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トゥレディオの酒場 <23> その間にもクーレは、快活な口調でルドゥアに向かってしゃべり続ける。 「イルプシマの港は、あのころからすでにりっぱな船着場になっていたよね。 あそこ、今はどんな船が多いの? 客船? 漁船? それとも貨物船? まさか、軍艦ってことはないよね。 イルプシマって、平和なんだろ?」 クーレの立て続けの質問に、ガルネが、返事をうながしてルドゥアを肘でつんつん突ついた。 頭の中で、行ったこともない花の都の風景と、そこをのし歩く恐ろしいバルドーラの姿と、クーレの次々繰り出される質問と、ガルネのつんつんが、ぐるぐる回ってルドゥアを混乱させる。 クーレの、他意のないおしゃべりは、ルドゥアの返事を待たずどんどん先に進む。 「・・・君は、うちの工場に見学に来たこと、ある? 今展示してある豪華客船 『翡翠丸』 についてどう思う? いや、大きいとかきれいとかじゃなくてさ、イルプシマの人たちは、ああいう船が好きかな? もし僕が 『翡翠丸』 を売りに行ったら、イルプシマの観光会社はあの船を買いたがると思う? それとも、ああいう豪華客船よりは、実用的な貨物船とか漁船のほうが需要があるのかな? ・・・うちの工場の、最新型の大型貨物船は見た? 『朝霧』 って名前がついてたろ? だけど、あれ実はまだ正式に命名したわけじゃなくて、仮の名前なんだよね。 もしあの貨物船をイルプシマに輸出するとしたら、どんな名前がいいと思う? イルプシマの人の心にぐっと訴えかけるような、なんか良い名前、思いつかない?」 ガルネも遠慮会釈なくルドゥアをせっつく。 「ルドゥア、ぼんやりしてないで、ほらっ、クーレさんのグラスにお酒を注いで差し上げなさい。 あっ、馬鹿ね、氷よ、氷が先。 その上からお酒。 きゃっ! それはソース瓶でしょ! お酒はこっち! ・・・ちょっとちょっとちょっと、ルドゥア、何してんの! 逆さにしたってお酒は出ないわよ。 栓を開けてからよ。 栓、栓! ねじらないの! ひっこぬくのよ! きゃーっ、ルドゥア!」 はっと気がついた時には、その高級そうなボトルの栓は、ルドゥアの震える指をすり抜けて、はるか遠くのテーブル目指して勢いよく飛んで行ったあと。 さらに、驚いて硬直したルドゥアの手から滑り落ちたボトルは、こともあろうに、そのクーレというバルドーラ客の膝の上に中味を全部ぶちまけて、床に転がっていた。 ガルネが真っ青になって立ち上がり、かき集めたおしぼりで客のスーツを拭い始めた。 「まあ! どうしましょう! あっ、クーレさん、動かないで、そのままちょっとお待ちになって! 今すぐタオルをお持ちしますから!」 騒ぎに気づいた女の子たちも、大急ぎで助っ人に駆けつけてきた。 ホールのあちこちで、ボーイたちも顔色を失って右往左往、新しいタオルを手に飛んできたり、あるいは通用口の向こうへと(たぶんエメラかトゥレディオを呼びに)駆け出して行ったり、あわただしく動き始めた。 ほかのテーブルの客たちも、面白そうにこの様子を見物し始め、ホールはたちまち、蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。人気ブログランキングへ
2012.02.29
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トゥレディオの酒場 <22> 『クーレさん』 をテーブルに案内すると、ガルネがさっそく、ルドゥアを紹介した。 「クーレさん、この娘、今日からお店に出ることになりました、ルドゥアといいますの。 イルプシマという国から、リリファラに出てきたばかりだそうで、なんにもわからない赤ちゃんですけど、どうぞよろしくお願いしますわね。 いじめたりなさっちゃだめよ」 『いじめたり』 という物騒な言葉に反応して、思わずどっきり、胸を押さえたルドゥアは、われながら情けなくなるような、ぎくしゃくとしたお辞儀をひとつするのが精一杯。 必死の思いで、恐ろしさと緊張に震える声を、やっと絞り出した。 「るるルドゥアと申します。 ふつつかものですがどうぞよろしくお願いいたします!」 思わず口からすべり出てしまった奇妙な挨拶に、ガルネが眉をひそめてルドゥアを睨み、『クーレさん』 は吹きだしそうな顔でルドゥアを眺めた。 「へえ、イルプシマから来たの? 変り種だねえ。 君、そんなに隅っこのほうで小さくなってないで、ほら、もっとそばに、ぼくの隣に、来なさいよ。 イルプシマの話、聞きたいな」 ガルネが、突き飛ばすようにしてルドゥアをクーレの隣に座らせ、おしぼりを手渡しながら小声で叱りつけた。 「ほら、ルドゥア、何ぼやっとしてるの! このおしぼりを広げて、クーレさんにお渡しするのよっ!」 「は、はい!」 震える手で、苦労しておしぼりを広げている間にも、クーレは、ルドゥアの方に身を乗り出すようにして話しかける。 「ぼくも旅行で1回だけイルプシマの 『花の都』 に立ち寄ったことがあるよ。 ずいぶん大きくて、整然とした、静かな街だったように記憶してるんだけど、今もあんなふうかい? いや、そんなことはないだろうな。 あれから7年もたつんだ、港の周辺もずいぶん変わったんだろうね?」 「あ、はい、そうですね。 おしぼりをどうぞ」 ようやくおしぼりを広げて差し出すことができたのにほっとするあまり、返事のほうがいいかげんになってしまったことに後から気がついたが、時すでに遅し。 テーブルの下でガルネが、ルドゥアの足をガン、と容赦なく蹴飛ばしながら、おしとやかな微笑をクーレに向けた。 「あら、まあ、いやね、この娘ったら、クーレさんのお話、聞いていなかったの? リリファラ語、話せますか? それとも、あんまりすてきなお客さまのお隣に座ったので、舞い上がってしまったの?」 「あ、いえっ! そんなことありません!」 答えてしまってから、妙な返事をしてしまったことに気づいて、あわてて口を押さえたが、またもや後の祭り。 小さく舌打ちしたガルネが、3たびルドゥアを叱りつけようと息を吸い込んだ、そのときちょうど、タイミングよく、ボーイの1人が、お酒のボトルやグラスの乗ったトレイを運んできた。 神の助け! ガルネもしぶしぶ口を閉じ、テーブルの準備を整え始めた。人気ブログランキングへ
2012.02.28
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トゥレディオの酒場 <21> やがて、空がしだいに淡い夕暮れの色に染まり、大通りを行き交う人々の数も増えるころ。 巨大な歓楽街にずらりと軒を並べた酒場も次々と灯りをともして、夕闇の中にイルミネーションの光が華やかに浮かび上がると、昼間とは異なる夜の顔にめかしこんだ、街全体が、なんとなく活気づき、静かだった 『トゥレディオ』 にも、1人、2人、と客が姿を現し始めた。 エメラの言っていたとおり、それらの客のほとんどはバルドーラ族の男だったが、どれもみなきちんとしたスーツを身につけて、パピト族と比べてもずっと穏やかで紳士的に見えた。 バルドーラ客、と聞いてルドゥアが思い描いていたような、すぐに拳を振り上げる凶悪な顔つきのやつや、居丈高に威張り散らすような輩は、一人もいない。 迎える少女たちのほうもまた、手馴れたもの。 自分の倍もあるような大きなバルドーラ客にも少しもおじける気配なく、女子更衣室での陽気なおしゃべりをそのままこの仕事場へと持ち込んで(もちろんここでは少しよそいきの口調に変わっていたが)、友達のようになれなれしく冗談口を叩き、その肩や膝に手を置き、きわめて自然にふるまっている。 きょろきょろしていたら、ぽんと背中をたたかれた。 振り返ると、ガルネが、ちょっとルドゥアを睨んでたしなめるように言った。 「ルドゥア、そんなにじろじろお客さまを見たりしちゃだめよ。 失礼でしょ。 ほら、私といっしょにいらっしゃい。 お客さまをテーブルにご案内して、お相手をするのよ」 プラチナブロンドのさらさらの髪をリズミカルに揺らしながら、ガルネが、颯爽とフロアを横切り、正面入り口へと向かう。 そこでは今しもひとりのバルドーラの紳士が、コートを脱いでクロークに預けようとしているところだった。 足早にそこへ向かいながら、ガルネが早口でルドゥアにささやく。 「今コートをクロークに預けたお客さまを、テーブルにご案内するわよ。 あのかたは、この街の南地区にある、クーレ造船という大きな造船所の社長さん。 『トゥレディオ』 の大切な常連客のおひとりだから、失礼のないようにね。 といっても、クーレさんはとても陽気でおしゃべりで、話題も豊富なかただから、緊張することはないわ。 あなたのような新米でも十分お相手がつとまるはずだから、気を楽に、落ち着いて対応して」 ちょっとホールのほうを目線で示して、ガルネが続ける。 「クーレさんのお座りになる席はいつも、ホール中央の、一番大きなシャンデリアの真下、と覚えておいてね。 それから、にぎやかなのがお好きな方だから、クーレさんのテーブルにはいつも女の子が3人以上いるように気を配ってちょうだい。 クーレさんはいつも女の子たちに気前よくチップをはずんでくださるから、特に気をつけなくてもみんなあのテーブルに行きたがるんだけど、もしクーレさんの席に女の子が2人しかいないのを見つけたら、すぐに助っ人に飛んでいくのよ。 それに、あなたがクーレさんのテーブルについている時に、女の子が3人しかいなかったら、絶対席を立たないでね。 ただし、ひとつのテーブルにあんまり大勢の女の子を集中させてはだめよ。 ほかのお客さまが不快に思われるの。 女の子の数が5人くらいに増えちゃったら、適当なご挨拶をしてそのテーブルを離れてね」人気ブログランキングへ
2012.02.27
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トゥレディオの酒場 <20> 言って、ヴィスバルの後ろを足早に通り抜けて行くその 『雑種』 は、すらりと背が高くて、輝くような金髪が印象的な、貴族的で端麗な風貌の持ち主。 自称 『花形バーテンダー』 ヴィスバルの明るいソフトな魅力に対して、こちらは、一種近寄りがたい雰囲気を漂わせる、硬質で野生的な美貌だ。 この妖艶なムードあふれるカウンター席で、夜毎、ヴィスバルと肩を並べて、さぞ女客たちの熱い視線を集めることだろう。 しぶしぶルドゥアの手を放したヴィスバルが、立ち去って行くそのバーテンダーの後ろ姿を、悔しそうに見送った。 「あいつ、クリス、っていうんだ。 ここでは俺の次に人気のあるバーテンダーなんだけど、あの顔、誰かに似てると思わない?」 それを、ルドゥアもちょうど今考えていたところだった。 ゴージャスにカールした豊かな金髪。 青く透き通った、冷ややかな瞳。 内面の自信があふれ出すような、きりっと引き締まった形の良い唇。 人を小ばかにしたような、生意気な口のきき方 ――― わかった! 「クリスタだわ! そうよ! あの人、クリスタにそっくり! どうしてなの?!」 ヴィスバルが、くすっと笑ってうなずいた。 「ご名答! クリスとクリスタは、父親の違う兄妹だ。 同じパピト族の母親に、最初に生まれたクリスの父親はバルドーラ族、再婚して生まれたクリスタの父親はパピト族なんだって。 2人とも母親似なんだろうな。 それぞれ父親と母親のもとで、別々に育てられたんだそうだけど、あの2人、性格も、考えてることもそっくり同じだ。 すごく仲が良くて、ぴったり息が合ってる。 まるで鏡像だよ」 ヴィスバルに勝るとも劣らない美形の、そのバーテンダーをちらりと横目で睨んで、ヴィスバルが、ひそひそとルドゥアの耳にささやいた。 「俺は、あいつらが兄妹揃ってこのトゥレディオに勤めているのは、必ずしも、仲が良いからという理由ばかりじゃないと思ってる。 あの兄妹は、油断ならない野心家だ。 2人でこの 『トゥレディオ』 を乗っ取ろうとしてるみたいだぞ。 きっとあいつらの後ろには、誰か強力な黒幕がいる。 トゥレディオさんやエメラねえさんは、のんきな人たちだから、俺がいくらそれを言ってもぜんぜん取り合ってくれないんだけど、俺は、あいつらが本格的に動き出す前に必ず、2人の尻尾をつかんでこの店から追い出してやるつもりだ。 だから、ルドゥア、君も、もしクリスタが何か妙な真似をしているのを見かけたら、こっそり俺に教えてくれよな」人気ブログランキングへ
