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栗田隆子「ハマれないまま、生きてます」(創元社) 創元社の「あいだで考える」という叢書を。ボチボチ読み継いでいます。で、今回は栗田隆子さんという方の「ハマれないまま、生きてますーこどもとおとなのあいだー」です。 著者の栗田隆子という人が、どういう人で、何をしてるのか、とかいう疑問は、まあ、この本を直接手に取ってみるか、ネットとかで調べてみればわかるでしょう。 で、ボクが読み終えて、一番気に入ったのはここです。「私は今のところ独り暮らしである。物書きが主な仕事だが、それだけでは食べていけないので近所の幼稚園でお掃除のアルバイトをしている。 中略 また、主な仕事は庭の掃除だが草むしりや時々植物の植え替えなどもやる。先日はコスモスを植えた。頼りなげに見えて結構しぶといコスモス。花を植えてお金がもらえるなんてうれしい仕事だ。それこそ花なんてどうでもいいと言わんばかりに各地で戦争や内乱があり、またホームレス状態の人を寝かせないために花(花壇)を使って人を排除したりするような自治体や組織もあるからなおさら、ただ花を植えられるなんて貴重だ・・・・。」(P164) この本は、「おとな」とか「こども」とか、枠を作ることで、まあ、安心したり、がんばったり、不安になったり、焦ったりしているのが現代社会ですが、そこに「ハマれない」ことに、苦しんできた栗田さんの実体験報告書と言っていいと思いますが、その末尾あたりに、「生産者・消費者から分解者になる」と題したこの文章で、ダンゴムシの生き方を求めるこんな文章があって、いいなと思いました。 日々の、あるいは社会全体を覆っている息苦しさから、そっと逃れ出て見つけた、彼女のいい方でいうと、「深呼吸できる場所」の発見! ですね。 本当は、ハマっていると思い込んで暮らしている時にこそ、ちょっと、深呼吸してみることが大事な気がします。50歳を過ぎて、まあ、最後の勤め先になった職場には、海の向こうに淡路島とか見える屋上があって、時々ボーっとあくび?、深呼吸?、をするために上っていたことがあったことを思い出しました。ハマれなくても、大丈夫ですよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.30
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ジャン=ステファーヌ・ソベール「アスファルト・シティ」キノシネマ神戸国際 退職して、映画を見始めて数年たちますが、ショーン・ペンという俳優さんが最近のお気に入りです。この前見た「ドライブ・イン・マンハッタン」では、ニュー・ヨークの、実に渋いタクシー運転手でしたが、今度は救急救命隊員らしいというので、梅雨明けとかで暑いうえに、人込みも予想される土曜日ですがキノシネマで見ました。封切り二日目でしたが、映画館は空いてました。見たのはジャン=ステファーヌ・ソベールという監督が、シャノン・バークという作家の体験作品を映画化した「アスファルト・シティ」です。 舞台はニュー・ヨークのハーレムでした。医学部入学を目指し受験勉強をしている、コロラドだかの田舎から出てきて、安アパートで暮らしている青年クロス(タイ・シェリダン)くんが、なんと、新人救急救命隊員として、オロオロしながら働きはじめるシーンから始まりました。 つまらない感想かもですが、日本では考えられない受験勉強ですね。アメリカやなあ・・・! と感心しながら映画が始まりました。 で、受験生のクロス君は、一癖も二癖もありそうですが、実は腕利きのベテラン隊員、ショーン・ペン扮するラットさんとコンビを組んで、現場が始まります。 現場はハーレムです。凄いもんですね、犯罪、薬物中毒、移民、貧困、ホームレス、入れ墨だらけの黒い肌、黄色い肌、アフリカ系、南米系、アジア系、ばあさん、おっさん、妊婦さん、おニーさん、そして子供。白人だと見分けられたのは、助ける方の関係者ばかりだったのも印象に残りました。 映画は、若くて、素直で、多分、理想主義者のクロス君の「理想と現実とのぶつかり合い」あるいは、「仕事と人生との葛藤」との出会いを、受験勉強、女性との私生活、そして壮絶な現場という、錯綜するシーンと、暗いBGMを重ね合わせることで、クロス君のこころのなりゆきとして描いているニュアンスで、実に重苦しくて、息苦しい印象の映画なのですが、秀作!だと思いました。 それにしても、若い、新入りの相棒、クロス君に対して、孤独な生活を送っていることをさらけ出し、一方で、あの9・11の現場について、自嘲的に語るラットを演じるショーン・ペンはさすがでしたね。「生きることは、かくも哀しい」 人の命を、危機一髪で救う仕事をしながら、いや、そういう仕事をしているからこその、孤独と自己欺瞞にさいなまれて果てるラットの姿の中に、若いクロスくんが「前を向いて生きる契機」 を見つけ出す姿を描こうとしたかに見えるジャン=ステファーヌ・ソベール監督に拍手!でした。 おしまいのテロップでしたが、実際に、この映画のお仕事をなさっている人たちが自ら命を絶つという現実があることがうったえられていて驚きました。命がけで人の命を救うお仕事に携わっていらっしゃる方たち自身が、社会から追い詰められているという気持ちになられてしまう「今」という時代に、その理由はあるのでしょうか。映画の中で、ショーン・ペンが見事に演じていた「孤独」な救命士の姿を思い浮かべなおしながら、クロス君が、無事、生き延びてくれることを祈るばかりでした。監督 ジャン=ステファーヌ・ソベール原作 シャノン・バーク脚本 ライアン・キング ベン・マック・ブラウン撮影 ダビド・ウンガロ美術 ロバート・ピゾーチャ衣装 ステイシー・ジャンセン編集 サー・クライン キャサリン・マッケリー音楽 ニコラス・ベッカー カンタン・シリャックキャストショーン・ペン(ラット)タイ・シェリダン(クロス)ベンガ・アキナベ(バーディス)ラケル・ネイブケイリー・リースマイケル・カルメン・ピット(ラフォンテーヌ)キャサリン・ウォーターストン(ナンシー)マイク・タイソン(バロウズ)2023年・125分・R15+・アメリカ・イギリス合作原題「Asphalt City」2025・06・28・no096・キノシネマ神戸国際no35追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.29
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「詩 楽しいライト・ヴァース 世界編」(河出書房新社) 今日は、こんな本あるよ!の案内です。市民図書館の新入荷の棚にありました。詩集です。「ライト・ヴァースって?」と尋ねられると、ちょっと返答に困りますが、詞華集とかいう言い方で集められている詩とか、言葉遊びとか、ダジャレとかも含む短い詩とでもいえばいいでしょうか。 とりあえず具体例をあげますね。ハリー・グラハムという、多分、20世紀初めころのイギリスの詩人の詩です。 やむをえず ハリー・グラハム ゆうべ女房をころしてしもうた 床にごろりとのばしてしもうた 息の根とめるにゃしのびんかった いびきをとめにゃ眠れんかった で、下に載せたのがもとの英語の詩です。 NecessityLate last night I slew my wife,Stretched her on the parquet flooring;I was loth to take her life,But I had to stop her snoring! 本書の編集者のお一人として名が挙がっている柳瀬尚紀さんが訳されています。 上に貼った、この本の表紙には谷川 俊太郎、柳瀬 尚紀、窪田 般彌、池内 紀、藤井 昇、桑名 一博、米川 良夫、池澤 夏樹、渡邉 一考という、まあ、そうそうたるお名前が並んでいますが、今日、案内しているこの詩集は書肆山田という出版社から1980年ころ出版された「世界のライト・ヴァース(1~5)」という5巻シリーズの詩集を、1冊にまとめて、今年、2025年の5月に河出書房新社が再刊した本のようです。 電車の中で、ぼつぼつ読むのに最適です。 空 壷井繁治空を眺めて一日暮らした空の中には空だけあったとか、 世界がほろびる日に 石原芳郎世界がほろびる日にかぜをひくなビールスに気をつけろベランダにふとんを干しておけガスの元栓を忘れるな電気釜は八時に仕掛けておけ とか、出てくると、懐かしくて、電車の窓から遠くを見ながら、ちょっとボーっとしてしまいますね。一応、本書の目次代わりに原著の題と編集者を貼っておきます。「世界のライト・ヴァース(1~5)」書肆山田1巻「ゆうべ女房をころしてしもうた」 柳瀬尚紀(英文学)編訳19822巻「なげきぶし風の墓碑銘」 窪田般彌(仏文学・詩人)編訳19813巻「魔女様御優待乗車賃無料」 池内紀(ドイツ文学)編訳19824「太陽の半分と月の全部と」 藤井昇(ラテン文学)・桑名一博(スペイン文学)・米川良夫(イタリア文学)・池澤夏樹(作家)編訳19825「神様も大あくび」 谷川俊太郎(詩人)・渡邉一考(編集者)編1983 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.28
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イ・ジョンピル「脱走」キノシネマ神戸国際 題名は「脱走」ですが、所謂、脱北を描いた韓国映画という興味で見ました。イ・ジョンピル監督の「脱走」です。 上の写真はチラシで、下の写真は劇場の入り口でいただいた写真カードです。走っている彼が、南北の軍事境界線を警備する北朝鮮の軍曹ギュナム(イ・ジェフン)くんです。 で、こちらが下級兵士ドンヒョクくん。二人の脱北者を追いかける、ギュナムの幼馴染で、保衛部少佐のヒョンサン(ク・ギョファン)くんです。 皆さん、韓国では人気の方のようです。日本映画の男前にはそう思わないのですが、韓国とか、中国とか、そういえば最近見たタイとかの映画にも、若い男前が出てこられるのですが、「男前やなぁ~!(笑)」 と、素直に感心しますね。なんでなのでしょう? お話は、タイムリミットが2日間。で、ギュナム軍曹とヒョナムくんは、ヒョンサン少佐の目を盗んで軍事境界線を目指し、「自由な世界」への決死の脱出行にいどむのでした。「走る!走る!オレーターチ♪」と、鼻歌をうたいたい気分で見終えたのですが、感想は「青春映画やん(笑)」 でした。山あり、谷あり、悲哀あり。面白かったです。 ちょっとネタバレですが、まあ、もちろん、主人公は自由な世界にたどり着くのですが、彼がそこで選んだ仕事というのが、ちょっと笑えるような、やっぱり、もの哀しいような結末でした。 北の、いかにも、そうだろうなというニュアンスが強調してに描かれている「全体主義」の社会に対して、個人の意思を尊重している「デモクラシー」の社会として描かれている、南の、だから、ボクたち自身の社会でもある「自由社会」も、なんだかもの哀しく見えてしまうのは、ボクが老人だからなのでしょうかね。 そういう意味では、なかなか鋭い時代感覚が描かれている気がしました。イ・ジョンピル監督に拍手!でした。 ついでですが、そういえば、1950年に始まった朝鮮戦争は75年後の今も、まだ終わっていないんですよね。なんとなく忘れてしまいそうですが、韓国の映画とか文学とか、見たり読んだりするとき、そのことは忘れちゃいけない気がしました。監督 イ・ジョンピル製作 パク・ウンギョン脚本 クァク・ソンフル キム・ウグン撮影 キム・ソンアン美術 ベ・ジョンユン編集 イ・ガンヒ音楽 タル・パラン挿入歌 Zion.Tキャストイム・ギュナムイ・ジェフンリ・ヒョンサンク・ギョファンドンヒョクホン・サビンソン・ガン2024年・94分・G・韓国原題「Escape」2025・06・21・no093・キノシネマ神戸国際no34追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.27
