へ。う~ん、いかにも関東の下町の中華料理屋っていう感じ。環七沿いにあって、おっちゃんとおばちゃんがやってて、っていうような典型的な感じの店。上の方に備え付けてあるテレビから流れてくる演歌も、哀愁が漂ってしぶいぜ。横浜駅から再び京急に乗り、コンサート会場、各駅で4つ目、南太田に向かう。開場は2時半なのだけれど、2時過ぎに到着。もうすでに2グループくらい並んでいた。開場前なので、中には入れないけれど、ガラス越しにリハーサルの様子が見えた。 そうこうしている内に、ほんの少しだけれど雨が・・・。気温も下がってきたのか、はぁ~っと息を吐くと、少しだけど白くなるくらいまで寒いぞ。 おかげで、2時20分ころかな、開場を早めてくださった。感謝感謝。さて、コンサートは3時から。 月の光 ♪ どこまで続く 広い大地に 小さな祈り ♪ この心の恐れや苦しみのすべてを 今 私の内から取り除いてください 目を離さずに ♪ 喜びの声は高く 歓声が湧き上がる 鳥のように ♪ 空を飛ぶ鳥たちは 井戸のそばで ♪ 彼女は生きることに疲れて すべてを投げ出したい日々の中 このままで ♪ 誰か 助けて 叫ぶ心は 神さま大好き ♪ 空を見てごらん 白い雲がおよぐ 雲たちの夢 ♪ 大空を駆けぬけていく雲たちの夢は 希望の朝に ♪ 静かな朝明けの空に 心が開かれいくように 遙かに広く ♪ 一人で生きてはいけないと 小さな世界で叫んでいた 主の御手に包まれて ♪ 見えない明日に向かい 立ちすくむ そんな時は 私たちのこの口は ♪ 私たちのこの口は汚れているけど どうか主がこれを聖めて あなたの喜びとなるように ( 新 曲 ) この道はひとつ ♪ この道はひとつだけ 天の父のみもとに続く道 帰り道 ♪ ほんのささいなことで 傷ついてしまう私は とても小さく ハレルヤ(アンコール) ♪ ハレルヤ 神の聖所で 神をたたえよあっという間の2時間弱(1時間半あまり)。主の臨在・・・歌うメンバーひとりひとりを、そして集められたひとりひとりの内におられる、生けるイエスさま。礼拝と賛美を通して、その神さまと一つとなること、一つであることを喜び、確認する時間。 コンサートの一曲一曲を聴きながら、主との交わりをエンジョイする。 ・・・「井戸のそばで」・・・ 井戸とは、・掘る努力・その都度くみ上げる努力が必要な場所。だけど、神さまに触れられる時、与えられるのは「泉」。 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る「泉」もはや、掘る必要も、その都度、くみ上げる必要もない。尽きることの流れとなって、水があふれ出る場所。Lyreの歌を聴きながら、そんなイメージを思い描いていると、2月あたりから気にかかっていた、その人の苦しみ・悲しみの部分が、神さまとの出会い・交流の窓口・破れ目とされる話(2月27日日記参照)とつながってきた。サマリヤの女にとって、夫を何回か変えたことは、傷であり、負い目であり、周囲の目を気にすることでさえあったけれど、主は、井戸のほとりに彼女が来るのを待たれ、その弱い部分を「聖霊」という永遠のいのちの水がわき出る「泉」と変えて下さった。やっぱり、神さまってすごい力を持つお方なんだなぁ。 弱さや試練、時に罪という井戸が深い分、深い愛と憐れみと恵みがあふれ出る泉に変えられる!自分の弱い部分も、主が待っていて下さって、それを主とコミュニケーションをとることのできる「泉」に変えてもらえるなんて、なんとすてきなこと! ・・・「希望の朝に」・・・♪ 神よ~ 国々の民が~ あなたをほめた~たえ~ あなたを喜び歌い~ます~ように~ この歌を歌うたび、「国々」ということばに思いをはせる。特に、今日、この時間に「北の国」を訪問し滞在している小泉首相。 かつては、福音的なキリスト教が盛んで「東洋のエルサレム」とさえ呼ばれた平壌。かの地に、もう一度、自由に主イエスの福音が宣べ伝えられる日が、一刻も早く来ますように。あなたをほめたたえられる民が起こされるますように。 そして、拉致被害者とその家族、脱北者、また自由を奪われたままの朝鮮の人々に、主の祝福があるように、心を砕き、祈る時とされた。 ・・・「帰り道」・・・この歌を聞いてイメージしていたのは、夕方の私鉄の駅。学校や会社を終え、最寄り駅で電車を降り、改札を抜け、家路につく人々の流れ。それを照らす夕日と、人々の数だけ伸びる長~い影。ほっとする風景・空間のはずなのに、込み上げてくる孤独感、空しさ・・・。(実は、4枚目のCDジャケットの、草原の中のシルエットの絵は、この「帰り道」の歌をイメージしたものとは、帰宅後、HPで見つけたけれど、受け取り方はひとそれぞれあるんだなぁ、とは余談。)この歌の前に、ちとせさんの「光がまったく見えないと思えるトンネルがある。けれども、神さまが共に歩んで下さり、いつか必ず、抜け出せる時が来る」というお話を聞きながら、何かを深く思わされた。 そして、ともにこの歌を賛美しながら、 歌詞の意味ともあいまって、この世における人生って、 お父さんである神さまのところへの 「 帰り道」 、天の故郷への「帰り道」でもあるんだなって、思わされた。 ♪ 生きていく ただそのことが 難しく思う夜だけど 今日が たとえ涙で終わっても 朝の光は この心を照らす 私たちが 見上げるその方は ここにおられる 今 私の内に ああ、主の臨在ってすばらしいな。天の御国の前味って、こんなことをいうのかな。 自分は歌も作れないし、歌も上手じゃないけれど、Lyreワールドを通して、とびっきりスペシャルな神さまとの交わりの機会を与えてもらった。 神さま、あなたの愛と平安と喜びで、心が満ち満ちる時間と空間を与えて下さって、本当に本当にありがとう! Lyreコンサート映像 (ライフ・ミュージックのDVD・CDプロモーション映像 要Windows Media Player) コンサートの後は、いろんな人とお会いすることができた。Lyreメンバーが、サイン会をしている間、LyreHPの管理人さんや、あっこさんのご主人、えいこさんのご主人ともお話しすることができた。特に、えいこさんのご主人とは初めてお会いしたのだけれど、さすが神さまが引き合わせられたお二人、納得! 子どもたち、教会学校に重荷をもつご夫婦として活躍してほしいと強く強く思わされた。神さま、祝福と導きを与えて下さい。学生時代にお世話になった教会の牧師先生の長女さん(Lyreの後輩として、TCU東京基督教大学在学中)ともお会いできた。Lyreメンバーもサインを終え戻ってきたところで、少しだけお話しさせていただく。 うちの奥さまは、ささぐ先生に、コードの弾き方なんかを教えてもらったり。 なんだかんだ5時半もまわり、飛行機の時間もあるので、コンサート会場を後にした。横浜で乗り換えた電車が羽田空港直行だったので、乗り換えは1回だけで済んだ。地下のフードコートで夕食。近くの人が持ち歩いていた新聞の号外の見出しから拉致被害家族5人の帰国を知る。すしやそばを食べると、もう7時10分。急いで出発階に上り、セキュリティを通ってゲートに急ぎ7時25分の飛行機の乗り込む。機内のヘッドホンでラジオのNHKニュースを聞くが、とぎれとぎれになる部分もあったが、5人が今日、帰国すること、ジェンキンスさん家族は帰国しないが、北京などでひとみさんと会うことには同意したなどと報じられていた。関空から家に戻ったのは10時近く。つけたテレビは、どこのチャンネルも小泉首相訪朝と、家族帰国一色。さっきまでいた羽田空港が映し出され、拉致被害者の子供たちが飛行機を降りバスに乗り込む姿、しばらくするとホテルに着く様子が映し出されていた。蓮池さん、地村さんご家族にとっては、どんなにか安心する、そして幸せな瞬間だったろうか。一方で、曽我さんが哀れでけなげで、本当にかわいそうだった。また、前回の首相訪朝で死亡と伝えられた10人の被害者家族の苦しみもいかばかりか。実効性、信憑性に足る再調査が行なわれるのならば、進展ともいえるだろう。しかし、国交正常化交渉を、早く進めたいがゆえの、幕引きが行われるのであろうか。前回、事故で死亡とされた拉致被害者の中に、再調査、もしくは帰国者の証言などで、人為的に死に追いやられたり、もしくは隔離させられた生活を余儀なくされていたことが判明したら、どうなるのだろうか。そんな疑いも濃厚であると、個人的に思えて仕方がない。(だから、あの国も公表できないんじゃないか。)ただ、続けて、主に祈るのみ。今、おつらい状況のうちにある被害者、そしてそのご家族に平安が与えられるように。この卑劣で理不尽な事件が、一刻も早く、平和裏に解決するように。 Lyreのすてきなコンサート、そして、霊の事件も、部分的にはとても喜ばしく、しかし何とも言えない後味の悪さを残す今日一日。