2012.02.26
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トゥレディオの酒場 <19> 無鉄砲な少年ヴィスバルに驚きあきれながらも、その気持ちは、今のルドゥアには痛いほどよく理解できて、思わず笑ってしまった。 「まあ、驚いた! じゃ、あなたは、そのままこの街に居ついちゃったの?!」 ヴィスバルの顔も、楽しい思い出を蘇らせたようにきらきら輝いている。 「そういうこと。 坊さんがくれた小遣いも使い果たして、知らない街で行き倒れになりかけてた俺を、拾ってくれたのが、エメラねえさんだった。 エメラねえさん、まだ若くて、あのころ本当にきれいだったなあ。 ・・・いや、今もきれいだけどさ、あの時はまた特別だよね。 文無しで空腹で意識朦朧とした俺の目には、空から天使が舞い降りてきたように映ったよ。 あのころはこの店もまだ小さくて、屋台に毛の生えた程度だった。 それを、ここまで大きくしたのは、トゥレディオさんの努力というより、エメラねえさんの魅力だと俺は思うな。 『トゥレディオ』 をこんな一流の店にしたのも、俺をこんな花形のバーテンダーに育ててくれたのも、エメラねえさん。 だから俺、今でもエメラねえさんには頭が上がらないんだよね」 さっきモモンが、ヴィスバルが決して口説けないのはおっかないエメラねえさんだけ、と言ったのを思い出して、思わず吹き出したルドゥアに、ヴィスバルが真顔で続けた。 「俺はそれからずっとこの店で働いてて、ずいぶんいろいろな女の子を見てきたし、何度か恋もしたけど、でも、ルドゥア、君みたいな娘を見たのは初めてだ。 ・・・なんて言ったらいいんだろう、俺、さっき初めて君の顔を見たときに、ピンと来たのよ。 あ、この娘は他の女の子たちとは違う、俺とぴったり気持ちの通じ合う、何かを持ってる、って。 みんな俺を女たらしだと言うけど、俺、初対面の女の子にこれほど衝撃を感じたのは、10年前、初めてエメラねえさんを見たとき以来だよ。 ルドゥア、君も、俺を特別な存在だと感じたはずだけど?」 熱っぽく潤んだ瞳でルドゥアを見つめながら、ヴィスバルの手がすばやくカウンターの上に伸び、ルドゥアの手をぱっとつかまえた。 ――― 力強い、あたたかい手。 びっくりして、反射的にその手から逃れようとしたとき、いつの間にあらわれたのかカウンターの中にもう1人、ヴィスバルと同じくらいの背丈で、同じバーテンダーの粋なユニホームをびしっと決めた 『雑種』 が近づいてきて、通りすがりざま、低い声でヴィスバルに耳打ちした。 「ヴィスバル、また新入りの女の子を口説いてんのか。 従業員同士の恋愛は、ここじゃ御法度だぜ。 こんなところをエメラねえさんに見られたら、その娘、たちまちクビになっちまうぞ」人気ブログランキングへ
2012.02.25
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トゥレディオの酒場 <18> 少し笑って、ヴィスバルが話を続ける。 「俺の母さんは、カシャトラの、ある山の中の駐屯地でバルドーラ兵たちの食事を作る仕事をしてたんだ。 父さんは、たぶんその兵隊たちのうちの誰かなんだろうけど、誰なのか俺は知らない。 母さんも、何も教えてくれないまま、俺が小さいうちに死んだ。 駐屯地のバルドーラ兵たちにはずいぶんいじめられたけど、俺はまだ小さかったし、そいつらに逆らって一人で生きていく方法なんて考えつきもしなかったから、母さんのやってた仕事をそのまま続けて、やつらにこき使われて、なぶられて、それが普通のパピトの生き方だと思って育った。 でもある日俺、偶然に、その山の中で道に迷って行き倒れた坊さんを助けたんだよね。 坊さんがたった一人でそんな山の中を歩いてるなんて、妙な話だと思うだろうけど、東の海の向こうにある、ハザディルという国から修行のためにカシャトラの山に来たんだと言ってたよ。 その坊さんが、俺の生活を見て、俺をかわいそうだと言うんだ。 こんな生活をしていてはいけない、って」 幼いヴィスバルのいたいけない姿が頭に浮かんで、ルドゥアも思わず大きくうなずき、その 『坊さん』 に同意した。 「そうよ! そのお坊さんの言うとおりだわ!」 ヴィスバルの顔が、少し嬉しそうに緩んだ。 「で、その坊さんが、俺にも坊主になれと勧めたんだ。 そこで俺はその坊さんと一緒に、兵舎を抜け出して、山を超えて、隣国のイルプシマに密入した。 それから、国境の近くの小さな漁港から船に乗って、 『たそがれの港』 に行った」 「まあ! 『たそがれの港』 に?!」 「そうだよ。 君の生まれた街に、俺は、そんな昔に行ったことがあるんだ。 もっとも、ほんの一晩、安宿に泊まっただけで、何も見なかったし人にも会わなかったけどね。 それでも俺、それまで大きな街の灯なんて見たことがなかったから、宿の窓から、明け方まで、うっとりして街を見ていたよ」 「まぁ・・・その灯りのひとつに、あたしもいたかもしれないわね!」 奇妙な因縁を感じて口もとをほころばせたルドゥアに、ヴィスバルも楽しそうにうなずいて答えた。 「そうだよなあ・・・。 そのときは俺まだ、あの牢獄みたいな兵舎から抜け出せたことだけが嬉しくて、そのほかのことは何にも考えられなかったんだけど、でも、 『たそがれの港』 の街灯りを見たとき初めて、ああ、俺もあんな明るい街で、他のパピトたちと一緒に暮らしてみたい、って思った。 そして、 『たそがれの港』 を出港して、次に泊まったのが、ここ 『朝霧の港』 だ。 俺、船を下りるとすぐに坊さんに頼んで、少し街の中を探検させてもらった。 町の中ってどんなふうになってるのか、どんな人たちが暮らしてるのか、この目で見て、この手で触れてみたくてね。 そうして、街に出たのが、悪いことに、夜だったんだよね。 え、何が悪いって、夜、この街が一番にぎやかで華やかな時間に、まだ人生の楽しみなんか何一つ知らない小僧が、いきなり歓楽街のど真ん中に迷い込んじゃったんだぜ。 俺、少し歩き回っただけで、この街に夢中になっちゃった。 街の中は、生き生きとして、きらびやかで、忙しそうで楽しそうで、すれ違う人たちはみんな幸せそうに笑っていて、女の子たちは綺麗だし、通り過ぎる店の中に並んでいるものはどれもこれも、俺の目を奪うものばかり。 そして何よりも、兵隊がひとりもいないんだ。 ほんの一時間ばかりメインストリートを歩いているうちに、俺もう坊主になるのなんかいやになっちゃった。 それで、そのまんま、坊さんが俺を待ってるはずの宿に、帰らなかったのさ」人気ブログランキングへ
2012.02.24
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トゥレディオの酒場 <17> カウンターに近づいていくと、ヴィスバルがさっそく、身を乗り出すようにしてルドゥアに声をかけてきた。 「ルドゥア、さっきはつまらないことを言ってしまってごめんね。 俺、君の気持ちを傷つけてしまったかな」 甘いカクテルの香り。 やわらかなベルベットヴォイス。 カウンターを包む人工的なほの暗い光が、次々と色を変えて、深海のように変化する。 妖しいイルミネーションの中で、ヴィスバルの顔は不思議なくらいセクシーで危険に映えていた。 ルドゥアはあわてて首を横に振り、答えた。 「あら、とんでもないわよ! あやまらなければならないのはあたしのほうだわ。 あたしこそ、あなたを傷つけてしまったんじゃなくて?」 白くなめらかな額に明るい茶色の前髪がはらりとかかって、首を振ったヴィスバルの笑顔が、少し物憂げに翳った。 「そんなことはないよ。 実を言えば俺も、バルドーラたちがどんなに横暴で残酷なことをするかは、他の誰よりもよく知ってるんだ。 俺も、この顔のおかげでずいぶんやつらにいじめられた」 ルドゥアは驚いて顔を上げ、カウンターにもう一歩近づいた。 「あなたが? バルドーラのいじめを受けた? なぜ? 半分パピトだから?」 うなずいたヴィスバルの瞳が、切なく悲しげに曇る。 「そういうことだよ。 俺、カシャトラの生まれなんだ。 カシャトラ知ってる?」 いいえ、と首を振ったルドゥアに、ヴィスバルは、思い出したくないことを思い出そうとするように眉をひそめ、ささやくような小声で話し始めた。 「カシャトラっていうのは、リリファラの西の海の向こうの、大きな国だ。 住んでいるのはほとんどがバルドーラ族。 やつらはとても好戦的で、カシャトラは彼らの支配する完全な軍事国家だ。 カシャトラのすぐ南は、ルドゥア、君のいたイルプシマだよ。 もうずいぶん昔のことだけど、カシャトラ軍がイルプシマに攻め入る準備をしてる、って、小耳にはさんだこともある。 君は、そんな噂も聞いたことない?」 ルドゥアは、不安になって、また一歩カウンターに近づいた。 「ないわ。 あたしのいたたそがれの港には、北の港から来る商人が大勢いたけど、その人たちもそんな噂はぜんぜん・・・。 イルプシマの北の国境には、イルプシマ・バルドーラの大きな軍事施設があるというから、カシャトラの軍隊もそう簡単に攻め込むことはできずにいるんじゃない?」 ヴィスバルが小さくため息をつく。 「ああ・・・、そうかもしれないね。 俺もそのあたりのことはよく知らないんだ。 だって、俺がカシャトラ・バルドーラの虐待に我慢できなくなって家を飛び出したのは、もう10年も前のことだし、それから一度も帰ってないんだからね」 「まあ! 10年も前に?! そのときあなた、いくつだったのよ?!」 目を丸くして、とうとうカウンターに身を乗り出したルドゥアに、ヴィスバルが少し笑って答えた。 「9歳、だったかな。 俺、坊さんに助けられたんだよ」 「ぼ、坊さん?!」 ほとんど場違いに響く言葉に、ルドゥアは興味を引かれて、さらに身を乗り出した。人気ブログランキングへ
2012.02.23
