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最近(といっても、かなり以前からのように思う)、テレビがムチャクチャだ。コメントもスーパーも、日本語の体をなさない語彙が跋扈している。「業務上過失致死容疑の疑いで」どれだけ疑えば気が済むのだ。「業務上過失致死容疑で」か「業務上過失致死の疑いで」でいい。「名優◯◯さんは、享年85歳でした」「享年」は“生きていた年数”なので、「享年85」だ。「有権者の皆様がご信任いただいた」……“てにをは”がなっていない。「有権者の皆様にご信任いただいた」か「有権者の皆様がご信任くださった」だ。「プレゼントへは、携帯電話からもご応募できます」。「ご~」といえば、尊敬語だ。「できます」がつくのはおかしい。「ご応募いただけます」か「ご応募になれます」としなければならない(これは、月~金の帯番組での決まり文句で、余りにも気になったのでメールしたら、いまは改まっている)。「説明責任をしていない」「恐怖感さえ感じる」「風情ある家が軒を並べる」「さぁ、おすすめ料理をいただいてください」「楽しく見れるのが一番」「熱戦の火蓋が切って落とされました」慣用句を知らないなら、使わなければいいし、使うなら、調べればいい。正しい日本語が使えないなら、専門家を入れる必要があるだろう。テレビの影響力は大である。小学生から老人まで、「テレビ=正解」というテレビ妄信者は日本全国至る所にいる。そのことを自覚しているとしたら、いまのテレビはひどい。スーパーなど、“聞き間違い”“誤字”“同音異義語間違い”“言い回し間違い(全国ネットの関西人のコメントのスーパーに多い)”“慣用表現間違い”など、とにかく日本語の間違いが耳につく。原因は、“本を読んでいない”ことであろう。よく本を読む人間なら、微妙なリズムや音の違いに気づくはずである。マスコミ人、自戒されたし。 合掌
2007.07.30
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先週土曜日、事務所で仕事をしていると、突然「前」のドアが開いた(当事務所には、入り口が二カ所ある。エレベーターに近い方を「前」と言うことにするが、前のドアには「ご用の方は次のドアからお入りください」と書いたパネルを貼ってある)。すうっと入ってきたのは、身長2mもあろうかという外国人青年だった。中に入ってすぐ直立してこちらを向き、ほほ笑みかけてきた。私にとって、そのほほ笑みは緊張をもたらすものだった。目的がわからないからだ。席に座ったまま「何かご用ですか?」と聞く。が、青年はほほ笑むばかりである。「何でしょう。どんなご要件ですか?」「責任者の方は?」責任者は私である。が、それを言わぬまま立ち上がり、青年の元へ行った。「何ですか?」「私は、ノルウェーから来ました。日本の文化に興味がある学生です。勉強したいと思っていますが、お金がありません。アルバイト……」随分時間をかけてそう言ったあと、言いよどんだ。『アルバイト』という言葉に引っかかった。うちに、彼に適した仕事があるとは思えなかった。早々に断ろうと思うが、言葉がわからない。何でもかんでも英語で通じると思うのは、日本人の浅はかなところで、向こうが日本語で言ってきているのだから、日本語で答えればいい。「仕事?」「あ……」再び言いよどむ。「これは、ノルウェーの文化が……」と言いながら、手に持っていた緑の箱を開けた。中には、民芸品らしいキーホルダーなどがぎっしりと納められていた。驚いたのは、蓋側にもきれいに吊るしてあり、箱そのものがディスプレイになっていた。「ごめんなさい。仕事中だから」買ってあげてもいいのだが、こういう一本釣り的なやり方を、日本に不慣れな外国人がするだろうか、という気持ちと、お金を得たいなら、もっと効率的なやり方があるだろうに、という気持ちが錯綜し、とりあえず断ってしまった。「そう」青年は、意外なほどあっさりと踵を返し、出て行った。何だったのだろうか。以前、久し振りの実家でのんびりしていると、インターホンが鳴った。夏だったこともあり、ドアを開けて葦簾で風を通していたので、在宅していることは訪問者にまるわかりである。がしかし、朝7時だったので、訝しさを持って玄関に出ると、大きなリュックを背負った女性が門扉の前に立っている。「何でしょうか?」「私、ボランティアをしている◯◯と申します。アフリカの子どもたちに送るワクチンを買うために活動をしています。これを買っていただくと、利益がユニセフに寄付されます。ご協力お願いします」と言う。女性の必死な言いようと、大きな袋に入った「珍味」なるものが、ビールのあてによさそうだったので、買うことにした。「幾ら?」「1,000円です。ありがとうございます」そんなやりとりの数年後、それが、オウムの集金活動だったことを知った。最近は、駅前で「海外で移植手術を受ける◯◯ちゃんのために募金活動をしています」というボランティア団体らしき者たちが、実は、ある人物に雇われた、集金団体だったという事件があったりした。疑うのも致し方ないだろうと思った。が、その一方、日本の文化に興味を持ってやってきたというのが本当だったとしたら、相当な幻滅を与えたことだろう。外国の日本に対する認識には偏重があり、数十年前の日本が紹介されていることがほとんどだ。それこそ、首相の言う「美しい国」がいまの日本であるかのように言われているのかもしれない。日本は生きにくくなった。「個人情報保護」は過剰なまでの解釈で秘密主義を生み、「権利」を主張する余り、公務員や犯罪者の不当な主張を受け入れなければならず、「聖職」と言われた教師、医者、弁護士、政治家……の悪事を暴き倒し、「尊敬」「畏敬」「服従」を死語にしてしまった日本は、その対局にある「正義」「誠意」「責任」をも陳腐化しつつある。ノルウェー青年が求めていた文化の多くは、日本が、日本人が捨ててしまったものではないだろうか。少なくとも、「匿名性」を重んじるようになったとき(共産主義の横行〈公権力への情報の非公開〉、個人情報保護法施行、犯罪加害者の権利確保、少年法etc)から、日本は、「村」などのコミュニティの力が失われて、国民の「顔」の見えない国になってしまった。実はそれが最も危険であるということが若い人には理解されず、匿名性はますます高まって、それゆえの犯罪が拡大している。(真実だとしたら)純朴なノルウェー青年の夢を壊し、日本の文化や歴史を国際社会に披瀝する機会を逃したその一端は、私にある。悲しいことだ。あのノルウェー青年よ、よき理解者を日本国内で見つけ、思いどおりの活動をしてほしい。無責任だが、そう思ってやまない。 懺悔
2007.07.30
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すごい結果になっている。自民惨敗、民主圧勝だ。選挙前からある程度わかっていた。が、これほどになるとは思わなかった。こんな、極端な結果になった理由は幾つかある。争点が「年金問題」になったことだ。“役所のやったことは、時の政府、与党の責任”という一元的なロジックに、国民皆がはまってしまったのだ。が、実際は、社会保険庁の「職員の怠慢」が招いたことであることは間違いない。実務を担って来た1万人以上の現場職員が、余りにもずさんな業務態度と内容だったことが、これほどまでの混乱を招いたのだ。その根源は「自治労」だった。公務員の組合組織だ。公務員をできるだけ怠慢にし、できるだけ給与を確保し、できるだけ権利を主張するために存在する組織であることは間違いない。しかも、「自治労」は、民主党の支持母体だ。このことに気づいた国民は極めて少ない。自民党批判をうのみにした国民は、「自民党がダメなら民主党」と短絡的な思考に傾いた。そうなると、こういういわゆるウラの事情に目が向くことはないし、見ようともしない。よって、「年金問題に不満を持った国民」が「民主党に投票した」ことによって、「自治労出身の候補者が当選し、年金問題をうやむやにしてしまう」ということになるだろう。本末転倒というか、ミイラとりがミイラになったということだ。民主党に投票した人、確認されたし。金銭問題も大きい。松岡農水大臣、赤城農水大臣など事務所費不正問題が大きくクローズアップされる中、「自民党」=「事務所費不正使用」という意識が出来上がった。しかし、思い出していただきたい。社民党の辻本議員の辞職の理由を。トカゲの尻尾切りであることは明確だった。地方議員の公費私的流用や談合など、公権力を利用した金の問題は、自民党に限ったことではない。権力を持った人物、濡れ手でアワ状態の公費を前にした人物は、皆総じてこういうことになるのだ。挫折を知らず、“政治”の現実を知らな者ほど私利私欲にまみれるのかもしれない。大臣が槍玉に挙げられるのは理解できる。では、議員全員を調べたらどうなるだろう。大臣と議員の違いは、実は何もないのだ。大臣は権力があるから、それに関する不正があれば、「大臣の権力を利用して」と指摘されても致し方ない。が、事務所費の不正計上など、「議員」という立場でだれもがし得ることだ。このことをもって、「自民党は汚い」と思った国民は、物事を一元的にしか見られない無能を自戒されたし。安倍首相の周囲を固めている人物が、政治家として余りにも無力であったことも大きな原因だろう。自民党長老(実力者)のうっとうしさ、胡散臭さだけが目立ってしまい、結局実力ある政治家が排除され、実力のない者(野党並み)が最前線に立たざるを得なくなってしまったのだ。「クリーン」「正義」「思想」という理想論と現実が余りにも乖離しているため、内閣の求心力も信任力も地に落ちてしまった。「逆説の論理」ばかりがマスコミに跳梁跋扈したことも大きな原因だろう。どんな裏があるか知らないが、マスコミが総じて「ノット自民党」=「イエス民主党」という構図をアピールし過ぎた。そうではない。民主党をじっくり見てみると、党首を初め、多くの議員が自民党出身であり、思想を一にしている。しかも! 全く思想が異なる社会党系「さきがけ」や右翼と言ってもいい「民主党」、それ以外の有象無象が構成している“何でもあり”の党なのだ。馬淵議員、長妻議員など、国民の利益を守るために懸命に働くいい議員がいるのも事実だが、それとて、「野党」だからこそできることでもある。「与党」に転じた途端、自縄自縛の状況にがんじがらめになるのだ。すべてを総合するに、国民はバカである。短絡的過ぎるし、事の結果を予測できない。ゆえに、いまの混沌があるのだ。そのことを解消しようとして、さらに深みにはまっていっていると思えるのは私だけだろうか。 南無
