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『元禄忠臣蔵・上下』真山青果(岩波文庫) 太宰治は自作『お伽草子』の中で、「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」と書き進めていき、最後「舌切雀」を始める前に、なぜ自分は「桃太郎」を取り上げなかったのかという、いわばいかにも太宰らしい、読みようによっては韜晦しきりの、こんな文章を書いています。 「桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のやうになつてゐて、物語といふよりは詩や歌の趣きさへ呈している。」 「(略)いよいよこの、『私の桃太郎』に取りかからうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲はれたのである。せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。」 なぜ太宰のこんな話から始めたかと申しますと、この度、冒頭の戯曲を読んで、私は「忠臣蔵」に、太宰の述べるところの「桃太郎」と同様のものを感じたのであります。 かつて丸谷才一は「忠臣蔵」に触れて(丸谷才一には有名な『忠臣蔵とは何か』という著作がありますが、以下の内容はそれからのものではなく)、もしも「忠臣蔵」がなかったならば、270年間の江戸時代は、目鼻立ちのまるではっきりしないのっぺらぼうの様な時間の束になってしまうのじゃないか、と述べています。 まさにそんな、日本人が詩のように口ずさみ最も愛した「死の美学」が、「忠臣蔵」には描かれています。 そもそも、江戸時代について我々は(「私は」でありましょうか)どれだけのことを知っているのか、改めて考えてみると、実に心許ないものがあります。 えっと、ちょっと以下に、それを「エクスキューズ」してみますね。 先日、書誌学者の柴田宵曲が江戸時代の武士について書いた文章をちらりとだけ読んでいましたら、武士はいつも往来の真ん中を歩き、曲がり角に来ると直角に曲がったという内容を発見し、それを愚かとかどうとか考える以前に、そんな日常性の中の極めて特異なモラルを人生とする「武士」という人工的生き方(価値観)に、やはりみょうに感心してしまいました。 しかし、そんなことさえ、我々(私)はよくは知らないでいます。 と言うわけで、無知による不安を抱きつつ、江戸時代についてであります。でも専門的な時代考証的なことは、どうしようもなく本当に無知でありますので、素人考えの比較的「軽い」テーマを以下愚考してみたいと思います。 何を考えたいのかというと「娯楽」についてなんですね。江戸時代の人々は一体どんな娯楽をしていたのか、と。 もちろん「江戸時代の人々」という言い方が、すでに雑駁すぎるだろうというご指摘が早速浮かびますが、まー、雑駁ついでの具体性をつけ加えて考えますと、「元禄時代あたりの江戸庶民がメイン」と、まぁ、このあたりでアバウトにお許しください。 では考えてみますが、現在の娯楽とどう異なっているかというふうに考えたいのですが、比較も何もあまりに違いすぎているだろうという気も一方でしますので、この際細かい違いは取り上げないと考えます。つまり、「細かい違い」とはなんだ? というような「細かい違い」は無視するというわけであります。するとまず、こういうフレーズが浮かびました。 「歌舞音曲の娯楽は、とりあえず今も江戸時代もある。」と。 いくら何でもアバウトすぎるやろー、というご指摘はこの際パス。 歌舞音曲の娯楽は今も江戸時代も同様である、と。 この基準で考えると、大概のものは一緒になってしまいます。ははは。簡単でよろしい。 と言う風に考えていきまして、最後に、さすがにこれは二十一世紀と江戸時代では異なるだろうとわたくし的に考えて残ったのがこれであります。 「スポーツ競技鑑賞」 それ以前に、そもそもスポーツは江戸時代にあったのかという事も考えられましょうが、例えばお祭りなんかの時の「御輿争い」みたいなのをまず考えました。しかし、あれは「非日常」でありましょう、うん。 じゃあ、相撲興行があったはずだ、と。 ……なるほどねぇ。確かに相撲鑑賞があったといえばありましたわね。 ……うーん、と、困ったところで、次回に続きます。次回までに解決策を考えておきます。 (あ。今回も、冒頭の紹介すべき作品について、ほとんど触れられなかった。まぁ、こういうパターンは今までもよくありましたけれども。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.03.28