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トゥレディオの酒場 <16> それは、すらりとした長身の、いかにも洗練された感じの美少女だった。 絹糸のように輝くプラチナブロンドの髪を、襟髪の辺りできっちりと切り揃えたシャープな感じの髪型と、切れ長の、澄んだ青色の瞳とが、理知的な、大人っぽい印象だ。 モモンがふくれっつらで化粧を始めたのを見ると、少女は、クールな、けれど十分に興味をそそられた視線をルドゥアに向けて、気取った会釈をした。 「ルドゥア、だったわね。 私はガルネよ。 あなたにひとつ忠告しておくけれど、このモモンという娘は、結婚願望が強すぎるのよね。 この娘の言うとおりにしてると、あなたの将来も、くたびれたおばさんに決まりよ。 モモンも、そうね、遅くとも2年のうちには、そこいらの野暮ったい貧乏男と所帯を持つと言って、このトゥレディオの酒場を辞めていくでしょうね」 超然と言い放って、くすくす笑いながら立ち去る少女の、均整の取れた後姿は、確かに、モモンをあざ笑うだけの気品と自信と、そして、匂いたつような色香が漂っているように見えた。 モモンが、化粧鏡の奥に映った、その少女の後ろ姿を睨みつけながら、悔しそうに言った。 「ガルネは、本当の恋なんかしたことがないのよ。 あの娘が今援助を受けているバルドーラは、この街でも5本の指に数えられるほどの大金持ちなの。 だから、ガルネも貴族みたいな暮らしをしてるけど、早い話が、愛人じゃない。 れっきとした正妻のいる人から、お金と愛情を奪い取るなんて、最低だと思わない? よく恥ずかしげもなくすまして街を歩けるもんだわよ。 日陰者のくせにあんなに平然としていられるのは、ガルネがその彼を本当に愛しているからじゃなくて、そいつのお金を愛しているからだわ。 ガルネはそういう冷たい娘なのよ。 だから、あたしみたいな一般庶民は野暮ったく見えるんでしょ」 そのモモンがようやく化粧を終えたころ、さきほど調理場にトゥレディオが来たことを告げに来たあの少年が、開店を告げに回って来た、 その声に、少女たちが、どやどやと更衣室をあとに、店のほうへと移動し始める。 ルドゥアも、モモンと一緒に更衣室を出、狭い通路を通って、『従業員通用口』 という札のかかったドアから、『トゥレディオ』 店内へと、足を踏み出した。 ドアを抜けたところには、ルドゥアが生まれて始めて目にする、別世界があった。 店内はもう、さきほどのように真っ暗ではなく、高い天井から下がったいくつものシャンデリアにも、壁の隅々まで一定の間隔を置いて取り付けられたウォールランプにも、また、テーブルの一つ一つに置かれたアンティークなテーブルランプにも、すべて明々と灯がともされ、昼とも夜ともつかない不思議な光で満たされていた。 百人もの客がゆっくりとくつろげそうな、広々としたホールには高級なふかふかのじゅうたんが敷き詰められ、壁紙もテーブルも椅子もソファも、どれもみな、古風で落ち着いた色合いのデザインに統一されている。 まさに古城の外観にふさわしい、宮殿大広間のような豪奢な、かつ、趣味の良い内装だ。 そして、ホールの奥にはひときわ華やかに、カウンターが浮かび上がっていた。 顔が映るほどぴかぴかに磨き上げられたカウンターの向こう、美しくライトアップされた棚には、ルドゥアもよく見知った酒瓶にまじって、きっと高級な酒なのだろう、イルプシマではついぞ見かけたことのない美しい酒瓶が、彩りも鮮やかにずらりと並んでいる。 その棚を背にして、何人ものバーテンダーが、今やすっかり開店の準備を終えて、スタンバイしていた。 揃いの真っ白なシャツに粋な蝶ネクタイ。 全員が 『雑種』 で、その端正な風貌とすらりとした立ち姿が、それぞれ、美しい酒瓶の並んだ棚をバックに、見事なくらい絵になっている。 なかでも、ひときわ目立っているのは、やはり、ヴィスバルだった。 女心をわしづかみにする優しげな顔立ちに、とろけるような甘い笑顔。 少し長めの、暗い茶色の髪に、ところどころ入れた明るい色のメッシュ。 動くたびに揺れる、少し跳ねた毛先が、ヴィスバルの快活さをアピールしているみたいだ。 確かにヴィスバルは、自分で言うとおり、この店一の花形バーテンダーらしい。 そのヴィスバルが、ルドゥアに気づいて、こっそり手招きした。 ルドゥアの隣でモモンが、くすくす笑いながら肘をつつく。 「ほらほら、ルドゥア、ヴィスバルのやつ、かわいい新入りを見つけてさっそく口説こうとしてるわよ。 行って、ぴしゃりとはねつけてやりなさいよ。 ヴィスバルの口説き文句を攻略するのは、トゥレディオで働くすべての女の、一番初めの仕事よ」 ルドゥアの後ろに立っていた女の子たちも、くすくす笑いながら、ルドゥアをそっとカウンターのほうに押し出した。人気ブログランキングへ
2012.02.22
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トゥレディオの酒場 <15> 笑って、ルドゥアはうなずいた。 「ええ、今日からこのお店で働くことになりました、ルドゥアといいます。 どうぞよろしくね」 モモンの、ふっくらとした丸い顔が、ぱっと輝いた。 「まあ! 嬉しいわ! お隣のロッカー、ずっと空いてて寂しかったの。 これからはお隣同士、仲良くしましょうね! あたし、モモンよ」 それからモモンは、何か思い出したように、急にくすくす笑い出した。 「ねえ、ルドゥア、今日からここに来たのなら、もうヴィスバルに口説かれた? あいつの言うこと、絶対真に受けちゃだめよ。 あいつってば誰にでもおんなじこと言うんだから。 親切でとっても良いやつなのは確かなんだけど、口から出る言葉は、その場限りのでまかせばかり。 あたしも始めは何も知らなかったから、店に来た最初の日に、あいつに 『君に一目ぼれしちゃった』 って言われて、仕事のことや店のこといろいろ親切に教えてもらったら、すっかり舞い上がっちゃったの。 だってあいつ、かっこいいし、あの顔でまっすぐ微笑みかけられたら、もう、体中とろけちゃいそうな気がしたのよ。 だけどよく観察してたら、あいつ、誰にでもそう言うのよね。 自分の倍以上も年食ったおばさんにまで同じこと言うの。 あれはどうしようもない女たらしだわ。 あいつが絶対に口説けないのは、おっかないエメラねえさんだけ。 それに気がついたら、あたしの熱もいっぺんにさめたわよ。 ルドゥア、あんたも気をつけたほうがいいわよ。 いい男ってのは、ろくなのがいないわ。 本当のいい男っていうのは、たぶん顔は良くないのよ。 顔が良くない分、たったひとりの女にとことん惚れこんで尽くしてくれるんだと思うわ。 あたし、結婚するなら、顔は男前でなくていいから、甘い言葉も知らなくていいから、うんと誠実な人がいいな。 ルドゥア、あんた、そう思わない?」 頭の片隅にふと、アルデバランの寂しげな横顔が浮かび、ルドゥアは苦笑しながら首を横に振った。 「よくわからないわ。 あたしまだ男の人と深いお付き合いをしたことがないし、自分が本当に結婚するなんて考えたことがないもの」 それを聞くとモモンは急にしらけた表情になって、目が痛くなるような黄色いドレスの、背中のボタンをかけ始めた。 「えー、ルドゥア、まだ恋もしたことがないの? つまんないなあ。 あたしなんか、ほんとに人を好きになるずっと前から、結婚のこと考えてたけどな。 堅い職業の人と結婚して、広いお庭のある家に住んで、子どもは、男の子が何人と女の子が何人、とか、ね。 きっと、ルドゥアっておくてなんだわね」 「そうかもしれないわね」 くすくす笑いながら、モモンの背中のボタンをかけてやっていると、(モモンは太っている上にたいそう豊かな胸をしていたので、その太い短い指では、ドレスの背中に意地の悪いほどびっしり並んだ小さなボタンを全部かけることができなかったのだ) そこにまた別の少女が近づいてきて、モモンをからかった。 「あら、モモン、まだひとりで背中のボタンを全部かけることができないの? あなた少し減量したほうがいいわよ。 朝食を抜くことにしたら? そうすれば遅刻もしなくてすむし、一挙両得じゃない」人気ブログランキングへ
2012.02.21
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トゥレディオの酒場 <14> 痛烈な酷評を聞いているうちに、ルドゥアもだんだん気持ちが落ち着いてきて、その声の持ち主の顔を見上げた。 床に座り込んだルドゥアの前で、両腕を組んで仁王立ちになった少女の、ほっそりした赤いドレスのスリットから、優雅にはみ出した白い足が、どきっとするほどきれいだ。 背中まで伸ばした、ゆるやかにカールした髪は、輝くような金髪で、その美しいつやとセットアップは完璧。 髪飾りをつける必要もないほどゴージャスに見える。 が、その髪に負けないほど美しく化粧を施した、たぶん素顔でも十分美形に違いない、端正に整った顔は、いかにも高慢で生意気そうだ。 ルドゥアの視線に気づいた少女が、まるで、その見事な金髪を自慢するように片手でかき上げ、誇らしげなしぐさでにっこり微笑んだ。 「あたし、クリスタよ。 この酒場に勤めるようになってまだ1年だけど、ここのナンバーワンを目指してるの。 あたしは、ララーダみたいに男に貢ぐのはぜったい嫌だな。 たとえそれがどんなにいい男でも、貧乏人は嫌。 金持ちの男に貢いでもらうならいいけどね。 ・・・ルドゥア、あんたは、あたしのいいライバルになるかもね。 あんたも気が強そうだもん」 冗談とも本気ともつかない、挑発的な、しかしすこぶる魅力的な笑顔で、クリスタが、うふっ、と笑う。 そのとき、戸口で立ち話していたララーダと【街灯】のふたりを突き飛ばすようにして、ひとりの大柄な少女が更衣室に駆け込んできた。 少女は、そのふくよかな体を揺らすようにして真っ直ぐルドゥアとクリスタのほうに駆け寄ってきて、と思ったら、ルドゥアのとなりのロッカーを、バン、と勢いよく開けながら叫んだ。 「たいへんだわ、また遅くなっちゃった! ね、クリスタ、エメラねえさんはもう来た? あーん、開店時間まで、あと20分しかない! お化粧、間に合うかしら!」 クリスタが、肩をすくめてくすくす笑った。 「やあね、20分もあったらゆっくり化けられるじゃない。 モモン、あんた化粧に時間をかけすぎんのよ。 どうせあんたのその顔じゃ、化粧に1時間かけようと2時間かけようとたいして変わりゃしないわ。 あきらめて5分で化粧を終えるように心がけるのね。 そうすれば、その分の時間、ゆっくり食事ができて、出勤前に今の倍は食べられるわよ。 あははっ!」 モモン、と呼ばれたその少女が、真っ赤になってクリスタに言い返した。 「うるさいわねっ! あっちへ行って!」 「きゃーっ! モモンが怒った! あははっ、赤いお饅頭みたい!」 けらけら笑いながら、クリスタが逃げて行ってしまうと、その少女は頭から湯気を立てながら、大急ぎで着替えを始めた。 「ふんっ、クリスタの高慢ちき女め! ちょっとくらいスタイルがいいからって、何さ! 赤いお饅頭、って、何なのよそれ!」 ぷりぷりしながら、その少女は、自分のロッカーから、おそろしく派手な黄色のドレスを引っ張り出し、それに手を通そうとして初めて、となりのロッカーの前に見慣れない少女がいることに気がつき、目を丸くした。 「・・・あら? あなたは、もしかして、新入りさん?」人気ブログランキングへ
2012.02.20
