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『生ひ立ちの記』島崎藤村(岩波文庫) 私の持っているこの岩波文庫は、1943年第1刷発行と奥付にあります。(で、1993年第14刷のものです。)だからタイトルも「生ひ立ち」と歴史的仮名遣いのままなんですね。 私は古本屋でこの本を買いましたが、おそらく岩波文庫が時々(なのかな、よく知りませんが)やっている「リクエスト復刊」というやつじゃないかなと思います。 今ふと気付いて調べてみたのですが、筆者島崎藤村はまさにこの1943年に亡くなっているんですね。亡くなったのが8月22日で、上記には1943年第1刷としか書きませんでしたが、奥付には本当は5月5日とまで書いてあります。 ということは、本書の最後に後書きのように「『生ひ立ちの記』の後に」という筆者自身の文章があるのですが、この一文はひょっとしたらこの岩波文庫用の最晩年の藤村のものなのかも知れませんね。 というのはついでのような話ではありますが、以下の私の書きたい内容と少し掠っていると言えなくもないことで、以下、順を追って書いていきます。 本書には「生ひ立ちの記」と「芽生」(これはたぶん「めばえ」と読むのでしょうが)という二作品が収録されています。読み始めてから気が付いたのですが、この二作は随筆ですかね。(私小説・心境小説系の作品には小説も随筆もまるで一緒というのがけっこうあって、わたくしそういうの、ちょっとイヤなんですね。) で、いつ書かれた作品なのかというと、前者については、上記の藤村自身の後書きに書かれてあるものの、後者についてはどこにも書いていないんですね。これは、読み終えて改めて内容を頭の中で整理していこうとすると(特に私小説系作家の場合は作家自身の年譜もかなり重要になってきて)、いつの作品なのかわからないのはちょっと不便であります。 二作品の内容は、前者は筆者自身の10歳前後つまり少年時代の思い出。 後者は、藤村が『破戒』を書いていた頃の話、例の有名な、藤村が『破戒』を書くために経済的に始末に始末を重ね、妻は鳥目になってしまうし、3人いた幼女たちは全員がことごとく栄養失調のため亡くなってしまうという話であります。 どちらの作品が興味深い話かと言えば(まー、「興味深い」は少々言葉はよくないかもしれませんが)、娘が三人が亡くなる方の話であります。 実はこのあたりの実際の藤村の年譜を調べてみたのですが、今の時代の感覚で読んでみると、いろいろ考えさせられる年譜なんですが、ちょっと書いてみますね。 1899年(明治32年)結婚。(小諸在) 1900年(明治33年)長女生誕。 1902年(明治35年)次女生誕。 1904年(明治37年)三女生誕。 1905年(明治38年)上京。三女死去。長男生誕。 1906年(明治39年)『破戒』出版。次女長女死去。 1907年(明治40年)次男生誕。 1908年(明治41年)「春」連載。三男生誕。 1910年(明治43年)「家」連載。四女生誕。妻死去。 1912年(大正元年) 「生ひ立ちの記」(婦人画報)連載。 1913年(大正2年) 姪と過ちを犯し懐妊。フランスへ渡る。 どうですか。パッと見てまず思うのは、まーこのあたりの時代ではこの数値は平均的なのかもしれませんが、よくまー、次々と子供が産まれたものだなということですよね。 藤村の妻は冬子さんという名前の方だそうで、お年がよくわからないのですが、とにかく結婚生活11年でその間7人の子供を産んでいます。で、最後は産後の肥立ちが悪くて亡くなったとか。 ……うーん。かつての日本人はこんな感じだったんでしょうかねー。(女性にとって結婚ってなんなのだろうとまで、少し思ってしまいますね。だってこの冬子さん、結婚していなければ、こんな「早死に」はきっとしていませんよ……。) 『破戒』誕生秘話であります。(別に秘話でもないか。) そしてもう一つ、本文庫本収録の「生ひ立ちの記」が婦人画報に連載された時期に、ちょうど藤村のこれもまた有名な姪との過ち事件が重なっているんですね。 「生ひ立ちの記」の内容というのは、少年時代身の回りにいた女性達(そのほとんどは自分のいろんな世話をしてくれる年上の女性達)について、ある婦人に送る手紙という形式を取って綴るというものです。 さらに婦人画報連載ということからも想像がつくように、まるで中勘助の『銀の匙』のようなしみじみ系の、少年の眼から見た年上の女性達との淡くも懐かしい触れ合いが描かれているんですね。 ……まー、相手はプロの物書きですから、私生活においてちょっと困った女性関係を実践しつつ、作品においては清純派であったって悪いことも何もありませんが、こういうところを見ると、この姪との事件を綴った『新生』を取り上げて芥川や谷崎が藤村をとても嫌ったというのは、なんかとっても分かるような気がします。 という話なんですね。 純粋に作品の内容だけを読みますと決して後味の悪いものではないのですが、あれこれと筆者をめぐる事実と重ね合わせていきますと(いたいけな娘三人が連続して栄養失調で亡くなるってのも、どうなんでしょう)、ちょっと素直にしみじみもしていられないかなという、なんというかいわく言い難い、そんな作品でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.12.23