2004年05月22日
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今日の聖書一日一章の箇所は、歴代誌第二22章。 南ユダ王国では、偶像礼拝に陥っていく中、ピンチの時に、まことの神に従う王が起こされ、宗教改革が行われ、外敵に対する勝利を経験するものの、大きな流れでいれば、神さまから離れていく長期低落傾向に歯止めはかからず、どんどん偶像礼拝に陥っていく様子が、ずぅっと描かれている。ヨシャパテ王=おおむね善 (20章)その息子 ヨラム王=悪 (21章)その息子 アハズヤ王=悪今日はこのアハズヤ王の記録。彼は、祖父ヨシャパテが残した汚点ともいえる北イスラエルとの同盟を維持し、その結果、北イスラエルの偶像礼拝がどんどん南ユダ王国にも流入し、汚染されていった。結局、このアハズヤ王、同盟国の王を見舞いに行っている間に、その北イスラエルでの謀反に巻き込まれ命を落とす。 (南ユダの)ヨラムの子アハズヤは、(北イスラエルの)アハブの子ヨラムが病気であったので、 彼を見舞いにイズレエルに下って行った。 ヨラムのもとに行くことによって、アハズヤが滅びたのは、神から出たことであった。 彼はそこに着くと、ヨラムとともにニムシの子エフーに向かって出て行った。 これは、主がアハブの家を断ち滅ぼすために油をそそがれた人である。 (5~6節)何かのシナリオか、その背景の説明を読んでいるみたい。まず(南の)アハズヤ王が、(北の)ヨラム王を見舞いに行くことで命を落とすことが、神から出たことだったんだって。そして、アハブの家とは北イスラエル王家のこと。それを絶ち滅ぼすために、エフーという者が神に選ばれたんだって。(結果、エフーによる謀反により、ヨラム王はもちろん、アハズヤ王もとばっちりで命を落とす羽目に。)いや、彼らそれぞれは、自らの意志や打算で、てんでばらばらに動いているに過ぎないのに、背後に神さまの計画があるんだって。偶像礼拝真っ盛りの北王国。そこに見舞いに行った、偶像礼拝にむしばまれつつある南王国。そして両方とも、滅亡の道を歩んだ。すべて、主の御手の内にある出来事・・・。 ーーー ーーー ーーー ーーー ーーー いよいよ明日、北の国を訪れる人がいる。(おおぅっ、北の国を訪れるなんて、今日の話と設定そっくりじゃない!)いや、彼らそれぞれが、自らの意志や打算で、てんでばらばらに動いているに過ぎない。けれど、聖書が示すのは、その背後に、神さまの計画があるということ。一方で、拉致被害者家族会は、生存者家族と死亡と伝えられた家族の間に溝が生じ始めているという。考えてみれば当然だと思う。逆に、よく今まで、ここまで、いっしょに協力して来られたなとさえ思う。明日、どんな結果が出るのだろう。もしくは、どのように話が進展するのだろう。2日にパッションを鑑賞したあの人は、北の地で、彼と何を、どのように語り合うのだろうか。人としての善悪判断を貫くのか。あくまで政治家として大局を見据えて、何かを取り引きするのか。それとも、国民の声にこびるように動くのか。(個人的には、変な政治的決着・妥協がなされることを恐れる。)まずは、拉致被害者の北に残されている子女が、どうなるか。いったん、調査で死亡と発表された人々の再調査はなされるか、新たな展開があるか。拉致の疑いのある人々の消息で、何らかの糸口は提供されるのか。国交交渉に入ってしまうのか。しかし、どのような流れも結果も、背後に神さまの計画があるというのが、聖書の一貫した立場。北の問題だけでなく、すべてのことに。イラクのことも。だから、歴史をも支配されている主のみこころだけがなされますように、ただ、祈るのみ。ふさわしい解決を、あなたの時に、あなたの最もふさわしい方法で与えて下さいと。そして、彼の国も、この国も、主の祝福と守りと導きにより、御名をほめたたえる国々の民となりますようにと。 ーーー ーーー ーーー ーーー ーーー そして、いよいよ明日、ぽん家は、家族5人で日帰りで横浜へ!目的はLyre コンサート!。昨年10月の大阪コンサート以来、7か月ぶり。楽しみ楽しみ。今日は、名古屋でのコンサート、明日が横浜、そして明後日は都内でのコンサート。それぞれが、豊かに祝されますように。メンバーお一人一人の霊性と信仰と健康が守られますように。コンサートに来る一人一人が、主からの養いと励ましと慰めを受けて会場を後にすることができますように。 なんと横浜の会場は、昨年11月にバザーで立ち寄ったこの教会だって!それにしても、羽田空港、あの人の飛行機とかち合わないかな。(厳重な警備に遭遇するのが不安・・・)きっと、行きも帰りも羽田空港だろうな・・・ 家族の即時帰国も実現したら、それこそ羽田空港、報道陣でものすごい混雑だろうなぁ・・・。
2004年05月21日
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今日は、月に一回、近くにあるなじみの教会との合同集会「ぶどうの会」。会場は、2教会が交代で。今月は大浜教会が会場。前日、近くの教会の婦人会でお話するため、東京から大阪にいらっしゃっていた片岡栄子さんが大浜教会に立ち寄られ、ぶどうの会であかしをして下さった。片岡栄子さんは、2年前に天に召された故片岡伸光先生の奥様。今回は、片岡先生がすい臓がんを告知されてからの約1年間、神さまが何をしてくださったかを、お話ししてくださった。片岡先生は、長年、KGK(キリスト者学生会)の主事として大学生伝道に関わった後、99年にシンガポール日本人教会牧師として赴任。アジアに関心の深かった先生は、それこそ水を得た魚のように活動的に働かれた。1期2年の働きの1期目が終わり、2001年、2期目に入った直後、体の不調を感じられ、検査入院。すぐ帰ってくるよと、言って出かけたが、すい臓がんの四期と診断。前年暮れに、栄子さんが知人に送るクリスマス・カードに引用したことば「あなたのおことば通り、この身になりますように」。受胎告知とがん告知、似ている部分が。片岡先生、「働きの最中に病に倒れ、召されていくことが、ぼくにとっての召し」日本に一時帰国し、手術したが、実際には手の施しようのないほど進行しており、結局、そのまま縫い合わせるだけの手術。病院の先生に、あと何年の命かと尋ねると、「あと1か月から3か月の命」。片岡先生は、それならば、とシンガポールに戻り、残された時間を最後まで、ご自身が遣わされた教会での使命を果たそうと決意された。シンガポールに戻ると、数か月間、一時的ではあったが劇的な回復。「今日は1000メートル泳いできた」など、このまま治ってしまうんじゃないかと思わせるほどに、体力的には劇的な改善。教会でも、中高生が7人、いっきに信仰告白に導かれたり、数か月だけシンガポールに滞在していただけのご夫婦が信仰に導かれたりと、教会も大いに祝福され、栄子さん自身も安堵と平安の中に。しかし、秋口を境に、病気の進行は急激に進み、先生の体を蝕み、その体力を奪っていた。一時期の好転の後に訪れた暗転・・・。初めて、自分は夫を失ってしまうという感覚・・・。ある朝、顔を洗って鏡を見た瞬間、いいようもない恐れが、どっと襲いかかり、その場にしゃがみ込む。家庭形成を召しとしていた自分。夫がいなくなってしまうことは、主役が不在になること。そんなこと、あり得ない! それまで、いろんな悲しみがあれば、相談し、分かち合っていた夫。その夫がいなくなってしまう・・・ そんな馬鹿な・・・信じられない・・・ 信じたくない・・・神さま 許せない・・・しかし、直後に、期待もせずに開いた、その日の一日一章聖書日課の箇所・・・ あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。 あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。 イザヤ書 54:5神さまは、その日のみことばを通して、語りかけてくださった。「あなたの夫、本当に頼るべきは、わたし(神さま)ではないか。」この事態をも、神さまはご存じで支配されている・・・。そのことが、はっきり分かり、不思議な平安と安心に、心が変えられてしまった。その後も、どんどん衰えていく片岡先生。1月信仰を持ったばかりのカップルの結婚式。だんだん声もかすれていたが、講談に立つと、どこから出てくるのかと思うほどはっきりした声になり、体力的にも弱まっているのに、ガウンを着れば、さっそうと歩くいつもと同じ牧師の姿に。栄子さんは介添人として新郎新婦の横に。司式の片岡先生が、新婦に問いかけ。 あなたは神の教えに従って、妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて、 変わることなく、その健康な時も病の時も、富める時も貧しき時も、命の日の限り、 あなたの夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。結婚28年目。栄子さんも、28年前と同じように「はい」。この頃から、鈍痛におそわれ、シロップによるモルヒネ投与開始。2月 体温調節が効かないようになってきて、礼拝メッセージ中も汗だくに。ある日、血圧を測ると30~60。片岡先生は、ふつうに本を読みながら、「コーヒー飲んだら治るよ」ちょうど日本から、シンガポールの神学校に学びに来ていた医師・看護士夫妻に、いちおう連絡とってみたら、びっくりして、すぐに駆けつけて、病院に連れて行って下さると・・・ いつ召されてもおかしくない危険な状態、日本からも子どもたちを呼び寄せた。ご長男、けんくんも仕事を休み、東京から駆けつけ、この時、洗礼を受ける決意。片岡先生は、ベッドの上で、いろんな点滴やチュープをよけてもらいながらガウンに着替えて、洗礼を授けた。「あのなぁ、けんくんな、ふつう、病床洗礼っていうのは、病人が受けるもんなんやで。」洗礼を受け、抱き合う先生とけんくん。その日の片岡先生の日記、「その時、僕はおかえりって言った・・・。」3月いすに座ってメッセージするように。29日の受苦日(受難日)のメッセージを最後に帰国する決意。31日のイースター礼拝で、最後のあいさつをし、シンガポールを離れ、翌4月1日朝帰国。そして、4月5日、天に召される。召される6時間ほど前から眠り続け、深い呼吸のみ。普段、夫婦でもっていた静まりの黙想の時の呼吸のよう。家族に見守られ、苦しむことなしに、そのまま安らかな最後。ご次男「ぼく、死ぬの怖くなくなった。」先生が召されてから、シンガポールに戻られた栄子さん。帰国のための準備。片岡先生は、帰国する信徒のチャンギ空港での見送りをとても大切にされた。しかし、栄子さんにとっての帰国は、なんの希望のない帰国・・・。そんな中、ふとルツ記を読んでみようと思い立ち、読んでみると・・・失意の中、帰国する先輩「ナオミ」を発見。イエスさまの系図にも連なる帰国。帰国後、一つのいすを購入。庭に置いて、あなたの夫だと言って下さるお方と、静かに交わりの時をもつため。この危機の時に支えられたのは、生きて、自分の今の気持ちをちゃんと見ていてくださる神さまが、これ以上ないというタイミングで、みことばをもって語りかけてくださったから。そして、今も、うきうきしながら生活している。 しかし、主は、 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」 と言われたのです。 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 コリント人への手紙第二 12:9~10片岡先生・・・。KGKでお世話になったとはいえ、学生時代に、年に数回お会いするだけで、個人的に深い関わりを持つ機会もなかなかなくて、決して、とても親しい存在というわけではなかった。2年あまり前、片岡先生のがん発病、最後の帰国、そして昇天の際も、面識のある先生のお一人として祈りに加えさせていただいていた感じだったように思う。片岡先生の著書「主の前に静まる」も、以前に購入し読んではいたが、最近、読み直したら、買った時には感じなかった、ものすごく共感できる部分、吸収できる部分がたくさんあってびっくりした。去年買った、片岡先生も一部執筆しておられる「今日における霊性と教会」を読んでみても、今、自分が必要としていると思われること、大切だと思われること、そして、「あ、これ、以前の自分だ」ということが、たくさん書かれてあった。ということは、この2年間の間に、自分が変化していたということ・・・。大阪に引っ越し、今の教会で主を礼拝するようになって5年あまり。上沼昌男先生、生島陸伸先生、坂野慧吉先生が、教会で語ってくださったり、お交わりを与えられた。何より、3年前から太田和先生の「生活の中の霊性セミナー」が始まった。これらの先生は、片岡先生もはじめ、ハンス・ビュルキという先生の影響をお受けになった先生方。これら複数の先生から、確実に何かを吸収させられていた数年間だったんだなぁ。今、手許に残された片岡先生の本や文章を読みながら、今なら、片岡先生にいろんなことを質問したり、神さまのこと、霊性について語り合えるのに、という強い衝動さえ感じさせられる。お交わりの欲求が起こされた今、先生はこの世にいらっしゃらない。数年前なら、手紙やメールでコンタクトする手段はあったけれど、その時(2年以上前)には、そんな思い・観点がなかった。残された文章とスピリット、そして学生時代のそんなに数は多くはないけれど片岡先生の思い出は、何かを語っているんだろう。静かに、神さまの前に差し出しながら、思い巡らすひととき。おっと、ちょっと脱線。片岡栄子さんのお証のあとは、ぶどうの会恒例の、交わり&お祈りタイム!番号札によるくじで5つのグループに分かれると、片岡栄子さんと同じグループだった!上に書いたことを簡単に話すと共に、自分の壊滅的だった人間関係が徐々に回復される様子、イコール自分になかった平安・解決を神さまが与えて下さるから、神さまって本当にすばらしいことなどを話すと、栄子さんは「天国で会えるわよ。」「すてきな旅をしておられますね。」と言って下さった。的を得たすてきなコメント、本当に自分でもそう思わされることだから、うれしかったなぁ。文字通り、「スピリチュアル・ジャーニー」なわけだから。神さま、今日もすばらしい恵みをありがとう。あなたは、私の夫でもあります。あなたは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、片岡栄子さんの神、そして私の神でもあられます。最も私をご存じのあなたと共に歩む平安と恵みを、もっともっと教えて下さい。心からいっぱいの感謝と賛美をもって、御名をほめたたえつつ・・・。
2004年05月20日
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あまりに「パッション」のインパクトが強く、妻ともう一度見に行こうということになった。今回は、ぽん(おしどり)夫婦の他に、教会の奥さま二人の合計4人で。2回目、アラム語やラテン語の聞き取りにちょっとだけ挑戦。イエスさまの祈りの中で アドナイ 主 アッバ おとうちゃんイエスさまの相手に対する呼びかけの中で ユッダァ ユダ ケェパ ペテロ = 聖書の中では、「ケパ(岩の意味)と呼ばれたペテロ」と紹介されている むち打ちのシーンでは、きっとローマ兵は、何回むち打ったのか、数えていたんじゃないかな。「サーティ」や「ウノ」みたいに聞こえる発音があったような。この時代のむち打ちは、40回だったかな、に達すると、それは死を意味したそうで、死刑でない中で一番重い刑罰は39回(だったかな?)のむち打ちだったという話を聞いたことがある。もしかしたら、映画でむち打たれる回数が実際にその数になってたりして。ことばとは変わって・・・、「おまえは誰だ?」 オリブ山でもだえ苦しんで祈るイエスにサタンがこう語った直後、サタンの鼻に芋虫か青虫がすっと入っていったぁ。ちょっとびっくり! 