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「『こころ』大人になれなかった先生」石原千秋(みすず書房) 漱石についての本を読むのが好きです。 そんなにたくさんは読んでいませんが、『源氏物語』について書いてある本を読むのも(ただし素人でも読める本に限りますが)、わりと好きです。へー、そんな風に読むのかーと思うようなことが結構一杯書かれてあるからです。 そして一方で、そんな風に様々な読み方を可能にする漱石作品や『源氏物語』について、つくづく懐が深いなぁと感心します。 今回の読書報告、冒頭本の筆者石原千秋氏でありますが、わたくし、今までに確か2.3冊くらい読ませていただきました。なかなか面白かったです。 いえちょっと意地悪な言い方をすると「鬼面人を驚かす」ような作品の読み方が書いてあって、「うーん、そー読むかー」と驚くのが(あきれるのが?)、まぁ、面白いと言えば面白いんですね。 実は本書にもそんな個所が結構あったりします。 ただ、これも今回読んで知ったのですが、筆者はそういうことも承知の上で書いているらしい、と。 前書きに「全体として、僕の読解にはややトリッキーな感じを受けるかもしれませんが、それは、僕が文学研究者は小説のテストパイロットのようなもので、小説の可能性を限界まで引き出すのが仕事の一つだと思っているからです。」とあります。 ふーん、わかってやってるんやー、とも思いますし、きっと今までにいっぱい批判・批評されはったんやろなぁ、とも思います。 文学研究も文芸評論もよく似たところがあって、学問的堅牢さと新しい見方の双方を常に要求されるんでしょうねぇ。 ということで、本書の記述には少し首をひねるような部分もあったりします。 例えば、こんな個所なんかは結構面白く、かつ少々わたくし首をひねりました。 筆者は、『こころ』は「ほころび」の少なくない小説だと書き、三つの「ほころび」を挙げます。(ここに挙げている「ほころび」は、研究者の間では有名な「ほころび」みたいですね、私は寡聞にして初めて知りましたが。) その一つがこれです。 「先生から青年への手紙の数字が合わないこと。」 そして、この「ほころび」をまずこういう風に説明しています。 青年は二十二章で、生前の先生からは二通しか手紙を貰っていないと書いています。一通は田舎に帰った青年からの手紙に対する簡単な返事で、もう一通は遺書です。ところが、この「日光へ行ったときは紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った」という九章の記述が三通目の手紙の存在を明かしていることになって、二通しか貰わなかったという二十二章の記述と矛盾してしまうのです。 どうですか。小説を読んでいて、こんな矛盾に出会ったら普通どう考えるでしょうね。 私なんかはおのれが単純な頭の造りゆえ、「おっ、漱石、間違ってる」とちょっと嬉しそうに考えてしまいます。 しかしそんな風に考えちゃ駄目だと、本書の筆者は別のところで説いています。 ただし、こういうほころびについて考えるときには、軽々しく「作者がまちがっている」と言ってしまわないことが大切です。「作者がまちがっている」と言うことは、それ以上の判断を停止することだからです。 なるほどねぇ。 というわけで筆者は「手紙の数字」ほころびについて、こんな風に解釈します。 この問題は長い間多くの研究者を悩ませてきましたが、この日光からの手紙を静だけからのものと考えれば、辻褄が合うのです。(略)とにかく数字の上ではこれが静だけからのものだと考えると矛盾は解消されるのです。そして、先生の生前に静が青年に手紙を出していたことは、青年と静との関係にある深さを与えます。 繰り返しますが、どうですか。 省略しましたが、本書には上記引用部で話題となっている九章の原文も取り上げられていますが、わたくしは申し訳ないながらそこを読んで、「……うーん、やっぱりそうは読めんやろー」と思ってしまいました。 でも、そう読めば「面白い」ことも事実であります。上記の引用部にある「青年と静との関係にある深さを与えます」(「静」というのは「先生」の奥さんのことですね)というのは確かだと思います。 ……えーっと、こんな「解釈」が結構一杯詰まっている本です。 こういう「解釈」をいくつか読んでいると、よかれ悪しかれ「文学研究」とは何だろうと思ってしまいます。そしてその問は、煎じ詰めると「文学とは何か」という大きな問いかけに行き着くと思います。 わたくしはこの度本書を読んで、遠い学生時代以来かと思い出せそうな、上記の問いかけをしばし考えました。それは、本当に久しぶりに心地よい思索時間でした。 そんな本です。漱石作品も懐深く、石原氏の解釈も「トリッキー」で、とても面白かったです。私は一気に読んでしまいました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.03.21