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トゥレディオの酒場 <13> 嬉しそうにうなずいたララーダが、ふと顔を上げ、女子更衣室の入り口のほうに目をやった、と思ったら、その顔が急に、ぱーっと喜びの色に染まった。 「まあ! 【街灯】ったら、こんなところまで入り込んで来ちゃって、いやぁねえ! ・・・じゃ、ルドゥア、またあとでね!」 言うなり、ララーダは、手に持っていたルドゥアのドレスをその場に放り出し、入り口のほうへと駆け出した。 その表情は、いやぁねえ、と言うほど嫌そうではぜんぜんなく、むしろ嬉々として見えたので、ルドゥアはあっけにとられてその後ろ姿を見送った。 ララーダの駆け寄っていく戸口 ――― そこに目をやって、ルドゥアは思わず、小さく悲鳴を飲み込んだ。 入り口のドアの向こうに、大きなバルドーラ族の男の影が、ちらりと見えたからだ。 ――― 鬼! 恐怖にすくみあがって、ルドゥアは宝石箱を取り落とし、その場に座り込んだまま動けなくなった。 が、そのとき、通りがかった別の少女が、足もとに転がった宝石箱を拾い上げ、それをルドゥアの手に戻しながら、ララーダに軽蔑の視線を向けた。 「・・・まったく、いつもああなんだから、ララーダと本気で友達になろうなんて娘はいなくなっちゃうわけだわよ。 あの、うすのろのバルドーラ男がやって来ると、ララーダのやつ必ず、あんなふうに仲間も仕事もほっぽり出してあいつのところに飛んで行っちゃうの。 あんなうすのろ男の、どこがいいんだか、気が知れないわよ。 おまけに、裏口のあたりならまだしも、こんな店の奥まで入って来させるなんて、エメラねえさんに知れたら、ララーダ、また大目玉食らうわよ」 それからその少女は、初めてルドゥアの怯えた表情に気づき、目を丸くした。 「あら! あんた、顔色が悪いわよ! どうかしたの?」 ルドゥアは、恐ろしさにまだどきどきする胸をさすりながら、ようやく答えた。 「いえ、なんでもないの。 あたし、こんなところまでバルドーラが入ってくるなんて思っていなかったから、ちょっとびっくりしただけ」 すると少女は、もっともだ、というふうにうなずいて続けた。 「ほんと、女子更衣室までのこのこ入り込んでくるなんて、ずうずうしいやつだわね。 でも、あんなモノ、ぜんぜん気にすることないのよ。 別に女の子の着替えを覗き見しようなんて下心があるわけじゃないの。 あいつは、ララーダに小遣いをせびりに来るだけなのよ。 毎晩のように店の裏口に来て、街灯の下に立ってララーダを待ってるから、とうとうみんなに【街灯】なんてあだ名までつけられちゃって。 ・・・え? 本名? そんなの誰も知らないわよ。 ララーダってば、ここで稼いだ給料を全部あの【街灯】に貢いじゃうの。 馬鹿な娘よねえ。 だけど、いくらあいつにつぎ込んだってキリがないのよ。 どうせあいつ、ぜんぶ賭け事でスッちまうんだもの。 おかげでララーダは、この店では厳禁の、給料の前借りを何度もトゥレディオさんにかけあって、そのたびにエメラねえさんにこっぴどく叱られてるの。 エメラねえさんはああいう面倒見のいい人だから、いくらきつく叱っても、最後にはそっとお金を都合してやってるみたいだけど、でも、それもそろそろ限界でしょうね。 ララーダがこの店をクビになるのは時間の問題だと思うわ」人気ブログランキングへ
2012.02.19
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トゥレディオの酒場 <12> 女子更衣室で、そろそろ出勤してきた女の子たちに紹介された時、ルドゥアはまず、その競い合って咲いた花のような少女たちの、数の多さに圧倒された。 エメラの声で集まってきた女の子たちだけでも10人近くいるのに、そのうえ、あとからあとから、出勤してくる女の子の数がどんどん増えていくのだ。 更衣室の中がしだいににぎやかになり、息苦しいほどの熱気に包まれていく。 女の子たちは皆、たそがれの港の居住区で見かける野暮ったい娘たちとは格段の差があり、 どの子も美しく着飾って、一分の隙なく化粧をして、陽気で、生き生きとした表情がまぶしいばかりだ。 みんな、よく笑い、いそがしくおしゃべりを交わし合い、見慣れない田舎娘が1人増えたことなんか、気にもかけない。 だからといって、よそ者に冷たくあたるようなそぶりはみじんもなく、どの娘もごく自然にルドゥアにも笑顔を向け、声をかけ、気がつけばいつのまにかルドゥアも、このにぎやかな部屋で着替えをする女の子たちの1人として溶け込んでしまっているのだった。 やがてエメラが姿を消してしまうと、まるでそれを待っていたかのようにいそいそと、ひとりの少女が、ドレスの山をロッカーにしまっているルドゥアのもとに駆け寄ってきた。 「ルドゥア、おはよう! あたし、ララーダというの。 どうぞよろしくね! ロッカーの整理、手伝いましょうか?」 オーガンジーの大きなリボンを緩いポニーテールの髪に結びつけた、活発な感じの少女だ。 額や頬にかかる、くるくるカールさせたほつれ毛が、これまたリボンのようでかわいらしい。 体は小柄だが、ちょっとはすっぱな匂いのする笑顔に、大きな水玉模様のミニドレスがとてもよく似合う。 ルドゥアも思わず顔をほころばせ、ありがとう、ぜひお願いね、と答えた。 すると少女はいかにも嬉しそうに、ドレスの山から1枚取り出してはハンガーにかけ、小さな毛ぼうきで丁寧に埃を払ってしわを伸ばし(実際は埃もしわもなかったのだが)、リボン飾りやボタンの付け具合を点検して、ルドゥアのロッカーの中へとしまい始めた。 手を動かしながら、ララーダのおしゃべりは一時も止まらない。 「あたしも、この店に勤め始めてから、まだ日が浅いの。 今月で3ヶ月目くらいかな」 細い首をかしげ、子供っぽいしぐさで指折り数えながら、ララーダが、その琥珀色の瞳をうるませて、親しげにルドゥアを見上げる。 「ねえ、ルドゥア、あたしとお友達になってね。 あたし、ここではまだ本当に仲の良い友達がいないのよ。 なんだかみんなに嫌われているような気がして、心細いの。 ね、お友達になってくれるわよね?」 もちろんよ、とうなずくと、ララーダは嬉しそうに顔を輝かせ、それから、ひらりと身をひるがえして、自分のロッカーから、大きな宝石箱を持ち出してきて言った。 「それじゃ、お近づきのしるしに、あたしの宝石箱、もらってくれる? 使い古したもので失礼かもしれないけど、見たところあなたの持ち物の中に宝石箱がなかったみたいだから。 細かいアクセサリーをしまっておくのに、これ、使って」 「まあ、こんなにりっぱなものを、あたしがもらっちゃっていいの? ありがとう、ララーダ、助かるわ」人気ブログランキングへ
2012.02.18
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トゥレディオの酒場 <11> こうしてエメラは、ただ茫然と立ちすくむルドゥアの前に、美しいドレスを次から次へと積み上げ、ルドゥアの前にはとうとう、小さなドレスの山が出来上がった。 そして最後にエメラは、妖艶な黒いレースのドレスを手に取り、ルドゥアの顔とじっくり見比べて言った。 「これはあんたには似合わないわね。 このドレスを着るには、あと10年、この世界で辛抱しなきゃ。 今のあんたがこれを着たら、安っぽい子どもの娼婦みたいで見てらんないわ。 これはあげない」 それからさらにエメラは数枚のドレスを無造作に積み上げ、さらに、それぞれのドレスにあわせた靴やアクセサリーなどの小物を丹念に選び出して、ドレスの山のわきに積み重ねてから、ようやく、ひと仕事終えたというように、椅子に腰を下ろして笑った。 「とりあえずこれだけのドレスがあれば、当座の間には合うでしょう。 女子更衣室の中にあんた専用のロッカーをあげるから、その中にしまっておきなさい。 ドレスが増えてロッカーに入りきれなくなったら、人にあげるか売るかして処分しなさいね。 着古したドレスをいつまでも着てたりしちゃだめよ」 ルドゥアは、今もらった夢のようなドレスの山と、それを惜しげもなくくれるエメラの気前の良さとに、すっかり感激して、目を潤ませながらこの美しい年上の女性を見上げた。 「ありがとうございます! エメラねえさん! こんなにまでしていただいて、あたし、なんてお礼を言っていいか・・・!」 だがエメラは、その、綺麗に紅を引いた唇をゆがめるようにしてひねくれた笑いを浮かべ、ルドゥアの感謝の言葉をさえぎった。 「あら、勘違いしないでよ。 あたし何も、あんたのためにドレスをあげたわけじゃないわ。 このドレスは、あんたの商売道具だから、商売用に支給したまでよ。 あんたには、このドレスやアクセサリーを使ってせいぜい着飾って、うんと女を磨いて、鼻の下を長くした客からお金を吸い上げてもらうつもりだからなの。 そうやって、この店を儲けさせてちょうだい。 それがあたしの望み。 たかがドレスのことぐらいであたしに恩義を感じる必要はないから、そのかわりここで存分に稼ぎまくってちょうだい。 客からチップをしこたま巻き上げたら、その10倍のお金を店の中で使わせてちょうだい。 そのためなら、ドレスでも宝石でも香水でも何でも、ここにあるものは遠慮しないでどんどん使いなさい。 わからないことがあれば、なんでもあたしに聞いて、そして、うんといい女になってちょうだい。 あたしはもう花の盛りは過ぎたけど、あんたはこれからが花よ。 あんたはきっと、この店でナンバーワンの売れっ子になるわ。 あたしにはわかるの。 あんたはそういう、花のある顔をしているのよ。 あたしの代わりに今度はあんたがこの店を大きくしてちょうだい。 頼むわよ」 それは、淡々とした言い方だったが、ルドゥアは、全身にあわあわと鳥肌の立つほど感動していた。 目の前の、この尊敬すべき女性の生き方こそ、今まで自分がずっと捜し求めていた目標そのものだと思った。 ルドゥアは、偶然にも、新しい職場としてこのような優れた女性のいる、 『トゥレディオの酒場』 を選んだことを幸運に思い、小さく武者震いしながら、エメラの、静かな情熱を秘めた黒い瞳を真っ直ぐに見上げた。 「わかりました。 あたし、エメラねえさんの期待を裏切らないように、一生懸命頑張ります!」 人気ブログランキングへ
2012.02.17
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トゥレディオの酒場 <10> 女は、イルプシマも 『たそがれの港』 も知らないらしく、つまらなそうに、ふーん、とうなずいて見せてから言った。 「あたしは、エメラよ。 ここの女の子たちはみんなあたしを、エメラねえさん、というふうに呼ぶわ。 この朝霧の街で生まれて、この界隈で遊びながら育った、ちゃきちゃきの土地っ子なの。 ほかの町のことはよく知らないわ。 あたしが行ったことがあるのは、この街の近辺と、首都 『水の都』 だけよ。 18歳の時、女友達と2人で 『水の都』 に仮住まいしていたことがあって、トゥレディオとはそこで知り合ったの。 トゥレディオは 『水の都』 の人だったんだけど、3人で食事をしたりお芝居を見に行ったりしているうちに、あたし、トゥレディオとすっかり意気投合して、2人で朝霧の街にこのお店を出すことに決めたのよ。 それ以来ずっとトゥレディオといっしょにこの店を切り盛りしてるの。 結婚はしてないけど一緒に暮らしてる、事実上の夫婦だわね」 それからエメラは、ずらりと並んだドレスの山を指さして言った。 「あのドレスも、靴も、アクセサリーも、みんな、トゥレディオがあたしに買ってくれたものなの。 今でもあの人、週に2枚ずつあたしに新しいドレスを作ってくれるのよ。 だからこんなに溜まっちゃった。 人にあげたりして一生懸命減らそうとしてるんだけど、増えるいっぽうだわ。 ルドゥア、あんたも、気に入ったのがあったらどんどん持って行って。 好きなのを選んでいいのよ」 ルドゥアは、エメラの話に度肝を抜かれて、ただ目を白黒させるばかりだった。 この人は、生まれも育ちも何もかも自分とは違う、この上なく幸運な、まさに女王そのものの人生を送ってきた人なんだ、と、ため息が出るばかり。 ぼうっとしてしまったルドゥアに、エメラがおかしそうに言った。 「ああ、そうだわね、選べといっても、あんたみたいな山猿ちゃんには、どのドレスがどうなのかわからないかもしれない。 