2007.07.29
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ここのところ、いきつけの店が次々に閉店している。炭火で焼くステーキがおいしかったステーキ店、家の近所のおやじがちょいと偏屈のイタリアン、讃岐風のおいしいうどんを出してくれたうどん店、ママの料理が男性料理人並みに完成された居酒屋、週に1~2度は出向いていた小料理屋、接待や、同居人との記念日には必ず訪れた串かつ屋、すっかり優しくなったへんこつおやじのバー……。それぞれ閉店の理由は違うだろう。年齢的な問題、業績不振、体調不良、借金苦、配偶者の死……。それはそれで理解できるが、最近集中して閉店していることに、非常な危機感を持っている。皆、いい店ばかりだった。「いい」という基準は私だけのものなので、世間一般で言うとどうだったかはわからないが、店主や従業員が真面目で外連味(けれんみ)がなく、商売ベタの店ばかりだった。「人」は確実に「いい」と言えるだろう。寂しい限りだ。酒にはおいしい肴が必要だが、その店の従業員が与える影響も大きい。人物の善し悪しが酒の味さえ変えてしまうほどだ。返す返すも残念である。いい店には行かない方がいいのか。いや、それでは本末転倒だ。どうすれば……。苦悩の日々は続きそうだ。 南無
2007.07.27
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山口県光市の母子殺人事件の差し戻し審の報道を見ていると、「弁護士」というものを改めて考える機会を得た。商売をしている関係上、“不払い”“取り込み詐欺”といった案件がちょくちょく発生する。こんな面倒な事態は是非避けたいのがだ、相手は強者かバカなので直接交渉は意味がない。で、弁護士に処理を依頼するということになる。こんなときの弁護士は、法に則って、淡々と処理する“法の技術者”だ。不良の相手と直接交渉するときは弁護士の外見イメージや交渉能力が問われるが、ほとんどが書面作成の作業者になる。裁判所での審判が必要なら、法廷戦術が必要だが。がしかし! 明らかに法を“犯した”側と“犯された”側の争いで、「商法」「民法」なら、ある程度明確な線引きができると思う。なぜなら、“やった、やらない”の証拠に奥行きがないからだ。しかも、最終的な解決法は“金”だから、妥協点が見い出しやすい。刑法、刑事訴訟法に関する裁判や訴えは、こうした明確な線がないことが多い。すべては裁判で明らかにされる、というのが大前提になっている。法医学や心理学や解剖所見が軸になる。ついては、警察や検察の取り調べや証拠がすべてだ。光市の件では、弁護団の暴挙はさておいて、検察が提示した「証拠」の信憑性が揺らいでいる。これは大問題だ。「山口」という地方都市においては、科学的、客観的検証を十分にせずに裁判に挑むという後進的なやり方を許してしまう土壌があるのかもしれない。が、どこに住んでいても、どんな会社に勤めていても、何をやっていても、日本国民は皆平等に扱われるべきだろう。そういう意味で言うと、犯罪を犯した“元青年”は、この(総勢20何人だかの)弁護団に守られている。しかし、被害者の二人には弁護士はつかないし、遺族の夫には弁護士はつかないし、給料をもらって淡々と仕事をこなすだけの検察が頼りの綱である。しかし、検察の取り調べはいい加減だとだれもが指摘をする。で、こともあろうに弁護団長は、元監察医の「検察の見解は矛盾がある」という発言を「検察の提出した証拠は事実無根であり、殺意そのものがなかったものだ」と、すり替えの暴言を吐いた。「死刑回避」のためなら、事件そのものの事実をねじ曲げるような、馬鹿げたストーリーをさも真実のように述べ、法廷を占拠する死刑廃止論者の弁護士たちがこの裁判にかかわることを、黙って見ていていいのだろうか。こんなことを続けていても、「死刑廃止論」が支持されることはないだろう。悠然と会見する弁護士の顔を見て快く思った人は少ないのではないだろうか。被害者遺族を長々と苦しめ、貶め、利用したにもかかわらず被告が死刑になったら、この弁護団はどう言うのか。では、死刑にならなかったらどうだろう。この事件を知る国民は皆、懸念を抱いたまま、消化不良を感じるだろう。いずれにしても、「死刑相当」なのだ。“不法侵入”“殺人”“強姦”の上、小さな子どもをたたきつけて殺した人間は、命を持って償うしかないのだ。「母体回帰」だの「ドラえもん」だの「あの世で家族になる」だのと、わけのわからないストーリーを繰り広げて法廷を撹乱する弁護団は、普通の神経ではないだろう。以前、「死刑廃止論者」で、中心的存在だった弁護士が理不尽な理由(逆恨みだったか)で妻を殺害され、「遺族の痛みが始めてわかった」と、「死刑廃止論」を封印したことがあった。そういうものなのだ。遺族にとって、殺した相手には死んでもらいたいのだ。それにしても、本村さんは大人になった。早くこのことが決着して、新しい人生を歩んでほしい。これ以上、理不尽な弁護士たちに苦しめられるのは忍びない。はっきり言えるのは、いまの弁護団がやっていることは、自分たち以外のだれにもメリットをもたらさないということだ。被害者遺族にも、被告人にも、世間にも。法律の専門家ゆえの勝手気ままな振る舞いを振り返ってみても損はすまい。「切歯扼腕して見ているしかない」と言った本村さんの言葉の意味をよく考えてもらいたい。 絶句
2007.07.26
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大阪では、きょうとあす、天神祭に熱中します。日本の三大祭の一つです。「祇園祭」「天神祭」「三社祭」。“人出”をどうやってカウントしているのかは定かではありませんが、「息苦しさ」では祇園祭が1位、「騒々しさ」「汚さ」では天神祭が1位ではないかと思います。残念ながら、三社祭には参加したことがないので、論評できません。とはいえ、「汚さ」に関しては、天満宮と地域のボランティアが協力して街角にゴミ箱を設置したり、回収隊を派遣したりして、随分街の美化には尽力しているようです(大阪天満宮広報取材済み)。きょうは、「宵宮」だったので、まだましでした。人出もそこそこで、祭の雰囲気を楽しむといったカップルが中心でした。が、明日の「本宮」は、様相が激変します。“騒ぐ”のが目的の若者集団が大挙して押し寄せます。青森「ねぷた」の「カラス族」に代表されるような、組織立ったものではありませんが、小さな集団が街を占拠し、道端で、ビルのエントランスでべったりと座り込んで酒を飲み、わけのわからぬ踊りを踊り、奉納花火までの時間をつぶします。花火が始まると、花火見物に出掛け、午後9時に花火が終了すると、また道端やビルのエントランスに陣取って、未明まで騒ぎ続けるのです。「祭」とは、ある意味「ガス抜き」ですから、それでいいと思います。ただし、“わきまえ”は大切。ゴミを捨てたり、飲み物を道路にまき散らしたりすると、翌朝、とんでもない悪臭が街に漂うことになるのです。今夕、おやじに呼ばれて「喫茶店」に行きました。事務所のある場所が「大阪天満宮」のお膝元なので、祭ムードで盛り上がる中、指定された喫茶店に出向きました。喫茶店であるにもかかわらず、カウンターにはおやじどもが陣取り、酒を飲んでいます。どうやら、きょうとあすだけの特別営業のようです。「どて焼き」「焼きなす」「冷や奴」「厚揚げ」「小芋」「さきいか」「剣イカの造り」……居酒屋の簡単メニューが並んでいます。が、“食事”とも“呑む”とも違う、中途半端な感じ。なのに! おやじどものテンションの高いこと。びっくりするほどエネルギッシュで、ついていけないのです。同居人の知り合いだったので、同居人の横に座ったのですが、横の席のおやじが「別れ。俺がナニするから」と言うやら、同居人も「こいつがOKなら、何をしてもらってもいいですから」と言うやら、「スナックやりなさい。絶対儲かるから」とおやじに言われるやら。「美学です。これは」(隣のおやじ)「え?」(同居人)「美しい学問です」(隣のおやじ)「はぁ」(同居人)「こういう人(私のこと)が、本当に“美人”というんです」(隣のおやじ)複雑です。「本当に」と付け足す意味が……。「世間には認められないかもしれないが、本当は、こういう人が美人だと言われてしかるべきなのだ。こういう、情緒的でそこはかとない“不幸”感を漂わす人が」ということなのか、どうか(憶測)。いずれにしても、若い者どももおやじも、「祭」の日にはハイテンションになるようです。それが「祭」だとは理解しているのですが、余りにも暑苦しくてむさ苦しい。スポーツで盛り上がるのとは全く違う、「花見」に似た異常なハイテンションがしんどいのです。いずれにしても、明日はクライマックスです。おやじの熱気に巻き込まれないよう、早々に仕事を終え、退散することにします。 嗚呼
