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隈研吾「日本の建築」(岩波新書) 市民図書館の新入荷の棚で見つけて借り出したのですが、2023年の出版ですから、そんなに新しいという本ではありません。隈研吾という建築家が、最近、流行っている方らしいというくらいは知っていましたが、著者紹介で、1954年生まれ、同い年だということをしって「へえ、そうなんか?」という印象です。あとはよく知りません。 今回、案内するのは隈研吾「日本の建築」(岩波新書)です。 で、本書を借り出した理由というのは、もう一つありました。この春「ブルータリスト」というユダヤ人の建築家を主人公にした映画を見たのですが、ちょっと気になったのがブルータリズムという建築様式用語でした。で、まあ、そういうことが書いてあるんじゃないかと思って手に取った次第です。 隈研吾が、1900年代の、だから20世紀日本建築史について、ボクでも名前を知っている丹下健三とか、黒川紀章とかをやり玉にあげながら通説してはいるのですが、実は、まったく知らない世界のことですから、ちょっと知ったかぶりで読み進めようにも、具体的なイメージとして湧かないので、少々眠いのですが「ブルータリズムはどこだ?どこに書いてあるんだ?」という一心で、読み終えました(笑)。 映画が描いていた時代というのも、多分、60年代だったはずだし、ブルータリズムとかいうのは、戦後すぐ、50年代に話題になったらしい様式だったはずで、建築史の話題として出てくるならすぐだろうと高をくくっていましたが、出てきたのは、「Ⅳ 冷戦と失われた一〇年、そして再生」の章の「縄文からコンクリートへ」と副題がつけられた文章で、すでに、204ページ、もうまとめに入るところでした。 モダニズムと日本との分断には1950年代の新しい状況も影を落としていた。それはブルータリズム建築と呼ばれる、新しいデザインのトレンドである。きっかけを作ったのはコルビュジエがマルセイユ郊外にデザインしたユニテ・ダビタシオン(1952)である。戦前のコルビュジエの、平滑で質感のない白いコンクリートとは対照的な荒々しいコンクリートの外壁。巨木を想起させる太いピロティ柱。コルビュジエはこの縄文的表現を、その後、ロンシャンの礼拝堂(1955)、インドのチャンディーガルの作品群(1955~1962)でさらにエスカレートさせていった。コルビュジエはまたしても時代を先導したのである。 イギリスの建築家スミッソン夫妻は、この流れを1953年にブルータリズムと名付けた。それは、20世紀の工業化社会の産物であり象徴であるコンクリートという素材を、多様な場所、多様な文化へと適合させ、ローカライズするための新デザインであり、コンクリートの延命策でもあった。工業化の波が世界の隅々へ広まっていく戦後的状況に建築家は鋭敏に反応し、コンクリートに荒々しい野生の表現を付与した。縄文は、そのブルータリズムの日本流の言い換えであった。 まあ、こういう感じです。コンクリートを素材として建設されはじめた世界中の戦後建築の、いってしまえば開き直り的な様式名のようですが、ここで、新たに気にかかるのが、「縄文」という言葉ですね。ついでですから、続けて引用します。 日本において発明された縄文は、日本とコンクリートとの安易な野合の別名であった。縄文という便利なキーワードを発明したことによって、コンクリートは何の遠慮もなく、いかなる罪の意識ももたずに日本の繊細な都市を破壊することが許されるようになった。縄文は日本人を決定的に伝統から遠ざけるきっかけをつくり、この国の豊かな伝統を忘却するための言い訳になった。(P205) かなり批判的ですが、具体的にどんな建築のことを言っているのかについては、本書なりをお読みいただきたいのですが、丹下健三とか、黒川紀章とか、まあ、ボクでも名前だけは知っている建築家が名指しされて登場したりで、けっこうスリリングでしたよ。 もっとも、ボクが知りたかった、映画の題名になっているユダヤ人建築家の建造物の特徴については、どうも答えになってくれませんでしたね。しかし、建築というのは、資本を必要とするという意味でも、なんだか、キナ臭い文化分野なんだな・・・ということはよくわかりました。週刊 読書案内 2025-no072-1145 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.31
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柴崎友香「百年と一日」(筑摩書房) 本屋さんでいただける筑摩書房の「ちくま」というPR誌がありますが、アレに2017年から2019年にかけて連載されていた短編小説(?)が全部で33篇、今では文庫化されていて34篇らしいですが、ボクが読んだのは単行本だったので33篇の小説集でした。 ページを開いて、唖然とするのは「目次」です。下に貼っておきますから、興味のある方はご覧になると面白がる人もいらっしゃるかもですが、本文(?)をお読みなるともっと面白いですよ。 〈ファミリーツリー 3〉 祖母には弟がいて、中学をすぐに、大きな街へ出て、働いた。最初は、大工の見習いだった。親方は厳しいが面倒見のいい人で、弟も仕事覚えは早かった。ところが、乱暴な兄弟子になにかにつけて殴られた。親方の見ていないところでこっそりやるし、仕事のことで嘘をつかれて重大な失敗を繰り返し、立場が悪くなった。 逃げ出した彼は、新聞配達、米屋の配達、運送屋の倉庫と仕事を転々とした後、大きな川の河口の街に移って再び大工の下で働き始めた。今度はいじめられることもなかったし、家がどんどん建ってとにかく人手が足りない時代だったから、賃金も右肩上がりだった。新しい親方の家族にもよくしてもらい、よく夕飯を食べさせてもらった。 休みの日に、彼は河川敷へ行って、草野球を眺めていた。そのうち、親方の息子からもらった古いギターを持ってきて、たどたどしく弾き始めた。風と音が混じり合うのは心地よかった。しばらくして、歌を作って歌い始めた。下手だったが、誰も立ち止まらないかわりに、誰にも咎められなかった。毎週日曜、昼から夕方まで、橋の近くの土手に座って、川面に向かって歌った。それはそのとき一度きりしか歌われない歌だった。 ある日曜日、草野球帰りの男が一人、そばで立ち止まって、歌を聴いていた。その次の週も、同じ男が来た。少し離れたところで、なにも話しかけずに立たずんでいた。それは毎週日曜日、半年間続いた。 そのときに祖母の弟が歌っていたいくつもの歌は、弟とその人だけしか知らない。(P164) これで、全文です。この作品集の中で一番短い作品です。いかがですか? 「百年と一日」と題されている作品集ですが、ボクが思い浮かべたのは父、まあ、亡くなって数年経ちますが、ゆかいな仲間と呼んでいる、ボクの子供たちにとっては祖父、オチビさんたちにとっては曾祖父、ヒーオジーちゃんのことです。 で、思い浮かべたのは、その彼の生年が1925年だったということですね。今年、2025年の「百年」前です。 作家が、それぞれの作品の底にあつらえた「時間」の単位が、例えば「ひいおじいちゃん」という言葉によって、「今」の記憶に繋がる可能性を担保しているところが、この作品集に収められた作品群に共通しているのですが、唸りましたね(笑)。 引用した作品の書き手は「歌を歌っていた男」の姉の孫ですが、読み手であるボクの頭に浮かぶ、たどたどしくギターを弾く男の「風と音が混じり合うのは心地よかった」という心象と天気の良い河川敷の心地よい風景はどこから生まれてくるのでしょうかね。 柴崎友香さん、デビュー以来、芥川賞まで読み続けていたのですが、ここ数年忘れていました。こういうのを、まあ、ちょっと違う気はしますが、腕をあげるというのでしょうか。 目次だけ見ていてはわからない重層する時間の感覚が、それぞれの作品に描かれている、読み手自身にとっては縁もゆかりもないエピソードが、読み手の記憶に揺さぶりをかけ始めるという不思議な作品群でした。いかがです、ボクは唸りましたが(笑)。 というわけで、不思議な目次を貼っておきますね。 目次〇 一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話〇 角のたばこ屋は藤に覆われていて毎年見事な花が咲いたが、よく見るとそれは二本の藤が絡まり合っていて、一つはある日家の前に置かれていたということを、今は誰も知らない〇 逃げて入り江にたどり着いた男は少年と老人に助けられ、戦争が終わってからもその集落に住み続けたが、ほとんど少年としか話さなかった試し読みあり〇〈娘の話 1〉〇駅のコンコースに噴水があったころ、男は一日中そこにいて、パーカと呼ばれていて、知らない女にいきなり怒られた〇大根の穫れない町で暮らす大根が好きなわたしは大根の栽培を試み、近所の人たちに大根料理をふるまうようになって、大根の物語を考えた〇たまたま降りた駅で引っ越し先を決め、商店街の酒屋で働き、配達先の女と知り合い、女がいなくなって引っ越し、別の町に住み着いた男の話〇小さな駅の近くの小さな家の前で、学校をさぼった中学生が三人、駅のほうを眺めていて、十年が経った〇〈ファミリーツリー 1〉〇ラーメン屋「未来軒」は、長い間そこにあって、その間に周囲の店がなくなったり、マンションが建ったりして、人が去り、人がやってきた〇戦争が始まった報せをラジオで知った女のところに、親戚の女と子どもが避難してきていっしょに暮らし、戦争が終わって街へ帰っていき、内戦が始まった埠頭からいくつも行き交っていた大型フェリーはすべて廃止になり、ターミナルは放置されて長い時間が経ったが、一人の裕福な投資家がリゾートホテルを建て、たくさんの人たちが宇宙へ行く新型航空機を眺めた〇銭湯を営む家の男たちは皆「正」という漢字が名前につけられていてそれを誰がいつ決めたのか誰も知らなかった〇〈娘の話 2〉〇二人は毎月名画座に通い、映画館に行く前には必ず近くのラーメン屋でラーメンと餃子とチャーハンを食べ、あるとき映画の中に一人とそっくりな人物が映っているのを観た〇二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった〇「セカンドハンド」というストレートな名前の中古品店で、アビーは日本語の漫画と小説を見つけ、日本語が読める同級生に見せたら小説の最後のページにあるメモ書きはラブレターだと言われた〇アパート一階の住人は暮らし始めて二年経って毎日同じ時間に路地を通る猫に気がつき、行く先を追ってみると、猫が入っていった空き家は、住人が引っ越して来た頃にはまだ空き家ではなかった☆その人には見えている場所を見てみたいって思うんです、一度行ったことがあるのに道がわからなくなってしまった場所とか、ある時だけ入口が開いて行くことができる場所のことを考えるのが好きで、誰かが覚えている場所にもどこかに道があるんじゃないかって、と彼は言った〇〈ファミリーツリー 2〉〇水島は交通事故に遭い、しばらく入院していたが後遺症もなく、事故の記憶も薄れかけてきた七年後に出張先の東京で、事故を起こした車を運転していた横田を見かけた〇商店街のメニュー図解を並べた古びた喫茶店は、店主が学生時代に通ったジャズ喫茶を理想として開店し、三十年近く営業して閉店した〇兄弟は仲がいいと言われて育ち、兄は勉強をするために街を出て、弟はギターを弾き始めて有名になり、兄は居酒屋のテレビで弟を見た〇屋上にある部屋を探して住んだ山本は、また別の屋上やバルコニーの広い部屋に移り住み、また別の部屋に移り、女がいたこともあったし、隣人と話したこともあった〇〈娘の話 3〉〇国際空港には出発を待つ女学生たちがいて、子供を連れた夫婦がいて、父親に見送られる娘がいて、国際空港になる前にもそこから飛行機で飛び立った男がいた〇バスに乗って砂漠に行った姉は携帯が通じたので砂漠の写真を妹に送り、妹は以前訪れた砂漠のことを考えた〇雪が積もらない町にある日大雪が降り続き、家を抜け出した子供は公園で黒い犬を見かけ、その直後に同級生から名前を呼ばれた〇地下街にはたいてい噴水が数多くあり、その地下の噴水広場は待ち合わせ場所で、何十年前も、数年後も、誰かが誰かを待っていた〇〈ファミリーツリー 3〉〇近藤はテレビばかり見ていて、テレビで宇宙飛行士を見て宇宙飛行士になることにして、月へ行った〇初めて列車が走ったとき、祖母の祖父は羊を飼っていて、彼の妻は毛糸を紡いでいて、ある日からようやく話をするようになった〇雑居ビルの一階には小さな店がいくつも入っていて、いちばん奥でカフェを始めた女は占い師に輝かしい未来を予言された〇解体する建物の奥に何十年も手つかずのままの部屋があり、そこに残されていた誰かの原稿を売りに行ったが金にはならなかった 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.30