直後に蛇が出てきて、イエスに向かうシーン。さてさて、2度目となると、どのシーンがどの聖書箇所からなのかなど、分かっているので、流れを把握する余裕がある。今回、感じたのは・・・それは、イエスと出会った人々の変化。・最初から拒絶 大祭司・律法学者 サタン・最初は歓迎 後に拒絶 ピラト 民衆 幅を広げれば弟子たちも一時期ここかな?・ニュートラルから歓迎へこの3番目の人々に、特に心が向いた。・切り落とされた耳を癒された、イエスを捕らえるため、武装してやってきた宗教指導者の私兵か治安当局者 当初、ペテロはイエスを守ろうと剣をもって戦い、相手の一人の耳を切り落としてしまう。 イエスはその耳を拾い、もとの場所にくっつける。 マルコスと呼ばれた彼は、その場にひざまづいたまま、しばらく立ち上がれない。 もう、ぽか~んと口を開け、あっけにとられているとしか言いようがない姿。 イエスが捕まえられて、帰る際、「帰るぞ」と仲間に言われても、なかなかその場を立つことさえ、 ままならなかった。・(ローマ兵の)百人隊長? ピラトの指示のもと、むち打ちを指示ししたり、十字架刑を指揮したり・・・。 苦しみの道をたんたんと受けるイエスの姿を見続ける。 きっとこの人が「この方は神の子であった」とひとりごとを言った人じゃないかなと。・クレネ人シモン 十字架を背負い、刑場であるゴルゴダの丘に向かうイエス。 しかしむち打たれた体に、その十字架が重くのしかかる。 ふらふらで、もう一人では歩けない状態・・・。 ローマ兵が、たまたま通りすがりのシモンを指名しイエスと共に十字架を担がせる。 最初は「俺は罪人ではない。」との態度をとっていた彼であったが、十字架をともに担いで歩むうちに あまりにひどいローマ兵の仕打ちに、体を張って抗議する。 共に十字架を担いでいて、イエスが転び崩れた時には、イエスに十字架に落ちないように、一人で 十字架を支えたり、ゴルゴダの丘の最後の坂では「もうすぐだ」と声をかけたり。 所定の場所に着くと、ローマ兵から、さっさと帰れと言われるが、なかなか帰れない。 何度も振り返りながら、その場を立ち去る。 聖書の使徒の働きに、彼と思われる人物が、クリスチャンのメンバーとして書き記されているので、 彼だとすれば、のちに信仰を持ったことになる。・十字架につけられた二人の強盗 一人は「お前が神の子ならば、俺たちをも救って見ろ」とののしる。 もう一人の強盗は「自分たちは、自分の罪の報いを受けているのだ。しかしこの方は罪のないお方なのだ。」 とたしなめる。そして「主よ、御国の位におつきになる時には、わたしを思い出してください。」と言うと、 イエスは、彼に「今日、私と共にパラダイスにいます。」と答えられた。これら4人のうち、実際に何人がイエスを信じるようになったかは分からない。ただイエスに、しかも、ただ苦しみを受けるだけのイエスに出会っただけで、目にしただけで、時を重ねただけで、これらの人々の内に変化がもたらされた。聖書を知らない人が、映画「パッション」を見ても、ストーリーが分からないだろうと心配する人がいる。でも、勝手な意見なのだけれど、確かにストーリーは分からなくとも、自らすすんで、血だらけになって苦難の道を歩むイエスの姿を見るだけで、何かを感じ、心打たれ、何かを求める人も起こされるに違いないと思うんだ。 そんな意味でも、いろんな人にぜひとも見て欲しいと強く思わされる映画「パッション」! さあ、イエスさまのもとに来て。イエスさまを見て。イエスさまに触って。そして信じて! ね!
2004年05月18日
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映画「パッション」の登場人物の心理変化、心理描写の中でも、特に弟子たちとピラトの動揺・葛藤が心に留まった。 イエスを裏切ってしまった弟子たち・・・ 銀貨30枚でイエスを、政敵(?)祭司長たちに売り渡したユダ。 直前まで、「たとえ命を失ってもイエスさま、あなたに従います。」と言いつつ、いざイエスさまが捕まると逃亡し、群衆に「あなたは弟子ではないか」と追及されると「そんな人は知らない。」と答えてしまったペテロ。 この二人ならず、すべての弟子たちが、イエスを残して逃げてしまった・・・。 映画では、ユダとペテロのイエスさまを裏切って後悔する様子が、特に印象的。 二人とも、最後の晩餐の時にも、イエスが現実の救世主、イスラエルの国を復興させ、現実の王となることを信じていたことは想像に難くない。いや、ユダはそうでないかもしれないと思い始め、裏切る決心をしたのかもしれないな。 大祭司の庭に連行される途中、鎖でつながれたまま城壁から突き落とされたイエスと、直下で泣いていたユダと目が合った。 深夜の大祭司の庭で、にわか宗教裁判の様子を遠巻きに眺めていたペテロ。三度、知らないと言った瞬間、振り向かれたイエスとペテロの目が合った。 二人とも、裏切ってしまった自責の念に苦しみ続ける。そして、イエスの何ともいえない(映画をじっと目をこらして見ても)、決して相手を責めるのではない眼ざしが、かえって痛ましい。憐れみに富んだ目といおうか。よくよく思い出せば、最後の晩餐の際も、イエスは、二人にやんわりと注意を与えていたんだなぁ。 ユダは、裏切り者として有名だけど、裏切った後、後悔し後悔し、結局、銀貨30枚を大祭司に投げ返し、自責の念から自ら命を絶つ。葛藤の様子を見ていると、「裏切り者」というレッテルだけの判断もちょっとゆらぐ。(裏切り者には違いないんだけれど。) そして、ペテロもまた、後悔と自責の念に苦しむ。イエスの母マリヤとヨハネとばったり出くわした時のペテロの取乱し方は尋常でなかった。「あの人を知らないと言ってしまった・・・」そんなペテロを慰めようとマリヤが手を伸ばし手を置こうとするたびに、びくっ、びくっと反射的に避け、その手をよけてしまうペテロ・・・。こんな罪深い者に触れないでほしい、そんな叫びが聞こえてきそうな場面だった。 ローマ総督ピラト。ローマ帝国から見れば、イスラエルは辺境の、しかも異民族、異文化の地。反乱を押さえつつ、民衆の気持ちをコントロールすることに終始しなければならない運命を背負う。 ピラトは、自身でもイエスを死刑にする材料を見出せず、妻の懇願もあり、イエスを何とか釈放したいと努力を尽くす。 1、大祭司に対する説得 ・・・ 失敗2、傀儡のガリラヤ王ヘロデのもとに送致し、民族的解決をはかる ・・・ 差し戻し3、当時のローマ当局の被支配民族懐柔の方法として、民族主義的祭りの際に、一人だけ恩赦を行っていた。 民衆の怨嗟の的で、投獄されている極悪人(殺人強盗犯)を引き合いに出せば、 大祭司も、民衆も、イエスを釈放する方がまだましと考えるだろう・・・ ・・・ 祭司長たちも民衆も「バラバ(強盗犯)を釈放せよ~っ!」の大合唱。4、むち打ちに処し、これだけ痛めつければ、ユダヤ人たちの気持ちも収まるだろう・・・ ・・・ 群衆 「十字架につけろ~っ!」 青ざめるピラト・・・最後にピラトは、イエスに「自分には、釈放する権威も、刑に処すことを決定する権利も持っている」と小声でささやくが、イエスは「神が与えなければ、何の権威もあろうか。わたしを引き渡した者により大きな罪がある。」と答える。そしてピラトは、水で手を洗いながら「自分にこの者の血の責任はない。自分たちの好きにするがよい。」と政治的妥協をはかってしまう。今も昔も、政治っていうのは、あんまり変わらないんだなぁ。利益誘導と保身と打算、時に謀略、駆け引き・・・最終的にピラトがとった方法って、たとえば、不祥事が発覚して、火消しに奔走して失敗、国民の非難が高まり、誰か、責任者を辞任させることでガス抜きしようとするのといっしょでしょ。年金問題は、逆に、自分から先に辞めたり、辞退することで、肉を切らせて骨を断つ式に、捨て身で相手への非難が高まるようにし向け合ったりね。おっとっと。映画「パッション」から脱線脱線。 でも、聖書に描かれるイエスの受難は、そんな意味で、きわめて人間くさい状況の中、翻弄されるように起きてたということなんだなぁ。 「パッション」を観た後で、聖書を丹念に読むと、いろんな発見ができそう。 きよきよ先生の映画「パッション」解説 解説に加え、豊富なリンク。そしてきよきよ先生の鑑賞前・観賞後の感想は必見!
