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今日の聖書日課の箇所は列王記第二25章。第一&第二と続いた列王記の最終章。 北王国に続いて南王国も滅びた。かつては、悲しいだけだった記事。でも、今回は、悲しいことは悲しいのだけれど、うまく表現できないのだけれど、一抹の希望が感じられた。なんていうんだろう、確かにエルサレムの滅亡は滅亡なのだが、神さまは、来るべき日に「新しいエルサレム」を計画されているがゆえに、心を痛め、涙を流しつつも、エルサレムが陥落することを、ユダが滅びることを許されたんじゃないかって。一度、死ぬことで、新しくつくりかえられる希望・・・ かつてエジプトで奴隷であったイスラエル。エジプトを脱し、ヨルダン東岸、そして約束の地カナンを導きにより攻め取っていた。異教の民を駆逐し、そして師士の時代を経て、国へと発展。サウル・ダビデ・ソロモンと統一王朝が続き、繁栄と栄華を極めたイスラエル。南北に分裂し、たびたびの神さまの愛の警告にも関わらず、双方とも、姦淫や不貞になぞらえられる偶像礼拝の罪に陥ってしまい・・・。 今日、古いエルサレムが、敵に攻め取られ死んだ。でも、まだ終わりではない。まだ、その日は来ていないけど、「新しい天の都エルサレム」が再建され、神さまを信じ崇める民が集められ、神さまと永遠に共に住む日が、来るのだから。 聖書人物も、いろんな死を経験している。ペテロも、パウロも、イサクも、モーセも、エリヤも。(実際の死ではないけれど)みな、失敗や挫折を経て、神様に取り扱われ、ある時に生まれ変わった。ただただ、神さまがつくりかえてくださったことの証だ。そして、イエスさま。イエスさまは、罪も過ちも犯されずに、十字架にかかられて亡くなられ、3日目に死からよみがえられた。イエス・キリストを信じる私たちには、復活と永遠の命の希望がある。 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、 私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、 必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちが もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、 私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きて おられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスに あって生きた者だと、思いなさい。 ローマ人への手紙 6:4~11 バプテスマ(洗礼)を受けた時、古い自分が水によって死に、新しい命の歩みをはじめた。そして、この肉体の死を通し、新しい永遠の命、朽ちない体をいただくことができるのだ。キリスト者にとって、死は、希望にあふれた命の入り口に過ぎない。 主にまみえる日と、天のエルサレムに憩う日を、ただ待ち望みつつ・・・。
2004年03月30日
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今日は次女ちゃんの卒園式 あっという間の3年間 大きくなったね お姉ちゃんになったね おめでとう 次女ちゃん かみさま かんしゃします 続けて次女ちゃんの歩みを守り 祝福してください ♪ これこそ愛 ♪ ぼくたちの だいすきな イエスさまは どんな時も そばにいて 守ってくださる 苦しいことがあっても イエスさまは ぼくたちを 愛しているから 助けてくださる ぼくたちは イエスさまから 愛をたくさん受けたのだから 友だちをたすけてあげたい これこそ愛 ぼくたちは イエスさまから 愛をたくさん受けたのだから みんなにも分けてあげたい これこそ愛 卒園式の中で次女ちゃんたちが歌ってくれた歌 とってもすてきで感動したよ ずっとずっと忘れないからね 1年間お世話になった先生とあやめ組の教室の前で
2004年03月20日
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(3月14日の)朝の礼拝メッセージに続き、午後はサンド先生の「よりよい夫婦(人間)関係のために」というお話。 聖書は創造の話から始まる。そして、創造の物語は、天地創造にはじまり、男女の創造と夫婦関係に関する深い知恵のことばでしめくくられる。 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 創世記 2:24 健全な夫婦関係の3要素1 父母を離れる2 結び合う3 ふたりは一体となる まず、「結び合う」について「結び合う」 = 2枚の紙がボンドで貼り合わせられ1枚の紙のようになるというのと同義語 ・いったん貼り合わせられたものを、無理矢理はがそうとすると双方が傷つく=ダメージのない離婚はあり得ない ・自分と配偶者の間は、隙間のないもっとも近い存在。間に何事をも差しはさんでならない。 仕事も、出世も、子どもも、友人も、夫婦関係の間に入れてはならない。 (しかし、これは夫婦の一生の課題。大切だけど、簡単じゃない作業。)サンド先生のお父さんは家を空けることが多かった。帰宅するたび、お母さんを真っ先にハグハグ。その姿から、暗黙のうちに、「君たちのことは、とっても大事。