じゃ、あたしが選んであげるわ」 エメラが始めに選び出したのは、赤いシルクのドレスだった。 「この店に来る客は、バルドーラが多いの。 バルドーラの男は単純だから、こういう目立つ色が好きなのよ。 それに、赤は攻撃的な色だわ。 バルドーラを相手にするときは、こういうドレスが一番よ。 このドレスを着て、うんと気まぐれでわがままな娘を演じてごらんなさい、 強い女に鼻面を引き回されるのが好きなバルドーラ男はみんな、あんたにころりとまいるわよ。 明日はこれを着てみるのね」 次にエメラが選んだのは、大きな羽根飾りのついた、虹色に輝くドレスだった。 「もっと目立ちたい時は、こういう大きな飾りのついたドレスを着るのよ。 そして、あっちのテーブル、こっちのテーブルと、蝶のようにめまぐるしく飛び回るの。 客は、きっとあの娘は超売れっ子なんだと思って、そうするとどうしても自分のテーブルに長く置いておきたくなるの。 きっと、チップをうんとはずんでくれるわ」 その次にルドゥアの前にふわりと投げ出されたのは、目にしみるような鮮やかな青の、スリムなドレス。 「大人っぽく見せたければ、こういう、体の腺がよく見えるドレスを着るといいわ。 ちょっと勇気がいるわよ。 ほら、スリットがこんなに深いの。 大股で歩いたら太ももがころりと出ちゃうわ。 下品に見えるから、じゅうぶん気をつけて、おしとやかに歩くのよ。 こういうのを品よく着こなせるように練習したら、一流になれるわ」 それから、胸元に大きなリボンのついた、鮮やかなオレンジ色のミニドレス。 「でも、時にはこんな少女っぽいのもいいわね。 本物の子どもが大人のフリをするのは人の笑いを誘うだけだけど、本物の女は、本物の少女より少女っぽく見せることもできるものよ。 これを着て上手に甘えることができたら、本気であんたにプロポーズする金持ちの坊ちゃんも現われるかもしれないわよ」人気ブログランキングへ
2012.02.16
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トゥレディオの酒場 <9> 完全に打ちのめされてぐうの音もでないルドゥアを、女は面白そうに見下ろして言った。 「それじゃ、お猿の赤ちゃん、あんたがこの店に出られるように、あたしが化粧のやり方を教えてあげるわ」 女が、ルドゥアの顔を熱いタオルで拭き、甘い匂いのする白粉を塗り始めても、ルドゥアはまだ、すっかり落ち込んだまま声も出せなかった。 でも、化粧が終わって、女が、ルドゥアの顔の前に鏡を差し出した時には、ほんの少し、気分が良くなった。 なぜなら、鏡に写った自分の顔は、今までのルドゥアとは別人みたいに、都会的で大人っぽく変わっていたからだ。 思わず身を乗り出して鏡の中を覗き込むルドゥアを見ると、女はまた、おかしそうにくすくす笑い、それじゃ次はドレスを選んであげるわ、と言った。 こんなにたくさんの、目もくらむようなきれいなドレスのなかから、いったいどれをあたしに? と、胸をときめかせながら立ち上がると、女は迷いもせずに、品のいいバラのコサージュを胸にあしらった、淡いピンクのドレスを選び出して言った。 「今日は、あんたが始めて店に出る日だから、この初々しい少女っぽいドレスがいいわ。 靴もピンクがいいわね。 あんた色が白いから、きっとよく似合うわよ」 胸はずませながら、手渡されたドレスに着替えると、女はまたくすくす笑って、ルドゥアを大きな姿見の前に連れて行った。 「ね、だいぶ見られるようになったでしょ? このくらいなら、隅の暗いところにいれば、そう恥ずかしい思いをしなくてすむと思うわ」 ルドゥアは、ただ呆然として、姿見に映った美しい少女を見つめていた。ゆるくカールした赤毛に、あまり外を出歩いたことのない白いなめらかな頬が、女の言うとおり、可憐なピンクのドレスにびっくりするほどよく似合って、まるで魔法でもかけられたみたいだ。 だが、女はそれでもまだ不満な顔で、ルドゥアの髪を丁寧にくしけずって形を整え、ドレスのコサージュと揃いの髪飾りをつけ、華やかすぎない上品な真珠のネックレスをつけ、イヤリングをつけ、白いレースの手袋をつけ、忙しくルドゥアの周りを動き回って、ようやく女がルドゥアから離れた時、ルドゥアは正真正銘、どこかの貴族のお嬢さまのように変貌していた。 女はそれを見ると、やっと安心したように笑い、また、あの長い銀色のキセルを取り上げてそれに火をつけた。 「山猿ちゃん、いえ、えーと、ルドゥア、といったっけ。 あんた、どこの山奥から出てきたの?」 美しいドレスとあか抜けた化粧のおかげで、ルドゥアはもう、この女に何を言われても悲しくならなかった。 こんなに美しく変身できた喜びを隠そうともせずに、ルドゥアは息を弾ませて女を見上げた。 「イルプシマです。 『たそがれの港』 という小さな港の、さびれた酒場で働いていました。 その港町には、こんな上等のドレスを売っているお店は一軒もなかったし、お化粧のしかたをちゃんと知ってる女の人もいなかったんです」人気ブログランキングへ
2012.02.15
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トゥレディオの酒場 <8> ――― 息を飲んだ。 その広い部屋の中は、見渡す限り、ドレスがずらりと並んでいた。 真っ赤なシルクのドレス。 黒いチュールレースのドレス。 夜のように黒い羽根飾りのドレス。 きらきら輝くスパンコールのドレス。 星のようにビーズを散りばめたドレス。 青い海のようなヴェルヴェットのドレス。 白い毛皮飾りのついた、銀色に光るドレス。 金糸で大きな蝶を刺繍した鮮やかな真紅のドレス。 薔薇の花を胸元いっぱいに縫いつけたピンクのドレス・・・ 壁を覆いつくすばかり、数知れない、夢のようなドレスの山が、ルドゥアを圧倒した。 信じ難いその眺めに、ルドゥアはしばし言葉を忘れて立ちすくみ、それから、ようやく、そのドレスの間に埋もれるようにして座っている、パピトの女に気がついた。 ふかふかの椅子に体を預け、形のいい長い足を優雅に組んで、怪訝そうにルドゥアを見上げているその女は、見たところルドゥアよりはるかに年上のようだったが、つやのある黒い髪を高く結い上げ、その傍らに品のいい羽根の髪飾りをつけているのが、ぞっとするほどよく似合って、その年齢にふさわしい威厳と美しさを兼ね備えた、まさにこの 『古城』 の女王というふうに見えた。 その妖艶な美しさに呆然と見とれるルドゥアを、女は、じっくりと観察するように眺め回し、それから、大胆な飾り爪のついた指で、古風な長いキセルを取り上げ、深々と煙を吸い込んでから、立ち上がってゆっくりとルドゥアに歩み寄った。 女が、息苦しくなるほど甘い、強い香りの煙を、ぷーっとルドゥアの顔に吐きかける。 ついで、真っ赤な口紅を塗った唇が、物憂げに動いた。 「あたしのドレスを借りて着なさい、って、トゥレディオが?」 たずねるともなくそう言うと、なまめかしい唇が、『女王』 らしからぬ底意地の悪い笑みの形に広がった。 にやにや笑って、女は、長い銀色のキセルの先で、汚いものでも指すように、ルドゥアの服を示した。 「そうね。 こんな野暮ったい服で店に出たら、客はみんな逃げちまうわね」 それから、キセルを持っていないほうの手が、ゆるりと優雅に伸び、ルドゥアの片頬をもてあそぶようにすーっとなでた。 「化粧も下手だわ。 山奥の猿みたい」 ルドゥアは、真っ赤になってうなだれた。 言われた言葉の内容もずいぶん残酷なものだったが、それよりもむしろ、ここまでずけずけ言われてもなお、目の前のこの女の洗練された美しさに圧倒されて、怒る気にもなれない自分が、情けなかった。 この人の言うとおり、あたしは、化粧もできない山猿なんだわ、と思った。人気ブログランキングへ
2012.02.14
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トゥレディオの酒場 <7> ペンを取り上げて書類の一枚にルドゥアの名前を書き込もうとしていたトゥレディオが、ちょっとその手を止めて、ルドゥアの顔を見上げた。 「ジラートの酒場? ・・・聞いたことがないな。 どこにあるの?」 「あ、ジラートの酒場は、イルプシマの 『たそがれの港』 パピト居住区にある小さな酒場で、その街があたしの生まれ故郷なんです。 この 『朝霧の港』 には、今朝着いたばかりですわ」 それを聞くとトゥレディオは神経質そうに眉をひそめ、ルドゥアを品定めするように、頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺め回し、つぶやいた。 「・・・へえ、イルプシマから出て来たばかり。 どうりであか抜けない娘だと思った」 いやなやつ! とルドゥアはまた思ったが、そんな態度はおくびにも出さず、堂々と微笑んで見せた。 「そうなんです。 だからあたし、あの街に嫌気がさして、華やかな都会に憧れて出て来たんですわ」 トゥレディオは、黙って書類に、ルドゥア、15歳、未婚、イルプシマ生まれ、などと書き込み、また事務的な口調に戻って労働条件や規則などの説明をした。 その条件は、賃金も労働時間もその他の処遇も、ルドゥアの考えていた以上の好条件だったので、ルドゥアは喜んで、今からすぐにでもこの店で働くことを即決した。 契約書を取り交わすと、トゥレディオはさっさと書類を片付けながら言った。 「ではさっそく今夜から働いてもらうことにしようか。 だが、その格好では困るな。 この 『トゥレディオの酒場』 の接客係として恥ずかしくないドレスに着替えて来なさい・・・と言っても、この街に着いたばかりではどうせ、そんな気のきいたものは持っておらんだろうから、とりあえずは、うちの接客主任のエメラに、適当なものを選んで借りておきなさい。 エメラは、この隣の 『衣装室』 にいるから」 そう言ったきり、トゥレディオは、そのエメラという人にルドゥアを紹介してくれそうな気配もなく、引き出しから別の書類を引っ張り出して仕事を始めてしまったので、ルドゥアはしかたなく、トゥレディオに目礼してその部屋を出た。 トゥレディオの言った 『衣装室』 は、『業務室』 のすぐ右側にあった。 その 『衣装室』 の前で、ルドゥアはもう一度、大きく深呼吸し、ドアをノックした。 間髪を入れず、女の声で返事。 「だぁれ? 何か用なの? 用があるならさっさと入って来なさいよ」 それは、緩慢だが少しいらだったような言い方だったので、ルドゥアはちょっと尻込みしかけ、しかし勇気を奮い起こして、拳を握りしめ、えいっ、と自分に気合いを入れると、その勢いでぱっとドアを開けた。 「失礼します! ルドゥアといいます! トゥレディオさんに、今日からこのお店の接客係として雇っていただくことになりました。 でも、あたし、まだこの国に来たばかりで、ドレスのことまで考えていなかったので、エメラさんにドレスを借りるように言われたんです。 どうかよろしくお願いします!」 一気にまくし立ててから、ルドゥアはようやく息を吸い込み、その部屋の中を見回した。 人気ブログランキングへ
2012.02.13