2007.07.24
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久々にカレーの名店「ハチ」に出向いた。一時は週に2回のペースで通っていたのだが、最近は行列のでき具合が激しいせいで、出向く時間に極めてきつい制限がかかる。以前は11:30まで店内に入れてもらえなかった。きょう、11:05に行くと満席だった。ママの心境の変化については確認していない。が、11:30より早く行き、ドアを開けて「まだですか?」と言うと、「ごめんなさい。まだちょっと……」と断られたものだ。いま、何時何分に店を開けているのか、最初の客はどう扱われているのかはわからない。が、11:00くらいに入店しているのは明らかだった。きょう、二人の一見さんに会った。一人は「カレー、卵入りで」とオーダーしたので、一見とわかった。入店したら、黙って座っていればいいのだ。ママがカレーの盛られた皿を目の前に置いてくれたら、「卵」と言って、カレーの中央をスプーンでグリグリし、穴を開けるのだ。案の定、「真ん中を開けてください」ママに言われている。この人は、半分以上残して退散した。もう一人は、60歳近いビジネスマンだった。並んでいる女性に「何? カレー?」「ええ、カレーです。辛いです」「かれぇカレーか」と大阪ならではの会話をした後、店に入ってきた御仁だった。席につくと、「辛いの?」ママに聞いた。「辛いです。いいですか?」「いいですよ」この人、どうなっただろう。「辛い」という言葉で認識している辛さとは違う。きっと、イメージとのギャップに驚いたことだろう。残念ながら、事の成り行きを確認することができなかった。何しろ、店の外には炎天下にかかわらず、10人近い行列ができていたのだ。早々の退店を余儀なくされた。顛末を見てみたかった。圧巻は、このビジネスマンに「カレーですか?」と問われた女性だ。30歳前後だと思われる、ちょっとポッチャリした女性だが、決して“大柄”というわけではなかった。席に着くときに「普通の量で」と言った。寸前に入店した女性が、「少な目に」と言ったので、それを受けてのことかと思った。これもまた一見さんと見た。なぜなら、“普通の量”は、とりもなおさず“男性量”だからだ。働き盛りの男性が音を上げるほどの量なのだ。少々いやな予感がしているところへ、「はい」ママが皿を差し出した。やはり、“男性量”だ。一見さんの動向に興味があった。二口ほど食べた後、「卵、下さい」女性が言った。こういう場合、辛さを緩和するために卵をオーダーするパターンなのだが、大量のカレーを前に、さらにおなかにこたえる卵をオーダーするというのは……。常連ではないと思う。常連なら、その人に合ったご飯の量をママが承知している。彼女はかなりの気合いを入れてやってきているのだろう。一見にしても、2回目にしても、辛さにも、量にも立ち向かう覚悟ができていたのだと見た。前出のビジネスマンとは気合いが違うはずだ。返す返すも残念なのは、二人のエンディングを見ることができなかったことだ。閉店後に出向いて、ママから事と次第を聞き出そう。と同時に、ママの腰の具合や、店の今後について細かく聞こう。最近、行きつけの店が相次いで閉店している。閉店の理由は全く違うだろうが、そういう流れができているような気がしてならない。ハチカレーがなくなるなんて、考えられない……。ママ! 腰を治してください!!! 懇願
2007.07.23
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その25【空気清浄機が反応する】半年以上前から、喉の具合がよくない。喉なのか、鼻なのか、胸なのかよくわからないが、朝夕、歯を磨いたときに、喉の奥に違和感を覚えていた。折しも、喉や胸に異常を訴える人が身辺に続出した。9歳のときからの友達のお母さん、同居人、同居人のお父さん、小料理屋「T」のママ……。友達のお母さんはガンだった。惜しくも今年5月に亡くなった。同居人のお父さんは食道がんが発覚し、現在入院中だ。「T」のママは“閉店したら病院に行く”といっていたので、間もなく原因や病気か否か判明するだろう。今年は、喉(呼吸器及び消化器系)に災いをもたらす年回りなのか、と思ったりしていた。そんな中、夜、胸が苦しくなった。喉の奥に何かがつかえている。咳をしても何も出てこない。思いっきり咳をしてみる。みぞおちの少し上に異物感を覚えた。さらに咳き込む。同居人が背中を叩いてくれた。それに任せて大きく咳き込んだ。「あ、空気清浄機が……」同居人が驚愕の表情をして固まっている。空気清浄機を見ると、汚れレベルのゲージが最高域に達している。「何か、出た」私が言った。「出た?」「うん、ちょっと楽になった」強く咳をしたせいで、喉は痛かったが、つっかえが取れているように思った。その後も何度か咳をしたが、もうゲージは上がらなかった。何が出たのかはわからない。が、空気清浄機が反応したのは確かだ。この「心霊現象な~」シリーズで何度か書いているが、霊的なものに空気清浄機が反応するのは確かではないかと思う。皆様方、今年は喉に注意されたし。 南無
2007.07.22
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またしてもメンテナンスにひっかっかった。書き込んだコメント約3,000字が一瞬で消え去った。原稿用紙にすると、8枚ほどだ。学生時代なら、「作文」として書いた原稿用紙を間違ってかあちゃんに捨てられ、ゴミの収集車が来た後に気づいたときの脱力感と、かあちゃんへの怒りに似たものを感じた(実際にそんな経験をしたことはないが)。何度目だろう。少なくとも4回はある。原稿用紙30枚以上を破棄したということか。いい加減学習しよう。楽天に改善を望むのは無理なようだし、それを「改善」と呼んでくれそうにもない。が、そのときの思い、筆致、文章の流れ、勢い……、すべてがリアルタイムのもので、もう同じ状態はつくれない。書いたものが消える……、返す返すも残念だ。……気を取り直して……ガックリ。 合掌
2007.07.22
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【怒濤のうちの最終回】昨夜、小料理屋「T」が閉店した。老人の常連客たちが帰った後、若者どもが店を占拠し、午前様の閉店になったので、正確には「未明に閉店した」と言うべきか。昨夜は混雑が予想されたので、同居人と私は遅がけに出掛けるつもりだったし、ママにも事前にそう言っていた。通常、老人の常連客が店を後にするのは20時くらいだったので、余裕を見て21時前に出向いた。が、帰った客がおらず、満員の状態だった。一旦事務所に戻り、再度出直すことにした。「席があいたらメールでも下さい」そう言って、そぼふる雨の中、同居人とともに事務所に戻った。仕事をしつつ待っていても、何ら連絡がない。「まだいっぱいですか?」メールを打つ。しばらくしてママから電話が。「◯◯さん(常連客その5)が帰っただけで、◯◯くん(常連客その8)たちが来たからまたいっぱいになりました。あ、◯◯さん(サイババ)が来はったみたいです」「……そう、もう少し待ってます」とは言ったが、空腹が限界に来ていたので、「フォルクスでも行こうか。帰りに挨拶だけしよ」そう同居人に言った。同居人も同意したので、「T」の延長線上にある「フォルクス」に向かうことにした。「T」の前でしばし足をとめ、中の様子をのぞいていると、ママが出て来た。「済みませーん。おなかすいてはるでしょう」「フォルクス行ってきます。後で寄りますから」「えぇ! そんな…、申し訳ないです」会話していると、常連客その4の部下の通称・アッちゃんが出てきた。「詰めますから、入ってください。二人くらい、座れます」「いえいえ、ゆっくり飲んでください」「大丈夫。◯◯(常連客その4)のひざもあいてますし」そんな、酔っぱらいならではの会話をしていると、常連客その4が出てきて「中に入ってください」そう言い残し、帰ってしまった。我々は、アッちゃんに促されるまま店内に入り、荒れ放題のテーブルの前に座った。「ビール以外、飲み物はタダです。食べ物はオール300円です」荒れ放題になる意味がわかった。飲み物はオール100円でもいいから、取るべきだったろう。「ありがとう。ワシ、うれしかった」常連客その3が歩み寄ってきた。「お二人がいると、それだけで、気持ちが何というか、うれしかった。