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「おや? おや!」 でした。
これは映画批評(のような)本ですが、映画批評のほんではありません。 というわけで、20代からボク自身がかぶれていた ジャック・ラカン とか、 ミッシェル・フーコー、ロラン・バルト が引用され、それに伴って フロイト とか レヴィナス が登場するという、本人がおっしゃるには現代思想の解説らしいのですが、でも、やっぱり、映画論なのですね。
という宣言があって、じゃあ、なんなんだというと、
この本の目的は、「ラカンやフーコーやバルトの難解ななる術語を使って、みんなが見ている映画を分析する」のではなく、「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。
これは「現代思想の術語を駆使した映画批評の本」(そんなもの、私だって読みたくありません)ではなくて、「映画的知識を駆使した現代思想の入門書」なのです。(P9)
面白いったらありゃしない!(笑) なのでした(笑)。
「自分はみられることなく、すべてを見る」不可視の権力は、「誰からも見られない」青ざめた、生気のないその似姿を、醜い双生児のように同伴する。これがフーコーの知見のうちでおそらくもっとも重要な点である。 なんだか、やたらときっぱりとした言い草ですが、 フーコー の 「言葉と物」 の冒頭で話題にされる ベラスケス の 「侍女たち」 という絵画と ヒッチコック の 「裏窓」 という映画の動けない主人公が住んでいるはずのアパートの壁の話なのですが、 「絵画」 であれ、 「映画」 であれ、共通するのは 「見る」という行為 なのですね。で、問題は 「見る」という行為 の意味についての、 内田樹 の考察の 結論 部分ですが、ここで最後に彼はこういうのです。
すべての表象秩序を制定する不可視の権力を主題化しようと望むとき-ベラスケスであれヒッチコックであれー卓越した表現者はおそらく必ず「あらゆる像のうちでもっとも生気の失せた、もっとも非現実的で、もっとも影のうすいもの」をー鏡像として、あるいは「第四の壁」として描き込まずにいられない。
表象秩序を制定するものの不可侵の権力の座を実際に占めているのは、その表象に映り込んでいる私たち自身だということである。「見られることなく私たちをみているもの」は私たち自身だということである。(p189) なんだか、やっぱり、分かったようなわからないような話で申し訳ないのですが、例えば、映画館で画面を眺めている観客であるボク自身は、映画という表現の外部ではなくて内部にいる、刑務所の外賀のような内側のようなパノプティコンから、自らは決してみられることなく、囚人たちを一望している看守の場所に座っているということでしょうか?
それは、何を意味するのか? ということですが、ボンヤリ考え続けるよりしようがなさそうですね(笑)。
目次
第1章 映画の構造分析(物語と構造;テクストとしての映画;欠性的徴候;抑圧と分析的知性;「トラウマ」の物語)
第2章 「四人目の会席者」と「第四の壁」
第3章 アメリカン・ミソジニー―女性嫌悪の映画史
第4章 そして映画は続く
(『ゴッドファーザー』と『北の国から』;『君たちはどう生きるか』をどう観るか;「父」からの離脱の方位―『1Q84』論;『ハナレイ・ベイ』のためのコメント;『ドライブ・マイ・カー』の独創性 :「ノルウェイの森」の時代感覚:「ハウルの動く城」を観に行く:「怪物」について:「福田村事件」へのコメント:「愛の不時着」男性目線と女性目線の交錯:「冬のソナタ」-予定調和的な宿命:「秋日和」-非婚は彼女たちの意思ではない:「精神0」-それに人間は抗うことができない:「演劇1」「演劇2」-演出家平田オリザ、映画の想田和弘:「三島由紀夫VS東大全共闘」-政治の季節の予感:「プレシャス」-史上初の男性嫌悪映画:「バービー」―哲学的な映画:デヴィッド・リンチ追悼)
オリジナル版・新版 あとがき
解説「お話を一つ思いつく」を巡って 春日武彦
追記
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