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茨木のり子「ハングルへの旅」(朝日新聞社) なんだか、汚れた本の写真ですが茨木のり子「ハングルへの旅」(朝日新聞社)の初版です。長い間書棚に座っていた本です。開いてみると、ページは美しいのですが、表紙は、まあ、こういう様子で、茨木のり子さんに申し訳ない気持ちです。 詩人の茨木のり子さんが2006年に亡くなって20年経ちました。大正15年の6月のお生まれですから、昭和と一緒に生きた人で、ボクの父親や母親と完全に同世代ですね。最初に「わたしが一番きれいだったとき」を読んだときに、「ああ、オヤジもおふくろも、そういう時代を生きてたんだ。」とハッとするような印象を受けた記憶があります。 彼女の詩がいいのは、まあ、言うまでもないのですが、1980年代の終わりころ、この本を出されたときに、やっぱり、ハッとしました。正確にいえば、1986年にこの本を出されたのですが、昭和60年です。茨木のり子さんの還暦の著書であり、今となっては残された言葉ということですね。 今回、この案内を書くに至ったのは韓国文学の翻訳者の斎藤真理子さんが「韓国文学の中心にあるもの」(イーストプレス)という著書の中で引用されていたのを目にして、読み直したからですね。 斎藤さんの本を読んだのは、もう、半年以上前で、具体的なことは何も覚えていないのですが「斎藤真理子が引用していたよな。」という記憶だけはしっかりあるわけです。最近、そういう状態になるのに100日もかからないことに「漠然とした不安」を感じたりもする日々なのですが、とりあえず「案内」です。 あとがき ハングルを学んで十年を経た。(中略)隣国語の魅力、おもしろさに、いろんな角度から光をあてて、日本人、特に若い人たちに「私もやってみようかな」と、ふと心の動くような、いわば誘惑の書を書きたかったのである。(中略)私自身たのしみながらと始めたのだが、実際は苦渋に満ちた仕事になった。過去の歴史―日本側の一方的な非が重たくのしかかってきて、言葉だけに限ろうとしても、そうはいかないものがあった。(P258) あとがきからの引用ですが、やっぱり、その世代の実感が穏やかにですが、きっぱりと描かれていて、読みでのあるエッセイ集です。パリロパリロパリロって何のこと?辞書にも出ていないし、初めはさっぱりわからなかった。パリロとは、八一五という数字の読みで、八(パル)一(イル)五(ゴ)が連音してパリロとなるのだった。つまり一九四五年八月十五日のことを指していて、八月十五日の「月と日」を略した言いかたである。 同じようにサミルと言えば、一九一九年三月一日、日本からの解放を目ざし独立宣言文を読みあげ、全国に波及した独立運動記念日を指す。これも月日は略して、三一(サミル)(節ジョル)となる。 八月十五日は、日本では終戦記念日と言いならわしているが、終戦という合意の上、おだやかに戦争終結したようだが、実際には「参った!」の降伏だったのだから、言葉のごまかしである。「はっきり敗戦記念日というべきですよ、あなた、終戦記念日なんて言っちゃいけない」と教えてくれた人がいて、まったくその通りで、以来私は終戦記念日とは言わないようにしている。 かたやパロり(八一五)は、光復節(クヮンボクジョル)とも言い、光ふたたびよみがえる、解放記念日でもある。 明暗分けた記念日が、光復⇔降伏、漢字を日本読みすれば、音はまったく同じ。なんとも言えない皮肉である。 引用個所は、本書の最終章「Ⅴ こちら側と向こう側」に収められた「パロリ」という文章の冒頭ですが、「わたしが一番きれいだった」頃の苛烈な思い出に始まり、「六二五」(ユギオ)、「三八線」(サンパルソン)を経て、「今は、パルパル・オリンピックに向けて総力結集だが、未来のいずれの日にか、たとえばシビル(十・一)チルチル(七・七)とか名づけられる統一記念日が、来てほしいものだ。(P228) で結ばれています。 隣国の文化について「ことば」を通して、縦横に、且つ、丁寧で優しく論じられたエッセイ集で「ああ、そうか!」 の連続です。 知らなくていい、ではなくて、知りましょう、知って、仲良くしましょうの気持ちが心地よい文章ですよ。ついでなので、茨木のり子さんのこの詩を貼っておきますね。 わたしが一番きれいだったときわたしが一番きれいだったとき街々はがらがら崩れていってとんでもないところから青空なんかが見えたりしたわたしが一番きれいだったときまわりの人達がたくさん死んだ工場で 海で 名もない島でわたしはおしゃれのきっかけを落としてしまったわたしが一番きれいだったときだれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった男たちは挙手の礼しか知らなくてきれいな眼差しだけを残し皆発っていったわたしが一番きれいだったときわたしの頭はからっぽでわたしの心はかたくなで手足ばかりが栗色に光ったわたしが一番きれいだったときわたしの国は戦争で負けたそんな馬鹿なことってあるものかブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いたわたしが一番きれいだったときラジオからはジャズが溢れた禁煙を破ったときのようにくらくらしながらわたしは異国の甘い音楽をむさぼったわたしが一番きれいだったときわたしはとてもふしあわせわたしはとてもとんちんかんわたしはめっぽうさびしかっただから決めた できれば長生きすることに年とってから凄く美しい絵を描いたフランスのルオー爺さんのようにね 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.29
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アルバート・レオン ハーバート・レオン「スタントマン 武替道」キノシネマ神戸国際 暑い中、自宅でゴロゴロしているのが嫌で、「まあ、ハズレならしようがないな。」 とか思いながら出かけてきました。アルバート・レオン、ハーバート・レオンというダブル監督の香港映画「スタントマン武替道」です。 アクション映画だと思い込んで見始めたのですが、香港アクション映画史に捧げられたオマージュ!とでもいうべき作品で、別にジャッキー・チェンもブルース・リーも出てきませんが、じわじわと胸を打つ映画愛ドラマ!で、まあ、そんなジャンルがあるのかないのか知りませんけど、大満足でした。 中国映画ではなくて香港映画というジャンルはあると思うのですが、香港映画のオリジナリティーを、アクション・シーンのリアリティーにこそ求めて、そこを描こうとする、だから「スタントマン」であり、「武替道」という題名なのですが、この映画を作っている人たちの心意気! のようなものを感じて、涙がこぼれてしまうラストでした。監督のお二人が描きたいのは、中国映画じゃないんです、あのころの香港映画の輝きの秘密! なんですね、きっと。 アクション監督役のトン・ワイという役者さんも、スタントを愛する青年レイを演じるテレンス・ラウという若い役者さんも、いい味出してましたよ。拍手! アクション映画だと思ってみた人には、筋立てが、少々まだるっこしくてだるかったかもですが、還暦を過ぎて映画にハマっている徘徊老人にはピッタリの、映画大好き人間たちの登場する、正々堂々の人情ドラマ!でもあって、大納得でした。 まあ、ちょっとネタバレになりますが、最後の最後のシーン、老アクション監督のサムさんがとった行動ですが、映画の結末としても予想していた展開ではあったのですが、「そうだよな!そうだよな!そうするよな!」 でした。彼は映画が輝くことを信じて、やりたいことをやってきたんです。だから、やっぱり、最後は自分で跳ぶんです。 徘徊老人は、涙こぼして、拍手!拍手!でした(笑)。 見終えて、立ち上がろうとすると、少し前の席に10年前の同僚だった方が座っていらっしゃって「面白かったねえ(笑)。」「うん、ボクは、ちょうど時間が空いたんで見たんだけど、よかった(笑)。」 久しぶりの再会でしたが、お返事にニッコリでした。監督・原作・編集 アルバート・レオン ハーバート・レオン脚本 アナスタシア・ツァン オリバー・イップ撮影 チョン・タイワイ音楽 チュー・ツァンヘイ アンディ・チュンアクション監督 コン・トーホイ トミー・リャンキャストテレンス・ラウ(レイ・サイロン 駆け出しのスタントマン)トン・ワイ(レイ・サム アクション監督)フィリップ・ン(リョン・チーワイ スタント出身のスター)セシリア・チョイ(チェリー サムの娘)マックス・チョントー・インゴーラム・イウシンレイチェル・リョン閉じる2024年・114分・G・香港原題「武替道 Stuntman」2025・07・26・no113・キノシネマ神戸国際no39追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.28
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長塚洋「それでも私は Though I'm His Daughter」元町映画館 ぼんやりチラシを眺めていて、どうしようかなあ、やっぱりやめとこうかなあ・・・ まあ、逡巡して、結局、見ました。 所謂、「オーム」を撮り続けてきたらしい長塚洋という監督の「それでも私は Though I'm His Daughter」です。 あのオーム真理教の教祖だった人物の三女、松本麗華という女性を撮ったドキュメンタリィーです。 先日見た「桐島です」という作品の主人公が、自分と同じ年齢であったことが、ここのところ、どうしようもなく暑い神戸の道をふらふら歩いている徘徊老人の頭に繰り返し浮かんでくるのですが、あの映画を見たことで、昨日のことさえ思い出すのに難儀する頭に50年前の忘れていたはずの記憶の断片が揺り動かされるということが起こっているのでしょうね。 で、この映画です。見終えて最初に浮かんできたのは、30年前に「エッ?そうなの?」 と驚いた記憶、「Though I'm His Daughter」のHeである人物が、実はボクと同い年の人間であることでした。 1995年、神戸では1月に地震があって、3月、震災直後だった学年末の混乱の中で、所謂「震災ハイ」の生活だったのですが、奇妙奇天烈な活動で「なんや、これ?何者なん、こいつら?」 でしかなかった新興宗教の団体の、見掛け上インチキの権化のような風体の教祖が、大学出のインテリ青年たちに指示してやらせたという、相手かまわずで目的もわからない毒ガステロ事件が東京の地下鉄で起こって、実際に死者まで出た事件が、テレビや新聞で大騒ぎになっていくのに唖然とした記憶が浮かんできました。 街は焼け野原で、黒いラベルが貼られていた体育館や陥没して亀裂が走った運動場は避難の人たちが暮らしていらっしゃった頃です。そんな光景を見ながら知った事件は異様な印象だけ残して記憶から消えていたように思います。「あれは、なんだったんだろ?」 忘れていた、あの頃のゾワゾワする不安な感じが湧き出してきて、落ち着かない気分が、映画を見た帰り道を歩きながら浮かんできました。「あの子、ずっと、Heの娘で生きてきたんやんな…」 で、彼女が、我が家の愉快な仲間たちの一人とまったく同い年だということに気付きました。小学生だった頃から、ただの一度も忘れることができない暮らしを彼女は生きて、いや、生きさせられて、今、42歳だかなんですよね。映画で、ボクが受け取ったのはそのことだけなのかもしれません。やりきれないような気分が湧いてきました。 映画が伝えようとしていることがわかったわけではありません。ただ、なんだか、とても、いやな社会に自分も生きていることを痛烈に感じました。 撮った長塚洋という人も勇気のある人だと思いましたが、撮らせた松本麗華という方の覚悟のようなものにうたれました。どうか、へこたれずに生き抜いてほしいですね。拍手!監督・プロデューサー・撮影 長塚洋撮影 木村浩之編集 竹内由貴整音 西島拓哉音楽 上畑正和チェロ演奏 大町剛アニメーション 竹原結2025年・119分・G・日本2025・07・24・no112・元町映画館no311追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.27