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『黙阿彌名作選』河竹黙阿彌(新潮文庫) 本書は、明治の初年から十年代くらいに初演された以下の五本の歌舞伎台本が収録されている戯曲集です。 『天衣紛上野初花』『高時』『船弁慶』『新皿屋舗月雨暈』『辨天娘女男白波』 このままでは読めないタイトルがいくつかありますが、まぁ、いっか、別に支障なかろうと、かなりアバウトに進んでいきます。(ははは、は。……) 河竹黙阿彌は1815年生まれ。明治維新の時は五十歳半ばでありました。 以前、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』を読んだ時に、わたくし、当たり前のことで分かったつもりでいながら実は何も分かっていなかった事を一つ学んだ経験があります。 それは、仮名垣魯文は優れた筆力を持ちながら、なぜ明治以降の新しい文学を作り出す作家のひとりになれなかったのか、ということであります。(言わずもがなの補足をしておきますと、仮名垣魯文はこの時代の戯作者の中では、間違いなく傑出した存在でありました。) その原因をかつての私は、簡単に「才能の(質の)問題」と片付けて考えていました。 しかし『安愚楽鍋』を読み、仮名垣魯文について少し調べてみますと、魯文が明治維新時に四十歳であったことを知り、そこで私ははっとしたというわけです。 昔の「四十歳」は、すでに初老であります。 社会から価値観から人生から何もかもが大きくがらりと変わってしまう歴史的な大転換期に、個人が一体何歳の時に遭遇するかは、極めて重大な問題であり、それはほとんど個人の才能・力量の範囲を超えてその人生を決定づけてしまいます。 人生の「最盛期」をすでに終えた後に、歴史的大転換期を迎えるということの意味。 つまりはこのことに私は、改めて気づかされたと言うことでありました。 さて、冒頭の河竹黙阿彌でありますが、この劇作家の人生にも魯文とよく似た状況が見られます。(明治維新に遭遇した時の年齢は、魯文よりも黙阿彌の方が高齢です。) ただ、本職としていた表現媒体、つまり小説と芝居台本の差が、両者の以降の生き方並びに死後の評価を、結果的に分けた気がします。 それはつまり黙阿彌が、急激な変化を可としない大多数の保守的大衆の嗜好の緩慢な変化に何とか乗り続けることができた、ということであります。 もう少し具体的に述べれば、黙阿彌が得意とし、そして時代が要求したのが、今言うところの「ピカレスクロマン」であったことも、彼に味方しました。 思うに、このことはなかなか意味深いことでもあります。 そんな「ピカロ=悪漢」の魅力とは何か。 これはいろいろ考えられそうであります。私自身、それについて考えることがとても楽しそうだと感じることに、すでにピカロの魅力の一端が見られます。 例えばそれは、やや蓮っ葉に語れば、入院患者間の大病自慢に似ていそうです。また、江戸長屋での貧乏自慢にも似ていそうです。 本書に「白浪五人男」の「勢揃い=名乗り」の場面がありますが、それはかつての「血湧き肉躍る」という言葉そのままの、こんな殺し文句になっています。駄右 問はれて名乗るもおこがましいが、産れは遠州浜松在十四の年 から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みは すれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義 賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四 十に人間の定めは僅五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領 日本駄右衛門。辨天 さてその次は江の島の岩本院の児上り、平生着慣れし振袖から 髷も島田に由比ヶ浜、打ち込む浪にしつぽりと女に化けた美人 局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も龍の口 土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子に て鎌倉無宿と肩書も島に育つてその名さへ、辨天小僧菊之助。 ここには、天保期から幕末にかけて爛熟した江戸文化の世相の中核となった頽廃の魅力に加えて、庶民がきっと意識の深層に持っていたであろう正義と悪の相対性、つまりは悪人こそがスーパーヒーロー=反権力であるということへの快哉が、月並みといえば月並み表現の中に、今読んでも懐かしい思いの湧き上がる伝統的な五七調、掛詞や縁語等々の技巧で、きらびやかに飾られながら描かれています。 音楽を代表とする「再現芸術」の特徴の一つに、繰り返しは効果を高めさえすれ、それだけではマンネリズムに直結するものではないということがありますが、芝居台本と小説の間にも同種の差異があると思います。 戯曲は、新しい人々が再演をする(=繰り返す)ことで同時代的な基礎教養を広く提供し、そして小説よりも長く生き残る可能性があるとは、実は少し前、わたくしが今さらながらに何となく考えていた事柄でありますけれども。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.03.14
