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『我が愛する詩人の伝記』室生犀星(中公文庫) 1.元詩人の小説家 2.元小説家の詩人 3.詩人でもあり小説家でもある 冒頭のような方は、近代日本文学では、はて、どんな人がいるんでしょうか。 わたくしよくわからないんですが、こうして3つ並べてみると、最近、3の方がぱらぱらといらっしゃるような気がしました。 例えば、町田康とか川上未映子とか、もう少しさかのぼると、辻井喬とか。 現代文学というのは、ひょっとしたら、今まで以上に詩歌と散文の垣根がなくなってきているのでしょうか。 うーん、よくわかりませんねー。 ただ、世界文学まで手を広げると、そんな方は過去から現在まで、もっといっぱいいらっしゃるような気がします。例えば大物で、ゲーテとか。 近代日本文学に戻りますと、2番が、たぶん少ないでしょうね。 例えばー、……と、思い起こそうとして、固有名が挙がりません。 どんな方がいらっしゃるでしょうかというよりも、このタイプの人は全くいらっしゃらないんじゃないでしょうか。 本書に、こんな事が書いてあります。 いまもそうだが詩人はどんなに立派な詩を書いていても、なかなか衣食には通じない、その経済的な見地からも彼が詩から去って小説を書きはじめたことは、りこうな人間の踏み方をちゃんと知っていたのである。食えないものにぶら下がっていることの莫迦加減を、藤村は何よりも先きに見すえていた。それと同時に詩の柔らかみが二十歳頃に限られたもので、それを幾ら手強く引きつづけても柔らかい蔓が途中で切断されていることも、藤村はとうに見抜いていたのだ。 この文は、引用内にもありますが島崎藤村について書かれた文章の一部です。 この藤村こそが、近代日本文学史上もっとも有名な、冒頭の1番に該当する「元詩人の小説家」であることは言を待ちません。 そして、今回取り上げた冒頭の書の筆者である室生犀星も。 詩人が詩を捨てて小説を書くというのは、いったいどういうことなんでしょうか。 そういえば、犀星が詩から小説に移ったことについて毀誉褒貶があったということを、何かで読んだような記憶があります。 話は飛ぶようですが、本書には11人の詩人についての文章があり、こういう順序で並んでいます。 北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、釈迢空、 堀辰雄 立原道造、津村信夫、 山村慕鳥、 百田宗治、千家元麿、島崎藤村 筆者の言を借りれば、白秋が一番の先生筋にあたります。次の光太郎は一番のライバル。朔太郎は、ライバルでもあるでしょうが、一番の親友。 後は後輩筋にあたる詩人たちを中心に、同輩の詩人も。 そして最後に、大先輩となる(かつ、元詩人といういわくつきの同族の)島崎藤村です。 堀辰雄から千家元麿までの後輩並びに同輩の詩人を描く筆者の文章には、実に深い慈しみの思いが注がれています。 また、取り上げられた同後輩の詩人たちのほとんどは、「夭折」と言ってもよいくらいの若さで亡くなった人達であり、彼らに対して筆者は、限りない哀切と愛情の言葉を綴っています。 それは、例えば41歳で亡くなった山村慕鳥に対してこのように書いています。 (前略)つまり山村は完成期を俟たずに死んだということが、後期制作に当然在るものが遂に見られなかったことを意味するのである。ああいう敏感と勉強と学識とを持っていた人が、この時代まで辿り着いていたなら、必ず私の驚くものを眼に見せてくれたのであろう。詩人は早く死んではならない、何が何でも生き抜いて書いていなければならないのだ、生きることは詩を毎日書くことと同じことなのだ。 上に引用した部分と比べて感じる筆者の理論の不整合さの中に、立原、津村、山村、千家など、およそ世間知とは無縁の、ガラス細工のように壊れやすい詩人たちと共に詩を書きながら、そしてある時詩を捨てた小説家の「贖罪」の心は、あったのかもしれません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.08.22