でも最も大事なのはお母さん。」というお父さんの心持ちを教えられたという。愛の結晶、本来、喜びであるはずの子どもであっても、夫婦関係の間に持ち込むことで問題の原因にさえなりうる。「結び合う」 それは、成熟した愛 忠実であることの約束 一生を分かち合う決心によるもの本物の愛は、相手を思い、相手を喜ばせることが、自らの喜びとなる具体的な行動を伴うもの 意志によるもの 恋愛・恋、つまり感情レベルの愛と別物それは、相手を思っているつもりで自己中心? 消えたり、冷めたりするもの恋を出発点とした関係であっても、愛を育んでいくことで、愛し合うことができるようになる。 しかし、本物の愛の困難さ 「具体的に愛する方法が分からない」 「分かっているけどできない」そこで、モデルとして神の愛を、聖書のうちに見てみる。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 コリント人への手紙第一 13:4~6 (時間の関係で、5節の、4つの表現をピックアップ)・礼儀に反することをせず 夫婦・家族の中で、愛し合うからこそ礼儀をおろそかにしない。 ・あいさつ ・感謝、お礼 = 「相手に認められている!」「できた!」「必要とされている!」という感覚を与える。 「力」の欲求を満たし、もっとそうしたいという気持ちを培う。仕え合う原動力に。 ・お詫び 完璧な人はいない。 言ってはいけないことば、すべきでない態度・振る舞い・・・ 近しい間であればあるほど、失敗も多く、大きなダメージを与えてしまう。 そして、最も近い人間関係は、夫婦関係・・・。 「礼儀」が堅苦しさ? それは、愛のない礼儀(=空っぽ・中身がない)しか知らないから? 愛を土台・媒介にした礼儀は、愛と喜びと親しさを増し加え、喜びを生み出す。 ・自分の利益を求めず 夫婦に限らず二者の関係のあるところに3つの人格。 自分の人格、相手の人格、関係という人格。 想像の見えないチョークで書いた輪に、一時的に二人で入り、自分自身の欲求ではなく、 二人の関係をよりよくするためのことを話し合ってみる。 「何が夫婦関係によいことか?」「夫婦関係のために、自分は何ができるか?」 特にどちらか一方が傷ついている場合、ふつうの会話では、対立・緊張・非難・責めの構図になること多々。 二人の輪で話し合うことで、双方が「今の状態をどうすればよいか」という観点で話し合える。 = 傷ついた側も、傷つけてしまった側も、建議的に話せる状態がつくり出される。 (ひとりごと・・・ win win solution 両者が勝者みたいかな?) ・怒らず 「怒る」とは、いらいらの爆発。 それまでのくせ、習慣を持った二人が、突然、一つ屋根の下で生活。 双方とも、相手を変えたくなる本能。 しかし、相手を変えることは不可能。 変えたいと思い続ける時に、ちっとも変わらず、惨めになるだけ。相手には抵抗を引き出すだけ。 本当の愛は、ありのままを受け入れる。 人のした悪を思わず 会計用語で、「帳簿につけない」の意味。 つまり、心のノートにつけない 最も近いけれど、それがゆえに最も傷つき(傷つけ)やすい、それが夫婦関係。 「赦す」とは思い出さないこと。 心のノートが未解決の思いでいっぱいだと、けんかの際、そこから引き出され、収拾がつかなくなる。 引き出すものがなければ、心のノートさえなければ、トラブルの際、その時の問題だけを冷静に話し合うことができる。本当の愛、それを積極的に表現すべき。想像力を働かせ、ことば・態度などを駆使して愛の表現! 神さまは、ケチな方ではない。その大きな愛を与えたくって仕方がないお方。「神さま、その大きな愛をください。それでこの心を満たしてください!」と神さまにお願いし、助けていただく経験。 貼り合わせられる関係、結び合わされる関係。愛する決心と、父母を離れて初めて可能。この2つの要素は切り離すことができないもの。「父母を離れる」離れることで、健全な親子関係に。距離的に離れていても、頼りにしているのが親であれば、離れていない。たとえ同居していても、夫婦関係を第一とする時、父母を離れている。心のへその緒をしっかり切ることで、健全な夫婦関係に。 「二人は一体となる」肉体的な関係。聖書は、クリスチャンの体を「聖霊の宮」と呼ぶ。体が神の宮ならば、教会でこそ体のことを正しく話すことができる。聖書のいう関係は、体だけの関係でなく、すべてを分かち合う関係。思い・感情・喜び・悲しみ・夢・希望・成功・失敗・・・・・・向き合い、話し合う必要。体だけの関係ではない。つまり、「一心同体」。体・心・霊において一体となる。夫婦関係という人格を育てること、それは奥義。ことばで表現することが難しい関係だけど、経験することのできる祝福。三つの要素によって、健全な夫婦関係を築くことができる。その内の一つでも病んでいるなら、健全とはいえない。不健全な部分を直視し、直面する必要。 最後の「。」聖書のいう夫婦関係の大原則はこれでピリオド。この「。」にも意味がある。子どもへの言及が全くないことは、子どもがいようがいまいが夫婦は夫婦。子どもは結婚の祝福に加えて与えられる「かもしれない」祝福。子どものいないことを離婚の理由とすべきでない。 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 夫婦についての、この神さまの深い知恵を身につけて、お互いを高め合う夫婦関係を築いていける。 メッセージはここで聞ける!