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木田元「なにもかも小林秀雄に教わった」(文春新書) 木田元という2014年、85歳で亡くなった哲学者の、素人にも読める本のほうにハマっています。きっかけは精神科医の計見一雄という人との対談集「精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ」(計見一雄・木田元共著 講談社 2010年)という本を読んだことなのですが、いわゆる「現象学」に興味を感じてしまった結果です。 ハイデガーとかメルロ・ポンティのあれですね。マア、「現象学」とかについては、惨敗、投げ出し、に終わっているのですが、木田元という哲学者の素人向けのエッセイに出会えたことはラッキーでした。 で、今回案内する「なにもかも小林秀雄に教わった」(文春新書)は、1945年、敗戦を江田島で体験した16歳の少年が、戦後の混乱を生き抜きながら哲学者木田元へと変貌していく過程を、ほぼ、50年後、2008年に振り返った青春記、読書体験記という趣の回想記です。 江田島から送り出され池袋でテキ屋の手先に 昭和二十年の第二次大戦敗戦の日を、私は広島県の江田島にあった海軍士官養成機関の海軍兵学校で迎えた。八月六日に広島の原爆投下を間近で目撃し、十五日に敗戦の玉音放送なるものを聴かされて、一週間ほど放心の日を過ごしたあと、その江田島から送り出された。むろん学校が閉校になったのだ。そのとき私は、きれいさっぱり一冊の本ももっていなかった。幼少期を過ごした満州の新京(長春)から、その年の三月末に、物ごころついてからはじめて海を渡って日本にやってきて、海軍兵学校に入学したのである。子どものころ読んでいた本はすべて新京に置いてきたし、満州からの旅の途中で読んできた本も、入学のときすべて放棄させらたので、在学中は無愛想な教科書以外なにも読まなかった。さぁ、戦争に負けたから家に帰ってよろしいと言われても、海を渡って満州に帰るわけにはいかない。近い親戚はみな満州に集っていたし、日本にいる遠い親戚のことは何も知らなかった。(P14) こういう書き出しです。ここからの、いわば、疾風怒濤の暮らしぶりについては 「闇屋になりそこねた哲学者」(ちくま学芸文庫)という回想記に詳しいのですが、この本では、読んだ本を焦点化して、読んだ作品をたどっていて、漱石に始まり、龍之介、そこから芭蕉、江戸の俳文、あれこれあって、小林秀雄です。 小林秀雄からほ、当然、ランボー、中原中也、ドストエフスキーと展開していくわけで、そのあたりの面白さについては、本書を手に取っていただくほかないのですが、ボクが今回「ああ、そうだった!」 と、自分自身の体験を思い出しながら読んだのは第十一章「モオツァルト」でした。誰もが引用するところなので気が引けるがと断りながらK516の、あの旋律について小林秀雄が語っている部分の引用が、まずあります。 確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に,「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた、「かなし」という言葉の様にかなしい。(小林秀雄「モオツァルト」) もう、「ああー!」でした。青年木田元が。そこからモオツァルト信者になっていく話が、前後で語られているのですが、ボク自身が高校時代、世界史の先生だったM先生の導きで、江藤淳から小林秀雄を読み、独身だった先生のアパートにお邪魔してモーツアルトのレコードを聴かせていただいた50年以上昔の記憶が蘇ってきたのですね。 まあ、ボクの場合は、高校生にありがちな、その場限りの安直な小林秀雄教、モーツァルト狂いを体験したにすぎませんが、本書における木田元の手の広げ方の先には、いよいよハイデガーの芸術論とかが待っているわけで、結構、覚悟してお読みいただかないと、かもしれません(笑)。とりあえず、目次を貼っておきます。目次敗戦直後俳文学遍歴父の帰国読書三昧小林秀雄との出会いドストエフスキー耽溺さまざまなドストエフスキー論ドストエフスキーとキルケゴール哲学へ芸術と哲学『モオツァルト』言葉について週刊 読書案内 2022-no80-no786 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.26
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ザラ・ドビンガー「KIDOO」元町映画館 チラシを見て、「キドーって、なんやねん?」 まあ、そういう興味で見ました。ザラ・ドビンガーとかいう、オランダだかの若い監督の「KIDOOキドー」です。 チラシの文句をつかえば「あんたのママになりたかった。」 という、ちょっとアブナイ雰囲気の母親が「ずっとママが恋しかった」 という、ナカナカよくできた娘を「人生は0か100かよ、キドー!」 という、叫びのような誘拐宣言で連れ去ることで始まるロード・ムービーでした。 で、いきなり、「キドー!」 でした。どうも、大人が、親しい子供に呼び掛ける「あんた!」とか、「お嬢ちゃん!」とかいう呼びかけ語のようですが、いい響きでしたよ。 ハリウッドの女優崩れよろしく、オンボロではあるのですが、やたら嵩のたかいアメ車に乗り込んで登場し女性が「ポーランドのおばあちゃんのところへ行く!」 という言葉通り、オランダからドイツを越えてポーランドまで少女と二人で行って帰ってくるお話で、そこがチラシの暗示するアメリカン・ニューシネマの味わいと決定的に違う、今の映画だと思いました。 たとえば、「俺たちに明日はない」は、結果的に破滅への道を歩んだボニーとクライドでしたが、この作品「KDOO」では、もう、指切りなんかしないで、今を生き、未来を信じる二人のはみ出し者、ルーとカリーナを描いたところに胸うたれました。 旅の始まりには、カリーナが100の怒りなのか、100の哀しみなのか、あるいは、100の喜びなのか、胸から溢れ出てくる叫びを広い野原に向かってあげるの、おびえるように見ていたルーが、下のチラシの写真のように、旅の終わりに指切りを拒否し、母と共に叫びをあげる姿に「この娘も、おかーちゃんも、大丈夫!」と、胸をなでおろす老人でしたが、映画は母と娘の再会、ためらい、確執、そして、ともに声を張り上げて叫ぶことができる和解、指切りのいらない別れを描いた、とても納得のいく作品でした。 まあ、それにしても、ラストシーンの薄暗い静けさに見入りながら、思わず「カーちゃん、やっぱり消えっちゃったね、キドー!」 と呼びかけずにはいられませんでしたね。拍手! ただのロード・ムービーでは終わらせないというか、壊れたカー・ステレオから聞こえてくる音楽といい、「ボニーとクライド」とか「テルマとルイーズ」とかを彷彿とさせる映画ネタといい、あの手この手で引っ張ってくれて面白いのですが、ルーのポケットから出てくる、お友達のヘクトくんがヘビだというのが、ちょっとね。最初、彼女の手に絡まっているヘクトくんを見たときから、気になって困りました。荷物の中に行く方をくらましていたヘクトくんですが、最後の方で、殻を脱いだようで、多分、描きたいことの象徴のように映画の中にいるんだと思いますが・・・。 はい、ボク、ヘビ嫌いなんです(笑)。 ああ、それから、上のチラシの、やたら大声で絶叫するシーンですが、先ごろ見た「年少日記」という作品でも、そっくりなシーンがありました。一人一人の人間が「ことば」にならない塊を胸の奥に抱えて生きているということが、世の中では、何とか障害とか、何とか失調とか、ホントは何もわかっていなのに、わかったような用語に置き換えてわかっているかのように扱われちゃうんですよね。「ママになりたかったカリーナ」 なぜ、彼女はママになれなかったのか、なぜ、ルーを誘拐しないと一緒に旅ができないのか、結局、ラストシーンでどこに消えてしまったのか、そこを100の今を生きる絶叫で描こうとしているところに共感しました。「カリーナ、それで、いいのだ!キドー!」 ですね(笑)。 ザラ・ドビンガーというこの監督、ちょっと期待しますね。拍手!でした。監督・脚本 ザラ・ドビンガー脚本 ネーナ・ファン・ドリル 撮影 ダウ・ヘニンク美術 ブラム・ドワイヤー衣装 ビータ・メース編集 ファティ・トゥーラ音楽 ジャック・ファン・エクスターキャストローザ・ファン・レーウェン(ルー・娘)フリーダ・バーンハード(カリーナ・母)マクシミリアン・ルドニツキ(グジェゴジュ)リディア・サドウカ(カリーナのいとこ)アイサ・ウィンター2023年・91分・PG12・オランダ原題「Kiddo」2025・07・21・no110・元町映画館no310追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.25
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J・C・リー「バッド・ジーニアス」シネリーブル神戸 見る映画が手詰まりになって、そういえば、これって、面白かったタイ映画のリメイクやんな! とか、何とか、元の作品を見たことが本当にあるのかどうかも、記憶が怪しいのですが、見ました。 2014年のフランス映画「エール!」を2021年に「コーダ あいのうた」という題でリメイクしてヒットさせたチームが、今回は2017年のタイ映画「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」を、リメイクした作品らしいということを小耳にはさんで見ました。 正直、期待外れでしたね(笑)。 リメイク映画が陥りがちな失敗のパターン、原作の、おおらかさ、わけのわからなさが、整理されて、分かりやすいのだけど、つまらないストーリ展開作品化してしまうとでもいう感じの印象だけ残りました。 カンニングを実行する方法が、とりあえず二番煎じで面白さに欠けるという、犯罪映画としてのスリルとサスペンスが薄っぺらくなってしまったのに加え、実行犯である、天才少女と秀才少年のキャラクター設定が、中国ではリアルだったかもですが、アメリカという社会では、なんのリアリティーもないのですね。MITとかコロンビアとかジュリアードとかが「夢」の象徴だった時代なんて、いつのことやねん。音楽の才能が本当にある少女が、ジュリアードにこだわったりするかよ! 中国系やアフリカ系の移民の社会的不遇や貧困の描き方も図式ですね。あれこれ、頭で考えて、筋書きを膨らませたつもりでしょうが、それなりの物語にするためのご都合主義!という印象でした。 ただ、現代アメリカ社会の退廃のムードだけは、カンニングしてでもコロンビアへという受験生たちや、その親の姿に強く感じましたね。トランプを選ぶアメリカというべきでしょうか。彼らに空虚化する現実社会、たとえば、ガザの空爆を批判する知性を期待するのは、多分、無駄ですね。まあ、そういう意味で、アメリカ社会を、結構、シビアに描いていると、言えないこともないのかもしれません。監督・脚本 J・C・リー原作 ナタウット・プーンピリヤ タニーダ・ハンタウィーワッタナー ワスドーン・ピヤロンナ脚本 ジュリアス・オナー撮影 ブレット・ユトキービッチ美術 ブライアン・ケイン衣装 セキワ・ウィ=アフェジ ブルック・ウィルコックス編集 フランクリン・ピーターソン音楽 マリウス・デ・ブリーズ マット・ロバートソン音楽監修ロブ・ロウリー ミア・リギンズキャストカリーナ・リャン(リン・天才少女)ジャバリ・バンクス(バンク・天才少年)テイラー・ヒックソン(グレース)サミュエル・ブラウン(パット)ベネディクト・ウォン(モウ・父)2024年・97分・PG12・アメリカ原題「Bad Genius」2025・07・22・no111 J・C・リー・シネリーブル神戸no320追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.24
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 12」(文藝春秋社) 2025年の7月です。トラキチ君のマンガ便は2025年5月30日の新刊、司馬遼太郎の原作を鈴ノ木ユウがマンガ化している「竜馬がゆく 12 」(文藝春秋社)です。 土佐藩を脱藩し、江戸の千葉道場の居候暮らしの竜馬君ですが、千葉道場の若旦那、千葉重太郎君と連れ立って、幕府にスグウ開国論者、奸賊、勝安房守を切ろうという展開で、坂本龍馬、勝海舟、初対面の場! から始まるのが第12巻ですね。 マンガを届けてくれるトラキチ君も、高校生のころ読んでいたらしいのですが、ボクにとっては、50年前に読んだ、このマンガの原作、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、文春文庫版で全8巻ですが、まあ、原作を読みなおす元気はありませんが、その記憶のたどり直しの気分で、このマンガを読んでいます。 で、本巻あたりから、やがて「坂の上の雲」(文春文庫・全8巻)にいたる司馬遼太郎の「明治」、あるいは「近代日本」への思いれの始まりですね(笑)。 本巻で竜馬は勝海舟の弟子になりますが、竜馬の心を揺り動かしたのは「土佐」でも、「長州」でも、「幕府」でも、「勤皇」でも、「佐幕」でもない「日本」の発見! ですね。歴史の教科書の記述の常道でいうなら「国民国家」の発見ということになりそうですが、この時、坂本龍馬が夢に描いたのが「海軍」だったと描いているところに、ボクは司馬遼太郎の「明治」への思いれの柱のようなものを50年ぶりに思い浮かべました。 「竜馬がゆく」の主人公は、ここから、所謂、幕末の動乱の数年間を土佐勤皇党、新選組といった、それぞれ勤皇、佐幕のテロの標的にならざるを得ない苦境を生きるわけですが、慶応3年、31歳で世を去ります。 慶応3年というのは、翌年が明治元年です。「竜馬が生きていれば!」 というのが、司馬遼太郎の執筆動機の一つだったかもとか思ったりもしますが、彼は彼で、1996年、72歳で去っています。 実は、ボク自身、竜馬はともかく、膨大なお仕事を残された司馬遼太郎さんの御寿命に、来年には追い付いてしまうのですね。いやはや、なんとも、トホホですね(笑)。 ちょっと余談かもですが、司馬遼太郎は軍国日本を讃えたわけではありませんね。彼は、確か、戦車兵として昭和の戦争に従軍していたことをどこかに書いていたと思いますが、軍国化は近代日本の、痛恨の失敗として、彼の戦後の仕事の底に流れていたことを見落とすと変なことになりますね。「平和」の維持の大切さということが、彼の仕事の大前提だったとボクは思います。週刊マンガ便2025-no067-1140 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.23