2004年05月13日
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映画「パッション」(キリストの受難)を観て思ったのは、登場人物の置かれた状況、心の揺れ・変化、それに伴ってどのように振る舞ったか(振る舞わざるを得なかったか)が明確に伝わってきたということ。そして、映像というひとつのイメージを通して、読み過ごしてしまいそうな何気ない聖書の一節に、とてつもない痛み・犠牲、深い意味が込められている場合があることも、たくさん発見した。例えば・・・映画は、オリブ山でのイエスさまの祈りから始まる。直前の夕食(最後の晩餐)の席で、イエスさまは弟子たちに、自らがもうすぐいなくなることと、裏切る者の存在を告げられた。その後、闇の中、数人の弟子たちだけを連れて、祈るためエルサレム神殿と谷向かいのオリブ山に行った。満月(そう、過ぎ越しの祭りは満月)の下、立つこともままならないほど、「もだえ苦しんで」祈るイエス。ああ、「もだえる」ってこういう姿のことを言うんだったよなぁ・・・。手足は震え、声も震え、全身汗だらけ。アラム語の「アドナイ、アドナイ・・・」(「主よ・・・」)と祈る声が印象的。 裏切りと身の危険、そして救いの計画がいよいよ実行される予感。すなわち、全人類の罪を処理するため、呪いと裁きの刑罰を、父から受けるのみならず、それまで「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ14:10,11,20)と繰り返し話されたように、24時間356日完全な一致という親しい交わりにいた父なる神さまとの関係が絶たれることを意味していた。そして、完全にきよいはずのイエス自らが汚れたもの、呪われたものとみなされ、裏切られ、裂かれ、捨てられる経験・・・。恐れおののいているようにさえ見えるイエス。少し離れたところにいる弟子たちのもとに戻ると、弟子たちは居眠りしている。イエスがその生涯で最も苦しい時を過ごしている最中なのにも関わらず、それをまったく感じ取っていない弟子たち・・・。イエスさまがもだえればもだえるほど、緊迫感のない弟子たちとの間に横たわるちぐはぐ感を、はっきり感じさせられた一こま。 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・ むち打たれ・・・ いばらの冠・・・ あざけられ、ののしられ・・・ 平手で打たれ、つばきかけられ・・・ 手に釘を打ち付けられ・・・ 十字架につけられ・・・ 死んで葬られ三日目によみがえり・・・ これはわたしの体・・・ わたしの血による新しい契約・・・ そんな聖書や使徒信条の一言一言にこめられた意味の深さ、実際の悲惨さ、惨めさ、残虐さ、そして、十字架の救いの計画とみわざのすばらしさが、映像と雰囲気を通して、ハートを直撃した映画。 ごめんね ありがとう イエスさま・・・ 本当にありがとう・・・ きよきよ先生の映画「パッション」解説 解説に加え、豊富なリンク。そしてきよきよ先生の鑑賞前・観賞後の感想必見!
2004年05月12日
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今日は休み。妻と二人で、映画「パッション」を観に出かける。子どもたちを、小学校と幼稚園にそれぞれ送り、9時半過ぎに家を出る。デートデート!映画なんて久しぶり。最後に映画館に行ったのは、長女ちゃんが生まれる前だったかな。もう9年くらい、映画に行ってなかったんだな。昔は、しょっちゅう見に行ってたのになぁ。道頓堀の映画館の場所を間違えそうになったが、10時半ころ、映画館に到着。あんまり混んでなそうだったのと、お腹が空いていたこともあり、近くの金龍ラーメンで早めの昼食。映画は11時15分から。 「・・・・・・」あっという間の2時間あまり。感じたことをひと言でいうと、思いっきり疲れた。確かに残虐なシーンはあるけれど、いわゆるスプラッターものと違い、充分に抑制されていたように思う。で、なんで疲れたかというと、聖書のいろんなシーンが描かれているのだけれど、各シーンごとにその前後のストーリーまで思い起こしてしまい、頭脳フル回転になっちゃって。それだけ、聖書物語が出てきたっていうこと。特に、あちらこちらに、フラッシュバック回想シーンがちりばめられていて・・・。「あ、あのシーンだ。」「あれっ、これは何の話だろう。あっ、あの話だ。」って言う感じ。 オリブ山と向かいのエルサレム 蛇 ユダとペテロそれぞれの裏切り 大祭司カヤパ邸 ピラト官邸 鳩 むち打ち イエスさまが弟子の足を洗う(回想) 姦淫の罪を犯した女(=マグダラのマリア?)を救う(回想) 最後の晩餐ーパン(回想) 十字架を負わされ、あざけられながら都を出る 1週間前の歓喜のエルサレム入場(回想) クレネ人シモン 山上の垂訓(回想) 十字架 最後の晩餐ーぶどう酒 「エロイ エロイ ラマ サバクタニ」 「完了した」 天からの一粒の水滴(父なる神の涙?) 地震 (どれが)神殿の幕? あれが契約の箱?(ここが大揺れでよく見られなかったぁ) そして復活! とにかく、これはただの映画じゃないって思ったよ。聖書に忠実につくられたと聞いていたようだったけれど、聖書以外の伝承なども使われているようだった。(たぶん聞き間違いだったのかな。)でも、映画の中では、ユダヤ人はアラム語、ローマ人はラテン語のせりふが使われたりと、なし得る限り、正確に描写しようとした意気込みが伝わってきた。カトリックの聖画を意識したと思われるシーンも散見されたようにも思われ。そして、何よりも「血」。1週間ほど前に読んだ信仰書に、「血」の作用する範囲について述べられていた。「血」は罪をきよめるのではなく、良心に作用し、きよめるんだって。罪を犯した時に、それをとがめる良心をやわらげる働きをするんだって。ちょっと難しいけれど、自分なりに理解したことは、良心っていうのは、律法を守らない時、つまり罪を犯した時、それをとがめる力。悪いことをした時にうずくのがこの良心。良心は裁きを求める。裁き、それは血が流されること・・・。血が流され裁かれることによって、相手の良心の責め・とがめがやわらげられる・・・。出エジプトの過ぎ越しの際、神の裁きは、血が塗られた家を通り過ぎた・・・。自分なりの拡大解釈になるかもしれないけど、裁きの矛先は罪を犯した相手や自分に向かう。しかし、キリストが十字架で流された「血」によって、その良心・とがめる心がきよめられ、やわらげる・・・。いやぁ、ことばにするのが難しいんだけど、この「パッション」を見てから、自分や他者に対する態度がやわらかくなっていたことは確かなんだ。自分なりの正義っていうのかな、そこから出てくるところの、自分や他人を責めていた「いがいが」が、いつの間にか溶かされている自分がいた。「あ、これが、血の作用なのかな」って。 頭や心の中で、いろんな余韻や変化もたっくさんあったけれど、こんなに魂の部分に働きかける映画はなかったよ。そんな意味で「パッション」は、ただの映画じゃない! クリスチャンの人も、そうじゃない人も、絶対、見に行ったほうがいいと思う。心の「いがいが」が、溶かされるから、ね。本当だよ! きよきよ先生の映画「パッション」解説 解説に加え、豊富なリンク。そしてきよきよ先生の鑑賞前・観賞後の感想必見!映画を観た後に読んで、とてもためになった。 最後に、もう一度、紀元前700年ころに書かれた旧約聖書イザヤ書のことば・・・ 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 旧約聖書 イザヤ書 53:2~8
2004年05月11日