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トゥレディオの酒場 <6> 店主らしきそのパピトが、じろじろと無遠慮な目つきでルドゥアを眺め回し、それから、ヴィスバルに向かって剣のある声で言った。 「ヴィスバル、おまえがガールフレンドを取っ替え引っ替えして楽しむのは勝手だが、仕事場に女友達を連れて来てはならんと言ってあるだろう。 ここはおまえの仕事場で、遊び場ではないのだぞ」 ヴィスバルが目を白黒させて言った。 「・・・あれっ? やだなあ、トゥレディオさん、違いますよ! このルドゥアは俺のガールフレンドじゃなくて、この 『トゥレディオ』 で接客係として働きたいと、面接に来た女の子だ。 だからトゥレディオさんが来るまでここで待っていなさいと、俺はそう勧めていただけなのに。 やだなあ!」 「・・・でも、口説こうとしてた」 『じゃがいも』 が小さな声でつぶやき、周囲のパピトたちがぷーっと吹き出した。 しかしトゥレディオはにこりともせず、調理場のパピトたち一人一人の顔にその鋭い視線を走らせ、無言でその場を静まらせてから、もう一度、視線をルドゥアに戻し、横柄に言った。 「では、私の部屋へ来たまえ。 条件を話し合おう」 それだけ言うと、トゥレディオはさっさとルドゥアに背を向け、くぐり戸の向こうへと姿を消した。 あわててその後を追うルドゥアの後ろで、ヴィスバルが小さな声で言った。 「がんばれ、ルドゥア! 俺、仕事場で待ってるから!」 くぐり戸の向こうは、狭い、薄暗い通路がずっと奥まで続いていた。 甘い香水の香りと生ゴミの匂いと大勢の体臭が入り混じった、奇妙な匂いの長い通路を歩いていくと、両側に不規則な間隔でドアが並び、それぞれ、『休憩室』 とか、『フロア通用口』 とか、『女子更衣室』 とかいった小さな札が貼り付けられている。 トゥレディオはその通路の一番奥の突き当たりの階段を上り、『業務室』 と書かれたドアの前に来ると、ちょっと立ち止まり、ルドゥアを振り返って、そのドアの中に入るよう、あごで示した。 言われるままにドアの中に入る。 と、そこは、ふかふかの絨毯にきらびやかなシャンデリアという、この店の古城の外観にふさわしい、豪華な部屋。 その中央にでんと据えられた大きくて古風な書き物机に、忙しげに腰を下ろしたトゥレディオが、その正面の、これまた古風な布張りの椅子を示して、そこに座るよう、ルドゥアに促した。 きれいに磨き上げられた机の上に書類を広げながら、トゥレディオが、事務的な口調で質問を始める。 「名前は、ルドゥアと言ったね。 歳は?」 「15歳です」 「ふむ、若いね。 もちろんまだ独身だね?」 「はい」 「こういった酒場で働いた経験は?」 「はい、ジラートの酒場で一年ほど接客係をしていました」人気ブログランキングへ
2012.02.12
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トゥレディオの酒場 <5> 息苦しくなるような空気の中、それまで、にこりともせずにオーブンの中を掃除していた、片目のパピトが、ヴィスバルを睨んで、むっつりと言った。 「くだらねえおしゃべりはいいかげんに切り上げて、さっさとおまえのあの気取った仕事場に戻ったらどうだ、ヴィスバル。 こんなところで遊んでいるのをトゥレディオさんに見つかったら、また給料減らされるぞ」 その声に、はりつめた糸がぷつんと切れたように、パピトたちの間にくすくす笑いが広がり、それから、調理場の中にまた、明るい活気が戻ってきた。 景気づけのような元気な声で、『じゃがいも』 が叫ぶ。 「おっと、そういえばそろそろトゥレディオさんの来るころだぞ!」 小さな体に大きな出刃包丁を持った魚屋パピトが、威勢良くそれに応じる。 「早く仕事を片付けちまおうぜ! おい、『じゃがいも』 よ、さらした玉ねぎはどこだ? さっき作ってたろ?」 「ああ、あれなら 『オニオコゼ』、おまえのすぐ後ろに置いたよ。 ところで、『アブ』 はどこへ行ったんだ? まだ大鍋が火にかかってねえぞ」 向こうの調理台から、肉を叩いていた痩せっぽちが返事を返す。 「『アブ』 は、今日は休みだよ。 風邪をひいて熱があるんだと」 『オニオコゼ』 が怒鳴り返す。 「なんだと?! おい 『鶏ガラ』、そういうことは仕事前にちゃんと俺に知らせてくれなきゃ困る!」 再び騒がしくなった調理場の、一番奥の小さなくぐり戸が、そのとき勢いよく開いて、外から、真っ黒に日焼けした元気そうなパピトの少年が飛び込んできて叫んだ。 「トゥレディオさんが来たよ! みんな仕事に戻って!」 そのとたん、パピトたちがぴたりとおしゃべりをやめ、調理場の中の動きがいっそうあわただしくなった。 ルドゥアも、座っていた椅子からいそいで立ち上がり、髪の乱れを直しながら大きく深呼吸。 くぐり戸の向こうから調理場へと入ってくる人影を待ち構えた。 入ってきたのは、ルドゥアが想像していたよりもずっと若いパピトだった。 すらりとした長身に、都会的な、ばりっとしたスーツを着こなした伊達男だが、その目つきは、高級な酒場の店主にふさわしく、抜け目のない、鋭い光を放っている。 その視線が、まるで、調理場で働く男たちの仕事ぶりを点検するように、ゆっくりと一巡りして、それから最後に、ルドゥアと、その脇のヴィスバルのところでぴたりと止まった。 そのとたん、その貴公子然とした顔が急に、苦虫を噛み潰したような侮蔑の表情に変わる。 いやなやつだわ、とルドゥアは思った。人気ブログランキングへ
2012.02.11
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トゥレディオの酒場 <4> 流し台のところでじゃがいもの皮をむいていた、そのじゃがいもにそっくりの顔をしたパピトが、仕事の手を止め、笑いで声を途切らせながら言う。 「おいヴィスバル、たまげたな。 このお嬢さんはうんとかしこい娘だぜ! そうとも、ルドゥアさん、あんたの言うとおり、このヴィスバルは、女と見ればすぐに誰でも口説こうとする、こわーいやつだ。 気をつけたほうがいいぞ。 『君に一目ぼれした』 ってのは、こいつの口癖なんだから。 一晩に何人の女にそのセリフを吐くことやら!」 「なっ、何を言う! この、じゃがいも男が!」 耳まで真っ赤になって何か言い返そうとしたヴィスバルに、今度は、まな板の上で肉の塊を叩いていた、ひょろひょろに痩せたパピトが野次を飛ばした。 「だってそのとおりじゃないか。 俺なんか、その次にヴィスバルの言うセリフも知ってるもん。 『俺は本気なんだ、頼むから笑わないでくれ!』 だよな?」 その野次にパピトたちが再びどっと笑い転げ、また別の調理台で、大きな魚をさばいていた、いかにも抜け目なさそうに目を光らせた、小柄なパピトが言った。 「ヴィスバル、こりゃあ、おまえさんにはもうチャンスはねえようだぞ。 早いとこあきらめたほうがいい。 おまえはそのルドゥアさんに、ふられたのさ!」 この珍妙な会話を、ルドゥアはただあっけに取られて眺めていた。 その姿を思い描くだけでも恐ろしいバルドーラに、そっくりの、堂々とした姿のヴィスバルが、パピトたちによってたかってとっちめられている ――― そんな図は、今まで想像もしたことがなかったからだ。 ヴィスバルが、これ見よがしの哀れっぽいしぐさで、その大きな体をかがめ、ルドゥアの前に跪いた。 「ルドゥア、頼むから信じてくれよ! 俺はほんとに本気なんだ! この俺の、いったいどこが怖いって言うの? こんなに気の弱い、心の優しい 『雑種』 だぜ!」 そのヴィスバルを指差して、調理場のパピトたちがまたどっと笑い崩れたが、ルドゥアは、どうしても笑うことができなかった。 「いいえ、そうじゃないのよ、ヴィスバルさん、あたしの育ったイルプシマの国のバルドーラは、ここリリファラの国のバルドーラとは全然違うの。 とても乱暴で横暴で、パピトなんか虫けら扱いだわ。 そういうところで育ったから、あたしは今も、バルドーラ族と聞いただけで身動きできなくなるほど、彼らが怖いの。 あなたのような 『雑種』 の人にも、まだ少し古い先入観から抜けられずにいるわ。 あなたの中に流れている血の半分はバルドーラ族。 あなたの体からは確かに、バルドーラ族の匂いがするの。 あたしが怖いのはその匂いなのよ。 ヴィスバルさん、決してあなたを悪い人だと思っているからではないの。 初対面のあなたにこんな失礼なことを言って、ごめんなさいね」 調理場の中は、いつのまにかしんと静まり返っていた。 誰も彼もが仕事の手を休め、ルドゥアの話に聞き入っていたのだ。 なかでも、大きく目を見開いたヴィスバルの顔は、強い衝撃を受けたように青ざめて見えた。人気ブログランキングへ
2012.02.10
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トゥレディオの酒場 <3> 『雑種』 が、こんなふうに何のこだわりもなく自分から 『雑種』 であることを堂々と名乗るなんて、イルプシマでは考えられないことだった。 同時に、それを口にした時の、この男の誇らしげな表情に、ルドゥアは、ますますこの街を、そしてこの酒場を好きになり、すっかり肩の力を抜いて答えた。 「まあ、すてき! このお店に入ったとたんに、そんな花形スターに声をかけていただけるなんて、あたしって何て運がいいんでしょう! あたしの名前は、ルドゥアよ。 イルプシマの “たそがれ港” から、今日ここについたばかりなの。 どうぞよろしくお願いします、ヴィスバルさん」 ヴィスバルの、明るいアーモンド色の瞳が、真ん丸に見開かれた。 「イルプシマから!? あんたみたいなかわいい娘が? あんなむさくるしい、バルドーラだらけの国で、育ったの?! ほんと?! よくここまで無事に育ったなあ! バルドーラって、乱暴者ばかりでしょ?」 「いいえ、ヴィスバルさん、あたしは、“たそがれ港” のパピト居住区で生まれて育ったの。 居住区の外に出たことはなかったのよ。 だから実際にバルドーラ族と接する機会というのは少なかったわ」 ヴィスバルの顔にぱーっと笑みが広がると、きれいに手入れされた髪の毛先がいたずらっぽく跳ねた。 「そうか! だったら、ルドゥア、君は、他の女の子たちみたいに、バルドーラ族を軽蔑したりしないよね? 俺が、こんなバルドーラみたいな体つきをしていても、馬鹿にしたりしないよね? お願いだよ、ルドゥア、そうよ、と言ってうなずいて見せて! 俺、君に一目ぼれしちゃったんだ。 君に嫌われちゃったら、生きていけない!」 ルドゥアはまた、目を白黒させて言った。 「それはもちろん!・・・馬鹿にしたり軽蔑したり、そんなことは絶対ないけど、でも・・・」 口ごもったルドゥアに、ヴィスバルが身を乗り出して言う。 「でも? でも、何? 言って言って! 俺、ルドゥアの気にいらないところ、全部直すから! もっと男らしいほうがいい? もう少し筋肉ついたほうが魅力的?」 ルドゥアは少し困って、もごもごと答えた。 「いいえ! ・・・あなたの顔はパピト族と同じで優しそうでとっても笑顔がすてきなんだけど、体は・・・バルドーラのように大きくて、少し・・・怖い気がするわ」 ヴィスバルの、よく動くお茶目な瞳が、再び真ん丸に見開かれた。 「怖い?! この俺がですかぁ?!」 自分の鼻を指差して、素っ頓狂な声でヴィスバルが叫んだとたん、調理場の中のパピトたちがいっせいにげらげら笑い出した。人気ブログランキングへ
2012.02.09
