本日は墓参。その後、山沿いを散策、枚岡梅林、枚岡公園から石切へ。 石切駅前で昼食後帰途へ。、墓参と昼食の時間も含めて3時間程の散策でありました。
今回墓参で気が付いたことですが、我が家の先祖代々墓の裏手にある墓の一つが水走 (みずはい)
氏所縁の人物の墓であったということです。
外環状線道路と中央大通りが交差する処が水走交差点であり、地名としても今もその名は残っているのであるが、古代から中世にかけて河内国で活躍した氏族が水走氏である。河内国一之宮・枚岡神社を管掌した平岡連は天児屋根命を祖神とし中臣氏と同流の氏族であるが、水走氏は平岡連の末裔と考えられている。平安時代の藤原氏の隆盛に伴い、この地域では枚岡神社の勢力が強くなり、同神社を背景に水走氏がこの地方を支配することとなる。南北朝時代には南朝方の楠正成・正行の側につき敗れ、力を失いつつも生きながらえ、戦国時代には畠山氏の下につくが、畠山氏の没落と共に水走氏も没落する。
我が集落の一角にも水走氏の墓があるが、我が家の墓のすぐ近くにもその関係者か末裔の墓があったとは。何度も何度も墓参に来ていて、何回となくその墓の前も行き来していたのに、今まで見落としていたようです。まあ、ご近所とは言え、墓石の銘なんぞは普通は覗き込みませんので、自然に目に入る場合は別として、見落としていても何の不思議もなく、小生が不注意であったという訳ではないでしょう(笑)。
ただ、水走氏と言っても、墓石の建立は大正8年3月建立とありますので、末裔の末裔と言った処の人物でしょうな。「水走春忠大人墓」とあるのが。ちょっと一般人とは「違う」雰囲気と言えば言えますかな。
枚岡梅林の南東にも「水走氏屋敷跡」という標識があったように記憶しますから、小生のご先祖もひょっとするとこの水走氏の支配下にあったのかも知れません、何処かから流れて来たのでなければ(笑)。
<参考> 水走氏
うらうらの春日和にて、歩いていると暑くなって少し汗ばむ位。上着を脱いで丁度良い位の陽気でありましたが、枚岡梅林の梅は未だ咲き始めたばかり、本格的な観梅はあと数日してからがいいでしょうな。
(枚岡梅林の梅)
(同上)
枚岡神社を通り抜け、枚岡公園へと坂道を登る。姥ヶ池を過ぎ、椋ヶ根橋を渡り、暗峠へと続く国道308号線を横断すると枚岡公園である。入口西隣の民家が解体され、広い空き地となっていて、以前はその民家の入口付近にあったお地蔵さんが枚岡公園の進入路脇に引越していました。民家が無くなったので、視界を遮るものはなく、お地蔵さんの背後は大阪平野が一望である。
<参考>姥ヶ池などは「
墓参と桜散歩
2011.4.2.
」参照。
梅の万葉歌「 枚岡梅林
2010.2.22.
」参照。
偐家持の梅の歌「 梅の花あれやこれやのおらが春
2009.2.5.
」参照。
(枚岡公園南入口前のお地蔵さん)
まあ、何と言って、テーマもない記事となりましたが、散歩とは元よりそのようなものでありますれば、ご容赦のほどを(笑)。
では、どちら様もご免下さいませ。
<追記:2022年1月13日>
上掲写真「水走氏の墓」が横倒し・タテヨコ比率逆転になっていたのでこれを復元修正。
自宅療養記・花園中央公園、ライフ新石切店 2025.11.07 コメント(2)
自宅療養記・ホルター心電図と枚岡神社な… 2025.11.04 コメント(2)
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