2004年03月15日
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今日の礼拝は、和歌山の海南ルーテル教会のビョルグ・サンド先生のご奉仕。ヨハネの手紙第一 4:10~11から「愛されて愛していく」というタイトルでのメッセージ。 ある看護士は、精神的障害をもった赤ちゃん(主に0歳~3歳)のケアをしているという。先天的な問題でなく、環境によって引き起こされた問題を持つ赤ちゃんたち・・・。親のほとんどは、子供を愛せないか、愛していてもその表現を知らない・・・。 人間にとって、愛は必要不可欠なもの。愛を受けること、愛を与えること、それは人の本能的欲求。DNAにすり込まれているもの。 そして、愛を受け入れることも、愛を表現することも、学んでいく必要がある。(はじめから、できるわけではない。)愛のお手本は神さま。なぜならば、神さまの本質が愛だから。神さまの愛の特徴1 すべての人が対象 例外はない2 永遠の愛 たとえ、あなたの状態がどんなであっても、愛の対象。 たとえ、罪の中を歩んでいても、どんな悪い態度をとろうとも、神さまは心を痛めなさるが、 あなたへの愛は変わらない。3 愛する者と関係を持つためなら、どんな犠牲をも惜しまない 神は聖なる方なので、本来、罪ある者といることはできない。 そしてすべての人は、罪ある者。 時に、罪を喜ぶことさえ・・・ 人の悪口、意地悪・・・ 罪を愛さず、憎み、避けようとしても、それでも、罪からは逃れられない。 つくられた被造物である人の側が、つくり主である神さまとの関係を破壊したのに、 神さまの側で解決の道を提供してくださった。 その方法は、創造主でありながら、被造物にばかにされるという道。 命であり、命の源であるお方が、人の形をとってこの世に下り、十字架で命を提供し、 本来、地獄にいくべき私たちに代わって、死ぬという道。 人を罰し痛めつけるのではなく、神ご自身が痛められるという道。 4 強制なんかしない 神さまは、そんなにあなたを愛し、あんなに犠牲を払ったのに、その愛を無理強いしない。 どんな時にも、無理矢理とういことはない。強制はない。 なぜなら、それほどまで、あなたを愛しているから。 あなたの選択を尊重したいから。 神さまが与えた律法。それはルール。 そのきまりを守ることが、人間関係を最もスムースにするんだけど・・・ あなたが、神さまの愛を受けることを、神様は待っておられる。 神さまの愛から学ぶこと(上の「神さまの愛の特徴」の順番に)1 本当の愛は、感情の問題ではなく、態度・行動の問題。 好きな人は愛せるけど、そうじゃない人は・・・ということはない。 相手の話に真剣に耳を貸し、具体的行動をもって相手に仕えること。 相手を喜ばせることを、自らの喜びとすること。 たとえ相手が敵のような振る舞いをとろうとも(実際に不愉快な行動をとろうと、そう思えるだけの時でも) それを受け取って、同じような振る舞いをしたならば、それはもうあなたが選んだ、つまりあなたの側の問題。 本当の愛は、たとえそんな場合でも、親切な振る舞い・態度をもって接することができる。 すべての人を愛することは不可能。なぜなら、すべての人に会うことはできないから。(そうだよね。笑) でも、本当の愛の原則は、愛する対象を、自分の中から意識的に省くことをしないということ。 (この辺りから、徐々に2に入ってきていて) 本当の愛は、相手の態度いかんに関わらず、行使することができるもの。どんな時も。3 相手のためなら、犠牲さえ惜しまない・いとわない 自分の心を痛め、苦しみを引き受けることが本当の愛。4 強制しない 無理矢理、相手を変えようとしない。変えることはできない! 相手をありのまま受け入れる。これは夫婦関係で直面する困難。 相手を尊重する。これは親子関係で多く生じる困難。 アドバイス・意見は必要。しかし、最終選択は相手の責任。強制しない。 それが、相手を受け入れ、尊重すること。 悲しいかな、相手が近しければ近しいほど、親しければ親しいほど、失敗やそれに伴う傷も大きく深くなる。 相手におわびすること。自分の非を認めること。照れ・恥ずかしさ・ばつの悪さに打ち勝つこと。 好き嫌いレベルの愛は、ともすれば努力でつくり出せるもの。しかし、本当の愛は、神さまから受け取るしか、方法はない。神さまの愛に染まること。本当の愛を求めること。そして、いただいた愛を反射させていく・・・。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、 私たちもまた互いに愛し合うべきです。 