また、どこかで会えるといいです」「会うでしょう。この辺うろうろしてますから」そんな会話をして別れた。“今生の別れ”かもしれない。常連客その7はニヤニヤしながら近づいてきて、「ええなぁ、あんた」同居人に向かって言う。「仲ような」フラフラになって帰って行った。確実に、“今生の別れ”である。常連客その6は比較的普通の笑顔で挨拶し、店を出た。近所の道で会うかもしれないが、シラフのときは人見知りするタイプなので、果てしなく“今生の別れ”に近いだろう。久々に登場する常連客その8は、ようやく人間らしくなり、まともな会話ができるようになった矢先の“今生の別れ”である。残念だ。その後輩の常連客その9(昨夜認定)「昭和の落とし子」は私に腕力で負けるが、いい子だということはわかる。ただ、キレる瞬間が間もなく来るような気がして恐い。が、“今生の別れ”なので、気にしないことにする。過去に登場した常連客が、今回登場しない理由はほぼ把握している。常連客その1、サイババ、ミュージシャン志望のモリタくん、そば屋のアツシくん、ママの前の会社のザイゼンさん……。皆、来たかったに違いない。「T」が閉店したら、路頭に迷う人間ばかりである。そんなこんなで、小料理屋「T」の最後の一日が終わった。開店のときに手伝いに来ていたママの妹のマリちゃんも元気な顔を見せ、みんなに惜しまれながら「T」の歴史の幕は閉じた。わずか2年、されど2年。多くの人の記憶と心に、たくさんの思い出を残したことだろう。皆さま、お疲れさまでした。また会う日まで。 合掌
2007.07.21
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【切羽詰まった最終作戦 なんとその3】小料理屋Tの最終日がいよいよ近づいてきた。きょうは、常連さんその1が中国旅行から帰ってきたので、その報告を受けねばならぬ日でもあり、同居人と私が習慣的に小料理屋Tに出向いていた曜日でもあり、さらに、同居人が久々に仕事にありつけ、市内に出てきていたこともあって、小料理屋Tに出向いた。すると、小料理屋Tはあふれんばかりの客で賑わっていた。間もなくの閉店を惜しんでのことか、偶然のことか。ほかの店に行くことが決まっている火曜日を除いて、週の大方やってくる常連客その3は、奥さんと旅行中らしく、常連客その1、その5、その6、その7が店にいた。が、その5はカウンターにいて、それ以外がボックス席にいた。どうやら入店のタイミングがズレたようだ。常連客その5は他の人間が楽しそうにしていると、極端に機嫌が悪くなる。皆の輪に入り損ねたことに言いようのない悔しさを感じるようだ。私が店に入ると、常連客その5が「もう出ますから、どうぞ」とカウンター席を勧めた。それにのってものらなくても面倒なことが起こるような気がしたので「いえいえ」と曖昧な返事をして別の席に陣取った。やがて、常連客その5は帰った。いつものように「ごゆっくり」と声をかけて。今回は幸いなことにボディタッチはなかった。同居人が横で目を輝かせていたからだ。「これからは、絶対ガードする!」と前回のボディタッチを知った後、一人密かに誓っていたのを知っている。ちなみに、常連客その5の最近の所業というと、帰り際に、私の肩に指2本で触れたのを皮切りに、同居人が氷をもらいに言っている隙を狙って肩をもまれた。ついこの間は、Tのママのお嬢さんの肩をもんでいると、私の前に立ち「わしもして」とせがんできた。その肩には、こぼれ落ちそうな多量のフケがたまっていた。言葉を失う私を見て、愛しのエリィがすかさず手を伸ばし、常連客その5の肩をチョチョイともんだ。「はい、おしまい!」助かった。本当にほっとした。安堵した。ぞっとした。エリィの機転がなかったら、乱闘騒ぎになっていたところだった。大変な事態が回避できた。それは、エリィが人間に昇格した瞬間だった。入店してから1時間くらいしたとき、相変わらず店は騒然としていたが、常連客たちは帰宅の時間を迎えていた。そんな中、常連客その7が我々に近づいてきた。「あんた、ええ体してるなぁ。何かしてるの?」同居人の胸の筋肉に触れながらそう言う。「そうですか? 高校以来、何もしていません」「…ふん……、そう」意味深な言葉を発する。わずかな危機感を感じ、空気を変えようと私が言う。「◯◯さんは、そっちの気もありますの?」「そっち」というのは、アレである。「そんなこと、ないよ。ボクはノーマルやから」「ノーマル」という言葉が多角的に聞こえてきそうな大阪だから、今回のことには目をつぶるとして、その7にいきなり触られた同居人はとても不快な顔をしている。危ない。「あんた、これに惚れたんやろ」察したのか察してないのか、私に振ってきた。「いえいえ、心です」「うそつけ。これがよかったんやろ」しつこく同居人の体に興味を示す。「いま、スポーツしてるの?」またしても同居人に問いかけている。「いえ別に。肉体労働をしていたことはありますけど」「うそぉ」しつこい。酔っぱらいはこれだからいやだ。「いまやってることといえば、ゴロ寝くらいです」「ハッハッハ」常連客その7は高笑いし、私の肩に手をかけた。「ま、仲良くしてください。うらやましいわ。べっぴんの奥さんを大事にしたってくださいね」何に関心があったのかわからないが、常連客その7はそんな言葉を残して去って行った。多分、以後、一生会わないだろう。合掌。小料理屋Tが閉店すると決まってから、常連客の多くがボディタッチをしてくる。しかも「好き」とか、「好み」とか、「初恋の人に似てる」といった、際どい言葉を酔いに任せて吐いてくる。さぞや同居人が気分を害しているだろうと思いきや「おじんの戯言。気にしてない。けど、ボディタッチは絶対阻止する!」よかった。自信家の人間で。嫉妬のフィールドが違う。安堵した。あと2日。大事にならないことを祈るばかりだ。常連客その8のタチバナくん、こんな「Tはる」です。
2007.07.17
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年明け早々、日本列島のあちこちで降雪の少なさが問題になった。その時点でどうのこうのということではないが、春の渇水が心配されたのだ。案の定、四国の早明浦ダムや関東圏の多くのダムの貯水量が低くなり、梅雨の前に取水制限を余儀なくされるという事態に至った。梅雨に入ったと思ったら、沖縄以外はカラ梅雨の様相を呈した。雨が降らず、気温が上がらずで、ダムの貯水量はさらに減っていった。がしかし! 梅雨明け間近になって、恐ろしいほどの豪雨が西日本を襲った。床上下浸水、土砂崩れ、崖崩れ、土石流と、大雨の被害は九州全域や四国、近畿圏にまで及んだ。それに続き、台風4号が襲来した。九州にもたらした被害は甚大である。復旧までに時間を要するだろうと予想される。そこへ、新潟県中越沖地震である。九州でなかったのが幸いである。と同時に、地震の後に台風が襲うというタイミングでなかったことが不幸中の幸いだと思う。この状況で川が氾濫したり、土石流が襲ったりといったことになったら、被害がさらに深刻化し、人々の気持ちを絶望的にさせる。ここのところ、大きな地震が日本列島の至るところで発生している。3月には能登でM6を超える大地震が発生した。といっている間に北海道で震度4に至る地震がたったいま発生した。新潟の地震との関連性はないという。災害の起こる年は、立て続けに起こるように思う。太陽の黒点が影響しているのか、金星や火星といった太陽系の惑星との位置関係に法則があるのか、はたまた磁場の異常が起こっているのか、宇宙からやってくる宇宙線に異常が起こっているのか、理由はわからないが、とにかく何かがおかしい。地球温暖化やオゾン層の破壊、地球の砂漠化、中国やインドによる有害物質の大気中への放出といった、地球自体の異常や変化が何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。いずれにしても、災害への備えを万全にする必要がありそうだ。2007年──これ以上自然の猛威に泣かされなければいいが。
2007.07.16
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年明け早々、親戚(おばさんの義母)が亡くなった。しばらくして、また親戚(おばさんの義母)が亡くなった。5月に、友達のお母さんが亡くなった。昨日、よく行く小料理屋でビールを飲んでいると、ママのお兄さんが亡くなったという連絡が入った。長い間、生き別れになっていたそうだ。役所から連絡が入ったそうなので、ものすごいタイミングで私はそこにいたことになる。同居人のおばあさんもきょう、あす、というような状態が続いている。お父さんは入院中で、1度手術をした後、次の手術をどんな方法にするか、どう治療するかを検討しているという段階。決して安心はできない。きょう、これからお見舞いに行き、様子を見てこようと思っている。身辺が大変かまびすしい。自分も年明けから休日が3日かしか取れないというような仕事の状況だし、実家の親も心配だし、兄の子どもの病気も発覚したし、裁判沙汰になるかもしれないという不払い物件も抱えているし、会社の設備関係を入れ替える必要があって、出費に頭を悩ましているし……。1年の半分を経過し、結構いろんなことがあったと思う。究極の不幸や事件はなかったが、去年、ひどいことが続いただけに、そろそろ落ち着きたい。自分が死なないように気をつけねば。昨日お昼、小料理屋の前でママを見つけ、手を振って挨拶をした後、私の後ろ姿を見たママが夜、「寂しそうだった」と言った。オーラが澱んでいるのだろう。病気か、事故の前触れか、死相か。検診にでも、行ってみるか。