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イ・ヨソプ「プロット 殺人設計者」109シネマズハット 韓国版のエンターテイメント映画という興味だけで見ました。主人公のヨンイル君を演じているカン・ドンウォンには見覚えがありましたが、さて、どんな映画で見たのかは、もちろん分かりません。 で、彼が率いるのは殺人を請け負い、標的の事故死を仕組む、殺しの設計者集団というお話で、クライム・サスペンスというわけでした。 まあ、もともとこういうタイプは好きなのですが、面白かったですね(笑)。 金で殺人を請け負い、あたかも事故であるかを、いかに作り上げていくのか、だからまあ、見どころはまず、「殺しのプロット」です。「殺しのプロット」が解き明かされていくわけですが、自然な事故死でしかないように見える現場の見掛け上の展開の中に、「人為」が如何に仕組まれていたのか?! を見せていく描き方が、なかなか面白いですね。 見ている心理としては、で、次の種明かしは?なのですが、しかし、この映画全体は、実は「心理サスペンス」だったことが、展開を追うにしたがって明かになっていって、実にワクワクでした。 見掛け上の現場に騙されていたのは、「殺しのプロット」の天才的設計者であるヨンイル君自身だったのではないかという展開で、見ているこっちは、「ええー、そうなの?」というわけで、ジワジワと不安のような、期待のようなものがこみあげてきて、グループの最古参の女性メンバーであるジャッキーが、はじまりのころに言い放った「見えるものしか信じない。」 というセリフがだんだん光ってくるんですよね。 ヨンイル君は、「疑い」という、心理的な「落とし穴」に落ち込み、見えている世界を見損じるという致命的な失敗を犯してしまって、自滅の道を歩んでいるんじゃないか、もう、見ているこっちが疑心暗鬼でした(笑)。 で、騙さていたのは誰で、騙していたのが誰だったのか。 もちろん、騙されていたのは見ていた、見ていたボクなのですが、実は、もう一人いたんですね。 いやー、騙していたのが誰かということも併せて、ナカナカよくできていましたよ(笑)。拍手!でした。 実は、劇場にはチラシはもうなくて、こんなはがきというか写真をいただきました。きっと、人気の俳優さんなんでしょうね(笑)。監督・脚本 イ・ヨソプ撮影 ファン・ギソク美術 チョ・ファソン パク・ギュビン編集 シン・ミンギョン音楽 キム・テソンキャストカン・ドンウォン(ヨンイル)イ・ジョンソク(チャンヌン)イ・ミスク(ジャッキー)イ・ヒョヌク(ウォルチョン)タン・ジュンサン(ジョムマン)イ・ムセンキム・ホンパ(チュ・ソンジク)キム・シンロクイ・ドンフィチョン・ウンチェ(チュ・ヨンソン)2024年・99分・G・韓国英題「The Plot」2025・06・23・no094・109シネマズハットno61追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.26
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ルーナ・ルーナソン「突然、君がいなくなって」シネリーブル神戸 毎週、一回か、二回は必ずやってくる映画館が二つあります。一つは元町映画館、もう一つはシネリーブル・神戸です。 大学生で、映画館しか行くところがなかった50年前には元町映画館という映画館はありませんでした。その当時、元町商店街には、通称「元映」という名画座がありましたが、今はありません。シネリーブル・神戸は、当時は朝日会館という封切館でした。それぞれの映画館に、数年前から通い始めたのですが、それぞれの映画館で見た映画の数が、今年、2025年に、それぞれ300本を越えました。「シマクマくん、そうやって、映画を見ててどうするの?」「いやー、とりあえず、1000本見たいなという気持ちで。」「なんで、1000本なの?」「弁慶が1000本集めたのが、まあ、彼は999本で、義経に出会ったんですけど、ボクもなんかに出会えるかなって(笑)」 で、本日、シネリーブル316本目はアイスランドの、多分、50歳にはなっていない監督、ルーナ・ルーナソンという人の「突然、君がいなくなって」でした。「私を秘密にしたまま、恋人が死んだ。」 チラシにあるコピーの文句ですが、美術大学の学生であるウナちゃんには、同級生で、一緒にバンドをやっているディッディ君という恋人がいて、彼には故郷にクララちゃんという、もう一人の恋人がいて、「別れてくるよ。」と出発した日に、そのディッディ君が死んでしまいます。 二人の女性と、バンドとかの仲間たちがディッディ君の「突然の死」に残されて、さて、どうするのか、というのが映画の筋書きでした。 困ったことに、見ているこっちは、傷心のウナちゃんに「いつからタバコなんか吸っているの?」 という、頓珍漢な質問をするお父さんより、もう20歳くらい年上で、「で、どうするのかなこの子たち?」 という、ある意味、冷たい目線の老人なわけでしたが、ウナちゃんとクララちゃんが、降霊会だか、だから、たぶん葬儀の会場から抜け出して、教会の前で、一緒にタバコを吸い、コンテンポラリー・アートを否定するクララちゃんにウナちゃんがアートの真髄を披露して、空を飛ぶ! 体験を実感させるシーンがあるのですが、この映像に至る以前に、空にそびえたつ教会の全景をなぜ移さないのか訝しんでいた老人は、ここで、初めて全景が映し出され、見事に「空を飛ぶ」シーンが構成されるのを見て、拍手!、拍手!で、納得!でした。 アイスランドのレイキャビクが舞台ですが、その自然、、教会、登場人物たちのしぐさや、表情、とどのつまりは、女性の公衆便所でのトイレのシーンに至る(笑)まで、映像勝負に徹している! という印象の画面がいいですね。セリフによるストーリーの説明がないのも好印象でした。 残された二人の女性の結末を、見ている老人に「自然」だと思わせるのは映像の力でしょうね。監督に拍手!でした。 監督・脚本・製作 ルーナ・ルーナソン製作 ヘザー・ミラード 撮影 ソフィーア・オルソン美術 フゥルダ・ヘルガドッティル衣装 ヘルガ・ロス・ハナム編集 アンドリ・ステイン・グズヨンソン音楽 ヨハン・ヨハンソンキャストエリーン・ハットル(ウナ)グンニミカエル・コーバー(グンニ)カトラ・ニャルスドッティル(クララ)バルドゥル・エイナルソン(ディッディ)アゥグスト・ウィグム(バッシ)グンナル・フラプン・クリスチャンソン(シッギ)2024年・80分・PG12・アイスランド・オランダ・クロアチア・フランス合作原題「When the Light Breaks」2025・06・24・no095・シネリーブル神戸no316追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.25
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グラハム・フォイ「メイデン」元町映画館 元町映画館の受付あたりにいつもいるのおにーさんが、「若い人が見て、いい!って言ってましたよ。」とおっしゃて、その言葉に誘われて見ました。 カナダだかの、若い監督グラハム・フォイという人の「メイデンThe Maiden」という作品です。 見終えて立ち上がろうとしたときに、いつも元町映画館でお出会いする女性と目が合って、ちょっと手を挙げると「わかりました?」「メイデンって、冥土とかと関係あるんですかね?」「イヤぁ~、それはないでしょ。英語だから。」「でも、半分、冥土の話のような。」「そういえば、そうでしたね。」 まあ、要するに、あの世とこの世というか、生と死というか、二つの世界の重ね合いを描いていたようなのですが、・・・・?でしたね(笑) ローラー・ボードとか、川遊びとか、闇の中、迫ってくる機関車とか、ああ、最後に出てくる黒猫とか、なかなかいいシーンはたくさんあるのですが、ザンネンながら、老人は映画が「物語」として描いているらしい思春期の少年少女の友情、孤独、喪失の哀しみにはたどり着けなかったようで、演じている少年、少女たちにも、なんというか、いまいちピンとこないというか、はまれなかったですね。 まあ、見ているこっちが、思春期なんて忘れちゃっているジジーだからかもしれませんが、どっちかというと、若い監督の自意識過剰に、ちょっと笑いそうでした。 ガンバレ!グラハム・フォイ!でしたね(笑)監督・脚本 グラハム・フォイ撮影 ケリー・ジェフリー美術 エリカ・ロブコ編集 ブレンダン・ミルズキャストジャクソン・スルイター(カイル)ヘイリー・ネス(ホイットニー)マルセル・T・ヒメネス(コルトン)カレブ・ブラウシエナ・イー2022年・117分・カナダ原題「The Maiden」2025・06・17・no091・元町映画館no306追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.24
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パット・ブーンニティパット「おばあちゃんと僕の約束」シネリーブル神戸 タイの監督の映画だということと、ここのところ何本か立て続けに見ている「老人映画」らしいということで見ました。お客はオバーちゃんばっかりでした(笑)。 見たのはパット・ブーンニティパット「おばあちゃんと僕の約束」です。原題は「Lahn Mah」で、邦訳すると「孫とオバーちゃん」らしいですが、オジーちゃんが見た感想では邦題はくどい!ですね(笑)。 主人公のエムくんが、ムイちゃんというやり手の父方の従妹がオジーちゃんの末期の世話を看護師だか、介護士だかのコスプレまでして、死んでいくオジーちゃんを喜ばせて、莫大な遺産をせしめたという話に、じゃあボクも! というわけで、一人暮らしのオバーちゃんの家に押しかけて、二人暮らしを始めます。オバーちゃんには孫のエム君の浅知恵はお見通しで、「お前も遺産めあてかい?」 とか、何とか言うセリフで二人の暮らしは始まります。 ゲームおたくのアホ孫と、市場でおかゆを売って三人の子供を養い育ててきて、余命宣告をされた、しっかり者のオバーちゃんとの「終わりの日々」 に何が起こるのかという、まあ、実に今風というか、ありきたりというかの映画でした。 で、拍手!でしたね。 「お金」が勝つか?「人間」が勝つか? まあ、子供や孫にとってジーちゃん、ばーちゃんの存在価値なんてものは、何を残すか、であって、えらそうな御託を並べてみても、ただの老害でしかないという、いってしまえばありきたりなテーマだったのですが、まあ、ボクがジーちゃんだからかもですが、胸打たれちゃいましたね(笑)。 街に出ても、映画館に行っても、ウロウロしているのは老人ばっかりで、ふと、ビルのガラス窓に映る自分自身の姿もあきらかに老人だということにがっかりする日々です。 で、歩きながら思い浮かべているのが孫の誕生日のプレゼントのことだったりするわけで、映画の中のばあちゃんと孫という二人のやり取りも、「人間」が勝ったよな! と、見ている老人を励ましてくれるかのラストも、涙腺の、やたら緩くなった徘徊老人を笑顔にしてくれる作品でした。 この監督、なかなかやりますね。拍手! バカ孫のエム君を演じるプッティポン・アッサラッタナクン君も、オバーちゃんのメンジュさんを演じるウサー・セームカムという女優さんも、笑顔がとても印象に残る作品でした。拍手! 「秋が来るとき」とか、「テルマがゆく」とか、ここのところオバーちゃんの映画ばかり立て続けに見ていますが、演じている老女優さんたちには目を瞠りますね。皆さん、頑張ってください!監督・脚本 パット・ブーンニティパット製作 ワンリディー・ポンシティサック ジラ・マリクン脚本 トサポン・ティップティンナコーン撮影 ブンヤヌット・グライトーン編集 タラマット・スメートスパチョーク音楽 ジャイテープ・ラールンジャイキャストウサー・セームカム(メンジュ おばあちゃん)プッティポン・アッサラッタナクン(エム メンジュの孫・僕)サリンラット・トーマス(シウ メンジュの長女・僕の母キアンサンヤ・クナコーン(キアン メンジュの長男・僕の伯父)ポンサトーン・ジョンウィラート(スイ メンジュの次男・僕の叔父)トンタワン・タンティウェーチャクン(ムイ エムの父方の従妹)タジリヒマワリ(レインボー メンジュの孫・キアンの娘)2024年・126分・G・タイ原題「Lahn Mah」2025・06・16・no090・シネリーブル神戸no315追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.23