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日曜日の礼拝プログラムのほぼ終わりの時間帯に、献金(あるいは奉献)というプログラムのあるキリスト教会は多い。 形式としては、毎週、その時間に、自分で定めた額の献金を神さまに献げる。献金を献げるための袋が前の席から回ってきたり、教会によっては、参加者が教会に着いた時に、あらかじめ一人一人に封筒をわたしておいて、献金の時間に回収したり、あるところでは、長い棒付きの袋を持つ担当の人がいて、前から長椅子を一列ずつ回ってくるところなど、そのやり方はさまざま。教会によっては、礼拝の時間の献金の時間を設けず、教会堂に献金箱を設置しているだけのところもある。 多くの教会で、献金の時に、その説明がされるように、教会への入場料や、その日、語られた聖書のメッセージに対する聴講料や、メッセンジャーに対する謝礼、あるいは、そのお金を献げることでお願いごとをするという性質のものではない。ましてや、罪の赦しをお金で得るようなものではない。また、決して強制ではなく、自由意志によって献げられるべきもの。 小さい時から教えられてきた献金の意味は、感謝と献身。つまり、神さまが与えて下さった愛と恵み、十字架の救い、与えられた自分の命、環境に対する感謝のしるし。いただいた祝福(収入)の一部をお返しすることで、それら祝福すべての出どころが、主であることを確認する時。そして、イエス・キリストを信じ、受け入れた今、イエスさまの命という高価な犠牲によって買い取られた自分は、神さまの所有あることの表明、つまり、自分の全身全霊も、意志も、希望も、もはや、神さまに属する者であるということの確認と告白も含まれてくる。「我が持てるものは 主よ汝がもの・・・」「いともよきものを 君に献げよ・・・」「みな献げまつり 我がものはなし ときわに御旨にしたがいまつらん 我献ぐ みな献ぐ 御前に 主よ 我みな献ぐ・・・」「かくも妙なる愛を知りては 身もたましいも ことごと献げ・・・」お金も、自分自身も、明け渡しますから、きよめて用いていただきたい・・・この数年間で、どんどん献げる対象、手放す対象が広がっていった。お金 能力 自分の全身全霊 意志 重荷(思い煩い 悲しさ 問題) 不必要な感情 憎しみ 神さまに献げ、手放し、所有を移すことは、それらはすでに自分の所有ではなく、神さまに属する物事であることの確認、そして、お金や問題の多少は、決定的な悩みや心乱されることとならず、かえって、それらからフリーにされていることの告白(または切なる願い)。 2か月ほど前だったかな、牧師先生が「礼拝の本質」について、簡単に話して下さった。本質というよりは、原型だったかな。 「礼拝の原型」 旧約聖書にさかのぼれば、それは、祭壇で生けにえを献げることなんだって。 うんうん、確かに出エジプト記やレビ記の礼拝の規定は、天幕の配置などに始まり、どんな時に、どんな動物を、どのように生けにえとしてほふるかが、こと細かく定められている。 今、読んでいる歴代誌でも、ダビデやソロモン、また南ユダ王国の人々が礼拝を献げたことが記録されているが、そこでは、常に、生けにえが献げられているなぁ。 この「生けにえ」の話が、ずぅっと頭に残っていて、ことあるたびに思い出されてきて・・・。生けにえが捧げられる場所が祭壇。新しい契約の時代にあっては、最後のアダムがほふられた十字架こそがその祭壇。そして、ある日の礼拝の献金の時間、この「生けにえ」と「献金」がぴたっと結びついた。「生けにえ」が今の「献金」にあたるんじゃないかなって。アブラハムのように、最も大切なものを献げ委ね、与えられることを体験する場所。同時に、イサクのように、全身が献げられることを体験する場所。古い自分と自我が十字架でつけられる体験・・・古い自分が、なだめの供え物キリストともに煙を放って燃やされる場所・・・一度死んで復活して出ていく時間・・・席上献金を廃止したら、献金の額が増えた、なんていう教会の話を聞いたことがあるけれど、礼拝プログラムの中に献金が置かれている意味って「生けにえ」かなって。(私的解釈なのかもしれないけれど)献げることの深さを教えられた気がした。
2004年05月09日
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聖書のことばには力がある。力があるといって、単に文章を書き写しても、何の役にも立たないし、ただ唱えたとしても、何の意味がない。(*注1)聖書を枕にしてみても、頭に毛が生えてくるわけでも、内容が頭に入って来るわけでもない。ページをちぎって食べてみても、暗記できたり、病気が治るわけではなく、消化されて(されないまま?)出てくるだけ。古くなって捨てたからと言って、ばちが当たるわけでもない。(*注2)聖書自体に、神々しい力があるわけではない。ならば、いったいどんな力か。聖書は、神の霊感によって書かれた。神のことばが、聖書記者を通して、この世のことばとして記述された瞬間、至高のことば、ロゴスは霊なるものから、肉なる形をとる書物・文字となった。聖書を、文学作品、歴史書、神話、物語、知恵の書、律法の書、自己啓発(プラス思考)の書、マネジメント手法の書、として読み解くこともできる。しかし、それは、神の霊感によって書かれた本来の目的を果たさない。それらのアプローチは、冷凍された食品を、あたかも冷凍されたまま、外側から観察し、そこから何かを導き出そうとする行為に過ぎない。外から見える色や形、素材など、ある程度は垣間見ることができる。しかし、その食品が持つ本来の味、におい、風味、つまり本質を知ることはできない。何より、そのままでは食べることができない。聖書も同様、霊によって書かれたことばが、我々の目・耳を通し内に入ってくる時、それはまだ、人の理性や思考のレベルの認識・理解に過ぎない。聖書の本来の持ち味は隠されたままだ。本来の姿・目的を得るためには、解凍される必要がある。何によって解凍されるか。それは、神の霊によって。神の霊によって書かれた書物は、神の霊を媒介として読み解かれてはじめて、単なる文字から、本来の神の生きた力あることばとなる。頭の中の思考や認識、記憶にすぎなかったものが、霊感によって、神の思い、ロゴスへと解凍・復元され、我々を実際に救い、内側に聖い心をつくり、生かしはじめる力として作用し始める。 イエス・キリストしかり。2000年前、神の御子は、肉、すなわち人の姿をとって、この世に生を受ける時とされた。人と同じ肉体を持ち、同じことばを話し、同じ食事をし、まったき人間として、この地球上で生活された。人の目で見るならば、ダビデの末裔とはいえ、落ちぶれた貧しい大工ヨセフの息子であり、自らが選んで任命した弟子に裏切られ、売られ、逃げられ、自分で自分を弁解することも、救うことさえできず、十字架刑によってあっけない一生を終えた、一人の惨めなユダヤ人に過ぎない。しかし、神の霊によって、このお方の本質に目が開かれる時、彼の貧しさ・弱さ・惨めさと思える中に、真の富・強さ・栄光を見るようになる。聖霊が人に臨む時、神の霊感は、人をして彼を「生ける神の子キリストです」「本当にこの方は神の子であった」と告白させる洞察力を与える。 聖霊によって、聖書にふれよ。聖霊によって、この人を見よ。霊の目を開かれよ。 初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。 ヨハネの福音書 1:1 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネの福音書 1:14 聖書はすべて、神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 テモテへの手紙第二 3:16 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、 たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 ヘブル人への手紙 4:12 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには、神の力です。 コリント人への手紙第一1:18 この人を見よ この人にこそ こよなき愛は 現されたり この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ 賛美歌121番 「まぶねの中に」 4節(*注1) 聖書書写や聖書朗読という分野も存在する。それは、書くという動作、声を出して読むという行為を通して、心の奥に聖書のことばをたくわえる意味がある。その動作の中に聖霊が臨む時、その聖書理解はより深いものとなる。聖書の奥深さを知るための手段であって、それ自体に力があるわけではない。(*注2) だからといって聖書をぞんざいに扱っていいということにはならない。クリスチャンであるならば、あえて粗末に扱うことはないだろうが、必要があって捨てざるを得なくとも呪いもばちなどあり得ない。ただし、聖書に対する姿勢は、神さまに対する姿勢と密接な関連を持つことが多いと思われ、聖書を粗末に扱うことが、結果的に自ずと神さまから遠ざかることになることは予想される。
2004年05月08日