2007.07.15
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参院選がいよいよスタートした。少し前にも書いたが、各党の争点には注意が必要だ。どの党もおしなべて「社保庁の年金記録問題」を筆頭に挙げているが、こんなものは、争点にしてはならない。どの党が政権を取ろうがやらなくてはならない不祥事処理であり、やり方や内容は国民やマスコミが気を緩めることなく監視することで、ある一定の方向性や成果は見えるはずである。自民党が与党だったから、記録がなかった人は1銭ももらえず、共産党だったから、払った事実のなかった人が満額もらえる、というような極端なことにはならないだろう。もちろん、この不祥事処理に費やされる時間や費用は膨大なものになるはずである。そんな事態を招いた役所と、それを見逃してしまった当時の与党にはそれなりの責任と罪があるだろう。しかし、これからの議員を決めるのに、そのことが何かの影響を与えるというのはおかしい。年金問題は、制度上の問題や役所の怠慢、役人の意識レベルの低さと余りにもひどい所業が招いたことであることは間違いない。ところが、国際的に見れば、内々のもめ事に過ぎず、こんな問題を争点にして政権を取った与党に諸外国は何ら関心を持たないだろう。いま、国際社会が日本に求めらているのは、「地球環境保全」「アジアの安定と経済発展」「アジア諸国への産業技術支援・資金援助」「北朝鮮の核問題の集結への助力」「米軍への軍事拠点の提供」など、非常にたくさんの要求への対応である。国内の年金問題など取るに足りぬことであるに違いない。国際社会の要求にこたえていくためには、「国力」の向上が不可欠だが、いまの日本は、以前ほど「国力」がない。何をもって「国力」というか、独断と偏見で言うなら、「国民の能力(学力、体力、知力、生活力、経済力等々)」、「経済の体力」、「地方の自立力」、「国の外交力・軍事力・政治力・治安維持力」、そして「経済力」。こうしたことをベースにした政治課題を争点にするべきである。だまされてはいけない。「年金」を争点にしている政党は、国民を「バカ」と規定しているということだ。外交や経済の問題を争点にしても、国民が理解できないから、わかりやすい「年金」を前に持ってきて、重要なことは曖昧にしているのだ。最悪の場合、これまでずっと言ってきた主張を封印したり、180°主張を変えてきたりしている政党は是非チェックしたい(既に幾つかある)。そういう政党は、よしんば政権を取れたとしても、コロコロ主張を変え、政策を変えるだろう。少なくとも、知名度のある有名人を担ぎ上げるような政党は信用ならない(その有名人に能力や知識が十分あるなら問題ないが。ま、激しく少ないだろう)。他政党の批判ばかりしている政党も信用ならない。「批判」は「現状」の上にしか成り立たないからだ。政治は国民の「未来」をつくるものだ。とするなら、未来に目を向け、新たな指針を示すということがなければ、政権を預けることなどできないだろう。グダグダ言ってしまった。そんなことを言いながら、1票を投じたいと思う政党や議員が見つからないことが悲しいし、虚しい。カリスマ性のあるリーダーの出現を願うばかりだ。
2007.07.14
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自転車に関する道路交通法の運用基準を明確化する法案が7月5日に可決されたとか。もともと、自転車は道路交通法上では「軽車両」に位置づけられ、法規制の対象になっているのだが、自転車に乗る人間にそれを知らしめる機会や方法論がほとんどなかった。せいぜい、小学校で行われる「交通教室」くらいだろう。そんな年齢のときに「道路交通法」と言われてもわかるわけがない。そもそもがいけないのだ。海外の例にならって道路交通法をつくったが、日本の道路事情は悪かった。自転車が車道を走るゆとりがなく、自転車が路肩を走っていると、車が進めない。勢い、自転車を排除するような行動に出る。幅寄せ、クラクション、フカし攻撃。自転車が車道を走るときに守られるべき法律をつくった海外と、自動車の快適性を守り、自転車が車道にのぼることを許した日本の違いが、自転車に乗る者の規範意識を皆無にしてしまったのだ。しかし、ここ10年の自転車にまつわる事故というと、自転車対自転車は5倍、自転車対歩行者は7倍という激しい増加を記録している。ところが、自転車と自動車は1.18倍という意外なほどの微増で、これは、自転車が歩道を占拠していることを証明する数字だ。以前にも書いたが、「並走」「傘差し運転(「さすべぇ」含む/大阪ならではです。済みません)」「二人乗り」「無灯火」「酒気帯び」「携帯電話」その他いろいろ、自動車に適用される法律は、“例外を除いて”すべて適用するということのようだ。これが意味するのは何か。●道路交通法を理解しなさい●自転車に乗るなら自賠責保険に入りなさい●保険に入らずに事故を起こした場合、億の単位の賠償の可能性がありますよ●自転車に乗るなら懲役刑も覚悟しなさい●自動車の運転手と同じく、自転車に乗るときは肩身を狭くしなさいということだ。歩行者としてはそれは正当だし、自転車利用者の暴挙は目に余るものがあった。しかし! 法律で規制しようとするには余りにも無知でバカな人間を相手にするという無謀さ、難しさを包含している。ま、基準を決めるとしたら、「圏内1km以内に電車の駅・バスの停留所のない地域」の住民のみ自転車を利用できる、とか「歩行に難を生じる人が自転車利用者として登録を希望する」といった、“移動手段”そしての自転車を認めることくらいだろうか。“歩きたくない”日本人にとっては、この基準のボーダーラインは大変重要になるだろうが。自転車は好きだし、乗りたいし、便利だと思うが、マナーの悪い人間ばかりのいまの世の中で、いっしょくたに見られるのがいやで乗らない私としては、歓迎すべきことである。が、それは同時に、“法律で規制されなければ、罰を与えられなければ、何をしてもいい”というゆるゆる日本の風潮が生んでしまった、法律による厳しい呪縛であるということを、早く自覚しなければならない。自転車をこいでいて、警察に逮捕されるなんて、どの時代に思っただろう。それが現実となりそうな、いまの日本である。 悲観
2007.07.11
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何だか腑に落ちない。参院選の争点として「年金問題」がクローズアップされている。「年金問題は国民にとって切実」→「社保庁のずさんなデータ管理体制はもってのほか」→「社保庁は厚労省の出先機関」→「社保庁の不祥事は厚労省の不祥事」→「省庁を監理監督するのは政府の責任」→「被保険者のデータをデジタル化した当時の政府は自民党」→「自民党の責任を問う」そんな感じの理論になっているようだ。それはそれでいい。腑に落ちないのは、選挙の争点になっていることだ。こんなものは単に役所の不祥事であって、どう対処するか、どう是正するかを考えることが急務。「救済」などとわけのわからない言葉でごまかそうとする役所など不要だし、役所の「責任」を追求したり(とはいえ、法律的に責任を取らせることは不可能。“ボーナス返上”くらいの、ゆるゆるの対応がせいぜい)、いい加減社保庁の所業の被害を受けている人を何とかする方法を考えることが必要なだけで、こんなものを争点にして例えば民主党が政権を獲ったとしても、民主党にだって何もできはしないのだ。なぜなら、喪失してしまっているデータはだれの力をしても復活させることができないからだ。万が一、小沢代表が、これを見越して廃棄された台帳を密かに手に入れ、後生大事に倉庫に保管していたというのなら話は別だが。選挙の争点にするのなら、国家の損失としてそれに値するくらいの問題を取り上げてほしい。例えば「教育」。国際的に見てもおかしな日本の教育体制を画期的な方法で何とかしてほしい。日教組が指示母体という民主党にはできはしないだろうが。また、教科書検定や歴史教育の内容を精査する機会を呈示することも重要だと思う。例えば「高齢化問題」。待ったなし、である。コムスンの問題で明らかになったのが、「介護」がビジネスとして成立しないということだ。そんな制度に未来はない。“小さな政府”を目指すなら、企業が事業として受け入れられる制度にしないといけない。これの原因を解明するのは簡単だ。「厚生労働省」の外郭団体(ものすごく多い)に天下る役人を養うために、金を落とさねばならないので、民間企業に落ちる金が一挙に目減りし、事業として成立するほど利益が出ないのだ。疑問に思うなら、各省庁のホームページにアクセスし、「リンク」をクリックしてみればわかる。大量のリンク先が出現し、皆、同じような意味のない業務をしている。試しにその省庁に関係のあることを問い合わせてみればいい。幾つの機関をたらい回しにされることか。きちんと答えるつもりもないし、答えがあるかどうかもわかっていない。もっと悪く言うと、本当の答えが出せないところばかりを紹介し、問い合わせた人間が疲弊するのを待っているのだ。例えば「少子化問題」。例えば「地方自治体の政治腐敗問題」。例えば「食の安全の問題」。例えば「日米安保問題」。例えば「北朝鮮による拉致問題」。例えば「憲法改正問題」。例えば……。問題が山積しているというのが日本の現状なのだ。では、なぜ「年金問題」を争点にするのか。ズバリ、国民をバカにしているのだ。マスコミが連日取り上げ、騒ぎを大きくし、暗号化されてしまった問題だから、争点にしやすいのだ。テレビのことを信用し、一緒に怒る日本国民の性質を逆手(ぎゃくてと読む。最近のアナウンサーはさかてと言うが、間違い)に取り、争点にすることで注目を集めると同時に、本来争点にするべきことを封印し、「バカな国民はそんなこと言ったって、理解できないでしょ」と居直る。参議院議員の存在がそれほど大きいとは思わないが、一応国政選挙である。きちんと見ていく癖をつけるのは、国民の義務だろう。それにしても、某政党の余りにも暗いTVCMはいただけない。「税金」「年金」「介護」をクローズアップし、不安感を煽るという姿勢に、将来性を見ることはできない。おまけに、党首の顔がいけない。気分が暗くなる……。難儀な国である。