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フランシス・フォード・コッポラ「メガロポリス」キノシネマ神戸国際no33 フランシス・フォード・コッポラ監督が「ゴッド・ファーザー」で登場したのが1972年です。ボクは18歳で高校生でした。なんと、半世紀以上も昔の事なんですね。 ボクにとっては、人生の最初の映画体験の思い出の一つが「ゴッド・ファーザー」で、最初に名前を覚えた俳優がマーロン・ブランドなわけで、そのコッポラ監督の最新作が公開されています。「メガロポリス」ですね。 コッポラ監督は1939年生まれだそうで、今年86歳だそうです。で、この「メガロポリス」という作品はどうしても撮りたかった映画らしくて、私財を投じて作ったらしいですね。 で、見ました。ははは、コッポラは、やっぱり、コッポラでした(笑)。 映画の底に流れる合言葉というか、コンセプトというかは「時よとまれ!」のようで、なんといっても、カエサル君(アダム・ドライバー)が時を止めたシーン は、まあ、高いところがお嫌いな方なら余計に、ちょっと唸っちゃうくらい壮観で、見ごたえありました(笑)。 もっとも、なんで、彼にそれができて、それにどんな意味があるのかとか考え始めると「はぁー・・・・?」 なんですけどね(笑)。 一応、映画の設定は未来社会なのですが、そこがコッポラというか、ボクがそう感じただけなのかもしれませんが、目の前で展開するシーンが、妙に既視感=どこかで見たことある気がする、にあふれていたのが不思議というか、ある意味カンドー的で、「ああー、コッポラ、集大成やな。ポケットにあるもん、みんな出してるんかな?」としみじみしてしまいました。 映画の筋書きというか、展開というかは、話が大きすぎて、そのうえ、カエサルだのキケロだのという、歴史的固有名詞があふれていて、なおかつ、登場人物たちの人間関係が錯綜していて、たとえば、多分、闇社会の顔役で登場したダスティン・ホフマンが、いったい何をしたのか「わけわからん!」と、俳優が俳優だけにポカーン!でした(笑)。 まあ、そういうわけで、ラストシーンで伝えられるコッポラのメッセージらしき言葉でようやく「ナルホド、そういうことですか!?」 なわけで、それでも、コッポラに拍手!でしたね(笑)。 ボク自身は、コッポラの映画って、実は、分からないまま好きみたいな作品が多いので気にならないのですが、人によっては酷評でしょうね。まあ、そこがまたコッポラらしくていいんですけど(笑)。監督・製作・脚本 フランシス・フォード・コッポラ製作 バリー・ハーシュ フレッド・ルース マイケル・ベダーマン撮影 ミハイ・マライメア・Jr.特殊撮影 ロン・フリック美術 ブラッドリー・ルービン ベス・ミックル衣装 ミレーナ・カノネロ編集 キャム・マクラクリン グレン・スキャントルベリー音楽 オスバルト・ゴリジョフキャストアダム・ドライバー(カエサル・カティリナ)ジャンカルロ・エスポジート(フランクリン・キケロ)ナタリー・エマニュエル(ジュリア・キケロ)オーブリー・プラザ(ワオ・プラチナム)シャイア・ラブーフ(クローディオ・プルケル)ジョン・ボイト(ハミルトン・クラッスス3世)ローレンス・フィッシュバーン(フンディ・ロマイーネ)タリア・シャイア(コンスタンス・クラッスス・カティリナ)ジェイソン・シュワルツマン(ジェイソン・ザンデルツ)キャサリン・ハンター(テレーザ・キケロ)グレース・バンダーウォール(ウェスタ・スウィートウォーター)クロエ・ファインマン(クローディア・プルケル)ジェームズ・レマー(チャールズ・コトペ)D・B・スウィーニー(スタンリー・ハート)イザベル・クスマン(クローディン・プルケル)ベイリー・アイブス(ヒューイ・ウィルクス)マデリーヌ・ガルデラ(クローデッタ・プルケル)バルサザール・ゲティ(アラン・ガザジャン)ロミー・マース(女性レポーター)ヘイリー・シムズ(サニー・ホーム・カティリナ)ダスティン・ホフマン(ヌッシュ・“ ザ・フィクサー”・バーマン)2024年・138分・PG12・アメリカ原題「Megalopolis」2025・06・20・no092・キノシネマ神戸国際no33追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.22
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内藤正典・三牧聖子「自壊する欧米」(集英社新書) 毎日フラフラ徘徊している老人は、ここのところ「パレスチナ」、とりわけイスラエルが、その領土内のガザに対して繰り返している殺戮行為、まあ、ボクはイスラエルが今までやってきたことは無差別大量殺戮だと思っているわけですが、そのジェノサイドの事が気になって、少しづつですが読んでいる本の一冊がこの本です。 内藤正典というトルコという国やイスラムの人々の暮らしの専門家と三牧聖子という今のアメリカの社会思想の研究者の対談本で「自壊する欧米」(集英社新書)です。 「ガザ危機が問うダブルスタンダード」という副題がついていますが、イスラエルのガザに対するジェノサイドに対して、例えばアメリカ大統領だったバイデンは口では平和を希求するかの発言をしながら、なぜ、ジェノサイドには目をつむり、武器の援助を続けているのか。あるいは、今年封切られた映画で選挙が話題になっていますが、2023年、バチカンのフランシスコ教皇が、ハマス、イスラエル双方の行為に対して「戦争ではなくてテロ行為である」と断言し即時停止のアピールをしているにもかかわらず、ヨーロッパのキリスト教諸国が、イスラエルに対して「攻撃中止!」を呼びかけることさえしないのはなぜか。 まあ、そういう、アメリカやヨーロッパ諸国の「二枚舌」政治の現状についての緊急対談というわけで、2024年の4月、ちょうど1年前に出版された本です。 お二人の話からわかってくるのは、第二次大戦後、世界平和の理想によって作られてきたはずの国際連合とか、国際司法裁判所とかいう機関が、作ったはずのアメリカやヨーロッパ先進(?)諸国によって、軽視、無力化されている今の世界の、あまりにも無残な姿に、読みすすめて行くのが、とても疲れる本でした。 大統領がトランプに代わったアメリカで、なぜ、ハーバード大学が弾圧されているのかなんてうことの理由も、まあ、読み取ることができるわけで、うっとうしいですが、世界の現実に興味のある方にはおススメです。 で、ボクが「ああ、そうなのか!」と納得したところを、まあ、たくさんあるのですが、一つだけ紹介します。「リベラルが崩壊する時代のモラル・コンパスを求めて」と題された最終章、三牧聖子さんの論評です。イスラエルのジェノサイドを問う裁判 2024年1月中旬、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のラマラにあるネルソン・マンデラ広場に南アフリカの国歌の大合唱が響き渡った。南アフリカは今、パレスチナ人にとって、一つの希望となっている。 イスラエルがガザ全土で展開してきた軍事行動は、1月14日に100日を迎えた。この時点でガザ市民の犠牲は2万4000人超にのぼり、そのうち1万人超を子どもが占める。この空前絶後の破壊と犠牲への抗議として多くの国でパレスチナ連帯デモが行われてきたが、ついに2023年12月末、南アフリカが動いた。イスラエルの軍事行動は、ジェノサイド条約が定める「ジェノサイド」にあたると国連の司法機関である国際司法裁判所(ICJ)に訴えたのだ。ジェノサイド条約は、第二次世界大戦中に進行したホロコーストへの反省を背景に、1948年、国連で採択された。ジェノサイドを「国民的、人種的、民族的または宗教的集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われた行為」と定義し、国際法上の犯罪と位置づけ、締結国に防止と処罰を求めている。南アフリカがICJに提出した84ページの訴状は、イスラエルがガザのパレスチナ住民2万人以上を殺害してきたことに加え、必要物資の輸送を阻害し住民を強制移動させていることなどを詳細にに記載し、「イスラエルによる行為と不作為」は「パレスチナ人の国民的、人種的、民族的または宗教的集団の相当部分を破壊することを意図しており、大量虐殺的な性格を持つ」と述べている。 改めてなぜ地理的にもガザから遠く離れた南アフリカが、パレスチナ人の命と権利のために戦うのか。そこには冷戦時代に遡る歴史的経緯がある。 イスラエルが建国され、多くのパレスチナ人が居住地を追われて難民化した1948年は、南アフリカで白人支配者による黒人に対するアパルトヘイトが確立した年でもある。イスラエルは西側諸国と共に、南アフリカの白人政権の戦略的なパートナーとして、アパルトヘイトを強力に支持し、その存続を支えた。ネルソン・マンデラが率いた反アパルトヘイト運動とは、南アフリカの白人政権のみならず、このような国際的なアパルトヘイトとの戦いだった。長い闘争の果てにアパルトヘイトの撤廃を実現し、1994年、すべての人種が参加した選挙で、同国初の黒人大統領となったマンデラがこう改めて強調したことはよく知られている。「パレスチナ人にも自由が与えられなければ、私たちの自由も完全ではない」(P252~P253) 1948年の意味ですね。第二次世界大戦後の世界の姿を歴史的に見直すことの必要性ですね。シオニズムのイスラエルと、アパルトヘイトの南アフリカ、それぞれの地域で「自由」を奪われている人は誰で、それはそんな理由によるのか。そういう問いを、きちんと考えていくことの大切さです。 皆さん、ハッとしませんか?(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.21