ヨハネの手紙第一 4:10~11 午後は、コリント人への手紙第一13:4~6から「よりよい夫婦関係のために」というお話。 今日のメッセージ、あったかくって、とってもすてきなメッセージだったなぁ。特に心に残ったことがふたつ。ひとつは、神さまの愛は、相手の状態がどうであろうと関係なく、心を痛めつつも、すべての人を永遠に愛し続けておられること。その愛をいただくことで、たとえ敵と思えるような人、苦手な人であっても、感情が伴わなくても、意志をいただいて行動をもって愛していく道があるっていうこと。そうそう、サンド先生もメッセージでおっしゃってた。相手を愛することが相手への仕返しだって。もうひとつは、バウンダリー。これはメッセージでは直接語られたことじゃないけれど、メッセージの中で思い出させられたこと。バウンダリーって「境界線」のこと。去年、クリスチャンの何人かのHPで話題になっていたことば。いまいち、ピンと来なかったのだけれど、ここに来て、びたびたびたって、つながってきた。今日のメッセージでは、まず、相手の選択は相手に責任があることを尊重すること。説得や勧告、アドバイスはしても、その先、相手がどれを選択するか、こちらが踏み込んでいけない一線、それがバウンダリー。たとえ相手が悪意をもって接してきても、それは相手がその振る舞いを選んだから相手の問題。しかし、そのけんかを買ってしまうならば、それは自分のバウンダリーに問題を持ち込むこと・・・。 「バウンダリー」ということばこそ出てこなかったけど、不思議とそのことを思わせられ、納得させられたメッセージ。今日も、神さまに大大大感謝! ハレルヤ~ッ! メッセージはここで聞ける!
2004年03月14日
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遠い昔、小さい頃にもらった、白いゴムの固まり。でも、それが何なのか、どのように使うのか、分からなかったので、そのまま、引き出しにしまっておいた。そして、もらったことも、しまったことも忘れて、歳月が流れ・・・ある時、ふとした拍子に、そのゴムの固まりが出てきて、何気に汚れた紙をこすってみたら、なんとまあ、消える消える、消えるではないか。びっくりびっくり。あとで知ったのは、(いや、ほんとは、もらった時に聞いてたはずなのだけれど)、それは消しゴムっていうやつで、鉛筆で書いたものを消す力を持つものだった。 遠い昔、あの方を信じ、心に受け入れた時、もらった力。でも、それがどんなものか、どのように使うのか、分からなかったので、そのまま、心の引き出しにしまっておいた。そして、受けたことも、もらったことも忘れて、歳月が流れ・・・ある時、ふとした拍子に、何気に使ってみたら、なんとまあ、消える消える、悪い思いや束縛が消えていくではないか。変わる変わる、自分がよい者に変わっていくではないか。びっくりびっくり。あとで知ったのは、(いや、ほんとは、聖書にちゃんと書かれていて、知ってはいたはずなのだけれど)、それは聖霊っていうやつで、人の内に住み、新しい命を与え、その人をまったく作りかえ、刻一刻と、イエスさまの似姿を形づくる力を持つものだった。
2004年03月12日
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日常生活の中で、いろんな所で標語やスローガンを目にする。 「なかよくしましょう」「信号をよく見ましょう」「ごみを捨てないで下さい」「駐車禁止」「降りる人が降りてから乗りましょう」「手洗い、うがいをしましょう」etc etc・・・・ 本来の目的って、そのポスターや標識などを見て、よいことはもっと心がけるよう、すべきでないことはやめるよう促すもの・・・目の前のポスターなどによって、忘れていたことを思い出し、守れることも、確かにあるけれど・・・ でも、時として、逆の効果を助長していることもあるかもしれないなって思った。(久々に繰り返すけど、わたしゃ、ちょっとひねくれもんでやんす^^) そのようなスローガンやかけ声が多い(多すぎる)場合、その分だけ、実情が伴っていないっていうことを意味してるっていうことないかなぁ? 焼け石に水のような感じっていうか・・・ 「ごみを捨てないで下さい」って書いてあるところに、ごみが山のようになっていたり、「駐車禁止」なのにずら~っと車が停まっていたりする時、変な感じだけど、決まりを破っちゃっても構わないような、そんな雰囲気に引きずり込まれそうになったり。なんて言うんだろう、スローガンがあればあるほど、そのスローガンの意味が軽くなっていくような、うそ臭くなるみたいな、そんな風に感じる時ないかなぁ。