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トゥレディオの酒場 <2> 口を開こうとした時、そのドアの向こうに大きな人影がのっそりとあらわれ、ルドゥアの姿に目をとめた。 「おや、かわいいお嬢さん、うちの店に何か御用かな?」 声と同時に、その人影の周りだけぱっと明るくなった。 その男が、手を伸ばして照明のスイッチを入れたのだ。 男の立っているのは、広い大きなカウンターの中で、その上に並んだいくつもの小さなテーブルランプがいっせいに点灯すると、カウンター全体がまるで小さなステージみたいに華やかに、闇の中にぱっと浮かび上がるのだ。 が、パピトが出て来るとばかり思っていたルドゥアは、現われた男のシルエットの、バルドーラ並みの体格にまずたじろぎ、それから、ここはパピトの理想郷だったことを思い出して、できる限り威勢のいい声を張り上げた。 「あのう、表に貼ってある、『接客係募集』 の広告を見て来たんですけど。 ここで働きたいと思いまして」 男は、そのバルドーラ並みの大きな体にはまったく似つかわしくない、パピト族特有の、愛嬌のある顔をほころばせて、機嫌よくうんうんとうなずいた。 「おお、それはいい! あんたみたいなかわいいお嬢さんが店に出たら、この店はますます繁盛するだろう! 店主のトゥレディオさんは、もうあと30分もしたら来ると思うから、それまで、このドアの奥の調理場のほうで待ってるといいよ。 なあに、心配しなくたって、あんたみたいなかわいい娘なら、トゥレディオさんも大喜びで雇ってくれるさ。 さあ、気を楽にして、こっちで一服つけなよ。 そっちは客にチップをもらう仕事場だ。 客が来るまでは用のない部屋だよ。 だから電気代を節約してるのさ」 「ありがとうございます。 ではそうさせていただきます」 ルドゥアは少しほっとして、その男の後に続いて調理場の中へと入って行った。 調理場の中は、ここもびっくりするほど広くて清潔で、すでに何人かのパピトたちが、野菜を洗ったり、魚を捌いたり、それぞれの仕事に精を出していた。 そしてここでも、どの顔もやはり、明るく忙しげだ。 その調理場の中をきょろきょろものめずらしげに見回していると、先ほどの大男が、どこから持ち出してきたのか小さな木の椅子をひとつ、ルドゥアの前にひょいと置いて笑った。 「まあ、椅子に座って、くつろぎなよ、お嬢さん。 俺は、この 『トゥレディオの酒場』 で一番の花形バーテンダーで、『雑種』 のヴィスバルっていうんだ。 ね、ちょっといい男でしょ? これでも、この店に通って来る女客たちのほとんどは、俺の甘いカクテルとお洒落なジョークが目当てなんだよ。 ・・・で、お嬢さん、あんたの名前も聞かせてくれる? どこに住んでるの?」 調理台の端っこに、ちょんとお尻を乗せるが早いか、すらすらとよどみなくおしゃべりを始めたその男の、そう言われてみればなるほど、こざっぱりした身なりにすっきりと目鼻立ちの整った、いかにも女の子にモテそうな甘いマスクを、ルドゥアは目を白黒させながら見上げた。人気ブログランキングへ
2012.02.08
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トゥレディオの酒場 <1> 港前広場の裏手の、地味だが清潔そうな小さな宿に部屋を取って、一風呂浴びると、ルドゥアはすぐに、身軽な普段着に着替えて街に出た。 朝霧港のある、この大きな港町の名は、港の名を取って『朝霧街』と呼ばれていたが、ルドゥアは、この異郷の町を歩き始めて10分もしないうちに、すぐに、このにぎやかで開放的な街を好きになった。 あたしにぴったりの街だわ、と直感した。 リリファラで一番バルドーラ人口が多い街、と聞いたときはちょっと怖気づきそうになったが、実際に街を歩いてみれば、パピト族ばかりが行き交う広い大通りに、ごく少数のバルドーラ族が、いかにも居心地悪そうに背中を丸めて歩いているにすぎない。 こんなおかしな眺めは、バルドーラ族ばかりがどこでも我が物顔にうろついているイルプシマでは、想像したこともなかった。 それに、道行くパピトたちの表情が、いかにも明るく伸びやかで、生き生きとしているのも嬉しかった。 『たそがれ港』の狭くて汚い居住区の片隅で、ルドゥアが思い描いていた夢が、まるでそのまま現実になったみたいだ。 自由の喜びがひしひしと胸に迫って、思わず足取りも軽くなる。 さらに、もうひとつ嬉しいことに、この街には、思ったよりずっとたくさんの酒場があり、それらの酒場はどれをとっても皆、宮殿か城かと思うほど大きくて豪華で、しかもそれらの店の外壁のどこかには必ず、まるでそれが決まりであるかのように、『接客係募集』の貼り紙がしてあるのだ。 仕事といえば酒場で働くことしか思いつかないルドゥアにとっては、これはもう目もくらむほど嬉しい。 ともあれ、このときのルドゥアは、そういった御殿のような様相を呈した、甘い誘惑に満ちた募集広告のあれこれにさんざん目移りした結果、けばけばしく飾り立てられた酒場が林立する中にあって、わりと落ち着いた雰囲気の漂う、古城風の一軒を選んで、その表玄関に、えいやっと飛び込んだのだった。 ドアを開けたとたん、なんともいいようのない甘い香りが、もわっとルドゥアを包み込んだ。 ルドゥアはその香りに酔うように、うっとりと目を細めて周りを見回した。 が、店の中は真っ暗で何も見えない。 まだ準備中なんだわ、とルドゥアは思った。 真っ暗な店の奥に向かって声をかけようか、それともここで誰か出てくるのを待ったほうがいいのか、迷ったとき、奥の暗闇のはるか彼方で小さなドアが開き、闇の中にひとすじの光が差し込んだ。 その光に浮かび上がった、この店の内部の想像以上の広さと、室内装飾の趣味の良さに、ルドゥアは思わず息を飲み、それから、その光の差し込んでくる、ドアの向こうに声をかけようと、大きく息を吸い込んだ。人気ブログランキングへ
2012.02.07
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長い船旅に、少しふらつく足を踏みしめながら下船すると、まず目につくのは、目の前に広がる大きな港前広場と、その周りを取り巻く近代的な美しい街並み、そして、その奥に向かって、まるでものさしを当てたようにまっすぐに伸びる、広々とした道路だ。 白い朝靄に包まれて、美しい庭園のように整備された港前広場は、ゆっくりと靄が消えていくにつれて『世界にその名を馳せる屈指の貿易港』の名にふさわしく、活気に満ちた、朝市の喧騒へと、みるみるうちに変わっていくのだった。 ものめずらしげにあたりを見回すルドゥアとアルデバランのかたわらを、忙しげに駆け抜けていく魚市場の男たちや、これから競りに向かうらしい商人たちは、皆、パピト族ばかりだ。 いや、この広場の中をしだいに満たしていく人々の姿は、どこを見回してもそのほとんどがパピト族であり、その表情は、ルドゥアがこれまで想像していた以上に、どれも底抜けに明るく、あたりはばかることのない大声を張り上げて笑いさざめいている。 それもそのはず、ここで見られるバルドーラ族は、着港した船から荷物を運び下ろしたり、大きな荷を馬車に積み込んだりする荷役ばかり。 皆、それぞれの仕事に手一杯で、周りのパピト族にかまっている暇なんかなさそうだ。 さらに驚いたことには、落とした荷物の中味を道にぶちまけて、雇い主らしきパピトに怒鳴りつけられているバルドーラまでいる。 ルドゥアは目を丸くしたまま、この、明るい活気に満ちた、自由の匂いのする広場の光景に見入り、それから、胸を熱くして叫んだ。 「ああ、とうとう来たのね! パピトなら誰もが憧れる、パピト族の桃源郷だわ! 恐ろしいバルドーラ族のいない街よ! 誰はばかることなく思いきり歌って踊って、思いきりしゃべって笑って、思いきりおしゃれして、思いきり駆け回って、・・・ああ、なんでもできるわ! ここなら、どんな夢だってかないそう!」 だがアルデバランは終始冷徹な視線で、この、自由と歓喜にあふれた賑わいを見回し、喜びに頬を上気させるルドゥアを見下ろして言った。 「まず、宿をさがそう。 安くて目立たない、小さな宿がいい。 そこに荷物を預けて、船旅の汚れを落としたら、出かけよう。 俺はこの街の様子を調べに。 おまえは適当な住まいを探しに」 ルドゥアは、ちょっと考えてから、頭を振った。 「いいえ、あたしは、何よりも先にまず、仕事を探したいわ。 この街で、あたしにふさわしい仕事が見つかるかどうか、それがほかの何よりも気になるの。 住む所は、適当なところが見つかるまで宿に長期滞在することもできるもの」 これは、良くも悪くも働くことが趣味とまで言われるパピト族としては、当然の考え方だと思う。 同じパピト族として、アルデバランもすぐにこの考えに同意して言った。 「わかった。 それでは俺が、この街の様子を見て回りながら適当な部屋を探してみることにしよう。 宿にあまり長居するのは気が進まん」人気ブログランキングへ
2012.02.06
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叫んだルドゥアに、アルデバランがうなずいて答える。 「そっちは、 『入日の港』 といって、やはり、朝霧港と同じくらいにぎやかな街があるそうだ。 リリファラの国には、港と名のつくものが無数にあるが、中でも、 『朝霧』 と 『入日』、この二つの港は世界中にその名を轟かせるほどの大きな貿易港で、この2つの港の名を知らない船乗りはもぐりだ、と、この地図を譲ってくれた船員が言っていた。 また、彼の話ではこの 『朝霧の街』 は、別名 『鬼の棲む街』 とも呼ばれているそうだ。 『鬼』というのは、つまりバルドーラ族のことで、リリファラで一番バルドーラ人口が多い都市ということで、そんな妙な名前がついたという。 が、この国では、バルドーラ族は完全にパピト族の支配下にあるから、『鬼』 は、いわば社会の底辺でこの国を支える労働力を、蔑んだ表現なのだろうな」 「この国で一番バルドーラの数が多い・・・」 ルドゥアはふと、かすかな不安を覚えて、アルデバランを見上げた。 「・・・で、あなたはこれからどこへ行くの? やっぱり、一番にぎやかな、首都 『水の都』 へ?」 表向きは新婚夫婦を装っていても、実は行きずりの旅人に過ぎない2人だ。同じ目的地、朝霧港についた今、ここからまたそれぞれの旅に出ることになるのはわかっていたが、正直なところルドゥアはまだ、この見知らぬ街にたった一人取り残されることに、いくばくかの不安があった。 いや、もっと正直にいえば、短い船旅の間ずっと 『すてきなだんなさま』 を演じてくれたアルデバランと、このまま別れてしまいたくない、そんな気持ちも強かったかもしれない。 だがアルデバランは、そんなルドゥアの気持ちを、知ってか知らずか、依然として無表情のまま、何の感情も現れていない声で答えた。 「いや、この朝霧港のある 『朝霧の街』 も、ずいぶん広いにぎやかな街だというから、俺はしばらくこの街に腰を落ち着けようと思う」 おまえは? とたずねられるのをほんの少し期待したルドゥアだったが、それは無駄なことだった。 ルドゥアは、いつも自分に無関心なアルデバランを、ちょっとばかり恨めしく感じながら言った。 「・・・それじゃあ、あたしもしばらくあなたのそばにいていいかしら? あたしもこんな大きくてきれいな港町で働いてみたいと思ったところなんだけど、もう少し街の様子がわかるまでは、一人になるのは不安なのよ」 アルデバランは、ちょっと考えてからうなずいた。 「いいだろう。 おまえがこの街で仕事を探し、部屋を借りて、俺もしばらくの間その部屋に居候させてもらえるなら、それは俺にとってもありがたいことだ」人気ブログランキングへ
2012.02.05