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王兵(ワン・ビン)「青春 — 苦 —」元町映画館 ワン・ビン監督の「青春 三部作」の第二部、「青春 — 苦 —」を見終えました。226分! 途中で休憩が入る長尺ドキュメンタリィーでした。 農民工と呼ばれている出稼ぎ労働者たちの「労働」の実態! が、賃金の支払い、賃上げ交渉、経営者の夜逃げ、経営者が逃げた後始末、カメラは、職工だけでなく、経営者とその家族、同じ町で暮らす親戚の発言や物腰を撮り続けます。少年工が走ればカメラも走ります。「こんなところは撮るなよ。」 という言葉をかいくぐるようにしてカメラは回り続けます。 帰郷を前に、自分自身の帳簿を失ってしまった少年が、スマホに撮っておいた帳簿の写真を見せるのですが、「そんなものは証拠にならない」と半年分の給金の支払いを拒絶され、帰郷の旅費さえままならず不貞腐れています。 仕事と集団生活に疲れた少女が、家に帰りたいと同郷の、多分、同じ街で商売をしているらしい親戚のおじさんに頼み込もうとして、けんもほろろに無視されて、ほっぽり出されてしまいます。 少年への支払いを拒絶した社長だったか、別の社長さんだったか、借金に追われて夜逃げします。残されたミシンの売却が年配の従業員と買い取り業者の間で相談され、ミシンが消えて人もいなくなった作業場が映ります。「かーえりたーい♪ かえれない♪」 そんな歌が流行っていた時代がありましたよね。帰ったって、電気もガスコンロもない、もっと貧しい家があるだけなんです。 これがグローバルと呼ばれている現代世界の実態です。お金持ちの国々で、子供たちが、無邪気に遊んで泥んこになってもお母さんたちが気にもかけない、安いミッキーマウスの子供服はこうして出来上がります。農民工と呼ばれている、この少年や少女たち。子連れで出稼ぎに来て、競うようにミシンを踏んでいる労働者たちが一着数元(1元は20円くらい)で縫い上げている子供服が、いったいいくらで売られているのかボクは知りませんが、この世界が、どこかで歪んでいる!ことは実感します。 これで「青春」三部作を2年がかりですが見終えました。ワン・ビンという監督が、この長大な作品に「青春」という題をつけたことを、改めて考え直しています。中国のどこかでスマホを片手にミシンを踏み続けている少年や少女が、「青春」を生きている世界にボクは生きているのですね。 これからも、この監督の作品が紹介される限り見続けようと思います。見たから何をしようというわけでも、何かができるというわけでもありません。しかし、現実の本当の姿! を記録し続けようという、こういう監督がいるなら、見続けようという老人がいてもいいのではないでしょうか。 この長大なフィルムの中で「青春」を生きている少年や、少女たちに拍手!カメラを回しつづけているワン・ビン監督に拍手!でした。監督・撮影 ワン・ビン撮影 シャン・シャオホイ ソン・ヤン ディン・ビーハン リウ・シェンホイ 前田佳孝 編集 ドミニク・オブレー シュー・ビンユエン リヨ・ゴン2024年・226分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 苦」・英題「Youth (Hard Times)」 2025・05・27・no080・元町映画館no304 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.20
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橋本治「橋本治という行き方」(朝日新聞社) 2019年の1月に橋本治が死んでしまって6年たちます。まあ、その当時でさえ、例えば日本文学科とかの女子大生さんに名前を聞いても「知らない。」というご返事しかいただけなかった方だったのですが、今では「何それ?」ですからね(笑)。「読書案内」とかする意味があるのかどうかなのですが、まあ、いいものはいい!という開き直りなわけで、今回の案内は橋本治「橋本治という行き方」(朝日新聞社・朝日文庫)です。 というわけで、「ボクはいいと思うんですけど、こんなことをいう人も、昔はいたよ。」 というご案内です。我が家の書棚には、この方の出版物が概ねそろっているのですが、ここのところ「言文一致」について、そういえばなんか言ってよな。 というわけで「失われた近代を求めて(上・下)」(朝日選書)とかを探し出して引っ張り出したときに、一緒に落ちてきたのがこの本です。「失われた近代を求めて」の親本が2014年ですから10年前、こちらは2005年ですから20年前の本です。こちらは、今では朝日文庫に入っています。 あの頃、橋本節というか、平気で「わかんない」を連発して、実際、全編にわたって、わけわからないグネグネ論旨なのですが、人気あったんですよね。目次は下に貼りましたが、「なぜ書くか」から「物語の土壌」まで、一編、5ページ弱の「生き方・書き方・考え方エッセイ集」 です。 で、まあ、電車のおともに読み始めて面白かったのが、こういうところでした。 二〇〇一年9・11のウサマ・ビンラディン対アメリカの「戦争」だって、「たった一つしかない正解の座」を賭けて争われているものでしかないと思うから、あんまり関わりたくはない。そういうものは、「たった一つしかない正解の座」を必要とする人間同士だけで争われるべきなのだ。冷戦だってそうだった。「冷戦は終わった」と言っても、その「終わった」の内実は、国によっていろいろだ。負けた側にとってはただ「終わった」だが、勝った側にとっては、「終わった=勝った」なのだ。「冷戦という名のこの戦争」は終わっても、それが「戦争そのものの終わり」にはならない。私にとって「冷静の終わり」は、「戦争そのものの不可能」なのだが、「勝ったからまた勝てる」と思っていれば、「戦争」そのものは終わりえない。「これは新しい質の戦争だ」とも言える。アメリカの「捨てられない強気」はそのせいだろう。空しい。(P34) ボクは、この読書案内を、ひょっとしたら、ほんの数人かもしれませんが20歳くらいの大学生さんとかが読んでいるんじゃないかという、淡い期待を持ちながら書いているのですが、もしも、20歳前後の学生さんとかで、この引用の「空しい。」に共感を感じる人がいらっしゃるとしたら、とりあえず「あなた」はセンスがありますよ!と言いたいですね。 正解がネットの検索の世界にすべて出そろっているかの現代社会を生きている20代の方々の中で、この社会、なんか変だなという実感なしに、この「空しい」には反応できないと思うのですね。 で、まあ、そういう方は、本書に限りません。橋本治とか、ちょっとお読みになってはいかがでしょう。まあ、めんどくさいですけどね(笑)。目次この厄介な「自分」この「作家」という職業この不思議な「距離感」「雑」と教養「貫くもの」を考える「広がること」を考えるこの悲しい「マーケット」この「自分の生まれた国」の文化 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.19
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福原野乃花「悠優の君へ」元町映画館 もう、四十年も昔、女子高生とセンセという関係でお出会いして、今年になってうれしい再会を果たした女性からラインとかでコメントが届きました。 センセ、うちの娘の親友が出てる映画があるんです!いつもいらっしゃっている元町映画館です。ご覧になりました? というわけで、見たのが福原野乃花という監督の「悠優の君へ」です。100人に1~2人がその悩みを抱えていると言われている〈強迫症〉当事者である監督が「もっと多くの人に病気の事を知ってほしい」と作った物語 チラシにこう謳ってあるように、強迫症の少女ゆうなちゃんと彼女の話を聞くことで、お友達になったはるちゃんという二人の高校生の物語でした。 映画の製作意図がチラシの文言のとおりであるとすれば、監督である福原野乃花さんの「思い」が真摯に伝わってくるとてもよくできた作品だと思いました。まったく文句ありません。穏やかで、静かな映像で構成されていて、映画的なセンスがとてもいい! という印象を持ちました。一人でも多くの方に見ていただければいいのにな! と素直に思いました。 で、ここからは、ヒマを持て余している映画オタクで、元高校教員だった徘徊老人の余計な意見です。この作品を「知ってほしい」という監督の製作意図を越えて、ただの「映画」として見たとすると、実は、ちょっと物足りませんでした(笑)。 映画は、心の鬱屈を抱えるゆうなちゃんを、どう描くかという方向から脚本化されたと感じたのですが、できれば、彼女の心の鬱屈を「聞くことができた存在」であるはるかちゃんというキャラクターの内面に迫ってほしかったですね。監督は気づいていらっしゃると思いますが、はるかちゃんはただものではないはずです。 例えば、彼女は、いつもイヤホンで音楽を聴いているのですが、その姿を見ながら映画を見ている老人は思うのです。「この子、どんな曲を聴いているのだろう?」 まあ、そういうところに、はるかちゃんの立体化というか、奥域というかの描写の可能性のしっぽがあるのではないでしょうか。 ボク自身が、映画に出てきた少女たちのような人たちと数十年付き合いながら、心を打ち明けてもらう立場に立つことのむずかしさを、繰り返し感じてきたわけで、友達同士であれ、生徒と教員であれ、人に人として出会うことは至難の業なのですよね。 それにしても、大げさな事件を描くことなく、若い二人の存在の哀しさというか、つらさというか、を明るく描いた監督と、リアルな女子高生を演じきっている二人の女優さん、そして、映画作りに挑戦した若いスタッフたちに拍手!でした。監督・脚本 福原野乃花撮影 宮川眞伍音声 金又玄 白石彪 佐藤遥香サポートスタッフ中村優花 大神ありす 森山綾香 目黒英恵 栗山剛 たかやまはるき 前田晏歌 入江葉音キャスト水崎涼花(悠 はるちゃん)小谷慈(優乃 ゆうちゃん)2023年・58分・G・日本2025・06・15・no089・元町映画館no305追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.18