2007.07.10
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背景はよくわからないが、家を3軒だか4軒だか所有している元NHK職員がゴミ屋敷の住民になり、あることがあって逮捕された。近所や自治体の要請でゴミを処分すると約束しながら、「30年来の寒さで作業が進まず」と言い訳をし、ゴミ屋敷生活を続けていると、あろうことかボヤを出してしまい、「水をかけるな!」と叫び続けるも、消防隊に水をかけられて通称「家電の家」が水浸しになって意気消沈したり、(4軒の家それぞれにため込んでいるものが違うことから)家に通称を付けられたり、マスコミに追っかけられて小競り合いになったりと、到底常人の行動とは思えないようなその家の住人が、レポーターに語った。「婚約をして、婚約指輪まで渡した人が、定期的に連絡が取れなくなったんです。しばらくして連絡が取れたときには、ほかの人の夫人になっていたんです」それ以来、人間不信になったそうだ。それはそれで理解できる。よほど好きだったのだろう。その人と結婚することが、彼の人生のすべてだと思えるほどその人が好きだったのだろう。しかし、人間不信がゴミを収集することにつながるのがよくわからない。「好きな人に裏切られる」「最愛の人がいなくなる(死亡を含め)」「家族が突然いなくなる」そうした状況に直面したとき、人はゴミをため出すようだ。「ゴミ」は、人の心の穴を埋めるものになるのではないだろうか。「ゴミ屋敷」は日本国じゅうに存在するようだ。その周辺住民は、皆一様に「迷惑」だと考えているはずである。そんな声を聞き、行政や警察は「排除」する方向で物事を動かそうとする。しかし、それでは根本解決にならないように思う。ある意味でゴミ屋敷の主は「精神障害」なのだから。そのケアをする(強制的にそれができる)法律をつくらなければ、奈良の「騒音おばさん」のような、「傷害罪」に匹敵する罪を背負ってしまう不幸な人種を生み出してしまう。土地や建物の所有者ということで守られている権利や「◯◯さえしなければいい」というような消去法的法律の運用を制限できるようにして、精神障害者を少しでも早く「保護」し、重要犯罪にかかわらないようにすることが必要である。テレビゲームやパソコンに向かっている若い子どもや青年の目に、「一触即発」的な恐ろしい光を見ているのは、私だけではないはずである。うず高く積み上げられたゴミを見て「ものがあふれている日本ならではの事件」だと思うし、それをそう感じない大人があふれてしまっていることに言いようのない恐怖を感じるきょうこのごろである。 爆裂
2007.07.09
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中国人は、「世界の歴史をつくったのは中国人だ」と思っているようである。中国の歴史が4000年と言われている。が、それが「最古」とは言い難いし、4000年というのも基準があいまいだと思う。いずれにしても、「中国人が世界の歴史をつくった」というのは、言い過ぎだと思う。なぜなら、これほどいい加減な人種に、世界の歴史の出発点を見るのは困難だと考えるからだ。以前聞いた話(検証はしていない)だが、中国人の多くはO型だそうだ。ちなみに、インド人はB型、朝鮮人はA型、アングロサクソンはO型だとか。血液型に一定の法則を見いだすのは少々強引だとは思うが、何となく“体感”として理解できるような気がする。日本人が認識する“O型”は、いい言い方をすると「おおらか」「懐が大きい」だが、悪い言い方をすると「いい加減」「何でもアリ」ということだ。それに、歴史観が加わる。中国は、何でも“捨てて来た”という過去がある。世の統治者はゴロゴロ代わり、中心地もあっちこっち移動し、流入してくる人種、流出していく国民、国境線をどうやって引いたのか理解できないような多民族、多人種、多文化……。日本のように、「市町村合併で地名が変わるのはいや」「ダム建設で水没する故郷」「ふるさと納税」などと細か過ぎるほど細かいことが言える島国・日本とは背景が違う。「地域」より、「友達」より、「文化」より、「国家」を重要視することを強要され、しかし、「自分」や「家族」を何よりも中心に考える中国国民のあり方の源流は、その歴史に見ることができる。このようにして形成された「利己主義」的いい加減さに加え、情報量が激しく少ないことも問題だ。政府の情報統制による情報の少なさは日本人の想像を絶する。殺人や大事故、災害といった大きな事件・事象があろうと、国際的に中国が非難されようと、世界のどこかで天変地異が起きていようと、中国政府が「有益」と思わない情報は一切流されない。それどころか、そうした国の姿勢が「正しい」と教え込まされる教育が存在するのだから、いかなる情報があろうがなかろうが、正しく分析する能力は国民にはなかろう。それをいいことに、“やり逃げ”を企てるヤバい奴らが暗躍する。儲けるだけ儲けて、非難を受けたり、法的な責任が発生したりすれば、会社を捨てて(廃業)、トンズラし、また違うところで新しい会社を起こし、次の悪どい商売で一儲けすればいい、そう思っている輩が大勢いるようだ。また、それがまかり通る。国土の大きさといい、戸籍制度など国民を把握するシステムがない国であるというファジーさといい。そういった背景によって、昨今のさまざまな事件が勃発しているのだ。南米で、中国製の咳止め薬を飲んだ人のうち少なくとも400人が死んでいるという。人毛でつくった醤油だとか、排水から取り出した天ぷら油だとか、有害物質の入った歯磨きだとかペットフードだとか……。20世紀の大きな世界規模の戦争にも加わらず「眠れる獅子」から「死んだ豚」だと揶揄された中国が、21世紀に入ってから猛威を振るっている。しかし、眠っていた時間が長過ぎた。その間に文明が余りにも進歩してしまっていたのだ。「世界基準」に追いつくまでに、相当な時間を要するだろう。そしてその間、「権利」「自然環境」「労働環境」「国民生活」「思想」に対して悪なるものを垂れ流しながら、13億以上といわれる人民を従えて世界を荒し回るのだ。当然、中国が敵視している「日本」は、数々の弱みを持っているせいか、強気の態度で攻めてくるだろう。日本人は、心して対処しなければならない。「歴史も、文明・文化も低く、サル真似しかできず、戦争責任をうやむやにする日本人はかっこうの標的だ」と思っている中国人を甘く見ることなかれ。 撃沈
2007.07.08
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(11)家出かあちゃんの言い分清貧一家の母は27歳のときに大病を患い、以後、74歳の現在に至るまで、毎日欠かさず常用薬を飲んでいる。それだけで、悲惨なイメージを描くし、実際、子ども心に「かわいそうな人」と思ったことが何度もある。そんな、悲しき清貧一家の哀れな母は、突拍子もない所業を繰り広げる癖がある。これは、ある意味では悲惨な状況を生むが、ある意味では見事なまでの奇行であり、爆笑ネタであったりもする。そんな母の所業を徐々に公開していく(実は、その11でも登場しているのだが)。~~~~~~~~~~私が小学3年生のとき、ある日曜の朝、母が言った。「ニチイに行こか」私はびっくりした。清貧一家が住んでいる場所からニチイまでは、電車で30分以上かかる。「何で?」私はおそるおそる聞いた。「ええやん。行こ」不安な気持ちを抱きながら、私は母と兄と三人で電車に乗り込んだ。“ニチイ”に近づくのが恐かった。何があるのか何が起こるのか、想像するだけで体の芯が震えた。ニチイに到着すると、母は最上階へ直行しようとした。「どこ行くの?」母に声をかける。「レストランや」「ご飯、家帰って食べよ」「……ご飯は家で食べるよ」そう言いながら母は歩調を緩めることなく最上階を目指す。私は言いようのない恐怖を感じ、目を伏せながら母の後をついて歩いた。ふと横を見ると、兄はいたいけな、痛いような無邪気さで母について歩いている。