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『浄土』町田康(講談社文庫) 読み終えて、直ちにいろいろ考えるんですね。 でも読み終えて直ちにいろいろ考えるのは、まー、あまりよくない兆候であります。 それは内容の意味を探っているからです。ということは内容の意味が分かっていないということであります。 しかし、意味を探っても、そんなものははじめっからないという作品が世間にはあることも(それも結構あるということも)、一応は分かっています。 本作はそんな短編集ですが、7つはいっている短編小説の通奏低音めいたものは、この筆者の一種の自家薬篭中のものといえそうな「極端な描写の追及」ですかね。 例えば、『どぶさらえ』というタイトルの作品の、タイトルそのままの部分ですがこんな感じ…。 (略)最終的には堆積したヘドロをスコップですくって除去しなければならないが、同時にこのゴミを全部捨てなければならない、とりあえず俺は手近にあった自転車に手をかけて持ち上げて、ひっ、と叫んだ。持ち上げた拍子にハンドルの部分から汚水が垂れて腕を伝って手袋のなかに入ったのである。くわあ、きったなあ、と叫んで手を離したところ、自転車が落下、水が跳ねて今度は目に入ってしまい、咄嗟に手で顔に触れてしまったためぬるっとした汚水が顔面や毛髪に附着、俺は汚辱に耐えかねて絶叫した。 今、こうして打ってみたのですが、このしつこい描写はなかなか面倒くさい。辛気臭い。 この短編小説ではこの「どぶさらえ」の場面が、こんな調子で10ページくらいも続くんですね。これはなかなかにいわゆるところの才能がなければ書き続けれるものではない。(という感じの「ら」抜き言葉もこの筆者の文章の特徴の一つなんですが、これも結構雰囲気のある表現になっています。) よく似た感覚の作品を思い出そうとしているんですが、やはりスラップスティックな作品が近い感じで浮かび、とすると筒井康隆あたりかなとも思うのですが、さらに筒井作品の中でもっと具体的にどの作品が浮かぶかというと、うーん『乗り越し駅の刑罰』みたいなものかな、と思います。(でも作品のできは、きっと『乗り越し駅の刑罰』のほうがいいです。) もう少し別の方向からのよく似た感覚はないかとあれこれ考えてみたら、ふと小川国夫や国木田独歩の短編に、意味とは別の所に価値がありそうなそんな作品があったように思い出しました。どちらも鑑賞のストライクゾーンが極端に狭く、そして透明感のとても高い作品でありました。 「透明感」と言えばと、さらに思い出し続けてると宮沢賢治の童話『やまなし』なんかも、考えようによっちゃ似てるといえそうだなー、と。でも、『やまなし』まで出てきたらこれは名作になっちゃうじゃないか、と。しかしそれはいすぎだろう。どぶをさらうこの場面のどこに透明感があるのか、と。 ……うーむ。(見ようによっちゃ本作にも透明感はないとも言い切れない気はしますが……。) そもそも、文学以外の芸術作品の場合は(別に芸術作品でなくても同様ですが)、あまり好き嫌いの意味にまで深く考えることはありませんよね。 例えばお気に入りのコーヒーカップについて、なぜ自分はこのコーヒーカップがお気に入りなのか自らを振り返って考察してみるなんてことは、普通はあまりやりません。 だいたいが「お気に入り」ってのは、しばしば無意識にそれを選ぶことに後になって気が付いて、あるいは身内や他人に指摘されて、それで自覚するというものでありましょう。 ところが言語表現のサガとでもいいますか、文章表記によるものは、ついこの作品は何を表しているのかという「意味調べ」をやってしまいます。 意味などないのだと言い切ってなおかつ納得するというのは、これは実は結構難しいのかもしれませんね。 仕方がないので、理屈を少し「ゆるめ」て、そして考えてみます。 浮かんでくるのは2点。文体とイマジネイションであります。 もう少し具体的に言えば、独創性の高いイメージと、それを保証する正確で美しい(この筆者の場合はカラフルとでもいうべき)文体、となりましょうか。 なるほどこの二つは、この筆者の作品が高く評価されるときによく触れられる部分ですね。 でもふと気が付けば、この2点はやはりすべての文学作品の評価基準であるようにも思え、とすればこれは何も言っていないのと同じではないか、いかんいかん、と。 ……うーん、このタイプの作品を考える(だから考えちゃダメだってのに)のは、なかなか難儀なものであります。いえ単に、少し説得力をつけて作品を褒めたいだけなんですけれど……ねぇ。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.12.07
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