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岡真理・小山哲・藤原辰史「中学生から知りたい パレスチナのこと」(ミシマ社) 市民図書館の新刊の棚で見つけました。「おっ!中学生向きか、ちょうどええな、きっと!」 まあ、そういう気分で読みはじめましたが、すごい本でした。 ガザ、そしてパレスチナをめぐる問題は、ユダヤ人のジェノサイドが宗教対立でないのと同じように宗教対立の問題でもなければ、ヴェトナムやアイルランド、アルジェリアの独立の問題が単なる土地争いでないのと同様、土地をめぐる争いでもありません。私たちの歴史的無知や忘却に付け込んで、ガザのジェノサイド、そしてパレスチナの民族浄化を、宗教対立や土地争い、あるいは「イスラームのテロ組織」対イスラエルの「自衛」の戦争に還元しようとする言説に対して、私たちか問題の根源をしっかりと見据えなければいけない。 著者の一人、岡真理が書いている「はじめに」からの引用です。「ガザで起きているのはジェノサイドである。」「イスラエルがガザでやっていることは宗教対立が原因ではない。」「土地の占有権の争いではない。」「イスラエルによるガザ攻撃はテロ組織に対する自衛行為ではない。」 このあたりが、今、現実に、イスラエル、ガザ地区で起こっている出来事に対して、概ね、アメリカ経由のニュース報道しか知らないままで「わかっているつもり人々」の、それは、例えば、ボクをはじめとする、なんとなくな大人たちに対して、「それは違いますよ!」と本書で糺している三人の論者たちの発言の要点ですね。 発言者は三人です。一人は、岡真理です。彼女は、確か1990年代に現代アラブ文学の紹介者として登場し、以来、まあ、ボクは「棗椰子の木陰で」(青土社)しか知りませんが、パレスチナをはじめとするイスラム社会をフェミニズムの視点で論じてきた、かなり鋭角な発言が特徴の思想家です。二人目は小山哲という人で、ポーランド史の専門家です。で、三人目が藤原辰史。10年ほど前だったと思いますが「ナチスのキッチン」(水声社)という衝撃的な著書で登場した農業史の研究者です。 で、この本は2024年の2月に京都大学で開催された「人文学の死-ガザのジェノサイドと近代五百年のヨーロッパの植民地主義」と題された公開セミナーで、「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題」という岡真理の講演と、「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ちーパレスチナ問題軽視の背景」という藤原辰史による講演に加えて、ポーランド史の研究者である小山哲がイスラエルにある「ポーランド書店 E.ノイシュタイン」という書店の話を発端に、ポーランドをはじめとする東ヨーロッパ社会とイスラエルのつながりを歴史的に語る文章を基調に構成されています。 で、論じられている要点は、まあ、おおざっぱにいえばですが、かつてエワード・サイードが「イスラム報道」(みすず書房)という著書で指摘した「カバリング・イスラーム=報道することで、かえって隠蔽(カバー)してしまう。」というアメリカをはじめとする西欧社会、当然、日本でも、の「カバリング」の実態の指摘です。 まず、何よりも、イスラエルによるガザ地区の市民に対するジェノサイドの実態の隠蔽を目的としたかの、ハマスによる攻撃についての報道のゆがみ、あるいは、明らかなウソとが世界中に広まっている現状の指摘です。「無差別攻撃で、非戦闘員である女性や子供を殺しているのは誰なのか?」 という実情報告ですね。 続いて、ナチスによるジェノサイドとイスラエルによるジェノサイドを別物と考えたがるヨーロッパのキリスト教諸国のダブルスタンダードの歴史的所以とか、アメリカによるイスラエル支持の歪んだ実態とか、何も知らないまま読み始めた老人には「ホントなの?」と不安になるような話ばかりですが、ホントのようですね。 内容は、常識的に考えて、今の日本の中学生どころか、大学生にだって読み切れない歴史性に基づいた話ですから、まあ、覚悟してお読みください。 で、その難しい話が、なぜ「中学生から知りたい!」という副題付きで書籍化されているのかなのですが、まず、ジェノサイドで殺されているのが「子供」だということ、次に、家族を無差別に殺された子供たちこそがテロリストとして成長してきたパレスチナの歴史があることですね。ミシマ社という本屋の根性に唸ります。 学校教育から「歴史」を追い出してきた、この国の教育行政と大学入試システムの結果、「歴史」を基盤に思考する能力を失った若者がスマホ由来のポピュリズムに翻弄される現実にたして、目の前の出来事の歴史的経過に目を向けることを促す、本書の企画に拍手です。 大学生諸君、難しいけど、読んでください。ガザでは、何の罪もない子供が殺されているんですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.18
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カビール・カーン「バジュランギおじさんと、小さな迷子」キノシネマ神戸国際 2025年の6月の13日の金曜日、生まれて初めてインド映画を見ました(笑)。 見たのは、10年前、2015年に作られて、世界中で評判になったらしい作品の再上映で、カビール・カーンという監督の「バジュランギおじさんと、小さな迷子」でした。 今から50年ほど昔の事ですが、そのころ、シマクマくんは大学生で、アルバイト以外にはすることもない日々で、今考えれば学校に行けよ!なのですが、映画館に通いっぱなしの映画オタクでガッコーどころじゃなかったんですね。で、そのころ、さっさと卒業した同級生Kくんが、就職するわけでもなく、何をしに行ったのか分からないんですが、ともかくインドに行ってしまって、何年後だった分からないのですが、多分、ヒッピー暮らしでもしてたんでしょう、帰ってきて、まだ、大学生だったシマクマくんのところにやってきて、「アンナー、インドって映画の国やねん。映画の数も、見にいく人の数もゴッツイネン!で、どれもこれもオモロイねん。」 という話を聞かせてくれたことがあります。 で、それから50年、ただの1本もインド映画とかいうものを見たことがないことを、この映画の予告編を見ながら思い出したのが見た理由ですが、あの時、K君が熱弁していたインドの映画事情について、ようやく納得しました(笑)。「全世界を笑いと涙に包んで大ヒット!」 チラシの謳い文句に付け加えるなら、「歌」も「踊り」も「アクション」も、「危機一髪=ハラハラドキドキ」も「純愛=ウットリ」も、ああ、それから、お好きな人には「インドの汽車」とか「パキスタンの田舎のバス」とか、その上、「大草原」や「ヒマラヤ」の絶景の見ごたえにも目を瞠ります。 単なる娯楽やろと疑う人には、「印パ紛争の国境の現場の実況」も、「イスラム教とヒンズー教の信仰の実態」も映し出されて、とどのつまり、迷子の子供を親の元へ帰すことに命を懸ける主人公の「愛」の深さが、言葉を話せない子供に「言葉」を取り戻させるというクライマックスの見事さに拍手!、拍手!となるに違いないでしょうくらいですかね(笑)。 それにしても、シャヒーダちゃんの可愛らしさとラスィカーさんの美女ぶり、パワン君の純情一途なおサルさん信仰には拍手!2時間30分の映画の中に、映画といえばの「面白さ」のすべてを込めて見せている かのカビール・カーン監督、オソルベシ!でした(笑)。 なんか、遅ればせも甚だしいのですがインド映画ファンになってしまいそうですよ(笑)。監督・脚本 カビール・カーン製作 サルマーン・カーン カビール・カーン スニール・ルーラ ロックライン・ベンカテーシュ原案 V・ビジャエーンドラ・プラサード脚本 パルベーズ・シーク V・ビジャエーンドラ・プラサード撮影 アセーム・ミシュラー美術 ラジニーシュ・ヘダオ編集 ラメーシュワル・S・バガト音楽 プリータム・チャクラボルティーキャストサルマーン・カーン(パワンあるいはバジュランギおじさん)ハルシャーリー・マルホートラ(シャヒーダー 迷子の少女)カリーナ・カプール(ラスィカー 恋人)ナワーズッディーン・シッディーキー(チャンド・ナワーブ 記者)シャーラト・サクセーナ(ダヤーナンド 恋人の父)オーム・プリー2015年・159分・G・インド原題「Bajrangi Bhaijaan」2025・06・13・no087・キノシネマ神戸国際no32追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.17
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井筒和幸「パッチギ!」こたつシネマ パソコンを相手にブログに載せる記事をコセコセいじっていて、ああ、風呂にでもいこうかとノソノソと居間に出てみると、同居人のチッチキ夫人はテレビに夢中のご様子です。「何見てるの?」「パッチギよ!」 ゴソゴソ服を脱ぎながら画面を見ていて、そのまま座り込みました。 井筒和幸監督2004年の映画「パッチギ!」です。まあ、誰がどうおっしゃろうと、ボクにとっては傑作!以外の何物でもない映画です。 後半の山場でした。 今さら、筋運びがどうだとか、演技がどうだとかいうつもりはありません。妙に男前の少年が「イムジン川」を歌って、見たことのある美少女が本気で自転車をこいでいます。 いいシーンですねえ(笑)。涙があふれだしてきてとまりません(笑)。 映画が描いている1960年代の終わりから70年代のはじめ、ボクは高校生になったころで、歌われる「イムジン川」も、「この素晴らしい愛をもう一度」も、「悲しくてやりきれない」も高校時代のクラス歌集に載っていた愛唱歌です。なんか、いろいろある行事のためにクラスだか、学年だかで歌集を作ったりするのが当たり前の学校で、カラオケなんかまだない頃でしたが、歌集に載っている全曲をアカペラで熱唱できるのがクラスのリーダーの任務だという時代でした。 そういう、懐かしさが映画からあふれてくることも、多分、涙の理由の一つでしょうが、作品のインパクトはもっと別のところにあると、あらためて思いました。 高校生たちが、本気で「パッチギ!」している姿ですね。We Shall Overcome Somedayの叫びです! この歌も歌集にあって、高校三年間、それぞれのクラスの委員長であったボクは歌えたはずです。残念ながら、50年、まあ、歌詞も忘れてしまいましたし、夢は、もちろん、かなっていないですけど(笑)。 監督の井筒和幸は1952年の生まれで、ボクより二つ年長、だから、団塊、全共闘じゃないんですね。微妙ですけど、彼の映画の底には、全共闘世代に特有のニヒリズムみたいなものがなくて、シラケているのに、テレビに出てきてはしゃいでしまうというか、お調子者的な楽観主義が流れているようで、ボクはそこが好きなんですね。 監督・脚本 井筒和幸原案 松山猛脚本 羽原大介 製作 李鳳宇 川島晴男 石川富康 川崎代治 細野義朗撮影 山本英夫編集 冨田伸子音楽 加藤和彦キャスト塩谷瞬高岡蒼佑沢尻エリカ楊原京子尾上寛之真木よう子小出恵介波岡一喜オダギリジョーキムラ緑子ケンドーコバヤシ桐谷健太出口哲也江口のりこちすん平松豊加瀬亮坂口拓木下ほうか長原成樹徳井優小市慢太郎笑福亭松之助ぼんちおさむ笹野高史松澤一之余貴美子大友康平前田吟光石研2004年・117分・日本配給 シネカノン2025・06・14・no088・こたつシネマno20追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.16
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「今年も団地の青梅です!」 ベランダだより 2025年6月8日(日)ベランダあたり 今年も団地の梅の実が収穫されて、おすそ分けというには、実にたくさんの、実に美しい、実にいい香りの梅の実をいただきました。 昨日まで、それぞれの梅の木で実っていた写真も載せますね(笑)。 梅の実とか、ここに写真はありませんが桃の実とか実っている様子は愛嬌があっていいですよね。 今年は当たり年だったようで、どの木にもたわわです。三月に花が咲いて六月に収穫できることを楽しみに暮らす暮らしが好きです。 老朽化と住んでいる人たちの高齢化には、なかなか勝てませんが、ほんとにいい団地に住むことができていることにホッとします。 というわけで、おおよろこびのチッチキ夫人のご活躍です(笑)。 2025年の梅の備蓄はこうなりました。梅ジュース、梅干し、梅酒の仕込みです。それぞれゆっくり出来上がるのが楽しいですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.06.15