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望月智充「海がきこえる」キノシネマ神戸国際 1993年の映画ですから、30年前ですね。ジブリの、当時の若手たちが作ったアニメーションで、原作が「なんて素敵にジャパネスク」(多分、集英社コバルト文庫)の氷室冴子さんです。2008年、51歳の若さで亡くなった「少女小説」の作家ですが、80年代から、90年ころの女子高生にとって「コバルトの星!」だった人です(笑)。まあ、封切り以来、一度も見ていないのですから、見ないわけにはいかないだろう、そんな気分で見ました。望月智充監督の「海がきこえる」です。 いろんな意味で、しみじみと胸うたれる作品でした(笑)。 この方も、もういませんが、大林宣彦監督の尾道三部作でしたか、「転校生」という、ちょっとめんどくさいストーリーの高校生映画を思い出すのですが、あの映画がウケたのが1980年代の初めころだったと思います。で、まあ、このアニメも、その時代が舞台なのですが、ストーリーは、いたってシンプルな転校生モノ! でした。まあ、今のボクには、そこがよかったんですけどね。 登場人物たちが、公衆電話で友達の自宅とか、バイト先とかに電話にかけているのが、やたらと懐かしくて、「スマホもケータイも知らないこの子たちって、神戸の地震の前の子らやなあ。今では、50歳越えてんだよなあ。」 とか、登場人物たちが、その後の40数年間、どんな暮らし方をして、今、どうしているんだろうとか、このアニメーションが作られたころ、作った人も、見た人も、誰一人想像しなかったに違いないことを、帰り道で、何とはなしに思う浮かべました。 まあ、仕事が仕事だっただけに、こういう、あの時代の高校生のドラマ を見ると、そうなってしまうんですよね(笑)。ああ、こういう時代があったなあ・・・・。 って、まあ、問題は、アニメに出てくるこの子らって、今、50歳を過ぎてどうしているんだろう? なのですが、そう思うと、このアニメって、よくできていると思います。拍手!でした。 で、余談もいいところなのですが、この感想を書いていた7月の連休の月曜日、元町商店街を歩いていたのですが、横断歩道を渡ろうとして、中年の鋭い目つきの男性と、所謂「メンチを切る」出来事が起こって、はてな? と思っていると、「シマクマ先生じゃないですか?ボク、Y高の時のMです。」 ジーッと見返していて、なんとなくなシーンが浮かんできて、ちょっとドギマギ・・・・ しました。 あの頃の高校生との、40年ぶりの再会です。彼こそ、ボクにとっては、このアニメの登場人物の一人、一人の一人なのですね。 結果的に、名刺とか渡されて、どっかの大学の先生だったりしたんですが、なんだか、やっぱり、しみじみとしてしまいました(笑)。 今、話題にしているアニメの筋立てとかと、まったく関係ない話なのですが、最近、映画が、まあ、こんなふうに尾を引くという話でした。監督 望月智充原作 氷室冴子脚本 中村香企画 鈴木敏夫 奥田誠治キャラクターデザイン・作画監督 近藤勝也撮影監督 奥井敦編集 瀬山武司音響監督 浦上靖夫音楽 永田茂主題歌 坂本洋子制作 スタジオジブリ若手制作集団キャスト飛田展男(杜崎拓)坂本洋子(武藤里伽子)関俊彦(松野豊)1993年・72分・PG12・日本配給「スタジオジブリ」2025・07・18・no108・キノシネマ神戸国際no38追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.22
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ジェームズ・ガン「スーパーマン」109シネマズハット 2025年の夏を迎えるころ、新しく作られた「スーパーマン」の予告を見ながら、1978年に封切ですから、今から50年前の「スーパーマン」を、今でもお付き合いがある女子大生の方と、まあ、ボクも一応、大学生だったわけですが、連れ立って見にいった記憶が蘇りました。ああ、もちろん、彼女も、もう、女子大生ではありません、ぎっくり腰とかのお婆さんです(笑)。 あれから「スーパーマン」なんて、一本も見た記憶はありません。「スーパーマンか、どうしているんだろう!」 何故だか、そんなふうに、懐かしくなって見ました。ジェームズ・ガン監督の、2025年版「スーパーマン」です。「全てのヒーローの原点にして、頂点!」 下に貼りましたが、チラシの裏面にあるとおり、50年たっても、スーパーマンはスーパーマンでした(笑)。 スーパーマンという、ヒーローの物語が、果たして、現代のアメリカ社会で可能なのかどうか、それが、映画を作っている人達にとって、最大の難問であったことが、実に正直に描かれていて、とても後味の良い作品になっていると思いました。「よそものが、俺たちの××を狙っている!」 アメリカに限らず「〇〇ファースト!」という、聞こえのいい排外主義がやたらウケる時代ですが、「異星人帰れ!」 の大合唱の中で、侵略者に仕立て上げられたクリプトン星人のスーパーマンはどうしたらいいんでしょうね。トランプとかの例をあげるまでもなく、そういう主張をする人たちって、実は、結構、強いんですよね。映画の中ではレックス・ルーサー(ニコラス・ホルト)という天才的悪者の率いる軍団が、やたら強力で、スーパーマン(デビッド・コレンスウェット)くんもたじたじなんですね。ホントに、スーパーマン、勝てるの? ドキドキして見ていたのですが、今回は、もう一人のヒーローが登場して、それが、この方、いや、このワンちゃんでした(笑)。アメリカのエンタメって、ヤッパリ、お上手ですね(笑)。 クリプト・ザ・スーパードッグという名前らしいのですが、クリプトン星犬です(笑)。スーパーマンの口笛を聴くと、地球の果てから駆け付けます。 見ているこっちは、映画を作っている人の目論見にまんまとハマって、「このワンちゃん、いいねえ!(笑)」でした。 いやー、それにしても、今どきスーパーマンで拍手をとろうと、四苦八苦したジェームズ・ガン監督に拍手!でした。 暑くて、うるさい世間に背を向けて、寒すぎるくらい、よく冷えた映画館で見るにはうってつけですね。永遠のヒーロー健在に、まあ、夢物語ではあるのですが、悪者たちにザマーミロ! で、胸がすっとしました(笑)。 今年の様に、暑苦しい夏には、こういうのがいいですね。拍手!監督・脚本・製作 ジェームズ・ガン製作 ピーター・サフラン 撮影 ヘンリー・ブラハム美術 ベス・ミックル衣装 ジュディアナ・マコフスキー編集 ウィリアム・ホイ クレイグ・アルパート音楽 ジョン・マーフィ デビッド・フレミングキャストデビッド・コレンスウェット(クラーク・ケント/スーパーマン)レイチェル・ブロズナハン(ロイス・レイン)ニコラス・ホルト(レックス・ルーサー)2025年・129分・G・アメリカ原題「Superman」2025・07・18・no107・109シネマズハットno65追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.21
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アリ・レイ「クリムト&THE KISS」シネリーブル神戸 選挙も五月蠅いし、家にいても暑いばかりでうたた寝の日々になってしまいそうなので、こういう時はベンキョーや!と一念発起して、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862年~1918年)という、終わりかけていたハプスブルグ王朝の都ウィーンで生きた画家の作品と人物についての映画を見ました。アリ・レイという監督の「クリムト&THE KISS」という、芸術解説映画でした。 解説は丁寧ですし、映像は美しいし、料金が老人料金の2倍だったこと除けば、とても勉強になりました(笑)。 別に、20世紀初頭の西洋絵画や芸術について格別な関心があったり、美術館巡りをしたりという趣味があったりするわけではないのですが、チラシの、多分、「接吻」という絵とかには、「なんや、これは?」という感じの不可解さは持っていたわけで、「ちょっと、見ておこうか。」という鑑賞態度でした。 で、一番、印象に残ったのは、クリムトという絵描きさんが1862年生まれで1918年に亡くなっていたことですね。日本ふうにいえば文久2年から大正7年ですね。森鴎外が同い年生まれで、漱石とか正岡子規が1867年生まれですから、5歳ほど年下ですが、クリムトが明治の文豪とか呼ばれている人たちと完全な同時代人だったことですね。「へえー、漱石と同じ時代の画家が、こんな絵を描いていたのか!?」 まあ、そういう驚きでした。まあ、そいうふうに驚いたからどうなんだと言われても返事に困りますが、やっぱり、ちょっと凄いことに思えるんですよね(笑)。 映画とは何の関係もありませんが、映画館から出てくると、大丸の前でKさんとかいう都知事だかの人が、なぜか、自民党だかの街宣車の上で演説してはるのに出くわしましたが、こちらのシーンも、なんだか、すごかったのですが、ボクには漱石とクリムトが同時代人だったということの方が興味深いですね。 それにしても、暑苦しい夏ですね。監督 アリ・レイ2023年・89分・G・イギリス原題「Exhibition on Screen: Klimt & The Kiss」2025・07・19・no109・シネリーブル神戸no319追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.20
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ジョン・カーニー「Onceダブリンの街角で」キノシネマ神戸国際 古い映画のようですが、監督も、作品名も知りませんでした。チラシを見て気になって、神戸での上映最終日に、実は、朝から大雨だったのですが、「気になるから、やっぱり!」と決意して見に行きました。ジョン・カーニー監督の出世作だそうで、2006年ですから、ほぼ20年前の作品「Onceダブリンの街角で」です。 見てよかったですね。かなりハイレベルな「音楽映画」で、堪能しました(笑)。帰り道も雨模様でしたが、ご機嫌でした(笑)。 妻に先立たれた父親の掃除機修繕業を手伝いながら、ストリートで歌を歌って、暮らしている男と花を売りながら母と娘との三人の生活を、何とか支えているチェコ系移民の女の出会いと別れのお話でした。 男はギターを、女はピアノを弾きながら歌います。歌われる歌の歌詞もいいのですが、二人の演奏がよかったですね。 街角で歌っている足元のギター・ケースの投げ銭を狙うコソ泥くんとのやりとりか、直してほしい掃除機を引きずりながらウロウロする女とか、チェコ語(?)しか話そうとしない女の母親のようすとか、一見、なんでもないシーンがよかったですね。舞台はダブリンでした。音楽映画と言いましたが、ただのラブストーリー向けの音楽映画ではありませんでした。監督に拍手!でした。 結果的に、老いた父親から「すばらしい!」と励まされた男が、まあ、その励ますシーンがまたいいのですが、ロンドンに出発し、女はダブリンで、撚りを戻しにチェコからやってきた夫との暮らしを始めたところで映画は終わりました。 あんなに美しくハモって歌った二人が結ばれないところが、この作品の肝なんでしょうね。うまく説明できませんが、アイルランドのダブリンが舞台だということも心に残りました。 女の、貧しいアパートにピアノが届けらる結末に、やっぱり、拍手!でした。そこはかとなく寂しいんですけどね(笑)。監督・脚本 ジョン・カーニー撮影 ティム・フレミング美術 タマラ・コンボイ衣装 ティツィアーナ・コルビシエリ編集 ポール・ミューレン音楽 グレン・ハンサード マルケタ・イルグロバキャストグレン・ハンサード(ミュージシャンの男)マルケタ・イルグロバ(花売りの女)ヒュー・ウォルシュ(ドラマー)ゲリー・ヘンドリック(ギタリスト)アラスター・フォーリー(ベーシスト)ビル・ホドネット(男の父)ダヌシュ・クトレストヴァ(女の母)マルチェラ・プランケット(男の別れた彼女)2006年・87分・G・アイルランド原題「Once」2025・07・17・no106・キノシネマ神戸国際no37追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.19