(自分だけかなぁ?) 守れたら、そりゃ、理想だけど・・・みんな、守らないから、書いてあるんじゃない?どうせ、できっこないよ! スローガンが建前になっちゃうのかな?慣れっこになっちゃうと、ちょっと、「負けぐせ」みたいな感じ? さてさて、本題はこれから。(前置きが長いって? ) 最近、思わされているのが、自分が、聖書のことばを、そんな風に「スローガン」みたいに扱ってたんじゃないかなっていうこと。 「~しなさい」「~してはならない」聖書には、たっくさん決まりが出てくる。 「汝の敵を愛せよ」「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝せよ」「父と母を敬え」「盗むなかれ」「殺すなかれ」 etc etc・・・・ いつの間にか、「守られればいいな」くらいの感覚に陥っていたかもしれない。教訓っていうか、「いい言葉」として、知っているっていうだけで、そうなっているように錯覚することもあったかも。「自分は罪人です」「それを忘れやすい者です」「そこから、すぐに離れてしまう者です」って、一見、敬虔そうに悔い改めているような祈りをすることで、その実、どうせ守れないしって、自分の罪や弱さを正当化してたのかもしれないな。 かつては、本気で守ろうとしたこともあったかもしれない。でも、それが不可能であると感じてしまった時、選べる道は、少なくとも2つくらいあるのかな。(他にもあるかもしれないけれど)まず、不可能とは分かっていても、それでも、とことん追求する道。でも、本当に気が狂っちゃうかもしれない。悲壮な道だなぁ。どこまで行っても満足も終わりもない。100点満点になれないのを知りつつ、100点を目指すんだから。たとえ99点でも足りない1点がなければ意味がないんだから。決して勝利のない負け戦を続けるようなものだから。次の選択は、どこかで妥協するっていうか、自分をだましだまし進む道。自分の罪や弱さに目をつぶる道。でも、これも本当は気づかないところで苦しくて、悲壮な選択だったんだよね。結局は、聖書の言うハードルを自分勝手に下げたり、守るべききまりを取捨選択したりして、解決できているように感じるだけ。でも、実は、日常生活と信仰生活の間にギャップがあるのをうすうす気づきながらも、見ないふりをしている・・・。 そんな時って、「礼拝に通う」「聖書を毎日読む」っていうような目に見えること、数値化できることに対しては、ものすごく敏感なのに、目に見えない心の中のこと、たとえば相手を憎むこと、男性であればいやらしい思いに捕らわれることなどに対しては鈍感(にならざるを得ず)、どこかで「スローガン」的になってたんじゃないかって。つまり、どこかで自分をごまかしてたっていうことじゃないかって。でも、それじゃ、本当の解決になってないんじゃない?追求しても守りきれないのなら、どうせだめだし、誰も守れないんだったら、あきらめるしかない? ここ1年ちょっとの間、いつからか分からないんだけど、そうじゃない別の選択があったんだって、気づかされているんだ。それは、神さまに働いていただくっていう道。自分でできないから、神さまにお願いし委ねることで、自分に代わってしていただく道。今、それを実感している。自分で言うのも変だけど、明らかな手応え(?)をもって、自分が自分でも驚くほど、変えられつつあることを感じてる。そして、すぐに全部じゃないけれど、少しずつ、一つずつ、気がつくと悪い性質が取り去られている。また、決まりを守りたくて仕方がなくなったり。本当に不思議。かつて、あんなに努力したのにできなかった(やめられなかった)こと、あきらめていたことが、踏ん張っていた時はできなかったのに、お委ねすることを学んだ時から、あれれれれ?って、どんどんできていたり、やめていたり・・・。 聖書には、たくさん「平安」「祝福」「勝利」「解放」「喜び」などということばが出てくる。かつては、ことばの上だけのもの(観念的)だったような気がする。どこか、ピンと来なかったっていうのかな。それがね、「あ、これが、そういうことなのかな」って思えることが、しばしばあるんだ、最近。だから、聖書のことばって、飾りやスローガンじゃない。本当なんだ。聖書の約束も、空想の理想でなくって、本当なんだよね。復活も再臨も、永遠の命も、罪のなわめからの解放も、敵を愛せることも、祈りが聞かれることも、イエスさまのくびきが軽いことも、全部全部、本当なんだ! もう、聖書のことばは、「スローガン」じゃない! 生きた神さまの力あるみことばなんだ!