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内田樹「新版 映画の構造分析」(晶文社) 市民図書館の新入荷の棚で見つけて「おや? おや!」 でした。 内田樹「新版 映画の構造分析」(晶文社)です。晶文社がSHOUBUNSHA LIBRARYの1冊としてラインアップしたようです。ただし、新版ですから「第4章」のオマケつきです。 旧版「映画の構造分析」(晶文社)が出たのは2003年、その後2011年くらいに文春文庫で文庫化されていて、多分どちらかがボクの書棚のどこかにあるはずですが、まあ、所在不明ですが(笑)。というわけで、とりあえずオマケの第4章読みたさに借りてきました。 で、おまけに行く前に本編にはまり直しでした。「はじめに」の冒頭で これは映画批評(のような)本ですが、映画批評のほんではありません。という宣言があって、じゃあ、なんなんだというと、 この本の目的は、「ラカンやフーコーやバルトの難解ななる術語を使って、みんなが見ている映画を分析する」のではなく、「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。これは「現代思想の術語を駆使した映画批評の本」(そんなもの、私だって読みたくありません)ではなくて、「映画的知識を駆使した現代思想の入門書」なのです。(P9) というわけで、20代からボク自身がかぶれていたジャック・ラカンとか、ミッシェル・フーコー、ロラン・バルトが引用され、それに伴ってフロイトとかレヴィナスが登場するという、本人がおっしゃるには現代思想の解説らしいのですが、でも、やっぱり、映画論なのですね。 で、今読み直すと、まず、なつかしさで胸が熱くなるような「反物語」とか「徴候」とか「パノプティコン」なんていう、まあ、分かったのか分からないのか分からないまま鵜吞みにしたはずの、あのころの術語の山が、なとなく、すらすらと入ってきて、面白いったらありゃしない!(笑) なのでした(笑)。 今更なのですが、一つだけ例を挙げると、ヒッチコックの「裏窓」をネタにした語りの結末部分ですが、 「自分はみられることなく、すべてを見る」不可視の権力は、「誰からも見られない」青ざめた、生気のないその似姿を、醜い双生児のように同伴する。これがフーコーの知見のうちでおそらくもっとも重要な点である。 すべての表象秩序を制定する不可視の権力を主題化しようと望むとき-ベラスケスであれヒッチコックであれー卓越した表現者はおそらく必ず「あらゆる像のうちでもっとも生気の失せた、もっとも非現実的で、もっとも影のうすいもの」をー鏡像として、あるいは「第四の壁」として描き込まずにいられない。 なんだか、やたらときっぱりとした言い草ですが、フーコーの「言葉と物」の冒頭で話題にされるベラスケスの「侍女たち」という絵画とヒッチコックの「裏窓」という映画の動けない主人公が住んでいるはずのアパートの壁の話なのですが、「絵画」であれ、「映画」であれ、共通するのは「見る」という行為なのですね。で、問題は「見る」という行為の意味についての、内田樹の考察の結論部分ですが、ここで最後に彼はこういうのです。 表象秩序を制定するものの不可侵の権力の座を実際に占めているのは、その表象に映り込んでいる私たち自身だということである。「見られることなく私たちをみているもの」は私たち自身だということである。(p189) なんだか、やっぱり、分かったようなわからないような話で申し訳ないのですが、例えば、映画館で画面を眺めている観客であるボク自身は、映画という表現の外部ではなくて内部にいる、刑務所の外賀のような内側のようなパノプティコンから、自らは決してみられることなく、囚人たちを一望している看守の場所に座っているということでしょうか? で、そうだとして、それは、何を意味するのか? ということですが、ボンヤリ考え続けるよりしようがなさそうですね(笑)。 まあ、そういうわけで、旧版にもあった記事の話で終わってしまいました。とりあえず新版の目次を載せておきますね。 おまけの第4章の話は(その2)に続きます(笑)。目次第1章 映画の構造分析(物語と構造;テクストとしての映画;欠性的徴候;抑圧と分析的知性;「トラウマ」の物語)第2章 「四人目の会席者」と「第四の壁」第3章 アメリカン・ミソジニー―女性嫌悪の映画史第4章 そして映画は続く(『ゴッドファーザー』と『北の国から』;『君たちはどう生きるか』をどう観るか;「父」からの離脱の方位―『1Q84』論;『ハナレイ・ベイ』のためのコメント;『ドライブ・マイ・カー』の独創性 :「ノルウェイの森」の時代感覚:「ハウルの動く城」を観に行く:「怪物」について:「福田村事件」へのコメント:「愛の不時着」男性目線と女性目線の交錯:「冬のソナタ」-予定調和的な宿命:「秋日和」-非婚は彼女たちの意思ではない:「精神0」-それに人間は抗うことができない:「演劇1」「演劇2」-演出家平田オリザ、映画の想田和弘:「三島由紀夫VS東大全共闘」-政治の季節の予感:「プレシャス」-史上初の男性嫌悪映画:「バービー」―哲学的な映画:デヴィッド・リンチ追悼)オリジナル版・新版 あとがき解説「お話を一つ思いつく」を巡って 春日武彦 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.13
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ワン・ビン「青春 — 帰 —」元町映画館 元町映画館がワン・ビンの最新ドキュメンタリィー「青春 三部作」を特集上映してくれました。第一部「青春 春」は昨年の今頃見ましたが、残りの第二部、第三部は、多分、初公開で、今回初めて見ることができます。 で、ぼく自身の日程の都合にそって、第3部「青春 帰」をまず見ました。 「青春」というこの作品は第1部「青春 春」からそうなのですが、ワン・ビン監督がドキュメンタリィーの舞台として選んでいるのは浙江省湖州市の織里(しょくり )という町の子供服縫製工場です。映像に映し出される登場人物は、その工場で働いている人たち、まあ、中には40代とかの男性、30代とかの子ども連れの夫婦もいますが、おおむね、10代後半から20代の男女です。画面に登場すると名前と年齢、出身州の名前が出てきます。 浙江省は揚子江下流、中国の地図を思い浮かべると上海あたりの州ですが、働いている人たちの出身は揚子江流域の農村地帯から、遠い人では福建省あたりの人までいます。国内では農民工と呼ばれているらしいですが、要するに出稼ぎ労働者の人たちです。縫製技術、要するに電動ミシンの扱い方は見よう見まねで覚えて、あとは出来高払い。最終的には、おそらくミシンの使用料から、寝泊まりする雑魚寝の部屋代まで天引きされた給与なのでしょうね。1着仕上げて3元から5元くらいの労賃のようですが、1元というのは20円くらいですから、彼らが躍進する中国経済を下支えする最底辺の労働者たち だと考えて間違いないでしょうね。 第3部は、その労働者たちの、日本でいえば旧正月、中国では春節というお正月の帰省の姿を描いていました。 座席はもちろんのこと通路に至るまで、足の踏み場もないほど込み合った帰省列車や乗り合いバスのシーン。駅まで迎えに来てくれた家族や知り合いのトラックや乗用車が舗装などもちろんしていない山間やがけっぷちの泥道を進んでいく有様。仕事場で仲良くなった二人の帰省した村での結婚式。 カメラは、職場や青年たちの住んでいる部屋でもそうなのですが、「どうやって撮っているの?」と、その密着ぶりを尋ねたくなるほどの距離感で、経済成長を成し遂げつつある現代中国の底辺で働く人たちの生活や仕事、交通手段の実態に密着して、文字通りリアルです。そして、その密着性、直接性が国家の外面(そとづら)に対する強烈な皮肉を内包した実態暴露映像を作り出していて、実にスリリングですね。 そういう意味で、実際にどうなのかは知りませんが、ボクには、この映画が現代の中国での公開を許可されるとは思えませんが、一方で、勘違いのないように言えば、カメラの被写体に対する愛は比類のないものだといっていいと思います。第三者の視線の冷たさというか、ためにする道具としての被写体ということをかけらも感じさせない、慈しみに満ちた眼差しを作り出していると思うのです。 若い彼らが働いている姿も、貧しい故郷の村の様子も、村の道で繰り広げられる結婚式の大はしゃぎも、故郷の大きな川の岸部で釣りをする、久しぶりに会った友達同士も、促促と胸に迫るのです。 カメラは。何の抵抗もなくそこにいます。そこが、ワン・ビンのすごさ!でしょうね。拍手! チラシによれば、第2部は226分だそうですが、この第3部も、150分を越える長尺でした。ほぼ、何の事件も起きないといっていい映像に、そんな時間、座り続けていることさえこたえる老人が、まあ、腰の塩梅は気にしながらも、まったく退屈しない理由はいったいなんでしょうね。ボクは、製作者たちの苦労もさることながら、映画表現の可能性に賭ける、ワン・ビンという監督の思想の深さが、映像としてにじんでいるからだと思いますが、どうでしょうね(笑)。 さて、第2部、226分に挑戦ですよ(笑)。監督・撮影 ワン・ビン王兵撮影 リウ・シェンホイ ソン・ヤン ディン・ビーハン シャン・シャオホイ 前田佳孝編集 ドミニク・オブレー シュー・ビンユエン リヨ・ゴン2024年・152分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 帰」英題「Youth (Homecoming)」2025・05・26・no079・元町映画館no303追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.12
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谷川俊太郎「新版 散文」(晶文社) 詩人の谷川俊太郎が、昨年、2024年の11月に亡くなって半年がたちました。で、市民図書館の新入荷の棚に新しい本として並んでいた「新版 散文」(晶文社)を見つけて借りてきました。「あら、この本ならあるわよ。」「うん、知ってる。けど、若い人が解説を書いているようだから。」 というわけで、巻末に新しく所収された永井玲衣という、若い女性の哲学者の「解説 ためらう詩人」から読み始めました。「鳥羽」という詩の冒頭の引用からのエッセイでした。何ひとつ書く事はない私の肉体は陽にさらされている私の妻は美しい私の子供たちは健康だ谷川俊太郎は「何ひとつ書く事はない」と言って、詩を書く。「本当の事を言おうか」と書いて「私は詩人ではない」と、詩人として言う。まあ、こんな書き出しです。残りが気になる方は本書を手に取っていただきたいのですが、ボクが面白かったのはわたしと谷川さんは六十歳年が離れている。それが何を意味するかといえば、谷川さんはわたしたちにとって、生まれたときから「おじいさん」で(これは、わりとどの年代のひとも言っている気がする)、言葉の「達人」であり、国家とか社会とか、そういったものを超越しているような、もはや概念のような存在であるということだ。 とまあ、こういう書き出しで、「そうか、六十歳か、」とちょっと詠嘆して、「概念ねえ」と、ちょっとためいきをつきましたが、結論はこうでした。「散文」で、何とか言葉をこちらにたぐりよせている谷川さんは、概念ではなく、現実の世界を生きている生身の人間の谷川さんだ。とまどい、矛盾、ためらい、罪深さ、ためらい、恥、居心地の悪さ、それらをごまかさないで、そのまま書いている。「本当の事」を書こうとしている。それはとてつもなく、すごいことだ。谷川さんのもとにぴょんぴょんと駆け寄ってくる言葉たちも魅力的だが、谷川さんがいろんな場所をめぐりながら、汗を流して何とか手を伸ばしてかき集めて言葉たちも、なんだかうれしそうにしている。 どこまでも言葉に誠実であろうとしたひとりの詩人の文章を受け取ることができる私たちは、このうえなく幸福なのだと言わねばならない。(P317) まあ、ボクらの世代にとって、目の前にあった「詩」や「散文」こそが谷川俊太郎であって、あくまでも「個人的な体験!」だったわけですから、「概念」という言葉にはたじろぎました。若い人たちが、初めて谷川俊太郎のことばと出会うことがあるのであれば、「幸福」とかいう概念でまとめないで、「みみをすます」ことから始めてくれたらいいなと思いました。 ああ、それからこちらが旧版の「散文」(晶文社・1972年版)の写真です。 ついでですが、実は「散文」には講談社α文庫版もあります。編集の仕方がかなり違いますが、内容に大きな差はありません。何はともあれ、上の引用にある詩を載せておきます。できれば、ぼそぼそと声に出して読んでみてほしいですね(笑)。 鳥羽1 谷川俊太郎何ひとつ書く事はない私の肉体は陽にさらされている私の妻は美しい私の子供たちは健康だ本当の事を云おうか詩人のふりはしているが私は詩人ではない私は造られそしてここに放置されている岩の間にほら太陽があんなに落ちて海はかえって昏いこの白昼の静寂のほかに君に告げたい事はないたとえ君がその国で血を流していようとああこの不変の眩しさ 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.11