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船出 ~朝霧の港~ ルドゥアとアルデバランを乗せた船は、次の日の夕暮れ、 『たそがれの港』 を出港して、それから約10日後の明け方、リリファラの 『朝霧港』 に着いた。 『たそがれの港』を離れる時には、ただの一度も後ろを振り返ることなく、これといった感傷もなかったルドゥアだったが、生まれて初めての、夢のような豪華な船旅の後、その名の通り、深い朝霧の向こうから静かに姿を現した、近代的で美しい大きな港を目にした時には、感動のあまり全身が震え、思わず、かたわらのアルデバランの腕にしがみついた。 「アルデバラン! とうとう着いたわ! パピト族の桃源郷よ!」 船旅の間ずっと、乗り合わせた船客や船員たちには、新婚旅行中の若いカップルと誤解され、あえてその誤解を解こうとしなかった二人の、こんな様子は、周囲の人々に、ごく自然な、ほほえましい光景としてうつったことだろう。 なかば本当の新妻気分に押し流されかけていたルドゥアに対して、アルデバランのほうは相変わらず打ち解けたそぶりも見せず、無表情のまま、いつの間に手に入れたのか、コートのポケットから一枚の地図を取り出し、ルドゥアの前に広げて見せた。 そこには、東西方向に横たえた鍵のような形の島が描かれていた。 「これは、リリファラの地図ね? 朝霧港はどこ?」 地図を覗き込んだルドゥアに、アルデバランの指が、その島の最西端、いわば鍵の丸くなっているほうのてっぺんにある入り江の、イカリのマークを示した。 「そこが朝霧港? では、その少し北に記してある赤い丸印は何?」 「そこはリリファラの首都だ。 街の中に何本も運河が流れているところから、“水の都” と呼ばれているらしい」 そう言われてみれば、その丸い印は、首都というにふさわしく、鍵の丸い部分のほぼ中心に、えらそうにどっしり居座っているように見えてくる。 なるほど、とルドゥアは他愛無く感心して、それから今度は、島の、東のほうに向かって急にいじけたように細くなっている部分を指差してたずねた。 「では、こっちの細長い部分は? 街はどこにあるの?」 「そっちの、島の東側のほうは険しい山脈になっていて、街はおろか集落のようなものすらないそうだ。 『雲竜山脈』 という名がついているその山岳地帯にはバルドーラの猟師たちが少数、また南側の海沿いの、 『泡沫の入り江』 『海豹の浜』 『雲海の磯』 などという名のついたいくつもの小さな港には、バルドーラの漁師たちが少数、それぞれ細々と暮らしているが、パピト族はほとんどいないらしい。 いっぽう、山脈の北側はずっと切り立った断崖が続いていて海に落ち込み、人は一人も住んでいないそうだ」 ルドゥアはちょっと顔をしかめて地図を眺め、もう一度、広々とした島の西側、鍵の頭のほうに視線を戻して、今度は、朝霧港とは反対側に小さく突き出した半島の先端にも、朝霧港と同じイカリのマークを発見した。 「あら! こっち側にも港があるわよ!」人気ブログランキングへ
2012.02.04
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歩き始めた男の足が、そのまま真っ直ぐ港に向かっていることに気づくと、ルドゥアはびっくりして、あわててその後を追った。 「いやね! このまますぐに船に乗るつもり? あたしのこの格好を見てよ。 仕事帰りで、おまけにびしょぬれよ。 こんな格好で長旅に出られると思う? あたしにとっては 人生の新しい船出なのよ。 新しい、きれいな服を着て、旅に必要なものが全部入った丈夫な旅行かばんと、晴れやかな帽子とで出発しなきゃ。 あなたみたいにせっかちなのはだめ。 とにかく、今夜は私の家に泊まるのよ。 そして、お金を数えて、じっくりとこれからの計画を練るの。 それから、おなかを一杯にして、ぐっすり眠って、明朝、目が覚めたらいよいよ船出のための準備よ。 あなたとあたしの出発にふさわしい、新しい服を買い揃えて、船の切符も、特等の船室を予約するの。 だから、どんなに急いでも、実際の船出は明日の日暮れということになるわ。 いいわね?」 一気にそこまで言い終えたとき、ルドゥアの胸は、すでに、輝かしい未来への予感に、息苦しいほど高鳴っていた。 男は、そんなルドゥアを不思議な生き物でも見るように眺め、それから、かすかな笑みを浮かべてうなずいた。 「わかった。 そうしよう」 実に、これが、ルドゥアが初めて見た、この謎めいた美貌の旅人の笑顔だった。 これを見るとルドゥアの胸には、ますます激しく、ほとんど発作めいた喜びが湧き起こり、ルドゥアは突然、けらけらと身をよじって笑い出した。 「まあたいへん! あたしったら、これからしばらくの間運命を共にしようっていうお相手に、まだ自己紹介もしていなかったわ! あたしの名前はルドゥアよ! で、すてきな旅人さん、あなたのお名前は?」 男は、また、正面を向いて歩き出しながら、短く答えた。 「アルデバラン」 ――― すてきな名前だわ! あの宝石のような赤い瞳にぴったりじゃない?! ルドゥアは、夢を見ているようなふわふわした気持ちで、口の中で小さく、アルデバラン、と、その名をつぶやいてみた。 しかし、ほの暗い街灯の明かりに照らし出されたその旅人の、白い、彫像のような横顔は、初めてジラートの酒場に入ってきたときと同じように、暗く、悲しげなままだった。人気ブログランキングへ
2012.02.03
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男は何も答えなかった。 暗くてその表情も見えなかったので、ルドゥアは一人でしゃべり続けた。 「あなたの探している人は、『花の都』 にはいなかったでしょう? あそこはバルドーラの街ですもの。 パピト族の女がひとりで暮らせるところじゃないわ。 あたしも行ったことがない、というより、あたしはこの居住区の外に出たことがないんだけど」 男は、黙ったまま、目の前に迫っていた家の軒先をひょいとよけた。 ルドゥアの言葉にうなずいたのか、それともただ単に額をぶつけまいとしただけなのか、ルドゥアにはわからなかった。 ルドゥアはちょっと考え、またしゃべり始めた。 「ねえ、知ってる? このたそがれの港の、海の向こうには、みんなが 『リリファラ(豊かな海の恵み)』 と呼ぶ大きな島国があるんですって。 そこは、パピト族の桃源郷だと聞いたわ。 そこに住んでいるのはほとんどパピト族ばかりで、バルドーラ族なんて、力仕事専門の低級な労働を意味する蔑称なんだそうよ。 すてきじゃない? きっと、あなたの彼女もそこに暮らしているんじゃない?」 このときようやく、男の目が、興味をそそられたように、きらりと光ってルドゥアを見下ろした。 「・・・リリファラ? パピト族の、桃源郷?」 ――― まあ! この人の目、まるでルビーのようだわ! ルドゥアは、その男の不思議な赤い色の瞳にうっとりと見入り、ほとんど夢見心地になってうなずいた。 「ええ、そうよ。 パピト族の国なの。 あなたもまだそこへは行ったことがないのね? じゃ、今度はそこへ行ってみたら? リリファラへ行く定期船は、ここ 『たそがれの港』 からも出ているはずよ。 えーと、たしか、『朝霧の港』 行きの船が、それだと思うわ」 言ってから、ルドゥアはふと足を止め、男の顔を振り仰いだ。 「ねえ! もしあなたに、そこへ行く気があるなら、あたしも一緒に連れて行ってくれない? あたし、この居住区にはもううんざりしてるの。 ジラートはあたしにとてもよくしてくれたけど、あたしはあの安酒場に一生を捧げるつもりはないわ。 ね、あたしもリリファラに連れて行って。 あなたのような旅慣れた人といっしょなら、あたしも心強いし、これでもけっこうお金は溜め込んであるのよ。 2人分の船賃ぐらい払えるわ。 お互いのために、その方がいいと思わない?」 男はちょっと立ち止まり、意外そうにルドゥアの顔を見つめたが、すぐにまた、正面に視線を戻して歩き始めた。 「いいだろう。 金なら俺も持っているが、慣れない船旅のボディガードに俺を雇いたいというなら、たしかにそのほうがお互いのためだ。 では一緒にリリファラ行きの船に乗ろう」人気ブログランキングへ
2012.02.02
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たそがれの港・パピト居住区 ――― この狭い居住区全体に、不規則に張り巡らされた糸のような路地は、複雑に入り組んで、異様なくらい幅が狭い。 それは、もともと、ここからほんの数キロしか離れていないこの国の中心都市 (それはバルドーラたちが “花の都” と呼ぶ、いわばこの国の顔だ) と、その周辺の広大な平野に住みついていたパピトたちが全部、この狭い一角に押し込まれ、すし詰め状態となってひしめき合っているのだから、その人口密度を考えれば、勝手に家を建てることのできない道という空間がことごとく狭く、たてこんだものになってしまうのは当然だ。 しかも、ただでさえ狭いその路地のあちこちには、誰も片付けようとしない不要のガラクタの山が出来上がり、それは今もなお日に日に大きく育ちつつあるから、そこを通ろうとすれば、ほとんど、その反対側の家の外壁に張り付くようにしなければ通り抜けられないほど歩きにくくなっている。 さらに悪いことに、そのガラクタの山はときに、自分の家を持たないパピトの、仮の住まいとなっていたり、あるいは、丸々と太った毛づやの良いねずみたちの寄り合い所となっていたりするから、うっかりこの山にぶつかってその一角を崩したりすると、たちまち大騒ぎが始まってしまうから注意が必要だ。 その、狭くて物騒な路地を、ルドゥアは、さきほどの客に寄り添うように、小さな赤い傘をさしかけて歩いていた。 男は、体が大きい上に、こういう狭苦しい道は歩き慣れていないとみえて、ガラクタの山を通り過ぎるたびに必ず、そのガラクタのうちのひとつを蹴飛ばしたり、肩先をぶつけたりして、ひっそり静まった夜の街に、空き缶や木箱の山を崩す騒音を響き渡らせていた。 が、幸いなことに、その音に眠りを妨げられた、周囲の家々の住人や、あるいはそのガラクタの山の住人はたいてい、文句を言おうと顔を出すものの、その相手が 『雑種』 と知るや、まるで怪物でも見たように色を失い、あわてて顔を引っ込めるのだった。 ルドゥアは、くすくす笑って、その男の、自分よりはゆうに頭一つ分は高いところにある顔を見上げた。 「ここの道は狭くて困ってるみたいね。 あなたの育ったところでは、道はもっと広かったの?」 男は、また前方に迫ってきたガラクタの山に、身構えながらあいまいに答えた。 「生まれ育った街のことはもうあまり記憶にない。 だが数日前までいた “花の都” の通りは、どれも広々としていたから、その感覚が抜け切れていないんだろう」 ルドゥアは、ぱっと顔を輝かせ、足もとに転がっていた空き缶をひらりと飛び越えた。 「“花の都” にいたの? とてもきれいな街なんですってね! 行ったことのある人はみんな、あんなにきちんと整備された美しい街並みは見たことがない、って言うわ。 でも、住んでいるのはバルドーラ族ばかりなのよね? 怖くなかった?」 言ってから、ルドゥアは自分の言葉にくすっと笑った。 「ああ、あなたならバルドーラを怖がる理由はないわね。 その体つきなら、バルドーラ族の中に入っても、少し小柄な仲間だとしか思われないでしょう」人気ブログランキングへ
2012.02.01
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