2004年03月11日
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今日の聖書日課は、列王記第二4章。預言者エリヤの跡を継いだエリシャが行ったさまざまな奇跡が記されている。 1 夫が死に、食べるにも事欠きに子を奴隷にとられようとする未亡人の家。 エリシャが、隣近所から、あるだけの空の器を借りてくるよう命じ、そのすべての器に油が満たされ、 それを売ることで、借金は解消された。(1~7節) 2 自宅の屋上に部屋をつくり提供し、エリシャをもてなした裕福な女性。 エリシャは、その女性に対し「来年の今ごろ、男の子を抱くようになるだろう」と告げ、その通りに。 (8~17節) 3 その男の子が若者となった頃、急死。母親はエリシャに助けを求め、エリシャが祈ることで、その若者は 生き返った。(18~37節) 4 ききんの中、預言者集団は野草などを煮て食べて飢えをしのいでいたが、間違って毒草を摘み、かまにいれて しまったが、エリシャが麦粉をかまに入れると、毒は消えた。(38~41節) そのききんの時、地方から来た祭司が初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。 エリシャが、それを預言者集団に分け与え、食べさせると、それはあり余った。(42~44節) 今日の箇所、何だか、新約聖書を読んでいる感じ。見覚え(読み覚え)のあるようなエピソードばっかり。 一つ目の、空の器を満たす奇跡は、結婚式の披露宴の最中にぶどう酒がなくなった時、イエスさまが器にぶどう酒を満たしたカナの婚礼の奇跡みたい。(ヨハネの福音書2章)二つ目の、子供が与えられる預言は、エリサベツにヨハネの、マリヤにイエスさまの誕生が御使いによって告げられた箇所みたい。(ルカの福音書1章) (あと、旧約聖書の、アブラハムにイサクの誕生が告げられたところとも、だぶってきた。)三つ目の、死んだ若者がよみがえる奇跡は、イエスさまによってよみがえらされたラザロの話のよう。(ヨハネの福音書11章)四つ目の、少数のパンが分け与えられ、あり余った奇跡は、イエスさまが群衆に5つのパンと2匹の魚を分け与えて、その空腹を満たし、余ったパン切れもかご十二個分となった奇跡を彷彿させる。(ルカの福音書9章) 新約聖書を読み、いろんなエピソードを知っている私たちが、この列王記第二4章のエピソードを読んで、デ・ジャビュ(既視感)のような感覚を覚えたのだけれども、そこで、ふと、思わせられたこと・・・。それは、逆に、イエスさまの時代を生きる人々が、リアル・タイムでイエスさまのなさるわざを実際に見たり、体験して、(自分が感じているのと同じように)、「どこかで聴いたことあるような。そうそう、あそこの話」というように、エリシャのエピソードなどの旧約聖書を思い出したんだろうなぁっていうこと。聖書に親しんでいればいるほど、イエスさまこそが、聖書に記されているイスラエルの王であり、救世主を指し示していることが、はっきり分かったんだろうな。そして、律法学者や祭司長たち(の一部)は、そのことに気づいていたからこそ、立場上、認めたくなくて、イエスさまを亡き者にしたくて仕方がなかったのだろうな。 そして、もう一つ、今日の箇所で心に留まったのは、「戸を閉める」こと。空の器を集めたところでエリシャは母と子に、後ろの戸を閉めるように命じた。(4節)息子が死んだ時、母親は父に黙って遺体を、屋上のエリシャ用の部屋のベッドに寝かせ、戸を閉めてエリシャのもとに向かった。(21節)母親に呼ばれ、その家に着いたエリシャは、戸を閉めて神に祈った。(33節)人に見られないように、というだけではない、何かがあるようにも思えて。それが何かは分からないけれど、(もともと無関係かもしれないけれど)、何か気になった表現。
2004年03月10日
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3月4日は、長女ちゃんの誕生日。 4日当日は、都合でお祝いできず、ようやく今日、ぽん家お誕生日恒例のF二家に行きました。長女ちゃん、8歳の誕生日。もうすぐ、小学3年生です。 そろそろ、F二家での、ケーキや店内アナウンスが恥ずかしいお年頃のよう。長女ちゃんにとって、もしかしたら最後であろうF二家での誕生日お祝いです。 長女ちゃん、お誕生日おめでとう! あっ! 長男くんまでろうそく吹いてる~!
2004年03月09日
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今日は、聖餐式。自分の罪のために犠牲になって下さったイエスさまに申し訳ないような気持ちになったり、十字架の死による受難を覚えて、しんみりと暗い気持ちになったり・・・でも、今回は、なぜか「そんなにしみったれていないで! もっと喜んでいいんだよ。」と言われている感じがした。あんまり上手に表現できないんだけれど、イエスさまは、不本意ながら、いやいや十字架についたのではなくって、私を生かすためなら十字架についてもいいという、確固たる愛と意思を持って歩まれたことが伝わってきたから。(もちろん、十字架の受苦を感じてはいけないっていうんではなくて、それは、とても大切なことだけど、そこだけにとどまっていないで、っていう感じかな。う~ん、うまく表現できん)飛行機事故で、ヘリコプターが救助に駆けつけた際、隣にいた人に順番を譲った人が、もう一度、ヘリコプターが戻ってきた時には、すでに力尽きていたという実話がある。もしかしたら、力尽きた人も、力尽きたことは計算外・不本意だったかもしれないし、そうだとすれば、なおのこと、助かった人も複雑かもしれない。かつて青森と函館を結んでいた青函連絡船、洞爺丸に宣教師が乗船していた。洞爺丸は折からの台風で沈没、宣教師は救命胴衣を手にすることができたが、持っていない人に「私はイエス・キリストを信じているので永遠の命があるので大丈夫。