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ジョシュ・マーゴリン「テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ」大阪ステーションシネマ 前の日に、神戸のキノシネマのロビーで「We Live in Time この時を生きて」で上映開始を待っていると、昔の同僚で、退職後は映画三昧の日々を送っていらっしゃるMさんという方が先の回を見終えて出ていらっしゃって「面白かった?」「うん、面白いよ。ボク、今日、これ2本目で、朝一番に『テルマがゆく!』って、知ってる?神戸でやっていないから、それを見に西宮まで行っててん。93歳のオバーさんのミッション・インポッシブル。メッチャおもろいヨ!」「西宮って、球場の跡の?遠いなあ。」「そうそう。でも、見る価値あるよ。じゃあね(笑)」 という出会いというか、すれ違いがありました。 で、今日は、まあ、偶然ですが、50年前の国文科のあほバカ5人組の集まりをJR尼崎の駅近くでやるからおいでというお誘いで出かけながら「そうだ、大阪で、昨日のあの映画を見よう!」 というわけで、やってきたのが、6年ぶりだかの大阪ステーションシネマで、見たのが、Mさんおすすめのジョシュ・マーゴリン監督の「Thelma」でした。 主人公のテルマを演じているジューン・スキッブという女優さんは93歳、相方のベンを演じていたリチャード・ラウンドトゥリーという俳優さんは1942年生まれで、生きていらっしゃれば83歳ですが、この作品を撮り終えた2023年に81歳で亡くなったそうで、この作品が遺作なんだそうです。見る前には、そういうことは全く知らずに見ましたが、考えてみれば、なんだかすごい映画!でしたね(笑)。 だって、画面に出てくる、まあ、お二人だけじゃないのですが、老人の存在感というか、もろにクローズアップで見せる「老い」の迫力!が半端じゃないんですね。コメディと謳っていますし、筋書きも確かにコメディなのですが、ボクには笑うどころじゃない「かなしさ」が残りました。面白うて、やがてかなしきの哀しさといえばいいのでしょうかね。 映画の中で「人の世話になることも受け入れないと!」と、一人で生き延びることにこだわるテルマを諭しながらも、彼女のミッションを支えつづける、介護施設暮らしのベンを演じた俳優さんは、映画の公開前に亡くなっているわけですからね。 人は、ある年齢、まあ、人によってそれぞれでしょうが、を過ぎたあたりから、意識の奥のほうに「明日」に対する不安を漂わせながら生きるほかはないと思うのですが、飽くまでも今日を生きようと、直情径行、行動あるのみのテルマと、明日への生活を尊重し篤実温厚なベンという二人の超高齢者のタッグを、明るく優しく描いた監督には拍手!でした。 ああ、それから、もう一つ、テルマはトム・クルーズに憧れていて、彼女としては、彼女にできる「ミッション・インポッシブル」に挑んでいるわけですが、映画の最後にあたりで、詐欺師の爺さんが、そう、オレオレ詐欺をやっているのもまた爺さんなんですけど、その爺さんがいじっているパソコンにテルマが銃弾をぶち込むんです。トム・クルーズの最新作がコンピューターシステムとの戦いだったわけで、おんなじ結末なわけで、笑えましたね。そのうえ、見ている側の老人としては、どっちかというと、こっちの映画のほうがリアルなんじゃないかって(笑)監督・脚本・編集 ジョシュ・マーゴリン撮影 デビッド・ボーレン美術 ブリエル・ヒューバート衣装 アマンダ・ウィン・イー・リー音楽 ニック・チューバキャストジューン・スキッブ(テルマ オバーちゃん)フレッド・ヘッキンジャー(ダニエル 孫)リチャード・ラウンドトゥリー(ベン 相棒)クラーク・グレッグ(アラン 娘の夫・ダニエルの父)パーカー・ポージー(ゲイル 娘・ダニエルの母)マルコム・マクダウェル(犯人)ニコール・バイヤークイン・ベスウィックコーラル・ペーニャエイダン・フィスクバニー・レビン2024年・99分・G・アメリカ・スイス合作原題「Thelma」2025・06・07・no085・大阪ステーションシネマno02追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.10
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ジョン・クローリー「We Live in Time この時を生きて」キノシネマ神戸国際チラシに「一流シェフのアルムートは余命わずか」 まあ、これを読んでやってきました。 主役のアルムートを演じたフローレンス・ピューという女優さんと、相方のトビアス君のアンドリュー・ガーフィールドという男優さんのまじめな演技ぶり、お二人の間に生まれて、今、多分、三つくらいの嬢ちゃんのエラちゃんの可愛らしさで納得!でした(笑)。 映画の筋書きは、いわゆる「余命宣告物」で、まあ、マンガ的!というか、こうなれば、そうなるだろう!という展開なのですが、映像の時間のコラージュ化というか、画面に映し出すエピソードの起こった時間を自在に動かしたところなんかが、まあ、工夫ですね。「今という時」の集積化、「今」の積み重ねによってある「今」の映像化を狙っているようで、誰が、いつ、こうやって過去に繰り返しフラッシュバックしているのだろう?と思わせるところなんかも、めんどくさいながら、面白いわけで、それなりの効果を上げているといえばいえますが、たとえば、アルムートとトビアスの交通事故での出会いのシーンなんか、嫌いじゃないんですが、まあ、マンガとしかいいようがないですね(笑) しかし、「今、この時を生きる」という主人公の姿を、実にまっすぐに、真摯に演じているフローレンス・ピューという女優さんには好感を持ちました。特に出産シーンとか、頭を刈ってしまうシーンとか、マンガ的デフォルメといえばいえるのですが、ボクは、素直に受け取って、やるもんですね!でした。 というわけで、ストーリーのありがちさには、さほどシラケることもなく、最後までなるほど、そう終わりますか、拍手!という作品でした。 まあ、それにしても、妊婦の姿のフルヌードとか、どうやって作っているんでしょうね?不思議な時代になりましたね(笑)。監督 ジョン・クローリー脚本 ニック・ペイン撮影 スチュアート・ベントリー美術 アリス・ノーミントン衣装 ライザ・ブレイシー編集 ジャスティン・ライト音楽 ブライス・デスナーキャストフローレンス・ピュー(アルムート)アンドリュー・ガーフィールド(トビアス)グレース・デラニー(エラ)リー・ブライスウェイト(ジェイド)イーファ・ハインズ(スカイ)アダム・ジェームズ(サイモン)2024年・108分・G・イギリス・フランス合作原題「We Live in Time」2025・06・06・no084・キノシネマ神戸国際no31追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.09
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フランソワ・オゾン「秋が来るとき」キノシネマ神戸国際 上のチラシですが、まあ、どう見てもボクより高齢の女性がお二人、森の中の道をキノコ・カゴかなんかぶら下げて歩いていらっしゃるのに気を引かれて見に行きました。 見たのはフランスのフランソワ・オゾンという監督の「秋が来るとき」です。監督も、写真に写っている二人の女優さんも、かなり有名な方のようですが、ボクは初めての出会いでした。 で、なんというか、登場人物たちの表情の演技に魅せられて、筋書きとしては、ハラハラ、ドキドキしっぱなしなのですが、「いや、きっと大丈夫!」 と自分を励ましながら最後はホッとして見終えましたが、実にスリリングな作品で、拍手!でした。 始まりのころに、主人公のミッシェルが教会でお説教を聞くシーンがあります。 パリサイ人の家で食事をしているイエスのもとに一人の女性がやってきて、泣きながらイエスの足に香油を塗り、髪の毛でぬぐったのです。イエスは、彼女のすべてを許しました。 ここで神父さんが語っていたのは、マグダラのマリアについての有名な一節だったのですが、映画が、この一節の「赦し」の意味というか、このシーンが80年の生涯を生きてきたミッシェルと、彼女の親友であるマリー=クロードのために語られていたことに気付いたときに、ボクは自分自身の70年の暮らしを振り返らないわけにはいきませんでしたね。 映画は、この二人の老婆が、かつて選んだ罪多き職業のせいで、社会からの蔑視と差別にさらされて生きてきた人生を背景化しながら、母が選んだ職業のせいで娘であるヴァレリーや、息子であるヴァンサンが強いられた暮らしを、老いたミッシェルとマリーの人生に降り積もるかの絶望的な苦しみ として描きながら、しかし、次に世代に託すかのような「希望」を予感させる結末まで引っ張ってくる、いわば力業なのですが、納得でした。 親子の葛藤を越えて、孫の世代に「希望」を託す「老い」の描き方!を、若い人たちがどう感じられるのか、そこはわかりませんが、ボクは納得でした。拍手! この作品の迫力は、一人一人の俳優たちの演技力もさることながら、例えばミッシェルを演じるエレーヌ・バンサンという女優の手の、演技を越えた「老いの迫力」ですね。 女優自身が80歳を越えていらっしゃるということらしいですが、料理をしたり、孫のルカを抱きかかえたりするときにあらわになる手は、明らかに老人のものであり、その表情のすばらしさには、言葉を失いました。彼女の、揺れ動く心のリアリティーが、手の動きを通じて、フト、画面に映し出される、その老人でしかありえない手の姿が「人が生きる」ということの哀しさ静かに語っているのでした。この年齢の俳優あっての映画だったと思います。拍手! 監督・製作・脚本フランソワ・オゾン脚本 フィリップ・ピアッツォ撮影 ジェローム・アルメーラ美術 クリステル・メゾヌーブ衣装 パスカリーヌ・シャバンヌ編集 アニタ・ロト音楽 エフゲニー・ガルペリン サーシャ・ガルペリンキャストエレーヌ・バンサン(ミッシェル)ジョジアーヌ・バラスコ(マリー=クロード)リュディビーヌ・サニエ(ヴァレリー ミッシェルの娘)ガーラン・エルロス(ルカ 孫)ピエール・ロタン(ヴァンサン マリーの息子)ソフィー・ギルマン(警部)マリック・ジディ2024年・103分・G・フランス原題「Quand vient l'automne」2025・06・04・no083・キノシネマ神戸国際no30追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.08