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『燃えつきた地図』安部公房(新潮文庫) 先日京都の美術館で開催していました「ルネ・マグリット展」に行ってきました。 マグリットと言えば、知る人ぞ知る20世紀のシュールレアリスム絵画の巨匠ですね。 有名な作品がいっぱいあります。 実はわたくし、絵画鑑賞もとっても好きなんですが、好きだというわりには、絵画に対して特に定見もなく、だらだらと絵を見てきました。 そんな私ではありますが、今回展覧会を見て、マグリットの作品は晩年に一気によくなる感じがしました。 なぜそう思ったか、つまりなぜ晩年の作品を見ている方が心地がよいのかという理由についてちょっと真面目に考えたんですが、結局のところそれは、作品から精神的な広がりを感じることができるからではないかと思いました。だから深い感情移入ができ、そして、うーん、すばらしい、に至ったのではないか、と。 でも、そもそもシュールレアリスム絵画運動にとって、感情移入できることは本当によいことなんだろうかと、わたくしはふと気付きました。 そこでさらにさかのぼって考えてみると、溶けた時間のサルバドール・ダリだとか、陰の毛髪画家のポール・デルヴォーなどを思い出してみるまでもなく、シュールレアリスムにとって感情移入できることは、さほど肯定的な要因ではないんじゃないか、と。 うーん、なかなか難しいものでありますなぁ。 さて、我国が誇るシュールレアリスム作家、安部公房であります。 と書きましたが、文学の場合どこまでをどう「シュールレアリスム」と呼んでいいのか、本当の所、私はちっともわかっていません。 例えば、詩なら、西脇順三郎って方はかなり本格的な(そして評価も高そうな)シュールレアリスム詩を書いていらっしゃったように記憶しますが、小説になると、はて誰の名が挙がるのでありましょうか。 とりあえずはやはり安部公房だと思いますが、公房にしたところで、いかにもシュールレアリスムらしいシュールレアリスム作品は、初期の短編と芥川賞受賞の一連の『壁』連作くらいしか浮かびません。 結局それは、文学は意味からの離陸が極めて困難だからでしょうね。 意味とは、因果律と言い換えてもいいかもしれませんが、抽象画が、でかいキャンバスの作品でも成立するようには、文学作品は因果律なしには長編作品が成り立ちません。 (モザイクにするという手はありそうですね。公房の『箱男』なんかはそれに近い感じですし、そこまで含めたら、高橋源一郎なんて作家も含められそうです。) というわけで、冒頭の長編小説は、ビミョウにシュールレアリスムな公房作品です。 ただ読んでみて、やたらと殺風景な感じがするんですねー。 シュールレアリスム絵画の共通した特徴に作品世界の静謐性があると思うんですが、小説におけるそれは、この殺風景さにあるのでしょうか。 そもそも安部公房作品には、例えば同時代の三島由紀夫作品にみられるような、文体や描写の絢爛豪華さはありませんでしたが、その代り表現の随所にきらりと輝くような詩性溢れるイメージがありました。 まずそれが、なんとなーく、本作には感じられません。文体の殺風景。 次に、前作『砂の女』には確かにあったサスペンス感覚溢れる物語の展開、これもぐぐっと抑えられたような感じです。 もっとも、砂丘の中にアリジゴクのような家があり、そこに一人の女が住んでいるという、このようにまとめただけでも色彩豊かなストーリー展開が予想される『砂の女』の設定と本作の設定とでは、当然異ならざるを得ないであろうとは思いますが、しかしストーリー展開の殺風景。 ただこれらの小説の二大要素の抑制が、作品にどんな効果をもたらしたかというと、それはシュールレアリスムがおそらく表現として目指したであろう現代都市文明の孤独と不安にほかならず、その意味では、きっちり効果的にシュールレアリスム小説を成立させています。 なるほどそう考えると、本作中の失踪者と彼を追い求める現代人の心象風景は、例えばマグリットが描いた空に浮かぶ巨岩の風景が齎す不安感情と、見事に共振しているような気がしますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.08.08
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