だから、これをあなたに譲ります」と、その自分の救命胴衣を他の人に譲ったという。自分の犠牲を惜しまない、あなたに生きてほしい、命を得てほしいという「明確な意思」がある時、その犠牲の意味合いは変わってくるんじゃないかな。犠牲は確かに痛みや悲しみをもたらす部分もあるだろうけれど、相手が助かること、命得ることが、その犠牲に甘んじる人にとっての最大関心事で、大きな喜びでもあるのだから。イエスさまの観点からすれば、あなたに生きてほしい、命を得てほしい、それが最大関心事。あなたが救いと永遠の命を受け取ってくれること、それが最も大きな喜び。私は主イエスの十字架の犠牲により、罪赦され、永遠の命を受けた。主イエスは、私に命を与えるため、仕方なしに、または予期せず、成り行きで十字架につかれたのでなない。「救いの計画」。そう、罪人を救うための完全な御計画。日本人は、ただ受け取ったり、もらったりすることが苦手だということもあるのかな。あえて意識しないと、恵みをそのまま受け取るのに難しいみたい。(お返ししなきゃとか、考えちゃう。) イエスさまは、私に命を与えるためとはいえ、仕方なしに、または予期せず、成り行きで十字架につかれたんじゃない。「救いの計画」。そう、罪人を救うための完全な御計画。イエスさまが自ら進んで十字架の道を選ばれ、提供して下さった恵みと救いだから、喜んで、ただ受けるだけ。そして、そのことを目的に死んだ下さったイエスさまにとって、あなたが救いを受け取ることが最大の喜び。そのイエスさまの気持ちをくみ取る時、「しみったれてばかりいないで、もっと喜んでもいいんだよ」って声をかけられてる気がしたんじゃないかなって思う。放蕩息子のたとえ話で、弟は「あなたの息子と呼ばれる資格はありません。使用人の一人でいいですから雇ってください」と言って父の元に戻ってきた。父は、戻ってきた彼にきれいな服を着せ、指輪をはめ、子牛をほふり歓迎する。父は、戻ってきた弟を、使用人ではなくって、「子」として扱いたいんじゃないかな。なのに、なのに、その父なる神さまの願いとは裏腹に、「罪赦された前科ある者」のような、勝手に不必要な遠慮っていうか、一見、謙遜っぽいけどそうじゃない振る舞いをしてきたんじゃないかなって思わされた。それでも「使用人として置いて下さい」って言い続けるならば、それって「子として扱いたい」し「扱うこともできる」お方を信じないという不信仰ですらあるんじゃないかな。だからね、「子として扱って下さい」って、お父様に近づくことが、大胆に主に近づくことでもあるのかなって。そして、一度は失われたはずの命が、イエスさまの十字架によって命拾いしたのであれば、残された人生を、主にあって、喜んで、積極的に生きていきたいなって。 次女ちゃんが書いてくれた絵。子どもであるってことって、こんなことかなのかなって。こんな風にすなおに、喜んで神さまに感謝をささげたいな。
2004年03月07日
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昨日の聖書一日一章箇所は、列王記第一18章。神の預言者エリヤと異教神バアルとの対決の箇所。北イスラエルのアハブ王の眼前で、真の神に従うエリヤは、神さまの奇跡によって大勝利を収める。 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。(18:39) 一見、めでたしめでたし・・・でも、その18章の最後の部分以降がちょっと気になった。 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。 アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。 「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのように しなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。 (18:45~19:3)まず、はっきりとそうかは分からないけど、王宮のある町までの帰路、北のアハブ王の前をエリヤが走って行ったことは、単に物理的な位置関係だけでなく、この事件を通して、町に戻るまでは、アハブ王はエリヤを通して真の神さまに立ち返っていたんじゃないかなって感じたんだ。つまり、アハブ王は神の預言者エリヤの指導を仰ごうとしていたんじゃないかなって。町に戻るまでの間だけだけど。(あくまで、仮説だけど)ところが、それもつかの間、家に戻ったアハブ王は妻イゼベルの影響で、結局、真の神に立ち返るのをやめてしまったのかな。(もしかしたら、尻に敷かれていた王様だった?)(これも仮説) そして、エリヤは、イゼベルに脅され、すごすごと北イスラエルをあとにする。(牧師の解説では、イゼベルは使者を遣わして警告しているけれど、前触れなしにエリヤを亡き者とすることができたはず。でも、脅して国を去らせる方が、真の神さまになびきかけている民を引き離すのに効果が大きいと計算したからじゃないかって。) こうしてエリヤは、人生最大の困難に対する勝利を収めたかと思った途端、一転、情けない姿をさらすことになってしまった・・・。 はじめは、昨日のカルメル山の大勝利という大きな経験をしたのにどうして? 情けないなぁ・・・なんていう思いもしたけど、でも、それって、かなり上から見下ろす観点だよね。大成功があったからって、信仰にはずみが付く場合もあるけれど、逆にもっと大きな経験を求めたり、それまで耐え忍んできた緊張感がくずれてしまうことだってあるんだ。出エジプトの時、目の前の海が陸に変わり、絶体絶命のピンチを脱したイスラエルの民が、直後にはつぶやき始めた。ダビデがサウルを討ち取れるという絶好の機会を得つつ、神に立てられた主君だという理由だけで剣だけを持ち去ったけれど、翌日、彼はサウルのもとを立ち去り、ペリシテに住み着き、一時期は盗賊団になり下がってしまった。