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佐古忠彦「太陽(ティダ)の運命」元町映画館 「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」というドキュメンタリィーで、第2次大戦後の、いや、近代以降の沖縄の「魂」の所在! を描いた佐古忠彦監督が、今度は「太陽(ティダ)の運命」という、それぞれ国と激しく対峙した2人の沖縄県知事の姿を通して、沖縄現代史に切り込んだドキュメンタリーを作ったというので見ました。 沖縄本土復帰後の第4代知事・大田昌秀(任期1990~98年)と第7代知事・翁長雄志(任期2014~18年)は、本土的な思考法によっては、保守、革新と安易に色づけされる政治的立場は正反対でありながらも、ともに沖縄の県民から幅広い支持を集め、保革にとらわれず県政を牽引した人物ですが、二人の「太陽(ティダ)=リーダー」の記録を丹念に編集した映画でした。 大田知事による1995年の軍用地強制使用の代理署名拒否。翁長知事による2015年の辺野古埋め立て承認の取り消し。それぞれ、国家の下部機構として従属させられてきた、地方公共団体の首長による住民自治の勇気ある態度表明、文字通り、あるべき政治的行動として、ボクにとっては忘れられない出来事でした。 映画は「日本」という国家を相手どって法廷で争い、民主主義や地方自治の本来のあり方、「まず、そこで生きている人たちの生活があって、国家はそのあとにあるべきものではないか?」 という、沖縄だからこその、真実の問い を投げかけ続けながら、志半ばにして去った二人の姿を真摯に描いた作品でした。なぜ、沖縄に米軍基地なのか? 日米安保の必要性や、中国の脅威を口にし、沖縄に米軍基地があることを既製の事実として当然視する国家や世論に対して、基地の存在を疑い、拒否しようとした二人の政治家の、文字通り命がけの異議申し立ては、今では「歴史の一コマ」の残像のように過去にい追いやっているのが「日本」という国の現実ですが、この映画には、彼らの異議申し立てが明らかにした、日本という国の欺瞞に満ちた矛盾を、二人の政治家の、それぞれの半生を追うことで、なんとか記録に残そうとする誠実な作品でした。 まあ、ボク自身は、70年代の沖縄返還以来の歴史過程の中で生きてきた、今や老人ですが、20代、30代の方に見てほしい作品ですね。とりあえず、沖縄の米軍基地が沖縄の人たちにとってどういうものなのか!?ということを知り始めるだけでもいいですね。 監督 佐古忠彦撮影 福田安美編集 庄子尚慶語り 山根基世音楽 兼松衆 阿部玲子 澤田佳歩 佐久間奏 栗原真葉 三木深テーマ曲 比嘉恒敏劇中歌歌唱 でいご娘エンディングテーマ演奏 辺土名直子キャスト大田昌秀翁長雄志2025年・129分・G・日本2025・05・20・no077・元町映画館no302追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.06
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カート・ハーン「ロックの礎を築いた男 レッド・ベリー ビートルズとボブ・ディランの原点」シネリーブル神戸 予告編とチラシを見て、レッド・ベリーの名前にはピンとこないというか、反応できなかったのですが、ピ-ト・シーガーとかジョーン・バエズとかの登場の可能性に期待して見に行きました。納得!でした。 アメリカの音楽史において、どうしても記録しておかなくてはならない人物としてレッド・ベリーという1880年代に生まれ、いわば、波乱の人生をおくり、あの、ウディ・ガスリーをして「もっとも偉大なフォーク・シンガー」と称えられたという人物を取り上げ、その歌と生涯をたどったドキュメンタリィーでしたが、映像の中で証言しているのが、今は亡きピート・シーガーであり、B・B・キングであり、ハリー・べラフォンテであり、ふと、映し出される映像に若き日のポール・マッカートニーが左利きでアコースティックギターを弾いていたりするのが、見ている老人には、もう、ただ、それだけでうれしい映画でした。 先だって、ボブ・ディランを若い人たちが演じて、ピート・シーガーとかも、よく似た誰かに演じられて登場していた「名もなき者」という映画を見て心躍ったのですが、こちらの映画のピート・シーガーやジョーン・バエズは本物で、「えっ?誰これ?」と思ったのが、アーロ・ガスリーだと気づいた時には、さすがに「オー!」となるドキュメンタリィーでした。 たとえば10年前、2014年だったかに亡くなったピート・シーガーがしゃべっている映像などは、どう見てもこの映画の製作を目的にしたインタビューでの応答だと感じたのですが、映画そのものが10数年がかりで計画、作製されていたのか。映画全体の構成映像自体は、古い映像の編集映画なのですが、インタビューなどは、結構、最近のものらしく、もし、そうであれば、製作には、ちょっと、手間のかかった映画だと思いました。 なにはともあれ、1950年代以降のアメリカン・ポップス、ロックミュージック、ブルースなどの音楽を青春の歌として聞いてきた老人には、なかなかベンキョーになる作品でした(笑)。拍手!監督 カート・ハーン字幕監修 ピーター・バラカン 朝日順子キャストレッド・ベリーピート・シーガーハリー・ベラフォンテB・B・キングジョーン・バエズアンナ・ローマックス・ウッドアーロ・ガスリーバーニス・ジョンソン・リーゴンオスカー・ブランドクイーン・“タイニー”・ロビンソンラリー・リッチモンドマイケル・タフトクリストファー・ローネルジェフ・プレイスオデッタ2021年・80分・G・アメリカ原題「Lead Belly: Life, Legend, Legacy」2025・06・02・no082・シネリーブル神戸no313追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.03
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尹 東柱(ユン・ドンジュ)「空と風と星と詩」( 書肆侃侃房) 星をかぞえる夜 尹東柱季節の移りゆく空はいま 秋たけなわです。わたしはなんの憂愁(うれい)もなく秋の星々をひとつ残らずかぞえられそうです。胸に ひとつ ふたつと 刻まれる星を今すべてかぞえきれないのはすぐに朝がくるからで、明日の夜が残っているからで、まだわたしの青春が終わっていないからです。星ひとつに 追憶と星ひとつに 愛と星ひとつに 寂しさと星ひとつに 憧れと星ひとつに 詩と星ひとつに 母さん、母さん、母さん、わたしは星ひとつに美しい言葉をひとつずつ唱えてみます。小学校のとき机を並べた児らの名と、偑(ペエ)、鏡(キョン)、玉(オク)、こんな異国の少女(おとめ)たちの名と、すでにみどり児の母となった少女(おとめ)たちの名と、貧しい隣人たちの名と、鳩、子犬、兎、らば、鹿、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、こういう詩人の名を呼んでみます。これらの人たちはあまりに遠くにいます。星がはるか遠いように、母さん、そしてあなたは遠い北間島(プッカンド)におられます。わたしはなにやら恋しくてこの夥しい星明りがそそぐ丘の上にわたしの名を書いてみて、土でおおってしまいました。夜を明かして鳴く虫は恥ずかしい名を悲しんでいるのです。しかし冬が過ぎわたしの星にも春がくれば墓の上に緑の芝草が萌えでるようにわたしの名がうずめられた丘の上にも誇らしく草が生い繁るでしょう。(P34) 韓国の人々に国民詩人として知られている尹東柱の「空と風と星と詩」(書肆侃侃房)という詩集が「日韓対訳詩選集」として2025年2月16日に出版されたようで、市民図書館の新入荷の棚で見つけて借り出して読みました。 右側から開いていくと「日本語版」で、左から開くと「韓国語版」という装丁になっていて、真ん中に、詩人をめぐる古今の写真集が配置されている本です。残念ながら韓国語が全く読めないボクは日本語版からページを繰るしかないのですが、日本語訳は伊吹郷の訳です。伊吹郷の訳が、本書で採用されている経緯については「日本語訳に寄せて」という尹一柱(ユンイルジュ)という詩人の弟さんの文章が終わりについていますから、関心のある方はそれをお読みください。 で、詩集の始まりは、この詩です。序詩死ぬ日まで空を仰ぎ一点の恥辱(はじ)なきことを、葉あいにそよぐ風にもわたしは心痛んだ。星をうたう心で生きとし生けるものをいとおしまねばそしてわたしに与えられた道を歩みゆかねば。今宵も星が風にふきさらされる。1941.11.20 このページで始まり、90ページに渡る詩集の中で心に残ったのが、最初に載せた「星を数える夜」です。 で、この詩の終わりのページにこんな文章があります。 ひと握りの灰になった東柱兄の遺骨が帰ってきた時、私たちは龍井から二百里離れた豆満江沿いの韓国の土地にある上三杉駅まで迎えに行った。そこで遺骨は父の胸から私が受け取って抱き、長い長い豆満江、橋を歩いて渡った。2月末のとても寒く曇った日、豆満江の橋はどうしてそれほど長く見えたのか……皆黙々とそれぞれの欝憤をこらえながら一言も発しなかった。それは東柱兄にとって、愛した故国との最後の別れを告げる橋だった。尹一柱「尹東柱の生涯」(「ナラサラン」第23集・尹東柱特集号、1976年) これが1945年のことだったのか、それよりずっと後のことだったのか、それは、この文章ではわからないのですが「ひと握りの灰」になった詩人の遺稿を収集することもまた大変なことだったろうと思います。 詩人のプロフィールについては本省の紹介記事を下に貼っておきます。この読書案内は、とりあえず、今の日本という社会で暮らしている10代、20代の若い人たちに、1945年、独立運動の容疑でとらわれ、大日本帝国の刑務所で獄死したという同志社大学の学生であった、若い詩人がいたこと、そして彼が残した詩があるということに気付いてほしいという思いの記事です。 2000年以降にお生まれになった人たちにとって、遠い昔の出来事であるのかもしれませんが、この詩集を残した詩人が韓国では「国民詩人」として読まれていることの意味を考え始めていただければ嬉しいですね。尹東柱[ユンドンジュ]1917年12月30日、旧満洲の北間島(現・中国延辺朝鮮族自治州)生まれ。1941年ソウルの延禧専門学校(現在の延世大学校)を卒業。1942年日本に留学。東京の立教大学を経て、京都の同志社大学在学中の1943年に治安維持法違反(独立運動)の容疑で捕えられ、懲役2年を宣告される。福岡刑務所に収監され1945年2月16日に獄死した。1948年遺族と友人たちにより、尹東柱が遺した詩集『空と風と星と詩』が出版された 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.06.02
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