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石塚真一「Blue Giant Momentum 5」(小学館) トラキチ君の2025年7月のマンガ便で届きました。石塚真一「Blue Giant Momentum 5」(小学館)、7月の新刊です。 トラキチ君が帰った後、夜中に一人で読みながら思いました。 石塚さんがこのマンガでやっているのは、要するに音楽ビルドゥングス・ロマンだと思い込んで、まあ、好きなこともあって読んできましたが、今回、大ちゃんが参加したジャズ・コンペの描き方を読んでいて、ちょっと違うことを感じました。「ひょっとして、石塚さんは、ひょっとして、新しい音楽の世界を描こうとしているんじゃないか、それも、音なしで!」 それって、実はものすごい企みなんじゃないでしょうか。 何をいってんだといわれるかもしれませんね。確かに、このマンガは高校を卒業した宮本大君が、仙台から東京、東京からミュンヘン、ヨーロッパからアメリカのシアトル、アメリカでは、西海岸から、ついにニューヨークにやってくるという、絵にかいたような、青春・成長物語です。 で、今回は、ニューヨークで苦闘している大ちゃんが、セントルイスで開かれているインターナショナル・ジャズ・コンペティションに参加するためにセントルイスにやってきて、第一次審査のシーンが繰り広げられています。 いつものように、様々な人と会う、大ちゃんの不思議な人柄の描写があって、コンペに登場する十数人のキャラクターが紹介されて、一人一人の演奏シーンが描かれています。やがて、大ちゃんの、いつものような、モーレツな演奏シーンになるのですが、その展開を読みながらハッとしたんです。「音が聞こえなかったか?」 大ちゃんのシーンだけではないのです、様々なキャラクターの演奏者の演奏シーンを読んでいて、石塚真一さんは紙のページから音を響かせたい! と思って書いているんじゃないか。で、ちょっと、その音が聞こえてきたんじゃないか。 まあ、サンデー毎日のヒマ老人が、夜中の3時ごろマンガを読みふけっていて、ふと、音を聞いたような気がした! という、まあ、年が年だけに、ひょっとしたら違う心配の始まりのような話なのですが、このマンガ、ちょっと凄いことになりつつあると思うんですよね。次号は、いよいよ、コンペの最終審査です。大ちゃんは、ホントに勝つんでしょうか? 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.18
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李相日「国宝」109シネマズハット 封切られて一か月、なんだか大評判、大好評の映画なんです。ボクは横道世之介君くらいから関心を失ってしまっている吉田修一の原作だというだけで、まあ、読みもしていないのに「ふーん・・・」 と傍観していたのですが、先日、久しぶりにお出会いした、ロシア映画の紹介イベントを元町映画館の2階で続けていらっしゃるOさんという、まあ、ボクから見ればロシア文学、ロシア映画のプロなのですが、彼女の「すごいわよ!」 の一言に促されて見ました。 李相日監督の「国宝」です。 月曜日の109シネマズハットだったこともあって、評判のわりには安心の客数でしたが、ここのところ映画館では見かけない若い女性のグループとかいらっしゃって、ちょっと嬉しかったですね(笑)。 で、映画ですが、はい、みなさんが嘆賞していらっしゃる理由がよくわかりました(笑)。 吉沢亮くんと横浜流星くん、健闘していましたね。ボクは歌舞伎の、それも女形の世界なんてものは全く知りませんが、女形を演じるお二人の、繰り返しクローズアップされる舞台姿のあでやかさ、早変わりや小道具を弄ぶ所作の美しさは、お二人の所作が、よくぞこれだけの映像化に耐えたものだなと、目を瞠りました。 曽根崎心中のお初、縁側の場で、縁の下の徳兵衛を口説くシーンが、この作品の歌舞伎シーンの山場だったと思いますが、喜久雄のお初には見惚れましたね。 涙がこぼれました(笑)。 もっとも、ボクは、縁の下に宇崎竜童がいる40年以上も昔の映画のシーンを思い出したりもして「曽根崎心中は、やっぱり、スゴイなあ!」とか、なんとか、見当違いのカンドーに浸ったりしていて、まあ、あてにはなりません(笑)。 で、ストーリーというか、物語についてですが、喜久雄少年の背中に刻印された入れ墨に、ヤクザの息子が河原者の王になりあがっていく! という、ある意味、この国の芸能史においては、忘れられている、あるいはタブー化されている?、起源の物語をシンボル化して描いていると感じさせる、まあ、原作者だか、監督だかの意図を感じて面白かったですね。 リ・サンイルという在日の監督の外からの視線の俊逸さに拍手!でした。「キングダム」の始皇帝役で顔を覚えていた吉沢くんと、「春に散る」で覚えた横浜流星くんだったのですが、頑張ってましたね。拍手! 実は、密かに田中泯の踊りに期待していたのですが、考えてみれば、彼も、もう80歳ですからね、大きな動きはあまりなくて残念でしたが、手の動きとか、さすがでした。拍手!です。監督 李相日原作 吉田修一脚本 奥寺佐渡子撮影 ソフィアン・エル・ファニ編集 今井剛音楽 原摩利彦主題歌 原摩利彦 井口理キャスト吉沢亮(立花喜久雄・花井東一郎)横浜流星(大垣俊介・花井半弥)渡辺謙(花井半二郎)田中泯(小野川万菊)寺島しのぶ(大垣幸子)高畑充希(福田春江)森七菜(彰子)三浦貴大(竹野)見上愛(藤駒)少年・喜久雄黒川想矢少年・俊介越山敬達永瀬正敏(立花権五郎)嶋田久作(梅木)宮澤エマ(立花マツ)中村鴈治郎(吾妻千五郎)芹澤興人瀧内公美2025年・175分・PG12・日本・東宝2025・07・14・no105・109シネマズハットno64追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.17
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ババク・ジャラリ「フォーチュンクッキー」シネリーブル神戸 アメリカで暮らすアフガニスタンの人の話、もう、それだけで、「えっ?それって・・・?」 という気分で見に行きました。 ババク・ジャラリという監督の「フォーチュンクッキー」という映画です。 この映画の原題は「Fremont」、フリーモントというのはアメリカのカリフォルニヤ州にある町の名前で、シリコン・バレーの労働者の町のようですが、1978年からのソビエトの軍事侵攻によるアフガニスタン戦争で、アメリカに逃げた人たちが集まったところのようですが、2001年以来、今度は、タリバンを標的にしたアメリカの空爆という戦争から、多分、ヨーロッパ経由で逃げた人たち、で、米軍撤退のあとはタリバンによる親米派に対するテロから逃げなければならない人達が集まっている町のようです。 この作品の主人公であるドニヤさんは、大学を出て英語ができるという理由でしょう、進駐米軍で通訳として働いていた20代の女性ですが、米軍撤退後、特別ビザで命からがらアメリカに逃げてきて、今は、フリーモントで暮らし、中国系の経営者のクッキー工場で働いています。 包み紙の中に、占いカードが入っているからフォーチュン・クッキーというらしいお菓子ですが、その占いのカードの製作者の突然の頓死によって、仕事が回ってきたドニヤさんが作ったカードの言葉の一つに「どうしようもなく幸せになりたい ドニヤ」 というメッセージを忍ばせたところからお話が動き始めます。 あのアフガニスタンから、あのアメリカに逃げてこなければならなかった人が、こんなにたくさんいらっしゃるということに、まず、驚きましたが、その一人である、ほとんどセリフらしいセリフを喋らない若い女性が書き付けた、このことばの分厚さに唸りながら、何の力みをも感じさせない映画の展開に浸りました。 全編モノクロで、よくわかりませんが画面のサイズも普段の映画とは違い、16ミリ映画のようでしたが、1970年代から続く戦争の渦中の国に生まれ育った人たちが作っている作品の厚みというか、深さというかを強く感じました。 監督のババク・ジャラリという人も、おそらくアフガニスタンの出身でしょうね。出演者の皆さん、スタッフ、監督に拍手!でした。 ドニヤさんがカードに書き付けた、例えば、もう一つ上げれば「あなたは幸せを追わず、作る人」とかいう、未来に対する、あてにならない、まあ、占いですから希望のことば に込められた、絶望的な境遇を生きるほかない人たちのこころについて、この映画を見ながら、もちろん、ボク自身もそうなのですが、リアルな実感を共有することができる人が果たしてどれくらいいらっしゃるのでしょうね。そこはかとないユーモアとさみしさは受け取りながらも、この映画の底にある世界の現実から目を背けて暮らしている生活の「幸せ」の意味を考え込まずにはいられませんでしたね。 心に残る作品でした。拍手!監督・脚本・編集 ババク・ジャラリ脚本 カロリーナ・カバリ 撮影 ローラ・バラダオ美術 ロブ・リウッタ衣装 キャロライン・セバスチャン音楽 マフムード・シュリッカーキャストアナイタ・ワリ・ザダ(ドニヤ・アフガニスタン移民)グレッグ・ターキントン(アンソニー・医師)ジェレミー・アレン・ホワイト(ダニエル・整備工)ヒルダ・シュメリング(ジョアンナ・同僚)エディ・タン(リッキー・フォーチュンクッキー経営者)ジェニファー・マッケイ(リン・リッキーの妻)シディク・アーメド(サリム・隣人)エイビス・シースー(ファン・同僚)バン・イブラズ(ミナタ)ティムール・ヌスラッティ(スレイマン)ディビア・ジャカットダー(アマヤ)アジズファジル・セディキ(アジズ)モリーモリー・ノーブル2023年・91分・G・アメリカ原題「Fremont」2025・07・04・no100・シネリーブル神戸no318追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.16
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ニック・チェク「年少日記」シネリーブル神戸 ニック・チェクという香港の、おそらく、かなり若い監督の「年少日記」という作品を見ました。見終えてから一月たつのですが感想に難渋しています。まあ、しかし、ボクにとっては備忘録でもあるわけで、何とか書き終えておこうと思います。 とりあえず書いておこうと考えたのは、この作品が、とてもいい作品だ! と、ボクが考えているからです。 で、その評価の理由は二つあります。その理由の一つは、主人公の設定でした。書いちゃうと叱られそうなんですよね。でも、その設定に、ボクは心うたれたんです。 映画の冒頭のシーンだったと思います。可愛らしい少年が、香港全体が見渡せるらしい10階を超えるビルの屋上の柵になっているコンクリートの塀の上に座っていて、向こう向きにフッと姿を消します。「あっ!?」 ドキッとして、声をあげたくなるシーンなのですが、彼が飛び降りたのは外壁の柵になっている、その塀の向こう側にあるスペースだったことが明かされて、ちょっと、ホッとして映画は始まりました。 そこから、この可愛らしい、その少年が、今のことばでいえば虐待としかいいようのない、両親からの折檻に耐えながら、何とか生き延びる方法を探すかのように書き綴った日記の哀しく切ない日々の情景が、美しいピアノ曲の響きの中で繰り広げられます。「この子は、どうなるのだろう?」 無責任な観客である老人は、両親、特に父親から見れば、出来が悪くて手の施しようのないこの少年こそがこの映画の主人公で、この少年が、それ相応の、それこそ、今の流行り言葉でいえばPTSDとかに苦しめらながら生き延びていく姿を予想し、両親や、出来のいい弟の振る舞いに半ば呆れながら、そんなふうに見ていたのです。 ところが、全編を見終えて、この最初のシーンを思い出し、そこから始まる、この少年をめぐるすべてのシーンは、幼くして死んでしまった兄が残した日記を、残された弟が、少年時代から、映画の今である、成年に達するまで、繰り返し読む中で、繰り返し思い浮かべた心象映像だったことに気付いて唸りました。 最初のシーンを見ているボクの前で少年は無事でしたが、実は、この日記を繰り返し読む弟が繰り返し思い浮かべていたシーンだったのですね。「もう、これ以上、殴るにもあたいしない。」 という父親の発言に、ついに耐えきれなくなって幼い命を絶った兄のPTSDを引き受けたのは弟だったのです。「あの、優しい先生のような、先生になる。」 と兄が書き残した夢を生きようとする弟の心の底にわだかまるこわばりを「ことばにならない叫び」 という形で描いた監督のセンスに唸りました。 兄を失い、母が去り、老いた父親を見取りながら、恋人との間に生まれてくるはずだった新しい命を拒絶してしまう弟に、青年教員であるという主役の座を与え、同じように苦しむ生徒たちとの出会いによって希望を与えようとする、この若い監督の素朴で真摯な映画観に拍手!でした。 で、この映画を評価するもう一つの理由ですが、これが、現在の香港の監督によって撮られているということです。 子どもを折檻することで、社会的な成長を促すとか、あるいは、自分にはできなかった文化的なというか、教養的なというか、例えばピアノを習うとか、文学全集をそろえるとか、学校の成績がいいとか、いい学校に行くとか、いってしまえば、自分自身には経済的に不可能だった「カッコよさ」を期待するとかいう態度は、成り上がりの親たちの、ありがちな特徴の一つですね。 ボクなんかが子どもだった時代、1960年代からの20年間ぐらいによく見かけたシーンです。そういう、今となっては時代遅れと思われる父親像を、この監督は何故描いているのかというところに、引っかかったんですね。 答えは、香港の監督だからということですね。中国による香港に対する暴力的支配の過程に対する映画的批判とでもいうべきかもしれませんが、ボクは主人公が香港の街を見下ろす丘の上で、言葉にならない叫びをあげるシーンに、ふと、そんなことを考えて拍手!でした。まあ、牽強付会ですけどね(笑)。監督・脚本 ニック・チェクキャストロー・ジャンイップロナルド・チェンショーン・ウォンハンナ・チャンカーティス・ホー・パクリム2023年・95分・PG12・香港原題「年少日記」・英題「Times Still Turns the Pages」2025・06・09・no086・シネリーブル神戸no314追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.15