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『第四間氷期』安部公房(新潮文庫) 「昭和文学」(こんな言い方があるのかどうか、……きっとありますよね)に興味がある人が(まぁ、その人は一応「純文学」に傾斜が掛かっている人としてー)、「昭和文学」について概論的なことを考えた時、三島由紀夫なんかと並んで、やはり安部公房は外すわけにはいかないですよねー。 しかし、どうなんでしょうかね。冒頭で私は一瞬「昭和文学」で迷いましたが、実際の所、純文学どころか「はやり」の小説すら読まない、もっと言えば、メール以外久しく文字そのものを読んでいないという若者が、今どんどん増えているというニュースを少し前に見たのですが、一体どうなっちゃうんでしょうね。 どうなっちゃうと言うのは、もちろん一つには、日本民族の教養体系の崩壊という憂うべき課題ですが、そんな難しいことは私が考えてもどうにもならないので、もうちょっとわかりやすいかつ今の私の「喫緊のテーマ」で言うと、安部公房亡くなって既に二十年以上となり、世紀も変わり、今でも公房は読まれているんだろうか、という疑問であります。 というのも、わたくし自身かつては少しは公房を読んでいたつもりですが、新世紀に入ってここ十五年くらいで思い出してみると、まー、読んだのは二、三冊、ですかねー。 でもそれは安部公房に限ったことではなく、私が学生時代に好きだった大江健三郎も倉橋由美子も三島由紀夫も深沢七郎も(あー、ご存命の方は大江氏だけですねー)、ここ十五年ならたぶん同じく二、三冊ずつくらいしか読んでいません。 ……うーん、もちろんそれは、わたくしの読書履歴が浅薄かつ軽薄なことが主なる原因ではありましょうがー、……まー、そこは百歩譲っていただいてー、或いはこれが新世紀の現代文学の運命(あるいは「現代」を取ってもいい?)なのかも知れませんねー。 さてそんな安部公房の小説を、久しぶりに読みました。読んでいる途中で「あー懐かしいなー」と感じるような部分が結構出てきました。 それは主に「文体」というか、いかにも公房らしい描き方の「角度」といいますか、そんな部分に対する反応なんですが、例えばこんな個所です。 私は窓の外を眺め、心の準備をしながら待っていた。頼木に遇ったら、最初に言おうと考えている言葉の端を、いくども反芻しながら、じっと遠い夜景を眺めていた。空と屋根々々とのあいだに、薄く白い膜がはっているように見える。その下あたりが、国電の駅なのだろう。そこでは無数の経験や生活が、互いにぶつかりあいながら波立っているのだ。海だって、山の上からみれば平らに見えるのと同じことである。遠景にはいつも秩序がある。どんな奇妙な出来事だって、遠景のもつ秩序や枠からはみだすことなど、できはしない…… 情緒を抑制した報告文のような文体のなかに、ふっと割り込んでくるポエジィやアフォリズムが公房の文章の魅力だったんだよなーと、思い出します。 ただ、SF仕立ての本作ゆえ、加齢のためいろんな感受性や感覚が摩滅してしまっているわたくし側の事情で、ちょっと分かりづらいところがありました。(若かった頃初めて本作を読んだ時、私はわかっていたんでしょうかねぇ。) 例えば、コンピューターが予言機械として作動し(今の言い方で言えば「シミュレーション」という意味でしょうか)、現存する人物の未来の人格を造り出すとか、死体の脳がコンピューターを通して生前と連続する人格のままに語り出すとかの展開です。一応の説明らしきものは書かれてありますが、いかんせん私の方の脳みそがアバウトなせいでよく分かりませんでした。 もう一つ。「あとがき」に、「はたして現在に、未来の価値を判断する資格があるかどうか、すこぶる疑問だ」という筆者の一文があります。そしてそれは作中において、最後には極めて否定的に扱われてしまう主人公科学者の言動に対する批評にもなっています。 この視点は、公房一流の、当時の一般的思考の盲点を指摘したのではないかと思うのですが、今読むと(本作発表は1959年!)思わず「隔世の感」を持ってしまいます。 それは結局、この半世紀の内に、本当に現在ではとても判断のしようがない「未来の価値」しか予想できない、つまり二十一世紀の我々は、現在と完璧に断絶した未来にしかリアリティを持てなくなっていることを表していると思います。 もはや、未来は現在にとって不安材料以外の何ものでもない。多くの人がそんな暗黙の前提の元に生きている現在という時代。 なるほど、冒頭で触れた二十一世紀の現代文学がどんどん読まれなくなっていくのは、ひょっとしたら、想像力にとっても極めて苛烈だと思えるそんな現在のたたずまいの中に、その原因があるのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.03.07
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