よく分からないけど、必ずしも成功とか、大きな体験のあとって、物足りなさがあるのかもしれないな。(ちゃんとした結論っていうわけじゃないけど) ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。 彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。 「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから。」 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、 「起きて、食べなさい。」と言った。 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。 彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、 「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブ に着いた。 (19:4~8) こうして命からがら、逃亡生活に入ったエリヤ。そんなエリヤに、神さまはなお、深いご配慮を示される。絶望のエリヤ。しかし、神さまは御使いを送り、人間のもっとも基礎的な必要である休憩と食べ物を与えられた。こうして、エリヤは力を得、導かれ、ホレブの山にたどり着く。 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。 主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。 エリヤは答えた。 「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、 あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、 彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」 すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。 しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 (19:9~12) 神さまがモーセにが十戒を授けた神の山ホレブ。ここで、神さまはエリヤにも直接、声をかけられた。激しい大風地震火不思議なわざが立て続けに起きたが、その中には、主はおられなかった。 そして 「かすかな細い声」・・・唄野絢子さんが、ある英語の聖書の訳としてこんな話を紹介して下さった。その英語聖書では、この「かすかな細い声」の部分を「sound of sheer silence」って訳しているんだって。つまり「完全な沈黙」。 マルコ4:39のイエスさまが波を静めたもうた箇所の「大なぎ」といっしょなんだって。ここでね、讃美歌358番「主よ終わりまでつかえまつらん」の3節を思い出したんだ。 ♪ しずかにきよき みこえをもて 名利のあらし しずめたまえ 心にさわぐ 波はなぎて わが主の御旨 さやに写さん イエスさまに、波を静めていただいて・・・まったき静寂の時、湖の水面が鏡のようになって景色を映し出すように、我が心が静められ鏡のごとくなり、そこに主のご本心が映し出されるなんて、なんともすてきなことじゃない?! そう。完全な沈黙の瞬間。神さまと人の思いが全く一致する瞬間。二者で一つの思いを喜んで共有できる瞬間。神さまの前に静まること・・・成功や大きな経験があれば、もっともっと神さまに従えるようになるんじゃないかなって、かつて思っていた。でも、そうとは限らないということも、ここ数年の自分の体験からも教えられている。成功によって、逆に、神さまに頼らず済んでしまうんだもん。時に、天狗のように自信過剰になってしまったり、高慢になってしまったり。逆に、挫折や試練は、時に意気消沈させられるだけのものともなり得るけれど、そこで、自分の無力さを知り、神さまに頼るしかないことを学ぶことができるならば、それはそれは、すばらしいレッスンじゃないかな。 神さまの前に、真に静まること・・・絶頂のあとのどん底・・・自分より優れた、頼るべきお方を知り、お任せし、働いていただくこと。そのために、そのことを学ぶために、神さまは、ちゃんと手順を踏まえ、必要なできごとや環境を用意しておられるように思えて。神さまの前に真に静まるための過程として必要な苦難であり、試練。そう。この経験を通して、古いエリヤは完全に死んだんだ。それが、「かすかな細い声」「sound of sheer silence」「完全な沈黙」そして、この時から、新しい力、新しい命がエリヤを突き動かし始めた。 一見、大成功・大勝利を収め、自分を滅ぼそうとしていた王が自分のことばに耳を傾けようとし、すべてがうまく行ったかのように思えた矢先の挫折と絶望。でも、これも、神さまの不思議なご計画だったんだ。事実、ホレブの山で、神さまの御前で、主の御臨在と、心の静寂・沈黙と、主の思いとの一致を与えられたエリヤに、神さまは次の指示と、それに必要な力を与えられている。すごいなあ、指示だけでなくって実行するモチベーションまで与えられてる! 本当に神さまって、すごいなぁ。 神さまに砕かれる時、痛みはあるかもしれないけれど、格好は悪いこともあるかもしれないけれど、それは、とってもすばらしいことなんだなぁ。 神さま、みこころのままに、砕き続けて下さい。あなたの御前に、完全な静寂を与えて下さい。あなたとの交わりを、もっともっと深めさせて下さい。 あなたのみこころをキャッチし、映し出す者として下さい。あなたの御思いを行う者として下さい。 みことばに感動しつつ、主に感謝しつつ・・・
2004年03月03日
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