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F・W・ムルナウ「最後の人」元町映画館 元町映画館がシリーズでやっている「サイレント フィルム ライブ 27」、「ドイツ無声映画の世界」の1本目を見てきました。F・W・ムルナウという監督の「最後の人」という作品です。ピアノ伴奏は鳥飼りょうさんでした。サイレント映画ということにこだわらずに感じたボクに印象を一言でいえば100年前の「老人問題」を描いた作品でした(笑)。 舞台は、多分、ドイツでしょうね、高級ホテルと庶民のアパートが交互に映ります。主人公は、そのホテルのポーターで、やたら立派な制服を着て頑張っています。住んでいるのは庶民のアパートですが、その立派な制服のせいで、同居している姪とか、姪の新郎とか、新郎の叔母さんとかいう家族からも、ご近所の人、世間の人たちからも「尊敬(?)」のまなざしを注がれて、その視線というか、評価というかが、また、彼自身の自尊心、今ふうにいえばアイデンティティーを支えて暮らしています。で、その男が、職場で「老い」を理由に、その制服を取り上げられてらしまう! ところから物語が展開します。 現代のまなざしで見れば、まあ、滑稽としか言いようのない展開なのですが、立派な制服を取り上げられた大男のポーターが失意の底に転落していくのですが、近所の人も、家族も、その見かけ上の変化に対して、恐ろしいほど情け容赦ない様子で描かれていくのは、ある意味、笑うに笑えない展開!でした(笑)。 結末には、こちらも、やっぱり笑えない、見かけからお金へというどんでん返しが用意されているのですが、まあ、ハッピーエンディングといえばハッピーエンディングではあるのですが、アイロニーと取っていいのか、ユーモアと取っていいのか、複雑な気分で見終えました。 100年前に、ドイツで撮った、貧乏ポーターの暗い結末の老人映画 を、アメリカで売るためには、ありえない偶然であったとしても、大金持ちへと変身させる結末が必要であったというこの作品の語る「歴史的事実」が、100年後の世界に対する、痛烈な皮肉であることは、やっぱりスゴイことですね。 ピアノ伴奏だけで、飽きることなく最後まで見せるピアニスト鳥飼さんの技もスゴイですが、映像の力もスゴイですね。拍手!、拍手!でした(笑)。監督 F・W・ムルナウ脚本・原作 カール・マイヤー撮影 カール・フロイントキャストエミール・ヤニングス(ホテルのポーター)マリー・デルシャフト(姪)マックス・ヒルラー(姪の新郎)エミリー・クルツ(新郎の叔母)Hans Unterkirchner(ホテルの支配人)ゲオルク・ヨーン(夜警)1924年・ドイツ・88分原題「The Last Man ・Der Letzte Mann」ピアニスト 鳥飼りょう2025・07・12・no104・元町映画館no309追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.14
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マドーン・アシュビン「マーヴィラン 伝説の勇者」キノシネマ神戸国際 暑いときは、暑いところ(知らんけど)の映画かなとか思って見ました(笑)。マドーン・アシュビンという監督の「マーヴィラン 伝説の勇者」です。インド映画です。マンガ家が、自ら描くマンガの主人公になって「悪」と戦う!という、コメディー・タッチのドタバタアクション映画でした。別に、とりわけこの作品は!とおススメするわけではありませんが、ここのところ、信じられないような猛暑の日々が、神戸でも続いているわけで、異様に冷え切った映画館で、「正義はきっと勝つ!」と信じながら、主人公サティヤ役のシバカールティケーヤンとかいうインドの男前や、彼のマンガを評価する新聞記者のニーラ役のアディティ・シャンカルとか、妹役の美女たちが苦闘するのをハラハラ、ドキドキしながら過ごす午後というも、いいものでしたよ(笑)。 この前、初めてインド映画を見て、人が集まってくる群衆シーンになると、筋立てとは何の関係もなく集団ダンスが始まるのが面白かったのですが、この映画でも踊っていらっしゃいましたよ。これって、インド映画のパターンなんでしょうかね(笑)。 神の声でしょうか、勇者への導きの声に導かれて、臆病者の青年が伝説の勇者になるんですね。で、見るからに「こいつらは悪もんやろ!」という、そろいもそろって悪人顔の「悪もん」と戦うという、マンガ的設定ですが、世界中のあちらこちらに広がっている格差の現実、金持ちによる貧乏人に対する暴力的な収奪の映像として描いているシーンはとても迫力がありましたね。 監督や出演者の皆さんに拍手!でした。 監督・脚本 マドーン・アシュビンキャストシバカールティケーヤン(サティヤ)アディティ・シャンカル(ニラー・女性記者)ミシュキン(ジェヤコディ・悪徳政治家)スニール(パラム・政治家の秘書)ヨーギ・バーブ(クマール・工事人)サリダー(イーシュワリ・母)ビジャイ・セードゥパティ2023年・161分・PG12・インド原題「Maaveeran」2025・07・11・no103・キノシネマ神戸国際no36追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.13
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「東京タワーです!(笑)」 徘徊日記 2025年5月5日(月)東京あたり 2025年5月5日は御覧の通り朝から東京タワーです(笑)。展望台まで登るエレベーターには長蛇の列です。上の展望台に上るには3時くらいまで待たないとダメみたいでした。「エッ?この列に並ぶの?」「モチロンですよ!これくらいは、たいしたことではありません(笑)。」 元気に返事してくれたのはS君です。昨日、東大に連れて行ってくれたS君と、今日はもう一人のS君のダブルエスコートでした。 東京タワーには小学校の4年生だったか、だから60年ほど前に来たことがあります。もちろん、何も覚えていません。で、展望台を歩きながら眺める景色にも、ただ、驚くばかりです。「これが、東京か!?」 芝の増上寺でしょうか。すぐ下に見えました。 こっちのほうは、何の見当もつきません。まあ、場合によっては、この風景もこれで見納めかな・・・とか思いながらの見物でした。 この日は、朝早くから、昨夜から、泊ってとまっていたホテルに、昨日のS君と、東京で暮らしている、もう一人のS君が迎えに来てくれて、文字通り、右も左もわからないお上り老人をエスコートしてくれました。 で、この三人は、とりあえずホテルで、着替えて、二人のS君の同級生O君の結婚式に参加します。皆さん、10年ほど前に勤めていた高校で出会った人たちですが、ホント、親切にしてくれてうれしい経験でした。この日の午後の結婚式の話は、また、徘徊日記に書きますね。じゃあ、これで(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.07.12
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高橋伴明「桐島です」元町映画館 2024年、桐島聡という本名を名乗り、その数日後に亡くなった方の50年の暮らしを描いた作品 を見ました。高橋伴明監督の「桐島です」です。 見終えて、しばらく立ち上がれませんでした。元町映画館の知り合いのおニーさんが入ってきて声をかけてくれました。「どうしたんですか、落ち込んでいらっしゃるようですけど。」「うん、今の映画の人、ボクと同い年で、まあ、早生まれらしいから一年上級生なんだけど、この人がやったこととか、交番の前に顔写真が張られ続けていたこととか、はじめから知ってるんだよね。ボクは浪人したから大学一年だったけど、主人公、多分、大学3年生だったんじゃないかな。あなたたちは知らないだろうけど。ほら、内ゲバの殺し合いとか、交番焼き討ちとか、ハイジャックとか、あのころ。周りに、この人みたいな人、いたんだよね。今はどうしているのか、全く知らないけど。」「ぼくの親父は、少し年上みたいですけど、東京のW大だったようです。でも、まったくかかわりなかったって言ってました。」「うん、いつの時代でも、関係ない人には関係ないんだよな。ボクだって、自分自身が関係あったわけじゃないよ。でも、いたんだよね、近くに。その後、50年、何の音信もないけど、そいつが置いていったホントか、レコードとか、なんとなく捨てられないで今もあったりする奴がね。なんか、心のどこかに引っかかっちゃっていて、交番の前に何十年も張り出されている、この映画の主人公の写真見たりすると、あいつ、どうしてるんだろうとか、その友達のこと思い出したりするんだよね。」「爆弾とかの人ですか?」「いや、まあ、完全には否定できないけど、だって、そういうきな臭い時代はすぐに終わったからね。でも、この映画、主人公をバカにしていないし、特別視もしていないところがいいんだよね。」 まあ、50年前というのは、そういう時代だったということでしょうか。「遅れてきた青年」という言い方がありますが、妙にアナーキーで収拾のつかない生き方を選んじゃったりするんですよね。そんなことをしみじみ考えた映画でした。やっぱり拍手!ですね(笑)。 で、帰り道ですけど、映画の中で主人公が歌っていた、まあ、若くして死んじゃいましたけど、河島英五の歌の一節が浮かんできました。めだたぬように はしゃがぬように似合わぬことは無理をせず人の心を見つめ続ける時代遅れの男になりたい もう一度、しみじみしちゃいましたね。そういえば、映像の向こうに、ずっと響いていたギターは憂歌団の内田勘太郎だったし、最後に現れたのは関根恵子、いや、今は高橋恵子か? 河島英五は少し上ですが、内田も、関根も、桐島もみんなボクと同学年ですよね。 主人公の桐島くん、本気で「めだたぬように、はしゃがぬように」50年生き抜いたんですよね。森田童子だったか、誰の歌だったか、「もう一度やり直すどんな生き方があるだろうか」 というのがあった気がしますけど、最後に「桐島です。」と名乗った彼だけじゃなくて、いったい誰にやり直すことなんてできるというのでしょうね。みんな、一回きりを、生きているんですよね。 高橋伴明監督が、一回きりをそのようにしか生きられなかった、主人公を貶めることなく、普通の奴として描いていたことに、もう一度、拍手!でした。 見るのに、かなり躊躇しましたが、見てよかったです。監督・脚本 高橋伴明脚本 高橋伴明プロデューサー 高橋惠子 高橋伴明撮影監督 根岸憲一編集 佐藤崇音楽 内田勘太郎キャスト毎熊克哉(桐島聡)奥野瑛太(宇賀神寿一)北香那(キーナ)原田喧太(ケンタ)山中聡(小林社長)影山祐子(美恵子)テイ龍進(金田)嶺豪一(新井)和田庵(たけし)白川和子(番台のおばあちゃん)下元史朗(刑事)甲本雅裕(隣の男)高橋惠子(AYA)海空(ヨーコ)伊藤佳範宇乃徹長村航希安藤瞳咲耶趙珉和松本勝秋庭賢二佐藤寿保ダーティ工藤2025年・105分・G・日本2025・07・07・no102・元町映画館no308追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.10