最上階についた。レストランの前に立ち、「何でも好きなもん、選び」母が言った。私は全身に恐怖が貫くのを感じた。貧乏な一家に属する子どもたちに、スーパーといえど、レストランで好きなものを食べるような機会を与えてくれるとは、何か深い理由があるに違いない。レストランに入り、客席に座ったとき、兄が言った。「プリンアラモード」デザートの中で最高級品である。プリンの横にアイスクリームが添えてあり、バナナ、メロン、オレンジが周囲を飾っている。しかも、プリンのてっぺんにはくるくると絞り出された生クリームがのっかっているというものだ。値段も半端じゃない。〈こんなときに、なんでそんなものが食べられるの!〉と私は心の中で叫んだ。「アイスクリーム」私は言った。兄:600円、私:170円という世界だ。幼い兄弟が食べていると、母がおもむろに言った。「味わって食べや。おかあちゃん明日出ていくから、もう食べられへんで」私はゲンナリした。その後の行動の記憶はない。次の記憶は次の日の朝。「行ってきます」私は、学校に行く私を見送ってくれる母の顔を見ることができなかった。“学校から帰ったら、母はもういない”そう思うと、いたたまれない気持ちになった。学校では茫然と過ごした。それを気遣ってくれる友達がいたが、何を言われても耳から先に入ってはこなかった。暗く、寂しい気持ちを抱きながら家に帰った。無理とはわかっていながら、カギを開けずに玄関の引き戸を引いた。すると、不思議なことに戸が開いた。さらに驚いたことに、母が玄関先に座っていた。きちんと化粧をし、よそ行きの服を着て。「どうしたん、おかあちゃん!」「上田のおっさんがきたんや」“上田のおっさん”というのは、おやじより10歳ほど年上の同僚で、社宅の中で最もおやじが親しくしていた人物だ。「え、上田さんが来たん?」私は不思議だった。そう言った後視線を送った先におやじを見つけて納得した。「おとうちゃん、いてるの?」珍しかった。おやじは、独特の嗅覚で、母が家出するのを察知したのだろう。しかも、「上田さん」という他人を使って家出を阻止した。あれほどの思いをしたのに、と思うほど、あっけない結末だった。子どもとしては、母の家出の予告は、生きる力を奪うほどのものだった。しかし、私は覚悟した。母の家出は一度や二度ではなかったので、家出を予感すると、毎日が気が気ではなかった。という状況であり、覚悟した後ではあったが、母が家出をしなかったことは、子どもたちにとっては願ってもない福音だった。「上田のおっさん」様々である。 撃沈
2007.07.06
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【切羽詰まった最終作戦 なんとその2】火曜日と木曜日は小料理屋「T」に出向くことが多いが、それは、常連客どもが少ないことを知ってのことで、木曜日に来る常連客といえば、常連客その1とそれに誘われて来る常連客その2くらいのものであった。ところがここのところ、木曜には来たことのなかった常連客3が来て、その上その5も来るのだ。申し合わせているように思えて仕方がない。常連客その1とは仲がいいので、いろんなおしゃべりをするのだが、常連客その3はそれをすかさず遮る。その5も割って入って、その1と私が話をする隙を与えない。きょうも、常連客その1との会話を遮る形で、常連客その3とその5から、意味のないことをいろいろ話しかけられた。同じ客であり、サービスをする必要もないので、それなりの返答をしていなしていた。常連客その3と5は、20時くらいに帰る必要があるようで、先に席を立った。すると!! こともあろうに、カバ体型で女々しい男常連客その5が私に近づき、異様に太い指で、私の肩をつついた。「ごゆっくり」そんなことを言うために、肩に触れる必要があるのか!隣に座っていた、常連客その1の目がその5の指先を追った。常連客その3と5が店を出た後、その1が言った。「触ってましたな」常連客その1は、私がその5を疎ましく思っているのを承知していた。「ねぇ…、まいります」店が閉店するまでのあと3週間足らずではあるが、追い込みをかけてきた常連客その5の動向には注意する必要があるようだ。小料理屋「T」の閉店によって、常連客5とのつながりが0になるように、一つずつ断ち切っていく作業をせねばならない。相手は、関係を一つずつ増やしていく作業をしてくるはずだから。 南無
2007.07.05
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【切羽詰まった最終作戦】小料理屋「T」の残された営業日数が3週間ほどになった。通常、我々は火曜か木曜に出向くのだが、仕事の都合などが重なって、月曜日に出向くことになった。月曜は、常連さんが集まる日なので、いつもは避けているのだが、火曜には出向けないことがわかっていたので、あえて行くことにした。店に入ってすぐ、というタイミングで常連客その5がやってきた。「こんにちは」「あ、こんにちは。早いですね」声をかけられたので、答えた。常連客その5は以前にも登場した、初恋の人が私に似ているといい張る60過ぎのおやじである。カバのような体型もさることながら、動くたびに「ハッ、ハッ」とか「ハァー」と言うのが暑苦しい。一人であっても、何かしらの音を発している。そのうちに、常連客その3と常連客その6がやってきて、3人で大盛り上がりになった。我々は、特別にバーボンのボトルをキープしている。常連客その5は、何を思ったか、飲めもしないのにバーボンをキープしている。我々のボトルが空っぽになる寸前の状態になった。「おかあさん、ボクの、上げて」常連客その5が自分のボトルを我々にくれる、というのだ。ママがボトルを出してきた。ホコリまみれだった。それほど長い間、ボトルを触っていないということだ。「飲んでください。ボク、飲んだら奈良まで行くから」多分、バーボンを飲んで電車に乗ったとき、自分が降りるべき駅(京都)を通り越して奈良まで行ってしまうほど酔っぱらって眠り込んでしまう、ということだろう。が、素直にもらう気にもなれず、といって、幾らか支払うとか、断るといったような明確な行動に出るのもはばかれたので、曖昧な返事をして放っていた。しばらくして、隣に座っている常連客その6が言った。「欲しいらしいわ。それ」バーボンを指差しながら言った。常連客その5が、私の前に置かれたバーボンを飲みたいということだ。「ママ、グラス二つ」常連客その5が指示した。やがてグラスが来た。空気を察して私が受け取り、我々のアイスポットからグラスに氷を入れ、バーボンを注いでロックをつくった。常連客その5とその6に渡すと、おいしそうに飲み始めた。ほどなくして、常連客その5の声が聞こえてきた。「すんません」私は振り返った。「はい?」常連客その5はロックグラスを私に向かって差し出している。無体な。私にロックをつくれというのか。しばらく、常連客その5とは、話をすることも、目線を合わすこともなかった。私がそれなりに避けているのを理解しているのだと思っていた。それが、ロックをつくれとは……。「厚かましいのはわかってますけど、つくってください」私はグラスを受け取ってロックをつくった。「えらい、厚かましくてすんません」「いえ」「おいしいわぁ」「酔うのんと違うのか」常連客その3が突っ込んだ。「違うもんに酔うてんねん」「何言うとんねん」付き合ってられない。我々は立ち上がった。「え、帰りはるの?」常連客その5がすかさず声をかけてくる。「ええ。きょうはお店が忙しいみたいなので、回転を上げないと」私が支払いをしようとすると「まだおってください。寂しいわ。残り少ないのに。ここがなくなったら会えなくなるし」実力行使的言動に私は驚いた。何らかの成果を望んでいるのだろうか。私の気持ちが180°変わって、親しく話をするようになるとでも思っているのだろうか。「お先です」そのまま店を後にした。それにしても、常連客その5の大胆変化には驚いた。崖っぷちの強気、火事場の馬鹿力、最後の悪あがき。おやじの底力を侮ってはいけない。小料理屋「T」が営業終了するその日まで、気が抜けない日々である。 南無
2007.07.04