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ここ1年くらい、ちょっと注目させられていること。それは、主イエスさまの、そして聖書の 「間」の取り方。 たとえば、マルタとマリアの話。イエスさまが、わざわざ大好きなこの姉妹に会うために、その村に立ち寄られた時・・・マルタが、イエスさまをもてなそうと心を騒がせ、働きすぎることを諫めるだけなら、マリヤがみもとに座り、マルタが仕事に取りかかろうと席を離れようとした、まさにその瞬間、鶴の一声で、「ちょっと待った! よい方を選びなさい」って、注意できたはず。でもね、主イエスさまは、しばらく、そのままにされてるんだよね。いよいよマルタがいらいらして、堪忍袋の尾が切れるまで。表現は正しいか分からないけど、その時まで、ほっとかれているようにも思えて。(マルタも、癇癪をそのまんま、イエスさまにぶつけらるって、ある意味、うらやましいな。それだけ、親密な関係だったっていうことでしょ。ポイントはずれていたけど、イエスさまなら、場を収拾してくれるはずっていう思いと確信の現れだよね。) たとえば、ガリラヤ湖を船で移動中のあらし。主イエスさまは、ぐぅぐぅ、寝ていらした。いよいよ弟子たちがパニックになって、イエスさまをたたき起こすまで。 きっと、それぞれのレッスンに、最もふさわしいタイミングと感情の状態まで、待たれたんじゃないかなぁって。ちょっと悪い表現を遣えば、相手を泳がせているっていうか・・・。 かつては、聖書の物語の、その箇所の行動だけを取り上げて、安直に評価を下していたような気がする。 忙しいマルタが悪い ・・・ どんな時もイエスさまを選ばなきゃ すぐに信頼を失い、恐れる弟子たちは信仰がうすい ・・・ 動じない信仰を持たなくっちゃ というように、たいてい裁きの目、上からの視点で、教訓的に聖書人物を見、自分に適用しようとし過ぎていたかもしれない。 聖書箇所から、すべきこと、してはいけないことを学び取ることそれら自体は、とっても大切な考え方であり、必要な動機や修正なんだけど・・・必要以上に自分をきびしく裁いたり、神さまが取り扱われる「時」が来ていないのに「直そう」としていた部分もあったかもしれないなぁ。 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、 世の悲しみは死をもたらします。 コリント人への手紙第二 7:10 このみことばを読んでどきっとした。 決まりや律法を、頭の理解、善悪の評価「だけ」で判断する時、相手や自分に対する裁きと後悔だけで終わってしまう。でもね、神さまが設定された計画の「時」に、神さまのふさわしい「方法」と「配慮」で、間違っていた部分が正されていくことってあるんじゃないかなって。そして、それは「責め」だけではなくって、「愛」と「配慮」に満ちた方法。だから、それは「悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」るんだって。 すごいなぁ。 なんて言うんだろう。たとえば、赤ペン添削。そこでは、点数、すなわち結果ではなく、正解に至るまでのプロセスが重視される。間違いは間違いとして指摘するし、点数をつける時もあるだろうけど、「間違いは悪だ」という評価ではない。励ましを混ぜながら、レベルに応じて、なぜ、どこで間違えたのか?など、正解へのプロセスを提示する。途中から間違ってしまった場合、テストでは「×」か「△」で評価されるだけだけど、添削では、到達した分は到達したものとしてみなしてくれる。間違えても、懇切丁寧な修正ペンのコメントで、真っ赤になればなるほど、自分が大事にされていることを感じさせさえする。間違いも、決して無意味でないことが分かると、正されることも、ちょっとうれしかったりするから、それをちゃんとバネにして、次へのステップにすることができる。 たとえば、少年サッカー教室や少年野球教室。現役Jリーガーや、プロ野球の有名監督が来てくれて、じきじき、手取り足取りフォームの修正や、コーチしてもらったら、子どもたちは、もう感激ものだよね。「あの○○選手に指導してもらったんだ! ひじの部分を、実際につかんで教えてくれたんだ!」「○○監督が来て、コーチしてくれたんだよ!」マルタもマリヤも、弟子たちも、きっとそんな経験をいっぱいしたんだろうなぁ。イエスさまから近づいてくださって、最もふさわしい時に、最もふさわしいレッスンを、直接に与えて下さったんだろうなぁって。(ちょっと、いや、かなりうらやましいぞ) 聖書の記述の中には、直接的な「勧め」や「警告」もあるだろうし、それに目を留めることも、とても大事なこと。でも、同時に、聖書人物がどのように、イエスさまや神さまの思いに触れられて、何を学び、どのように軌道修正させられたり、いやされたり、立ち直ったりしていったか、そのためにイエスさまが、また、神さまが、どんな配慮を示されたということにも注目して、聖書をひもといていきたいって思ったんだ。 マルタや嵐の弟子たちの話の場合、イエスさまは、数分単位の間をおかれ、待たれた。いろんな聖書人物は、数年、時に数十年間かけて、取り扱われた。それを神さまは、ちゃんと待ってくださった。父親は、弟息子がぼろぼろになるのを知りながら、出ていくのを止めず、本人が痛いレッスンを受け、自らの意志で帰ってくることまで、それを信じ、待った。救い主がお生まれになる時が満ちるまで、千年単位の時が流れを、主なる神は待たれた。そして、この世を滅ぼすのに、時が来るまで、救われる魂の数が満てるまで、数千年の間をおいて待ってくださっている。聖書は、神さまの愛と約束がつまった、そして実際に新しい命と救いと、現実に罪に対抗する力と、自分に対する変化を与えてくれるすばらしい霊の書、そして神さまは、そのことを行うのに必要な「時」と「状況」を備えて下さるお方なんだなぁ。
2004年05月07日
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人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。 証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、 ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。 新約聖書 使徒の働き 7:57~58、 8:1 イエスの死後、キリスト教が広まり始めた最も初期に起きた、最初の殉教の記録。十字架の死と復活のあと、イエスは弟子たちの目の前で、雲に包まれて天に帰っていった。残された弟子たちは、いつ逮捕されるか、という不安におびえながらも、イエスの指示通り、エルサレムにとどまっていたが、五旬節(ペンテコステ)という祭りの時期が来た時、約束通りの聖霊を受け、通りに出ていき、イエスの救いを伝え始めた。そして、イエスを救い主と信じるユダヤ人が大勢起こされ、初代教会が形成されていく。一方、イエスを十字架のつけた側の宗教指導者たちは、こうした民衆の動きに恐れを感じ、イエスを信じる者に対する摘発・弾圧に乗り出した。初代教会のリーダーの一人ステパノは捕らえられ、連れて行かれた議会の場で、旧約聖書に示された神の計画・約束と、それを成就したイエスの福音を大胆に語るが、それを受け入れない宗教指導者たちの感情的行動によって、石打ちにされてしまう。こうしてステパノは、聖書に記録される初の殉教者となった。イエスの十字架は、不完全とはいえ、宗教裁判(の体裁)と、ローマ当局の(妥協による消極的)承認を経たものであったが、ステパノの死に関しては、そのような手続きを経ていなかった・・・、いわゆるリンチ・・・。 証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。着物を足もとに置くというのは、手を下した自分に責任はありません、ということを確認する行動。いわゆるリンチであったことから、ステパノに石を下した人々は自らの罪が問われることを心配したかもしれない。(ちょうど、今、某国刑務所における虐待が話題になっているけれど・・・)そして、サウロという青年が、着物を足もとに置かれることを許していることから、全責任を一手に引き受けた様子もうかがい知れる。(このサウロが、のちにパウロになるサウロと同一人物と解釈するのが一般的らしい。)もしかしたら、サウロ自身が、先に、陰で煽動していて、それに従って石打ちに参加した人々が、着物を置くことで「自分たちには責任ないですよね。」という事後の確認をしただけだったかもしれない。いずれにせよ、石打ちに参加した人々は、着物を彼の足もとに置くことで、サウロに責任を転嫁した。責任を誰かに転嫁することで、自らの責任は問われなくなる・・・ イエス・キリストは、十字架で、人類の罪の責任を一手に引き受けてくださった。ことばを変えれば、イエス・キリストは、責任転嫁されるため、クリスマスの夜、この世に来られ、あの日、十字架につけられた。それは、父なる神のご計画であり、イエスご自身の意志。聖書が、神さまが、真の聖さ・義によって、自分の真の罪深さがあぶり出しにされる。この罪が、イエスを苦しめ、傷つけ、十字架につけたのだと。私の罪・弱さ・汚れが、イエスを十字架につけたのだと。イエスは、それを一身に背負いこむことを目的に十字架につかれた。肉体的、そして一時的には父なる神に見捨てられる苦痛を伴いながら、しかし、それは、救いの計画を成就する、そして父のみこころを行うイエスの喜びでさえあった。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。 