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小山哲・藤原辰史「中学生から知りたい ウクライナのこと」(ミシマ社) 岡真理・小山哲・藤原辰史「中学生から知りたい パレスチナのこと」(ミシマ社)という本を読む中で見つけた本の1冊が、小山哲・藤原辰史「中学生から知りたい ウクライナのこと」(ミシマ社)という今回案内するこの本です。ミシマ社という小さな(多分)出版社の本です。「ガンバレ、ミシマ社!」 まあ、そんなふうに声をかけたくなる本でした。小山哲さんというポーランド史の研究者と藤原辰史さんという農業史の領域から歴史を研究なさっている、ともに京都大学で教えていらっしゃる二人の学者さんが、今、ロシアの攻撃を受けて戦っているウクライナという国の歴史に視点を据えながら、「両国の関係」、「宗教と民族」「地域の特徴」をめぐって、それぞれが講義され、たがいに対談なさっているという本です。 具体的な記述や話し合いの内容や、お二人のこの戦争に対する考え方を知りたい方は、どうぞ本書を手に取っていただきたいと思います。「中学生から知りたい」と銘打っていますが、ゴジラ老人には、ほぼジャスト・ミートな内容でした。 私が小学生のころ「戦争を知らない子供たち」という歌がヒットしました。小学生のクラスで作った歌集に入っていて、遠足に行くとき、バスの中でみんなで歌った記憶があります。ふりかえってみて、大学生時代の私の歴史学への疑いの気持ちは、「戦争を知らない子ども」のひとりとしての感覚に根ざしていたように思います。 しかし、子ども時代のの私は、本当に戦争を知らなかったわけではありません。ヴェトナム戦争は私が生まれる前からはじまっていて、私が中学を卒業するころに終結しました。確かに私の頭上に爆弾が降ってくることはありませんでしたが、在日米軍はこの戦争の戦略に深く組み込まれていて、藤原さんが対談のなかで触れているように、日本でも反戦運動が起こっていたのです。 歴史の勉強を続けるうちに、私は。自分が戦場で敵を銃で売ったり、敵から爆撃されたりする体験を持たないという意味で「戦争を知らない」ことは素晴らしいことだけれども、実際に起こった(あるいは、起こっている)戦争を認識しないという意味で「戦争を知らない」ことは、知的な態度として、また倫理的にも、よくないことではないか、と考えるようになりました。ヘロドトスやトゥキュディデスの歴史叙述の意義についても、今の私は、学生時代とい時代とはちがった視点で受けとめています。(P205) 小山哲さんが「おわりに」と題したあとがきで述べていらっしゃる一節です。「戦争を知らない」ことは、知的な態度として、また倫理的にも、よくないことではないか 何気ない言葉のようですが、この年になって「今さら」という気分に陥りがちな、彼よりも10歳ほど年長ですが、同じ時代を「戦争を知らない」中学生、高校性としてすごしていたことを思い出しながら、読み終えた老人を励ましてくれた言葉です。 中学生、高校生には、決して「わかりやすい」というわけではないだろうなという内容ですが、若い人たちが手に取ってくれるといいなという本でした。 目次と著者のプロフィールを貼っておきますね。小山さんの著書は読んだことがありませんが、藤原さんの著書で「ナチスのキッチン」(水声社)とか「トラクターの世界史」(中公新書)とか、ボクも読みましたが、なかなか評判らしくて、面白いですよ。目次はじめにⅠ ウクライナの人びとに連帯する声明(自由と平和のための京大有志の会)Ⅱ ウクライナ侵攻について(藤原辰史)Ⅲ 講義 歴史学者と学ぶウクライナのこと 地域としてのウクライナの歴史(小山哲) 小国を見過ごすことのない歴史の学び方(藤原辰史)Ⅳ 対談 歴史学者と学ぶウクライナのこと(小山哲・藤原辰史)Ⅴ 中学生から知りたいウクライナのこと今こそ構造的暴力を考える(藤原辰史)ウクライナの歴史をもっと知るための読書案内(小山哲)おわりに小山哲(コヤマサトシ)1961年生まれ。京都大学大学院文学研究科教授。専門は西洋史、特にポーランド史。共編著に『大学で学ぶ西洋史 [近現代]』、『人文学への接近法――西洋史を学ぶ』など。藤原辰史(フジハラタツシ)1976年生まれ。京都大学人文科学研究所教授。専門は現代史、特に食と農の歴史。著書に『縁食論』(ミシマ社)、『トラクターの世界史』『カブラの冬』『ナチスのキッチン』(河合隼雄学芸賞)、『給食の歴史』(辻静雄食文化賞)、『分解の哲学』(サントリー学芸賞)など 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.09
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徘徊日記 2025年5月4日(日)「東大です!(笑)」東京あたり 御覧の通り、東大安田講堂です。2025年のゴールデンウイークです。 お昼過ぎの新幹線で新神戸を出発しました。神戸の街も人でいっぱいでした。途中、富士山が見えました。 夕刻、到着した東京駅では10年前、勤めていた高校の図書館で遊び相手をしてくれていたS君が出迎えてくれました。「ホテルに行くには少し時間がありますが、どこか行きたいところとかありますか?」「うん、漱石の小説の舞台とかどう?」「ああ、漱石ですか、こころとかですね。じゃあ、Kとかの学校の東大行ってみません?」「いいよ。ボク、50年ほど前に行ったことあるけど。君はあっこの学生になりたいとか思ってたの?」「いえ、ボクの柄じゃないでしょ。」「いや、そうでもなかったんじゃないの?ところで、東大って東京駅からは近いの?」「いや、ぼくもはじめてですから。ああ、あのへんですね。大丈夫です。行ってみましょう。付いてきてくださいね。」 というわけで、どの駅で降りたのか全く覚えていませんが、赤門とか安田講堂とかにやってきました。50年前は安田講堂には近づけなかったような記憶がありますが、なんか、哀れに古びてますね(笑)。 で、そのまま、大学構内を突っ切って不忍池か上野駅あたりまで歩きました。 富士山を見て東大ですね。写真とか全く撮っていないのは何故なんでしょうね。「こうなると明日はやっぱり東京タワーかな(笑)。」「はい了解です。」 ホント、S君はいい奴ですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.07.08
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橋本治「桃尻娘」(講談社文庫) 今では、もう、いなくなった人たちの作品で、だから、まあ、爺さん婆さんたちが若い頃に熱中した作品で、今の若い人たちに読書案内するならどんな作品がいいんだろう?まあ、そんな風に考えて、ピンボケだろうが、なんだろうが、この人なら、今の、高校生とか、大学生とかにも、読めるかな?と思いついた先頭バッターが橋本治です。 2000年代に入ったころ、異様なブームがありましたが、実は、橋本治の始まりは1970年代の終わりからです。当時、大学生だった、今、70代前後の、まあ、ボクたちの前に、ちょっと年上の変な作家として登場した人です。なにがヘンかって? だって、イラストとか、編み物とかしている東大出のおニーさんですからね。まあ、好き好きですから人それぞれでしょうが、たとえば、ボクなんかには、ジャスト・ミートでした。 で、今日は、まず、小説です。「桃尻娘」(講談社文庫)、「ももじりむすめ」と読みます。 大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒おいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。夜ソーッと階段下りて自動販売機で買ったりするんだけど、それもあるのかもしれないわネ。家(うち)にだってお酒くらいあるけど、だんだん減ったりしてるのがバレたらヤバイじゃない。それに、ウチのパパは大体洋酒でしょ、あたしアレそんなに好きじゃないのよネ。なんていうのかな、チョッときつくって、そりゃ水割りにすればいいんだろうけどサ、夜中に冷蔵庫の氷ゴソゴソなんてやってらんないわよ、そうでしょ。やっぱり女の喉って、男に比べりゃヤワ出来てんじゃないの、筋肉が違うとかサ。 その点日本酒はねえ、いいんだ、トローンとして、官能の極致、なーンちゃって、うっかりすると止められなくなっちゃうワ。どうしよう、アル中なんかになっちゃったら。ウーッ、おぞましい。やだわ、女のアル中なんか。男だったらアル中だってまだ見られるけど、女じゃねえ。今から男にもなれないし、いいけどね。 マ、そんなもんなのよ、高一って。 これが、「桃尻娘 一年C組三十四番 榊原玲奈」という、橋本治の、一応、デビュー作の書き出しの第1章の全文です。 懐かしい人には、懐かしいでしょ(笑)。初めての人に、ちょっと説明すると、1970年代の東京の高校生の日常が描かれていて、たとえば、第2章の始まりはこうです。今日、アレが来た。 まあ、何が来たのか気になる方は、本書をどこかでお探しいただきたいわけですが、なかなか「ヤルナ!」と思わせる高校1年生の玲奈ちゃんのお話での始まります。 橋本治は、この作品の、ほぼ、30年後、2005年に出版した「橋本治の行き方」(朝日新聞社)というエッセイ集の中で、この作品について、こんなふうに言ってます。 大学の教授は、「私達に分かるように」と言った。それを聞いた二十一の私は、やっぱり、ひそかに舌なめずりをしてしまった。私の文体的ややこしさは、そこから始まる。私はそこで、「大学教授の理解しうる範囲」を、勝手にシュミレートし始めたのである。だから、私のデビュー作は、「女子高校生の言葉だ」だ。文体がへんであっても、言語の構造が明確で、語られるべき内容があって、「読者に対して説明する」という機能が備わっているのだったら、それは「私達に分かるように」を、満足させているだろうと、私は思ったのである。 大学の教授というのは、彼が在籍していた東大の国文科の先生のことですが、東大紛争のさなか、学部に進学してくる学生さんに、論文とか書くときに、ネタは自由だけど、「私達に分かるように」とおっしゃったらしくて、学生だった橋本君が、それを聞いて桃尻娘とか書くわけです。「女子高生のへんな言葉でも、ちゃんと分かるように書いてあったら分かるだろう」と思ってデビュー作を書いた私は、「へんな女子高生の言葉で書かれたものはへんに決まっている」という受け止め方があるとは夢にも思わなかった。 それに気がついてショックだった。「えー、あの時『こっちに分かるように書けばなんでもいい』って言ったのは噓だったの?」と、しばし天を呪った。(P72) というわけ、この作品、50年前の東大の先生には褒められなかったようですね(笑)。 もっとも、世間的には、この「へんな言葉」がブームになって、「桃尻語訳枕草子」なんていう超絶ロング・ベストセラーが生まれたりしたんですよね。大学の先生的な判断なり感想がどうだったかについて、ボクは知りませんが、「新しい言葉の世界」 を提示した、ある意味とんでもない傑作が「桃尻娘」シリーズだとボクは思いますね。同時代には、村上春樹という、もう一人の「新しい言葉の世界」を描いた人もいるのですが、二人を並べて批評する話を聞いたことはありませんが、橋本治の仕事群のすさまじさをに知らん顔して村上春樹は語れないでしょうね(笑)。 まあ、2025年とかになってのボクの興味は、今の若い人にでも、面白いのかな? なのですが、今や、新しい「へんな言葉」が当たり前なわけで、桃尻語なんて古めかしいのかもですね。思い出の一冊の案内でした(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.07
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ウ・ミンホ「ハルビン」109シネマズハット 上に貼った予告のチラシを見て、「エッ?ハルビン?安重根?今?」 はい、ハルビンという町の名前を見ただけで、伊藤博文暗殺事件の、今ふうにいえば祖国独立のパルチザンにして、テロリスト。殺された伊藤博文が幕末維新の志士だったという言い方になぞらえば、日帝の植民地支配と戦った朝鮮の志士。名前は安重根。日本の70年代の高校の教科書で覚えている読みは「アンジュウコン」で、ハルビンは哈爾浜やんけ、なんてことが、浮かんできて、まあ、年ですね(笑)。封切りの2日目に見ました。 ウ・ミンホ監督の新作、「ハルビン」です。 1909年10月26日午前9時、初代韓国統監にして、大日本帝国の元勲、伊藤博文を、のちの満州国、当時は清国の哈爾浜(ハルビン)駅頭で狙撃・暗殺した、大韓帝国の独立運動家安重根(アン・ジュングン)を主人公にした、歴史サスペンス映画でした。まあ、大好きなタイプの作品でしたね(笑)。 実は、ボクは、大学生のころは国文科だったのですが、卒論とかのテーマが吉田松陰で、彼の松下村塾の、もっとも身分の低い門下生であった、リリー・フランキー演じる伊藤博文が、この作品で、ただのおバカ政治家として茶化されていないことに、とても好感を持ちました。 もう一つ、念のために付け加えると、一応、主人公のアン・ジュングンの描き方に、現代の韓国の観客のための身びいきを感じる方もいらっしゃるかもですが、安重根は暗殺実行犯として、その場で捕えられ、旅順刑務所に収監され、1910年3月26日に処刑されるのですが、彼は「朝鮮独立運動の志士!」 として刑務所の看守や弁護士からもたたえられたという高潔な人柄であったらしいことは、少なくとも、この作品の制作者の創作というか、ドラマ化のための捏造ではなくて、伝記的事実に基づいていると思います。 で、見終えて考え込んだのは、この作品を、2025年の今つくることの意味ですね。 ボクが今まで見てきた韓国映画の歴史ものは、朝鮮戦争あたりからの、南北分断、軍事政権に対する民主化をテーマにした現代史か、ハングルの世宗大王あたりの大韓帝国の宮廷物語だったのですが、ついに「日韓併合」がテーマの映画です。 韓国でこの映画が支持されるのは間違いないと思いますが、日本の観客として見たときに、「反日」、「嫌韓」が両国の主張低音化している今ですがそこから見直さないと相互理解は始まらない! という、とても誠実な作品であることに納得しました。拍手! もう一つ付け加えれば、ウクライナであれ、パレスチナであれ、19世紀のヨーロッパの植民地主義の底にあった「他文化・他民族」を見下し、排斥する考え方 が、無意識なのか意識的なのかわかりませんが、ジェノサイド化している現代の戦争現場にも、再び流れているように感じているのですが、この作品は、例えば日露戦争、日韓併合あたりから30年にわたる大日本帝国の朝鮮、満州、中国、台湾をはじめとするアジア諸国に対する振る舞いの中にもそれはあって、そうであった当事者である日本の側は「テロリスト・安重根」という夜郎自大な暗記理解をさえ忘れ去って、「昔のことは知らない!」 とばかりに、歴史的に見直す契機さえつかみ損ねて開き直っている理不尽を思い起こさせてくれました。 歴史サスペンスとしてもなかなか見せますよ。特に、アン・ジュングン処刑後のラストシーンには拍手!でした(笑)。 監督・脚本 ウ・ミンホ製作 キム・ウォングク脚本 キム・キョンチャン 撮影 ホン・ギョンピョ音楽 チョ・ヨンウクキャストヒョンビン(アン・ジュングン安重根)パク・ジョンミン(ウ・ドクスン禹德淳)チョ・ウジン(キム・サンヒョン)チョン・ヨビン(コン夫人)リリー・フランキー(伊藤博文)パク・フン(森辰雄少佐)ユ・ジェミョン(チェ・ジェヒョン崔在亨)イ・ドンウク(イ・チャンソプ)チョン・ウソン(パク・ジョムチュル)2024年・114分・G・韓国原題「Harbin」2025・07・05・no101・109シネマズハットno63追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.06