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その24【仏教学校に棲む何か】私が卒業した高校は、創立80年を超える歴史ある学校である。校歌は、作詞:北原白秋・作曲:山田耕作という、これまた巨匠の名前が登場する。歴史があるということと、財力があったせいだと思うが、建物の構造が今風ではない。天井が高く、それに合わせて窓も高い。要は、“無駄”がまかり通っていたのだ。ではあるが、スペースは制限されていたはずである。何しろ、校舎は寺の境内に建っていたのだから。教室からは見えないのだが、トイレの窓を開けると、裏に広がる墓地がすぐそこに見えるのだ。場所が場所だけに、ゾッとしない。ゆえに、窓に近い一番奥の個室には入らないようにしていた。在学中、ひょんなことから生徒会に属することになった。中学、高校併せて3000人という大規模な学校だったので、学園祭(文化祭・体育祭)というと、準備に大変な時間がかかる。で、生徒会の面々は、数日間学校に泊まり込んでの作業を強いられる。後輩二人、同学年の役員と一緒に4人で体育館にレンタルの布団を敷き、体育館を出るとき、同学年の役員に目配せして電灯のスイッチをOFFし、ドアをバン! と閉めて猛ダッシュした。「イヤー! センパーイ!」という声を背中で聞きながら、走って生徒会室に戻った。ほどなく、後輩二人が走り込んで来た。「ひっどーい! 先輩!!」「電気消しても暗くなれへんかったやろ」「もうっ! 恐かったー」「電気消したくらいで、大袈裟な」「電気はいいんです。外の明かりが入ってきて暗くなかったから。でも……」「それやったら、何が恐かったんよ」「ドアを閉めたでしょう」「閉めたって、カギを閉めたわけじゃなし、押したら開いたでしょうに」「押さえてたもん!!」「え?」「ドアを押さえてたでしょう?」「押さえてないよ。ドアを閉めてすぐ、ここに走って戻ったもん」「うそっ!!!」同学年の役員と顔を見合わせた。後輩の言っていることが理解できなかった。ドアを押さえたという事実はない。「押さえてないよ」「だって、手が見えたもん! ドアを押さえている手が見えたもん」「何本?」「2本! こうやって押さえてました」後輩は動作をしたが、そんな覚えはさらさらない。「だから、押さえてないって」「ギャーーーッ!!」後輩二人の声が狭い生徒会室に響き渡った。校舎の裏の墓に起因しているのか、それとも、学校自体に棲みついている霊がだったのか、はたまた後輩、あるいは我々が背負っている霊がいたずらをしたのかはわからない。しかし、何者かがいたのは間違いないようだ。後輩二人が同時に同じ手(2本)を見ているのだから。 南無
2007.07.03
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昨日、日曜であるにもかかわらず、またしても出勤するために駅へと急いでいた。遊歩道の切れ目、駅前の広場に出ようとしたら、前から中学低学年とおぼしき女子が二人、自転車に乗ってやってきた。真っすぐ私に向かってきたので、意味がわからず二人の顔を見た。明らかに疎ましそうな顔をして私を見返し、自転車を降りた。私の寸前である。そして、あろうことか、そこに自転車をとめた。完全に私の行く手を遮る形だ。再度確認しておくが、それは、遊歩道の切れ目ではあるが、厳然とした「通路」である。自転車を置くには適さないし、ましてや、駅前の広場は「駐輪禁止」エリアである。地面の至るところに「駐輪禁止」の表示タイルがはめ込まれている。「邪魔な!」そう言うくらいの時間的余裕しかなかった。電車の時間もあるし、歩く速度との兼ね合いもある。振り返った少女たちの目は、大人を見るそれではなかった。『お前がどいたらええねん! うちらはここに自転車をとめるんや!』という声が聞こえてきそうな目だった。その場をやり過ごしてしまったことを電車に乗ってから後悔した。「ここは、自転車をとめてはいけない場所です。ましてや、ここは通路でしょう。あなたがとめた自転車は、明らかに邪魔になります。体の不自由な人や小さな子どもが通るときに、危ないでしょう。そういうことを考えられない年ではないはず。もう少し考える習慣をつけましょうね。自分勝手に生きていると、必ずしっぺ返しがあります。それに気づいて後悔したときは、もう遅いのです」と言ってやればよかった。もちろん、最後まで聞いているような子どもたちではないと思う。しかし、大人として言わねばならぬことを言ってこなかったから、こんな子どもたちが出現したのだと思う。親が、祖父母が、教師が、地域の大人が。子どもの目を持つ子どもが少なくなった。大人を大人と思っていない。なぜか。親が悪い。テレビや学校のせいにする親がいるかもしれないが、確実に親が悪い。親が、親の威厳を保っていれば、子どもは決して大人をばかにしたりしない。親が尊敬できる人物なら、教師をないがしろにする子どもが生まれるわけはない。バカな親が世の中を荒ましている。しかし、バカな親にはバカな親がいる。バカな親の根源はどこにあるのか……。戦後世代のゆるゆる思想を植え込まれた人種だ。何度も言うようだが、70歳以下、60前後の人間(団塊世代が中心だと思う)が、日本を駄目にした。その子どもがそれを増幅させ、さらにその子どもが日本の未来を暗くする。何をどうすれば、「美しい国日本」に向かうのだろう。これは、かなり難しいように思う。崇高な思想を持つには崇高な魂が必要だ。それより数段落とし、生活感のある「花も実もある日本」にしようと思えば、これらの塵芥のごとき人種を再生・更正させる「教育」か「修行」か、「修養」かが必須になる。……それをだれができよう。もはや、政治にも、政治家にも、教育者にも、それはできないだろう。利権や欲や保身を主軸にして生きるそうした人種には、そんな大役は勤まらない。その大役を引き受けてくれる人格者がいないものか。……ゆるゆる日本には、いそうにない。よしんばいても、そんな人は世の表には出てはこないだろう。欲と利権と保身のためにつくられた澱んだ空気を吸ってはくれないだろう。それが、「日本」なのだろうか。先進国と言われるに値する国なのだろうか。東方見聞録に出てくる日本は、どこに行ったのだろうか。 合掌
2007.07.02
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“未払い”という言葉を聞くたびに、気持ちが暗くなる。消費者金融(ヤミ金含む)の借金や飲み屋のツケといった人間社会の「裏」の話ではない。「給食費」「保育費」「治療費」「税金」……いずれも教育や福祉といった、人間社会の「表」の部分に起こっているのだ。給食費が22億円、保育費が34億円、治療費に至っては、過去5年間で853億円が未払いのままで、このことにより多くの医療機関が倒産しているそうだ。これは、何を意味しているのだろう。よくよく調べてみると、“払えない”のではない。“払わない”のだ。正当な理由などあるはずがない。「車のローンがあるので」「それほど強く催促されなかったので」「今月は特別な出費があったので」「ギャンブルでスッてしまったので」……おおよそ、モラルのかけらも、法治国家に生きる国民としての責任感も見られない。結論は、「金銭感覚が欠落している」のだ。車のローンより、医療費を払う方を優先するべき、と考えるのが、正常な社会だろう。ギャンブルに興じるより、出産費を払うことの方がプライオリティが高いことは言うまでもない。なぜそれがわからないのか。困窮を経験していないからだ。お金を使うときの優先順位を考える思考も能力もないのだ。そんな人間には、制裁を加えることのできる法律をつくるのが急務だし、対応する機関を早急に設置しないといけない。なぜなら、学校(教育委員会)や、役所や、病院や、税務署や……、つまり、立場的には強いが、税金で動いているだけに態度を強くできず(するのが恐いだけだと思うが)、未収金の回収能力もない弱い公的機関があおりを受けてしまうからだ。公的機関は税金で動いている。未払金は税金で補填される以上に、一部のモラル欠如人間に対応するために投じられた人材の人件費まで税金で賄われることになる。そこで、気づかなければいけない。善良な市民生活を営んでいる住民は、定められた税金をせっせと払いながら、モラル欠如人間のために(赤字の増加を抑えるために取られる節約対策で)公的サービスの低下を余儀なくされるばかりか、そやつらから回収するための費用まで負担しなければならないということを。まっとうに生きていると、二重の苦痛を強いられるのがいまの日本だということを。商売をしていると、「踏み倒し」ということがままある。私も裁判所に何度も通った。しかし、商売にはそれはつきものだし、それを目的に暗躍する悪い奴らもいる。商売をするからには、それに対する防衛策を考えることも、経営者に必要とされる能力(資質)の一つだろう。が、学校(教育委員会)や、役所や、病院に、それを望むことはナンセンスだ。公的機関にそんな感性があるなら、社保庁問題など起こり得ない。また、それを望む余り、弁護士や「経営コンサルタント」にコンサルを依頼するなどというのは、愚の骨頂以外の何者でもない。公的機関に「経営」の感覚を望むのは不毛である。市民がモラルを守りさえすれば、問題のない話だし、これまでの日本なら、だれに言われなくてもきちんと守ってきた。「やり逃げ」「踏み倒し」「逃げ得」「知らん顔」が是とされる世の中になったということだろう。なぜそんなことになるのか……「個人情報」「権利」「平等」などといった、幻想にも似た“言葉”だけの世界に守られた、民度・知能指数・遵法意識の低い人種たちが爆発的に増えているということだ。「社会保障」は、“弱い人間の味方”ではない。“知識があってレベルの低い人間の味方”である。その意味でも、「民主党」(一部だろうと思う。日教組や「格差是正」を声高に叫ぶ一部の反自民の一派だろう。それらの人間が政権を取るようなことがあれば、国の体をなさないだろう)や共産主義、社会主義者の動向をきちんと見守る必要があるように思う。ま、民主党党首のあの方は、万が一政権を取ったならば、旧来の自民党政治を繰り広げられると思うが。それがなければ、何の取り柄もないお方だということは、何より民主党の皆様方がご存知だと思う。 嗚呼
2007.07.01
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