新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2 神は、聖書を通し、あなたの罪とその責任を、とことん追及する。しかし、それだけではない。ちゃんと解決の道も同時に提示する。それらを抱え込むだけでは、後悔と裁きと死で終わってしまう。ユダは、自分の罪とその責任を後悔し、自分で果たしてしまった。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 新約聖書 マタイの福音書 11:28~30イエスの苦しみ・・・ それは、私の罪とその責任と、その結果・・・ それは重荷・・・ 今、十字架のみもとに来なさい。そして、すべての重荷を投げ出しなさい。あなたの罪も、罪の責任も、罪の結果である滅びも死も、私に投げ出しなさい。あなたの着物を、十字架の足もとに置きなさい。すなわち、あなたの罪の全責任を私に転嫁しなさい。わたしは、その全責任を転嫁されるために、十字架についたのだから。 そこを踏み越えて(文字通り、踏み越えて)、乗り越えることによって、ユダからペテロへの道を歩み出すことができるんじゃないかなって、思わされた次第。 ♪「ゆだねます あなたに (Cares Chorus)」♪ 私の すべての心配ごとを 主にゆだねます どうしていいか 分からなくても ゆだねます あなたに 私の 重荷を 主の足もとにおきます どうしていいか 分からなくても ゆだねます あなたに (トップページのBGM)
2004年05月06日
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大型連休3日目。といっても、土曜日は仕事、日曜日は礼拝だったのでフリー初日。明日(今日の夜)から雨だというので、家族でお出かけ。実は、おととい、車のファンベルトがはずれ(切れたのではない)、とりあえず○ートバックスで取り付けてもらったが、昨日の朝、エンジンをかけた途端、ものすごい異音! ベルトがはずれているのみならず、プーリーというのだろうか、ベルトを巻き付ける円形の金属部品が、所定の場所から抜けているではないか。これは、部品交換が必要。 ということで、この連休は、ぽん家は車なし生活・・・。電車で行けるところということで、和歌山に行くことにした。昼食は、ネットで軽く調べた、駅からバスで5,6分のところにあるラーメン屋へ。昭和20年代創業の店で、中の雰囲気も、なんだか、自分が子どものころの大衆食堂っていう感じ。テーブルはうすみどり色(かっこよくいえばペパーミント色?)の単色、床はコンクリート打ちっ放し・・・ラーメンも、いかにも手作りっていう感じで、おいしかったぁ。帰りは、歩いて駅に向かう。途中、和歌山城があったので寄ってみた。(実は、何も下調べしていなかったので、お城があることすら知らなかった・・・。)入り口が分からず、空堀に降りて登る通路があったのでそこから入っていくと、動物園の裏側だった。(というか、おかげで、動物園があることが分かった。)小さい動物園。ペンキなんかがはげかけた、古びた感じが哀愁をかもし出す動物園・・・。バンビといっしょに。 長男くん、なぜか鼻血出てるぞ・・・フラミンゴに大喜び。 ほんとは、もう少しピンクに見えたんだけど・・・さあ、動物園と、隣接する鳥園の後は、いよいよお城へ。100円タイマーの望遠鏡で。 あれれ、次女ちゃん、どこ見てるの?天守閣の中では、子どもたちがお世話になっている幼稚園に隣接する教会の牧師先生ご夫妻にばったり。岸和田城と和歌山城と、お城のはしごしてるんだって。岸和田なら知り合いに会うかもなんてお話されていたそうだけど、まさか、和歌山でお会いするなんて・・・お城から外を見ていると、だんだん曇ってきた。高いところにあるので、遠くの様子が分かるのだが、だんだん厚い雲が流されてくるのが分かる。ということで、そろそろ家に帰ることに。石垣の合間から大木が・・・ ラピュタみたい?なんだかんだ、あっという間に5時過ぎ。急行と普通電車を乗り継いで、家には6時過ぎ到着。
2004年05月03日
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今日は、聖餐式。キリストの御体であるパンと、新しい契約のためのぶどう酒をいただき、十字架の主を覚える時。教会の礼拝の時間に、最後の晩餐を記念して執り行われる。 主イエスは、渡される夜、パンを取り、 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 イエスは言われた。 「これは、私の体。これを食べるたびに私を覚えなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」裂かれたイエスさまの御体であるパン。裂かれたパンを受け取った時、ちょうど公開の始まった映画「パッション」の予告編シーンが思い出されてきた。イエス・キリストが十字架につけられるまでの12時間を、史実に基づき、忠実に描いた映画。メル・ギブソンが私財を投じ、かつ彼自身が監督をつとめた。メル・ギブソン自身も、ただ一カ所だけ出演しているんだって。それは、イエスを十字架につける際、イエスの手に釘を打ち込む手として。かつて麻薬中毒や放蕩の中にいたというメル・ギブソン。麻薬やアルコールに溺れていた彼が、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れ、彼自身の内に新しい命が入れられた時、イエスを十字架に磔(はりつけ)にしたのは、他でもない自分自身であったことを知った。聖書理解が深まっていくと、十字架の目的、神さまの愛と裁きの意味、自分と十字架の関係が深まっていく。イエスは、自分を救うために十字架にかかって死んで、よみがえってくださった・・・自分の罪のせいで十字架にかけられた・・・イエスを十字架につけて殺したのは、他でもない自分・・・ きっと、メル・ギブソンも、その思いに圧倒されたからこそ、この映画をつくり、そして、釘を打ち付ける手として出演したに違いない。 さて、聖餐のパンを口に入れ、上の歯と下の歯で噛みしめる時、「ああ、これはイエスさまの手に釘を打ちつけることと同じなのだ」と思えてきた。ひと噛みひと噛みが、イエスさまに釘を打ち込み、イエスさまを痛めつけ、イエスさまを苦しめていること・・・主イエスは、茨の冠をかぶせられ、むち打たれ、つばきをかけられ、あざけられ、ののしられ、十字架につけられた。それは、アダムに始まった全人類の罪を、最後のアダムとなり処理するため。この私の罪をも処理するため。 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 旧約聖書イザヤ書 53:5主イエスの懇願、それは、「さあ、私に茨の冠をかぶせ、むちで打ち、つばきをかけ、ののしり、手に釘を打ち付けよ」ああ、そんな、恐れ多いです・・・それでも、主は言われる。「さあ、遠慮せず、それをせよ。そうでなければ、あなたはわたしと何の関係もない。 さあ、遠慮せず、それをせよ。それによってのみ、あなたは罪赦され、命を得ることができるのだ。 それによって、あなたの打ち傷がいやされ、命得ることが、私の目的であり、望みであり、喜びなのだから。」ああ、イエスさま、ごめんなさい、ありがとうございます・・・涙ながらに、ただあなたの十字架の愛とあがないを覚え、主のお体と御血をいただく。だって、それをすることが主の喜びなのだから。主が最も受けてほしいと思われた愛を受けとることに他ならないのだから。 ♪ 両手いっぱいの愛(こどもの賛美) ある日 イエスさまに聞いてみたんだ どれくらい ぼくを愛してるの? これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは だまって ほほえんでる もう一度 イエスさまに聞いてみたんだ どれくらい ぼくを愛してるの? これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは やさしく ほほえんでる ある日 イエスさまは答えてくれた 静かに 両手を広げて その手のひらに 釘を打たれて 十字架にかかってくださった それは ぼくの罪のため ごめんね ありがとう イエスさま それは ぼくの罪のため・・・ ごめんね ありがとう イエスさま ごめんね ありがとう イエスさま 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 旧約聖書 イザヤ書 53:2~8主よ、あなたの愛の力で、この心を満たしてください。アーメン!
2004年05月02日
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