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ケリー・オサリバン アレックス・トンプソン 「カーテンコールの灯」シネリーブル神戸 予告編を見ていて、素人の親父さんがシェークスピア芝居、それも「ロミオとジュリエット」を演じるらしいというので興味を持ちました。 見たのはケリー・オサリバンとアレックス・トンプソンというダブル監督の「カーテンコールの灯」、英語の題だと「Ghostlight」です。劇場とかの足元にある灯のことでしょうか。邦題とは少しイメージが違いますね。で、見終えて、まあ、どっちでもいいのかな? という感想でした。いや、映画は面白かったんです。 主役の、ダンという、暴力親父を演じるキース・カプフェラーという俳優さんが、なんというか、朴訥でいい味出してましたね(笑)。 家族の中でいろいろあっても、親父は哀しいって言えないんです。だから奥さんにも娘さんにも、理不尽極まりない暴力を振るってしまうんです。そういうふるまいをする親父というのは、今の社会では、まあ、昔でもですけど、弁護の余地はありませんが、親父は、やっぱり、哀しいんですよね。 こんなことをいうと、ボクだって同居人や、まあ、もう大人ですけど、子供たちから「アホか!反省せい!」 と一喝されて終わりですが、映画の中のダンの振る舞いを見ていて、見ているこっちもやっぱり、哀しくなりましたね(笑)。 まあ、そういうどうしようもない親父が演劇と出会って、あろうことかシェイクスピア、それも「ロミオとジュリエット」にハマるんです。見るんじゃなくて、演じるんです。お芝居を演じることで、こころの殻を破るとか、トラウマ・ケアとかを体験するというのは、もう亡くなりましたが、演出家だった竹内敏晴さんが「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社 ・ちくま文庫)をはじめ。多くの著作で紹介していらっしゃいますが、あるんですね。 そのテーマをドラマ化した作品でした。何とか、コメディタッチで描こうとしているフシがないではありませんが、ひゅうマンで、真摯な仕上がりでした。拍手!ですね。 上のチラシで、抱き合っていらっしゃいますが、ダメおやじ、ダンと、その不良娘デイジー、そして苦労ばっかりしている妻のシャロンをそれぞれ演じているのが、キース・カプフェラー(ダン・父親)、キャサリン・マレン・カプフェラー(デイジー・娘)、タラ・マレン(シャロン・妻)で、どうも、実の家族らしいですね。いろんな作り方があるもんですねえ(笑)。 こういうキャスティングの作品は初めてだったので驚きましたが、うまくできていましたよ。拍手!(笑)でした。 で、まあ、ネタバレということもあって、言わずもがななんですが、ちょっと引っかかったのは、苦しんでいるのはおやじだけじゃないんですよね。にーちゃんが死んでしまったデイジーはもちろんですが、息子を失った哀しみはおかんのシャロンさんも同じです。息子の恋人で、死に損なったクリスティーナちゃんは、多分、もっと大変な気持ちでしょう。そのあたりの描き方が曖昧なんですね。というわけで、そのあたりが残念だったことは事実ですが、ダメな作品だとは思いませんでしたね。 監督・脚本 ケリー・オサリバン 監督・製作 アレックス・トンプソン製作 イアン・カイザー アレックス・ウィルソン ピアース・クレイブンズ エディ・リンカー チェルシー・クラント撮影 ルーク・ダイラ美術 リンダ・リー衣装 ミシェル・ブラッドリー編集 マイク・S・スミス音楽 クイン・ツァンキャストキース・カプフェラー(ダン・父親)キャサリン・マレン・カプフェラー(デイジー・娘)タラ・マレン(シャロン・母親)ドリー・デ・レオン(リタ)ハンナ・ドワーキン(ラノラ)デクスター・ゾリコファー(グレッグ)H・B・ウォード(ジョナ)トミー・リベラ=ベガ(ルシアン)アルマ・ワシントン(モイラ)マシュー・C・イー(マイキー)リア・クビレテ(クリスティーン)2024年・115分・PG12・アメリカ原題「Ghostlight」2025・07・01・no098・シネリーブル神戸no317追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.03
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五百旗頭幸男「能登デモクラシー」元町映画館 2025年の6月の半ばから元町映画館でやっていた能登半島の穴水という町が舞台のドキュメンタリィーのようです。富山湾側の港町ですね。2007年、2024年、2度の大きな地震の被災地ということもあって「見なくちゃ!」と、上映プログラムが午後になるのを待っていました。五百旗頭幸男という監督の「能登デモクラシー」です。 見ました。しみじみと胸うたれました。 見終えて、浮かんでくるのはこのシーンです。 海の上にしつらえてあるのはボラ待ち櫓という見張り台だそうです。で、海の向こうに見えるのは立山連峰ですね。この風景を望む港町が穴水だそうです。 カメラは、手書きで「紡ぐ」という新聞を発行し続けている滝井元之という方を追いかけます。地元の中学校で数学の教員をしていた方だということが分かってきて、一気に引き込まれました。 映画の前半を見ていて、五百旗頭幸男監督がこの作品を撮り始めたのは、過疎と高齢化、2007年の震災もあって限界集落化が進行し、惰性、因習、忖度が蔓延する田舎町に「デモクラシーは可能か?」 という問題意識に促されてのことだったのだろうと感じました。 カメラの視線は、町からは離れた山奥の村に暮らしながら、町の行政や人々の暮らしについて、文字通り手書きで問いかけていく新聞を発行し続けている滝井元之さんとその奥さんの暮らしに注がれていきます。 離れて50年たちますが、ボク自身、但馬の田舎町の育ちです。そのうえ、ボクは都会に出ましたが、教員という仕事でした。カメラが追う滝井さんの行動も、ご夫妻の暮らしぶりも「わかるなあ・・・」という印象でした。 で、2024年の能登半島地震です。映画を撮り始めたときには予測できないはずの大災害です。見ているこちらも驚きましたが、監督も驚いたでしょうね。「こわかった!真っ暗で、この柱にしがみついてたの。来てくれたのね、ありがとう!」 倒れたタンス、書棚、老人二人ではとても片づけられそうもない散乱した室内から、玄関のカメラに向かって泣くように挨拶なさる奥様の姿が忘れられなくなりそうです。 倒壊した家々、崩れ落ちた室内、倒れた巨木、土砂崩れ、パイプがちぎれた水道、仮設住宅。そこに、新聞を配り続け、閉じこもっている老人たちに話しかけて回る滝井さんがいました。 ボクが神戸の震災の経験者ですから、そう思ったのかもしれませんが、このあたりから、映画は、現代的な社会常識やルールに無自覚な因習社会に対する第三者的な告発の視点から、限界集落を生きる人々が、互いに「生きる歓び」を支えあう姿への共感の眼差しへと変わり始めたようです。 映画は、監督自身が行政の責任者=町長に対して無自覚を問い詰める厳しい発言をするシーンがあって、地震で揺れたせいでしょうか、たくさん実ったキウイに「来年も、たくさん成ってね(笑)」 と呼びかけながら、ご夫婦で収穫されるシーンが重ねられるように終わります。 デモクラシーの「希望」を描き続けようとする五百旗頭幸男監督の誠実な心を感じました。拍手!ですね。まあ、それにしても、滝井さんご夫妻、お元気で暮らしていただきたいですね。拍手!でした。監督 五百旗頭幸男プロデューサー 木下敦子撮影 和田光弘 西田豊和美術 高倉園美編集 西田豊和音楽 岩本圭介題字 高倉園美2025年・101分・G・日本2025・07・01・no099・元町映画館no307追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.02
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ジョセフ・コシンスキー「F1」109シネマズハット 先日、トム・クルーズの「ミッションインポッシブル ファイナル・レコニング」という最新作を見て、頑張っていらっしゃるお姿に、ちょっと笑ってしまいましたが、今度はブラッド・ピットの新作です。 1962年生まれのトム君は飛行機にぶら下がっていましたが、1963年生まれのピット君はF1レーサーのようです。ポスターでは、カッコよく、いきっていらっしゃいますが、まあ、いかがなものか? とは思いながらも、見ないわけにはいかない気分で109シネマズハットにやってきました。見たのはジョセフ・コシンスキー監督の「F1」、155分でした。 60歳を越えているはずのブラッド・ピットが、どのくらい若作りで演じるのかと思っていましたが、なんと、あの伝説的F1レーサー、アイルトン・セナと競った経験のある天才やさぐれレーサーという役どころでした。セナが1960年生まれですから、ブラピ君は、ほぼ、実年齢の役どころでした! 映像上もほとんど誤魔化しのない印象で、老いたるかな、ブラピ!(笑) ではあるのですが、そこがとてもよかったですね。拍手!拍手!でとても面白く見終えました(笑)。「どうやった?」「うん、オジーさんになったブラピがよかったで(笑)。あの俳優って、ええ人の役のほうがええな。」「ええー、やっぱり。あの子、かわいいやろ。そこが好きやねん。」「あの子て、あんた、あの人、多分、60歳越えてはるんやからね。でも、映画は、カーレースなんて知らん、ボクみたいな素人でも飽きひんように上手に作ってはるわ。」「やっぱり、見にいこ!」「半分くらい、自動車が走り回るシーンやで。」 というわけで、同居人は明日にでも見いくらしいです。 上の写真の二人が、レースでコンビを組む二人ですが、ブラッド・ピットがソニーくん、ダムソン・イドリスが若いレーサー、ジョシュア・ピアスくんで、二人のレース上の葛藤も見せますが、彼らを支えるエンジニアたちとのチームの描き方がうまいんですよね。 登場人物たち、一人一人の現場での動きはもちろんですが、人柄とか、性格とか、実に丁寧に描いている印象で、後味のいい作品でしたね。ジョセフ・コシンスキー監督と出演者の皆さんに拍手!でした。監督・製作 ジョセフ・コシンスキー製作ジェリー・ブラッカイマー ルイス・ハミルトン ブラッド・ピット ジェレミー・クライナー デデ・ガードナー チャド・オマン製作総指揮ダニエル・ルピ脚本 アーレン・クルーガー撮影 クラウディオ・ミランダ美術 マーク・ティルデスリー ベン・マンロー編集 スティーブン・ミリオン衣装 ジュリアン・デイ音楽 ハンス・ジマーキャストブラッド・ピット(ソニー・ヘイズ)ダムソン・イドリス(ジョシュア・ピアス)ケリー・コンドン(ケイト・マッケンナ)ハビエル・バルデム(ルーベン・セルバンテス)トビアス・メンジーズ(ピーター・バニング)キム・ボドゥニア(キャスパー・スモリンスキー)サラ・ナイルズ(バーナデット)ジョセフ・バルデラマ(リコ)ウィル・メリック(ヒュー)サムソン・ケイオ(キャッシュマン)アブダル・サリス(ドッジ)キャリー・クック(ジョディ)シェー・ウィガム(チップ)2025年・155分・G・アメリカ原題「F1: The Movie2025・06・30・no097・109シネマズハットno62追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.07.01
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